夏が過ぎ、秋口の涼しげな空気が少しずつ流れこむ季節。
妖怪の山の中でも、特に川の流れに沿って続く渓谷と河原は、敏感に季節の変化を棲むものに伝える。
河童達は早くも冬の備えについての相談を始め、秋の神姉妹は実りの恩恵を各地へ伝える為、朝夕を問わずに駆けずり回っていた。
そんな中にあって、何をするでもなく、所在無さげに川辺の大岩の上でぽつねんと坐り込む影が一つ。
濃い紅のドレスを身に纏い、豊かな髪をリボンで奇妙な形に結った、歳若い少女の姿の神……鍵山雛である。
「秋、か」
彼女が坐っている岩はかなり川を遡ったところにあり、川面を渡る風が季節を問わず能く吹きつける。
頬を撫で、髪を濯うその風に湿気を感じなくなった日から、まるで夏を追い出すかのような性急さで山の気候は秋へと移り変わってゆく。
既に、蜻蛉がそこかしこに舞い始めていた。
「秋寂し、独り寝る夜の片衣……人間はこの季節、人肌の温もりが無いと温まらないのかしら。生きているだけで充分でしょうに」
どこか醒めたところのある口ぶりで呟き、雛は川に小石を投げ込む。その仕草を見ているとまるで生に飽いているかの如くだが、言うほど彼女が厭世的なわけではない。ただ、この季節がそう言わせる程度に物悲しい雰囲気をたたえているだけの事である。
どちらかと云えば、彼女はこれから来るであろう『秋』という一時節の間の暇をどう潰すかに頭を悩ませていた。
秋は豊穣の季節、人が笑いさざめく時。人々の悲鳴に似た祈りを捧げられ、厄をその身に受ける彼女の出番には縁遠い季節。
例年であれば、偶にふらふらと彷徨い、徒らに誰かを不幸にするような……言ってみれば『野良の厄』を回収してまわる程度のお勤めしかない、暇で気楽な時期なのだ。
尤も、彼女はそれが一番いいのだと充分承知している。自らの忙しさは、人々や妖怪達の不幸と比例関係にある。暇に越したことはない。
気を取り直した雛は岩から降り、今日のねぐらを求めて森へと踏み行っていく。明日も明後日も、いつも通り大して代わり映えのしない毎日であろうと予想しながら。
しかし、その自覚なき期待は、今年に限って完全に裏切られる事となった。
*
雛が秋に倦んだ独り言を呟いてから二週間程経ったある日、彼女の中の違和感は着実に大きくなっていた。
辺りに漂う厄の量が、余りにも多すぎるのだ。無論、秋だからといって厄が無くなるわけではない。人の中の陽の気に押されて陰の気が引っ込む、それだけのこと。
何か明確な発生要因の無い『厄』など、人の陰気の集積体のようなものだ。恨みつらみや怨念と大した差はない。
だが、しかし。
「やっぱり変だわ」
また一つ流れてきた厄を手に引き寄せながら、雛の顔が険しくなる。引き受けた厄がいくら積み重なろうと彼女自身には害を及ぼすことは無いとは言っても、それで看過出来る話でもない。
どうしようか、調べに行こうか…と何度か腰を浮かしかけては、また力なく座り込む事を此処数日繰り返していた。
雛はこの山に封ぜられた神ではない。故に何処に行こうとそれは彼女自身の勝手に出来る。だが、自ら人里や他の妖怪の住居に赴く事はやはり、憚られた。
『厄神』がうかつに動けば、状況や事態の悪化を容易に招くことを、雛は厭と云う程良く理解している。興味本位で首を突っ込んだら抜けなくなった、という段階で終わればむしろ御の字、僥倖というのだから、彼女の悩みは容易に解決出来そうもなかった。
「あの人間の巫女ならどうだろう」
ふと、以前この山に闖入してきた紅白鮮やかな人の子を思い出す。
山への侵入を押し留めようと威勢よく仕掛けたは良いがあっさり返り討ちにあった事を思い出し、やや酸っぱい気持ちにならないでも無かったが、かの人間はその後に山の頂に来た神々をも打ち破ったと伝え聞いた。
それほどの力をもっているなら、短時間なら厄に冒される事なく、この事態の相談が出来るかもしれない。
仮定論が先に立ち、またあの巫女が好意的に接してくれる保証もない、穴だらけの理論構築だ。だが特段他に妙案も無く、さりとてここでやきもきするのも芸が無し。
一念発起、雛は日の高さを確かめると、立ち上がってスカートの汚れを掃い、河川敷に降り立った。
じゃり。
石と砂が擦れる音が、せせらぎと鹿の声に交じって微か。
さて、と飛び上がろうとした雛だったが、ふと辺りを見回す。今、踏んだ時にたった砂利の音が、一つでないような気がしたからだ。
目を閉じて耳を澄ますと、果たして下流から沢へと登って来る気配がある。
慌てて岩の後ろに身を翻し、そっと覗きこむと、登ってきたのは人間の男のようだった。その着物はところどころに破れた跡があり、こけた頬と疲れ切った表情から、ここまで来るのによほどの体力を使ったのであろうことが判る。
山奥深く普通の人間が立ち入れば、ただでは済まない。流石に徒歩の人間があの巫女以上の能力者ということはないだろう。
何用あって此処まで来たのかは定かでないが、兎角諭して帰らせよう……そう思った雛は、岩の上に再度登り、出来るだけの威厳を以て声をかけた。
