注意!!
神霊廟のネタバレを含みます。
芳香はご主人様のことがとっても大好きだけど、お脳が弱いせいでときどきご主人様の顔を忘れちゃう。けれどご主人様は怒らない。ぱーぷりんな芳香が主人の顔を思い出すまでの間、そばにいてじっと優しく待ってくれるのだ。なぜならご主人様こと霍青娥もまた、そんなお馬鹿な芳香のことがとっても大好きなのだから――
「こんばんは、宮古。墓場の見回りご苦労さま」
「む?」
芳香が振り向くと、月明かりを浴びて女がたたずんでいた。居並ぶ墓石の間にしかれた石畳の通路に、少しの距離を開けて対峙する。腰まで夜に沈んだ墓地を背景に、その女のすらっとした姿だけが淡く浮かび上がっている。女は、澄んだ流水をまとったような透き通る色の衣をはおり、空色の髪の毛を長いかんざしで結い合わせ、顎の形のすっとした細面の顔、まつげの長い瞳に優しげな意思の光を漂わせる。
芳香はその姿にかすかな懐かしさを感じた。だが、その懐かしさがどこからくるのか、思い出せなかった。
「誰だ貴様は!」
女を侵入者と判断した芳香は、犬歯をむき出しにして脅しをかける。額の御札が噴出した妖気にめくれ上がり、あらわになった凶暴な瞳が女を射抜いた。
が、女はかけらも怯えた様子を見せず、それどころかくすくすと笑みさえ浮べた。
「また忘れちゃったの?」
「こんな時間に妖しい奴め。お前なんか食べてやるぞぉーう!」
芳香は自分のことを棚にあげて女に襲いかかった。タンッ、と芳香が石畳を後ろに蹴って跳躍する。芳香の体は、墓石よりも高く飛びあがって大きな弧を描きはじめ、弧の先端は正確に女を貫いていた。
墓地の冷たい風を切り裂さき、振りかぶった芳香の口元には鋭いむき出しの犬歯。狙うは女の首すじだ。一度かぶりつけば相手をゾンビにしてしまえるし、例え霊的な抵抗力を持っていたとしても、動脈を噛み千切ってしまえばかなりのダメージを与えられる。
そして何より、女の肌白い柔らかそうな肉はとっても美味しそうだ。首筋をいただいた後は、二の腕もかじってみたい。
しかしどういう事だろう、眼前にせまる脅威にたいして、女はいっさい抵抗する様子を見せない。それどころか身じろぎ一つしていない。芳香の動きが早すぎて反応できない、というのではない。のほほんとした表情ではあっても、それでいて視線は芳香の動きを正確にとらえている。
奇妙なやつだ――が、それは攻撃をやめる理由にはならない。むしろわけが分からないからこそ力押し、それが芳香のやり方である。
刹那の時間が過ぎ去って、あっというまに二人の距離は0になって、芳香はためらうことなくその鋭い牙を女の細い首筋に深々と突きたてた。跳躍で得た位置エネルギーをそのまま女にぶつけ、押し倒しながら頚動脈を引きちぎろうとした。
――その瞬間だった。
歯を食い込ませた肉からこぷりと溢れた女の血の味、擦りつけた鼻に侵入してくる女のうなじの香り……それは芳香が良く知っているものだった。知っているどころではない。愛してさえいる。
「あ……!」
闇に沈んでいた記憶に、突然光がともった。芳香は着地したばかりの両足に全力で力をこめ、背中からの追いかけて繰る力に対して必死に踏ん張った。結果、女を押し倒すはずだった慣性はすんでのところで相殺され、半ば覆いかぶさるような体勢にはなったが、なんとか踏みとどまることができた。肉を引きちぎることもなく、歯を突きたてただけですんだ。
「青娥さま……」
芳香は思わず呟いていた。
とても大切な人で、誰よりも大好きな人。
心満たしていた攻撃衝動が一気に罪悪感に反転していく。その急劇な心情の変化に、体からフッと力がぬけた。それはエクスタシーの感覚に近い。
