ほんの僅か。気持ちが先走ってしまって、ほんの僅かに力を入れすぎてしまっただけ。
それだけで、ヒトの頭くらいの大きさをしたそれは、ひびが入って割れ、落ちる。
一枚目。
それなら優しく。本当に触れているか触れていないか分からないくらい優しく。
包むように持とうとしても、その身に纏われた真っ白な泡が手を滑らせ、落ちる。
二枚目。
ああ、怒気を孕む。短気なのはいけない。そうやって自分を戒めても結果は変わらない。
どんなに心を注いでも冷たいまま、無機質な肌触りはつるり、ぴしり、つるり、ぴしり。
三枚目。
「もういいです。一度、一度落ち着きましょう。ね?」
不安げな面持ちでそれを眺めていた八意永琳が、ついに悲鳴を上げてしまった。
蓬莱山輝夜は皿洗いが出来なかった。
事の発端は唐突も唐突、永琳が目を覚ました時には、既に台所から水音が聞こえていた。
そして定期的に陶器の割れる音がした。
誰の悪戯だ、と額に青筋を立てた永琳が台所にやってきたら、そこには涙目の輝夜が必死に皿を洗っている姿があったのである。
全く理解は不能だったが、月の追手から逃げる時でさえ見たことのないような輝夜の本気に、永琳はつい気圧されてぼうっとそれを眺めていた。
そして眺め始めてから三枚目の皿が割れる音で、ようやく永琳は自身を気付けることが出来たのだった。
「あの……何をなさっているんですか?」
それはもう、敬語にならざるを得ない様子だった。そこに居た輝夜はあまりにも姫だったのである。
我侭そうで気高くて、上品に美しく高慢で、ほとんど幼児のような泣きっ面だったが、永琳が見たこの瞬間の輝夜は、姫という位に居る人物が内包して然るべき魅力を、溢れるほどに満ち足らせているように見えたのだ。
涙を拭って鼻をすすり、口に溜まった唾液を飲み込む様さえ輝いた。才ある人物が何かへ直向きに取り組む姿というのは、斯くも華々しいものか。
尤も台所の惨状は、その華々しさが決して確かな結果に結びつくわけではない、ということを教えてくれていたのだが。
「皿を、洗っていたのよ」
「洗えて……ませんでしたね」
「……そうよ」
一先ず、皿を割ろうという確固たる意志があり、その上で成るように成った結果ではないというのは分かった。
使用済みの食器類という汚物に塗れていた台所は、今や危険物の廃棄所だ。泡と汚れと刃物やらが混沌と存在している。
「何故、皿を洗おうと思ったの?」
現状も飲み込めてきた所で、永琳はいつもの調子を取り戻し始める。
日頃から家事というものに、こと片付けという物に関してはほとんど関わらない輝夜が、どのような作為あるいは打算、計略の内に『食器洗い』などということを始めたのか。それを知りたくて投げかけた問い掛けは、あまりに単純すぎて思いもしなかった答えとなり返ってきた。
「昨日は宴会で、洗い物が溜まっていたからよ」
至極常識的であり、真っ当な答え。
万物の理についての解を知りえるほどの天才が、意味不明すぎて思考停止してしまうほどに真っ当だった。
それは、まぁ、散らかっていたら片付けるのが道理だ。
「……起こしに行った時に見たけど、輝夜貴女まずは自分の部屋の片付けを」
「ねえ■■」
何で突然そっちの名前で呼んだのだ。■■こと永琳は思わず身を硬直させた。
そして輝夜は真剣な面持ちのまま、震えて、目尻に溜めた涙が零れてしまう前に、肺から言葉を押し出した。
「私は皿洗いさえ出来なかったわ。皿洗いよ? てゐの部下じみたあの能無し兎たちでさえ出来るようなことを、私は出来なかったわ……信じられなかった。永琳が此処で皿を毎日洗っていたの、見てたから、そんな感じで簡単に出来ると思っていたのに出来なかった。これは、もう、なんていうのかな、私はこの世に存在する価値なんて無いんじゃないかって所まで落ち込んだわ。今、そのくらい落ち込んでいるわ。驚きも驚き。私は当然のように死ぬことも出来ず、当然のように皿洗いが出来ない。永琳、私は一体どうすればいいのかしら。何としても今日、私は皿洗いを済ませなきゃいけないの。誰の手も……借りず!」
その言葉は深刻で、永琳は本当に心の底の一番奥深い所から、心底、心底どうでもいいなぁ、と思った。
日常の九割九分九厘を怠惰で過ごしている姫様だから、ほんの僅かでも何かに対してやる気になってくれることは嬉しい。
それがどんなにつまらないことであっても嬉しい。