「止まりなさい、人間。何故ここまで来たかは知らないけれど、これ以上は進んではならない」
男がビクリと体を震わせる。川石に足を取られぬ様に下ばかりを見ていたので、大岩の上に立つ雛にはまるで気付いていなかったようだ。覚束ない視線を漂わせた男は、漸くしてその声の主が目の前に居る事に気づき、後ずさった。
見目は人形のような小柄な少女でも、その身に纏った神格と、怖気の走る厄の気配は人を畏怖させるのに充分すぎる効果を及ぼす。
事実、男に十分な体力があれば、その場から逃げ出したかもしれない。
「大人しく帰りなさい。危害を加える気はないから」
侵入者の怯えに少しだけ罪悪感を感じつつ、今度は出来るだけ優しく諭す。
河童はまだしも天狗に見咎められれば命の保証はない。それにどの道これ以上進んだところで、あるのは山の神のお社だけ。ましてそれには道が違う。
そういった事を出来るだけ穏やかに伝えた雛だったが、男は口をもごもごと動かすばかり。背にした背負子を振りかえりながらも、その場から動こうとはしなかった。
「どうしたの?早く立ち去りなさい」
何度か戻ることを促してみても、同じ。男は何かを言いたげにするばかりである。
これには雛が焦れ始めた。巫女に会いに行こうと思ったのに、妙な事で足止めを食ってしまっている。さりとてこの人間を見捨てておくわけにもいかない。
夏より明らかに短くなった日は、あっという間に山の端に落ちていってしまう。もういっそ攫って人里に放り出そうか……等と本気で思い始めた頃になって、初めて男が明確に口を開いた。
「あ、あの……」
「え?」
「この山の何処かに、厄を引き受けてくださる神さんがいらっしゃると……わっしゃぁ、その御方に会いに来たんで……」
怯えた声で、男がぼそぼそと呟く。が、その内容には雛が面喰らった。
今のが聞き間違いでなければ、厄神たる自分に会いに来たのだという。神事の折でも、そんな事をする人間は居ない。人形に厄を擦りつけ、川に流す位のものだ。
首をかしげつつ、雛は男に確認の為に問い返した。
「厄神なら、それは私だけど……私に会いに来たの?」
途端に、男の顔が希望に輝く。背負子を下ろし、岩の前で平伏すると、声の限りに言上を始めた。
「おねげぇします、わっしの息子を助けてやってくだせぇ、おねげぇします!」
「ま、待ってよ、助けろって一体」
何をしろっていうのよ、と続く言葉は、背負子にかぶせられた襤褸を退ける男の動きで永久に飲み込まれた。
襤褸で隠されていた籠の中、そこにはまだ幼い……赤子と言っていいような子供が荒い息をついている。
その顔を覗き込んで、雛はここ最近の異常の原因について判然と悟り、そして戦慄する。
―――流行り病。
赤く発疹が体中に浮き、高い熱をもたらすこの病は、人の世にあって数限りない悲劇を生んできた。
おそらく、この男が暮らす集落がその脅威に曝されたのだろう。病は弱いものから真っ先にその命を奪っていく。老人、子供、病弱な大人……
座して死を待つに耐えきれず、苦しみに悶えるわが子を見るに忍び無く、男は禁を承知で山に踏み入ったのだろう。
しかし、その心中を察しても尚、雛はかぶりを振って山の麓の方角を指差した。
「病は私の領分じゃないわ。確か永遠亭という場所に医薬に通じた妖怪がいると聞く。そこにお行きなさい」
「わっしらも、そう考えやした。若いもんが一人、永遠亭に助けを呼びに走った。三日を置いてまた一人、さらに四日目にもう一人。誰も帰らねぇうちに、村は病に覆われきっちまった…もう、待っちゃ居られねェんです」
どろんと落ち込んだ、虚ろな目。疲れと緊張が彼の精気を根こそぎ奪い去り、その貌はまるで老人のようだ。
昨日まで笑い合っていた家族や仲間がバタバタと倒れていく中、ただ待ち続けた一週間は一体どれだけの嘆きを生んだだろう。
雛はゆっくりと浮遊し、男の眼前に降り立つと、幼子を抱きあげる。額に手をやると、雛のひんやりした体温に癒されたかのように、少しだけ呼吸が落ち着いた。
そのまま手を頬へ、そして喉元、胸へとゆっくり滑らせ、何度かぽんぽんとあやす様に叩く。
幼子はその小さな手で雛の指を握り、微かに母と思しき女の名を呼ぶ。何度も、何度も。
「おねげぇします、どうか……!」
その様子を見ていた男の眼から、どっと涙が溢れる。
血を吐くような懇願。雛の中で、一つの覚悟が決まった。
―――ああ、私はまた恨まれるだろう。
「『この子の厄を払う』……それが貴方の望みね?」
「は、はいッ」
男の縋るような声に頷くと、雛は子の胸に当てた手を持ち上げながら、ゆっくりと握り締めてゆく。まるで陽炎のような揺らぎが、雛の手で赤子の中から引きずり出された。
やがてその揺らぎは雛の手の中にすっぽりと収まる。それをそっと自らに纏わせて、赤子を元の籠の中に寝かせると、雛は再び浮き上がっての岩の上に坐り込んだ。
「あ、あの……」
先ほどとは違う、男の声。その声には何と聞いたものか迷う色が含まれている。
余りにも呆気なく終わったからか、そもそも何事が起ったのか理解できていないのは明らかだった。