膝から力が抜け、首筋につき立てられていた犬歯は抜け、芳香の体はその場に崩れ落ちそうになった。
すると、その体を青娥がキュッと内側から抱きとめた。芳香は青娥よりふた周りほど体が大きい。脱力したまま、芳香はまた青娥に覆いかぶさるような恰好になった。
青娥は芳香の重みをしっかりと受け止めて、その背中をよしよしといたわってくれた。
「ちゃんと思い出したのね。えらいね。いいこいいこ」
青娥の手がなでる背中を起点にして、芳香の冷たい肢体に、立春の日差しのような心地よい暖かさがじんわりと広がった。それは芳香の冷え切った脳髄にしびれるような快感を与えた。
「青娥さまごめんなさい。青娥さまをかじっちゃった」
「ふふふ、私はおいしかった?」
冗談めかした青娥の問いかけに、芳香は正直に答えた。
「うん……あ、血が溢れてくる」
首筋の犬歯が突き刺さっていた箇所に小さな血の斑点が二つ。てんとう虫ほどだったそのふくらみは、みるみるうちに盛り上がって、頂点に達すると、すっと一筋に流れ落ちた。
「服が汚れちゃう」
芳香の判断は早かった。言うが早いか、血の流れの先端に吸いついた。それは丁度鎖骨の辺りで、骨の丸みを帯びた硬い感触と、鉄の味が舌の上に広がった。衣は守られた。
「痛……宮古、また歯があたってるよ」
「ん、ごめんなひゃい」
「優しくね、そのまま全部舐めて」
「ふぁい」
芳香は言われたとおり、血の流れにさかのぼって青娥の鎖骨から肩の始血点に舌を這い登らせた。血をもらさぬように、舌を広くして、ゆっくりとたんねんに舐めとっていく。首筋の出血点にたどり着くと、唇全体でしゃぶりついて、肉の裂け目を丹念にねぶった。舌の腹で這わせ、時には先端でくりくりといじると小さなわれめの感触がかすかにある。
「青娥さまの、おいしい」
「うふふ」
居並ぶ墓石の間でキョンシーに首すじをしゃぶられながら、夜風に涼んでいるだけのような顔をしている女。
もし二人の抱擁を覗き見る者があれば、妖怪を二匹見た、と後日に語っただろう。そしてそれは正しい。血をすするゾンビと、ゾンビに血をすすられて喜ぶ妖女。それが妖怪でなくて何者であろうか。
想像力のある者か、あるいは余程の暇人であればこんなことをも考えかもしれない。
――あの女は、ゾンビと交わるが悦びなのだろうか。だとしたら、もしゾンビが甦って人間になったら、女はもうその人間には興味を失って、別のゾンビを求めるのだろうか――
「血が止まったら、一緒に私の部屋にいきましょ。添い寝をさせるために宮古を呼びにきたの」
そう告げられて、芳香は青娥の首筋に吸いついたままに顔を喜ばせた。
青娥は「宮古はひんやりしてて気持ちいいから」と、よく芳香に添い寝をさせている。芳香としても添い寝をするのは大好きだった。青娥の無防備な寝顔をすぐそばでじっと見つめていられるのだから。
「けどその前にお風呂に入らなきゃね。ちょっとにおう」
青娥が芳香のうなじを匂いかえしてスンスンと鼻を鳴らした。
「宮古は女の子ゾンビなんだから。綺麗にしてあげる」
添い寝だけじゃなくてお風呂にまで入れてもらえる、今日は何て幸せな夜なのだろう――芳香はこくりと頷きながら、頬を赤らめていた。
関節の硬い芳香は当然自分では体を洗えない。だからいつも青娥が体を洗ってくれるのだが、青娥は本当にしっかりと芳香の体を洗いつくす。手足の指の間や耳の後ろは当然として、腋の下や足の間など、芳香が他の誰にも絶対に触らせないような体の内側にまで青娥の指先はもぐりこんでくるのだ。思い出すだけで体が熱くなって、筋肉が疼く。
「さぁいきましょ」
「うぉうー」
