どんちゃんと、宴の音色が冥界に響いている。
ほろほろと、亡霊が愉しそうに少女達の間を行き交っている。
西行寺幽々子は、にこにこと酒精に酔う少女たちを、縁側から眺めていた。
桜の季節である。
白玉楼は、一面が桜の海であった。
そうであるならば、宴の好きな幻想郷の住人は居ても立っても居られない。いつものように黒白の魔法使いが紅白の巫女をつれて勝手に酒盛りを初め、その気配を察した疎の鬼が人を萃めて、いつものように宴会が開かれた。
御庭番である半人半霊の少女は突然の事にあたふたとして、突然の事に慣れている銀髪のメイドはさくさくと台所を借りて料理の腕を振るい、そういう一連の大騒ぎを、悠々自適の亡霊嬢は、にこにこと何が楽しいのか、縁側に腰掛けて眺めていた。
今も、湯のみが盃に変わっただけで、相変わらずにこにこと大騒ぎする酔っぱらいを眺めている。
「やあ、すまんね突然」
しゃなりしゃなりと酒瓶を手に、声をかけてきたのは境界の式だった。幽々子はにこにこと彼女を迎えて、隣を進める。式も分かったもので、軽く片手を袖から抜いて挨拶し、座った。
「おはよう、藍」
「これから夜も深まろうという時に、おはよう、か。亡霊らしい」
「うふふ」
「しかし、相変わらず見事な桜だ。ほうっておいたら、何時までも酒を飲んでいるのではないかな、こやつらは」
「そうしてくれるなら、桜も嬉しいに違いないわ。たくさん愛でられる事が、どうして嫌だと思うでしょう」
「悪い気はしないだろうね。ああいかんな、肴を忘れた」
と式神、九尾の狐である八雲藍がなんとはなしに呟くと、おりよく銀髪の庭師が大皿を持って台所から出てきた。こちらに気づいたのか、肴をよこせと襲いかかる黒白を見事な上段蹴りではたき落とし、近づいてくる。
「幽々子様! それに藍殿」
「今の黒白への対応はどうかと思うんだが……あと、私はついでか」
「えっ、あ、いえ、そういうつもりでは」
「まぁまぁ、良いじゃないの」
にこにこと亡霊お嬢様が笑って言うと、ですよね!と言わんばかりに満面の笑みで応えるその従者である。どこでルート間違ったかなーと藍は渋い顔をして、考えるのをやめた。演算能力の無駄だ。
考えるのをやめた藍は、その拍子に妙なことを思い出した。既視感がふっと背中のくぼんだところをさわさわと撫ぜる。なんだったかなこの感覚は、と藍はつぶやき、幽々子と従者である妖夢は、首をかしげて藍を見た。
「いや、以前にもこのような会話をした気がするんだ」
藍も端正なおとがいに白魚の指をあて、フムン、と頷く。
そうしていると、カシャリ、とシャッターを切る音が目の前から聞こえた。三人で顔を上げると、串を咥えて映写機を構えた烏天狗が居る。
「どうも」くいと串を上下させ、「貴女の毎日に文々。新聞。清く正しく美しくの、射命丸文でございます」
その顔をみて、ぽんと藍は手を打った。
「思い出した」
「は?」
「ん?」
「へ?」
三者三様の反応にうなずき、
「うむ、懐かしい話だ。そういえば、このように酒を飲み交わした事があった」
喉のつっかえがとれて満足気な藍だが、すぐに口元をへの字に曲げる。「嫌なやつも思い出してしまった。思い出すんじゃなかった」
「何のことでございましょ。面白い話ですか?」
天狗のブン屋は早速ペンを取り出している。幽々子と妖夢もなんだなんだと此方を注目していて、藍はどこか居心地悪そうに身動ぎした。
「いや、大した話ではないのだが」
「またまた。ここまで引っ張っておいて、それはないでしょう。何、本日此処は酒の席、恥ずかしい話のひとつふたつ、酔いが綺麗に流してくれるという寸法」
「お前の構えているものを思い出してから言え。フム、だが、まぁ、そうだな」
ちらりと亡霊主従を視る。まぁ、良いだろう、と思ったのは、やはり酔いが回っているからだろうか。
藍は盃を傾けて唇を濡らし、とつとつと語り始めた。
「昔、むかしの事だった」
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題名 西行徒然行脚
第一巻 歌聖の娘が天魔と戲れる事
第三章 鳴門で剣鬼が大蛸を退治する件
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永暦の世の事である。
この頃は人心も乱れ、京にはびこる妖怪も跳梁跋扈甚だしく、さりとて宮中は大いに慌ただしく、つまりいつも通りの世であった。
京は混乱の坩堝にあり、法師や陰陽師、武士が妖物と丁々発止を繰り広げている頃。
そこから西に海を超えた島で、一人の少年がやはり妖怪に剣を振るっていた。
古事記において淡道之穂之狭別島と呼ばれる、今風の言い方をするならば、淡路島である。国生みにおいて最初に産まれたとも言われる小さな島であり、瀬戸の穏やかな海原と外海の荒々しい波を分け隔てる、境の役目も担っている所である。
その海岸線、波濤の砕ける岩礁で、奇妙な少年が剣を構えていた。
白髪に短躯、修羅相を僅かに浮かべ、六本の刀が腰に差され、また背負われており、そのうち二振りの白刃を陽のもとに晒していた。かたや七尺はあろうかという大太刀、かたや一尺三寸ほどの脇差を両の腕に構え、とめどなく打ち砕ける波頭を見据えている。
と、突然白波が砕ける最中から、丸太ほどもある長いものが伸びてきた。腕とも言えぬ、紐とも言えぬそれは風を切って少年へ打ち据えられる。
「ほっ」
と軽やかに一息。ふわりと飛び上がった少年はそれを避け、ぶんと大太刀を振るう。少年の背丈を倍するほどの刀身は、まるで生き物のように波間から飛び出てきたものを過たつ断ち切り、しかしそのような驚くべき軽業を披露した少年は、苦々しい顔で大太刀を戻した。
「ええい、またトカゲの尻尾きりかよ。めんどくせえし、飽きたぞ」
嘆息。
たんと岩に降り立てば、その時には両の刃が鞘に収まっていた。抜く手も見せぬ早業ながら、その仕草はどこか荒削りであった。
それもそうだろう、これで七日目。少年は今日も同じ結果に終わって、苛立っているのだ。言葉通り、飽きた、というのが正しいか。
「これでは、いつになったら讃岐に渡れるやら」
言って、胡乱な目で打ち上げられた獲物を視る。
やれやれと乱雑に頭を掻く少年が切り落としたのは、巨大な触手であった。
§
さて、少年が剣の腕前を、大海に披露している時分。
淡路の南端、近場にある漁村では、一悶着が起きていた。
「こりゃあ呪いだね」
ふうむと女は細いおとがいを白魚の指で撫ぜて、その仕草といえば妖艶極まりない。村の男衆は、自分たちに降りかかっている災厄も忘れて、それにほうと見蕩れ、女衆が無言のうちに腰の入った中段蹴りを連れ合いの尻に叩き込み、ぎゃあだのわあだのいきなり騒がしくなった。
「呪いでございますか」
という背後の賑やかな状況を完全に無視して、この村の刀自が重々しく合いの手を入れる。
「……私が言うのもなんだが、根性あるよなぁこの村」
「なんのことやら。しかしどういたしましょうか」
「ウム。まぁ、退治はうちの糞餓鬼がやるでしょうが、それが何時になるかと言うと、私にもわからんね。全く、口ばかり大きくて、頼りにならん。甚だ迷惑な餓鬼だわ」
怖気が走るほどの美しい容貌を歪めて罵る女に、何時もの愚痴が始まった、とばかりに刀自は右から左に聴き流して、女の傍らで小さくなっている少女に声をかけ直した。
「いずれにせよ、もう暫くは此処に滞在されるのが良いでしょう」
「で、でも、私たちのせいで呪いが蔓延ったのです。このままのうのうと寝床を借りるわけにも参りません」
少女ははっと顔を上げて、大きな瞳に涙を湛えたその表情は、如何に自分たちが厄介ごとを招いたかをよくよく知って、深く悲しんでいる様子が見て取れる。男衆はそのはかなげな美貌にそろって拳を固めて歓声をあげ、女衆は無言で連れ合いの足の親指を踏みぬいた。
「それはそうで御座いますが、お気に病むことはございません」
「……逞しいよなぁこの村」
「いいえ、いいえ。やはり私が悪いものを引き寄せてしまったのです。私のせいなのでございます。皆様に申し訳がたちません。やはりいまここで腹を裂いて」