「あなたの子の厄は、私が引き受けました」
静かで、簡潔で、厳かな宣言。
お、おお、と男の喉から、感謝と驚きが入り混じったような呻きが漏れた。
「あ、ありがとうごぜぇます、ありがとうごぜぇます!なんとお礼を……」
「感謝は要らないから、疾く去りなさい。日が落ちたら、最早ここは人の領域ではなくなるわ」
長々と始まる気配の謝礼を制し、雛はそっけなくそう云った。最早その目は男と子供を見てはおらず、遠くに巣を求めて飛ぶ烏の群れを追っている。
男も雛の視線を追って、日暮れに追われていることを理解した。跳ねるように立ち上がり、籠の子にそっと襤褸をかぶせて背負子を担ぎ、歩き出す。
しかしそれでも雛が気になるのか、振り返り振り返り、何度もお辞儀をしながら遠ざかってゆく。
「気をつけて帰りなさいね」
声が届くぎりぎりの距離で、雛は一度だけ声をかけた。
その言葉は届いたのだろうか。少なくとも確かなのは、男がそこで振りかえり、深礼をして以降、二度と振り返る事無く家路についた事だけだ。
「……夜が落ちる」
もう見えるはずのない男の背。その方向を見遣って、どのぐらいの時間そこに坐り込んでいたのだろう。
雛が首を振って立ち上がり、厄の陽炎と共に森の中へと姿を消したのは、川風が太陽の匂いの残滓を吹き散らし、湿り気を帯びた土の香りで塗り替えた後の事だった。
*
下流へと続く尾根、その狭隘な道を、一人の男が歩いている。
想像以上に早く落ちていく夕日に早く早くと急き立てられながら、それでも彼の足取りは軽い。
「良かったな、坊。これで安心じゃ、お前はきっと元気になる」
背負子からは先ほどから規則的な、穏やかな寝息が聞こえてくる。『厄』を払ってもらったお陰なのだろうか、わが子が苦しそうに喘ぐ声を聞かずに居られるだけで、男の心は安らいでいた。
あの、少女の形をした厄を引き受けるという神。それに出会えたのは望外の幸運だったのだろう。この山の広さを思えば、妖怪の類に見つかる前に出会えた事すら奇跡に近い。
「あの女の子は、まこと幸福の神さんよ。お礼をせなんだら罰があたる」
背負子を担ぐ肩を揺すり、山道を行く脚にも力が戻って来る。
村に戻ったら、若い衆を連れてもう一度ここに来なければ。わが子の事ですっかり動転していたが、自分だけが幸福になってしまっては村の衆に申し訳が立たぬ。
そう思うと、男の足は自然と早まる。いつしか、村に戻ることが一刻を争うという気持ちが強くなっていった。
しかし、頭と足は先を急ぎはしても、慣れない山道ではどうしても時間がかかる。
それでも、日暮れを待たずに尾根から下流へと続く岩棚の階段、川が滝となって落ちる場所までは辿り着いた。この先は川沿いを下り、途中支流へと分岐して行けば村へと続く道がなだらかに続いている。男の顔に漸く笑顔がこぼれた。
「さァ、あとひと踏ん張りじゃ」
しっかりと背負子の紐を結び直し、岩棚の下り坂へと一歩踏み出したその時であった。
石と石をぶつけ合わせた様な、がん、というような鈍い音。
驚いて振り返った男の目に、背後から迫る落石が映った直後、彼の体は吹き飛ばされていた。
無我夢中で伸ばされた手が掴んだ未だ青い紅葉の葉が茂った枝は、大人と幼子の体重を支えるには余りに細く、呆れるほど簡単に、そして無情に、幹から裂けて折れた。
夕焼けの赤い空を見上げる形で落ちてゆく男の胸に、恐怖と、疑念と、後悔が渦を巻く。
あの少女は、厄を落としてくれたんじゃなかったのか。
子供を哀れんでくれたんじゃなかったのか。
何故。何故。何故―――
滝壺に落ちる僅かな時間の中、男の眼には掴んだままの紅葉と、哀しげな表情の少女神が映っていた。
*
翌日。
古木の洞の中でまんじりともせず、じっと佇んでいた雛の元に、河城にとりがふらりと訪れた。
ドレスの中に身を包み、顔をうつむかせたまま動かない雛は、本当に人形かと見まごう程に危うい華奢さを見せている。
にとりは暫く遠巻きに雛を見ていたが、やがて枯れ枝を踏む音を大げさに立てながら近寄る。
「此処だったか。探したよ、雛」
「私の名を呼んでくれるのは貴女ぐらいよ、にとり。お茶を出したいところだけど、此処には生憎何もないの」
「構わないよ。こちらも遊びに来たわけじゃない」
帽子を目深に抑えながら、にとりはぶっきら棒に応える。雛は深くため息を付いて、その先に続く言葉に覚悟を決めた。
「人間が一人、お山で死んだ」
「そう」
「男だ。まだ死ぬような歳じゃないが、滝壺に落ちたようだ」
「そう」
「無念だったんだろう。死んだ場所に、厄が溜まってしまっている」
「そう」
「申し訳ないが、雛。君に立ちあって貰わなくちゃいけない」
「そうね」
それ以上何も云わず、にとりは踵を返す。雛は一晩蹲っていた所為で軋む体を無理やり動かし、その後に従った。
若干の後悔と、若干の嫌悪感と、若干の絶望。
人の死に直面した時、神なれど雛はそれらを抱いてしまう。
そして、これからその場に向かわねば成らないと分かって、尚進める足は枷を嵌められた様に重かった。
