「――はい」
人を待つ間さっと鳥の絵を描く。象形文字に近い簡単な絵。
これだけではただの墨絵だ。落書きと言ってもいい。
しかし私の周りに集まる子供たちはきらきらした目で絵を見つめていた。
可愛らしいものだ。さて、あまり焦らしても悪いかな。
「急急如律令」
小さく呪言を呟く。
すると紙に描かれた鳥が動き出し――飛び立った。
わあっと歓声が広がる。簡単な仙術だが、子供を喜ばせるには最適だ。
大人相手ならどんな危険な術も気兼ねなく使えるのだけど――
「あ! 宮古様!」
子供の声に我に返る。
「おお、仙人殿に遊んでもらったか。ちゃんと礼を言うのだぞおまえたち」
快活に笑いながら子供たちの頭を撫でるは待ち人であった。
古い知人を思わせる――しかし知人と違い立派な体格をした男装の麗人。
「芳香様」
「お待たせしました青娥殿」
言って彼女はにこりと笑う。
「えー、仙人様もう行っちゃうのー」
墨や筆を片づけ始めたら子供たちは残念そうな声を上げた。
もっと仙術を見たいのだろうか。せがまれるのは嬉しいけど、しかし困った。
芳香様を待たせるわけにもいかないし……
「これこれ。仙人殿はお忙しいんだ、あまり困らせるものではないぞ。今度毬を持ってきてやるから」
「本当!?」
「ああ約束だ」
その後二・三言葉を交わし子供たちは去っていった。
助かった、けど……
「あの……芳香様、よいのですか? あのような約束をして……」
「はは、貧乏役人の懐には少々厳しいですね」
言ってはなんだが彼女は冷や飯食らい。財産も殆ど持ってない。
身寄りもなく、こねも無いという役人として厳しい立場に置かれている。
有能で民に愛されているお方だけど……それ故に、惜しい。
やはり、ここは私がお金を出すべきだろうか。立場上まずいかもしれないが。
ただ彼女がそれを許すだろうか。女の身で確りと役職をこなす誇りを傷つけはしないだろうか。
気難しいお方ではないと知っているけれど、そこまで深くを知るわけではない。
「お待たせして申し訳ない」
不意を突かれる。余程考え込んでいたのか声をかけられびくりとしてしまった。
「ああいえ……あなた様にもお付き合いがございますから」
「仕事だったらよかったのですがね」
ふと見上げれば彼女は苦笑を浮かべていた。
己が苦境も笑って語る彼女が苦笑を浮かべるなど、何があったというのか。
「陰陽寮の方で何か……?」
彼女は私を陰陽寮まで迎えに来て、そのまま捕まっていた。
考えてみれば小役人の彼女に陰陽師が用があるとは思えない。
「ははは、また嫌味を言われてしまいましたよ」
「なんと言われたのですか?」
「あなたにどう取り入ったのだとか、そんなことです」
裏表のないその性格は役人に向いていない。
なんとも……不器用なお方。
「……あなたは命の恩人だと何度も言ってますのに」
派手に動き過ぎただろうか。
生計を立てる為に陰陽寮で仙術を教えていたが、彼女に迷惑をかけるほどになっていたとは。
神子や布都たちを扇動していた時代とは違うのだ……仏教が勢力を増した今、大人しくしていた方がよいかもしれない。陰陽寮を味方につけているから邪法使いとして追われることはなかろうが……
現状は計算外。大祀廟の封印も終わった今、早々に大陸に戻った方がよいのかもしれぬ。
ならば世話になった彼女に礼を告げ去るとしようか。
「……芳香様」
「やはり私ではあなたに不相応なのですかねぇ」
その一言に、かちんときた。
不相応? 芳香様が?
「そのようなことを言われたのですか」
「ええまあ……確かに私ではあなたのお世話も十分に出来ませぬ」
財という点ではその通りだろう。事実私は陰陽寮で稼いでいる。
しかし財だけでこの青娥娘々をもてなそうなど片腹痛い。
「今この国で私に相応しいのはあなたくらいですよ」
国一番の富豪とて私に相対するに足りぬ。財如きで青娥娘々を量れると思うてか。
力だ。強き者こそが仙人たるこの私に相応しい。
「近頃のお役人様は存外ものを知らぬのですね――権力など、本物の力に容易く奪われるというのに」
昔から不思議だった。権力者……特に先代から受け継いだだけの者たちは権力を奪われることを考えもしない。権力という笠を着るにはそれに見合った力が必要だ。でなくば虎の威を借る狐でしかない。
この世は所詮弱肉強食。力ある者が上に行くのが正しいのだ。
そう、女の身でありながら怪力無双を誇る彼女のような。
見れば思ったよりも強い語調となっていたか、彼女はきょとんとしている。
言い過ぎ、だったか。これでは謀反を勧めていると思われても仕方がない。
財と、つてさえあれば彼女が天下を取るのも容易いとは思うけれど……
芳香様は清廉なお方だ。もしかしたら気分を害されたかもしれない。
陰陽寮に、ひいては朝廷に弓を引けと唆すなど……
「青娥殿」
叱られる、だろうか。
思わず身構えてしまう。
しかし彼女は朴訥な表情を崩さずに口を開いた。
「私のもてなしに御不満はないと?」
「は?」
……え? いやそこで首を傾げられても私が困る。
もっと大きな話をしていたじゃないか。聞いていなかったのか?
