ざぁっ
木枯らしが秋めく木々を揺らした
そろそろ秋も仕舞いになるかもしれんな、
居間で掃き掃除をしながらその音を聞いた私はまさにその時になってそんな事を考えた。
人里ではすでに冬支度が始まっているかもしれないこの時期になってそんな事を呑気に考えるのは実に遅すぎるかもしれないけれども、私はその時までただ ああ、秋だな、そんなぼうっとした事しか考えていなかったので、その秋がもうそろそろ仕舞いになってしまって、凍えるように冷たい冬が来るなんて思ってもいなかったものだからひどく驚くように身を震わせた。
ざざざぁ
疾風が紅葉を揺らしてゆく波の様な音を聞いているとふいに庭を見てみたくなったので箒を持って ととと と廊下を歩いて草履を履き、庭に出る。
赤や黄が色鮮やかに天に舞う風景がそこにあった。
ひらひらとそれらが翻り、浮かんでは落ちてゆく、時折びゅうっと音がしてはそれらが遠く遠くに運ばれてゆく。
それは終わりの秋にだけ見る事が出来る刹那的で幻想的な風景。
博麗の巫女もこの景色を見ているのだろうか、森の魔法使いも、人里に住む者も紅い館の住人も、あの桜がある死人の館の者達も、永い夜を生きる者達も、彼岸に生きる者も、山の神様達も、地底に住む者も、皆須くこの光景を注視しているのだろうか。
いや、していないだろう 不思議とそう思った、この光景を見ているのは私だけなのだと誰に言う事なくそう感じた、この光景は私だけのもので、私しか見る者の無い贅沢で寂しい風景なのだ。
考えてみればそれは当たり前の事、今この家に居て、私の傍に居る人は誰もいないのだから。
この家にいるものなぞは私一人居て他は無い、来訪者も来れる訳の無いこの場所で、私の傍にいる事が出来る者は誰も存在はしない。
そうふっとだけ考えて私は頭を振った、否、違うなと。
こういう時に決まって頭をよぎる事はあの紫様の事だ。
紫様が今起きている訳が無いのだ、ましてや私の後ろにいる事などは、反射的に後ろを振り返りながら、そしてやはりその場には誰もいないと言う分かりきったことを再確認して私は苦笑する。
紫様にはするべき責務があり、義務があり、責任がある、その為の休養を今しがたとっている最中だと言うのに何を考えるのか、何をしているのか、私は。
式としての私に与えられた仕事はただのルーチンワークの筈、それを淡々と、隙間風さえ入る隙も無く完璧に、仔細の違いも見つけられない程精緻に、注意する暇さえ与えない程素早く行う事こそが私に与えられた職務であり、義務であり、喜びだと言うのに、何を考えているのか。
精進だな
自嘲じみた溜息を吐く、こんなことが紫様に知られた日にはそう諭されるに違いない、あなたは少し甘えが過ぎると言う忠告も添えて。
そうだな、最近は鍛錬を怠っているのかもしれん。冬になったならば家を出て本格的な山籠もりをするか、あの体の芯まで凍えるような雪山で鍛錬をすれば身も心も引き締まる事だろう。
そうしたならば
そうしたならばこの家には、眠っている紫様一人が残ることになってしまうだろうに。
誰かの声が耳に響いた
ひょっとするとお前はあの寒い館の中に紫様一人をおいて行くつもりか、あの誰も居なくなってしまう館の中に紫様を置いてゆくつもりなのか。
当然のことながら私の傍には何の気配も無く、これはただの幻聴でしかない。
また深く溜息を吐く、一体どうしてしまったと言うのだ。
一体何時からかはとんと分からないが最近私はずっとこんな調子だ、取る物も手に付かず、ただぼうっとした状態が続く事がしばしば。この間は数学を教えていた橙の前で上の空になってしまいそれを指摘されたばかりではないか、教え子に教えられるとは無様極まりない有様だ。
ああ、もう
再び脳がぐらぐらするほどに頭を振る ああ、もう
雑念を全て取っ払おうと思ってしまっても、そう思えば思う程に頭の中が余計な物で溢れかえってゆく様で、そんな泥沼にはまってしまったような感覚に堪らなく恐ろしく感じてしまう。
再び ざざざ、と音がした
頭をあげると木の葉が舞踊を踊っているようにひらひらと宙を舞っている。
