Coolier - 新生・東方創想話

プリズムリバー解散

2011/09/26 01:09:58
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 その日、長女ルナサ・プリズムリバーは妹たちを居間に呼んだ。
 目の前には次女メルラン。癖のある髪を、しきりに指で梳いている。隣には三女リリカ。右手の指に巻かれた包帯を、落ち着きなく左手でいじりまわしている。
「なぁに、改まって話って」
 いつもの天真爛漫な笑顔はどこへやら、不安げに口角を引きつらせてメルランが訊ねた。さすがに負い目は感じているということだろう。
 ルナサはうなずいて、ゆっくりと、はっきりとした口調で告げた。
「私たちプリズムリバー楽団は、今このときをもって解散する」



 O)))



 後年、幻想郷の音楽史において特に重大な出来事として語られることとなる、プリズムリバー楽団の解散。
 表向きの理由としては、単に『音楽性の相違』とだけ公表された。一方で天狗新聞各紙はリリカの負傷と関連づけ、こぞってセンセーショナルに書きたてたが、そのあたりの真偽はごく一部の関係者が知るのみだった。
 そして、ある意味での発端となったのは一枚のCDだったという事実は、さらに限られた者たちにしか知られていない。

 冒頭より、時は二ヶ月ほどさかのぼる。



 O)))



 密閉されたルナサの部屋をすみずみまで満たすのは、オーディオの幽霊から放たれる音だった。
 耳だけではない。神経を研ぎ澄ませば、全身の触覚までもが音の受容器官となる。すべての感覚を開け放して身を委ねれば、空気の振動は意味をもった表現となり、青白い肌からも深く染みこんでいく。
「はーい、リリカちゃん入りますよー」
 しかし至高の空間は、ノックもなしに開かれたドアによって突如乱された。
 無粋を咎める視線など気に留める様子もなく、リリカはつかつかと部屋の奥まで進んでいく。さらには断りもなく机の引き出しを開けると、中から五線譜を何枚か抜き取った。
 いつもながら仕方のない奴だ。口には出さず、静かに息を吐いた。姉としては、モラルというものについて説教のひとつでも垂れておくべきなのかもしれないが、面倒なのでやめた。それよりも今はとにかく、音の海に浸っていたい。
「借りてくぜー」
 誰かを連想させる台詞を残して、リリカはそのまま部屋を――出ていかずに、ベッドに腰を下ろした。まだ邪魔をしようというのか。ルナサは小さく舌打ちをした。
「これって、最近ルナサ姉さんが聴きまくってるやつだよね」
「…………」
「お、CD? 珍しいじゃん」
「…………」
「曲もけっこういいね」
「……本当にそう思っているのか?」
 誉め方があまりにも軽かったので、つい突っ込んでしまった。リリカは不敵な笑みを浮かべて、人差し指と中指を立てた。
「ズバリ。メンバーは二人、だよね」
 ほう、とルナサは腕を組んだ。聴いただけでそこまでわかるとは、大したものだ。
 いかにもリリカが言うとおり、オーディオの中に収まっているのは三日前に香霖堂で購入したCDだった。幻想郷においては希少品と呼んで差し支えない代物だ。
 CDに限らず、アナログレコードにしてもカセットテープにしても、プリズムリバー楽団にとっては鑑賞品・娯楽品であると同時に、貴重な情報源でもあった。外の世界の音楽に詰め込まれた多様な手法は、創作活動をするうえでのインスピレーションの源となることも多い。なのでそういった商品を見かけたら、財布が許す限りは購入するようにしている。特にこのCDには、他にはない大きな付加価値もあった。というのは、通常ルートのいわゆる『幻想入り』とは流入経路が異なっており、スキマ妖怪が外の世界から持ち帰って香霖堂に売り払ったものらしいのだ。つまり、まだ外の世界でも現役で活動しているミュージシャンの作品である可能性が高く、より新しい情報が得られるというわけだ。
 だが実際のところは単に、ジャケットに一目惚れしたというほうが正しい。モノクロの空を一羽の鳥がぽつんと飛んでいるという寂寞とした構図は、鬱持ちの感性に強烈に訴えてくるものを持っていたのだ。
 さて肝心の中身だが、帰宅して実際に聴いてみるまではさほど大きな期待はしていなかった。ジャケットのセンスと作品のクオリティが比例しないことは、過去の経験から嫌というほど身にしみてわかっている。だが幸か不幸か、ジャケットだけでなく中身のほうも、ルナサの感性を強く惹きつけた。蜘蛛の巣にかかった羽虫のように、いとも簡単に耳と心とを絡め取られてしまった。
 単一のリフを延々と繰り返しながら徐々に展開させ、泥濘の底へと深く深く飲み込むような息苦しさを綴っていく。初めて出会ったスラッジドゥームという音楽は、ルナサの潜在意識に漠然と存在していた理想の音というものを、この上なく具体的な形で提示していた。
 以来三日間、寝食も忘れ、憑かれたようにこのCDを聴いてばかりいる。中毒とか依存症などというのは、こういう状態のことを指すのだろう。姉妹の中で飛びぬけて練習熱心なはずの長女らしからず、ほとんど楽器にも触っていない。最低限ストラディヴァリウスが拗ねてしまわない程度に、軽く弓を当てる程度だった。
「何ていうバンド?」
 リリカが胡坐をかきながら訊ねる。ルナサはベッドの上に置いてあったCDケースを視線で示した。
「コレね。えーと、バンドの名前は……ん、どっち?」
「上のほう。『OM』だ」
「へえ」
 生返事をしながら、リリカはCDケースを反転させた。裏面を眺めて、それから、ある部分で目の動きを止める。
「やっぱりね」
 リリカは得意顔で、指先をCDケースの裏面に押し当てた。そこにはバンドのメンバーが記載されている。

Chris Hakius - Drums
Al Cisneros - Bass / Vocals

 この二人だけだ。サポートメンバーもゲストミュージシャンも加わっておらず、本当にたった二人による三種の音だけで全編が構成されている。ディストーションのかかったベースと即興性の高いドラムによって、とてもギターレスとは思えないような音の分厚さを実現しているのだった。
 それにしても、ベーシストがヴォーカルを兼ねているところまで音だけから読み取るとは、さすが侮れない聴力を持っている。外の世界の音楽から手法を取り入れるのも、リリカが最も上手い。これで感性と創造性が具わってくれたら、何も言うことはないのだが――などと考えていると、リリカが身を乗り出してきた。
「それでねえ、ルナサ姉さん、ちょっと提案があるんだけど」
 妙に目が輝いている。例えるなら、人工ダイヤモンドを散りばめたような。ルナサは嫌な予感に顔をしかめた。リリカがこういう顔をするのは、頭の中で何か損得勘定を巡らせているときと決まっているからだ。もしものことがあった際に尻拭いをしなければならない長女としては、あまり突拍子もないことを言い出すようなら即座に止めなければならない。
「何だ」
「私たちも、こういう音楽やってみない?」
「えっ」
 ルナサはうろたえてしまった。
 もちろんルナサも、同じことを考えてはみた。これほどまでに心惹かれる音楽なのだから、自分でもやってみたいという意欲が頭をもたげてくるのはミュージシャンとして当然の心理だ。鬱という音の性質も、ドゥーム/ストーナー/スラッジを演奏するにはうってつけだろう。
 しかし、この音楽はひとりで演奏できるものではない。となれば、答えは自然と導き出された。
「無理だ」
「なんで」
「だって、うちにはメルランがいるんだぞ」
 楽器の種類がどうこうといった問題ではない。もっと根本的な問題として、メルランは躁の音しか出すことができないのだ。スラッジドゥームを演奏するうえで一つのパートを任せられるとは、とうてい思えなかった。
 だがリリカはこの返答を予測していたようで、人差し指を立てて左右に振った。
「よく考えてみてよ。もし私たちがこういう音楽をやるとしたら、私がドラムってことになるよね」
「ああ」
「じゃあ、ルナサ姉さんは」
「……ベース」
 リリカはあらゆる楽器をこなすが、中でも得意なのはキーボードとパーカッション。つまりドラムを担当するのが妥当だろう。ルナサはヴァイオリンを弾くことが多いが、そもそもは弦楽器全般を得意としている。ならば担当はベースだ。ここまでは、あっさりと確定する。
 しかしリリカは、したり顔で首を横に振った。
「ベース兼ヴォーカル、でしょ」
「は?」
「そのほうが編成もOMと同じになるし」
「おい、ちょっと待て」
 ルナサは掌で額を押さえた。どう考えても計算が合わない。
「メルランはどうするんだ」
「いらないっしょ。私たちふたりだけでやれば、万事解決」
「なに?」
 リリカの魂胆がわかってきた。要は、自分が目立ちたいのだ。
 体格、性格、音の質、魔力の強さ――あらゆる要因によって、プリズムリバー楽団の中ではメルランが最も目立っている。その次女を外してしまえば、残りのメンバーに視線が集まるというわけだ。単純な人数計算をしてみても、三人が二人になれば一人当たりの注目度が増す。それを狙っているのだろう。
 そうまでして目立ちたいのであれば、ソロライブでもやればよさそうなものだ。だが、そうもいかない理由がある。リリカの奏でる幻想の音は、性質の異なる音同士(例えば鬱と躁)を調和させる役割に特化しているせいか、単体では充分な魅力を発揮できないのだ。楽団の曲の中で受けもつソロパートならともかく、完全に単独での演奏では、いくら技巧を凝らそうとも客を惹きつけるのは難しい。ステージを独占できても、客が少なければ自己顕示欲が満たされるはずもなかった。
 それにしても、自分の欲求のために姉を邪魔者扱いするとは、なんと身勝手なことか。ルナサは深くため息をついた。
「ふざけたことを言うな。三姉妹そろってこそのプリズムリバー楽団だろうが」
「ちょっと待ってよ。楽団でやろうとは言ってないじゃん」
 涼しげな顔でリリカが返す。
「楽団の活動は、もちろん続ける。それと並行して、私とルナサ姉さんだけで別バンドを組むってこと」
「……結局、メルランを除け者にすることにならないか」
「悪意に満ちた言い方をすれば、そうなるかもね。でも、空いた時間はソロ活動でもやってもらえば、メルラン姉さんにしてもそんなに不満はないんじゃないかなぁ」
「……そうかな」
「そうだよ」
「でもなあ……」
 どうしても、後ろめたさと不安は拭えない。すると、今度はリリカが苛立たしげに息を吐いた。
「ほんと、ウジウジしちゃって」
「あ?」
「ルナサ姉さんだって、本当はスラッジドゥームやりたいんでしょ。やりたくてやりたくて、たまんないんでしょ。でなきゃ、廃人みたいにこんな部屋籠りの生活しないよね」
「そうは言っても……」
「やってみればいいじゃん。やってみて、問題があったらやめればいいんでしょ。たまにはもっと自分の欲求に素直になってみれば?」
「しかしだな……」
 リリカはCDケースを、ベッドの枕元に放り投げた。
「つくづく腰抜けだね、姉さんは」
「なんだと」
「慎重なわけでも、用心深いわけでもない。ただの腰抜けだよ」
 さすがに、これ以上は黙って聞いているわけにはいかない。ルナサは椅子から立ち、リリカを睨みつけた。
「誰が腰抜けだ。いいだろう、そこまで言うならやってやる」
「姉さん」
「幻想郷に新たな風を運ぶドゥーム・デュオの誕生だ」
「そうこなくっちゃ!」
 一転、声が弾む。リリカも立ち上がり、ルナサの手を取ってぐいぐいと上下に振った。
 少し気分が落ち着いてくるにつれて、ついつい表情が渋くなった。いいように乗せられてしまったような気がしてならない。だが一方で、うまく背中を押してくれたのも事実だ。とにかく、様子を見ながらできるところまでやってみよう。
 すっきりしない胸の内を、ルナサはどうにか納得させた。



 O)))



