拳が互いの頬に突き刺さり、二人の体が吹っ飛んでいく。
「おお~……」
あまりに見事なクロスカウンターに、木の影で見ていた咲夜は思わず感嘆の声を上げ、手を叩いてしまった。
勿論、常人なら首がもげそうな攻撃を放った、自分の主人に対してである。それを喰らいながら首がくっついている相手への賞賛も、少しだけ含んでいた。
数メートルは吹き飛んだ二人は地面に横たわったまま、ピクリとも動かない。
一人は風見幽香。もう一人はレミリア・スカーレット。
二人が繰り広げた昼夜を跨いだ決闘は、また引き分けに終わってしまったようだ。今日は決着までに4日かかっている。
ぶちのめされた主人と、主人がぶちのめした相手が起き上がってこないことを確認し、咲夜はレミリアへと近づいた。
「見事な戦いぶりでしたよ、お嬢様」
白目を剥いて倒れている主の体を、よっこらしょと担ぎ上げると紅魔館への帰途につく。完全に脱力しきったその体は、いつもより少し重いと咲夜は思った。
放置されていた幽香は、咲夜たちが去ってから数時間後に目覚めた。まず目に入ってきたのは満天の星空で、その美しさに幽香は思わず目を細めた。
痛む体をかばいながら上体を起こし、周囲を見渡す。レミリアは咲夜によって回収されていたので、起こしてくれても良いじゃないかと、何時ものように悪態をついてやった。
これが記念すべき三十戦目で、そして三十回目の引き分けである。絶対にお互い、相手より先には倒れない。死んでも食らいついてやるという、その強靭な精神は見事なものである。
その精神の根源が、不純でなければだが。
お互いに、ただ一人の少女の笑顔を見たいがために意地を張り合っている。
紅美鈴。紅魔館の門番で、幽香とレミリアが取り合っている人物だ。
レミリアは美鈴を独り占めにせんと、もし自分が勝てば幽香が金輪際、紅魔館へやって来ない事を要求している。対して、幽香は自分が勝てば金輪際、自分が美鈴と会うことに文句をつけるなという条件を突きつけている。
二人が欲しているのは美鈴の笑顔。レミリアは幽香に向ける朗らかな笑顔が欲しくて、幽香はレミリアへ向ける太陽のような笑顔が欲しい。
レミリアは、美鈴が幽香に合わなくなれば、あの笑顔が自分のものになると考えている。
幽香は、美鈴に何度も会うことで、あの笑顔を自分に向けてくれるようになるだろうと考えている。
実際は二人とも大間違いだ。そんな事をしても、何の意味もないのである。
唯一、咲夜はその理由をぼんやりと分かっていたが、あえて教えようとはしなかった。この二人が必死になっている様子が少し面白かったからだ。
美鈴から見た二人の立場が、急激に変化することが一番手取り早い。咲夜はそう思っている。
さて、この二人は何時その事に気がつくのだろう。
帰路につくべく、痛む体を庇うようにゆっくりと立ち上がった。少し体を起こすたびに痛みが走り、腫れ上がっていてもはっきり分かるほどに顔がゆがむ。
それから一歩踏み出して、思わず「痛い!」と言葉が飛び出した。
立ち上がるだけでも一苦労だったのに、歩くとなると地獄の苦しみである。星空の下、痛みで顔を歪めながら足を引きずっている自分の姿を想像して、口角を歪めた。
どうしてこんな、苦しむような真似をしているんだろう。ここまで意地を張る必要があるのか。
「一度張った意地を貫き通さなくてどうするのよ!」
大声で叫び、痛みのあまり悶絶した。
ここから幽香の家までは随分と距離がある。この距離を一人で帰るのかと思うと、凄く寂しいと感じてしまった。
こういう時に決まって思い浮かべるのは美鈴の顔で、あの娘が隣にいてくれたらどれだけマシになるだろうかと考えた。美鈴の見せてくれる朗らかな笑顔は、嫌なことをみんな忘れさせてくれる力があると思う。
……幽香が一番欲しているのは、彼女がレミリアに見せる、太陽のごとく輝いている笑顔なのだが。
そうして、この私がそんな事を考えるなんてね、と驚くのだった。それほど幽香の中で、美鈴という存在が大きくなっている。
小さなため息を吐くと、動かない足を庇いながら歩き始めた。
この感情はなんだろうかと、痛む体を引きずりながら考え始めた。
美鈴と会うだけで嬉しくて、自然と自分の中の殻が剥がされていく感覚がする。コロコロと変わる表情を見ているだけで面白くて、ずっと一緒に居たいと思ったことも一度ではない。
それらは花に対して抱く感覚と少し似ていて、だが何処か違う。
もしかしてと思い、慌てて頭を振った。顔がたちまち真っ赤になり、熱を帯びていくのが分かる。
「そんなことがあるはずないわよ」
一目惚れ。恋愛感情を伴ったその言葉に、うわあと呻いた。だが考えれば考えるほど、そうとしか思えなくなっていく。
幽香は花を愛していている。それと似ている感情なのだから、間違いないのではないか。花を愛するそれと何処か違うのは、対象が花ではないからかもしれない。
だとすれば、どうしたら良いのだろうかと頭を抱えた。恋愛感情の伴わない『好き』はいくらでもあるのだ。
例えば博麗霊夢。あのストレートな性格を気に入っていて、好きか嫌いかと訊ねられたら『好き』と答える。
例えばレミリア・スカーレット。顔を合わせるたびに悪態を付き合い、拳をぶつけ合う存在だが、もうケンカ友達のような感覚だ。『好き』という感情がなければ友達とは思えない。幽香にとって、互いに同じ相手を取り合うライバルと言えるだろう。
他にも数人、片手で数えることのできる程度には友人と言える相手は居る。
だが、考えれば考えるほど、その友人たちに抱く感情と、美鈴に対して抱く感情は違うと分かってしまう。
「でも、だからってどうすれば良いのよ!」
吐き捨てるように言うその顔は耳まで真っ赤で、そして顔は苦悩の表情に歪んでいた。