―――ああ、やはりこうなった。
森を抜け、昨日男と遭った大岩を見下ろし、木立を幾つかくぐった先に問題の滝がある。人の足なら一刻以上かかる行程も、飛べば四半刻とかからない。
上流の大瀑布ほどではないにせよ、水量豊かな滝の傍の岩棚には、にとりの同胞……河童たちが数人、互いにヒソヒソと耳打ち話をしていた。
にとりに先導され、その場に降り立った雛は、少なくない視線が向けられるのを感じる。
岩場に散った緋の花と、そこにある骸へと近づくと、反対に河童たちの輪が遠ざかる。唯一、にとりだけが一歩離れた場所で着いてくるばかりだ。
しかし雛は彼女らには一瞥もくれず、うつ伏せに倒れた男の側に跪き、その髪をゆっくりと撫でた。
「にとり。この人間が背負っていたものはどうなったか判る?」
「え……荷物?おぉい、同胞。誰かこの人間の荷物を見ているか?」
突然の質問に首をかしげつつ、にとりは遠巻きにしている河童たちに声を張り上げる。
しかし、その返答は一様に首を横に振るものだった。
「誰も見ていないようだ。落ちたのは昨日のことだから、流されたんじゃないかな……?」
背負子にかかっていた襤褸は滝壺近くに漂っていたが、籠は何処かへ姿を消していた。
雛は背負子と籠をくくっていた紐の千切れ目を暫く見つめていたが、やがて立ち上がる。
「ううん、良いの。有難う……私は私の役目をしましょう」
辺りに漂う厄。無念で死んだ男の怨念と言い換えても良い。それがこの一帯に淀んでいるのは、雛ならずとも感じられる。
強く暗い、人や妖に害をなすもの。今、河童が骸に近づかないようにしている理由がそれであり、にとりが雛を呼びつけたのもその為だ。
「さぁ、おいで。憎い相手は私でしょう」
雛が両手を広げると、その淀みが渦を巻いてその中に集まっていく。音もなく、風もないが、その流れはその場に居合わせた全ての者が感じられた。
やがて、真っ黒な球体状に形を成す。それに耳を寄せると、そこから昨日話したばかりの男の声……叫びが聞こえて来た。
信じていたのに。
痛い。
助けてくれ。
死にたくない。
あの子は、無事だろうか。
生きているだろうか。
あの子は―――
「……あなたの厄だけは、私が受けましょう。いつか、彼に出会う日まで、あなたを見殺しにした償いのために」
熟れた林檎を齧るかの様に、雛がその球体に小さな口を寄せて、一口、二口、三口。
事の成り行きを黙って見ていたにとりは、押し黙ったまま帽子を取り、名も知らぬ人間の死と、雛の業を悼む。
やがて、厄の全てを飲み込んだ雛は、そんなにとりに弱々しく笑いかけ、呟いた。
「ああ、苦くて、甘くて、胸焼けがしそうよ」
「……雛。知っていたのか、この男を」
「ええ。神というのは、祈り願われた事だけに応える存在だから……」
少なくとも私は、と言いかけて、雛は自嘲気味にかぶりを振る。言い訳にしかならない事は判り切っているのだ。
ならばせめて、彼を自分自身の手で送ってやりたい。それだけは、自分の意志で。
雛は一人、男の側で舞い始める。鈴を転がすような歌声を、滝の音に負けじと振り絞りながら。
―――秋に朗々 響くは山に 還る木霊が呼ぶのは誰ぞ
夢を見やんせ 眠るは母の 胸に抱かるる子らの唄……
「いこう」
「あの……よろしいんですか?」
いつの間にか雛から離れていたにとりが、短くそう言って川に入ってゆく。その背を追いながら、未だ歳若い河童が問いかけた。
胸まで水に浸かったにとりが振り返ると、振り散る紅葉のように舞う雛の姿が幻のように滲む。
一つ足を踏み込んで腕を伸ばし、体を捻ってもう一足。
スカートの裾を翻し、長いリボンをたなびかせて踊る少女の周りには、靄立つ何かが纏わりつき、共に踊るように蠢いている。
「構わないよ。あの男の死体なら、やがて沢蟹が肉を食い、川の流れが骨を洗って、砕けた骸は川の砂へと還っていくさ。それに」
親指で雛を指し示しつつ、にとりが続ける。
「厄神に近づきすぎて、お前さんもああなりたいかい?」
若い河童は、ぞっとした表情で首を横に振った。雛を見る目に恐怖が混じり、そのまま無言で水の中へとその身を沈めていく。
それを追って、河童たちは一人また一人と、森へ、川へと姿を消した。そして最後には、結局にとりだけが取り残される。
「許せ、雛。厄と共に暮らせる存在など、お前さん以外にいやしないんだ」
にとりは苦しそうな表情で、雛と男の骸に合掌した。
雛は、厄と戯れるのを楽しむように未だ舞い続けている。
人が踊れば、そこに輪が出来る。然ればそこには和が生まれるだろう。
しかし、厄神の舞に輪が出来よう筈は無かった。
だからこそ、雛はただ独りで舞い続ける。
くるくると、くるくると、くるくると。
(了)
妖怪の山の中でも、特に川の流れに沿って続く渓谷と河原は、敏感に季節の変化を棲むものに伝える。
河童達は早くも冬の備えについての相談を始め、秋の神姉妹は実りの恩恵を各地へ伝える為、朝夕を問わずに駆けずり回っていた。
