まったく。気怠い。
此処はどうにも、疲れが溜まる。
萎れて項垂れた柳を背にして、もたれかかる。
体重は預けた。リラックスできる。
つまり一息ついている。やれやれと、思っている。
一苦労だ。往復にかける労力は一日の大半常にのしかかってくる。
重い。重いのに、沈みゃしない。ま、そうなっても困るんだけど。
船着き場から徒歩…数秒? わざわざ数える必要も無い。んなこと誰がする?
何秒かどうか数えたところで此処は時間を失った場所だ。常世の果て、エンド部分。
ある意味最前線、の。境界線。
『三途の河』だ。美しくも儚い(というイメージが優先している)世界。
アタイの尻には座布団が敷かれている。特等席のしるしだ。昼も夜もクソもない、年がら年中それなりの明るさ程度の三途。
此処を“彼岸”だと勘違いする莫迦がいるが…そりゃ間違いだ。そう勘違いする理由は解る。常世から此処に来れば、そう思い込むのも無理はない。
が、実質どうだ? “彼岸花”の一つでも咲いているかい? アタイはイメージしろとは云わない。だから現実を教えてやる。
うんにゃ、ぜんぜん。
あるのは水気を含んでぬかるんだ地面とこの柳ちゃん。今日も元気にアタイの背もたれとして仕事をこなしているコイツ。後は船着き場と船。に、浮かんでいる船ぐらいだ。それ以外なにもありゃしない。空っぽ手前の空間。
まどろんでいる。肩の力ぐらい抜く時間があっても全く不思議じゃない。決められた休憩時間? 知るかっての。
ああ、ちょいとばかりラクができる。
アタイは“死神”であって。その後に“運び屋”だ。甲斐性もなきゃ性懲りもない。率直に云わせてもらえれば後者がメインじゃないのか? と近頃は思う。
あくまで三途の渡しとしての仕事がメイン。要するに船乗りだ。“死神”の界隈ではそれ以外の仕事をこなしている連中が上に行くっていう意見が普通だ。
つまり“閻魔”としての上役のポストにあてがわれる可能性のある別の仕事をしっかりやれ! とでも云いたいんだろう。
こういうゴタゴタをアタイは好まない。多数派の意見ってのはどうしたって主流だ、どうにもこうにも声がデカイ。
だからこうやって適度に。サボダージュってヤツを取り入れている。アタイはこの仕事をそれなりにこなしているってことだ。組織として間違っているかどうかは別として。
河の流れる音がする。泳ぐ魚はいやしない。羽の生えた生き物が飛んでいたら撃ち落として焼いて喰ってやる。
柳の葉が水面に落ちても、行く末は解らない。何処へ逝こうともそれで良しだ。
目線で流れる河を追う。上流からいつも通りサラサラと流れている。かったるい風景だ。
船着き場まで目線が届く。仕事モードに切り替えないといけないような気もしてくる。いや、もうちょっと…。
そう思った直後だ。アタイの船をまじまじと眺めている女が一人、居る。
もうお客さんか。カスタマーになり得ない一回きりのお客様のお相手をしなきゃいけない。
開口一番「いらっしゃいませ! ようこそ三途へ!」とでも云ってやろうか。“死神”もイメチェンってのをするべきか。
ない、それはないな。必要無さ過ぎる。カルチャーってのは失うべきものと失わないべきもの、二種類がある。
あの女はそれなりに緊張もしているだろう。アタイはすっくと立ち上がる。柳ちゃんに「もうちょっと柔らかくなってくれよ」と苦言も呈する。
無意味に重い鎌は此処に置いておこう。肩肘張って“死神”をアピールするのも宜しくないだろう。
ぬかるんだ地面を踏み慣らすようにアタイは歩く。とぼとぼ歩いている。女はアタイの船をまだ眺めている。そんなに出港したいのか? このショボい船着き場がそんなに気に入らないのか?
女は目の前に居る。相変わらず、動きもせず船ばかり眺めている。
「おいアンタ。行くよ」
ちょっとばかりビビらせるのも面白い。
アタイはいかにも上から目線で云ってみる。
反応が無い。
「渡し賃は全財産だ」
というそれこそ“幻想入り”しそうな古風なジョークの一つも飛ばしてみる。
これもまたダメだ。と、女が口を開いた。
「……河?」
女は云う。いや…女というより女の子? 少女だ。間近で見ると印象はかなり幼い。
白い学徒のような服を着ている。キチンとした制服のようにアタイには見えた。何故か濡れた髪もついでに。
「説明不要の有名な河さ。準備はできているかい? とは云っても乗ってもらわないことには始まりゃしないんだけどね」
少女はアタイの船に勝手に乗り込んでいる。文句が出ないのはありがたいけど、珍しいタイプだ。
アタイも少女に続いた。船が軋む、浮力は十分だ。二人分の体重をしっかりと支えている。
船は動く。流れを感じながら向こう岸を目指す。そこは彼岸か? それはアタイ達“死神”が決められない。
その先が彼岸なわけだし、閻魔様の判決が下った後に一部の連中が“彼岸花”を拝むことができる。徳を積んでいるだけがその判断材料じゃないって事実を教えたところで三途に来ちまった連中には過ぎちまった話。アタイはオシゴトとして向こう岸を目指すだけだ。
少女は黙ったまま今度はじっと河を、水面を眺めている。
「あんまり眺めなさんな。落ちればどうなるか、教えてやるのも億劫だよ」
「ここは海じゃないの?」
まん丸の目で少女は云う。海? 海だって?
