石油ランプの光が洞窟内を明るく照らし、そこに住む少女の姿をはっきりと映し出していた。
少女は惚れ惚れするような姿勢の良さで正座をしていた。彼女の体はピクリとも動かず、髪からのぞく犬耳や、服から飛び出ている尻尾がたまに揺れている。
犬走椛。白狼天狗である彼女は、滝の裏に掘り抜かれた洞窟の中で今日も侵入者に備えて待機していた。
彼女の右側には、二つ名の哨戒天狗に相応しい柳葉刀が置かれていた。左側には名前の通り、椛をあしらった盾が置かれていて、何が起きても準備万端といった様子である。
だが、妖怪の山へ入ろうという奇特な輩はそうそういるものではないし、ましてや彼女らのテリトリーまでやってくるとなるとさらに数は減る。
そんな調子だから、彼女は暇であった。何時もなら、よく知った友人がやって来てくれるはずなのだが、それも今日は居ない。
チラリと壁にかかっている物へと目をやった。チックタックと規則正しい音を奏でるそれは、河童謹製の壁掛け時計である。その規則正しさが自分に丁度いいだろうと言ってくれたのは、コレを作ってくれた人物である。
椛にはそれの原理がさっぱり分かっていなかったが、貰った時に説明されたことで三つある針や、書かれている数字の意味は分かっていた。
閑話休題ではあるが、毎朝、椛は短針が六と七の間にやって来る頃に起きだし、短針が七に行くまでには着替えなどを済ませ、長針が六まで来ると朝食をとり終わっている……といった具合である。時計がやってきてから、椛の生活はより規則正しくなったと言えるだろう。
今は長針が数字の十一を指し、短針は三と四の間、かなり四に寄った位置にある。
「三時……五十五分だったっけ……」
呟く椛の声には、落胆の色が混じっていた。
これを作ってくれた友人、河城にとりは今日も来なかった。彼女がやって来るのは大抵昼過ぎ頃で、三時を過ぎるとほぼ来ないと思って良い。
つまり、もう今日は来ないということだ。いや、今日もと言ったほうがいいだろう。
椛の落胆は表情や、力なく垂れ下がった耳によく現れていた。なにせ、これで三日目なのである。
これが、ただ友人がやって来ないだけなら問題はないのだが、最後に彼女と会った時の別れ方が最悪だったのだ。
所謂、ひとつの喧嘩別れである。
後で思い返せば些細な事が原因なのだが、それ以降にとりは姿を見せていない。それなら自分で会いに行けばいいのだろうが、椛にはこの付近の見回りという仕事がある上、何故か躊躇ってしまう感情があったせいでそれも出来なかった。
最後に見たのは、此方を振り返りもせずに洞窟を出ていくにとりの後ろ姿だ。
深い溜息を一つ吐くと、また時計に目を向けた。
短針はぴったり四を指している。この時間になると周辺の見回りに出るのが、椛の日課だ。
椛は「よいしょ」と言いながら刀と盾を手にし、洞窟の入口へと近づいていった。入り口まで来たとことで振り向いてみるが、そこには誰も居ない。何時もならにとりが座っていて、留守を守ってくれるはずなのだ。
「行ってきます」
誰も居ない空間へそう言うと、雲一つ無い空へと飛び立った。
見事なオレンジ色に染まった空はとても綺麗で、だが椛はそれを素直に楽しむことは出来そうになかった。
焼けるような色の空をしばらく飛んでいると、すぐに真っ黒になるのだろう。
秋口の幻想郷は大分過ごしやすくなっているものの、まだ夕方は汗ばむほどだ。それでも真夏に比べると大分マシと言える。
直に眼下に広がる木々は色を変え、本格的な秋になるのだろう。そうなると、汗に悩まされる毎日ともお別れだ。
「そういえば……」
ここ最近の月は、円を描くようになってきていることを椛は思い出した。
もう少しで満月、中秋の名月である。今年は晴れるだろうか。
ふと一人寂しく月を眺める自分の姿を想像して、無性に寂しい気持ちに襲われた。いっそ曇るなり雨が降るなりしてくれた方が良いとさえ思ってしまう。
『何を言っているんだ。私が願ったところで雨が降るハズがないし、降ったところで誰も喜ばない……』
