Coolier - 新生・東方創想話

2011/09/21 00:09:27
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いつから使っているのか聞かれても思い出せないし。
使うようになったきっかけを聞かれても覚えていない。
少なくとも、数百年前には当然のように持ち歩いていた覚えがある。
もしかしたら、産まれた時から既に持っていたのかもしれない。
それは、当たり前のことみたいにいつでもそこにあった。
季節を問わず、時間を問わず、天気を問わず。いつでもどこでも、それを持ち歩いていた。
雨も紫外線も弾幕も弾くし、その気になれば刃物や銃弾だって弾き返せるだろう。
優雅に見える使い方も知っているし。肌身離さず持ち歩いて、自分の体の一部のように思っていた。
だから、急に無くなると、すごく困る。
手持ち無沙汰な私の手は、一体何を掴めばいいのかしら?




まだ朝方だというのに、日差しが熱く、空気が温かい。
日ごとに暑さを増し、夏めいて来る景色。
熱い日差しを傘に受け、幻想郷の夏を渡り歩く。
行き先は決まってない。夏の風か、花の香りにでも聞いてちょうだい。
今は、夏の幻想郷を歩くだけで楽しいのだ。
森の鮮やかな緑に、芳醇な草と土の匂い。山を彩る夏の花々が目に飛び込む。
桜ほど珍重される事はないけれど、色鮮やかな夏の花は否応無しに気分を盛り上げる。
暑いけど、その分生命が活発になり鮮やかさを増す。
夏は暑ければ暑いほどいい。
あまりの暑さに自棄になって、浮かれているくらいが一番楽しめるのだから。


夏の草原を歩いていると突然、強烈な風が吹く。
木々を揺らし、大量の木の葉や花びらを空に舞い上げる。
砂埃を避けようと、風に傘を突き立てる。
暴れるスカートを押さえようと気をとられた瞬間、風をめいいっぱい受けた傘が飛ばされてしまう。
なんてことだ。
砂埃に視界を奪われ、傘を見失ってしまう。
突然の嵐のような暴風をやり過ごした後、傘の行方を追って空に目を向ける。
傘が、空の遥か高いところを飛んでいる。
くるくる。ふわふわと。風に乗って陽気に舞っている。
飛んで追いかけようと思っていたら、傘が入道雲に食べられてしまう。
しばらく見ていたけど、傘が雲の外に出てくる気配は全く無い。
雲に呑まれ、そのままどこかへ消えてしまった。
どうやら完全に見失ってしまったようである。
今頃どこを漂っているのか、見当もつかない。
まだ空を飛んでいるのか、天上まで飛ばされたのか、それともどこかに落ちたのか。
突っ立っていても仕方ない。
飛ばされた傘を探して、少しお出かけしましょうか。

傘を持っていた手を、揺らすように軽く振る。
傘を持たないで出かけるなんて久しぶりね。
あの傘は便利だし、私のチャームポイントだから早めに見つけてしまいたい。
どこまで飛ばされたのかさっぱり分からないし。どう探したものかしら。
風に任せて飛んでいれば、そのうち見つかるのかしら?




あの傘はずるい傘だ。
あたいがどれだけ氷や弾幕を降らせても、全部防いじゃうもん。
あの傘のせいで、あたいは幽香に勝てないんだ。
あの傘がなければ、あたいは幽香よりずっと強いもん。
だってあたいはさいきょーだもん。
あの傘はきっと特別な傘なんだ。
あたいがこーりんどーでもらった傘は折れて破れて使えなかったのに。
あの傘はきっと伝説の武器に違いない。
最強のあたいが、伝説の武器を持てばもっと最強になれる。
そうすれば、幽香や霊夢や魔理沙に勝てるし、悪戯し放題になる。
よし、決めた。
あの傘はあたいが貰ってやろう。
あの傘を手に入れて、最強になったあたいが世界征服してやるんだ。
もう誰にも馬鹿になんてさせないぞ!




…………あっ、でっかい蛙。
凍らせてやれー!!!




傘を失くした事を早くも後悔している。
日傘のあると無しとじゃ、全然違うのね。
日差しが眩しく、肌がじりじりと焼かれているのがよく分かる。
日焼けはそんなに気にしなくてもいいけど、この日差しはどうにかならないものかしら。
麦藁帽子でも持ってくればよかった。
香霖堂で間に合わせの傘か帽子でも買ってこようかしら。
それか、アリスの家。あの子ならお洒落な帽子や日傘を作っててもおかしくはない。
スペアとして、今度貰いに行ってもいいわね。
でも、今使っている傘も結構気に入ってるのよね。
どこかに飛んでいっただけなら、いずれ見つかるだろうし。
まだ使える物を投げて、新しい傘を探すなんて気が乗らない。
それに、弾幕を防げる程の傘なんて、そうそう見つかるとも思えない。
うん。やっぱり、あの傘じゃないと駄目だわ。
変な奴に拾われたり、変なところに隠れたりしてないといいけど。
どうやって探すのが一番いいのかしら。


考え事をしながらぼんやり飛んでいると、どこからか冷気が漂ってくるのに気付く。
陰気につられて霊が寄ってきたか、陽気な氷精が近くにいるせいだろう。
丁度いい。次第に気温も上がってきたし、少し涼ませてもらうことにしよう。
畦道を観察しながら寒そうな感じのする方へと飛んで行くと、案の定、氷漬けの蛙を発見する。
道標のように、凍らされた蛙が点々と転がっている。
氷が融けて生き返ったのもあれば、破裂して真っ赤なトマトになってしまったのもいる。
お目覚め早々災難なことね。次はもっと上手く逃げなさい。
地面を歩きながら冷凍睡眠中の蛙を追っていると、道の先にチルノを見つける。
しゃがんで、蛙を凍らせようとしているようだ。


「かーえるかえる、なにみてはねる?」

大物の蛙で遊んでいる。
蛙には可哀相だけど、これも夏の風物詩の一つよね。
まだ気付かれていないようなので、もう少し距離を詰めてみることにする。
気付いたならそれで良し。気付かないのなら、少し脅かしてやろう。


「げ、ゆうか?!」

3歩ほど近付くと、そこで気付かれてしまう。
気配のせいか足音のせいか、どうやら危険感知能力は中々のものらしい。
チルノは私から距離を取って警戒している。
迎撃するべきなのか、無視してもいいのか、様子を窺っているようだ。
凍らせた蛙を大事そうに両手で抱えているのは、私に奪われないようにしているつもりなのだろう。
心配しなくても、蛙を盗ったりなんてしないわよ。

「こんにちわ、チルノ」
「こんにちわ」

まずはにっこりと微笑んで挨拶をする。
脅迫するにしても、立ち話をするにしても、笑顔での挨拶は必要な手順だ。
チルノが意外にも、丁寧にお辞儀をして挨拶を返してくる。これは寺子屋での教育の成果かしら。
しばらく手を出さずに見つめ合っていると、チルノが不思議そうに首を傾げる。
どうやら、何かに気が付いたらしい。

「傘が無い!」
「風で飛ばされちゃってね。見かけなかったかしら?」
「見たよ。どっかに飛んでった」
「どの辺に飛んで行ったか分かる?」
「あっちの方?」

記憶を辿って指をあっちに向けたりこっちに向けたり、右へ左へ腕を振っている。
本人は至って真面目なのだろうけど、所詮は妖精の記憶力。当てにするのが間違いだったか。
チルノがしばらくあらぬ方向を指差していたかと思うと、急に向き直って私に指を突きつけてくる。

「幽香の傘がない!」
「そうね。それはさっき言ったわ」
「ということは、今はあたいの方が強い!」
「そんなわけないでしょ」
「勝負だ!」

氷漬けの蛙を投げ捨て、チルノが空に飛び上がり、戦闘態勢に入る。
その蛙、大事な物じゃなかったの?
妖精を説得しようとしても無駄だろうし、適当にあしらって身の程を分からせるとしましょうか。
力の差を分からせてやれば、会話もしやすくなるし。
氷の弾幕で涼めるし、悪いことは無い。
ただ、私の貴重な時間を費やすのだから、少し条件を付けさせてもらおう。

「私が勝ったら、硬くて融けない氷をちょうだい」
「あたいに勝ったらね!」

契約成立。これでモチベーションも上がるというものだ。
地表の植物に影響を与えたくなかったので、逃げる振りをして空高くにチルノを誘導する。
太陽が近くなり、多少は日差しがきつくなった気がする。
傘が無いと、夏場は辛いわよね。なんでチルノは平気そうなのかしら。子供だからかしら。
私と同じ高さまで付いてきたチルノが、スペルを取り出す。
最初から全力で、一気に勝負を決めるつもりらしい。
私としても時間は惜しいし、望む所ね。

「凍符 パーフェクトフリーズ!!!」


赤、青、緑、黄色。色鮮やかな弾幕が空を彩る。
周りが明るいせいか、少しぼやけちゃってるのが減点ね。
夜空に咲かせば、大層綺麗に違いない。
今度、向日葵畑のコンサートにゲストとして招待してあげようかしら。
冷房代わりにもなるし、弾幕が運悪く観客やステージに当たったとしても、良い演出になる。
弾幕程度で死ぬ奴もいないし、機材は私の物じゃないから問題は無い。
私の向日葵に当てないようにだけ、きつく言い聞かせておこう。
今年の向日葵は、綺麗に咲いてくれるのかしら?
いくら手間隙をかけても、結局は運任せ天任せ。実際に咲いてみるまで分からない。
どんな花を咲かせてくれるか、期待しながら待つのも楽しいものよね。
向日葵が私の背丈を追い越す頃、コンサートの相談でもしましょうか。
騒霊の三姉妹を呼べば、きっと賑やかになるわ。
演奏を聴いて、花たちも慌てて咲き出すわよね。

考え事をしながら、目の前に迫る弾幕をかわす。
前髪に少しかすったかもしれない。髪が痛まないといいけど。
目の前に迫る弾幕をかわして、避けて、グレイズする。
体を丸めたり、回転させたり、宙返りしたり。
傘が無くていつもより身軽だけど、傘がないせいでいつもより余計に体を動かさないと避けきれない。
傘を使った緊急回避も出来ないし、あんまり余計なことを考えてると危ないかもね。
そう、傘が無いのよ。
弾幕ごっこもいまいち調子が出ないのは、きっと傘が無いせいね。
傘を振らないとムードが出ないのよ。
指先から花の弾幕を出したり、周囲の空間に花の弾幕を作り出してもいいのだけど。
やっぱり、見栄えの点でも傘は欲しい。
傘を振って、優雅に花の弾幕を放つのから美しいのだ。
弾幕は魅せるもの。美しさを極限まで追求すべきなのだ。
だから、私には傘が必要だ。
まあでも。無いものは仕方が無い。
いつまでも妖精とじゃれあってるほど暇ではないし。さくっと終わらせてしまおうか。

「避けてるだけじゃ勝てないよ。さっさとピチュっちゃえー!」
「あまり調子に乗らない方がいいわよ」

一方的に弾幕を放ち続けているから、自分が優勢なんだと勘違いしているようだけど。
実際は私に一発も当たってないし。避けながらじわりじわりと距離を詰めているし。
追い込まれてるのはどっちなのか、そろそろ分からせてあげましょう。
遊びは終わりよ。
花の怖さ、とくと味あわせてあげる。




ぴちゅーん。


一つ、分かった事がある。
傘を振る動作に合わせて弾幕を作っていると、タイミングや弾幕の密度に相当な制限がかかるらしい。
なんで今まで気が付かなかったのか不思議なくらいだけど。
そういえば、傘を持たないで弾幕遊びをすることが無かったのかも。
所詮は遊び。
負けても死にはしないし、傘を捨ててまで必死になる必要も無かったものね。
腕を左右に広げ、数え切れないほどの種類と数の花の弾幕を作り出す。
空間を埋め尽くす無数の花、花、花。
攻撃対象に弾を当てるのではなく、空間を制圧し、押し潰す。
花の怖さは、無秩序に際限なく増え続ける事。
全方位からの止まる事を知らぬ攻撃で、逃げ道を少しずつ奪っていく。
今日の私はいつもほど優しくはないのよ。
花に溺れて死になさい。

