妖怪の山に程近い湖。ここは四方を森に囲まれ、朝夕には霧霞が濃く立ち込めることの多いこと、人里から離れすぎていること、また水の清きに過ぎるため、不思議と生命に乏しきことが手伝って、人妖は愚か妖精の類も滅多に近寄ることがないこの湖であるが、夜が更けると、月星は湖上にたゆたい、かすかに虫の音が聞こえるばかりの、時の流れを忘れさせるような、悠然とした絶景地になるため、秋の夜長、月見をするにはこの上なく趣がある。長い時の合間には、この湖を愛した者もあったのだが、それも今は昔のことであり、ただ幾らかの力弱い妖精がこの地の水清きを親しみ住まうのみである。
そんな湖を、運よく見つけたのはぬえとマミゾウであった。幻想郷を物珍しく思い、あれこれと散策したことが功を奏した。今ではすっかり、水面に輝く月星は二人のために輝いている。
「ぬえや、わしのおった佐渡の地は、今の世に珍しく美しい自然の残っておったところじゃがな、この幻想郷ほどではなかったぞ」
「私はマミゾウに会うまで、こうやって自然の美しさを楽しむことなんてなかったよ。最初は年寄り臭い、退屈なことだと思っていたけど、そんなふうに思っていた時のことが、今では夢のように思えるよ」
「ぬえや、ぬえや、寒かろう。さぁ、こっちにおいで」
「マミゾウ……」
あぁ、封獣ぬえの人恋しさ。化物のあわれはここにあり。親兄弟と慕うものもなく育ったのである。生まれたときより化物同士は、喰らい合う仇仲となるのが天地の掟。人はもとより不倶戴天の敵。とりわけ、あれともこれともつかぬこの妖怪には、この辛さは一入であった。そうしてだからこそ、どこか聖を慕う気持ちが湧いたのであるが、さりとて容易に打ち解けられぬが封獣ぬえの悲しい性よ。
「マミゾウ……なんか、おばあちゃんみたい」
「ホッホッホ。おばあちゃんか。いや、なに。これはわしの貫禄を褒められたと喜ぶべきかな」
そう言って、ぬえの肩を抱きよせるマミゾウの心遣い。マミゾウは実に情を知るものである。表立った法は知らぬ。しかし、決して破ってはならぬ、ヤクザの法はよく知っておる。それは確かに罪であるが、しかしてこれほど優しく、また筋の通った法はない。
「ぬえ、寂しかったのう」
「……うん」
覚えずぬえは涙が出て来た。
マミゾウはそれに気付くが、何も言わずにぎゅっと抱きしめてやる。
そこへ、ある者がすっと姿を現す。はて、月の光りが四方を照らして隈なしというのに、どうして気がつかなかったものか。これが所謂道術であろうか。自然の摂理に従い、己を虚しくすれば、天地に帰して同一になる。
「さても見事な妙術じゃ。忍びの技も、これほどではあるまいよ」
軽々に問うマミゾウの言葉には無反応。何時にないほどの真剣ぶりが、ぬえとマミゾウにも伝わってくる。
「お主らに、頼みがある」
そう告げたのは物部布都。宿敵である。
「急ぐことかのう。ほれ、わしらにも、大切な時間というものがあるじゃて」
「済まぬが、火急のことだ」
「ふぅむ。そうかの、そうかの。まぁ、よかろう」
ぬえがマミゾウのもとから離れる。その眼は布都に向けられて厳しい。
「一体何のようなの?」
ぬえが強く鋭い口調で問う。
「あぁ、実はな。我は……我は……神子と袂を分かたんと欲しておるのじゃ」
(ほぉ! これはこれは……)
(神機到来!)
