1
文字が踊り出したところで、ようやく覚悟を決めて本を閉じた。
「小悪魔」
「はい」
「視力を矯正したいの。私にふさわしいものでね」
「……はあ」
その態度と短い返事が、私の眉を叩き起こした。
「言ってること、わかる?」
「はい。はい。ええ、パチュリー様専用に躾けられた眼鏡をご用意いたします」
私は持っていた本で小悪魔を殴りつけた。
小悪魔は唇をうすく引き結び、耐えるように口の中の悲鳴を噛んだ。すぐに目は水気に富み、粘性の視線をこちらに向ける。
当然だろう。この私の本を痛ませてしまったのだから。
見ろ。恥ずかしさと後ろめたさの重荷が、彼女の頭をそっと沈ませているじゃないか。教える前に、自覚したのだ。こうなると許してやろうという気にもなる。魔女は下僕には寛容でなくてはならない。
だが、先ほどの提案は許しがたい。
きわめて繊細なる私の精神が、どうして眼鏡相手に癇癪を起こすと考えられないのだろう。まさか、このか細く痩せた神経の一つ一つが奴らの無礼を見過ごすとでも思っているのだろうか。
ずれる。重い。すぐいなくなる。どう扱おうと煩わしい。眼鏡とはそういうものだ。
それがなぜ、わからない。眼鏡などかけてみろ。違和感が肌を走り、紙の端をつまむべき指が役目を果たせずにいるではないか。
小悪魔にはそういった考えができないのだ。この問題が解決できたら、彼女の教育プログラムを練り直す必要があるだろう。
なんと面倒なことか。考えるだけで頭のねじがきりきり回る。前髪の根元から汗が湧き出る。ねじが頭蓋を絞ったせいで、悩みの苗床から水分が滲み出たのだ。
小悪魔が水やりを忘れた日はなく、今日もそこは潤いに満ちている。
「ええ、はい、申し訳ありません……ええ、身体強化の術式を施しましょう」
「あなた」
そこで言葉は切れた。もう役目は終えたと言わんばかりに舌は歯の内側でうずくまっている。
要するに、怠け癖なのだ。
どうも昔から、話すことが億劫で仕方ない。相手が私の口からこぼれるわずかな言葉から、すべてをくみ取ることを好んでいる。
傲慢だろうか? だが、これは仕方のないことだ。
私の対面には本が居座っていて、視界はインクと薄汚れた余白で埋められている。
誰かのために割く時間がどこにあるというのだろう。
「はい」
案の定、小悪魔は続きを促そうと微笑みながら返事をした。
少しは相手にしてやろうと思える態度。以前とは大違いだ。
ところで、小悪魔のただ一点褒められるべき事実は、彼女が過去の失敗を手放さないことだった。
彼女の記憶力はもはや偉大さをも培っている。まるくちいさくかわいらしい、その頭が有する膨大な敷地を私は称賛するべきなのかもしれない。
この世に存在する、あらゆる失敗のやり方を熟知しているその頭をだ! ああ、くそ!
「あなたがするの? できるわけ、ないでしょう」
「私でも視力を強化する程度なら」
「まさか」
おそろしい見解だった。
すぐに罵声の一つでも浴びせようと口を開いたが、出てきたのは馴染みのある痛みだけだった。
喘息の機嫌をなだめるために二度ほど余分に咳きこんでから、小悪魔にゆっくりと言った。
「ずっと、見えなくなる先までよ。なにもかも足りないじゃない」
「あの……本をお読みになる間だけではないのですか」
「だから、ずっとよ」
小悪魔は黙りこんだ。私の指は、光沢の鈍くなったテーブルのふちを何度か叩いていた。
ああ、もう。だから嫌なのだ。
だがこれは、今まで自身の悪化を散々訴えてきた目に取り合わなかった結果でしかない。
目が、遠くを見ない環境に適応したなどという戯言がこの問題に通じるはずもなかった。こんな屁理屈でうなずくのはどこかの常識知らずか、命知らずだ。
やってきたことが相応の形となって現れた。ただ、それだけのこと。構図は実にシンプルだ。
ならばやることは一つ。
眼鏡よりも自然的に受け入れられ、強化魔術よりも半永久的に動作する私好みの手段を探すことだ。
そうして、狭くはないテーブルに増殖した本の山がいよいよ自壊するかというところで、ようやく理想を頭に蓄えることができた。この厄介な問題に対抗できる手段を得た。
今こそ、この許しがたい敵を打倒し、インクどもに文字の体裁を取らせるときなのだ!
しかし、その前に一応は、もしかすると、万が一にも、奇跡的に、あるいはなにかの間違いで、愛すべき助手が私以上にすばらしい手段をひらめくかもしれない。そう考えて、わざわざ面倒な前置きをした。
その結果がこれだ。
視線を下げる。カップになみなみと注がれていたはずの紅茶はすでに白い肌をさらしていた。
その瞬間、胸のうちが酒をあおったときのように熱くなった。
かっと体内は赤く染まり、活力が徐々に湧きだした。心臓が苛立ちに燃えているのだ。
血が全身を焼きつくすように凄まじい勢いで巡りだした。
当然、それらは頭のてっぺんにも足を伸ばす。頭のねじは熱によってゆるみ始め、回転は音を上げ、次第に思考が鋭くなるのを実感する。
頭にある無数の穴は一斉に口を開き、余分な熱を逃がそうとする。
髪の隙間から額へと泳いで向かう汗の粒を私はそっと拭った。
「この世にはおそろしいやり方に忠実な輩がいるものよ」
「想像では我慢できずにですか」
小悪魔の返答に私は少しばかり安心した。
「さ、ガラス板を用意なさい。うんとちいさくて薄いものをね」
「と、申しますと」
「目にかぶせるの」
「それは、つまり……拷問?」
「最初はそのつもりだったんでしょうね」
よくは知らない。
だが、そのことを言うつもりはなかった。
「外界ではガラスレンズの性質を利用することで視力の補正を行っているの」
「人間ってときどきおかしくなるんですね」
「彼らの奇行は今に始まったことではないわ。昔とまるで変わらない」
私はインク壺の蓋を閉め、ペン先を拭った。
そして、書き終えたメモを小悪魔に渡した。
「材料よ」
「はい。はい。いえ、あの……少し、少しばかり、そう、量が多いのですが」
「レンズにも欠陥はあるわ」
「それで手をくわえたいと。ええ、と、カラドリウスの目玉……ガルグイユ肉一片……一角獣の角粉末状ひと匙…………」
リストを読み上げる小悪魔の言葉は次第に重くなっていく。その変化は本棚の隅に転がる虫どもを思わせた。
無数の足を夜の暗がりのように動かすあの虫どもは、煙を浴びせるとみじめに悶えながら絶命したものだ。小悪魔の胸のうちにも今どれほどの恐慌ができあがっているものか。
ああ、見てみたい! 小悪魔! 私の翼、私の魂! その裸体にはいったいどれほどの火薬が詰まっているのだろう!
私が妄想にひたっている間にも小悪魔はなにか言おうと唇をふるわせた。だが、結局口をもごもごと動かす程度にとどまっていた。
弱音や泣き言が口蓋へと殺到しているせいで、出したい言葉が喉につかえてしまっているのだろう。
次に彼女は、そこに必要なものがあるように私をじっと見つめてきた。
なんということだ。ずいぶんと情けない顔で、おまけに悪魔らしからぬ行動じゃないか。
やれやれだ。彼女はまるでわかっていない。目の前にいるのが誰なのかを。
「追加しましょうか? 猫の足音。山の根元。魚の吐息。あと、ミルクチョコレート。早くしなさい」
小悪魔は頭を三度横に振り、赤黒い髪を躍らせた。そして、牝牛のような目をして、ちいさな鼻をすんすんと鳴らし始めた。
泣くな泣くな、可愛らしいくせに。
こういった微笑ましい交流が私の活力の源であり、私はそれをあらゆる場面であれ積極的に行おうと心がけている。頭を悩ませる異変を抱えている今このときも、例外ではない。
しかし、もう潮時だろう。小悪魔のくしゃくしゃになった表情こそ私の好みであり、泣き顔はその範疇からわずかに外れるのだ。
彼女の強靭な肺から吐き出される弾幕は高密度の発狂仕様。私の残機など瞬く間に消し飛ばしてしまうだろう。
「冗談よ。でも、甘いものは必要」
優しく、微笑むように言ってやった。
だが、実際に笑みを浮かべる必要はない。小悪魔には言葉だけで十分なのだ。
小悪魔は私の言葉の調子から、体調やら機嫌やらその日に出す菓子やらを判断する。
これは実に優れた手段であった。彼女は目に関してはあたりを掴んでいたようで、私の手持ちの表情が極端に少ないという事実をあっさりと暴いてしまった。
そのことに気付いたとき、私は彼女の足りない頭がもたらす不愉快な出来事にも多少は我慢してやろうと決心したものだ。
そしてすぐに、我慢は身体にとてもよくないことだと思い知らされた。
「はい。では、行ってまいります。今日の甘味をお持ちした後に」
小悪魔は赤い顔をして、にっこりと笑みを浮かべながら奥へと消えていった。少し見ただけでもよくわかる、尻尾が小躍りせんばかりの浮かれたその姿は、最初に提示された難問のことすら忘れているのではないかと思わせるほどだった。
大丈夫なのだろうか。ひょっとしたら私は、とんでもないことを仕出かそうとしているのではないだろうか。
行動を起こす者よりも、結果を待つ者の方が辛いこともある。体は不安に蝕まれ、頭は期待の熱と暗然たる失望の板挟みに苦しむのだ。
そういったとき、私には本のなぐさめが必要だ。だから私は、小悪魔を使いにでも出したときほど本と親密になれる時間を知らなかった。
彼女はそういった面でもよく役立っている。なんだ、小悪魔はもう私の一部じゃないか。
ほどなくして小悪魔が皿を両手で支えながら戻ってくる。皿にはいっぱいのバタークッキーがのせられていた。甘みを十分に足すための苺のジャムまで用意してあった。
彼女はつねに努力を忘れない懸命さを持ち合わせている。私はそこにも満足している。
その熱心な奉仕の方向性がまったくずれているものだということ以外は。まさかジャムのべたつきの不快さを彼女が知らぬはずもない。
私は小悪魔が皿を置いたのを確認してから、彼女の額にまたも本の角を吸い込ませた。同時に、ひどい頭痛が私を襲った。
それから私はふと気付き、プーッと息をもらした。なるほど、なるほど、確かに。
確かに、小悪魔は私の一部なのだろう。
2
「ねえ、私もまぜなさいよ」
「あら、今日はレミィが食べられるの? すてきね」
私の言葉にレミィはぽっかりと口を開いてみせた。
「はあ? なによそれ」
どうやら彼女は今日のメニューがハンバーグステーキだということを知らないようだ。
私にしても、調理の場を見たわけでも食事の予定を聞いたわけでもないのだが、今日がハンバーグステーキの日だということはわかっていた。
先ほど紅茶の世話をしにやってきた咲夜の小指がそう言っていたのだ。
彼女の蝋のように白い爪と艶めかしいピンク色の指、その間が真っ赤なペースト状になっているのを、私は目の端で捉えていた。
あれはよく練られた肉だ。
玉ねぎとナツメグと塩、それに新鮮なおろしたての食肉をよく練り合わせたものが、こねくり回す咲夜の指を気に入ってしまったのだろう。
大抵、まぜものというのは性質が粘性なのだ。蔦が樹にからむようなやり方で、あるいは苔が石にかぶさるように、ねばつく情を寄こすものだ。
私はそれをよく知っている。しなびたインクからではなく、私自身の経験から身につけた。
知性の味わいは書物でこそ得られるべきだが、普段とは違った食べ方をするのも悪くない。経験もまた私に十分な喜びを振舞ってくれるのだ。
もちろん、その経験が親愛なる助手との付き合いであることは言うまでもないだろう。
だが、なぜ混ぜ肉は咲夜の虜となってしまったのか。
私の知恵はそのこたえの所在こそ、咲夜の容姿にあるのだと言ってみせた。そうだ。咲夜はとても可愛らしいじゃないか。
ちょうど本棚の一つを私が支配するごとに、咲夜は美しく成長してみせた。こどもから少女へ。少女から女性へ。しかし、なにより私が好ましく思うのは彼女がその成長の限界点からぴたりと立ち止まったことだった。
時間の感覚が曖昧であるため正確性には欠けるが、咲夜はそろそろしわが掘られ、しみが浮き出て、頬に満ちたやわらかな水気さえ逃げ出している頃のはずだ。
それがどうだ。
彼女は老いることのない、劣化しない人形そのものだ。だが、発育を停止させた玩具ではない。生きているのだ!
これは大げさに言っているわけでも、私の頭上に浮かぶ出来事を語っているのでもない。
確かに愛は独特の幻想を生み出すが、あのついばみたくなる肌を、弾力のある唇を、潤いを忘れぬ瞳をどうしてここにあるものだと認めてはいけないのだろう。
咲夜の時間はいつまでも美しいままだというのに!
つまり、こういうことだ。彼女はとても満たされている。その裸体は乳と血で、はちきれんばかりなのだ。
まことに結構。レミィのものでなかったら、私がつばをつけていたかもしれない。
そのような、魔女でさえ籠絡する魅力が、ただのたんぱく質に通用しないはずもない。ハンバーグステーキもまた、咲夜の容姿に惹かれてしまったのだ。
そう考えたとき、私はいつの間にか同好の士が咲夜にどのようにされていたのかを目蓋の裏に思い描いていた。
力強く、乱暴に潰されたのか。ゆっくりと、撫でるように握られたのか。
細い五本の指がゆっくりと縮み、その隙間から生み出される真っ赤な肉。温かな肉。人肌の肉。人肉ペースト。
そして、やってきた「まぜなさい」の愛しい声を私がどう解釈するか。
「わかるものでしょう?」
「パチェ、あなた疲れているのよ」
余白の隅にいる親友は、わかりやすい笑みを浮かべながらこたえた。
ユーモアと冷やかしを装った、冗談っぽい言い方だ。
「もう。あなたが好きってことよ」
「私、食料的な愛は重くて受け取れないの。小食だからね」
とうとうレミィは声をたてて笑い出した。
やれやれだ。こちらは大まじめだというのに。いつだってつれないんだ、彼女は。
私は大げさに肩をすくめた。こんなことで彼女の気をひくことなどできないとはわかっているが、そうせずにはいられなかった。
だって、安心できるじゃないか。
「それで」
「うん」
「どうしてほしいの?」
レミィのお願いは天候のようなものだ。
穏やかな午後の空が突如、雨を降らすこともある。その雨が槍となり私を穴だらけにすることもあるし、壁となって押しつぶすこともある。
レミィの甘い言葉は加減知らずで、気まぐれで、災厄にも等しい。頭痛の猛威を知らしめるおそるべきものが今、彼女の口からこぼれようとしていた。
だが、どれだけ不安や懸念に悩まされようとも、友情はそれらをひょいとつまんで飲みこんでしまうものだ。
だから、私は大事な親友の願いはただの一度しか断ったことがない。
私にできることといえば、彼女の思いつきが呆れさせながらため息をもらす程度の、可愛らしいものであるのを願うことだけ。
しかし、勘違いしないでほしい。これは諦めではなく、許容なのだ。
レミィは目を輝かせ、頬にたっぷりの愛嬌を詰め込んで私の質問にこたえた。
「小悪魔が忙しそうにしていたじゃない。またなにか、やるんでしょう?」
そのこたえを受けて、胸中でふくらみ続けていた黒いもやが次第にうすまっていくのを感じた。それまで身内の秩序を乱していた私の神経はすっかり落ち着きを取り戻した。
しかし、次の瞬間、考えを改めたかのようにふたたび神経はぐずり始めた。こいつは夢と現実を行き来する赤子のように過敏なのだ。
歯の隙間からため息が漏れ出た。
生ぬるい微風は薄暗い視界の中に消えていく。それは、精神の均整を担う心地のよい……安堵、平穏、そういった活力が体外へと噴出していくようにも思えた。
私は本を閉じて、彼女の方に顔を向けた。
これ以上、無理をして読む気にはなれなかった。ずっと細めていた目がじくじくと熱を持ち始めている。
眉間を指でつまんでみるが、ちっとも楽にはならなかった。
「もう満員よ」
レミィの唇の右端がわずかにあがった、ように見えた。
これはよくない兆候だ。
「じゃあ、誰かが抜ければいいじゃない。そいつも喜んでやってくれるわ。私のためだもの」
「この実験はどうしても失敗できないものなの。だから、だめよ」
「私がいるとそうなるって言ってるみたいに聞こえるけど」
「あら、かしこいじゃない」
引くことのない痛みの波が言葉を鋭く削りあげた。
場の空気がだんだんと重みを持ち始めている。それに冷たさも。
室内の暗さがより一層深くなり、眼球を責め立てていた刺激は息をひそめるようになった。
そして、私たちは黙って互いを見つめあっている。
見つめあって? 馬鹿な。本を閉じた今、私が見るべきものがどこにあるというのだろう。
それは彼女のはずだ。しかし、目の前に立っている彼女に視点を定めても、どうしてもここにいるという実感が湧かずにいる。
もちろん、レミィはここにいる。私の前にいる。不機嫌そうに立っている。
だが、ほんとうに彼女はレミィなのだろうか。
彼女の姿が、脳に到達する前にどこかで溶けていくような、神経に焼き付く前に眼球の上を滑ってそのまま落ちてしまうような、いや、とにかく自信が持てなかった。
こんなことを考えるのも目が頼りないからに違いない。今のこいつは油断すればすぐさま怠けてしまい、ときには輪郭までぼやけさせてしまうのだ。
髪の柔らかさも、瞳の色合いも、鼻の大きさも、はっきりと見えなくても問題にはならない。
だが、輪郭だけは違う! こればかりは違うのだ!