ぴちゅーんぴちゅーんぴちゅーん。



「うぅ……。ず、ずるい」
「ずるなんてしてないわよ」
「傘が無くても強いなんてずるいー!」
「傘が無い方が強いわよ」
「卑怯だ!」
「あなたも傘を持てばいいじゃない。1tくらいの、重くて頑丈なやつ。
 それを自在に扱えるようになったら、きっと今の100倍は強くなれるわよ」
「本当?」
「ええ、本当よ」
「よし、じゃあその重くて強い傘を買ってくる!」
「はいはい。その前に氷を作ってね。負けたら作ってくれる約束でしょう?」
「うん、分かった」

単純な子は扱いやすいわね。1tの傘なんて、本当にあるのかしら?
チルノが両手を合わせ力を込める。
空気が先程以上に冷たくなり、冷気がもうもうと溢れてくる。
チルノの手の中で氷が作られ、見る見るうちに大きな塊となっていく。

「このくらい?」
「それでいいわ」

気が付けば、氷が蹴鞠ほどの大きさに膨れ上がっていた。
大きすぎるけど、細かい注文をつけてもきっと応えられないだろうし、これでいいことにしよう。
大は小を兼ねるから、使う分だけ適当な大きさに砕けばいい。
冷気が漂い、触った指が張り付きそうな程に冷たい氷を、手頃な大きさに割ってハンカチで包む。
氷を包んだハンカチを首筋に当てると、ひんやりとして気持ちいい。
チルノの傍にいるだけでも冷気が漂ってくるので、日に焼かれて火照った体にはありがたい。

折角の氷を捨ててしまうのも勿体無かったので、小さく砕けた氷を口に運ぶ。
食べきれない分は捨てることにしよう。
時間をかけて舌の上で融かし、ゆっくりと冷たい水を飲み込む。
融かすのに飽きてきたら、がりがりと噛み砕く。
感触も、冷たさも、共に気持ち良い。
味は無いけれど、冷たい水はそれだけで美味しいものだ。

「美味しそう」
「ただの氷よ?」

氷を食べていると、チルノが羨ましそうに見上げてくる。
氷を食べた事がないとは思えないけど、物欲しそうにしていたので食べさせることにした。
氷をチルノの口に放り込むと、ばりばりと噛み砕いて、飲み込んで、不思議そうに首を捻る。
思ったより美味しく無かったらしい。ただの氷なんだから、味がしないのは当然よ。
私の真似をしたかったようだけど、氷精に納涼の楽しみは分からないわよね。

「おい、し、くない! 騙されたっ」
「シロップでもかけて、カキ氷にすれば美味しくなるわよ」
「うん、今度はそうする」
「氷ありがと。蛙で遊ぶのもほどほどにしなさいね」
「はーい。ばいばーい」
「ばいばい、チルノ」

チルノが手を振って、魔法の森の方へ飛んでいく。
お目当ては傘とシロップ、どちらなのかしら。
香霖堂に着く頃には、最初の目的を忘れてそうよね。迷惑をかけないといいけど。
地面の蛙たちは解凍されて、どこかに隠れてしまった。
蛙で遊んでいた事も忘れて、新しい玩具に飛びつく。
物に執着しない生き方は幸せそうだけど。
それで捨てられるものは、少しかわいそうよね。
1tの傘が本当にあったとしても、飽きたらすぐに捨ててしまうだろうし。
妖精って、本当に子供みたいよね。


緩い風が吹く。先程の弾幕ごっこのおかげで周囲の空気はよく冷えているけど。
チルノもいなくなってしまったし、放っておけばすぐに元の暑苦しい空気に戻るはずだ。
そうでなくても、強い風が一度吹けば、冷たい空気もすぐに霧散してしまうことだろう。
名残惜しいけど、ここに留まっていても仕方がない。
氷が融けてしまう前に、早く次の場所に向かうとしよう。




くるくると、ゆらゆらと。
幽香が歩くのに合わせて、右へ左へゆらゆら揺れる。
顔が見えなくとも。その後姿だけで、鼻歌を歌いそうなくらい機嫌が良いのが伝わってくる。

暑い夏の日の午後。
空は晴れ渡り、真っ白な綿雲が飛んでいる。
遠くでは天狗や魔女が飛び回り、妖精たちと弾幕ごっこに汗を流す。
私はと言えば、太陽の畑で花の妖怪とデートの真っ最中。
家で涼んでいたところを、強引に連れてこられたんだけどね。
気休めに麦藁帽子を被せられ、塩飴というやつを貰ったけど。
何となく面白くなかったので、飴をがりがりと噛み砕いたら、おかしそうに笑ってすぐに二つ目の飴を渡してきた。
その飴は今は私の口の中。臥薪嘗胆の思いでゆっくりゆっくり舐めている。
なんでこんな天気が良くて暑い日に引っ張り出されなきゃいけないのか。
暑いし、疲れるし、汗をかくし、肌だって焼けてしまう。
まあ、その辺は不可抗力だから仕方ないんだけど。
私を連れ出した当の本人は、あの通り一人で楽しんでるみたいだし。
勝手に帰っても気付かれないんじゃないかしら。

夏の向日葵。幽香の花。
足を止め、私よりも少しだけ背が高い向日葵を睨みつける。
陽気な夏の花。太陽に向かって、誇らしそうに胸を張って咲いている。
同じ方向を向いて、風を受けて嬉しそうに揺れている。
黄色い大地が波打つ。
こっちは汗だくで、歩くだけでも重労働だというのに。
夏の暑さなど微塵も苦にせず、歓迎するかのように生を謳歌している。
その姿が憎たらしくもあり、眩しくもある。
なんとなく、にっと笑いかけてみることにした。
にかっと。作り笑顔もいいところだけど。
向日葵は、特に変わった様子もなく空を見上げて咲いている。
笑い返してくれないし、風に揺れて踊ってもくれない。
それでも、なんだか満足したので、その場を立ち去ることにした。
幽香は、随分と先を歩いている。
傘を右に左に揺らしながら、一人で楽しそうに歩いていく。
帰ろうか一瞬迷ってから、もう少し、ついていってみることにした。
一歩、二歩。
やっぱり暑い。玉の汗が吹き出る。
幽香に麦藁帽子を貰ったけど、大して役に立っている気がしない。
塩飴は、まあ、それなりに効果が出てるのかもしれないけど。よく分からない。
帽子よりも、飴よりも、その日傘に入れてくれればいいのに。
なんだか気取っているようで、自分で差す気にはなれないけど。
人と一緒に入る傘は、そこまで嫌いでもない。
七歩、八歩、九歩……。
幽香との距離は、大して縮まっていない。
このまま歩いていても、幽香に追いつくことは出来ないだろう。
だから、思い切って走ってみることにした。
こんな暑い日に走るなんて、我ながら馬鹿げているとは思うけど。
暑さにやられたか、向日葵の陽気さにあてられたせいだろう。
二十歩、三十歩、四十歩。
幽香の背中が近付く。
夏の埃っぽい地面を蹴って、幽香に飛びつく。

「とうっ」

傘の下を潜って、幽香に抱きつく。
急に飛びついたにも関わらず、幽香は優しく微笑んだまま、頭を撫でてくれた。
それがなんだかくすぐったくて、つい笑ってしまった。

「いきなりどうしたの?」
「なんとなく」
「なんとなく?」
「そう、なんとなくよ」
「そう、なんとなくなのね」

おかしそうに幽香が笑う。
それにつられて、周囲の向日葵が踊るように揺れる。

「もう少し歩いたら、私の家でお茶にしましょうか。アリスにケーキを貰ったから、それを食べましょう」
「うん」

口の中の飴が邪魔だったので、がりがりと噛み砕く。
甘いような、しょっぱいような、よく分からない味の液体を飲み込む。
今は少し、お喋りしたい気分だ。
幽香の傘に入れてもらって、手を繋いで歩く。
日差しが和らぎ、なんだか少し温かい感じがする。
これなら、最初から日傘に入れてもらえばよかった。

ねえ、幽香。
暑い夏も、そんなに悪くはないわね。





博麗神社へと至る長い石段。
適度に欠けて土が見え、苔が生えて植物が根を伸ばし、中々に年季が入っている。
悪く言えば、寂れて汚れている。
石段も神聖な神社の一部なんだから、きちんと掃除すればいいのにね。
蝉の声と風に揺れる木々の音を聞きながら、長い石段を一段ずつ登る。
木漏れ日がきらきらと光り、木で遮られた空が鳥居まで一本道を作っている。
飛んだほうが遥かに速いけど、たまにはこうして歩いてみるのも面白い。
いつもと違うことをして、いつもと違うものを見たいときもある。
視点を変え、歩く速さを変え、いつもと違う幻想郷を眺めてみる。

長い石段を登りきった頃には、じんわりと汗をかいていた。
服を緩め、麓から駆け上がってくる風を受ける。
高所にある分、風が強く、いくらか気温が下がった気がする。
揺れる木漏れ日に、巡る風。
青い空と白い雲、山の緑と大地の色。夏の生命力溢れる世界が一望できる。
煩いくらいに蝉が求愛の声を荒げ、葉擦れの音が耳に心地よい。
その中に、時たま風鈴の心地良い音が響く。
風通しのいい室内で、一日お茶を飲むのも風情があって良さそうだ。
空を飛べば交通の便なんて関係ないし、夏の避暑地に丁度良い。

家の中を覗くと、ここの管理者の霊夢は腋と臍を出して、熱心に昼寝に勤しんでいる。
たまに口を開いたり閉じたりしているけど、夢の中で何か食べているのかしら?
そういえば、今日は差し入れを持参してこなかったけど、大丈夫だろうか。
用があると言うほどではないけれど。霊夢に会いにきたのだから、起きてもらうのは当然なのだけど。
こうも無防備な姿を晒されると、悪戯してみたくなるわよね。
部屋にあがって霊夢の髪を撫でてみるけど、これといった反応はない。気持ち良さそうに眠っている。
閉じたり開いたりを繰り返している口に指を入れてみると、食べ物と思ったのかちうちうと吸い付いてくる。
面白いのでそのままにしておくと、甘噛みしたり、舌で舐めたりしてくる。
赤ちゃんみたい。私の指はおしゃぶりじゃないのよ。
頬を引っ張ると、よく分からない唸り声を上げる。
いったいどんな夢を見ているのかしら。なんだか割りと幸せそうで、起こすのが気が引けてしまうわね。
もう少し見ていたい気もするけど、今日はそこまで暇でもないし、さっさと起きてもらう事にしよう。
遊びすぎて、本気になっちゃっても困るしね。

「霊夢、起きないと悪戯するわよ?」

耳元で囁いてみるけど、当然ながら起きる気配はない。
仕方ないので、少し強烈な目覚ましを使うことにしよう。
ポケットからハンカチを取り出し、中から小さめの氷を取り出す。
指がくっつくほどに冷たかった氷も、角が取れて融け始めている。
悪戯をするにはこのくらい水気があって滑りやすい方が都合がいい。
さて、と。
霊夢の腕を軽く持ち上げ、腋に氷を挟ませる。
すると、

「ぴゃっ!」

妙な声を上げて霊夢が飛び起きる。
反射的に腋を締めてしまったのか、氷がしっかりと腋に挟まれている。
わーわー言いながら腋を広げると、へその方に氷が落ちていったらしく、今度はお腹の辺りを押さえ始める。
立ち上がると服から氷が滑り落ち、畳の上を転がっていく。
縁側まで転がっていった氷が日差しを浴びてバターのように融けていく。
立ち尽くして、融ける氷を眺めてから、ゆっくりと私の方に目を向ける。
少しして、自分がどうして飛び起きる羽目になったのかようやく理解したらしい。
霊夢の怒気を孕んだ視線を笑顔で受け流す。

「ゆーうーかー」
「おはよう、霊夢。目覚めの気分はどう?」
「おかげさまで最悪よ!」

陰陽球か退魔針か、どちらかは分からなかったけど。
何かを投げる素振りを見せたので、すかさず腕を取って体勢を崩し、畳に座らせる。
さしもの博麗の巫女といえど、起きた直後は本調子じゃないらしく簡単に鎮圧することができた。

「はいはい、怒らないの」
「怒るわよ。まずは殴らせろっ」

人間の力で殴られたところで、大して痛くもないし、一発くらいなら別に構わないのだけど。
悪戯をした側としては、ここで制裁を受けるのが当然なのかもしれないけど。
元はといえば霊夢が起きないのが悪いんじゃない。殴られてやる義理なんてないわよ。

