「どうすれば、ソフトクリームを食べることができるでしょうか……」
そう口にしたご主人様の眼差しは、思わず表情を強張らせてしまうほどに鋭かった。
真夏のある日、「かき氷屋を始めればかき氷を山ほど食べられるだろうか」と訊ねてきた時と同じくらいに。
残暑もようやく収まりつつある、秋の某日。いつものように私達は命蓮寺で仲間と共に夕食後の団欒を楽しんでいた。
皆がそれぞれ見聞きした他愛もない話に笑い、怒り、時には議論をし。そんな時間は、私達が皆一つ屋根の下で暮らしていることを実感させてくれる。離れ離れでいた時期が長かったせいか、私はこういう何でもない時間が大好きだ。
そんな温かい雰囲気に包まれた食卓で、急にご主人様が真面目な顔になった。それまで楽しそうに微笑んでいたのが、前触れもなくいきなり険しい表情に変わったのだ。
しかも、彼女の口から出た言葉はソフトクリーム。未だに変わらない真剣な表情と相まって、笑うに笑えない絶妙なギャップを生み出している。ご主人様が時々突拍子もないことを言い出すのは常々承知していることだが、ここまで理解に苦しむのは久しぶりだ。
仲間達も同じ思いを抱いていたのか、すぐにご主人様に答える者はいなかった。
先程までの朗らかな雰囲気は消え去り、ご主人様を除いた私達の間には気まずい空気が漂い始める。
誰が答える? どう答えればいい?
困惑の視線が、食卓を駆け巡る。
それに耐えきれなくなったのだろうか、しばらくして村紗が口を開いた。
ばつの悪そうな、なんとも言えない表情のまま。
「あ、あの……星、根本的なところを聞いてもいいかしら? “そふとくりぃむ”とは、どんな食べ物なの?」
「あっ」
眉を寄せて訊ねる村紗。彼女の言葉を聞いた瞬間、私は思わず小さく声を漏らしていた。
彼女達は、ソフトクリームを知らないのだ。
ソフトクリームの歴史は、それほど深いものではない。比較的早い段階で普及し始めたアイスクリームとは違い、ソフトクリームが世に出始めたのは大分最近のことである。現に、大結界ができて以来外の文化とは一線を画すという幻想郷には、アイスクリームは売っていてもソフトクリームを扱っている店は一軒も見たことがない。少し前まで外の世界にいた私とご主人様を除けば、大抵の者はソフトクリームの存在すら知らなくて当然なのだ。
私の上げた声に気づいた一輪が、少し怪訝な顔をして訊ねてくる。
「どうしたの? もしかして、ナズーリンも“そふとくりぃむ”とやらを知ってるの?」
「ああ、まあね。外の世界にいた時、食べたことがあるんだ。甘くてふわりとして、不思議な氷菓だよ」
「アイスみたいなやつ? あれが、ふわっとしてるの?」
「まあ、それはとてもおいしそうね」
「そうなんです、とってもおいしいんです! ああ、あのふわりと溶ける食感を思い浮かべるだけで……じゅるり」
「それでご主人様、なんだって急にソフトクリームの話なんかし始めたんだい? まあ、大方予想はつくが」
一人恍惚とした表情を浮かべるご主人様に、少々棘のある口調で訊ねる。己の心を見透かされまいと思ったのだろうか、我に返った彼女は少し不満そうな表情でそれに答えた。
「な、なんですかナズーリン、その言い方は。そう簡単に読めるほど私は単純ではありませんよ」
「まあ聞いてみてくれ。そうだね……休憩中、本堂でご主人様は空を見上げた。そして、秋晴れの空をふわふわと漂う巻き雲を偶然発見したんだ」
「な、何故それを」
「たまたま見かけたその雲はふわりと蜷局を巻き、まるであのソフトクリームのようだった。そう思った瞬間、懐かしきあの食感が頭の中に流れ込んでくる。まずい、と思ったあなたはすぐに忘れようとしたが、一度蘇った感覚はそう簡単には消えてくれない。最早あなたの頭の中はソフトクリームでいっぱい、けれどもあれはここ幻想郷にはまだ入ってきていない氷菓だ。食べる手段はない、でも食べたい。そんな苦悩を抱えて耐え続けた末に、限界を感じて皆に救いを求めた。とまあ、こんなところかな」
「もう、ずるいですよナズーリン! 見ていたなら見ていたと、はじめから言ってくれれば」
「いやご主人様、悪いが全て推測だよ。今日は探索が捗ってあなたを見ている余裕などなかったからね」
「むう……私って、そんなに単純でしょうか?」
「まあ、そうだよね。ああ、もちろんいい意味で」
「そうそう、星は純粋でとってもいい子だわ。ねえ、一輪?」
「え、ええ、その通りね姐さん」
「よっ、日本一!」
「えへへ、そんなに褒めないでくださいよぅ」
何故か勝手に照れ始めるご主人様。先程のしょんぼりとした顔はもうすっかり晴れ渡り、今は明るい笑みを浮かべている。
ほら、やっぱり単純じゃないか。そんな言葉が出かかるのを引っ込めて、小さく溜息を吐く。そんな事を言えばまた顔が曇るだろうし、それではさすがにかわいそうだ。
そんな事を考えながら仲間達と共に微笑んでいると、私の正面に座るぬえがうれしそうに言ってきた。
「でさ、どうすんの?」
「ん? 何をよ」
「だから、どうやってソフトクリームを食べるのかって話。なんか星の話聞いてたら私も食べたくなっちゃったんだよね」
「ああ、それ私も! だけど、ねえ……」
眉を寄せつつ、村紗は私達に視線を送る。
彼女の言いたい事はよく分かる。
ご主人様の思いに応える方法など、現時点でありはしないのだ。
いくら知恵を絞っても、どれだけ努力を重ねても、実際に存在しないものを見つけるのは不可能だ。結界を挟んだ文化には隔たりがあり、ソフトクリームがこちら側にない以上、それを食べるのはほぼ不可能なのだ。私達が作るというのなら可能かもしれないが、そんな事が出来るなら今頃はもっと器用で知識のある誰かが幻想郷でもソフトクリームを売り出していることだろう。だが、未だにソフトクリームを扱う店がない現実を見れば、それが実現しがたいことであるのは明白だ。
なんとかご主人様の思いを叶えたい。私だって、久々にソフトクリームを食べたい。仲間達にも、あの不思議な食べ物を食べさせてやりたい。けれど、今回ばかりは努力や知恵でどうこうできる問題ではなさそうだ。私の微かな望みも、露と消えることになるか。
そんな思いが浮かんだ直後、俯いていた響子が不意に声を上げた。
「あ、そういえば! 参拝に来た方に聞いたんですけど、河童が新しい氷菓を完成させたらしいですよ! なんでも、今までのものとはまったく違う斬新なアイスなんだそうです!」
「も、もしかして、それって」
「ソフトクリーム!?」
「可能性はあるわね」
「やった、これで食べられそうだね!」
仲間達の顔が、みるみるうちに晴れやかになっていく。なんというか、彼女達も大分単純だな。いや、それもソフトクリームの魅力ゆえか。
そんな事を考えていると、不意にご主人様に肩を掴まれた。さっきまでしょげていたとは思えないような、痛いくらいの力強さで。
「私達が確かめてきましょう! 明日はお休みですから。いいですね、ナズーリン?」
「ご主人様が行くなら、どこへでもお供するさ。ただ手は放してくれないか、ちょっと痛い」
「え? あ、ああ、ごめんなさいっ! 大丈夫ですか?」
慌てて手を放すご主人様。この人が慌てる仕草は少し滑稽で、けれどもとても愛らしい。彼女のそんな行動で迷惑を被っても、笑顔になってしまうくらいに。
「ああ、平気さ。それより、今日はちゃんと寝てくれよ」
「え? どういう意味です?」
「ほら、遠足の前の日は子供が寝られなくなったりするじゃないか。楽しみ過ぎて気分が高揚して」
「子供と一緒にしないでくださいよ、もう!」
そう言って膨れてみせるご主人様。その子供っぽい仕草が、なんだかいつも以上に眩しく感じられた。
一応方針は決まったが、解決策に辿り着いたわけではない。河童が新たな氷菓を作ったとしても、それがソフトクリームであるという保証はどこにもないのだ。
だからこそ、ご主人様にはあまり期待してほしくなかった。期待しすぎて、裏切られた時の辛そうな表情を見るのが嫌だから。気を遣って、それを見せまいとするあの人の姿を見たくないから。
どうか、ご主人様を悲しませない結果になってくれ。
それからしばらく続いた仲間達との団欒の間も、私はそう思わずにはいられなかった。
翌日、私達は妖怪の山の麓を流れる河の脇道を歩いていた。
季節に敏感なこの山からは、すっかり夏の気配が消えてしまっている。じりじりとした日差しもなければ、青々とした木々の力強さも見られない。河沿いの道を吹き抜ける風はとても爽やかで、秋が間近に迫っていることを教えてくれる。もう一週間程もすれば、この辺りはすっかり秋の色に染まることだろう。
そんな情景豊かな道を進みつつ、ご主人様は言う。
「もう夏は終わってしまいましたね。なんだかちょっと寂しいなあ」
「へえ、意外だね。ご主人様は夏があまり好きではないんだと思っていたよ」
「まあ、確かに暑いのは好きじゃありませんね。でもなんというか、夏の立ち昇るような力強さは好きなんです。生命の躍動、とでもいいますか」
「ああ、わかるよ。日差しはきついが、あれだけ見事に晴れてくれると気持ちがいい。それに、なんとなく活発な気分になってくる」
「そうそう。暑さで気が滅入るのに、何故か気持ちは盛り上がってくるんですよね」
そう語るご主人様の横顔はきらきらと光っている。どうやら本当に夏が好きらしい。尤も、夏は彼女の暑がりに私が大分苦しめられる季節でもあるのだが。
ご主人様は、滅多に体調不良を訴えるようなことはしない。迷惑をかけないようにと、ある程度の所までは我慢してしまうからだ。
けれども、それが爆発してしまうことはある。我慢したところで負担が消えるわけではないのだから、それが溜まりに溜まった後とんでもない事態を引き起こすことになるのはある意味当然のことだ。しかもご主人様は限界まで我慢してしまうから、その反動も凄まじい。そのため、真夏や真冬は毎年のように大仕事がやって来るのだ。溜めに溜めた疲れが暴発した彼女の面倒を看るという、厄介な仕事が。
例年通り起こった今年の爆発が、たちまち脳裏を過ぎる。その瞬間、何とはなしに深い溜息が出た。
「どうかしたんですか?」
「いや、少し思い出していただけさ。その楽しい夏に毎年やって来る、厄介な仕事のことをね」
「厄介な仕事? うーむ……思い当りませんね」
「忘れてはいないだろう? この夏、あなたがどうなったかを」
「あ、あのことでしたか。いや……あの時は、本当にすみませんでした。まさか暑さであんなことになるとは」
「黙り込んだと思ったらいきなり『ビバ! メヒコー!』だもの、驚いたよ。どこのルチャドールだい」
「ああ、一応私女ですしルチャドーラでは?」
「む、確かに」
「あと『ハスタラビィスター! ハハー!』も言いましたよ。これは欠かせません、絶対に」
「そうだね。しかし、もう二度と『寅になるんだ!!』なんて叫ぶのはやめてくれよ」
「ええ、気をつけます。しかし、あの時は聖がいてくれて助かりました。聖の持つ百八の必殺技の一つ、“南無三ボッ”をかけてもらっていなければ、いつ正気を取り戻せたかわかりません」
そう言って目を閉じるご主人様。
