電車に乗っていると、早苗はいつも海を思い出した。
それは電車の規則的な揺れが、波のうねりによく似ているからかも知れないし、あるいはその揺れが、人の過去の記憶をも揺さぶるからかも知れない。
日曜日だからか、田園都市線といえど、さすがに乗客もまばらである。でも、夏休みの真っ盛りにしては、いささか少ないような気もする。
トンネルの中を通過している所為で、外の風景はまったく見えない。代わりに、早苗はじっとドアの窓硝子に映る自分の姿を見ていた。自分ながら頼りなげで、どこかまだ垢ぬけていないと思った。いかにもこの街になじめていないふうである。そうして窓外をおおっている人工的な暗闇をじっと見ているうちに、彼女はまるで人生そのものと対峙しているかのような息苦しさを感じた。
早苗は東京の生まれではない。彼女の生家は長野にある。そんな海とは縁遠い場所で育ったにもかかわらず、早苗にとって海が懐かしいのは、ひとえにそれが祖母との美しく、大切な思い出に繋がっているからだった。彼女はまだ海の神さまのことを憶えていた。のみならず、海は彼女の身体の一部に今でもしっかりとその痕をとどめている。同時に、それは思い出の鎖の一端だった。それをつま繰るだけで、様々のことがゆくりもなく思い出される。
もっとも古く、もっとも悲しい思い出のこと、海の美しい記憶、二柱の神さまのこと、それから、この前まで自分がそこで暮らしていたなんて、にわかに信じられないような、現実離れした楽園のこと……。
東京に暮らしはじめて早4ヶ月が経ち、時が過ぎゆくにしたがって徐々にその輪郭が崩れようとしている記憶たちが、今日に限って、どうしてだか愛おしい。早苗はそのわけを半分だけ知っていた。世間ではそれを予感と呼ぶ。
彼女にとって何とも惜しいのは、5歳のころの彼女が、予感の意味するところを正しく知り、大人たちに伝える術を持っていたならば、すべての事どもは起らなかったかも知れない、ということだった。でも、そう思うのは無駄だ。こうして彼女は東京にいる。そのことだけで、過去にifを付ける行為は、無意味だ。
ふいに、《次は、渋谷、渋谷》というアナウンスが鳴った。思い出に浸っていた彼女は、それでわれに返った。
ずっと真っ暗だった車窓に、つと曙光のような明かりが差し込んだ。早苗は少しだけ身構えた。街に呑まれる準備をしたのだ。これから海に潜ろうとする人が、呼吸を整えるかのように。外をくまなく満たしているであろう、太陽の殺人的な光と暑気を思うと、彼女はそれだけで気が滅入りそうだった。
This train will soon be arriving at Shibuya. This is the Hanzomon line bound for Kiyosumi Shirakwa. Thank you very much for using ……という英語のアナウンスだけが、東京の夏らしからぬ微風のように、涼やかに車内に響き渡っていた。……
□
もっとも古い記憶をたどれば、いつも窓辺を打つ銃弾のような音が思い出される。
その日は間違いなく雨だった。重々しい鈍色の空から、散弾銃の乱射のように激しく降り注ぐ雨粒は、今にもその透明な滴で世界をくまなく満たしてしまいそうだった。
地上に落ちては跳ねる雨滴の音、雨滴の襲来に震える窓硝子の音、遠くの方を走る車が、水たまりを跳ね上げて通過する音……そして、ときおり狂ったように吹く荒れている風の音などが、幼い早苗を恐怖におびやかしていた。
「いやだ! あたし、おでかけ行かない。ここでおばあちゃんとおるすばんする!」
早苗は目に涙を浮べつつ、そう両親に主張した。いつもならひどい雨風の襲来に際して、家族の誰よりもはしゃいで喜ぶ彼女にしては珍しいことだった。
「困ったわねぇ……」と、早苗の母は頭を抱えた。「これじゃあ、みんなでお出掛けできないじゃない」
「いいさ。お出掛けと言ったって、そんな遊園地に行くような大層なものじゃないんだから。ショッピング・モールに行くくらい、わざわざ家族全員でぞろぞろと行く必要もないさ。そもそも、予定にもなかったことだしね」と、その夫がたしなめる。
早苗の一家は、その日、街ひとつ越えた田舎に一人で住んでいる祖母の家に遊びに来ていた。早苗は四人家族の長女である。彼女が一番年齢が低い。それで、彼女の兄はよく早苗をからかった。
「雷も鳴ってねぇのにびびるなんて、早苗は赤ちゃんみたいだなぁ。俺なんか、全然びびってないもんね」と、兄はわざと大きな声ではやし立てた。その癖、彼は雷が大の苦手だった。
「うるさい!」と、早苗はささやかな雷を落とした。
「まあまあ、そんな兄妹で喧嘩なんてしないで。ええよ、早苗ちゃん。ここで私と二人でお留守番しても……」と、祖母がやんわりと口を挟んだ。
夫に先立たれた彼女は、寂しさの所為もあってか、自分に懐いてくれる早苗のことが可愛くて仕方ない。かつては神社で風祝の役職を務めた彼女であったが、今はもうその面影もなく、ただ生きてきた年月を皺として顔に刻みこんでいるばかりである。
早苗の父は懸念そうに窓の外を眺めていた。それから、老いた自分の母親の方をちらと偸み見た。彼女は早苗に構うのに夢中らしく、その視線には気付かないふうである。彼はまた視線を窓辺に戻した。そして、やや苛立ったように小さな舌打ちをした。
彼の心を悩ませているのは、やむ気色のない雨ではなかった。風だった。無際限に怒りをあたりにぶちまけるような風が、彼の心を不安にさざ波立たせていたのである。今日の風は、どこかおかしい。
早苗の父は母親の霊験あらたかな血を十全に継いではいなかった。だから、彼には風の声は分からない。それでも、絶えず何か厭な予感がしていた。彼は、自分が迷信と深くかかわりすぎている家系に生まれたことを憾みに思った。これは彼の人生で二度目である。一度目は、当時風祝だった母に、お前には才能がないと、厳しい表情で告げられたとき。そして二度目は今である。
けれど、その母にも風の声はまったく耳に入らないらしい。ただ早苗だけが、さっきよりもいっそうの激しさで泣きじゃくっている。――
父は、そんな早苗の様子を少しだけ不審に思った。
「おふくろ」と、彼は思わず言った。
「何さね、今、ちょっと手が離せないのよ。おぉ、よしよし、早苗ちゃん、そんなに泣かなくても、おばあちゃんが付いているからね。心配しないで……」
彼は唇を噛んだ。
「あなた……」と、妻が心配そうに言った。
その声で、彼はそもそもの問題の馬鹿馬鹿しさに立ち返った。
「いや、いいんだ。だが、それにしても車に積み込んだはずの食料品がすべて消え失せているなんて、今日に限って奇妙なこともあるものだ。まるで、神隠しにあったみたいに。……いや、お前の所為じゃないさ」と、彼は申し訳なさそうに表情を翳らせた妻に、快活に言った。「そういうわけで、買い物には僕が一人で行くよ。お前はおふくろと、息子と娘をよろしく頼む」
「俺も行く!」と、早苗の兄がすかさず言った。
父親は一瞬ばかり、困った表情をした。けれど、断る理由も見付からない。風は相変わらず不気味に荒れている。だが、その不気味さとて、ただ自分の杞憂にすぎないかも知れない、と彼は思い直した。それに俺には、そんな才能などないのだ、と。
「おお、いいぞ。だが、お前の目的はおもちゃ売り場だろう」
父は息子の期待に輝く瞳に、にやりと笑った。
「え、だめ……?」と、兄の方は急に顔を曇らせた。
「いいぞ、おもちゃ売り場には連れて行く。ただし、一個だけしか買ってやらないからな」
「やったぁ!」
「いやだ! お父さん、行かないで!」と、早苗が狂ったように泣きわめいた。その様子はどこか病的だった。
早苗以外の家族の全員が、困り果てたように目と目を見交わした。父は、ふむ、と手を顎に当てる仕草をし、母はそんな夫の顔色をうかがった。兄はあからさまに軽蔑の色を浮べていた。祖母もやや手に余るといったように、早苗をなだめていた。
「あなた……」と、母親が何か言おうとした。
けれども彼は、それをさえぎった。そうして、彼は早苗と同じ目線になるようにしゃがみ、早苗の小さな頭をなでながら、穏やかに話しはじめた。
「早苗、そんなに心配がらなくてもいい。守矢の、二人の神さまの話はおぼえているね?」
「うん、でも……」、早苗の目にはまだ涙がたまっている。