「髪を梳いてあげるから、大人しく座ってなさい」
「その前に一発殴らせろ」
「氷をあげるから、それで水に流しなさい」
「むぅ」

暴れようとする霊夢に氷を渡すと、途端に大人しくなる。
少し勿体無い気もするけど、これで先程の悪戯の件はうやむやにしてくれたらしい。
巫女を懐柔するのなんて簡単よね。
櫛を出して霊夢の髪を梳く。
まだ寝ぼけているのか、氷を頬につけてぼんやりしている。
ぼんやりというか、異変がなければいつもこんな感じだけどね。
これで幻想郷最強らしいから、呆れてしまうわよね。
寝ていたようだから期待薄だけど、折角ここまで来たんだし、一応聞いてみましょうか。

「ねえ、霊夢。私の傘を見なかった?」
「傘? いつも差してる白い傘のこと?」
「そう、いつも差してる白い傘よ。風で飛ばされてしまったんだけど、見てないかしら?」
「ん~……。見てないわ」
「でしょうね。最初から期待してなかったわ」
「悪かったわね」
「それで、朝から今まで、ずっと寝てたの?」
「日が昇ってから起きてご飯食べて、気温が上がってきたくらいから昼寝してたのよ」
「いつまで寝るつもりだったの?」
「ん~。御八つ時、かな」
「ぐうたら巫女、ここに極まれりね」
「暑いときに動いても疲れるだけでしょ。少し長いお昼寝みたいなものよ」
「そういうものかしら」
「そういうものよ」

ここなら見晴らしがいいから、もしかしたらと思っていたのだけど。当てが外れてしまったわね。
霊夢の黒髪に丁寧に櫛を入れる。艶があって、綺麗な細い髪。
霊夢は思いのほか大人しく座っている。まだ眠いのかしら?
一通り櫛を入れて整えてから、リボンを結んで仕上げをする。
髪をまとめ終えてもまだ動く気配が無かったので、もう少し髪を弄ってみることにする。
長さも量も申し分ないし、髪型で遊んでみたくなる。
くるくると綺麗な黒髪を指に巻きつけ、どう弄ろうか考えていると。
夢から醒めた様に、すっと霊夢が立ち上がる。
指に巻きつけた髪はするりと指から解け、霊夢の元に帰っていく。

「時間もいい具合だし、お昼にしよっか。幽香も何か食べてく?」
「時間がかかるなら遠慮するわ。これからまた出かけないといけないし」
「素麺だからすぐ出来るわ。作るから待ってて」

私の返事を待たずに、霊夢は勝手口へと歩いていく。私と一緒に食べる事は決定済みらしい。
夏の音に、台所で薪が燃える音と、水を流す音、食材を切るテンポのよい音が加わる。
涼しさを演出するわけではないけれど。どこか安心する生活の音。
そんな音を聞きながら、幻想郷の夏を眺める。

ちりん。

風に吹かれた風鈴が綺麗な音を鳴らす。
ここは見晴らしが良い。
室内から眺める四角い風景。そこに、幻想郷の全てがある。
緑が溢れ、花が咲き、散って、葉が赤く染まり、散って、雪に覆われ、また緑に埋め尽くされる。
一日の中で変化があり、1年を通して変化がある。それを60回ほど繰り返し、また同じ変化を繰り返す。
幻想郷の歴史を綴るのなら、ここが一番都合がいい場所なのかもしれない。
妖怪が空を駆け、天狗が空を翔け、少女達が空を飛び、妖精たちが空を舞う。
そうして見飽きる事のない華を咲かせる。
この四角く切り取られた世界で異変が起こり、巫女が暴れ、勝手に終息する。
ここから、幻想郷の全てが見える。
そんな場所だから、幻想郷の守護者たる博麗の巫女が住むに相応しいのだろう。





「ごちそうさまでした」
「お粗末様」

からん。

溶けた氷がグラスにぶつかり、綺麗な音を奏でる。
お昼の献立は素麺に白菜のお新香。茹でて、切って、盛り付けるだけの手間のかからない料理。
手間をかけないから、味もそれなりだけど。このお新香は中々に美味しく出来ている。
ぽりぽりと歯応えもちょうどよいし。塩気も強く浸かり具合も程よいのでお酒に合いそうだ。
今は飲んでるほど暇じゃないけど。後でまた、お酒を飲みに来る事にしよう。お酒は持参した方がいいのかしら?


「傘」
「ん?」
「大切なものなの?」
「すっごく大切な物よ。無いと落ち着かないのよ」
「ふぅん」
「あなたにとっての袖みたいなものかしら。無くてもそこまで困りはしないけど、無いとやっぱりしっくりこないのよね」
「納得。それじゃ、早く見つけてあげたら?」
「早く見つかって欲しいわね」
「私はまた寝るから、お昼寝の邪魔はしないでよね」
「もうすぐ出かけるから、安心していいわよ」
「夜にまた来てちょうだい。傘が見つからないなら、一緒に探してあげる」
「夜までに見つけちゃったら?」
「お祝いしてあげる」
「それは良いわね」
「でしょ?」
「それじゃ、そろそろ出かけるわ。また夜にね」
「夜までおやすみ」


食器を片付けた後、畳に横になった霊夢を後にして外に出る。
空は変わらずに気持ちよく晴れている。
飛んでいこうか、歩いていこうか、ほんの少し迷ってしまう。
迷ってしまったせいで、空へ飛ぶタイミングを逃してしまう。
どちらにするか決まらないせいで、歩くことも飛ぶことも出来ずに立ち止まる。
立ち止まって、空を見上げる。
今日に限っては、この自由で広い空が、ほんの少し遠く思えてしまう。

「まだいたんだ」

しばらく空を眺めていると、背後から霊夢に声をかけられる。

「寝たんじゃなかったの?」
「買うものを思い出したのよ」

私の横を通り過ぎ、霊夢が宙に浮かぶ。
まるで、最初から重力に囚われていないかのように。
どこまでが歩いていて、どこからが飛んでいるのかわからないくらい、自然に、当然のように空に飛び立つ。
霊夢が振り返り、立ち止まっている私を不思議そうに見る。
霊夢を見送ってから、歩いていこうと思っていたのだけど。
どうやら、霊夢は違うことを考えているらしい。

「ほら」

飛べない私に、霊夢が手を差し伸べてくる。

「途中まで一緒に行かない?」

宙に浮かび、私よりも背が高くなった霊夢がぶっきらぼうに手を伸ばす。
いつもなら、私が無理矢理霊夢を連れ出しているのだけど。いつもと逆になってしまった。
なんだか面白かったので、その誘いを断らず、霊夢の手を握ることにした。
急かされるように霊夢に手を引かれて、ようやく私も空に飛び上がる。
霊夢に連れられて、青い空に吸い込まれるように高度を上げていく。
青い空を背景に、紅一点。派手な紅白の衣装を纏った彼女が映っている。
霊夢はいつも、こんな景色を見ていたのかしら。
もう少し愛想が良ければ最高なんだけどね。

「ちゃんと飛べるじゃない」
「そうね。霊夢のおかげよ」
「よく分かんないけど、ありがと」
「ねえ、もう少し手を握っててもいいかしら」
「いいわよ」
「ありがと」

暑い夏の日。手を握りながらの空中デート。
今日は私の両手が空いているし。
誰かの手を握って飛ぶのも、そんなに悪くないのかもしれない。

ねえ、霊夢。
あなたのエスコート、期待してもいいのかしら?





はらり、はらりと花弁が落ちる。
花びらが一枚落ちるたびに、一歩また一歩と死に近付く。
花の命は短い。
どれだけ華美な花を咲かせても、十日と待たずに枯れてしまう。
枯れて、地に堕ち、虫に食われ、塵となる。
花が咲いてから枯れるまではあっという間。
たった一瞬の輝きのために、大地に根を張り、地上を埋め尽くし、種を残す。
浅ましい生き方だ。
たった一瞬。切望したその瞬間を刈り取られた花は、何を想うのか。
蕾が開き、万人を惹き付ける見事な花を咲かせる前に、枝ごと切り落とす。
ぱちん。
白い蕾が、地に落ちる。
刈り取られた花はそれ以上開くこともなく、間の抜けた姿で、未練がましく地面に縋りつく。
咲くはずだった花。もう咲くことの無い花。
今まで見たことの無いほど優雅な花を咲かせたかもしれないし、そうならなかったかもしれない。
それを知ることはない。
これは、もうすぐ咲くはずだった、たった今死んだ花。
私の足に潰された蕾は、どう転んでも咲くことはない。
花が最も待ち望んだ瞬間を奪い取る愉しみ。
美しい花を無残に散らす喜び。
本物の花を見るのは、もう飽きた。
枯れた花を眺めて、美しかった時期との落差を楽しむのも、もう飽きた。
今は、花を刈り取ることで、花で楽しんでいる。
決して花開く事のない花を育てるのが、最近の暇潰しになっている。
花は、咲かない方が美しい。
ああ、でも。花が咲くのを見ることもあるわね。
冬に咲く、椿という花。あれは好きだ。
花が咲いて、散る。首が落ちるように、花が落ちる。
それを眺めるのは、好きだ。
椿が散る頃になると、外を眺め、首が落ちるのをひたすら待ち続ける。
朱色の花が、刃を入れたわけでもないのに、急に、落ちるのだ。
それを見るのは、楽しい。
咲くはずだった花を摘み取るのと同じくらいには、楽しい。
ぼとり、と。花が、落ちる。
首が落ちるように。
花が、落ちる。
ぽきん。ぱちん。

ぽきん、と。
軽い音がして。
ぼとり、と。
首が。
落ちる。





霊夢と別れ、適当に空を飛ぶ。
一日で最も気温が上がる時間帯を、涼める場所でやりすごそうと思い辿り着いたのがここ、永遠亭。
いつ見ても代わり映えのしない竹藪に。いつ見ても全く代わり映えのしない屋敷。
この景観はどれだけの時を経ても、きっと変わることはないのだろう。
竹は生長し、代替わりするし、よく観察すれば日によっても変化があるのだろうけど。
屋敷の方はどれだけ注意深く観察したところで、一切変わること無く、何千年でも存在し続けるのだろう。
朽ちもしなければ汚れもしない。年季が入らないというのも味がないわよね。
玄関で待っていても出迎えの兎は来なかったので、勝手に上がらせてもらうことにする。
靴を脱ぐべきか迷っていると、庭の方から枝を切るような音が聞こえてきたのでそちらに向かう。
見つけたのは、楽しそうに花の蕾を切り落とすお姫様。
無邪気、と言えば聞こえはいいかもしれないけど。なんとも趣味の悪い。
少し、お灸を据えてあげようか。
飛んで、輝夜の背後に移動する。輝夜はこちらを見ようともしなかったので、簡単に後ろが取れた。
黒い髪に隠された、白く、綺麗な首。
手を伸ばして、その首を掴む。
ぱきん。
枝が折れるような音がして、首がだらしなく垂れ下がる。
糸の切れた人形のように、地面に倒れこむ。
どうやら、首を折られたくらいで死んでしまったらしい。
靴を脱いで屋敷に上がり、輝夜を畳に仰向けに寝かせる。
死んでいると、本当にお人形さんみたいね。
首はあるべき場所に戻したので、そのうちくっついて生き返ると思うけど。
こちらの方は、もう無理かしら。
輝夜に手折られ、踏み潰されたクチナシの蕾を拾う。
たかっている蟻を払い落として、花の具合を見る。
切断面は綺麗なので、繋ぎ合わせるくらいなら出来るけど。ちゃんと花を咲かせてくれるかはわからない。
歪な花を咲かせて無様を晒すくらいなら、このまま死なせた方がマシだろう。
切り落とされた蕾は諦め、新しい蕾を作ったほうがまだ望みがある。
蕾をつけても、また切り落とされたら堪らないけど。
剪定鋏は没収ね。鋏の代わりなんていくらでもあるから、大して意味はないだろうけど。
鋏を持てないように、輝夜の指を一本ずつ切り落としておこうかしら。

