1
夜道を行く者がいる。
星空の下、月の夜に草を踏んでいく。手には土産を持っていた。それと幾許かの金と。
紅魔館のお化け屋敷に参加したお礼だ。
悪魔の娘が住むと言われる紅魔館では、定期的にお化け屋敷が行われる。紅魔館をお化け屋敷に見立ててそこを抜けさせるのだ。
お化けの出てくる回廊を抜けた後、客は速やかに採血される。恐れおののいた者の血を、悪魔の娘は好んで飲むと言う。
実際どこまで真かは知らない。
一通りの参加者は恐怖で真っ青になった身体から血を抜かれると、外に用意されているバーベキュー会場で、今取られた分の血を取り戻す食事にありつく。そこで肉を取り分けてくれるのが、この紅魔館の主、レミリア・スカーレットなのだ。そして実際、レミリア自分も肉や野菜を一緒に食べる。血を飲むのは、実は存在意義と楽しみの為なのだ。栄養の摂取、生きる為の食事は、わざわざ血を飲まずともよいようだ。
美しい少女が頬を上気させて今夜の客を歓迎する。
「やあ、今日も来てくれたわね。ありがとう」
レミリアは笑顔で塩辛い老人に肉を切って差し出す。
「お前は年老いているのに、本当に童のように驚いて恐れて楽しんでくれる。素敵な怖がり方だわ。そのせいでお前の血はまっこと味わい深い」
「年を取って、かえって稚気が強くなったようですよ。お恥ずかしい限り」
謙遜するので、レミリアはいやいやと首を振る。
「そうじゃない。お前には裏表が無い。いや、あるのだろうが、それに作意無い。長い鍛錬あってのことでしょう」
言われてみれば、老人の肌はつやつやして張りがある。さっきまであんなに、怖いよう怖いようと泣き叫んでいたのに、今はもうすっかり明るい笑顔だ。蒼ざめて、ぐったりして、それから血を採られてからみるみる笑顔でこのお化け屋敷の怖さをはしゃいで語る。老人がこのお化け屋敷を心から楽しんだのは明白であった。
レミリアは言う。
「さあ、飲んで。そしてまた私のパーティーに参加して!
そうだ! 芸を、芸を見せてよ! この前やったみたいな奴!」
「ああ、それでは傘を拝借」
紅い屋敷の左園で、痩せた老人が傘をまわす。くるくる回して、そこにワイングラスを乗せてもらう。グラス回って落ちぬ。その上に更に妖精が降り立つ。妖精回って落ちぬ。血の気を失ってモクモクと肉を噛んでいた参加者は、驚嘆の表情になってやんやの喝采を送る。老人はこうした芸事は得意なのだ。
喝采を取った老人の名は、夕良と言った。
それからレミリアと一緒にダンスをした。他の参加者とも。はしゃいで、帰るのに遅くなった。汗を落とすのに風呂まで借りて、泊まって行くよう勧められたが、明日は早くから野良の手伝いがあるからと断って帰った。紅魔館のワインを持っていた。献血のお土産だった。片手に提灯を持つ。白い明かりがゆらゆらして、鬼火のようだった。
夕良は、ふと立ち止まる。舗装された道から、夕良は少し逸れる。それからゆっくりとなだらかな斜面を登り始めた。その先には林がある。小さな林だ。ここを抜ければ確かに夕良の庵には近かろう。そっと林に踏み込む。それからゆっくり進んでいく。
昼間はこの林を通る者も多い。牛を引いて通る者や里から里へ急ぐ者もいる。見上げれば林の隙間を塗って明るい日差しが差し込む。青い空も見える。ただ夕闇から黄昏になると様相が一変する。星明りも木々で遮られ見えなくなり、ただ真っ暗な、木々の檻に囲まれた場所になる。道から外れるなどというのは危険極まりない。襲われても仕方が無い。
暗い林には化生の物の物が出る。
大分道から外れて、少し広い場所に差し掛かると。
「がもおおおおおおおおっ」
と、大きな黒い何かが翼を広げて叫んだ。
「がもおおおおおおおおおっ!」
大きな、紫の、翼である。
提灯に照らされてその姿が見えた。
翼の真ん中に大きな目と、それより遥かに大きな口があった。翼の下には長い尻尾がある。
突然吠え掛かられて、夕良は思わず提灯を落とした。めらめらと燃え始めるのを急いで踏み消して夕良は。
「で?」
と興味深々に尋ねた。足元で炭になりつつある提灯の燃え残りを丹念に潰しながらもう一度「それで?」と尋ねた。残り火をそのままにしては、林が火事になりかねない。向かい合った二人が薄暗い林で向かい合っている。
「何がしたいのか、お前は」
「お前を、食ってしまうぞぉぉぉぉっ!」
普通なら皆、ここで腰を抜かしかけて、こけつまろびつ逃げ出すのだ。それを化生の物は追いかける。化け物となって最も楽しい瞬間だ。真っ青になった獲物を追い詰めてじわじわと近づいていく快感は、やったことが無くては判るまい。
「お前が垢にまみれて汚れて居ろうと、今日が天中殺の大将軍で仏滅でも、後で美しい娘を身代わりにつれてくるといわれても、絶対にお前を逃しはせぬ!」
「ほうほう、それはそれは怖い怖い」
軽い口調で夕良は言って、なお怖がらない。さっきのお化け屋敷の怖がり振りが嘘のよう。
そして更に問う。
「何故ここに?」
「この林に住み着いているからだ。餌食が来るのを待ってな!」
「なんだ、ここに閉じ込められているのか」
「なっ!」
夕良の言葉に化け物が口を開けた。食べようとしたからではなく、思い至ってはいけないことに思い至ってだ。確かに、この化け物、林の外には出られない。夕良、もう一つ問う。
「そして何故食う」
「ずっと腹が減っているからだ! おまえはうまそうなにおいがするぞ」
出来る限り怖ろしい声で脅したら。
「なんだお前、一度も人間を食ったことがないのか」
とあっさり返された。
老人が立ち尽くす化け物を見る。
明るい。
この林はやはり存外明るいのだ。
星明りも月明かりもあって、提灯は元から要らなかったかのようだ。
短く刈り込んだ髪と、皺だらけながら整った顔があった。瞳は生気を帯びており、不思議と紅い。紅魔館で久しぶりに風呂を借りたせいか、いつもの野良の汚れは無く清潔そのものだった。疲れをしらない弾力のある身体をしていた。小さな身体だったが、ひょいと驚くほどの荷を背負える力も持っている。今だって酒の瓶を何本か背負っている。夕良は顔が広くささやかな奉仕の報酬として酒を貰う。酒を好きで飲む。誰かと飲むのは好きだった。例え妖怪でも。
「飲むかね」
背嚢から酒瓶を一本取り出した。
「今紅魔館から頂いてきたワインだよ。紅魔館のお化け屋敷の参加賞さ。
あそこの右園には丹精かけて育てた葡萄園がある。年に一度収穫したのを潰して絞って熟成させる。あのお嬢様たちも踏んだ葡萄だよ。きっと一杯飲むのに金を積む者もいよう。それくらい美味いもんだよ」
「酒より、お前を食いたいのだ」
「まるで駄々っ子だな、お前は」
「お前からはいいにおいがする。それがなお腹を減らさせる。酒よりも食わせろよ」
「まあまあ、食うのはいつでも出来ようよ。お前みたいな妖怪なら尚更」
「何故恐れぬ」
「怖くないからさ」
「お化け屋敷に行ったのは、怖がるためだろう? 何故今怖くない」
「怖がるために行く場所で怖がるのは当然だろう。でもお前はただの化け物だ。怖くない」
「お前何者だ」
「なに、乞食坊主よ」
あっさりと夕良が告白すると、黒い妖怪ははああああ、と溜息をついて、くたくたと座り込んだ。あからさまにガッカリした様子。
「なんだ、坊主かよ……、いいにおいをさせていたと思ったら、……坊主か。ちくしょう」
「何をがっくりしてるのだ」
「だって、坊主はいつも逃げるのだ。出会うのはいつも坊主で、逃げるのも坊主だ」
「なんだ、やはり釣果も坊主か」
からりとした声で笑われて、化け物は恨めしげに。
「お前、酒を飲ませて酔っ払わせようとしているんだろう? そんで逃げようとしてるんだろ?」
「俺はそんなつまらん真似はしないよ」
笑いながら老人は手馴れた手つきでワインの栓を抜く。そしてそのまま瓶の口に唇をあてガブリと飲んで。
「お前の分は杯に注いでやろう」
と地面にどっかり腰を据えた。その様を恨めしげに見て化け物は。
「お前が坊主なら、妖怪も救えばよいのに」