「大丈夫だよ。いつも言っているだろう、信じていれば、その二人の神さまは必ず守ってくれるって。僕のことも、もちろん早苗のこともね」
「じゃあ、そのかみさまは、こわい風も止めてくれる……?」
「安心しなさい。その二人の神さまのうち、一人は風の神さまだからね。きっと、この酷い風もじきになんとかしてくれるよ」と言いながら、彼は窓の方へと視線を上げた。
風はなおも荒れ、吹き飛ばされた雨滴たちは飛沫みたいに、窓硝子にうち散っている。横なぐりの雨がじきにやむ気配はない。
「ほんとうに、かみさまは風とめてくれる……?」と、早苗は父の懸念を読み取ったように、ふたたび言った。
「大丈夫だ」と、彼は早苗の頭を、さっきよりいくらか強めになでた。「母さんとお祖母ちゃんの言うことをよく聞いて、いい子でお留守番しているんだよ」
それから彼は息子をつれ従え、
「じゃあ、行って来るよ」と、いつもと変わらない調子で言い、家を出た。
早苗はそのときの父親の背中を、奇妙なまでに鮮明に憶えている。白いセーターを着た、大きくもなく小さくもない背中。最後に見た父と兄の姿は、そのとき目に涙を浮かべていた所為で、滲み、ゆがんで見えた。……
酷い雨と風の所為で、ハンドルを切り損ねて横から突っ込んで来た車に巻き込まれての事故死だと、あとで早苗は母親から聞かされたけれど、その当時はまだ幼かったから、そんな詳しい事情までは教えてもらえなかった。ただ、父と兄が死んだという事実だけがそこにあった。「仕方のない事故だった」と、誰かが言った。
「明日からもうお父さんとお兄ちゃんに会えないんだよ」と、耳元ですすり泣く母親に肩をつかまれて小さく揺さぶられたけれど、幼い早苗には何が何だかさっぱり分からないまま、すべてが勝手に進んでいるようだった。まるで早苗に事態を理解させる暇さえ、与えまいとするかのように。
棺のふたが閉じられたとき、早苗は急に胸がたまらなく苦しくなった。けれども、涙を流すには、ほんの少しばかり遅すぎた。
□
風祝は神職のひとつである。かぜはふり、と呼ばれることもあれば、かぜほうり、と呼ばれることもある。
その名がしめす通り、風の神を祀り、風を鎮める役割を持つのだが、数ある神職のうち、風祝を命じている神社は非常に少ない。早苗の生まれた守矢神社は、その数少ない神社のひとつである。
文献に風祝が登場しているものの中で有名なのは、源俊頼の詠んだ歌だろう。
信濃なる 木曽路の桜咲きにけり 風のはふりに すきまあらすな
こういうことを、早苗の祖母は何かにつけて早苗に教え込んだ。老いた風祝は、何としても孫娘を一人前の風祝にする積りらしかった。
早苗の父と兄が亡くなってから、特にその傾向が強くなってきた。それに早苗は真面目で、才能もあった。祖母は、この孫娘を前途有望と見込んだようである。
「でも、お義母さん、わざわざこんな旅行のときにまで、そんな話をしなくともよいではありませんか」と、早苗の母がちょっと可笑しそうに言った。
「何を……」と、老婦は目を見開いた。けれど、すぐに「まぁ、それもそうじゃな」と言い、腰を座椅子に落着けた。
「ほら、早苗、ごらんなさい、あれが海よ」と、母は窓のかなたを指差した。
「ほんとだ、海!」
早苗は、列車の窓硝子に鼻がくっつきそうなくらい顔を近付けて、はじめて見る青の広がりに心を奪われた。「空よりきれい……。」
新潟県糸魚川市の海岸は、ヒスイの原石で有名である。
下諏訪から中央本線づたいに松本まで行く。そこからさらに篠ノ井線へ乗り換え、篠ノ井駅から信越本線で直江津へと至る。そのあいだにも、長野駅でいったん乗り換える。全道程で片道三時間を越える長い旅だ。子どもの早苗にとっては、なおさらきつい道のりである。けれども彼女は旅の途中、疲れた様子をほとんど見せなかった。見るものすべてが、もの珍しい所為か。
ことに現在、早苗たちが乗っている糸魚川へと向かう列車の車窓からの海景は、早苗にとってひときわ珍しく、魅力的に映った。いつも近くで見る諏訪湖とは、まるで違う。
「わーれーはー、うーみのーこー、しーらなーみーのー」
早苗は海に見入りながら、子どもらしい明朗さで、それを口ずさんだ。
「まぁ、よくそんな古い歌を……」と、母は思わず笑った。
「おばあちゃんが教えてくれたの!」と、早苗は誇らしそうに答える。
列車は日本海沿いを緩慢に走っていた。かたわらで海のおもては陽を浴びて、きらきらと光を乱反射させていた。
糸魚川の浜辺は、白砂のそれではない。小石が敷き詰められたようになっている。ヒスイもここで見付かる。海開きの時期はとうに過ぎている所為か、彼女らの他に客はいない。それで、静かである。ときおり思い出したように、波のささやき声が響く。
早苗はそこに足を踏み込んで、つかのま、言葉を失った。目の前には穏やかな表情の日本海が広がっている。その悠々とした光景は、ただ圧倒されるというよりは、どこか懐かしさすら感じさせる。
「きれい……」と、早苗は息を呑んだ。
「早苗、海にはな、海の神さまがおわすのじゃ」と、祖母が言った。ワタツミのことだ。
「海のかみさま?」と、早苗は目を輝かせた。
早苗は今まで、守矢の二柱の神さまの話しか、祖母から聞かされたことがなかったから、その二柱以外の神さまの話は、彼女の興味を強く惹いた。
「その海のかみさまは、早苗にも会える?」
「どうじゃろうなぁ、早苗がいい子にしていれば会えるかも知れんけれど……」と、祖母は早苗が期待に胸をふくらませている手前、彼女を幻滅させるようなことは言えなかった。
「そっかぁ……」と、早苗の期待はますます弾んだ。
そうして、その海の神さまが、守矢の二柱の神さまと友だちだったら、どんなに素敵だろうと考えた。子どもらしい、子どもだけが抱くことを許されている、それは甘美で平和な夢想だった。
「私、海のかみさまに会いに行ってくる!」
突然、早苗はそう言うや否や、波打ち際へと駆け出した。
「あ、こら! 早苗」と、母親が止めるのも聞かない。
彼女は水飛沫を散らしながら、くるぶしまで海水に浸かった。それから、膝くらいまである青いスカートと、フリルの付いた白いシャツの袖口がずぶ濡れになるのも構わず、水底を必死になって探りはじめた。傍目には砂をすくっているようにも見える。砂はときどき、早苗の手から無造作に放られていた。そのたびに、細かな砂粒は滴のようにきらめき、海へと落ちた。
「海のかみさま、どこー……」と、早苗は海面に必死に目をこらす。
でも神さまはいそうにない。海の神さまだから、海の中にいるはずなのに。太陽が雲にさえぎられて翳るように、失望が早苗の胸にきざした。彼女はつと水面にはり付けていた視線を上げた。
海緑色の水面がどこまでも広がっていた。水平線のかなたの方ほど、色が濃く、深い藍色をしている。夏の名残りのような肥え太った雲が水平線に落ち、果てで雲と水平線とがキスをしている。乱れ広がるシーツの皺のように、波は遠くからやってきて、早苗の足元にも波紋を生んでいた。それは人を遠ざけるようで、どこか人を惹き付ける。早苗はわけもなく、頬が火照るのを感じた。雲と海との際で、光が揺らめき、明滅していた。
やっぱり海の神さまはいる、と早苗はこのとき確信した。
「もし今ごろ、お兄ちゃんが生きていたら、早苗も寂しい思いをすることもなかったろうに……。一人でああして遊ぶこともなく、兄妹で……」と、祖母が、波と戯れている早苗を遠くから見つつ、ぽつりと洩らした。
「お義母さん、そんな悲しいこと……」と、母が言う。「早苗は強い子ですよ」
「強いと言っても、あの子はまだ十にも満たん。それにお父さんもおらん。不憫な……」と、祖母は自分の言葉に涙ぐんだ。
母親は何も言わず、しばらく娘を遠目に見守っていた。早苗はまだ水底をあさる遊びに興じているみたいだった。そのうち、母はその光景を異常だと思った。そう思った理由はよく分からない。親の勘かも知れない。でも、とにかく、何かが異常なのだ。
「あの……」と、彼女はやがてふいに、呆然と早苗を指差した。
早苗は海の神さまを見つけようと、なおも水に手を突っ込んでは、底の砂をすくっていた。海の神さまがいることを確信してから、彼女はますますその遊びに真剣になった。何度も砂を小さなてのひらに一杯にしては、それをまた海に放る。それを繰り返す。傍目には徒労めいた遊びだ。とはいえ、早苗はますます夢中になっている。
彼女はやがて、ひとつのきれいな石を見つけた。それはちょうど早苗の手のひらくらいの大きさで、他の石とは明らかに違う、ひときわきれいな緑の石だった。ヒスイだろうか。