器が歪めば中身もそれに倣うように、形があいまいなままの生命などあってはならない。そんなものは見るに堪えない。形式からかけ離れているし、あまりに美しくない。
私は、泥の中で泡立つ出来そこないのホムンクルスを前にしたときのことを思い出した。
その過去の実験は中途半端な成功に終わったのだ。しかし、中途半端な成功とは完全な失敗よりも性質が悪い。始末に困るからだ。
嘔気をうながすあの土くれが頭の中に鮮明に描かれる。ありもしない汚泥の臭いが目に染みるようで、身体の芯は冷たい湿っぽさに覆われた。あのときに味わった気分が再現されるようだった。
それはひどく気持ちの悪いものだ。
「わかった、わかったわよ。参ったわ。こうさーん、ね?」
声が突然、耳に入ってきた。聞かせる相手の心を親切で寛容なものにしてしまう類の声だ。
視点を意識すると、暗がりからレミィの姿が浮かび上がった。可愛らしい、甘えるような仕草でこちらを見ている。
どうやら彼女は、私が沈黙を武器に徹底抗戦を始めたものだと勘違いしているようだった。
私はすぐに頷いた。
「そうしてくれると助かるわ」
「うん。だからね、どんなことをするのかくらいは聞かせてよ」
皮膚が粟立った。彼女の要求はただ発せられるだけで私の警戒心を掻き立てる。
血が一気に薄まるのを感じながらも、私はその内容をなんとか吟味しようとした。すると、徐々に落ち着きと共にこれは例外なのではないかという考えが湧きだした。
どのような実験かを教えるだけ、それだけでこの窮地を脱することができるのだ。
そう考えると、私にはこの提案が急に魅力的に思えてきた。
自分のデザートを他人に譲ろうと思った瞬間、そいつの甘みがぐんと増したと錯覚するように……いや、違う。これはそんなみじめななぐさめではない。そのはずだ。
「ね、いいでしょ? 甘いの、用意するからさ。咲夜、咲夜ぁ?」
「はい」
「ああ、咲夜。あのね」
「お待たせいたしました。チョコレートです」
「まだなにも言ってないわよ」
「ええ、口では。目ですね。目が仰ってましたわ」
気づくと、四角いチョコレートが規則正しく並ぶ皿をレミィと一緒に囲んでいた。
椅子に身を預ける彼女の傍らには咲夜が静かに立っている。
ここにきて事態は腰の居心地に満足して、身体をゆするのをやめたのだ。
それが咲夜の仕事の早さか、それとも私の決心の遅さによるものかはわからなかった。だが、ここまでされてそれでも話さなければ、いよいよレミィは舌の代わりに爪でも突き出すかもしれない。
私は肺の中にある澱みをゆっくりと吐き出した。
ため息は日々重みを増すばかりだ。それが身体にまとわりついているから、のろのろと這うように動くしかない。だからいつも、袋小路に追いやられる。私に選択の余地はなかった。
まったくどうにも侭ならない。生きることはどうしてこんなにも私に優しくないのだろう。そうだ、優しくない。これっぽっちも優しくない。ひょっとすると不遇に差し伸べられる手の暖かみを知らないのかもしれない。嘆かわしいことだ。
それで、とレミィは間延びした声で言い始める。彼女の機嫌はすっかり心地よさを取り戻していた。
私は口内に横たわる不満を舌で一つ一つ押しつぶした。
「こそこそ隠れてなにをしようとしているのかしら」
「べつに。隠していたわけではないわ。言わなかっただけ」
「知らないの? そういうのを秘密って言うのよ」
レミィは強い口調で言った。
彼女の唇は弓と同じ役割を果たしている。唇の端がつり上がる程、放たれる言葉の威力は増していくのだ。
このおそるべき凶器に真っ向から対立してはならない。そんなことは馬鹿のやることだ。
そして、私は馬鹿ではない。魔女だ。賢者だ。知識と血の混合物なのだ。
だから、かわし方だってわかっている。強い力は受け止めずに流すべきだと。
「言わないわ。秘密とは食事のメニューを一品減らすべきかどうか悩む人が持つものよ。ところで咲夜。あなた、前より服の下がずいぶんと豊かになったんじゃない?」
「あら、そんなことはありませんわ。お嬢様、パチュリー様はどうやら目を悪くされたようです。きっと実験というのもそれに関するものなのでしょう」
もちろん、わかっている。避けたはずの脅威が思いもよらぬところから襲いかかることもあると。そして、それは馬鹿の身に起こることだとも知っている。
ではこれは、私の知性が成し遂げたこの事態は、いったいなんだと言うのだろう。
私は馬鹿ではないはずだ。ならば、こたえはおのずと見えてくる。
そう、これこそ彼女たちの愛なのだ。言葉ではその情熱を表現できない感動の淵に私は今立たされている。
なんら不思議なことではない。彼女たちと接するときにやってくる息苦しさや、おずおずとしたぎこちなさはまさにその証明だ。そんな、ささやかな幸福を予感させる彼女たちが、私を悲しませる真似などするだろうか。
ためしに私は咲夜の目を覗きこんだ。
すると、瞳には私がいる。私だけが映っている。私だけがそこにいる。そうして、咲夜はにっこりと微笑んでさえみせた。
私はほんとうに深い感情が呼び起こされるのを実感し、それに満足して視線を戻した。
そこに、レミィの顔と声が同時に飛び込んできた。
「なぁに、パチェ、目がダメになったの? だったら取り換えればいいじゃない。スペア、あるんでしょう?」
「その案は悪くないけどそうしたら誰が私の雑事を手がけてくれるのかしら。咲夜をくれるの?」
「やっぱりあなたには小悪魔が必要よね」
レミィは自分の言葉に一人納得し、この話題の始末にかかろうとしている。
私の舌先が彼女の背後に狙いを定めたのを感じ取ったのだろう。誰だってお気に入りの品に対する気配には敏感なものだ。
ここで相手がレミィでなければもう少し舌でもてあそぶところだ。だが、気のいい親友役には耐えることも必要なのだ。
なに、苦にはなるまい。我慢はその後に待つ快楽にスパイスを添えるようなものだ。
だから、私は素直に実験の具体的な説明をしてやった。
「目にレンズ? 面倒そうなことをするのね。いつから人間になったのよ」
私の説明を三杯分の紅茶と共に流しこんだレミィは、眠たそうな口調でそう言った。
彼女の好奇の目は潤いをなくしたようで、すでに目蓋を落とそうとしている。
それについて不満はない。むしろ、好ましく思う。彼女のそういった振舞いは私をひどく興奮させるのだ。
しかし、どうしても言わなければならないことがあった。
「人間の真似事とは思われたくないのだけれど」
「でも、そうなんでしょ」
「アレンジよ」
「ほら、魔理沙みたい」
会話が止む。
私は口を開いてはみせたのだが、そこから一言も洩れることはなかった。
私の負けだった。レミィは頬をゆるませている。
だが、その笑みは私を打ち負かした優越によるものではない。チョコレートの濃厚な風味がもたらした幸福を訴えているに過ぎないのだ。
ふと、私の舌の上にも溶けたチョコレートが転がっていることに気づく。甘味の持つ安らぎが体を包んだ。だが、いつの間に?
自分の指を顔に近づけるが、チョコレートの香りはしなかった。だから、すぐにわかってしまった。
ああ、咲夜!
目をこらして見た彼女は、変わらず微笑んでいた。だが、そのなめらかなカーブの唇が意味するものはまるで違っているのだ。
まったく、どうして彼女はそこまで私を惹きつけるのだろう。
その魅力はもはや暴力的ですらある。胸のうちを焼き焦がし、心臓を無遠慮に殴りつけるのだ。
私は咲夜から視線をはずした。そして、身体の奥底が激しく波打つ感覚を味わいながら、レミィが皿を真っ白にするのを黙って見つめた。
やがて、舌を満足させたレミィは指を舐めながら席を立った。
「それじゃ、邪魔したわね」
思ってもいないことを平気で言うのが悪魔のたしなみなのだろうか。
「霊夢のところにでも行こうかしら」
「あなたも飽きないわね。でも、助かるわ」
「どうして?」
「実験のできる時間が増えるもの」
思っていることをそのまま言うのは魔女のたしなみだ。
私のお返しにレミィは肩を落とすこともせず、振り返って言った。
「あら、嫌われちゃったわ。咲夜、なぐさめてよ」
「夕食はハンバーグステーキにいたしましょう」
「そんなことで私が満足すると思って?」
「そうですね。では、メニューは予定通り香りの強い野菜を使ったものに」
「ねえ、知ってる? 私の自慢はあなたのような、一度言ったことをひっくり返さないすばらしい従者を持っていることなのよ」
結果のわかりきったやり取りを茶番と呼ぶのだが、彼女たちはそれを忠誠と称していた。
ご苦労なことだ。だが、それすらも彼女たちの美点なのだ。
ところで私には今、ちょっとした疑問ができた。
咲夜がいかに優れたメイドであろうと、主の不機嫌を予測して余分なメニューの下ごしらえを済ませることなどできるはずがない。
では、彼女の小指を愛した私のよき友はいったいなにものだというのだろう。
「咲夜。今日のメニューはその野菜となんだったのかしら」
「スープを」
「味付けは誰の血かしらね」
「ミルク色のものですわ。こちらはメイドたちで処理いたします」
「私は赤色のなにかが出てくると思っていたのよ」
「それでしたら、デザートですね。いちごのジャムを作ったので」
「ジャム?」
「ええ。召し上がりますか」
「いらないわ」
咲夜の言葉は、私のよき友を一瞬にして打ちのめすべき敵にさせた。
突如、ジャムが持つ馴れ馴れしさを思い出し、ひどい不快感が私を染め上げた。誰に向けるべきかわからない怒りが行き場を失い、胸のうちではじけた。
その瞬間、何度見ても飽きのこない彼女たちの姿が、色を失ったかのように味気のないものになった。まばたきの最中に別世界へ運び去られたのだ。そう錯覚するほどにこの場は変わり果てていた。
胃がうなり、酸っぱく苦いものが喉の奥をさまよっている。
ひどく気分が悪い。彼女たちの姿が視界の端に引き寄せられるように歪みさえした。
私は手近にあった本をなんとか開き、それで顔を覆い隠した。古いインクと紙の香りが今、私に残された唯一のなぐさめであった。
そのうち、二人分の足音が、続いて扉の重い音が聞こえ、辺りは元通りの静けさを取り戻した。私の脳中があたたかな液体で満たされる。ふるえはどうにか治まってくれた。
だが、恐怖が去ると、喪失感と孤独感が入れ替わりやってきて私を責め立てた。
……違う、私じゃない! 私は、彼女たちの……私が彼女たちを裏切るはずがないじゃないか。
私は愛の苦役にどれほどの価値があるかを知っている。だからこそ、こんな軽はずみな行いは絶対にしない。当然だ。愛を確立させるために罪のない嘘を口にする程度は許されてしかるべきだ。だが、このやり方はそれとはまったく違っている。
では、彼女たちの放つ魅力を汚したのは誰だ。私を陥れようとしているのは……もしかすれば……ああ、おそらくはそうなのだ。
目だ。そう、目のせいに違いない。
頼りない目が真実をねじ曲げたのだ。この目はもはや、信用ならない。
こんな目で彼女たちを見ることすら、私には恥ずかしいことのように思えた。今となっては愛しい彼女たちの手の感触や、唇の温かさ、優しい声だけが私の真実だ。
目が元通りになれば、色鮮やかな視界になれば、彼女たちを見ることも許されるだろう。
声や感触だけの存在ではない、本物の彼女たちを楽しむことができるのだろう。
実験を急ぐ必要がある。できることなら慎重に進めたかったが、もはやそんな猶予はない。この際、安全性に多少目をつむってでも薄膜のレンズを早くはめ込むべきだ。幸い、今のこの目は役立たずなのだから目をつむろうとする手間は省けている。
こんな目が開いていようが閉じていようが、どちらでも同じことなのだから。
なにもかもがぼんやりとしか見えない。この事実は今や、私の足元にいつ底なしの穴ができてもおかしくないように思わせた。
魅力的な彼女たちがはっきりと、ほんとうによく見えるようになるにはこの目では駄目なのだ。視力が元通りになれば彼女たちと再会できる。いや、前以上にすてきな光景が待っているのかもしれない。
心を安らげる自然の色合い、輝かしい彼女たちのその姿、これらがもたらす穏やかな感動に涙を浮かべるのは、私に与えられる当然の権利なのだ。
見てみたいものだ。その愛おしい顔を。赤ワインをたっぷり味わった唇、グラスよりも輝く瞳、バニラアイスクリームのように白い肌!
ああ、はやく、はやく、はやく―――はやく!
幸福がこの目に宿ることを夢見て、私はすぐに作業に入った。
3
真っ先に手を顔にあてた。
起きたばかりの身体は、それが自分のものではないかのようにぎこちない動きしかしてくれない。
それでも目蓋が息苦しさにふるえていることは包帯越しでもわかった。あるいは怯えているのかもしれない。かわいそうに。だが、それも今日までだ。
なぜなら、私は、私は……ついに成し遂げたのだ!
どれほどの苦しみを味わったことだろうか。
レンズを定着させるためには時間が必要だ。つまり、気が遠くなるほどの忍耐が不可欠なのだ。
私を楽しませる彼女たちの感じのいい輪郭はもちろんのこと、文字すら見えない生活は四肢に空しさを詰め込ませた。そう、書物を味わうことすらできないのだ。
どうしたって、ぎゅうぎゅうに詰められた清潔な綿と、何重にも巻かれた真っ白な伸縮包帯の前では、本は無力な存在でしかない。なぐさめに手でなぞってみても、いつものしなびた香りが通り過ぎるだけで、私一人が置き去りにされてしまったというおそろしい感覚が残るだけだった。
肉体的な痛みこそほとんどなかった。しかし、それ以上になにもかも投げ出したくなるような疲労感が重くのしかかり、私はベッドの上でじっとうずくまるだけの生活を強いられたのだった。
「おはようございます、パチュリー様。お加減はいかがですか」
「悪くはないわ」
「良くはないのですか。これからはずしますのに」
「あるいは」
「はい」
「あなたがよく見えるようになればね」
「それならもうすぐですよ」
小悪魔の快活な口調と穏やかな笑いが、自信を与えてくれる。待ち受ける幸福への期待がむくむくと勢いよく膨らんだ。
小悪魔が私の後ろへと回った音。そっと包帯をはずしていく思いやりのこもった手。包帯の当たっていた部分がひやりとする感覚。ああ、今あるものすべてが愛おしくて仕方ない。
解放された目蓋が、ぴくぴくとふるえた後に自然と開いていく。
部屋は以前と変わらずほの暗いはずだったが、私は確かに強い光のようなものを感じた。その先にうっすらと見えるのは、見渡せないほどの書物の山だ。
私は一息に目蓋を開いた。
張りつめた糸を引き抜いたような感じがして、次に強い刺激がどっと襲いかかった。私はもう一度目蓋を落とし、呼吸を意識して、それからまた目を開けた。
室内を照らすわずかな光が霧になっていた。じっとしていると、霧は少しずつ薄れていき……そして……そして……。
「嘘じゃないわ。本物が見えるわ。ほんとうの」
安堵と喜びが混ざり合い、余計なことは思いつかなかった。
室内のあらゆるものの輪郭がはっきりしていて、鮮やかな色の調和を楽しむことができる。以前とは比べ物にならないほどに。
久しぶりに見える光景はひどく懐かしく、身体の奥底からあたたかいものが漏れ出るように感じた。鼻は燃えるほど熱くなり、息は落ち着きをすっかりなくしていた。
こんなにも心馳せるものだったのだろうか。ものを見る、ただそれだけのことがとても豊かに感じるのだ。
目に入るあらゆる形が崩れることなく飲みこまれていく。
どんな困難であろうとこの瞬間の昂ぶりを思い出せば打ち砕くことができるだろう。それほどに力強い輝きが私の中に生まれていた。
「良くなりましたか? 具合の方は」
愉快そうな小悪魔の声。
そう、彼女にはここまでの間にとても世話をかけた。この幸福を分けてもやらなければ、感謝の一つでもしなければならない。
そうでなくては跳ねまわる私の心はさらに狂喜に踊ることになる。
振り返りながら、私は言った。
「ええ、小悪魔。ほんとうに」
ありがとう。
その言葉が舌の上で急速に溶けていく。
微笑みを浮かべたいつもの彼女はどこにもいなかった。いや、微笑んではいる。いるのだが……。
私の後ろにいたのは、一匹の悪魔だった。
いや、小悪魔は悪魔なのだ。なんら不思議なことはないじゃないか。おかしなところなど、なにもない。
鋭く幅の広い角が頭に二本。血を吸ったかのように濁った色だ。こんなものが小悪魔にあっただろうか。でも、羽はある。だけど六枚もあるし、どれもぼろぼろだ。
しかし、声は、服装は、よく知っているものだった。顔だって、顔だって、私のよく知っている……。
「パチュリー様?」
小悪魔はこちらを覗きこむために首をわずかに傾けた。カサリとこすれるような音が聞こえた。
以前なら可愛らしいと思えるその仕草も、今は威嚇を思わせた。
間違いではない。獲物は恐怖にしびれているのだから。
彼女から聞こえる音の正体、それはあの虫どもだった。本棚の隅でみじめに転がっているはずの虫どもが。
一匹や二匹ではない。大きさこそ様々だが、どれも同種のものだということはよくわかる。あの背中を鈍く光らせる黒い虫どもが、彼女の顔に開いた無数の穴からうごめき出ては這いまわっている。
「寝るわ」
うめき声や悲鳴よりも先に出たのは私に一番必要な言葉だった。
なによりも時間が必要だ。考える時間。これらの事態を見定める時間。
すぐに目の前の悪魔から視線をそらした。もしもこいつが小悪魔なのだとすれば、すぐに部屋から出ていくだろう。
だが、悪魔はその場から動こうとはしなかった。じっと立ちつくし、考え込んだような目でこちらを見ていた。
その目は顔中に住み着いている虫どもよりもなお暗く、瞳はその中にひっそりと沈んでいた。
「そうですね。それがよろしいでしょう。ずっと閉じていらっしゃったんです。長い間使っていなければそれだけ刺激も強く感じるでしょうから」
一息にそれだけ言って、悪魔はようやく去ろうと歩きだした。
歩いている間にも音がする。虫どもの足をこする音。距離がどれだけあっても耳の中に居座ろうとする類の不快なものだ。
それに、あれだけの数がいるにも関わらず、虫は一匹も落ちることはなかった。
そうして悪魔は、部屋を出るときにこちらを振り返った。
「お休みなさいませ」
相手を心底思うような慈しみの声。それは間違いなく小悪魔のものだった。
扉が閉じる。同時に私は立ち上がった。
まず、考える前にやることがある。一番勇気のいるものだが、事態の把握には絶対に必要で、解決のためには避けては通れないことだ。
私は中央にあるテーブルの前に向かった。
見覚えのないカップがある。だが、その中身はしっかりと覚えている。昨夜の飲み残しの紅茶だ。
唾を二度、三度飲みこんだ。
いっそ、この紅茶を飲んでしまいたい。だが、それでは逃がしてしまうだけだ。それに魔女が恐れをなしてどうするのだ。
私は意を決してカップを覗きこんだ。
「…………馬鹿みたい」
重いため息を吐き出す。だが、そこに悲観はない。
カップの中には私がいた。以前と変わらない私の顔がこちらをじっと見つめている。
さて、こうなると実験の失敗とは考えにくい。この薄膜は間違いなく機能している。現に周囲のものはしっかりと見えているし、輪郭が揺らぐことなどわずかもない。
小悪魔にたぶらかされたか、という考えが頭をよぎったが、私はすぐに否定した。それこそあるはずがない。
だって、小悪魔なんだから。
彼女に私をだます技量と知能があるわけがない。魔女が悪魔にしてやられるなど現実に起こりえないのだ。
だが、実際に事態は起こり、私は参ってしまっている。
いや、しかし……それにしたって、彼女がこんなことをする理由がない。私は彼女を愛しているのだから。
そうだ、私の可愛い小悪魔がどうしてこのような陰謀を企てるだろうか。
そんなことをする必要が彼女にはあるのか。いや、ない。そんなものはない。決まっているじゃないか。
確かに小悪魔に向けた私の愛情はいささか遠回しなのかもしれない。
だが、それを誰がとがめられよう。この感情の熱烈さはたいへんな若さを持ち続けていて、いつまでも衰えを知らないのだ。
それもそのはずだ。
小悪魔はじつに魅力的で、彼女の笑みこそ私のお気に入りなのだから。さらにその笑顔には、多くの味わい方があるというのだからたまらない。
ただ率直に、無邪気に堪能できる朗らかな笑みもいい。頬だけでは抑えきれずにぽろぽろとこぼれる笑い声も刺激的な風味をそえてくれる。よわよわしい、涙を内側に溜めこんでいるときのぎこちない笑みなど特に味わい深い。薄氷を踏みくだくような興奮を私の奥底で湧き上がらせる、すばらしい笑みなのだ。
このように、いずれは豊かなみのりとなる感覚を捨てるような真似など私にはできない。そのため、私は小悪魔にも愛を約束している。愛しているとあからさまに口にしてみるし、虚飾をまじえながらこの熱情をそれとなく伝えてもみた。
そう、こんなにも私は彼女を大切にしているのだ。だから、彼女も私と同じ心もちであることは容易に想像できるだろう。
おお、私たちは愛し合っている! これはまず間違いようのない事実なのだ。
ではその事実を、すなわち私と彼女たちのささやかな営みを汚したのはいったい誰の仕業だというのだろう。
少なくとも私ではない。もちろん、小悪魔でもない。
とすれば、消去法だ。それしかない。
消去法だなんて、あまりにおろかなやり方じゃないか。でも、私にはこれしかない。暗がりをあてもなく進むことはできても、一度つまずけば歩みは自然と遅くなる。
誰だって間違えたくないのだ。
そう、間違いは起こらないようにしなくてはならない。のろまで臆病な方法には違いないが、一番確実なやり方なのだ。
自分によくよく言い聞かせてから、私は部屋の外へと向かった。
「あ、おはようございます」
「……おはよう」
出迎えたのはネコだった。
洒落た表現をしているのではない。獣そのものがそこにいた。
そいつは四つ足ではなく、二本の後ろ足で床をすべるように動いている。前足はバランスをとるためか宙をうろうろとさまよっている。いったいどのようにしたのか、給仕服まで着込んでいた。きわめて奇妙な光景だ。
あいさつだけで自分に用がないと見るや、ネコは早足にどこかへ行ってしまった。おそらくは掃除の最中なのだろう。ネコは口でモップの柄をくわえていたのだ。
そのネコと交代したかのように廊下の角から現れたのは、手足のないカエルだ。こちらも給仕服を着用していて、袖口からだらりと垂れ下がる尾びれのようなものが見えた。首まわりの部分は妙に白い。
ずりずりと胴を床にこすりつけながら這っているくせに、動きは実に俊敏だ。
体がくねるたびにピッチャピッチャと水音が響き渡った。しかし、飛沫はまったく見当たらない。
なんだというのだろう。なんだというのだろう。
この……この、奇怪な世界……違う、おそろしいけだものが……そうじゃない! このふざけた……そうだ。このふざけた、作り物めいた光景は!