ちょっとドキドキしながら、いつもより心なしかぎこちない飛び幅で、芳香はぴょんぴょんと青娥の後をついていった。
墓場の一角にある秘密の門をくぐれば、もうそこは神霊廟である。
神霊廟はただの霊廟ではない。個室完備、大温泉浴場設備有のリッチな霊廟だ。
温泉は、岩盤を砕いて浴槽と洗い場を掘りだしただけの原始的ものではあるが、広さだけは大浴場と呼ぶにふさわしかった。
「きもちいーぞー」
「ちゃんと肩までつかるのよ」
妖術で作られた光球が玄武岩を削った黒っぽい色の天井付近に漂い、立ち上る蒸気に光を散乱させられながら、二人の裸体を静かに照らした。今は青娥と芳香のほかに人影はない。
芳香が腕を前に伸ばしたまま湯に腰を下ろして「ヒ」の字になると、その太ももに青娥がすわった。芳香は体が大きくて肉付きもよい。だから、背もたれ付き肉座布団としては抜群であった。ピンとのばされている両腕は、少々高さの狂った肘受けのよう。
「ああ、気持ち良い」
青娥が芳香にもたれかかると、青娥の肩甲骨が芳香の乳房をたいらに押し広げ、さらに鎖骨にあたって骨と骨とがコリコリと押し合った。
「これで芳香が私の体を抱いてくれたら、もうなにも言うことは無いのだけれど」
香草がひたされた香りのよい湯をすくいあげ、芳香の腕にすり込ませるようにしながら、青娥は言った。
「青娥さまだっこしてほいの?」
「そうね。もし芳香が抱いてくれたら、私は体の一切を芳香に預けて、あ~快楽至極~って気持ちよくなれる。でも支えがないと――」
青娥が、ふっと体の力を抜いた。すると、青娥のお尻が芳香の太ももをつるんとすべり、青娥は頭まで湯の中に沈みそうになってしまった。一見ただ腰掛けているだけに見えても、やはりバランスを保つために微妙な力が体の各所に働いているのだ。
「ね。こうなっちゃう」
「むー」
芳香はなんとか青娥を抱こうとした。けれど肩も肘も間接の曲がらない腕は上下にいくらか動くのみで、湯をばしゃばしゃと叩くことしかできなかった。
「ごめんなさい……」
「いいのよ」
青娥は振り返るようにして笑いかけ、シュンとなった芳香の頬を後ろ手に撫でた。
さらけ出された青娥の首筋に、先ほどの噛み痕が見えた。すでに新しい皮膚が出来始めていて、いくらか火照った白い肌に、ピンク色の処女肌が二つ、小さな花を咲かせている。
わずかに隆起したその果肉は妙に芳香の心をひくものがあり、ちゅ、と吸いついていた。
「ん……もう咬んじゃだめよ」
「舐めるだけれす」
肉を吸い上げながら、舌の先端でさぐると、青娥の肌に味はなかったが、僅かな突起が二箇所、感じられた。
乳飲み子のような芳香の仕草を、青娥は気持ち良さそうに瞼を閉じて受け入れていた。
「ちゅ……ちゅ……」
芳香はふと思った。
こんな無理な姿勢じゃなくて、青娥をしっかりと抱き寄せて、もっと強くしっかりと体中で青娥にかぶりつきたい――。
それは、命令されてではなく、自らの心が求める欲望。魂の無い芳香がいだく欲望はすべて、操り主である青娥に関してのことだ。
そう思ったとたん、不思議なほど強い衝動が、芳香の心を突き上げた。
「青娥さまー」
「ん?」
「私人間になりたい」
「え?」
青娥はちょっと驚いたようだった。無理もないのかもしれない。芳香から何かをねだるということは、ほとんど無いことだ。ましてやそれが、人間にしてほしいなどと。
「どうして?」
「人間になれれば、もっと自由に体が動くし、そしたら青娥さまを抱ける」
青娥は機嫌良さそうに笑った。
「わざわざ人間にならなくたって、柔軟体操をしなさい」
「うー、骨折するばかりで全然体やわらかくならないぞう」