そんな中にあって、何をするでもなく、所在無さげに川辺の大岩の上でぽつねんと坐り込む影が一つ。
濃い紅のドレスを身に纏い、豊かな髪をリボンで奇妙な形に結った、歳若い少女の姿の神……鍵山雛である。
「秋、か」
彼女が坐っている岩はかなり川を遡ったところにあり、川面を渡る風が季節を問わず能く吹きつける。
頬を撫で、髪を濯うその風に湿気を感じなくなった日から、まるで夏を追い出すかのような性急さで山の気候は秋へと移り変わってゆく。
既に、蜻蛉がそこかしこに舞い始めていた。
「秋寂し、独り寝る夜の片衣……人間はこの季節、人肌の温もりが無いと温まらないのかしら。生きているだけで充分でしょうに」
どこか醒めたところのある口ぶりで呟き、雛は川に小石を投げ込む。その仕草を見ているとまるで生に飽いているかの如くだが、言うほど彼女が厭世的なわけではない。ただ、この季節がそう言わせる程度に物悲しい雰囲気をたたえているだけの事である。
どちらかと云えば、彼女はこれから来るであろう『秋』という一時節の間の暇をどう潰すかに頭を悩ませていた。
秋は豊穣の季節、人が笑いさざめく時。人々の悲鳴に似た祈りを捧げられ、厄をその身に受ける彼女の出番には縁遠い季節。
例年であれば、偶にふらふらと彷徨い、徒らに誰かを不幸にするような……言ってみれば『野良の厄』を回収してまわる程度のお勤めしかない、暇で気楽な時期なのだ。
尤も、彼女はそれが一番いいのだと充分承知している。自らの忙しさは、人々や妖怪達の不幸と比例関係にある。暇に越したことはない。
気を取り直した雛は岩から降り、今日のねぐらを求めて森へと踏み行っていく。明日も明後日も、いつも通り大して代わり映えのしない毎日であろうと予想しながら。
しかし、その自覚なき期待は、今年に限って完全に裏切られる事となった。
*
雛が秋に倦んだ独り言を呟いてから二週間程経ったある日、彼女の中の違和感は着実に大きくなっていた。
辺りに漂う厄の量が、余りにも多すぎるのだ。無論、秋だからといって厄が無くなるわけではない。人の中の陽の気に押されて陰の気が引っ込む、それだけのこと。
何か明確な発生要因の無い『厄』など、人の陰気の集積体のようなものだ。恨みつらみや怨念と大した差はない。
だが、しかし。
「やっぱり変だわ」
また一つ流れてきた厄を手に引き寄せながら、雛の顔が険しくなる。引き受けた厄がいくら積み重なろうと彼女自身には害を及ぼすことは無いとは言っても、それで看過出来る話でもない。
どうしようか、調べに行こうか…と何度か腰を浮かしかけては、また力なく座り込む事を此処数日繰り返していた。
雛はこの山に封ぜられた神ではない。故に何処に行こうとそれは彼女自身の勝手に出来る。だが、自ら人里や他の妖怪の住居に赴く事はやはり、憚られた。
『厄神』がうかつに動けば、状況や事態の悪化を容易に招くことを、雛は厭と云う程良く理解している。興味本位で首を突っ込んだら抜けなくなった、という段階で終わればむしろ御の字、僥倖というのだから、彼女の悩みは容易に解決出来そうもなかった。
「あの人間の巫女ならどうだろう」
ふと、以前この山に闖入してきた紅白鮮やかな人の子を思い出す。
山への侵入を押し留めようと威勢よく仕掛けたは良いがあっさり返り討ちにあった事を思い出し、やや酸っぱい気持ちにならないでも無かったが、かの人間はその後に山の頂に来た神々をも打ち破ったと伝え聞いた。
それほどの力をもっているなら、短時間なら厄に冒される事なく、この事態の相談が出来るかもしれない。
仮定論が先に立ち、またあの巫女が好意的に接してくれる保証もない、穴だらけの理論構築だ。だが特段他に妙案も無く、さりとてここでやきもきするのも芸が無し。
一念発起、雛は日の高さを確かめると、立ち上がってスカートの汚れを掃い、河川敷に降り立った。
じゃり。
石と砂が擦れる音が、せせらぎと鹿の声に交じって微か。
さて、と飛び上がろうとした雛だったが、ふと辺りを見回す。今、踏んだ時にたった砂利の音が、一つでないような気がしたからだ。
目を閉じて耳を澄ますと、果たして下流から沢へと登って来る気配がある。
慌てて岩の後ろに身を翻し、そっと覗きこむと、登ってきたのは人間の男のようだった。その着物はところどころに破れた跡があり、こけた頬と疲れ切った表情から、ここまで来るのによほどの体力を使ったのであろうことが判る。
山奥深く普通の人間が立ち入れば、ただでは済まない。流石に徒歩の人間があの巫女以上の能力者ということはないだろう。
何用あって此処まで来たのかは定かでないが、兎角諭して帰らせよう……そう思った雛は、岩の上に再度登り、出来るだけの威厳を以て声をかけた。
「止まりなさい、人間。何故ここまで来たかは知らないけれど、これ以上は進んではならない」
男がビクリと体を震わせる。川石に足を取られぬ様に下ばかりを見ていたので、大岩の上に立つ雛にはまるで気付いていなかったようだ。覚束ない視線を漂わせた男は、漸くしてその声の主が目の前に居る事に気づき、後ずさった。