そう思ってぬえとマミゾウは顔を見合わせた。なんと宿敵の重臣が心離れを起こしているのだ。
この好機、逃す術はない。
「それは、興味深い話ね」
「うんむ、うんむ。なぁに、古今このような例はいくらでもある。人間も妖怪も神ですら仲違いするものじゃ。これは仕方のないことじゃよ。それでそれで、出来ることじゃったらなんでもするが、果たしてわしらに、お主は何を頼むのかのう」
その言葉を聞いて、布都は一度深く息を吸い込むと、キッと眉をつり上げて、迫真の形相で二人に懇願した。
「神子のうんこを持って来て頂きたい。それを我は決別の証にしたい」
「「何言ってんのお前」」
思わず二人はダブってしまった。
「我はもうこうして思い悩みたくないのだ」
「一体何を悩んでおるのかのう……」
「いずれは、神子も我を想うと信じておったのじゃが……」
「ふむ、情愛の縺れか」
「あぁ、そうだ。どうか我のこの一途な想いを信じて欲しい」
「ギャグにしか見えないんだけど」
「無礼な! この我の気持ちを疑うのか!」
「いや、まぁ、なんというか……」
「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、我は、我は……そうか、お主ら、証拠がないと申すのだな。我は平生、神子を太子様と呼んで仕えておる。それを今は神子と、親しみ慣れた呼び方をすることを控えておる、これが動かぬ証拠だ! さぁ、どうじゃ(ドヤ顔)。」
「分かった。もうあんた、存在自体がギャグなんだよ」
「所謂一つの天然キャラじゃな」
「そ、そんなことはないぞ。確かに、神子にも屠自古にも、ちょっと勘違いが多いとか、人の話をよく聞かないとか、そう言われることもあるし、思えば母上や乳母からももう少し落ち着きなさいと言われてばかりいた気がしないでもないが……」
「否定になってないんだけど」
「見事なまでに墓穴を掘っておるのう」
布都はその後も、「いや、そんなことはないぞ。」と幾つかの反駁を試みるが、結局は「そう、これは我の生来の癖なのじゃ。やむを得ぬものを咎めるは人の道に非ず。畜生の理ぞ!」と見事にドヤ顔をやってみせるのだからこれ以上はぬえもマミゾウも突っ込まなかった。
「えっと、それで、本題に戻るんだけど、神子と離反するんだっけ?」
「おぉう、そうじゃった。お主たちが話しの腰を折るから変に逸れてしまった。しかしやむを得ぬことは責めぬから安心してよいぞ。それでじゃ、話はちょっと長くなるかも知れぬが、これは大事じゃからな。心して聞くのだぞ」
「わかったわかった。思う侭に存分に語るとよいぞい。おい、ぬえ、ちょっと酒を持って来てくれんかのう」
「うん、分かったよ。それじゃ、ちょっと待っててね」
「うむ、うむ。苦しゅうないぞ。我をもてなさんとする、その心意気は天晴れだ。褒めてつかわす」
「ほれ、長くなるんじゃろう? さぁ、早くせんか」
「おう、そうであった。実は我は、長く太子様……じゃなくて、神子をお慕い申し上げておったのだ。尸解仙となるべく、真っ先にこの身を捧げたのも、ひとえに我の衷心から来た愛故と言えようぞ。実は昔、神子……やっぱり、太子様に戻しても良いか? ほら、呼びなれておるから。そうかそうか。それで、太子様は、丁度背中の真ん中ほどまでに髪を伸ばしておられてな、幾度か御髪を梳く栄誉をたまわったことがあったのじゃ。元来のはねっ毛であるからな、毎日毎日大変だと仰っておった。しかしそれでも、長く美しい髪に憧れるお気持ちがおありだったのだろうなぁ。本当はもっと長い髪にしたいのにと、ふとした折に心情を吐露されたことがあった。そうしてそれ以上は、中々短くはされなかったよ。
で、それでだぞ、太子様の髪の毛だがのう、これが芯のある太い髪なのじゃ。そうして不思議と温かくてのう、香のにおいなどもえも言われぬほどであってなぁ、いやぁ、幸せな一時であった。今でも、昨日のことのように思い返せることじゃ。無上の幸福とは、まさにあれぞ。ハッハッハッハ」
(ぬえ、早く帰って来ぬかのう……)