割と本気でそんなことを考えていると、笛のような音が聞こえてくる。
死んでいた少女が、目を覚ましたらしい。
何度か笛のような呼吸音がした後、咳き込み、ようやく普通に呼吸ができるようになったらしい。
焦点の定まらない瞳で天井を見上げ、ゆっくりと意識を覚醒させていく。
ざり、と何度か畳をひっかいてから、ゆっくりと体を起こす。
何度か頭がぐるりと回った後、ぎこちなく手で支えて、頭をあるべき場所に据える。
首の骨はまだ本調子じゃないようで、体の神経もどの程度繋がっているか知れたものではない。
大儀そうに目だけで周囲を見回し、そこでようやく、庭にいる私の存在に気が付いた。

「おはよう」
「おはやう。いつ、来たのかしら?」

壊れたスピーカーのように、音量がちぐはぐで、声の質や高さも安定しない。
首を折られた後遺症だろう。
耳障りだけど、そのうち勝手に治るはずだ。

「少し前よ。眠ってたみたいだから、勝手にお邪魔させてもらったわ」
「ああ、そう。それは悪い事をしたわね」

私が縁側に座ると、輝夜が畳みの上で居住まいを正し、感情の篭もらない見事な作り笑顔で微笑みかけてくる。
首の骨は完全に繋がったらしく、手で支えなくても落ちることはない。
発声も元通りになり、人を魅了する艶を帯び始めている。

「大したもてなしも出来ずに申し訳ありませんが。今日はどういったご用向きで?」
「失くした傘を探しているの」
「うちの兎のせい?」
「いえ、私の不注意のせいよ」
「そう。ならいいわ」
「兎のせいだったら、何か手を打ってくれたのかしら?」
「兎を虐める口実が出来るわ」
「あら、それは楽しそう」
「駄目よ。兎を虐めていいのは、私と永琳だけだから」
「人のを盗るほど餓えてないわ」
「あら、そうだったかしら?」

寝る前に自分が何をしていたのか、どうして首が痛むのか、そのことを気にしている様子も無い。
客人が来たので、常のように愛想よくもてなしているけど。そこに何らかの感情が含まれているかは甚だ疑問だ。
感情の読み取れない笑みを浮かべてから、私が置いた蕾と鋏とを不思議そうに眺める。

「フラワーマスターともあろう者が、どうして蕾を切り落としたの?」
「あなたが切ったんでしょ」
「あら、そうだったかしら?」

輝夜が首を傾げる。その姿にもどこか愛嬌がある。
意識が混濁しているのか、死んだショックで記憶が飛んだのか。
輝夜の目を覗いても、何を考えているのかはよく分からなかった。

「どうして蕾を切り落としたの?」
「さあ?」

輝夜が覚えていなくても、輝夜が蕾を切り落としたという事実は変わらない。
追求を続けるとしよう。

「咲く直前の花を切り落とすだなんて、随分と趣味の悪い事をするのね」
「悪趣味とか禁忌とか、そういうものの方が楽しいのよ」

自分が花を切り落とした時のことを思い出したのか、一般論を述べているのか。
どちらにせよ、再犯の可能性は極めて高い。

「そういうのは人間とか妖怪相手にやればいいじゃない。花を粗末にしないでちょうだい」
「人間相手にそんなことをしたら、巫女に退治されるか、紫に追い出されるじゃない」
「花を切ると、私が貴女を殺すわよ」
「あら、それは楽しみ」

輝夜が柔らかく微笑む。
表情だけ見れば確かに可愛いけど。その内面は誰よりも暗く澱んでいる。
人間らしい感情を持ち合わせているのか疑問に思う。
輝夜から視線を引き剥がし、庭のクチナシを眺める。あの木は、今年は花を咲かせることは出来ないだろう。
もしかしたら、もう何年も花を咲かせていないのかもしれない。
白く綺麗な花を見ることも、甘い香りを嗅ぐことも、実を採ることも出来ない。
美しいものを壊す楽しみは分からなくもないけど、花を摘み取って得るものなんて何もない。
花をつけない木が、生き甲斐を失って寂しそうに見える。
主要な枝や茎は無事だから、これからも生き続けるだろうけど。
生き甲斐を奪われて生き続けなければならないなんて、悲惨よね。
花を失ったクチナシ。
白い花、白い傘。
私にとって、あの傘は花みたいなものかしら。
幻想郷で唯一枯れない花。
花がないと、どうにも格好がつかないわよね。


「今日はかわいいわね」
「なにが?」
「今日は、風見幽香が、かわいらしく見えるわ」

子供に言い聞かせるように、聞き間違いが起こらないように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
言葉を聞き取れても、何を言っているのかすぐには理解できなかった。
いきなりかわいいとか言われても、どう答えればいいのよ。
からかっているわけでも、口説こうとしているわけでもないようだし。
輝夜の虚ろな瞳からその真意を読み取る事はできない。
輝夜がどういうつもりで言ったのか、まるで理解できない。

「いつもは、傲慢で、自分勝手で、揺るぎなくて、満たされていて、一人で完結しているような人なのに。
 今日は余裕がなさそうで、随分と人間染みた表情をしているのね」

自分の頬を触ってみる。本当にそんな顔をしていたのだろうか。
本当に、そういう風に振舞っていたのだろうか。
私だって人並みに悩んだり怒ったりはするけど。
今日はそこまで普段と違うのだろうか。
この部屋には鏡はおろか、鏡の代わりになりそうな調度品も一切ない。
自分がどんな顔をしているのか、自分で確認することができない。
からかっているだけなのか、本当にそういう風に見えたのか、それすらもよく分からない。
輝夜の笑みから内面を読み取るのは難しい。
考えが読めないのなら、考えるだけ無駄だろう。
早く傘を見つけて、いつも通りになればそれで済む話だ。

「傘を探してるのよね」
「そうよ」
「外は暑いのかしら?」
「ここよりはだいぶね」
「それで、ここに涼をとりに来たのね」
「そうよ」
「そういえば、今は夏だったわね」

確認するように、当たり前のことを一人で呟いている。
生き物のような熱を孕んだ空気が、屋敷の中に入り込んでくる。
輝夜が夏を意識したせいなのか、屋敷の空気が急に夏めいてくる。
屋敷の周りは竹林で囲まれているから、季節感は薄いけど。
それでも、緑の青さや空の色、気温なんかで十分四季は感じられる。
興味が無ければ、そんな風情も関係無いのかしら。
四季の移ろいに心動かす平安貴族も、随分と落ちぶれたものね。


「暑いわね」
「外よりはマシよ」
「夜まで寝ることにするわ。涼みたいのならご自由に。何かあれば永琳に言付けておいて」
「あなたも霊夢と同じ事を言うのね」
「わざわざ暑い時間に起きてる方が酔狂なのよ」

巫女のぐうたらと、お姫様の有閑を同列で語るのは間違いかもしれないけど。
妖怪より怠惰な人間ってのもどうなのよ。
汗をかきながらの労働の尊さを教えてあげるべきかしら?


ぴしゃっ。

湿った水音が響く。
輝夜の手から血が流れる。
手首がぱっくりと切り裂かれている。
肥後守が床に落ちる。
ぴちゃりと湿った音が響く。
自分の腕から血が流れる様を、楽しそうに見つめている。

「リストカット?」
「日本語で言ってくれないと分からないわ」
「自害でもするつもりかしら」
「それもいいわね」

私が見ている前で、自分で自分の腕を切った。
それにどんな意味があるのか知らないし。大して興味もない。
死にたいのなら、勝手に死なせておけばいい。どうせ、すぐ蘇るんだから。いちいち気にしても仕方ない。
輝夜が落ち着いた様子で、流れる血を眺めている。
畳や服が汚れるのも気にせず、血で遊ぶように手を揺らし、その様を眺めている。

「血が抜けると、寒気がしてくるでしょ。そうなれば、夏の暑さも関係なくなるじゃない」

血がとめどなく溢れている。
寝苦しいというほどでもないけど、確かにここも暑い。
出血で死に掛けてたら、寝るどころじゃないと思うのだけど。
血が止まる気配も無く、水が溢れるように静かに零れていく。
普通の人間だったら、血が止まらなければそのうち死ぬだろうけど。
蓬莱人が血が減った程度で死ぬのか、確信が持てない。
輝夜の落ち着いた様子を見てると、死ぬ事も無く、延々と血を流し続けるような気もしてくる。

「死んだらどうするの?」
「涼しくなった頃に生き返ればいいだけよ」

輝夜の肌から色が抜け、指先が震えだす。
血は止まることもなく、一定の調子で体から漏れ続けている。
このまま全身の血が全て流れるまで止まらないのかもしれない。
目がとろんとして、焦点が合わなくなってきている。
もう少しすれば、寒さで全身が震えだすのだろう。
その前に意識を失うか、死んでしまうのかしら。
畳には血溜りができ、べちゃりと音を立てて腕が沈む。
血が出ているのか、もう止まったのかは分からない。
血溜まりは広がり続けている。
肌は白さを増しているのに、唇は赤く、一層妖しさを増す。
花に惹き寄せられる蝶のように、その表情に惹き付けられる。
おやすみを言うと、にっこりと微笑み、瞼を閉じて血の池に沈む。
もう、死んだのかもしれない。
それとも、言葉通り眠ってしまったのか。
靴を履いたまま部屋に上がり、輝夜に近付く。
靴底が、ぬちゃりと気味の悪い音を鳴らし、血が糸を引く。
輝夜は血溜まりに倒れ、血に濡れている。
庭に出てクチナシの蕾を拾ってくる。
切り落とされ、潰されたクチナシの蕾を血溜まりに蒔く。
赤い血の中に、白い蕾が舞う。
赤い花が、真っ赤な血を浴びて朱に染まる。
蓬莱人の血を浴びて、何か変化が起きるのかは分からないけど。
花開く事もできずに死んだ蕾は、蓬莱人の歪さとお似合いだ。
蓬莱山輝夜。死体と血。赤と白。
傘を見つけたら、また遊びに来るわ。
蓬莱人の命は、風に舞う花びらよりも軽い。
植物のあり方に何か感じるものがあるのかもしれないけど。
花を切るなら、それと同じ数だけ、私があなたを殺してあげる。
蓬莱人は殺してもすぐ蘇るし。死んでも大して気に留めないようだし。
会う度に、何の理由も無く殺してあげる。
いいわよね。
だってあなたは、私の大好きな花を折ったんですもの。
殺されて当然よ。

さようなら、輝夜。また会う日まで。




ざあざあ。
ざあざあ。


雨の音が好きだ。
虫の声、人の声、風の音、全ての音が雨の音に塗りつぶされる。
わざとゆっくり歩いて、普段と違う世界の音に耳を傾ける。
雨粒のノイズがかかり、景色に靄がかかり、ぶつかって弾けた雨が輪郭を強調する。
色とりどりの傘が町を彩る。
たまに、一人になりたいときなんかは、雨雲を呼んで雨を降らせることがある。
悩んでるときとか、落ち込んでるときとか、ちょっぴり気分転換したいときなんかに、時々。
雨を見つめるのが好きだ。
雲が渦巻き、空が暗くなり、大量の雨を降らす。
葉の上に水滴が溜まり、零れた水が大地を流れ、川を経て、やがて空に還る。
人々は恵みの雨に感謝する。
雨が降り、土地が潤い、新たな命が育まれる。
子供達は雨にはしゃぎ、大人達は仕事の手を休めて雨の音を聞く。
雨が晴れた後の綺麗な青空。青い絵の具を薄く引き延ばしたような、綺麗な薄い青。
光で白く縁取りされた鼠色の千切れ雲。
雲に隠された太陽が明るく輝き、光のヴェールが創られる。
自然の奇跡。
それを見ると、無性に楽しくなり、悩みなんて吹き飛んでしまう。
今すぐ傘を投げ捨て、走り出したくなる。
この世界は、とても大らかで。すごく温かい。
神奈子様、諏訪子様。
私はこの世界に連れてきてもらったことを、とても感謝しています。
この美しい幻想世界を、めいいっぱい楽しもうと思います。





「狐の嫁入りかと思ったけど。これは集中豪雨の類かしら」

山間の小道で、ざーざーと降り注ぐ雨を眺める。
強い風がいつの間にか雨雲を運んできたらしい。
本降りになる前に木の下に避難できたからよかったものの。
気付くのが少し遅かったら、ずぶ濡れになっていたところね。
腕を組んで空を見上げると、白く分厚い雲が空を覆っている。
この調子で振れば、一時間もすればからりと晴れてくれると思うけど。
それまで、ここで足止めね。

雨が大地を打つ音に耳を澄ます。
空から落ちてきた水が木の葉を打ち、地面に吸い込まれていく。
雨が溜まり、流れを作り、低い方へ向かって流れていく。
雨に打ち落とされた花弁や枝葉が、水に乗って遠くに運ばれていく。
虫の声が消え、代わりに、水を得た蛙が一斉に外に出てきて、げこげこと大合唱を始める。
蛙と意志の疎通が出来るのなら、指揮をしてあげるのも面白そうだ。
足元を流れる水に濡れないように、少し高い所に立つ。
今のところ、木の根の上が一番安全だろうか。
木の幹は意外と濡れるから、寄りかかるのはやめておこう。
木の葉をすり抜けてくる雨は、諦めるしかなさそうね。
傘があれば、濡れる心配なんてしなくていいのだけど。
生憎、まだ見つかってないのよね。
適当に歩いているだけで、本当に傘が見つかるのかしら。
探す手段がないのなら、運に任せるしかないけれど。それも当てにならないわよね
人に聞いてみても有益な情報は得られなかったし。そろそろ専門家に頼むべきかもしれない。
噂好きの鴉は情報を持ってるかもしれないけど、交渉が面倒臭いからパス。
寺のダウザーの方が扱いが楽そうね。
白蓮は良い人みたいだし。茶請けでも持参して、庭に花の一つも咲かせてやれば快く協力してくれるに違いない。
咲かせる花は何がいいだろう。
そうね。
ザクロとか?