と愚痴る。夕良は笑う。
「おいおい、仏の道は生き方の道であり法であり、その学問だ。ここでは己が極める法だ。
幻想郷の外の世界なら大乗の教えもあろうが、ここでは己が道を究めることこそ大事であろう。誰かを救うためにあるものではあるまいよ」
魑魅魍魎、妖怪変化の跋扈する幻想郷は、冥界にもほぼ地続きで、地獄も極楽も自分の努力でたどり着けることが証明されている。それならば仏とは崇めるものでなく、自らが仏となり自らを救うものである。即ち輪廻の輪から自らを解き放ち救うことで、衆生がその方法を学ぼうとする先立ちなのである。幻想郷では仏教は、純粋で即実性の高い学問に過ぎない。手を合わせるとすれば、修行を続ける尊者への尊敬からであった。或いは、法への敬虔な気持ちであった。宗教はただの宗門の教えに過ぎない。
「俺はただの法使いよ。道理をもって語り、道理に従って生きることで人の身に叶わぬことを成す。人の身に成せぬことをし、それをそのままに受け止める。生きるを生きると成すだけの話よ」
「ずいぶん簡単そうに言うな」
驚いたように化け物に言われて、夕良は笑って刈り込んだ白髪頭を撫でる。それから背嚢から取り出した杯にざぶざぶワインを注ぐ。
「何、毎日を生きておるだけさ。学んだ経も全て忘れ、道も見失のうた。けれどそれでよし。林に迷い込むもまた良し。日々があればよし」
「お前、どれだけ生きた?」
おそるおそる尋ねる妖怪に莞爾として。
「さて三百数えたか、四百数えたか。
死神が顔を覗かせよるが、生きておるものが生きておるだけだと答えれば皆すごすごと消えおったよ。は、は、は」
さあ、と勧められて化け物は舌を出す。そして杯を舐めて、うん、と言った。
「中々、渋いものだな」
「酒はそんなもんだ」
「しかし嫌いな味じゃない」
「初めて飲むか」
面白そうな顔をした夕良に口もきかず、だまって妖怪は杯を舐める。ぺちゃぺちゃと舐めて空になるとまた注ぐ。夕良は更に勧める。
「これはどうかな。
冥界には二百由旬の土地がある。そこで取れた小麦を熟させて作る琥珀の酒がある。何年も樽で寝かせて香ばしい酒を作りおる。飲むか」
「……飲む」
「では」
これまた背嚢から取り出した瓶より、さらりと注ぐ。濃い酒だから気をつけろよといわれて、そっと舌をつけて、化け物、顔をぎゅっと締まらせて。
「濃いな、強いな」
「初めてか?」
「うん。香ばしくて、鼻の奥から抜けて、身体の奥でじんわりと果物くさいにおいがする」
「おまえ、かわいいなあ」
「はあ!?」
年老いた坊主に言われて化け物はまた口を開けた。
「お前は何を言っているんだ」
「思ったことを言って何が悪い」
「人食い妖怪がそんなに可愛いはずがない!」
怒ってシッポが夕良の持つ酒瓶を弾く。四角い瓶が飛んで、地面の上でばったりと倒れた。どくどくと零れる中身に、おう、もったいない、と夕良は慌てて手を伸ばす。酒瓶を立てに戻して、手についた酒を、もったいないもったいない、と舐める。
化け物の苛立ちは収まらない。
「この、真紫の身体、一つ目、一つ口、一つシッポの何がかわいいか! 醜いよ。醜いのはよく判ってるさ。まるで大きなコウモリのよう。
醜いから打ち捨てられ、ここで一人で獲物を待つのさ。腹を減らしたまま、たった一人でよ……」
「その気持ちがお前の腹を減らしてるんじゃないかね」
夕良が言う。説教じみたことを、と妖怪は吐き捨てる。目を細めて夕良は、説教じゃないよ、と言う。目の奥の瞳は紅く燃える。
「正直、何人食った?」
「だから食って無いと言うに」
「食わぬなら、何故お前は生きられる?」
「さあ。でも判っていることがある。このまま人を食わずにおれば、いずれこのまま消えていくだろうよ。妖怪はそうしたものだ」
「そうしたものか」
そうだ、と化け物は微かに肯首した。
「幽けしものにとって一番のごちそうは、人の心や感情よ。ただ、心など大抵そのままでは食えぬ。心をそのまま食えぬものは、命を殺し、命にこびりついた思念を喰らうのよ」
「なるほど、それは難儀だな」
眉根を寄せて夕良は言う。
「はて、では力をつける方法とは?」
「人を食うことさ」
「聞いた話では、妖怪の賢者は外の世界から人の死骸を持って来て、化生の物の食事になさるとか……」
「あんなヨタ話、信じる方がどうかしておるよ!」
化け物は舌打ち混じりに言う。
「犬や猫でもあるまいに、他人から与えられた餌にシッポを振ってムシャムシャか。化け物はそうしたものであるまい。化け物にだって矜持はある」
「本当にかわいいなあ、お前は」
二度目の「かわいい」宣言に、妖怪はぷいと顔を横に向ける。なるほど、その仕草はかわいい。
「お前が、何も食わぬのにまだここに居る理由がよう判ったよ、俺は。
とすれば、お前の腹がくちくなる方法も考えつかんこともない」
「え!?」
驚く化け物の杯に、夕良は新しい器から酒を注ぐ。竹の筒に酒を注いだものである。
「そら、今度はこれだ。竹林の奥深くにある時の止まった屋敷の酒だよ。濁りの無いものさ。濁りは他に全て押し付けてあるからねえ。妖怪には少々澄み過ぎているかもしれんが」
「それより、お前の判ったことを教えてくれ。どうすればこの空腹は収まるのか!」
詰め寄る紫の翼を、まあまあ、と呼び止めて。
「お前が今、ここに居るのはな? お前のことを、語ったもの、語り続けたがおるからよ」
「――え?」
そんな単純なことで、と訝しげな妖しに。
「語る、ということは思った以上に厄介なことよ」
と乞食坊主は真面目な顔で諭す。
「人間も、妖怪も、口の端に上らねば、あるも無いも判るまい。
語られる方法で、この世はまったく別の顔を見せることになる。だからこそ、真理の研究を成し遂げるものは、話をする時には気をつけねばならん。さもなくば、まさに「語るに落ちた」所業となる」
「語るものがいるのか?」
「いいから飲め」
「こんな気持ちで飲めるか」
「困った子だねえ」
ほっと溜息をついて、竹の器ごと口につける。
「本当に視野が狭いな。もっと広く余裕を持って世の中を見ないと、辛いぞよ」
「一つ目だから、仕方が無い。お前の二つの目が羨ましい」
拗ねた声で化け物が言う。
夜の林に差し込む、星月のあかりに照らされて、紫の巨体がどこか悲しそうだ。
「お前の、夕焼け色の、赤い瞳が羨ましい。その目で見る幻想郷はどんな色だね? やはりどこもかしこも夕焼けに染まって見えるんだろうか?」
「さあ。見え方がどう違うかなんて、俺にはよく判らんよ。見る人次第だからな。
ただ夕暮れは好きだよ。だから俺の名は夕良だ。黄昏をゆらゆら行くのさ」
「二つの目を持てば、飢えずとも済むか?!」
「それはどうかなあ」
にこにこしながら杯を勧めるので、化け物はそれを受けて飲む。まるで水のようだと言えば、水がじわじわ効いてくるぞと夕良は笑う。
「そら、飲み口すら水の固さがないであろう? 空気のようだが喉越しはあろう。爽やかな冷たさもあろうよ」
「うむ」
なるほど、その通りだった。
ぺろぺろ化け物が杯を舐めると、老人目を細めて。
「語ったは、僧よ」
「え?」
「僧侶どもが、お前の話を語ったのよ。
仙人どもが住まい、天狗どもの住まう山の狭間に仏法の学問所の中枢やある。宗門集りて、一つの山を成す。侃々諤々の討論をし、されどその論、幻想郷の幻想の中にて深く沈みまた沈んだ深い知恵となり漂う。
権現様より生活の役割機関として定められた寺は、幻想郷として切り離され、いまやその役割を失うて、精々葬式のさいに経を読むが精々のこと。
本山を外の世界に捨て、何もかも見失うてある。
そしてそれがゆえにしがらみを断ち、見事教えとして純粋化されておる。
何が良し、何が悪しと一言で言えぬ境地にある。
されど」
少し言葉が強くなった気がする。
杯を舐める舌を止めて、紫のコウモリは夕良の言葉を聞く。老人は言う。
「されど、その法を説く口。道理に満ちた舌と唇を使い、語った者たちがある」