赤い葉も黄色の葉もまるで粉吹雪の様に雲一つない空に舞い散っている。
雲一つなく、眩しいばかりに青い空に、ひらひらと舞っている。
吹雪 ひらひら
その光景を目の当たりにしながら私は固唾をのんで、手の平を突き破らんばかりに拳を握りしめている事に気がついた。
ああ、どうにも今日は訳の分からない日だ。今日何度目かの溜息を吐きながらそう思う事しかできなかった。
当然のことながらそんな訳の分からない日でも成すべきことは山ほどあるわけで、私は粗方家の掃除が終わってしまったので身支度を整え今日の食品を買いに人里に出かける事にした。
今日の夕食は何にしようか、味噌汁に、白米、魚はこの間紫様が取って来た物があるから干物にしてお出しするとして、それとあと一品ぐらいは欲しい所だ。
そんな事を考えながら飛んで行くとあっという間に人里についてしまう、入り口から暫くあって人目の届かない木陰に降り立つ、目立つ尻尾と耳を隠していることを確認する為だ、変化の術を使う事で余計な混乱が収まるし、そちらの方が私としてもなにかとやりやすい。
尻尾と耳を消して人里に入ると途端に雑踏が私を包んだ、今はもうすぐ昼時と言う事もあって、しかもここらは里の出入り口に位置して一番活気のある市場、盛り上がりと言うものが他の違うのだろう、こちらとしても縁日に居るかのような何だかうきうきとした高揚感に似たものが感じられる。
ふとそんな活気のある人だかりの中に知った顔を見つけた、それは傍に半霊を侍らせた半人半妖、ついでに半人前の庭師、妖夢だった。
何時頃こちらに気がつくのだろうかと暫く見ていたら5分ほどして手を振りながらこちらに駆けだしてくる妖夢の姿が見えた、遅い。
酷いじゃないですか、いつ気がつくのかなんて試さないで下さいよと開口一番言われてしまった、どうやらそこだけは分かっていたらしい。
妖夢も食材の買い出しらしいので共に市場を回る事にする、まったく幽々子様の食欲旺盛さには参りましたよと苦笑いを浮かべながら愚痴をこぼす妖夢の顔には苦笑いの他に満足げな表情をしていた、素直じゃない奴め。
八百屋、乾物商、豆腐屋などを回って一通りの場所を巡った所で私は妖夢に近くの茶店で休憩を取ることを提案した、妖夢は私の従者仲間であり、また妹のような存在でもあるのでよく相談を受ける事があるのだが最近はそんな機会が無くなっていた、何か悩みでもあるならばこの際に聞いてやろうと思ったのだ。市場の賑わいから程遠い所にあるあの静かな茶屋ならゆっくりと相談を聞くこともできる。
妖夢はいいですね、喉が渇きましたと了承したのでしばらく歩いてそこへと向かった。
茶屋の暖簾を潜ると丁稚とおもしき人間に奥の座敷に通された、私と妖夢はこの場所をよく利用しているし、主人は私と妖夢の素性と目的を心得ている人物なのでそこを考慮して奥に通されたのだろう、心遣いが良いと言うべきか商魂逞しいと言うべきか、両方だろうな、私はそういう人間らしい人間は嫌いでは無い。
茶屋の奥にある小さな座敷からは手入れの行き届いた、妖夢から見るとどう映るかは分からないが少なくとも私の目にはよく手入れの行き届いた庭が見える、こちらの庭は色とりどりの木々を植えてあり、季節により様々な姿を楽しむことができるものとなっているが今の時期は丁度紅葉が見えた。茶屋と言うよりもまるで料亭のような部屋だ、恐らくは賓客用にも使われているのだろう。
暫くそうして庭を見ていると主人が注文を取りに来た、妖夢はいつもの通りに餡蜜とほうじ茶を頼み、私は団子を3本と緑茶を頼んだ。
話を聞いてみると妖夢の近況は特に問題なしの様だった、幽々子様は常時通りで私も安心していますと妖夢は笑った。
妖夢も最初会った時と比べて成長したものだと思う、言葉には出さないが。
妖忌の後任として就いたばかりの妖夢はまだあどけなさの残る少女だったと記憶している。
初めて会う私の前に顔を真っ赤にして出て来た少女と今目の前で屈託なく笑う少女は果たして同じなのかと思ってしまう程の成長ぶりだ、
成長、ね
庭の方を向くと相変らず紅葉が映える空が見えた。
成長、そう、私は成長しているのだろうか、紫様に近づけているのだろうか。