 紅い天井が、紅い壁が、紅い絨毯が、すべて泥濘の音に塗りつぶされていく。能力によって不自然に拡張された屋内の空間が、反復するリフによって包み込まれていく。
 ルナサの指は弦の上を跳ね、蠢き、魂の音を次々と紡ぎ出した。手足を使わずに楽器を演奏する程度の能力も、ロックミュージックを演奏するうえでは価値を持たない。やはり実際に体を使って演奏してこそ、様になるというものだ。
 場所は、紅魔館の広間。ルナサとリリカが二人で結成した新バンド『Eastern Lord』は、ここの住人たちを相手に初めての演奏会を行っていた。といってもOMのカバーが一曲と、プリズムリバー楽団の曲のスラッジドゥームアレンジが一曲、オリジナルが一曲。時間にしてわずか三十分ほどのステージだ。
 紅魔館といえば、プリズムリバー楽団にとって一番の上客だ。住人たちのための演奏会を定期的に頼まれるだけでなく、時には主催者となって大規模なライブを開催してくれたりもする。しかもメイド長の十六夜咲夜が空間をいじって用意してくれる会場は音響が抜群で、非常に気分よく演奏できた。
 今回はEastern Lord結成の話を聞きつけたレミリア・スカーレットが、持ち前の新しいもの好きっぷりを発揮して、毒見とでもいうべき役割を買って出てくれたのだ。というより、是非にも聴かせろという強い要望だった。始動からわずか一ヶ月半ほど、しかもプリズムリバー楽団のスケジュールの合間にしか活動していないので、ろくに曲も出来上がっていない。人前に出るにはまだ時期尚早とは思ったが、一方で、言い出したら簡単には譲らないお嬢様の我侭さはルナサも知っている。新しい音楽に対する反応を見ることができるいい機会だと考えることにして、依頼に応じたのだった。
 実際にステージに立ってみて、このバンドの心地良さが改めてわかった。思うままに理想の音楽を追求できる楽しさ。暴れ馬メルランのいない気楽さ。少し悔しい気もするが、焚きつけてくれたリリカには感謝しなければならないだろう。この感覚を味わえただけでも、Eastern Lordを組んで正解だった。
 薄手のカーテンを引くように、静かに演奏を終える。瞼の裏でしばし音の余韻を味わってから、名残惜しくもルナサは目を開いた。
 演奏者の手応えとしては申し分ない。果たして、観客はどう判断を下すか。一礼して、まずは紅魔館当主の発言を待った。レミリアは白く細い指を組み、なんとも感情の読み取れない表情のまま、かすかに唇を開く。
 と、当主の言葉を遮るかのように、おもむろに立ち上がる者がいた。
「すばらしい」
 居候の魔女、パチュリー・ノーレッジだった。眠たげな目で虚空を眺め、ぺしぺしと弱々しく拍手をしている。どうやっても無気力にしか見えないその様子のせいで、本当に言葉どおり誉められているものなのかどうか、ルナサは判断に迷った。
 レミリアが愉快そうに肩を震わせる。ついでに背中の羽も揺れた。
「ククク、いや、相当なものだぞ。パチェにスタンディングオベーションをさせるとは」
「はあ……」
 ルナサは曖昧にうなずいた。どれほどのものなのかはわからないが、少なくとも賞賛はされていると受け取って間違いないようだ。
 レミリアは首をねじ曲げ、斜め後ろに控える従者を見た。
「バロン西とウラヌスの飛越を見たとき以来じゃないか。なあ、咲夜?」
「なあと仰いましても、私は戦前のことなど存じ上げませんわ」
「それもそうだ。まあ、丙午にも劣らないくらいに珍しい、ということだよ」
 レミリアはにやりと笑い、
「私も気に入った。生きながらにして土の中に埋めるような慈悲深さが、うちの連中の感性にも合っているんじゃないか。咲夜はどうだ?」
「不思議な感覚を楽しませていただきました。好きですわ、こういうの」
「よし、決まりだな。我が紅魔館は、プリズムリバー楽団と同様、Eastern Lordも厚く支援させてもらうことにする。いいな、咲夜」
「駄目ですと言っても、どうせ聞かないんでしょう?」
 やりとりを聞きながら、ルナサは確かな手応えを感じた。
 これまではほとんど黙って演奏を聴いている姿しか見たことがなかったパチュリーとは違って、レミリアとは直接言葉を交わす機会も多く、癖などについてはそれなりに把握していた。彼女は嬉しかったり楽しかったりする方向で気持ちが昂ってくると、やたらと咲夜に話しかけるようになる。母親に甘える子供のようなものだ。だから、いまの様子を見るかぎりでは、本当に気に入ってもらえたのだと推測できた。
 咳の音が二、三度響いた。少し立っていただけで疲れてしまったのか、パチュリーはしんどそうに腰を下ろした。入れ替わりに、キリ、キリと軋む音が聞こえてくる。フランドール・スカーレットが、行儀悪く指の爪を噛んでいるのだった。紅くつぶらな瞳はぱっちりと見開かれて、ルナサとリリカに交互に向いている。
 これは、どういう反応だろうか。戸惑うルナサの耳に、小悪魔が口を寄せてきた。
「妹様も、たいそうご満悦みたいですよ」
「あれで?」
「ふふ。私も、わかるようになるまで何十年もかかりました」
 楽しげに笑いながら、小悪魔はパチュリーの隣に戻っていった。
「さて、」
 レミリアは足を組みかえて、これから重要な話をするからよく聞けと言わんばかりに、ことさら尊大な態度をとった。
「まだ曲作りの途中だということだが、これだけの演奏ができるのなら、さっさと表向きの活動も始めたらどうだ。こんなこぢんまりとした演奏会ではなくもっと大規模なライブでも、すぐに会場くらい用意するぞ」
「ホントに?」
 リリカが声を弾ませるのを、ルナサは片手で制した。
「ありがたいお言葉です。オリジナル曲だけで一時間ほどのステージができるくらいの曲数がそろったら、そのときによろしくお願いします」
「ほう」
 レミリアは満足げに目を細めた。
「ならば、無理に急かしはしない。ただし、今後はうちでの演奏会を週一で頼みたい」
「それは喜んで」
「準備が整ったと思ったら、いつでも言うがよい。我が紅魔館が最大限の支援をしよう」
「ありがとうございます」
 頭を下げながら、ルナサはひそかに拳を強く握った。



 プリズムリバー邸に帰り着いたのは、日が西に沈みかけたころだった。夜の王であるはずの吸血鬼の根城だというのに、紅魔館の生活リズムはよくわからない。
「お疲れさま」
 帰宅してまずルナサは、リッケンバッカー4003を模したストラディヴァリウスをねぎらった。
 プリズムリバー三姉妹は、それぞれ一つずつ楽器の幽霊を連れている。ルナサはヴァイオリン、リリカはキーボードだが、いずれも長い間手元に置いて魔力を吸わせてきた結果、使い手の意思によって自在に姿と音を変えることができるようになっていた。一度CDを聴かせてやれば、機材一式を完璧に再現するのも造作もないことだ。とはいえ、ベースギターに姿を変えて人前に出るのは久しぶりだったせいか、少々くたびれているようにも見えた。
 それぞれ自室で楽器を寝かせてから、ルナサとリリカはビールで乾杯した。
「いやー、予想以上の大好評だね」
 たったの一杯で顔を赤くして、リリカは気持ちよさそうに息を吐いた。
「本隊よりも人気が出ちゃったりして」
「それはどうかな」
 浮かれる三女に釘を刺すように、ルナサは言った。
「万人受けするような音楽じゃないんだ。紅魔館の住人たちは、よほど波長が合ったんだろうな」
「うーん、波長もあるだろうけど、やっぱり私のスーパードラミングのおかげじゃないかなぁ」
「んなわけあるか」
 ばっさりと切り捨てたが、実際、リリカの演奏もなかなかのものだった。
 本来彼女が得意とするのは、カッチリと構築された高難度の譜面をできるだけ正確になぞることによって魅力や凄味が生まれてくるような、技巧を重視した音楽だ。Eastern Lordが目指す音楽はそれとはほぼ対極にあって、音そのものにどれだけの魔力を持たせられるかに重きが置かれる。正直なところ、ルナサはリリカの適性に疑問を抱いていた。事実、最初はリズムが正確すぎて、味も何もないプレイをしていた。
 だが、リリカは大きな武器を持っていた。どんな音楽にも器用に合わせられる柔軟性と、卓越したセンスだ。ルナサの助言を受けながら数時間練習しただけで、目に見えてプレイに変化が生じた。テンポの揺らぎを表現の手段として組み込むことができるようになり、格段にダイナミズムが増してきたのだ。
「まあ、なんにしても、まずは曲を作らないとな」
「そうそう、新曲! 姉さん頼むよ」
「人任せにするな」
 リリカのグラスにビールを注いでいると、騒がしい足音が床を揺らしながら向かってきた。見るまでもなく、誰だかわかる。
「お姉ちゃーん、リリカーっ!」
 トランペットを大銀杏のように頭の上に乗せて、メルランが姿を現した。
「メルラン姉さん、うるさいよ」
「ねえねえ、明日はどうするのよーっ」
「ああ、明日か……」
 翌日の夜、プリズムリバー楽団は白玉楼で演奏会の予定だ。といっても、依頼に訪れたのは八雲藍だった。おそらくは八雲紫が、西行寺幽々子との酒の席で余興とするつもりで呼んだのだろう。
 どうせ賑やかし程度の演奏会だ。手を抜くわけではないが、わざわざ綿密な打ち合わせをするほどでもない。
「セットリストは前回と同じにしよう。あとは夕方から軽く合わせておけばいいだろう」
「えー、つまんないよー」
 頬をふくらませる次女に、ルナサは苛立ちを覚えた。不満があるなら、自分で案を出してみればいいのだ。それをしようともせずに、文句だけは一丁前。リーダーが楽団をまとめるのにどれだけ神経をすり減らしているか、考えてみたこともないに違いない。
「ねー、今からリハーサルしようよー」
「やめておこう。楽器も疲れている」
「私は疲れてないもん。ねーねー、徹夜でやろーよ」
「アホか」
 ルナサとリリカは口をそろえて、ぼそりとつぶやいた。敢えて、本人に聞こえるように。
 メルランはトランペットを頭の上で回転させながら、両の拳を振りあげた。
「誰がアホじゃー」
「アンタだよ、メルラン姉さん」
「なんだとぉー」
 妹に油を注がれて、メルランの顔は真っ赤だ。膨らみきった怒りをぶつけるかのように、唐突にYou Sufferを吹いて、ぐるりと背中を向けた。
「もういい。寝る」
「早っ」
 どこか小馬鹿にするようなリリカの声を無視して、メルランは居間を出ていった。聞こえよがしな荒っぽい足音が、寝室のある二階へと上っていく。
「面白いねぇ、メルラン姉さんをからかうのは」
 たいして面白くもなさそうに、リリカが天井を仰いだ。ルナサはピーナッツを口に放りこみ、奥歯で噛み砕いた。
「あまり意味もなく怒らせてやるな」
「だってさあ」
「今日は祝杯なんだ。気分よく飲みたいじゃないか」
「……はーい」
 しかしその後も酒は進まず、二人はそこそこにして切り上げた。



 O)))



 ――メルランを止めろ。
 白玉楼での演奏会が中盤にさしかかるころ、ルナサはリリカに目で合図を送った。しかし返ってきたのは、かぶりを振りながらの困惑顔だった。
 ――無理だよ。ルナサ姉さんが止めてよ。
 できるものなら、とっくにやっている。しかし、いくら視線や音で叱責しても、次女の暴走は収まるどころか加速するばかりだった。
 観客は八雲紫とその式たち、それと白玉楼の住人だけで、全部で十名にも満たない。いつものメルランならば、どちらかといえばやる気を欠いてしまいがちな状況だ。だが今日は逆に、五割増のテンションで開演からブッ飛ばしている。
 どういうつもりだ。ルナサは断続的に音による牽制を続けていたが、メルランは完全無視を決め込んでいるのか、あるいは本当に気づいていないのか。こうなると、もう次女を止める手段はない。魔力の大きさが三姉妹の中では飛び抜けているため、長女と三女の二人がかりでも力ずくで止めるのは難しかった。
 加えて、ルナサはいまひとつ調子が出ていなかった。いや、ルナサがというより、ストラディヴァリウスが、だ。このところヴァイオリンとして弾いたりベースとして弾いたりと、なかなかひとつの姿に落ち着かせてやれず、負担の大きな使い方をしてしまっていたせいかもしれない。好調時と比べて明らかにわかるほどに、音に芯が通っていなかった。リリカのキーボードも似たようなものだ。
 二人の必死の抵抗もむなしく、終盤はもはやメルランの独壇場だった。アンサンブルは完全に崩れ、とてもプロの演奏と言っていいようなものではなくなっている。最後はトランペットが音程までも外して、ルナサにしてみれば屈辱的な不協和音で終演となった。
 控室としてあてがわれた八畳間に下がり、障子を閉めるなり、リリカがメルランに食ってかかった。
「どういうつもりよ、アレ。信じらんない!」
「何が」
「何が、じゃないよ! ひとりで勝手にブッ飛んじゃって。おかげでボロボロじゃん」
「待ってよ。文句言いたいのは私のほうなんだけど」
 メルランはやわらかそうな頬を膨らませて、腰に手を当てた。
「だって、二人ともぜんぜん気合い入ってないんだもん。しょうがないから私が引っ張ってあげようと思ったのに、ちっともついてきてくれないし」
「当たり前だ」
 ルナサもリリカに加勢する。
「あんなのに合わせていたら、それこそ演奏が破綻してしまう。私たちの制止に、おまえが従うべきだった」
「むー、お姉ちゃんもいっしょになって私をイジメるの?」
「イジメじゃなくて、説教だよ。場を壊した自覚すらないなんて、サイテー」
 二対一の状況を得て、リリカが態度をさらに強くした。こうなると容赦はない。対照的にメルランはむっつりと黙り込み、目が少し赤くなってきた。
 本当はまだまだ言い足りないが、このへんでやめておこう。これ以上は互いに感情的になってしまうばかりだ。ルナサが妹たちをなだめようとしたところで、障子が細く開けられた。隙間から、魂魄妖夢が顔だけをのぞかせる。
「失礼。幽々子様と紫様がお呼びです」
「……すぐ行きます」
 ぎしぎしと廊下を踏み鳴らしながら、ある程度の覚悟はしていた。あれだけひどい演奏をしたのだから、それなりの辛口評価を浴びせられることだろう。しかし、正座する三姉妹を射すくめるように見据えながら放り出された紫の言葉は、予想以上に冷たく鋭く、精神に突き刺さってきた。
「くだらない」
 猪口と指で口元を隠し、紫が言う。
「宴席の余興といえども、上質の風情を漂わせてほしいと思って貴女たちを呼んだわ。貴女たちに任せれば間違いはないと思って、ね。それが、この有様は何なのかしら」
「……申し訳ありません」
「人里の小童どものほうが、よほど気の利いた演奏をできるわね。この程度でプロを名乗るなんて、恥知らずも程があるのではなくて?」
「ちょっと、紫様……」
 八雲藍が慌てて止めに入った。
「お言葉が過ぎます。もう少し懐を深く持たれては」
「あら、式が主に盾突こうというの?」
「そ、そんなつもりでは……」
「まあまあ」
 幽々子がにこやかに割って入った。
「そんなイジワルなことばかり言ってたら、藍ちゃん家出しちゃうわよ」
「どうせ私はイジワル婆さんですわ」
「もう……。プリズムリバーちゃんたちだって、調子が悪いときもあるわよ。いくら演奏がズタボロだったからって、そんなに思ったままのことをズバズバと言っちゃかわいそうでしょ」
 フォローしてくれているようで、非常にひどいことを言われている。ある意味、紫よりも残酷だ。おそらく悪気はないようなので、余計にたちが悪い。
 幽々子は微笑みながら、日本酒の瓶を掲げた。
「ともかく、お疲れさま。あなたたちも飲んでいきなさいな」
 楽しく飲めるような気分ではない。ルナサは断ろうとしたが、強引に引き止められた。
 酌を受けながら横目でうかがう。妹たちはむしろ、自ら腰を下ろしていた。といっても、酒に呼ばれてラッキーという感じではない。二人とも、自棄酒を呷る気満々の表情だった。
「おい、あまり飲みすぎ――」
「あらあら、余所見してちゃダメよ、ルナサちゃん」
「あ、すみません」
 幽々子にぴったりと張り付かれてしまって、妹たちを気にかけている場合ではなさそうだ。
 ルナサは幽々子にせっつかれながら、ちびちびと飲んだ。メルランとリリカがペース配分も考えず、杯を満たされるまま浴びるように飲んでいるからだ。二人がしこたまに飲んで潰れるのは目に見えているので、介抱役の長女だけは前後不覚に陥るわけにはいかない。
 緩やかな酔いが、暗い気分を増幅していく。苦味が口の中でひろがっていた。