いや、彼女はそんな粗忽者ではない。恐らくは関心がこちらの方に強かったのだ。
「不満など……一度も抱いたことはありませぬ」
「それはよかった。陰陽師だけでなくあなたにも文句を言われたら流石に悲しい」
彼女は――芳香様は、私のことだけが気がかりだった、と。
なんとも、肩の力が抜けてしまう。一人で空回りして、馬鹿みたいではないか。
「先程も言いましたが、あなたほど相応しい者はおりませんよ」
「光栄です。しかし、言われてしまうと気になってしまうもので」
「仙人をもてなすに必要なのは財ではありません。もてなす者の格……貴人か否かですわ」
「貴人……ではなおのこと私では」
「仙人たる私から見れば真なる貴人とはあなたのことですよ芳香様。人に慕われ、力も強く、教養がありなにより詩歌の才に恵まれております。人は財の大小では計れませぬ」
「ふむ。私もまだまだ俗人ですね……あなたの言葉なくば視界を狭めるところでした」
言って、快活に笑う。
「なによりあなたに認められたのが嬉しい」
――私に? そりゃ、仙人に認められるというのは……名誉なことだろうけど。
ただなんとなく、そういうことではない気がする。
己を俗人だなどと言うけれど、彼女が喜ぶのはもっと簡単なことのような。
友人をもてなして、喜ばれたことが嬉しいとか、そういう単純な――――
……ふふ、仙人の私を友人と同列とは、それこそ不遜ですわ。
でも何故だろう。ちっとも不快に思わない。清々しくさえある。
「今日は奮発するとしましょう。待っていてください、良い魚を釣って参ります」
そこで「買ってくる」ではなく「釣ってくる」なのですね……あなたらしいですけれど。
先に帰っていてくださいと去っていく背を見つめる。
今晩の食事が楽しみだ。彼女はどんな魚を釣るのだろう。
もう少し。もう少しだけ留まってみようか。
もう少しだけ、彼女の行く末を眺めていよう――
秋も深まり散る葉も増えた。
風は冷たく夏の気に染まりし肌を洗うよう――
「……駄目ですね」
なにか、詩でも詠めそうな気がしたのだがまとまらぬ。口に出すのも憚られる。
もし芳香様の耳に入ったらと思うと……彼女は卓越した詩歌の才を持っている。
彼女の前でこんな拙い詩を披露すればさぞ落胆されるだろう。
弱みを見せたくはない……私は尊敬される仙人でなければ。
用事も無いからと慣れぬことをするものではないか。
窓から外を眺める。
今日は陰陽寮に出向く予定も無い。さて、何をして時間を潰そう。
また子供たちに仙術でも見せようか……
「青娥殿」
耳に馴染む声に振り返る。
「お暇でしたら釣りにでも行きませんか?」
芳香様は釣竿と魚籠を掲げてそう言った。
釣り、か。ふむ、彼女の隣で無聊を慰むのもよいだろう。
「わかりました。お伴しましょう」
「ではこちらを羽織りください。風も冷えてまいりました」
差し出されるのは粗末な衣。しかし彼女の心遣いを無碍にするわけにもいくまい。
礼を言って受け取る。羽織るのは向こうに着いてからでもよいだろう。
――粗末な衣なのに温かいのは、彼女が抱えていたからだろうか。
そうして辿り着いたのは川のほとり。虫の姿も少なく。生い茂る草には枯れた色が目立つ。
「ここはよく釣れるのですよ」
釣り支度を始めた彼女に倣いその隣に座る。
川の流れに釣り糸を垂らす様をなんとなしに眺める。
……釣りとはここまで退屈なものなのか。芳香様が私を誘うのも頷ける。
これでは話し相手でも居なければ暇でしょうがない。
「おっと」
川のせせらぎに混じって聞こえる糸の切れる音。
「お恥ずかしいところを。針を持っていかれてしまいました」
苦笑しながら彼女は針と餌をつけ直している。
「ふふ、芳香様は力が強過ぎるのですよ」
釣りのことはよくわからないが、きっと彼女の力に糸が耐えられなかったのだろう。
米俵を軽々と持ち上げる様には驚いたものだった。鬼の類かと身構えたのを憶えている。
しかし意外だ。よく釣りに行く彼女が糸を切ってしまう腕前だなんて。
もっとなんでもこなすと思っていたけれど……彼女も完璧ではないということか。
「今宵は私が腕を揮いましょう」
「え? ですが……」
「いつまでも世話になりっぱなしでは申し訳ありませぬ」
「しかし――」
「ふふ、難く考えなさらぬように。ただ私の料理を食べていただきたいのです」
「……そういうことでしたら」
「ですが、芳香様が釣ってくださらぬと作れませんね」
「……ははは、これは然り。気を入れて釣らねばなりませんね」
ひとしきり笑って、彼女は再び川の流れに視線を落とす。
するといかなるからくりか、すぐに一匹釣れてしまった。
立派な鯉だ、腕の揮い甲斐がある。泥抜きに三日は欲しいところだが……
いや、この調子ならまだまだ釣ってくれそうである。今宵は他の魚を使うのもよいだろう。
隣に座っているだけだけど、釣りも楽しいかもしれない。
そんなことを考えていたら――修業時代を思い出した。
山に籠り、食うにも困って拙い仙術で魚を捕えた記憶。
罠を張り獣を捕え捌いた記憶。旅人を襲い食料を奪った記憶――
――――私が天に認められぬ理由。仙人に至れず邪仙と堕ちた理由。
ああ、またか。忘れよう忘れようとしているのに、古傷の如くふいに心を苛む。
いつまで引き摺る。天に認められずとも……数多の人に仙人と認められたではないか。
芳香様にも――認められたではないか。
「…………」
なにを、考えているのだろう。
不老長寿を成したこの身なれど、そんな無駄なことを考える暇など無い。
もっともっと、先々のことまで考えねばならぬのに……
