湯気の立つコーヒーカップをテーブルに起き、椅子から立ち上がって窓に近づいた。十二月の冷たい風が、窓の隙間から入ってきて体を冷やす。サッシの窓枠には隙間などないように見えるが、実際はどこかにあるのだろう。あるいはガラス自体が冷えて、外の冷たさを伝えているのかもしれない。
ガラスには一面の水滴がついて曇っていた。家の中を温める暖炉の熱が、ガラスの表面で冷やされているのだ。暖炉の火は二時間前につけた。中にくべた薪がパチパチと火花を散らし、家中に春のような暖かさを伝えている。
窓についた水滴の曇りを右手の人差し指で拭った。指先が冷たく濡れる。体は暖かい空気が染み込んでぽかぽかしていたはずだが、指についた水滴の冷たさが腕に伝わり、背中から足先まで抜けた。
「きゅっきゅっ」と摩擦音を小さくたてながら、さらに拭う。拭った部分だけ、ガラスから曇りが取り除かれた。透明になった先に映る外の景色を見る。
雪が降っている。曇天の空から音もなく静かに降っている。綿毛のような雪だった。ふわり、ふわりとわずかに軌道を変えながら、夏には向日葵畑となる広大な地にゆっくりと落ちていく。地面は積もっている雪で既に白い。それは白よりも綺麗な白で、まるで新品のノートを広げたかのようだった。ここ数日の幻想郷は、そんな景色に覆われていた。
「ごめんください」
突然、凛とした声が聞こえてきた。どこかで聞き覚えのある声だった。誰だっただろう。軽く記憶を遡ってみても浮かばなかった。落ちゆく雪の粒を追っていた瞳を玄関に向けて、口を開く。
「どちらさま?」
一瞬、間が空いてから、
「紅魔館でメイドをやっております、十六夜咲夜です」
と、言葉が返ってきた。そこでようやく想起される、その姿。
「あぁ、貴方ね。ちょっと待ってちょうだい、今開けるわ」
窓から離れて、玄関扉の前に立つ。まだ冷たい感覚が残っている右手でドアノブを掴み、金属の冷たさを手のひらで感じながら、ガチャリと回して扉を開けた。そこには美しい銀髪をした一人の少女が立っていた。
「花の異変以来ね、十六夜咲夜」
「ええ、お久しぶりですわ、風見幽香」
口元まで覆っていた赤のマフラーを引き下ろし、息を白く染めながら咲夜は微笑んだ。
十六夜咲夜は紅魔館という、吸血鬼が棲まう館に務めている唯一人間のメイドである。彼女とは今年の春に起きた『花の異変』をきっかけに初めて出会った。その時に一度だけ弾幕を交えたこともあり、時を操る能力とナイフを武器にした変幻自在の立ち回りに珍しく苦戦した記憶がある。そんな出来事と後記する奇抜な服装のせいか、基本的に自分以外の他者の印象など頭に残さない幽香にとって、彼女は紅白の巫女と白黒の魔女に並んで特に印象深く残っている人間の一人だった。
彼女の恰好は首に巻いているマフラーを除けば、以前会った時とほぼ同じだった。即ち青を基調としたワンピースにフリルのついた白いエプロンドレス。加えて頭につけた同じく白いフリルをこしらえたカチューシャだ。これがいわゆる「メイド服」というものなのだろうが、今の時期を考えるともう少し厚着をした方が良いのではないかと幽香は思う。顔の頬やミニスカートからすらりと伸びた足の白い肌は、寒空の中を飛んで来た所為か、ほんのり赤味を帯びていた。
「それで、今日はわざわざ私の家にまでやって来て、一体何の用?」
そう訊ねると、咲夜は紺青色の瞳を幽香に据えて答えた。
「枯れてかけている花を、治してほしいのです」
幽香は怪訝に目を細める。
「枯れてかけている花?」
「ええ。紅魔館の庭園の花で、昨日まで元気に咲いていたんですけど、どういうわけなのか、今朝になって急に枯れてだしたんです。他の花は元気なのに、その花だけが」
それを聞いた瞬間、幽香の中で嫌な予感がよぎった。
「……何か悪い病気にかかってしまったのかもしれないわね。枯れるにせよ、急に枯れることなんて、まずあり得ないもの」
そう、まずあり得ない。
咲夜も頷いて同意する。
「確かに。しかし、病気にしては一つだけ奇妙な点があるんです」
「奇妙な点?」
訊きかえすと咲夜は凛然とした表情を曇らせた。間をおいてから、低い声で答える。