修行をしていると時々私はそんな思いに駆られることがある、紫様の考えがどうしてもわからない時にもそんな事を考える事がある。
果たして私は紫様の傍にいるに足りるのだろうか、紫様に迷惑をかけていないのだろうか。
あの月侵略の際には全くもって紫様の考えを読むことが叶わなかった、あの時には紫様についていく事が出来なかった、思い出せばきりがない、思い起こせばそんな事ばかりだ。
この感覚は焦燥なのだろう、どうしようもなくもどかしく、前に進みたいのに進めない、進んでいるのかどうかすらも分からない。底の無い泥沼に入ってしまったような気持ちだ、考えれば考える程に落ち込んでゆく。
再び襖が開いて店員が団子と餡蜜と茶を持ってきた、香ばしい匂いと甘い匂いが室内に浮かんでは消える。
いただきます 妖夢はまずは餡蜜から手をつけた
いただきます 私は緑茶を飲んでから団子を食べた
しばらく室内には咀嚼音と、時折聞こえる風のざわめきのみが響いた。
秋ですね 妖夢が外を見ながらそう呟いた
確かに秋だ、この光景は秋にしか見られない。
白玉楼の桜が待ち遠しいです、宴会の賑わいも好きですし、妖夢はそう続けた。
秋が来てその次に冬が来て、そうして春が来るのだ。考えてみれば次の春もそう遠くは無いだろう。
そういえば
妖夢がふと思い返したように呟いた
そういえば、冬になると紫様は眠ってしまうのですね。
何気なく放たれたその言葉を聞いた私は、無意識に痙攣に似た震えを起こした。
妖夢はすぐにああ、すみませんと慌てて謝罪した。
その言葉すらも私にはどこか遠くから聞こえてくるものに思えてしまって、私は気にする事は無いと半ば上の空で答えた。そうとしか答えられなかった
店から出て、妖夢と別れて、人里を何気なく歩いているときも私はどこか上の空でぼうっとしたなにかに包まれているような感覚だった。
狐につままれるのが狐とはこれいかにと自分でも面白くないと思う冗談を考えるも気分は一考に晴れず、帰って落ち込んでいくような気がした。
紫様が眠るのだ、さあ用意をしないと、まずは………
ただの気晴らしだと言う事は自分でも分かっているのだ、紫様が長く眠ってしまうのに必要な物などそうは無いのだから。
そうだ、私が妙に変だったのはそれが原因だったからだ
春の前には冬が来るのだ、凍えるように寂しい冬が、涙さえ凍るような寒い冬が。
思わず脱力してしまうような理由だった、限りなく簡単でどうしようもなくくだらない理由。
要するに、私はただ気付きたくなかっただけだったのだ。今年も紫様が眠ってしまう事に気が付きたくなかっただけなのだ。
理由には気付いたのに、私の心は気が付く前より落ち込んでしまった。
さっきまでは秋を感じさせていた紅葉は一気に冬の訪れを告げるものへと変化を遂げてしまい、余計に寂しくなった。
どうしようか、いっその事紫様に眠らないようにお願いしてみようか。
そんな事を真剣に考えてしまっている自分に愕然とした。
いっその事、大声で泣いてしまえればよかったのに。
そう出来たならばこの寂しさもどこかに飛んで行ってしまったのかもしれないのに。
しかし、生憎にも私は人前でわんわんと泣いてしまえる程落ちぶれてはいないので、早足にどこかへ向かってただひたすらに歩いていく事しかできなかった。
それかられほど経ったのだろうか
気が付くと遠目に見慣れた家の影があって、手に持っていた籠の中には自分が必要としていた物が僅かな漏れも無く、残らず全て詰まっていた。
どうやら白痴のようにあちこちを彷徨い歩いたようにていたようだが体はしっかりと成すべき事と、帰るべき場所を覚えていたらしい、その事に呆れを通り越して苦笑を漏らす。
空を見上げてみると未だに日は赤く染まっていない、恐らくは正午を少し過ぎた程だろう、この分ならば午後やるべきことを残らずやってもまだお釣りがくるに違いが無い。
しかし、全くもって律儀だ 意図せずに再び苦笑が込み上げてくる、確か妖夢と別れた時は正午頃だったから放浪していた時間はわずかに1時間程という事になる、随分と短い散歩だったに違いない、道草すら食っていないだろう。
