「お腹、減ったなぁ……」
外の世界とは違い今尚道を照らす灯り少ない幻想郷の夜、草木が生い茂る薄暗い道を藤原妹紅は腹部を押さえながらとぼとぼと歩く。
「お金が少ないからって里で何も食べなかったのは間違いだったか。ケチるんじゃなかったよまったく」
足を止めずに自分に対し軽く愚痴を漏らす。
彼女は現在、竹林の中で偶然にも迷い込んでいた人間を発見、保護し人間の里にまで護送という一仕事を済ませたばかりだった。
現地人なら竹林の入り口まで送れば後は一人で里までの帰ってくれるのだが、今回はどうやら外から迷い込んだ人間らしく右も左も分からず混乱気味であった為、やむを得ず里まで送り届ける事になったである。
竹林から里までの距離はそれなりにある。困惑する迷い人を宥めながら散々歩き続けてしまった為、彼女の胃袋は予想以上に空かしてしまう事になってしまったのだ。
ならば里で食事を済ませればよかったではないかという声もあるだろう。しかし、基本自給自足の生活なので金品の類は所持しておらず、あまり里に長居したくないという気持ちもあり迷い人を届けてからすぐに抜け出して現在に至る。
「後の事は向こうがやってくれるとして私はどうするか。手元にあるのは助けてくれたお礼にと渡された筍一つ。さすがにこれだけじゃ腹は満たせないよなぁ」
不意にクゥと響く可愛い腹の虫が鳴き、妹紅は慌てて腹部を抱え辺りを見回す。
幸いに周囲には誰もおらず彼女の一人で痴態を見られずに済んだと安堵の息を一つ。
「この前竹林の案内の報酬で貰ったお米まだ残ってたか? それで筍ご飯にでもすれば……」
帰宅してからどう食欲を満たそうかと思考を巡らせていたが、ふと自分の視界が真っ暗になっている事に気付き妹紅は我に返った。
視界が暗いのは夜なのだから当然。だが、その暗さは明らかに異常であり、先程まで空に瞬いていた星たちも今では黒く塗り潰されて何も見えない。
一寸先も見えない闇の中に孤立されてしまっていた。
「はて、妙に目が見えないな。私は鳥目になった覚えはないのだけど」
突然視力を奪われてしまった妹紅であったが、慌てる様子もなく腕を組み歩きながら考える。
「そういえば何百年前だったか、人を鳥目にする妖怪と出くわしたね。軽くとっちめてやったけど」
かつての出来事を思い返し異常の犯人にある程度の目処を付けると、前方に赤い光がぼんやりと見えてくる。
まるで「犯人はここいるから寄っといで」と言わんばかり揺らめく灯火に妹紅は思わず口元をほころばせた。
どうやらこの悪戯もすぐに終わらせられそうだ。そんな予感を感じた。
§
灯火に間近まで寄ればその輪郭もはっきりと確認できた。
灯火の実態は赤い提灯で、その側にはこじんまりとした屋台が一つ。中からは香ばしい匂いが漂ってきており、現在営業中である事が窺える。
「他に何も見えないとなれば怪しいのはここだけなんだよね。ま、入ってみない限り始まらないか」
妹紅は頭を掻き、食欲を誘うタレが焦げる匂いにまた腹の虫が鳴りそうになるのを抑えながらも暖簾を抜け店内に入る。
「ちょいとお邪魔するよ」
「はーい、いらっしゃい」
素朴な作りをしたカウンター席の向かい側、厨房の中から一人の少女が威勢のいい挨拶と同時に笑顔を振り撒きながら顔を出す。
ミスティア・ローレライ。近頃焼き八目鰻の屋台を始めた夜雀の妖怪だ。
「お客さんは一人か……し、ら……」
最初は笑顔で接客に取り掛かろうとしたミスティアだったが、妹紅と目が合ってから時間が経つにつれ言葉に勢いを失い笑顔は引き攣って体はピタリと止まってしまう。
妹紅は首を傾げた。目の前には人形の様に硬直した妖怪がいるが、彼女はまだ何もしていない。