ブツブツと何かを言いながら、悲鳴をあげる体を必死に動かしていく。
自分でもどうしたらいいのか分からない感情を抱えたまま、ゆっくりゆっくりと歩いて行く幽香を、星空が見下ろしていた。
太陽が幻想郷の空を明るく染め上げ始めた頃、幽香はようやく家にたどり着いた。
ドアを開けるのも億劫なのか、ドアノブを回す手はやけにスローモーションだ。
ずりずりと足を引きずりながらベットへと近寄ると、前のめりに倒れこみ、布団の中へと潜り込む。すぐに整った、かすかな寝息が布団の中から聞こえ始めた。
鳥の囀りすら聞こえない家の中に、もぞもぞと動く幽香が立てる衣擦れの音だけが微かに響き続けるのだった。
「申し訳ありませんが、パチュリー様、またお願いできるでしょうか」
パチュリーはページを捲る手を止め顔を上げると、図書館へ入ってくるなりそう言って頭を下げた咲夜へ視線を移した。
小さく開かれた口から吐き出された溜息が、中途半端に開かれたページを揺らす。
パタン、と本を閉じ立ち上がると、小悪魔を呼びつけた。少しして、小さな箱を抱えた小悪魔がトコトコと歩いて来た。
箱を受け取ると、中身を確かめはじめる。箱の中にこれでもかと押し込まれている瓶を取り出すと、その中にある怪しい色をした液体の量を確かめた。
その内の幾つかを箱の中に戻し、それ以外は小悪魔に手渡してやると「あとで補充しておいてね」と伝えた。
パチュリーは幾つかの瓶を持った小悪魔へ背を向け、「行くわよ」と咲夜に声をかけると箱を手に図書館をあとにした。
レミリアが寝かされている部屋へ続く廊下を、ランタンを手にした咲夜が進み、その後にパチュリーが続く。
レミリアが「紅魔館の名に相応しい物をね」と、敷き詰めさせた赤い絨毯が、カンテラの放つ光りに照らされて妖しく光っていた。
カンテラの明かりは廊下の先まで届かず、暗闇に包まれたその向こうに、大口を開けた怪物でも居るんじゃないかという錯覚に襲われる。
そうすると、この赤い絨毯は上を歩く獲物を巻き取るべく伸ばした怪物の舌だろうか。そんな事を考えて、パチュリーはくだらない、と小さく吐き捨てるように言った。
この廊下の向こうにいるのは、怪物などではない。
世間が恐れる吸血鬼は、今は一人の少女のために必死になる乙女だ。
「パチュリー様、お嬢様は何故ああまでして美鈴に拘るのでしょう。何かあるのでしょうか?」
「何か……? ああ、美鈴がやってきた時のことは話してなかったっけ。聞かれたわけでもなかったし……話そのものは短いんだけど……」
パチュリーは、美鈴がやってきた日のことを思い出しながら口を開いた。
目を覚ましたレミリアの視界に飛び込んできたのは、よく見知った天井だった。
首をゆっくりと右に動かしてみれば、咲夜の姿が視界に映る。彼女の後ろにある窓からはまばゆい光が差し込んでいて、恐らくもう昼間なのだろうとレミリアは思った。
体を起こそうとしたが、その瞬間体中に激痛が走った。痛みのあまりうめき声を出したレミリアの声に反応して、咲夜が顔を覗き込んできた。
その顔には笑顔が浮かんでいる。
「気がつかれましたか。お体の方はどうですか?」
「最悪だよ。ちょっと動かすだけで猛烈に痛い」
ぴくりと右腕を動かそうとして、レミリアの顔が苦痛で歪む。悲鳴こそは出なかったが「あの馬鹿力め!」とこの場に居ないライバルへと悪態を付いた。
ひとしきり悪口を言い続けてから、徐々に痛みが増してきたのか、渋い顔をしたまま口を閉じた。
そんなレミリアの様子に苦笑しながら、
「まだ動いては駄目ですよ。何時ものこととはいえ、全身包帯だらけの重症患者なんですから。応急手当をしてくださったパチュリー様が、文句ばかり言ってましたよ」
「そうか……パチェにも咲夜にも、何時も苦労ばかりをかけるなぁ。いやぁ、心苦しいわね」
「そうですよ、それがお分かりになるなら、どうかご自愛ください」
「ああ、分かってるよ」
無論本心ではない。その事は咲夜もよく分かっていた。
本当にそう思っているのなら、喧嘩するたびに、ここまでの怪我を負うほどの無茶はしないのだから。ここ最近は、お嬢様がここまでの無茶をするのは、何かあっても自分たちが何とかしてくれると信用しているからだ、そう思い始めている。
主が大怪我を負っている姿を見て動揺するメイドたちに激を飛ばし、決して美鈴にはバレないようにするのが咲夜の役目だ。
乱れた毛布をかけ直し、柔らかなほほ笑みを浮かべる。
「今日は一日動かないように、絶対安静です。御用がある際は何時ものように、コールベルを」
「ん、分かってる」
それでは、と言い残し部屋を出て行く咲夜を見送る。
遠ざかっていく足音を聞きながら「感謝はしてるんだよ……」と呟いた。しかし、やはり身を引くというわけにはいかないと思う。
レミリアは紅魔館の住人全てを、等しく愛しているつもりであった。実際は多少の違いはあるのだが、些細な誤差であるはずだった。
はっきりと自覚していなかっただけなのだ。レミリアが美鈴に対して抱いていたそれが、他の住人たちへ向けるそれと少し違うことに。
最近になって漸く、美鈴に対してのそれは、住人たちへと向けるそれとは少し違うのかもしれないと感じ始めていた。それを自覚した原因はやはり、幽香の存在である。
美鈴と親しげに話すその姿を見るたびに、美鈴が幽香へ朗らかな笑顔を見せるたび、レミリアの中のあった奇妙な違和感が大きくなっていくのが分かった。
パチュリーに対しても、咲夜に対しても、実の妹であるフランに対しても抱いたことのない感情。
紅魔館の住人たちへと向けている愛情とは少しだけ違うそれを、レミリアはハッキリと理解できなかった。その感情を「とにかく美鈴は自分のものなのだ」という支配欲だと自分に言い聞かせた。