「それはいきなり強く曲げすぎなの。何日もかけて少しづつと関節を伸ばしていくのよ」
「時間がかかるー。青娥さまが人間にしてくれたらすぐなのに」
「ずるしちゃダメよ。ずるは邪仙のやることよ。ふふ」
青娥は妖しく笑うと、立ち上がる姿勢になった。結局、おねだりは退けられたのだ。
「さぁ、体を洗ってあげる。洗い場にいきましょ」
青娥のお尻がお湯をかきわけて芳香の目の前に浮上した。肉は少なめでありつつも、色は白く形は良い。ほっそりとした足の間からは、向こうの景色が覗きみえた。青娥の、青空から流れ落ちる白滝のような肌に深く刻まれた、深遠にいたる尻の割れ目。雪原のクレバスのように、それは目を引いた。
自分のお尻にも同じ溝がついていて、青娥が言うには、風呂に入らず日を置くと、自分のそこはひどく臭いらしい。
ならば青娥のお尻はいったいどんな匂いがするのだろう、芳香はふと気になって、腰を前屈させて青娥の尻の割れ目の下つきに鼻を埋めた。
「きゃっ! こら宮古」
青娥のお尻と宮古の顔の凹凸は良い具合にかみ合った。鼻の先端は割れ目深くにもぐりこみ、鼻頭から頬骨にかけてを青娥の尻の肉の盛り上がりが柔らかく受け止めてくれた。
くんくんと香りを確かめたが、湯気の湿った感じがあるばかりで、匂いらしいものはなかった。
「おお、青娥さまは臭くないぞぅ。綺麗にしてるんだなぁ――いたっ」
頭頂部に鈍い衝撃があって、涙目に見上げると青娥のゲンコツがあった。
「宮古のお尻も、今からしっかり綺麗にしてあげる」
青娥の瞳はいつものように優しかったけど、口もとの笑みがいつもより少しだけ引きつっていた。
天にも昇るような青娥の指先の心地を予感して、芳香の土気色の頬にぽっと幻の桜が咲いた。
「さ、寝ましょうか」
「ふぁい、青娥しゃま……」
芳香は洗い置きの新しい胴衣に、青娥は浴衣に、それぞれ体の火照りを衣で封じて、寝室へ移動した。
芳香は、足腰に力が入らなかった。石鹸にぬめる青娥の指の感触が、まだ体のそこかしこに残っている。芳香の体は奥の奥にいたるまでくまなく綺麗にされてしまった。臭いところなど何処にも残っておらず、体中から石鹸の香りがたっている。
「お風呂すごく気持ちよかったぞぅ……」
「また一緒にはいりましょうね」
布団に寝かしつけられながら、芳香はとろんとした目つきで天井を見上げた。
霊廟内の各人の個室は灰色がかった花崗岩を削って空間を作られている。だから全体的に部屋が明るい。とは言え今は夜である。岩をくりぬいた一メートル四方ほどの窓からさしこむ淡い月の光だけが、ぼんやりと部屋を灰色に浮かび上がらせていた。むき出しの岩盤に、少しの家具と畳が敷き詰められたちょっとアンバランスな空間。
風の無い静かな夜で、布団の擦れるささやかな音がよく聞こえる。
「宮古いい匂い」
語尾に音符をはずませながら、青娥が布団にもぐりこんでくる。芳香を横倒しに寝かせて、そのピンとのばされた両腕の間に自分の頭をいれて、芳香の腕を枕にする。どことなく断頭台にかけられた魔女のようでもある。芳香の二の腕を枕に、胴体を抱き枕に、青娥はそうやって眠るのをこのんだ。
「おやすみ宮古」
「おやすみなさい青娥さま」
青娥が寝息を立て始めるまでの間、芳香はまぐろになって大人しく抱き枕をするのだった。
いつもならば、青娥が眠った後は、そっと自分の腕と羽枕を入れ替えて、部屋を出て行く。宮古には墓場の警護をする仕事があるのだから、朝までずっとこうしているわけではない。
けれど今日は、青娥が寝息を立て始めても、芳香はすぐには動かなかった。
風呂場での青娥との会話を、芳香はまだ覚えていた。
――青娥さまだっこしてほしいの?