そして、そんなことを考える自分を恥じた。多くの人が楽しみにしているはずなのに、こんなことを考える自分がひどく虚しく思えた。
頭を振って、そんな考えを吹き飛ばすように加速を付けた。
『ああ、でも……中秋の名月を一緒に見ることが出来たらどんなに嬉しいだろう』
そんな思いを振り落とすかのように、椛は更に加速した。
「うーん、これがこうなってて……これがここの部品で……」
河童の住処にある自身の研究室の中で、河城にとりは大小様々な部品を前に唸っていた。
椛と喧嘩別れをしてからはや三日。最初の一日目こそ色々と気にしていたものの、二日目の朝にはすっかり冷静になっていた。
眼の前にある部品のほうが気になる、というわけではない。何時までも気にし過ぎるくらいなら、さっさと謝ってしまったほうがいいと思ったのだ。
そしてただ謝るだけではなく、何かしらプレゼントでもしようと考えたのである。
何せ、喧嘩の原因を作ったのはにとり自身なのだ。それなりの手土産を持っていくのは当然だと、そうにとりは考えていた。
結果として、それにより椛が余計に気を揉む事となっているのだが、にとりは知る由もない。
椛と喧嘩別れをしてから二日目の夕方。
何かを贈ろうと考えたにとりは先ず、香霖堂へと向かった。幻想郷には無い、珍しくて面白そうな品物があるといえばやはりここであると考えたからだ。それこそ、椛の度肝を抜く様な代物を期待していたし、勿論自分も驚かせてもらえるとありがたいと思っていた。
――おや、珍しいお客さんだ。どんな要件だい?
比較的珍しい客を見て、霖之助は一瞬驚いたような顔をした。
幸いなことに、香霖堂は入荷したばかりだという品物がところ狭しと並べられていて、にとりの心を昂らせた。
例えば、電機製の蓄音機。クランクを回すことでレコード盤を再生する蓄音機は知っていたものの、これは初めて見る物だった。これがあれば将棋中に音楽を流して、より白熱するかもしれない。
壁に星々を映し出すプラネタリウムもだ。何の変哲もない店を一瞬にして幻想的な空間へと変えるそれに、にとりは大いに心惹かれた。あの洞窟なら、これの美しさが映えるだろう。
――どれが良いだろうかなぁ。
どれもこれも椛が喜びそうな、世にも珍しいものばかりである。
他にもなにかないものかと探していると、店の隅に白い筒が置かれているのに気がついた。その横には、天狗が写真撮影の時に使う三脚のような物が置いてある。
にとりはそれに見覚えがあった。グルグルと周りを回りながら何だったかを思い出そうとしたが、見覚えがある程度でしかない。
――ああ、それは最近作られたらしい天体望遠鏡だよ。外の世界での天体望遠鏡は、大分高性能になっているんだそうだ。そう本に書いてあった。
興味深そうにそれを見るにとりに気がついたのか、霖之助は本から顔を上げた。
霖之助は戸棚から本を取り出すと、
――これはそれと一緒に見つけた本なんだけどね。最新モデル、だとかなんとかでそれが載っているのさ。実際綺麗で、性能が良さそうじゃないか。まぁ詳しいことは、専門家でもない僕には分からないんだけどね。
――お、どれどれ。見せてくれよ。
霖之助が手にしている本を見せてもらうと、なるほど似たような物が掲載されていた。それを読み込んでいくと、自分の中でこれに対しての興味が強くなっていくのを感じていた。
なにせ天体望遠鏡という物は知っていたが、それをここまで間近で見ることが出来たのは、これが初めてだったからである。
河童の中でも貴重とされているそれを持っている仲間はいるが、だいたい独り占めされているせいで、にとりは触ったことはおろか、近くで見たことすら無かった。
皆で共有した方が良いのだろうが、そこは協調性のない河童だから仕方が無いと言えるだろう。
その上、外の世界で最新型といえばその価値は跳ね上がる。
――これなら喜んでもらえるかもしれないなぁ。
にとりですら触ったことのない代物だ。椛は見たことすら無いかもしれない。
プラネタリウムで創りだす星は、どう頑張っても作り物でしか無いのだ。それなら、本物の星を見たほうが良いに決まっている。