体に何か着いているのかと身の回りを確かめてみるも特におかしな場所は見当たず、原因が分からなくてますます首を傾げてしまう。
「どうしたの。もしかして起きてるのに金縛りにでもあった?」
「あ、あ……」
妹紅の言葉に反応したのか、ミスティアの止まっていた体がわなわなと震え出しぎこちない動きで彼女を指差す。引き攣った笑顔は崩れ目を丸くした驚愕の表情へと変貌していく。
「ああぁぁぁぁぁ!」
そして溜め込んでいた息を一気に吐き出すかの如く口を大きく開けて言葉にならない叫びを上げた。
突然の絶叫に驚いた妹紅もまた目を丸くする。まさか突然指を差されながら叫ばれるとは予想だにしていなかったのだ。
「な、何だよ」
「……えーっと」
何事かと聞いてみるもミスティアは何かを思い出そうとするかの様に明後日の方向を見て暫く考え込むと一冊の手帳を取り出してページを捲っていく。
ぺらぺらと捲っていく内に目当ての項目を見つけたのか指が止まり、ページと妹紅の顔を何度も見合わせ、再び彼女を指差した。
「ああぁぁぁぁぁ!」
「二回もやらなくていいって」
「ここで会ったが百年目! よくものこのこと現れたものね!」
「勝手に話を進めないでよ。なんだかよく分からないけど一から説明してくれない? そもそも百年目って言うけど私たちは初対面だ」
「あんたは私を知らないだろうけど私はあんたの事をよく知ってるわよ!」
恨みが滲ませた台詞を吐きながら背中から生えた翼をぴんと伸ばし目を尖らせて睨み付けてくる。彼女に「さっき手帳で確認してたから忘れてたんじゃないの」とも思ったが、空気が読めてないと考え直しあえて口を挟まない事にした。
「私はミスティア。焼き鳥撲滅に勤しむ夜雀よ。そしてあんたはこの前に天狗の新聞に載ってた健康マニアの焼き鳥屋!」
「あぁ、そういえば天狗の取材受けた時にそんな感じで答えたっけ。どれくらい前の時か忘れたけど」
「焼き鳥を食べようだなんて許さない! つまりあんたは私の敵よ!」
「へぇ……それで、あんたは敵の私に何をしようって言うんだい?」
堂々と宣戦布告してきたミスティアに一瞬呆気に取られた妹紅だったが、すぐに不敵な笑みを浮かべて相手を見据えた。
相手が好戦的に出るならむしろ都合が良かった。ならばこちらも力で捻じ伏せてしまえばいい。彼女にはそれを成しえるだけの実力と自信を持ち合わせているのだから。
「なんなら、ここでやり合おうか。辺りが焼け野原になるくらい熱い決闘になるよ」
「え、ちょ、ちょっと何それ、熱っ!?」
妹紅が構えた握り拳から赤い炎が燃え盛る。大きさこそ拳より一回り大きい程度だが、周辺の空気が揺らめき熱風が巻き起こりそれが非常に高熱である事が窺える。
炎は多少離れている筈のミスティアにも熱気は届き、彼女はあまりの熱さに肌を焼き焦がしているのではないかとさえ錯覚してしまう。しかしそれ以上に驚きを隠せないのは、そのような炎が拳に灯っているにも当の本人は汗一つ掻かずに平然としている事。出鼻を挫くパフォーマンスは、彼女に直感的に決闘では勝てないと悟らせるには充分なものだった。
「待って待って! 暴力反対!」
「あん? どうした。今になって怖気づいた?」
「ほ、ほらアレよ。仮にもここはお店の中なのに暴れようだなんてマナーがなってないじゃない」
「そっちから食いついてきたくせにもっともらしい事を言ってくれるじゃないの。なら大人しく鳥目無くしてくれる? そうすれば穏便に済むよ」
「それは、その」
むうと言葉が詰まる。ミスティアとしては目の前の怨敵をおめおめと逃がしては面目が立たない。とは言えど実力行使で勝る相手でもない。どうにかして一泡吹かせてやりたい。だがどうすればいい。