「その花、一斉に枯れだしたんですよ」
「一斉に……?」
「ええ。庭園を管理しているのはうちの門番なんですけど、今朝その子が庭園を見回りしていた時に、その瞬間を目撃したらしいんです。曰く『寸分違わぬタイミングで一斉に枯れだした』と」
「なるほど、ね……」
幽香は玄関扉の縁に肩を預けると、視線を落とし、小さく溜息をついた。ほとんど悲しい気持ちだった。目の前の咲夜は不可解そうに話しているが、何百年という永い年月を花と共に生きてきた自分にはその現象に覚えがあった。なぜそうなってしまったのか、その答えが悲しく、辛いものであることも……。
「幽香?」
問いかけるように、咲夜が声をかけた。
「どうしました?」
その言葉で、幽香は一瞬はっとした。視線を戻すと、咲夜は訝しげな顔を斜めに傾けて自分を見つめている。顔を傾けた時につられて動いたであろう二つのおさげが、まだ微かに揺れていた。
「いえ、ちょっとその現象に心当たりがあったから。もしかしてと思って」
内心わずかにうろたえながら冷静に言葉を返す。
「そう。なら今回の問題、解決できそうなのね?」
安心したような咲夜の微笑みが、心苦しい。
幽香は姿勢を正し、手のひらを上に向けて首を横に振った。
「それはまだ分からないわ。直接その花の様子を確認してみないことには、ね」
「なら今すぐ館に来てもらえるかしら? あんまりゆっくりしている暇もないので」
「勿論。花の為ですもの、行かせていただくわ」
暖炉の火を消し、窓のカーテンを閉めきって、幽香は玄関の傍にある傘入れからいつもの日傘を手に取る。その傘を広げて宙に浮くと、咲夜を先頭にして雪の降り続ける空へと飛翔していった。
道中、眼下には真っ白に染まりきった太陽の畑が広がっていた。今の時期、幽香にとっては見慣れているはずのその光景が、この時だけは、いつもよりもひどく哀愁に満ちていているように感じられた。
◇
この日は風がないかわりに、体の芯から冷えるような寒さだった。空は相変わらず一面に灰色の雲が覆っており、太陽は見えない。そのせいで外は日中にもかかわらず薄暗い。生命が表に出ない幻想郷は地上も空も静かで、まるで自分と前にいる咲夜だけが「誰もいない幻想郷」のような、そういう断絶された別次元の世界にいるような寂しさがあった。
白いブラウスの生地を突き抜けて、冷えた空気が幽香の体を冷やす。比較的寒暖に強い妖怪の皮膚感覚でさえ寒いと訴えるこの日の寒さ、人間である咲夜ははたして平気なのだろうか。気になったので訊ねてみると、彼女は首を横に振って肯定的な態度を見せた。
「実を言いますと、あまり寒くないんですよ。むしろちょっと暑いくらいですね」
「なんですって?」
驚く隣で咲夜は説明を続ける。
「時を止めた『空間』――つまりは『空気』なんですけど、それで肌をコーティングしているんですよ。こうすることで吹きつけてくる冷気をガード出来て、ある程度の防寒になるんです。ちなみに今纏ってる空気は暖炉で暖まったリビングから持ってきました」
「器用なやつね。ちょっぴり羨ましい」
「あなたは花を纏えばいいじゃないですか」
思った事をそのまま口にした時、咲夜はそんなことをあっけらかに言ってきた。
「意外と保温性があって温かいかもしれませんよ。雲の上でだって花を咲かせられるあなたの能力なら、それも可能でしょう?」
幽香は顔をしかめた。
「そんなくだらない用途の為に、この能力をもってるんじゃあないわよ」
「ふふっ、冗談ですよ」
まるで冗談じゃなさそうに言って、咲夜は笑う。このメイドはどこか天然の気があるのではないかと、このとき幽香は思った。
それからしばらく飛び続けていると、眼下に霧に覆われた湖が現れた。一面凍っているらしく、二匹の妖精がスケートのように氷の上を滑りながらはしゃいでいる。と、次の瞬間、内一匹が盛大に転んで割れた氷の中に落ちた。畔で釣りをしている太公望たちがそれを見て笑い声をあげた。
「氷精は相変わらず元気ねぇ」
「まぁ冬ですしね。そんなことより、もうまもなく館に着きますよ。この湖を越えた先に正門がありますから、そろそろ下っていきましょう」