“南無三ボッ”とは、白蓮が編み出した百八の必殺技の中でも珍しい投げ技だ。掛け声とともに二回相手にバックドロップをかけた後、飛び上がって『南無三ボッ!』の掛け声とともにパワーボムを決める大技である。尚、最後にかけるのはパワーボムだが、発音は『ボッ!』なのである。
ご主人様にかけたあの“南無三ボッ”は、まさに完璧だった。技のキレ、見栄え、さらには受けたご主人様の反応まで、どこにもケチのつけようがない。「ファイナル南無三バスター、略称F.N.B.と双璧を成す私のフィニッシュホールド」と白蓮が自称するだけのことはある。
「しかし、“超級覇王南無三弾”あたりが来なくてよかったね。あれを出していたら私達まで危なかったかもしれない」
「ええ、あの技の流派は尋常ではありませんからね。生身であの威力ですものね、何のための機体なのかと……ナズーリン、ちょっと」
「しかしあれに乗るにはビルを生身の肉体で破壊できるくらいの力量が……ご主人様?」
冗談を言っていて気が緩んでいたせいか、私はご主人様の言葉に気がつかなかった。様子がおかしいことに気づいたのは、恥ずかしながら彼女に袖を掴まれてからだ。
隣で袖を引くご主人様の表情が、先程までの穏やかな雰囲気のものとは違う。鋭き眼光を以て、彼女は少し先の空ただ一点を凝視していた。
もしや、見つかったか。そんな思いが脳裏を過ぎる。
咄嗟に身構えようとして体を前に向けるも、時既に遅し。
再び前を向いた頃には、空を切り裂き生み出した暴風と共に“そいつ”が姿を現していた。
「あやや、デートですか。お忍びとは大変ですねえ」
人を小馬鹿にした調子でそう言いつつ、はた迷惑な新聞記者・射命丸文は私達を一瞥した。
彼女の赤い瞳は好奇心で輝き、その両手は既に万年筆と手帖を準備し終えている。先程の態度といい、どうやら山に入る私達を止めに来たわけではないらしい。
しかし、この状況はあまり好ましくない。取材をする気満々の文は、そう簡単に私達を通してくれないだろう。色々聞かれるだろうし、下手に話せば脚色過剰の記事にされてしまう。かといって事情を話さないわけにもいかないだろうし、どうしたものか。
私のそんな思いを見透かしたからなのだろうか、営業スマイルを張り付けて私達をしばらく眺めていた文がうれしそうに笑いだした。
「あはは、そんなに緊張しなくていいですよ、今日は取材に来たんじゃないですから」
「な、何?」
「たまたまあなた達を見つけたから、何か面白いことでもないかなあと思って来てみただけです。二人のデートを記事にしようにも、それは前にやっちゃいましたからねえ」
「つまり、暇だった君は私達を見つけて興味本位で飛んできた。そういうわけかい?」
「ええ、まったくその通り。この射命丸、好奇心が疼く事柄にはなんでも飛びつきますよ!」
胸を張ってそう豪語する文。どうやら、本当に意図があっての行動ではないようだ。完全にこちらの心配損というわけか。
「ふう。では、こんなに固い顔をしている必要はありませんね」
そう言って溜息を吐くご主人様。その表情はすっかり緩み、そこにいるのはいつものゆるふわなご主人様だ。
「そうですそうです、笑顔が一番! 難しい顔なんてしてても疲れるだけですよ」
「ふふ、そうですね……ああ、そうでした。ところで文さん、ちょっと聞いてもいいですか?」
「なんです?」
「最近河童が開発したという新しいアイスのこと、ご存知ではありませんか?」
「アイス、ですか……ううむ……」
ご主人様の問いに、文は黙り込んでしまった。
素早く手帖を確認した後、顎に手を当てて自身の記憶を探るも収穫はなかったらしく、やがて顔を上げた彼女はばつの悪そうな表情でご主人様に答えた。
「すみませんが、生憎そういう類の情報は入っていません。基本的に河童の皆さんは出来上がるまで自分の発明を見せようとしませんから、すぐには情報が出回らないんですよ。それに、個人で作成したものとなると尚更ですから」
「そうですか……わざわざすみませんでした」
眉を寄せてそう答えるご主人様。がっくりと肩を落とし、誰の目から見ても落ち込んでいるのは明らかだ。
無理もない。ソフトクリームへの手がかりは、今ここで途絶えてしまったのだから。
強引なやり方や態度は気に入らないが、おそらく文はこの山で一番の情報通といっていいはずだ。その彼女が知らないのだから、河童のアイスについて詳しく知る者はもう他にいないだろう。他に方法といえばそれを作った河童に直接訊ねるくらいしか思いつかないが、そう簡単に教えてくれるだろうか。
やはり、ソフトクリームへの想いは幻想と化していく運命だったのかもしれない。
そんなことを考えた直後、不意に河原の方から声がした。
私達の心に浮かんだ暗い雰囲気を吹き飛ばすくらいに、明るく元気な大声が。
「呼ばれて飛び出てキューカンバー!!」
反射的に声のした方を見ると、大きなリュックを背負った河童がこちらに駆け寄ってくるところだった。腕を振りながら走る彼女には見覚えがある。確か、河城にとりと言ったな。
「あらにとり、いたんだ」
「うん、呼ばれた気がしたんで来てみた」
先程の他人行儀な口調とは違う素っ気ない調子で、文はにとりに声をかける。こちらの方が彼女の素なのか、話し方や態度にわざとらしさがない。
「この二人はお客さん? 確かお寺の人達だったよね、里の近くにあるっていう」
「はい、寅丸星と申します。これは従者のナズーリンです」
「どうも」
「ああ、これはどうも。それで、なんかあったの? 何やら困ってたみたいだけど」
「そう、それよ! ねえにとり、最近仲間の誰かが新しいアイスを発明したりした? 二人はそれを探しに来たらしいんだけど」
「したよ、私が」
「ええっ!?」
私達は思わずそう叫んだ。にとりの返答が、というより彼女の態度があまりにも予想外だったのだ。
自分で作ったにしても、そうすぐに答えなくてもいいのに。こちらにだって心の準備というものがあるんだから、もう少し間を置いて話してほしかった。
私達のそんな思いにはまったく気づかないのか、にとりは私達を見てうれしそうに言ってくる。
「いやあ、まさかもう噂が行き渡ってるとはねえ。まだ二、三人にくらいしか話してないんだけどなあ」
「確かに、この私が知り得ない噂とは驚きね。お二人はどこで聞いたんですか?」
「ええと、仲間から聞いた話ですが、里で噂を聞いたそうです」
「なんと! 人間の里も侮れませんね」
「あの、ところでにとりさん、その新しいアイスなんですが……」
「お、やっぱり見たい? 仕方ないなあ、取ってくるからちょっと待ってて! 私の家、すぐそこだからさ!」
そう言うとにとりは再び河原に向かって走り出した。その後ろ姿はとてもうれしそうで、見ていて微笑ましい。
彼女を見送りつつ、ご主人様は声を弾ませる。
「ああ、よかった! これでソフトクリームに辿り着けますね、ナズーリン!」
「はしゃぐのはいいが、あまり食べ過ぎないでくれよ? 皆にも食べさせてやりたいだろう?」
「いくら私でも、一人で全部食べたりはしませんよ、もう」
「へえ、その新しいアイスは“そふとくりぃむ”というんですか。ソフトというからには柔らかいアイスなのでしょうか」
「それはもう、不思議な食感なんですよ」
「ああ、あれは癖になるだろうね。ご主人様程ではないが、昔は私も嵌ってしまっていたくらいさ」
「ほほう、それは是非とも食べてみたいですね。いいネタにもなりそうです」
腕組みをしつつ一人頷く文。その瞳は湧き上がる好奇心で輝いている。
その直後、何かが頭に浮かんだのか彼女は小さく「あれっ」と声を漏らした。納得したような、一方では未だ混乱しているような。そんな曖昧な表情のまま、彼女は訊ねてくる。
「昔嵌った……ということはつまり、“そふとくりぃむ”は外の世界の氷菓なわけですね。そしてお二人はその“そふとくりぃむ”を探しに来た。“河童の新作アイス”ではなく」
「ほう、さすがに頭が切れるな。ご名答、まさにその通りだよ」
「ソフトクリームはまだ幻想郷にはないんです。何か手がかりはないかと思っているところに、新作アイスの話を聞いたものですから」
「なるほどなるほど。では……空振りに終わる可能性も、まだあるわけですね」
そう言って文が浮かべたのは、意地の悪い微笑み。いつもの営業スマイルとは違うそれが、彼女の素なのだろう。
その笑顔が、その鋭い言葉が、私とご主人様の胸に突き刺さる。
みるみるうちに、ご主人様の瞳に悲しみの色が混じり始める。
彼女の心が暗く染まりつつあるのに気づいた瞬間、私は口を開いていた。
「そんな事は分かっている。だが、希望を捨てたら終わりだ。にとりがソフトクリームを作っている可能性だってないわけじゃない」
「ですが、常に最悪の状況を想定するのも正しいやり方でしょう?」
「それは、そうですけど……」
「ご主人様、こいつの言う事など気にする必要はないよ」
「はあ、またですか。前から思っていましたが、あなた達二人はお互いに気を遣いすぎじゃありませんかねえ?」
「そんなことはない。私はただ、ご主人様が悲しむのを」
「お待たせー!!」
文への反論は、戻ってきたにとりの声によってかき消された。
振り返って見ると、彼女は不思議な機械を携えていた。
片手に収まるくらいの、短い棒状の機械。片方の手に二本ずつ、計四本を縦に持っている。これが、例の新作なのだろうか。
「ふっふっふ、それじゃあ早速ご覧にいれましょうかね。はい、これ持って! 傾けたりしちゃだめだよ」
そう言って彼女は謎の機械を手渡してくる。一本ずつ配られたそれは持つのに丁度いい大きさだが、それだけで何もないように見える。
「……いったい、これはなんだ? これが例の新作アイスだというのかい?」
「そうだよ、もう画期的な自信作なんだから!」
「君にとっては自信作なのかもしれないが、生憎私にはさっぱり分からないよ。ねえ、ご主人様?」
「……アイスの匂いがします」
真剣な表情でそう呟くご主人様。その鋭い眼差しは、手にした機械のすぐ上の辺りに向けられたまま動こうとしない。
ソフトクリーム欲しさに、ついに頭がおかしくなったか。そんな思いをほんの少しだけ抱きつつも、険しい表情のご主人様に訊ねる。
「匂い、だって? ご主人様、いったいどこにアイスがあるというんだい?」
「……おそらく、この機械の上に。目では見えませんが、これは一般的なバニラアイスでしょうか」
「馬鹿げた事を言わないでくれ。にとり、いい加減に説明してくれないか」
「……まさか、バレるとはね」
「ちょっと待て、今なんと言った?」
私は思わず聞き返した。にとりの言葉が聞き取れなかったわけではない。彼女の言葉が、理解できなかったのだ。
まさか、本当にアイスがあるのか。じゃあ、何故見えない。この機械のせいだとしたら、いったいこれはなんだ。
考えれば考えるほど、纏まる気配がない。私の頭は、そんな湧き出す疑問符でいっぱいだ。
そんな私の様子を見かねたにとりは小さく溜息を吐き、やがてゆっくりと説明し始めた。
「うんとね、まず理解しておいてほしいのは光学迷彩に関する事。光の屈折を弄って物を見えなくする技術とでも言えばいいかな」
「なるほど。光を読み取れなければそこにある物でも認識は不可能だな」
「で、今皆が持ってるのはそれを実現させる機械ってわけ。あとは分かるよね?」