意外にまとまって物事を考えられていたので私は今自分が動揺も困惑もしていない事に気が付いた。
あのヒステリックはほんの揺らぎの様な一時的な物だったのだろう。
そうだろう、紫様の冬眠の度にいちいち世の中が終わるかのごとく泣き叫んでいたら涙腺と声帯を何個潰しているのか分からない。
今回のはただの気の迷いで、たまたま虫の居所が悪かったからに違いないのだ。
そういった考えに辿り着いたので私はさっさと気持ちを切り替えてしまう事にした。
そう言えばまだ昼飯を食べていない、お腹が空いてきた。
まあ、この分ならば昼食には間に合うだろう、些か遅いような気がするがどうせ取るのは私一人だからいつ食べたって変わりはしないのだ。
ところが、私が建てたその予定はその僅か数十秒後に練り直される事となる。
扉の前に誰かが立っている事に気が付いたのは歩き始めてすぐだった
一瞬は橙かと思ったけれども考えてみればあの子はこの家を見つける事は出来ない、それに今日は数学を教えるから夜分になって来なさい、紫様も手伝ってくれるらしいと言づけておいたのでまさかこんな真昼間からは来ないだろう。
しかもその影は目測で計ると私よりも頭半個分程は大きいのだ。
侵入者か、咄嗟にそう判断した私は最大限の警戒を払いながらゆっくりと人影に近寄って行く。
しかし、そこに居たのは侵入者では無く紫様だった。
紫様が!
この時間帯には滅多に起きてこない紫様が起きていて、しかも私を待っているなぞ想像だにしていなかった私は思わず後ずさってしまった。
しかし、これは大層無礼な反応のように思えたのですみません、まさか起きているとは思わなかったものでと謝罪した、紫様は僅かに苦笑を浮かべているがそれ以上何も言わない事を見るとどうやら許されたようである。
珍しい事もあるもので、そう付け加えておく。
これは揶揄でも皮肉でも何でも無く、ただ純粋に驚いていたのだ。
紫様がこの時間帯に起きて私の前に姿を見せる時と言えば異変の時、並びに何か重要な事がある時で普通の日にはあまり起きてこないし、起きたとしても博麗神社で暇を潰したり何やら難しげな計算式を解いていたりするのだから、私がこうして面と向かっている事なぞまずないのである。
珍しい事です、言うには良いが理由は聞かない、それをするのは二流三流のすることだ、主には知られたくない事情もあるし、言う必要のない事もある、ましてや紫様の考えていることなどは到底私には理解できないに違い無いので理由など聞かない方が良いのだ。
紫様は黙って笑ったきり家の中に入ってしまった、どうやら私を待ってくれていたというのは間違いではないらしい。
靴を脱ぎ、廊下を歩いて行く紫様を急いで追いかけながらはて、これは今後の予定を大幅に変更しなければならないぞ、そう私はそんな事を呑気に考えていた。
廊下を黙って歩いて行く紫様の後に付きながら私は紫様が起きて来た理由を考えていた。
先程は偉そうなことを言ってしまったが私も所詮は妖獣、好奇心と言うものは人一倍ある、ましてや珍しい事となるとひとしおだ。
はて、私に何か用でもあるのだろうか。私を待っていたのは逃げられないようにするためで、しかしそれならば隙間という非常に合理的な方法がある。かと言って紫様は気紛れだからそういった物は使いたくなかったのかもしれないし。
そうやって考えれば考える程訳が分からなくなってきた、思考の迷路に嵌ってしまって、そこで私はいつもの通りに後悔するのだ。
長い長い廊下をただ進む
その先には台所がある
台所には当然の様に紫様が居て、昼食の用意をしている
私はその傍で補佐作業をしている
なんだこれは
自分のおかれている状況を振り返ってみるとそんな事しか考えられない
なんだ これは
常日頃より家事などを取り仕切っているのは私だが紫様ができないかと言うとそんな事はちっともなく、寧ろ私よりできるかもしれないとすら思える程である。
惜しむべくはそんなまめで家庭的な一面を出せば一躍胡散臭さがすっかりと抜け落ちてしまって優しいお母さんキャラが定着するだろう事だ、そうなる事を危惧して胡散臭さを出しているのかとすらも思えてしまう。