香霖堂を出るにとりは笑顔で、両手で天体望遠鏡と三脚もどきを抱えていた。
研究室へと戻ったにとりは、天体望遠鏡を前にウンウン唸っていた。
にとりにとっても珍しいそれを見ているうちに、構造が仕組みがどうなっているのか気になり始めたのだ。
技師としての悪癖が、鎌首をもたげ始めたのだ。
いったい、どれほどの技術が使われているのだろう。これを分解してみれば自分たちで作れるようになるかもしれないし、そうすれば何かあった時の備えになるかもしれない。
――分解しても、もとに戻せば良いだけだろうしなぁ……。
にとりは工具箱を引っ張り出すと、天体望遠鏡を目の前に置いてどっかと腰を降ろした。
ごそごそと幾つかの道具を箱から取り出すと、もう準備万端である。
――さあ、はじめようかなー!
誰に言うわけでもなく声高らかに宣言すると、早速作業に取り掛かった。
にとりの目の前に転がっている部品たちは、そうやって生まれたものである。
パーツごと、さらに部位ごとに綺麗に分けられたその姿は彼女の性格をよく表していた。
道具類を工具箱へしまうと、にとりは一息ついた。その顔は夜通し分解作業をしていたとは思えないほど、スッキリとしている。
手を伸ばすと、肩からゴキゴキと小気味よい音がした。それににとりは満足気な表情をしていっそう激しく腕を動かし、作業に集中していた証である音を鳴らし続ける。
「しかしこれ、意外と構造は単純なんだなぁ。レンズの精製技術は凄いけど、やっぱり電気を使ってないから? でも……」
にとりはレンズを割らないよう慎重に取り上げると、それをマジマジと眺め観察を始めた。
分解してみてわかったが構造そのものは単純なのだが、問題はこのレンズである。このサイズをこれだけの精度で削ることができるというのは、やはり外の世界の技術だと舌を巻く他なかった。
「この天体望遠鏡を複製するとしても、このレンズが問題だね。私たちの技術じゃあこれほど精巧に削り出すことなんで先ず出来無い。技術と設備の合わせ技って感じだし……。あーあー、自分たちで作れたら面白いと思ったのになぁ」
決定的な技術の差に肩を落とすと、にとりは工具を手にした。一度分解したものをもとに戻すなど、お茶の子さいさいである。
バラバラにした天体望遠鏡を素早くもとに戻しながら、にとりは自分に星に関する知識がまったく無いことを思い出していた。
仰々しくこれを持って行って、いざ何も分からないでは赤っ恥ものである。
椛のもとへ行く前に、ある程度知識を身につける必要があるだろう。そのためにはどうすれば良いか……。
「やっぱり本を読んで覚えるってのが一番だよね」
そういった本が大量の貯蔵してある場所を知っていて、かつそこの主人と知り合いであることをにとりは幸運だと思った。
これを組み立て終わったら、すぐに本を借りに行こう。
紅魔館にある大図書館。大量の蔵書があるあそこなら、星に関する本だって沢山あるに違いない。
善は急げとばかりに、にとりの組み上げる速度は上がっていった。
「あ、にとりさんこんにちはー。今日はどういったご用件で?」
パチュリーとにとりが顔を合せたのは、間欠泉と怨霊が吹き出した異変の時である。
解決に向かう魔理沙の支援役として顔を合わせてから、それなりに交流を続けていたのだ。
おかげで門番はあっさりと顔パスで通してくれたし、大図書館で司書をしている小悪魔は笑顔で出迎えてくれた。
「星について書いてある本を貸して欲しいと思ってねー。これだけあるんだし、そういう本ぐらいあるんでしょ?」
「ええ、まぁありますけど……。ちょっと待ってくださいね」
要件を伝えられた小悪魔がパチュリーのもとへと駆けていく。ピコピコと背中の羽が動くその後ろ姿を見ながら、にとりは毎度のことながら図書館の広さと本の群れに感心していた。
メイド長の能力で拡張していると聞いていたが、これほど広げることが出来るのなら、是非自分の研究室も広げて欲しいものだと思う。そろそろ作った物で溢れかえりそうなのだ。
にとりが何とかならないかと思案を巡らせていると、トコトコと小悪魔が戻ってきた。