しばらく雨を眺めていると。雨音に、別の音が混じる。
ぱらぱらと、紙を叩くような軽い音。それと、ぴちゃぴちゃと水溜まりを歩く音。
傘を持った誰かが、こちらに歩いてくる。
白い服に青い袴、傘のせいで顔は見えないけど、腋の出た巫女服は間違いようもない。
雨に濡れないように袴の丈を短めにして、靴を履かずに裸足で歩いている。
楽しそうに跳ねているから、喧嘩して家を飛び出てきたわけでもないだろうし。
一体何を考えてるのかしら。

「こんにちわ、幽香さん。雨宿りですか?」

こちらに気付いたようで、早苗が会釈をして話しかけてくる。
楽しそうな表情をしていて、靴を無くして沈んでいるようにも見えない。

「こんにちわ。どうして裸足なのか、聞いてもいいのかしら?」
「あはは。裸足の方が楽しそうだと思ったので。雨も温かいですし、泥の感触も気持ち良いですから」
「そう。それでわざわざ雨を降らせたのね」
「この雨は自然のものですよ。上空は風が強いですし、私が雲を集めようとしても、すぐに霧散してしまいます」
「そういうことにしてあげる」
「信じてもらえて嬉しいです」
「それで、この雨はいつ頃やみそうかしら?」
「んー。ただの夕立ですし、長くても1時間で青空が見えるようになると思いますよ」
「ありがと。天気を予報する程度の能力って便利よね」
「奇跡を起こす程度の能力です。天気予報も出来ますけど、そっちがメインじゃないです」
「はいはい」

立ち止まり、少しむくれてから。空と私とを見比べて、雨の降らない木陰へと入ってくる。
拒絶する理由もなかったので、好きにさせることにした。
雨に打たれ、水に流され、早苗の足跡がすぐに消えてしまう。
乾いた地面に、小さな黒い足跡がつき、傘から落ちた滴が不規則な線を描く。
青と白の蛇の目傘は差したまま、適度な距離を開けて同じ木の下で雨宿りを始める。
傘を振り回してもぶつからない程度の距離。
会話するには少し遠いかもしれないけど、話したいわけでもないからこのままでいい。

「そういえば、傘はお持ちじゃないんですか?」
「風に飛ばされてしまってね。絶賛迷子中なの」
「珍しい事もあるんですね」
「そうね。夏に雪が降るくらいには珍しいかしら」
「天子さんがいればすぐ降らせそうですけど」
「そういうのは言わぬが花よ」
「それもそうですね」

雨音に遮られ、会話が終わる。
会話するには、少し遠い距離。
このくらいが丁度いい。


雨の勢いがだいぶ落ち着き、さーっと優しく染み込むような音に変わる。
手で雨を掬い、地面に蒔く。
濡れた地面から若葉が芽吹き、みすみるうちに枝葉を伸ばし、一輪の百合の花を咲かせる。
雨で香りが濃縮され、木の下に甘い香りが満ちる。
花が露に濡れ、葉が雨を弾き返す。
花は、生きている姿を見るのが一番いい。
自然と調和し、移ろいゆく美しさがあってこそだ。
切花やドライフラワーにしても花は楽しめるけど。
やっぱり、野に咲く姿の方が見ていて楽しいわよね。

「綺麗ですね」

早苗が傘を差したまま、しゃがんで百合の花を眺めている。
目を瞑り、雨の音と、花の香りを楽しんでいる。
直接目で見なくとも、五感で花を感じることは出来る。
花の楽しみ方は色々あるけれど。
花を好きな気持ちがあるのならそれでいいと思う。
個人的には、花を摘むのは遠慮して欲しいけどね。

「花を咲かせる能力って素敵ですよね」
「ありがと。でも、大して役に立たないわよ」
「いつでも綺麗な花が見れるんだから、それで十分じゃないですか」
「そうね。そうかもしれないわね」

花は放っておいても咲くものだし、私は花が咲くまでの時間が待てないほどせっかちさんでもないし。
花の世話がほんの少し楽になるのと、プレゼントに都合がいいくらいだけど。
私の自慢の能力を褒めてもらうのは、素直に嬉しい。
早苗が期待するような目で見上げてくるのに気付いたので、軽く威嚇してみる。

「なに?」
「もっと沢山の花が見たいです」
「それで我慢しなさい」
「幽香さんだったらあっという間に咲かせられるじゃないですか。けちけちしないでくださいよー」

確かにいくらでも花を咲かせることは出来るけど。
こんな雨の日に日当たりの悪い場所に咲かせても、見栄えが悪いじゃない。
咲かせるのならもっと明るくて人目につくところの方がいいわ。

「花が見たいのなら、自分で育てなさい」

早苗が噛み付いてきそうだったので、花の種を渡して妥協してもらう事にした。
ポケットから巾着を取り出し、それを早苗に渡す。
不思議そうに中身を見て、どんな種が入っているのか確かめている。

「ヒマワリの種、ですか?」

ヒマワリの種に似ているけど、赤みを帯びていて、ちょっぴり小さい種。
見たことがなくても当然か。

「そう、ヒマワリの種よ。私の庭で育てているのとは種類が違うけどね」
「へぇ、どんな種類なんですか?」
「秘密。咲いてみてからのお楽しみよ」
「それは楽しみです。きっと綺麗な花を咲かせてくれるんでしょうね」
「当然よ。私が選んだ種なんだもの。景色が一変するくらい、綺麗に咲いてくれるはずよ」

早苗が嬉しそうに、種の入った巾着を袖にしまう。
今ここで花を見ることより、綺麗な花を自分で育てることに興味が移ったらしい。
喜んでくれたなら、渡した方としてもとても嬉しいわ。
早苗は、ちゃんと育てる事が出来るかしら?




ぴちゃん。


木の下に雨が降る。
上を見上げると、時々大粒の雨が垂れてくるのが分かる。
雨が葉に溜まり、堪えきれなくなった水が葉から零れたのだろう。
時々水が落ちてくるくらいで、まだそこまで酷くはないけど。
髪が濡れても嫌だし、服が濡れても鬱陶しい。
どうやってやりすごそうかしら。


「入りますか?」
「ありがと」

早苗が横に立ち、傘に入れてくれる。
宗教活動の一環なのか、親切にしてくれるのはありがたい。
雨もそのうち止むだろう。
青空が広がり、雲間から日が差し込み、木漏れ日を水溜りがきらきらと反射する。
木の葉に溜まった露が輝き、風を受けて滴を飛ばす。
蜘蛛の巣も、綺麗なビーズで飾られていることだろう。
空が晴れるまで、もうしばらく雨宿りを続けよう。
早苗が傘を持ち替えようとしていたので、タイミングを合わせて傘を奪い取る。

「代わってあげる」
「あ、ありがとうございます」

早苗の傘を確かめる。
白地に青い輪っかが描かれた蛇の目傘。
骨には暗い緑が塗られている。
意外と造りがしっかりしていて、丁寧な仕事なのに驚く。
外で作ったのか、人里に職人がいたのかは知らないけど。いい趣味をしてるのね。
でも、そんなに居心地が良くないのは何故かしら。
普段使っている私の洋傘と違うから?
それとも、この傘に何か変なものでも憑いてるのかしら。
それはともかくとして。
早苗が落ち着かない様子でそわそわしたり、しきりに髪を触ったりしている。
傘を奪った辺りから急に様子が変になった。
親切にされるのに慣れてないわけじゃないだろうし。
傘を取られたのがそんなに気に入らないのかしら。
鬱陶しいから、直接聞いてみることにしよう。

「なんで挙動不審になってるのよ」
「あ、いえ、その」
「なに?」
「相合傘してもらうのが新鮮で、ちょっと恥ずかしいです」

予想外の答え。
傘を持つのは良くて、持ってもらうのが駄目とは。
そんなことで恥らうなんて、若いのねえ。

「やっぱり、私が傘を持ちますよ」
「いいわよ。私が持つわ」
「で、でも」
「泥が撥ねるから暴れないの。大人しくしてなさい」
「う、うぅ……」

これは割りと珍しい光景ね。
こう見えて意外と初心なのかしら?

傘を差して空を見上げていると、雨が止み、青空が見え始める。
晴れたのを確認してから、早苗が傘を強奪して、青空の下に走っていく。
葉に溜まった雨水が落ちてきそうだったので、私も木陰から出て、空を見上げる。
雲が割れ、光のカーテンができる。
長い雨が上がり、光が差し込んでくる。この神々しい景色は割と好きだ。
雲が消え、青空が見えるまで、もう少しこのまま見つめていたい。

「幽香さんは、この後どうするんですか?」

少し遠くから、早苗が叫ぶように声を出してくる。

「もう少し、ここで空を見てるわ」
「そうですか。私は土が乾く前に、もう少し歩いておきますね」
「夢中になって転ばないようにね」
「大丈夫ですよ」

空を見上げて、木陰に咲く百合を見て、袖にヒマワリの種が入っていることを確認してから、気合を入れて。
それから、私に向かって元気良く手を振る。

「それじゃ、私はこの辺で失礼します。またそのうちお会いしましょう」
「今度は私の傘に入れてあげるから、一緒に太陽の畑を見て回りましょうね」
「あ、あはは~」

軽く手を振り、優しく微笑みかけると、曖昧な笑顔を残して早苗が立ち去ってしまう。
水溜りを飛び跳ね、撥ねる泥も気にせず、傘をくるくると回し、子供のように走り去っていく。
私は靴を汚したくないから、飛んで移動するしかないけれど。
その奔放さが、少し羨ましいわね。


木陰にたった一輪だけ咲いた百合を眺める。
一輪だけでも、胸を張り、臆することなく咲いている。
美人の代名詞になるだけのことはる。
花は、自然に咲いている姿を眺めるのがいい。
どれも表情が違っているし。綺麗なのもあればいまいちなのもある。
同じ場所に生えていても、土の混ざり具合や光の加減で微妙に変化が生まれる。
種によって形質も違うし、育った環境によっても微妙に違う。
私の育てたヒマワリも、毎年微妙に表情を変えて、見ていて飽きが来ない。
一人で育ててもそれだけ違うのだから、育てる人が違えば相当変わってくる。
おかしな肥料や水を使う人もいるし、身に纏う気質や霊力なんかも微妙に影響する。
それは夢と現が混ざり合う幻想郷では特に顕著だ。
早苗に渡した種は、グッドスマイルという名前の向日葵。
背が低く、玩具のように丸く可愛い花を咲かせてくれる。
外にたくさん植えるよりも、鉢植えにして部屋に飾っておくのが似合う花で、これはこれで気に入っている。
人に種をあげた後は、ちゃんと育ててくれるかやきもきするけど。
早苗は、どんな花を咲かせてくれるだろう。
あの娘と、その守護神の気質がどう影響するか。こればっかりは花が咲いてみるまで分からない。
早苗は、どんな向日葵を咲かせてくれるだろう。
それを見て、あの娘はどんな笑顔を見せてくれるのだろう。
笑顔を運ぶ夏の向日葵。
短い夏の間、鮮やかに咲き誇れ。





