ある日の夜、僕はついついある本に読み耽ってしまい、虫の鳴く声だけを耳に頁を捲っていた。
微かな明かりを背に、冷め気味の緑茶を脇に。質はそれほどのものではないが、風情を感じるには十分だった。
不意に、カランカランと入口が開いた音がした。
そちらにゆっくりと目を向けると、優雅な金色の長髪に紫色の衣服を纏った――有り体に言えば『美人』の範疇に入るだろう女性がいた。
「……なんだ、貴女か」
「――あら、お分かりで?」
彼女はちょっと見当外れで面白くない、そんな表情をした後に衣服の裾から取り出した扇子を開いて口元に寄せ、妖艶に笑った。
「纏った雰囲気でわかりますよ。姿形など、貴女には意味を成さない」
「よく理解しているわね。わざわざ入り口から入ってきたのに」
「……できれば毎回そうして頂けると有り難いんですがね、僕の精神衛生上」
「ご挨拶ねえ。考えとくわ」
口元をニヤリと吊り上げて微笑む。あれは絶対考えてない貌だろう。
「……で、今日は一体なんの御用です?燃料なら間に合っていますけれど」
「あら、別に用なんてないわよ。強いて言うなら貴方に会いに来た――じゃ、ご不満かしら?」
「それは勿体無いお言葉ですね。こんな夜更けじゃなければ」
「相変わらず言葉を飾るのが上手ね。慇懃って言えばいいのかしら」
「……商売人ですから」
妖怪の賢者――そう呼ばれるだけの風格がこの女性にはある。
何を答えても全て見透かされそうな気がして、落ち着かないのだ。
「商売人、ねぇ……あら?これは……」
紫は、商品の棚に卸してあった渾天儀を見てわざとらしいほどに懐かしい表情を見せた。
「……ああ、そういえばそれは貴女の著作でしたね」
「何十年ぶりかしらね、これを見るのは」
「著作、とありますが。貴女が一人でこれら全ての星座を思いついたのですか?」
かねてから気になっていた疑問のひとつでもあったので聞いてみた。当人に訊けるなんてこの幻想郷ならではだろう。
「まさか。これの製作者と色々協議しながらよ。どこにどの星座を配置するか、っていうんで散々揉めたわ。あまりいい思い出じゃないわね――あ、謝る必要はないから」
返す言葉を制され、僕はばつが悪そうに頭を掻いた。
「私は人と妖怪との均衡を守るために博麗大結界を主導した。そのこと自体を何も後悔してはいないわ。
けど、時折妖怪をこの地に縛り付けてしまった事にふと罪悪感を覚えることもあるのよ」
「……」
「この星にはもっと広大な大地が、海が広がっているのに。その可能性を私は塞いだ」
「宇宙が無尽蔵に拡がっているように――ですか?」
「そうね。貴方だって見てみたいと思うでしょう?」
「まあ、興味は尽きませんが――ここでの暮らしが、下地がなければ、僕はここにいない」
脇に置いた本を手元に戻し、僕は茶を啜った。
「外の世界には『存在確率』という考え方があると読みました。釈迦に説法だとは思いますが――世界の全てを構成するものは、粉々にまで細分化して考えると『どこにでもいるし、どこにでもいない』状態になると」
「外で言う『量子力学』というものね」
「僕なりの考えだと、それは『無駄な命など、無駄な行為などひとつもない』という事だと思うんです。全ての存在は他者に必ずどこかで干渉し、全ての行為は必ずどこかに影響する」
「運命論かしら?レミリアが聞いたら喜びそうな話ね」
「そうとも言うかもしれません。……だから、僕がこうして歴史を綴っているのも決して無駄にはならないし、こうしてこの世界で考えて生きていることもそうだと。そういうことです」
言いたい事を言い切ると、彼女はなんとも形容しがたい表情で口元に手を当てた。
「……驚いた。ひょっとして、なぐさめてくれてるのかしら?」
「さて。所詮齢数百の、しがない半妖の愚考ですよ」
ふいと顔を背けて読書に戻ろうかと思った矢先、落とした視線を急にぐいと戻された。
刹那、唇に柔らかい感触が伝わってくる。
「…………!」
数秒か、十数秒か。それぐらい動揺していた僕を尻目に、彼女――八雲紫は潤んだ瞳で自分の唇周りを舌で舐め取った。
「貴方、面白いわね。私、どんどん貴方に興味が沸いてきたわ」
「ちょっと――」
それ以上の言葉を継ぐ余裕も与えられずに彼女はスキマの中へと消え去っていった。
「……あんな寂しげな瞳をされたら、ああするしかないじゃないか」
彼女の中に自分と似た孤独を見出したからこそ、僕はああも忌憚なき意見を言ってしまったのだろう。
今日は茶ではなくて酒を飲み明かす事になりそうだ。
微かな明かりを背に、冷め気味の緑茶を脇に。質はそれほどのものではないが、風情を感じるには十分だった。