そこまで考えて、はっとする。一つの激しい胸のふるえが私の中で生まれていることに気づいたのだ。それまでおびえていた心臓の鼓動は、今や確かな怒りとなって私の中で息づいていた。
そう、怒りだった。
眼前の安っぽい仮装の群れに血液がざわつき、嫌悪感を露わにしている。人としての形を、美しく整えられたあの肢体を、私から奪おうとしている第三者の悪意にこめかみは熱くなっていた。
いったい、誰がこのような馬鹿げた真似をしてくれたのだろうか。もはや、これらの事態が悪意によって引き起こされていることは明白だ。
私は下唇を噛みしめた。そうしなければ、この口はあらん限りの声を張り上げ、とても汚らしい言葉を吐き捨てていることだろう。
激情に任せて脚が勝手に行く先を決めていく。廊下はいつも以上に長くなり、いくつもの扉が現れては消えていった。目がぐるぐる動き、頭もそれにならう。黒幕は。手段は。目的は。
誰が……いったい誰が!
「咲夜です」
先ほどまで感じられなかったおだやかな息遣いが、突如私の真横に現れた。
とっさに声のする方へ振り向こうとした。しかしその瞬間、首は分銅のように重くなってしまった。理由はすぐにわかった。
私はひとりごとのように言った。
「だれ?」
「そんなさみしいことを何度も仰らないでください。咲夜は悲しいですわ」
「あなたが? 馬鹿みたいな冗談ね」
吐き捨てるようにこたえた。
その女の周囲は水中のようにゆらゆらと揺れ動いている。空気の味さえ変わっているに違いない。
しかし、咲夜を名乗るこの女はなにひとつ変わらずここに立っている。つまり、本物なのだ。
割れた鏡のような唇も。やせ衰えた指先も。波打つ顔のしわも。薄汚れた前掛けも。枯れ枝の髪も。ゆがんだ爪も。すべてが、本物だということだ。
咲夜は、変わらず生きているのではなかったのか。なにも変わらずに生きているはずだ。だが、綿のようにやわらかい上唇と豊かな肉の下唇が運んでくれた興奮はもう死んでいる。熱したバターのような瞳はすっかり冷え固まっている。目の前の事実は私の愛しい少女を消してしまい、それからそれが正しいとでも言わんばかりにそこにこの女をあてはめた。
咲夜は消えてしまったのだ。まるで……そう、まるで、押しとどめていた時間の波に飲み込まれてしまったかのように。
思い浮かんだ不出来な冗談に、血の気はさっと身をひいた。
乳と血の枯れ果てた老婆は、そんな私を見てにたりとわらった。
「あら、今日は体調があまりよろしくないようですね」
「最悪よ」
この女の言葉自体が私をひどく苛立たせた。
女の声は間違いなく、あの美しい咲夜の音色なのだ。精力的で、軽やかで、いやらしいところはまったくない声。しなびた女にふさわしい、重荷を背負うことに疲れた声では断じてなかった。咲夜の、咲夜だけの声だ。
そうだ。咲夜は死んではいない。咲夜は死んではいない。
目を閉じればはっきりとわかる。そこにいる。目の前に。そろそろと目蓋を開けると、やはりそこには咲夜が……違う、咲夜じゃない、咲夜じゃない女がいる。これは、咲夜じゃない……。
もう、うんざりだ。疲労と怒りで胃の中がはちきれそうだ。
何事にも限度というものがある。この悪ふざけにもおそらくあるのだろう。だが、それはいつ来るのだろう。私が泣き真似でもすれば、奴らはその不愉快な仮装をやめるのだろうか。
もちろん、試す気などまったくない。私がこれからするべきことはそれとは逆のことなのだ。
耳の内側が冷たくなるのを待ってから、私ははっきりと女を見つめて言い放った。
「ねえ、いい加減にしてちょうだい」
「はい?」
「やめてって言ってるの。そのふざけた真似を」
「ああ、はい。また、あの子たちがなにかやらかしましたか?」
女は先ほどと寸分変わらぬ笑顔でこたえた。その笑みは見ていて実に醜悪で、私の胸のむかつきを増長させた。
それだけじゃない。こいつは今なんて言った?
なにか……なにかとは、よりにもよってなにかと言ってのけたのだ。
「私はね、あなたのこと、結構気に入っているのよ? だから我慢してるんじゃない」
「……はあ」
空気をたっぷり吐き出した風船を思わせる調子で女は言った。
そのどこかで聞いた覚えのある気の抜けた返事に、知らず右手はちょうどいい重さの本を探していた。
なかなか見つからないなと思い始めたところで、ここが廊下だということにようやく気づき、ごまかすように手は腰のあたりをうろついた。
私はその手に急かされるような気分で言葉を続けた。
「でもあなたの中の私は、馬鹿にされてそのまま黙っている小娘にでもなっているの、ねえ?」
「いえ、いえ。そのようなことは決して」
「だったら早く戻しなさいよ。着替えてきなさい。その顔を、早く」
言うべきことを言うことができて、気になっていたちいさなトゲが抜けたように感じた。
充足感が身体を落ち着かせてくれたので、私は先ほどよりもゆったりとした目で女を、咲夜を見ることができた。そこで私はぎょっとした。
咲夜は眉をわずかに動かしていた。とても珍しいことだ。彼女の顔の皮膚は笑みの植民地と化しているのではなかったか。咲夜の笑みは強大な力で、そのほかの表情どもの反逆をことごとく鎮圧しているのだ。では、今は。
私はじっと目の前の女を見つめた。そして、その表情の鋭さを察して、ようやく答えが見つかった。
これはつまり、革命が起きたのだ。
一線というものがあり、それを越えると大体がとんでもないことになる。ひどい熱に悩まされたり、感情がぐるっと逆立ちしたり、射殺されたりする。線とは沿って歩くべきであり、またいではいけないものなのだ。
そして私は今、確実にその線を踏みにじっている。
「パチュリー様のおっしゃる冗談は、ちょっとわかりづらいですわ」
それだけ言って、咲夜は私の目蓋が閉じている間に行ってしまった。
相手を不快にさせないような去り方はまさしく彼女のものだった。
だが、それだけでは足りない。あの落ち着きない眉と当惑したまなざしがある限りは。まるでこちらが失礼な物言いをしたかのような!
当然のことだが、咲夜を追おうなどという考えはまったく浮かばなかった。そういう気分にさせるものがあの咲夜、いや女には足りていなかった。
ほっそりとした首筋に浮かぶちいさな玉の汗や、胸から腰にかけて描かれる艶美な曲線から熟成される、ある種の特別な雰囲気というものが圧倒的に不足しているのだ。
その雰囲気は実に心地のいいもので、いつも私の味方でいてくれた。背中をひと押ししてくれる頼もしい友であり、背中を預けられる素晴らしいパートナーだった。
だが、どうだろう。一途な熱っぽさを手渡してくれるはずの空気はすっかり消えてしまっている。
この長い廊下には窓がない。壁を通り抜けることのできない空気は、おそらく、あの女に全部吸い取られてしまったのだ。
あの女に。
しわくちゃで色素の薄い髪をしたあの女。澄んだ目をしたあの女。
「見てたわよ。行かないの?」
なんとも可愛らしい声が背中にぶつけられた。
その声は私の耳の中にするりと入り込み、奥深くで勢いよくはじけた。その内側からの衝撃に肩が小刻みに震えた。
「追ってあげなさいよ。咲夜はああいう顔も悪くないけど、そうさせていいのは私だけなのよ」
「知ってるわ」
「で? なんて言ってやったのよ」
いよいよだ。これはいよいよ、そのときが来たということだ。
「あなたにも言ってあげましょうか」
「ふーん。そんなにおかしなことを言ったわけ?」
手招きをしているような調子で、レミィは言った。
そのうっとりするほど愛くるしい声は、私の頭上に浮かんでいたレミィの姿をより強固なものにした。
大丈夫だ。レミィは大丈夫なのだろう。こんなにも愛しさを覚える声が、ほかにあるはずがないのだから。
辺りは私たちを見守るように静かだった。廊下は途方もなく長いというのに誰の姿も見当たらない。心なしかうす暗くなってさえいるような。
だが、私が振り返ればそうではなくなるのだろう。もしかしたら、彼女たちが息をひそめて待っていて、わっと一斉に飛び出してくるのかもしれない。
驚きましたか? ちょっとした冗談ですよ。洒落っ気たっぷり刺激を少々。そう言って、手を打ちあうのだ。
そこで空想を打ち切った。
幾分か興奮と恐慌は去ってくれた。下腹部にあった痛みが次第に溶けていくように感じた。
大丈夫。レミィは。レミィは。
身体の奥底にすりこむように私は唱え続けた。そして、勢いよく身体の向きを変えて、言い放った。
「私の前から消え失せなさい。この化け物」
「……あはっ」
期待通りの笑い声が廊下中に響き渡った。
「なぁにそれ? ん? そういえばパチェって私に吸われるの嫌がってたわね。歯が痛いからって!」
なおも化け物は笑い続けた。この世のすべてがおかしいかのようにくすくす笑った。
期待通り、そいつは私の冗談を面白がってくれたのだ。だが、もうひとつの期待とは裏腹に冗談はその本分を捨ててしまっていた。
「可愛いわね。昔から思ってたけどあなたって本当にキュートね、パチェ。ちっちゃなウサギみたい。いっつも首を振ってきょろきょろ周りをうかがってるの。それで安心してニンジンを一口かじるんだけど、また首を左右に振りだすのよ。ね、あなた、私が怖いの? 怖いかな? そうでもないでしょ。はじめの頃はひどかったけれどね。あなた、信じられないくらい暴れるんだもの。実は私の方がなにか失敗しちゃったかなって結構悩んだりもしたのよ。でも私のテーブルマナーはまったく間違っていなかったの。無理やりくらいが丁度いいんだって。その証拠にパチェもそのうち大人しくなってくれたじゃない。だから悪いのはパチェだったのよ。もちろん謝らなくていいわよ。私たち、親友だものね。なんでも笑って許しあう、素晴らしい仲だものね。あっは。ところでさ、パチェ。私、お腹が空いたの」
化け物は口が血でいっぱいだったので、耳で喋っていた。やわらかそうなピンク色の肉の突起物がいくつも耳の穴からはみ出ていて、それらの伸縮が空気を音に変えていた。
顔の方には大きな穴ができていた。どうやら口を開いているようで、血と泥の臭気が私の鼻先に当たった。
餌を待つ口の中は、泡立つ血と泥の唾液がくつくつ煮だっている。そのおぞましい体液が口を動かすたびに大量にこぼれ出るので、唇と歯茎と舌は常に鈍い光沢を放っていた。
「ね? ね? いいでしょ、たまにはさ」
身をくねらせながらレミィの声をまとった汚泥が、凄まじい速度ですり寄ってきた。
冷たくも清潔さを感じさせる白い肌などわずかも見当たらず、すべてが赤黒く塗りつぶされている。
私の胸のうちには恐怖も嫌悪もなく、ただ、大事にしていた、大切にしまっておいたものがほかの誰かの手によって台なしにされてしまったという無力感と喪失感だけがうずくまっていた。
どうしてこんなにも優しくないのだろう。どうしてこの目は私からレミィさえ奪ってしまうのだ。あまりにも、あまりにもひどい仕打ちじゃないか……あまりにも……どうしてこんなことができるのだろう。どうして……どうして……!
いつの間にか頬は冷たく湿っていた。
目の前の生臭い手が私の目尻にたまった涙を拭おうとしている。弾かれたように、硬直のとけた身体はその手から逃れるために後ろへと大きく下がった。
「ん?」
心底ふしぎなように、あるいはそんなことがあってたまるものかと馬鹿にするように、その顔は目を大きく開いた。
私はその視線に耐えられず、そのまま逃げ出した。
幸運なことに私を追いかけるものはいなかった。そして、不運なことに私の知っている姿もいなかった。
そのまま走り続けた私を迎えてくれるのは見知らぬ姿のものばかり。
人型の白煙が洗濯かごを持ち歩き、くちばしを生やした狼がこちらに会釈する。毛むくじゃらのなにかが掃き掃除をしているが、通った後には自分の毛が散乱する始末。門の外には複雑な紋様の描かれた紙がゆらゆら動いている。そして、階段を下りる気力はもう残されていなかった。
もはや、私が恋い焦がれたあの美しい姿形はどこにも残ってはいないのだ。私だけがただ一人切り取られてしまったような……。
そう考えただけでもう駄目だった。
血管に冷水を流しこまれたかのように悪寒が全身に染みわたる。それが恐慌へと変わるのに時間はあまり必要なかった。ある一つの考えが浮かんでしまったのだから。
ここでは私は、私だけが違うのだ。
つまりそれは、そのときがまだ来ていないというだけのことではないだろうか。
ほとんど転げるようにその場から走り出した。
口の中が酸味と鉄臭さでいっぱいになっても足を止めずに、一番近い部屋へと入った。
扉を開け、左側の壁に設置された鏡があるのを見て、ようやく足は止まってくれた。その瞬間、食道と気管から、内臓の不満の声がどっと押し寄せられた。
苦痛にあえぎながら、なぜ飛ばずに自分の足で来たのだろうとぼんやり考えた。
首を振り、余計なことを外へと追いだす。今はただ一刻も早く、確かめる必要があるのだ。
鏡に一歩近づくたびに天井は低くなり、壁はぐんと狭まった。床を踏みしめるたびに骨のギシギシという音と、筋肉のピクピク震える音が響いた。
黙れ。
強く念じると、雑音は遠くなっていった。
それもそのはずだ。鏡はもう目の前だった。
喉からなにかが飛び出しそうになった。どれだけ真実が優しくあろうと、なんの前触れもなく寄こされては受け入れることもできないだろう。
だが、それでもやはり、優しかった。
鏡には私がいるのだ。
変わらぬ姿。赤黒く塗りつぶされているわけでもなく、しなびた顔をしているわけでもない。本当の、まっとうな私の形。あるべきものが確かにあることの幸福が、そこには秘められていた。
だけど……でも……この姿もいずれは歪んでしまう。
私はもう逃れられないのだ。ようやく役立たずの目と決別できたというのに、それを使う機会はもう永久に訪れないのだ!
そう、愛する彼女たちの混じりけない姿……計り知れない興奮を招き、奥深くの吐き気を誘い、体中の器官に身震いを引き起こす、生まれた頃の姿、おそろしく美しいシルエット……あの素晴らしい裸体に出会える機会は完全に潰えてしまった!
硬い頭蓋の裏でやわらかな脳がゴリゴリと削られるような痛みが先ほどから私を手放さない。立っているのがやっとだった。
やがて、鏡面に変化が起こった。ついに異形へと変じてしまったのかという諦めの思考は、しかし、目の前の光景に打ち砕かれた。
そこに私がいる。これは変わっていない。髪一本から裾の糸くずまで先ほどとまったく同じだ。
違うのは女がいるということだった。私の後ろの暗がりに女がそっと佇んでいる。
ほとんど影の中にいるので、その色合いははっきり見て取れなかった。だが、輪郭はよく見えている。私の見知った姿のままだった。
振り返ろうとするより前に、その女は私に言った。
「あら? あらあら? あなた、顔色が悪いんじゃありません? いつも暗いところにいるから、元からそんな顔色なのかもしれませんけど。まあ、まあ、いいですわ。同じことですもの。ねえ、あなた。あなたの心配ごとをすっかりわたしに打ち明ける気はなくて? ああ、どうしてだなんて言ってはいけませんわ。わたし、困っている人は見過ごせないんですの。人に親切にしてあげるってなんて気持ちのいいことなんでしょうね。清潔で暖かいシーツに包まったときにやってくる眠気のように気持ちいいものよ。ね、あなたもそんな風に眠りたくはないかしら? 夢を見せてあげますわ。とても心地のよい夢を。約束してあげる。わたし、嘘はつきませんもの」
八雲紫は微笑んだ。
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「まさかとは思うけれど」
暗がりから八雲紫が浮かび上がった。まるでその場所から産み出されたかのように、彼女のシルエットが突如彩られた。
その豊かな金色の髪は丸々と肥えた果実のように水気と光沢で満ちていた。肌は不自然なほど白く、瞳は月のように輝いていた。
そして、肩から腰、腰から踵にかけてのラインの美しさときたら! そのなめらかな曲線はわずかも歪むことなく、この室内に君臨していた。
私は今すぐ服を脱ぐべきだと叫びたくなる衝動に駆られた。だが、興奮はある考えに強引に抑えつけられた。
彼女の姿形に間違いは見当たらない。なにも変わっていないのだ。
ある事態が起きて、その影響をなんら受けない奴がいたとする。そいつは犯人と言うべきなのではないか。
「私が仕組んだなんて考えてはいないでしょうね?」
「もちろん」
そして、もうひとつ。彼女は八雲紫なのだ。それだけで十分ではないだろうか。私にはそう思えて仕方ない。
すぐに続けて言った。
「そう思っているわ」
私の言葉を聞いて、八雲紫は頬をゆるませた。
だが、その瞳には影がさしている。
「あら、ひどいわね。わたしはいつもあなた方を想っていますのに」
得体のしれない悪寒が、首筋を電気のように突き抜けた。
手で温めるように首のまわりをこすりながら、私は言った。
「お願いだから冗談でもそういうことは言わないで」
「まあ! いいわ。けれど、そもそもわたしがあなたになにかしたところで得るものがあるとでも?」
「目的なんて議論の価値もない。動機なんてあってないようなもの。当てはめればいいだけよ。適当に見つくろえばいいだけの話」
「賢者さまはかしこいのね。では、なにが必要だと言うのかしら」
八雲紫はおだてるような微笑みを向けてきた。自分の優位性を信じて疑わないからこそできることだ。
まったく、この女の笑みはどこまでも作りものめいている。おそろしく長い年月の経験が、そういった技術を培わせたのだろう。
だが、私にだって持ち物はある。今まで散々蓄えてきた知識はもう出番を察してうずうずしていた。
私はそれらを突きつけるように、はっきりと言った。
「もちろん、方法よ。可能かどうか。これに関してはあなたに反論の余地はない」
「そんなことはありませんわ」
ぎょっとした。思わぬ回答だった。
「あなたにもそれくらいはできるのではなくて?」
「それは自慢かしら。私にはあなたみたいな器用な……奇妙な真似はできないわ」
「そんなことはありませんわ」
八雲紫は先ほどと同じ調子で、同じことを言った。
「だって、あなた。素敵なレンズを作ったんでしょう?」
「レンズ? どうしてこれが、いえ、そもそもあなたに教えた覚えはないわ」
「おしゃべりな吸血鬼が神社でお茶を飲んでたの」
「レミィもそうだけれど、あなたも大概ね」
八雲紫は首をどちらに振ることもせず、くすくす笑うばかりだった。
その声の調子が、私への評価そのものに思えて、思わず酸っぱい笑いが浮かんだ。
それに、彼女は今なんと言った? レンズだと?