「僧か?」
答えは聞いている。けれど問わずにいられない化生の物。
答えは伝えている。だから答えずに話を進める坊主。
「怪しげなもの、尋常ならざる力、世を乱すもの、神秘のもの、そんなものは容易く口にしてはならんのだ。
法とは玄妙なもの。されど伝えられ伝えるもの。そして伝えるだけでは意味を成さぬもの。
だからこそ語り伝えることは難しい。
なればこそ、不確定のものをうかつに語り、確定させてはならない。
語ればそれはたちどころに現れる。
お前が現れて語られたのか、語られたからお前が現れたのか、どちらが先か俺には判らん。
しかし語られし怪力乱神は鬼を生む。
お前は僧院で語られる限り、この林で腹を減らしてい続けるのであろうよ」
「では、語られなくなれば?」
「消えるのであろうな」
事実であった。
判っていた事実であった。
「お前も言っていたろう? 怪異の者は、人の心を糧にして生きる。
つまり人の心からお前が消えれば、お前もここから消えてなくなる。
お前は今、語られているからここに居るのだ。語る者が居なくなれば居なくなろう。
語り継ぐ者も「あれはもしやみ間違いだったかも」と思えば、お前はすぐに消えてなくなろうよ。元の姿に戻るのみ」
「元の姿――?」
「お前の心が宿る依代よ。それが無ければ酒も呑めまい」
強烈な眩暈が化け物を襲った。
目の前の二つの瞳がじっと自分を見ている。
真っ赤な二つの目に絡め取られて動けない。
「林の中で、大きな翼を持つ化け物と出会った、と。まるで巨大なコウモリのようだったと。
汚れておるゆえ食えば腹を壊すと説き、逃げ延びたと聞く」
夕良は静かに言う。
そうだ、そういえばそんなこともあった。
「また、ある者は、化け物に、天中殺の大将軍で仏滅だと説いて逃げたとか」
「では、あれは嘘だったのか!」
化け物の声に老人は乾いた笑いを立て。
「お前にあのまま食われれば、確かにあれにとっては大厄日よ」
情けない顔をする化け物の、空の杯に老人はまた酒を注いで。
「そしてある者は、自分は仏道を極めて居ない者であり、まだ食われてやるわけにはいかないから、代わりに美しい娘をよこすと約束したのだったな」
「あのジジイが一番の悪党さ! あんな約束して守りやしない!」
いきり立つ化け物に夕良は笑う。
「お前、あの男は幼き頃より法を求め法に従い法に習って生きてきたものぞ。なかなか立派な者よ。俺も何度も教えを乞うた」
「夕良、だってあの老人よりも、お前の方が長生きだろう? お前はもう何百年も生きていると言う。あのじじいよりも年上のはず。お前の方が悟りに近いのではないのか?」
「重ねた年月の分だけ、重ねた罪や執着もあるということよ。
俺は随分と罪を重ね、執着してきた。何もかも捨て去って、尚自らを捨て去ることが出来ずにいる。ひどく傲慢である」
ごろりと地面に横たわって夕良は目を閉じる。もそもそと化け物は近寄って、夕良の側に来る。気配に気付いて痩せた手の平が化け物の身体を撫ぜだ。途端、ひくんと紫の翼が震えた。
「お前は本当にかわいいな」
「か、かわいいとか、いうな」
狼狽する妖怪に、老人は含み笑いをする。
「男とも、女とも交わってきたよ」
枯れた声には、微かに艶があった。枯れきって尚捨て切れぬ艶であった。
「恋慕うとはこういうことかと思ったこともある。されど、幾年交わっても子が出来なかった。俺は次の世代を育むことが出来ない。それが俺の業である。
今まで生きてきたのは、俺が殺してきた子らの命を吸ってきたからである。
夕闇はそんな俺の流してきた血の色のようで悲しい」
「悲しいのに、夕が好きなのか」
夕良の顔を眺めながら、妖しは呟く。
「悲しいのは、嫌だな」
切ない声を出す妖怪を、元気付けるように笑って坊主は言う。
「悲しいのも生きている証よ。死ねば何も無くなる。
俺の姿も、死ねば消える。名も無くなる。その縁だけが残る。縁もいずれ交じり合って消えうせる。しかも俺は子が無いから、血も絶える。
さあ、ここで問題だ。
それで一切が無になるか。元より無なのか、無に還るのか」
赤い瞳を開いて、老人は言った。
「俺にはそうは思えないんだ」
「人間も妖怪と同じだな」
化け物は溜息を吐いて言った。
「人間も化け物も、語られることが無くなれば、消えて失せる。
このまま人も食えず空腹のまま、消えるのも定めなのかもしれんな」
「さて、そこでお前の問題の解決法なのだ!」
がば、と老人が起きるので、まるで接吻するくらいに顔が近づいて、妖物は赤面した。
「つまり、お前が語られ続ければいいのだ。そうすれば、少なくともお前は消えずに済む。それどころか、この林から出て、人の心をそのまま食えるだけの大妖怪になれるやもしれん!」
「え?!」
面食らう化け物に、老人は自信満々に語る。
「俺が、お前の話を、里、いや、幻想郷中に語ればよいのだ。
人を脅かすかわいい怪がいると!」
「この化け物のなりで、かわいいとか言うな」
冗談かと思って化け物が一笑に伏せば、夕良は莞爾として。
「何を言ってる。だってお前は。紫の小さな小傘ではないか」
――はぁっ。
誰かが大きく息を吐いた。息苦しい。思考がぐらぐらする。
息を吐き、ゆらゆらしているのは、正体を暴かれ自らの正体を悟った化け物だった。
坊主、なおも続ける。
「一つ目一つ口に大きなシッポ。そしてコウモリと言えば、そのままではないか。穴と口は破れた穴さ。お前はただの破れ傘よ」
「そん、いや、おま、なに……」
「焦るな焦るな。悪いようにはせん。お前は消えとう無かろう?」
消えたいか? と問われて。
「消えたくない!」
と傘は叫んだ。
目と口の開いた傘だった。雨に濡れて破れた傘だった。その雨は多分天から零れる雨ではない。傘の内から零れた雨だった。
一人ぼっちの雨に濡れ、傘自ずから破ける。
「まだ、居たい。ここに居たい! 忘れられたくない!」
目の色を変えて噛みつかんばかりに顔を近づけて傘が言う。もし傘に腕があれば、夕良の肩を掴んで揺らしていたであろう。
天がある。空がある。地がある。昼夜あって、光と闇がある。
ひもじさに身を捩りながら風に遊ぶ傘の化け物は楽しかった。
生きることは生きるだけで楽しい。
生まれ育まれ育っていく過程がなく、ただ生まれるだけで妖しの道理が生じる小傘は、人間より自由だった。
飢餓の苦しみがあっても、出来るだけ長く生きていたかった。
「なら、俺が生かしてやろう」
厳かに夕良は言う。
「俺がお前を語ってやるよ。
皆喜ぶぞ? 林の中の化生の物の話」
「さすればどうなる?!」
「語られる限り、消えることはあるまい」
明るい口調に、思わず化け物は引き込まれる。
老人は熱心に話を進める。
「ささ、なんと語ろうか。
林に出る化け物、つまりお前はついに林を出て、道行く人を脅かすと言う。怖れを食って生きると言う。
里の者ども気をつけろ! 夜行く時には目をこらせ、どこから来るかわからんぞ」
「すごい!」
傘がはしゃぐ。ぴょん、と飛ぶ。はしゃぐ傘を見て、嬉しそうに夕良語る。
「夜に、びくびくしながら目を凝らせば、なお微かな怪異も目に触れよう。お前の姿も見つけやすくなるはずさ。さあ、暗闇にお前の紫と、空色の瞳を見たらどう思うか」
「空色の、瞳?」
「お前の瞳は綺麗な空色さ。美しく澄んだ色だ。俺の黄昏の赤と違う、夜明けて快晴を告げる爽やかな青の色だ。かわいいお前の目の色だ」
「そうなのか!」
「そうだ! その目が道行く者を驚かす。夜なのに昼の色に脅かされるのだ。痛快ではないか!」
「うん! 痛快だ!」
満面の笑顔で小傘ははしゃぐ。夕良に飛びついてすうっと息を吸い込む。
ああ、いいにおい。
素敵に甘くていい薫り。
夕良は楽しそうに話続ける。
まるで美しい曲を奏でるかのよう。
「そうやって怖れと共に人の口端に上っていけば、もうしめたものだ。
そうだ。あの僧共も脅しつけてやろう。お前の真の姿に、誰も気付かなかったろう。僧を率先して脅す化け物と言っておこうか? 驚くぞぉ。