見目は人形のような小柄な少女でも、その身に纏った神格と、怖気の走る厄の気配は人を畏怖させるのに充分すぎる効果を及ぼす。
事実、男に十分な体力があれば、その場から逃げ出したかもしれない。
「大人しく帰りなさい。危害を加える気はないから」
侵入者の怯えに少しだけ罪悪感を感じつつ、今度は出来るだけ優しく諭す。
河童はまだしも天狗に見咎められれば命の保証はない。それにどの道これ以上進んだところで、あるのは山の神のお社だけ。ましてそれには道が違う。
そういった事を出来るだけ穏やかに伝えた雛だったが、男は口をもごもごと動かすばかり。背にした背負子を振りかえりながらも、その場から動こうとはしなかった。
「どうしたの?早く立ち去りなさい」
何度か戻ることを促してみても、同じ。男は何かを言いたげにするばかりである。
これには雛が焦れ始めた。巫女に会いに行こうと思ったのに、妙な事で足止めを食ってしまっている。さりとてこの人間を見捨てておくわけにもいかない。
夏より明らかに短くなった日は、あっという間に山の端に落ちていってしまう。もういっそ攫って人里に放り出そうか……等と本気で思い始めた頃になって、初めて男が明確に口を開いた。
「あ、あの……」
「え?」
「この山の何処かに、厄を引き受けてくださる神さんがいらっしゃると……わっしゃぁ、その御方に会いに来たんで……」
怯えた声で、男がぼそぼそと呟く。が、その内容には雛が面喰らった。
今のが聞き間違いでなければ、厄神たる自分に会いに来たのだという。神事の折でも、そんな事をする人間は居ない。人形に厄を擦りつけ、川に流す位のものだ。
首をかしげつつ、雛は男に確認の為に問い返した。
「厄神なら、それは私だけど……私に会いに来たの?」
途端に、男の顔が希望に輝く。背負子を下ろし、岩の前で平伏すると、声の限りに言上を始めた。
「おねげぇします、わっしの息子を助けてやってくだせぇ、おねげぇします!」
「ま、待ってよ、助けろって一体」
何をしろっていうのよ、と続く言葉は、背負子にかぶせられた襤褸を退ける男の動きで永久に飲み込まれた。
襤褸で隠されていた籠の中、そこにはまだ幼い……赤子と言っていいような子供が荒い息をついている。
その顔を覗き込んで、雛はここ最近の異常の原因について判然と悟り、そして戦慄する。
―――流行り病。
赤く発疹が体中に浮き、高い熱をもたらすこの病は、人の世にあって数限りない悲劇を生んできた。
おそらく、この男が暮らす集落がその脅威に曝されたのだろう。病は弱いものから真っ先にその命を奪っていく。老人、子供、病弱な大人……
座して死を待つに耐えきれず、苦しみに悶えるわが子を見るに忍び無く、男は禁を承知で山に踏み入ったのだろう。
しかし、その心中を察しても尚、雛はかぶりを振って山の麓の方角を指差した。
「病は私の領分じゃないわ。確か永遠亭という場所に医薬に通じた妖怪がいると聞く。そこにお行きなさい」
「わっしらも、そう考えやした。若いもんが一人、永遠亭に助けを呼びに走った。三日を置いてまた一人、さらに四日目にもう一人。誰も帰らねぇうちに、村は病に覆われきっちまった…もう、待っちゃ居られねェんです」
どろんと落ち込んだ、虚ろな目。疲れと緊張が彼の精気を根こそぎ奪い去り、その貌はまるで老人のようだ。
昨日まで笑い合っていた家族や仲間がバタバタと倒れていく中、ただ待ち続けた一週間は一体どれだけの嘆きを生んだだろう。
雛はゆっくりと浮遊し、男の眼前に降り立つと、幼子を抱きあげる。額に手をやると、雛のひんやりした体温に癒されたかのように、少しだけ呼吸が落ち着いた。
そのまま手を頬へ、そして喉元、胸へとゆっくり滑らせ、何度かぽんぽんとあやす様に叩く。
幼子はその小さな手で雛の指を握り、微かに母と思しき女の名を呼ぶ。何度も、何度も。
「おねげぇします、どうか……!」
その様子を見ていた男の眼から、どっと涙が溢れる。
血を吐くような懇願。雛の中で、一つの覚悟が決まった。
―――ああ、私はまた恨まれるだろう。
「『この子の厄を払う』……それが貴方の望みね?」
「は、はいッ」
男の縋るような声に頷くと、雛は子の胸に当てた手を持ち上げながら、ゆっくりと握り締めてゆく。まるで陽炎のような揺らぎが、雛の手で赤子の中から引きずり出された。
やがてその揺らぎは雛の手の中にすっぽりと収まる。それをそっと自らに纏わせて、赤子を元の籠の中に寝かせると、雛は再び浮き上がっての岩の上に坐り込んだ。
「あ、あの……」
先ほどとは違う、男の声。その声には何と聞いたものか迷う色が含まれている。
余りにも呆気なく終わったからか、そもそも何事が起ったのか理解できていないのは明らかだった。
「あなたの子の厄は、私が引き受けました」
静かで、簡潔で、厳かな宣言。
お、おお、と男の喉から、感謝と驚きが入り混じったような呻きが漏れた。
「あ、ありがとうごぜぇます、ありがとうごぜぇます!なんとお礼を……」
「感謝は要らないから、疾く去りなさい。日が落ちたら、最早ここは人の領域ではなくなるわ」