あの笑顔も、私のものだ。そういう、何処か納得出来ていない支配欲。
そんな自分を抱えたまま、レミリアは傷を癒すべく静かに目を閉じた。
レミリアと美鈴の付き合いは、咲夜よりも長い。
それこそパチュリーとほぼ同等だ。レミリアとパチュリーが親友となったすぐ後に、二人は美鈴と知り合った。
事の起こりは実に単純なものだ。ある日、日傘を片手に散歩にいこうと紅魔館を出たレミリアが、行き倒れになっている妖怪を見つけて運びこんできた。
紅魔館の前で死なれても困るという、実に自分勝手な理由からである。干からびて無残な死体を晒すのは、館から離れた場所にして欲しい。
それが紅美鈴であった。
何処にこれほど入るのかというほどたっぷり食事を摂り、体を洗う。それからしっかり睡眠をとった彼女は、見違えるほどの姿になった。
みずみずしい肌と、流れるような真紅の髪。
「ありがとうございました!」という鈴を転がすような声と一緒に見せた、眩しい笑顔。
紅美鈴という名に相応しい外見と声に、見蕩れ、そして心惹かれた。
本当は回復してから叩き出すつもりだったが、そんな考えなど霞のように消え去っていた。
――こいつをずっと手元においておきたい!
それが一目惚れだと自覚できたかもしれない。その感情を知っていれば、という前提付きだ。
家族でもない、赤の他人を愛するという感情を知らなかったレミリアはその事がよく分からず、頭の中で勝手に支配欲と置き換えてしまった。
それが欲しいと思った時の、レミリアの行動はやたらと早い。
美鈴が礼を言うよりも先に彼女へと近づくと、その頬を両手で包み込み、グイッと引き寄せた。その目は極上の獲物を見つけた狩人のように爛々と輝いている。
――わ、あ……!
――単刀直入に言おうか。私はお前が気に入ったわ。だから、お前、この館で私のために働く気はない?
――え、あ、はぁ……。確かに助けてもらったお礼はしたいとは思いましたけど……。
――そうか、それなら丁度良いじゃない。生命を拾ってやったんだから、その生命を私のために使ってもいいと思うんだけどね。それに、行き倒れてたのが、行く宛でもあるの?
――いえ……行く宛など……。
美鈴の顔が曇るのを、レミリアは見逃すことはなかった。
互いの息がかかるほどに、より一層顔を寄せた。瞳の輝きがより強くなる。
――それなら良いじゃないの。それに、私がお前が気に入ったから紅魔館に住みなさいと言ってるのよ。何度も言わせないで頂戴。
有無をいわさぬ力強い声で、そう告げた。小さく呻いた美鈴が思わず顔を引こうとしたが、レミリアの手によって固定され、ビクともしない。
自分が欲しいモノは絶対に手に入れるという思いが、そっくりそのまま身の毛もよだつ威圧感として辺りに撒き散らされている。
せめて目を逸らそうとするが、ぎらぎらと輝くレミリアの瞳に吸い付けられるように、動かすことも出来なかった。
密着していることでより感じるレミリアと、自分の力量差。
断ってレミリアの機嫌を損ねるとどうなるか、そう考えた美鈴に首を横に振るという選択肢はなかった。
――分かりました。それならただ居るわけにもいかないので、私にもなにかお仕事をもらえないでしょうか?
その言葉に、レミリアは満足気に頷いた。
それから、どんな仕事をやらせようかと思案を巡らせはじめた。さて、どこか美鈴にぴったりの場所はあるだろうか。
例えばメイド……と、美鈴のメイド姿を想像して、慌ててかき消した。おとなしい印象を与えるメイド服は、健康的なイメージの彼女には合わないだろう。無論、素晴らしく似合うだろうとは思うが。
パチュリーの手伝いなどもっての外である。パチュリーには悪いが、日の差さない薄暗い部屋の中で、椅子に座って本を読む美鈴などありえない。
そう、こんな綺麗な赤毛と、鈴のような声、それに太陽のように眩しい笑顔を閉じ込めておく道理はないのだ。
となると、美鈴に与えるべき仕事は一つだけである。
自分を見てニンマリと笑うレミリアに、美鈴は困惑した表情を見せるばかりであった。
夢というものは、何時も中途半端な場所か、一番良い場所で醒めるものである。
「まったく、少しぐらい配慮しても良いじゃない。いくら何でも中途半端すぎる……!」
目を覚ましたレミリアは、今回は前者であった夢に精一杯の悪態を付いていた。
この先にはいくつも、美鈴を手に入れて良かったと思える場面があるのだ。
ばふんばふんと枕を叩き、自分の意志ではどうにもならない夢に対して文句を言う様は、正しく外見相応の子供である。そんなレミリアを、世話を任されていた咲夜が微笑ましそうに眺めていた。
怪我をしていた部分はすっかり良くなっているようで、全く動かしていなかった故に骨がゴキゴキと鳴るだけで、痛みはまったくない。
ばふん、と一際大きい音がして羽毛が舞い上がった。
それをかき分けるようにベッドから降りると、汗を吸って少しだけ重くなったネグリジェを脱ぎ捨てた。
汗を含んだそれは、羽毛を巻き込みながら地面に落ちた。
窓から入り込んでくる爽やかな夏の風に熱を持った裸体が晒され、気持ちがいいとレミリアは感じた。まだ暑さが厳しくないことから、朝なのだろう。
部屋を見渡すと、そこにはボウルを抱えた咲夜が立っていた。
「咲夜、準備はできているかしら?」
「勿論ですとも、お嬢様」
咲夜が一歩歩くたびに、ちゃぽんと水が揺れる音がする。
ボウルを満たしている水は極端に冷たくもなく、レミリアの指示通りの温度に合わせてあり、咲夜はそれにタオルを浸して濡らすと丹念にレミリアの体を拭き上げていく。
人間ほど垢が出るわけではないが、最低限度の身だしなみというやつだ。汗臭いままで他人と会うなど、レミリアのプライドが許すはずがない。