私は優しい紫様も良いと思うが、寧ろそちらの方が面倒が無いと思ってしまうが。やはり胡散臭い紫様の方が気に入っているのだと思う、全てを受け入れてしまう底の知れない器を感じさせるような、或いは何が潜んでいるかは分からないけれども確実に何かの存在がある濃霧の様な性格の方がよっぽど「らしい」と思っている。
ともかく、何の意図が潜んでいるかは分からないが、紫様は手早く昼食を作ってしまっていた。今日の献立は白米に味噌汁、漬物に昨日の残りの煮物少々、至ってシンプルだが十分だ。買った食材は明日にでも使うとしよう、家には冷蔵庫なる便利な代物がある。
それにしても紫様はいつから下ごしらえなど食事の準備をしていたのだろう。薄口に整えられた味噌汁を啜りながら考えた。煮物は良いとしてこの白米はどう見ても炊き立てだ、恐らく私が家を出てからすぐに準備を始めたのだろう。
となると、サプライズか
ありえない話では無い、紫様が私のこういった驚く顔見たさにわざわざ早起きして用意周到に準備をして待っている。考えれば考える程、どうやらこの線が正しそうであると言った考えになる。
成程、ではそれに乗っかってしまうとしよう。紫様の戯れごとにつき合わされるのには慣れているし、それに冬眠の事を思い出したのは昨日の今日どころの騒ぎでは書く今さっきなのだ、実を言うとなかなか嬉しかったりする。
この味噌汁の味付け、いいですね。今度参考にさせてもらいます そう言うと紫様は私の作った煮物を口に入れながら満足げに食んでいた。
薄味の味噌汁を啜りながらそう言えば初めてだな、紫様が炊事をする姿を見るのも、紫様の料理を食べるのも、そんな事をぼんやりと考えた。
昼食は量が少なかったこともあってすぐに食べ終わってしまった
皿を二人で並んで洗ってしまうと本当になにもすることが無くなってしまう、洗濯などは午前に終わらせてしまったし、本当はこの後も予定を入れておいたのだが紫様の事を考えると止めておいた方が得策だろう。結果として今日私の午後の時間は完全に開いてしまう事となった。
しかし、暇だ
今までは隙無く空き無く予定というのを入れておいたから良いものの、こうして何もすることが無くなってしまうと本当に時間と言ったものを持て余してしまう事になる。
空いてしまった空間は私が予想するよりもはるかに大きかった。
はてね、ずっと昔はこの空間の中で何をしていたんだっけか。空いた空間にすっかり飽いてしまった頃にふと朧げな記憶を思い出した。
遥かに昔、あの頃はやることなす事でいっぱいだった気がする、この果てしなく広い空間にすっぽり並々入ってしまってもまだ溢れる程に忙しく充実していた気がする。
まあ、よくもまあここまでの隙を埋められたものだな。回想した自分でも驚くほどにその空間は広く、それを満たしていた物はそれよりも遥かに多かった。
今はそこに違うものが丸々すり替わってしまって無くなった所為でこんなにも退屈しているのだけれど。
そう言えば何で紫様は私を待っていたのかな、思考が丸々一周してしまったのと紫様が部屋に入って来たのは奇しくも同じタイミングだった。
紫様は普段の導師服では無く、もっと緩やかな服装に身を包んでいた。例えて言うなれば、いや例えなくともあれは寝間着と言う代物だ。ナイトキャップも外してしまって豊かで金糸の様な髪が揺蕩っている。
ははあ、こりゃ、あれだな そう思う間もなく尻尾にぼふっという音と共に多少の重さがかかった。
紫様はきっとこうしたかったに違いない、この為に、この為だけに起きて来たのだ。
そう思うといかさか胸が痛んだが紫様は私の尻尾を気に入ってるのだと思うと嬉しかった、なにせこの尻尾は私の誇りである、紫様に気に行ってもらえるとやはり、嬉しい。
尻尾にダイブした紫様はそのままさしたる動きもせずにすぐすうすうと寝息を立てて眠りについてしまった。
私の尻尾の大きさはある程度自由にできるので紫様が眠りやすいように最大まで大きくする事にする。
しかし、私の尻尾の中で眠ってしまったという事は、つまり紫様の寝顔が見放題という事になる。