「わぁ……!」と、早苗は思わず感嘆の声を洩らした。
彼女は海の神さまのことも忘れ、たちまちその緑の澄んだ石に魅入られた。その石は、まるで神さまからの贈り物みたいに美しい、海の色が凝縮したような色をしている。
太陽にかざしてみた。すると、陽光が石の輪郭を溶かすように、燦然ときらめいた。石の海緑色が今にも溢れだし、海とまじわり、空をも染め抜いてしまいそうだ。
けれども、ヒスイのはずはないのである。ヒスイの原石は濁った白をしているからだ。でも、早苗にはそんなことどうでもよかったし、知るよしもない。
ただ彼女はひたすら太陽にかざして、その緑の石を眺めていた。そのうち、石から目が離せなくなった。石も早苗を見つめているかのようである。早苗は、石も私を見ているんだと思った。
ふいに何の前触れもなく、石の澄んだ緑が溢れだした。その色は、たちまち早苗の視界のすべてを覆った。けれど不快さや恐怖はない。ただ、たとえようもない恍惚が、早苗の全身を駆け抜け、満たした。彼女の世界のすべてが、美しい緑色になった。底の底まで見透かせそうな、澄んだ緑。……
「早苗!」と、どこか遠くの方で声がしたような気がした。
□
渋谷駅を出て、青空の下に立つと、想像よりもずっと暑いのに早苗は辟易した。目の前にそびえる居丈高な高層ビルが、涼やかな風をことごとく阻んでいるかのように感ぜられる。見上げると、区切られたような狭い青空には雲ひとつ浮かんでいない。太陽は何ものにも邪魔されることなく、その過剰な光と熱とを、まるでご丁寧すぎるお節介のように地上に降り注いでいる。鬱陶しい、と彼女は思った。
人々が暑さに顔をしかめ、汗をしたたらせながら歩き惑うかたわらで、渋谷駅前のシンボルであるハチ公像は、容赦ない陽の光にも我慢強く耐えている。東京に来て最初のころは、早苗もその像をもの珍しく眺めたものだが、今ではどうでもよかった。
付近に赤いワゴンカーが停まっていて、その改装された車内では即席の写真展が開かれているらしかった。手前の看板には「中東の戦争と子どもたち」とある。大勢の忙しそうに退屈している人たちが、そこに人だかりをつくっている。写真展は盛況らしかった。けれど、早苗はそれにも興味を覚えることなく、傍を通りすぎた。遠い国の戦争には、あまり興味が持てなかったからだ。今の私の生活だって、私なりに戦争なんだと、彼女はむしろそう主張したい気持ちだった。とはいえ、生き残ったところで、誰にも称賛されないし、銅像のひとつも建たないだろうけれど。
彼女は携帯電話にメモした買い物リストを開き、今日の予定を確認した。
《カバン(ちょっと大人っぽいやつ)・本・染髪料(黒)》と記されている。
早苗の髪の色は、今は深い黒をしている。ちょっと見ただけでは、染めているとは誰も見分けがつかないくらいだ。でも、彼女のほんとうの髪の色は、まるで海のいちばん美しい色だけを抽出したかのような、きれいな海緑色をしている。あの海で拾ったヒスイ色の石に魅入られて以来、彼女の髪はその色に完全に染まってしまった。しかも一過性のものではなかった。
祖母は、海の神さまの贈り物だと早苗に教えてくれた。でも、その髪の色を手放しで褒めてくれるのは、亡き祖母と母と美容師さんと、それからあの不思議な楽園の住人たちくらいのものだった。他のたいていの人はまず気味悪がった。それが普通だ。けれど、早苗はその所為で随分と傷付けられたし、傷付けられないように、こうして黒の染髪料を買わなければいけない。でも、もしかしたら東京なら、緑色の髪なんてちょっと珍しい程度で済まされるかも知れない、と彼女はそう思わないでもない。
大勢の人の波に半ば流されるようにして、早苗は歩いた。とにかく暑い。人と人の間隔も酷く狭い。ときどき、すれ違う人から鼻を刺すような香水のきつい香りや、汗の匂いがした。とにかくこの猥雑さに、彼女はまだ慣れていなかった。
シャツに覆われた首回りがひどく汗ばむのを彼女は感じた。早苗の出で立ちは、半袖の白い端正なシャツに、タータンチェックのスカート、黒いソックスと、まるでどこかの女子高校生みたいだった。でもネクタイだけは、白地に青と紫のペンキが無造作に散らされたような、お洒落なデザインだった。高校生みたい、というのを彼女はちょっと気にしていた。
早苗の服装をそう評したのは、彼女が通う大学の同じ学部の知人だった。
「早苗さんって、高校の制服みたいなファッションが好きだよねー。こういう恰好って、だいたいは高校時代の3年間のうちに飽きてしまうものなんだけど……。あ、でも今スクール・ガール風って結構流行ってるんだっけ?」。
早苗自身は、そのことにまったく無自覚だった。彼女は、ただ好きな服を好きなように着ていただけだったから。けれども、ひとつだけ思い当る節があった。
早苗には高校時代というものがまったくない。まるで誰かがハサミで切り取ったかのように、そこだけがぽっかりと欠けている。加えて、ハサミの持ち主は明白なのだ。
高校生みたいな服装を無意識にしてしまうのは、いわば失われた高校時代に対しての、早苗の憧憬のあらわれだった。そして、この憧憬から卒業する日は来るのだろうかと、彼女はときどき思い悩んだりさえした。一度失われたものは二度と取り戻せないように、失われたものに対する憧憬は永久にそこに存在し続けるのではないか、と。
ほんとうを言えば、そんな彼女の思い悩みは杞憂だった。望まなくとも、いつかどこかで人間は変わってしまうものだから。それはたとえば、服装の流行が変わったり、早苗の目の前にある赤色の信号機が、やがて青に変わることと同じだ。そして信号は青になった。早苗たちは規則正しく、銘々勝手に歩き出した。渋谷の交差点が大きく波うった。
シャッフル・モードにしていたiPodに繋いだイヤホンから、お気に入りの曲が流れてきて、早苗の沈みがちだった心は、少しだけ軽さを取り戻した。
《小さい頃は、神さまがいて……》
いつ聴いてもそのメロディと歌詞はどこか懐かしく、ほの悲しかった。……
□
風が過ぎ去るように季節が過ぎ去り、早苗のまわりも目まぐるしく変わった。春になると桜が咲き、そして散った。秋が訪れれば木の葉が色づいた。冷たい風が吹き、やがて枝先から葉がそっと落ちるように、早苗の祖母の寿命も尽きる時が来た。早苗が小学校の四年生になった、その秋のことだった。彼女はますます孤独になった。
学校で、早苗はいつも一人ぼっちだった。原因の多くは、彼女があまりに様々な点で周囲と異なっていた所為だった。そのひとつが緑色の髪である。その特異な髪色の為に、早苗はいつも周囲から奇異の目で見られることを避けられなかった。当然といえば当然だ。そんな人間は他にいないのだから。しかも、その緑の髪は彼女にあまりに似合いすぎていたから、誰もがまるで最初から早苗の髪は緑色だったのではないかと疑う人も少なくなかった。
早苗自身はその環境に戸惑った。孤独に慣れるまでに、ひどく時間がかかった。それにはたくさんの涙と、本来なら得られただろう、友達との楽しい時間とを犠牲にしなければいけなかった。
それでも早苗は表立っていじめられることは少なかった。彼女の通う小学校の同級生の保護者の多くが、早苗が風祝を務める守矢神社の氏子だったからだ。保護者の中には、早苗に何か危害を加えれば、天罰が下ると考えている人も少なからずいた。そういう迷信が信仰される土地柄だった。
「いいかい、守矢さんのところの早苗ちゃんとは喧嘩してはいけないよ。もしあの子をいじめたりしたら、一家全員が蛇神さまに喰われてしまうかも知れないからね」と、地域の親たちは、まるで祝詞でも捧げるかのように、ことある毎に欠かさず子どもにそう言い聞かせていたから、おかげで早苗は、せいぜい上靴の片方を隠されるとか、朝登校したら机に誰が書いたとも知れない鉛筆字で、《蛇の子ども、キモイ》と、ご丁寧に下手くそな蛇の挿絵つきで書かれる程度のいじめで済んだ。陰湿だった。
そんな状況から逃げるように、早苗は風祝の修行に没頭した。才能は努力と時間の助けを借りて、まるで木が生長するように、ぐんぐん伸びた。それは彼女の海緑色の髪の色とも、決して無関係ではなかった。
「早苗ちゃんは、ほんとうに神さまに愛されているのう。これなら、近いうちに二柱の神さまとも通じ合うことが出来るだろうて。私も安心して逝ける」と、祖母は口癖のように言った。ちょうど亡くなる一年前のことだ。