「しかし、太子様はあの通り、気高くお美しい人であるからな、恋波寄せる不埒者が何人もおったことじゃ。あのようなひょろひょろとして気持ちの悪い白茄子どもから太子様をお守りするのも我の責務じゃ。五六人、陰に誅殺してやったことじゃ。そうすると、すっかり噂になってのう。それ以降は、誰も太子様にいかがわしい気持ちを抱くような青瓢箪はおらんようになったわ。いやぁ、愉快愉快」
そこにひょいっとぬえが帰って来た。
「マミゾウ、お酒持って来たよ。燗しようか?」
「おぉ、ぬえ。待っておったぞ。ささ、冷で構わぬ。ついでくれ、ついでくれ」
「おぉ、お主、よく分かっておるな。酒は、冷が一番じゃ。特に今の時期は、一番良い具合に酒が冷えてうまい。寒い時期は燗などという馬鹿がおるが、これは酒の味が分からぬやつの言うことじゃ。あぁ、そうじゃ! あの、屠自古の不埒者め! あいつは酒を燗して飲むのじゃ! 全く、屠自古は全く……」
「マミゾウ、美味しい?」
「うむ、良い酒じゃ。この郷は、酒がうまくて良いな」
「私もそれ、思った。時代が進んで、お酒の技術が高くなったのもあるんだろうね」
「うむうむ。そうじゃな。しかしそればかりではあるまい。人妖の技術あい合わさってこその味じゃろう」
「おぉ、確かに。これはうまい酒だのう。うむうむ、我を思って格別の酒を用意するその心遣い、気に入ったぞ。ぬえや、お主は我、第一の家臣にしてしんぜよう」
「ハ? 何言ってんの?」
「うむうむ、知っておるぞ。それはツンデレじゃな。良い良い。我もその術は心得ておる。だからこそ教えを授けようぞ。デレは二割ほど残さねばならぬぞ。そうでなくては、気持ちが伝わらぬからのう」
「……マミゾウ、干し肉食べる? 炒り豆も持って来たけど」
「ほうほう、流石気がきくのう。うん、うまいぞ。ありがとう」
「う~む、我は鯛の刺身が大好物なのじゃが、仕方ないのう。ここには海がないからの。あ、ぬえや、安心せい。我は出来ぬことは咎めぬぞ」
「もぐもぐ、もぐもぐ」
「うまうま、うまうま」
「ぽりぽり、ぽりぽり」
「ぐぃっぐぃっぐぃ」
「ふぅ……しかしここは風情があって良いのう。風水的にも、心身を安らかにし、清める、実に良いところじゃ。さすがは、我の家臣じゃ。良いところを選ぶ。褒めてつかわす(微笑みのどやぁ)」
(こ、こんなうざいドヤ顔ははじめてだ……)
(おい、ぬえ! 大事の前の小事じゃぞ。堪忍せい)
(う、うん。分かってるよ。)
「おい、お主。そろそろ、話の本題に入ってくれぬかのう」
「おぉ、そうであった。いやぁ、すまぬすまぬ。それもこれも、この地が我の魂を清め心を穏やかにするのだから仕方がない。許せ。それに、お主にも責任はあるぞ。いやぁ、なかなかの聞き上手である。ついつい話が逸れてしまった。ハッハッハ(有頂天のどやぁ)」
(……この馬毛を思いっきり引っ張ってやったら、どうなるかのう!)
(マミゾウ! マミゾウ!)
(分かっておる分かっておる……)
それから半刻ほどして、ようやく布都はしみじみ語り始めた。
「どうやら、太子様は、女には興味がないらしいのじゃ」
(それは……)
(なんというかのう……)
((今までの前振りはなんだったんだ!))
心の中でぬえとマミゾウはそう突っ込みを入れて、
「まぁ、(恋が適わなくなったから決別ってのはどうなんだという気もしなくはないけれども)事情はわかったけどさ。それで、なんでまた、その、ねぇ?」
「うむ。なぜお主は、その、よりによって、『うんこ』を所望するのかのう」
「え? そりゃ、決まっておる。想い人の汚いものを見れば、ほら、百年の恋も冷めるというものじゃ」
「あぁ……なるほどのう」
「そういうことだったのね」
でも、やっぱ変だよなぁ。普通、七星剣とか盗むんじゃね? と二人は思ったが、何せ相手はご覧の通り変なヤツなので、何か常人の感覚を超越した理屈があるのだろう、あるいは貴族というのはこういう気狂い的な発想をするのだろうと妙に納得して、宿敵の汚物を得るべく、密議を執り行うことにした。