そう言って咲夜は霧の中へ緩やかに降下していく。幽香もそれに続いた。
やがてうっすらとした視界の先に、一軒の建物が見えてきた。古びた洋風の館で、白い景色の中において、その赤よりも紅い煉瓦の外装はとても目立った。左端にある時計台の針は午前九時を指している。
幽香たちは正門の前でふわりと降り立った。誰かが除雪したのか、付近の地面は土が露出していた。右手の外壁の傍では、咲夜のメイド服とはまた違った異国の服を着た者が雪かきに勤しんでいた。咲夜が「美鈴」と呼びかけると、その者は動きを止めてこちらに振り返った。
「あっ、咲夜さん。おかえりなさい」
美鈴と呼ばれた少女は明るい声で返事をして、雪かきに使っていたスコップを地面に突き刺すと、赤の長髪をなびかせながら小走りして幽香たちに近づいてきた。
「ただいま、美鈴。今まで雪かきしてたの? お疲れ様」
「ええ、まぁ、そろそろ積もりすぎて邪魔になってきましたからね。ところで後ろにおられる方は……」
幽香を一瞥しながら訊ねる美鈴に、咲夜よりも先に口を開いて答える。
「はじめまして。貴方のところの庭園で枯れかけている花を治してほしいと、隣のメイドに依頼されたものだからやってきたの」
「風見幽香。花の造詣に詳しい彼女なら、きっと問題の花も治せると思ってね」
咲夜が付け加えるように言うと、美鈴は「なるほど」と頷いた。直後、何かに気づいたように慌てて幽香の方に体ごと向ける。
「あ、失礼しましたっ。はじめまして幽香さん。私、ここの門番をしております『紅美鈴』と申します。今日はわざわざおこしくださってありがとうございます」
言い終わりに握手を求められ、幽香も右手を出してにこやかに応じた。
「そうかしこまらなくていいわ。自分の意志で来たのだから。ところで、その問題の花はどこにあるのかしら?」
「美鈴、案内してあげて」
目配せして言うと、美鈴は表情を真剣にさせて「はい」と返事し、厳格な門を開けて幽香たちを中に入れた。
庭園は門をくぐった先に広がる一面の土地がそうだった。館の正面玄関まで一本道に整備された道路沿いには色取り取りの花が咲いており、それを正方形に囲った生垣がいくつも並んでいる。それらには雪が薄く覆っていて、色がくすんで見えた。けれど花の香りは、頬を突き刺すような冷たい空気を伝って鼻腔まで届き、確かな香りとして感じることが出来る。そのことから、庭園を管理している美鈴がしっかり手入れしていることが伺われた。
美鈴に案内されたのは、正面玄関を目前に右へと曲がった先、庭園の角に位置する場所だった。そこにも生垣があり、中で花が咲いていた。だが実際には花びらが茶色く変色して萎れており、殆ど枯れているに等しい状態だった。まるでその花たちが本来の色を忘却してしまったかのようで、元気に咲いている他の花と比べると、そこだけ色褪せた寂しい光景に見える。幽香は一目見て、これらが問題の花であると理解した。
「咲夜さん、お願いします」
到着してまもなく美鈴が言った。咲夜は「ええ」と短く返事をして、どこからともなく銀色に輝く懐中時計を取り出した。それを親指で押して開き、花の前に立つ。
「『LUNA DIAL』――時は動き出す」
カチリ。
魔法を解くような言い回しで呟き、止まっていた秒針が再び動き出す音が鳴る。すると次の瞬間、時間を加速させたかのように花が物凄い勢いで萎れ始める。元々が枯れていた分、美鈴が「ああっ!」と短い叫び声を上げる間に、花は完全に枯れ果ててしまった。
「あぁ~……せっかく『氣』を注いでおいてたのにぃ……」
「『氣』って?」
肩を大きく落として嘆く美鈴に、幽香が訊ねた。
「そのままの意味ですよ。『エネルギー』とも言えますが……。この花たち、あっという間に枯れてしまうものですから、慌てて私の生命エネルギーを送り込んで延命させていたんです。それでも枯れの進行が止まらないから、パチュリー様と咲夜さんにも協力していただいていたんですが……」
「私が時を再始動させた瞬間、状態を維持させていたエネルギーが霧散してしまったみたいね。まるで花が生きることを拒否しているみたい。やれやれだわ」