主人の寝顔を見るのは失礼に値しやしないかと私の中の良心が囁くが一蹴してしまう。紫様は今寝ているし、それにこれは私の尻尾を貸す事に対しての正当な報酬だから問題は無いんだなんだと適当な理由をつけてしまいそうっと、万が一にでも紫様を起こさない様に後ろの方を向く。
そこにあったのは極めて穏やかな寝顔だった
まるで一切の労苦と云うものから解き放たれた、悩みの無い赤子の様な無邪気そうな寝顔
しかしその中に映える艶やかな肌色、艶、そういった物が相まって、無邪気さとの間に差異がが生まれ、かえってそれは目を向けて見続ける事が出来ない程の艶美さを醸し出していた。
ナイトキャップから解き放たれたまるで金糸のような細く、滑らかに揺蕩う髪が尻尾の金毛に絡まりあい、広がり、覆いかぶさって、まるで波が複雑に絡み合ったかのような金の海を形成しているような光景が生まれていた。
ありたいていに、本当に普遍的な言葉を使ってしまうとすれば、それは美しいの一言だった。
美しい!これほどまでにこれに対して明確で簡潔に解答し、しかしどこまでも間違っている言葉は無いだろう。
それを現わすには美しいと言う言葉はあまりにも大きすぎる、不鮮明で、的確ではあるが正確では無い、広すぎて逆にそれの持つ何かをぼやかしてしまう曖昧な表現。
しかし、残念なことに私ほこれ以上の言葉を知らなかった、いかに賛美の言葉を連ねようとこれには勝る事が出来ないと思った。
故に私は言葉を発さず、ただ静かに紫様を見ている事にした。
息をする事すら、瞬きをする事すら惜しいように感じる時間がとつとつと過ぎてゆく、それに幾ら嘆き悲しんでも時間が無情極まりなく過ぎてゆく。
尻尾の上に仰向けになっている紫様の形の整った胸はゆったりと一定の動作を持って上下している、それと同じように一定のリズムを刻み続ける呼吸の音に耳を傾けるとそれが自然に波打ち際に押しては引き返す波の音のように聞こえてきた。
ざぁっ
一際に強い音と共に一陣の風が部屋の中に吹き込んできた、掃除をしているのでこの葉は吹き込んでこないが肌寒い風は防ぎようがないので紫様を尻尾で覆ってしまうようにする。
今はまだ肌寒いこの風が、やがては身を切るような寒さを孕んだならばそれは冬の到来だ。
生命と言う生命を残らず脅かす淘汰の季節、新しい生命を誕生させるのに力を蓄えさせる休養の季節。そして私にとっては一人でぽつぽつとこの家に籠って春を待つ季節。
無論、いつだって孤独と言うのは辛い、孤独を生きるにはこの家はあまりにも広すぎる。
慣れないものだ、昔も今もこの寒さに耐える事には慣れない。
そうして、暫く時間が経って、私は紫様が起きてこない事から本当にぐっすりと眠ってしまった事を確認した。
紫様は相変わらず眠っている、ならば少しくらいならば、少しぐらいならば何かをしても気が付かれないかもしれない。
おずおずと紫様の顔に手を近づけてゆく、ひょっとすると今に起きてしまうかもしれない、ひょっとしたら寝ていないのかもしれない、手が触れた瞬間に目を開けてしまうかもしれない。
しかし、ゆっくりと降りて行った手の平は紫様の頬にたどり着いた。
そっと指を滑らせると紫様は僅かにたじろいだが起き上がらない、目を開かない。
吸い込まれるように指を曲げて、今度は手の平一面でゆっくりと、静かに頬を撫でてゆく。
さらさらとまるで上質の絹を撫でているような感覚、尻尾に籠っていたせいか微かに紫様の温かさが感じられて、私は息をのんでしまう。
まるで黄金の川の様に広がる髪の毛の手で梳いてゆく、一度も引っかかる事無く末端へと行き着いたならさらさらと滝のように解き解してゆく、額にかかってしまったものを手で脇へと押し流してゆくと紫様の顔が一部分も余すところなく目に焼き付く。一房をゆっくりと持ち上げて手で感触を確かめ頬を擦り付ける。
白磁の様な顔のその下に目を向けると思わず噛み付きたくなるような魅力的で蠱惑的な首筋が姿を現わした、白く、滑らかそうで、美味しそうだ。
これをざらざらとした舌をなぞらせて存分に味わってしまいたい、甘噛みをして、吸い付いて跡を残してしまいたい、そんな欲情がゆっくりと頭を持ち上げ始めた。