太陽の畑。
今は畑の名の通り緑に覆われ、何かの野菜を育てていると思われても仕方の無い姿を晒している。
でも、夏の暑さがピークに達する頃。ここの展望は一変する。
誰もが羨み、足を運ぶ、そんな幻想郷の一大観光名所へと変貌を遂げる。
さなぎが蝶になるように。蕾が花開き、美しきその姿を惜しげもなくひけらかす。
新聞の記事にするには申し分のないネタである。
だけど、私は絶対に向日葵の写真を撮ったりはしない。
そもそも、私は花を撮るのは嫌いですし。
理由は何かって?
そんなの言いたくもありません。
花の写真を撮ったって、誰も喜ばないからですよ。
ここは人里から離れているとは言え、来れない程の距離でもないですし。
幽香さんのテリトリーで無茶をする妖怪もいません。来ようと思えば誰だって来れるんです。
写真を見るよりも、実物を見たほうがいいという話ですよ。
たとえ一本しか咲いていなくても、たとえそれが枯れ木であったとしても、酒の肴としては十分です。
だけど、花の写真を見て酒を呑む者はそうそういません。それがどんなに綺麗に撮れていても、です。
実物に勝る写真もあるのかもしれませんけど。
私は写真家でも芸術家でもなくて、清く正しい新聞記者です。
清く正しい新聞記者です。
実物以上に美しく撮影する技術などありませんし、そんなことに労力を費やすくらいなら新しいネタ探しに奔走します。
劇的瞬間を逃さずシャッターに納める技術なら自信がありますし。それでいいと思っています。
私は、私にしか撮れないものを撮りますよ。
そもそも花はいけません。
毎日世話をしても中々咲いてくれないし。
早く咲けよと水や肥料を多めにやると、すぐに腐ったり駄目になってしまう。
咲くまで毎日やきもきさせられる。
咲いたら咲いたでまたいじらしいですし。
ようやく蕾がほころび始めたかと思えば、その日のうちに咲いて、十日と待たずに散ってしまう。
育てた苦労を思えば、せめて一月は咲き誇ってて欲しいのに。
好きなときに好きなだけ花を咲かせることができれば最高なんですけど。
幽香さんはそんな素敵な能力を持っていながら、何故か気長に花を育てているし。
花を育てて、毎日のように花を探して飛び回っている。
下手なちょっかいを出そうものなら圧巻の花の弾幕で出迎えてくれますし。
あれはいいですよね。視界が花で埋め尽くされて、綺麗で、とても好きです。
幻想郷で一番美しい華じゃないでしょうか。
あれに匹敵するのは、白玉楼や博麗神社の桜か。花の異変くらいしか知りません。
花見の時って、騒がしすぎてゆっくり花を見てる余裕もないんですよね。
写真を撮ればいつでも見れるかもしれませんけど。撮るつもりはないです。
撮った写真を現像しても、いまいちこれじゃない感が強くて。
シチュエーションによる高揚感もあるんでしょうね。
幽香さんの弾幕は、写真に撮るよりも実物を見たほうが千倍美しい。
写真は動きませんし、あの優美さは実際にグレイズして間近で見るのが一番綺麗ですよ。


そういえば。
カメラを持っている時はネタばかり探して。
花や、移ろう雲の姿などをのんびり眺めてる暇も無かったですね。
たまには、カメラも持たず、文花帖もペンも置いて、新聞とネタのことは一度忘れて。
のんびり気の向くまま出かけてみてもいいのかもしれません。
そうして普段と違うことをやってみれば、また新しいネタが湧いて、…………。
つくづく私の脳は記者根性が染み付いちゃってますねえ。
上等なお酒でも持って、適当に出かけてみるとしますか。
のんびりと、何も考えず、花でも見ながらお酒を呑んで。一日を無駄にしてみましょう。
行き先は気の向くまま風の向くまま。
今日は、歩く速さで、幻想郷を見て回ろう。





露に濡れる草むらを歩いていると、妙な竪穴を見つける。
この前の地震のせいで地割れでも起こったのだろうか。
中を覗くと、奥が一切見えない無限の闇。
地震で穴が開くのはままあることだけど。
そこから霊が湧いてきたり、外の世界に通じていたり、地底に通じていたりすることもよくあることだ。
夜に棲む妖怪が、暗闇それ自体を恐れることはない。
恐れるとしたら、その中に何かよくないものが棲み付いている場合だけ。
猛獣だったり、妖怪だったり、封印された何かだったり。
こういう目立たない場所にいる奴は大抵が雑魚なんだけど。
今日に限っては例外らしい。
肌が粟立つ。
この中に、一体何が潜んでいるだろう。
ぽっかりと口を開ける洞穴。
冒険心に任せて飛び込もうか考えていると、洞の奥から微かに音が聞こえてくる。
何かが、地の底から這い出そうとしているらしい。
外に出てきてくれるのなら好都合。
明るい所で相手が何者か確認したら、然るべき対処をしよう。
話し合いか、弾幕ごっこか、殺し合いか。少しは楽しめるといいわね。

嫌な感じが強くなる。
音も無く近付いているということは、飛んで移動しているのだろう。
穴から少し離れ、何が出てきてもいいように警戒する。
腕に鳥肌が立つ。何か、良くないものが出て来る。
一体どんな化物が出てくるのか期待しながら待っていると、闇が揺らぎ、何かが表に顔を出す。
くるくると、回りながら、どす黒い瘴気を撒き散らして外に出てくる。
出てきた者が私の姿を確認し、気さくに声をかけてくる。


「あら、風見の娘さんじゃないですか」

出てきたのは、厄神が一柱。
緑の髪に赤い服、整った顔立ちの女性がくるりと回り、綺麗な歯を見せてにっこり微笑む。
確かに良くないものには違いないけど。肩透かしを喰らった気分になる。

「厄神がこんなところで何をしてるのよ」
「ちょっと地底までお散歩を。そういう幽香さんは?」
「何が出てくるか待ち構えてたのよ」
「期待に応えられましたか?」
「カルタで893が出た気分よ」
「それは厄いですね。厄抜きでもしていきます?」
「そうね。お願いしようかしら」

忌み嫌われた厄の神様、鍵山雛。
鳥肌の原因は、凝縮された厄のせいだったようだ。
厄だけはどうも苦手だ。生理的嫌悪とでも言うのだろうか。
厄に近付くのを、本能的に拒絶している。
体に憑けば気の滅入ることが頻発するし、運が悪ければ死んでしまう。
避けるに越した事はないのよね。
もしかしたら、今日の出来事は全て厄のせいなのかしら?
それなら、ここでさっさとお祓いしてもらった方がいいわね。
雛に言われるがまま、近付いて彼女の前に立つ。
厄神との正しい付き合い方は二つに一つ。
厄神からもの凄く遠ざかるか、肌が触れるくらいに近付くか。
厄は雛の周りを漂っているだけなので、雛の傍は一応安全地帯になっている。
それでも、油断してると周囲の厄に触れてしまうので、余程の事が無い限りは近づかない方がいい。

洞穴の口から、闇が這い出るように濃厚な厄が溢れ出す。
傍目にもそれと分かる量の厄が周囲に満ちる。今日は厄が増量中らしい。
どす黒い雲のようなものが周囲に湧いてくれば、誰だっていい気はしない。
わざとばら撒いているのか、制御しきれないだけなのか。どちらにせよ、長居は無用だろう。


「はい、これで大丈夫ですよ。明日、日が落ちてから、解いて川に流してください」

小指にリボンを結ばれる。こうしておけば、厄がリボンに移り、厄除けになるらしい。
リボンを川に流せば、紆余曲折を経て厄神の元に辿り着いて、その厄を雛が回収するらしい。
それが本当かどうかは知らないけど。相手は厄の権威だし。悪いようにはならないだろう。
鰯の頭も信心から。幸不幸なんてのは気の持ちようだし。信じておいた方が幸せだろう。

「ありがと。それじゃ、さようなら」
「あ、待ってください。私も頼みたい事があるので」
「なに? 私もそんなに暇じゃないのよ」
「簡単なことですよ。頭のリボンがずれちゃったので、直して欲しいんです」

厄除けをしてもらった以上無下にもできない。
機嫌を損ねて厄を付けられても嫌だったので、大人しく承諾する事にした。
雛に頭を下げてもらい、リボンに触れる。確かにずれて緩くなっている。洞穴でぶつけたのかしら?
雛自身が厄に塗れているわけじゃないけれど、触るのに少し勇気がいるわね。

「リボンは解かない方がいいですよ。髪に結び直してくれるだけでいいので」
「面倒だから全部ほどくわよ」
「あらあら」

リボンを解くと3m超になり、思ったより長くて驚かされる。
その割には軽いのでどんな生地を使ってるのか気になるわね。
何箇所かピンがついていて、これで髪に留めていたのだろう。
赤い帯に白いフリル。そういえば、霊夢のリボンも確かこんな感じだったかしら。

「あらまあ。ちゃんと結べるのかしら?」

怒った風でも心配する風でもなく、次に何をするのか期待するような目で私の手元を見つめてくる。
雛の目の前で、長いリボンが地面に付かないように気をつけながら、くるくるとリボンを巻いて、結ぶ。
元通り、半分になった菊文様のような形に結び直す。

「あらー、凄いのね。慣れてないと出来ないと思うのだけど」

雛が手を叩いて賞賛してくる。
随分と呑気な神様もいたものだけど。
素直な観客は嫌いじゃない。

「慣れてるのよ。フラワーアレンジメントとかで、たまにこういうことをするから」
「そうなのですか」
「ほら、結んであげるから頭下げて」

リボンを髪に結わえ、落ちないようにピンで留め、ついでにこっそりと白い桔梗をかんざし代わりに挿してみる。
植木鉢を飾る事もあるし、時々は他の娘の髪を結わえてあげることもある。
アリスには及ばないけど、それなりに器用だという自信はあるし。リボンの扱いはお手の物だ。

「鏡がないのが残念です」
「帰ってから確認するといいわ。それじゃ、私は行くから」
「そういえば、もう一つ用事を思い出したのですが」

首を傾げて頬に手を当てて、さらりと要求を増やしてくる。
最初の頼みをきっぱり断っておけば良かったかしら。
この調子で次々注文を増やされたら堪らないわよね。

「私も用事があるのだけど」
「どうせ暇でしょう?」
「傘を探して歩き回ってるとこなのよ」
「要するに暇ってことですよね?」
「あのねえ」
「ん?」

笑顔でやんわりと強要してくる。交渉時の笑顔って、本当手強いわよね。
図々しさは一級品みたいだけど、神様って元来こういうものだったかしら?
むしろ、幻想郷の人間がみんなこんなものだったろうか。
人の迷惑を考えない奴って本当に困るわよね。
気絶でもさせて逃げちゃおうかしら。

「一体なんの用なのよ」
「さあ?」
「引き止めておいてそれはないでしょ」
「暇です」
「あっそう」
「お話しませんか?」
「離してよ」
「だめです」

服の裾をつかまれる。今日は厄日に違いない。傘を失くすし、厄介なのに絡まれるし。
本気で逃げれば追ってこないだろうけど。逃げ足には自信がないのよね。
服を掴んだまま、雛がぺたぺたと顔に触ってくる。珍しいものでも見るような目つきだ。

「厄に触れなければ大丈夫と分かっていても、私に近付いてくれる人は滅多にいないんですよ。
 折角なので、もう少しゆっくりしていってください」

先程までとは質の違う笑顔で頼まれる。
人から遠ざかり、一人で厄を背負うえんがちょの神様でも、寂しいと思うことはあるらしい。
これまでもたまに会うことはあったけど、いつも厄に触れないように距離を取っていたからね。
近くに来てくれて嬉しいのかもしれない。
確かに、厄を気にせず接する事が出来る人は相当限られてるわよね。
よほどの豪運の持ち主か、厄に負けない強い精神力の持ち主か、刺激に餓えた暇人か。大体そんなところだろう。
それなりに心当たりがあるから、今度雛との酒宴に誘ってみようかしら。