この私の優しい目がなにをしたと言うつもりなのだ。恐怖と不安のなにがしかを消し去る愛しい女たちの魅力をまったく損なわずに、いや実物よりもさらに美しく、あでやかにさせるはずの目に!
そんな素晴らしい目に余計な手出しをした彼女が! お前が! いったいなにを言い出すのだ!
今や、八雲紫のいい加減な嘘くささによって散り散りにされていた嫌悪が、徐々にその勢力を取り戻しつつあった。
大体、私はなぜこんな輩とぬるい話し合いなどを続けているのだろう。本来なら、彼女のにやけた面を火であぶって、さらににやけさせるくらいしてもいいはずだ。そのくらいは私に許されてしかるべきなのではないか。
考えるほどにこれはいいアイデアのように思えた。
体内に清風がさっと流れ込み、よどんだ空気を掻っ攫っていった。活力で満ちた身体は、今すぐにでもその愉快な光景を現実のものにしてくれるだろう。
胸のうちでくすぶっていた憎悪の炎が、私の手の中でその舌先をちらりと見せた。
それを見て取ったのか、八雲紫は唐突に話し始めた。
「この世にはおそろしいやり方に忠実な輩がいるものね。少なくとも二人はいますもの」
それは絶望だった。
おそろしく果てのない底なしに黒い穴が私の足元に生み出された。だが、理性は根拠を欲しがっていて、私の大部分もそれに同調していたため、気の迷いなのだと決め込んだ。
腹部にうねりを忘れるように気をつけながら、私は八雲紫の言葉に注意した。
どこかで聞いたようなそのセリフ。だが、気になるところはわかりやすいくらいだ。彼女はいったいなにが言いたいのだろう。
私は言った。
「私と、あなた?」
「ああ、本当におそろしいことですわ。目というのはね、怖がりな坊やなのよ。そんなデリケイトな器官に異物をかぶせるだなんて。天才か、気狂いの発想ですわ」
「賢者よ。それで、あなたは?」
「わたしはあなた方の幸せを見守るだけよ、お馬鹿な子ね」
八雲紫には私を侮蔑しようとする意図はまったくなかった。彼女の目はただ穏やかだった。
そこには個人に対する興味というものがまるでない。調和を味わうことの楽しみを知っている目つきだ。一枚の葉の色よりも一本の木の健康を気にして、一本の木が倒れることよりひとつの森の秩序を保とうとするような。
八雲紫は私が黙ったままでいるのを見て、自分が先を続けなければならないことをようやく知り、跳ねるような声音で言った。
「わからない? それとも、話させてくれるつもり? いいかしら。わたしはね、我慢ができないの。無関心って一番許せないことだと思わない? ここにはいろんな人が逃げ込むのよ。膝をかかえるだけの人、追い込まれた人、踏みにじられた人。そんな人たちに手を差し伸べる幸福があなたにだって想像できるでしょう? まさか、単なるわたしの娯楽だなんて思っていないでしょうね。わたしはあなた方を愛しているんだもの。あなた方のまるごと、そのもの、すべてを受け止めてあげられますわ。けれど」
彼女はそこで一度、言葉を切った。
自分の口蓋から出るものはとても価値のあるものなのだと思わせるように、たっぷりと間をあけた。
それから、八雲紫はふたたび赤い舌を躍らせた。
「悲しいことに……本当に悲しいことですわ。わたしはあなた方ではないのです。もしもあなた方がわたしのようであったなら、これほど素晴らしいことはありませんわ。さ、わかるでしょう? あなた方の唇は濡れて、息づき、目は輝きに満ちて、心は悪意の影を疑わずに済み、安楽を信じていなくてはなりませんわ。わたしはそうなるように親切にしなくてはいけないの。手助けをしてあげないといけないのよ。本当に世話の焼ける子たちね。でもいいのよ。わたし、世話を焼くのが好きですもの。世話を焼いてあげるってなんて愉快なことなのかしらね。どしゃ降りの雨の中で思いっきり手足を振り回すくらい愉快なのよ。ね、あなたも振り回されたくないかしら? 知らずに誰かの都合に振り回されるのは実はよくあることなのよ」
「あなたがそうしているように?」
「わたしはあなた方に振り回されっぱなしですわ。特にあなたにはね。勝手に自作のガラス板なんてはめこんだせいで、わたしがつけてあげたレンズをずらしてしまうんですもの」
「待って!」
私はとっさに叫んだ。ほとんど反射的だった。
目を強烈な刺激が襲ったとき目蓋が瞬時におろされるのと同じように、私は危険から逃れるために言ったのだ。
だが、衝撃はそんなものなどお構いなしに、私の耳に滑り込んだ。
「あなた、目が悪いのね。でも、それが裸眼だっていつ決め付けたのかしら。どんな生物も生まれた頃の姿に近づくことはできても、生まれたままの姿にはなれないって知らないのかしら。裸の姿がどれほどおそろしいのかすらわからないなんて。あなたたちって本当に危なっかしいんですものね。だからわたし、手伝ってあげてるのよ。あなた方が仲良くやっていけるように、可愛らしい姿にしてあげてるんですのよ。ねえ、だって、可愛らしいものが嫌いな人なんていないじゃない?」
耳に目蓋はない。だが、その役目を手のひらがしようともおそらく意味はないのだろう。
八雲紫の声の調子はいよいよ透き通るように高くなっていった。
逃れられないのだと私は悟る。喉に大量の毛が詰まったように感じ、意味もなく空咳を何度も繰り返した。
八雲紫はゆっくりと息を吐き出して、次に胸を少し膨らませてから言った。
「幻想郷は完璧であり、幸福と楽しさは住民の義務ですわ」
その言葉に、ついに私は目を細めた。
我慢しきれず、脳のフィルターを通さずに言葉はどんどん私の舌から散っていった。
「あなた! この、ちょっと、頭におがくずでも詰まってるんじゃないの! さもなければ空気よ! 汚らしいわ、病気じゃない! 消え失せなさいよ! 今すぐに!」
しかし、八雲紫は冷め切っていた。
なにもなかったように、先ほどと同じように静かに言葉を継いだ。
「義務ってわかるかしら? 呼吸するってことよ。あなた方が今どこにいるのかを忘れてしまえば、すぐに死んでしまいますわ。ですからあなた方に手ほどきをしてあげてますの。あなたにも、もちろんもう一度してあげますわ。先ほど約束したんですもの。わたし、嘘はつきませんわ。とてもいい夢に連れて行ってあげましょう」
今あったことはすべて忘れるべきですわ、これも夢なんですからね、と八雲紫は最後に付け足した。
私は魔力を練ることもせず、力任せにその不愉快な面を殴ろうと拳をかかげた。だがそのとき、急に視界は足元に引き寄せられた。
それは落下だった。
めくるめく果てしのない堕落。ねっとりと肌にまとわりつくジャムのような不快な空気にもがきながら私は落ちていった。
どこまでも落ちていける。それは恐怖そのものだ。しかし、その肌寒さにもおわりはあるのだというように、次第に私の意識は薄れていった。
目蓋が閉じきる前に、耳元でぼそぼそと話す声が聞こえてきた。
「あなた方の境目は私が決める。あなたの見た裸はあの美しい裸体ではなかったのでしょう? あなただけの裸にまた会えるようにしてあげる」
声は次第に大きく響くようになり、はっきりと聞こえるようになった。割れるような質感ではなかったし、波のように高まったり、低くなったりもしなかった。
その声は叫びとはまったく違うやり方で、こちらの耳にその内容を押し込めようとしているようだった。
そして声は、ほとんど慈しむように私の耳をそっと撫でていった。
声は言った。
「さあ、裸になりなさい」
5
真っ先に手を顔にあてた。
起きたばかりの身体は、それが自分のものではないかのようにぎこちない動きしかしてくれない。
それでも目蓋、目蓋が……息苦しさにふるえていることは、包帯越しでもわかってしまった。
もちろん、この後には小悪魔がやってくるのだろう。
覚えのある言葉を投げかけ、覚えのある音をさせて動き、そして、覚えのある、あの忘れようとしても決して頭蓋から消えることなく居座り続ける悪夢のごとき顔が、こちらを見てにやりと笑うのだ。
あれは確かに悪夢のようだった。逃れるための一歩一歩が泥濘に深くはまりこんで行くような悪夢。だが、夢だといって笑い飛ばせるほど軽くはない。いやらしい顔の歪みにはちゃんとした質量があり、また悪意があった。
そんなおぞましい芝居をどうして空想だと一蹴して片付けられるのだろう。
しかし、ひょっとするとあれは夢なのかもしれない。つまり、私がこれから辿る結末をちらりと見せるだけの予告だったというわけだ。
いずれにせよ、現実は目の前にある。迫りくる苦悩の始まりに、脳はアルコールの必要性を訴えていた。
「良くなりましたか? 具合の方は」
かかる悲観が頭に重くのしかかり、その働きを大いに妨げていた。
だからだろう。すでに私の目は、素晴らしい視力がもたらす見慣れた光景を映していた。そして、意識せずとも首はのろのろと振り返ろうとしてすらいるではないか。
やめて! もう、もう!
喉を気遣わずに私は叫んだ。だが、もう遅い。後ろにいる悪魔は私の視界の左端からさっと飛び出し、そのまま過ぎることなく、真ん中でぴたりと止まった。
そこにはもちろん、張り巡らされた神経を余すところなく引き裂くような顔が、大小の黒い虫どもがびっしりと敷かれたあの穴だらけの顔が、顔が……。
「小悪魔?」
「はい、パチュリー様」
私の目はおかしくなってしまったのか。春の陽射しのようにトロリと陶酔させる微笑みを浮かべ、小悪魔は首をかしげた。
そうだ。これぞ私のより所なのだ。小悪魔の微笑みは、こちらが寄りかかるとほんの少し支えるために心地よく押し返してくれる見事な笑みだった。
「え、あ、あの……?」
小悪魔の頬に指を這わせる。
均整のとれた体つきがどうしてこの肌を頂点に掲げたのか、すぐにわかる。
吸い付くようにみずみずしい頬は、清純な乙女のようにほんのりと赤らんでいた。目はまるく、大きく開かれ、そこには暗い穴などまったく見当たらず、澄んだ泉そのものが納められていた。
この素晴らしく健全な顔を、どうして見間違えてしまったのだろう。どうして私の目は、ここにある暖かな安らぎをはねのけてしまったのだろう。
薄い皮膚を通じてそこにある幸福を、私の指先は確かに受け取っていた。
ああ、私は、私は……!
文字にすれば書物の山となるであろう感情の波が、ほとんど悲鳴となって唇からこぼれ出る。喜びと感激が口の中を縦横無尽に飛び回り、舌はふらふらになった。
「小悪魔、ああ……ああ、あ、あ、ごめん、ごめんなさい。どうかして、どうかしていたのよ……私、私が……小悪魔……」
目の端がどれほど踏ん張ろうともせき止められるはずもなかった。涙がぼろぼろと言葉と一緒に落ちていく。
黒い染みが広がる胸元をじっと見つめながら、私はじたばたするのを我慢するように拳を強く握りしめた。
すると突然、視界は暗くなった。頭はやわらかく温かいものにふわりと包まれ、それから徐々に埋もれていった。
小悪魔の両腕が、突き出された私の頭をそっと抱きしめていた。
「私には……なにを仰っているのかわかりません。私はパチュリー様に本当によくしてもらっています。私を叱ってくれましたし、褒めてもくださいました。いったいなにを謝っていらっしゃるのか、私にはぜんぜん、わかりません」
そのとき、私はようやくこの子を見ることができたのだと理解した。
この子の美しさは、あの淫らな裸体にあるのではない。裸の姿、その心の強さに私はどうして気づかなかったのだろう。
この子が私の一部だなんてとんでもない思い違いだ。小悪魔は小悪魔で、尊敬すべき一個人なのだ。
そう考えた途端、胸のうちに残っていた恐怖の影もついに消え失せ、打ちひしがれた心は生き返りはじめた。
私たちは親が子を慰めるような体勢で、しばらく時間の過ぎるままとした。ときどき、照れくさそうに笑いあい、またもぞもぞと布地と髪をこすりあわせたりして、間をもたせた。
だが、わずかたりとも離れることはなかったのだった。
やはり、あの夢は予告だったのだ。そこにある感情が正反対だということを除けば。
さっぱりとした顔で扉を開けると、そこには咲夜とレミィがいた。
私は相手が話し出す前に言った。
「ああ、咲夜。なにか身体の調子が悪いと感じたときはすぐに私に言いなさい。とっておきを出してあげるわ。レミィ、あなたって本当にキュートよ。その可愛さに免じて、少しくらいならかじっても我慢してあげる」
「お、おお?」
「お嬢様、顔が面白いことになっていますわ。しっかりなさってください」
「え、いや、だってパチェがなんか失礼なこと言うし。吸血鬼なのに可愛いって」
「可愛さはもちろんステータスです」
「あとお前もさっきから口走ってるからね。なんなの? 従者やめたいの? 人間やめたいの?」
「ですが、お嬢様は面白いじゃありませんか。全体的に」
「傷、広げてるからね?」
「銀の食器は食べるのに中身は食べないところとか」
「緑色のスープを出したやつが悪い」
もちろん、これを茶番などとは呼べないだろう。
主人の姿にはその愛らしさと同時に、内に溜め込んだ誇りも認めてやるべきだし、メイドの目の下にこっそり隠れた疲労の影を見逃してはならない。
支えあい、手を打ち合う主従愛を、私の独りよがりな感情で塗りつぶしてはいけないのだ。
「でも、つまみ食いさせてくれるなら許してあげるよ、パチェ」
「ありがとう、レミィ」
「ん、なんかあなたにお礼を言われるのって新鮮だわ」
「なら、その気分をかみ締めて頂戴。これからはすぐに慣れてしまうんだから」
「あら、素敵ですわ。そんな光景、咲夜も眺めたく……しかし、ああ残念です! 私は百年も二百年も生きられないので」
「パチェ。咲夜があなたのところに健康相談に行ったら水銀を飲ませなさい。寿命延ばせるからって」
私たちは自然に笑いあった。
親密的な仲間内にだけ漂う穏やかな時間が流れていく。
生き生きとした、健康的な笑みのなんと喜ばしいことか! それがそばにあるという事実が、目に映る光景をたいそうあでやかにしてくれる。その中では当然、彼女たちの美しさは一等、際立っていた。
そうだ、私は彼女たちに焦がれていたのだ。そこにそっと入り込もうなどと卑怯な考えをしていたのだった。おろかにも、あちらこちらに別々の愛情を注ごうとしていたのではなかっただろうか。
だが、それでは駄目なのだ。美しい裸体の群れに、服を投げ込むようなものじゃないか。
本当に向き合うには、相手と同じような状態になり、それに耐えねばならないのだ。真の感情のつながりは精神の苦痛を越えた頃にやってくる。
その狂おしさに抜け出せない場合もあるかもしれない。
だが、出口は確かに私たちを待っているのだ! 進めば、そこに確かにあるのだから!
私はレミィと咲夜を眺める。
いつの間にか私の顔の上では、自分に向けての勝利の微笑みが浮かんでいた。
私室に戻ると、身体中にぱんぱんにふくらんだ嬉しさに気づいた。
部屋中を駆け巡りたい衝動にほんの少しばかり駆られたが、私の胸部に満たされている、やわらかな蜜の色をした空気が穏やかにそれを制止した。
ゆったりとした動作で紅茶を入れる。とっておきの美味しい滴で唇をぬらせば、少しは跳ね回る動悸も落ち着くだろう。
汚れひとつない、白いカップは、今日という日の象徴のようだった。
そこにたっぷりと琥珀色の液体を注ぎ、私はそれを掲げた。
「今日これからに、私の目に乾杯!」
ああ、私はなんて幸せなのだろう。間違いようのない優しさが私に注がれる。頬は気恥ずかしさに身もだえし、目は拍手するようにぱちぱち動いた。そして、唇は紅茶をすすり……。
「あ?」
誰なのだろう、とそれだけが気になった。この女は誰なのだろう。
大きく垂れ下がった鼻には過ごした年月を示すように大きな染みをいくつも持っている。だぼだぼの余った皮がくしゃくしゃにくたびれたシーツのように張り付いている。ちょうど、童話がイメージする魔女のような女が紅茶に映し出されていた。
そう、魔女のような!
「…………っ!」
そいつは私と同じ仕草をする。目をぱちりと閉じると、そいつも真似をする。口をもごもご動かすと、紅茶をゆらすことなく同じようにしてみせた。
そこにいるのだ。私の裸が。裸体が。
歪むことなく、そこでこちらをじっと覗き込む、私の全裸がここにいる。
―――目は、どうなっている?
そうとも。あの薄膜はどうなった。今、はめ込んでいるじゃないか。だったらおかしい。だって、あの女は確かに言ったのだ。戻してやると。いや待てあれは夢だったんじゃないのか。私のただの思い込みに決まっているじゃないか、いやそもそも私の目は元からおかしかったんじゃ、私が勝手にはめ込んだせいで元からあったレンズが通常とはほんの少しばかり違う位置にずれてしまったんだ、だから彼女は戻したつもりだったのに戻せなかったとしたら!
逃げるな。
薄膜のガラス板も、八雲紫も、関係はない。
ひょっとしたら、これはちょっとした想像で、たくましい空想で、おぞましい妄想に過ぎないのだが、考えたことはないだろうか。
イメージすることに長けた脳と固くつながっている目が、どうしてその脳の言うことを信用しないのだろう。どうして私たちは、目はあるものだけを映していると盲目的に信じてしまっているのだろう。
もしかすると、そうなのかもしれない。
だが、目は私の思うなにかを映しているだけかもしれないじゃないか。
目が私の心を、剥き出しの裸を見ていないと否定することなどできるわけがないのだから!