弱気に、なっているだけだ。神子たちに授けた策が少し狂い、それで弱気になっている。
あれから数百年……神子たちの眠る大祀廟は暴かれていない。尸解仙の術は破られていない。
如何に仏教が勢力を増そうと私の張った封印は解けないだろう。
しかし僧侶たちは封印を重ね掛けして、神子たちの目覚めをも封じてしまっている――
……そうだ、退屈なのだ。策が進まず退屈だから……こんなことを考える。
大祀廟に赴き私も眠るか、深山に籠り仙術を磨くかしておれば忘れられる。
なれば、どうするか。退屈を紛らわすには、無聊を慰むには――
「――芳香様」
口は勝手に開いていた。
「私は近々唐に戻ろうと考えております」
「え?」
ぱしゃりと魚が跳ねる。
驚きに振り向いた彼女の顔を見ると――何故か、落ちつく。
「それは、急ですね……では船の手配を……」
「あなたのお手を煩わせることはありませぬ。仙術で帰れますので」
「失敬……あなたの力を見縊っておりました」
逸らされる視線。強張る横顔。
なんとも……可愛らしい。
「――なんて、助けていただいた身で言うことではありませんでしたね」
「ああ、もう一年になりますか」
一年前――嵐に巻き込まれた私は彼女に助けられた。
数百年かけて誰も立ち入れぬようにした大祀廟から離れ、修行に適した深山を探していたところを嵐に巻き込まれ、川に流され――思えばこの川だったか、芳香様に助けられたのは。
以来、彼女の世話になっていた。
そろそろ、潮時だろう――だけど。
「……寂しくなります」
ただ離れるには……彼女は、惜しい。
「芳香様……」
そうだ――彼女をこのまま置いていくなどもったいない。
かつての豊聡耳神子のように……私を愉しませるかもしれぬ才女を。
このままでは不遇の才人で終わってしまうだろう芳香様。
彼女の力を認めぬこんなところで朽ちさせていくなど、あまりに惜しい。
「私と来ませぬか?」
だから、この誘いは当然なのだ。
「青娥殿?」
「私の仙術とあなたの力があれば一軍の将になるのも容易い。いえ、一国の主さえ夢では――」
隣には私が立つ。王たる彼女を私が導き支えよう。漢の武帝を導いた仙人、東方朔のように。
彼女と私なら、例え武則天や千年狐狸精が相手でも打ち勝てよう。
必ずや彼女を歴史に名を残す名君にしてみせる。
「芳香様。私は見たい。あなたが、あなたの力が正しく認められる姿を」
今はただの小役人だけれど、磨けば輝く宝石なのだ。
私の手を取りなさい宮古芳香。仙人、青娥娘々があなたを未知の世界へといざなってあげましょう。
「…………」
視線が、外される。
怖いのか? いや、この程度を恐れるような胆力ではない。
なれば、彼女は――
「私は……行くわけにはまいりませぬ」
……? 拒否にしても、妙な……
何かに縛られでもしているかのような物言い。
拒否による落胆よりも、疑問が勝る。
「青娥殿……私は宮古の最後の一人です」
それは知っている。彼女に身寄りは居ない。
だがそれがどうしたというのだ? むしろ身軽ではないか。
捨てるものさえ無いのに、何故縛られているようなことを。
「父より受け継いだこの役目……放り出すわけにはいかぬのです」
以前、家族はいないのかと尋ねたことがあった。
その時聞かされた。宮古一族の最後の生き残りだと。家族は全て流行り病で先に逝ったと。
そして朝廷の恩情で、若輩かつ女の身でありながら父の役職を継げたのだと。
「おそらく宮古は私の代で終わりです。嫁の貰い手もありませんし……」
横顔に苦笑を浮かべ、彼女は己の決意を語る。
「ですが、最期までやり遂げたい。浄土で待つ父に、頑張ったと胸を張りたいのです」
家族の為。
既に死んだ者の為。
それ故に行けぬのだと彼女は言った。
私には――理解出来ない。何故縛られているのに笑えるのだ。
そんなもの、ただの重しではないか。どこにも行けぬのが悔しくはないのか。
何故、なのか。
どうしてこんなにも腹が立つ。
芳香様を理解出来ぬことが、何故こんなにも――
「っこふ、ごほっ」
「芳香様?」
咳。風邪を召されたのか。
彼女に渡された衣を脱ぎ彼女にかける。
「芳香様、これを」
「すみません、ですが、あなたが冷えてしまう」
「この程度仙術でどうとでもなります。どうか、御自愛を」
……彼女が来てくれぬのは残念だけれど、だからといって興味が失せたわけではない。
積み重ねられた恩義に報いることも出来てない。だから、この対応は当たり前。
「すみません……」
「……ほら、早く魚を釣ってくださいまし。今宵の分がまだ釣れておりませぬ」
「え、ああ……そうでした」
「邪魔をした私に言えた義理ではありませぬが、芳香様はどこか抜けてらっしゃる」
「これはしたり。いつまで経っても未熟で、恥ずかしい限りです」
笑う彼女を見つめる。
未熟、か。
なれば――今しばらく……私が支えよう。
語り継がれるような活躍は出来ないけれど、支えてみよう。
国を導けずとも、彼女を導けるのなら……それで楽しめそうなのだから。
琴を奏でる。
凛とした響きは部屋に満ちる凍える空気を切り裂くよう。
ちらと聴き入る姿に目を向ける。芳香様は目を閉じ、私の奏でる曲を深く味わっているようだ。
暇潰しにと始めたものだったが、気に入ってもらえたようでなによりだ。
そして曲が終わる。それを告げるように薪がぱちりと弾けた。
「素晴らしい」
「ほんの手慰みですが」
彼女の称賛は気持ち良い。そこに微塵も他意は含まれていないのだ。
真っ直ぐな言葉……疑う必要のない言葉とは、なんと心地良いものか。