ほろほろと涙をこぼしながら、妙に慣れた手つきで懐から短刀を抜き放ち、切っ先を喉に当てた少女を、傍らで愚痴愚痴としていた女は大慌てで止め、
「やめ、ちょ、やめて!? ほんとすぐ死のうとするの止めろって!」
「私が言うのも何ですが、賑やかでございますな」
どうにかこうにか短刀を収めさせ、落ち着かせると、女はまたため息を吐いた。
「ひとまず呪いのほうは、私が解呪の法を探りましょう。それまでは今しばらく此方のご厄介に預かります」
「ごゆっくりどうぞ」
深々と一礼した刀自は背後を振り向き、散れ、とばかりにさっと手を振った。機敏な身のこなしで村人達は立ち去る。
「なにいまの動きすごい」
「では暫く」
シュバッという謎の音をたてて消えた刀自に、女は遠い目をして考えるのをやめた。このぐらいできないと村人なんて務まらないのだろう。でもちょっと性能高すぎるんじゃないかなぁ。
「藍さん、ねぇ、藍さん」
「あ、うむ? さんは止めてくれ」
「ら、藍……ごめんなさい、私ったらまた……やっぱり腹を裂いて」
「いやいやいやいやマジ勘弁してよ君が死んだらうちのご主人が爆発する」
わあわあと一頻り騒いだ後、落ち着いたのを見計らって、藍と呼ばれた女は荷物をごそごそと漁りだした。
村のはずれにある空き家を仮の宿として借りている手前、家そのものに術を施す事はできない。少女の側を離れるのは、だからいろいろな意味で危険だった。
さあて、どうするかな、と藍はぺろりと長い舌で唇を舐めて、外を見やる。
視線の先、また動物的直感、そしてなにより彼女の神通力が、村一面を覆う塩の雪を感知していた。
話は、数日前に遡る。
京の住処を出立した一行は、大輪田泊から船を得て淡路に入り、鳴門を渡って讃岐へ至る予定だった。
その道中、鳴門の海峡ももうそろそろになろうかと言う頃、奇妙な話を耳にした。
最近、大渦の数が多すぎる。船が出せると思えば突然海に穴が空き、そのまま船を飲み込んでしまうのだ。これは妖怪の仕業に違いない、と。
噂通り、海岸の村はどこもかしこも船を出すなどもってのほか、とにかく渦が収まらないことには話にならない、とその一点張りで、ようやく船を出してもいい、と言う村を見つけたと思えば、かわりにこのへんを荒らしている妖怪を退治してくれ、と頼み込んできた。退治せねばならないのは、まさに大渦を作り出している妖怪であろうから、代わりも何もない、が、いい加減断られるのに飽きたので、快諾したのだ。それなりに腕に覚えのある一行なので、すぐに事は収まるだろうと思っていたのだが、この妖怪がどうにもこうにも捕まらない。足止めされてから、そうして七日が過ぎ、そして今日、村は塩の雪に沈んでしまった。
「十中八九、彼奴は大蛸だな」
少年は大太刀を壁に立てかけて、渋い顔で湯を啜る。
「今日で七本目だ。どうしても誘いにのってくれん。困った」
見れば外には巨大な蛸の足が無造作に積まれている。一番上にはさっき切ってきた一本が載せられて、あれを食うのは大仕事だな、と場違いな考えが浮かんでしまう。
「困ったも何もあるか。海に潜って、とっとと斬ってくればいい。そのまま浮かんでこなければ、なおいいわ」
ふんと鼻を鳴らすその動作も色艶のある女は袖に両手を隠したままで、この国では目立つ金色の髪は旅の身空だというのに輝かしい。
「あゝ、妖忌くんも、藍さんも、喧嘩はやめてくださいまし。私が悪いのでございます。私が誘ってしまったのでございます。やはり腹を裂いて」
うるうると、零れ落ちそうな瞳を塗らした少女は滑らかな動きで短刀を抜き放ち、少年と女はわあだのぎゃあだの騒ぎながらなんとか押しとどめる。
「勘弁してくださいよ、お嬢」
「まったくだわ。君が死んだら、私の主人が悶死する」
と、二人溜息を吐く。
剣を針山のように刺した、白髪の少年。
遊女めいた艶やかな色気の、金髪の女。
百合のように儚げな気配の、初な少女。
はたして奇妙であべこべな組み合わせの、三人であった。
旅の途上にある一行を知らぬ者が見れば、貴人がお忍びで従者を連れて旅路にあるのだろうか、と思うだろう。八割がたは、当たっている。妖艶な女が少女の友人の従者であって、その命で同行している程度の違いである。
さて、そろそろこの一行が中心人物、さきほどから事あるごとに腹を裂こうとする少女の名を、読者諸氏はうすうすと思い浮かべている頃合であろう。
察しの通り、彼女は西行法師の一人娘、西行寺優々子である。幽き少女ではなく、優しき少女である。
このお話は、少女が桜に誘われ死に沈むより以前の事であるので、名が違った。
無論その顛末に、この少女と二人の男女は主要な人物として語られるのだが、それはまた別の話である。
話のついでに、他の二人にも言及しておかねばなるまい。
白髪の少年は、名を妖忌と言う。然り、魂魄妖夢が剣の師匠、初代庭師の、魂魄妖忌その人。の、若かりし頃である。
彼が魂魄と成り、魂魄を名乗るのは、これより今少しの時を経なければならない。今はただの、妖忌である。妖忌と言う名も生まれ持っての名ではなく、その剣技凄まじき事が、悪鬼羅刹の百鬼夜行に忌まれるが故に、呼ばれるようになったものであった。
女のほうは、何を隠そう、このお噺の語り手である、八雲藍である。さして言及することもなかろう。
強いて述べるならば、この頃はまだまだ八雲紫の式となって日が浅く、宮中を騒がせた悪女の色が強い、という程度であろうか。こうして考えてみると、私もずいぶん丸くなったものである。
閑話休題。
さて一行に目を戻せば、藍が荷から手のひら大の香炉をひとつとりだした所であった。
囲炉裏に吊り下げると、三人、それを中心に座ることになる。
「そいつはなんだ、色欲狐」
「貴様のような色惚けた餓鬼には無用の長物だ、青二才」
無言で立ち上がりかけた二人であるが、わぁと花のような声をあげた少女に出鼻をくじかれた。少女は気づかないだろうが、あと一瞬遅ければ、刹那のうちに狐火と白刃が無数に舞っていただろう。
「藍さん、とても品の良い香炉ですわ。不思議な匂いが致します」
「さん付けはやめてくれ。これは八卦七星炉と言う、色々な火炎を吹き出す香炉だよ」
「まぁ! では、月の隠れた夜でも、桜を愛でることが出来ますわ」
「君ならそう使うだろうね。私はこれを、占いに用いるのだよ」
「は? 結界でも貼るんじゃねぇのか。今更占いなんて馬鹿じゃねぇの」
「黙って窒息していろ刃物気違いめ。今更結界なぞ張ったところで、意味などあるか。鼻先に呪いの元凶が積み上がっているだろうが」
「あ?」
ぐいと妖忌は頭を巡らせて、庭先に積まれている蛸の足を見た。
「ただのタコ足だぞ」
「本当に、そうなんだな?」
「ああ。俺が楼観剣で斬ったんだからな」
「それがまずい」
「まずいのか」
「楼観剣で、というのが、まずい。まずかったのだろう」
そう言われて妖忌は、目を細めた。そうするとただでさえ悪い目つきがいっそう怖い顔になって、それを見た優々子は、なんだが悲しくなってしまう。先ほどから二人の話について行けない、というのもあって、訳もなく涙が滲んできた。
「妖忌くん……」
「……ん。あ、お嬢、こりゃ失敬しやした。あとくん付けは止めてくだされと」
そのまま泣き出しそうだったので、少年は慌てて面白い話を三つほど披露する羽目になった。いい気味だ、ざまぁないわ、と心底愉しげに哂う藍に刀を突きつけたいのを堪えて、何とか宥める。泣くのはまだいい、良くはないが、放っておくとまた腹を裂くので必死であった。
「フムン。優々子には、難しい話だったかね」
「お嬢が悪いわけではありゃあせんぜ。こういうのは俺らに任せて、ゆったりと構えておいてくだせえ」
「う、うん。そうですわね。分かっているのです、私が力になれないと。はい、わかっております……」
そう言いながらも、しゅんと身を小さくする。こればかりは仕方がない、と藍は少年に顔を向け直した。
気に食わない相手だが、少年の腕は認めているのだ。少年が斬ったと言うならばそれは斬れているし、楼観剣で斬ったのがまずい、と言えば、その意味を履き違えるほど愚かでもない。
「楼観剣は、妖怪十匹を一振りで斬る。それが、裏目となっちまったか」