幸い、相手は貴族文化に生きている。樋すましの下女が便器の入った箱を持って行く途中を襲えば、それだけでことは済むのだった。幸い、ぬえもマミゾウも化けることには長けており、盗みなどは最も得意なもので、かつては至難の業を幾たびもやってのけたものである。だがその栄誉の業が、よもやうんこ泥棒に使われようとは、二人とも思わなかった。なんだか悲しくなって来たが、大事の前の小事であると心を鬼に化えて盗み出した。
満月の夜。かの清く澄み渡った神霊の湖畔で、三人は落ち合った。
「二人とも、大儀ご苦労であるぞ!」
開口一番、布都は家臣二人をドヤ顔で労った。
その瞬間、ぬえは腹パンをした。
マミゾウは馬毛を引っこ抜かんとした。
「ぐぼぉおおお! 腹が、首が!」
布都は悶え転げてのた打ち回った。
「な、何をするかお主ら!」
「「ツンデレです」」
「デ、デレを二割ほど残せとあれほど言ったというのに……」
「すまぬのう、修行不足じゃ」
「悪意はなかった」
「そ、そうか。それじゃ仕方がないのう……」
そう言って、膝をガクガク震わせながら、ジョジョ立ちでドヤ顔を決める様は、かの吸血鬼もかくやというほどのカリスマである。
「フゥ……フゥ……」
「息が荒くなっておるが、大丈夫か?」
「だ、大丈夫じゃ。問題ない……」
「じゃ、さっそく本題に入るけどさ。はい、これ」
「お、おぉ……こ、これが!」
「うむ」
「太子様のうんこか!」
「言うなよ、恥ずかしい……」
「さ、さっそく見聞……」
「あ~、あっち行って見ろよ! こっちで箱開けるな!」
そう言って家臣二人と距離をとり、布都は神子の汚物を盗み見た。
清らかな月は玲瓏。四方を隈なく照らし、湖は光りを反射して、昼よりなおも明るいくらいである。ただその幻想なるが唯一、今が夜であることを証明する。
「こ、これは!」
ただちに立ち込める香のえも言われぬ芳しい匂いに、布都は驚いた。
「沈(じん)に、丁子に……これは香木を深く煮詰めた水が入れてあるのか。うんこは織物で幾重にも包んであるのじゃろう、黄ばんだ色も見えぬことだ」
唖然として見呆けている布都の耳には、遠く聞こえる鈴の音の美しさも届かない。
しかし、それであっても届く香りが一つあった。
「こ、この練香……数多入れられたこの練香は、あの日、太子様の御髪を梳かせていただいた、あのときの髪の香りではないか!」
そのとき、布都は忽然と後悔した。
如何に積年の想い人が、ノマカプ厨であると判明したからといって、それを以て離反を企てるとは何事であろうか。
「もし太子様が、下痢腹の汚物に小便を混ぜてぐちょぐちょに汚く撒き散らしておいてくれていたら、私の愛想も尽きて、気持ちもやすまり、家臣二人と新たな道を進むことも出来たろうにな」
そのとき、一陣の風が吹いて、香の芳しい匂いを巻き上げた。
同時に、布都は涙が零れた。
思い起こす証道の歌。
「江月照松風吹 永夜清宵何所為」
(こうげつてらしせうふうふく えいやせいしょうなんのしよゐぞ
月は明るく川の上を照らし、さわやかに松風は吹いている
この永い夜の清らかな景色は何のためにあるのか)
そもそも、我の太子様をお慕い申した所以はなんだったろうか。愛欲のためであったろうか。いや、違うであろう。あの方の御徳高く、高貴に麗しい様に、我は平伏したのではなかったか。およそ人と思われぬほどに、恐れ多く有難い、このお方にお仕えすることこそ天命と思い至った、かの昔日の衷心こそが、我の太子様に対する忠心であったのだ。
布都はすっかり、死ぬほどに切なく、狂おしくなった。
そうして真実に改心し、もう決して二心は抱かぬと決めた。
あぁ、しかしなんと恥ずかしく浅ましいことをしたものであろうか。己の罪深きことはまことに痛み入る。すっかり腹の底から、苦しい気持ちが昇ってきた。
物部布都は、佇立瞑目することしばし。潸然として涙下った。
その涙の意味を、封獣ぬえと二ッ岩マミゾウは、到底理解し得なかった。
布都ちゃんならしょうがない。
ただ排泄ネタがあるので、
それらしいタグを付けといた方が良いかとも思います。
あ、神子様のうんこ飲んだ訳じゃないですよ。ほんとですよ。
大らかな時代だったんだろう。
まあ、変態は古今東西変わらないということかもしれませんね
マミヌエェ・・・
これは関連タグをつけておかないと、いただけませんね、スミマセン。
そして二段構えのドヤ顔www