弱き魂を、迷える衆生を救う。
地蔵菩薩の掲げる目標が、ただのお題目ではないことを私は知っている。
この国が仏教を受容して間もない頃、隋や百済から海を渡ってきたのは観音たちだけでなく、多くの地蔵菩薩もいた。
まだ国家の制度も定まらず不安定な運営を続けるこの国の大王(おおきみ)や大連(おおむらじ)たちには目もくれず、彼らの気まぐれに苦しめられる民衆たちの元に駆け寄るその姿を、私は今でも覚えている。
あれは伊予と呼ばれる土地を訪れたときのこと。
戦乱の中、略奪で荒らされた寒村を訪れた私はひとつの気配を感じた。
私に興味があったのか、気配は私をつけてきた。おそらく私に気づかれていることを察知していたであろう相手は、森の奥でその姿を現した。
それが、あの妖怪との出会い。
仏教の伝来から五百余年。仏教は支配者のための存在であり続けた。
信仰を得られぬ身だった私たちの声は生者にはほとんど届かず、いたずらに時間を浪費するのみ。
そんなときだ、閻魔のなり手の募集があったのは。
私と同じく多くの地蔵菩薩が閻魔に志願したのも、無理もないことだろう。
閻魔になるということは、地蔵菩薩であるということとと大きく乖離(かいり)しているように見える。
だがそうではない。
彼岸の円滑化は輪廻のめぐりを正常たらしめる。ひとつの魂により多くの生がめぐってくるようになれば、それだけ輪廻のくびきを脱却して覚者となる可能性も増える。
それもまた、衆生を救うひとつの方法論。
私が閻魔になる覚悟を決めた頃、あの妖怪と再会した。
妖怪は相変わらずだった。争いを求めて各地をさすらい、そこに現れる刹那の美しさに酔いしれる。
しかしそのあり方自体を否定するつもりはない。
妖怪とは長き生を歩むもの。その中で刹那の輝きに価値を見出すのはごく自然のこと。
だからこそ自分には刹那の輝きもいらないと私は考える。
輪廻のくびきを外れたこの身はほぼ永遠。際限なき時間を持つものが自分のためにそれを浪費するのは滑稽だ。
幸運にも閻魔は二人での交代制。
ならばあまった時間は地蔵菩薩としての勧善に費やすとしよう。
どれだけの言葉が届き、どれだけの魂を救えるかの見通しも立たぬ無意味に等しい行動だが、それでかまわない。
妖怪もまた、私を否定しなかった。
私のことを理解はしなかったようだが、そのあり方はあり方だと苦笑をする。
ただ、その先にこう続けた。
輪廻や死後などに大きな価値はない。それよりも今を生き損なうことのほうが恐ろしいと。
妖怪はさらに続ける。
自分は他人に恐怖されることで存在としての在り様を示したい。相手が人間であろうと、妖怪や妖精であろうと、たとえ神であろうと変わらない。
それは私の価値観に真っ向から対するもの。
救いなどいらぬ、地獄などより現在こそが恐ろしいと笑う妖怪は、私に強烈な印象を残した。
風見幽香、花を操り、花のように生きることを望む妖怪の名前。
幾度かの出会いを経た頃、私の任地である幻想郷は外界と隔離された。
しばらくして、幻想郷ではある決闘のルールが制定される。それまでは当人同士で決めていたものに、ひとつの標準が生まれたといってもいい。
弾幕ルール。
この手段を用いて、私と風見幽香はたびたび相対した。
本当のことをいえば、別に勝敗など関係ない。
勝ったからといって自分の考えを押し付けるわけでもなく、負けたからといって考えを変えるわけでもない。
単に互いの立ち位置を確認して、自身を律しているだけにすぎない。
このようなことに頼ること自体、私にもまだ弱さがあるということなのだろう。
それはまた、風見幽香も同様であるに違いない。
しかしそれを口に出すことはお互いにしない。
私が風見幽香の対極に立ち、風見幽香が私の対極に立つ。
それだけで私たちは自分の道を歩むことができるのだから。
地蔵菩薩の掲げる目標が、ただのお題目ではないことを私は知っている。
この国が仏教を受容して間もない頃、隋や百済から海を渡ってきたのは観音たちだけでなく、多くの地蔵菩薩もいた。