 その翌朝である。
 リリカを永遠亭に担ぎ込むはめになった。ただし急性アルコール中毒でもなければ、寝ゲロが詰まったわけでもない。
 最初に起床したのはルナサだった。居間に入ってみると、キーボードとトランペットとメルランが置きっぱなしになっていた。
 いくら酔っ払っていても、楽器だけは片づけておけよ。心の中で愚痴を垂れつつ、たちこめた酒のにおいに顔をしかめる。メルランのそばに、お土産でもらった芋焼酎の瓶が空になって転がっていた。昨夜は足取りもおぼつかずに帰宅したというのに、あれから後もさらにまだ飲んでいたようだ。床には、なぜか半分だけ齧られた柿の種も散乱していた。
 どう片づけようかと思案していたところ、のたのたと足音を引きずってリリカも起きてきた。ひどい顔だ。
「おはようぅぇえ」
「大丈夫か」
「ヤバい……けど、この二日酔いの苦しみを題材にして、なんか曲ができそう」
 這いずるようにして、キーボードへと向かっていく。呆れながら三女の後ろ姿を眺めて――突如、ルナサの意識に警告が走った。
 キーボードが、濡れている。
「触るな!」
 叫んだときには、もう遅い。リリカはすでに電源スイッチに手を伸ばしており、とっさに長女の声に反応できるほどの余裕はなかった。
 破裂音と火花が、耳と目に刺さる。
「リリカっ!」
 とっさに椅子を投げてキーボードにぶつけ、リリカから引き剥がした。三つの塊が派手な音をたてて床に転がる。荒っぽいやり方になってしまったが、そんなことを気にしている場合ではない。
「大丈夫か!」
 抱き起こしたリリカからは、肉の焦げたような異臭がした。指先を見れば、熱にやられて赤黒くただれている。白目をむいて、完全に意識を失っているようだ。
 感電したのだった。キーボードをどぼどぼに濡らしていた液体(においからして、間違いなく酒)によって、電源を入れた瞬間に電流が体を貫いた。騒霊だから命がどうこうといったことはないだろうが、見ればわかるとおり、相当な怪我を負っている。
 キーボードが勝手にずぶ濡れになるわけがない。では、誰がこんなことをやったのか。
 いくら酔っていたとはいえ、リリカ自身が自分の楽器を汚したり傷つけたりするような真似をするはずがない。ルナサも身に覚えがなかったし、記憶が飛ぶほど飲んでもいなかった。外部の者には、絶対に楽器には触らせない。ならば、消去法で一人しか考えられないだろう。
「あれー、どしたのー」
 あくび交じりの暢気な声。ようやく目を覚ましたメルランを、ルナサは睨みつけた。
「リリカが感電した」
「えー、なんでー」
「キーボードが酒まみれなのに気づかず、電源を入れた」
「酒……あー、はいはい」
 メルランは何度か大きくうなずくと、楽しそうに声をあげて笑いだした。これは二日酔いどころではない。まだ酔っ払っている真っ最中だ。手を叩き、笑いすぎで苦しそうにしながら、途切れとぎれに説明する。
「ゆうべ、お姉ちゃんやリリカが寝たあとも、くふ、私、ひとりで飲んでたんだ。で、急に気になっちゃったの。騒霊も、ぷふ、感電するのかなって。それで実験してみようと思って、アハ、これをリリカの、キーボードに」
 ルナサはもう何も、言いたくも聞きたくもなかった。ただ黙って、気を失っているリリカを抱え、永遠亭へと向かった。



 全治二週間。後遺症の心配はなし。奇跡的にキーボードも無事だった。
 取り返しのつかない事故にはならずに済んだ。しかし、一歩間違えれば姉妹を一人欠くことにもなりかねなかったのだ。メルランは明らかにやりすぎてしまった。いくら酔ったうえでのこととはいえ、単なるいたずらで片づけられる範疇を超えている。
 ルナサは戸惑った。心のどこかで、いい口実ができたと嬉しく思っている自分自身に、戸惑った。Eastern Lordの活動の妨げとなるプリズムリバー楽団を、さらに言うならメルラン自身を、いつの間にか邪魔者のように感じていた自分に戸惑った。
 長女としてあるまじきこの考えを、悔い改めるべきか。いや、今は明らかに背中を押されている。運命か偶然か何なのかは知らないが、とにかく外部的な力が、ひとつの決断を促す方向に作用していた。そして何より、内にある怒りがルナサを衝き動かした。
 ルナサとしては珍しいことだが、心を決めるにはひと晩で充分だった。次の日から、粛々と事を進めていった。
 メルランは何も知らない。リリカにだけ話を通して、すべて水面下で準備を整えていった。そして、



 O)))



「私たちプリズムリバー楽団は、今このときをもって解散する」
 冒頭の場面に繋がる、というわけだ。
「……え?」
 硬直したメルランをそのままにして、ルナサとリリカはそれぞれ自分の部屋に向かった。まとめておいた荷物を取りにいくためだ。ものの一分ほどで居間に戻ってきたが、見るとメルランはまだ同じ姿勢で立っていた。
「私たちは出ていく。この家はメルランが好きに使えばいい」
「え」
「じゃあね、メルラン姉さん」
「え」
 二人は荷物をかついで――といっても、騒霊が生活するのに必要なものはだいたい引っ越し先にそろっているし、楽器や機材はすべて霊体なので持ち運びに苦労はない。引っ越しと呼ぶには気が引けるほどの身軽さだ。楽器を呼び寄せて、いざ出ていこうというところでようやく、メルランが動いた。
「嘘、だよね」
 笑っている。無垢な幼子のように、にこにこ笑っている。
「嘘じゃない」
「じゃあ、冗談だよね」
 笑っている、が、目の焦点は合っていない。現実を直視できないまま、楽しそうに笑っている。
 ルナサは、ため息とともに言った。
「嘘でも冗談でもない。本気だ」
「ちょっと……待ってよ」
「待たない。自分がリリカに何をしたか、よく考えてみろ」
「待ってよ!」
 腕をつかまれた。至近距離で、メルランが笑っている。
 ルナサは荷物を左手にまとめ、右手で次女の肩をぽんと叩いた。
「もう、我慢するのは嫌だろう?」
「え、何」
「ライブでは、好きなように突っ走りたくて。でも私やリリカに怒られるから、いつも我慢して自分を抑えていたんだ」
「……そんなこと、ないよ」
「隠さなくていい。この前の白玉楼では、どうしても抑えきれなくなったんだろう? わかっているんだ。姉妹なんだから、わかるに決まっている」
 腕に力を込めて、メルランの頭を抱きよせる。ふわふわとした髪からは太陽のにおいがして、妙に安心させられた。
 さあ、決別の時だ。言いようのない胸の火照りをこらえて、ルナサはささやいた。
「気の合う仲間が見つかったら、そのときは聴かせてくれ。メルランにとっての、理想の音楽を」
 背中をばしと強く叩いて、身を引き離した。それきり振り返ることなく、大股でプリズムリバー邸を出る。
「早くしろ、リリカ」
 後ろ髪を引かれるかのような三女を促して、空へと舞いあがった。気流に乗って、高く、高く。
「ねえ、ルナサ姉さん」
 追いついてきたリリカが、風の音に負けないよう声を張った。
「大丈夫かな、アレ」
 アレ、と言いながら下を指さす。
「なんだ、同情したのか? おまえがひどい目にあわされたのに」
「そういうわけじゃないけどさあ――」
 リリカは言葉を探している様子で、しかしすぐに諦めて、そのまま黙ってしまった。
 気流に乗って、二人は飛んでいく。はるか下のほうで、ガラスの割れる音がした。



 O)))



 Eastern Lordが新しい拠点としたのは、森の外れにあるコテージだった。住居兼スタジオとして使用するのに申し分のない物件を、格安で譲り受けることができたのだ。
 やるべきことは、はっきりしていた。今はとにかく曲を作ること。OMのコピーやプリズムリバー楽団のカバーに頼らなくても、オリジナル曲だけでセットリストを組めるだけの曲数を早くそろえる必要がある。やるべきことが明確にわかっているというのは、気分的にかなり助かることだった。
 朝から晩までスタジオに籠り、ストラディヴァリウスをかき鳴らす。ルナサはすでにスラッジドゥームのエッセンスを、ほぼ完全に自分のものにしていた。やはり音楽性と性格との波長がぴたりと合っていたのだろう。何十年も前からこういう音楽をやっているかのような感覚が、ルナサの中に根を張り巡らせていった。怪我が治るとすぐにリリカも合流した。
 あっという間に、一ヶ月が過ぎた。
 小休憩の時間、ルナサがリビングに入ってみると、テーブルの上に新聞が置かれていた。今日付けの『文々。新聞』だが、前回の休憩時にはなかったものだ。また勝手に入ってきて勝手に置いていったようだ。
『春告精、遅すぎた復活 もう夏ですよー』
 見出しを読みながら、ルナサは安堵の苦笑を浮かべた。そろそろ騒ぎも収まってきたようだ。
 さすがに解散直後は、天狗新聞各紙の記事はプリズムリバーのことで持ちきりだった。リリカ負傷でキナ臭さを漂わせていたところにきて、まさかの解散である。内容の正確さなど二の次で、憶測に基づいたド派手な記事を書きまくるには充分すぎる燃料だった。
 新聞を読む側も、解散を非常に重大なニュースとして受け止めた。それもそのはず、外の世界では解散だの脱退だのといった話は掃いて捨てるほどあるが、幻想郷においてはそもそもミュージシャンの絶対数が少ないのだ。まして絶大な人気を誇るプリズムリバー楽団の解散ともなれば、幻想郷住人の享受できる文化の質そのものにも大きく影響しかねない大事件だ。ひとびとが関心を寄せないはずもなく、巷ではプリズムリバーについての各種あらぬ噂が飛び交っていたようだった。
 ルナサは新聞を眺めながら、ゆっくりと水を喉の奥に流し込んだ。
 ふと、下のほうの小さな見出しが目に入る。
『メルラン・プリズムリバー始動か』
 これも、解散以来さんざん書き立てられてきた話題だ。Eastern Lordの動向と同様、メルランが今後どのような活動を行っていくのか、大いに関心を集めるところだった。
 このことでルナサやリリカも何度となく取材をされてきたが、答える内容はいつも同じで「わからない」ただそれだけだった。事実、知らないのだから仕方がない。メルランとはまったく連絡をとりあっていないのだ。姉妹でありながら、ガセまみれの新聞から情報を得るしかなかった。プリズムリバー邸は空き家になっていると聞くが、それも本当かどうかはわからない。
 ともあれ、次女のことは気にかかるが、まずは自分たちのことだ。ルナサはEastern Lordが抱える問題点と、それを解決するための方策について考えをめぐらせていた。
 スタジオに戻ると、リリカはとっくに練習を再開していた。手を休めることなく、のんびりと入ってきた姉に向かって非難の声をあげる。
「姉さん、サボりすぎー!」
「そうかな」
「人には練習練習って言うくせにー!」
 シンバルを思いきり叩いて、リリカはスティックを置いた。大径の金属盤が長く垂れ流す音は、単体で聴くとどこか気が抜けている。
「かわいい妹がこんな汗だくになってるってのに、姉さんったらホントにンモー!」
「確かに、水もしたたるいい幼女」
「でしょ。このリリカちゃんの魅力で、つるぺたマニアのペド紳士たちを――って、ごまかさないでよー」
「ごめん、ごめん」
 ルナサはまだ揺れているシンバルを、指でつまんで止めた。
「今日の練習はもう終わりにして、どうだ、晩は外で食べないか」
「お、いいねえ。賛成、賛成」
 さっきまでのふくれっ面はどこへやら、リリカは目を輝かせながら、右手をぴんと真上に挙げてみせた。
「それじゃ、軽くシャワーでも浴びてきなさい」
「はーい」
 自ら遠隔で奏でるマーチングドラムに合わせ、足取り軽くリリカはスタジオを出ていく。後ろ姿が消えると、スティックは操り糸を切られたようにスネアの上に転がり、笑い声のような音を残した。