――そうね。
青娥の命令は肉人形の魂に刻まれた唯一の存在意義。芳香にとって青娥の言葉は絶対だった。青娥が抱いてほしいというのなら、必ず青娥を抱かねばならない。どうしてもそれが心残りだった。
「えい、えい」
暗がりの中、芳香はなんとか腕を曲げようと頑張った。けれどどうしてもダメだ。固まりきった関節はどれだけ筋肉にひっぱられてもびくともしない。青娥の頭上にある腕は、わずかに動くだけで、けして青娥を抱こうとはしなかった。
「くそぉー。よし、こうなったら」
芳香は思い切った。すうっと目を細めて、意識を集中させる。そして天井の辺りに何発かの妖弾を生成した。それは、弾幕ゴッコ用の軽くてきらびやかな弾ではなかった。ドス黒く、そして重い、対象を破壊するための弾だった。
芳香は自分の肘関節と肩に狙いをさだめて、その数発を打ち下ろした。
「それ!」
弾は芳香の掛け声と共に急降下し、目標に正しく衝突した。
ゴシャ!
岩場にスイカを叩きつけたような音と衝撃が体内に響いて、芳香の肘と肩の骨が砕けた。
急に間接の支えを失って、芳香のピンと伸ばされていた腕はポスリと布団に落ちた。
「よしよし。これでよし」
破壊された己の腕に上機嫌な視線をおくる。痛みは感じない。
「そうだついでに……」
芳香は残っていた弾を全て自分の腰にぶつけた。骨盤と大たい骨が砕け、その代わりに足も動かせるようになった。
「あ、ひざを壊すの忘れた……まぁいっか」
関節を失って体は少しだけ自由になった。芳香は筋肉だけで、己の片腕と片足をずりずりと青娥の体に這い登らせていった。それは触手が人体に絡み付いていくような歪さを備えていた。
ともあれ、芳香は青娥を抱くことができたのだ。
「えへへ。できた。抱っこできたぞー」
「ん……」
青娥が子犬の甘えるような声で芳香の胸に頬をすらせた。
二人の影は、薄暗い部屋のなか同化して一匹の奇怪な生物のように見えた。
芳香の心にはただただ満足感だけがあった、できることならいつまでもこうしていたかった。しかし、いつまでも墓地をほったらかしにはできない。墓場の警護もまた、青娥から命じられた大事な仕事である。遠くで野鳥の鳴き声が響くのを何度か聞いた後、芳香は名残惜しさを感じつつ、布団から出ようとした。
が、その時になって芳香は気づいた。
「……おう? おおおう?」
動けないのだ。
破砕した骨盤はもはや体を支える役目を果たせなくなっていたし、まして片腕と片足の関節も壊れた状態では、起き上がることなど到底できなかった。
「……ど、どーしよー……」
考えたところで何も浮かばない。
自分の胸元で可愛らしい寝息を立てているご主人様に頼る意外、方法は無かった。
「うう……」
眠りをさまたげてしまう事を申し訳なく思いながら、芳香はおずおずと青娥に呼びかけた。
「せ、青娥さま。青娥さま」
何度目かの呼びかけの後、青娥の瞼が僅かに痙攣し、ゆっくりと開いた。暗がりの中、窓辺から寝室に差し込むわずかな月明かりを青娥の瞳がかすかに反射した。
「ん……なぁに?」
「あ、あの、えっと」
「?」
芳香が口澱んでいる間に、青娥は自分の体を抱いている――というより絡みついている――芳香の腕や足に気づいた。それらがあまりに不自然に歪んでいるので、さすがにギョッとしたようだった。寝ぼけていた声がはっきりとし始めた。
「え……ど、どういう状況? 宮古、何これ」
「それが、青娥さまをだっこしようと思って……関節を壊せば体が曲がると思ったから……でもそしたら今度は動けなくなっちゃって。助けて青娥さま……お仕事できない」
「……」
青娥はあきれたのか、芳香の胸にがっくりと力なく顔を埋め、ハァと溜め息をはいた。溜め息をつかれたことは、芳香をひどく申し訳ない気分にさせた。