カチャリ
窓をこつんと叩くよりもなお、ちいさい音だった。だが、私の耳はそれをわずかもこぼすことなく掬い取った。私の背にある扉が開いたのだ。
誰が開けたのか、そんなことはどうでもいい。誰であろうと関係ない。
確かめなければならないのはただ一点。
おそろしい興奮が、遠くなるような緊張と混じりあい、腹の底から盛りあがってくる。それは徐々に膨れ上がり、喉にまで手がかかり、私の神経はこすれあう歯のようにギイギイと鳴き出した。
無我夢中で、絞り出せる限りのありったけの力を使って、私は振り返った。
「ああ! ああ! ああ―――」
悲鳴は爆発し、その後に死んだように静まることになるのだろう。
私の目はまったく瞬きせずに、こちらを目掛け飛び掛る全裸の群れを確かに映していたのだった。
文字が踊り出したところで、ようやく覚悟を決めて本を閉じた。
「小悪魔」
「はい」
「視力を矯正したいの。私にふさわしいものでね」
「……はあ」
その態度と短い返事が、私の眉を叩き起こした。
「言ってること、わかる?」
「はい。はい。ええ、パチュリー様専用に躾けられた眼鏡をご用意いたします」
私は持っていた本で小悪魔を殴りつけた。
小悪魔は唇をうすく引き結び、耐えるように口の中の悲鳴を噛んだ。すぐに目は水気に富み、粘性の視線をこちらに向ける。
当然だろう。この私の本を痛ませてしまったのだから。
見ろ。恥ずかしさと後ろめたさの重荷が、彼女の頭をそっと沈ませているじゃないか。教える前に、自覚したのだ。こうなると許してやろうという気にもなる。魔女は下僕には寛容でなくてはならない。
だが、先ほどの提案は許しがたい。
きわめて繊細なる私の精神が、どうして眼鏡相手に癇癪を起こすと考えられないのだろう。まさか、このか細く痩せた神経の一つ一つが奴らの無礼を見過ごすとでも思っているのだろうか。
ずれる。重い。すぐいなくなる。どう扱おうと煩わしい。眼鏡とはそういうものだ。
それがなぜ、わからない。眼鏡などかけてみろ。違和感が肌を走り、紙の端をつまむべき指が役目を果たせずにいるではないか。
小悪魔にはそういった考えができないのだ。この問題が解決できたら、彼女の教育プログラムを練り直す必要があるだろう。
なんと面倒なことか。考えるだけで頭のねじがきりきり回る。前髪の根元から汗が湧き出る。ねじが頭蓋を絞ったせいで、悩みの苗床から水分が滲み出たのだ。
小悪魔が水やりを忘れた日はなく、今日もそこは潤いに満ちている。
「ええ、はい、申し訳ありません……ええ、身体強化の術式を施しましょう」
「あなた」
そこで言葉は切れた。もう役目は終えたと言わんばかりに舌は歯の内側でうずくまっている。
要するに、怠け癖なのだ。
どうも昔から、話すことが億劫で仕方ない。相手が私の口からこぼれるわずかな言葉から、すべてをくみ取ることを好んでいる。
傲慢だろうか? だが、これは仕方のないことだ。
私の対面には本が居座っていて、視界はインクと薄汚れた余白で埋められている。
誰かのために割く時間がどこにあるというのだろう。
「はい」
案の定、小悪魔は続きを促そうと微笑みながら返事をした。
少しは相手にしてやろうと思える態度。以前とは大違いだ。
ところで、小悪魔のただ一点褒められるべき事実は、彼女が過去の失敗を手放さないことだった。
彼女の記憶力はもはや偉大さをも培っている。まるくちいさくかわいらしい、その頭が有する膨大な敷地を私は称賛するべきなのかもしれない。
この世に存在する、あらゆる失敗のやり方を熟知しているその頭をだ! ああ、くそ!
「あなたがするの? できるわけ、ないでしょう」
「私でも視力を強化する程度なら」
「まさか」
おそろしい見解だった。
すぐに罵声の一つでも浴びせようと口を開いたが、出てきたのは馴染みのある痛みだけだった。
喘息の機嫌をなだめるために二度ほど余分に咳きこんでから、小悪魔にゆっくりと言った。
「ずっと、見えなくなる先までよ。なにもかも足りないじゃない」
「あの……本をお読みになる間だけではないのですか」
「だから、ずっとよ」
小悪魔は黙りこんだ。私の指は、光沢の鈍くなったテーブルのふちを何度か叩いていた。
ああ、もう。だから嫌なのだ。
だがこれは、今まで自身の悪化を散々訴えてきた目に取り合わなかった結果でしかない。
目が、遠くを見ない環境に適応したなどという戯言がこの問題に通じるはずもなかった。こんな屁理屈でうなずくのはどこかの常識知らずか、命知らずだ。
やってきたことが相応の形となって現れた。ただ、それだけのこと。構図は実にシンプルだ。
ならばやることは一つ。
眼鏡よりも自然的に受け入れられ、強化魔術よりも半永久的に動作する私好みの手段を探すことだ。
そうして、狭くはないテーブルに増殖した本の山がいよいよ自壊するかというところで、ようやく理想を頭に蓄えることができた。この厄介な問題に対抗できる手段を得た。
今こそ、この許しがたい敵を打倒し、インクどもに文字の体裁を取らせるときなのだ!
しかし、その前に一応は、もしかすると、万が一にも、奇跡的に、あるいはなにかの間違いで、愛すべき助手が私以上にすばらしい手段をひらめくかもしれない。そう考えて、わざわざ面倒な前置きをした。
その結果がこれだ。
視線を下げる。カップになみなみと注がれていたはずの紅茶はすでに白い肌をさらしていた。
その瞬間、胸のうちが酒をあおったときのように熱くなった。
かっと体内は赤く染まり、活力が徐々に湧きだした。心臓が苛立ちに燃えているのだ。
血が全身を焼きつくすように凄まじい勢いで巡りだした。
当然、それらは頭のてっぺんにも足を伸ばす。頭のねじは熱によってゆるみ始め、回転は音を上げ、次第に思考が鋭くなるのを実感する。
頭にある無数の穴は一斉に口を開き、余分な熱を逃がそうとする。
髪の隙間から額へと泳いで向かう汗の粒を私はそっと拭った。
「この世にはおそろしいやり方に忠実な輩がいるものよ」
「想像では我慢できずにですか」
小悪魔の返答に私は少しばかり安心した。
「さ、ガラス板を用意なさい。うんとちいさくて薄いものをね」
「と、申しますと」
「目にかぶせるの」
「それは、つまり……拷問?」
「最初はそのつもりだったんでしょうね」
よくは知らない。
だが、そのことを言うつもりはなかった。
「外界ではガラスレンズの性質を利用することで視力の補正を行っているの」
「人間ってときどきおかしくなるんですね」
「彼らの奇行は今に始まったことではないわ。昔とまるで変わらない」
私はインク壺の蓋を閉め、ペン先を拭った。
そして、書き終えたメモを小悪魔に渡した。
「材料よ」
「はい。はい。いえ、あの……少し、少しばかり、そう、量が多いのですが」
「レンズにも欠陥はあるわ」
「それで手をくわえたいと。ええ、と、カラドリウスの目玉……ガルグイユ肉一片……一角獣の角粉末状ひと匙…………」
リストを読み上げる小悪魔の言葉は次第に重くなっていく。その変化は本棚の隅に転がる虫どもを思わせた。
無数の足を夜の暗がりのように動かすあの虫どもは、煙を浴びせるとみじめに悶えながら絶命したものだ。小悪魔の胸のうちにも今どれほどの恐慌ができあがっているものか。
ああ、見てみたい! 小悪魔! 私の翼、私の魂! その裸体にはいったいどれほどの火薬が詰まっているのだろう!
私が妄想にひたっている間にも小悪魔はなにか言おうと唇をふるわせた。だが、結局口をもごもごと動かす程度にとどまっていた。
弱音や泣き言が口蓋へと殺到しているせいで、出したい言葉が喉につかえてしまっているのだろう。
次に彼女は、そこに必要なものがあるように私をじっと見つめてきた。
なんということだ。ずいぶんと情けない顔で、おまけに悪魔らしからぬ行動じゃないか。
やれやれだ。彼女はまるでわかっていない。目の前にいるのが誰なのかを。
「追加しましょうか? 猫の足音。山の根元。魚の吐息。あと、ミルクチョコレート。早くしなさい」
小悪魔は頭を三度横に振り、赤黒い髪を躍らせた。そして、牝牛のような目をして、ちいさな鼻をすんすんと鳴らし始めた。
泣くな泣くな、可愛らしいくせに。
こういった微笑ましい交流が私の活力の源であり、私はそれをあらゆる場面であれ積極的に行おうと心がけている。頭を悩ませる異変を抱えている今このときも、例外ではない。
しかし、もう潮時だろう。小悪魔のくしゃくしゃになった表情こそ私の好みであり、泣き顔はその範疇からわずかに外れるのだ。
彼女の強靭な肺から吐き出される弾幕は高密度の発狂仕様。私の残機など瞬く間に消し飛ばしてしまうだろう。
「冗談よ。でも、甘いものは必要」
優しく、微笑むように言ってやった。
だが、実際に笑みを浮かべる必要はない。小悪魔には言葉だけで十分なのだ。
小悪魔は私の言葉の調子から、体調やら機嫌やらその日に出す菓子やらを判断する。
これは実に優れた手段であった。彼女は目に関してはあたりを掴んでいたようで、私の手持ちの表情が極端に少ないという事実をあっさりと暴いてしまった。
そのことに気付いたとき、私は彼女の足りない頭がもたらす不愉快な出来事にも多少は我慢してやろうと決心したものだ。
そしてすぐに、我慢は身体にとてもよくないことだと思い知らされた。
「はい。では、行ってまいります。今日の甘味をお持ちした後に」
小悪魔は赤い顔をして、にっこりと笑みを浮かべながら奥へと消えていった。少し見ただけでもよくわかる、尻尾が小躍りせんばかりの浮かれたその姿は、最初に提示された難問のことすら忘れているのではないかと思わせるほどだった。
大丈夫なのだろうか。ひょっとしたら私は、とんでもないことを仕出かそうとしているのではないだろうか。
行動を起こす者よりも、結果を待つ者の方が辛いこともある。体は不安に蝕まれ、頭は期待の熱と暗然たる失望の板挟みに苦しむのだ。
そういったとき、私には本のなぐさめが必要だ。だから私は、小悪魔を使いにでも出したときほど本と親密になれる時間を知らなかった。
彼女はそういった面でもよく役立っている。なんだ、小悪魔はもう私の一部じゃないか。
ほどなくして小悪魔が皿を両手で支えながら戻ってくる。皿にはいっぱいのバタークッキーがのせられていた。甘みを十分に足すための苺のジャムまで用意してあった。
彼女はつねに努力を忘れない懸命さを持ち合わせている。私はそこにも満足している。
その熱心な奉仕の方向性がまったくずれているものだということ以外は。まさかジャムのべたつきの不快さを彼女が知らぬはずもない。
私は小悪魔が皿を置いたのを確認してから、彼女の額にまたも本の角を吸い込ませた。同時に、ひどい頭痛が私を襲った。
それから私はふと気付き、プーッと息をもらした。なるほど、なるほど、確かに。
確かに、小悪魔は私の一部なのだろう。
2
「ねえ、私もまぜなさいよ」
「あら、今日はレミィが食べられるの? すてきね」
私の言葉にレミィはぽっかりと口を開いてみせた。
「はあ? なによそれ」
どうやら彼女は今日のメニューがハンバーグステーキだということを知らないようだ。
私にしても、調理の場を見たわけでも食事の予定を聞いたわけでもないのだが、今日がハンバーグステーキの日だということはわかっていた。
先ほど紅茶の世話をしにやってきた咲夜の小指がそう言っていたのだ。
彼女の蝋のように白い爪と艶めかしいピンク色の指、その間が真っ赤なペースト状になっているのを、私は目の端で捉えていた。
あれはよく練られた肉だ。
玉ねぎとナツメグと塩、それに新鮮なおろしたての食肉をよく練り合わせたものが、こねくり回す咲夜の指を気に入ってしまったのだろう。
大抵、まぜものというのは性質が粘性なのだ。蔦が樹にからむようなやり方で、あるいは苔が石にかぶさるように、ねばつく情を寄こすものだ。
私はそれをよく知っている。しなびたインクからではなく、私自身の経験から身につけた。
知性の味わいは書物でこそ得られるべきだが、普段とは違った食べ方をするのも悪くない。経験もまた私に十分な喜びを振舞ってくれるのだ。
もちろん、その経験が親愛なる助手との付き合いであることは言うまでもないだろう。
だが、なぜ混ぜ肉は咲夜の虜となってしまったのか。
私の知恵はそのこたえの所在こそ、咲夜の容姿にあるのだと言ってみせた。そうだ。咲夜はとても可愛らしいじゃないか。
ちょうど本棚の一つを私が支配するごとに、咲夜は美しく成長してみせた。こどもから少女へ。少女から女性へ。しかし、なにより私が好ましく思うのは彼女がその成長の限界点からぴたりと立ち止まったことだった。
時間の感覚が曖昧であるため正確性には欠けるが、咲夜はそろそろしわが掘られ、しみが浮き出て、頬に満ちたやわらかな水気さえ逃げ出している頃のはずだ。
それがどうだ。
彼女は老いることのない、劣化しない人形そのものだ。だが、発育を停止させた玩具ではない。生きているのだ!
これは大げさに言っているわけでも、私の頭上に浮かぶ出来事を語っているのでもない。
確かに愛は独特の幻想を生み出すが、あのついばみたくなる肌を、弾力のある唇を、潤いを忘れぬ瞳をどうしてここにあるものだと認めてはいけないのだろう。
咲夜の時間はいつまでも美しいままだというのに!
つまり、こういうことだ。彼女はとても満たされている。その裸体は乳と血で、はちきれんばかりなのだ。
まことに結構。レミィのものでなかったら、私がつばをつけていたかもしれない。
そのような、魔女でさえ籠絡する魅力が、ただのたんぱく質に通用しないはずもない。ハンバーグステーキもまた、咲夜の容姿に惹かれてしまったのだ。
そう考えたとき、私はいつの間にか同好の士が咲夜にどのようにされていたのかを目蓋の裏に思い描いていた。
力強く、乱暴に潰されたのか。ゆっくりと、撫でるように握られたのか。
細い五本の指がゆっくりと縮み、その隙間から生み出される真っ赤な肉。温かな肉。人肌の肉。人肉ペースト。
そして、やってきた「まぜなさい」の愛しい声を私がどう解釈するか。
「わかるものでしょう?」
「パチェ、あなた疲れているのよ」
余白の隅にいる親友は、わかりやすい笑みを浮かべながらこたえた。
ユーモアと冷やかしを装った、冗談っぽい言い方だ。
「もう。あなたが好きってことよ」
「私、食料的な愛は重くて受け取れないの。小食だからね」
とうとうレミィは声をたてて笑い出した。
やれやれだ。こちらは大まじめだというのに。いつだってつれないんだ、彼女は。
私は大げさに肩をすくめた。こんなことで彼女の気をひくことなどできないとはわかっているが、そうせずにはいられなかった。
だって、安心できるじゃないか。
「それで」
「うん」
「どうしてほしいの?」
レミィのお願いは天候のようなものだ。
穏やかな午後の空が突如、雨を降らすこともある。その雨が槍となり私を穴だらけにすることもあるし、壁となって押しつぶすこともある。
レミィの甘い言葉は加減知らずで、気まぐれで、災厄にも等しい。頭痛の猛威を知らしめるおそるべきものが今、彼女の口からこぼれようとしていた。
だが、どれだけ不安や懸念に悩まされようとも、友情はそれらをひょいとつまんで飲みこんでしまうものだ。
だから、私は大事な親友の願いはただの一度しか断ったことがない。
私にできることといえば、彼女の思いつきが呆れさせながらため息をもらす程度の、可愛らしいものであるのを願うことだけ。
しかし、勘違いしないでほしい。これは諦めではなく、許容なのだ。
レミィは目を輝かせ、頬にたっぷりの愛嬌を詰め込んで私の質問にこたえた。
「小悪魔が忙しそうにしていたじゃない。またなにか、やるんでしょう?」
そのこたえを受けて、胸中でふくらみ続けていた黒いもやが次第にうすまっていくのを感じた。それまで身内の秩序を乱していた私の神経はすっかり落ち着きを取り戻した。
しかし、次の瞬間、考えを改めたかのようにふたたび神経はぐずり始めた。こいつは夢と現実を行き来する赤子のように過敏なのだ。
歯の隙間からため息が漏れ出た。
生ぬるい微風は薄暗い視界の中に消えていく。それは、精神の均整を担う心地のよい……安堵、平穏、そういった活力が体外へと噴出していくようにも思えた。
私は本を閉じて、彼女の方に顔を向けた。
これ以上、無理をして読む気にはなれなかった。ずっと細めていた目がじくじくと熱を持ち始めている。
眉間を指でつまんでみるが、ちっとも楽にはならなかった。
「もう満員よ」
レミィの唇の右端がわずかにあがった、ように見えた。
これはよくない兆候だ。
「じゃあ、誰かが抜ければいいじゃない。そいつも喜んでやってくれるわ。私のためだもの」
「この実験はどうしても失敗できないものなの。だから、だめよ」
「私がいるとそうなるって言ってるみたいに聞こえるけど」
「あら、かしこいじゃない」
引くことのない痛みの波が言葉を鋭く削りあげた。
場の空気がだんだんと重みを持ち始めている。それに冷たさも。
室内の暗さがより一層深くなり、眼球を責め立てていた刺激は息をひそめるようになった。
そして、私たちは黙って互いを見つめあっている。
見つめあって? 馬鹿な。本を閉じた今、私が見るべきものがどこにあるというのだろう。
それは彼女のはずだ。しかし、目の前に立っている彼女に視点を定めても、どうしてもここにいるという実感が湧かずにいる。
もちろん、レミィはここにいる。私の前にいる。不機嫌そうに立っている。
だが、ほんとうに彼女はレミィなのだろうか。
彼女の姿が、脳に到達する前にどこかで溶けていくような、神経に焼き付く前に眼球の上を滑ってそのまま落ちてしまうような、いや、とにかく自信が持てなかった。
こんなことを考えるのも目が頼りないからに違いない。今のこいつは油断すればすぐさま怠けてしまい、ときには輪郭までぼやけさせてしまうのだ。
髪の柔らかさも、瞳の色合いも、鼻の大きさも、はっきりと見えなくても問題にはならない。
だが、輪郭だけは違う! こればかりは違うのだ!