「つまり、その機械のせいでここにあるはずのアイスが私達には見えないというわけか」
「ご名答! インビジブルアイス、略してI.I.と名付けました! いやあ、まさか匂いでバレるとは思ってもみなかったよ」
「……はしゃいでいるところ悪いが、目的はなんなんだ? どうしてこんな機械を作る必要があった?」
「ん、必要はないよ。ただ、小っちゃい機械で光学迷彩を実現したかったんだよね。アイスは私達の間でも流行ってるし、丁度いいかなあと思って。ああ、もちろんアイスの出来も自信作なんだけどね」
そう言ってケラケラと笑うにとり。その無邪気さが、今はとても痛い。
ソフトクリームを見つけるという私達の目的は、今再び砕かれた。河童の新作アイスはにとりの自分自身への挑戦の過程で生まれたものであり、私達の求めるものではなかった。それは紛れもない事実だ。
けれども、こうも屈託のない笑みを見せられるとあからさまに落ち込むわけにもいかなくなってしまう。
それが自分に関係のない事でも、他人が落ち込んでいる姿を見るのは誰だって嫌なはずだ。私達ががっかりする姿を見れば、明るい性格のにとりでも多少は嫌な気持ちになってしまうだろう。
にとりは自分の発明を快く見せてくれたし、その発明にかけた努力だって並大抵のものではないだろう。そんな彼女に嫌な思いをさせるのはなんとしても避けたい。
手がかりもなく途方に暮れてはいるが、それをあからさまに表すわけにもいかない。そんな状況に置かれた私達は、ただ渇いた笑みを浮かべるしかなかった。
悔しいが、文の言った通りになってしまった。私とてこの事態を想定していたが、実際に何が出来るわけでもない。
やはり、ただ希望にすがったのが間違いだったか。
「ねえにとり、ちょっといい?」
文の声で、私は現実に引き戻された。ほぼ同時に振り向いた私達に気づくと、彼女は小さく頷いてみせる。
私に任せろ、とでも言いたげなその表情はどこか頼もしく、どこか危うい。何せ、彼女はずば抜けて酷いレベルの厄介者だ。何をしでかすか分からないブン屋に自信満々に「任せろっ!」と言われて素直に安心できるわけもない。
そんな私達の思いを知ってか知らずか、文は胡散臭い笑みを浮かべて続けた。
「実はね、二人が期待してたのはその機械とはちょっと違うのよ」
「何を言い出すんだ君は!」
文が言い終わるのとほぼ同時に、私は思わずそう叫んでしまっていた。
なんだってそうはっきりと伝えてしまうんだ。やはり彼女に任せたのはまずかった。そんな思いが頭を過ぎる。
当の文はというと、私が声を上げたのが意外だったのか驚いたような表情でこちらを見ている。
「なんです急に、びっくりするじゃないですか」
「驚いたのはこっちだ! まったく、言わなくてもいい事を……すまないにとり、私達はただ」
「なんだよもう、早く言ってよー」
予想外の言葉に、私は言葉を失くした。
それはご主人様も同じだったらしく、いつも以上に慌てた様子で彼女はにとりに声をかけた。
「え、ええと、にとりさん。あの……」
「ごめんね、見せびらかすような事しちゃってさ。でも早く言ってくれればよかったのに、私一人で喜んじゃって恥ずかしいじゃん」
「ああ、その、すみません」
「その辺にしときなさいよ、にとり。二人は気を遣ってくれたのよ、あんたが嫌な思いをするんじゃないかって思ってね」
「私が? なんで?」
「二人は“そふとくりぃむ”っていうアイスを探してるらしいんだけど、まだ幻想郷にないんだって。それで、たまたま聞いた河童の新作アイスって話に希望を託したそうよ」
「なるほど、それならそんなふうに勘ぐるのも分かるね。でも、私は一々気にしないから平気だよ」
「しかし、私達が落ち込んでしまったら君も気分を害するんじゃないかと思って」
「そんなことない、っていうか落ち込む必要もないじゃん! まだここにないなら、作っちゃえばいいんだからさ」
「そう簡単に言うが、私達も作り方なんて全く分からないんだぞ。見たこともない君が作れるのか?」
「うん、楽勝! 時間はかかるかもしれないけど、河童に作れないものなんてないよ!」
そう言って笑顔を輝かせるにとり。その微笑みは、なんだかとても温かった。
どうやら、私達の心配は杞憂に終わるらしい。いつだって前向きでいられる彼女にとっては、私達の気遣いなど無用だったのだ。
気を遣いすぎる。そんな文の言葉、あながち間違いではないのかもしれない。
にとりの件だって、初めから素直に話していればこう回り道せずに済んでいたはずだ。なのに、私達がにとりに余計な気を遣ってしまったから、結果として分かり合うのに時間がかかってしまった。
思えば、普段もそういう場面が多々あるような気がする。特に、ご主人様とのやり取りの中に。
ご主人様のためを思って、私が気を遣う。それが嫌なのか、ご主人様は私に気を遣う。互いに気を遣い合っているから分かり合うにも大変で、何かをしてやりたくても出来ない。そんな事が、今までに何度かあった。もう少し、お互いに適度な距離を置くのも必要だろうか。
「思い出した!!」
文の大声で、再び我に返る。たまらず向けた私の冷めた視線も無視して、彼女は興奮した様子で続けた。
「“そふとくりぃむ”という名前、どこかで聞いたことがあると思ってたんですよ! そういえば、守矢の神社に行った時に早苗さんが話してました。それはもう、熱心に」
「そんなに熱心だったのに、どうして今まで忘れていたんだ?」
「いや、あの……どうせまだこっちに来ない物の話でしたし、ちょっと興味が湧かなかったもので……あややや」
「ともかく、手がかりは見つかりましたね。ナズーリン、どうしますか?」
「もちろん、行ってみよう。尤も、また空振りに終わるかもしれないが」
「その時は、また考えましょう。恐れて何もしなかったり、余計な事を考えたりするよりマシです」
「そう、何事も挑戦あるのみだよ! もしかしたら開発のヒントとかも聞けるかもしれないし、私も行くね」
「では、道案内は私が。哨戒天狗の警備もああ見えて穴だらけですからね、隙間を縫って進めば見つからずに神社までたどり着けるでしょう」
そう言うと文は向きを変え、頂上に向かって歩き始めた。それに合わせて、私達もそれぞれ歩みを進める。
河童の新作アイスに託された希望は、同志を二人増やして守矢の神社へと今再び託されようとしていた。
文の案内で、私達四人は小道を進んでいた。
かなり厳しいと噂される哨戒天狗の警備も、さすがに万能ではないらしい。小道をたどるように進んでいけば、その網から逃れることは存外難しくないのだそうだ。尤も、そういう経験豊富な文ならばという話であって、私達部外者が行える芸当ではないだろう。
「けれど大丈夫でしょうか、勝手に入ってしまって」
「平気平気、現場に出てる白狼天狗は皆気のいい奴らだから。警備に出るより詰め所でのんびりしたり将棋打ったりしてるほうが好きなくらいだし」
「へえ、詰め所というのはそういう雰囲気なんですか。誰も寄せ付けないと聞きますから、てっきりもっと殺伐としているのかと思ってました」
「いやいや、仕事となれば真面目だけど普段は暢気っていう奴らばっかりだよ。なんなら、今度案内しようか? これから秋の味覚とかも手に入るし、おもてなしはバッチリだよ」
「是非、と言いたいのは山々ですが私も毘沙門天様の代理としての仕事がありますので……ああでも、旬の栗や果物は魅力的ですよね……じゅるり」
隣を行くご主人様とにとりはすっかり会話に花を咲かせている。それを確認して、私は少し前を行く文に声をかけようと歩幅を広めた。
謝りたかったのだ。彼女に敵対的な態度を取っていた、自分の無礼を。それに、少し彼女の話を聞いてみたい。にとりの件もあったし、気を遣いすぎるという話が妙に気になる。
前にいる文に近づきつつ、なるべく小さい声で彼女に声をかける。
「さっきは助かった。すまなかったね、声を荒げたりして」
「なんです急に。あなたが謝るだなんて、おかしくなっちゃったんですか?」
「……やはり、君を少しでもまともだと思った私が馬鹿だったよ」
「まあ、そうでしょうねえ。馬鹿正直に真面目なのはただの馬鹿ですもんね」
「失礼な、真面目のどこが悪い」
「そりゃあ、“真面目な人”は悪くありませんよ。問題なのは、“真面目であるが故に気配りし過ぎる人”です。余計な所まで気を遣っては、かえって迷惑になるでしょう」
「しかし、全く気を遣わないのも問題だ」
「その辺は各々の裁量ですよ。これは私見ですが、ナズーリンさんは星さんのこととなると途端に気を遣い過ぎていやしませんか? 普段の冷静さをうまく発揮できていないような印象を受けますが」
「そうだろうか。私はただ、ご主人様に喜んでほしいだけなんだが」
「それがよくないんですよ。強い想いは時として心を縛る鎖となります。そのせいで互いにギクシャクしちゃうなんて馬鹿みたいじゃないですか。お互いのためにも、もう少し楽にしてもいいと思いますよ」
そう言ってあの意地悪な笑みを浮かべる文。
彼女に言われると癪だが、言っている事は概ね正しいように思える。
確かに、私達は気を遣いすぎている。第三者はもちろん、相手が互いである場合には尚更だ。そのせいでうまく意思の疎通ができないという事だって、何度か経験している。
文の言う通り、もう少し気を遣わないよう心掛けてもいいのかもしれない。
広がってしまう距離を縮めるために、敢えて距離を置く。はた迷惑な新聞記者も、中々いい事を言うじゃないか。
「なるほど、ね。気には留めておくよ」
「大切なご主人様のために、ですか。まったく呆れちゃいますねえ、お二人は。これだけ言われてもそう感じてしまうなんて、どれだけ惹かれ合っているんでしょうか。ああ、また記事書きたくなっちゃいました」
「『妖怪の山でお忍びデート!?』とかいうのはやめてくれよ。私達にだってプライバシーというものがあるんだ、好き勝手にされては困る」
「じゃあ、『秋色に染まる恋~主と従者、禁断の契り~』とかにしておきます」
「……もういい、君に付き合うのは疲れた」
「あやや、それは残念。などと言っているうちにほら、着きましたよ」
文がそう言った直後、木々に塞がれていた視界が急に開けた。
目の前に広がるのは静かな境内。どうやら、神社まで無事見つからずに辿り着けたようだ。
「着きましたね」
後ろを歩いていたご主人様が、奥の本殿を見て声を上げる。その表情から察するに、これから待ち受ける早苗との対面に期待半分、不安半分といったところか。
けれど、躊躇しているわけにもいかない。手がかりはこれしかないのだから、今はそれを頼りにして臆せず進めばいい。そんな思いを胸に、ご主人様に答える。
「ああ。いよいよだね」
「そう緊張しなくても大丈夫だよ、どう転んだとしても私が作ってみせるからさ」
「その時はよろしくお願いします。私達に手伝えればいいんですが……」
「そういう話は後回し! まずは行ってみましょう! さてと、玄関は裏手にっと」
「おや、珍しい客人がいるじゃないか」
突然聞こえた声に驚きつつも、その声の方向に振り向く。
そこには買い物袋を下げ、少し疲れた表情をした神奈子の姿があった。
「ど、どうしたんです八坂様!? なんだかお疲れのように見えますが……」