「冷えますね……お茶をお淹れしましょう」
「あ、すみません。私がもてなす方だというに」
「これくらいはさせてくださいまし」
彼女が動かなかったのは私の奏でた曲を吟味していたから。
それを責めることなどどうしてできようか。自然笑みを浮かべながら茶の仕度をする。
見れば芳香様は火に当たりながら再び目を閉じていた。まだ曲を、ということはないだろうけれど。
凍える冬……今宵は何か精のつくものを作ろうか。唐の食材でも手に入ればよいのだが。
「気霽れては風新柳の髪を梳る――」
流れるような声だった。
思わず手を止め詩を反芻する。
新柳、か。
「春を想って、ですか」
短いのに染み渡る……
涼やかな薫りさえ感じさせる詩。
「良い詩ですね」
「お恥ずかしい、実はどうしても続きが思い付かぬのです」
「続き……」
この詩に相応しい続き……考えてみたけれど、一語さえ出てこない。
何を言っても穢してしまいそうで、口を開くことすら憚られる。
「あなたの詩歌の才は仙人たる私でも及ぶところではない。そうですね……」
煮立つ湯。ああ、茶の仕度を続けなければ……
「神や、鬼の類ならばあなたと詩を交わせるかもしれませぬ」
「神、鬼?」
ほんの思い付きで告げた言葉に彼女は目を丸くした。
「ははは、流石は仙人殿。凡人の考えつかぬ面白き案を出してくださる」
「戯れ言にございます」
「いや、鬼というのは面白い。そうか……鬼なれば……」
「? どうなされました」
一瞬、彼女らしからぬ執着を感じた。
桃の花の如く清廉な彼女がそのような俗気を出されるなど滅多にない。
「あっ、その――我がことながら、良い詩が出来たもので……」
……出来た? ついさっき、続きが思い付かぬと言っていたのに。
あれで完成としたのか。いや、彼女の言う通りあれでは何か足らぬ気がする。
戯れ言ではあったが、誰かと交わし返歌を加えてこそ……否、それこそ戯れ言か。
私に彼女程の詩歌の才は無い。彼女が良しと言ったことに口を挿める技量ではない。
恥を掻く前に口を噤んでおこう――茶を碗に注ぐ。
「お待たせしました」
碗を渡す。指が触れる。彼女の手が、びくりと震えた。
震えた――? いや、その前に……
「あの」
彼女の手。触れた感触が、おかしくはなかったか?
「……お痩せになられましたか?」
骨に、触れた気がする。皮の下に肉がなく、骨が指に当たったような。
元よりふくよかな方ではないけれど、そういえば、どことなく、顔色も優れぬように見える。
……近頃は、力を揮う彼女を見ていない。
「いえ……そのようなことは……」
声に澱み。
視線が逸らされる。
「その程度の嘘見破れぬとお思いですか。ましてや、嘘偽りなど為さぬあなたが……」
「……少し、疲れているだけですよ」
なぜそのような嘘を。彼女の性格では隠しきれぬだろうことは明白だ。
どうしてその場しのぎでもよいといった風に嘘を吐く?
嘘に嘘を重ねるなど、あまりにも彼女らしくない。
「疲れている、だけ」
様子がおかしい。ただ嘘を吐いているだけではない。
「……ごほっ」
咳込む姿にも違和感しか感じられない。
「芳香様……正直にお答えください。何を、隠してらっしゃるのです」
知らず、胸の内に焦燥感が満ちてゆく。私は、何を焦るのか。
ずいと身を乗り出す。それを制したのは骨ばった、彼女の手。
「近寄ってはなりませぬ」
それでも彼女は視線を逸らしたまま。
だが、近寄るな? 近寄るなとはどういう意味か。
私が触れて、びくりとしたのは。
「芳香様、もしや」
鼓動が速くなるのを感じる。
不吉な考えが頭から離れない。
だけど、これでは、
「あなたには……敵わない……」
私を見ぬまま、彼女は苦笑を浮かべる。
「――……続きを詠えぬのが……未練です」
聞きたくない。そんな言葉、聞きたくなかった。
それでは、それではまるで――
「っごほ、ごほっ」
「芳香様?」
秋頃から目立ち始めた咳。
だが、この重い響きは、まさか。
「ごぶっ」
ぱたぱたと――口元を覆う指の間から、赤が滴った。
「芳香様!」
倒れかけるその身体を抱き止める。
なっ――抱く彼女の身体から力が感じられぬ。
「せい……が、……毒血……触れて、は……この病、は……うつり――」
「芳香様! 芳香様ぁ!」
吐き出された血が、彼女の衣に広がっていく――――
落ちついたのは日が暮れてからだった。
……落ちついた、などと言っても眠る彼女の呼吸はまだ荒い。
荒い呼吸。全身に渡る衰弱。そして喀血……
間違いない、これは肺腑の病。それも――手遅れの。
何故。何故今まで教えてくれなかった。なんで私を頼らなかった。
私に病をうつすと危惧していたのか? だったら追い出せばよかったろうに。
さすれば私とて、彼女の異変に気づけたのに――
「――っく」
今更、どれだけ愚痴ろうが後の祭り。
どうにか、しなければ――手遅れだなどと、それは人間の話。仙人たる私ならば――間に合う。
人に成せぬことを成すのが仙人だ。彼女一人救うくらい出来なくてどうする。
そうと決まれば彼女の病状をもっとよく診て対策を練らねば。
万能の薬など無い。薬ではなく、私が彼女を救う。
彼女の服に手を掛けるのと、彼女が目を開いていることに気づくのは同時だった。
「――青娥殿」
叱りつけたくなるのをぐっと堪える。
相手は病人。負担をかけてはならない。
「せい、が殿……触れては、なりません……病が……」
爆発寸前まで溜めこまれた怒りは、しかしその一言で霧散する。
息も絶え絶えだと云うに、触れるな? 病がうつるからと?