不意に、カランカランと入口が開いた音がした。
そちらにゆっくりと目を向けると、優雅な金色の長髪に紫色の衣服を纏った――有り体に言えば『美人』の範疇に入るだろう女性がいた。
「……なんだ、貴女か」
「――あら、お分かりで?」
彼女はちょっと見当外れで面白くない、そんな表情をした後に衣服の裾から取り出した扇子を開いて口元に寄せ、妖艶に笑った。
「纏った雰囲気でわかりますよ。姿形など、貴女には意味を成さない」
「よく理解しているわね。わざわざ入り口から入ってきたのに」
「……できれば毎回そうして頂けると有り難いんですがね、僕の精神衛生上」
「ご挨拶ねえ。考えとくわ」
口元をニヤリと吊り上げて微笑む。あれは絶対考えてない貌だろう。
「……で、今日は一体なんの御用です?燃料なら間に合っていますけれど」
「あら、別に用なんてないわよ。強いて言うなら貴方に会いに来た――じゃ、ご不満かしら?」
「それは勿体無いお言葉ですね。こんな夜更けじゃなければ」
「相変わらず言葉を飾るのが上手ね。慇懃って言えばいいのかしら」
「……商売人ですから」
妖怪の賢者――そう呼ばれるだけの風格がこの女性にはある。
何を答えても全て見透かされそうな気がして、落ち着かないのだ。
「商売人、ねぇ……あら?これは……」
紫は、商品の棚に卸してあった渾天儀を見てわざとらしいほどに懐かしい表情を見せた。
「……ああ、そういえばそれは貴女の著作でしたね」
「何十年ぶりかしらね、これを見るのは」
「著作、とありますが。貴女が一人でこれら全ての星座を思いついたのですか?」
かねてから気になっていた疑問のひとつでもあったので聞いてみた。当人に訊けるなんてこの幻想郷ならではだろう。
「まさか。これの製作者と色々協議しながらよ。どこにどの星座を配置するか、っていうんで散々揉めたわ。あまりいい思い出じゃないわね――あ、謝る必要はないから」
返す言葉を制され、僕はばつが悪そうに頭を掻いた。
「私は人と妖怪との均衡を守るために博麗大結界を主導した。そのこと自体を何も後悔してはいないわ。
けど、時折妖怪をこの地に縛り付けてしまった事にふと罪悪感を覚えることもあるのよ」
「……」
「この星にはもっと広大な大地が、海が広がっているのに。その可能性を私は塞いだ」
「宇宙が無尽蔵に拡がっているように――ですか?」
「そうね。貴方だって見てみたいと思うでしょう?」
「まあ、興味は尽きませんが――ここでの暮らしが、下地がなければ、僕はここにいない」
脇に置いた本を手元に戻し、僕は茶を啜った。
「外の世界には『存在確率』という考え方があると読みました。釈迦に説法だとは思いますが――世界の全てを構成するものは、粉々にまで細分化して考えると『どこにでもいるし、どこにでもいない』状態になると」
「外で言う『量子力学』というものね」
「僕なりの考えだと、それは『無駄な命など、無駄な行為などひとつもない』という事だと思うんです。全ての存在は他者に必ずどこかで干渉し、全ての行為は必ずどこかに影響する」
「運命論かしら?レミリアが聞いたら喜びそうな話ね」
「そうとも言うかもしれません。……だから、僕がこうして歴史を綴っているのも決して無駄にはならないし、こうしてこの世界で考えて生きていることもそうだと。そういうことです」
言いたい事を言い切ると、彼女はなんとも形容しがたい表情で口元に手を当てた。
「……驚いた。ひょっとして、なぐさめてくれてるのかしら?」
「さて。所詮齢数百の、しがない半妖の愚考ですよ」
ふいと顔を背けて読書に戻ろうかと思った矢先、落とした視線を急にぐいと戻された。
刹那、唇に柔らかい感触が伝わってくる。
「…………!」
数秒か、十数秒か。それぐらい動揺していた僕を尻目に、彼女――八雲紫は潤んだ瞳で自分の唇周りを舌で舐め取った。
「貴方、面白いわね。私、どんどん貴方に興味が沸いてきたわ」
「ちょっと――」
それ以上の言葉を継ぐ余裕も与えられずに彼女はスキマの中へと消え去っていった。
「……あんな寂しげな瞳をされたら、ああするしかないじゃないか」
彼女の中に自分と似た孤独を見出したからこそ、僕はああも忌憚なき意見を言ってしまったのだろう。
今日は茶ではなくて酒を飲み明かす事になりそうだ。
大人な恋愛はいいですね。
話の締めだけ、少し物足りないように感じました。ほんとに束の間の出来事、といった感じですね。残された霖之助さんをもう少し書いてくださると非常に俺得です(ぁ
次回作も楽しみにしております!