「なんでこんなことするの……」
「だって、青娥さまを抱っこしなきゃと思って……」
「もう……」
青娥は黙った。叱りたいけど叱れない、そんな雰囲気があった。
芳香の体をギュッとだいて、ちょっときついくらいに腕に力を込めた。ひょっとするとそれがおしおきだったのかもしれない。
強く抱き合って二人、暗やみのどこかから聞こえてくる壁掛け時計の秒針の音が耳についた。
「青娥さま……私やっぱり人間になりたいなぁ。人間になったら、もっとじょうずに青娥さまの言いつけを守れるのに。それに、頭だって良くなって青娥さまを忘れたりもしなくなるはずだし、こんな風に迷惑をかけることもなくなるし……」
青娥は少しのあいだ返事をしなかった。また余計なことを言ってしまったのだろうか、と芳香は不安になった。
「……私のためにいろいろ悩んでくれるのね。それは嬉しいのよ」
ようやく口を開いてくれた青娥は、あきれた声色の中に優しさをただよわせた。
「でもね……宮古」
穏やかに語りかけながら、体に纏わりついた芳香の手足をほどき、そしてそれがすむと、ゆっくりと上半真を起こした。その黒い影が起き上がるのを、芳香は布団に横たわったままじっと目で追っていた。
青娥の影は、じっと芳香を見下ろした。
「宮古は何も悩む事はないの。私の言うことに従ってくれればいいだから」
口調は穏やかであったが、その声にはどこか、押さえつけてくるような重みがあった。芳香は声を出すのがためらわれて、首だけで小さくコクンと頷いた。
もしかして青娥は怒っているのだろうか――芳香がそんな風に思ってしまう雰囲気が、どこかにあった。
「宮古、仰向けになって」
「う、うん」
芳香は言われるままに寝方を横向きから仰向けに変える。折れた腕は持ち上がらず、無事な片腕だけがピンと天井を指した。
青娥がその腕をそっと手に取った。
芳香を見下ろす青娥の顔は窓辺の月明かりに逆光になって、影の中で瞳だけが、妖しい光をともしている。
「ねぇ――こっちの腕も折っていい?」
青娥は、まるで口づけを求めるような艶やかさで言った。
芳香は何の疑問をいだくこともなく、素直に頷いた。青娥の命令に疑問をいだく理由はない。
青娥が手首と肘に手をあて、それぞれ逆の方向に刹那、強く力をこめた。
パキャ!
と、セロリが折れるようなみずみずしく軽やかな音をはっして肘は折れた。それから青娥は少し姿勢を変えると、肩を押し砕いた。
関節を破壊されて、残っていた腕は布団の上にぱたりと倒れた。
芳香はためしに両腕を動かそうとしてみたが、布団と平行には少しばかりずらせるものの、重力にさからって持ち上げることは、まったくできなかった。無防備に、ただ青娥の影を見上げていた。
青娥もまたじっと、表情うすく、両腕を失った芳香を見下ろしている。
と、青娥の影が動いた。
それはまるで獲物に喰らいつく女郎蜘蛛のような仕草だった。肘を曲げ、膝を曲げ、妖しく蠢く細い四肢。暗やみの中、青娥の影は身動きのとれない芳香の上に覆いかぶさった。青娥は、芳香の砕けた骨盤の上にどすんと尻を下ろすと、そのまま前のめりに倒れて、自分の体重のすべてを芳香の体に受け止めさせた。そして両腕を芳香の背中と敷布団の間にもぐりこませ、砕けた腕ごと胴体をがっちりと抱きしめた。足も、足同士で絡みつかせている。
もはや芳香は首から下の自由を一切失った。
だが芳香に一切の不快感は無かった。何をされるのだろうという不安も一切無く、青娥になら、どう弄ばれてもかまわなかった。芳香が考えていたのは、青娥さまが怒っているのでなければいいなぁ、とそんなことばかりだった。
「宮古……」