この方は、どこまで――
「私は……仙人です。人界の病如き、うつりはしませぬ」
「それは……よかった。心配、だったのですよ……」
私のことより御自分のことを気にしなさい。
余裕など、微塵もありはしない癖に。
「……芳香様、この病は……」
「はい……」
苦しそうだが、訊かぬわけにはいかぬ。彼女を助ける為に必要なのだ。
「父も、母も……この病で、逝きました……これは――死病です」
よくない、情報だ。彼女の両親も、ということは彼女もまたこの病に弱い。
そうでなくとも誰もが死ぬ可能性のある毒性の強い病。治すのは至難の業となろう。
…………いや、治す方法などあるのか?
彼女の父母は流行り病で亡くなったと聞いた。流行り病。無数の人々が死んだ筈。
それだけ症例があって、今また彼女が死にかけるなど――対処法が確立されてないということ?
ならば、やはり仙術しかないのか。だが、しかし……医に通ずる術など、私は。
仙丹、は――無理だ。あれは仙人となった者の為の仙薬。何の修行も積んでない生身の人間には毒にしかならない。手持ちの丹砂とて、彼女には毒……では、どうすれば……
待て、外丹が駄目なら内丹が、でも、あれとて修行をせねば。
それでは間に合わない。今すぐにでも効く手段でなくば。
だとしたら、私の持てる知識の中には――
「申し訳ありません」
考え込んでいた故か、何を言われたのかわからなかった。
いや、そうでなくともわからなかったろう。謝られることなど身に覚えが無い。
「申し訳ありません……青娥殿」
「芳香様……?」
「いくら謝っても、足りない――本当に、申し訳……ありませんでした」
何を、そんな辛そうな顔で、謝るのか。
介抱したこと? この程度手間でもない。
病を告げるのが遅れたこと? 確かに腹は立ったが。
それとも――もう何も思いつかない。彼女が無礼を働いたことなど一度もないのだ。
彼女はよくしてくれた。何時だって誠心誠意働いていた。それなのに、何故謝る?
「愚かしい真似を、しました」
罪の告白。それは、必要なことかもしれないけれど。
今はそんなことにかかずらってる場合ではないのだ。
止めねば。少しでも彼女の負担を、
「あなたと離れたくなかった。あなたに病をうつすやもと怯えながら……手放せなかった」
――そのような、こと。
「己が欲で……あなたを害してしまうところ、だった――」
害する、など。
聞いていなかったのですか。
仙人にこのような病は届かない。
それはただの杞憂。罪などではない。
なのに罪を感じるなんて――あなたは、私を閉じ込めたつもりだったの?
こんな……戸も閉められていない鳥籠で、そんな罪を感じていたの?
私は、いつでも飛び立てた。決して捕えられてなどいなかった。
私は……私の意思で、心地良いから離れなかっただけなのに。
――もう、迷いはない。
持てる術は全て使う。どのような手を使っても彼女を助ける。
その為なら、私は――
「……そのような罪、お忘れください」
「ですが……」
「それより、あなたに効く薬を持っておりません」
「……そうですか。なら」
「ですが、一つだけ手段が残されております」
この身体をも、差し出そう。
「芳香様……私の精気をお吸いください」
「……青娥殿?」
「仙術に他者の精気を吸い活力とするものがございます。仙丹は人には強過ぎ毒ともなりますが、これならあなたの病も……」
「……それは、どういう……?」
「あの……それは……」
恥など捨てろ。彼女を助けると決めたのだろう。
「……私と肌を重ねていただきます」
彼女は唖然としている。当然だ、彼女は未婚だが……このような趣味があるなど臭わせた事も無い。
拒まれるだろうか。己の魅力に自信はあるが同性にまで通じるとは思っていない。
だけど、書で読んだこの術しか……もう打てる手がない。
私が学んだ仙術の多くは派手で見栄えは良くとも人を助けられるものではなかった。
雷を玉にする術など、今この場では何の役にも立たない。
なればこそ、実践したことはないけれどこの術を使うしかない。
この術さえ知らぬ彼女に精気を渡すには、相応に無理をせねばならぬだろうが……その程度。
なんでもすると決めたのだ。元より不老。多少命が削れようとも構わぬ。
「芳香様……この術は私も十全に使えるわけではありませぬ。されど、この方法ならばあなたをお救い
出来るかもしれません。私の命を削り、あなたに分け与えれば――」
「お止めくださいっ!」
肩を掴まれる。
起きれぬ筈の身体で、彼女は私を押さえていた。
「お止めください――青娥殿」
な――なん、で。
止めろなんて、これしか手段はないのに。
「我が身かわいさにあなたの命を喰らい生き延びるなど……己を許せませぬ」
「ち、違います! た、確かに命をやりとりする術ですが、命を喰らうなどと……!」
それは、やりとり出来ぬのなら、一方的に奪うことになるけど。
でも仕方がないじゃないか、今から仙術を学んでいたら間に合わない。
失敗を恐れているのか? 確かに習得した術ではない。どこかに綻びがあるかもしれぬ。
だけどこのまま放っておけば、あなたは、あなたは――
「それに私は仙人です、多少命を削ったところで……!」
「青娥殿」
静かで、重い声だった。
「わがままをお許しください」
どうして私は何も言えぬのか。
「私は――あなたを穢したくないのです」
どうして私は、彼女の言葉を否定出来ぬのか。
口を開くことは出来ず、彼女の手をそっと外し、部屋を出る。
なんで? どうしてこんなことになってしまったの?