「だろうな。それほどの刀で、七度も斬られてなお生きている。となれば、今の大蛸は七十余の妖怪と成ってしまっているのだろう」
物事は因果によって結ばれるのだ、と藍は懐から煙管を取り出し、視線で火をつけて、一口。
楼観剣で斬られて倒されない、という結果があるならば、その理由は、相手が沢山の妖怪だからだ、となる。
奇妙な話だが、だからといって大蛸が妖怪にして七十余の存在として、今までこの世を過ごしていたかどうかは、分からない。藍と妖忌に分かるのは、今現在大蛸がそれだけの力を持っている、という事だけだ。楼観剣で七度斬られてなお生きている、という事実が、そのような結果を産み出した。卵が先か鶏が先かを問うようなものだが、この時代といえば曖昧模糊としたもので、それならばそうなのだろう、となってしまう。故に妖怪が生を謳歌しているのだ。
おおらかな時代なのである。
「さぁて、となれば。あの庭先にあるのは、妖怪の死体、と言うことになる」
「参ったものだね。海にあった妖怪が、死体となって陸に上がれば」
「ううむん。己の居場所である海を、ひいては塩水、を望むだろうな」
「それが七度の積み重ねで、結呪したのだろうね。大蛸と関係は無い、が、元は一緒と言うわけだ」
「あれをただのタコ足に斬る事は、出来る。だが結ばれちまった呪いは、ちいとばかり難しい」
「ほう。呪、ひいては縁を斬るのは、お前でも難しいか……」
「今の俺じゃあ、お前さん等の縁まで斬っちまう。そのうち選んで斬ることも出来るだろうが、今は無理だな」
「フムン。まぁ、もともと期待していないわ。そのために、この炉がある」
疾、と藍が一声唱えると、ぼうと香炉に火が灯った。赤から青、また赤に移り変わる怪しげな炎に、優々子がわっと小さく歓声をあげる。
「占いなんぞで、どうするつもりだ」
「大蛸と呪いを結びつけるような相を見い出すのよ。力づくで呪いを解く事も出来なくはないが、尾を六つは出さねばならない。今回の旅で私が主人に許されている尾の数は三尾までだから、それは出来ないの。だから因果を結び直して、お前が大蛸を斬れば、万事解決するだろうね」
「……そこまで強い呪いなのか?」
妖忌が眉を潜めるのは、目の前の女の神通力が並大抵のものではないと感知しているからだ。実際に九尾の力を見たことはないが、見ずともその強大な導力は分かる。国をひとつ滅ぼす事も可能だろう。いや、そのようなことをして、九尾と成ったのかもしれない。甚だ不本意だが、女の力は認めていた。
その藍が六尾まで出さねば、と言うのは、これは妖忌には疑問に思える。まぁそれもそうだろうな、と藍は独り言ち、凝と炎の色合いを見つめながら、理由を話した。
「私はそういう方面に向いていないのだよ。私が得意なのは、人心を把握し手管にとり色香で誘惑し唆す、言わば指揮の才、式を使う程度の能力だ。そうであるから、呪いとなればその方面に強い式を喚ぶ。そういう式は強力な連中ばかりでね。だからこの程度の呪いでも、それなりに強い指揮能力が必要となるの」
「……俺は剣を操る程度の能力であるが、魔剣神剣を操るほどになるには相応の修練が必要だったのと、同じって訳か」
「物事には適不適があるのだから、致し方ない。要らぬ力は要らぬ因果を結びつける。お前だって肉を裁くのに、天道の剣を抜きはしないだろう」
「ああうむ、成程。創意工夫せよ、って事だな。八雲の隙間様らしい」
「これも修行と言うわけだ、私にとっては。九尾になってまで修行なんて馬鹿らしいと思っていたが、これはこれで面白い……フムン。見えてきたな」
藍が、燻らせていた煙管をぱんと香炉に打ち付ける。火種が炎に投げ込まれて、そうすると様々に移り変わっていた香炉の炎が色彩を一定にした。
オーム、と藍が複雑に手印を作り唱えて、頷く。
「よろしい。これで、私の仕事は終わり」
後はお前次第だ、と藍が試すように少年を眇めた。優々子も、心配そうな顔で少年を見る。
「是非もなし」
応える少年の顔には笑みが浮かんでおり、で、あるから、それ以上の詮索は無用であった。
少年が斬ると告げたなら、それは斬れる宿命なのだ。
§
明くる日。
少年は、また岩礁に立っていた。
一尺三寸ほどの脇差を片手に、大太刀は抜かず、凝と波濤の砕ける海原を、眺めている。
大太刀、楼観剣は、使えない。
楼観剣は少年の携える六本の内、もっとも強力な剣であった。
だが、少年が楼観剣を使うのは自身の腕前に不安が有るからではない。楽だから使っているだけである。
故に、少年の顔に悲壮なものは無い。
もとよりそんなものは、捨て去ってしまったのかもしれない。
ざばり――と、突如海原が割れて、巨大な蛸の脚が少年に襲いかかった。
軽やかに飛び上がり、少年は、は、と鼻で笑う。
「成程、こりゃあ大事だな」
ぶうんぶうんと飛沫を砕き、空を切る巨腕からは、大きな妖力を感じられる。
それを前にして少年、妖忌が言うのは、
「斬りがいがある!」
なんとも不敵な言葉である。
「今日こそそのツラ拝ませてもらうぞ。上がってこい!」
妖忌が、脇差を握る手と逆の腕に、一本の刀を抜いた。
いや、日差しにきらきらとまたたくそれは、刀ではない。
剣である。
両刃の、すらりとした直剣。
ひゅるりと手首をしならせれば、そのまま切っ先にまで微細なく動きが伝わる、柳の如き薄さの剣を眼前に立て、
「嘶け哮天剣!」
一声、天に投じる。と、哮天剣と呼ばれたそれはくるりと切っ先を海中に向けて、電光石火、矢のように海中へ没したではないか。
妖忌はそれを見届けると、すたりと岩礁の先に降り立ち、また腰元から新たな一刀を抜いた。
今度は、どこにでもあるような刀である。とおもいきや、抜き放たれた刀身からじくじくと、何やら黒ぐろとした液体が浮かび、白刃を覆ってしまった。
妖忌はその黒い刀身をずいと前に向けて、しばし待つ。
やがて、ぶくぶくと海面に泡が立ってきた。
それはすぐさまごぼごぼ、となり、次の瞬間、海面が爆発した。
実際にはそうでなく、爆発した、と間違えても仕方がないほどの勢いで、巨大な大蛸が浮上してきたのだ。
海中に没した哮天剣が、潜んでいた大蛸をつつき、海上へと追い込んだのである。
ぱっと海を貫いて矢のように飛び上がり、中空に閃いた哮天剣は、くるくると身を回して塩水を切り、ぴたり――と妖忌の上空で、切っ先を立て、止まった。
はてさて大蛸のほうであるが、これが大きい。
海面から頭頂までの身の丈は、五丈もあろうか。
海中に没しているところと、脚まで含めれば、その大きさは計り知れない。
爛々たる目には、堪えられぬ怒りの色を滲ませ、耳障りな大声で、大蛸は鳴いた。
『おのれおのれ、小童め。よくもワシの脚を、七本も斬ったな』
海域の主人、渦潮の王であるから、その怒りは一角の妖怪であっても身を竦めるほどだろう。
しかし、その怒りを一心に受ける妖忌といえば、ぺろりと口を舐めるだけである。
「出たな、大蛸め。七日もお嬢に無駄足踏ませおって」
『知っているぞ知っているぞ、小童め。お前は妖怪の辻斬りだな』
「知られて嬉しいこともねぇよ。それに、辻斬りは辞めたんだ。今は、可愛い花のような主人を持つ、唯の従者だっつうの」
『妖忌め妖忌め、忌むべき妖の刀使い、悍ましい楼観剣の主人め。しかし、わしは楼観剣で斬れぬぞ。お前に斬られた妖怪の恨み、ここで晴らしてくれる』
「上等だ、海峡の主人、渦潮の王、タコ野郎め。手前のせいで、海が渡れんではないか。そこに直れ、六刀妖忌が後腐れなく、後味さわやかに叩ッ斬ってくれる」
そうお互いに告げ合うと、丁々発止の妖怪退治の幕が開いた。
妖忌が一声気合を入れて空へ舞うと、大蛸は海中から幾つもの小さな脚を持ち上げて、ぶんぶんと妖忌を打ち据えようとする。
妖忌も、ある時は身を仰け反らせ、ある時は両の刃を振るって、襲いかかる無数の脚を避け、どころか飛来する脚を足場にして、ひらひらと宙を舞う。
巨大な一本の、最後に残った脚さえも、気合と共にずんばらりと斬ってしまった。
楼観剣などなくとも、剣の冴えは衰えていない。
剣に頼ることなく、少年は剣鬼であり、だからこそ、魔剣たちは少年に振るわれているのだろう。
さて、そのようにしばらく斬ったはったを繰り返してると、大蛸が突然悲鳴を上げた。