「海じゃない、な」
「そうね。匂いがちがうもの」
「なぁ、アンタ。生前はどうだったんだい?」
酷い質問だ。アタイは自分でそう思う。どうって、なんだよ。ニュアンスが曖昧過ぎる。
「キレイ」
質問に答えたのか、それとも三途の“河”がキレイだったのか。どっちもつかずの答えで少女は云った。
濡れた髪。そのまま逝ったのか。アタイは安直にそう思った。つまり水難でオシャカになったんじゃないのか、と。
もやのかかった考えがそのまま船上の風景と重なる。
重なる? 風景と?
アタイは辺りを見回す。妙に霧が深い。いつにも増して、見えやしない。河の流れは清流と云える程度で日常的なままなのに、霧だけが濃い。
空気が荒れている? よくわかりゃしない。意見を求めようにも同乗者はぼんやりとしている。
この子はまた黙った。霧の立ち込める船上で、空を見上げている。星を探しているのか? 無駄なこととしか思えない。
方位を確かめる星を三途で見つけることはできない。この世界で確かな方位が解るのは“死神”だけ。
彼岸に行けるチャンスを掴めるかどうかの振るいにかけられる場所は、アタイ達のカンが頼りだ。それを、別の方法でこの子は探している。
だから。この子は海で逝った。これはもう直感だ。“死神”としての直感じゃない、“船乗り”としての意識。お仲間なのか、この子は。
無言のままアタイ達を乗せた船は水面を切って進んでいく。流線型は滑らかに、たぶん、キレイだ。
ここらでアタイは気が付く。向こう岸が遠い、そう理解する。向こう岸にたどり着く時間をアタイ達はおおよそ知っている。たとえば乗り込んだ輩の目の力で判断できる。
到着予定はこれぐらいだな、と伝わってくる。つまり乗り込んだ輩の中身、歩んだ道程が向こう岸への到着時間と比例する。
長いヤツもいりゃ短いヤツもいる。それ自体はアタイ達の労力に関わる程度で“運び屋”が気にかけることじゃない。閻魔様連中が後々こなす仕事の範囲だ。
そういえばアタイはこの子の目をよく見ていなかった。泣き言も云わずすぐに船に乗り込んだこの子の目を。
長い時間話していない、座ったままの少女。目は? 魂は? また河を覗き込んでいやがる。濡れた髪が二つの視覚を塞いで見えにくい。
「アンタさ、目を見させてくれるかい?」
アタイはハッキリ聞く。これは労働者の権利だ。
「どうして?」
「業務上、ってとこかね。アタイはアンタを向こう岸に運ぶプロとして確認したいことがあんだよ」
見られる。
ガッツリと、アタイは少女の視線を一身に浴びる。でもまなざしはどこか虚ろってる。
何者なんだ? コイツはアタイの理解を一足飛ばしで駆け抜けていやがる。
「見える? あの星」
少女は指差している。霧に覆い隠された空を。アタイは持病になりつつある肩こりが見上げると悲鳴を上げる。視線だけでそれを探した。
無い。
見るからに霧、霧、霧だ。お互いが視認できるぐらいにしか、視界は広がっていない。船上だけしか通じ合えない世界。
「はぁ? んなモンありゃしないだろう? アンタね。此処は三途の河なんだ。標はない、そういう世界なんだ。逝き先は一つ、向こう岸さ。アンタが何処を目指しているのかは解らないが、“北”は…」
なんだ…? 少女の身体が、発光している。
突然、抜け殻になっちまったみたいに横たわった。
「ちょっと…おい! どうしたんだよ!?」
無言だ。今度は、モノホンの…、無言。
どういうわけかさっぱりわかりゃしない。クソッ。こういう面倒はアタイが嫌いだってこと知っててやってんのか?
「いかなきゃ」
か細い声。アタイには見えない(コイツには見えているのかもしれないが)星をいまにも閉じそうな両目で、見ている。
見開きはしない。霞んでいる視界のなかで、コイツには何が見えている?
光。
それも、強い光だ。
どうにもそれは天空から…アタイ達の頭上から降り注いでくる。
筋っぽい何本かの光。天国への階段ってヤツか? ふざけんなっての。三途の河から踵を返してそっち側に逝くだなんてご法度だ。コイツはまだ閻魔様の審判を受けていない。その手の類がどちら様かどうか解りもしない輩相手に勝手に導かれようなんざ“死神”としてもお役御免になりかねない。場末の“運び屋”が首切られるのは当然の成り行きだ。アタイの立場はどうしたって弱い。どうにかしたいが…。
無情にも(違うか?)光は少女の身体にスポットライトを当てた。成す術が無い。下手してアタイまで逝っちまったら大問題だ。そのまま、消えちまった。
若い衆ってのには未来がある。だからこそ救いは要るだろう。が、こんなのってアリなのか…?