慌てた様子で文が神奈子を気遣うようにそう訊ねる。その声色は素のものに近く、彼女が本気で心配していることが窺える。
「ああ、ちょいと早苗と諏訪子が面倒なことになっててね。仕方がないから、里に買い出しに行ってきたのさ。ほら、そこの社を通れば里まですぐだから」
「それはそうですが、神様が買い出しなんてなさらなくても」
「しかし、今の二人はこれを食べないと落ち着かないだろうからなあ……ところで、星達は何か用事があって来たのかい? まさか、また呑みに来てくれたわけじゃないだろうし」
そう言って笑う神奈子の姿は豪快だった。少し前、宴の席でご主人様に酒を勧めすぎて酔い潰した時のように。
この調子なら、本当にまずい事態が起こっているわけではなさそうだ。早苗達の“面倒なこと”も、そう深刻なものではあるまい。
「実は、守矢の皆さんにお聞きしたいことがあるんです。幻想郷の外の世界にある、ソフトクリームについてなんですが」
「な、なんだって!?」
ソフトクリームという単語を耳にした瞬間、神奈子の表情が変わった。興奮した様子の彼女は、目を見開きつつご主人様に訊ねる。
「ソフトクリームを知っているのか!? どこでそれを知った、何故!?」
「え、ええと、あの、それはですね」
目を剥いて迫る神奈子の気迫に圧されたか、ご主人様はしどろもどろの返答をすることしかできずにいる。尤も、突然あの剣幕で言い寄られたら誰だって萎縮してしまうとは思うが。
とにかく、今は私が答えるしかあるまい。そう考えた私は、神奈子の方に一歩踏み出しつつ口を開いた。
「こちらに来る前、私達二人は外の世界にいたんだ。幻想郷に入ったのは、封印の解けた村紗達が迎えに来てくれた後のことさ」
「な、成程。だから二人はソフトクリームを知っていると」
「それで、私達が聞きたかった事なんだが……率直に聞こう、今君達はソフトクリームを食べられる環境にあるかい?」
「……お前達も、探しているんだな」
そう言うと、神奈子は大きく溜息を一つ吐いた。
たった一度の吐息。けれどもそれは、ご主人様にがっくりと肩を落とさせるのには充分すぎるほどだった。
申し訳なさそうな表情で神奈子は言う。
「すまない、私達もソフトクリームを探しているんだ。ついこの間早苗がふと思い出したのをきっかけに早苗と諏訪子が『ソフトクリーム解放戦線』なるものを立ち上げちまってね、ここ最近はほぼ毎日のように二人でああだこうだ言ってるんだよ」
「も、もしや二人に起こった面倒なことというのは……」
「ああ、恥ずかしいがそれのことさ。こうして里で買ってきたアイスを食べると少しは落ち着くんだが、やっぱり満たされない何かがあるみたいなんだよねえ。次の日になると、またどうやったらソフトクリームを食べられるか論争を始めちまうんだ」
「……私、お二人の気持ち、すごく分かります」
はっきりとした口調でそう語るのは、つい先程まで落ち込んでいたはずのご主人様。その表情には既に曇りがなく、寧ろどこか晴れ晴れとした印象さえ受ける。
この短時間でどういう心境の変化があったんだ。そんな私のささやかな疑問は届くこともなく、その生き生きとした表情で彼女は続ける。
「ソフトクリームの良さは、ソフトクリームにしか出せません。たとえどんなに素晴らしい原料・見事な製法でアイスクリームを作ったところで、それは所詮アイスクリームに過ぎないのです。あの空気を含んだ柔らかさ、その柔らかさが可能にする生地全体の滑らかさ、そして何より口の中で溶けていくあの独特の食感。そういったものは、ソフトクリームにしか備わっていないものです。
幻想郷にいながらそれらを知ってしまっている。なんという悲劇でしょうか。私達は、ソフトクリームの素晴らしさを知りながら、それを渇望しながら、何もできずに現実に叩きのめされるのです。何もできず、諦めることもできない苦悩の中で日々を耐え続けなければならないのです。
どうせならソフトクリームなど知らなければよかった。葛藤の中で、何度そう思ったことでしょう。何も知らなければ、こんなに苦しむことはなかった。ソフトクリームという氷菓の存在さえ知らずにいたとしたら、アイスを食べて『ああ、おいしいなあ』と呟く幸せな日々を今でも送ることができたでしょう。けれども、私達は知ってしまっている。ソフトクリームという愛すべき氷菓の存在を、あの素晴らしさを、私達は既に記憶しているわけです。色褪せることのない幸せが、私達の心の中に封じ込められているのです。
どうしても手に入れたい宝物の目の前に、ほぼ確実に乗り越えることのできない壁が立ちはだかっている。現状は、たとえればそのようなものです。だからこそ、私は早苗さんと諏訪子さんの考えに深く共感を抱きました。越えられないのなら、壊してしまえばいい。東西を分かつ壁を人の手が壊したように、実力行使を以て壁を崩してしまえばいい。葛藤を抱えた者がそれを乗り越えるべく直接行動に出るのは、ごく自然なことです。どんなことをしてでもソフトクリームに辿り着きたい。そう考えるのは、当たり前のことではないでしょうか」
いつもの姿からは想像も出来ないような早口でそう一気に語ると、ご主人様はそこで深く深呼吸を始めた。異常な興奮状態にあるのも影響してか、話すだけで体力を消耗するようだ。まるで威嚇する獣のような荒い呼吸は、彼女の精神が一線を越えてしまっている事を如実に表している。
暴走した主を宥めるのも、従者の仕事。だが、これはどうしたものか。ご主人様との付き合いは長いが、今回は私が今まで経験した中では一番酷い暴走振りだろう。こんな時にどうしたらいいかなど、私には見当もつかない。
この事態、一人では手に負えそうにない。そう考えた私は、たまらず振り返って後ろの二人に協力を仰いだ。ご主人様を刺激しないよう、できる限り小声で二人に声をかける。
「……どうすればいいと思う?」
「うーむ……何か食べ物を与えてみるというのはどうでしょう。そうすれば自然と気分も落ち着くのでは」
「ふむ、文にしてはまともな案だな。しかし、ちょうどいい食べ物がない。にとりのアイスはここに来るまでに食べてしまったし……」
「食べ物作戦が駄目だとすると……うーん、どうしたらいいんだろうね」
「大丈夫、アイスならここにあるよ」
神奈子の声に再び前を向くと、彼女は下げていた買い物袋からアイスを取り出していた。早苗達の話は聞いていたが、本当にアイスを買いに行っていたのか。神様が、注連縄を装備した神様が。
いや、そんなことを考えている場合ではないか。今はご主人様のことを一番に考えなければ。神奈子がくれるというのなら、ありがたくいただくとしよう。そんなことを考えつつ、笑顔の神奈子に答える。
「いいのか、貰ってしまって」
「いいさ、どうせ他にもあるんだ。一つくらいやっても問題ない」
「ありがとう、助かるよ」
「ふふ、これで貸しが一つ、かい?」
そう言いつつ冗談染みた笑顔を見せる神奈子。彼女は親しみやすさを信仰の形の一つと捉えるそうだが、それも尤もな話だと思う。その心地よい親しみは、多くの人々の心に溶け込んでいくはずだ。それはつまり、多くの人々の中に彼女が存在するということになる。これを信仰と言わずして何と言おう。
そんなことを考えつつ、こちらも得意の皮肉を含んだ笑みで応える。
「ああ、確かに借りができたようだ。では先日の件と合わせてチャラにしてもらおうかな。いや、どこぞの酒癖の悪い神様に酔い潰されたご主人様を支えつつ山を下りるのは骨が折れたよ」
「おっと、こりゃ一本取られたな」
そう言って神奈子は楽しそうに笑う。二人のことで気が滅入っていたせいもあるのか、その姿はいつも以上に輝いていた。
ひとしきり笑った後、すっきりとした表情で彼女はアイスを手に取って渡してくる。
「さて、冗談はこれくらいにしとこうか。星を放っておくのはかわいそうだ」
「そうだね。ではありがたく使わせてもらうよ」
神奈子から受け取ったアイスの蓋を剥がし、ご主人様と向き合う。
未だ我を忘れている彼女を見て心を痛んだが、これくらいで辛いなどとは言っていられない。今一番苦しんでいるのは、そのご主人様自身なのだから。
できる限り静かな口調で、私は声をかけた。
「ご主人様、これを見てくれ。あなたの好きなアイスだぞ」
「あいす……? あいす……」
そうぼんやりと呟くご主人様の手の上に、アイスの容器とスプーンをそっと乗せてやる。すると、彼女の荒い息が途端に静かになった。なんとかこのまま落ち着いてくれそうだ。
小さな子供に対してするように、私は優しくご主人様に語りかけた。
「食べていいよ。大丈夫、とってもおいしいから」
「あいす……いただきます」
はっきりとした口調でそう言うと、ご主人様は手に置かれたスプーンを握りしめた。
目を閉じて感謝の祈りを捧げた後、スプーンでアイスの表面を抉り取る。
そして最初の一口をその口に収めようとした、まさにその瞬間――
――大声が聞こえた。目下神奈子の悩みの種であるところの、迷惑な神様と現人神計二柱の勇ましい掛け声が。
「ソフトクリームの解放を! ソフトクリームに自由を!」
「皆はソフトクリームのために、ソフトクリームは皆のために!」
意味不明な叫び声を上げつつ、諏訪子と早苗が本殿の方からこちらへやって来る。
思わず隣の神奈子を横目で見ると、彼女は引き攣った笑みを零していた。“もう、笑うしかない”という状況は偶に訪れるものだが、今の彼女はまさにその状態であろう。
気になって後ろを見ると、文がものすごく楽しそうに写真を撮っていた。前から分かっていたことだが、こいつはもう駄目だ。
にとりはというと、不安そうにガタガタ震えてしまっている。河原で会った時の元気はどこへやら。私が見ていることに気づけば一人で「ひゅい!?」などと言いだすし、訳が分からない。異様な光景なのは分かるが、だからといって怯えすぎだろう。
今まで頼りに思っていた二人だが、こういう場面では二人とも助けにはなりそうにないな。
そんなふうに思っていると、私の視線に気づいたのか神奈子がはっとした表情に変わった。眉を八の字にして、彼女は言う。
「なんかその……すまない。とりあえずアイスを早く食べさせてやるといいよ」
「あ、ああ、わかった」
「……で、なんで出てきたんだい? 皆びっくりしてるじゃないか」
「私達だってもっと議論していたかったんだよ。でも、同志の存在を感じたから表に出てみたんだ」
「同志、だって?」
「そうです、そこの星さんですよ。神奈子様は感じなかったのですか、彼女の発した小宇宙を」
驚いたようにそう話す早苗。どうやら、早苗達は聖闘士だったらしい。というか、ご主人様も聖闘士だったとは知らなかった。虎座は確かやまねこ座だったか。
しかし、彼女達は仮面を被らなくてもいいのだろうか。聖衣の種類は、セブンセンシズには目覚めているのか。そんな疑問が湧き上がってきたが、ただ話をややこしくするだけだ。それに、今はそんなことを考えている場合ではないぞ。落ち着け私。
そう自分に言い聞かせていると、不意に隣のご主人様が顔を上げた。どうやら、正気を取り戻したようだ。
「おかえり、ご主人様。気分はどうだい?」
「ええと……なんで私アイスのカップを持ってるんでしょう? 中身もありませんし」