私は、ただ……芳香様を助けたいだけなのに。
穢す……? 穢れ……穢れ、など――私は――邪仙だ。
いくら仙人を騙ろうとも変わらぬ事実。悪事に染まり仙人には成れぬ出来損ない。
天よ……これは報いなのですか? 私が成した悪事への報いなのですか。
私が邪仙だから、悪なる者だから彼女は私の救いを拒むのですか。
悪に染まりし外道が、人を救うなど出来ぬと仰られるのか。
それが、その絶望が道を踏み外した私への報いだと……
彼女を助けられぬことが、報いだと言うのか――!
認めぬ……! こんな筋違いの報いなど認めぬ!
そんな報い如きの為に彼女が私を拒むなど、認めるものか!
死なせぬ。芳香様を死なせるものか。芳香様を救うのはこの私だ。
邪仙と罵るなら好きにすればいい。天命など覆してくれる。
例え天に弓を引いても――彼女を助けるのだ。
雪が降っている。
近頃の冷え込みは厳しく、病人には辛かろう。
これでは芳香様の身体に障る――もっと火を焚かねば。
幸い金銭にはまだ余裕があった。最近は陰陽寮にも出向いてないが貯えがある。
暫くは金に困らない。薪や薬草を買い込まねば……
「これも――駄目、か」
紙に書かれた薬の名に斜線が引かれる。
手当たり次第に薬の知識を集めそれが彼女に使えるかを調べる毎日。
そして、どれもこれも使えぬとわかるだけの毎日。もうずっと、この繰り返しだった。
あれから――私は世に出回るありとあらゆる医術の書をかき集めた。
陰陽寮のつてで保管されていた唐の書まで書き写した。
だが、学んでも学んでも追いつかぬ。
彼女を救う手掛かりすら掴めぬ。
何故私は医学薬術を学ばなかったのだ。仙丹など何の役にも立たぬではないか。
もう少しでも他のことを、他者の為になることを学んでおれば、彼女を――!
「っく」
だが、この程度の私でも……この国の医術よりは上だと云うのだから、皮肉。
この国に彼女を救う術は無い。海を渡りでもしなければ見つからない。
なのに、彼女はもう旅など出来る身体ではなかった。
どうしろと、いうのだ。八方手づまり……出来ることなど、何も無いではないか。
このまま、痩せ衰えていく彼女をただ見ているだけ――否。否否否、断じて否。
助ける。助けるんだ。私が彼女を救う。そう、決めた……決めた、んだ。
「……あ」
水時計が傾ぐ。時間、だ。
「いけない……芳香様がお起きになる……薬湯の仕度を、しなきゃ……」
立ち上がる拍子に筆を落としてしまう。落ちた筆は転がり、床を墨で汚した。
どうでも――いい。薬湯を、作らねば。芳香様の元へ、行かねば――
――記憶が飛ぶ。
気づけば、滋養強壮の薬湯を手に彼女の部屋を訪れていた。
「芳香様、薬湯です」
遅れたか、彼女はもう目を覚ましていた。
「すみません、毎日」
「この程度、なんということもありません」
何度目だろう、この会話は。
もう何年も繰り返している気がする。
馬鹿な、こんな身体の彼女が何年も耐えられるものか。
だが、この冬の日を延々と繰り返している錯覚は、消えない。
彼女が身を起こすのを助け、背を支えながら薬湯を渡す。
あまりに軽く、硬いその感触は俄かに夢現であった私を正気に戻す。
……髪は艶を失い、肌は張りと色を無くしていた。
見る影も……無い。
芳香様は、もう、一日の内で意識の無い時間の方が長かった。
薬で誤魔化しているが、病による苦痛も尋常ではない筈。
正直に言えば……見るに堪えない。
「冷えますね――お風邪を召されておりませんか?」
ずきりと胸が痛む。気遣いなど、あなたの気遣いなど、最早刃と変わらない。
「……私は仙人ですよ? 芳香様……人界の病など届きませぬ」
「ああ、そうでした」
あなたの優しさが、今はただただ痛い。
あなたを救えぬ愚かな邪仙に優しさなど不要なのです。
どうか私のことなど気にかけず、己の為に生きてください。
「火を、増やしましょう。寒いのでしたら、お身体に障ります」
懐から呪符を数枚引き出し呪言を呟きくしゃりと握る。
燃える小鳥となったそれは芳香様のまわりを飛び始めた。
「いつ見ても……あなたの仙術は、素晴らしい」
ゆっくりと、ひび割れた唇が笑みを浮かべた。
……この程度で喜んでくださるのなら、私は不眠不休でお見せします。
あなたが望まれるのなら、私は何だってするでしょう。例えそれが、大罪だとしても。
「さ……今日はもうお休みください」
「いえ、もう少し」
なんだろう。私の指示に従わぬなど珍しい。
「青娥殿こそ、お休みなってください。いかに仙人殿といえど……」
「……あなたは、仙人を見縊っておられる。この程度、私には」
「青娥殿」
静かな声。だけどそれは金縛りに等しく私から動くと云う事を奪っていた。
彼女の視線も穏やかなのに、私は口を開くことさえできない。
「霞んだこの眼でもわかります。御無理をなさらないでくださいまし」
だから――私に向ける分を、己に向けてください……!
叫びたい。罵りたい。叱りつけたい。
死の際にありながらなんなのだ。どうしてただの客人でしかない私を気にかける。
病で、狂いでもしたのではないか。あなたは、何故微塵も己を……!
頬が紅潮する。泣いて、しまいそうになる。
なんなんだ、私は、何に怒って、何が悲しいんだ……っ。
「……あなたに、だけは――言われたく、ありません」
「ふふ、そうかもしれませんね」
耳に馴染んだ涼やかな声さえ今は憎々しい。
もう頭の中がぐちゃぐちゃだ。わけがわからない。
落ちついたふりをすることさえ、難しかった。
「芳香様……今は、お休みください。少しでも……」
「……そういえば……青娥殿……国に戻られるのでは……?」
「あなたを放ってなど行けませぬ。……承知の上で置いていてくれてると思ってました」
「はは、それは失敬。私はどうも鈍くて……っ、ごほ、ごほっ」
「芳香様!」
咳が激し過ぎる。こんな、これでは……
「ぐ――っ」
ばしゃりと、どす黒い赤が、広がった。
吐かれた血の色――これは悪血……!