 穏やかに燃える炭の音が、かすかに流れる演歌の節を纏い、暖色の灯りで薄暗く照らされた狭い空間を支配する。どこまでも広がる闇夜の中、暖簾のみで区切られた小さな世界で背中を丸めてみれば、グラスを満たす泉は腹の内から慈悲深く包み込んでくれる。
「んー、うまい!」
 鬱屈した陶酔を打ち砕く声。口の周りをタレで汚したリリカが、串を握ったままガッツポーズをしていた。
 暖簾をくぐるまでは「たまには高級料亭に入ってみたい」などと抜かしていたが、食べはじめてしまえばこんなものだ。小さな屋台とはいえ、ここの料理はそこらへんの一流レストランにも決して劣るものではない。むしろ高尚な舌など持ち合わせていない身としては、値段を別にしてもこちらのほうが安心だ。
 絶品の串焼きに、酒も進む。リリカは明らかなオーバーペースで飲み進め、もう何度目かわからないおかわりを注文した。今の表情は打算とは無縁の無邪気さに満ちており、まるで子供のようだ――実際、子供なのだが。やはり生活環境の変化とスタジオ籠りの日々が相応のストレスとなり、発散の場を求めていたのだろう。
 こういう飲み方を、少しは見習いたいものだ――ルナサは思った。ふっと息をついて、グラスの残りを一気に空ける。
「どうだリリカ。だいたい見えてきたか」
「ん、何が」
「私たちの音楽」
「あー、うん」
 リリカは注ぎなおされたグラスにさっそく口をつけてから、ちょうど食べ終わっていた串をスティックに見立てて軽く振り、
「ほぼ完璧だね」
「そう? まだ六割くらいだと思うけど」
「えー、九割は行ってるって」
「譜面をきっちりと組み上げてそれを正確になぞるだけじゃ、半分にも届かない。この手の音楽は特に、そこから先が大事なんだ」
「むむー」
「でも、日に日に良くなってきている」
「でしょ、でしょ」
 今度はグラスをライドシンバルに見立て、串でチンチンと叩きはじめる。ルナサは苦笑いでたしなめて、それから表情を改めた。
「まあ、この調子でいけば、ドラムとベースについては問題ないと思っている」
「うん、うん」
「ネックとなっているのは、ヴォーカルだ。そう思わないか」
「うーん、べつに」
 リリカはあっさりと流した。
 事実、まったく深刻には考えていないのだろう。だが、今のヴォーカルで完璧だとも思ってはいないはずだ。姉妹間の温度差は、許容範囲をどこまでと設定しているか、という違いにすぎない。
 現在、ルナサがヴォーカルを兼任している。OMと同じ形態であり、これで問題なくいくのであれば現状が最も望ましい。しかし、そう都合よくいくはずもなかった。ルナサの声は弱々しく、すぐに震えたりかすれたりして、不快感を与えてしまう。それも味があっていい、とリリカは言うのだが、当人はとてもそうとは思えなかった。
 一応、リリカが歌う形態も試してはみた。単に歌として聴けば特に悪いところは見当たらず、無難に歌いこなせている。が、それが音楽性とまるで合っていない。口先だけで小器用にこなしているような感じがして、絶対的に深みが足りない。こちらもまた胸を張って聴かせられるようなものではなく、リリカ自身もヴォーカルを務めることに前向きではなかった。
 あくまで主役はベースとドラムだ。とはいえルナサは、ヴォーカルも間に合わせのもので済ませるつもりはなかった。出来の劣るパートが一つでも入っていれば、それだけ全体のレベルが引き下げられてしまうのだ。
「べつに、姉さんでいいと思うけどなあ。下手なわけでもないし」
「駄目だから、こうやって悩んでいるんだ」
「どうしてもこだわるなら、いっそのことインストにするとかさ」
 その選択肢も、ルナサの中にはない。やはり深淵へと誘うマントラを乗せてこそ、Eastern Lordの音楽は完成されるのだ。最後のピースを欠くことはできないし、ピース選びに妥協することも許されない。
 行き詰まり――ではない。もともとルナサのヴォーカルは、うまくいったなら儲けもの程度のつもりでいたのだ。最初からこの事態は予測していたし、解決策も見えていた。
「いいヴォーカルがうちに入ってくれたら、万事解決なんだけどな」
「えっ」
 リリカは口に運びかけていたグラスを、慌てて置きなおした。
「いや、それはどうかと思うけどねー」
「なんだ、反対するのか」
「反対っていうか、私は姉さんと二人で音楽をやりたいわけで」
 魂胆はわかっている。メンバーを増やせば、それだけステージ上での一人当たりの注目度は薄れるわけで、それがリリカは嫌なのだ。
 ルナサはわざと険しい表情を作ってみせた。
「意見が合わないようだな」
「そうだねー」
「仕方ない、解散するか」
 ちょうど口に含んでいた酒を、リリカは勢いよく吹き出した。
「ぶぼっ、待ってよ、そんなあっさりと」
「誰でも譲れない部分というのはあるだろう。そこを曲げるくらいなら、すっぱりと袂を分かったほうがいい」
「そんなこと言ったって……」
 半ば脅迫だ。リリカはグラスの中身をひと息で半分ほども減らして、思いきりむせた。ルナサは赤子をあやすように、その背中を撫でてやる。
 ひとしきり咳き込んでから、リリカは大きく息をついた。
「わかったよ。わかりましたよ。専任ヴォーカル入れて、三人でやろう」
「いいのか」
「だけど姉さん、そこまで言うからには、心当たりぐらいはあるんでしょうね」
「そうだなあ……」
 ルナサは八目鰻の串を指先でつまみ、視線を上げた。
「どう思う、夜雀さん?」
 屋台の主である夜雀の怪ミスティア・ローレライは、おどけた仕種で小首をかしげた。
「うーん、ちょっと私にはわからないですねえ」
「そうかな? 私の目には、適任者がひとり見えているのだけど」
 客は二人だけだ。屋台はミスティアがひとりで切り盛りしている。辺りに通行人の姿はない。つまり、そういうことだ。
 鳥目にしたり、狂わせたり。夜雀の歌声が持つ強大な力を、音楽的表現のみに注ぎ込んだら、どれだけの効力が生まれるか。大いに期待できる。ヴォーカルを任せるなら彼女しかいないと、ルナサの肚は決まっていた。
「お、姉さん、ミスティアを口説いちゃうの?」
 急に酔いがまわってきたのか、リリカは上半身をゆらゆらと揺らしながら、ルナサの肩を叩いてきた。
「それだったら、私も大賛成だよー。歌はうまいし、なんたって私のダチだかんねー」
 友達、というほどの関係かどうかは知らない。ただ、リリカの狭い付き合いの中に含まれているのは事実だ。そして、互いにさほど悪い印象は持っていない。加入に応じてくれるとなれば、人間関係ならぬ霊妖関係において大きな問題なく出発することができ、すぐに音楽的な話に専念できることだろう。そういった歌唱力以外の理由からも、ミスティアこそが最適であるとルナサは考えていた。
「いっしょにやろーよ。歓迎するからさぁー」
「どうだ、私たちに力を貸してくれないか」
「ちょっ、ちょっと待って」
 姉妹の視線が強すぎたのか、ミスティアは両手を顔の前で振った。
「いきなり言われても、困ります。あなたたちの状況、お客さんの噂話でいろいろ聞いてますけど、実際のところどうなのかよくわかってませんし」
「あー、天狗どもが無茶苦茶書いてるからねー」
 リリカは大袈裟な動作で、肩をすくめてみせた。それからへらへらと蒟蒻のように笑って、これはいよいよ酔いが限界に近づいてきたらしい。
 ルナサは軽く咳払いをして、Eastern Lord結成以来の動きを簡潔に話した。
「――というような音楽をやっていこうと思っているんだ」
「んー」
 ミスティアは爪の先を下唇に当てた。
「いまひとつ想像がつかないですね。マントラを乗せたスラッジドゥームと言われても……」
「そんな音楽は知らない、か。まあ、そうだろうね。実際に聴いてもらうのが手っ取り早い」
 とはいえ、いきなり演奏を始めようというわけではない。リリカがいつの間にやらカウンターに突っ伏して、苦しげな寝言を垂れ流しているような状態では無理な話だ。たいして酒に強くもないくせに、ペースと量をわきまえないものだから、こうなる。
 ルナサは服のポケットから、OMのCDを取り出した。抜かりはない。この屋台では、CDラジカセで音楽を流しているのだ。アナログレコードですら普及には程遠く、CDなど存在自体を知っている者もごく限られている幻想郷の住民としては、ミスティアも相当に恵まれた音楽環境を持っているといえよう。
「ほら、これ。香霖堂で見つけて、ジャケ買いしたんだけど」
 受け取ったミスティアは、手元に視線を落とした。口周りに変化はなかったが、目の輝きが増したのをルナサは見逃さなかった。
 鳥が一羽。夜雀の気に召さないわけがない。
「いいデザインだと思わない?」
「……そうですね。モノクロなのが、また良い」
 ミスティアはCDラジカセから美空ひばりのディスクを取り出し、OMをセットした。
 再生ボタンを押してまず最初に流れてくる甲高い音に、夜雀は一瞬、身を固めた。しかしすぐに始まるベースリフ、続いてドラムとヴォーカルが加わると、ものの数秒でそれらの音に魅入られてしまったようだ。体は微動だにせず、ただつぶらな目と羽毛で覆われた耳とが、じっと音源に向けられている。
 途中で注文をしなくてもいいように、ルナサはちびりちびりとグラスの縁を舐めた。実際、再生が終わるまでの数十分間、ミスティアはずっとCDラジカセにかじりついたままだった。
「どうかな」
 ルナサの問いかけに、ミスティアはまだ余韻から抜け出せないままの呆けた表情で、ゆるゆるとうなずいた。
「いいですね。ルナサさんがそこまで入れ込むのも、よくわかります」
「でしょう」
「プリズムリバー楽団、というかメルランさんと天秤にかけるだけの価値も、あるかもしれませんね」
 見透かされている。ルナサはばつが悪くなって、空のグラスを口に運んだ。おおらかで朗らかなようでいても、そこは客商売で一定の評判を得ているだけのことはある。そこらの気取った妖怪たちよりは、よほど鋭い目を持っているようだ。ただし、皮肉めいたニュアンスを含めて言ったつもりではないのだろうが。
「それで」
 気を取りなおして、ルナサは訊ねた。
「いっしょにやってくれる気にはなった?」
 少し間を置いて、ミスティアは首を横に振った。
「私の本業は鰻屋。歌はあくまで趣味だから、ひとり気ままに歌うのが性に合ってるんですよ」
「ひとと合わせるのは嫌い?」
「そういうわけでもないんですけど……ごめんなさいね」
「いや、こちらこそ、突然に図々しいことを言って悪かった」
 今日のところは、これで引き下がることにした。ルナサとしても、話を持ちかけていきなり受諾してもらえるとは思っていない。これから何度も足を運んで、焦らず粘りづよく、交渉を進めていくつもりだ。
 初回としての手応えはあった。今日はそれだけで充分だった。