落胆したように手のひらを上に向けながら咲夜が言った。
「でもまだ治る見込みはあるかもしれませんわ。幽香、一応診ていただける?」
「ええ……」
歯切れの悪い返事をして、幽香は花に近寄っていく。その足取りは重い。スカートが生垣に触れるくらいまで近づくと、そこから腕を伸ばし、枯れた花びらに指を触れる。瞬間、カサリと乾いた音が小さくたてて、花びらはぽろりと地面に落下した。
「……っ」
幽香は悔しげに目をつむり、指先に花びらの感触が残る手を握りしめた。
分かってはいたが、やはりそうだった。ここに来る前に感じていた嫌な予感は的中していた。自分の周りが静寂に包まれ、他に元気に咲く花々さえも灰色に塗りつぶされたような気になった。いっそ崩れ落ちて泣き出してしまいそうになったが、咲夜たちがいる前でそんな醜態を晒すのは憚れた。まだ、それだけの理性は残っていた。
「幽香、花は……?」
咲夜の声だ。その問いに、幽香は背を向けたまま左右に首を振る。
「……残念ながら。もう死んでしまっているわ」
「うう……」
小さな呻き声が聞こえてきた。
「咲夜さん……私、お嬢様になんとお詫びしたらよいのでしょう……。せっかく庭園の管理を任されていたのに、これでは……」
「大丈夫よ。今回のことは美鈴のせいではないと、私からもお嬢様によく言って伝えておくから。だからほら、もっとシャンとする!」
「でも……」
美鈴がどんな表情をしているのか、その沈んだ声から大体想像できた。庭園を管理していたのは彼女だ。これまでにもそれなりの責任感をもって花を世話してきたに違いない。それがこうした事態になってしまったことで、深く自分を責めているのだろう。幽香にはそんな彼女の気持ちが、痛いほど理解できた。
「幽香」
不意に咲夜が話しかけた。
「今回こうなってしまった原因は、一体何なのでしょう?」
「…………」
葉に覆う雪を払っていた指先をぴたりと止めて、幽香は口をつぐむ。説明することが躊躇われた。言ったところで果たして咲夜たちに理解してもらえるか分からなかったし、事実を話すこと自体も、自分にとってはとても辛く、勇気の要る行為だったからだ。
だが真実を伝えるためにここに呼ばれたならば、きちんと説明する義務が自分にはある。その覚悟も既に決めている。なにより、美鈴の気持ちを少しでも晴らしてやりたい。そんなことを思って、十数秒の沈黙を経た後、幽香は静かに口を開いた。
「……『自殺』よ」
「「え?」」
咲夜と美鈴の呆然とした声が重なった。
一瞬間が空いてから、まず咲夜が言う。
「ちょっと待って、どういう意味です? 自殺って、これは花ですよ?」
「花だって人間と同じ生命を宿した生物よ。生物であるならば、感情や性格といった概念も当然有している。あなたたちには到底認識できない次元にある事柄だけどね」
「じゃあ、なんで自殺なんかを……」
続いて言ったのは美鈴だ。幽香は噛み締めた唇を開いて答える。
「今の時期にはね、割とよくある事なのよ。四季によって花の性格は様々なんだけど、中でも冬の花は繊細で儚い子が多いの。悪く言えば傷つきやすく、陰湿でネガティブ。だからなんかの拍子で心を乱しちゃうと、すぐ生きる気力を失くして自分から命を断っちゃったりするの。今回の花も、人間でいうところの『微熱』程度の病に滅入って枯れてしまったのかもしれない。……だから」
大きく体を翻して美鈴の方を見た。深い自責の念に押しつぶされそうな悲痛の表情を浮かべていた。花が枯れてしまったこと自体に悲しんでいる風にも見えた。思えば出会った当初から、彼女は明るさの裏でそんな陰りをみせていた気がする。幽香たちがここに来るまで雪かきをしていたのも、そういう沈んだ気持ちを紛らわせるためだったのかもしれない。その事に密かに親近感を覚えていた幽香は、ふっと笑んだ。
「……だから咲夜の言うとおり、今回の事は貴方の責任ではないし、特別気に病むことでもない。紅美鈴、貴方はここの庭園の世話を立派に果たしているわ。漂う花の香りと、綺麗に整えられた光景を見れば、それがよく分かる。花を愛する同志として、私は貴方に敬意を表する」
「幽香さん……」