それほど詰まっていない鳥頭を全力で働かせ妙案はないかと思考を巡らせる。しかし早く返事をしなければ逆に向こうから実力行使に移るかもしれない、と思うと焦りが生まれ思考をかき乱す。
目が泳ぎ、次第に頭の中も白く塗り潰され、もう駄目だと諦めかけた。その時、ふと自分の足元を見るとある物が置いてある事に気が付く。そしてそれを見た瞬間、何も考えられずにいた思考が鮮明さを取り戻す。
「これなら勝てる」。確信を持った彼女から焦りの表情は消え、同時に勝機を見出した事で微笑を作り出すまでに持ち直した。
「ねぇ、『お客さん』は焼き鳥は好き?」
「なんだい急に。まぁ焼き鳥屋自称するから好きと言えば好きだけど」
「じゃあ、もし焼き鳥以上に美味しいものがあったら、もう焼き鳥を食べる気は起きない?」
「さっきから言ってる意味が分からないよ。つまり何が言いたいのさ」
「ここは屋台。私が店主であんたがお客。つまり、私の料理で勝負しようって意味だよ」
不敵に笑うミスティア。彼女が思いついた妙案、それは料理を以ってして平伏させようというものだった。
§
妹紅が座るカウンターの手前にどんとある物が置かれた。
それは一見すれば何の変哲も無い七輪。だがその上部には鉄板が被さっているのだ。
形状は中央部分が丸く盛り上がり均等にスリットのような穴が開いていて蓋と呼ぶにはあまりに異型。
見た事のない用途不明な道具の登場に彼女は眉を顰める。
「なんだこれ」
「ジンギスカン用の鍋だよ。最近知り合った人から譲り受けたの」
「これが鍋だというのも知らなかったが料理の名前も聞いた事ないな」
「ジンギスカンは羊肉を使った北国の料理。焼き鳥撲滅の為に手に入れた八目鰻に続く新メニューよ」
道具と料理の説明をしながら七輪の横にトングと大皿と小皿を一つずつ置く。
大皿にはもやしと鮮やかな赤身を持った肉の切り身が盛られ、小皿には焦げ茶色をしたタレが入っていた。
「改めてルールを説明するわ。お客さんにはこれから私が出す料理のコースを食べてもらうわ。それが焼き鳥より美味しいと思ったのなら」
「分かってる、もう焼き鳥を食べないよ。だけどもし美味しくないと思ったら大人しく帰してもらうよ」
「良いわよ。絶対に負けないけどね」
自信満々に答えるミスティアを横目に妹紅は内心「馬鹿な鳥だな」と鼻で笑う。この勝負、例え美味いと思っても口に出さずにいれば自分の勝ちは揺るがない。空腹も満たされ、圧倒的にこちらの優位にあると判断したからだ。
焦る必要はない、と余裕の笑みを浮かべながらもトングを使い肉を鍋の上に乗せた。
その時である。
「ちょっと待ちなさい!」
「あー? いきなり大声出してなんだい」
「お客さん焼き方が間違ってるよ。それじゃジンギスカンの美味しく食べれないわ」
「一々五月蝿い奴だね。焼き方なんて、そんなのどうやろうが変わらないでしょ」
「そう思うならその肉を焼いて食べてみなさいよ」
「言われなくても」
妹紅はじとりとミスティアを睨みつつも鍋に置かれた一切れの肉を赴くままに焼き上げていく。やがて焼き目が付き、そろそろだと判断すると、鍋から拾い上げ小皿のタレを付け口へと運んだ。
「ふむ、漬け込んだ味付け肉か。羊肉なんて珍しいからどんなものかと思ったけど、これといって特徴も無いし少し噛み切り難い。不味くはないけどこれなら焼き鳥の方が美味いよ」
「当然でしょ。手順が間違ってるし焼き方もお粗末。肉を何度もひっくり返すは鉄板に押し付けるは、肉の旨みを全然引き出せてないもの」