は、は、は、は」
今度は、一緒に笑った。
楽しかった。腹の底から笑った。
けれど小傘はふと不安になって。
「なあ」
「なんだね小傘」
「あのね」
「うん」
「また、会いに、来てくれるよね?」
小さく震えた声であった。
傘は忘れている。今まで会った僧に、最後に必ずそう聞いていたのを。
身体を清めたら。
己の天文、奇縁が合致したら。
そして、自分の身代わりの娘を連れてきたら。
また、自分に会ってくれると化け物は信じていた。だから問答の果てに化け物は小さく尋ねたのだった。
「また、会いに来てくれるな」と。
今までの者はそれにやさしい笑顔だけで応えてきた。
そして夕良も微笑した。
ただ夕良は笑っただけではなく。
「勿論来るさ。お前と一緒にいる」
と約束した。
「お前を知らせるために、策を練り宣伝する。それなら入念な打ち合わせも必要だからな!」
「それでこそ夕良!」
「まかせろ小傘!」
笑った笑った。
林が明るくなった。
笑い疲れて、二人ともぐったりした。
小傘は夕良の傍らに倒れて、満足する。
ただ満足したのに、少し気になることがあった。気になると言うより、焦燥感であった。じりじりした感覚。何か間違った答えを手にしたような気分。
だから何気なく尋ねた。
「ねえ」
「うん?」
「噂を広めて、幻想郷の人間を驚かせ、それで力をつけてくってのは判った」
「うん。これは失敗しないだろう」
「そう思う。
でも、これはすごく、とても個人的なことなんだけど……」
もじょもじょと言いよどむ小傘に、どうしたと優しい声が尋ねた。優しい声に後押しされるみたいに、小傘ははにかんで言った。
「そうやって人間を食わずに居てさ。
今の抉られるような飢えはいつ癒えるのかな」
小傘はごろりと寝返りして、空を見た。
夜空はいつか開ける。
夜が明ければ朝がくる。自分の目の色はそれと同じに青いんだって。青くてかわいいんだって。
一緒に林の外を行こうなあ。
きっといつか夕良は、小傘を外に連れ出してくれるだろう。
昼を夜を二人で過ごすのだ。人を脅かして、人の悪い遊びの中で、小傘はもっともっと大きな化け物になるのだ。
そしたら小傘も、いいにおいがするのだろうか。
夕良みたいに、舐めたくなるような食べたくなるような。
夕良は年を取っているのに、滑らかで艶やかで美しい。
黙ったまま口をきかない夕良に、小傘は言う。
「ねえ、ぎゅって、してよ。
力のある妖怪は、みんな誰かぎゅってしてくれる人がいるんでしょう?
入道でさえギュってした尼僧もいるって聞いたよ? 妖精の噂話で聞いたよ。
妖精は気まぐれですぐにどこか行っちゃう。人間はそんなこと無いだろう?
抱いて欲しいんだ。あれ、羨ましいんだよ。
それともあたしが役立たずだから、ダメなのかな?
破れ傘じゃ、雨が洩れるものねえ。
だからあたし雨が怖いんだよ。晴れていてもあたしの穴から雨が――」
話の途中で、そっと抱かれた。
身が蕩けるようだった。
夕良のかぐわしい薫りに、小傘はくらくらした。
思わず舌が伸びる。長い舌だ。長い舌が舐める。服の裾から割って入って、ああ、ああ。
声が擦れる。夕良が、うめく。
「ゆら」
「なぁに?」
「お前、女だったのだな」
夕良は微笑する。
身体を舐める舌の先に、柔らかく皮ばかりになった乳房があった。その先には男の物は無く、柔らかい裂け目があった。夕良はからかうように。
「男も女も、どちらも捨てた。外見からはジジイにしか見えなかったろ?」
「でも、夕良は綺麗だ」
傷つけないように、口が夕良を噛む。それが余りに優しい甘噛みなので、老体が震えた。くぐもった声に小傘は。
「苦しい?」
「いや、……いいよ」
優しく蕩けそうな声に、小傘はまたびりびり震える。かわいいなお前は、と囁かれて化け傘が身悶えする。その身悶えする身体を、女が引き寄せた。
「手が無くては、抱きあうことも出来ぬものな」
そっと囁いた後で、がらりと調子を変えて夕良が。
「今、名案を思いついたぞ!」
と明るく言った。
「お前が直接里に現れて、恐れさせればいいのだ」
「夕良が里まで連れ出してくれるのか!?」
「そうしたら、傘を使って坊主が人を驚かせるという話になるじゃないか。それに俺は元々そういう芸を持っているから、下手すりゃお前が傘回しの傘になってしまう。
それでは意味が無い。
お前が驚かすのさ」
「でも、林を出て行く力が無いよ」
「力をつければいい」
「どうやって?」
不思議そうな小傘に、夕良は、は、は、は、と笑って。
「俺を食うのさ」
と言った。
化け物は口を引き攣らせる。
「いや、いいよ。今腹も減ってない」
「嘘をつけ。おまえのいやらしい舌先が食いたいと言っていたぞ」
蕩けるような声に、化け物は芯まで蕩けそうになる。涎が垂れる。でも拒む。
「だって、お前を食う、道理が無い。坊主は法と道理を説くのだろう?」
拒まれて、夕良笑う。
「さっき俺は紅魔館で湯を使ってきたから、汚れて食えないことは無い。
おまけに自らの行方を知って、俺にとって今日は大吉である。
そして、俺は娘であり、お前は綺麗と言ってくれたではないか」
絶叫した。
「お前は俺を食っていいのだ」
だめぇっ!!
化生の物が悲鳴をあげて、逃げた。
手を振り解いて暗い空に舞った。
暗い枝と枝が絡み合う林の影。その上まで追っては来れまい。枝の一本に化けて逃げておれば、あの坊主も諦めて帰るだろう。夕良も人里へ帰るだろう。
木の枝にぶら下がって息を殺していると。
「俺が嫌いか?」
と、悲しそうに夕良が言った。
小傘のぶら下がる枝の先、緑の葉の上で膝を抱えて腰を落とし尋ねる。
「俺が嫌いで食いたくないのか?」
真っ暗い林の中で、夕良の黒い影がある。黒い影に二つの目がある。真っ赤な瞳が見ている。
「ち、違う!」
枝から滑り落ちて、ばさばさと羽ばたき、小傘は逃げる。飛んで飛んで逃げる。
でも林からは逃げられない。
自分が閉じ込められた、林から外に出られない。
身を潜め、また静かにする。においが近づいてくる。いいにおいが近づいてくる。震えるほどかぐわしい薫りに化け物は震える。あまりにも近くににおいを感じて、小傘は口を開きたくなる。いっそ。
「ここだよう」
と声をかけたくなる。でも、声をかけたら、夕良は、自分を食え、と言うだろう。
よいにおいは辺りを見回して何かを探している。そしてそっと手を伸ばした。
ぎゅっと掴まれて、小傘は絶叫した。
「妖物も、シッポをつかまれては動けまい」
離せ、離せと喚くけれど、聞こえないふりで夕良は小傘の持ち手を握る。これではもはや逃げられまい。
「……なぜ判った」
観念した声を出す化け物に、夕良は頭を撫でながら。
「何、お前に酒を飲ませたろ。その薫りがお前のにおいと混じって甘い薫りしたからな。すぐ判ったよ」
ふふふ、と笑って、夕良は問う。
「さて、なぜ逃げる。なぜ拒む。
腹が減っているのだろう? 一番初めにお前が俺を襲ったのは、俺を食うためだろう」
林の深いところ、暗がりの中で坊主は問う。
「お前が俺を食いたくないなら、それでもいい。
それなら俺はお前のことなんか誰にも言わない。
ただ、夜あの林に行けば傘が掛かっていることだけ誰かに伝えよう。夜遅く雨が降り始めたら、林の傘を使えと。さすればお前の姿は初めから傘になる。お前はこの世から消えてなくなる。それでよいなら、食わぬがいい」
「それでもいい! お前を食うくらいなら、0の方がはるかにいい!」
「何故か!」
大喝に怯まず、けれど囁くような泣きそうな声で小傘が。
「だっておまえ。
あたしのこと、かわいいっていったもん」
怖れと恐れが混ざった声だった。そこから声は、震えていた。
「あ、ああ、あたしをか、かわいいなんて言ったの、お、おまえだけだもん。
う、嬉しかった。
だから、消えてもいい。
腹が減ったまま、消えてもいい。それどころから無かったことになってもいい。
かわいいって言ってくれるの、お前くらいでしょう?