霧はあの後晴れた。
雲散霧消の三途の河をたった一人で渡りきった。船着き場はあっちより質実剛健程度の豪華さでアタイを出迎えた。
日常の再来。仕事が終わった、そういう風景に至ったのは素直に嬉しい。ただ、一人ってのだけが難儀だ。
まるでアタイがいまから裁かれるような気分になる。ナイーブになるのは当たり前。お客様が乗っていない船の寂しいことよってね。
ドッと疲れが襲ってくる。あぁ、こっちにはアタイの特等席は無い。煙管でも吹かしてすぐにでも戻ろう。
「小町! 無事だったのですね!?」
んぁ? なんだなんだぁ? それはもう麗しいのお姿のミニスカートをお召しになった閻魔様の声がする。
「あらら…映姫様じゃありませんか。今日もお綺麗ですねぇ。アタイにも美についていくつかレクチャーしていただけますか?」
「何処に行っていたのです!? いつものようにサボるのはこの際…赦します! 云いなさい小町!」
リアクションに戸惑う。なんのことを云っているのか見当がつかない。
「えっ…とぉ? 何処にってそりゃ、オシゴトで。渡しの仕事をしていただけですよ? 向こう岸から」
アタイは指差す。まぁ、向こう岸なんて見えやしないが。
「こっちに。来ただけじゃないですか?」
「……本当ですか?」
泣きっ面になりそうな映姫様は云う。なんだこの状況は?
「もう何か月も貴女は消息不明だったんですよ…。良かった…」
「な、なに云ってんですか映姫様!? んなワケありませんよ!」
「事実です!! これが解りますか!?」
ヒステリックに映姫様はなんとも可愛いピンク色の手帳を取り出した。
さすがヤマザナドゥ。わざわざ業務日報を作っているらしい。どれどれ。
「あれ? ホントに、アタイは勤務してないってことになってるじゃないですか!! それも半年ぃ!?」
「詳しく聞かせなさい。何があったのです?」
ともなれば、原因はアイツしかいない。勝手に…それも、恐らく二度オシャカになったアイツだ。
「一人の女…、の子を運びました。途中霧が深くて…迷いはしなかったんですけど。それで。なんて云えばいいんですかね? 消えちまったんですよ。突然。光が降ってきて…」
「消えた…?」
「ええ。そりゃあもうスペクタクルですよ。あんな事は初体験です」
「あり得なくもない」
意味深な表情で映姫様は云う。目に涙を浮かべて。
それを振り払った後に、云った。
「まだその魂は常世にあった。二分化されていた可能性があります」
いつもの映姫様だ。キッとした強面を作って、はっきりと物申す。
「中途半端にオシャカになった、とでも?」
「その表現はお止めなさい小町」
「あ、スミマセン。んと、微妙だったってことです?」
「あるいはまだこちら側に用事の無かった者、かもしれません。詳細は今から調査します」
映姫様はくるりと振り返る。タタタっと、小走りで走り去っていく。
「あー映姫様!」
ターンする映姫様。これで一周、円を描いた。チビっ子映姫様は小さな半径で振り返った。
「何ですか? 閻魔として、事後報告を纏めねばなりません」
「あの。これって特別な事例じゃないですか? その。アタイの…ですね…。お給料は…?」
語尾をだんだん吊り上げてアタイは云う。こんな面倒事に付き合わされて出るものが出なけりゃ飯の喰いっぱぐれだ。そこの所はまず確認したい。
「それは保障します。どの程度の割合になるかどうかは、まだ云えませんが」
にこっとはにかんで映姫様は云う。いかにも閻魔の笑い方だ。悪魔なんかよりよっぽどタチが悪い。
返す言葉も無い。あとはなるようになれ、だ。
映姫様は走り去っていく。アタイにゃそれがご褒美だとでも云わんばかりに。
さて、向こう岸に戻るとするかね。アタイがいる場所はあっち、此処は彼岸に近すぎる。
此岸の方がアタイには似つかわしい。そういう場所に流れてくるお客さんを適度に渡す運び屋さ。
今後が野となろうが山となろうが、んなもん知るか。アタイは死神、運び屋だ。そこにプライドは持ってる。閻魔様とは違うんだ。
大きく背伸びをして、アタイは自分の船に戻る。
鼻歌交じりでアタイは仕事に戻った。特等席が無くなってなきゃ、それでいい。
はっきり言って好きよ。
他者にものを伝えることに、意味も意義も見出していないイメージ。
一方通行もたまには悪くない。
ちょっと以上に蓮っ葉な小町がいい味です。
女の子が何だったのか結局分からず仕舞いってのが難ですかね。