でも早苗は不満だった。神さまはままごと遊びに付き合ってもくれなければ、学校で彼女のことを守ってもくれない。そもそも姿が見えない。
「でも私、神さまよりもお友だちが欲しい」と、早苗はあるとき小さな声で言った。それを言うのには、非常な勇気が要った。
祖母は困った笑みを浮かべて、黙っていた。何も言えなかったのだ。そして早苗には、無力感と、めぐまれた才能をありがたがるふうでもないことへの叱責の情が入り混じった祖母の表情が印象的だった。
祖母が死んでしまってから、早苗は母と二人きりになった。その母は、昼は社務所にいた。それだから、学校から帰ってきた早苗は、奥の部屋で一人で本を読んでいた。孤独は人を読書へと向かわせる。本は決して早苗を傷付けなかった。
すると突然、襖ひとつを隔てた奥で扉が開く音がした。早苗は、何か用事があって母が部屋に来るのだろうと思って、気にせずそのまま本を読んでいた。
「おやおや、せっかく神さまのお出ましだと言うのに、お出迎えのひとつもないなんて、いささか寂しい気がするな」
「そりゃあ神奈子、お邪魔します、のひとつも言わずに他人の領域にずかずか入るやつが歓迎されるわけないじゃないか。人間だって神さまだって、そういうものだろう? ぶしつけなのは、お前の昔からの悪い癖だね」
「ふむ、それもそうだな。まあ、ここは他人の領域ではないだろうけど、諏訪子の言うことにも一理あるね。じゃあ今から言うか。お邪魔します」
「素直でよろしい。お邪魔します」
聞き知らない声の主に襖を開けられて、早苗は心臓が止まるかと思うくらいに驚いた。彼女は言葉を失って呆然とした。しかも、あらわれた二人には見覚えもない。以前にどこかですれ違ったとか、親戚の集まりにいたとか、そういう記憶すらない。
「そんな蛇が蛙に睨まれたような顔しなくてもいいじゃないか」
苦笑を浮かべながらそう言った女は、男みたいに背が高く、頑健な体格をしていた。けれども身体の線は非常に女性的である。髪は肩にわずかに届かない程度だ。
奇妙なのは、その女性がしめ縄の輪を背負っていることだった。それが早苗には不思議で仕方ない。それさえなければ、早苗はこの女を普通の人だと思っただろう。何となく、風貌から神社の名物、御柱祭で柱を担ぐ男たちを連想した。
「へえぇ、しかし驚いているってことは、完璧に私たちが視えてるってことか。なるほど、あいつが手塩にかけて育てただけはあるねぇ」と、しめ縄の女に諏訪子と呼ばれた方の女性は、それにもまして奇妙だった。
見た目は早苗と変わらないか、それよりも幼いくらいの少女の外見であるのに、声は女性にしては低く、ひどく大人びていた。しかも、その外見も変だった。とはいえ、壺装束めいた白い肌着と、紫色のワンピースの組み合わせだけなら、実にありふれていたけれど。
彼女の外見できわだっているのは、土の山を頭に盛ったような帽子のデザインだった。帽子には二つの眼球がついている。それが、諏訪子の視線の位置とは何の関係もなしに上下左右を見わたしているので、早苗はしばらくのあいだ呆気にとられて、その帽子を穴のあくほど見ていた。これは何の生き物だろう。できればあまり遭いたくないタイプの生き物だと、早苗は思った。
「そんなに珍しいなら、触ってみる?」と、諏訪子が帽子を取った。
早苗は首を横に振った。さっきから、帽子の両眼が自分にじっと視線を固定していることが、気持ち悪くて仕方ない。
「ふぅん……残念」と、諏訪子はまた帽子をかぶった。「で、何か訊きたいこととかある? さすがに初対面同士だし、訊きたいことって山ほどあるでしょ?」
「えっと……」と、早苗は困った。
こういうとき、まず相手の用件を訊くべきか、名前を訊くべきかが分からなかった。そもそも見知らぬ人がいきなり家の中に入ってきたためしなんて、今までに一度もなかった。その他にも早苗の疑問はこんこんと湧き出て尽きない。お母さんを呼びに行くべきだろうか。
「こういうときは、まず相手の名前を訊くものだよ、お嬢ちゃん。それから、お母さんを呼んでも無駄だ。何せ私たちのことは、あれにはよく視えないだろうからね。せいぜい声が聞こえる程度のものだろう」と言ったのは、大柄な神奈子の方だった。
「えっと、お名前を教えて下さい……」と、早苗は消え入るような声で尋ねた。
「うん、私の名前は八坂神奈子。ここの神さまだ。二柱の神さまのことは、お前の祖母から既に聞いているだろう? で、こっちが諏訪子。諏訪ちゃんと呼んでやってくれ」
「おい、誰が諏訪ちゃんだよ」と、諏訪子が怒ったように反応した。
「でも、そっちの方が親しみが湧くだろう?」と神奈子。
「私の神さまとしての威厳はどうなるよ、威厳は」
「そんなの、あってないようなものだろう」
それらの会話のほとんどは、早苗には届いていなかった。ただ、神奈子の口にしたひと言だけが、鮮明にあった。二柱の神さま。……この人たちが?
早苗は疑わなかった。その代わり、ただ嬉しかった。もし祖母が生きていたら、私が今こうして神さまと対面しているということを、きっと褒めてくれるだろうと思った。そして、そう思うと少し寂しくなった。
「それにしても、随分と珍しい色の髪だね」
早苗がぼうっとしていると、諏訪子がいきなり近付き、彼女の髪を撫でた。「いい色だ。お前の髪をこんな色に染めたのは、ワダツミだね? ふん……余計なお節介を……」
「海の神さまのこと……? 諏訪ちゃんは海の神さまと知り合い?」
「そりゃあ、一応知り合いではあるさ。あんまり好きなやつじゃないけどね」
早苗はそれを聞き、心の中で落胆した。けれど諏訪子はそれに構わず、真面目な表情をして言った。
「それから、私のことは諏訪子様、と呼ぶんだ。いいかい、諏訪ちゃんではなく。神奈子のことは、まぁ何でもいいけど。八坂さん、とでもいえばいいんじゃないかな」
「でも、私、諏訪ちゃんの方が良い……。駄目ですか?」
諏訪子は駄目、と答えようと口を開きかけたが、それより先に神奈子の方が尋ねた。
「何か、どうしても諏訪ちゃん、と呼びたい理由があるんだよね?」
今にも舌打ちしそうな諏訪子の方を見ず、早苗は頷き、かぼそい声で言った。
「私、あんまりお友達いないから……そうしてくれたら嬉しいなぁって」
つと早苗が顔を上げると、神奈子と諏訪子が非常に困った表情をしていた。それは一年前に同じようなことを彼女が言った際に祖母が見せた表情と、奇妙なくらいに似ていた。
「そういうことなら仕方ないね」と神奈子が沈黙をやぶった。
一方の諏訪子はまだ納得がいかないと言いたげな顔をしている。けれど早苗はもう自分の喜びのことだけで頭がいっぱいだった。
「じゃあ私、お母さんに、か、神さまが、お、おわしてるって伝えて来るね!」
そう言うが早いか、早苗は部屋を駆け出て行ってしまい、あとには唖然とした表情の神さまだけが取り残された。
「だから母親を呼んでも無駄だってさっき言ったのに」と、神奈子が小さく呟いた。
「きっと母親が過保護なんだろう」と諏訪子が応じる。「それにしても、これから面倒そうだ。あーあ、私、子どもと遊ぶの苦手なんだよ」
「面倒なのはいつものことだ。それに、神さまが忙しいのは、才能ある子が世に出てきた証拠だよ、いつだって。それは喜ばしいことじゃないか」と、神奈子が、諏訪子が早苗の遊び相手に抜擢されたことには触れないようにしながら、諭した。
「まぁ、そうだね」と、諏訪子は素直に言った。
「でも、今代の子はちょっと尋常じゃなく面倒なことになりそうだけどね」と、神奈子は真面目な顔で言ったが、それは自分に言い聞かせる為に口にしたようだった。
その声は早苗の不在の部屋に、うつろに彷徨った。襖一枚をへだてた扉の向こうから、何か慌ただしい音が、まるでテレビの向こう側で繰り広げられている凄惨なニュースほどの現実味もない他人事のように、午後の空気をかすかに震わせていた。……
□
小学生の早苗は、孤独だがそれなりに平穏な日々を過ごすことが出来た。母親の他に、二柱の神さまという話し相手が出来たからだ。彼女は来る日も来る日も、その神さまたちを相手に色々なことを話した。将来のことや、それから家族のことなど他愛ないことが話題の主だった。学校のことはほとんど話題にならなかった。その話題は、幸福な雰囲気をいちどきに凍らせることにしかならないということを、二柱の神さまはすぐに理解させられることになったからだ。そしてそれ以降、誰もが努めてその話を避けた。