器が歪めば中身もそれに倣うように、形があいまいなままの生命などあってはならない。そんなものは見るに堪えない。形式からかけ離れているし、あまりに美しくない。
私は、泥の中で泡立つ出来そこないのホムンクルスを前にしたときのことを思い出した。
その過去の実験は中途半端な成功に終わったのだ。しかし、中途半端な成功とは完全な失敗よりも性質が悪い。始末に困るからだ。
嘔気をうながすあの土くれが頭の中に鮮明に描かれる。ありもしない汚泥の臭いが目に染みるようで、身体の芯は冷たい湿っぽさに覆われた。あのときに味わった気分が再現されるようだった。
それはひどく気持ちの悪いものだ。
「わかった、わかったわよ。参ったわ。こうさーん、ね?」
声が突然、耳に入ってきた。聞かせる相手の心を親切で寛容なものにしてしまう類の声だ。
視点を意識すると、暗がりからレミィの姿が浮かび上がった。可愛らしい、甘えるような仕草でこちらを見ている。
どうやら彼女は、私が沈黙を武器に徹底抗戦を始めたものだと勘違いしているようだった。
私はすぐに頷いた。
「そうしてくれると助かるわ」
「うん。だからね、どんなことをするのかくらいは聞かせてよ」
皮膚が粟立った。彼女の要求はただ発せられるだけで私の警戒心を掻き立てる。
血が一気に薄まるのを感じながらも、私はその内容をなんとか吟味しようとした。すると、徐々に落ち着きと共にこれは例外なのではないかという考えが湧きだした。
どのような実験かを教えるだけ、それだけでこの窮地を脱することができるのだ。
そう考えると、私にはこの提案が急に魅力的に思えてきた。
自分のデザートを他人に譲ろうと思った瞬間、そいつの甘みがぐんと増したと錯覚するように……いや、違う。これはそんなみじめななぐさめではない。そのはずだ。
「ね、いいでしょ? 甘いの、用意するからさ。咲夜、咲夜ぁ?」
「はい」
「ああ、咲夜。あのね」
「お待たせいたしました。チョコレートです」
「まだなにも言ってないわよ」
「ええ、口では。目ですね。目が仰ってましたわ」
気づくと、四角いチョコレートが規則正しく並ぶ皿をレミィと一緒に囲んでいた。
椅子に身を預ける彼女の傍らには咲夜が静かに立っている。
ここにきて事態は腰の居心地に満足して、身体をゆするのをやめたのだ。
それが咲夜の仕事の早さか、それとも私の決心の遅さによるものかはわからなかった。だが、ここまでされてそれでも話さなければ、いよいよレミィは舌の代わりに爪でも突き出すかもしれない。
私は肺の中にある澱みをゆっくりと吐き出した。
ため息は日々重みを増すばかりだ。それが身体にまとわりついているから、のろのろと這うように動くしかない。だからいつも、袋小路に追いやられる。私に選択の余地はなかった。
まったくどうにも侭ならない。生きることはどうしてこんなにも私に優しくないのだろう。そうだ、優しくない。これっぽっちも優しくない。ひょっとすると不遇に差し伸べられる手の暖かみを知らないのかもしれない。嘆かわしいことだ。
それで、とレミィは間延びした声で言い始める。彼女の機嫌はすっかり心地よさを取り戻していた。
私は口内に横たわる不満を舌で一つ一つ押しつぶした。
「こそこそ隠れてなにをしようとしているのかしら」
「べつに。隠していたわけではないわ。言わなかっただけ」
「知らないの? そういうのを秘密って言うのよ」
レミィは強い口調で言った。
彼女の唇は弓と同じ役割を果たしている。唇の端がつり上がる程、放たれる言葉の威力は増していくのだ。
このおそるべき凶器に真っ向から対立してはならない。そんなことは馬鹿のやることだ。
そして、私は馬鹿ではない。魔女だ。賢者だ。知識と血の混合物なのだ。
だから、かわし方だってわかっている。強い力は受け止めずに流すべきだと。
「言わないわ。秘密とは食事のメニューを一品減らすべきかどうか悩む人が持つものよ。ところで咲夜。あなた、前より服の下がずいぶんと豊かになったんじゃない?」
「あら、そんなことはありませんわ。お嬢様、パチュリー様はどうやら目を悪くされたようです。きっと実験というのもそれに関するものなのでしょう」
もちろん、わかっている。避けたはずの脅威が思いもよらぬところから襲いかかることもあると。そして、それは馬鹿の身に起こることだとも知っている。
ではこれは、私の知性が成し遂げたこの事態は、いったいなんだと言うのだろう。
私は馬鹿ではないはずだ。ならば、こたえはおのずと見えてくる。
そう、これこそ彼女たちの愛なのだ。言葉ではその情熱を表現できない感動の淵に私は今立たされている。
なんら不思議なことではない。彼女たちと接するときにやってくる息苦しさや、おずおずとしたぎこちなさはまさにその証明だ。そんな、ささやかな幸福を予感させる彼女たちが、私を悲しませる真似などするだろうか。
ためしに私は咲夜の目を覗きこんだ。
すると、瞳には私がいる。私だけが映っている。私だけがそこにいる。そうして、咲夜はにっこりと微笑んでさえみせた。
私はほんとうに深い感情が呼び起こされるのを実感し、それに満足して視線を戻した。
そこに、レミィの顔と声が同時に飛び込んできた。
「なぁに、パチェ、目がダメになったの? だったら取り換えればいいじゃない。スペア、あるんでしょう?」
「その案は悪くないけどそうしたら誰が私の雑事を手がけてくれるのかしら。咲夜をくれるの?」
「やっぱりあなたには小悪魔が必要よね」
レミィは自分の言葉に一人納得し、この話題の始末にかかろうとしている。
私の舌先が彼女の背後に狙いを定めたのを感じ取ったのだろう。誰だってお気に入りの品に対する気配には敏感なものだ。
ここで相手がレミィでなければもう少し舌でもてあそぶところだ。だが、気のいい親友役には耐えることも必要なのだ。
なに、苦にはなるまい。我慢はその後に待つ快楽にスパイスを添えるようなものだ。
だから、私は素直に実験の具体的な説明をしてやった。
「目にレンズ? 面倒そうなことをするのね。いつから人間になったのよ」
私の説明を三杯分の紅茶と共に流しこんだレミィは、眠たそうな口調でそう言った。
彼女の好奇の目は潤いをなくしたようで、すでに目蓋を落とそうとしている。
それについて不満はない。むしろ、好ましく思う。彼女のそういった振舞いは私をひどく興奮させるのだ。
しかし、どうしても言わなければならないことがあった。
「人間の真似事とは思われたくないのだけれど」
「でも、そうなんでしょ」
「アレンジよ」
「ほら、魔理沙みたい」
会話が止む。
私は口を開いてはみせたのだが、そこから一言も洩れることはなかった。
私の負けだった。レミィは頬をゆるませている。
だが、その笑みは私を打ち負かした優越によるものではない。チョコレートの濃厚な風味がもたらした幸福を訴えているに過ぎないのだ。
ふと、私の舌の上にも溶けたチョコレートが転がっていることに気づく。甘味の持つ安らぎが体を包んだ。だが、いつの間に?
自分の指を顔に近づけるが、チョコレートの香りはしなかった。だから、すぐにわかってしまった。
ああ、咲夜!
目をこらして見た彼女は、変わらず微笑んでいた。だが、そのなめらかなカーブの唇が意味するものはまるで違っているのだ。
まったく、どうして彼女はそこまで私を惹きつけるのだろう。
その魅力はもはや暴力的ですらある。胸のうちを焼き焦がし、心臓を無遠慮に殴りつけるのだ。
私は咲夜から視線をはずした。そして、身体の奥底が激しく波打つ感覚を味わいながら、レミィが皿を真っ白にするのを黙って見つめた。
やがて、舌を満足させたレミィは指を舐めながら席を立った。
「それじゃ、邪魔したわね」
思ってもいないことを平気で言うのが悪魔のたしなみなのだろうか。
「霊夢のところにでも行こうかしら」
「あなたも飽きないわね。でも、助かるわ」
「どうして?」
「実験のできる時間が増えるもの」
思っていることをそのまま言うのは魔女のたしなみだ。
私のお返しにレミィは肩を落とすこともせず、振り返って言った。
「あら、嫌われちゃったわ。咲夜、なぐさめてよ」
「夕食はハンバーグステーキにいたしましょう」
「そんなことで私が満足すると思って?」
「そうですね。では、メニューは予定通り香りの強い野菜を使ったものに」
「ねえ、知ってる? 私の自慢はあなたのような、一度言ったことをひっくり返さないすばらしい従者を持っていることなのよ」
結果のわかりきったやり取りを茶番と呼ぶのだが、彼女たちはそれを忠誠と称していた。
ご苦労なことだ。だが、それすらも彼女たちの美点なのだ。
ところで私には今、ちょっとした疑問ができた。
咲夜がいかに優れたメイドであろうと、主の不機嫌を予測して余分なメニューの下ごしらえを済ませることなどできるはずがない。
では、彼女の小指を愛した私のよき友はいったいなにものだというのだろう。
「咲夜。今日のメニューはその野菜となんだったのかしら」
「スープを」
「味付けは誰の血かしらね」
「ミルク色のものですわ。こちらはメイドたちで処理いたします」
「私は赤色のなにかが出てくると思っていたのよ」
「それでしたら、デザートですね。いちごのジャムを作ったので」
「ジャム?」
「ええ。召し上がりますか」
「いらないわ」
咲夜の言葉は、私のよき友を一瞬にして打ちのめすべき敵にさせた。
突如、ジャムが持つ馴れ馴れしさを思い出し、ひどい不快感が私を染め上げた。誰に向けるべきかわからない怒りが行き場を失い、胸のうちではじけた。
その瞬間、何度見ても飽きのこない彼女たちの姿が、色を失ったかのように味気のないものになった。まばたきの最中に別世界へ運び去られたのだ。そう錯覚するほどにこの場は変わり果てていた。
胃がうなり、酸っぱく苦いものが喉の奥をさまよっている。
ひどく気分が悪い。彼女たちの姿が視界の端に引き寄せられるように歪みさえした。
私は手近にあった本をなんとか開き、それで顔を覆い隠した。古いインクと紙の香りが今、私に残された唯一のなぐさめであった。
そのうち、二人分の足音が、続いて扉の重い音が聞こえ、辺りは元通りの静けさを取り戻した。私の脳中があたたかな液体で満たされる。ふるえはどうにか治まってくれた。
だが、恐怖が去ると、喪失感と孤独感が入れ替わりやってきて私を責め立てた。
……違う、私じゃない! 私は、彼女たちの……私が彼女たちを裏切るはずがないじゃないか。
私は愛の苦役にどれほどの価値があるかを知っている。だからこそ、こんな軽はずみな行いは絶対にしない。当然だ。愛を確立させるために罪のない嘘を口にする程度は許されてしかるべきだ。だが、このやり方はそれとはまったく違っている。
では、彼女たちの放つ魅力を汚したのは誰だ。私を陥れようとしているのは……もしかすれば……ああ、おそらくはそうなのだ。
目だ。そう、目のせいに違いない。
頼りない目が真実をねじ曲げたのだ。この目はもはや、信用ならない。
こんな目で彼女たちを見ることすら、私には恥ずかしいことのように思えた。今となっては愛しい彼女たちの手の感触や、唇の温かさ、優しい声だけが私の真実だ。
目が元通りになれば、色鮮やかな視界になれば、彼女たちを見ることも許されるだろう。
声や感触だけの存在ではない、本物の彼女たちを楽しむことができるのだろう。
実験を急ぐ必要がある。できることなら慎重に進めたかったが、もはやそんな猶予はない。この際、安全性に多少目をつむってでも薄膜のレンズを早くはめ込むべきだ。幸い、今のこの目は役立たずなのだから目をつむろうとする手間は省けている。
こんな目が開いていようが閉じていようが、どちらでも同じことなのだから。
なにもかもがぼんやりとしか見えない。この事実は今や、私の足元にいつ底なしの穴ができてもおかしくないように思わせた。
魅力的な彼女たちがはっきりと、ほんとうによく見えるようになるにはこの目では駄目なのだ。視力が元通りになれば彼女たちと再会できる。いや、前以上にすてきな光景が待っているのかもしれない。
心を安らげる自然の色合い、輝かしい彼女たちのその姿、これらがもたらす穏やかな感動に涙を浮かべるのは、私に与えられる当然の権利なのだ。
見てみたいものだ。その愛おしい顔を。赤ワインをたっぷり味わった唇、グラスよりも輝く瞳、バニラアイスクリームのように白い肌!
ああ、はやく、はやく、はやく―――はやく!
幸福がこの目に宿ることを夢見て、私はすぐに作業に入った。
3
真っ先に手を顔にあてた。
起きたばかりの身体は、それが自分のものではないかのようにぎこちない動きしかしてくれない。
それでも目蓋が息苦しさにふるえていることは包帯越しでもわかった。あるいは怯えているのかもしれない。かわいそうに。だが、それも今日までだ。
なぜなら、私は、私は……ついに成し遂げたのだ!
どれほどの苦しみを味わったことだろうか。
レンズを定着させるためには時間が必要だ。つまり、気が遠くなるほどの忍耐が不可欠なのだ。
私を楽しませる彼女たちの感じのいい輪郭はもちろんのこと、文字すら見えない生活は四肢に空しさを詰め込ませた。そう、書物を味わうことすらできないのだ。
どうしたって、ぎゅうぎゅうに詰められた清潔な綿と、何重にも巻かれた真っ白な伸縮包帯の前では、本は無力な存在でしかない。なぐさめに手でなぞってみても、いつものしなびた香りが通り過ぎるだけで、私一人が置き去りにされてしまったというおそろしい感覚が残るだけだった。
肉体的な痛みこそほとんどなかった。しかし、それ以上になにもかも投げ出したくなるような疲労感が重くのしかかり、私はベッドの上でじっとうずくまるだけの生活を強いられたのだった。
「おはようございます、パチュリー様。お加減はいかがですか」
「悪くはないわ」
「良くはないのですか。これからはずしますのに」
「あるいは」
「はい」
「あなたがよく見えるようになればね」
「それならもうすぐですよ」
小悪魔の快活な口調と穏やかな笑いが、自信を与えてくれる。待ち受ける幸福への期待がむくむくと勢いよく膨らんだ。
小悪魔が私の後ろへと回った音。そっと包帯をはずしていく思いやりのこもった手。包帯の当たっていた部分がひやりとする感覚。ああ、今あるものすべてが愛おしくて仕方ない。
解放された目蓋が、ぴくぴくとふるえた後に自然と開いていく。
部屋は以前と変わらずほの暗いはずだったが、私は確かに強い光のようなものを感じた。その先にうっすらと見えるのは、見渡せないほどの書物の山だ。
私は一息に目蓋を開いた。
張りつめた糸を引き抜いたような感じがして、次に強い刺激がどっと襲いかかった。私はもう一度目蓋を落とし、呼吸を意識して、それからまた目を開けた。
室内を照らすわずかな光が霧になっていた。じっとしていると、霧は少しずつ薄れていき……そして……そして……。
「嘘じゃないわ。本物が見えるわ。ほんとうの」
安堵と喜びが混ざり合い、余計なことは思いつかなかった。
室内のあらゆるものの輪郭がはっきりしていて、鮮やかな色の調和を楽しむことができる。以前とは比べ物にならないほどに。
久しぶりに見える光景はひどく懐かしく、身体の奥底からあたたかいものが漏れ出るように感じた。鼻は燃えるほど熱くなり、息は落ち着きをすっかりなくしていた。
こんなにも心馳せるものだったのだろうか。ものを見る、ただそれだけのことがとても豊かに感じるのだ。
目に入るあらゆる形が崩れることなく飲みこまれていく。
どんな困難であろうとこの瞬間の昂ぶりを思い出せば打ち砕くことができるだろう。それほどに力強い輝きが私の中に生まれていた。
「良くなりましたか? 具合の方は」
愉快そうな小悪魔の声。
そう、彼女にはここまでの間にとても世話をかけた。この幸福を分けてもやらなければ、感謝の一つでもしなければならない。
そうでなくては跳ねまわる私の心はさらに狂喜に踊ることになる。
振り返りながら、私は言った。
「ええ、小悪魔。ほんとうに」
ありがとう。
その言葉が舌の上で急速に溶けていく。
微笑みを浮かべたいつもの彼女はどこにもいなかった。いや、微笑んではいる。いるのだが……。
私の後ろにいたのは、一匹の悪魔だった。
いや、小悪魔は悪魔なのだ。なんら不思議なことはないじゃないか。おかしなところなど、なにもない。
鋭く幅の広い角が頭に二本。血を吸ったかのように濁った色だ。こんなものが小悪魔にあっただろうか。でも、羽はある。だけど六枚もあるし、どれもぼろぼろだ。
しかし、声は、服装は、よく知っているものだった。顔だって、顔だって、私のよく知っている……。
「パチュリー様?」
小悪魔はこちらを覗きこむために首をわずかに傾けた。カサリとこすれるような音が聞こえた。
以前なら可愛らしいと思えるその仕草も、今は威嚇を思わせた。
間違いではない。獲物は恐怖にしびれているのだから。
彼女から聞こえる音の正体、それはあの虫どもだった。本棚の隅でみじめに転がっているはずの虫どもが。
一匹や二匹ではない。大きさこそ様々だが、どれも同種のものだということはよくわかる。あの背中を鈍く光らせる黒い虫どもが、彼女の顔に開いた無数の穴からうごめき出ては這いまわっている。
「寝るわ」
うめき声や悲鳴よりも先に出たのは私に一番必要な言葉だった。
なによりも時間が必要だ。考える時間。これらの事態を見定める時間。
すぐに目の前の悪魔から視線をそらした。もしもこいつが小悪魔なのだとすれば、すぐに部屋から出ていくだろう。
だが、悪魔はその場から動こうとはしなかった。じっと立ちつくし、考え込んだような目でこちらを見ていた。
その目は顔中に住み着いている虫どもよりもなお暗く、瞳はその中にひっそりと沈んでいた。
「そうですね。それがよろしいでしょう。ずっと閉じていらっしゃったんです。長い間使っていなければそれだけ刺激も強く感じるでしょうから」
一息にそれだけ言って、悪魔はようやく去ろうと歩きだした。
歩いている間にも音がする。虫どもの足をこする音。距離がどれだけあっても耳の中に居座ろうとする類の不快なものだ。
それに、あれだけの数がいるにも関わらず、虫は一匹も落ちることはなかった。
そうして悪魔は、部屋を出るときにこちらを振り返った。
「お休みなさいませ」
相手を心底思うような慈しみの声。それは間違いなく小悪魔のものだった。
扉が閉じる。同時に私は立ち上がった。
まず、考える前にやることがある。一番勇気のいるものだが、事態の把握には絶対に必要で、解決のためには避けては通れないことだ。
私は中央にあるテーブルの前に向かった。
見覚えのないカップがある。だが、その中身はしっかりと覚えている。昨夜の飲み残しの紅茶だ。
唾を二度、三度飲みこんだ。
いっそ、この紅茶を飲んでしまいたい。だが、それでは逃がしてしまうだけだ。それに魔女が恐れをなしてどうするのだ。
私は意を決してカップを覗きこんだ。
「…………馬鹿みたい」
重いため息を吐き出す。だが、そこに悲観はない。
カップの中には私がいた。以前と変わらない私の顔がこちらをじっと見つめている。
さて、こうなると実験の失敗とは考えにくい。この薄膜は間違いなく機能している。現に周囲のものはしっかりと見えているし、輪郭が揺らぐことなどわずかもない。
小悪魔にたぶらかされたか、という考えが頭をよぎったが、私はすぐに否定した。それこそあるはずがない。
だって、小悪魔なんだから。
彼女に私をだます技量と知能があるわけがない。魔女が悪魔にしてやられるなど現実に起こりえないのだ。
だが、実際に事態は起こり、私は参ってしまっている。
いや、しかし……それにしたって、彼女がこんなことをする理由がない。私は彼女を愛しているのだから。
そうだ、私の可愛い小悪魔がどうしてこのような陰謀を企てるだろうか。
そんなことをする必要が彼女にはあるのか。いや、ない。そんなものはない。決まっているじゃないか。
確かに小悪魔に向けた私の愛情はいささか遠回しなのかもしれない。
だが、それを誰がとがめられよう。この感情の熱烈さはたいへんな若さを持ち続けていて、いつまでも衰えを知らないのだ。
それもそのはずだ。
小悪魔はじつに魅力的で、彼女の笑みこそ私のお気に入りなのだから。さらにその笑顔には、多くの味わい方があるというのだからたまらない。
ただ率直に、無邪気に堪能できる朗らかな笑みもいい。頬だけでは抑えきれずにぽろぽろとこぼれる笑い声も刺激的な風味をそえてくれる。よわよわしい、涙を内側に溜めこんでいるときのぎこちない笑みなど特に味わい深い。薄氷を踏みくだくような興奮を私の奥底で湧き上がらせる、すばらしい笑みなのだ。
このように、いずれは豊かなみのりとなる感覚を捨てるような真似など私にはできない。そのため、私は小悪魔にも愛を約束している。愛しているとあからさまに口にしてみるし、虚飾をまじえながらこの熱情をそれとなく伝えてもみた。
そう、こんなにも私は彼女を大切にしているのだ。だから、彼女も私と同じ心もちであることは容易に想像できるだろう。
おお、私たちは愛し合っている! これはまず間違いようのない事実なのだ。
ではその事実を、すなわち私と彼女たちのささやかな営みを汚したのはいったい誰の仕業だというのだろう。
少なくとも私ではない。もちろん、小悪魔でもない。
とすれば、消去法だ。それしかない。
消去法だなんて、あまりにおろかなやり方じゃないか。でも、私にはこれしかない。暗がりをあてもなく進むことはできても、一度つまずけば歩みは自然と遅くなる。
誰だって間違えたくないのだ。
そう、間違いは起こらないようにしなくてはならない。のろまで臆病な方法には違いないが、一番確実なやり方なのだ。
自分によくよく言い聞かせてから、私は部屋の外へと向かった。
「あ、おはようございます」
「……おはよう」
出迎えたのはネコだった。
洒落た表現をしているのではない。獣そのものがそこにいた。
そいつは四つ足ではなく、二本の後ろ足で床をすべるように動いている。前足はバランスをとるためか宙をうろうろとさまよっている。いったいどのようにしたのか、給仕服まで着込んでいた。きわめて奇妙な光景だ。
あいさつだけで自分に用がないと見るや、ネコは早足にどこかへ行ってしまった。おそらくは掃除の最中なのだろう。ネコは口でモップの柄をくわえていたのだ。
そのネコと交代したかのように廊下の角から現れたのは、手足のないカエルだ。こちらも給仕服を着用していて、袖口からだらりと垂れ下がる尾びれのようなものが見えた。首まわりの部分は妙に白い。
ずりずりと胴を床にこすりつけながら這っているくせに、動きは実に俊敏だ。
体がくねるたびにピッチャピッチャと水音が響き渡った。しかし、飛沫はまったく見当たらない。
なんだというのだろう。なんだというのだろう。
この……この、奇怪な世界……違う、おそろしいけだものが……そうじゃない! このふざけた……そうだ。このふざけた、作り物めいた光景は!