だから、あたし、あたしが、あたし……。
おまえが。
ゆらが、いっしょに、いてくれるだけで。くうぐらいなら、あたしが……」
消えてもいいのだ。
女の手の中で、傘はぐったりした。
このまま元の傘に戻れるかと思ったけれど、戻れなかった。
だからとてもとても小さな声で。
「ゆら」
「なぁに?」
「なんであんた、あたしに食えって言うんだ?」
傘は喘ぐ。
「だって、お前が幻想郷で語って、あたしに力くれるんだろう?」
「そのつもりだったけどさ。俺は自分が嫌になっちゃったんである」
情けない顔をして、夕良は小傘を見つめた。
「これだけ長い年月生きてきて、結局一番執着しているのは自分の命だった。死ぬのが怖いだけだったと知ったのだよ。
餓鬼道に落ちて苦しむお前を見て、のうのうと俺は人間の世界に戻ろうとした。お前を救えるだけの法力も俺にはあらなんだ。
それなら、お前を救ってやろうなんて考えは嘘だ。
人間を、妖怪を、救える者が居ればいいのになあ。
だから俺がしてやれることは、お前に食われてやろう、ってことだけなんだよ」
俺は。
「お前に、一度だけでも腹いっぱいになって欲しいんだよ。
だってお前、妖怪なんだから」
小傘は目を閉じていた。
静かに目を閉じてゆっくり開いた。
青い瞳が燃えていた。
口元は笑顔になっていて、小傘から出てきた言葉は軽口だった。
「それならやっぱり、なおさらお前を食えないや」
「なぜさ」
「だって、お前、あたしの為に食われたいんだろ?
だったら食う時期を決めるのは、お前じゃない。あたしさ!」
「え?!」
「当たり前じゃないか」
ぽかんと口を開ける夕良を見て、傘の化生の物は満足げに笑った。
「あたしが食いたいと思った時でなきゃ、お前は食われちゃダメなんだ。
お前は自己満足で食われたいとしているだけさ!
それはお前の心の中にある、食われたく無いって気持ちに嘘ついてる。
そしてあたしの、食いたくない、って気持ちも欺いている。
それじゃ折角のお前の功徳も、あたしの食欲の罪を重ねさせるに過ぎないよ。
どうだ! これも理屈だろ?」
夕良を食いたくないが故に、必死に紡ぎだした道理であった。
「お前と一緒なら、空腹くらい我慢出来るさ。
それでもし迷惑なら、あたしと口約束でもなんでもして林を出て、そのまま忘れてしまえよ。
あんたがあたし忘れたら、あたし消えるからこの飢餓感も消えるさ」
「お前は、俺を食う衝動を我慢できるのか?」
「出来るさ! こんな風に舌を巻きつけても、平気さ!」
戯れに舌を巻きつける。軽く噛んでみる。
そうせずには居られないくらい夕良はいいにおいだったからで、でも食わない心がこの化け傘にはあった。強くあった。
そっと夕良が首筋を見せた。挑発であった。ここに噛み付いて下さいと言わんがばかりに。その誘いに乗ってやる。首根っこを噛むとくぐもった声がある。快感に潤んだ声に震える。
小傘の身体が軋む。
ああ、一緒になりたい。
溶け合って一つになりたい。
もし自分が力を得て、人型になれたら、夕良と抱き合えるだろうか?
人の形を得れば、もっと二人で。
舐め、しゃぶり噛むごとに、夕良の肌が張りを増す。笑い皺は整い、乳は張り、ツヤツヤしてくる。萎びて柔らかい皮になった乳房、たふたふした腹回り、野良に慣れて固く張った筋は再び肉に溶け合って瑞々しくなる。内臓は色鮮やかで骨は固くしなやかだろう。そしてその髄には旨い脂肪が詰まっているのだろう。
――これが全部本当に衰えるまで、夕良はあたしと一緒だ。
嬉しくなる。
囁く声がする。
「これだけ懐かれれば、悪い気はしないな」
夕焼けが溶けた瞳で女が言った。
「俺も、お前が好きだよ」
ああ、あたしも、あたしも。
言葉が出ないまま、むしゃぶりつく。
そんな化け物に「いいものをあげよう」と夕良は言った。
「俺を食うときさ」
うん。
「お前、俺の目を羨ましがってたろう」
うん。
「だから俺が死んだら、俺の目玉をやるよ」
ゴキ。
嫌な音がして、思わず飲み込んだ。
美味しかった。
小傘は、夕良の、喉を噛み切ってしまっていた。
暗い地面を真っ黒い液体が塗らしていく。
夕良の身体が断末魔を迎えている。
「ちがうっ!」
化け物は叫んで、夕良の身体にくたくたと倒れこんだ。力尽きたような倒れこみ方だった。
死に掛けた女の上に、開いた傘がかぶさっている。ふにゃふにゃだった。死んだように身動きしなくなった傘の舌から、白い腕がにゅうっと突き出た。
「ゆら?」
赤い唇が、尋ねた。
「ちがうの、ちょっと力が入っただけなの」
傘の下から這い出した少女が言った。
「噛み殺す気じゃ、無かった、ほんとに」
喉を食い破られて悶える女の両手が、喉笛の傷痕に当てられている。早く止血しないと。流れる血を止めないと。
女の身体に馬乗りになった少女は、首に両手を当ててぎゅうぎゅう締めた。早く血を止めないと。止める為に、締めて、締めて。
手にどぶどぶと生温かい血がつく。ああ、もったいない。舐める。
美味しい、なんて甘い。
「殺したくなんて、ないよ、ほんとだから」
力が入る。
ミリ。
ぱ、き。
首が、折れた。
「ゆー」
少女が呼んだ。
「らー」
女の肌の色が死の色に、さっと変わった。
ああ。
化け物は悟る。
ああ、食べなければ。
小傘はゆっくり女の服を脱がせた。
真っ暗な林の中、誰かが咀嚼する音がする。
猛然と食い進め、辺りはいいにおいで満ちている。
お。
貪られた肉の跡が骨に残っている。
それをまた更にしゃぶるから、白いカルシウムがピカピカになる。割って髄を啜る。
おお。
内臓はつやつや。乳房の中には旨い脂肪がある。
食っても食っても足りない。
腹の底に収められていた女の袋があった。裂いてみると、子になり損ねた小さな石がびっしり詰まっていた。
おおお。
弛緩して女の顔が置かれている。
そっと取り上げて唇に唇を重ねて、ぐっと毟り取ると、頬まで裂けて筋が出た。鼻腔の奥のお鼻汁を書き出しながら食い漁る。
おおおおお、浅ましい。
そしてついに。
頭蓋の鉢に収められた、灰色のたんぱく質の塊に行き着いた。・
仏法を収め仙道に遊び、道をただただ辿り続けてきた比丘尼の叡智の詰まったもの。
直接歯を立てた。
「おおおおおおおおおっ!」
なんて浅ましい。
骨を噛み割り人を食う。
血塗れになり人を食う。
あんなに愛していたのに、どうしてこんなに甘いのだろう。
こんなに悲しいのに、どうしてこんなに美味しいのだろう。
化け物は林を出た。
力を得て難無く出られた。
名を小傘と言った
字は多々良と言う。
2
窓の外に月が出ていた。
「つまらない」
紅魔館の一室である。月の明かりが窓の外から差している。普通の人間には暗すぎるあかりだけれど、レミリアたちにとっては心地よい明かりなのだった。
レミリア・スカーレットは言って、将棋の駒を動かす。
「今日のお化け屋敷も、夕良は来なかったわ」
あの紅魔館のお化け屋敷の後、夕良は紅魔館に顔を見せなかった。そして都合一年近く連絡が取れない。なにかあったに違いなかった。あれが居なくては、紅魔館のお化け屋敷もただの陰気な献血場だ。我侭な吸血鬼にとって、それははなはだつまらないことなのだった。
「もう来ないのではありませんかね」
耳を澄ませながら、紅美鈴はレミリアの仕草を見つめる。
「かなりのお年でしたし。
或いは本業に専念なさったのかも」
レミリアがチッと舌を鳴らしたのは、自分の采配をミスったからだ。次は美鈴の番だ。美しい長身の女はゆっくり手を伸ばすと、そっと王将を除けた。
「あ、私の王将!」
悔しがる主を尻目に美鈴は次に、香車を取る。静かに、静かに。
「誰かお救いになられたのかもしれませんね」
「この幻想郷で、誰を救うのさ」
つまらなそうにレミリアは言って、ぐっと耳をそばだてる。
二人で将棋崩しをしているのだった。
「砂上の楼閣みたいなここで、長く楽しむのに必要なのは、自分の才覚か、最高のチームワークでしょ?」
「下手な手を打てば、この山みたいにバラバラ崩れてしまうかもしれませんからね」
黒い執事服を着た美鈴に、レミリアはふー、ふーと息を吹く。邪魔しているつもりなのだ。涼しい顔で美鈴はまた次の駒を取った。
「夕良の血って、美味しかったのよ? 本当に練り上げられた女の味。鍛えられた男の味。あれがもう味わえなくなるなんて、悲しいわぁ」
「レミリアは、別に血を飲まなくても平気でしょ」
「あらやだ美鈴。そんなこと無いわ。吸血鬼は吸血するから吸血鬼なの。
私のレーゾンデートルに関わることだわ」
優しい呼びかけにレミリアは胸を張って答える。