まだ国家の制度も定まらず不安定な運営を続けるこの国の大王(おおきみ)や大連(おおむらじ)たちには目もくれず、彼らの気まぐれに苦しめられる民衆たちの元に駆け寄るその姿を、私は今でも覚えている。
あれは伊予と呼ばれる土地を訪れたときのこと。
戦乱の中、略奪で荒らされた寒村を訪れた私はひとつの気配を感じた。
私に興味があったのか、気配は私をつけてきた。おそらく私に気づかれていることを察知していたであろう相手は、森の奥でその姿を現した。
それが、あの妖怪との出会い。
仏教の伝来から五百余年。仏教は支配者のための存在であり続けた。
信仰を得られぬ身だった私たちの声は生者にはほとんど届かず、いたずらに時間を浪費するのみ。
そんなときだ、閻魔のなり手の募集があったのは。
私と同じく多くの地蔵菩薩が閻魔に志願したのも、無理もないことだろう。
閻魔になるということは、地蔵菩薩であるということとと大きく乖離(かいり)しているように見える。
だがそうではない。
彼岸の円滑化は輪廻のめぐりを正常たらしめる。ひとつの魂により多くの生がめぐってくるようになれば、それだけ輪廻のくびきを脱却して覚者となる可能性も増える。
それもまた、衆生を救うひとつの方法論。
私が閻魔になる覚悟を決めた頃、あの妖怪と再会した。
妖怪は相変わらずだった。争いを求めて各地をさすらい、そこに現れる刹那の美しさに酔いしれる。
しかしそのあり方自体を否定するつもりはない。
妖怪とは長き生を歩むもの。その中で刹那の輝きに価値を見出すのはごく自然のこと。
だからこそ自分には刹那の輝きもいらないと私は考える。
輪廻のくびきを外れたこの身はほぼ永遠。際限なき時間を持つものが自分のためにそれを浪費するのは滑稽だ。
幸運にも閻魔は二人での交代制。
ならばあまった時間は地蔵菩薩としての勧善に費やすとしよう。
どれだけの言葉が届き、どれだけの魂を救えるかの見通しも立たぬ無意味に等しい行動だが、それでかまわない。
妖怪もまた、私を否定しなかった。
私のことを理解はしなかったようだが、そのあり方はあり方だと苦笑をする。
ただ、その先にこう続けた。
輪廻や死後などに大きな価値はない。それよりも今を生き損なうことのほうが恐ろしいと。
妖怪はさらに続ける。
自分は他人に恐怖されることで存在としての在り様を示したい。相手が人間であろうと、妖怪や妖精であろうと、たとえ神であろうと変わらない。
それは私の価値観に真っ向から対するもの。
救いなどいらぬ、地獄などより現在こそが恐ろしいと笑う妖怪は、私に強烈な印象を残した。
風見幽香、花を操り、花のように生きることを望む妖怪の名前。
幾度かの出会いを経た頃、私の任地である幻想郷は外界と隔離された。
しばらくして、幻想郷ではある決闘のルールが制定される。それまでは当人同士で決めていたものに、ひとつの標準が生まれたといってもいい。
弾幕ルール。
この手段を用いて、私と風見幽香はたびたび相対した。
本当のことをいえば、別に勝敗など関係ない。
勝ったからといって自分の考えを押し付けるわけでもなく、負けたからといって考えを変えるわけでもない。
単に互いの立ち位置を確認して、自身を律しているだけにすぎない。
このようなことに頼ること自体、私にもまだ弱さがあるということなのだろう。
それはまた、風見幽香も同様であるに違いない。
しかしそれを口に出すことはお互いにしない。
私が風見幽香の対極に立ち、風見幽香が私の対極に立つ。
それだけで私たちは自分の道を歩むことができるのだから。
ちょっと理解出来なかったです、すいません
もうちょっと長いほうが良かったけど。
みんなに説教して回っている時の映季さまは地蔵菩薩モードだったんですね。
来世を思って自分を律するか、現世を精一杯味わいつくすか、あまり信心深くない自分は後者寄りの立場ですが、
永遠のテーマでしょうね。
正反対の二人だからこそ、2人がコンビを組んで事件を解決する話も読みたいです。
しかし、もうちょっと話を厚くしてもよかったかも。