「お嬢様、腕を上げてもらえないでしょうか」
「ん、全身くまなく、綺麗にね。誰か会いに来ても恥ずかしくないように……」
とても大人の女性とは言えないレミリアの体を、咲夜は丹念に拭き上げていく。それにレミリアは恥ずかしいとも思わなかった。家族同然の存在に裸体を見られても、なんとも思わない。
ボウルの中の水が温くなる頃には、レミリアの体はすっかり綺麗になっていた。
満足そうに微笑むレミリアに、咲夜はうやうやしく頭を下げる。
咲夜の持って来た真新しい下着と服を身につけると、恐ろしい悪魔だと噂される紅魔館の主がそこに立っていた。
人々は睨みつけられただけで竦み上がり、その声は耳朶を打つたびに潜在的な恐怖心を刺激される。
か細い腕は見た目に反して、人間の首程度なら紙細工のように引きちぎることが出来る。
――ですが、パチュリー様……。最近のお嬢様はまるで……。
――咲夜、恐ろしい悪魔のようなレミィも、私たちの前では大分柔らかくなるレミィも、それに……美鈴の前ではやたらデレデレしているレミィも、間違いなく全部同じレミリア・スカーレットなんだから。
咲夜は、薄暗い廊下で交わしたパチュリーとの会話を思い出していた。
風見幽香と張り合いをし始めてからというもの、レミリアは美鈴に対してだけ、明らかに咲夜たちに向けるものとは違う表情を見せていた。
あれはまるで、恋する乙女だ。
美鈴に対してだけ見せるその表情を、咲夜は羨ましいと思っていた。自分には、あんな顔を見せてくれたことがない。
そんな感情を表に出すことはなく、寝室のドアを開け放って出ていくレミリアの後ろを黙って付いて行くことしか出来なかった。
従者は、主の側に居るだけである。それが幸せなことだと思う他なかった。
ベッドに倒れこんでから二日目の朝。
幽香はベッドに横になったまま、ぼんやりと天井を眺めていた。その口から吐き出されるのは、悩ましげな溜息だけである。
もうすっかり傷は癒えているのだが、何もする気が起きなかった。
ぐぅ、と腹が鳴るともぞもぞと起きだして食事を摂り、またベッドに潜り込む。別段眠るわけでもなく、ただただ横になっているだけだ。
彼女をよく知る人物が見れば、病気にでも罹ったのかと心配するだろう。
幽香自身、病気ではないのかと思っていた。何に対してもやる気が起きない上に、胸が苦しくて仕方がない。
いや、これまでも病気だと思って片付けようとしていただけなのだ。
「もう限界か……。恋煩いっていうのがこんなに大変だったなんてねぇ。ホント、こんな姿は霊夢には見せられないわ」
あの親友のことだから、きっと心配するより先にケラケラと笑い飛ばしてくれるだろう。
――何? あんたでもそんな気持ちになることってあるんだ。でもそれは軽々しく他人に言うものじゃないわよ。あんたみたいのが恋する乙女だなんて、それこそ一生イジられそうだわ。
こんなことを言うに違いないだろう。
いっそ、笑い飛ばしてくれたほうが楽になれるかもしれない。これ以上誤魔化し続けても、自分にとって毒になるだけだ。
解決方法は、幽香自身がよく分かっていた。自分の感情を相手に伝えるか、諦めるか……。
仮に諦めるとしても、本当にそれで自分の中の感情に従ったと言えるか疑問だった。中途半端な諦めは、一種の呪いとして、一生自分を苦しめ続けることになるかもしれない。
そうならないためには、結局自分の感情を相手に伝える必要があるのだろう。そうしてはっきり無理だと言われたら、諦めることが出来る。幽香はそう考えた。
そう、二択ではなく、向き合って思いを告げるという一択しかないのだ。ただ諦めるだけというのは、結局自分の気持ちから目を逸らしている、若しくは逃げているだけである。
「逃げるとかって、私らしくないわよね」
自分らしくないと同時に、ライバルまで居るのだ。ここで逃げることは自分の気持から逃げるのと同時に、ライバルであるレミリアからも逃げることになる。それは幽香のプライドが許してくれそうになかった。
そうと決まれば善は急げ、と上半身を起こし大きく伸びをした。ずっと寝転がっていたせいか、肩の関節部がゴキゴキと小気味よい音を鳴らした。
ベッドから降りると腕に鼻を近づけて、それから顔をしかめた。分かっていたことだったが、汗の匂いが体に染み付いていてしまっていた。このまま美鈴に会うことなど出来るはずがない。
クローゼットを開くと、中に収納してあるタオルをひっつかみそれにぼふっと顔を埋めた。様々な花の香りが混じったものが鼻孔いっぱいに広がっていく。
それをするだけで、気持ちが和らいでいくのを感じた。
幽香はしばらくそうやっていたが、全部吸い込んでしまうのではないかと思い慌てて顔を上げた。
決してそんなことはないのだが、少しでもこの匂いを纏って美鈴に会いたいと思ったのだ。
汗を洗い流してサッパリしてから、洗ったばかりの真新しい服を着て、爽やかな花の香りを振り撒きながら美鈴と言葉を交わす。
クローゼットの中から服を取り出すと、タオルを右腕に、服を左腕に引っ掛けて浴室へ向かった。
レミリアはぎったんばったんと椅子を揺らしていた。
小さな口からため息が一つ漏れるたびに、微妙に体勢を変える。それの繰り返しばかりである。
それもただの溜息ではなく、切なげなものだ。その顔は憂鬱そうで、体躯に似合わず大人びて見えた。
また一つため息を吐くと、椅子を動かすのを止めて机の上のティーカップを手に取った。
中身の入っていないそれを両手で弄び、縁をきゅっきゅと触ってみた。それは暇を潰すための行為ではなく、レミリアの表情は何かを考えている顔である。所謂上の空というやつだ。
――あ、お嬢様! おはようございます!