そこまで考えて、はっとする。一つの激しい胸のふるえが私の中で生まれていることに気づいたのだ。それまでおびえていた心臓の鼓動は、今や確かな怒りとなって私の中で息づいていた。
そう、怒りだった。
眼前の安っぽい仮装の群れに血液がざわつき、嫌悪感を露わにしている。人としての形を、美しく整えられたあの肢体を、私から奪おうとしている第三者の悪意にこめかみは熱くなっていた。
いったい、誰がこのような馬鹿げた真似をしてくれたのだろうか。もはや、これらの事態が悪意によって引き起こされていることは明白だ。
私は下唇を噛みしめた。そうしなければ、この口はあらん限りの声を張り上げ、とても汚らしい言葉を吐き捨てていることだろう。
激情に任せて脚が勝手に行く先を決めていく。廊下はいつも以上に長くなり、いくつもの扉が現れては消えていった。目がぐるぐる動き、頭もそれにならう。黒幕は。手段は。目的は。
誰が……いったい誰が!
「咲夜です」
先ほどまで感じられなかったおだやかな息遣いが、突如私の真横に現れた。
とっさに声のする方へ振り向こうとした。しかしその瞬間、首は分銅のように重くなってしまった。理由はすぐにわかった。
私はひとりごとのように言った。
「だれ?」
「そんなさみしいことを何度も仰らないでください。咲夜は悲しいですわ」
「あなたが? 馬鹿みたいな冗談ね」
吐き捨てるようにこたえた。
その女の周囲は水中のようにゆらゆらと揺れ動いている。空気の味さえ変わっているに違いない。
しかし、咲夜を名乗るこの女はなにひとつ変わらずここに立っている。つまり、本物なのだ。
割れた鏡のような唇も。やせ衰えた指先も。波打つ顔のしわも。薄汚れた前掛けも。枯れ枝の髪も。ゆがんだ爪も。すべてが、本物だということだ。
咲夜は、変わらず生きているのではなかったのか。なにも変わらずに生きているはずだ。だが、綿のようにやわらかい上唇と豊かな肉の下唇が運んでくれた興奮はもう死んでいる。熱したバターのような瞳はすっかり冷え固まっている。目の前の事実は私の愛しい少女を消してしまい、それからそれが正しいとでも言わんばかりにそこにこの女をあてはめた。
咲夜は消えてしまったのだ。まるで……そう、まるで、押しとどめていた時間の波に飲み込まれてしまったかのように。
思い浮かんだ不出来な冗談に、血の気はさっと身をひいた。
乳と血の枯れ果てた老婆は、そんな私を見てにたりとわらった。
「あら、今日は体調があまりよろしくないようですね」
「最悪よ」
この女の言葉自体が私をひどく苛立たせた。
女の声は間違いなく、あの美しい咲夜の音色なのだ。精力的で、軽やかで、いやらしいところはまったくない声。しなびた女にふさわしい、重荷を背負うことに疲れた声では断じてなかった。咲夜の、咲夜だけの声だ。
そうだ。咲夜は死んではいない。咲夜は死んではいない。
目を閉じればはっきりとわかる。そこにいる。目の前に。そろそろと目蓋を開けると、やはりそこには咲夜が……違う、咲夜じゃない、咲夜じゃない女がいる。これは、咲夜じゃない……。
もう、うんざりだ。疲労と怒りで胃の中がはちきれそうだ。
何事にも限度というものがある。この悪ふざけにもおそらくあるのだろう。だが、それはいつ来るのだろう。私が泣き真似でもすれば、奴らはその不愉快な仮装をやめるのだろうか。
もちろん、試す気などまったくない。私がこれからするべきことはそれとは逆のことなのだ。
耳の内側が冷たくなるのを待ってから、私ははっきりと女を見つめて言い放った。
「ねえ、いい加減にしてちょうだい」
「はい?」
「やめてって言ってるの。そのふざけた真似を」
「ああ、はい。また、あの子たちがなにかやらかしましたか?」
女は先ほどと寸分変わらぬ笑顔でこたえた。その笑みは見ていて実に醜悪で、私の胸のむかつきを増長させた。
それだけじゃない。こいつは今なんて言った?
なにか……なにかとは、よりにもよってなにかと言ってのけたのだ。
「私はね、あなたのこと、結構気に入っているのよ? だから我慢してるんじゃない」
「……はあ」
空気をたっぷり吐き出した風船を思わせる調子で女は言った。
そのどこかで聞いた覚えのある気の抜けた返事に、知らず右手はちょうどいい重さの本を探していた。
なかなか見つからないなと思い始めたところで、ここが廊下だということにようやく気づき、ごまかすように手は腰のあたりをうろついた。
私はその手に急かされるような気分で言葉を続けた。
「でもあなたの中の私は、馬鹿にされてそのまま黙っている小娘にでもなっているの、ねえ?」
「いえ、いえ。そのようなことは決して」
「だったら早く戻しなさいよ。着替えてきなさい。その顔を、早く」
言うべきことを言うことができて、気になっていたちいさなトゲが抜けたように感じた。
充足感が身体を落ち着かせてくれたので、私は先ほどよりもゆったりとした目で女を、咲夜を見ることができた。そこで私はぎょっとした。
咲夜は眉をわずかに動かしていた。とても珍しいことだ。彼女の顔の皮膚は笑みの植民地と化しているのではなかったか。咲夜の笑みは強大な力で、そのほかの表情どもの反逆をことごとく鎮圧しているのだ。では、今は。
私はじっと目の前の女を見つめた。そして、その表情の鋭さを察して、ようやく答えが見つかった。
これはつまり、革命が起きたのだ。
一線というものがあり、それを越えると大体がとんでもないことになる。ひどい熱に悩まされたり、感情がぐるっと逆立ちしたり、射殺されたりする。線とは沿って歩くべきであり、またいではいけないものなのだ。
そして私は今、確実にその線を踏みにじっている。
「パチュリー様のおっしゃる冗談は、ちょっとわかりづらいですわ」
それだけ言って、咲夜は私の目蓋が閉じている間に行ってしまった。
相手を不快にさせないような去り方はまさしく彼女のものだった。
だが、それだけでは足りない。あの落ち着きない眉と当惑したまなざしがある限りは。まるでこちらが失礼な物言いをしたかのような!
当然のことだが、咲夜を追おうなどという考えはまったく浮かばなかった。そういう気分にさせるものがあの咲夜、いや女には足りていなかった。
ほっそりとした首筋に浮かぶちいさな玉の汗や、胸から腰にかけて描かれる艶美な曲線から熟成される、ある種の特別な雰囲気というものが圧倒的に不足しているのだ。
その雰囲気は実に心地のいいもので、いつも私の味方でいてくれた。背中をひと押ししてくれる頼もしい友であり、背中を預けられる素晴らしいパートナーだった。
だが、どうだろう。一途な熱っぽさを手渡してくれるはずの空気はすっかり消えてしまっている。
この長い廊下には窓がない。壁を通り抜けることのできない空気は、おそらく、あの女に全部吸い取られてしまったのだ。
あの女に。
しわくちゃで色素の薄い髪をしたあの女。澄んだ目をしたあの女。
「見てたわよ。行かないの?」
なんとも可愛らしい声が背中にぶつけられた。
その声は私の耳の中にするりと入り込み、奥深くで勢いよくはじけた。その内側からの衝撃に肩が小刻みに震えた。
「追ってあげなさいよ。咲夜はああいう顔も悪くないけど、そうさせていいのは私だけなのよ」
「知ってるわ」
「で? なんて言ってやったのよ」
いよいよだ。これはいよいよ、そのときが来たということだ。
「あなたにも言ってあげましょうか」
「ふーん。そんなにおかしなことを言ったわけ?」
手招きをしているような調子で、レミィは言った。
そのうっとりするほど愛くるしい声は、私の頭上に浮かんでいたレミィの姿をより強固なものにした。
大丈夫だ。レミィは大丈夫なのだろう。こんなにも愛しさを覚える声が、ほかにあるはずがないのだから。
辺りは私たちを見守るように静かだった。廊下は途方もなく長いというのに誰の姿も見当たらない。心なしかうす暗くなってさえいるような。
だが、私が振り返ればそうではなくなるのだろう。もしかしたら、彼女たちが息をひそめて待っていて、わっと一斉に飛び出してくるのかもしれない。
驚きましたか? ちょっとした冗談ですよ。洒落っ気たっぷり刺激を少々。そう言って、手を打ちあうのだ。
そこで空想を打ち切った。
幾分か興奮と恐慌は去ってくれた。下腹部にあった痛みが次第に溶けていくように感じた。
大丈夫。レミィは。レミィは。
身体の奥底にすりこむように私は唱え続けた。そして、勢いよく身体の向きを変えて、言い放った。
「私の前から消え失せなさい。この化け物」
「……あはっ」
期待通りの笑い声が廊下中に響き渡った。
「なぁにそれ? ん? そういえばパチェって私に吸われるの嫌がってたわね。歯が痛いからって!」
なおも化け物は笑い続けた。この世のすべてがおかしいかのようにくすくす笑った。
期待通り、そいつは私の冗談を面白がってくれたのだ。だが、もうひとつの期待とは裏腹に冗談はその本分を捨ててしまっていた。
「可愛いわね。昔から思ってたけどあなたって本当にキュートね、パチェ。ちっちゃなウサギみたい。いっつも首を振ってきょろきょろ周りをうかがってるの。それで安心してニンジンを一口かじるんだけど、また首を左右に振りだすのよ。ね、あなた、私が怖いの? 怖いかな? そうでもないでしょ。はじめの頃はひどかったけれどね。あなた、信じられないくらい暴れるんだもの。実は私の方がなにか失敗しちゃったかなって結構悩んだりもしたのよ。でも私のテーブルマナーはまったく間違っていなかったの。無理やりくらいが丁度いいんだって。その証拠にパチェもそのうち大人しくなってくれたじゃない。だから悪いのはパチェだったのよ。もちろん謝らなくていいわよ。私たち、親友だものね。なんでも笑って許しあう、素晴らしい仲だものね。あっは。ところでさ、パチェ。私、お腹が空いたの」
化け物は口が血でいっぱいだったので、耳で喋っていた。やわらかそうなピンク色の肉の突起物がいくつも耳の穴からはみ出ていて、それらの伸縮が空気を音に変えていた。
顔の方には大きな穴ができていた。どうやら口を開いているようで、血と泥の臭気が私の鼻先に当たった。
餌を待つ口の中は、泡立つ血と泥の唾液がくつくつ煮だっている。そのおぞましい体液が口を動かすたびに大量にこぼれ出るので、唇と歯茎と舌は常に鈍い光沢を放っていた。
「ね? ね? いいでしょ、たまにはさ」
身をくねらせながらレミィの声をまとった汚泥が、凄まじい速度ですり寄ってきた。
冷たくも清潔さを感じさせる白い肌などわずかも見当たらず、すべてが赤黒く塗りつぶされている。
私の胸のうちには恐怖も嫌悪もなく、ただ、大事にしていた、大切にしまっておいたものがほかの誰かの手によって台なしにされてしまったという無力感と喪失感だけがうずくまっていた。
どうしてこんなにも優しくないのだろう。どうしてこの目は私からレミィさえ奪ってしまうのだ。あまりにも、あまりにもひどい仕打ちじゃないか……あまりにも……どうしてこんなことができるのだろう。どうして……どうして……!
いつの間にか頬は冷たく湿っていた。
目の前の生臭い手が私の目尻にたまった涙を拭おうとしている。弾かれたように、硬直のとけた身体はその手から逃れるために後ろへと大きく下がった。
「ん?」
心底ふしぎなように、あるいはそんなことがあってたまるものかと馬鹿にするように、その顔は目を大きく開いた。
私はその視線に耐えられず、そのまま逃げ出した。
幸運なことに私を追いかけるものはいなかった。そして、不運なことに私の知っている姿もいなかった。
そのまま走り続けた私を迎えてくれるのは見知らぬ姿のものばかり。
人型の白煙が洗濯かごを持ち歩き、くちばしを生やした狼がこちらに会釈する。毛むくじゃらのなにかが掃き掃除をしているが、通った後には自分の毛が散乱する始末。門の外には複雑な紋様の描かれた紙がゆらゆら動いている。そして、階段を下りる気力はもう残されていなかった。
もはや、私が恋い焦がれたあの美しい姿形はどこにも残ってはいないのだ。私だけがただ一人切り取られてしまったような……。
そう考えただけでもう駄目だった。
血管に冷水を流しこまれたかのように悪寒が全身に染みわたる。それが恐慌へと変わるのに時間はあまり必要なかった。ある一つの考えが浮かんでしまったのだから。
ここでは私は、私だけが違うのだ。
つまりそれは、そのときがまだ来ていないというだけのことではないだろうか。
ほとんど転げるようにその場から走り出した。
口の中が酸味と鉄臭さでいっぱいになっても足を止めずに、一番近い部屋へと入った。
扉を開け、左側の壁に設置された鏡があるのを見て、ようやく足は止まってくれた。その瞬間、食道と気管から、内臓の不満の声がどっと押し寄せられた。
苦痛にあえぎながら、なぜ飛ばずに自分の足で来たのだろうとぼんやり考えた。
首を振り、余計なことを外へと追いだす。今はただ一刻も早く、確かめる必要があるのだ。
鏡に一歩近づくたびに天井は低くなり、壁はぐんと狭まった。床を踏みしめるたびに骨のギシギシという音と、筋肉のピクピク震える音が響いた。
黙れ。
強く念じると、雑音は遠くなっていった。
それもそのはずだ。鏡はもう目の前だった。
喉からなにかが飛び出しそうになった。どれだけ真実が優しくあろうと、なんの前触れもなく寄こされては受け入れることもできないだろう。
だが、それでもやはり、優しかった。
鏡には私がいるのだ。
変わらぬ姿。赤黒く塗りつぶされているわけでもなく、しなびた顔をしているわけでもない。本当の、まっとうな私の形。あるべきものが確かにあることの幸福が、そこには秘められていた。
だけど……でも……この姿もいずれは歪んでしまう。
私はもう逃れられないのだ。ようやく役立たずの目と決別できたというのに、それを使う機会はもう永久に訪れないのだ!
そう、愛する彼女たちの混じりけない姿……計り知れない興奮を招き、奥深くの吐き気を誘い、体中の器官に身震いを引き起こす、生まれた頃の姿、おそろしく美しいシルエット……あの素晴らしい裸体に出会える機会は完全に潰えてしまった!
硬い頭蓋の裏でやわらかな脳がゴリゴリと削られるような痛みが先ほどから私を手放さない。立っているのがやっとだった。
やがて、鏡面に変化が起こった。ついに異形へと変じてしまったのかという諦めの思考は、しかし、目の前の光景に打ち砕かれた。
そこに私がいる。これは変わっていない。髪一本から裾の糸くずまで先ほどとまったく同じだ。
違うのは女がいるということだった。私の後ろの暗がりに女がそっと佇んでいる。
ほとんど影の中にいるので、その色合いははっきり見て取れなかった。だが、輪郭はよく見えている。私の見知った姿のままだった。
振り返ろうとするより前に、その女は私に言った。
「あら? あらあら? あなた、顔色が悪いんじゃありません? いつも暗いところにいるから、元からそんな顔色なのかもしれませんけど。まあ、まあ、いいですわ。同じことですもの。ねえ、あなた。あなたの心配ごとをすっかりわたしに打ち明ける気はなくて? ああ、どうしてだなんて言ってはいけませんわ。わたし、困っている人は見過ごせないんですの。人に親切にしてあげるってなんて気持ちのいいことなんでしょうね。清潔で暖かいシーツに包まったときにやってくる眠気のように気持ちいいものよ。ね、あなたもそんな風に眠りたくはないかしら? 夢を見せてあげますわ。とても心地のよい夢を。約束してあげる。わたし、嘘はつきませんもの」
八雲紫は微笑んだ。
4
「まさかとは思うけれど」
暗がりから八雲紫が浮かび上がった。まるでその場所から産み出されたかのように、彼女のシルエットが突如彩られた。
その豊かな金色の髪は丸々と肥えた果実のように水気と光沢で満ちていた。肌は不自然なほど白く、瞳は月のように輝いていた。
そして、肩から腰、腰から踵にかけてのラインの美しさときたら! そのなめらかな曲線はわずかも歪むことなく、この室内に君臨していた。
私は今すぐ服を脱ぐべきだと叫びたくなる衝動に駆られた。だが、興奮はある考えに強引に抑えつけられた。
彼女の姿形に間違いは見当たらない。なにも変わっていないのだ。
ある事態が起きて、その影響をなんら受けない奴がいたとする。そいつは犯人と言うべきなのではないか。
「私が仕組んだなんて考えてはいないでしょうね?」
「もちろん」
そして、もうひとつ。彼女は八雲紫なのだ。それだけで十分ではないだろうか。私にはそう思えて仕方ない。
すぐに続けて言った。
「そう思っているわ」
私の言葉を聞いて、八雲紫は頬をゆるませた。
だが、その瞳には影がさしている。
「あら、ひどいわね。わたしはいつもあなた方を想っていますのに」
得体のしれない悪寒が、首筋を電気のように突き抜けた。
手で温めるように首のまわりをこすりながら、私は言った。
「お願いだから冗談でもそういうことは言わないで」
「まあ! いいわ。けれど、そもそもわたしがあなたになにかしたところで得るものがあるとでも?」
「目的なんて議論の価値もない。動機なんてあってないようなもの。当てはめればいいだけよ。適当に見つくろえばいいだけの話」
「賢者さまはかしこいのね。では、なにが必要だと言うのかしら」
八雲紫はおだてるような微笑みを向けてきた。自分の優位性を信じて疑わないからこそできることだ。
まったく、この女の笑みはどこまでも作りものめいている。おそろしく長い年月の経験が、そういった技術を培わせたのだろう。
だが、私にだって持ち物はある。今まで散々蓄えてきた知識はもう出番を察してうずうずしていた。
私はそれらを突きつけるように、はっきりと言った。
「もちろん、方法よ。可能かどうか。これに関してはあなたに反論の余地はない」
「そんなことはありませんわ」
ぎょっとした。思わぬ回答だった。
「あなたにもそれくらいはできるのではなくて?」
「それは自慢かしら。私にはあなたみたいな器用な……奇妙な真似はできないわ」
「そんなことはありませんわ」
八雲紫は先ほどと同じ調子で、同じことを言った。
「だって、あなた。素敵なレンズを作ったんでしょう?」
「レンズ? どうしてこれが、いえ、そもそもあなたに教えた覚えはないわ」
「おしゃべりな吸血鬼が神社でお茶を飲んでたの」
「レミィもそうだけれど、あなたも大概ね」
八雲紫は首をどちらに振ることもせず、くすくす笑うばかりだった。
その声の調子が、私への評価そのものに思えて、思わず酸っぱい笑いが浮かんだ。
それに、彼女は今なんと言った? レンズだと?