神奈子と諏訪子は、早苗の良き話相手だった。
「そりゃあね、今までにも、数えきれないくらい人間の願いやら怨嗟やらを聞かせられてきたんだ。人の話を聞くのは慣れてるさ」と、言ったのは神奈子だった。
それは雪深い日の夕暮のことだった。あたりに音は少なく、白い静寂がぼうっとしているうちにも営々と積み重ねられていた。そんな風に、今までに一体どれくらいの人々の祈りが、この二柱の神さまの前に積み重ねられてきたのだろうと、早苗はふとゆくりもなく考えた。
その祈りは果たしてちゃんと叶えられたのだろうか。そうして、もし、叶えられなかった祈りがあるとすれば、それらは一体どこにゆくのかしらん、と。
当の神さまたちは、こたつで蜜柑の皮むきに夢中になっていた。
その姿を早苗はじっと見ていた。
「どうしたい? 早苗」と、視線に気付いた諏訪子が尋ねる。
「いえ、何でもないです、諏訪子さま」と、早苗が答える。
小学6年生になった今年から、早苗は、彼女を諏訪ちゃんと呼ぶことを辞めていた。
「ふぅん……ならいいけど」と、諏訪子はまたむきかけの蜜柑に視線を落とした。「ま、あんまり深く物事を考えすぎないことだね。早苗の場合には特に。お前、何かと神経質にものを考える性質だろう?」
「ええ、まぁ……」
「よくないね。特に若いうちは、結論を出すことを急いじゃ駄目だ。何事につけてもね。いずれ年齢がひとりでに解決してくれる問題というものが、お前の思っている以上に世の中にはたくさんあるんだぜ。それにあんまり眉に皺を寄せてばかりだと、神奈子みたいにオバサンくさくなってしまうよ」
くつくつと、諏訪子は幼い外見に似合わない笑いを洩らした。
「それで、神奈子さまは、いったい何をそんなに悩んでおられるのですか?」
「うん?」と、神奈子は早苗に名前を呼ばれて、はじめて顔を上げた。
どうやら諏訪子の皮肉も耳に届いていないらしかった。手元の蜜柑の皮はいびつに剥げている。それが彼女の憂慮の複雑さをあらわしているかのようだ。
「ふぅむ……」と神奈子は蜜柑を手にしたまま、視線を宙にやった。「早苗、今からする話はあくまでたとえ話だ。仮の話、その積りで聞いてくれ」
「はい」と、早苗は顔を引き締めた。
「だから、たとえ話だから、気楽に聞いてくれればいいんだって」と神奈子は苦笑して、先を続けた。「以前一度だけ言ったと思うが、最近我々に対する信仰がだんだんと失われつつあるという話を覚えているね? そして、信仰の量がそのまま神さまの存在にも関わっているということも」
「はい」
「おいおい、随分と深刻なたとえ話がはじまったね。こう、雪降る夜なんだから、もうちょっとロマンティックなたとえ話は出来ないのかね」と、諏訪子が横から口を挟んだ。
神奈子は無視して話を進めた。
「もしだよ、ここより他の遠い場所に、誰からも神が信仰される地があるとしようか」
「何か楽園みたいですね」と、早苗は蜜柑を綺麗にむき、ひとつ口に入れた。
「そう、まさに楽園だ。そして、我々がどうしてもその地へ行きたいと言うとき、お前は私たちについて来てくれるかい?」
「私たちって、いつの間に私も仲間入りしたことになってんの」と、諏訪子がまた口を挟む。
例によって神奈子は無視した。彼女は早苗の答えを待っていた。
早苗はあまり長いあいだ考え込まずに答えた。
「はい、もちろん、お二人がご迷惑でないなら、私は喜んでお伴させていただきます」
「中学校に入って、早苗に彼氏ができなければね」と、諏訪子が冷やかした。
早苗は顔をほんのり赤らめた。
「諏訪子」と、神奈子がとうとう堪えかねて言った。
「でも、そういうことじゃないか。事情は変わるもんだ。だから早苗にもし恋人ができて、でもその恋人をどうしても置き去りにしなきゃいけない、なんてことになったら、答は変わるかも知れないよ。ま、いくらたとえ話とはいえ、ここで言質とるのは、いくら何でも神奈子、ちょっと自分のエゴに目がくらんでいるんじゃないの?」
諏訪子は三つめの蜜柑の皮むきに熱中しつつも、声音は冬の夜風のように冷ややかだった。それに対して神奈子は何も言わず、ただ険しい顔をした。
部屋が緊張した空気で充たされた。ときおりストーブの立てる呟きめいた金属的な音が、沁みるように響く。蜜柑の皮だけが、炬燵テーブルの上に、あたかも沈黙の代替物のように累々と静かに積み重ねられていった。
「お茶が入りましたよ」と、静けさを破ったのは、早苗の母だった。
それから襖が開き、彼女は四つの湯飲みが置かれたお盆を抱え、いそいそと部屋へ這入ってきた。そして湯飲みをテーブルの四辺それぞれに均等に配した。
「はい、これは神奈子様のぶん、これは諏訪子様のぶん、こっちは早苗のぶんね……」
「おっ、済まないね」と、神奈子が言った。
「だから私の言った通りだろう、姿を見せた方がずっといいことがあるって。威厳なんかにこだわってると、こうしてお茶も飲めないし、ロクなことがない。威厳を保って得をするのは、ただ自尊心のみさ」と、諏訪子が熱いお茶を冷ましながら言った。
「そうかも知れないね」と、神奈子も角を立てなかった。
「そんな……。こんなことで宜しければ、いつでもしますよ」と、早苗の母は嬉しそうに言った。
早苗は母の横顔を見ていた。そして、母の目元のしわが増えていることに気付いた。それが彼女の胸に言いようのない寂しさを呼び起こした。けれども彼女は幸福だった。
学校では相変わらず緊張感のある生活を送っている早苗は、こういう心安らかな時間のもたらす幸福を、その年齢に似合わず深く知っていた。
ふいに窓の外から、何か重たいものがどさりと落ちる音がした。屋根から雪がひとかたまり落ちた音だった。その音は早苗にだけ聞こえたらしかった。他の三人はせわ話に興じている。それだから彼女は一人で、今しがた落ちた雪がもたらした、心の震えにも似た冬の空気のかすかな震えを想像した。その残響を心ゆくまで味わった。
そうやって届いたかすかな音が心に深く沁み入るように、早苗は、誰にも聞き届けられなかった祈りが長い旅路を経て、やがて神さまのもとへ辿り着いたなら、どんなに素敵だろうと思った。そして、ずっとこんな日々が続いてくれたらいいと思った。出来ればどこにも行きたくない。神奈子さま、諏訪子さま、早苗はここで今のまま幸せになりたいです。
けれども彼女のその祈りは神さまに聞き届けられなかった。
どんな幸福も終りがくる。早苗の幸福にも、やがて終りがきた。
女の子は男より早くに思春期に入る。そうして、もっとも微妙なこの時期に、人はふたつの型に分けられる。ひとつは仲間と徒党を組み、わざと乱暴な振る舞いをしたり、あるいは小さな階級制度を仲間内でつくったりして、その中で残酷な行為に耽ることで、わけもなく激しく波立つ心の矛先を自分以外の他者へ向ける場合。もうひとつは、何重もの自分の殻にこもり、その上さらに孤独という塗料で外殻を塗り固め、その中で自分の鋭くこわれやすい矜持を守ろうとする場合である。早苗は後者だった。
小学校時代に、何かと陰で差別的な待遇を受けてきた彼女は、どうしても後者にならざるを得なかった。しかも、その材料も揃っていた。
中学に入学すると同時に、黒く染めて隠した、けれども確かに色づいている海緑色の髪色。風祝という立場。修行が進むにしたがって使役できるようになった、数々の風にまつわる奇蹟。そして、奇蹟を起こすことができるようになって以降、一部の人々が早苗を「現人神」と見なし、あまつさえ彼女を祀ろうとさえしているらしいこと。……これを早苗本人が耳に入れないはずはない。
最たるものは、早苗が二柱の神さまと、実際に通じ合っているという事実だった。便宜上、謁見を許されている母親を別にすれば、それは早苗だけの特権だった。そういうわけだから、彼女はごく自然にこう思っていた。
私は神さまに選ばれた、普通とは違う特別な存在なんだ。それは誰にも真似できない、私だけの特権。だから私は、クラスでちょっとした女王気取りのコなんか、とても及び付かないような、きっと人々の羨望を一身に集めるような女の子になるに違いない。いや、既にそうなりつつある。……
それはこの時期に誰もが一度は患う麻疹のようなものである。
二柱はたいして気にしていなかったけれど、母親の方は娘がいくぶん偏狭に陥りつつあるのを危ぶんで、何度か苦言を呈した。