――……うん、おはよう。今日も頑張ってるみたいだね。こんなに暑くなりそうな天気なのにさ。
――いえいえ、そんなそんな。大きな傘もありますし、咲夜さんが水筒を差し入れてくれることもありますし。
――そう、か。それなら良いんだ。
先程まで交わしていた会話を思い出し、やっぱり溜息を吐いた。
本当に言いたい言葉はそうではないと、レミリア自身が一番良く分かっていた。だが、それが具体的には分からず、口を衝いて出る言葉は他愛のないものばかりである。
――自分はどうしてしまったのだろう。
咲夜に聞けば答えがわかるかもしれないが、自分の中にそれをさせてくれない気恥ずかしさがあった。何時も聞こうとして尻込みしてしまう。
親友であるパチェにならと思ったが、やはり駄目だった。
何故そんな気持ちがあるのかも分からない。美鈴を見て抱く気持ちと、誰にも相談できないもどかしさが合わさって、頭がどうにかなってしまったのではないかとさえ思う。
元々、自分の頭の作りはマトモではないと思っていたが、より一層おかしくなってしまったのだろうか。
無意識のうちにきゅっきゅとやっていた手を止めると、それを机の上に戻した。
こんなことをしていても、埒があかないと思った。ぎぃ、と椅子を軋ませて立ち上がると窓へと歩み寄った。
日光に当てられた体から煙が立ち上ることも厭わず、窓から門を眺めてみた。普段なら咲夜が日焼け止めを塗ってくれるはずだが、レミリア自身が追い出すように仕事を言いつけたために此処には居ない。
門の前に立つ美鈴はストレッチをしたり、行ったり来たりを繰り返したりで、それをレミリアは不思議な気持ちで眺めていた。
「ああ……あいつはあんなことをしながら暇を潰してるのか……」
ため息混じりに、どうでもいい事を呟いてみた。普段ならこんなことを気にするはずがないのだが……。だが、訳のわからない自分の行動に苛立つこともなかった。
レミリアがしばらく眺めていると、美鈴が気がついたのかこちらを見て手を振りながら微笑んだ。
どくん、と心臓が跳ねたような気がした。
慌てて窓から離れた。美鈴はただ手を振って微笑んできただけだというのに、どうしてこんな反応をしてしまったのだろう。
胸に手を当てて深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせた。突然此方を見たから驚いたのだと、自分に言い聞かせ、呼吸を整えた。
何故あんな反応をしてしまったのだろう。美鈴は此方を見ただけなのだ。
今ならまだ美鈴が此方を見ていても、先ほどのような反応はしないだろう。そう自分に言い聞かせながら、もう一度窓へと近づいた。
門を見たレミリアは、一瞬だけ呆けたように立ち尽くすと、ドアを蹴破らんばかりの勢いで部屋から出ていった。
美鈴と会話をしている幽香がそこに居たのである。
「これを、私に……ですか?」
「そうよ。美鈴に貰って欲しくてわざわざ摘んできたんだから、大事にして頂戴ね」
「ええ、勿論です!」
最後に会ってからそう時間は経っていないというのに、幽香は美鈴と会話をすることが随分と久しぶりであるかのように感じていた。
それだけ美鈴のことが気になっていたのだろう。花束を手にはにかむ彼女が、愛おしく思える。
だが、少しばかり残念に感じていることがあった。
幽香が摘んできた花はピンクの胡蝶蘭である。その花言葉を知らないのか美鈴はニコニコと笑みを浮かべるばかりだ。
「ねぇ美鈴。胡蝶蘭の花言葉って何か……知ってる? すごく重要なことなんだけど……」
「え? うーん……聞いたことが無いですねぇ。どういう意味があるんですか?」
「んー。あのねぇ……」
美鈴へと体を寄せると、目の前にある彼女の顔が驚きの表情へ変わった。ほんの少し、頬が赤くなっているような気がする。
お互いの息が顔にかかるほどだ。そういった趣味はないが、健康的な美鈴らしくその息はいい匂いがした。自分はどうかと幽香は思った。こういう時のために、最近は特に気を使っている。
美鈴は特に嫌そうな顔をしているわけではなく、心のなかで安心した。
「ピンクの胡蝶蘭の花言葉はね、『あなたを愛します』なのよ。覚えておいて頂戴ね。それに、それを送られることがどういう意味を指すのかってのも……」
「え、え? ええええ、それは、えええ!?」
美鈴の顔が今度こそ茹でダコのように真っ赤になり、可愛らしい口から素っ頓狂な声が漏れた。同様は目にも現れていて、せわしなく動くそれは幽香から必死に視線を逸らそうとしている。
あわあわと言うその顔を、両手で優しく包みこみグイッとさらに引き寄せる。
ギョロギョロと動いていた目が、覚悟を決めたように幽香を見据えた。ここまでやって拒絶しないのだから、良いということなのだろう。
青みがかった灰色の美しい瞳。それが自分を見つめていると分かって、鼓動がどんどん早くなっていく。心臓が口から飛び出しそうなほどに跳ね上がっている気がした。
こんな近くで、こんなにも美しい目で見つめられて何も思わない奴は、きっと美的感性が狂っている。そう幽香は心の中で呟いた。
顔を少し上げさせると、その唇へ自分の唇を近づけていき……。
「美鈴っ!!」
幽香は一声叫び、美鈴を突き飛ばした。