「ああ、それは神奈子がくれたんだ。あなたを正気に戻すためにね」
「正気に? ……ああ、なんとなく思い出してきました。確か、早苗さんと諏訪子さんの話を聞いていて、二人に共感して……」
「やはり、星さんも我々の仲間なのですね!」
ご主人様の回想は、早苗の歓声に阻まれた。当然ご主人様は驚いて目を丸くしていたが、驚かせた張本人はうれしそうにその手を取って目を輝かせている。
「星さん、我々と共にソフトクリームを探しましょう! 志を同じくする者が協力するのは当然のことです。ねえ、諏訪子様?」
「その通りだよ早苗。我々の崇高なる目的のため、星の力を借りたいんだ。共に来てくれるかな?」
「ええと、なんだかお二人とも普段と印象が違うような……?」
「いや、寧ろこれが本来の姿なのだよ。普段の我々は、のんびりと生き過ぎているからね。障害を乗り越えるために切磋琢磨した結果が、この状態というわけさ。そうだろう、神奈子よ」
「いい加減戻れっ!」
「んぐぅっ!?」
神奈子の心からの突っ込みとともに、早苗・諏訪子両名の口にアイスが叩き込まれる。
スプーンに乗せられた一口大……にしては少し多い量のそれが、神奈子によって二人の口にねじ込まれる。
すると、途端に二人の様子が変わった。先程まで彼女達が発していた奇怪なオーラが、たちまちに消えてなくなったのだ。ご主人様の時もそうだったが、こんなにもアイスとは万能なものなのだろうか。
やがて正気を取り戻したらしい諏訪子が、いつもの軽い調子で話し始めた。
「あれ、またやっちゃったかー。毎度毎度悪いね神奈子」
「ほんとだよ。相手するこっちの身にもなってくれって話さ」
「ごめんごめん、この通り。ほら、早苗も謝って」
「……はっ!? もう五時ですか!? ガンダムは、もう始まっちゃってますか!?」
「大丈夫、今日は日曜じゃないよ」
「そ、そうでしたか。ああよかった……あれ? もしかして、また暴走しちゃってました?」
「ああ、星達にも迷惑をかけてたよ」
「星さん? あ、ほんとだ。何か御用だったんですか?」
「私達は、ソフトクリームを探してここまで来たんです」
「手がかりを辿ってここまで来たはいいが、早苗の話を神奈子から聞いたご主人様が共感し暴走してしまった。それを落ち着かせていたら君達が来て、そして今に至るというわけさ」
「そうだったんですか……色々と迷惑をかけてしまったようで、すみませんでした」
早苗はそう言って頭を下げる。常識を投げ捨てつつある彼女とて、こういう肝心な部分は心得ているようだ。
早苗が謝ったのを見て、隣にいた二柱も同様に頭を下げてくる。
「すまなかったね、お前達。星達の力になってやることもできなかった」
「そんな、気になさらないでください。ソフトクリームはまだ幻想郷にはないんです、いかに神様とて手の出しようがないのは分かってますから」
「でも、やっぱり食べたいよねソフトクリーム」
「お、おい! また暴走する気か?」
「やだなあ神奈子、人を依存症患者みたいに言わないでよ。私がソフトクリームを食べたいっていうのは純粋な気持ちだよ」
「私も諏訪子様と同じです。気分が落ち着いた今でも、ソフトクリームへの想いは消えることはありません。心の奥底に、ずっと燻り続けているんです」
「お二人のおっしゃること、私はすごくよく分かります。食べたいという想いと、それを諦めようとする理性。両者が何度ぶつかり合ったとしても、その想いは消えそうにないのです。なんとかソフトクリームを食べる方法が見つかればいいのですが……」
ご主人様の言葉に、全員が押し黙ってしまった。
皆知っているんだ。幻想郷にはないものを自分達で手に入れるということが、どれだけ無謀なことなのかを。
私は今まで、ご主人様の望むことなら何でも叶えてきた。彼女のために奔走し、どんなことも成し遂げてきた。
けれども、今回ばかりは諦める以外ないのかもしれない。神様でさえ当てもなく探さざるを得ないようなものを求めるなど、私にできるとは思えない。
ご主人様には申し訳ないが、彼女を説得するべきだろうか。彼女の心が悲しみで染まり、それを隠そうと偽りの笑顔を浮かべる。それが分かっていても、彼女に願いを諦めさせるべきなのだろうか。
「私、思ったんですけど」
沈黙を破ったのは文の言葉だった。彼女曰く「ちょっとだけ上から目線な態度」で、文は一気に集まった私達の視線に応える。
「ソフトクリームはどうあってもこちら側にはないんですから、食べるなら紫さんに頼んでみたらいいんじゃないですか?」
「あっ」
文を除いた六人分の声が、ほぼ同時に漏れだす。
そうだ、どうして今まで気づかなかったのだろう。幻想と現の境界を管理する八雲紫。外の世界にも相当接触しているであろう彼女ならば、ソフトクリームを幻想郷にもたらすことなど造作もないのではないか。こんなことにも気づかなかったなんて、私もご主人様を笑ってはいられないな。
そんなことを考えつつ一人苦笑していると、早苗が興奮気味に言葉を発した。
「ど、どどどどうして今まで言ってくれなかったんですか! 文さんには前にも話しましたよね、ソフトクリームはおいしいんですよって話を!!」
「えっ? ああいや、その……実は、この案は今思いついたものでして」
「文が言うには、ソフトクリームはまだこちらにないものだからさして興味が湧かなかったらしい。だから思いついたことも、そもそも話をしたこともすっかり忘れてしまっていたそうだよ」
「ちょ、ちょっとナズーリンさん!?」
「なるほど……では、私達の苦しみはもっと早くなくなるかもしれなかったわけですね。もしも、文さんが早めにそのことを話していてくれていたら……」
「な、なんですか早苗さん、その殺気は? なんか目が怖いんですけど、昔の殺伐とした幻想郷を思い出すんですけど、某世紀末みたいな感じでヒャッハーなんですけど」
本当に殺す気なんじゃないかと思うくらいの殺気を発しながら印を結ぶ早苗。さすがの文もこれには怯えたらしく、彼女にしては珍しく動揺を露わにして訳の分からないことを口走っている。
と、直後早苗の肩パッド……もとい肩を諏訪子が軽く掴んだ。彼女を諫める気なのだろう、さすがに神様は器が大きい。
「離してください諏訪子様。私にはやらなければならないことがあるのです」
「分かってるよ早苗。ただね、あんたはまだ甘い。やるならこれくらいしなきゃ」
笑顔でそう言いつつ、どす黒い瘴気を放つ諏訪子。何が起ころうとしているのか分からないが、彼女は早苗より数段ヤバいというのは確かだ。さすが祟り神、怖すぎる。
これにはさすがの文も身の危険を感じたらしく、彼女はあたふたと二、三歩後ずさりした。引き攣った表情で頭を下げつつ、諏訪子に答える。
「す、すみませんでしたっ! 悪気はなかったんです、ただ忘れてただけなんですよぅ!」
「それが罪に値するって言ってるんだよ。あんたが早く言ってればすんなり事が運んだんだからさ」
「ひいっ!? ご、ご勘弁を!」
「その辺にしときなよ、お子ちゃま祟り神」
殺気立った諏訪子の頭を、見かねた神奈子が後ろからポンと叩いた。しかし、怒っている相手に「お子ちゃま」はまずいんじゃないか。まあ今の諏訪子を止められるのは神奈子くらいだろうし、私が口を出すことではないのかもしれないが。
そんなことを思っていると、案の定諏訪子は毒のある声色で神奈子に言い返した。
「お子ちゃま? なんだい神奈子、あんたまで喧嘩を売るっての? 今は文と話をしてるんだからあんたは黙っててよ」
「はあ……昔っから変わらないねえ、そういう所は。あんたがどのくらい頭に来てるのか知らないけど、今文に何かしたところで状況は変わらないだろう?」
「まあ、そうだけどさ」
「だったら腹を立てるより我慢した方がいいと思うよ、私は。文だって反省してるんだろう?」
「え、ええ、それはもう。お酒でも持って後日改めてお詫びに伺うつもりでした」
「お、そりゃあいいねえ! というわけだ諏訪子、ここは一つ我慢してみないか?」
「……しょうがないなあ。文、いいお酒持って来なかったら許さないからね」
「は、はい、了解しました」
「早苗も、それでいいかい?」
「諏訪子様がお許しになるなら、私はそれでいいですが……どうせなら、お酒よりもお菓子の方がいいかなあ」
「和菓子でしたら知り合いに職人がいますから、その時お持ちしますが?」
「うーん、どちらかというと洋菓子がいいです。ケーキとか!」
「うぅ……なんとかします」
そう言って頭を抱える文。彼女がここまで追い詰められた表情をするのは初めて見る。
軽い気持ちで作り話をしてしまったが、まさか二人がここまで怒るとは思わなかった。いつも迷惑をまき散らす彼女へのささやかな反撃のつもりだったのだが、悪いことをしたな。
そんなことを考えていると、神奈子が笑みを浮かべながら言った。
「ははは、頑張れよ文。さあて、これでこの話は終わりだ。早速本題に取り掛かろう」
「どうやって八雲紫に頼むか、だな」
「そう、その通り。ここの結界を管理してて外の世界にも詳しい紫なら、おそらくソフトクリームを幻想郷に入れることは容易だろう。ただ……」
「境界の維持に厳しい彼女が、私達の話を聞いてくれるとは限りませんよね……」
そう言って溜息を吐いたご主人様の表情は、暗く曇っている。
彼女だけではない。程度の差はあるが、私を含めここにいた七人全員の心には同じ思いが浮かんでいたはずだ。
結界とは、外と内とを分かつ境だ。つまり、この幻想郷と外の世界との間には大きな隔たりが存在していることになる。だから、特定の文化を故意にこちらに引き込むということは即ちその壁を一旦壊すということと同義のはずだ。そんなことを、管理者である紫が許すだろうか。両者が無用な干渉をしないため、生み出された境界。それを緩めるような真似を、あの賢者様がしてくれるとは思えない。
もう、ここで終わりだろうか。今まで消えては生まれてきてくれた手がかりも、次はもう見つかりそうにない。ご主人様の、いや私達の夢は叶わずにここで消えるしかないのだろうか。
「あら、私そんなに意地悪ではありませんわ」
それは本当に突然の出来事だった。どこからともなく聞こえた胡散臭い声が、境内に広がる沈黙を破ったのだ。
その主はすぐに分かった。あんなに妖しい口調のできる奴など、一人しかいない。
そんなことを思った瞬間、不意に地面が消えた。驚いて足元を見るよりも早く、体全体が妙な空間に滑り落ちる。
何が起きているのかも分からない私達七人は、ただその流れに身を任せることしかできなかった。
時間にして数秒後。落ちていく感覚が急に止まる。それと同時に、腰のあたりに柔らかい触感のものが当たった。どうやらそれは座布団のようで、ここで私は自分が今見慣れぬ和室に座っていることに気がついた。
「ここは、いったい……」
「あやや、びっくりしましたが中々いい経験ですね」
「あんなアトラクション作ったら面白いかも!」
皆はそれぞれ好き勝手なことを言っている。周りを見渡すと、長細い卓袱台を囲むように他の六人が座っている。どうやら、七人全員がここに辿り着いたようだ。
いや、彼女に招かれたと言ったほうが正しいか。
「ごきげんよう、皆さん」
声のした方に顔を向けると、やはり紫がいた。私達の取り乱す様子が見られて満足なのか、仰々しい口調の彼女はうれしそうに微笑んでいる。