『痛いぞ痛いぞ、妖忌め。刀に斬られた脚が痛い』
見れば、真っ黒い刀で斬られた小脚が、断面からじくじくと腐っている。そればかりか、腐ったところがぐいと鎌首をもたげて、無事な脚を食っているではないか。
妖忌はそれに笑い、声を発した。
「三尸剣は、腹の虫を鳴かせる剣よ。手前の中にどれほど妖怪が潜もうとも、そいつらの空腹は満たされまい!」
読者諸氏は、昨晩の妖忌と藍の会話を覚えておいでだろうか。楼観剣で斬られてなお意気軒昂であった大蛸は、身のうちにいくつもの妖怪を持つ事になっていた。妖忌は、それが言わば、寄生虫のような形で大蛸の身体に潜んでいるのではないか、と考えたのだ。百鬼夜行のように幾つもの妖怪が集まった群体ではなく、大蛸という強力な妖怪を支え、共生する、幾つもの妖怪、という関係であろう、と。その考えは当たっていて、妖忌が持つ三尸剣によって空腹になった小妖怪たちは、共食いとも言える破滅的な行いを一心不乱にすることと相成った。なんとも使い道のなさそうな刀であるが、この末法的な大蛸の様子を見れば、馬鹿と鋏は使い様、と言えるのではないだろうか。
言う間にも妖忌は、黒い刀、三尸剣でざくざくと脚を斬っていく。さりとて脚の数は目に見えて減じているようでもなく、よもや剣鬼の少年は、じわじわと大蛸が弱っていくのを待っているのだろうか。後味さわやかに、と告げた少年にしては、なんとも意地の悪いやり方である。
『無駄よ無駄よ、妖忌め。痛くてたまらぬが、わしの脚は沢山あるぞ。とはいえ、ええい、痛くてかなわん。こんな脚は、こうだ』
そして大蛸も痛いのは嫌なので、斬られた脚を他の脚が絡めとり、すごい力でぶちぶちと引きちぎってしまった。そのまま海やら岩礁やらにぽいと投げ捨てられて、捨てられた脚を見れば、黒く腐った部分が一面に広がり、そのまま自分を食らって消えてしまった。
これでは鼬ごっこである。なにせ、引き千切った小脚は、みるみるうちに元通りになってしまうのだ。
そうであるならば、後は腰をすえて、どちらかが力尽きるまでしのぎを削り続けるだけである。そうなれば、少年は不利に見える。なにせ、大蛸の巨大さと少年の小ささを比較すれば、どちらが先に力尽きるだろうかというのは明白であるからだ。
剣鬼の少年、妖忌、もはや海の藻屑となり、大蛸に食われてしまう定めであるのか――
「――阿呆め!」
少年、莞爾と笑い。
「天網恢々疎にして漏らさず! 見切ったぞ、手前の”命”の真ん中は、やはりそのド頭の中か!」
たんととんぼを打つ姿も鮮やかに、妖忌は脇差の切っ先を、大蛸、その身体の真中に定める。
少年は、世迷言をほざいているのか――大蛸はしかし、その言葉にぎょっと動きを止めた。
分かったのである。少年が、何も無駄を承知で三尸剣を抜いていたわけではないのだと。
大蛸は、たくさんの妖怪と共生関係にある、一匹の妖怪、である。なのだから、その妖怪を斬れば、あとは木っ端妖怪だけになる。木っ端妖怪ならば三尸剣で事たりる。だが、中心の妖怪は、わからない。
その妖怪が何処にいるのか、というのが、妖忌の探していたものだったのだ。
脚であるならば、それで良し。
そうでないならば、頭しかない。
妖忌の頭上遙かに、哮天剣が切っ先を定めていた。
哮天剣は、好く鼻が利く。大蛸を海中から追い出した時よりずっと妖忌の命令に従い、探し求めていたのだ。
故に、妖忌は気勢を吐いた。
もはや遠慮はいらぬ、という勢いで、修羅の如き凶相は笑みとして大蛸を嗤う。
「命を断つに迷いは要らぬ、心の眼を以て見極めるは、手前が命の天中殺!
いざ!
三界六道より魄を断つ、白楼剣よ我が意を通せ!
断迷剣――」
三尸剣と、帰還した哮天剣を鞘に収め、妖忌は脇差を両の手で肩に担った。
風に煽られる白髪が、ごうと身にまとう剣気によって逆立ち、そして脇差、白楼剣の刀身に剣気が密集していく。
伸びる。
生まれいづるのは、長大な、あまりにも長大な翠の刃だ。
大蛸は、大蛸という妖怪たちは慌ててそれを止めようと、あるいは妖忌に襲いかかり、あるいは頭を守るように幾重にも重なり、
「――迷津慈航斬!」
それらを紙切れ同然に斬り裂いて、美しい翠の刀身が縦一閃。
時が止まったように、音が止む。
海風が足を止め、波が胎動を止め、しかし次の瞬間、
どう――
と、海原ごと大蛸を斬った激音が、鳴門の海に響き渡った。
こうして鳴門の海を騒がせていた大妖怪、大蛸は退治されて、一行は無事、海をわたり讃岐の地に脚を踏み入れたのである……
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ほろほろと、亡霊が鳴いている。
月に叢雲、花に風。宴も峠を過ぎて、一人、また一人と、席を辞する者が出始めてきた。
白玉楼の縁側に座る藍は、喉を潤すため、もはや直飲みとなった酒瓶を仰いで、おやと目を瞬かせる。
「……空になってしまった」
肩をすくめて、一同を見回す。
へえだのほうだの言いながら手を叩いていた幽々子は、相変わらず楽しそうな表情だ。
メモを取っていた文は、ペンを止めて同じく酒をあおり、同じように中身が無い事に唇を尖らせている。
すごい顔になって聞いていた妖夢は固まったままで、こいつもしかして寝てるんじゃないのか。
「キリもいいし、今日は此処迄にしようか」
藍は細いおとがいを撫で、苦笑を浮かべて腰を上げた。
「あれ、そうですか? まだまだ、続きそうな気配ですが」
「そりゃあ続くさ。しかし、そろそろ宴もたけなわだ。私の話を肴にするよりも、あっちのほうがネタは転がっているんじゃないかね、射命丸よ」
「いやいや、とても面白い話でした。続きが気になりますね。まぁ、どちらかと言えば、私の新聞向けではないですが」
稗田に聞かせてみましょうか、と烏天狗は笑う。
幽々子はにこにこと、微笑んだまま小首を傾げて、
「今日は、と言うことは、また続きを教えてくれるのかしら?」
「ん? そうだな……また酒盛りがあって、気が向けば、話そうか」
今日は良い桜だから、口も回ったのだ。平時であれば、こんな話をするのは難しい。
それは、藍の胸を疼かせる感傷があるからだが、そんなことを知らない幽々子は、まぁ、と袖で口元を隠し、鈴を転がすように笑う。
「それじゃあ、その時を愉しみにしているわ。ねぇ、妖夢?」
「………………えっ!? え、いや師匠、あっはい! 愉しみですね次の宴会が!」
あんぐりと口を開けて、阿呆の顔で固まっていた庭師は、主人に声を掛けられ、調子を合わせる。たぶん何を言われたかわかってないが、主人が楽しみだと言ったから脊髄反射で嬉しくなったのだろう。なんでこんなにお目出度くなっちゃったんだろ。
まだ話すと決めたわけじゃないんだけどな、と藍は苦笑を深めて、手を振り、さくさくと宴会の中心に歩いて行く。
ちらちらと、桜が舞い散っている。
そこを一陣、突風が巻き、ぱっと桜を吹き散らしてしまった。
藍は目を細めて、舞い上がった桜の花びらを見上げる。
何となく、隣に少年と少女が居ないのが、寂しくなるような光景だった。
「……酔ったかな?」
酒と、桜は、からかうように藍を誘っている。
再び歩き出した藍は、ひとつ溜息。
歩みはやがて、疾走に。
視界の中で脱ぎ始めている主人に向かって、助走付きの飛び蹴りを繰り出すため、藍は桜を散らす風に成った。
ほろほろと、亡霊が愉しそうに少女達の間を行き交っている。
西行寺幽々子は、にこにこと酒精に酔う少女たちを、縁側から眺めていた。
桜の季節である。
白玉楼は、一面が桜の海であった。
そうであるならば、宴の好きな幻想郷の住人は居ても立っても居られない。いつものように黒白の魔法使いが紅白の巫女をつれて勝手に酒盛りを初め、その気配を察した疎の鬼が人を萃めて、いつものように宴会が開かれた。
御庭番である半人半霊の少女は突然の事にあたふたとして、突然の事に慣れている銀髪のメイドはさくさくと台所を借りて料理の腕を振るい、そういう一連の大騒ぎを、悠々自適の亡霊嬢は、にこにこと何が楽しいのか、縁側に腰掛けて眺めていた。
今も、湯のみが盃に変わっただけで、相変わらずにこにこと大騒ぎする酔っぱらいを眺めている。