容赦なしに駄目を出されて妹紅の眉がぴくりと跳ねる。
「言うじゃない。なら、あんたなら美味くできるんだろうね」
「当たり前でしょ。ここから先は私が焼いてあげるからしっかり見てなさい!」
差し出されたトングを受け取ったミスティアは早速ジンギスカンの調理に取り掛かる。
まず手を出したはもやし。トングで豪快に掴むとそれを鍋の縁周りに敷き詰めていく。
この手順を迎えてから肉の出番である。大皿に乗っていた油のブロックを一つ摘まみ中央から満遍なく塗りつけ、切り身を数枚鍋の盛り上がった部分に並べる。
「もやしを周りに敷き詰めて熱を篭らせて炭火の火力を上げる。ただ焼くだけじゃなくて蒸し焼きにするのよ」
「めんどくさい事するね」
「そんな一手間が料理を美味しくするコツなの」
熱せられた鍋からじゅうじゅうと肉が焼けるが音が鳴り、ミスティアはここだというタイミングでトングで肉をひっくり返す。裏を返せばこんがりとした縞状の焼き目が顔を出す。焼き過ぎず半生でもない、絶妙な焼き具合だ。
「あとは何も手を出さずに中まで焼き上がるのを待つだけ」
「押したりした方が早く焼けるじゃないか」
「押したりしたら潰れて肉が硬くなっちゃうのよ。――ほら、これはもう食べ頃だよ」
ひょいと拾い上げた肉を小皿の上に乗せ、妹紅の前に差し出される。それを受け取った彼女は箸で焼かれた肉を掴みしげしげと眺める。
このような焼き方一つでそこまで変わるものなのか。自信満々のミスティアの顔が理解できない彼女であったが、とにかく食べれば結果が分かるだろうと考え、口に運ぶ。
そして熱い肉を噛み締めた時、自分の触覚を疑った。
肉は軽く力を入れただけで焼かれた表面をあっさりと噛み切られてしまった。先程自分で焼いたものとは柔らかさがまるで違う事に驚いたがそれだけでは終わらない。噛み切られた断面からはじわりと溢れ出した肉汁は臭みが無く脂っこさも少なく、羊肉の旨みを閉じ込めたそれは舌全体を潤していく。更に、甘辛いつけダレが肉汁と混ざり合いより深い味わいを引き立てているのだ。それ程の濃厚さを持っていながらも喉を通った後にくどさを残さない。
美味い。それが彼女が頭の中に浮んだ最初の言葉だった。
「卑怯な。私が焼いたのとは別の肉を出しただろ!」
「そんな筈ないじゃない。同じ皿から取ったのはお客さんだって見てたでしょ?」
「それは……そうだけど」
「なら言いがかり無しにしてよ。はい、肉ともやしも焼けたから召し上がれ。もやしを先に食べてから肉を食べるのがお勧めよ」
あまりの味の違いに抗議した妹紅だったが簡単にあしらわれてしまい、そのまま受け皿に新しい肉ともやしが乗せられた。
相手にされなかった事が不満な彼女だが、出されたものならば食べねばならないと渋りながらも箸を取りもやしを食べる。
程好く火の通ったもやしは特有の瑞々しくしゃきしゃきとした食感を楽しませてくれる。そしてまた肉を食べるとそのもやしが口直しとなり、舌が再び鮮明に肉の旨みを味わえたのだ。
妹紅の箸がぴたりと止まる。繰り返し訪れる美味の波に心は大きく揺れ動いてしまっていた。それこそ、負けを認めてもいいかもと思ってしまう程に。
「どう。これでもまだ焼き鳥の方が美味しいって言うのかしら?」
「ふ、フン! この程度の肉なんてどうって事ないさ」
「往生際が悪い焼き鳥屋だわ。なら次はこれ。特製塩ダレラムよ」
心揺れる妹紅ではあったが性格上負けを認めたくない事から内心悟られまいと強気の姿勢を崩さない。
相手が折れない事にむぅと唸り声を上げるミスティアだったが、すぐに気を取り直し次の一品が盛られた皿をカウンターの前に置いてみせた。