 それからは、毎日のようにミスティアの屋台に通った。
 勧誘は、したりしなかったり。したとしても、ミスティアに苦笑いでいなされれば、すぐに引き下がった。
 リリカにしてみれば、交渉は遅々として進んでいないように見えているかもしれない。しかしルナサには確信があった。回数を重ねるごとに、ごくわずかずつではあるがミスティアの対応が軟化していることが、ちゃんと感じられていたからだ。
 そんなある日。
 前日の深酒がたたって、昼前になっても二日酔いでまともに練習できないリリカをとりあえずアンプの前に転がしておいて、フルボリュームでPulling Teethを弾いていると、異様な気配がコテージに向かってきた。
「これは……」
 恐ろしく攻撃的な気配。ただし、殺気は毛の先ほども含まれていない。しばらくぶりに味わう、純度百パーセントの、躁の気配だった。
 リリカも月光を浴びたゾンビのように、むくりと起き上がってきた。ふたりそろってコテージから表に飛び出す。
「ひさしぶりー」
 上空でメルランが、笑顔で手を振っていた。
 愛用のトランペットを連れている。特に変わったところはなさそうだった。しいて言えば、髪が少し乱れている程度だ。姉にうるさく言われなければ、適当にしか櫛を通さないのだろうか。
 ともかく、極端におかしなところは見受けられなかった。だがその普通さが逆に、どことなくうすら恐ろしいものを感じさせる。
「まさか、殴り込みじゃないよね」
 リリカが耳打ちしてきた。ルナサも不安は拭えなかったが、大丈夫、とうなずいてみせた。
「やあ、メルラン。元気にしていたか」
「そりゃもう、私は何があっても四六時中、元気ハッピー躁全開だよー」
「少しは加減しろよ」
「そんなことより、見て見て!」
 メルランは両腕をいっぱいに広げた。何を見ろというのか。ルナサとリリカは同時に首をかしげた。
「ほら、これが私の新しいバンド『Disgorge(幻想郷)』!」
「……他のメンバーは?」
「え? 私ひとりだよ」
「えっ」
 マジで言ってんの、とリリカがつぶやいた。
「お姉ちゃん、言ってたよね。私にとっての理想の音楽を聴かせてくれって」
「あ、ああ」
「というわけで、今日午後からのDisgorge(幻想郷)初ライブに招待しちゃうッ!」
 メルランは服の胸元に手をつっこみ、中からチケットらしき二枚の紙を取り出した。それらを二本のへにょりレーザーの先端に一枚ずつ貼りつけて、ルナサとリリカに向けて飛ばしてくる。
「ちゃんと受け取ってね!」
「取れるかボケェ!」
 極悪軌道を描いて迫るへにょりレーザーを、リリカは叫びながら横っ飛びでかわした。ルナサは身動きできなかったが、髪の毛を数本焼き切られただけだった。
 レーザーはコテージの柱に拳ほどの大きさの穴を穿って、消えた。
「……っぶないなぁ、もー!」
 リリカは飛び起きて、怒りに満ちた顔を上に向けた。が、視線は向けられるべき相手を探して、うろうろとさまよっている。メルランはすでに姿を消していた。
「くそー、勝手にブッ放すだけブッ放して、さっさと帰りやがってー」
 でたらめに拳を振りまわすリリカを尻目に、ルナサは柱の穴を見てみた。チケットは完全に灰になって、欠片だけが木目にこびりついている。
「招待って言ったって、これじゃ場所もわからないぞ」
「あー、もう放っといたらいいんじゃね?」
「まあ、仕方ないか」
 ルナサとしては聴きたさ半分、怖さ半分といったところだ。姉妹という枷を外されたメルランが、はたしてどんな音楽をやるのか。
 調べようと思えば、会場はいくらでも調べようがある。天狗記者にでも訊けば一発だ。だが、そうまでして聴きに行こうとは思えない。メルランも本当は迷っていたから、こんな無茶な渡し方をしたのではなかろうか。
「さ、練習だ練習」
 気にしても仕方のないことだ。振り切るようにぱんぱんと手を叩いて、ルナサはコテージの中に戻った。



「あー、死ぬー」
 長い盛夏の日も暮れかけたころ、リリカはボロ雑巾のようにスタジオの床に転がった。
 メルラン襲撃後、その腹立たしさをぶつけるかのように何時間もぶっ通しで練習をしたのだ。しかも、二日酔いを引きずりながらである。体力はとっくに限界だろう。今日のところはこれで終了だ。
「いやー、精が出ますね」
 声がしたので振り返ってみると、いつの間にか射命丸が椅子に腰かけていた。当たり前のような顔をして、手帖にペンを走らせている。
「あー、勝手に奥まで入ってこないでくれるかな」
「あ、どうぞお構いなく」
「いや、そういうことじゃなくて」
「私は黙って見てますので、お気になさらず」
「まだ、あまり聴かせたくないんだが」
「もう、恥ずかしがり屋さんですね」
「帰れ」
 射命丸は困った表情を浮かべて、わざとらしく頭を掻いた。
「せっかく特別に最新情報をお持ちしたんですが」
「いらん」
「あや、聞きたくないんですか? Disgorge(幻想郷)の初ライブの様子」
 追い払おうとする手を、思わず止めてしまった。リリカも床に伸びたままで、ぎょろりと目玉を天狗に向ける。
 どうせ翌日の新聞には載ってくるのだろうが、いま教えてくれるというのなら聞かないでもない。紙面では省かれる情報も手に入るかもしれないだろう。なんだかんだと言って、やはりメルランのことは気になっていた。
「やっぱり、一人?」
 リリカの問いかけに、射命丸はそうです、とうなずいた。
「Disgorge(幻想郷)のメンバーは、メルラン・プリズムリバー、以上一名」
「音楽のほうは、どんなもん?」
「トランペット一本だけで、見事なグラインドコアを演奏していました」
「マジでか」
 聞きながら、大丈夫なのか、とルナサは首をひねった。
 メルラン単独演奏の危険性は、広く知られているとおり。奏者のテンションが上がりすぎれば、そして聴衆がのめり込みすぎれば、事故による死者が出てもおかしくない。そこに加えて、ジャンルがこれだ。射命丸の情報が正しいならば、観客のモッシュが収拾のつかない状況に陥るのは目に見えている。終演後の会場には死屍累々、という光景が容易に想像できた。
 射命丸は含みのある笑みを見せた。
「大丈夫ですよ。今日のところは軽傷者が二名のみ。まだ死者は出ていません」
「まだ、ねえ……」
 タオルを手に取り、顔の汗を拭いた。空いた椅子の背に向かって投げたが、うまくかからず床に落ちた。
 射命丸が帰ってから、ルナサは楽器を片づけ、外出の支度をした。
「リリカ、今日もミスティアの屋台に行くか」
「私はいい。頭痛いし、疲れたし、もう寝る」
「そうか」
 ルナサは一人でコテージを出た。



 屋台を訪れたルナサは、ミスティアの顔を見ることもなく席に着き、ぼそりと注文をした。月の明るい夜だった。
 音楽の話は一切せず、というよりほとんど言葉を交わすこともなく、ひとり黙々と飲んだ。他に数名の客がやってきては帰っていき、その間ルナサはいちばん端の席で、他の客と絡むこともなく、ひたすらひとり飲んでいた。
 ずいぶんと長い時間が経った。残っている客はルナサだけだ。ミスティアがそろそろ店じまいの準備に取りかかりはじめたころ、ルナサは勢いよく立ち上がった。店主の正面に陣取り、カウンターに両手をつく。
「頼む。Eastern Lordに入ってくれ」
 ふかぶかと頭を下げた。カウンターに額がぶつかる。ミスティアは皿を拭く手を止めた。
 これまでは、どちらかというとまわりくどい誘い方をしてきた。わざと緩慢なペースで、少しずつ確実に距離を詰めてきた。逃げられるのを恐れたから、というのもある。しかし心の奥には、実はメルランに気兼ねする部分があったのかもしれない。実質的に次女を切り捨てるような真似をしておいて、姉妹以外の者をバンドに引き入れようとしている。そんなことがはたして本当に許されるのか、という迷いがあったから、無意識のうちに交渉を引き延ばしていたのかもしれない。
 だが今日は、はっきりと結論をだしてしまうつもりで来た。単身バンドとはいえ、メルランはDisgorge(幻想郷)として新しい活動を始めたのだ。いつまでも遠慮していては前に進めない。
 長い、長い、息苦しい沈黙。
 根負けしたか、ミスティアが言葉を発した。
「いつも同じ返答で申し訳ないですけど、私はひとり気ままに歌えれば、それでいいんです」
「でも私たちには、君の声が必要なんだ」
「たかが人を鳥目にする程度の、私の声が?」
「活動収益の六割を報酬として支払ってもいい。屋台の仕事を優先してもらってかまわない。バンドの活動はすべて君の都合に合わせよう。それだけの条件を出してもいいと思えるだけの価値が、君の声にはある」
 ミスティアは皿を置いて、ため息をついた。
「私には、躁の音は出せませんよ。それでもいいんですか」
「もちろん、かまうものか」
 ルナサはさらに身を乗りだした。
「私はメルランの代わりを探しているわけじゃない。共に理想の音楽を目指すに足る、新たな仲間を探しているんだ」
 再度のため息とともに、ミスティアは目を逸らした。
 また、沈黙。
 ミスティアはおもむろにグラスをひとつ取り出し、なみなみと酒を注いだ。がん、と大きな音をたてて瓶を置く。
「気に食わないですね、その条件は」
 どの部分が――口を開きかけたルナサを撥ねつけるように、ミスティアはグラスの中身をひと息に乾した。深く息を吐き出してから、視線を鋭く突き刺してくる。
「報酬は、プリズムリバーの二人と組んで歌える場を与えてもらうこと。それだけでいい、お金なんかいらない。それと、参加する以上はバンドのスケジュールを最優先として、こちらの体を合わさせてもらう。屋台もひとり気ままにやっているんだから、いくらでも都合はつく」
「え、それじゃあ」
 ミスティアはうなずき、また中を満たしたグラスを、笑みとともに差し出した。
「あなたがそれほどまでに必要としてくれるのなら、私の声、Eastern Lordのために使わせてもらいます」
「……ありがとう」
 ルナサもグラスを掲げ、縁を軽く触れ合わせた。



 O)))



 ミスティア加入から、半月足らず。
 湖畔の特設会場にて、Eastern Lordは公式には初めてとなる、記念すべきライブに臨んだ。主催者はもちろん紅魔館だ。
 この日を待ち望んでいたプリズムリバー楽団のファンたちによって客席は埋め尽くされ、熱狂とともに開演を迎えた。ところが演奏が始まると、会場は歓声ではなくざわめきで覆われていった。無理もない。この新しいバンドがどんな音楽性に進むのか、あらかじめ知っていた者はほんの一握りだったのだから。
 スラッジドゥームという方向性は、実は『文々。新聞』によって事前に報じられていた。しかし他の天狗新聞各紙が的外れな憶測によってさまざまな記事を書いたため、正しい情報は埋もれてしまっていた。結果、観客の大半は何の心構えもできていない状態で、このライブを迎えることとなったのだ。あまりにも耳慣れない音楽に、最初の数分間はただただ戸惑うだけだった。
 しかし、一曲目が中盤にさしかかるころから、少しずつ反応が変わりはじめた。いち早くドゥーム/ストーナー/スラッジの楽しみ方を理解した者、波長がぴたりと合った者――ごく一部の観客ではあるが、トリップする感覚に身を委ねはじめたのだ。
 いける。
 この時点で、ルナサはずっしりとした手応えを感じていた。スタジオで曲作りや練習をしているときよりも、三人でステージに立っている今このときのほうが、ずっと気分が乗っている。
 ベースの歪みとドラムの揺らぎが脳髄をゆったりとかき混ぜて、良質の酩酊を生み出す。沈滞していく音の残滓は、危うさを孕んだ真理への道標に他ならない。そしてヴォーカルが、陶酔の深みを格段に増す効果をもたらしていた。読経と呪詛とつぶやきを掛け合わせたかのような平坦で気だるい歌唱は、単なる擬似マリファナにとどまることなく、より広大な精神世界への入口を開く鍵として、協演者の意識をいともたやすく虜にしてしまっていた。
 声による表現力では、幻想郷の端から端まで探したところで、匹敵する者は見つからないだろう。間違っても、ルナサやリリカの声で代用が利くようなものではない。ミスティアを加入させたのはやはり大正解だったと、ルナサは改めて確信を深めた。
 終演までに引き込むことができたのは、観客の半分ほどといったところだった。ただしそれは悲観するようなことではなく、むしろ大きな期待が持てる結果だ。残りの半分は決してEastern Lordを拒絶したわけではなく、まだこの音楽にどう接するべきか判断しかねている者が大多数を占めているように見えた。このうち相当の割合は、今後ライブを重ねていくうちにファンとして取り込むこともできるだろう。
 もとより、万人受けする音楽だとは思っていない。一曲あたり演奏時間にして十分から二十分、数少ないリフだけで延々と展開していくというのは、肌に合わない者にとってはただひたすら退屈なものだろう。それを考えれば、初ライブは上々だと言えた。
 プリズムリバー楽団のときと比べれば、かなり寂しい拍手。だがルナサは物足りなさを覚えるどころか、かつてないほどの充実感に包まれていた。