「パチュリー様が構わないと言っているので、そういった本のある場所へご案内しますね。付いてきて下さい」
「ほいほい」
先導してトコトコと歩いて行く小悪魔を追おうとして、ちらりと一瞬だけ図書館の主へと視線を向けた。
彼女は椅子に座って本に顔を向けたまま、にとりが向ける視線に気がつく様子もない。何時ものこととはいえ、驚異的な本の虫っぷりに感嘆した。
本に集中している時のパチュリーは何時もこうである。狼藉者でも現れない限り、一度本を読み始めるとそれ以外のことに対しての興味が極端に薄れるのだ。
「それでですね……にとりさん、聞いてますか?」
「え、ああ、うん」
「えー、本当ですかぁ?」
にとりは自分に向けられていた小悪魔の視線に気が付き返事をしたが、怪訝そうな表情をされてしまった。
何かに集中し始めると周りが見えなくなるのは、結局にとりも変わらないのである。一度集中し始めると、それが終わるまで周りの全てが目に入らなくなる。
この一点において、にとりとパチュリーはそっくりだった。
この大図書館は、蔵書がジャンルごとにしっかりと分類されており、管理が行き届いていることが素人目にも分かるほどである。
その一角に天体に関する本を集めた本棚があった。
何時ぞや起きた月へ行く云々の騒動の際に、色んな所から資料としてかき集めてきたせいで数が増えたのだと小悪魔は説明した。
「あー、そういえばあったなぁ。みんなその事ばっかり話してたことがあったし」
一時期、山でもその噂で持ちきりだったと、にとりは脳みその片隅からその時の記憶を引っ張り出してきた。
「ロケットを作るときは、何で私を呼ばなかったんだーって、そんな風に思ったもんだよ」
「あの時にとりさんと知り合っていれば、頼んでたかもしれませんね」
「次があったら、その時は私を存分に頼ってくれても構わないからさ」
他愛もない会話を交わしながら、本棚から本を引っ張り出しては中身を確認するという作業を進めていく。
絵や写真と、その解説文が載っている本を次々に小悪魔へと手渡していくと、一つの本を手にしたところでその動きが止まった。
英語のタイトルとイラストが描かれているその背表紙は、同じ棚に並ぶ本とは明らかに様相が異なっている。
引っ張り出して表紙を見てみると、翼を生やし、奇妙な装置を胸にくっつけた女性が描かれていた。その目につけているのは、にとりが溶接作業に使うものとも違うゴーグルである。
簡素な装丁とは一線を画すそれに興味を惹かれたにとりは、それも借りていく本へ追加することにした。
「それで、貴女の目当てのものはあったのかしら?」
背後からの声に振り向くと、そこにはパチュリーが立っていた。その両手に抱えた本から察するに、読み終わった本を棚へ戻す途中なのだろう。
パチュリーの質問ににとりが笑顔を返すと、その仏頂面が少し緩んだような気がした。
「へぇ……なら良かった。ああ、その本は今は必要ないから、何時返しても構わないわよ。ただし、汚したり、破いたりしないこと。良いわね?」
何度も聞いたことのある台詞を、またパチュリーは念を押すように言ってくる。
「うん、それぐらいは分かってるつもりだよ。私はちゃんと借りていくんだからさ」
それを聞いたパチュリーの表情が、より一層柔らかくなったように見えた。
研究室へと帰ってきたにとりは、早速借りてきた本を広げてみた。
最初は勿論あの特異な装丁の本である。それをぺらりぺらりと捲ってみて、にとりはこの本が所謂漫画であると分かった。
図鑑のように本格的な内容は望めないだろう。そう落胆しつつも、ページを報っていく。
人と寸分たがわぬ姿をした機械の話。巨大な気球で別の星へ行く話。自分と全く同じ姿の存在を創りだすクローンの話。地上が水没してしまい、それを何とかしようとする人々の話……。
荒唐無稽でありながら、だが確かにロマンが詰まっている話を読んでいくうちに、にとりはすっかりその本が作り出す世界へとのめり込んでしまっていた。
「凄い、ああこれ凄い!」
実に幻想的じゃないか! 次は一体どんな話があるのだろう!