「まだあるのか!」
「当然でしょコースなんだから。ほらどんどん焼くわよ。焼肉焼きほーうだーい」
更なる肉が追加されて驚く妹紅を尻目に歌を口ずさみながら鍋の上に新しく肉を焼いていく。
「こっちはちょっと厚めだから少し強めに焼いていくよー」
先程焼かれていたものよりも厚く切られたブロック状に近い肉は両面を焼き上げられ、それだけでは焼ききれない側面もしっかりと火を通していく。やがて香ばし焼き上げられた肉は熱い湯気を立たせている内に用意された小皿に乗せられ妹紅に差し出される。
「さぁこれを食べてみなさい。タレは付けずにそのままね」
「……なんだこんなの、さっきの肉と変わないさ! いいとも食べてやる!」
半分自棄になりながら奪い取るように小皿を受け取る妹紅。火傷の危険性も厭わず肉を一気に口の中にほうりこみ噛み潰してみせた。
どうせ同じ肉なのだからもう不覚は取るまいと高を括っていた。が、彼女の予想は再び容易く打ち砕かれる事となる。
肉厚でありながらも柔らかく噛み易い肉の中から溢れ出した肉汁は、甘かった。砂糖等が混ざっている訳でもないその滴る旨みは脂にある本来の甘みを湛えており、塩ダレの塩味が舌を刺激しより甘さを際立たせてくれる。
まるで魔法。延々と生き続けてきた彼女にとってでさえ、この味は未知の味覚だった。
「馬鹿な! こんな事があってたまるか!」
「こんな事もあるわよ。全部お客さんが感じた通りなんだから」
「謀ったな!」
「謀ってもないわ。それに、そう思うって事は負けを認めるのかしら?」
驚きのあまりに自分の舌が信じられなくなってしまった妹紅は拳をカウンターに叩きつけ言葉を荒らげるも、動ぜずあくまで冷静に返されてしまい返す言葉も浮ばず歯軋りするしかなかった。
状況は逆転。心揺さぶられた今ではミスティアが圧倒的優勢となり、妹紅が崖っぷちにまで追い込まれてしまっていた。
そして、内心を悟ったミスティアはこれは勝機と畳み掛ける。
「因みにコースはまだ終わりじゃないわ。これが本命、特上のラムステーキよ!」
「ラムステーキ……だと……!」
取り出される一枚の皿、それに乗せられた肉を見て妹紅は言葉を失う。
ステーキの名を冠するに相応しい厚切りにされた一枚肉。驚くべきは新鮮さを物語る鮮明な紅色の赤身に網目を張るかの如くきめ細やかなさし。一目見ただけでは牛肉と見間違いかねない立派な羊肉が鎮座していたのだ。
「これにおろしわさびを塗っていただくの」
「おろしわさび!? そんなものが合うわけない!」
「ところがなんと合っちゃうのよねー。わさびの辛さを飛ばして風味だけを残したあの味は一度味わえば病み付きだよ」
「こ、こんな勝負無しだインチキ雀! いいから鳥目を治せ!」
逆上して身を乗り出す妹紅。しかし声が上擦り覇気に欠ける脅しには怯む要素は無く、ミスティアは一歩も引かずむしろ前に出る。
「あれぇ、これいらないの?」
「いらない。そんなの焼き鳥にも劣る!」
「お客さん、嘘はいけないわー」
「嘘なんて吐いてないよ!」
「ならさ、口元の涎はどう説明してくれるのかしら」
「涎だなんてそんな――」
指摘された妹紅が我に返り口元を手の甲で拭うと微かに粘性のある透明な液体、間違いなく涎が付いていた。
「違う、これは大声出した拍子に出ただけだ」
否定しつつ何度も擦り口元から涎を払う妹紅だが、舌の奥底からは絶えず生唾が湧き出し口の中を満たしていく。視線もミスティアではなく手に持たれたラムステーキへと向けられ、食物で埋められた筈の胃袋が音を鳴らす。
そう、心では否定しても彼女の体が更なる美味いものを求めてしまっていた。