「例え様式美でも、私は吸血鬼である自分に誇りがあるわ。血を飲むのが吸血鬼。妖怪は人を食うから、妖怪。
でも、だからといって、その存在意義を満たす為だけに妖怪に食われるような素っ頓狂がどこにいるって言うの?」
美鈴は答えない。
レミリアは怒っているのだ。
夕良が死んだことを、レミリアはおそらく知っている。知っていて、それが必然であるから怒っているのだ。
「そう言えば、この前の夜、獣が鳴く声が聞こえたわね。
レミリア、夕良は獣に食われたのかもしれないわよ」
二人きりの時、美鈴はレミリアを年下の女友達みたいに扱うことがある。そんな時レミリアは美鈴の膝を椅子代わりにする。口調は主のまま、仕草は妹みたいな格好で甘えてみせる。
今日もそうだった。
美鈴の膝の上に乗って、豊かな胸元にもたれかかって。
「獣なわけないじゃない」
と言い切った。
「獣は、獲物を食う時は鳴かないわ。ただ一心に獲物を喰らもの。
泣きながら食うのは、化け物だけよ」
自分の罪と業を知っているから、獣のように食いながら、妖怪は泣くのだ。
美鈴はそ知らぬ顔で手を伸ばしたけれど、勝手が違えば上手くはいかない。将棋の山、音を立てて崩れる。美鈴は苦笑して。
「まあ、食べられてしまったなら、仕方ないでしょう。
それよりレミリア様。次回のお化け屋敷は、どうなさいますか?」
柔らかい膝の上からぴょんと立ち上がってレミリアは「もうやんない」と答えた。
「夕良が来ないと、つまんないもの」
「でも、存在意義に響くんじゃないんですか? そういうの。定期的な血液が手に入らなければ……」
「構わないわ。創造主にすら逆らってみせるから悪魔なんじゃないの」
「儚い人間程度、数年したら忘れちゃいますよ」
「どうかしらね」
レミリアは後ろ手を組んで、思慮深げに部屋をうろうろと歩く。
美鈴は、こうやってはぐらかすレミリアが好きだ。追い詰めてみたくなる。だから。
「レミリア様は、今まで食べたパンの枚数を覚えてますか?」
「どういうこと?」
「毎食のパンを気にかけて食べていらっしゃるのなら、儚い人間のこともいつまでも覚えておけるでしょうね。でも、忘れてしまうなら、それはそこまでってことでしょう」
「ああ、そういうことね。
確かにあなたのいう通り、全部が全部を覚えているわけじゃないわ」
あっさり認めてすっと指を伸ばすと、残った山の天辺にある金に沿わせて、ピンと弾いた。
「アイタッ!」
美鈴の額に、見事に金の駒が命中する。それを見て含み笑いしてからレミリアは言った。
「でも、美味しいパンのことなら大体覚えていてよ?
美味しいものは。その輪郭をどこか記憶の奥底に残している。
そうじゃない? 美鈴。
生きているってそういうことじゃないかしら?」
3
「星様」
午後の散策に付き合いながら、鼠の妖怪ナズーリンは主に語りかけた。
「幻想郷に、果たして仏法は必要なんでしょうか?」
「必要だからあるとは限らないよ、ナズーリン」
寅丸星は命蓮寺の周りを歩く。
本来は本尊としてかしこまっていなければならない星だが、命蓮寺の主である白蓮はそういうありかたは気に入らないらしい。星の代わりにその宝塔を安置して代わりとしている。
「あるがままでよいのです」
聖白蓮は星に言う。
「毘沙門天の使いであるのも貴女、虎の経上がりなのも貴女、あるがままである自分をあるがままに享受するのも修行ですよ。
だから夜夜中に私がうっかり貴女の部屋の襖を開けてしまっても、慌てて取り繕う必要は無いのです」
と。
白蓮は真実気にしないだろう。
でも星は気にするのだった。
おそらくナズーリンも気にしており、そんなわけで搦め手からネチネチと星を攻めるのだった。昨晩の恥ずかしさが身体の芯に残っているからだった。
「ご主人様はそうおっしゃいますが、世の中に残るのは必要だから残るのでしょう? 要らないものは残らない。そして残らなかったものは無かったものと同じです。
どれだけ置き傘や忘れ傘があると思ってますか? そして忘れたものは、当然そんなものがあったことを覚えちゃいないのです。破れ傘は無いも同じなんです」
「あるのは、ある、ということだけで大事だよ。
あるがままでよい、と白蓮も言っておられるだろう?」
「その「ある」と意味や用法は異なるように思いますが」
「同じだよ」
「そうですかねえ」
散策用の気取らない服に着替えて、なお星は虎柄だった。ついでに一見美青年だった。
ナズーリンは膝小僧の出るグレイのオーバーオールを着てきた。こちらは美少年だった。
二人が素のままで散歩をすると、命蓮寺関係者に見られないのはそのボーイッシュが原因だ。
表向きツンツンした空気を保ちながら、それでも一緒に寺の側の屋台で甘酒を買って一緒に飲んだ。二人は仲良しなのだ。
「考えてご覧、ナズーリン」
星は飲み終えた甘酒の椀を返して言う。
「今飲んだ甘酒を、我々は三日後に覚えているだろうか? 多分覚えてはおるまい。
でもその甘酒は我らの滋養になっている。
そしてさっき私が飲んだ甘酒の椀は、ほら、店の親父にぬぐわれてまた次の客に使われる。おそらく私が使う前にもう何人も口をつけ、私の後にも何人も口をつけるだろう。
ただ椀だけを見ても、椀の経緯は判るまい。判らぬが客にも親父にもそんなことは関係無い。椀が無ければ親父も店を続けられぬし、客も椀が無ければ甘酒飲めぬのさ」
猫舌のナズーリンはふーふー甘酒を吹きながら星の話を聞いている。事の道理は明確である。仏の法はそれが真実だからあるのではなく、あるからそれをただなすだけなのだ。あるものを成すだけでそれは真になる。必要不要は論ずるものではない。
ナズーリンだってそんなことは判っている。
「では、在るとはなんでしょう」
「さて、それが昨夜の白蓮の覗きじゃないのかね」
ナズーリンの顔が、一足早い夕焼けをかもした。
「私とお前の、そのああいう行為を見て。あれは見られなければ無いものだし、でも見られることで羞恥心が湧くし。その……ううん、私も修行が足りないよ」
苦い顔をするのは、星も同じだった。
「でも見られたのは、昨日が初めてじゃ無いし、私はそろそろ慣れてきたかも……」
「な、慣れるもんじゃないでしょう!?」
ナズーリンが顔を紅潮させて言う。
「しかも、星様、いいわけが、まいどまいど、こう、いや、嘘をつくのが上手いのもなんですが、もうちょっと、その……」
はああ、と溜息をついてナズーリンが足元の土を蹴る。仏法に仕える者でありながら、獣の欲に身悶えする自分を恥じているのだ。鼠の性は旺盛だ。鼠の化身であるナズーリンもその頚木から逃れ得ない。一つの業である。
そしてその業に辱められる姿を見るのは、その主人である寅丸星は、少し、どころか大分好きだった。とはいえやはり、聖白蓮に情事を覗かれるのは、自分も遠慮したかった。
昨晩、星はナズーリンとの情事の最中、その様子を白蓮に覗かれたのだった。今のナズーリンとの微妙な空気も、それが原因だった。気まずいのは二人だけで、白蓮は全く気にしていない笑顔で二人を迎えた。
幻想郷の秋が深まりかけている。始まった紅葉は山を彩っている。日差しが斜めになって赤みを増している。二人並んで、しばしその光景に見惚れた。そっとナズーリンが星の手を握るから、星も手を握り返した。ナズーリンの手はすべすべしていた。
「やあ、上四方固め。
仲がいいね」
からりとした声で呼びかけられたので、思わずナズーリンの身体が跳ね上がり、星の左手を腕拉十字固めにした。倒れこむ星。地べたにから見上げると、澄みわたる青い空と、村紗水蜜がそこにいた。
「な、なんだ、キャプテンか。
私が手を握ったのは、ご主人と一緒に突発野試合の稽古をしていただけなんだ。昨日の上四方固めもそのせいだよ」
ぺらぺらと舌が動くナズーリンに、村紗は目を細めると、あんたらは羨ましいねえと嘆息した。
「普通、照れ隠しにそんなことやられたら、怒るよ。寅丸殿はおやさしい。
少なくとも私が聖相手にそんなことしたら、えらいことされます」
「えらいことってどんなことだい」
「聖も私も、お二人に負けないくらいの仲良しなので、それは想像にお任せします」
にっこりして、村紗は手を伸ばして二人を起こした。
「なに、私も暇でぶらぶらしてただけです。境内で店を開いている甘酒を飲もうと思ったらお二人に出会った。それを見て、ちょっとからかってみたかっただけですよ」
「聖から、どこまで聞いたの?」
星が強張った笑顔で尋ねると、村紗は「昨晩お二人が聖にした説明どおりですよ」と答えた。
「柔道の訓練だ、と説明したそうですね?