驚愕の表情を浮かべる美鈴と、険しい表情を見せている幽香の間を、血のように赤い巨大な槍が通り過ぎていった。
あと少し遅ければ、あの槍に貫かれただでは済まなかっただろう。良くて瀕死の重傷だろうか。それとも、即死だろうか……。
心のなかで美鈴に頭を下げた。あれは幽香を狙ったもので、美鈴を突き飛ばしたのは大きく回避するための行動だったからである。
「お嬢様! お嬢様何を!!」
槍を放った人物が誰か、美鈴の言葉なしでも分かっていた。あんなことをした結果、こうなるだろうという予測は出来ていたのだ。
だが、何時までも美鈴が好きだという気持ちを押し殺す事ができるとは思えなかった。それ故の行動である。
レミリアが居る筈の方向へと体を向けつつ、レーザーを放った。花束から舞い散った花びらがレーザーに巻き込まれ、焼き焦げていく。
レーザーの狙いが甘いことを分かっていたかのように、周囲に着弾するそれらを物ともせず、レミリアは一歩もそこから動かなかった。
「どういう了見かしらね。いきなり仕掛けてくるなんて、らしくないじゃない。」
「五月蝿い。今のを避けなかったら終わってたのにね。人のものを盗ろうとする泥棒は、殺されても仕方ないと思うんだけど」
「それにしたって、警告もなしに殺そうとするかしら? 随分と余裕が無いじゃない」
「お前の実力は認めているつもりだからね!」
言うが早いか、レミリアは幽香へ近寄るべく大地を蹴った。美鈴の止める声は、空気を切る音と、大地を蹴った際の轟音に阻まれレミリアへは届かなかった。
仮に聞こえていたとしても、頭に血が上ってしまったレミリアは声では止められない。
――何時もより速い!!
その瞬間、幽香は確信した。美鈴を盗られたくないという思いが、レミリアの力を普段より増幅させている。
幽香も同じように地面を蹴ると、後方へと飛び退いた。右手に持った日傘を使い受け止め、反撃しよう。
地面にしっかり足を付け、振り下ろされるレミリアの左腕を日傘で受け止めた。その瞬間、幽香の顔が歪んだ。ビリビリと右手が衝撃でしびれ始める。
それに構うこと無く、左手を相手の顔面に叩きこんでやろうと腕を引いた。
至近距離でこの拳を受けては、一溜まりもないだろう。幽香は僅かな時間を使い、そう判断した。
「悪いわね。これで終わりよ。これで美鈴は……」
「いいや、終わるのはお前だ」
何を、と言葉にすることはなく、拳を付き出した。
しかしそれは、レミリアの顔を捉えること無く虚空を貫いただけである。
次の瞬間、後頭部に衝撃が走り幽香の顔面は地面へと叩きつけられた。
日傘に受け止められた左腕を中心に、幽香の頭の上をぐるりと飛び越して爪先を叩き込んだのである。
「お前はそうやって、地面にキスしてるのがお似合いだよ。あいつにするなんて、絶対に許さない」
地面に突っ伏す幽香を見下ろしながら、日傘で止められた腕をさすりつつレミリアが言う。
両手を幽香へ向けると、その手のひらへと魔力が集まっていく。幽香であろうと、これを受けてはただでは済まないだろう。
その目には、明確な殺意が宿っていた。
「そうか、じゃあ……」
突っ伏していた幽香の声がして、レミリアの動きが止まった。あれだけの力で頭を蹴りつけたのだから、起き上がることなど出来無い筈だ。
「口が聞けなくなるまでお前を叩きのめしてから、美鈴に会わせてもらうわよ!」
言うやいなや上半身を起こすと、レーザーをレミリアへと撃ち込んだ。
立ち上がりながら、さらに数発を放つ。レーザーがレミリアに当たるたびに爆発が起き、爆風でその体が隠れていく。
幽香は多少、手を抜いていた。レミリアはこちらを本気で殺そう押しているが、幽香はそうする理由がなかった。ただ何も言えないほどに叩きのめすことが出来れば、それで良いだけなのだ。
さらに落としていた日傘を拾い、何が来ても良いように腰を落とし、構えた。自分を殺そうとするほどの相手が、今の攻撃で倒れてくれるとは思えなかった。
「き、さまぁぁぁぁぁぁぁ!!」
魔力の奔流を感じた直後に幽香が体を捻ると、顔のあった場所を殺意のこもった赤い槍が貫いていった。
幽香の頬に一筋、赤い線が走る。ほんの一瞬反応が遅れていれば、頭が消し飛んでいただろう。
頭がなくなっては、美鈴と言葉を交わすことすら出来なくなってしまう。間抜けな心配かもしれないが、それだけは御免だと、幽香は思った。
さらに土煙を切り裂きながら、紅い弾丸が飛び出してきた。
弾幕ではない。レミリア本人だ。幽香の攻撃を浴びた箇所は痛々しく焼けただれていて、髪の毛も所々焼けちぢれ、普段からレミリアの髪を弄っている咲夜が見ると卒倒しかねないほどである。
それは憤怒に歪んだ表情と合わせて、まるで悪鬼のようだ。
そしてその突撃を、幽香は避けることが出来なかった。先ほどの攻撃で態勢が崩れ、反応が遅れてしまった。
先ず腹部のほんの少し右側を衝撃が襲い、次に痛みが全身を駆け巡った。骨がきしみ、衝撃で内臓が歪む。そんなありえない感触を感じ、幽香の顔が痛みで歪んだ。
「げ、ご……ぉ……!」
内臓から押し上げられてきた空気が、口から漏れた。
胃の内容物が出なかっただけでも感謝するべきだろうかと、頭の片隅に残っていた冷静な部分が訴えかけてきた。
美鈴の見えいる前で吐瀉物を撒き散らすことほど、恥ずかしいことはないというのだろうか。