こんなに、悪血が、では、彼女の肺腑は……!?
「芳香様! 芳香様! お気を確かに! 今処置をします!」
「がふっ、は……ぁ……」
早く血を、息が出来るようにしなければ……!
「青娥殿……私のことなど気にかけず……あなたは、あなたの為したいように」
「これが私の為したいことです……! 数え切れぬ恩があるのです、それを一つも返せないで……!」
早く、早く彼女を、こんなの、やだ、こんなのやだ……!
助けるって決めたのに、なんで、なんで……! どうして――!
「……泣かないでください」
髪に、手が触れていた。
落ちるように、その手が私の頭を撫でる。
「十分に返してもらいました」
「え……?」
「身寄りのない私の最期を看取ってもらえるなど望外の喜びです」
「な、なに、を」
「独り寂しくではなく……愛しいあなたが傍に居てくれた」
すとんと――その手が、落ちる。
落ちるようにではなく、落ちた。
「十二分に、私は幸せでした」
彼女は微笑んでいる。
だけど、その眼は何も映していなかった。
抱く彼女の身体が、どんどん冷たくなっていく。
揺すっても、何も言ってくれない。
「芳香様? ――芳香様……?」
幾度呼びかけようと――――返事をしてくれなかった。
――雪が降っている。
白い雪の中でも、葬列の白い姿は浮いていた。
どこからかすすり泣く声が聞こえてくる。
ああ、きっと子供たちだろう。彼女は子供たちから姉のように慕われていた。
多くの人々が彼女の死を悼んでいる。彼女の為に泣いている。
私はその中に加わらず、少し離れた丘の上に立っていた。
葬列を、ただ眺めている。
ああ――雑音がうるさい。全て、世界が泣けばよいものを。
私の後ろに控える陰陽師たち――彼女の後釜に座ろうとする浅ましき餓鬼の群。
陰陽師共は次は誰が私を世話するかなどと話している――笑わせる。
貴様ら如き俗物が私に近づこうなど千年早い。
私に触れてよいのは――芳香様唯一人なのだ。
――そして私は姿を消した。
真新しい、粗末な墓。
芳香様の眠る墓。
もう誰も居ない。葬列に加わっていた人々は帰ってしまった。
うっすらと雪に化粧された墓に触れる。冷たい――彼女の亡骸のように。
風に羽衣が揺れる。ああ、寒い。あたためてもらいたい。
だけど、私をあたためてくれるお方は、この冷たい墓の下。
探す。あの方を探す。
見つからない。どこにもあの方はいなかった。
魂の気配はどこにも無い。
高潔な彼女は未練を断ち切り幽鬼とならず浄土へ渡ったのか。
人は死ねば鬼となる。されど彼女は仏となった。
「……詩の続きが未練ではなかったのですか」
鬼に化せば詩の続きも詠めたろう。
鬼となっていればまた――逢えたというに。
「芳香様――」
諦めない。そんなの認めない。
私はあなたを放さない。
あなたは私の元でその素晴らしい力を揮うのだ。
「私が――」
墓に触れる。
壁抜けの術で大きな穴を穿つ。
彼女の眠る棺が、見えた。
「私があなたを甦らせてあげましょう」
遥か西方の預言者が死した後甦り聖人となった。
あなたはそれを超えるのです。甦りし王となるのです。
死さえ乗り越える奇跡は――あなたを誰よりも強い王とすることでしょう。
仙術で作り出した空間の中で棺を開く。
芳香様の亡骸は、未だ微笑んでいるようにも見えた。
ああ、ああ……私を祝福してくださいますか芳香様。
必ずやあなたを甦らせてみせましょう。その微笑みに応えましょう。
――跳屍送尸術。
死体を動かす、仙術としては初歩の類の術。
死者を一種の妖怪に仕立て上げる術である。
黄泉帰りの術ではない――私でも黄泉返りの術など知らない。
ならば死体を動かす術に魂を呼び出す術、魂を吹き込む術を加え甦らせるしかない。
普通なら不可能だ。三つの術を同時に行うなど無理難題どころではない。
しかし私なら出来る。彼女なら甦れる。
浄土に渡った魂を穢土に引き戻すなど前代未聞だが、私なら。
死体を修復し器としての条件を満たし、輪廻の輪に入った魂を穢土に引き戻す。
これを世界に転生と誤認させればいいのだ。さすれば彼女は甦る。
芳香様は私の元へ帰ってくる。
一縷の望みでしかない。だがやってみるだけの価値はある。
私が失敗する筈がない。この国の力ある権力者にさえ取り入った仙術が及ばぬ筈がない。
仙人、青娥娘々は死をも凌駕するのだ。
印を組む。呪言を呟く。呪符を撒いて道を作る。
かたかたと棺が揺れ始めた。まだだ。まだ足りない。
呪言を続ける。枯れ果てた彼女の肌に色艶が戻ってくる。
髪の鮮やかさもかつてのように。痩せ衰えた手足の肉が盛り上がる。
呪符をさらに撒く――彼女の通る道を、さらに強固なものとせよ。
ばさばさと舞う呪符は一つの流れに従い形を変え――巨大な円錐を形作る。
さあ。さあ。さあ。
甦れ。甦れ。甦れ。
落雷の如き衝撃が走る。
呪符は一枚残らず燃え尽きた。
されど、まだ終わりではない。
呪言を繰りながら新たな呪符を書き出し彼女の亡骸に貼りつける。
「――急急如律令」
ばちりと手が弾かれる。
術の反動か――そんなことより。
彼女は、彼女はどうなった――
「――――――ぁ」
がたりと大きく震える棺。
ゆっくり、ゆっくりと両の腕が天に伸びる。
「芳香様……!」
眼を閉じていた筈の遺骸は、ちゃんとその両の眼を開いていた。
私を見て、身体を起こす――生き、返った。生き返った。生き返った……!