 紅魔館で打ち上げの酒宴に顔を出して、コテージに帰ってきたのは深夜になってからだった。
 リリカとミスティアは、連れ立ってキッチンに向かった。
 Eastern Lordに加入して以来、ミスティアもコテージでいっしょに暮らしている。四六時中音楽のことをやるには、このほうが都合がいい。屋台は無期限の休業として、当面は音楽活動に専念するそうだ。
 椅子に座っていると、体の芯に残った火照りがまた全身に広がっていく。ルナサは右手で自分の左腕をつかみ、指先が食い込むほど強く握りしめた。
「お茶、淹れたどー!」
 ドアをヤクザキックで蹴り開き、リリカがリビングに入ってきた。後にミスティアが続く。それぞれ手にはトレイを持っていた。
 ミスティアが眉をひそめる。
「あー、ドアに足跡が……。あとで掃除しなきゃ」
「いいのいいの、そんなもん放っとけば」
「いいわけないでしょ。部屋の雰囲気って、汚れひとつでけっこう台無しになっちゃうんだから」
「雰囲気なんてどうでもいいよ。お店じゃあるまいし」
 リリカとミスティアが元気よく言い合っているうちに、テーブルには紅茶とクッキーが並べられた。
「はーい、今日はお疲れー。それじゃ、カンパーイ」
 リリカがおどけてカップを掲げる。ミスティアは口元に手をやり、くすくすと笑った。
「リリカには、ミルクのほうがいいんじゃないの」
「ぬー、どういう意味だー」
「ねえねえ、ルナサ」
 ミスティアは完全に流して、クッキー皿をルナサの前に寄せた。
「これ、ちょっと趣向を凝らしてみたんだ。食べてみてよ」
「んじゃ、遠慮なく」
 言って、リリカが先に一枚取る。ひとくち齧って、首をかしげた。
「おいしい――けど、特に変わったところはないんじゃない?」
「隠し味を入れたの。八目鰻の腎臓」
「ぶー! 内臓!」
「ちょっと、汚い! 何してるのよ」
「だって、ミスティが変なもの入れるから」
「変なものとは何よー。おいしいって言ったじゃない」
 騒がしい会話を聞きながら、ルナサはゆっくりと紅茶を口に含んだ。温度が高すぎたのか、渋味が出てしまっていた。リリカはずる賢い方向に知恵は回っても、こういうことには大雑把なのだ。せっかくの器用さが泣いている。
 もうひと口。だがこの渋味がむしろ、醒めやらぬ興奮から日常へと引き戻してくれるかのようだった。
 クッキーにも手を伸ばして、ひと齧り。八目鰻を使ったとはいうが、妙な生臭さなどはまったく感じられず、それでいて深く落ち着いた風味が加えられていた。なるほど、並の腕と発想では作れない逸品だ。
 家にいながらにしてミスティアの料理を手軽に味わえるというのも、彼女をバンドに引き入れたことによる成果の一部と言えるだろうか。ルナサは少し頬が緩んでくるのを感じた。
 もちろん、最初から家事能力が目的で勧誘したわけではない。こうしていい気分で舌つづみを打っていられるのも、本業である歌が期待どおり――いや、期待以上だったからこそだ。
 ひとりで歌うときのミスティアは、攻撃的な響きを帯びた声を放っていることが多かった。その点が唯一、ルナサが不安に思うところだったのだが、蓋を開けてみれば何も心配することはなかった。OMを一回だけ聴いた時点で、Eastern Lordにおけるヴォーカルの役割というものを即座に理解できていたのだろう。主役はあくまで、ベースとドラムだ。
 ヴォーカルが抑揚を徹底的に排し、モノトーンの歌唱を貫く。すると、バンドサウンド全体の調和をとるためにリリカが、自然と躍動感あふれるプレイをするようになる。ミスティアが脇役に徹することによって、ドラムが主役として無理なく押し出されてくるというわけだ。
 気ままな一匹雀として飛びまわるのも、本来の姿であることに違いはないだろう。だが同時に、客を惹きつける屋台主というのもまたミスティアの本質だ。バンドの方向性を瞬時に飲み込み、リリカの性質を見抜き、自分が演じるべき最適な役割を演じる。客商売で培われた、妖怪としては稀有な能力。
 歌い方に関する要望など、ひとつも出す必要はなかった。何も言わずとも、ルナサが求めたのと寸分違わぬものをバンドにもたらしてくれたのだ。
「あ、なんかこれ、病みつきになってきた」
 口をもごつかせながら、リリカはさらに新たなクッキーを押し込んだ。なんだかんだ言いつつも、さっきから彼女が一番多く食べている。
「ほらほら、腎臓がくっついてるよ」
 ミスティアは苦笑いでリリカの口元に手を伸ばし、クッキーの欠片をつまみとった。途端に、リリカが口をへの字に曲げる。
「ちょっとー、子供扱いはやめてよ」
「子供でしょ。体も中身も」
「なにをー。自分だって身長は低いほうのくせに」
 リリカがミスティアに飛びついていく。だが本気で掴みかかっているわけではなく、いっしょにソファに倒れこんで、揉みあって、じゃれあっているだけだ。その証拠に、もう二人ぶんの笑い声がこぼれてきている。
 この光景を見るにつけ、ルナサはつくづく思った。やはりミスティアを加入させたのは最良の人選だった、と。友達の少ないリリカが、共同生活を始めてわずか半月で、すでに数十年来の親友のように心を許している。
 ルナサは席を立ち、起き上がったばかりのリリカの隣に座りなおした。
「何よ姉さん、狭いってば」
 構わずルナサは腕を伸ばし、間に挟まったリリカごと、ミスティアの肩を抱きよせた。
「どうしたの、ルナサ」
 ミスティアは少し困ったように笑い、しかしルナサのするままに任せている。
 慣れないスキンシップなど気恥ずかしくて、姉妹間でもめったにすることはない。それでもこの夜雀には、ごく自然に手を触れることができた。ルナサにとっても新しい仲間は、実の姉妹にも劣らぬ特別な存在となっている。
 音楽の面でも、それ以外の面でも。いまやEastern Lordは、まさにルナサの理想を百パーセント実現してくれるバンドだった。
 ――あれ?
 ふとルナサの胸を、違和感がよぎった。さほど大きなものではない。ただ、無視してしまうには少しばかり存在感が大きすぎる、何か。例えるなら、埃ひとつ残さずに磨きあげたはずの部屋の床に、一本の縮れ毛が落ちていたかのような。
「だぁっ、暑苦しい!」
 リリカが腕をひろげて、両脇の二人を押しのけた。その拍子に振り上げた足がテーブルに当たり、ミスティアの紅茶カップが倒れる。
「あっ、やばっ」
「とりあえず、これ!」
 ミスティアが手近にあった新聞紙を引っつかみ、テーブルから流れ落ちかけていた紅茶を吸い取った。
「もー、リリカ、何してんの」
「だってさー」
 言い合いながらもどこか楽しげな二人の声をよそに、ルナサは濡れて黒ずんでいく新聞の文字を眺めた。連日ライブを行い、破竹の勢いでファンを増やしているDisgorge(幻想郷)の記事だ。
 強烈なディストーションをかけたトランペット一本のみで、大きな緩急はつけずに突っ走り、数秒から数十秒の短い曲を次々と矢継ぎ早に繰り出す。このスタイルは『ファントムグラインド』と呼ばれ、すでに幻想郷における音楽の一ジャンルとして広く認識されつつある、らしい。ライブのたびに負傷者の数は増えつづけているが、そんなことは物ともせずにさらなる人気を獲得している。
 ぬるくなった紅茶を飲んだ。渋味が、腹の底に溜まるようだった。
「飲んどる場合かーっ!」
 キッチンから戻ってきたリリカが、持ってきた布巾を投げつけてくる。ルナサは右手で受け取って、そのまま投げ返した。
「自分で拭きなさい」
「ケチ」
 リリカは荒い手つきで、水分をいっぱいに含んだ新聞を丸めた。
「ほら、新聞から垂れているぞ」
「早く早く。こっち床に流れるよ」
「そんな慌てて、他のカップまで倒すなよ」
「ちょっとちょっと、ここ拭き残してる」
「うるさーい!」
 二人に交互に口出しされて、たまりかねたリリカが大声をあげる。ルナサとミスティアは、苦笑いで目を見交わした。
 大丈夫。すべてはうまくいっている。ルナサは、些細な違和感に目をつむることにした。



 O)))



「ほう、六十分の大曲ですか。興味深いですね」
 ぎらついた光を目に帯びさせて、射命丸は手帖にペンを走らせた。それを見てルナサは、やはりまだ話すべきではなかったかな、と後悔した。現在、約八割のところまで出来上がっている新曲の話だ。コテージのリビングにて、リリカとともに取材に応じていたのだった。
 リリカはともかく、ルナサは取材を受けるのが好きではない。本当ならすべて断ってしまいたいところだ。だが文々。新聞にはライブの予定を掲載してもらうなど、相互に利のある関係ができあがっている。取材の姿勢も(他の天狗記者と比較すれば)まともだ。気は進まないが、リーダーの義務として割り切ることにしていた。
 ミスティアは紅茶とクッキーだけ用意して、自分からスタジオに引っ込んでしまった。「私はあくまで雇われヴォーカルだから」ということで、あまり表には立ちたくないそうだ。
 ともすれば、やる気に欠けるとも受け取られかねない発言だ。だがそうでないことは、いっしょに音楽活動をしていればすぐにわかる。
 ミスティアはEastern Lordのことを、プリズムリバー楽団の分隊として考えているようだった。経緯はどうあれ、プリズムリバーのうち二人が在籍し、今のところ唯一の活動の場としている。ならば、このバンドはルナサとリリカのものであるべきだ、ということらしい。
 曲作りでもヴォーカルパート以外の部分にはいっさい手を出さないし、活動方針の決定やマネジメントに関しては、完全にプリズムリバー姉妹に任せきりだ。自分の担うべき領域というものをはっきりと線引きしたうえで、受けもった仕事に全力を費やす。それはむしろ、一種のプロ意識であるといえよう。
 だから対外活動は、もっぱらルナサの役目だ。リリカに任せるのは、さすがに心もとない。気が重い部分もあるが、ほぼ思い通りにバンドを動かせるというのは大きかった。プリズムリバー楽団ではメルランと意見がぶつかることも多く、苦労したものだ。
 あの手この手で新曲の情報を引き出そうとする質問責めを、どうにか凌ぎきった。射命丸は残念そうにしながらも、取材はもう終わり、といった感じで手帖を閉じながらふと訊ねた。
「ちょうど一週間後ですけど、準備のほうはどうですか」
「一週間後――ああ、守矢の」
 その日は、妖怪の山の麓でライブが予定されていた。プリズムリバー楽団時代から考えても、守矢神社が主催者となってのライブは初めてだ。交渉に来た東風谷早苗の話では、音楽の力を借りての信仰獲得を狙っているらしい。そういう意図の絡んだ演奏はどちらかというと気が進まなかったが、べつにEastern Lord側に守矢神社の宣伝を要求してくるわけでもなし、普通の依頼として受けた。なので、他のライブとは違う特別なことをするつもりはなかったし、準備はどうかと訊かれても返答に困る。
「いつもどおり、全力でやるだけだよ」
「ほうほう。それで充分に勝てる、と」
「勝てる? 何に」
「え?」
「妖怪の山でやる、守矢主催のライブのことだろう?」
「そうですが……主催者から何も聞いてないですか」
 どうも話が噛み合わない。不思議そうな顔をしながら、射命丸が鞄から新聞を抜き出した。受け取ってみると、数日前の『文々。新聞』だ。ライブ告知の記事が載っていた。
『最高のバンド決定戦 正式決定』
「ん?」
 小見出しで、まず首をかしげた。さらに読み進める。
『守矢神社主催のライブイベント「Moriya's Holy Mountain」の開催が正式に決定し、詳細が発表された。幻想郷の人気を二分するEastern LordとDisgorge(幻想郷)が激突。両バンドの演奏終了後には観客による投票が行われ、ナンバーワンを決定するという注目の企画だ。チケットのお問い合わせは守矢神社まで』
「勝者には以後一年間、定期的に守矢主催でライブを行う権利が与えられ、翌年の『Moriya's Holy Mountain』に防衛王者として出演、ということですが……本当にご存じなかったですか」
「ああ、聞いていない。メルランは知っているのかな」
「当日を心待ちにされてますよ。というより、プリズムリバー楽団の流れを汲む両バンドの共演は、そもそもはメルランさんの発案だそうで」
「メルランの?」
 ルナサは手で口元を覆った。どうにも嫌な臭いがする。Disgorge(幻想郷)の初ライブの日以来、互いに顔も合わせていなかったというのに、今になって共演したがるとはどういうことか。
 まず考えられるのは、逆恨みを晴らそうとしているのではないか、ということだ。メルランにしてみれば、姉や妹にひどいことをされたという思いは少なからずあるだろう。それを、観衆の集まるライブという場で清算するつもりなのかもしれない。正々堂々と負かして恥をかかせるつもりか、何らかの罠を仕掛けてくるつもりか。ひとりではろくな策を練れないだろうが、だからこそ危険だということもあり得る。
 ルナサは人差し指の先を顎に沿えた。
「守矢に伝えてくれ。事実関係を詳しく聞きたい。それまで出演は保留だ」
「ええっ」
 射命丸は明らかに嫌そうな顔をした。
「ですが、すでにこうやって告知も出していますし」
「うちは通常の単独ライブとして依頼を受けたんだ。それと告知の内容が違うんだから、考え直す必要がある」
「しかしですね……」
「べつにいいじゃん」
 横から、射命丸にとっては救いの声。ルナサの手から、リリカが新聞を抜き取った。
「勝てば、定期ライブとナンバーワンの称号でしょ? 見せつけてやろうよ、うちの実力を」
「もちろん、出演するならそうするつもりだ。でも、守矢にはコケにされているんだ。黙っているわけにもいかないだろう」
「柄にもないこと言っちゃって」
 背後から声がした。振り返ると、ミスティアが立っている。リリカの手から新聞を引き抜くと、呆れたような苦笑いでため息をついた。
「出てあげようよ。メンツを潰しちゃ悪いでしょ」
「知ったことじゃない。うちは神様に義理なんてないんだから」
「そうじゃなくって」
 ミスティアは、ルナサに新聞を手渡した。
「メルランさんのことだよ」
「ああ……」
「メンツもそうだけど、楽しみにしてるんでしょ。がっかりさせちゃ、かわいそうじゃない」
 ミスティアはルナサの両肩に手を置き、身をかがめて、耳元で言った。息がかかって、こそばゆい。
 そう言うのなら。ルナサは、新聞を射命丸に返した。雇われヴォーカルを自任するはずのミスティアがそこまで言うのなら、そのとおりにしてみるのもいい。
「わかった、出るよ」
 メルランが良からぬことを企てているというのなら、返り討ちにする。そうでなければ、正々堂々と相手をするまでだ。
 姉として、懐の深いところも見せないわけにはいかないだろう。それでメルランとのわだかまりが少しでも解けるというのなら、悪いことではない。