最初、言われた美鈴はしばらく呆然としていた。しかし、雪が太陽の光を受けて少しずつ溶けていくように、次第に理解が追いつくにつれて目を潤わせていった。最後には満面の笑顔を浮かべ、大きく頷いた。
「はいっ、ありがとうございます!」
「ふふっ。美鈴、もしかして泣いてる?」
いじわるく顔を覗き込む咲夜に、美鈴は慌てて手の甲で目をぬぐった。
「なっ、泣いてなんかいませんよっ!」
「そう、ならいいけど……門番たるものがいつまでも門を空けとくつもり?」
「あっ!」
若干赤くなった目を大きくして、短く叫ぶ。
「す、すいませんっ! いますぐ戻ります! あっ、幽香さん、今日は本当にありがとうございました! その、いつか機会があったら花の育て方を指導してくださると嬉しいです……。それでは!」
龍の字を冠した帽子を落としそうになりながら何度も礼をして、美鈴は走り去っていく。
「まったく、分かりやすい子ね」
彼女の姿が見えなくなった頃になって、咲夜が苦笑交じりに言った。
「でも良い子じゃない。花の事を想って落ちこめるなんて、なかなか出来ることじゃあないわよ? それだけ責任感があるって証拠だわ。まさに門番にぴったりね」
「どこぞの鼠には何度も侵入を許してしまってるんですけどね……。まぁでも身内をそれだけ褒めていただけるのは、私としても嬉しい限りですわ」
「ところで……」と、咲夜は静かな笑みを消し、幽香の方を見た。
「どうしてあなたまで泣いてるんです?」
はっとした。慌てて目を拭ってみると、手の甲に冷たいものがついていた。それが涙だと認識した瞬間、既に頬にも冷たい線が伝っていたのに気づく。
「い、いつのまに?」
「たった今ですよ。自分で気付かなかったんですか?」
「そっ、そんなこと……!」
今まで冷えていた自分の顔に、急に熱が帯び始めていくのを感じた。恥ずかしいという感情が頭の中でグルグルと渦巻き、胸がきゅっと縮まる。
たまらず咲夜に背を向けた。肩にかけた傘の柄を斜めに傾けて、冷たい空気が張り詰めた寒空を見上げる。顔にいくつもの雪粒が落ちてくる。それが今一番熱を帯びている頬に触れた瞬間、音もなく溶けて、水滴となった。
これが、涙だと誤魔化せればいいのに。同じ個所に着地して溜まった水滴が、重力に従って涙のように流れ落ちていくのを感じながら、そんな事を思う。
「はぁ、やだやだ、辛気臭い。これだから冬の花って嫌なのよねぇ」
「あら、あなたがそんな事を言うキャラだとは思いませんでしたわ。てっきりこの世に咲く花は等しく愛しているものかと」
咲夜が意外そうに言うと、幽香は顔を下ろし、
「そりゃあ、まぁ、基本的にはその通りよ。でもね」
溜息をつく。
「……でもね、どれだけ好きなものだろうと、どうしても嫌ってしまう時だってあるのよ。冬の花に対しては特に、ね……」
言い終えて、ひらひらと落ちゆく花びらを見つめる。
「そういうものですか」
「そーゆーものよ」
さして気に留めない様子で言う咲夜に視線を移し、幽香は儚げに笑ってみせた。
「ま、今のは見なかったことにしてあげましょう。それよりもそろそろ花を治してくださります? 私もそろそろ館に戻って、仕事をさぼってる頃合いの妖精メイドたちに喝をいれてあげないといけないので」
「分かってる。でもその前に一つだけはっきりさせときたいんだけど、今から私がすることは枯れた花を『治す』ではなく、正確には新しく花を『創る』ことの方よ」
幽香の能力をもってすれば、枯れてしまった花を蘇らせるなど造作もないことだ。けれどいま咲夜に釘をさすようなことを言ったのには、自分が常に掲げている『ある理念』に依る所が大きかった。
その理念とは、『無駄に花の生死を操らない』というものだ。花だって生き物。人間や妖怪と同じように、生命を宿して生きている。そんな彼らの命を自分ごときが操作するのは、彼らの生命に対する『冒涜』に等しい行為である。だから傷ついた花を癒すことはしても、一度死んでしまった花を生き返らせるようなことは決してしてこなかった。
「それに花は土に含まれる僅かな色を集めることで美しく咲くもの。逆に花が散った時は、また土に還して色を還してやらなければならない。だから、今残っているものは全て塵にしてしまうけれど、それでも良いわね?」