「まったく、神様を神隠しに遭わせるとはどういう了見だい」
「まあ、そう怒らずに。お茶でも飲んで落ち着いてくださいな」
「ふん」
不服そうな顔をしながらも神奈子は目の前に予め置かれていた茶に手を出す。それに従って、私達もそれぞれの湯飲みに手をかけた。
熱過ぎもせず、冷めてもいない。実にちょうどいい温度の茶を用意する辺り、さすがと言うべきか。
そんなことを考えつつ茶をすすっていると、紫は改めて口を開いた。
「皆さんを半ば無理やりに呼んだのは他でもありません。ソフトクリームに関することです」
部屋の空気が途端に張り詰めていく。
紫の目的は、交渉の余地は。
心に湧き上がる不安を抑えつつ、私達は彼女の一挙手一投足に神経を注いだ。
それに気づいているのかいないのか、先程と変わらぬ様子で紫は続ける。
「皆さんも知っての通り、ソフトクリームはまだ幻想郷にありません。ですが、いえだからこそ、その存在を知っている皆さんがそれを欲しているのは当然でしょう。尤も、暴走してしまうのは困りものですけどね」
そう言うと紫は口元を扇子で隠し、わざとらしく言葉を切った。
私達を焦らして楽しもうというのか。言いたいことがあるなら早く言ってくれればいいじゃないか。
そう思いはしても、それを口に出すわけにはいかない。仕方なく彼女の胡散臭い微笑みを睨みつけるように見続けて、約一分後。ようやく扇子を下ろした彼女は、うれしそうにこう言った。
「そこで、提案があります。私、今日をもってソフトクリームを解禁しようと思うの」
これは罠だ。そう私は直感していた。彼女が、あの八雲紫がそんな親切な真似をするはずがないじゃないか。人をからかうのが大好きな奴のことだ、信用しようものならいつ「……というのは嘘で」というカウンターが飛んでくるか分からない。
皆も同じことを考えたようで、誰一人彼女の言葉に反応を示さずにいた。紫の罠にかかるのは癪だし、こんなことでがっかりしたくないのだろう。
けれども、やがてその沈黙を破る者が現れた。他でもない、ご主人様だ。期待に満ち溢れた表情で、彼女は紫に訊ねる。
「本当ですか……? 本当に、またソフトクリームが食べられるんですか?」
やめてくれ、お願いだご主人様。
こいつの言っていることを真に受けては駄目だ。人をからかって楽しむような奴のことを信じてはいけない。
もし嘘だったらどうする。それであなたの心が再び悲しみに押し潰されそうになったら、私はどうしてやればいい。どうやって、私はあなたを救ってやればいいんだ。
あなたが人を疑うことを知らないというのは、重々承知している。けれど、お願いだご主人様。せめて今だけは、その無防備な姿を晒さないでくれ。私はあなたに傷ついてほしくない。だから、お願いだから――
「ええ、もちろんよ」
紫の返事を、私は理解できなかった。彼女が、そんなことを言うとはどうにも思えないから。
ご主人様が傷つかないならそれでいい。だが、紫がそう素直に話を受け入れるか。私達の様子を知っていたからこそ自分の家に呼んだのだろうが、だからといって彼女がわざわざこんなことをするだろうか。幻想郷の結界に影響を及ぼしかねないような決定を、こうもあっさりと出してしまうだろうか。
考えれば考えるほどに頭は混乱していく。乱れに乱れた思考に流されるように、やがて私の意識は少しずつ遠のいていった。
うれしそうに泣いているご主人様も、慌てふためく神奈子達も、なんだか靄がかかったようにぼんやりとしか見えない。体も動かせないし、まるで意識だけがこの場から離れてしまったかのようだ。
詰め寄る諏訪子と早苗に、紫が何か言っている。彼女は誰かを呼ぶような仕草をして、神奈子は二人を宥めて。目の前で起きているであろうそういった一連の出来事は認識こそできるものの、まったくその実感が湧いてこない。
しかし、何にせよこれでよかった。ご主人様がうれしそうにしているのだ、それ以上望むことはない。
遠のいていく意識の中で、私はそんなことを思いつつ笑みを零していた。
その刹那、不意に柔らかな香りを感じた。包み込むように優しく、柔らかな匂い。どこかで、嗅いだことがあるような……
「ナズーリン、やりましたよ! ナズーリン、ナズーリン!!」
胸や背中が締められるような感覚で我に返ると、目の前にご主人様がいた。どうやら、私はご主人様に抱きしめられていたらしい。うれしそうにはしゃぐ彼女の顔がくっつきそうなくらい近くにある。優しい柔らかな香りが鼻孔をくすぐる。遠い世界で私を包んだのは、ご主人様の匂いだったか。
そんなことを考えた瞬間、急に恥ずかしさが襲ってきた。たまらずご主人様を押し返しつつ、彼女に言う。
「ま、待ってくれご主人様! はしゃぐのはいいが、まだ油断ならないぞ。なにせ相手はあの八雲紫だ」
「え? あの、でも」
「それにだな、その……うれしいのは分かるが、抱きつかれるのはちょっと、恥ずかしい」
「あ、ああ、すみません! でもナズーリン、心配はしなくても平気ですよ、ほら」
そう言ってご主人様は器のようなものを差し出す。
そこに入っているものには見覚えがある。
ふわりと蜷局を巻いた、独特なフォルム。
普通のアイスと同じ材料のはずなのに、ふんわりとしてとても柔らかそうなその生地。
溶けやすいから余計に香る、芳醇なバニラの香り。
これぞまさしく、ソフトクリーム。私達の追い求めてきた宝物が、目の前にあった。
「し、しかし、どうしてここに? 幻想郷にはないんじゃなかったのか?」
「だから言ったじゃない、解禁するって。実は、私達は前から食べてたのよ。ねえ藍?」
いつの間にかフランクな口調に戻っていた紫が私に答える。話を振られた藍は、どこか不服そうに主を見つめていた。
「『達』って言わないでくださいよ。いつもいつも私に作らせて、食べるのは紫様ばっかりだったじゃないですか」
「あら、でも私が食べる時はいつも一緒に食べてたわよね?」
「そ、それは……まあ」
「ちょっと待ってくれ! じゃあ、ここにはソフトクリームを作る機械があったのか? ならどうして今まで隠してきたんだ?」
「境界に生じる歪みをできる限り防ぐためよ。異文化が幻想郷に流入すると外と内の境目が曖昧になっちゃうんだけど、ソフトクリームだって立派な外の文化でしょ? 余計な干渉を増やしたくはなかったのよ」
「しかし、ならばどうして解禁なんてしたんだ? 問題が生じるのを承知でわざわざこんなことをするとは思えないのだが」
「なんてことはない、私の気まぐれですわ。それに星や諏訪子達が暴走するとまずいからねえ」
そう言って紫はまたあの胡散臭い笑みを浮かべる。
こいつはまだ何か隠している。そう直感した私はさらに追及しようと口を開いた。
「だが、どうにも納得できない。どうして君は」
「いいじゃん、もう理由なんてどうでもさぁ」
前に座ってソフトクリームを頬張る諏訪子が顔をしかめて私の言葉をかき消す。たまらず私は睨むように視線を返したが、彼女はそれを完全に無視すると笑顔で言った。
「念願のソフトクリームが食べられた。それだけで私は十分だよ、うん」
「ああ……ソフトクリームって、本当に素晴らしいですね。また嵌っちゃいそうです」
「食べ過ぎには注意しなよ、早苗。あんたは人より夢中になりやすいんだから」
「そういう神奈子もさっきからすっごく食べてない? それ三杯目?」
「いいだろ別に、私がソフトクリーム食べたって」
「……ほんとはずっと食べたかったんでしょ」
「な、何を馬鹿な」
「私達が馬鹿やってたから言い出せなかったけど、神奈子も相当食べたかったわけだ。なんで言い出せなかったの? やっぱり私達に気を遣ってた?」
「ま、まあそれもあるけどね」
「なになに、教えなさいよー」
「私も聞きたいです、神奈子様!」
「うう……だって、変だろ? 私がソフトクリーム食べたいなんて言い出したら。その……み、見た目に合わないっていうか」
そう言って神奈子は恥ずかしそうに目を伏せた。どうやら、彼女は意外とナイーヴな精神をお持ちのようだ。
そんな神奈子の姿を見た諏訪子は一瞬ものすごく黒い笑みを浮かべると、うれしそうに彼女に言う。
「へえ、そうなんだ。まあ私達が言うよりは違和感あるかもね」
「やっぱりそうかなあ……」
「ほら、諏訪子様と神奈子様が一緒にいるとどうしてもその……そう、お姉さんに見えるじゃないですか! ですからその、あの」
「いいよ早苗、無理に気を遣わなくても。あんたが絞り出した『お姉さん』っていうワードがものすごく心にくるから」
「ねえねえ神奈子」
「なんだいニヤニヤして」
「くやしいのう、くやしいのう」
「ギギギ……おどりゃクソ洩、とでも言えば満足かいこのガキんちょ!」
「なんだとこの年増!」
まるで子供の言い争いのように、神奈子と諏訪子はギャーギャーと仲良くやり合っている。人の目がない所でやるなら別にいいが、仮にも神様である二人がこうも公然と喚くのは如何なものか。
そんな思いが浮かんだ直後、文の声が聞こえた。どうやら、彼女達もソフトクリームを堪能しているらしい。
「……なるほど、これは危険な食べ物だわ。依存性というより中毒性があるもの」
「ほんとほんと。私もう二杯目だよ」
「あら、私も。これは星さんや早苗さんが嵌るわけだ……にとり、どうかしたの?」
「う、うん……あの、紫さん。相談があるんだけど」
表情を強張らせたにとりは、近くにいた紫に恐る恐る訊ねた。暴走した早苗達を見た時といい、実は彼女も相当気が弱いタイプなのかもしれない。
おそらく紫もそれを見抜いたのだろう、お得意の妖しさを極力表に出さないように配慮しつつ彼女に答えた。
「何かしら?」
「そのソフトクリームの機械、見せてもらってもいい?」
「いいけど、どうして?」
「……私、その機械を作りたいんだ。こんなにおいしいアイスを作れるその機械を、この手で作ってみたいんだ。もちろん、駄目だって言うなら無理にとは言わない。さっきも結界の維持のためにどうとか言ってたし、私が新たに機械を作ることが好ましくないのなら諦めようと思う。けど、私はやってみたいの。皆を笑顔にするような機械を作るのは、私達エンジニアの夢だもの」
目を輝かせてそう語るにとり。紫は彼女の瞳を凝視したまま話を聞いていたが、にとりが言葉を止めても口を開こうとはしなかった。何かを見極めるように、彼女はにとりの表情をじっと見つめ続けている。
やはり、紫はソフトクリームを広めたくないのだろうか。そんな思いが頭を過ぎった直後、彼女は口を開いた。
彼女にしては珍しく、毒気の感じられない笑みを浮かべながら。
「いい目標ね。私もそれに協力させてもらうわ」
「そ、それじゃあ」
「ええ、好きなだけ見ていって。あなたなら元通り組み立てられるでしょうし、バラしてもいいわよ」
「やったあ! ありがとう、紫さん」
「ふふ、さん付けなんてしなくていいわ。本当はね、誰かに別の機械を作ってほしかったのよ。今こちらにあるのはこれだけだから、ソフトクリームを広めようにも広められないでしょ?」
「え、じゃあ私も記事書いたりしていいんですか? 先程の解禁発言もいまいち意図が分からなかったですが……」