「人恋しいなら素直にそう言いなさいよ」
「寂しいです」

服の裾をきゅっと掴み、上目遣いで見上げてくる。じんわりと目が潤んでいる感じもする。
天然なのか故意なのか判断に困るけど。これで無視して帰ったら寝覚めが悪いじゃない。
もうすぐ夕飯時。一休みするには丁度いい頃合だ。少しくらいなら、相手してあげてもいいかしら。
適当な岩を砕いて椅子にして、雛と肩を合わせて座る。
これは恋人の距離だけど、仕方ない。
このくらい近付かないと、何かの拍子に厄に触れてしまうのだから。

「日が暮れるまでね。日が落ちたら、神社に行くから」
「どちらの神社ですか?」
「霊夢がいる方」
「ああ、逢引ですね」
「帰るわよ」
「日が落ちるまでは帰しませんよ。日が落ちてからは、どうぞご自由に」

つい、口を滑らせてしまったわね。
日が暮れるまでは大人しく座ってるしかないのかしら。

「話の種はあるの?」
「花の種ならありますよね?」
「非常食にもならないわよ」
「酒の肴にはなるんじゃないでしょうか」
「お酒はあるの?」
「ありません」
「駄目じゃない」
「そのうち届くと思いますよ」
「ぺりかん便? それとも黒猫の方かしら」
「んー。足して2で割った感じでしょうか」
「どんな生き物よ」
「すぐに分かりますよ」

厄神がころころと笑う。
お酒が届くと言ったけど、ここで誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。
考えても分からないと思ったので、空を仰ぐことにした。
森の中から見る空は、千代紙のように小さく千切られた空だった。
綺麗な水色の空が広がり、風に流された雲が刻一刻とその姿を変える。
その雲に混ざって、私の傘が空を飛んでいるのかもしれない。
地上に視線を戻すと、相変わらず周囲にはどす黒い厄が蠢いている。
分厚い厄のせいで、周りに何があるのかはっきりとは分からない。
これでは風情もありはしない。
あまりにつまらない風景だったので、陰気な厄の中に花を咲かせてみることにした。
自然の花ではなく、魔法で作った偽物の花。
花の形をした魔力の塊なので、厄の影響を受ける事もない。
仮に暴発しても、この程度なら大した被害にはならないでしょう。
赤、白、黄色。青に虹色の花。想像力次第でどんな花だって咲かせることが出来る。

「綺麗ですね」
「ありがと。貴女も厄で何か芸でも出来ないの?」
「そこまで器用な事はできませんよ」
「本当、どうしようもないわね」
「どうしようもないから、私が代表して回収しているんですよ」

造花で暇を潰していると、がさり、と音がする。藪を掻き分け何かが近付いてくる。
立ち往生しているような音と、馴染みのある声が聞こえてきたので、雛に言って厄をどかせてみる。
出てきたのは見慣れた黒い鳥。
いつもの制服とは異なり、腋の出た白い振袖のような格好。
黒い羽と綺麗な濡れ羽色の髪、白い服との対比がとても美しい。

「あやー。お取り込み中でしたか?」

手には風呂敷で包んだ瓶と、酒盛りの道具らしきものを携えている。
ペリカンと黒猫を混ぜて出来上がったのがこれなのだろうか?

「貴女が呼んだの?」
「呼んでませんけど、誰か来そうな気がしたものですから」
「お邪魔なら帰りますけど」
「帰らなくていいわ。丁度お酒が欲しかったところよ」
「こちらに来ませんか?」
「それは喜んで。こちらも丁度暇していたものですから」

文が厄の靄を掻き分け、躊躇無く私達の傍まで来る。
酒瓶の包みを解いて、その風呂敷を地面に敷く。
その上に魚の干物を広げ、人数分の盃を置く。
文が折れた枝を拾って地面に刺す。そして二度ほど手を叩くと、細い枝が丸太の椅子に姿を変える。
花を操る能力とは別物みたいだし、幻術の類だろうか。随分と便利そうな術ね。
各々盃を手に取り、お酒を注いで乾杯する。

「厄を肴に、まずは一杯」
「もう少し色気のある肴はないのかしら」
「肴と言っても、干物か、雛さんの頭のお花くらいしかありませんよね」
「頭のお花?」
「頭がお花畑ってことよ」
「まあ酷い」
「そんなつもりでは。というか、どう考えても幽香さんの仕業ですよね」
「お酒は一瓶で足りるの?」
「花や月でも眺めて、ちびちびやるのもいいと思いまして」
「いい心がけね」
「それじゃあ、大事に飲まないといけませんね」
「気にせず呑んで構いませんよ。無くなったら別のを取ってきますし」
「瓶を干したら、次は露でも飲みましょうか」
「それも楽しそうですね」


盃を傾け、酒を飲む。水のように、するりと喉に溶けて消える。
周りに華があればもっと旨いのだろうけど。
森の中とは言え、周囲には濃密な厄が蠢いていて、他に見るべきものもない。
上を見上げれば、辛うじて窮屈そうな空が見えるくらいだろうか。

耳を澄ますと、命が枯れる音がする。
厄に呑まれた命が、非業の死を遂げる。
花は腐り、虫は食われ、鳥は地に墜ち、動物が不意に命を落とす。
どこでも起きる当たり前の事だけど、厄のせいか今日は特に多い。
でも、それはいちいち気に留めるほどのことでもない。
生きて種を残す命より、成熟できずに死んでいく命の方が遥かに多い。
失われた命を嘆いても仕方が無い。
失われる命を数え上げる暇があるのなら、生きている命を賞賛するべきだ。
ここに厄が満ちているというのなら、他の場所ではきっと運に恵まれるに違いない。
運に恵まれて、誰もが羨むような見事な花を咲かせるに違いない。
それを見て、心から感動すれば良い。

虫たちの声もどこか遠く、森の緑も見えやしない。
こんな状況で酒を呑むにはあまりに寂しかったので、ほんの少し、ズルをして花を咲かせる事にする。
花を咲かせたい場所に指を向け、くるりと指を回す。
すると、普通では考えられない速度で花が育つ。
朝顔の蔓が厄の神に絡みつき、電飾のように赤や紫の色鮮やかな花を咲かす。
地面から炎が立ち上がるように、次々とサルビアが赤い花を咲かせる。

「あらまあ」
「これは凄い」

雛が驚いて眼を丸くし、文が相好を崩す。
まだ呑み始めたばかりだというのに、もう酔いが回ってるのかしら。

「やっぱり、花があるといいですよね。お酒が進むというものです」
「まさか朝顔に巻きつかれるとは思わなかったわ」
「気に入らなかったかしら?」
「いいえ、凄く気に入ったわ」
「気に入ってくれたようで嬉しいわ」
「いつでも好きなように花を咲かせることができるなんて、素晴らしい能力ですね」
「ありがと。でも、普通に育てた方が長く楽しめていいわよ」
「私はせっかちなんで、花を育てるのは苦手です」
「種をあげるから、育ててみるといいわ」
「いや、遠慮しておきますよ。ちゃんと育てる自信がないですし」
「世話をしなくてもいいわ。鉢にいれて、適度に日当たりのいい場所に置いておけば、そのうち勝手に咲くから」
「随分と適当ですね。いつ頃咲くんですか?」
「知らない」
「は?」
「何の種か忘れてしまったもの。大丈夫よ。一年も放っておけば、いつかは咲くでしょうから」
「なんか、そんなんでいいんですか」
「いいのよ。放っておいても花は咲くんだし。下手に手を加えない方がいいことも多いのよ」
「へぇー。あとで図書館に行って、何の種か調べてみましょうか」
「私でも分からない種なんだから、調べても無駄だと思うわよ」
「何が出てくるか怖いんですけど」
「貴女に相応しい花が咲くんじゃないかしら」
「どんな花ですか、それ」
「さあ?」

文が胡散臭そうに、手に取った種を睨んでいる。
間違って食べたりしないといいけど。

「私には何かないのかしら?」
「コスモスでも育ててみる? 強い花だから、多少厄がついても平気でしょう」
「じゃあそれで」
「はいはい。大切にしなさい」
「ありがとう」
「いつ咲くかも分からないし、何が咲くかも分からないなんて、どうすればいいんですか」
「土に蒔いて、思い出したときに水でもあげればいいわ。運がよければ花が咲くでしょうし。悪ければずっとそのままよ」
「だめじゃないですか」
「きっと楽しいわ」

環境と条件が合えば、花は勝手に咲くものだ。
やり方を間違えれば、熱心に世話をしたせいで枯らしてしまうこともあるし。
花の育て方を1から100まで指示した所で、それをちゃんと守れるかはまた別の話。
知識があれば枯れるリスクを減らせるけど、それでも枯れる時は枯れてしまう。
いくら知識があったところで、天候とか病気とか、運に左右される部分も多い。
それだったら、素人なんだし、全部運任せにした方がかえっていい結果になるんじゃないかしら?
私もたまには様子を見に行くけど。
綺麗に咲いてくれるかは文次第。
もし枯れてしまったら、ちゃんと埋めてあげて、失敗を次に活かせばいい。それだけのことよ。

「幽香さん、最近何かありました?」
「何かって、新聞のネタでも探してるのかしら」
「今日はオフレコですよ。カメラもペンも、文花帖すら持ってきてませんし」

雛が文の袖の下や服をまさぐって身体検査をする。
寂しい余り、触り癖でもついちゃったのかしら?

「あら本当、無くしてしまわれたのですか?」
「ちゃんと家の金庫に保管してますよ」
「あら、偉いわね」
「いや、それはいいんですよ。何か今日は幽香さんが笑ってないので、少し気になったんですよ」
「笑ってない?」
「はい。いつもみたいな余裕が感じられないです」
「そういえば、今日は何となく厄い感じがしてるわよね」

文と雛が顔を覗き込んでくる。
文は好奇心から、雛は多分心配でもしてくれているんだろうか。
何となく居心地が悪かったので、目を逸らして盃を空にする。
隠すことでもないから、素直に言ってしまうか。

「傘を失くしたのよ。風に飛ばされちゃってね」
「それは厄いわねえ」
「ああ、そういうことでしたか。気に入りの物が無くなったら大変でしょう。こちらで探しておきましょうか?」
「いいわ、自分で探すから」
「見つかる当てがあるので?」
「無いわ。後でダウザーに頼もうと思ってるけど」
「ああ、それならすぐに見つかりそうですね」


服を登ってきた蟻を遠くに飛ばしてから、盃の縁を指でなぞる。
笑顔がない、か。
いつもそこまでにこにこしてるわけじゃないけれど。
輝夜にも同じようなことを言われたし、今日は少し余裕が無いのかもしれないわね。
自覚がないだけで、実は相当参っているのかも。
傘がないだけでここまで変わるとは思わなかったけど。
やっぱり、体の一部が無くなるのは色々と不具合が多いのね。

「気を遣わせて悪かったわね」
「いえいえとんでもない。それで、今日は傘を探して東奔西走していたんですか?」
「そんなところよ」
「ちなみに、どんな事がありました?」
「ゴシップの取材はお断りよ」
「今日はお休みで、オフレコですよ。それにゴシップじゃなくて、清く正しい文々。新聞です」
「信じられるわけないでしょ」
「信じられないわよね」
「正義は常に孤独ですね」


からかったり、からかわれたり。どうでもいいことを話し続けていると、いつの間にか西日が差し込んでいる。
夕日が山に沈み、全てが紅く染められる。
朝顔と桔梗の花が夕日を浴びて美しさを増す。
盃の中の酒が、夕日を受けて血のような赤に変わる。
月の姫を思い出しながら、赤い液体を喉に流し込む。
喉が焼け、体の内側から侵食されているような気分になる。
赤い夕日に染められれば、白いクチナシも朱に染まるのだろうか。
明日、またクチナシを見に行ってみよう。
花を咲かせて、夕日で照らし、どんな色になるのか確かめてみよう。

太陽が一気に沈み、辺りが暗くなる。
夜と呼ぶにはまだ明るすぎるけど。黄昏時を過ぎれば、一寸先も見通せぬ闇に包まれるだろう。
これからは妖怪の時間。ついでに、昼間に寝ていた人間も動き出す頃だろうか。
手元が見えなくなっては酒盛りも続けられない。
適当に理由を付けて帰ろうと思っていると、雛がこの場を締める。