この私の優しい目がなにをしたと言うつもりなのだ。恐怖と不安のなにがしかを消し去る愛しい女たちの魅力をまったく損なわずに、いや実物よりもさらに美しく、あでやかにさせるはずの目に!
そんな素晴らしい目に余計な手出しをした彼女が! お前が! いったいなにを言い出すのだ!
今や、八雲紫のいい加減な嘘くささによって散り散りにされていた嫌悪が、徐々にその勢力を取り戻しつつあった。
大体、私はなぜこんな輩とぬるい話し合いなどを続けているのだろう。本来なら、彼女のにやけた面を火であぶって、さらににやけさせるくらいしてもいいはずだ。そのくらいは私に許されてしかるべきなのではないか。
考えるほどにこれはいいアイデアのように思えた。
体内に清風がさっと流れ込み、よどんだ空気を掻っ攫っていった。活力で満ちた身体は、今すぐにでもその愉快な光景を現実のものにしてくれるだろう。
胸のうちでくすぶっていた憎悪の炎が、私の手の中でその舌先をちらりと見せた。
それを見て取ったのか、八雲紫は唐突に話し始めた。
「この世にはおそろしいやり方に忠実な輩がいるものね。少なくとも二人はいますもの」
それは絶望だった。
おそろしく果てのない底なしに黒い穴が私の足元に生み出された。だが、理性は根拠を欲しがっていて、私の大部分もそれに同調していたため、気の迷いなのだと決め込んだ。
腹部にうねりを忘れるように気をつけながら、私は八雲紫の言葉に注意した。
どこかで聞いたようなそのセリフ。だが、気になるところはわかりやすいくらいだ。彼女はいったいなにが言いたいのだろう。
私は言った。
「私と、あなた?」
「ああ、本当におそろしいことですわ。目というのはね、怖がりな坊やなのよ。そんなデリケイトな器官に異物をかぶせるだなんて。天才か、気狂いの発想ですわ」
「賢者よ。それで、あなたは?」
「わたしはあなた方の幸せを見守るだけよ、お馬鹿な子ね」
八雲紫には私を侮蔑しようとする意図はまったくなかった。彼女の目はただ穏やかだった。
そこには個人に対する興味というものがまるでない。調和を味わうことの楽しみを知っている目つきだ。一枚の葉の色よりも一本の木の健康を気にして、一本の木が倒れることよりひとつの森の秩序を保とうとするような。
八雲紫は私が黙ったままでいるのを見て、自分が先を続けなければならないことをようやく知り、跳ねるような声音で言った。
「わからない? それとも、話させてくれるつもり? いいかしら。わたしはね、我慢ができないの。無関心って一番許せないことだと思わない? ここにはいろんな人が逃げ込むのよ。膝をかかえるだけの人、追い込まれた人、踏みにじられた人。そんな人たちに手を差し伸べる幸福があなたにだって想像できるでしょう? まさか、単なるわたしの娯楽だなんて思っていないでしょうね。わたしはあなた方を愛しているんだもの。あなた方のまるごと、そのもの、すべてを受け止めてあげられますわ。けれど」
彼女はそこで一度、言葉を切った。
自分の口蓋から出るものはとても価値のあるものなのだと思わせるように、たっぷりと間をあけた。
それから、八雲紫はふたたび赤い舌を躍らせた。
「悲しいことに……本当に悲しいことですわ。わたしはあなた方ではないのです。もしもあなた方がわたしのようであったなら、これほど素晴らしいことはありませんわ。さ、わかるでしょう? あなた方の唇は濡れて、息づき、目は輝きに満ちて、心は悪意の影を疑わずに済み、安楽を信じていなくてはなりませんわ。わたしはそうなるように親切にしなくてはいけないの。手助けをしてあげないといけないのよ。本当に世話の焼ける子たちね。でもいいのよ。わたし、世話を焼くのが好きですもの。世話を焼いてあげるってなんて愉快なことなのかしらね。どしゃ降りの雨の中で思いっきり手足を振り回すくらい愉快なのよ。ね、あなたも振り回されたくないかしら? 知らずに誰かの都合に振り回されるのは実はよくあることなのよ」
「あなたがそうしているように?」
「わたしはあなた方に振り回されっぱなしですわ。特にあなたにはね。勝手に自作のガラス板なんてはめこんだせいで、わたしがつけてあげたレンズをずらしてしまうんですもの」
「待って!」
私はとっさに叫んだ。ほとんど反射的だった。
目を強烈な刺激が襲ったとき目蓋が瞬時におろされるのと同じように、私は危険から逃れるために言ったのだ。
だが、衝撃はそんなものなどお構いなしに、私の耳に滑り込んだ。
「あなた、目が悪いのね。でも、それが裸眼だっていつ決め付けたのかしら。どんな生物も生まれた頃の姿に近づくことはできても、生まれたままの姿にはなれないって知らないのかしら。裸の姿がどれほどおそろしいのかすらわからないなんて。あなたたちって本当に危なっかしいんですものね。だからわたし、手伝ってあげてるのよ。あなた方が仲良くやっていけるように、可愛らしい姿にしてあげてるんですのよ。ねえ、だって、可愛らしいものが嫌いな人なんていないじゃない?」
耳に目蓋はない。だが、その役目を手のひらがしようともおそらく意味はないのだろう。
八雲紫の声の調子はいよいよ透き通るように高くなっていった。
逃れられないのだと私は悟る。喉に大量の毛が詰まったように感じ、意味もなく空咳を何度も繰り返した。
八雲紫はゆっくりと息を吐き出して、次に胸を少し膨らませてから言った。
「幻想郷は完璧であり、幸福と楽しさは住民の義務ですわ」
その言葉に、ついに私は目を細めた。
我慢しきれず、脳のフィルターを通さずに言葉はどんどん私の舌から散っていった。
「あなた! この、ちょっと、頭におがくずでも詰まってるんじゃないの! さもなければ空気よ! 汚らしいわ、病気じゃない! 消え失せなさいよ! 今すぐに!」
しかし、八雲紫は冷め切っていた。
なにもなかったように、先ほどと同じように静かに言葉を継いだ。
「義務ってわかるかしら? 呼吸するってことよ。あなた方が今どこにいるのかを忘れてしまえば、すぐに死んでしまいますわ。ですからあなた方に手ほどきをしてあげてますの。あなたにも、もちろんもう一度してあげますわ。先ほど約束したんですもの。わたし、嘘はつきませんわ。とてもいい夢に連れて行ってあげましょう」
今あったことはすべて忘れるべきですわ、これも夢なんですからね、と八雲紫は最後に付け足した。
私は魔力を練ることもせず、力任せにその不愉快な面を殴ろうと拳をかかげた。だがそのとき、急に視界は足元に引き寄せられた。
それは落下だった。
めくるめく果てしのない堕落。ねっとりと肌にまとわりつくジャムのような不快な空気にもがきながら私は落ちていった。
どこまでも落ちていける。それは恐怖そのものだ。しかし、その肌寒さにもおわりはあるのだというように、次第に私の意識は薄れていった。
目蓋が閉じきる前に、耳元でぼそぼそと話す声が聞こえてきた。
「あなた方の境目は私が決める。あなたの見た裸はあの美しい裸体ではなかったのでしょう? あなただけの裸にまた会えるようにしてあげる」
声は次第に大きく響くようになり、はっきりと聞こえるようになった。割れるような質感ではなかったし、波のように高まったり、低くなったりもしなかった。
その声は叫びとはまったく違うやり方で、こちらの耳にその内容を押し込めようとしているようだった。
そして声は、ほとんど慈しむように私の耳をそっと撫でていった。
声は言った。
「さあ、裸になりなさい」
5
真っ先に手を顔にあてた。
起きたばかりの身体は、それが自分のものではないかのようにぎこちない動きしかしてくれない。
それでも目蓋、目蓋が……息苦しさにふるえていることは、包帯越しでもわかってしまった。
もちろん、この後には小悪魔がやってくるのだろう。
覚えのある言葉を投げかけ、覚えのある音をさせて動き、そして、覚えのある、あの忘れようとしても決して頭蓋から消えることなく居座り続ける悪夢のごとき顔が、こちらを見てにやりと笑うのだ。
あれは確かに悪夢のようだった。逃れるための一歩一歩が泥濘に深くはまりこんで行くような悪夢。だが、夢だといって笑い飛ばせるほど軽くはない。いやらしい顔の歪みにはちゃんとした質量があり、また悪意があった。
そんなおぞましい芝居をどうして空想だと一蹴して片付けられるのだろう。
しかし、ひょっとするとあれは夢なのかもしれない。つまり、私がこれから辿る結末をちらりと見せるだけの予告だったというわけだ。
いずれにせよ、現実は目の前にある。迫りくる苦悩の始まりに、脳はアルコールの必要性を訴えていた。
「良くなりましたか? 具合の方は」
かかる悲観が頭に重くのしかかり、その働きを大いに妨げていた。
だからだろう。すでに私の目は、素晴らしい視力がもたらす見慣れた光景を映していた。そして、意識せずとも首はのろのろと振り返ろうとしてすらいるではないか。
やめて! もう、もう!
喉を気遣わずに私は叫んだ。だが、もう遅い。後ろにいる悪魔は私の視界の左端からさっと飛び出し、そのまま過ぎることなく、真ん中でぴたりと止まった。
そこにはもちろん、張り巡らされた神経を余すところなく引き裂くような顔が、大小の黒い虫どもがびっしりと敷かれたあの穴だらけの顔が、顔が……。
「小悪魔?」
「はい、パチュリー様」
私の目はおかしくなってしまったのか。春の陽射しのようにトロリと陶酔させる微笑みを浮かべ、小悪魔は首をかしげた。
そうだ。これぞ私のより所なのだ。小悪魔の微笑みは、こちらが寄りかかるとほんの少し支えるために心地よく押し返してくれる見事な笑みだった。
「え、あ、あの……?」
小悪魔の頬に指を這わせる。
均整のとれた体つきがどうしてこの肌を頂点に掲げたのか、すぐにわかる。
吸い付くようにみずみずしい頬は、清純な乙女のようにほんのりと赤らんでいた。目はまるく、大きく開かれ、そこには暗い穴などまったく見当たらず、澄んだ泉そのものが納められていた。
この素晴らしく健全な顔を、どうして見間違えてしまったのだろう。どうして私の目は、ここにある暖かな安らぎをはねのけてしまったのだろう。
薄い皮膚を通じてそこにある幸福を、私の指先は確かに受け取っていた。
ああ、私は、私は……!
文字にすれば書物の山となるであろう感情の波が、ほとんど悲鳴となって唇からこぼれ出る。喜びと感激が口の中を縦横無尽に飛び回り、舌はふらふらになった。
「小悪魔、ああ……ああ、あ、あ、ごめん、ごめんなさい。どうかして、どうかしていたのよ……私、私が……小悪魔……」
目の端がどれほど踏ん張ろうともせき止められるはずもなかった。涙がぼろぼろと言葉と一緒に落ちていく。
黒い染みが広がる胸元をじっと見つめながら、私はじたばたするのを我慢するように拳を強く握りしめた。
すると突然、視界は暗くなった。頭はやわらかく温かいものにふわりと包まれ、それから徐々に埋もれていった。
小悪魔の両腕が、突き出された私の頭をそっと抱きしめていた。
「私には……なにを仰っているのかわかりません。私はパチュリー様に本当によくしてもらっています。私を叱ってくれましたし、褒めてもくださいました。いったいなにを謝っていらっしゃるのか、私にはぜんぜん、わかりません」
そのとき、私はようやくこの子を見ることができたのだと理解した。
この子の美しさは、あの淫らな裸体にあるのではない。裸の姿、その心の強さに私はどうして気づかなかったのだろう。
この子が私の一部だなんてとんでもない思い違いだ。小悪魔は小悪魔で、尊敬すべき一個人なのだ。
そう考えた途端、胸のうちに残っていた恐怖の影もついに消え失せ、打ちひしがれた心は生き返りはじめた。
私たちは親が子を慰めるような体勢で、しばらく時間の過ぎるままとした。ときどき、照れくさそうに笑いあい、またもぞもぞと布地と髪をこすりあわせたりして、間をもたせた。
だが、わずかたりとも離れることはなかったのだった。
やはり、あの夢は予告だったのだ。そこにある感情が正反対だということを除けば。
さっぱりとした顔で扉を開けると、そこには咲夜とレミィがいた。
私は相手が話し出す前に言った。
「ああ、咲夜。なにか身体の調子が悪いと感じたときはすぐに私に言いなさい。とっておきを出してあげるわ。レミィ、あなたって本当にキュートよ。その可愛さに免じて、少しくらいならかじっても我慢してあげる」
「お、おお?」
「お嬢様、顔が面白いことになっていますわ。しっかりなさってください」
「え、いや、だってパチェがなんか失礼なこと言うし。吸血鬼なのに可愛いって」
「可愛さはもちろんステータスです」
「あとお前もさっきから口走ってるからね。なんなの? 従者やめたいの? 人間やめたいの?」
「ですが、お嬢様は面白いじゃありませんか。全体的に」
「傷、広げてるからね?」
「銀の食器は食べるのに中身は食べないところとか」
「緑色のスープを出したやつが悪い」
もちろん、これを茶番などとは呼べないだろう。
主人の姿にはその愛らしさと同時に、内に溜め込んだ誇りも認めてやるべきだし、メイドの目の下にこっそり隠れた疲労の影を見逃してはならない。
支えあい、手を打ち合う主従愛を、私の独りよがりな感情で塗りつぶしてはいけないのだ。
「でも、つまみ食いさせてくれるなら許してあげるよ、パチェ」
「ありがとう、レミィ」
「ん、なんかあなたにお礼を言われるのって新鮮だわ」
「なら、その気分をかみ締めて頂戴。これからはすぐに慣れてしまうんだから」
「あら、素敵ですわ。そんな光景、咲夜も眺めたく……しかし、ああ残念です! 私は百年も二百年も生きられないので」
「パチェ。咲夜があなたのところに健康相談に行ったら水銀を飲ませなさい。寿命延ばせるからって」
私たちは自然に笑いあった。
親密的な仲間内にだけ漂う穏やかな時間が流れていく。
生き生きとした、健康的な笑みのなんと喜ばしいことか! それがそばにあるという事実が、目に映る光景をたいそうあでやかにしてくれる。その中では当然、彼女たちの美しさは一等、際立っていた。
そうだ、私は彼女たちに焦がれていたのだ。そこにそっと入り込もうなどと卑怯な考えをしていたのだった。おろかにも、あちらこちらに別々の愛情を注ごうとしていたのではなかっただろうか。
だが、それでは駄目なのだ。美しい裸体の群れに、服を投げ込むようなものじゃないか。
本当に向き合うには、相手と同じような状態になり、それに耐えねばならないのだ。真の感情のつながりは精神の苦痛を越えた頃にやってくる。
その狂おしさに抜け出せない場合もあるかもしれない。
だが、出口は確かに私たちを待っているのだ! 進めば、そこに確かにあるのだから!
私はレミィと咲夜を眺める。
いつの間にか私の顔の上では、自分に向けての勝利の微笑みが浮かんでいた。
私室に戻ると、身体中にぱんぱんにふくらんだ嬉しさに気づいた。
部屋中を駆け巡りたい衝動にほんの少しばかり駆られたが、私の胸部に満たされている、やわらかな蜜の色をした空気が穏やかにそれを制止した。
ゆったりとした動作で紅茶を入れる。とっておきの美味しい滴で唇をぬらせば、少しは跳ね回る動悸も落ち着くだろう。
汚れひとつない、白いカップは、今日という日の象徴のようだった。
そこにたっぷりと琥珀色の液体を注ぎ、私はそれを掲げた。
「今日これからに、私の目に乾杯!」
ああ、私はなんて幸せなのだろう。間違いようのない優しさが私に注がれる。頬は気恥ずかしさに身もだえし、目は拍手するようにぱちぱち動いた。そして、唇は紅茶をすすり……。
「あ?」
誰なのだろう、とそれだけが気になった。この女は誰なのだろう。
大きく垂れ下がった鼻には過ごした年月を示すように大きな染みをいくつも持っている。だぼだぼの余った皮がくしゃくしゃにくたびれたシーツのように張り付いている。ちょうど、童話がイメージする魔女のような女が紅茶に映し出されていた。
そう、魔女のような!
「…………っ!」
そいつは私と同じ仕草をする。目をぱちりと閉じると、そいつも真似をする。口をもごもご動かすと、紅茶をゆらすことなく同じようにしてみせた。
そこにいるのだ。私の裸が。裸体が。
歪むことなく、そこでこちらをじっと覗き込む、私の全裸がここにいる。
―――目は、どうなっている?
そうとも。あの薄膜はどうなった。今、はめ込んでいるじゃないか。だったらおかしい。だって、あの女は確かに言ったのだ。戻してやると。いや待てあれは夢だったんじゃないのか。私のただの思い込みに決まっているじゃないか、いやそもそも私の目は元からおかしかったんじゃ、私が勝手にはめ込んだせいで元からあったレンズが通常とはほんの少しばかり違う位置にずれてしまったんだ、だから彼女は戻したつもりだったのに戻せなかったとしたら!
逃げるな。
薄膜のガラス板も、八雲紫も、関係はない。
ひょっとしたら、これはちょっとした想像で、たくましい空想で、おぞましい妄想に過ぎないのだが、考えたことはないだろうか。
イメージすることに長けた脳と固くつながっている目が、どうしてその脳の言うことを信用しないのだろう。どうして私たちは、目はあるものだけを映していると盲目的に信じてしまっているのだろう。
もしかすると、そうなのかもしれない。
だが、目は私の思うなにかを映しているだけかもしれないじゃないか。
目が私の心を、剥き出しの裸を見ていないと否定することなどできるわけがないのだから!
カチャリ
窓をこつんと叩くよりもなお、ちいさい音だった。だが、私の耳はそれをわずかもこぼすことなく掬い取った。私の背にある扉が開いたのだ。
誰が開けたのか、そんなことはどうでもいい。誰であろうと関係ない。
確かめなければならないのはただ一点。
おそろしい興奮が、遠くなるような緊張と混じりあい、腹の底から盛りあがってくる。それは徐々に膨れ上がり、喉にまで手がかかり、私の神経はこすれあう歯のようにギイギイと鳴き出した。
無我夢中で、絞り出せる限りのありったけの力を使って、私は振り返った。
「ああ! ああ! ああ―――」
悲鳴は爆発し、その後に死んだように静まることになるのだろう。
私の目はまったく瞬きせずに、こちらを目掛け飛び掛る全裸の群れを確かに映していたのだった。
言葉のまわし方がとても面白かったです
・・・良い意味で裏切られました。
19世紀文学のごときエスプリをきかせた言い回しの連続が素晴らしい。
幻想郷では非常識になるというのがいい。
そしてレミリアの全裸のせいでSAN値がやばい。
こういう発想に言い回しがピタリとはまって流石としか。
点数は入れる気にならなかった。
文体の優美さと、SF的な発想がみごとにマッチしている。この世でないどこかを読み手に歩かせる幻想文体はお見事。どこかサラ・ウォーターズのような超婉曲お耽美ゴシック小説を彷彿。描き方の巧みさに舌を巻く。
素晴らしい作品有難う御座いました。
読みきってない以上、点数を入れる資格はないと思いフリーレスで失礼します。
長い事を悪い事とは言わないけど、引き込ませる力が足りなかったかと。
「我々は読者がページをめくる労力を忘れてはならない」とは誰の言葉だったか。