「やあ、すまんね突然」
しゃなりしゃなりと酒瓶を手に、声をかけてきたのは境界の式だった。幽々子はにこにこと彼女を迎えて、隣を進める。式も分かったもので、軽く片手を袖から抜いて挨拶し、座った。
「おはよう、藍」
「これから夜も深まろうという時に、おはよう、か。亡霊らしい」
「うふふ」
「しかし、相変わらず見事な桜だ。ほうっておいたら、何時までも酒を飲んでいるのではないかな、こやつらは」
「そうしてくれるなら、桜も嬉しいに違いないわ。たくさん愛でられる事が、どうして嫌だと思うでしょう」
「悪い気はしないだろうね。ああいかんな、肴を忘れた」
と式神、九尾の狐である八雲藍がなんとはなしに呟くと、おりよく銀髪の庭師が大皿を持って台所から出てきた。こちらに気づいたのか、肴をよこせと襲いかかる黒白を見事な上段蹴りではたき落とし、近づいてくる。
「幽々子様! それに藍殿」
「今の黒白への対応はどうかと思うんだが……あと、私はついでか」
「えっ、あ、いえ、そういうつもりでは」
「まぁまぁ、良いじゃないの」
にこにこと亡霊お嬢様が笑って言うと、ですよね!と言わんばかりに満面の笑みで応えるその従者である。どこでルート間違ったかなーと藍は渋い顔をして、考えるのをやめた。演算能力の無駄だ。
考えるのをやめた藍は、その拍子に妙なことを思い出した。既視感がふっと背中のくぼんだところをさわさわと撫ぜる。なんだったかなこの感覚は、と藍はつぶやき、幽々子と従者である妖夢は、首をかしげて藍を見た。
「いや、以前にもこのような会話をした気がするんだ」
藍も端正なおとがいに白魚の指をあて、フムン、と頷く。
そうしていると、カシャリ、とシャッターを切る音が目の前から聞こえた。三人で顔を上げると、串を咥えて映写機を構えた烏天狗が居る。
「どうも」くいと串を上下させ、「貴女の毎日に文々。新聞。清く正しく美しくの、射命丸文でございます」
その顔をみて、ぽんと藍は手を打った。
「思い出した」
「は?」
「ん?」
「へ?」
三者三様の反応にうなずき、
「うむ、懐かしい話だ。そういえば、このように酒を飲み交わした事があった」
喉のつっかえがとれて満足気な藍だが、すぐに口元をへの字に曲げる。「嫌なやつも思い出してしまった。思い出すんじゃなかった」
「何のことでございましょ。面白い話ですか?」
天狗のブン屋は早速ペンを取り出している。幽々子と妖夢もなんだなんだと此方を注目していて、藍はどこか居心地悪そうに身動ぎした。
「いや、大した話ではないのだが」
「またまた。ここまで引っ張っておいて、それはないでしょう。何、本日此処は酒の席、恥ずかしい話のひとつふたつ、酔いが綺麗に流してくれるという寸法」
「お前の構えているものを思い出してから言え。フム、だが、まぁ、そうだな」
ちらりと亡霊主従を視る。まぁ、良いだろう、と思ったのは、やはり酔いが回っているからだろうか。
藍は盃を傾けて唇を濡らし、とつとつと語り始めた。
「昔、むかしの事だった」
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題名 西行徒然行脚
第一巻 歌聖の娘が天魔と戲れる事
第三章 鳴門で剣鬼が大蛸を退治する件
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永暦の世の事である。
この頃は人心も乱れ、京にはびこる妖怪も跳梁跋扈甚だしく、さりとて宮中は大いに慌ただしく、つまりいつも通りの世であった。
京は混乱の坩堝にあり、法師や陰陽師、武士が妖物と丁々発止を繰り広げている頃。
そこから西に海を超えた島で、一人の少年がやはり妖怪に剣を振るっていた。
古事記において淡道之穂之狭別島と呼ばれる、今風の言い方をするならば、淡路島である。国生みにおいて最初に産まれたとも言われる小さな島であり、瀬戸の穏やかな海原と外海の荒々しい波を分け隔てる、境の役目も担っている所である。
その海岸線、波濤の砕ける岩礁で、奇妙な少年が剣を構えていた。
白髪に短躯、修羅相を僅かに浮かべ、六本の刀が腰に差され、また背負われており、そのうち二振りの白刃を陽のもとに晒していた。かたや七尺はあろうかという大太刀、かたや一尺三寸ほどの脇差を両の腕に構え、とめどなく打ち砕ける波頭を見据えている。
と、突然白波が砕ける最中から、丸太ほどもある長いものが伸びてきた。腕とも言えぬ、紐とも言えぬそれは風を切って少年へ打ち据えられる。
「ほっ」
と軽やかに一息。ふわりと飛び上がった少年はそれを避け、ぶんと大太刀を振るう。少年の背丈を倍するほどの刀身は、まるで生き物のように波間から飛び出てきたものを過たつ断ち切り、しかしそのような驚くべき軽業を披露した少年は、苦々しい顔で大太刀を戻した。
「ええい、またトカゲの尻尾きりかよ。めんどくせえし、飽きたぞ」
嘆息。
たんと岩に降り立てば、その時には両の刃が鞘に収まっていた。抜く手も見せぬ早業ながら、その仕草はどこか荒削りであった。
それもそうだろう、これで七日目。少年は今日も同じ結果に終わって、苛立っているのだ。言葉通り、飽きた、というのが正しいか。
「これでは、いつになったら讃岐に渡れるやら」
言って、胡乱な目で打ち上げられた獲物を視る。
やれやれと乱雑に頭を掻く少年が切り落としたのは、巨大な触手であった。
§
さて、少年が剣の腕前を、大海に披露している時分。
淡路の南端、近場にある漁村では、一悶着が起きていた。
「こりゃあ呪いだね」
ふうむと女は細いおとがいを白魚の指で撫ぜて、その仕草といえば妖艶極まりない。村の男衆は、自分たちに降りかかっている災厄も忘れて、それにほうと見蕩れ、女衆が無言のうちに腰の入った中段蹴りを連れ合いの尻に叩き込み、ぎゃあだのわあだのいきなり騒がしくなった。
「呪いでございますか」
という背後の賑やかな状況を完全に無視して、この村の刀自が重々しく合いの手を入れる。
「……私が言うのもなんだが、根性あるよなぁこの村」
「なんのことやら。しかしどういたしましょうか」
「ウム。まぁ、退治はうちの糞餓鬼がやるでしょうが、それが何時になるかと言うと、私にもわからんね。全く、口ばかり大きくて、頼りにならん。甚だ迷惑な餓鬼だわ」
怖気が走るほどの美しい容貌を歪めて罵る女に、何時もの愚痴が始まった、とばかりに刀自は右から左に聴き流して、女の傍らで小さくなっている少女に声をかけ直した。
「いずれにせよ、もう暫くは此処に滞在されるのが良いでしょう」
「で、でも、私たちのせいで呪いが蔓延ったのです。このままのうのうと寝床を借りるわけにも参りません」
少女ははっと顔を上げて、大きな瞳に涙を湛えたその表情は、如何に自分たちが厄介ごとを招いたかをよくよく知って、深く悲しんでいる様子が見て取れる。男衆はそのはかなげな美貌にそろって拳を固めて歓声をあげ、女衆は無言で連れ合いの足の親指を踏みぬいた。
「それはそうで御座いますが、お気に病むことはございません」
「……逞しいよなぁこの村」
「いいえ、いいえ。やはり私が悪いものを引き寄せてしまったのです。私のせいなのでございます。皆様に申し訳がたちません。やはりいまここで腹を裂いて」
ほろほろと涙をこぼしながら、妙に慣れた手つきで懐から短刀を抜き放ち、切っ先を喉に当てた少女を、傍らで愚痴愚痴としていた女は大慌てで止め、
「やめ、ちょ、やめて!? ほんとすぐ死のうとするの止めろって!」
「私が言うのも何ですが、賑やかでございますな」
どうにかこうにか短刀を収めさせ、落ち着かせると、女はまたため息を吐いた。
「ひとまず呪いのほうは、私が解呪の法を探りましょう。それまでは今しばらく此方のご厄介に預かります」
「ごゆっくりどうぞ」
深々と一礼した刀自は背後を振り向き、散れ、とばかりにさっと手を振った。機敏な身のこなしで村人達は立ち去る。
「なにいまの動きすごい」
「では暫く」
シュバッという謎の音をたてて消えた刀自に、女は遠い目をして考えるのをやめた。このぐらいできないと村人なんて務まらないのだろう。でもちょっと性能高すぎるんじゃないかなぁ。