雪の様な白い肌にうっすらと、しかし目を引く様な私が刻んだ紅が見える、思わず唾を飲み込んで首筋に舌を伸ばしそうになるがそんな事はしない、少なくとも、今はできない。
私は誇り高い八雲の式の筈なのだ、こんな欲情ごときに流されてたまるか、そう自分に言い聞かせて私は何とか理性を保つ。
目蓋を指でそうっと撫でて、顎に手を滑らせて、耳たぶをほんの少し摘まんで
止まらなくなったかのように紫様の肌を手で、指でなぞって果たしてどれぐらいの時間が経ったのだろうか、時間の経過すらも忘れてしまうほど私はその背徳的な行為を堪能していた。
首筋の柔らかい場所の感触を楽しんでいた時、ふと私は一か所だけ触れてない箇所がある事に気が付いた。
紫様の 唇
紅く瑞々しさを湛えたそこは、まるで処女地の様な神聖さを湛えていた
決して触れる事を許されない聖域
そこをただじっと食い入るように見ていると、私の中の獣の部分が舌なめずりをした
ああ―――――
あの部分を穢してしまいたい、冒してしまいたい
欲情が、再び私の中で鎌首を擡げ始めた
私の唇を持ってそこに踏み入り、舌をもって純潔を破るのだ、そうして舌は口内を隅々まで蹂躙する。それは、なんとも素晴らしい事では無いか、何とも愉悦に塗れ、征服感に満ち足りた行為ではないか。
先程とは比べ物にならない程の何かが理性を押し流そうとする、必死で保とうとするが体が勝手に動いてしまうのだ。
私は今やすっかり忘却してしまっていた、獣の欲望がいかに強力な物であるかを、そしてに対し耐える術を、長い時間の間に私は忘れてしまっていたのだ。
じり じりとしだいに紫様の顔が近づいてゆく
抵抗しようとしてもまるで頭が上から強い力で押さえつけられているように重い。
紫様、目を覚ましてください、速く 大声で叫ぼうとするが口からは腑抜けた声しか出ない。頭が次第にぼうっとしてきて、手足の力が抜けてきて今すぐにでも飛びついてしまいそうになる。
起きて、紫様、今すぐに起きて私を追い払ってください そうすればどんなに良い事か
だが紫様の呼吸は乱れず、まるで穏やかな夢を見ているようだ。このままだと起きないに違いない。
じりじりと紫様の顔に近づくたびに鼻孔に甘い香りが入って来る、紫様のしている香水だろうか。それを一嗅ぎするたびに私の理性が溶かされてゆく、頭がぼうっとして 何だか心地よくなって いやしかし ああ、実に美味しそうだ 今すぐにでも食べてしまいたい 駄目だ 駄目だ 抵抗しなくちゃ
もはや私の顔と紫様の顔の距離は僅かしかない、触れれば届いてしまう距離、眼前に紫様の閉じた瞼がはっきりと見て取れてしまう、私も同じように目を瞑った。
これから行われてしまう事に対しての謝罪と、罪悪感と、何よりもそれに対して喜んでしまっている自分がいる事に対しての屈辱感に瞼が痛くなるほどぎゅうと瞑ってしまった。
感覚はいよいよもって鋭敏になり、吐息の一瞬一瞬すらも唇で感じられる様だ。
もはや残された時間が僅かにも無くなってしまって、私が最後に申し訳ありませんと紡ごうとしたその時
紫様の唇が僅かに震えた
―――――らん
一瞬
その声が耳に届いたその瞬間、私は反射的に顔を仰け反らせた、
紫様を取り落してしまわなかった事は幸運だった、それ程までに体を仰け反らせた。
暫くその体勢のままいると体中に自分が行き届くような感覚がした、朝に飲む一杯の水が体中に行き渡るような。それと同時に疲労と、混乱と、色々な物がごちゃごちゃになって私に襲いかかった。
不意に呼吸が苦しくなって、はぁーっ はぁーっと荒い息をつく、体を全く動かさなかったとは思えない程に息は荒く、、心臓の鼓動は聞こえるまでに激しく大きく、体中から汗がだくだくと流れ出ていた。
間に合ったのか、私は
ばくばくと、未だに胸に強く叩きつけている心臓の音を聞きながらそんな呑気極まりない事を考えていた。
恐らくは 間に合ったのだ、他ならぬ紫様の声で私はとっさに引く事が出来たのだ。
紫様 そうだ、紫様は
慌てて体勢を整える、紫様はさっき明確に私の名前を呼んだのだ、きっと起きているに違いない。