これは上四方固めです、とかなんとか。じっくりと観察したかったのだけれど、声をかけたら止めてしまったのが残念だとか。
「全裸上四方、大した寝技ですね」と仰ってましたよ?
ちょっとした見ものだったのでしょうね」
ナズーリンが奥歯を噛み締めて赤面する。知らん振りして村紗は言葉を続ける。
「一戦終える前に、邪魔をしてしまいましたと聖は悔いておりました。
あのままだと火がついたままで、今日一日悶々としているだろうなどと話しておりました」
「……白蓮は、本当に捕らわれないのだね」
「人間も妖怪も救わんとする人ですからね」
穏やかな村紗の微笑は、彼女の愛しい人である聖白蓮のそれに似ている。
人も妖怪も救おうとした白蓮が、封印された地下深くから再び地上に舞い戻って半年以上が経つ。仏の道による衆生の救済にも力を入れる命蓮寺であるが、必ずしも禁欲を絶対視するわけでもなく、それなりに楽しんでいる。それを堕落と見るか、日常の一つとして流すかは人によって判断が違うが、少なくとも天界から罰が来たわけでは無いので皆よしとしていた。
全く自由すぎて赤面するほどに。
「時にナズーリン」
「なんだい?」
「寅丸殿の、どこが好きなの?」
「き、君に言うことじゃない!」
この手のやり取りは初めてでは無い。けれどあまりにナズーリンがかわいい顔をするので、ついからかいたくなるのだ。
「そもそも愛欲に、お、溺れるなんてのは、許されざるべきことなのだよ! それを、そんなふうに、君は……!」
「ちなみに寅丸殿は?」
村紗がくるりと話を振ると、この毘沙門天の代理人はフッと笑って。
「ナズーリンの、優しいところかな。
あと、クールに見えて、実は激情家なところ」
「ご主人!」
「ありのままでよいのですよ、ナズーリン」
聖の口真似をして、村紗と星は笑う。真っ赤な顔でナズーリンは黙り込む。
三人で連れ立って命蓮寺の側を歩く。この辺りは妖怪の山や仙人の住む山、幻想郷の僧院とも近い適所である。林の跡地だったそうで、まだ何本か紅葉する木が残っている。雲居一輪が落ち葉を集めて焚き火を始めている。村紗が言った。
「そういえば、吸血鬼が来ているのですよ。あちらも午後の散歩だそうで、馬車にのってやってきたのよ。捕らわれないって言ったら、本当にアレも捕らわれないわね」
真昼間だって言うのに、日傘一本もっただけなんてね。
あるがままなんでしょうね。
セーラー服の村紗に手を握られて、ナズーリンと星は三人さくさく散策する。
「ああ、そうそう、あの子もまた来てますよ」
村紗が言う先には、紫の傘があった。寺の側で、くるくると回る。そこに乗り切らない玉がぼろぼろと落ちた。傘に玉を放っているのは、聖白蓮その人だった。傘を回しているのは多々良小傘、化け傘の妖怪だった。
「あの子も白蓮に怖い目に合わされたからね」
しみじみと星が言うと、村紗も神妙な顔をして肯く。
「白蓮は容赦ないのです」
「え? 白蓮相手に小傘が何をしたんですか?」
ナズーリンは目をしばたかせて星に尋ねる。星は答える。
「あの子はね、白蓮を驚かせに来たんだよ」
多々良小傘は、聖白蓮を驚かせに来たのである。
何百年も生き続けてきた魔法使いだという。
奇妙なデジャヴを覚えた。
暗がりに身を潜め、白蓮が通りがかるのを待つ。
小さな人影が通りがかった。なんだ随分小さい奴だな。
わあ、っと驚かせたら。
「ヒ―――――っ」
と白蓮は悲鳴をあげた。
は、は、は、は。
面白い。
「べろべろばあああっ! おばけだぞう!」
「きやあああああああっ」
ますます驚く。
は、は、は、は。
小傘の赤と青の目が光る。長い舌がでる。
「うまそうなにおいがするぞぉ、白蓮ぺろぺろしちゃうぞぉ」
「たすけてえぇぇぇぇぇぇぇっ!」
比丘尼が叫んで。
ポン。
彼女の目玉が飛んだ。
ぎやああああああああああああっ。
叫んだのは小傘だった。
「ああ、まっくら、まっくらでなにも見えないわ」
腰を抜かした小傘の側を、白蓮がうろうろと歩きまわる。
「まっくらな林に迷い込んだみたい。見えなければ恐れることも無い。見えなければ世界が無いも同じ。でも私の目、おう、おう、わたしのめ」
「ひいっ!」
ゆらゆら伸ばす聖の手を避ける。そして思わずその顔を覗きこんだ。
顔の中には深淵があった。
「おおおおおおおおおっ!!」
小傘はまた叫んでしまう。白蓮は思ったよりも背が高いのかもしれない。下から見上げてしまう。
「め、目を取って、わたしのめ、わたしの目が……」
ころころ、と丸いものが転がってきて、思わず小傘が拾う。
白蓮の目だった。
「!!!!!!!!!!」
妖怪で無ければ、失神していたかもしれない。
しかし妖怪だから失神なんて出来ない。
「もしもし、そこのお方」
顔にぽっかりとした深淵を湛えた女がうろうろと手を伸ばす。
「私に、目玉を渡してください。それが無いと現世のものが見えないのです」
「はい、はいはい、はい」
がたがた震えながら、白蓮の鳶色の瞳をした目玉を手渡す。手の平を服にこすり付けて、すごすごと逃げようとする。腰が立たない。目玉を受け取った白蓮が嬉しそうに背を向けて、目玉をはめ込んでいた。
その隙をみて小傘は後ろずさる。距離をとって離れようとする。一尺、ニ尺離れ、三尺に届くところで。
「目は多い方がいいですものねぇ」
と話しかけられて動きを止めた。ギクシャクと多々良小傘は返答す。
「は、はい」
「一つより二つ、その方が視野が広くなる。そう言えばこんな夜だったかしら」
「は?」
突然尋ねられて、小傘が首を傾げる。
「そう言えばこんな夜だったかしら」
女が繰り返すから、何がですか、と小傘が聞き返すと。
「あなたが。
その夕日色の瞳を手に入れたのが」と言った。
背筋が、ざわ、とする。
背を向けているこの女が怖い。
今気付いたけれど、随分この女は背が高い。
しかも逃げたと思ったのはおそらく妄想で、小傘は返って女に近づいていたのだった。
「いいわね。私も目がほしかった。
色々な目。過去を見る目、未来を見る目、今を見る目は勿論のこと。
いい目も見たかった。いい夢も見たかった。目がたくさんあったら視野が広がるのかしら。
ねえ、どう、思います?