「藍さん、ねぇ、藍さん」
「あ、うむ? さんは止めてくれ」
「ら、藍……ごめんなさい、私ったらまた……やっぱり腹を裂いて」
「いやいやいやいやマジ勘弁してよ君が死んだらうちのご主人が爆発する」
わあわあと一頻り騒いだ後、落ち着いたのを見計らって、藍と呼ばれた女は荷物をごそごそと漁りだした。
村のはずれにある空き家を仮の宿として借りている手前、家そのものに術を施す事はできない。少女の側を離れるのは、だからいろいろな意味で危険だった。
さあて、どうするかな、と藍はぺろりと長い舌で唇を舐めて、外を見やる。
視線の先、また動物的直感、そしてなにより彼女の神通力が、村一面を覆う塩の雪を感知していた。
話は、数日前に遡る。
京の住処を出立した一行は、大輪田泊から船を得て淡路に入り、鳴門を渡って讃岐へ至る予定だった。
その道中、鳴門の海峡ももうそろそろになろうかと言う頃、奇妙な話を耳にした。
最近、大渦の数が多すぎる。船が出せると思えば突然海に穴が空き、そのまま船を飲み込んでしまうのだ。これは妖怪の仕業に違いない、と。
噂通り、海岸の村はどこもかしこも船を出すなどもってのほか、とにかく渦が収まらないことには話にならない、とその一点張りで、ようやく船を出してもいい、と言う村を見つけたと思えば、かわりにこのへんを荒らしている妖怪を退治してくれ、と頼み込んできた。退治せねばならないのは、まさに大渦を作り出している妖怪であろうから、代わりも何もない、が、いい加減断られるのに飽きたので、快諾したのだ。それなりに腕に覚えのある一行なので、すぐに事は収まるだろうと思っていたのだが、この妖怪がどうにもこうにも捕まらない。足止めされてから、そうして七日が過ぎ、そして今日、村は塩の雪に沈んでしまった。
「十中八九、彼奴は大蛸だな」
少年は大太刀を壁に立てかけて、渋い顔で湯を啜る。
「今日で七本目だ。どうしても誘いにのってくれん。困った」
見れば外には巨大な蛸の足が無造作に積まれている。一番上にはさっき切ってきた一本が載せられて、あれを食うのは大仕事だな、と場違いな考えが浮かんでしまう。
「困ったも何もあるか。海に潜って、とっとと斬ってくればいい。そのまま浮かんでこなければ、なおいいわ」
ふんと鼻を鳴らすその動作も色艶のある女は袖に両手を隠したままで、この国では目立つ金色の髪は旅の身空だというのに輝かしい。
「あゝ、妖忌くんも、藍さんも、喧嘩はやめてくださいまし。私が悪いのでございます。私が誘ってしまったのでございます。やはり腹を裂いて」
うるうると、零れ落ちそうな瞳を塗らした少女は滑らかな動きで短刀を抜き放ち、少年と女はわあだのぎゃあだの騒ぎながらなんとか押しとどめる。
「勘弁してくださいよ、お嬢」
「まったくだわ。君が死んだら、私の主人が悶死する」
と、二人溜息を吐く。
剣を針山のように刺した、白髪の少年。
遊女めいた艶やかな色気の、金髪の女。
百合のように儚げな気配の、初な少女。
はたして奇妙であべこべな組み合わせの、三人であった。
旅の途上にある一行を知らぬ者が見れば、貴人がお忍びで従者を連れて旅路にあるのだろうか、と思うだろう。八割がたは、当たっている。妖艶な女が少女の友人の従者であって、その命で同行している程度の違いである。
さて、そろそろこの一行が中心人物、さきほどから事あるごとに腹を裂こうとする少女の名を、読者諸氏はうすうすと思い浮かべている頃合であろう。
察しの通り、彼女は西行法師の一人娘、西行寺優々子である。幽き少女ではなく、優しき少女である。
このお話は、少女が桜に誘われ死に沈むより以前の事であるので、名が違った。
無論その顛末に、この少女と二人の男女は主要な人物として語られるのだが、それはまた別の話である。
話のついでに、他の二人にも言及しておかねばなるまい。
白髪の少年は、名を妖忌と言う。然り、魂魄妖夢が剣の師匠、初代庭師の、魂魄妖忌その人。の、若かりし頃である。
彼が魂魄と成り、魂魄を名乗るのは、これより今少しの時を経なければならない。今はただの、妖忌である。妖忌と言う名も生まれ持っての名ではなく、その剣技凄まじき事が、悪鬼羅刹の百鬼夜行に忌まれるが故に、呼ばれるようになったものであった。
女のほうは、何を隠そう、このお噺の語り手である、八雲藍である。さして言及することもなかろう。
強いて述べるならば、この頃はまだまだ八雲紫の式となって日が浅く、宮中を騒がせた悪女の色が強い、という程度であろうか。こうして考えてみると、私もずいぶん丸くなったものである。
閑話休題。
さて一行に目を戻せば、藍が荷から手のひら大の香炉をひとつとりだした所であった。
囲炉裏に吊り下げると、三人、それを中心に座ることになる。
「そいつはなんだ、色欲狐」
「貴様のような色惚けた餓鬼には無用の長物だ、青二才」
無言で立ち上がりかけた二人であるが、わぁと花のような声をあげた少女に出鼻をくじかれた。少女は気づかないだろうが、あと一瞬遅ければ、刹那のうちに狐火と白刃が無数に舞っていただろう。
「藍さん、とても品の良い香炉ですわ。不思議な匂いが致します」
「さん付けはやめてくれ。これは八卦七星炉と言う、色々な火炎を吹き出す香炉だよ」
「まぁ! では、月の隠れた夜でも、桜を愛でることが出来ますわ」
「君ならそう使うだろうね。私はこれを、占いに用いるのだよ」
「は? 結界でも貼るんじゃねぇのか。今更占いなんて馬鹿じゃねぇの」
「黙って窒息していろ刃物気違いめ。今更結界なぞ張ったところで、意味などあるか。鼻先に呪いの元凶が積み上がっているだろうが」
「あ?」
ぐいと妖忌は頭を巡らせて、庭先に積まれている蛸の足を見た。
「ただのタコ足だぞ」
「本当に、そうなんだな?」
「ああ。俺が楼観剣で斬ったんだからな」
「それがまずい」
「まずいのか」
「楼観剣で、というのが、まずい。まずかったのだろう」
そう言われて妖忌は、目を細めた。そうするとただでさえ悪い目つきがいっそう怖い顔になって、それを見た優々子は、なんだが悲しくなってしまう。先ほどから二人の話について行けない、というのもあって、訳もなく涙が滲んできた。
「妖忌くん……」
「……ん。あ、お嬢、こりゃ失敬しやした。あとくん付けは止めてくだされと」
そのまま泣き出しそうだったので、少年は慌てて面白い話を三つほど披露する羽目になった。いい気味だ、ざまぁないわ、と心底愉しげに哂う藍に刀を突きつけたいのを堪えて、何とか宥める。泣くのはまだいい、良くはないが、放っておくとまた腹を裂くので必死であった。
「フムン。優々子には、難しい話だったかね」
「お嬢が悪いわけではありゃあせんぜ。こういうのは俺らに任せて、ゆったりと構えておいてくだせえ」
「う、うん。そうですわね。分かっているのです、私が力になれないと。はい、わかっております……」
そう言いながらも、しゅんと身を小さくする。こればかりは仕方がない、と藍は少年に顔を向け直した。
気に食わない相手だが、少年の腕は認めているのだ。少年が斬ったと言うならばそれは斬れているし、楼観剣で斬ったのがまずい、と言えば、その意味を履き違えるほど愚かでもない。
「楼観剣は、妖怪十匹を一振りで斬る。それが、裏目となっちまったか」
「だろうな。それほどの刀で、七度も斬られてなお生きている。となれば、今の大蛸は七十余の妖怪と成ってしまっているのだろう」
物事は因果によって結ばれるのだ、と藍は懐から煙管を取り出し、視線で火をつけて、一口。
楼観剣で斬られて倒されない、という結果があるならば、その理由は、相手が沢山の妖怪だからだ、となる。
奇妙な話だが、だからといって大蛸が妖怪にして七十余の存在として、今までこの世を過ごしていたかどうかは、分からない。藍と妖忌に分かるのは、今現在大蛸がそれだけの力を持っている、という事だけだ。楼観剣で七度斬られてなお生きている、という事実が、そのような結果を産み出した。卵が先か鶏が先かを問うようなものだが、この時代といえば曖昧模糊としたもので、それならばそうなのだろう、となってしまう。故に妖怪が生を謳歌しているのだ。
おおらかな時代なのである。