 O)))



 日が暮れかけたころ、山麓特設ライブ会場の入口が開かれた。
 広大な会場に、続々と観客が流れ込む。さすがに広すぎるだろうと思っていたが、開演一時間前にはあらかた埋まってしまった。
「いやー。壮観、壮観」
 舞台袖から客席を覗いて、リリカが威勢よく言った。だが声が裏返ってしまっては、強がりにしか聞こえない。
 無理もないだろう。かつて見たことのないようなおびただしい人数が、Eastern LordとDisgorge(幻想郷)の演奏を今や遅しと待ちわびているのだ。こんな数の観客は、プリズムリバー楽団時代にも経験したことがなかった。
 人間に関しては、霧雨魔理沙のように普段から妖怪たちとつるんでいるような連中は別として、人里の住人はおそらく一人として来ていない。上白沢慧音が危険だと判断して、『人里にライブ告知の新聞が配られた』という歴史を喰ってしまったのだ。代わりに妖怪や妖精や幽霊などといった人外の連中は、幻想郷中からすべて集まったのではないかと思えるほどだ。
「後攻なのは良かったのか、それとも悪かったのかな」
 気負った様子もなく、むしろ楽しげな口調で、ミスティアがルナサに耳打ちした。
 出番はDisgorge(幻想郷)が先で、Eastern Lordが後となる。気分的にはいくらか楽なように思えるが、先攻メルランの盛り上げ具合如何では、そうも言っていられなくなる可能性もある。
 結局、どんな状況で出番が回ってきたとしても万全の態勢で臨めるよう、気持ちの準備を整えておくだけだ。ルナサは大きく息を吸い、吐いた。
「どう、調子は?」
 訊ねる声に、振り返る。レミリアが、パチュリーと咲夜を連れて歩いてくるところだった。
「今日のために、新曲を仕上げてきました」
「単一リフで演奏時間六十分の大曲、だったか。楽しみにしているよ」
 笑みを浮かべるレミリアを押しのけて、パチュリーが前に出てきた。
「私はあなたたちに投票するわ。もう決めてるから」
「本当? それは助かるねー」
 揉み手で笑うリリカの後頭部を、ルナサはすかさずひっぱたいた。
「ありがたいですが、それは演奏が終わってから決めていただきたい」
「えー、せっかくうちに投票してくれるって――」
「心変わりさせない演奏をすればいいだけの話だろう」
「うー、ごもっとも」
 頬を膨らませたリリカに、パチュリーは陰気な微笑みを投げかけた。
「それじゃあ、じっくりと聴かせてもらゲホッ、ごほごほゲボ」
 慣れない人いきれに発作が出たのか、パチュリーは苦しげに咳き込みはじめた。咲夜と、すかさずどこからか飛んできた小悪魔に両脇から支えられ、比較的空いていそうなところへと連れられていく。レミリアも咲夜から受け取った日傘を自分で差し、去っていった。
 入れ替わりに、寄ってくる影――Eastern Lordの三人は、思わず身を固めた。
「今日はよろしくー!」
 対戦相手のメルランだった。
 いつものドレスに、いつもの帽子。変わったところは何もない。そして躁らしい元気すぎる挨拶、だが、それにしてもテンションがおかしかった。
「お姉ちゃんやリリカと会うのって、いつ以来かなー。私、今日のことハァハァ、すっごく楽しみにしてたんだよ! 久しぶりに会えるってハァハァ。とっておきの演奏するからハァハァ、お互いベストをハァハァ尽くそうねハァハァ」
「あ、ああ……」
「じゃあ、準備あるからハァハァまた後でねー!」
 紅潮した頬、焦点の合わない目、荒い息遣い。ルナサらが呆気にとられている間に、メルランは嵐のようにどこかへ行ってしまった。
「……投票まで無事に進むか、怪しいね」
 ぽつりと、ミスティアがつぶやいた。リリカが首をかしげる。
「やっぱり、何か企んでる? ちょっと違うように見えたけど」
「うん、たぶん違う。でも、きっとただでは済まない」
 ルナサも心の中でうなずいた。
 そうこうしている間に、開演時間が近づいている。ステージ上では主催者である守矢神社を代表して八坂神奈子の挨拶が始まっており、客席からは早く始めろとのブーイングが飛んでいた。



 十分間にも及ぶ主催者挨拶が終わるまで、メルランは姿を現さなかった。
 神奈子が引っ込んだ後、会場はDisgorge(幻想郷)の登場を待つばかりとなった。ステージにはマイクスタンドが一本据えつけてあるだけでアンプすらも設置されていなかったが、楽器だけでなく機材もすべて幽霊を変化させて用意するはずなので、この状態からでも十秒もあれば演奏は始められるだろう。
「あ、来た」
 リリカがつぶやく。ステージ袖で待機するEastern Lordの前を、メルランは全力疾走で通り過ぎていった。
 ――本気で、演るつもりか。
 ルナサにとっては、見ればわかることだった。完全にテンションの抑制が利かなくなっている。
「まずい、だろう……」
 勝敗のことではない。観客の安全のことだ。
 これまでDisgorge(幻想郷)のライブで、軽症の負傷者しか出なかった理由。それは、自由奔放に思いのまま演奏しているようでいて、その実、何らかの要因によりメルランの躁のエネルギーが抑えられていたからだ。そうでなければ、死者が続出していたはず。弾幕ごっこでは低く見られがちではあるが、魔力そのものでいえば大妖怪にも劣らないのだ。
 その抑えられていた力が、おそらくこのステージですべて解き放たれる。
 今からでも止めるべきだ。しかしメルランはすでに、ステージの中央で両足を踏みしめていた。客席から沸き起こる、熱狂の渦。それをメルランは目を閉じて受け、そして、かっと見開いた。
 時すでに遅し。開演だ。
 空気が、床が、激しく揺れはじめる。歓声がざわめきに変わった。
「なんか、これ、ヤバくない?」
 青白い顔でリリカが言った。言われるまでもなく、わかっている。ルナサは唾を飲み込んだ。
 メルランの瞳に、魔力の光が宿った。見る者の背筋を凍らせるような、底知れぬ躁の光だ。
 ステージの奥、メルランの背後で床がせり上がりはじめた。いや、床ではない。黒くて四角い巨大な何かが、徐々に姿を現していく。
「何、これ……」
 ミスティアの声は、いつにない緊迫感を帯びていた。建物かと思うほどの巨大な箱が二つ、なおも高く床から生えていく。
 守矢の連中が、こんな舞台装置を用意していたのか。ルナサは主催者席を見やったが、二柱と一人そろって驚愕に口を開きっぱなしにした表情を見れば、彼女らの仕業でないことはわかった。
 次第に、揺れが収まってきた。二つの箱が、完全に姿を現し終えたのだった。博麗神社くらいならまるまるすっぽりと中に納まってしまいそうな大きさのそれらを見上げて、ルナサはその正体に気づくと同時に、戦慄で肩を震わせた。
「アンプだ」
 よくよく見てみれば、箱の前面にはMarshallのロゴがしっかりと記されている。あまりに大きかったためすぐにはわからなかったが、確かにアンプに違いなかった。もちろん実体のあるものではなく、メルランの魔力によって姿を変えられたトランペットの幽霊の一部だ。しかし出力はサイズに見合うか、それ以上のものを秘めているはずだ。
 そうなると、これは本格的に危険だ。メルラン全開の魔力を余すことなく変換したハッピーサウンドがあのアンプからフルボリュームで放たれたら、観客の精神にどのような影響を及ぼすか、想像に難くない。
 会場には、名だたる大妖怪たちも軒並み顔をそろえているのだ。そんな中で理性を完全に取り払われた狂躁のモッシュが展開されれば、阿鼻叫喚の地獄絵図は避けられないだろう。そうなれば、もはや異変だ。幻想郷の状況を一変させかねないことが、今まさに始まろうとしている。
 やはり、止めなければ。しかし、もう間に合わない。メルランはマイクスタンドを引っつかみ、とびきりの明るい声で叫んだ。
「いくよー! 一曲目、『血で錆びた古チェーンソー』!」
 呼気と魔力が、トランペットに流し込まれる。
 空間が揺らいだ。
 音は衝撃波となり、会場を駆け巡っていく。無謀にも最前列に陣取っていた妖精数匹が、こなみじんになって散った。妖怪の中でも力の弱い者たちは、耳から血を噴き出して卒倒する。
 想像以上だった。まさか、物理的な空気の振動だけでこれほどまでの破壊力があるとは。だが、本当に恐ろしいのはここからだ。
「次の曲、『墨染の鉄槌』!」
 演奏開始から二分と経っていないが、すでに五曲目に入った。また新たに削岩機のようなリフが、聴く者すべての体に叩き込まれる。
 そのとき、客席の一角がざわめきたった。いや、会場全体がもはや狂乱状態に近いのだが、その一角だけからは、恐怖に引きつった悲鳴が響いていた。
「ヒアウィゴーッ!」
 嬌声とともに、走る二閃の光。続いて、紅い飛沫が噴きあがった。そして、床に転がるいくつかの体。
 妖夢が、二刀流モッシュを始めたのだった。
 いけない、とルナサは飛び出しかけたが、それより早くどこからか球状のものが飛んでいって、妖夢の後頭部を捉えた。凶器を取り落とした妖夢は、顔面から床に倒れ、そのまま動かなくなった。
「……陰陽玉?」
 妖夢の意識を断ち切った球体のことだ。ルナサがつぶやくと、背後から何者かの息が首筋にかかった。
「これはまだ序の口よ」
 気色悪い感覚に振り返ってみると、冷たい声の主は博麗霊夢だった。
「いつの間に、舞台袖に……?」
「そんなこたぁ、どうでもいい。それより、このまま演らせるつもり?」
 底光りする視線が、ルナサに向けられた。思わず顔を背ける。
 霊夢の言うとおり、妖夢の暴挙はまだ序の口だった。これからさらに、もっと洒落にならない状況に陥ることが予測される。
 最も場の空気に流されやすい妖精たちは、大半が『一回休み』に入った。精神的には妖精に近い弱小妖怪たちも、軒並み身動きがとれない状態になっている。肉体的には無事で、精神的な揺さぶりによる影響を比較的受けやすい者ということで、まずは妖夢が躁に感染して暴れだしたのだ。このままだと、自制心を失った者から順に暴れだすことになる。
 人間たちは大丈夫だ。ここにいる人間といえば霊夢や咲夜など、人間の身でありながら妖怪たちに囲まれて平然と暮らしている者ばかりであり、精神的にはむしろそのへんの大妖怪などより頑強だ。早苗はすでに二柱と相討ちになって昏倒しているが、他は問題ない。
 となると、いま立っている人外たちの中で、ノリが良くて騒ぐのが好きな連中が、そろそろ危ない。誰が――客席を見わたしてみて、ルナサは凍りついた。
 星熊勇儀。
 伊吹萃香。
 幻想郷トップクラスの力を持つ鬼ふたりが、かろうじて残った理性の皮一枚、今にもちぎれてしまいそうな表情でよだれを垂らしている。目がもう、なんというか、危ない。精神の強靭さでいえば非常に優れているのだろうが、大乱闘の誘惑をこうも目の前にちらつかされて、鬼がいつまでも我慢できるはずがなかった。
「あいつら二人のうち、一人でも暴れだしたら――」
 霊夢はルナサの肩に腕をまわして、その手で鬼たちを指さした。首筋に直に触れる巫女腋の感触が、脅しにも似た威圧感を塗りこんでくる。
「――そのときはこれを異変と見做し、元凶であるメルラン・プリズムリバーを退治する。いいわね」
 訊かれても、首を縦に振るしかない。鬼ふたりがなんの縛りもなく暴れれば、妖怪の山が崩壊するどころか、幻想郷の存亡にもかかわるだろう。
 かといって、異変の元凶としてメルランが退治されるのを、指をくわえて見ているわけにはいかない。
 これまでも躁の音は、鬱の音以上に危険なものとして認識されてはいた。だが、協演者なりメルラン本人の自制心なり、躁の力が聴く者にとって危険な水準にまで達しないようにするためのリミッターが常に用意されているとの判断で、巫女らのお目こぼしを受けていたというのが実情だ。
 このライブが異変だと認定されてしまえば、メルランはもはや自力では躁の力を抑えられないものとして、今後は厳しい監視を受けるだろう。Disgorge(幻想郷)の活動も制限を受け、大勢の観客に演奏を聴いてもらえる機会すら奪われてしまうかもしれない。そうなったら、騒霊としての存在意義をなくしてしまったのと同義だ。メルランはこの先、どうやって存在していけばいいというのか。
 だから、そうなる前に。
 ストラディヴァリウスを肩にかけ、ルナサはステージへと飛び出した。
「ちょっと、姉さんっ?」
 リリカの声が、メルランの魔力に吹き飛ばされた。猛烈な圧迫を体の前面に受け、ルナサの足が止まる。
 音のプロフェッショナルなだけあって、Eastern Lordの三名は躁の力に呑まれることなく、おおむね平常心を保っていた。しかし、物理的な空気の振動には手を焼いている。気を抜けば、あばらの一本や二本はへし折られてしまいそうだった。しかし、退くわけにはいかない。
 魔力を、リッケンバッカー4003型ストラディヴァリウスに注ぎ込んだ。楽器の一部が分化し、アンプ四台を形成する。だがそれぞれの大きさはせいぜい大人の人間が直立して入れる程度で、出力は通常のライブなら充分に過ぎるほどではあるが、メルランのアンプと比較すれば足元にも及ばないのはわかりきっている。
 ならば、数だ。
「おおあっ!」
 手の先、足の先、髪の毛の一本に至るまで、全身あらゆるところから魔力をかき集め、楽器に送る。アンプは次々と中空に現れては、ステージに積み上がっていく。
 そして十六列六段、計九十六台のSUNNアンプが、壁としてそびえ立った。
「止まれ……メルラン」
 全台、フルボリューム。ベースの弦の振動に乗せて、鬱の力をありったけ放つ。
 躁と鬱とが、真正面からぶつかり合った。
 均衡。
 音量と魔力の総量こそ劣っているものの、うまく指向性を付与されたルナサの音は、やたら撒き散らすばかりのメルランの音と対等に向き合い、押し切ることはできずとも押し返されはしないような均衡状態へと持ち込んだ。
 躁の力の多くは鬱との押し合いに費やされ、客席にばら撒かれる量は一気に減った。発狂と紙一重のところにいた鬼たちをはじめ、観客たちの表情に正気が戻ってくる。
「……お姉ちゃん?」
 ようやく気がついたのか、メルランの視線がルナサに向いた。
 ――さあ、もうやめなさい。
 ベースの音で、妹に訴えかける。
 いつも躁の気を出しすぎて、それでもルナサがたしなめれば、すぐに舌を出しながら戻ってきて。文句を言うリリカに、やわらかい頬を膨らませて。三姉妹でやっていたころは日常だったそんなシーンが、脳裏にフラッシュバックしてきた。
 ――いい加減にしないと、おやつ抜きだぞ。
 まったく気を抜けない中で、必死に笑いかけてみる。すると、メルランの顔にも笑みが浮かんだ。
 正気に――戻ったわけでは、なかった。
「あははっ、お姉ちゃん!」
 それは、狂喜の具現。メルランの笑い声とともに、トランペットの音量がさらに跳ね上がった。そしてそれ以上に、放たれる躁の気が膨れあがる。
「うがっ……」
 最も近い距離で魔力を受けて、ルナサは今にも吹き飛ばされそうだった。かろうじて踏みとどまってはいるものの、もはや相殺が追いつかないほどの躁の気が、再び観客に降りかかる。またしても、鍵山雛を中心軸として竜巻のようなモッシュピットが形成された。
「こんなの……」
 止められない。止められるわけがない。
 心が折れかけたそのとき、隣に小さな気配が立った。
「ルナサ姉さん、もうちょっとだけ耐えといて!」
 リリカだ。携えたキーボードを、すばやく変形させる。
 タム類約四十個、シンバル約七十枚。スリーバスの要塞状ドラムセットが、瞬く間に組み上がった。
「あんな馬鹿みたいな出力、真っ向から抑え込もうったって無理だよ!」
 言うとリリカは、何を思ったかルナサではなくメルランの音に合わせ、高速のブラストビートを叩きはじめた。
「おい、何をやってる」
「いいから、ルナサ姉さんも合わせて!」
「そんなことしたら、余計に……」
「ほら、黙って! ちゃんとメルラン姉さんの音も聴いて!」
 むっとしながらも、トランペットの音に耳を傾けてみる。すると、何秒もしないうちに不思議な感覚にとらわれた。
 この曲、知っている。
 よくよく聴いてみれば、それは確かに、プリズムリバー楽団の曲だった。グラインドコアにアレンジされてはいるが、それは紛れもなくかつて三姉妹で作り上げ、三姉妹で演奏した曲だ。
 この曲だけではない。思い返してみれば、『神砂嵐少女』は『風神少女』のアレンジだったし、『雪崩式マスタースパークホールド』は『恋色マスタースパーク』だ。今日メルランが演奏した曲のリフはいずれも、楽団の曲から一部を抜き出したものだったのだ。
 そして、いまメルランとリリカが演奏しているのは、