その結果、台所が地雷原になってしまったり陶器のお椀やらが尽く使用不可能になり、額から向こう一週間は青筋が消えそうに無いなというほどに顔を引きつらせたとしても。
まぁ、嬉しい。
永琳は思い直す。
とりあえずローキックから態勢を崩し、傾いたほうの耳を掴んでグラウンドに持ち込みマウント、そこから月人としての膂力を生かした振り下ろしのパンチを繋げようと決めていた。
永琳は思い直す。
「私が手伝っちゃダメなの?」
「そうよ。誰の手も借りないんだから」
「じゃあ、口を出してもいい?」
「それは――」
自分の心に語り聞かせるよう、心臓のある部分に握り拳を当てている輝夜は、その姿勢を崩さないまま熟考する。
それを許さない永琳は、独り言を呟くようにしてそれを伝えた。
「まず、たらいを用意してその中に水を張る」
永琳は腕を組み、決して手を出さないことを肉体言語で断言している。口を出されることに苦渋の表情を浮かべていた輝夜も、規則の穴に転がり込んできた助言へそっと手を伸ばす。
一旦、汚れた食器類が脇へ追いやられ、流し台をたらいが占拠した。
「それに洗剤を混ぜる。水の量が多いから、ちょっと贅沢に使っちゃいましょう。八意印の洗浄薬だから風見幽香さえサムズアップするほど環境に優しいから大丈夫」
たらいに張られた水の中に洗剤が混ぜられる。もこりと泡立ちよく、軽く流水で濯げば、ぱっと泡切れもよい。
「後は水の上に皿を浮かべるようにして、余計な力を入れずに洗っていくのよ。そう。すすぎは流水に任せる。皿を持つ必要はないの。支えるだけでいいわ。優しくね。すすぎ終わったら反対の脇に重ねていきましょう。大きい順に下からそっと。あら、出来るじゃない。偉いわ。出来てる。どうかしら輝夜、素直なのは貴女の良い所だと思うわ。なんだか今日は一人でやりたがってるみたいだけど、それじゃあ私が寂しいじゃないの。もしかして私に優しくしてくれてるのかしら。もしそうなら私は、貴女に洗い物を全て任せるよりも、隣で並んで一緒にお皿を洗いたい。そう思うんだけど。ねえ輝夜、貴女は、どうかしら?」
すい、すいと進んでいく洗い物。
右から左へ。汚れは下に。気づけばあっという間だった。山ほどあるように思えた洗い物も、後はすっかり乾拭きを残すばかりで、水滴のスパンコールをきらきらとまとわせる。
「ごめんなさい、永琳。私、間違ってたかもしれない」
「いいえ。別にいいのよ。本当は並んでやりたかったけど、貴女が何かを率先してやるというのも、それはそれで嬉しいから」
「ふふっ……ねえ永琳。後は食器を拭くだけなんだけど、洗う時と違ってまた、割っちゃいそうな気がするの」
「そうね。じゃあ、今度は二人で一緒にしましょうか。私が食器を持っておくから、輝夜がそれを優しく拭いて――そんな感じで、いいかしら」
「うん」
いつもと変わらない笑顔を浮かべて。
何でもない日常に、ほんの少しだけ浮かべるアクセント。
永遠を生きる二人にとって。
大切な、どんなに稀釈しても薄れてしまわない彩りを、一つ。
「それにしても輝夜、何で突然食器洗いをしようと思ったの?」
「えっ? 決まってるじゃない。
だって今日は、敬老の日よ」
永琳の右足が鞭のようにしなり、輝夜の左足太もも部分に重くめり込んだ。
「ぐあ」
鈍い悲鳴を絞り出しながら傾いた輝夜の左耳を、千切らんとばかりに永琳は掴み、輝夜の防衛本能に任せるがままその体をごろりと地面に寝転がらせる。
「やめ、やめなさいえいり、ちょっ、マジ、鼻は、やめっ、■■! やめろ! 謝る! 謝るからこれまっ」
間髪を入れずに馬乗りとなった永琳は、ただただ笑顔で両拳という鉄槌を振り下ろし続けた。
馬乗りとなった永琳は、ただただ笑顔で両拳という鉄槌を振り下ろし続けた。
てか、姫様…
てゐ「ムチャしやがって……」
こういう空気マジ大好きですw
涙目の姫様の破壊力ときたらもう
姫様頑張ったよ!この世に存在する価値あるよ!
しかし八意印の洗剤がいいな。欲しい。
タグのことをすっかり忘れるほどいい話で読んできてそのまま終わるかと思ってたところでこの落差は最高だ。
最後の二行の繰り返し表現が想像してるとなんかじわじわと笑いが襲ってきてまさしくシュール。
他の話も読んでみたいと思って検索したのにヒットしない。もしかしてこれが初めて?!
今までお世話になってきた人に恩返ししたい、と思えることそれが大事なんだと思います。いや、割と本気で。
だけどあなたの作品は相応だった!
面白かったー!
できれば河童印ルンバや河童印自動洗濯機も欲しいな!