「さぁて、となれば。あの庭先にあるのは、妖怪の死体、と言うことになる」
「参ったものだね。海にあった妖怪が、死体となって陸に上がれば」
「ううむん。己の居場所である海を、ひいては塩水、を望むだろうな」
「それが七度の積み重ねで、結呪したのだろうね。大蛸と関係は無い、が、元は一緒と言うわけだ」
「あれをただのタコ足に斬る事は、出来る。だが結ばれちまった呪いは、ちいとばかり難しい」
「ほう。呪、ひいては縁を斬るのは、お前でも難しいか……」
「今の俺じゃあ、お前さん等の縁まで斬っちまう。そのうち選んで斬ることも出来るだろうが、今は無理だな」
「フムン。まぁ、もともと期待していないわ。そのために、この炉がある」
疾、と藍が一声唱えると、ぼうと香炉に火が灯った。赤から青、また赤に移り変わる怪しげな炎に、優々子がわっと小さく歓声をあげる。
「占いなんぞで、どうするつもりだ」
「大蛸と呪いを結びつけるような相を見い出すのよ。力づくで呪いを解く事も出来なくはないが、尾を六つは出さねばならない。今回の旅で私が主人に許されている尾の数は三尾までだから、それは出来ないの。だから因果を結び直して、お前が大蛸を斬れば、万事解決するだろうね」
「……そこまで強い呪いなのか?」
妖忌が眉を潜めるのは、目の前の女の神通力が並大抵のものではないと感知しているからだ。実際に九尾の力を見たことはないが、見ずともその強大な導力は分かる。国をひとつ滅ぼす事も可能だろう。いや、そのようなことをして、九尾と成ったのかもしれない。甚だ不本意だが、女の力は認めていた。
その藍が六尾まで出さねば、と言うのは、これは妖忌には疑問に思える。まぁそれもそうだろうな、と藍は独り言ち、凝と炎の色合いを見つめながら、理由を話した。
「私はそういう方面に向いていないのだよ。私が得意なのは、人心を把握し手管にとり色香で誘惑し唆す、言わば指揮の才、式を使う程度の能力だ。そうであるから、呪いとなればその方面に強い式を喚ぶ。そういう式は強力な連中ばかりでね。だからこの程度の呪いでも、それなりに強い指揮能力が必要となるの」
「……俺は剣を操る程度の能力であるが、魔剣神剣を操るほどになるには相応の修練が必要だったのと、同じって訳か」
「物事には適不適があるのだから、致し方ない。要らぬ力は要らぬ因果を結びつける。お前だって肉を裁くのに、天道の剣を抜きはしないだろう」
「ああうむ、成程。創意工夫せよ、って事だな。八雲の隙間様らしい」
「これも修行と言うわけだ、私にとっては。九尾になってまで修行なんて馬鹿らしいと思っていたが、これはこれで面白い……フムン。見えてきたな」
藍が、燻らせていた煙管をぱんと香炉に打ち付ける。火種が炎に投げ込まれて、そうすると様々に移り変わっていた香炉の炎が色彩を一定にした。
オーム、と藍が複雑に手印を作り唱えて、頷く。
「よろしい。これで、私の仕事は終わり」
後はお前次第だ、と藍が試すように少年を眇めた。優々子も、心配そうな顔で少年を見る。
「是非もなし」
応える少年の顔には笑みが浮かんでおり、で、あるから、それ以上の詮索は無用であった。
少年が斬ると告げたなら、それは斬れる宿命なのだ。
§
明くる日。
少年は、また岩礁に立っていた。
一尺三寸ほどの脇差を片手に、大太刀は抜かず、凝と波濤の砕ける海原を、眺めている。
大太刀、楼観剣は、使えない。
楼観剣は少年の携える六本の内、もっとも強力な剣であった。
だが、少年が楼観剣を使うのは自身の腕前に不安が有るからではない。楽だから使っているだけである。
故に、少年の顔に悲壮なものは無い。
もとよりそんなものは、捨て去ってしまったのかもしれない。
ざばり――と、突如海原が割れて、巨大な蛸の脚が少年に襲いかかった。
軽やかに飛び上がり、少年は、は、と鼻で笑う。
「成程、こりゃあ大事だな」
ぶうんぶうんと飛沫を砕き、空を切る巨腕からは、大きな妖力を感じられる。
それを前にして少年、妖忌が言うのは、
「斬りがいがある!」
なんとも不敵な言葉である。
「今日こそそのツラ拝ませてもらうぞ。上がってこい!」
妖忌が、脇差を握る手と逆の腕に、一本の刀を抜いた。
いや、日差しにきらきらとまたたくそれは、刀ではない。
剣である。
両刃の、すらりとした直剣。
ひゅるりと手首をしならせれば、そのまま切っ先にまで微細なく動きが伝わる、柳の如き薄さの剣を眼前に立て、
「嘶け哮天剣!」
一声、天に投じる。と、哮天剣と呼ばれたそれはくるりと切っ先を海中に向けて、電光石火、矢のように海中へ没したではないか。
妖忌はそれを見届けると、すたりと岩礁の先に降り立ち、また腰元から新たな一刀を抜いた。
今度は、どこにでもあるような刀である。とおもいきや、抜き放たれた刀身からじくじくと、何やら黒ぐろとした液体が浮かび、白刃を覆ってしまった。
妖忌はその黒い刀身をずいと前に向けて、しばし待つ。
やがて、ぶくぶくと海面に泡が立ってきた。
それはすぐさまごぼごぼ、となり、次の瞬間、海面が爆発した。
実際にはそうでなく、爆発した、と間違えても仕方がないほどの勢いで、巨大な大蛸が浮上してきたのだ。
海中に没した哮天剣が、潜んでいた大蛸をつつき、海上へと追い込んだのである。
ぱっと海を貫いて矢のように飛び上がり、中空に閃いた哮天剣は、くるくると身を回して塩水を切り、ぴたり――と妖忌の上空で、切っ先を立て、止まった。
はてさて大蛸のほうであるが、これが大きい。
海面から頭頂までの身の丈は、五丈もあろうか。
海中に没しているところと、脚まで含めれば、その大きさは計り知れない。
爛々たる目には、堪えられぬ怒りの色を滲ませ、耳障りな大声で、大蛸は鳴いた。
『おのれおのれ、小童め。よくもワシの脚を、七本も斬ったな』
海域の主人、渦潮の王であるから、その怒りは一角の妖怪であっても身を竦めるほどだろう。
しかし、その怒りを一心に受ける妖忌といえば、ぺろりと口を舐めるだけである。
「出たな、大蛸め。七日もお嬢に無駄足踏ませおって」
『知っているぞ知っているぞ、小童め。お前は妖怪の辻斬りだな』
「知られて嬉しいこともねぇよ。それに、辻斬りは辞めたんだ。今は、可愛い花のような主人を持つ、唯の従者だっつうの」
『妖忌め妖忌め、忌むべき妖の刀使い、悍ましい楼観剣の主人め。しかし、わしは楼観剣で斬れぬぞ。お前に斬られた妖怪の恨み、ここで晴らしてくれる』
「上等だ、海峡の主人、渦潮の王、タコ野郎め。手前のせいで、海が渡れんではないか。そこに直れ、六刀妖忌が後腐れなく、後味さわやかに叩ッ斬ってくれる」
そうお互いに告げ合うと、丁々発止の妖怪退治の幕が開いた。
妖忌が一声気合を入れて空へ舞うと、大蛸は海中から幾つもの小さな脚を持ち上げて、ぶんぶんと妖忌を打ち据えようとする。
妖忌も、ある時は身を仰け反らせ、ある時は両の刃を振るって、襲いかかる無数の脚を避け、どころか飛来する脚を足場にして、ひらひらと宙を舞う。
巨大な一本の、最後に残った脚さえも、気合と共にずんばらりと斬ってしまった。
楼観剣などなくとも、剣の冴えは衰えていない。
剣に頼ることなく、少年は剣鬼であり、だからこそ、魔剣たちは少年に振るわれているのだろう。
さて、そのようにしばらく斬ったはったを繰り返してると、大蛸が突然悲鳴を上げた。
『痛いぞ痛いぞ、妖忌め。刀に斬られた脚が痛い』
見れば、真っ黒い刀で斬られた小脚が、断面からじくじくと腐っている。そればかりか、腐ったところがぐいと鎌首をもたげて、無事な脚を食っているではないか。
妖忌はそれに笑い、声を発した。
「三尸剣は、腹の虫を鳴かせる剣よ。手前の中にどれほど妖怪が潜もうとも、そいつらの空腹は満たされまい!」
読者諸氏は、昨晩の妖忌と藍の会話を覚えておいでだろうか。楼観剣で斬られてなお意気軒昂であった大蛸は、身のうちにいくつもの妖怪を持つ事になっていた。妖忌は、それが言わば、寄生虫のような形で大蛸の身体に潜んでいるのではないか、と考えたのだ。百鬼夜行のように幾つもの妖怪が集まった群体ではなく、大蛸という強力な妖怪を支え、共生する、幾つもの妖怪、という関係であろう、と。その考えは当たっていて、妖忌が持つ三尸剣によって空腹になった小妖怪たちは、共食いとも言える破滅的な行いを一心不乱にすることと相成った。なんとも使い道のなさそうな刀であるが、この末法的な大蛸の様子を見れば、馬鹿と鋏は使い様、と言えるのではないだろうか。