目を輝かせながら本に熱中し、ページをめくっていくその姿は、まるで子供のように見える。
続きは、続きは、熱に浮かされるように動かしていた手がピタリと止まった。
「ん? んんんー? これは……!」
何やら呻きながら、本へと目を近づける。
にとりはそうやって、しばらく本とのにらめっこを続けていたが、おもむろに立ち上がると無造作に転がしてあった筆と墨汁、真っ更な紙を持ってきた。
それから真剣な顔でスーッと筆を動かしていく。
にとりが開いたままにしているページには、巨大な天体望遠鏡の図面が描かれていた。彼女はそれを写し、天体望遠鏡を分解した経験から得た情報を書き込んでいく。
そうやってにとりは、山の向こうへ太陽が消えて行くまで紙と向き合っていた。
椛とにとりが喧嘩別れをしてから五日が経っていた。すでに時計の針は十二を過ぎてしまっている。
今日もやって来ないのだろうと椛が落胆のため息を漏らした瞬間、カツンと入口の方から音がした。
椛は今、入り口に対して背中を向けているせいで、それが誰かは分からない。水の音がしなかったことから、少なくともにとりではないのだろう。
敵かもしれないと傍らにおいてある得物へ手を伸ばそうとすると、
「こんにちわーっと。ああ、やっぱり椛だけなのね。ちょっと面白いものを見ちゃって。あ、ところでさ、ここってやっぱり入りにくいわよ。滝を突っ切るか、崖ギリギリを歩かなきゃいけないんだから」
と、聞き覚えのある声がした。栗色のツインテールをフリフリ揺らし、やって来たのは姫海棠はたてである。
椛は伸ばしていた手を止めて振り向くと、わざわざ通りにくい道をやって来たと言うはたてへ疑問の目を投げかけた。
「やっぱり? 面白いもの? ……一体なんですか。何を見たっていうんですか」
「ほら、これ」
はたてが普段使っているカメラはやや特殊であり、その場で撮影した写真を見ることができるタイプである。
真ん中で折りたたまれていたそれをパカリと開くと、ボタンを弄り、写真を表示した。
そこに写っていたのは上空から撮影されたらしき、奇妙な、そして巨大な装置だった。写真の隅では、見覚えのある人影がしゃがみ込んで何やら作業をしている。
きっと、これはにとりだろう。
写真を変えてもにとりは写っていて、何枚かでは一緒に作業をしている仲間と笑顔を交わしている。
「椛はにとりと仲が良いみたいだし、これ、何か分かる? 面白そうだから記事にしたいなーって思ってるんだけど……」
はたてが何かを言っているようだが、椛には聞こえていなかった。
自分と仲直りをするよりも、これを作る方が大切なのか?