「ええ、じゃんじゃん書いて頂戴。せっかくにとりが機械を増やしてくれるんだから、その宣伝にもなるでしょうし」
「ふむ、確かに。では、ばっちり記事にさせてもらいますよ! ええと、まずは謳い文句ね。『しっとりまろやか』、『柔らかな口当たり』、『お口の恋人』……はちょっとないか。他には……」
「じゃあ、早速見ていいかな?」
「ええ。藍、説明してあげて」
「はい。まあ私も構造とかは分からないが、とにかくここに材料を入れるんだ」
「ふむふむ……なるほど……」
藍の説明とともに機械を調べるにとりに、一人ぶつぶつと呟きながら手帖にペンを走らせる文。二人とも生き生きとした表情でそれぞれのことに打ち込んでいるが、互いのことはもうすっかり頭から消え去ってしまっていることだろう。山の妖怪は、いい意味で自己中心的なものが多いらしい。尤も、それは彼女達が仕事に真剣に取り組んでいる証拠なのだが。
「ナズーリン」
不意に聞こえたご主人様の声。それに応じて顔を向けると、飛び込んできたのは満面の笑み。すぐ側で輝くその微笑みに、私は思わず目を逸らした。
「なんだい急に」
「ありがとうございました。こうしてソフトクリームまで辿り着けたのも、あなたのおかげです」
「何を言う、そもそもあなたが言い出さなければこうはなっていないだろう。私が諦めずにいられたのもあなたのおかげだ、私が特別頑張ったからじゃない」
「……そうかもしれませんね。けれど、それでも私はあなたにお礼を言いたいんです。あなたあってこその私ですから」
そう言ってご主人様は温かい微笑みを浮かべる。
本当に、この人は馬鹿だな。従者に礼など要らないんだよ。私は厚意でやっているんじゃない。ただあなたに喜んでほしいからやっているんだ。従者に礼を言うなんて、主失格だな。
けれども……まあ、「ありがとう」と言われてうれしくないはずがないんだけどね。
「『あなたあってこその私』か。随分大きくでたね」
「虚栄ではありませんよ。ナズーリンがいてくれれば、私どんなことだってできる気がしますから」
「ほう、そうまで言われては私もより一層励まなければならないな」
「ふふ、頼りにしていますよ……そうだ、ナズーリンはまだ食べてませんでしたよね」
そう言ってご主人様が差し出したのはソフトクリームの入った器。そういえば、紫を追及していて食べるタイミングを損ねてしまったんだったな。
「ちゃんと取っておいてくれたのか。ご主人様がこれを目にして我慢できるとはね」
「意地悪を言うと食べちゃいますよ」
「す、すまない。謝るからそれは勘弁してくれないか」
「ふふ、もちろん冗談ですよ。私がそんなことすると思います?」
そう言うとご主人様は笑顔で器を手渡してくる。「ご主人様ならやりかねないな」と言いたいのをなんとか我慢してそれを受け取りながら、中のソフトクリームを見つめる。
ソフトクリーム。仲間達との再会をいつ諦めてもおかしくなかったあの頃、私達に癒しと希望を与えてくれた外の世界の氷菓。それが、今私の目の前にある。それだけで、涙が溢れてきそうなくらいうれしい。
「では、いただきます」
ここまで辿り着かせてくれた全ての者に感謝し、スプーンを入れる。
その柔らかな感触に、かつての思い出が蘇る。
感慨に耽りながらその一口を含めば、たちまちに芳醇な香りが口いっぱいに広がった。
そう、これだよ。口の中で溶けていくこの柔らかな食感。また出会えるなんて、思ってもみなかった。
「よかったですね、ナズーリン」
微笑みながらご主人様がそう言ってくる。
いつもならすぐに返事をしただろうが、この時私は敢えて返事をしなかった。
その時の気持ちは、きっと私の表情が素直に語ってくれていただろうから。
その日から一週間後、私は人間の里の一角に急遽作られた出店に立っていた。
苦難の末出会うことができたソフトクリームを、いよいよ一般の人々にも解禁する時が来たのだ。
「さあさあ皆さん、これが新食感アイス、ソフトクリームですよ! 空気を練り込んだ独特の生地には驚くこと間違いなし! ふんわりと溶けるその食感、ぜひお試しください! フレーバーは星と白蓮一押しのシンプルイズベストな“ナムサンバニラ”やムラサ考案の甘さを引き立てる“スパイシーカレー”、一輪&雲山両名によるレトロ風味の“時代親父の綿雲”、そして私と小傘の合作である“びっくりレインボー”などがございまーす!」
店先でメガホン片手に呼び込みをしているのは、お調子者のぬえ。ソフトクリームを心底気に入ったようで、彼女にしては珍しく真面目に仕事をこなしている。
今現在、幻想郷には三台のソフトクリーム製造機がある。紫がこっそり所有していたものに加えて、にとりが見事開発に成功し二台を製造したのだ。今はそれらを使い、人間と妖怪双方に適宜布教活動を行っている最中である。
「すみません、バニラを一つください」
「はい、二厘になります」
「え? そんなに安くていいの?」
「ええ、今日はお披露目ですから。尤も、ご好評をいただければ値上がりする可能性もないとは言えませんがね」
「あら、でもこの分じゃ値上がりしちゃいそうね」
バニラを注文した若い女性はそう言いながら後ろを振り向いてみせる。
彼女の後ろには既に列ができていた。周りにも人が大勢いるし、これは長い列になりそうだ。
確かに盛況なのはうれしいが、捌くのが大変だな。そんなことを考えつつ、彼女に笑顔で答える。
「ふふ、その時はまたよろしくお願いしますね」
「ええ、また是非。どうもありがとう」
「ありがとうございました。次の方どうぞー」
「すみません、この“びっくりレインボー”というのはどういう味なんですか?」
「ええと……簡単に言うと、何が起きても保証しかねる味です」
「あ、じゃあ“時代親父の綿雲”ください」
「かしこまりました、二厘になります」
ぬえが呼び込みをし、私が客を捌く。まるで出来事がループしているかのように、それが延々と続いていく。
一応交代は午前と午後で決まっているしその順番も決めてあるが、仲間達は皆勤行など何かしらやらなければならないことを抱えている。まして次の担当はご主人様と響子だったから、うっかり遅れてくるなんてことも考えられる。やれやれ、いつになったら解放されるんだろうか。
思わず漏れそうになる溜息を呑み込みつつ、私は期待に胸を膨らませる人々にソフトクリームを提供していった。
「ふう、お疲れ~」
それがどのくらい続いていただろうか。ぬえの声に顔を上げると、彼女は出店の前にいた。どうやら、山場は乗り越えたようだ。
「ああ、お疲れ。予想以上の人だったね」
「ほんとほんと、びっくりしちゃった。それよりさ、私達の考えたやつって売れてる? 自信作なんだよね」
「あー……二、三人いたよ、好奇心で買ってくれる人が」
「はあ!? なんでそんなに不人気なわけ!?」
「見た目がアレだからじゃないか? こんなメロンソーダ+コーラ+オレンジジュースみたいな色のアイスなんて食べようと思わないだろう。ドリンクバーで悪ノリしてるんじゃないんだから」
「分かってないなあ、そういう遊び心が必要なわけよ。それにイロモノがないアイス屋なんて面白くないでしょ」
「イロモノと自分で認めるんだね」
「ふふ、私らにとってはそういうのもある意味名誉ってもんよ」
そう言って胸を張るぬえ。その姿が滑稽で、思わず笑みを零した。
と、その時。ケラケラと笑うぬえの隣に、いきなり人影が現れた。
どうやら、彼女が様子を見に来たようだ。
「どう、うまくいってるかしら?」
紫は気取った口調でそう声をかけてくる。
いつも通りの胡散臭い笑みに、わざとらしく広げた扇。厄介者の登場に、私も思わず身構える。
けれども、その直後聞こえた幼さの残る声にその力は抜けてしまった。
「藍様! あれあれ、見てください! ふわふわってしたのがうねうねってしてて、なんだかすごいです!」
声のした方を見ていると、妖獣らしい少女が藍の側ではしゃいでいた。確か、彼女は橙と言ったか。
全身で気持ちを表現するような子供っぽい仕草に藍は微笑み、彼女に答える。
「そうか、橙はまだソフトクリームを食べたことがなかったんだったな」
「はい! 藍様は食べたことがあるんですか?」
「まあ、紫様に付き合ってな」
「あら、あなたから食べたいって言ったこともあったわよね? どうしてそういう時に橙を呼んであげなかったのかしらねえ」
「ちょ、紫様!? あれはあなたが呼んではいけないと言ったからで」
「私に内緒で、あんなにおいしそうなものを食べてたんですね……」
今にも泣きそうな声で橙はそう呟く。
それを聞いた瞬間、藍は隣にしゃがみ込んでいた。目線を橙に合わせて、こちらからは見えないがおそらくは必死の形相で彼女は言う。
「ち、違うんだ橙! あの頃はな、ソフトクリームを世に出すわけにはいかなかったんだ。これの存在は皆に秘密だったんだよ」
「秘密、ですか……?」
「そう、秘密だ。隠さなければならないというのは中々辛い。この苦しみを、橙には背負わせたくなかったんだ」
「じゃあ、私のことを想ってくれたから藍様は黙っていたんですね?」
「そう、その通りだ。けれども、もうそれも終わり。こうしてソフトクリームが世に出たからには隠す必要もないからな。ナズーリンよ」
「な、なんだ?」
「バニラとカレーを一つずつ頼む。バニラは橙のだから大盛りでな」
「あ、ああ、わかった。二つで三厘だ」
「やったぁ! 藍様、ありがとうございます! 私、藍様大好きです!」
「橙……ちぇえええええええええん!!!!」
人目も憚らずに抱きしめ合う二人。親馬鹿とは、こういう奴のことを言うんだろうな。
しかし、見ている分には微笑ましい。チラリと見えた橙の横顔が少し黒く見えたのも、きっと気のせいだ。あの純粋そうな少女の唇が「計画通り」と動いたように見えたのは、私の疲れのせいだろう。
「ねえ、今あの子計画通りって」
「気のせいだ」
「あ、ああ、気のせいだね」
「橙ったら、あんなに立派に育つなんて……主の主として、感慨深いわね」
「……成程、君の教育の賜物か」
「え? 何を仰っているか、私全然分かりませんわ~」
「お待たせしましたー!!」
少し慌てたような声に振り向くと、ご主人様と響子がこちらへ走ってくるところだった。時間を確認すると、時計の針は正午を三十分ほど回っている。ああ、やっぱり遅刻したんだな。
近くに来たご主人様は紫達に気づいたらしく、慌てて平静を取り繕いながら彼女に声をかけた。
「紫さん、いらしてたんですか」
「ええ。様子を見させてもらったけど、売り上げは上々のようね。解禁した甲斐があるってもんだわ」
「そうですね。私も協力できてうれしいです」
「ご主人様はソフトクリームが食べられてうれしいんじゃないか?」
「な、何を言うんですか! 確かにソフトクリームがあるというのは幸せですけど」
「はは、この分だと売り物まで食べちゃいそうだね。響子、ちゃんと見張っててよ」
「うん! でも、余ったら食べちゃってもいいんでしょ?」
「ここでは駄目だ。命蓮寺まで持って帰って来てくれ」
「なんだ、ナズーリンも食べたいんじゃないですか」
「か、勘違いしないでくれ。私はご主人様が食べ過ぎるんじゃないかと思ってだな」
「はいはい、まあそういうことにしておきましょう。とにかく二人とも、お疲れ様でした」