どこかに飛んでいってしまいそうな意識を必死に繋ぎ止めながら、右手を伸ばし、腹にぶつかってきたそれを引っ掴んだ。
「ああああ! うがぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
掴んだそれを力のかぎり動かすと、ブチブチと何かが抜けていく感触がして、幽香は再度ひっつかみ直した。
何を掴んだのか確認する余裕もなく、あらん限りの力でそれを地面へと叩きつけた。
掴んでいた手を離すと、ハラリと髪の毛が落ちて行くのが視界の端に映った。ああ、だから抜けていったのだと変なことを考える。
左足に激痛が走り、そこを見ると、レミリアが右手で足を掴んでいた。肉と骨が悲鳴をあげる。
さらに、鼻や口から血をまき散らしながらも、レミリアは左手を幽香へと伸ばし、魔力で出来た弾丸を放った。
それは幽香の体を確かに抉り、幽香の口から血が溢れる。だが、それに構うこと無く全力でレミリアの顔を蹴り上げた。
「離れろぉぉぉぉぉ!!」
ぐじゅり、と何かを潰す感触が爪先に伝わってきた。そのまま蹴り飛ばす。ぐじゅりという感覚がさらに酷くなる。
吹き飛ぶレミリアが掴んでいた肉が引きちぎられ、幽香の口から悲鳴が迸った。
体を支えられず膝をつく。痛みで顔を歪めながら、左手で持った日傘の先端を吹き飛んでいくレミリアへと向けた。
「吹き、飛べぇぇぇぇぇぇ!!」
「ぐぎぃぃぁぁぁぁぁぁぁ!!」
幽香は日傘の先端へと魔力を集め、レミリアは右手へと集めていく。
幽香は相手を確実に消し飛ばすほどの、レミリアはどんなに強靭な体でも貫くほどのものだ。
お互いに、それを放とうとした瞬間、
「これ以上は駄目です、幽香さん!!」
「いけません、お嬢様!」
「わ、ちょっと! なにをやってるの!!」
幽香の正面に飛び込んできたのは美鈴である。その後ろでは、咲夜がレミリアの腕を跳ね上げさせていた。
自分一人では止められない、そう判断した美鈴が連れてきたのだ。
しかし、発射しようとしていた力はそう簡単には止められない。だから幽香は、日傘を全力で上へと向けた。
圧倒的な魔力の奔流が空へ向かって放たれ、消えていく。
肩で息をする。美鈴はその言葉が似合う幽香の姿を見て、胸がずきりと傷んだ。それと同時に、あの短時間でここまでの有様となる二人の戦いに恐ろしいと思った。
体のあちこちから出血しているせいか服が真っ赤に染まり、左足は骨が見えるほどに肉がえぐれている。
――もっと早く止めていれば……。
自分がもっと早く止めていれば、ここまでのことにはならなかっただろう。咲夜さんを呼ぼうと思わず、すぐに止めていれば……!
美鈴は泣きそうな顔のまま、今度は後ろで騒いでいるレミリアを見て、より一層くしゃくしゃになった。
服は血濡れで、その上焼け焦げていた。それより美鈴がほぞを噛んだのは、その顔だ。
左目が潰れてしまっている。幽香が蹴り飛ばした時に潰れたのだ。眼球の残骸が、眼窩から溢れてしまっている。
見れば見るほど後悔の念が沸き上がってきて、美鈴は思わず顔を抑えた。
顔を抑え呻く美鈴の姿を見て、幽香は何も言えなくなってしまった。レミリアに対しての罪悪感ではなく、美鈴を悲しませてしまったことへの後悔の念である。
レミリアは本気で自分を殺そうとしたのだから良いのだが、美鈴の悲しむ姿は見たくなかった。好きな人の悲しむ姿を見たいと思うほど、幽香はねじ曲がっては居ない。
「う、ああ……。あの、美鈴……その……」
絞るような幽香の声に反応したのか、美鈴は顔を上げると、
「お嬢様を治療しますから、幽香さんも治療を受けていって下さい!」
「え、ええ……」
有無を言わさぬその声に、幽香は頷く他なかった。
その向こうでは、咲夜がギャーギャーと騒ぐレミリアを羽交い絞めにしていた。
幽香は、治療を受けるために紅魔館の一室へと案内されていた。
ベッドに寝かされたまま、今日はこのまま絶対安静だと釘を刺されてしまっている。
妖精メイドから渡された服の下には、包帯でぐるぐる巻きにされている幽香の体があった。血はすっかり止まっているが、暴れると傷口が開いてまた大変なことになると言われた。
幽香自身、もう戦おうという気はなかった。治療を受けながら、美鈴にこっぴどく絞られたのである。
一つ意外だったのは、レミリアに対しての行動をあまり責められなかったことだ。
……いや、出来なかったということもある。美鈴のことだから、ああなるまで止めることの出来なかった自分に非があると思っているのかもしれない。
もしそうだとすれば……。
先程まで美鈴が座っていた椅子を見た。彼女は幽香の治療が終わると、お嬢様の様子を見てくると言って部屋を出ていった。
「そりゃあそうよね。あんなことになってたのだから……。心配しないはずがない……」
美鈴にとって大切なご主人様へ、自分は重傷を負わせてしまったのだ。嫌われただろう。嫌われないはずがない。
何ということをしてしまったのだろうと、心底後悔した。だが、もう遅い。
歩くことができないのでふわりと浮き上がると、部屋の隅に置いてあった日傘を手に取った。
美鈴に合わせる顔が無いから、逃げ帰る。そんなことをしようとする自分のあまりの情けなさに、普段は端正な顔がくしゃりと歪んだ。