どう。
思うのかしら」
くるりと振り返った女の顔の。
孔という孔に目があった。
多々良小傘の目と合った。
絶叫した。
平伏した。
恐怖した。
しばらくして、震える小傘の肩に手をおかれて、小傘がびくっと身じろぎした。おそるおそる顔を上げると、優しい顔があった。
「この世には八苦と呼ばれるものがあります。
生、老、病、死の四苦と、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の四苦。
併せて八苦です。
あなたは愛別離苦を知り。それゆえに八苦を見る目を授かりました。
その目を持って生きることこそ功徳になります。
背負った業をも受け入れて、共に生きるとしましょう」
聖の言ったことの意味は殆んど判らなかったけれど、小傘はなんだか心が落ち着いた。
小傘の心が少し軽くなった。
「それではその為の特訓をしましょう」
白蓮の言葉に、小傘は大きく肯いた。
「白蓮は、本当に、怖いな」
怪異にトラウマを与えることにかけては右に出るものは居ない。
ナズーリンの端的な感想に、星は同意する。
「あの方は心に踏み込むことで、価値観に変化をもたせようとする。
特に妖怪の類には容赦しませんね」
「それが救いへの道なんでしょう」
村紗はしみじみと言った。ナズーリンは、でも、と口を挟む。
「なぜ白蓮はあの小傘に、傘回しなんてさせているのでしょう」
「なんでも、傘の芸を見せて人を驚かせれば、その驚きを糧に腹いっぱいになれると聖が教えたようです。多々良小傘は人を食わない。人の驚きが彼女の腹を満たす。最近の幻想郷は驚き続きで中々驚きゃしない。だからいつもお腹を空かせているのだ、と」
「その特訓ですか」
ナズーリンは呆れた声を出す。
「それにしては随分下手ですね」
「参拝客は見ているよ」
星が指をさす。
ヘテクロミアの妖怪が傘を回しているのを、命蓮寺の参拝客はじっと見ている。かわいらしい小傘の失敗は、いじいじしていない分楽しく見れた。白蓮が相方になっているのも面白かった。
ほい、ほい、ほい。
白蓮の投げる玉を。
はい、はい、はい。
と小傘は受けて回そうとして、いたるところに飛び散ってしまう。
「むしろ下手すぎて驚きますよ、星様」
「なんでだろうね。どうも力が入りすぎてるみたいだよ」
首を傾げてみているギャラリーに。
「そりゃそうよ。
傘は一人で回してるわけじゃないんだもの」
と声が割り込んだ。
側で白い日傘がくるくる回って、ナズーリンは驚いた。
*
夕良を食った後、小傘は驚かせ続けてきた。
時勢に合わなくなっても、小傘は人を驚かせてきた。
楽しかった。
いつの間にか、あの日のことは遠く記憶の彼方になっていた。
記憶は薄れていくものだ。
いや、思い出したくなかったのかもしれなかった。
それでも時折思い出した。
なぜあんなことをさせたのか、判らなかった。
小傘を挑発して、噛み殺させたのか、理解できなかった。
それでも、もうどうでもよかった。
どうせ夕良のことを覚えている者など、誰もいないのだから。
でもそれがあの時夕良がいうところの、死ねば無くなる、なのだろうか。
それで一切が無か。元より無なのか、無に還るのか。
小傘は判らなかった。
判らないまま忘れてしまっていた。
誰も彼女のことなんて覚えているわけがない。
それくらい時間が経ってしまっている。
もし、あの人を覚えているものが居たら、あたしは。
あたしは……。
でも誰も覚えている人などおるまい。
もしかしたら初めから、そんな人居なかったのかもしれない。
夕良のことを思い出したのは、白蓮と会った時だ。
正確には、自分の二つ目が、罪の代物だったことを思い出したのだ。
そして白蓮は、小傘にその罪を贖うように指導するかと思ったら全然そんなことは無かったのだった。
「あるがままでいいのです」
彼女が示す教えは、あるがままでは無く、法に従い生きる道であるのに、彼女はそれを全て飲み込んだ上で、あるがままである大切さを教えるのだった。
「いちゃいちゃチュッチュも良し。
人を食った事件も良し。
自分が成すべきところを成すのが生きるということ、在るということ。
ただその為にやらねばならぬことがあるのも、確かなことなのです」
その結果が、大道芸だった。
傘回しなんて、と舐めて掛かった。
散々だった。傘回しの芸は、傘の化け物だからといって容易いわけではなかった。
とはいえ技芸習得の為、白蓮と練習するのは面白かった。
「小傘!」
「はい! 白蓮さま!!」
息もタイミングも合って、それでも上手くいかなかった。
「がんばってー!」
子供の声援がする。
「しっかりやんなー」
散歩がてらに命蓮寺に立ち寄った男が、手を振る。
「聖、小傘、お芋焼けたら呼びますよー。その時お茶入れて休憩しましょう」
一輪が芋の籠を持って声をかける。
懸命に傘を回す。
ああ、またダメだ。
上手くいかない、上手くない。
秋の空気と、温かい声援の中、傘を回していると。
「馬鹿! なにしてるのよ!」
と声がした。
はっとして声のする方を見ると、命蓮寺の連中に混じって、白い日傘を持った少女が混じっていた。
いや、少女ではない。悪魔だ。
そこに居たのは、レミリア・スカーレットだった。
調理される前の朱鷺肉色の服を着ていた。
とても自慢げな顔をしていた。
幻想郷の実力者である吸血鬼だ。関われば運命すら弄られるという噂の人物だ。
黒い翼と相まって、まるで夕闇のようだった。
白い日傘をくるくる巻いて、情けない顔をしている小傘をさしてもう一声。
「傘はね、傘だけで回るんじゃないの! 人が一緒に回すのよー!
何をバラバラに回ってるのよ」
だって、そもそも。
「傘は一人じゃさせないでしょうに!
誰があんたの傘、持ってるの!」
ハッとした。
小傘の動きが止まった。
動きが止まっても、傘の上に放られた玉はクルクル回った。
白蓮は手を止めない。どんどん玉を放る。
傘の上の天文図が回る。
小傘は支えているだけなのに、くるくる回って、周囲からどよめきが起こる。拍手も起きる。小傘だけが止まっている。
レミリアが笑う。
「ね? 傘はあんただけがもってるわけじゃないのよ。
あんたも、持っているの」
すたすたとレミリアは近づいて、ぱっと傘を開いた。黒い夜が咲いた。
「ほら、一緒に、踊るよ。
その前に芸を見せてよ。この前やったみたいな奴」
「なんの話?」
「何の話も何も、どうして私がここまで来たか判る?
そりゃ、私が何もかも覚えてるからよ」
とん、と多々良小傘の足がステップを踏んだ。
踊るみたいに回って、傘も回っていた。
白蓮はそ知らぬ顔でどんどん玉を放る。
レミリアは手を叩く。
皆もつられて手を叩く。
囃子の中、傘が回る。
傘を幾多の玉が回る。
秋の日は釣瓶落とし。
空は赤く染まる。
右目の赤になる。
左の目は空の青。
明るい澄んだ空の色。
片目から涙が零れて、落ちて、それで。
「ご主人様、見てください」
ナズーリンが寅丸星に身を寄せて言う。
「破れ傘から、あ、あめが、したたってます」
「あれは雨の残りだろうよ。回せば、雫は全て飛ぶ。涙は乾く」
星は微笑する。それからそっと傍らの賢将、忠実な部下の手を握り。
ああ、優しいナズーリン。
「お前、泣いているんだね」
*
多々良小傘の手、傘を握る。
傘の柄、誰か握る。
小傘、笑う。
もう雨は怖くない。
秋晴れに破れ傘などさしてみる。
青空覗く
黄昏を見る。
(了
ぬかるみに足を浸して歩くような生々しい道中があって、けれどたどりつく先にかならず救いがあり、落着する希望がある。
白石さんの書かれるものには、一貫してそういう光が差しているように感じます。
登場人物がみな「かわいい」ですね。
読み終わった後、鳥肌が立ちました(勿論良い意味で
哀しくも暖かい話です……ほんとに、暖かくと優しい……
素敵なお話、ありがとうございました
どんどんに引き込まれて、恐ろしくも「あるがまま」を楽しめる作品でございました。
嘘偽りのない生き方の意気のよさ。
>レミリア自分も
レミリア自身も
言葉に出来ない何かが心から溢れだして破裂しそうです、
ああああああもぉ!
すごいっ…すごく好きです!!!
涙が無意識にこぼれていて
悶え死んでしまうわ。
白石薬子様、素晴らしい作品でした。
もう、なんかこう……好きです!!!
「泣きながら食うのは、化け物だけよ」
っ!切ない!
小傘の由緒正しい業深さが愛おしい
解脱しないから人妖だもの
でも
聖ってば超ドSw