「あとは私達に任せて!」
ご主人様と響子に笑顔で見送られ、私とぬえは店から出た。たちまちに解放感と達成感が胸に湧き起こる。疲れたのは事実だが、こういうのも偶にはいいものだ。
「あー、とりあえず終わったー! しっかしこれから二日置きくらいでこれが来ると思うと憂鬱だね」
「まあ、今日のような盛況が毎日続くかはわからないけどね」
「そうだね。私はあんまり人が来ないほうがいいなあ……そういや妖怪向けの店ってどこでやってるの? 人間は里にいる人が大半だからいいけど、妖怪はそこかしこにいるでしょ?」
「妖怪の山を本店として守矢の神社が営業を請け負うらしいよ。今も製造機は鋭意製作中で、そのうち移動販売なんかも考えているんだそうだ」
「移動販売か。めんどくさそうだなあ」
「こっち側でよかったんじゃないか?」
「はは、そうみたい。さあてと、お昼食べたら何しよっかなー」
「……すまないぬえ、先に帰っていてくれ」
歩みを止めて、私はぬえにそう告げた。
どうしても、確認しておきたいことがあったから。“彼女”の話を聞かずに帰るわけにはいかない。
ぬえは不思議そうに首を傾げたが、合点がいったのかすぐにいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべて答える。
「いいけど、あんまり遅くならないようにね。あと、アイスの食べ過ぎには注意だよ」
「何? ……ああ、気をつけるよ。それほど遅くならないだろうから報告はしなくていい。それじゃあ、また」
ぬえの思わぬ発言に苦笑しつつ、彼女に手を振る。
私が残ってソフトクリームを食べていくと思ったのだろうか。ご主人様じゃあるまいし、そんなに食いしん坊なわけがあるか。
そんなことを思って危うく頬が緩みかけたが、私は辛うじて堪えると表情を引き締めた。相手が相手だ、気を緩めていたらまたうやむやにされてしまう。
気が落ち着くのを待って、声をかける。
藍と橙、ご主人様と響子を見つめて笑みを浮かべている、胡散臭い賢者様に対して。
「紫、少しいいか?」
「ええ、少しだけね」
意外にも軽い返事で紫は承諾すると、店の隣に置いてある縁台に腰を掛けた。それに従って私も隣に座ると、彼女はどこか楽しそうに言ってきた。
「いつ聞いてくるのかと思ってたわ。ソフトクリーム解禁を発表したあの日だって、あなただけが最後まで納得していなかったものね」
「分かっているなら話が早い。率直に聞こうか、八雲紫。どうして君はソフトクリームを広めようと考えたんだ? 君は言っていた、無用な干渉は境界のためによくないと。君がソフトクリームを自身の屋敷から外に出さなかったのも、式の式である橙にさえ隠したのも、全ては結界の維持のためだったのではないのか? 私達のソフトクリームに対する真剣な思いを汲んでくれたのはうれしいが、どうしてそこまでしてくれたんだ?」
再び湧き上がってきた興奮とともに、一気にそう言い放つ。
私が話す間目を閉じて静かに聞いてくれていた紫は、私が言い終わるとゆったりと息を吐いた。
いよいよかと思って身構えるも、彼女はすぐに口を開こうとはしない。こんな時まで私をからかおうというのか。いつも通りではあるが、本当に嫌な奴だ。
そんなことを思いつつも、ただポーカーフェイスを貫く。余裕の表情を浮かべる紫を睨むように見つめながら、ただ時間だけが過ぎていく。
「人々の笑顔が見たくなったから、という理由では駄目かしら?」
時間にして一分程経っただろうか。
もう一度催促しようかと唇に力を入れた瞬間、紫の囁くような声が聞こえた。彼女に似合わぬ優しげな口調に、気にかかる言い回しに私は反射的に口を塞ぐ。
それを見た彼女はいつもとは違う印象の笑みを浮かべた後で、静かな声で続けた。
「星達のおかげで、ソフトクリームの素晴らしさを改めて感じたわ。だから、それを幻想郷の住人達にも食べさせてあげたいと思ったのよ」
「し、しかしそれは幻想郷に干渉することを意味するのだろう? それをしないためにわざわざ隠していたのに、どうしてそんなことをした?」
「うーん、どう説明しようかしら……そうだ、星と貴方の関係でいきましょう」
「私と、ご主人様?」
「ナズーリン、貴方は星が笑顔になるためならどんな苦労でもしようと思っているでしょう」
「当然だ。私はご主人様を支えるために側にいるんだからな」
「それと同じよ。貴方にとっての星が、私にとってはここの住人というわけ」
そう言って一人頷く紫。
少しだけ、紫の言いたいことが分かったような気がする。
ご主人様のために行動する時、私はどんなことだって苦痛に感じたことはない。それと同じで、紫も幻想郷で暮らす人々のためなら苦労など気にしないということなのではないか。ソフトクリームを広めるのも、人々のため。ならば結界の修復など大した障害でもない。そう言いたいのではないか。
ただ、どうも納得がいかない。彼女ほどに胡散臭い人物が、そんなにも献身的になれるものだろうか。
私がまだ納得していないことに気づいた紫は、小さく溜息を吐いてから言う。
「ナズーリン、貴方大切なことを忘れているのではなくて?」
「大切なこと?」
「どうして、この私が結界の管理なんて面倒なことを請け負っていると思う?」
「それは、君が発案者で実行者だからだろう」
「まあ、確かにそれも理由の一つね。でも、本当はそうじゃない。私が結界を守る一番の理由、それは――幻想郷を、愛しているから」
「愛している……つまり、君はそこで暮らす人々のことをも」
「ええ、愛しているわ。人間も妖怪も関係なく、私はそこで暮らす全ての命を愛している。その一人一人を笑顔にしたいと思うのは、ごく自然なことではなくて?」
そう言って紫は少し恥ずかしそうに微笑んでみせる。
紫の表情はとても穏やかだ。少なくとも、今の彼女を胡散臭いスキマ妖怪などと呼ぶ気にはなれない。今私の目の前にいるのは、幻想郷の住人を我が子のように慈しむ優しき賢者様だ。
彼女は、本当に笑顔が見たかっただけだった。幻想郷の母である八雲紫。彼女がそこで暮らす人々に愛情を注ぐのは、当たり前のことだったのだ。
「少し前にソフトクリーム製造機を持ち帰ってから、ずっと悩んでいたのよ」
か弱い口調で紫が言う。
「ソフトクリームがどうしても食べたいから持ってきちゃったけれど、外の世界で現役のものはこちらには広められないでしょう? だからしばらく内緒にしていたんだけれど、星達を見て気がついたの。本当に大事なのは、ここで暮らす人々の幸せなんだって。だから貴方達には本当に感謝してるわ」
「幸せ、ね。確かにソフトクリームは人々に喜びや幸福感をもたらすかもしれないが、結局それはささやかなものでしかない。それでもよかったのか?」
「ええ、笑顔に大小なんてないもの。人々の笑顔のためなら結界修復の一つや二つ、まったく苦ではありませんわ」
「藍が手伝ってくれるしね」などと言いつつ微笑む紫。
どうやら、私は八雲紫という人物をずっと誤解していたらしい。
確かに、普段の彼女は胡散臭くて危険な奴でしかない。けれど、それが紫の本質ではなかった。
妖怪の賢者、八雲紫。彼女は胡散臭い大妖怪である前に、誰よりも幻想郷を愛する心優しき母だったのだ。
「あれ、ナズーリンまだ帰ってなかったんですか」
唐突に聞こえた声に驚きつつ顔を上げると、開いている店の窓からご主人様が顔を覗かせていた。今の今まで話をしていたが、どうやら彼女には聞こえていなかったらしい。
「この距離で聞こえていないとは……ああ、君が何かしたのか」
「ふふ、空気振動の境界を弄れば内緒話も思いのままですわ」
「内緒話? 何か大事な話ですか?」
「ご主人様、こういう時は訊くものではないよ。それに心配することはない、ゆるふわ愛されタイガーのあなたには関係のない話だ」
「どういう意味です? それより早く帰らないと皆心配しますよ」
「そうだったな。じゃあ紫、今日はこれで。付き合ってもらってすまなかったな」
「いいえ、なんだか私も話ができてすっきりしたわ。それじゃあ星、今後ともよろしくね」
「はい! ああ、そうだ紫さん、お帰りになる前にお一つどうです? はい、ナズーリンもどうぞ」
そうってご主人様はソフトクリームを二つ差し出してくる。紫と二人それを受け取り、おもむろにスプーンを手にして早速一口。
「……ふむ、シンプルで濃厚ね。バニラの上品な香りがまた素敵だわ」
「……これは一輪と雲山のか。屋台で食べる綿飴の懐かしさが再現されていて郷愁を誘うな。仄かな甘みが癖になりそうだ」
「では、私も一つ」
「あなたは仕事中だろう」
「で、でもお客さんいませんし」
「さすが星様! お客さんのいないタイミングを見計らって商品の出来をチェックするなんてすごいです!」
「え? ええと、あのね響子ちゃん」
「そうだね、素晴らしいねご主人様。やったね、すごいね」
「うう、ナズーリンまで……」
涙目になるご主人様を見て、三人でニヤリと笑みを浮かべる。どうやら響子もだいぶご主人様の扱い方を覚えてきたようだ。
しばらくご主人様の愛らしい姿を堪能した後で、紫が満足げな表情で言う。
「さて、そろそろ私は帰るわね」
「じゃあ私も戻るとするか。響子、ご主人様を頼んだぞ」
「うん、任せて!」
元気よく返事をする響子に再び送られて、私達はそれぞれ家路に就く。
紫はスキマを開いて、私は命蓮寺の方向へと道を下って。
見上げると、秋晴れの空に大きな巻き雲がぷかぷかと浮かんでいた。
ふわふわと蜷局を巻いたその姿は、まさにソフトクリーム。ご主人様が休憩中に見たのも、きっとこんな感じの雲だったのだろう。
ソフトクリーム。人々を魅了する、不思議な氷菓。今回のことで、その魅力がより一層増したような気がする。
歩きながら、手にしたソフトクリームを掬う。
郷愁漂う、“時代親父の綿雲”。一口含めば、たちまちに切なさがこみ上げてくる。まさに秋にぴったりじゃないか。ご主人様には悪いが、私はシンプルなバニラよりこちらのほうが好みだな。
懐かしい雰囲気が醸し出す切なさと喜びとほんの小さな幸せを噛みしめながら、私は里を歩いていく。
「ソフトクリームは人々に幸せをもたらす」か。紫の言っていたことも、あながち間違いではないようだ。
秋の巻き雲がもたらしたソフトクリームは、今確かに私を笑顔にしているのだから。
ちなみに、自分はスーパーカップのチーズケーキ味がマイブーム。
ちょっと長く感じたのが惜しかったけど、みんな可愛かったですよ
だが僕は敢えてサーティーワンでチョコミント
八雲紫もまた、ソフトクリームの魔力に取り付かれた者の一人か……仕方ない。
炬燵とソフトクリームとリモコン隠しの魔力には抗えないのさ。
けどせっかくだから、俺はこのガリガリ君梨味を選ぶぜ
ちなみに、私は飲むアイス系
みんな良いキャラしてm…ちぇえええええええん!!
あまり見かけないけど、レディーボーデンのクッキー&クリームが私は好きだな。
神奈子様も一難去ってよかよか。
それにしても、ソフトクリームの魔力とは恐ろしいものよ。幻想郷に狂気の種と幸福の兆しをもたらしよったわ。
ソフトを笑うものソフトに泣くな。
ただ白蓮は流石に自重すべきwww必殺技ww
いいですねえ、ソフトクリーム。星が暴走するのもわかりますw