迷子になった私は、あるはずの神社を探し続ける。
雨に濡れた髪が重い。パジャマもぐっしょりだ。
夜の暗さが心細い。そう感じる私に涙が出る。
こんなに私は情けないなら、神様になれるはずがないんだって悔しくなって。
神様になれないなら、大好きな人と過ごせる訳がないんだって哀しくなって。
ひとりぼっちの私は、泣きながら飛び続ける。
***
下駄の音がひとつ、ふたつ、みっつ、私に近付く。
目を瞑って、じっと待つ。まぶたの裏にある暗闇で、ふと思い出す私の悩み。
もしこのままでいたなら、文さんと一緒に生きられなくなるんじゃないだろうか?
今は考えている場合じゃない。不安を無理やり追い出す。変な顔でいたなら心配を掛けるだろうから。
目を瞑ったまま、じっと待つ。
小さな深呼吸がひとつ、ふたつ、みっつ、鼓膜に届いた。
両肩に柔らかな手が置かれる。軽く引き寄せられ、頬に啄ばむようなキス。
大きく私の心臓が跳ねた。頬に意識が集まり、体まで持ち上がるような浮揚感に包まれる。でも足は石畳についている、と思う。
「こんにちは、早苗」
目を開けば閑散とした境内に、文さんの姿が見える。
なんでもない風にしてるけど、手はぎゅっと握り締めて顔を真っ赤にして。それでも真っ直ぐ私を見てくれている。
真夏の太陽でいつもよりもっと輝いてる微笑みに、何かもう色々と溢れ出そうなものを我慢できなくなって、
「文さん、お久しぶりです」
渾身のベアハッグをお見舞いした。
「やめて早苗やめて! 顔埋めないでっ」
やめません。これは照れ屋さん用の罰なんです。一週間以上、放置された恨み辛みを思い知ればいいんです。
ああ、これぞ文さん。柑橘系の爽やかで甘い香り。これがないと生きていけないって分かる。困ったなー。
「ああもう」
両脇へ手を差し入れられた。ガムテープのつもりでくっついてたのに、あっさり引き剥がされる。幸せが遠い。
「まったく、貴方は手加減を知ってください」
”たかいたかい”をされるとは不覚だ。私は文さんの恋人であって、子供ではないのに。
文さんはやっぱり真っ赤で、肩で息をしてて、ゼーハーゼーハーに合わせて私が揺れる。
見下ろしながら詰問する。何か偉い立場になったような気分。
「何してたんですか。とっても寂しかったんですよ」
「色々と忙しかったんですよ。壊れた博麗神社の取材をしてきました」
言い聞かせるような口調だ。子供扱いされてる気分。
呼吸は落ち着いたようだ。もう大丈夫そうなので、濡れ羽色の髪を触る。光を浴びて少し温かい。
文さんはくすぐったそうに目を細めた。これだと撫で回したくなるのは当然だ。
「さらっと言いますけど、霊夢さんは無事なんでしょうか」
「無事だから号外も出してないのです。積もる話は中でしませんか。あと髪をいじるのをやめてください」
目一杯に腕を伸ばして遠ざけられた。でも前髪ならまだなんとか届く。
指に絡めてから零す。ひっかからずに流れ落ちた。いいなぁ。
「下ろしてくれたらやめます」
「下ろしたら抱きつきますよね」
「はい」
にらめっこが始まった。私の指は止まらない。
通常営業中の蝉はジイジイと大合唱だ。日差しはジリジリ肌を焼く。午後は暑くなるんだろうなー。
文さんの口から溜息が押し出された。静かに下ろされ、足裏に石畳の硬さを感じる。
「一回だけですからね」
「はい」
勝った。
文さんは深呼吸をひとつ。鋭い眼差しで私を見据えて、「では、どうぞ」の一言。腕は広げているけど、真剣勝負の雰囲気だ。まぁいいか。大手を振って抱きつけるのだ。気にしてはいられない。
「ありがとうございます。それと」