何故か涙がこぼれそうになって、それを慌てて拭った。
「廊下を行くと鉢合わせ、なんてありえるから、窓から出ていくしか無いわね。さて……」
窓へと近寄ると、外をそっと覗いてみた。
当然のことだが門に美鈴の姿はなく、代わりに立っているのは武装した妖精メイドだ。
さて、窓を開けようと取っ手に手をかけた瞬間、背後でドアの開く音がした。
「あれ、駄目ですよ幽香さん。あんまり動いちゃ、傷が開きます。まぁ窓をあけるぐらいなら良いとは思いますけどね」
壊れた人形のように首を動かすと、そこにはポットとカップの載ったトレイを持った美鈴が立っていた。
放り投げられたカップを時を止めて受け止め、離れた場所へと持っていく。
このカップを含めて、これで何個目だろうかと咲夜は数えた。カップ、ポット、枕、本……近くにある物を手当たり次第だ。
ベッドの上には、猫のように威嚇するレミリアが居た。咲夜を睨みつけるのは右目だけで、左目は眼帯が付けられている。時間が経てば治るとパチュリーは言うが、やはりその姿は痛々しい。
しかし、その右目は竦み上がるほどの怒りがたたえられていたる。邪魔が入ったせいで完全な決着を付けることが出来なかったという不満が、体全体から伝わってくるようだ。
物をほうり投げるだけで暴れださないのは、治療したパチュリーに悪いという意識があるからだろう。
咲夜はそれだけで安心していた。ひたすら滅茶苦茶に暴れまわったりしないだけ、マシである。
だがそれでも、レミリアの口をついて飛び出すのは、相手を普段より激しく罵る言葉ばかりだ。
「何で止めたのよ! あいつは私から美鈴を盗ろうとしたんだから! 殺されて当然じゃない!」
「駄目ですお嬢様。それは抑えてもらわないと、殺してしまっては美鈴が悲しみますよ。それはお嬢様の望むところではないはずです」
「じゃあどうしろって言うのよ!」
拳が毛布に叩きつけられ、ぼふんと間抜けな音が響いた。そのまま、ぼふんぼふんと繰り返す。
まぁこれぐらいなら良いかな、と咲夜がそれを見ていると、四回ノックが聞こえた。
「誰かしら?」と尋ねると、
「あ、私です。紅美鈴です。入ってもいいでしょうか?」
「お嬢様、どうされますか?」
「……好きにして良いわよ」
レミリアはそれだけ言うと手を止め、もぞもぞと毛布の中へと潜り込んでしまった。布団の上にポッコリ膨らんだそれは、ピクリとも動かない。
ドアを開けた美鈴は部屋の中を見渡して、主人の姿が見えないことに首をかしげた。
「あれ、お嬢様はどこに行かれたのですか? パチュリー様は絶対安静だと仰っていましたけど」
苦笑いを浮かべた咲夜が膨らみを指さすと、美鈴は納得したかのように笑顔を見せ、手近な椅子を持ち上げるとベッドへと近寄った。
刺激しないようにゆっくりと椅子を置き、それに腰を降ろす。膨らみがピクリと動いた。
「お嬢様、怒ってらっしゃいますか?」
美鈴の問い掛けに返事はなく、だが彼女は言葉を続けた。
「先ほど幽香さんにお会いして、また同じ事を言われました。良ければ、一緒に暮らしてみないか、とも」
今度は膨らみだけでなく、咲夜の体もかすかに動いた。だがその表情は変わらない。
美鈴は目を伏せ、一つ呼吸をすると、
「……お断りしてきました」
今度こそ膨らみがはっきりと動き、毛布を吹き飛ばしてレミリアが姿を表した。
右目をまんまると開き、呆けたように口が開いている。何を言っているんだこいつは、といった顔だ。
美鈴はバツが悪そうに頭をかくと、「えっとですね」と話を続けた。
「その、告白そのものは良いと思っちゃったんです。でも、ここを離れるかと聞かれたときに、変な話ですがそうじゃないと思っちゃって。嬉しいと思ったはずなんですけど、でも私はお嬢様たちから離れるなんて考えられなくて……」
次第にしどろもどろになり、泣きそうな顔へと変わっていく美鈴を、レミリアはグッと胸もとまで引き寄せた。
困惑する美鈴の頭を、レミリアは握りこぶしでグリグリとやり始めた。
「やっぱりさ、美鈴は私のものだよ。そういう意識がお前にもあるから断ったさ」
きゃいきゃいとはしゃぐ二人を見ながら、咲夜は一人溜息を吐いていた。
よく分かっていない二人が合わさるとこうなるものだ。貧乏くじを引いたのは、幽香ただ一人なのだろう。
今頃肩を落として帰っているであろうその姿を想像して、咲夜は胸の中で哀れんだ。
日傘をさして、それをクルリクルリと回しながら幽香は家路についていた。
その心は未練たっぷりである。断られはしたが、その理由がはっきりとしないのでは納得できるはずもない。
だがそれは、まだ入り込める余地があるということだった。
何も悲観するようなことではない。焦りすぎたか、と反省する部分はあるだろうが、諦めることはないのだ。
「さて、次はどうしようかな」
日傘をくるんくるんと回すその姿は、妙に楽しそうに見えるのだった。
このまま見ていたいという思いにも駆られますね。
悩ましいところです。
誤字報告を
一つ以外だったのは~
意外が以外になってしまっています
咲夜→おぜう→美鈴←幽香だから三角関係が二つあるからハッピーエンドに出来ると言えば出来るが
このままでもいい気がしたり
wktkしながら続きをお待ちしてますね