「早苗、人間の優劣は立場や才能だけで簡単に決まるものではありません。だから、そうやって何かと同級生を見下すのはお止しなさい」
「別に……見下してなんかないって。ただ、本当のことを言ってるだけよ。だって、誰もクラスメイトに、奇蹟を起こせる子も、神さまの視える子もいないし」と、早苗はいつも同じような反論をする。
「そういう考えがよくないのよ。だいたい、あなたの奇蹟も、神さまが視えることも、ひとえに神さまの存在あってのことじゃないの。自分が特別だと思うことは、あなたの勝手だけれど、でもその前に謙虚になって神さまに感謝を捧げたらどうなの」
「言われなくても分かってるって……」と、早苗は苛立ちがたっぷり含まれたため息をついた。「だいたい、お母さんが神さまとこうやって普通に会話できるのも、元はといえば私のお陰じゃない。謙虚に感謝するのが大事だっていうのなら、まず私に感謝してよね」
そう言って、返す言葉もない母親を尻目に、早苗はいつも自分の部屋にこもった。そして、扉を閉めるときは、習慣のように、「誰も何も分かっていない……」と呟いた。
かてて加えて、早苗にも生理がきた。生理のときの彼女は、不安定な情緒をいっそう持て余した。とにかく目に付くものに腹が立つ。でも物を壊したりはしなかった。本人もそれを恐れて、今にも到来する嵐に怯える海岸地帯の人々のように、部屋に引きこもっていたからだ。彼女は自分の内なる嵐に怯えていた。そして、それと闘っていた。
生理の時期が去ると、彼女の部屋は本当に嵐が過ぎ去ったみたいだった。枕はぐっしょり濡れ、ぬいぐるみの綿は必ずどこかからとび出していた。逆に何もないときは、恐ろしくすべてが手付かずだった。
嵐の時期に部屋から一歩出ると、彼女は相手を選ばずに苛立ちをぶつけた。神さまが相手でさえも構わず、ときにはいきなり泣き出して、その神さまをうろたえさせたりした。
「アレの日の早苗は神をも殺しかねないね」と諏訪子は、早苗が部屋にこもっているときを見計らい、そんな冗談を言った。
「二日天下ってところだな」と神奈子も苦笑した。
「こりゃあ、場合によってはお前の悩み云々以前の問題になりそうだね、神奈子? あんな状態の早苗にもし相談を持ちかけて見なよ、たちまち神社ごと吹き飛ばされてしまうよ」
「相談するときは、当然早苗の時期も考えるさ。……あまり時間はないけどね」と、神奈子はまた暗い顔をした。「それに、早苗もいずれそういう状態との付き合い方を覚えるさ。そうなるまで待つ積りだよ、私は」
「神奈子は自分のことになると、途端に忍耐強くなるよねぇ」と、諏訪子は乾いた声で言ったが、神奈子はわざと聞こえないふりをした。
早苗はとにかく自分と闘わなければならなかった。彼女は自分におとずれた突然の変化にひどく苦しんだ。それに慣れる必要があった。少女と大人の女性のあいだに横たわっている過渡期の鋳型に、彼女は何としてでも自分を嵌め込み、それに慣れ、変化を受け容れ、そして次の段階への準備をしなければならなかった。
幼虫から蛹へ為ったとき、その不動の姿から人は穏やかな様を想像するだろう。けれどもその実、蛹の中では、羽化に向けての凄絶な格闘がおこなわれている。それは誰にも見えない孤独な闘いだ。早苗はまさにそういう孤独な闘いに身を投じていた。
小学校のとき程ではないとはいえ、中学でも早苗を奇異の目で見る人は絶えなかったし、その上この時期独特の込み入った人間関係が、彼女に休む間も与えなかったその一方で、こうした内面の闘争にも、彼女は日々自分をすり減らしていった。
だから早苗には見えなかった。日を経るにつれ、神奈子の顔が険しくなっているのを。そして、その険しい表情の横目で、早苗に以前から抱えている問題を切り出す時期を、じっと蛇のように待っていることを。
やがて早苗が、不安定さをかなり残しながらも、何とか新しい自分の状況に慣れ、ひとまず落ち着いたかと思われたとき、その問題は唐突に切り出された。ちょうど嵐が去ったあと、別の危難に見舞われるように。それは早苗が中学卒業を目前に控えた、二月のはじめのことだった。
その日もやはり雪が降り積もっていた。雑な音が吸収され、濾過された音だけがときおり聞こえるような夜だった。深刻な相談事より睦言を交わす方が、よく似合う。
けれども神奈子に呼ばれた早苗の表情は硬かった。神奈子の声色から、ただ事ではない気配を察したからだ。
早苗が襖を開けると、神奈子が炬燵のかたわらで、重々しくあぐらを組んでいる。いつにもまして神妙な様子である。一方の諏訪子は、炬燵の中に足を突っ込んでいるものの、表情は憮然としていて、いつもみたいに皮肉や冗談を言う気色はない。テーブル台にあごを乗せ、視線をどこへともなく彷徨わせている。
「突然呼び出して済まないね」と、早苗が座ったのを機に、神奈子が口を開いた。
「はい」と早苗。緊張で言葉が上手く出ない。
「今日、ここへ呼び出された理由は分かるかい?」
「……何となく」と、早苗は伏目がちに答えた。
「うん……」と、神奈子はちょっと困ったように言葉を途切った。「実を言うと、信仰の方が抜き差しならない状態になっている。以前にたとえ話で同じようなことを言ったかも知れないが、今回はたとえでも冗談でもなく、本当だ。」
「すいません」
「いいんだ、早苗たちの所為じゃない。お前も母親も実によくやってくれている。私はお前たちの働きには満足しているんだ。……ただ、もうそれでも敵わない程にどうしようもないんだ。はっきり言って、かつてないくらい現世は神が不要とされている」
早苗は黙っていた。神奈子は早苗の沈黙を理解のしるしと受け取り、話を進めた。
「人々はもう神にすがらずとも生きていけるのだ。科学や農学の発展は、豊作を祈らずとも肥料や天候予想、品種改良などでいくらでもコントロールできるようになった。それでも食糧が足りなくなれば、他国から輸入すればよい。雨や風も、もはや人間にとってさまでの驚異ではなくなった」
「昔はさ、天災が起ったり、流行り病が広がるたびに、神さまがお怒りだ、祟りだって、上も下もてんやわんやの大騒ぎ。だから信仰も人間の恐怖と共に自然に集まったんだけど。でも今は、流行り病があれば、さっさとワクチンつくれって話になるし、天災にしても、やれ復興予算がどうのこうので、神さまの出る幕もなくなっちゃったからねぇ」と、諏訪子が感情のない声で口を挟んだ。
神奈子は頷いた。
「そこで私たちが取るべき道は、もはや二つしか残されていない。ひとつは、不要なものが淘汰される世の習いに従って、このまま潔く消えることだ」
「……私は、別にそれでもいいけどね」、諏訪子が小さく洩らした。
「二つ目は」と神奈子はやや声を大にした。「ここより遥かにへだてられた僻地に、幻想郷という、この世より失われた幻想が集う場所があるという。そう、以前に楽園だと私が言った場所だ。そこでは、神や妖怪の類が人と共存し、未だに崇められ、恐れられているという。この地を棄てて、そこへ思い切って行くこと、これが第二案で、私は是非そうしたいと考えている」
「はぁ……」いきなりそんなことを言われても、と早苗は戸惑った。
唐突にこの地を棄てて、といわれても即座に「はいそうですか」と言えるものではない。
早苗は四月には諏訪二葉高校への入学を決めていて、一週間後には母と二人で指定の制服を買いに行く積りだったのだ。彼女はダブル・ブレストの濃紺のブレザーと赤いネクタイの制服に身を包み、新たな生活を送る自分の姿を、秘かに胸に描いていた。そこへ、この話だった。まるで夢を見ているところへ、誰かに木づちで思いっ切り頭を殴られたかのような気がした。しかもその夢は、少し前まで限りなく現実味を帯びていたのだ。
「……まぁ、確かに今すぐこんなかたちで回答を求めるのは、いささか酷かも知れない。それは悪いと思っている」と言う神奈子の声が、早苗を再び現実に引き戻す。「だが、私の本音を言うと、私は是非その場所に早苗も付いて来て欲しいと思っている。向こうの様相はどんなだか、私も詳しくはないが、とにかく神だけがのこのこ出向くより、祀る風祝がいる方がずっと助かるんだ。私たちには早苗が必要なんだ」
「私が必要……」と早苗は小さく反芻した。
その言葉は彼女の自尊心に訴えかけた。
「そうだ、私たちは早苗が……才能ある風祝の同行が必要だ」と、神奈子は、自分の言葉が早苗にもたらした効果の明白さを見てとり、さっきより確信に満ちた語調で言った。