喧嘩別れをしてからずっと気を揉んでいた分が、怒りへと変換されていく。自分から会いに行けなかった情けなさも含めて、全てだ。
そんな椛の様子に気がつくこと無く、はたてはいい記事に出来るかもしれないと、嬉しそうに話し続けていた。
二人が顔を合わせること無く、ついに一週間が経過した。
その一日も終わってしまう頃、寝支度を整えていた椛の耳が、かすかな水の跳ねる音を捉えた。
だが、あえて反応はしなかった。誰が入ってきたのか、容易に想像がつく。
ぴちゃぴちゃと湿り気のある音と一緒に、暗闇の中から現れたのはにとりであった。
「おお、起きてた起きてた。いやー、間に合って良かったよ」
そんなことを言うにとりの顔は、水で落としきれなかったであろう汚れがあちこちに付いていた。だが汚らしいものには見えず、彼女のさわやかな笑顔を引き立てるものになっている。
笑顔のにとりとは対照的に、椛はというと、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
二日間で少しは薄れた怒りが、また沸々と沸き上がってくる。
「どうしたの」などと言いながら顔を覗こうとしてくるにとりを、椛は思い切り睨みつけた。その顔で怒りの程が分かったのか、にとりが竦み上がる。
「どうしたのって、今まで何をしてたんですか! ずっと来ないからどうしたんだろうって気にしてたのに、なにか妙な物を作り始めて! 本当に、何をしていたんですか!」
「あ、うう、あれは……だって私が原因だから、ただ謝るんじゃなくてなにか贈ろうって……」
「そういうのじゃなくて、ただにとりに会いたかったのに!何度会いに行こうかと思って、それが出来なかった自分が情けないって……!」
呻き、顔を両手で覆ってしまった椛を、にとりは困惑を隠し切れない表情を見つめていたが、正面に腰をおろすと優しくその体を抱きしめた。
速乾性が売りの河童の服とはいえ、完全には乾ききっていなかったのか、椛の服が少しだけ濡れてしまう。だが驚きが上回り、椛はそれを気にすることはなかった。
「ごめん、ごめんよぉ。こうした方が良いって思ってたばっかりで、椛の気持ちとか考えてなかったよ……」
しばらく抱きしめられたまま呆けていた椛だったが、我に返るとしばらくモゾモゾと体を動かしてから、重心を移動させ、にとりに体をあずけることにした。
それを感じたにとりが、より強く抱きしめてくる。
「……ううん、こっちこそ。八つ当たりみたいになってごめんなさい」
「あれ、じゃあ許してくれるの?」
「許すも何も、私こそさっきはきつく言ってしまって……」
「いやぁー、椛は言って当然だと思うんだけどなぁ。というかあんなに睨まれたんだから、もっと言われるものだとばっかりさぁ」
「いや、それは……。抱きしめられたら、怒りとか何かどこかに飛んで行っちゃいました」
「ええー、それで良いのかなぁ~」
苦笑いを浮かべるにとりに、椛が笑いかけた。その顔を見て、もっと早くに謝っておくんだったなと、にとりは思うのだった。
「ところで、にとりは何を作ってたんですか?」
仲直りを果たし、満足そうな表情のにとりに椛が訊ねた。
にとりはそうだった、と言わんばかりに手をポンと叩くと、椛の手を取ると洞窟の入口まで引っ張っていった。
外から入り込んでくる光は、何時もより明るいと思えた。手を引かれるまま、滝の裏側から月がはっきり見える場所まで移動する。
「ほら、あれを見てよ」
にとりに促されるまま空を見るとそこには綺麗な丸い月が浮かんでいて、椛は今日が中秋の名月だったことを思い出していた。
「今日は中秋の名月でしょ。で、あの綺麗な月をさ、もっと近くで見てみたいと思わない?」
「え、近くで? どういう意味?」
「んー、実際に見てみるのが良いかなぁ。ほら、私の研究室があるところまで行くよ」
飛び上がるにとりに一瞬遅れて、椛も空中へと浮き上がった。二人は手を繋いだまま、夜の妖怪の山を飛んでいく。
秋も深まってきたせいか、夜ともなると肌寒いと椛は感じた。流石にこの時間に外出することなど滅多に無く、新鮮だとも思う。