「芳香様、芳香様! ああ、ああ……! よか」
「おまえは誰だ」
え。
「……よし、か、さま……?」
「ここはどこだ。私は何を……なんだ、腹が空いた」
ぎしぎしと、まるで何かに縛られているかのような動きで、彼女はまわりを窺う。
え――え……? なに、これ。からだ、ちゃんと治って、いるのに。
わたし、ちゃんと……せいこうさせたのに。
「おまえは誰だ」
棺桶から出ようとなにかはもがく。
体が自由に動かぬのかまるで人間とは思えぬもがき。
後ずさる。なにかは私を見ている。
「おまえは誰だおまえは誰だおまえは誰誰誰だれだれだれ――腹が空いた」
棺桶が倒れる。なにかが転げ落ちる。
それは、ゆっくり、ゆっくりと立ち上がった。
「腹が――空いた」
彼女の顔なのに、面影すら、なかった。
聡明さは失われ獣の如き本能が見え隠れしている。
失敗した? 私が? 何がいけなかった。私の術に間違いなどは――そんな、嘘だ。
よもや芳香様の魂が術を拒んだ? ふ、ふふ……有り得そうな話だ。彼女なら、拒むかもしれない。
気高い彼女なら、輪廻の輪から外れることを善しとしないだろう。ならば、私は、私は――
「あなたの、死さえも――穢してしまったと仰られるのですか――」
芳香様。芳香様、芳香様……死してなお私を拒むのですか。
私はそんなにもあなたに相応しくないのですか。
あなたも――私を認めてくださらないのですか。
「…………」
彼女は私を見ている。
虚ろな死人の眼で。理性の宿らぬ空っぽな眼差しで。
感じ取れる感情は飢餓。餓鬼道に堕ちた咎人のように、ただ、それだけ。
彼女の魂は浄土に渡っていた。決して罪人などではなかった。
聡明な彼女をこんな化物にしたのは、私なのだ。
「う――うぁぁ……あ、あぁぁ……」
ギシリと彼女の動く音がする。このまま私は食われるのだろうか。
もう、それでもいい。神子たちの結末を見れないのさえ未練とは思わない。
彼女に殺されるのならば、それが道を踏み外した私に相応しい最期だろう。
もう、生きられぬ。天に否定されても生きられた。家族を捨てても生きられた。
だけど、彼女に、魂にまで拒まれては、もう――全ての望みが絶えたに等しかった。
彼女に拒まれた悲しみ、彼女を化物にしてしまった罪の重さ――こんなの、耐えられない。
「あああぁぁぁ……」
軋む彼女の腕が近づく。音だけが近づいてくる。涙で、見ることも出来ない。
何も望まない。一思いに殺してくれとも言えない。私にそんな資格は無い。
生きたまま喰われようと、生きたまま引裂かれようと、罰にはまだ軽過ぎる。
私に差し出せるは最早この命だけ。それでも償えるとは思えない。
芳香様。あなたが求めるままに……あなたの欲のままに、私を……
「泣くな」
――え?
冷たい指が私の髪に触れていた。
硬い死人の手が私の頭を撫でていた。
喰らおうとしていたのではないのか。飢餓を訴えていたではないか。
理性など失っているのに、今彼女はなんと言った。
涙を零しながら、顔を上げる。
「せいが」
彼女は私を見ていた。
私の名を呼んだ。
「……? せい、が? せい……誰だ?」
希望など持てない。彼女は死者のまま。
記憶は壊れ戻らない。感情も失われ獣に等しい。
彼女はもう人間ではない。妖怪になってしまった。
私の求めた宮古芳香ではない。
だけど。
「おまえは誰だ?」
死してなお――私の恋い焦がれた優しいお方のままだった。
「……わたし……わたし、は」
芳香様は失われた。魂は穢れ、壊れ、二度と元には戻らない。
だけど手放すものか。彼女は私のものだ。誰にも渡さない。
天にも、輪廻にも渡すものか。
「私は――」
化物になっても……差し伸べてくれたこの手を――放すものか。
「――私は青娥娘々。あなたを作った仙人です。あなたは私を主とし従いなさい」
この醜い慕情をお許しください芳香様。
あなたを穢土に縛りつける執着をお許しください。
「我が従僕――宮古芳香」
あなたの死を奪う罪を――お許しください。
こういう作品を読むと、もっと神霊廟が好きになりますね。
最後の生き返った芳香が記憶が戻ったような動作で涙が零れました。
この二人には本当に、幸せになってほしいです。
ありがとうございました。
○面ボスと書いておけばやった人には通じるのに。
でも、最後のシーンで救いがあってよかったです。
願わくは、青娥の罪が赦される日まで芳香と共にあってほしい。そう、思いました。
この二人は歪んだ愛がよく似合う!
もう昔の二人には戻れないけれど、せめてずっと寄り添っていられるといいなあ。
まさに、恋に狂う邪仙。
そして時をものともせぬ相方となりゆくのか……
ああ、切ない
時たま生前の知性を復活させたりするとさらに激燃えですよね。すばらしい。
芳香の青娥にたいする接し方、青娥の芳香にたいする想いかたがとても胸キュンでした!
たまらん。
本当にこんな過去があったと思うと……もう原作の芳香を見るたびに切なくなりそうだ。
切なくて、好きです。
ありがとうございました。
悲しくも素晴らしいお話でした