早苗はけれど悩んだ。神奈子に自分を必要としてもらえるのは嬉しい。でも、高校進学を断念するのは辛い。しかも断念して行くところは、何が待ち受けているのかさだかではない場所だ。
彼女は、神さまとの紐帯を断ち切り、高校へ進んだ自分を想像した。普通の人なみに学校へ行き、勉強をし、恋をする……。自分と母親と以外には誰にも神さまの姿は見えず、その縁を断っても、表面上の早苗の生活は変わらないだろう。だが、大事なものを失うだろう。人なみの生活を手にする代わりに、彼女はそれまで自身の矜持の支柱であった、神さまと密な在り方を失うだろう。彼女は何ら特別な存在ではなくなるのだ。そうなれば、心のうちで秘かに自慢の、海緑色の髪色さえ、失うかも知れない。……
「なぁ、早苗。神奈子はああ言っているけどさ、わざわざ自分を犠牲にしてまで、私たちに付き合う必要なんて全然ないんだからね? 私たちはこのまま消えてしかるべき存在だ。世の習いにしたがってね。だから、早苗がいなくても別の地で何とかやっていく積りだし、正直言えば、そんな私たちのワガママにお前を巻き込むのは、心苦しいんだ」と、諏訪子がいかにも気づかわしそうに言った。
けれどもそう言われると、早苗は何としても自分が同行しなければならないような気がした。
「いえ、むしろ是非私に同行させてください。私が行くことが、神奈子さまと諏訪子さまのご迷惑でないのなら」と、やがて早苗は決然と言った。
「そうか……助かるよ」と、神奈子の顔が急に明るくなった。
「ありがとう、早苗」と、諏訪子も言った。
「いえ……こんな私でも二柱に必要とされるなら、どこへでも」と、早苗は決断の重荷から解放された人の気楽さで言った。
「しかし、そうと決まれば色々と準備をしなくてはいけないな。出立は二週間後の予定だ。早苗も、母親とはもう今生の別れになるかも知れないから、残りの時間は大事にするんだよ」と、ふいに神奈子が平然とした口調で言った。
「えっ……」と、早苗は寝耳に水だった。「お母さんは来ないのですか……?」
「そうだよ。聞いてなかったのかい?」と、神奈子はむしろ不思議そうに言った。「残念ながらお前の母親は同行できない。というのも、その場所はあくまで幻想が集う場所だから、あまりに現実に地に足を付けすぎている人は、受け容れられないんだ。そして、お前の母親は、完全に現実の人だ。……このことは、既にもう彼女には言ってあるから。そして、もしかしたら娘とはもう二度と会えないかも知れない、ということも事前に伝えている」
早苗はふい撃ちを受けたように、呆然としていた。ややあって、彼女は震える唇から辛うじて声を出した。
「それで……お母さんは何て……」
「すべては娘の決断に任せるってさ。強い人だ」と、神奈子が答えた。
それからの二週間は早苗にとって残酷なまでに早く過ぎた。彼女は、もう馴れ親しんだ場所にも二度とお目にかかれないんだ、と思うと、急に周囲のものが愛おしくなった。でも、うら寂れた商店街の軒並びや、日中、満載されたソーラーパネルの反射がうるさい近隣の工場を名残惜しくじっと眺めていても、すぐに飽きてしまった。それらは早苗の為に何ら新しい、秘蹟的な姿をも覗かせず、そこに月並みな顔つきで泰然としていた。そして彼女がいなくなっても、やはり変わりなくそこに存在し続けるだろうことが、その月並みな顔からありありと感じられた。早苗はせっかく向けた好意が無碍にされた失望を味わった。
母親に対しても早苗は不満だった。母は普段通り、朝になれば早苗を揺り起こし、昼になれば風祝の修練を積んでいる早苗に昼食ができたと告げ、夜になり、早苗が「おやすみ」と言えば、ただ「おやすみ」と返事があるだけだった。
二柱は移転先に神社ごと移す積りらしいけれど、お母さんはどうするの、と早苗が尋ねたら、
「東京に住んでいる自分の両親のところへ帰るわ。もう話は付けてあるの。二人共もう若くないし、娘がいると安心だって、むしろ喜んでくれたわ」とあっさりした答がかえってきた。
何ら今生の別れにふさわしい涙を催すような言葉はない。そうして日はずるずると進む。
そのうち早苗はふとこういうことを考えた。私は、もしかしたら母親に嫌われているのではないか、と。
彼女はふと死んだ兄のことを想った。母は亡き兄が今でも可愛くて仕方なく、そうして兄ではなく自分が生きていることを、秘かに憎んでいるのではないのか。そう思うと、早苗はこの数日の母の普段と変わらない態度にも納得がいった。むしろきっと、これを機に邪魔な娘を厄介払いできて、せいせいしているのかも知れない。ひどく感傷的になっている早苗には、このことはいかにも本当らしく思われた。そうして中学生になってから、確かに自分は母にずいぶんとひどいもの言いしかしていないことを思い起こし、群なす波のように襲いかかって来る後悔を噛み締めた。……でも仕方ない。今さら悔いたって、もう取り返しなんか付かないんだ。
出立の前夜、早苗が落着かない心地でいると、テーブルを挟んで向かいに座っている神奈子が、ふいに「早苗」と、彼女を呼んだ。
「……はい?」と、早苗は夢から醒めたような声で答えた。
「いや、何か最近の早苗はずっとうわの空の調子だから、ちょっと心配になってね。……といってもまぁ、仕方ないか。正直、現実味もあまりないだろう?」
「それは、ええ、まあ」と、早苗は頷く。
「それが普通の感情だね。だが、改めて訊いておく。お前、本当に私たちに付いて来てくれるのかい?」と、神奈子が問うた。
「はい」
「もう一生こっちには戻れなくても?」
「私の心は変わりません」と、早苗はむしろ苛立ちさえ滲ませた。
「ふむ……」と、神奈子は何か思案するような顔になり、また言う。「そうだな、では、出立の前に何か私や諏訪子に訊きたいことなどはあるか? これから先は一蓮托生の身。何かわだかまりや不満を残したまま向こうへ行って、あとで何かあってもつまらないからね」
「訊きたいこと……」と、俯いていた早苗の顔がふいに上がった。
「うん。何でもいいよ」と、神奈子が気軽に言う。
「そうそう、今のうちに訊きたいこととか、言いたいこととかは、遠慮せずに言っときなよ。逆にここで変に大人ぶって何も言わないでいると、あとで必ず後悔するからね」と、諏訪子が炬燵から首だけ出したまま言った。
早苗は迷っていた。訊きたいことはあった。それは彼女にとっては非常に重大で、しかもその返答によってはすべての決断を覆しかねないものだった。だからこそ、言い出しかねていた。早苗は神奈子の返答を恐れていた。それに、彼女にとっては重大な問いも、この神さまたちにとっては、限りなく微細な事柄にすぎないことは、火を見るより明らかだった。自分のワガママで、今さらこんなことを訊いてもいいものか。いや、それはあまりに馬鹿げている。だって、あれは本当に仕方のないことだったのだから。――
彼女の口元は細かに震え、今まさに言葉を落そうとしていた。そうして程なく、艶やかで色よい唇から、苦渋をともなって絞り出された言葉は、ようやっと空気を震わせるに至った。
「……いえ、私からは、何も」
早苗は自分に正直であるより、大人であることを選んだ。
「そうか……」と、もう神奈子も諏訪子もそれ以上の追及はしなかった。
突然、庭先に滴が跳ねる音がした。かと思うとたちまち、最初の一音を追うようにして、砂利石が雨滴に濡れる音がした。外はしめやかな音階に包まれた。
「雨か……」
その声にはどこか前途を危ぶむような響きが含まれていた。
その晩、布団に入ってからも早苗はなかなか寝つけなかった。電灯の消えた天井をじっと見詰めながら、彼女はかすかに聞こえる雨音に耳を澄ませていた。そうしていると、時間の感覚が消えた。
携帯電話を開くと、まだ深夜の一時に差しかかったところだった。彼女は既に三時を回ったものと思い込んでいたから、ちょっと驚いた。そして、少しほっとした。出立までまだ七時間もある。
いや、あとたった七時間しかない。あとたった七時間で、自分の親しんだこの世界と、半永久的に別れを告げなければいけないんだ。そう考えると、七時間というのは、ひどく短いと早苗は思った。思うだけで胸がつかえ、また悲しくなる。
すっと、寝室の襖が静かに開く音がした。でも、それは音を聞いただけかも知れない。たとえば、胸が郷愁に裂ける音を、そんなふうに聞き違えただけかも知れない。……