両手を前に添え、身体を微動だにせずに直立している咲夜は口だけを動かして、
「ええ。結果的に花が元に戻ってくれさえすれば、特に私から言うことは何もありませんからね。なによりも貴方の意思を尊重し、全てをお任せしますわ」
「よろしい」
その返事に満足して、幽香は生垣の方に振り返る。
生垣に囲まれた中に、花と呼べるものは既に消え去っていた。今、幽香の瞳には、白く褪せた緑の群生しか映さない。それによって元々落ち込んでいた気分がさらに暗く、深く、沈み込んでいくのを感じた。
「……寂しい姿に、なっちゃったわね」
すぐ後ろにいる咲夜にすら聞こえないほどの小声で、ぽつりと呟く。
ここに咲いていた花は、昨日までどんな形をしていたのだろう。どんな色をつけ、どんな匂いを漂わせ、館の住人を楽しませていたのだろう。それらを思い浮かべること自体は、朝起きて深呼吸するのと同じくらいに簡単なことだ。目をつむり、少し頭を働かせて想像してみるだけでよい。こうするだけで、頭の中でかつての彼らと会う事が出来る。
けれどそれは、所詮「こうだっただろうな」と思い描いただけの妄想にすぎない。実際には見てないのだから当然だろう。元気に咲いていた頃の彼らの形、色、匂い。そういういわゆる『本物の姿』を、幽香は知らない。そう考えると、また無性に悲しく、泣きたい気持ちに駆られた。
葉の下に指を添える。するとその葉から全体へ、生垣の中で生い茂っていた緑の群生が、花と同じようにたちまち枯れ、その姿を縮めていった。指で触れた葉から能力による『強制的な成長の過剰促進』を与えたためだ。
数分して元植物だったそれらは茶黒い塵と成り果てた。今まで花で覆われていた地面は穴が空いたようにぽっかりと正方形のスペースができた。その中心に、塵が極小の山として積んでいる。わずかに吹いてきた風によってそれが崩されると、一面の地にサラサラと広がっていった。
次に幽香はおもむろに傘を閉じ、先端を塵で黒く染まった地面に向けた。そして柄を握った手のひらから傘に流し込んだ霊力を、先端から緩やかに放出させる。その霊力はほのかに温かみを帯びており、柔かな光を放っていた。それが地表にかぶさってじんわりと地中に染み込むと、今度は地面自体が黄金に輝きだす。その直後に無数の芽が地面から飛び出し、瞬く間に成長していく。新生した緑の群生に点在する蕾も次々と開花していき、最終的には彩り豊かな一つの花壇が出来上がった。
「これでよし、と」
やがて地表の輝きが完全に収まった頃、幽香は再び傘を差して振り返った。
「花の件は、これでいいかしら?」
「ええ、あとの事は美鈴に任せますわ。ありがとうございます」
それまで直立不動でいた身体を曲げて一礼した後、咲夜は両手を前に添えたまま足を一歩二歩とゆっくり踏み出し、幽香の隣に並んで花を眺めだす。
「ようやく一件落着ね。これでお嬢様もお喜びになられるわ」
言い終わりに溜息が漏れる。立ち上る白い湯気が漂い、幽香の視界の端に映った。ふと横に視線をやると、咲夜は目を細めながら嬉しそうに笑みを綻ばせているところだった。その表情には、心労から解き放たれたような安心感も滲ませているように見えた。
恐らく今回の件は、この館の主であるレミリア・スカーレットの命令でもあったのだろう。だから彼女にとっては、花が元に戻ったことの嬉しさよりも、主の命令を無事に完遂できたことに対する安堵の方が何倍も大きいはずに違いなかった。
「まったく、朝っぱらから苦労してるわね、貴方」
苦笑しながら幽香が言う。
「今回の件は、あのお嬢様に命令されての事でもあったのでしょう?」
その問いに咲夜は顔の向きを変えずに、
「ええ。お嬢様は二階のテラスで庭園の花を眺めながらティータイムを過ごされるのがお好きなので。特にテラスに一番近いこの一角がお気に入りなんです。だから花の不調を知らせた時は、すぐに治すよう命じられました」
「大変ね、貴方も、美鈴も。毎日そんな感じでお嬢様に振りまわされているわけだ」
いじわるに言うと、そこで咲夜は幽香に視線を移す。