「まーねー、お客さんがどうしてもって言うなら鳥目治してもいいわよ。私も焼き鳥になりたくないし。当然、このとーっても美味しいお肉は食べれないけど残念ねー」
妹紅は生唾を一つ呑む。ミスティアの言動が見え透いた演技だと理解している。誘惑を振り切れば雀一羽ごときに負けない、と面目を保つ事ができる。だが、勝てばこれ以上肉は食べれず、鳴り止まない虫を腹に抱えながら帰路に就かなければならない。彼女の脳内ではプライドと本能の間で葛藤を繰り広げていた。
数字にして十秒にも満たないが今は無限とも思えた僅かな時間。ついに彼女が決断し口を動かし発する言葉は――。
§
「お腹、いっぱいだぁ……」
実に満足と妹紅は頬を緩めて腹を摩る。
人の欲望は時としてプライドも捨て去る。彼女が選んだ選択は、より美味いものを食したいという欲望だった。
最初は悔しがる顔を見せたものの、肉を食べ始めると次第にそのような表情も納まっていった。一度堰を切れば後は止まる事を知らず、次から次へと肉を食し食欲を満たすまで食べ続けた。
勝負は彼女の敗北、それでも一切の敗北感は無い。今心を満たすのは腹を満たせた満腹感と美味いものを食べれた幸福感だけだ。
「これがジンギスカンの力! さて勝負に負けたのだから約束どおり、今後はあんたは焼き鳥禁止だからね」
「あー分かった約束する」
腹が満たされれば心も満たされる。満腹感と幸福感に蕩けた頭は考える事もままならず、ミスティアの要望も容易に受け入れる。
今の妹紅にとって最早焼き鳥がどうとかなど意識の外に飛んでしまっていた。
「そうだ、これお勘定ね」
「あぁお勘定……へ?」
にこやかな表情でミスティアが紙の切れ端を一枚妹紅に突きつける。するとその一枚が蕩けて極楽気分だった妹紅の意識を一気に現実へと引き戻す。
切れ端に書かれた請求書の文字、その下に羅列した料金の数々。そして最後には彼女が生涯見た事ない程の合計金額は記されていたのだ。
「ちょっと待てこれはどういう事だ! 勝負だったのになんで私が金払わないといけないんだ!?」
「そりゃ『お客さん』、あれだけ食べたんだからお金を払って当然でしょ。それとも払っておいた方がいいと思うけどなー」
「なんだって?」
「もし払わなかったらお客さんはなんと粗暴な食い逃げ犯に! あの鴉辺りに教えてあげれば喜んで記事にしてくれと思うわ」
妹紅は記事という言葉に息を飲む。天狗の噂は風の噂、もし広まれば当然人間の里にもその噂が届きかねない。噂は悪いものであればある程伝達も早く、周囲に悪影響を及ぼしてしまう可能性が非常に高い。
彼女とて人との交流は嫌いではない。最近は少しずつだが交流も増え始めて楽しみを覚えてきた頃で、その最中に悪い噂を流されるのは極力避けたかった。
とはいえ、彼女には膨れ上がった金額を支払うだけの資金も持ち合わせていない。
つまり詰んでいる。
「……この筍一個と交換じゃダメかなぁ?」
「ダメに決まってるじゃないですかぁ」
引き攣った笑みでごまかしながら手持ちの筍で交渉に出たが満面の笑みで即刻却下された。
後にミスティアの屋台には健康マニアのジンギスカン焼きを自称するアルバイトが一人増えたとか増えなかったとか。
こんな時間に見るんじゃなかった腹減ったww
垂涎の文章でした。
でも肉なんか冷蔵庫に入ってねえよ畜生
…腹減ったー
個人的にですが、読んでいて何となく
所々、孤独のグルメの空気を思い出してニヤニヤしっぱなしでした。
東方にグルメ物が似合うという事が、今日よく分かったよ
でも羊には勝てないね、しょうがないね(食欲増進)
ご馳走様でした。次回作を楽しみにしてます。
ご馳走様でした!