頭を垂れ、静かにその時を待つことにする。
きっと紫様は私を叱るだろう、狼藉者と罵られるかもしれない。それでいい、私は自制できなかった、それぐらいの叱咤はされて当然なのだ。
だが、暫くしても紫様は動かなかった
そうっと下げていた頭を持ち上げて紫様の方を見てみるとすーすーと変わらずに規則正しい寝息を立てている紫様が居るのみである。
起きていないのか
ならばそれほど良い事は無い、私は此処で“紫様に何もしなかった”という事実だけが残るならば、それに越した事は無い。
それにしてもさっきの言葉は何なのだろうか、たまたま単語の一つに らん という言葉が含まれていたのかもしれないし、やはり幻聴かもしれなかった。どれにせよ私は一線を越えずに済んだのだ。
その後私は紫様が起き上るまで静かに待っている事にした
先程までにあれほど荒れ狂っていた欲情はどこかへ行ってしまっていた、まるであの一言がきっかけで散り散りに霧散してしまったのかの様に。
紫様が起き上ったのはそれから一刻程経ってからの事だった
日がすっかり傾いてもうそろそろ夕飯の準備を始めるかなと私が考え始めた時、紫様が小さくたじろぎ始めた、まずは目蓋、手、足、そうした一連の動作を繰り返した後紫様は目を覚ます。
おはようございます 紫様 まずは私が目覚めの挨拶をした
おはよう 藍 紫様はそれに答えた
紫様は起き上がった後暫くぼうっとした顔で私を見ていた、アメジストを通して送られる視線に僅かにたじろぎそうになる。
その後も紫様はじいっとこちらを見つめていた
いかがされましたか 紫様があんまりにも動かないものだから伺いを立てる。
「ああ―――――――
そう言ったっきり紫様は黙ってしまったので私はそれが紫様の答えなのだと判断する他方法が無かった。
紫様 夕飯の準備をしますので、尻尾をしまいたいのですが そう私が頼むとああ、ありがとう そうすぐに退いてくれた。
どうやらやはり、気が付いてはいないらしい、その事に私はほっと安堵する。
そのままそこに座ってしまったところから見るとこの後動く気配はなさそうだ。
今度は私が食事の準備をするのだろう、いつも通りに。
そう、いつも通りだ
いつも通りの日常、いつも通りの関係、いつも通りの平和、いつも通りの仕事
それが重要で、それだけが重要なはずだ、私は命令された事をこなし、他の事をしたり考えるのは紫様の仕事だ。
今日の夕食は昼作る予定だった物になるだろう、魚は久しぶりだから紫様は喜ぶだろう。
その後は橙の勉強を手伝って、そして――――
大丈夫 大丈夫だ 私はまだ私でいられる
暫く待っていてください、すぐに夕飯を作り終えますので
そう言って静かに襖を閉めた
部屋の中には、静かに座っている紫様が残されているだけだった。
.
紫ほど胡散臭いが似合うキャラは居ませんよね
そういうお手本のような出来でした。
>>奇声を発する程度の能力さん
背筋がぞくっとするような妖艶さというか、そういったものを出したかったのですが…いかがでしたでしょうか
>>8さん
不気味でどこか靄の様な物が漂っているような作品にしてみようと思いまして
胡散臭いと言うのは霧と言うよりもっと濃い煮詰まった様な何かを感じさせます
>>12さん
ありがとうございます
作者の作品は冒頭から読まないとがっかりする場合が在ります、後書きから読んでもがっかりする場合もありますが
>>13さん
まさにそう言った作品を作ってみようと思いまして
最後の部分以外に鍵括弧を付けない事もやってみました
>>14さん
ありがとうございます 今度も機会があれば書いてみたいと思います
こんな締め方もあるのかと思いました。
序盤藍の独白(といえばいいのか…)が少し冗長な感じがしました。
全体的にやきもきしてる文章をもっと詰められればさらにスマートになるんじゃないかなと思います。
アドバイスありがとうございます
今回は演出面を工夫して書いたのでそう言っていただけると嬉しいです
確かに前半部分がすこうし長すぎるかもしれないと思いました
後半部分の様な主要な所をいかにすっきりと演出するかを工夫していきたいです、精進