「さて、日も暮れたことですし。この辺でお開きとしましょうか」
「まだ宵の口ですよ。お酒もまだ残ってますし」
「私はこれから神社に行く用があるから。ほろ酔いでちょうどいいわ」
「私もあんまり酔いが回ると厄の制御ができなくなりそうですし」
「仕方ないですね。独り酒でもしてますよ」

文が大人しく引き下がる。ここで引き止めてもデメリットの方が多いと悟ったのだろう。
雛が手を叩き、それで解散の流れになる。
適当に時間は潰れたし、気も紛れた。
これから霊夢のところに顔を出して、それから傘探しを再開しよう。

「幽香さんはこれから霊夢さんのところに行くんですよね。後で私もお邪魔しに行きますよ。
 ネタになる二人が揃うのなら、見ないと損をしそうですし」
「今日は休業じゃなかったの?」
「記事にはしませんけど、酒の肴には持って来いですし」
「勝手にしなさい。小鬼に絡まれても助けないからね」
「うへぇ。鬼がいないのを確認したら、寄りますよ」
「今日はありがとうございました。またお話しましょうね」

雛が厄を引きつれ、朝顔を巻きつけたまま、くるくると回りながら飛んでいく。
酔いが回りそうだけど、大丈夫かしら?
朝顔は放っておいても夜半までは咲き続けているだろうけど、それ以降はどうだろう。
ちゃんと地面に植えて、何かに巻き付けておけば大丈夫だと思うけど。花の生命力と、雛次第ね。
文は手早く酒盛り道具を片付け、獣道を進んでどこかへと消えてしまった。
鳥のくせに夜目が利くのかしら?
視界が悪いし、夜の森は何が出てくるか分からない。私は素直に空を移動しよう。
文が椅子にしていた丸太は、いつの間にかただの枝に戻っていた。
その枝が、地面に根を張っている。
運よく育てば、そのうち大樹になるのかもしれない。
その頃には、もう一度ここで宴会をしてもいいかもね。




上を見て飛んでいると、自分がどこにいるのかわからなくなる。
視界の全てが夜空で埋まり、宇宙に投げ出されたような気分になる。
落ちているのか、飛んでいるのか。どこに向かっているかも分からない。
夜空に輝く星に向かって適当に花の弾幕を放つ。
自分の頭の中にある花のイメージを、そのまま形にして撃ち出す。
燐光を纏う花の塊が、空を自在に飛び回る。
本物の花は綺麗だけど、こうやって空に飛ばすには繊細すぎる。
魔法を使えば、季節の違う花も一緒に咲かせることができる。
時間や場所を選ばず、色や形だって思いのまま。
一瞬で消えるからこそ、その一瞬に華を咲かせられるように工夫する。
一瞬の輝きで、人の心を魅了するような弾幕を作りたいと思う。

これから霊夢に会って、妖怪寺に行って、ダウザーを捕まえて、傘を見つける。
ダウザーが留守なら、その辺の魔法使いとか犬の天狗を捕まえて手伝わせれば良い。
長年愛用したものだし、私の匂いとか妖力の残滓を辿れば、見つけられないこともないだろう。
そんな苦労をかけずとも、巫女の豪運と直感ですぐに見つかってしまうかもしれない。
最初からこうしていれば良かったわね。
そうすれば、こんなに時間をかけずに済んだのに。
まあ、私にとって傘がかけがえのない物だと分かっただけ上出来かしら。
今度からは失くさないように、失くしてもすぐ探せるように何か手を打っておこう。

考え事ついでに、空に花を飛ばす。
カタクリ、ヒマワリ、ミズヒキ、ヒイラギ。赤いヒマワリに七色のバラ。
指を動かせば、それにあわせて花が踊る。
空に花を咲かせるだけなのに、それがとても面白い。
傘が見つかる目処が立ったので、浮かれているのだろう。
大して飲んでないのに、酔いが回ってるのかもしれない。あの天狗も相当上物のお酒を持ってきてたみたいね。
後でお礼の一つも言っておこう。


夜空を泳いで、ようやく夜の神社に辿り着く。
月が明るく、星が見えない夜。
人里には疎らに松明が灯り、微かな炎が揺れる。
未だ熱を持つ空気が、しつこくまとわりついてくる。
日が落ちてからも、虫たちは熱心に求愛の声を上げる。
昼間の騒音も、夜になると透明度を増し、幾許かの風情を添えてくれる。
夜の境内に、白い傘が一つ、背を向けてくるくると回っている。
それに巻き取られるように、一歩ずつ近付いていく。

「ただいま」
「おかえり」

傘越しに霊夢と挨拶をする。

「傘、見つけてくれたの?」
「賽銭箱に入ってたのよ」
「誰が入れたのかしら」
「大体想像つくでしょ」
「それもそうね」

霊夢が傘をくるくる回し、大股で歩いていく。
そんなに私の傘が気に入ったのかしら。

「返してくれないの?」
「返してあげてもいいわよ」
「お礼でも欲しいの?」
「くれるなら貰ってあげる」
「どうして欲しいのかしら」
「寄り道してないで、さっさと来なさいよね」
「あら、見てたのね」
「見えたのよ」

先程までの痴態を見られていたらしい。
それもそうよね。ここは見晴らしがいいし。夜に咲く花はさぞ目立つ事でしょう。
腰をかがめ、霊夢の傘に入る。
霊夢が傘を持つ手を取り、高さを調節する。

「相合傘って言うのよ。知ってたかしら?」
「知ってるわよ」
「そう。傘、ありがと」
「どういたしまして」

霊夢のおでこにキスをして、霊夢の手から傘を受け取る。

「お酒臭い」
「さっきまで呑んでたのよ。気分がいいのはそのせいかしら」
「酔った勢いで問題起こさないでね」
「それは無理な相談ね」

空に軽く投げ、柄を握りなおして一振りする。
緩い風をおこし、優しい香りが広がる。
うん。大丈夫そう。
目立った汚れも歪みもない。
握り具合を確かめ、肩に当て、傘の具合を確かめる。
やっぱり、傘を持つと落ち着くわね。
嬉しさで頬が緩んでいるのが分かる。
今日はブン屋が休業中で良かったわ。こんな姿、とても見せられないもの。

「久しぶりの傘はどう?」
「最高ね。今なら花の異変も起こせそうよ」
「ああそう」

柄の握り具合を確かめ、くるりと傘を回す。
傘を一振りすると、傘から花が溢れ出す。
持ち手から妖力が伝わり、傘の表面を辿って、先端に溜まって落ちる。
傘を覆う妖力が花を咲かせ、咲いた花が傘を滑って空に踊る。
自ら光を放ち、華美な花が舞い踊る。
一つ回るごとに花弁が剥がれ、最後には光の粒になって消える。
傘から零れ、花にならなかった光の種が地面に落ち、味気ない地面を花で飾る。
石畳の隙間からタンポポが生え、石の上を背の低い花が覆いつくす。
鳥居を薔薇が這い上がり、白と緑に塗り替えてしまう。

「少し見ない間に、何か変なものでも憑いたんじゃない?」
「私の傘だもの。きっと花の神様でも食べたのよ」
「随分と乙女な神様だこと」

一歩歩くごとに、足元を花が埋め尽くす。
立っている場所から、円形に花畑が広がっていく。
試しに指で宙をなぞると、その跡に花が咲いて、瞬く間に消える。
宙に咲いた花は花火のようにぱっと消えてしまうけど。
地に根を張ったものは普通の花と同じように咲いている。

「ここを花だらけにしたら怒るかしら?」
「一晩だけだったら大目に見てあげる。枯れたらちゃんと片付けなさいね」
「分かったわ、それじゃあ遠慮なく」

傘の一振りで、殺風景な神社が彩り溢れる花畑へと姿を変える。
月明かりを受けるだけでなく、自ら光を放っているかのように明るく輝く。
花を咲かせるだけなのに、こんなに楽しいのは何故だろう。
今夜はすごく気分がいい。
自分が楽しむために花を育て、人を惹き付けるために花を創っていたけど。
たまには、気の向くまま好き勝手に花をばら撒いてみてもいいのかもしれない。
今日は、私が知ってる花を全て咲かせてみよう。
空を彩り、花火のようにあっという間に消える。
見た人の心に小さな種を残し、いつか育ててもらえる日を待つのだ。
今日の花を見た人がどんな花に感動し、どんな花を育てるか。想像するだけで胸が躍る。

「楽しそうね」
「すごく楽しいわ」

霊夢を傘に入れ、笑顔を向ける。
乙女的演出も追加しよう。
淡い光を放つ花が周囲を飛び回る。
傘の上を花が滑り、霊夢の肩にぶつかり、弾けて消える。

「一夜限りの花の異変、とくとご覧あれ」

霊夢に笑顔を向けてから、地面を蹴って跳ね上がる。それにつられ、いくつかの花が宙に舞う。
空に飛び上がり、くるりと一回転。螺旋を描いて花束が空へと昇る。
宙を滑るように飛ぶと、足元から大量の花が溢れ出す。
空を埋め尽くすほどの、大量の花が夜空に咲き誇る。
地面に残り、空を見上げている霊夢に大きな声で話しかける。
呆れたような表情で見ているけど、目が離せないみたい。

「そのうちまた来るわ」
「期待しないで待ってる」
「ばいばい」
「また明日」


明るい月の夜。
星よりも明るい花が夜空を彩る。
弾幕よりも綺麗で色鮮やかな花の洪水が、虹のように世界を照らす。
世界はこんなにも美しい。
花は、こんなにも人の心を魅了する。
今宵限りは、この幻想郷の空は私のもの。
フラワーマスターの起こす花の異変、とくと御覧あれ。




「花、月、風。花鳥風月には鳥が足りてないかしら」
「あやややや。なにやら随分と賑やかな事になってますねー」
「鳥が来たわね。煩くて、風情の欠片もない奴が」
「月に叢雲、花に風とは言いますけど。まさか花が月を覆い隠してしまうなんて想像もしなかったでしょうね」
「花見にはお酒が付き物よね。何か奉納品はあるのかしら?」
「とびきり上等なお酒がありますよ。飲みさしですけど、二人で飲むには丁度よいかと」
「ならそれでいいわ。つまみになりそうなのはお新香くらいしかないけど、それでいいかしら」
「お構いなく。なんなら塩でもいいですよ」
「それは私が嫌よ」
「夜空を覆う可憐な花に乾杯」
「美味しいお酒に乾杯」




薔薇、牡丹、百合、芍薬。
青い薔薇に紅い梔子、黄金色の向日葵。
春の花も、夏の花も、秋も冬も。
現実の花、幻想の花、空想の花、理想の花。
花にならない光の塊、花を模った光の粒。
咲いて、散って、また新たな花を作る。
天の川のように溢れ出て、流星群のように四方に散り、夜空を花の天蓋で埋め尽くす。
一夜限りの花の異変。
野に咲く花よりも艶やかで、どんな花より華がある。
こんなにも月が明るい夜だから。
花を見て、お散歩でもしてみましょう?
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コメント



0.1280簡易評価
1.100奇声を発する程度の能力削除
こういう形式のお話は読んでてとても落ち着きます
最初から最後まで夏の美しい雰囲気があり素晴らしかったです
15.100名前が無い程度の能力削除
花の幻想曲、堪能させていただきました。
実に美しい世界が走馬灯のように現れては消え――それはまるで、咲いては散る花の如く。
私には、眩し過ぎるものだなぁとか考えてしまったり。
素敵な素敵な世界でした。
18.100名前が無い程度の能力削除
幽香らしい感じがしました
すべて世は事もなしって感じですかね?違う気もしますが。

天然っぽい雛さん可愛いです
違和感があった部分を

今度雛との酒宴に誘ってみよう~
文章から予想して霊夢と雛を間違えてる?
24.100幻想削除
夏ももう終わりですね。

心が穏やかになりました。
27.無評価名前が無い程度の能力削除
設定面でのツッコミです。
永遠亭にかけられていた永遠の魔法は永夜抄の異変後に解かれ、屋敷の歴史は動き始めました。
したがって現在の永遠亭は朽ちもすれば汚れもします。

ただ当該の文章は幽香の一人称ですので、単なる彼女の誤認識ということでしたらすみません。