「そうでもないですよ」
頬から顎にかけてのラインがすっきりした顔に、彼女は笑みをさらに濃くして言った。
再び花の方に視線を戻してから続ける。
「まぁ他人からしたらそう見えるのでしょうね。でも別にそれが大変だとか辛いだとか、そういう風に思ったことは一度もありません。貴方が今回ここまで来てくれた理由と同じで、私も美鈴も、自分の意思でやっていることですから」
幽香は溜息をつく。
「見上げた忠誠心ね。貴方がどのようにしてレミリアに魅了されてきたのか、一度伺いたいもんだわ」
すると咲夜は小さく笑って、
「取るに足りない話ですわ。話すにしても事の顛末が長すぎて、途中で飽きてしまわれるでしょう」
「あ、そう。なら止めとくけど……」
幽香はあっさり引き下がって、ふと別に思いついたことを口にする。
「代わりに聴くけど、そんなにあのお嬢様が大切な存在なら……貴方、今のままで良いと思ってる?」
咲夜は眉を微かにひそめさせ、幽香の方を見た。
「どういうことです?」
「貴方は人間でしょう。短い年月で死んでしまう脆弱な生き物。大切な人と共に過ごせる時間も、私やレミリアのような妖怪からしたらたったの一瞬の事。そんなの寂しいとは思わない? そう、例えば、永遠を生きてみたいとか思ったりしない? 最近になって生を永遠にする技術を持つ者が竹林に住み始めたという話を聞いたけど、そいつらに頼めば、もしかしたらレミリアと永遠に……」
「駄目ですよ」
捲し立てるような幽香の話を、咲夜は口を滑り込ませて遮った。
「それは、駄目です」
もう一度言った。冷たい空気が張り詰めている中で、その声は水面に広がる波紋のように澄んで聞こえた。口角を微かに上に動かし、幽香から視線を外して、再び花の方を向き直る。その顔を俯き加減して、目を瞑る。
「そんなことをしてしまったら、人間でなくなってしまったら、お嬢様を恐れる事が出来なくなってしまいますから」
「それに」と咲夜は続けて、
「もし永遠を生きることで、お嬢様を敬愛するこの気持ちと感情が摩耗してしまうのなら……私は一生死ぬ人間のままでありたい。十六夜咲夜という一人の人間として、たった一つしかない有限の生を謳歌したい。そう想っています」
その語りは、まるで幽香だけでなく、彼女が自分自身に対して言い聞かせているようにも聞こえた。すると急に胸が春のように暖かくなるのを感じた。突然起こったその意味を考える前に、いま咲夜から感情が読み取れるの唯一の部分――レミリアの事を語る、微かに上がった口角――そこから幽香は、ある一つの事を想像しだした。
咲夜はレミリアに恋をしている。それは一般的で単純な恋愛感情ではなく、もっと複雑的なもの。彼女がレミリアと出会ってから、長い年月を経てきたことで膨大な形となった、もう一つ上の次元にある想い。それが具体的にどんなものなのかは、咲夜の過去を知らない自分にはとても語れることではない。けれど、いま隣にいる銀色少女がスカーレットに恋しているということだけは、確信して想像できた。
きっと咲夜は、己の気持ちをまだレミリアに口にしたことはないのだろう。告白だなんて、そんな出来過ぎた行為を自分がしていいはずがないと思っているのかもしれない。ただ一人の従者として、態度と行動だけで恋慕の情を示しているのかもしれない。それは無言の恋。敬意と慎ましさに包まれた、その想いを秘める彼女はまるで……
「月見草ね」
ぽつりと幽香は言った。それに咲夜は瞑っていた目を開けて、「はい?」と呆ける。
「いや、貴方に合いそうな花を想像していたの」
この時、幽香は胸が急に暖かくなったことの意味を理解した。妙にスッキリとした気分だった。沈んでいた気持ちが完全に晴れたというわけではなかったが、それでもある一つの決心を固められるくらいには、元気を取り戻していた。
「ありがとう、咲夜」
咲夜に対して正面に体を向け、幽香は言う。
「貴方のおかげで、今まで悩んでたことが多少晴れた気がするわ」
「いつの間に相談に乗っていたのでしょう?」
もうわけが分からなそうに、咲夜は呆れた様子をみせる。
「さあ。貴方と再会してからずっとかしらね」