そう囁きながら青娥が芳香の首筋を舐め唾液で皮膚をならした。そして、そこに思い切り歯を食い込ませた。硬いエナメルで覆われた青娥の牙は、あっさりと芳香の柔らかい皮膚を裂いた。喰らいついたまま、青娥はジッと動かなかった。
「青娥さま?」
無論、死体である芳香は痛みを感じない。
だが、数秒ほどたって、
「……いた、い?」
ありえないはずの痛覚が、芳香を襲った。首筋の、青娥の牙が食い込んだ箇所に火がともった。しだいにその熱は脈打つ痛みの波となってズクンズクンと脈打ちながら全身に広がりはじめた。
「青娥さま、いたい……いたいよぉ……どうなってるの、何してるの青娥さま……? 青娥さま、やっぱり怒ってるのぉ……?」
言葉とは裏腹に芳香の顔は恍惚に満ちていた。「痛覚」という未知の感覚と、それが青娥によってもたらされているのだという被虐趣味的な喜びの感性が、芳香の冷めた脳髄に、全身が痺れるような快感を甦らせた。
「ふふ、何も怒ってなんかいないわ。ただ、宮古が素直になってくれるように、私の霊気を宮古の体にお注射してるの。痛いかもしれないけど、それに身をゆだねなさい。すぐに気持ちよくなれる。何も考えなくていいから、私の言葉をよく聞いて」
「は、い……」
痛みはどんどんと強くなって、今や体中が脈打ち、熱を発している。宮古は拳をにぎり、体をくねらせようとした。けれど体は、青娥によってがっちりと組し抱かれているから、唯一自由な頭部を切なげにくねらせる。その首すじには青娥の毒針ががっちりと食い込んでいた。
「あ……うあぁ……」
己の喘ぎ声と、青娥の纏わりつくような粘り気のある声が耳穴の奥で交じりあった。
「宮古は、人間になんかならなくてもいい。死体のままでいい」
「はい……うぅ……はい」
青娥が言葉をはっするたびに、食い込んだ毒針が微妙に動いて芳香の肉の裂け目を弄る。芳香の肉体はそれを敏感に感じ取り、また反応した。
「人間は欲まみれの醜い連中よ。豊かになりたい、幸せになりたい、賢くなりたい、強くなりたい、立派になりたい。そんなことでいつも頭がいっぱい。仙人ほど賢くもないくせに、中途半端に小ざかしくて……でも、宮古はそんなのじゃないよね?」
青娥の声は、突き立てられた牙を通して、直接芳香の体内に響くようになった。というより、五感のほとんどが溶けて、区別がつかなくなっているのだろうか。目の奥からチカチカとした光が、時には赤く、時には白く輝き、溢れでた。快感の波に流されて意識は不明瞭になり、青娥と交わす会話は、脳髄に押し寄せるしびれるような快感の波の中で、夢うつつに行われた。他の感覚を犠牲にしてさえ、青娥の声だけは明確にとらえようとさせられるのだ。
「は、い……私は……いつも青娥さまのことだけ……何もかも全部……」
「そうよ、宮古はとっても純粋。いつも私のことだけを考えていてくれる」
「で、も……私は人間になりたいと思っちゃった……それって欲なのか……なぁ」
「そうね。いけない子、悪い子だわ。けれどね、宮古は私のために人間になりたいと思ったの。自分の欲ではなかった。私のための欲だった。そうでしょう?」
「……。はい……そうだったのかも……」
「なら、私はその欲を許しましょう。芳香は全ての欲を私のためにいだいてくれる。貴方は誰よりも純粋な死体。私のためだけに存在してくれるかわいい肉人形。もしかってに人間になったりしたら……うふふ、殺してまたキョンシーにしちゃうからね」
「はい……あっ」
次の瞬間、青娥の体にいっそう強く力がこもり、骨をくだかんばかりに芳香の体を抱きしめ、歯はより深く肉にもぐりこんだ。そして半ばまで埋まった八重歯から、芳香の体内に、一気に大量の霊気が流れ込んできた。
「あっ! うぁ……!」