言う間にも妖忌は、黒い刀、三尸剣でざくざくと脚を斬っていく。さりとて脚の数は目に見えて減じているようでもなく、よもや剣鬼の少年は、じわじわと大蛸が弱っていくのを待っているのだろうか。後味さわやかに、と告げた少年にしては、なんとも意地の悪いやり方である。
『無駄よ無駄よ、妖忌め。痛くてたまらぬが、わしの脚は沢山あるぞ。とはいえ、ええい、痛くてかなわん。こんな脚は、こうだ』
そして大蛸も痛いのは嫌なので、斬られた脚を他の脚が絡めとり、すごい力でぶちぶちと引きちぎってしまった。そのまま海やら岩礁やらにぽいと投げ捨てられて、捨てられた脚を見れば、黒く腐った部分が一面に広がり、そのまま自分を食らって消えてしまった。
これでは鼬ごっこである。なにせ、引き千切った小脚は、みるみるうちに元通りになってしまうのだ。
そうであるならば、後は腰をすえて、どちらかが力尽きるまでしのぎを削り続けるだけである。そうなれば、少年は不利に見える。なにせ、大蛸の巨大さと少年の小ささを比較すれば、どちらが先に力尽きるだろうかというのは明白であるからだ。
剣鬼の少年、妖忌、もはや海の藻屑となり、大蛸に食われてしまう定めであるのか――
「――阿呆め!」
少年、莞爾と笑い。
「天網恢々疎にして漏らさず! 見切ったぞ、手前の”命”の真ん中は、やはりそのド頭の中か!」
たんととんぼを打つ姿も鮮やかに、妖忌は脇差の切っ先を、大蛸、その身体の真中に定める。
少年は、世迷言をほざいているのか――大蛸はしかし、その言葉にぎょっと動きを止めた。
分かったのである。少年が、何も無駄を承知で三尸剣を抜いていたわけではないのだと。
大蛸は、たくさんの妖怪と共生関係にある、一匹の妖怪、である。なのだから、その妖怪を斬れば、あとは木っ端妖怪だけになる。木っ端妖怪ならば三尸剣で事たりる。だが、中心の妖怪は、わからない。
その妖怪が何処にいるのか、というのが、妖忌の探していたものだったのだ。
脚であるならば、それで良し。
そうでないならば、頭しかない。
妖忌の頭上遙かに、哮天剣が切っ先を定めていた。
哮天剣は、好く鼻が利く。大蛸を海中から追い出した時よりずっと妖忌の命令に従い、探し求めていたのだ。
故に、妖忌は気勢を吐いた。
もはや遠慮はいらぬ、という勢いで、修羅の如き凶相は笑みとして大蛸を嗤う。
「命を断つに迷いは要らぬ、心の眼を以て見極めるは、手前が命の天中殺!
いざ!
三界六道より魄を断つ、白楼剣よ我が意を通せ!
断迷剣――」
三尸剣と、帰還した哮天剣を鞘に収め、妖忌は脇差を両の手で肩に担った。
風に煽られる白髪が、ごうと身にまとう剣気によって逆立ち、そして脇差、白楼剣の刀身に剣気が密集していく。
伸びる。
生まれいづるのは、長大な、あまりにも長大な翠の刃だ。
大蛸は、大蛸という妖怪たちは慌ててそれを止めようと、あるいは妖忌に襲いかかり、あるいは頭を守るように幾重にも重なり、
「――迷津慈航斬!」
それらを紙切れ同然に斬り裂いて、美しい翠の刀身が縦一閃。
時が止まったように、音が止む。
海風が足を止め、波が胎動を止め、しかし次の瞬間、
どう――
と、海原ごと大蛸を斬った激音が、鳴門の海に響き渡った。
こうして鳴門の海を騒がせていた大妖怪、大蛸は退治されて、一行は無事、海をわたり讃岐の地に脚を踏み入れたのである……
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ほろほろと、亡霊が鳴いている。
月に叢雲、花に風。宴も峠を過ぎて、一人、また一人と、席を辞する者が出始めてきた。
白玉楼の縁側に座る藍は、喉を潤すため、もはや直飲みとなった酒瓶を仰いで、おやと目を瞬かせる。
「……空になってしまった」
肩をすくめて、一同を見回す。
へえだのほうだの言いながら手を叩いていた幽々子は、相変わらず楽しそうな表情だ。
メモを取っていた文は、ペンを止めて同じく酒をあおり、同じように中身が無い事に唇を尖らせている。
すごい顔になって聞いていた妖夢は固まったままで、こいつもしかして寝てるんじゃないのか。
「キリもいいし、今日は此処迄にしようか」
藍は細いおとがいを撫で、苦笑を浮かべて腰を上げた。
「あれ、そうですか? まだまだ、続きそうな気配ですが」
「そりゃあ続くさ。しかし、そろそろ宴もたけなわだ。私の話を肴にするよりも、あっちのほうがネタは転がっているんじゃないかね、射命丸よ」
「いやいや、とても面白い話でした。続きが気になりますね。まぁ、どちらかと言えば、私の新聞向けではないですが」
稗田に聞かせてみましょうか、と烏天狗は笑う。
幽々子はにこにこと、微笑んだまま小首を傾げて、
「今日は、と言うことは、また続きを教えてくれるのかしら?」
「ん? そうだな……また酒盛りがあって、気が向けば、話そうか」
今日は良い桜だから、口も回ったのだ。平時であれば、こんな話をするのは難しい。
それは、藍の胸を疼かせる感傷があるからだが、そんなことを知らない幽々子は、まぁ、と袖で口元を隠し、鈴を転がすように笑う。
「それじゃあ、その時を愉しみにしているわ。ねぇ、妖夢?」
「………………えっ!? え、いや師匠、あっはい! 愉しみですね次の宴会が!」
あんぐりと口を開けて、阿呆の顔で固まっていた庭師は、主人に声を掛けられ、調子を合わせる。たぶん何を言われたかわかってないが、主人が楽しみだと言ったから脊髄反射で嬉しくなったのだろう。なんでこんなにお目出度くなっちゃったんだろ。
まだ話すと決めたわけじゃないんだけどな、と藍は苦笑を深めて、手を振り、さくさくと宴会の中心に歩いて行く。
ちらちらと、桜が舞い散っている。
そこを一陣、突風が巻き、ぱっと桜を吹き散らしてしまった。
藍は目を細めて、舞い上がった桜の花びらを見上げる。
何となく、隣に少年と少女が居ないのが、寂しくなるような光景だった。
「……酔ったかな?」
酒と、桜は、からかうように藍を誘っている。
再び歩き出した藍は、ひとつ溜息。
歩みはやがて、疾走に。
視界の中で脱ぎ始めている主人に向かって、助走付きの飛び蹴りを繰り出すため、藍は桜を散らす風に成った。
変な言い方ですがこの話はこの一話で完結していて欲しい。
なぜこの三人の道中なのか、妖忌の六刀はいかに彼の手に収まったのか、明かされない随所に想像を広げるのが楽しくて仕方ありません。コロンボのカミさんのごとく。
…といって、続編が投稿されれば諸手をあげて飛びつく自分が見えるのですがw
面白かったです。ありがとうございました!
楽しんだという点では行脚の部分ですが宴の雰囲気も素敵でした。
藍しゃまの飛び蹴り!!がなんだかとっても好きです。
いいぞもっとやれ
いや書いてくださいお願いします
やんちゃな妖忌とか、死ぬ死ぬ詐欺の幽々子とか、キャラクター付けが面白い。
(幽々子の方は後のことを考えると複雑ですが。)
続きを期待してます。
時代物っぽい芝居がかった台詞回しもあり、コミカルな掛け合いもあり、とても楽しい話でした。
シリーズものにするかしないかは作者さん(と藍様)の気分しだいということですが、
仮にこれが単発で終わるとしても、まったく別の作品ででもこの三人の話が読みたいなあ、と思います。
もっと彼女らのもっと長いお話を読んでみたい!
藍との絡みも素敵ですが、お嬢の生前もまた興味深い。あの飄々とした亡霊嬢とのギャップが、想像を掻き立てられます。
是非、それに至るまでの、また、これに至ったまでの話を読んでみたいと思わずにはいられません。
じきに紅葉が盛りを迎え、その先には雪見年越しと宴会を開くネタには困らない季節です。
九尾の語りがまた近々聞けるものと楽しみにしています。
ちぐはぐなトリオが堪らん!
続編、心から待ってます。
いかにも大仰な外連味とコミカルさが不思議とマッチしてて、こりゃたまらん。