 てててて。

「そういうことか!」
 リリカの意図を理解したルナサは、自らも二人の演奏に合わせはじめた。曲は、楽団の象徴であったナンバー『幽霊楽団』。
 サビの後半、リリカのビートがグラヴィティブラストへと変わる。グラインドコアから、よりブルータルデスメタルに近い曲調になった。そしてサビが終わり、イントロと同じフレーズへと戻る瞬間、
 ――ビートダウン!
 テンポを一気に四分の一ほどに叩き落とす。さらに、のたうつように遅く、遅く。ルナサとリリカの誘導に、メルランが乗ってきた。
 圧倒的な力を持っているのは、メルランだ。正面からの力比べで応酬することしか考えていなければ、とっくに押し潰されていただろう。だがいまや主導権は、徐々にルナサの手へと移りつつあった。
 あとひと息だが、まだ際どいところだ。ルナサは振り返った。
「ミスティ、早く来て!」
 だがミスティアは、微笑みながらかぶりを振った。
 ――姉妹のことでしょ。だったら、あなたたち自身で解決しないと。
 意外な反応に、ルナサは一瞬、呆気にとられた。だがすぐにミスティアに笑い返し、口をきつく引き結ぶと、メルランに向き直った。
 さらに深い精神の暗部を目指し、音を引きずる、引きずる。曲調はスラミングデスから、ドゥームデスへ。サウンドに鬱が満ちていく。ここまで引き込めば、もうメルランの力が暴走することもない。
 そして、ラスト。まずはリリカが、シンバルの響きを残して身を引く。
 長い長いサースティーンの末、ルナサのベースとメルランのトランペットがまったく同時に、寄り添うようにして消え入った。
 会場に、静寂が響きわたる。
 たっぷり十秒ほども経ってから、思い出したようにぽつ、ぽつと拍手が鳴らされた。それが起爆剤となり、拍手と歓声はあっという間に広がって、三姉妹の耳をつんざいた。
 ルナサは呆然として、その身に大喝采を受けた。
 即興での協演であり、一糸乱れぬ演奏とは言い難かった。展開は支離滅裂に転がっていき、とても誉められたものではなかった。だが、手には確かに、かつてないほどの充実感が残っている。
 Eastern Lordに覚えた違和感の正体が何だったのか、わかった。いくらルナサの中にある理想の音楽像を完璧に形にできたとしても、それは決して百パーセントを超えることはない。しかし二つ三つの異なる感性がぶつかり合い、互いに意見を戦わせた中で生まれる音楽というのは、七十パーセント程度の出来にとどまってしまうこともあるかもしれないが、逆に百二十パーセントや百五十パーセントに達する可能性だって秘めているはずだ。長年にわたる三姉妹での活動を通じてそのことを無意識のうちに理解していたからこそ、何もかもが自分の思い通りに運ぶEastern Lordに対して漠然とした物足りなさを感じてしまったのだ。
 メルランは、呆けた顔で息を切らしながら、ただルナサを眺めていた。
「お姉ちゃん……」
 つぶやきとともに、その顔が崩れる。耳が赤く染まり、目が潤んで――と思ったら、メルランは急に口を大きく開け、声をあげて泣きだした。
「うあああぁん! ごめんなさいぃい!」
「ちょ、ちょっと、何を……」
「ひっく、久しぶりに、お姉ちゃんやリリカの顔見たら、えぐ、テンション上がっちゃって、つい……」
 ああ、そういうことか。ルナサは小さく息をついて、メルランの頭に手をやった。軽く叩いたのか、それとも撫でたのか、自分でもわからない。
「どうして、メルランが謝るんだ」
「ひぐっ……」
「酷いことをしたのは、私のほうだろう。ごめん、本当に悪いことをした」
「お姉、ちゃん」
 メルランは少しこらえているようだったが、結局また顔をぐしゃぐしゃにして、ルナサに抱きついてきた。
「ふええぇえ、寂しかったよおぉぉ!」
 ルナサはしっかりと受け止めて、よしよし、と頭を撫でた。泣き声が胸で響いて、そのくすぐったい感触が、たまらなくいとおしかった。
「ものすごく身勝手な話かもしれないけれど、メルラン、またいっしょに音楽をやってくれないか」
「えっ」
「そのほうが、きっとレイラも喜んでくれると思うんだ。嫌か?」
「ううん、そんなこと……」
「じゃあ、決まりだな。プリズムリバー楽団、再結成だ」
 うん、うん、とメルランは何度もうなずいた。ルナサはより強く、次女の頭を抱きしめる。
「ふたりだけ、ずるいよー」
 声とともに、横から強い衝撃。
「私も交ぜなさーい!」
「ぐえっ」
 リリカがふたりに飛びついてきた。転びそうになるのを、やっとのことでこらえる。
 まったく、騒がしい子たちだ。ふたりの妹の頭を撫でながら、ルナサは霊夢に振り向いた。
「これで、いいだろう?」
「うむ、よろしい」
 霊夢は鷹揚にうなずくと、すでに興味が失せてしまったかのように、やる気なさげな一瞥を客席にくれた。
 手を腰の後ろで組んで、ミスティアが歩み寄ってくる。
「これで、私はお役御免だね」
「えーっ? べつにいいじゃん。Eastern Lordも活動続ければいいし、なんだったら、ミスティもプリズムリバー楽団に入れば」
 リリカは大袈裟に両手を広げたが、意は決まっているといった感じで、ミスティアは薄く笑った。
「駄目だよ。最初からそのつもりだったしね。きっとまた三姉妹でやることになるだろうから、それまでの間だけ、サポートのつもりで参加しようって」
「そーなのかー」
 ルナサはミスティアの背中を叩いた。
「なんていうか申し訳ないな。こちらの都合ばかりで」
「いいってば。あくまで本業は鰻屋なんだから」
「そうか……ともかく、世話になった」
 ルナサとミスティアは、固く握手を交わした。
 これにてしばしの寄り道は終わり、プリズムリバー楽団はまた新たな道を歩みだす。



 O)))



 幻想郷史上稀に見る動員を記録したライブイベント『Moriya's Holy Mountain』は、開演からわずか二十分ほどで中断、そのまま中止となった。しかし、チケット代の払い戻しがアナウンスされたとはいえ、観客の多くは満ち足りた表情で帰路についた。
 重軽傷者、多数。妖精の一回休み、数え切れず。会場施設は損傷甚大。
 これだけの被害を出しながら、今回の件は『不慮の事故』として処理され、異変と認識されることはなかった。
 プリズムリバー楽団解散騒動は、決して悪いことではなかった。活動終了となったEastern LordとDisgorge(幻想郷)の音楽性はそのまま再結成後の楽団へと引き継がれ、より幅広い表現力を身につけたプリズムリバーはさらなる人気を獲得していく。
 そして未来永劫、三姉妹が再び袂を分かつことは、決してない。
執筆中脳内BGM:
OM『Variations on a Theme』
汗こきハァハァ
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コメント



0.740簡易評価
6.80名前が無い程度の能力削除
みすちー名脇役だよみすちー
ハッピーエンドじゃなかったらかなり鬱になりそうですね……
音楽面はそれほど詳しくないのですが飽きない書き方で好みです
7.80奇声を発する程度の能力削除
音楽系のお話が好きな自分には堪らないお話でした
8.80名前が無い程度の能力削除
音楽の描写は素晴らしいの一言でした。私自身は音楽はあまり詳しくありませんが、それでも想像力をかきたてられました。
ただ、プリズムリバー三人のキャラがちょっと私には合わなかったのが勿体無かったです。
9.100名前が無い程度の能力削除
ワガママいっぱいでブーブー文句を言うのは、全力で甘えてるんだよと。
メルラン可愛いなぁ。
そして『てててて』だけで分かるゴースト・アンサンブルの安心感ったらw

話の題材になったバンドは寡聞にして存じませんが、読み物としと非常に興味深く楽しめました。
普段はクラシックと変な曲しか聞かないのですけど、少し調べて聞いてみますかね。
13.100名前が無い程度の能力削除
すごくいい話だったが
てててて
で吹いてしまったwww
14.100とんかつ削除
長大作ご馳走様でした?

話の盛り上げから姉妹の心情迄とても楽しめました?
有意義な時間ありがとうございました!
15.10名前が無い程度の能力削除
リリカうぜぇ
17.100愚迂多良童子削除
曲を聞いているわけでもないのに、段々と鼓動が速まっていく感覚がしましたね。
こういうプリズムリバーは、ちょっと癖になるかもしらん。
21.90名前が無い程度の能力削除
みょんの狼藉に噴いたw
23.90r削除
作者も何かしら演奏をやっているのかな?なかなか玄人な心理描写があったような。
僭越ながらルナサにシンパシーを感じました。
話もバットエンドなのかハッピーエンドなのかドキドキしました。
25.100名前が無い程度の能力削除
音楽関連の描写はよく分からなかったけど、それでも十分に楽しめました。