芳香の体は電気ショックを受けたかのように激しく強張り、折れた腕の先で十本の指がぴくぴくと細かに痙攣した。霊気がもたらしたその一瞬のショックは、これまで芳香に打ち寄せていた快楽の波よりも遥かに強く、思考力を殆ど押し流してしまっていた。波が去った後、芳香はほとんど気をうしないかけた状態にあった。波の余韻に明滅する意識の中で、ただ青娥のことだけを思った。他のことを考える思考力は、すべて押し流された。
「青娥……さま……」
キョンシーという妖怪には活動を停止する時間はあっても、人間でいう「眠り」は無い。だが芳香は今、激しい睡魔に襲われていた。あるいはそれは、かつて経験した「死」の感覚を思い出していたのかもしれない。脳内全体で激しく続いた激光に目をやられ、視界は真っ暗に輝く闇の中にあり、脳に直接響く青娥の甘い声に反応して、かすかに残った自意識が希薄なガスのようにぼんやりと明滅した。
「宮古は今のままでいてくれればいいの。どれだけ傷ついても何度だって蘇って、いつまでもずっと私の側にいて、私の言うことを何でも聞いてくれる。私はそんな宮古が大好きなの。何も悩む事はないのよ」
芳香はもはや何も考えられず、青娥の言葉をただ受け入れて、体の奥と魂の芯に直接刻んでゆく。
「うん……私も、青娥さまが大好き……」
「嬉しいわ宮古」
「青娥さまが喜んでくれて私も嬉しい……」
「可愛い可愛い私の死体。ずっと離さない。さぁもう眠りましょう。今日は墓場の守りにはいかなくていい。このまま朝までずっと私に抱かれていなさい。朝になったら、体を治してあげる」
「朝までずっと……幸せ……青娥さま……おやすみなさい……」
「おやすみ――いいこいいこ」
青娥の手が後頭部をなでている――その感覚を最後に、芳香の意識は、まったく形を失って、まぶた、の、奥の、暗、闇に――とけた。
せいよし……アリですね。
欲に忠実な二人ってかんじだね、せいよしは。
ふとじこ
ちゅっちゅ
せいよし流行れ!
ていうか神霊組流行れ!
創想話初の青娥SSがこれですかw らしい。実にらしくてよろしいです。
背徳感とほのぼのがブレンドされたせいよし増えろぉぉぉお!!
>添い寝だけじゃなくてお風呂にまで入れてもあえる
→入れてもらえる
>もしかって人間になったりしたら
→かってに
この二人は滾りますね。背徳感とそこはかとない狂気がたまりません。
せいよし流行れ!
ふととじも流行れ!
ついでにみことじ流行れ!
まだ購入してないのに・・・それにあとがきもなんかネタバっぽいし・・・
まぁこれは自分の不注意だったから仕方ないんですが。
委託が開始したからって、当日にいきなりキャラ名をタグに登録するのはどうなんでしょう。
流石に冒頭に注意文を入れるか、タグをネタバレ注意にかえた方が良いんじゃないですか?
内容は最高でした。
そう思っていた時期g(星蓮船体験版発表時)
せいよしこがでも一行に(ry
芳香は小傘の嫁……
そう思っていt(ry
青娥が薦めている通りに柔軟体操すべき。
想像力を掻き立てられるような語彙を選んでいらっしゃるw
次回作も楽しみにしています。
能天気だけど純粋で真っ直ぐな芳香に惹かれるんでしょうね。
ラストのやりとり、なんとなくですけど青娥の泣きそうな顔が眼に浮かびました。
腐ってて可愛いタフな彼女が、いつまでも優しい邪仙の傍にいますように。
ちょっとヤンデレ気味の青蛾にゃんには、芳香ちゃんクラスの従者が適任なのでしょうね。
それでも二人の魅力が伝わるいいお話でした
曲がらない腕で相手を抱きしめるために自分の腕をへし折るくだりが特にツボ
でも……俺はみことじ派、これは譲れない
でもこのSS好きだ
KASAさんのふとじこにも、期待せざるをえない。