長々と始まる気配の謝礼を制し、雛はそっけなくそう云った。最早その目は男と子供を見てはおらず、遠くに巣を求めて飛ぶ烏の群れを追っている。
男も雛の視線を追って、日暮れに追われていることを理解した。跳ねるように立ち上がり、籠の子にそっと襤褸をかぶせて背負子を担ぎ、歩き出す。
しかしそれでも雛が気になるのか、振り返り振り返り、何度もお辞儀をしながら遠ざかってゆく。
「気をつけて帰りなさいね」
声が届くぎりぎりの距離で、雛は一度だけ声をかけた。
その言葉は届いたのだろうか。少なくとも確かなのは、男がそこで振りかえり、深礼をして以降、二度と振り返る事無く家路についた事だけだ。
「……夜が落ちる」
もう見えるはずのない男の背。その方向を見遣って、どのぐらいの時間そこに坐り込んでいたのだろう。
雛が首を振って立ち上がり、厄の陽炎と共に森の中へと姿を消したのは、川風が太陽の匂いの残滓を吹き散らし、湿り気を帯びた土の香りで塗り替えた後の事だった。
*
下流へと続く尾根、その狭隘な道を、一人の男が歩いている。
想像以上に早く落ちていく夕日に早く早くと急き立てられながら、それでも彼の足取りは軽い。
「良かったな、坊。これで安心じゃ、お前はきっと元気になる」
背負子からは先ほどから規則的な、穏やかな寝息が聞こえてくる。『厄』を払ってもらったお陰なのだろうか、わが子が苦しそうに喘ぐ声を聞かずに居られるだけで、男の心は安らいでいた。
あの、少女の形をした厄を引き受けるという神。それに出会えたのは望外の幸運だったのだろう。この山の広さを思えば、妖怪の類に見つかる前に出会えた事すら奇跡に近い。
「あの女の子は、まこと幸福の神さんよ。お礼をせなんだら罰があたる」
背負子を担ぐ肩を揺すり、山道を行く脚にも力が戻って来る。
村に戻ったら、若い衆を連れてもう一度ここに来なければ。わが子の事ですっかり動転していたが、自分だけが幸福になってしまっては村の衆に申し訳が立たぬ。
そう思うと、男の足は自然と早まる。いつしか、村に戻ることが一刻を争うという気持ちが強くなっていった。
しかし、頭と足は先を急ぎはしても、慣れない山道ではどうしても時間がかかる。
それでも、日暮れを待たずに尾根から下流へと続く岩棚の階段、川が滝となって落ちる場所までは辿り着いた。この先は川沿いを下り、途中支流へと分岐して行けば村へと続く道がなだらかに続いている。男の顔に漸く笑顔がこぼれた。
「さァ、あとひと踏ん張りじゃ」
しっかりと背負子の紐を結び直し、岩棚の下り坂へと一歩踏み出したその時であった。
石と石をぶつけ合わせた様な、がん、というような鈍い音。
驚いて振り返った男の目に、背後から迫る落石が映った直後、彼の体は吹き飛ばされていた。
無我夢中で伸ばされた手が掴んだ未だ青い紅葉の葉が茂った枝は、大人と幼子の体重を支えるには余りに細く、呆れるほど簡単に、そして無情に、幹から裂けて折れた。
夕焼けの赤い空を見上げる形で落ちてゆく男の胸に、恐怖と、疑念と、後悔が渦を巻く。
あの少女は、厄を落としてくれたんじゃなかったのか。
子供を哀れんでくれたんじゃなかったのか。
何故。何故。何故―――
滝壺に落ちる僅かな時間の中、男の眼には掴んだままの紅葉と、哀しげな表情の少女神が映っていた。
*
翌日。
古木の洞の中でまんじりともせず、じっと佇んでいた雛の元に、河城にとりがふらりと訪れた。
ドレスの中に身を包み、顔をうつむかせたまま動かない雛は、本当に人形かと見まごう程に危うい華奢さを見せている。
にとりは暫く遠巻きに雛を見ていたが、やがて枯れ枝を踏む音を大げさに立てながら近寄る。
「此処だったか。探したよ、雛」
「私の名を呼んでくれるのは貴女ぐらいよ、にとり。お茶を出したいところだけど、此処には生憎何もないの」
「構わないよ。こちらも遊びに来たわけじゃない」
帽子を目深に抑えながら、にとりはぶっきら棒に応える。雛は深くため息を付いて、その先に続く言葉に覚悟を決めた。
「人間が一人、お山で死んだ」
「そう」
「男だ。まだ死ぬような歳じゃないが、滝壺に落ちたようだ」
「そう」
「無念だったんだろう。死んだ場所に、厄が溜まってしまっている」
「そう」
「申し訳ないが、雛。君に立ちあって貰わなくちゃいけない」
「そうね」
それ以上何も云わず、にとりは踵を返す。雛は一晩蹲っていた所為で軋む体を無理やり動かし、その後に従った。
若干の後悔と、若干の嫌悪感と、若干の絶望。
人の死に直面した時、神なれど雛はそれらを抱いてしまう。
そして、これからその場に向かわねば成らないと分かって、尚進める足は枷を嵌められた様に重かった。
―――ああ、やはりこうなった。
森を抜け、昨日男と遭った大岩を見下ろし、木立を幾つかくぐった先に問題の滝がある。人の足なら一刻以上かかる行程も、飛べば四半刻とかからない。
上流の大瀑布ほどではないにせよ、水量豊かな滝の傍の岩棚には、にとりの同胞……河童たちが数人、互いにヒソヒソと耳打ち話をしていた。