踵を返し、幽香は咲夜に背を向けた。
「さてと、用件も終えたことだし、私はもう帰るわ。また近い内に様子を見に来てあげる」
そう言って白く染まった地面から足を離し、体ごと宙に浮く。靴裏にひっついた雪が、それに合わせてパラパラと落ちていく。咲夜のお礼と別れの言葉に適当に相槌をして、空に昇っていく。九時半を示した時計台と同じ高さまで上昇すると、体を家の方向に返して横に飛びだした。
その道中、幽香は死んでしまった花の事を思い出していた。予定調和のように気持ちが暗く沈みはじめる。
幽香は冬の花が好きではなかった。言い換えれば、怯えていたのだ。自分にとって花とは愛する家族であり友達。周囲にそう呼べる者がいない自分にとって、彼らはかけがえのない大切さを孕んだ最上の存在。そんな彼らの自殺を目の当たりすると、いつも全身に傷を負った気がした。今まに見てきた死を思い出すと、心から血が噴き出してしまいそうになった。だから、彼らの死が怖かった。
はたして何度自殺を思い留めさせようとしただろう。けれど、どれだけ説得させたところで結果は変わらなかった。能力で無理やり止めても、結局彼らは死んだ。
その度に己の無力さを恨んだ。その憂さ晴らしとして他人を苛めたりもしてきた。これの何が『幻想郷最強の妖怪』か。何が『四季のフラワーマスター』か。そんなの周囲の人妖が勝手に貼り付けたレッテルに過ぎず、実のところ、風見幽香の名を冠する自分は、誰よりも心が弱いのだ。
けれど今日、花の異変以来に咲夜と再会したことで、気持ちは上向きに変わったように思えた。脳裏には咲夜が話していたあの言葉がいつまでも残っている。
『お嬢様を敬愛するこの気持ちと感情が摩耗してしまうのなら……私は一生死ぬ人間のままでありたい。十六夜咲夜という一人の人間として、たった一つしかない有限の生を謳歌したい』
あの言葉で、幽香は咲夜を「月見草」と例えた。淡い銀色の花びらを咲かせるあの花を、無言の恋に生きる少女に重ねて見ていた。
そこで気付いたのだ。彼女を花として見たならば、今回死んでしまった花と比べて決定的に違うのは、「生きることに前向き」であることだと。有限の生の中で懸命に生きる咲夜と、途中で投げ出すように命を断ってしまう花。種族は違えど、同じ生き物であるのに、こうも意志の温度差があるのかと、衝撃に近いものを受けた。
幽香は考える。こんど自殺しようとする花を見かけたら、今日の咲夜の話をしてやろうと。有限の生を強く生ききろうとしている人間の話をしてやろうと。そうすれば、納得して生き続けようと思い改める者も現れるかもしれない。
そのためには幽香自身も変わらねばならない。自分も改めて生命に感謝し、これからの永い生を謳歌していこう。花たちの繊細すぎる心が、彼ら自身の命の負担となってしまうのなら、自分もそれを共に背負って行こう。それこそが、四季のフラワーマスターである風見幽香に課せられた使命と責任だ。ただ花を一方的に愛するのではなく、隣に並びながら歩いていくように、共に流れゆく時を歩んでいかなくてはならない。
そんな風に思い改めて決意した時、胸が一層温かくなっていくのを感じた。
飛んでいた体を一旦止めて、目を瞑り、胸に手をあてて、静かに口から息を吸う。きんと冷えた空気が、喉を冷やして乾かす。そしてこくりと小さく息をのみ、喉を潤した。
目を開けると、いつの間にか雪が止んでいたことに気付いた。空を見上げると、一面に覆っていた灰色の雲は白みがかっており、その奥にある太陽の光がうっすらと照っていた。これから季節は、春に向かって勢いよく走りだしていくのだろう。そう思った。
再び空を駆けだした。家に帰って、また出掛ける支度をするために。今度はこちらから冬の花たちを愛でにいく為に……。
今年は、いつもよりもちょっぴり長生きしてくれればいい。
冬の花へ、幽香は願った。
プログラム細胞死などではなく、
花の「感情」といったものへの焦点を当てた考え方が面白かったです。
最初はてっきり咲夜さんに関係する物かなと思っちゃいましたw
文量を割いて丁寧に描かれる冬の描写が、冷たく切ない感じで胸に刺さります。