にとりの研究室は森の開けた場所にあり、そしてそこにははたてが撮影したそのままの物体が鎮座していた。
その異様な物体を実際に目の当たりにし立ち尽くす椛を尻目に、筒状のそれににとりは近づくとダイヤルをいじり始めた。それも一つではなく、幾つもだ。
にとりは幾つものダイヤルを素早く操作し、未だ唖然としたままの椛のもとへ戻ってくると解説を始めた。
「これはねー、天体望遠鏡を応用した空間反射望遠鏡って言うんだよ。まぁ詳しい説明なんかより、実際に使ってみたほうが速いね――」
「え、にとり!?」
そう言うなり、にとりはスイッチを押し込んだ。ぐおおおという重低音と共に、空間反射望遠鏡がガタガタと震え始める。
失敗したのかと怪訝そうな表情を見せる椛とは対照的に、にとりは笑顔だ。
「え、これ、は……」
しばらくガタガタやり続けている空間反射望遠鏡を不安に思い、声をかけようとした椛の動きが止まった。
彼女の目の前には、空に浮かんでいるはずの月があったからである。
「え、えぇぇぇぇぇぇ!?」
空を見上げれば、確かに月はそこにある。だが、椛の目の前にあるのも間違いなく、空に浮かんでいるものと同じ月に見える。
目を白黒させる椛に、にとりはケラケラと笑ってみせた。
「これが空間反射望遠鏡の性能! 空にあるはずの月どころか、これで狙いを定めればどんな物だってこんな風に持ってこれるわけよ!」
「えぇ? 持ってこれるって……実際にここにあるってこと?」
「まぁここにあるけど、本当に持ってきてるわけじゃないよ。まだ空に月はあるしね。これは、反射の応用なんだ」
椛の顔は「何を言ってるのかさっぱり分からない」と言いたげで、説明しようとしていたにとりは慌てて口をつぐんだ。
それから、目を点にしたままで固まっている椛の手を取ると、また浮かび上がり、地上に持ってきたという月の上まで移動した。
ゆっくりゆっくり『月』に向かって降りていくと、椛の脚がはっきりと何かに触れた。にとりが手を離すと、ストンと腰を抜かしたかのように尻餅をつく。
「え、え、これひょっとして……。わ、わぁぁぁぁぁ!」
手で触り、自分が何に座っているかを感知したとき、椛は驚きの声を上げた。
その隣に座ったにとりは、混乱しきっている椛の体をぐいっと引き寄せた。それから耳元で、
「驚いた? これを椛に見せてあげようと思っててさ、中秋の名月に間に合うようにってこっちに掛かり切りだったんだよ。素直に喜んでもらえないかもしれないけどさ」
「いや、驚くとかそういうものじゃ。でも、これを私のために……」
「本当はこれで仲直りといきたかったんだけどね。でもまぁ、そんなに驚いた顔の椛を見れたのは良い収穫だなぁ」
「うう……いくら驚いたとはいえ、不覚でした。こんなに凄いのを見せてもらって、驚いてばかりではいけませんね」
「お?」
「にとり、ありがとう……」
自分の為にしてくれたことが嬉しくて、椛は満面の笑みで礼を言い、それににとりも笑顔を返した。
その様子を、草葉の陰からこっそりと見つめている二人が居た。
「あれ、何かとんでもない事をしてるように見えるんですけど?」
「確かに凄いとは思いますけど、あれぐらいなら大丈夫よ」
「いや、でもあれは……」
八雲紫と、彼女にこの事を伝えたはたてである。
二人の目は地上に生まれた月に釘付けのままで、だが表情は違っていた。はたては驚きを隠せないといったように見え、紫は感心しているように見える。
「あれは本物の月ではないわ。以前、萃香が月を砕いた時とまったく同じなのよ」
「文のヤツが記事にしていたアレね」
「ええ。あの時は天蓋に映っている月を砕いていたけど、今回はそれをあそこに写していると思って良いわ。そもそも月を持ってくるなんて、まず無理な話よ」
「へぇ……。まぁ何も問題ないなら良いんですけど」
二人はそれっきり何も言わず、地上の月を眺め続けるのだった。
それはさておき一カ所疑問に思った所が。
>閑話休題ではあるが、毎朝、椛は両方の針が六の所にやって来る頃に起きだし、
タイムパラドックスだッ!!(←
面白いお話でした。
ほのぼのしてて良いお話でした。