にとりに先導され、その場に降り立った雛は、少なくない視線が向けられるのを感じる。
岩場に散った緋の花と、そこにある骸へと近づくと、反対に河童たちの輪が遠ざかる。唯一、にとりだけが一歩離れた場所で着いてくるばかりだ。
しかし雛は彼女らには一瞥もくれず、うつ伏せに倒れた男の側に跪き、その髪をゆっくりと撫でた。
「にとり。この人間が背負っていたものはどうなったか判る?」
「え……荷物?おぉい、同胞。誰かこの人間の荷物を見ているか?」
突然の質問に首をかしげつつ、にとりは遠巻きにしている河童たちに声を張り上げる。
しかし、その返答は一様に首を横に振るものだった。
「誰も見ていないようだ。落ちたのは昨日のことだから、流されたんじゃないかな……?」
背負子にかかっていた襤褸は滝壺近くに漂っていたが、籠は何処かへ姿を消していた。
雛は背負子と籠をくくっていた紐の千切れ目を暫く見つめていたが、やがて立ち上がる。
「ううん、良いの。有難う……私は私の役目をしましょう」
辺りに漂う厄。無念で死んだ男の怨念と言い換えても良い。それがこの一帯に淀んでいるのは、雛ならずとも感じられる。
強く暗い、人や妖に害をなすもの。今、河童が骸に近づかないようにしている理由がそれであり、にとりが雛を呼びつけたのもその為だ。
「さぁ、おいで。憎い相手は私でしょう」
雛が両手を広げると、その淀みが渦を巻いてその中に集まっていく。音もなく、風もないが、その流れはその場に居合わせた全ての者が感じられた。
やがて、真っ黒な球体状に形を成す。それに耳を寄せると、そこから昨日話したばかりの男の声……叫びが聞こえて来た。
信じていたのに。
痛い。
助けてくれ。
死にたくない。
あの子は、無事だろうか。
生きているだろうか。
あの子は―――
「……あなたの厄だけは、私が受けましょう。いつか、彼に出会う日まで、あなたを見殺しにした償いのために」
熟れた林檎を齧るかの様に、雛がその球体に小さな口を寄せて、一口、二口、三口。
事の成り行きを黙って見ていたにとりは、押し黙ったまま帽子を取り、名も知らぬ人間の死と、雛の業を悼む。
やがて、厄の全てを飲み込んだ雛は、そんなにとりに弱々しく笑いかけ、呟いた。
「ああ、苦くて、甘くて、胸焼けがしそうよ」
「……雛。知っていたのか、この男を」
「ええ。神というのは、祈り願われた事だけに応える存在だから……」
少なくとも私は、と言いかけて、雛は自嘲気味にかぶりを振る。言い訳にしかならない事は判り切っているのだ。
ならばせめて、彼を自分自身の手で送ってやりたい。それだけは、自分の意志で。
雛は一人、男の側で舞い始める。鈴を転がすような歌声を、滝の音に負けじと振り絞りながら。
―――秋に朗々 響くは山に 還る木霊が呼ぶのは誰ぞ
夢を見やんせ 眠るは母の 胸に抱かるる子らの唄……
「いこう」
「あの……よろしいんですか?」
いつの間にか雛から離れていたにとりが、短くそう言って川に入ってゆく。その背を追いながら、未だ歳若い河童が問いかけた。
胸まで水に浸かったにとりが振り返ると、振り散る紅葉のように舞う雛の姿が幻のように滲む。
一つ足を踏み込んで腕を伸ばし、体を捻ってもう一足。
スカートの裾を翻し、長いリボンをたなびかせて踊る少女の周りには、靄立つ何かが纏わりつき、共に踊るように蠢いている。
「構わないよ。あの男の死体なら、やがて沢蟹が肉を食い、川の流れが骨を洗って、砕けた骸は川の砂へと還っていくさ。それに」
親指で雛を指し示しつつ、にとりが続ける。
「厄神に近づきすぎて、お前さんもああなりたいかい?」
若い河童は、ぞっとした表情で首を横に振った。雛を見る目に恐怖が混じり、そのまま無言で水の中へとその身を沈めていく。
それを追って、河童たちは一人また一人と、森へ、川へと姿を消した。そして最後には、結局にとりだけが取り残される。
「許せ、雛。厄と共に暮らせる存在など、お前さん以外にいやしないんだ」
にとりは苦しそうな表情で、雛と男の骸に合掌した。
雛は、厄と戯れるのを楽しむように未だ舞い続けている。
人が踊れば、そこに輪が出来る。然ればそこには和が生まれるだろう。
しかし、厄神の舞に輪が出来よう筈は無かった。
だからこそ、雛はただ独りで舞い続ける。
くるくると、くるくると、くるくると。
(了)
しかし、こういう役回りの雛こそ雛らしいと思ってしまうのも事実で。
厄神という存在を真正面から見据えた作品、という感じがします。
しかし、ひとつだけ気になるところが。
どうして男は不幸な目にあったんでしょう。子供の厄は約束通り取ったけど、男の厄は(頼まれなかったから)取らなかったということでしょうか。そうだとしても何故そんな意地悪なことを……。取ったればええやん、というありきたりな感想が思い浮かんでしまいました。
単に読み込みが足りないだけかもしれないのですが、気になってしまったのでこの点数で。
全体から見ればテンポもいいし区切りもいいと思います