早苗はなお両の目を天井に向けていた。すると彼女の額の上に、わずかに細い一条の光が差した。襖は確かに開いていた。
「早苗、早苗」と母親の呼ぶ声がした。
彼女は、その声をできれば二度と聞きたくなかった気がする反面、何よりもそれを待ち望んでいた。心が疼くように痛んだ。
顔を光の方へもの憂く向けると、母が手招きしている。それで、早苗はゆっくりと布団から脱け出し、そちらへ向かった。
母の招きに従って寝室の隣の居間へ足を踏み入れた早苗が見たのは、自分がかつてそれを着て高校へ行くことを夢見、そしてもう二度と着ることはかなわなくなってしまったものと思い込んでいた、諏訪二葉高校の制服だった。彼女はそれを自分の目の錯覚だと思った。あるいは夢を見ているのだろうか?、と。思わず指で生地に触れてみた。確かにそこにある。
「これ……どうして……」と、早苗は呆然と言った。
「だって……早苗がせっかく頑張って受験勉強して入学を決めた高校なのに、一度も制服に袖を通さないなんて、寂しいじゃないの」と、母は答えた。「ねぇ、着てみなさい」
早苗はゆっくりと、惜しむように時間をかけて制服を着た。新しいシャツの肌触りや、ネクタイの気の締まる着け心地、それからスカートの丈を、ちょっとだけ自分の好みに調整する楽しみ、最後にすべてを包み込むようなブレザーのボタンを丁寧に留めるに至るまで、その過程のひとつひとつを大切にするように。
やがてすべてを終えた早苗の姿を見て、母親は思わず声を洩らした。
「素敵ね、よく似合っている……」
それから彼女は、早苗のなだらかな肩にやさしい手付きで触れた。今、目の前に確乎として立っていながらも、やがて失われてしまう娘の存在感を、てのひらに記憶しようとするかのように。そして、その成長のしるしを、いとおしむように。
「大きくなったのね、びっくりだわ。この制服もね、お店の人にすすめられて、予定よりひとつ大きいサイズのを買ったのよ。ほら、子どもの成長は早いからって。でも本当ね。この制服も、大きさがぴったりだわ。……私の気付かないうちにこれだけ成長したのですもの、早苗はもう、私がいなくてもきっと大丈夫ね」
胸にたとえようのない寂寞を感じながら、母親は静かにそう言った。けれども彼女は妙なことに気付いた。早苗の肩がかすかに震えている。
「寒いの?」と、彼女が訊くと、早苗は俯いたまま、黙って首を横に振った。
母親の胸に重みが加わった。気付けば早苗が、その顔を押し当てていた。しばらく無言だった。けれども母親には、娘が声を殺して泣き濡れているのが分かった。やがてそれを証明するように、それまで早苗の抑えていた嗚咽が、静かな雨の音に混じって、部屋に小さく響きわたった。彼女は母のパジャマの胸元を、皺になるまで強く両手で握りしめていた。それは神さまに祈る人の姿そのものだった。でも神さまがいなければ、彼女は涙を流すこともなかっただろう。
「ごめんなさい……」
「どうして謝るの?」と、母は不思議に思って訊いた。
「だって……」と、早苗は何か言おうとして、言葉を詰まらせた。
母親はそんな早苗の頭をいとおしげに撫でた。その髪は今は黒に染められておらず、鮮やかな海緑色が電灯の白い光のもとに露わになっていた。本当にきれいな色だ、と母は改めて思った。
「もし早苗が、今まで私にひどいことを言ったことを後悔しているのなら、謝る必要なんてありません。……だって、もう何言われたか忘れてしまったんだもの」
「それもあるけど、他にも……」と、早苗は掠れた声を洩らした。「私、お母さんじゃなくて、神奈子さまと諏訪子さまの方を選んでしまったから……」
それを聞いた母は、ちょっと目を丸くした。そのうち、早苗はだいぶ落着きを取り戻したみたいだった。声はまだ掠れているものの、肩はもう悲しみに震えておらず、今は彼女の呼吸のリズムに応じて小さく波打っている。それでも相変わらず、母の胸に顔をうずめたままだったけれど。
「早苗は二柱の神さまに付いて行くと決めたことを、後悔しているの?」
早苗はしばらく黙っていた。そして、やがて小さな声で、それに答えた。
「そう……」と、また母親は早苗の頭をひと撫でした。
「お母さんは……」と、やおら顔を上げた早苗が口を開いた。「お母さんはどう思うの? ……その、私を連れて行くことになった二柱の神さまのことを」
娘の突然の問いかけに、母親はやや困ったような表情をした。そうして、どう言葉を選んだものか、少しのあいだ迷った。が、やがて彼女は早苗の耳元に唇を近付け、ささやくようにそっとこう耳打ちした。
「本当を言うとね、ちょっとだけ恨んでいるわ」
それを聞いた早苗は、急に陽が差し込んだように微笑んだ。母親にはその笑みの理由がよく分からなかった。すると彼女は声を潜めて打ち明けた。
「良かった。……私、心配してたの。私はお母さんにとっては要らない娘なんじゃないかって。私より、死んだ兄さんの方が大事に思われてるんじゃないかって」
「そんなことないわ」と、母親は今度は早苗の存在を腕いっぱいに感じとった。
やがて早苗は、母親のぬくもりから、名残惜しそうに離れた。
「そういえばね」と、母は突然、何かを思い出したふうに席を離れ、やがて程なくして戻って来た。「これを早苗にわたそうと思っていたのよ」
「これは……」と、早苗は手渡されたものをしげしげと眺めた。
布製の小さなお守りだった。紺色の布地に、緑色の糸で星が刺繍されている。
「形見としては、ずいぶんと頼りないけど……」と、母が言った。
「充分よ。私、大事にするから……」と、早苗は着たきりの制服のポケットに入れた。
「そんなところに入れると失くすわよ」
「いいの。制服もこっそり向こうに持っていく積りだもん」
「そう……。でもね、私は今でも、これで早苗と一生のお別れっていう気がしないの。ちょっとだけ、心のどこかで早苗にまた会える気がしているの」
「どうかな」と早苗は困って、首を傾げた。
「私の勘って結構当たるのよ」
「ええ?」と、早苗は母がそんなことを言うのをはじめて聞いた。「そうだね……。何だか私もそんな予感がしてきた。それに、お母さんの勘より、私の予感の方がよく的中するのよ。だからそう、何かひょんなきっかけで、また会えたりするかも知れないよね。ううん、絶対そうなるはず」……
翌日、出立の時刻が来た。移転は神社の中で行われた。実にあっさりしたものだったが、移転直後に急に空気が変わったのに、早苗は気付かないわけにはいかなかった。
何だかひどく息苦しい。酸素がいつもより薄い気がする。もしかして、山の上だろうか。
「はぁ、やれやれ……無事に引っ越しは終了だ。早苗、外を見てみな」と、神奈子が快活に言った。
言われるままに、早苗はおそるおそる外へと出た。そして驚いた。
見慣れた景色は消え失せ、眼下には延々と濃い緑がつらなっていて、いかにも山の頂上からの眺望だった。靄がかかっている所為で、その緑は果てるとも知れずに寒々しい薄幕の中に呑み込まれている。空を見上げると、恐いくらいに美しい青が海のように広がっていた。早苗はこんなに青く澄んだ空を見たことがない。空はかつてない程に近い。
早苗はその空をじっと見上げながら、湧き上がる郷愁のうちに、ふと思った。
やっぱり高校、行きたかったな。……でも仕方ない。もう済んだことだ。すべては私が選んだんだ。だから私はここで強く生きなくてはいけない。強く……。
肺いっぱいに空気を吸い込みながら、早苗は後戻りできないことへの決心を固めた。
肌に痛く感ぜられる程の風が吹いた。ずいぶんと手荒い歓迎だな、と彼女はさっそく反抗的な気持ちを抱いた。
母親が制服をあてがうシーンなんかは、思わず目頭が熱くなった。
続き読んできますね。
それは早苗さんを受け入れるのか、果たして。
話も折り返し地点ということで切り込んだ感想はまだかけませんが、いろいろと妄想させてくれる前編でした。
しかも文章が俺好みの書き方だからつい我を忘れて読み込んでしまった。
前編だけでここまで感動するお話を読んだのは久しぶりのような気がします。
今生の別れって本当にジーンと来るな~て思わせる素晴らしい作品だと思いました。
色々な心情とか景色とかの表現もすごく巧みでどんどん内容に引き込まれるようでした。
素晴らしい作品を有難うございます。
早苗の内面が客観的かつ歩み寄った形で描かれていてなんというかそれが流れ全体にすごくマッチしてて最初から最後まで釘付けでした。