抱き締め、文さんの凹凸を全身で感じとる。
照れ屋さんだなー。全く姿勢が崩れないほどに強張ってる。緊張しすぎです。こんな文さんもかわいいけど、やっぱり力を抜いた柔らかさも欲しい。そして私は溶けるのだ。今でも溶けそうだけど。
「私からの挨拶です」
頬にキス。火傷したように体が跳ねた。離れて文さんを観察してみる。
あれだ、たこ焼き屋の看板に描かれてる、目がまん丸のタコ。驚いてる。
「えーっと、文さん?」
返事は来なさそうだ。やっておいて何だけど、私も恥ずかしくなってきた。
体中の血が顔に集まってきてる。無意味に足踏みしたくなる、この変な衝動。
「茶の間で待っててくださいね。お昼は素麺です」
何かしないと叫びだしそうだ。それも滅茶苦茶に。思いっきり裏手の土間へ駆け出した。
腕を振り回せば体が揺れ、足を動かせば視界がぶれ、がむしゃらに境内を走り続ける。
気付けば水がめの縁に手をついていた。横隔膜が全力で運転中だ。額の汗を流すついでに干乾びた喉を潤す。飲みきれない。噎せた。背中が丸まる。げへんがふん、乙女としてあるまじき咳が出て涙が滲む。これは苦しさからだけじゃない。
挨拶できたのは嬉しいけど、その後が悔しい。文さんを”初心”だなんて言えないかも知れない。駄々っ子になって地団太を踏みかけ、寸前で思いとどまる。私は風祝なのだ。それに乙女だからはしたない真似は慎むべきだ。少なくともそうありたい。
とにかく準備だ。まだ心臓は収まってないけど、その内、落ち着いてくれるはず。焚き付けを用意して、硬く捻った”文々。新聞”にマッチで火を点す。文さん、すみません。でも丁度いいんです。心の中で手を合わせる。
薪へ火を移している途中、茶の間から座布団を擦る音が聞こえた。気にはなるけれど振り向けない。顔を見たら思い出して、頭から湯気が出るに決まってる。
「それじゃ白状してもらいます。一体何をしてたんですか」
「そう急かさないで早苗」
文さんは鼻歌交じりで機嫌が良さそうだ。私も似たような感じで、鍋を火に掛ける手も軽やかになる。うっかりしたら、お玉で鼻歌に伴奏を付け始めそうだ。
戻しておいた椎茸の出汁に、醤油とみりんを加える。10:1:1の黄金比。でも漬け汁だから、やや濃い目に。
「鬼が山に来たんです。わざわざご足労なんて、勘弁して欲しいものですね」
文さんが包み隠さず……は無いか。ある程度教えてくれるのは、やっぱり嬉しい。私の知らない姿がちらちら見える。知らなかった部分がぴょこんと出てきて、また好きになる。困ったなー。際限がない。
「あんまり知りませんが、伊吹さんっていい人そうだと思うんですけど」
「下手な腹芸をしたなら、すぐさま目が三角になります。面倒な性格ですよ」
”文さんこそ”と思っても口には出さない。折角、話してくれてるんだから茶々は入れないようにしよう。
錦糸卵と胡瓜と茗荷を細切りの刑にしていく。まとめて軽くひねった素麺を、煮え立つ魔女の釜に投下。鍋だけど気分は大切だ。この不快指数メーターが振り切れてそうな熱気と湿気で挫折しそうなのだ。薫りたつ出汁が、私を少し慰めてくれている。
「文さん、お箸と食器、出してくれますか」
「ええ、これくらいはしないと罰を当てられますね」
山葵を摩り下ろし小皿へ映す。素麺を笊にあけて水で締める。背後から食器棚の開く音がした。
ここで抱きついたらやっぱりお皿が割れるんだろうなー、ぼんやり考える。
「あ、二柱を呼びますか?」
「それは大丈夫です。お二方とも外出なさっていますから」
素麺をガラスボウルに盛る。雪山の完成だ。手を拭って、いざ、ちゃぶ台へ。
上に四角い邪魔者がばら撒かれている。文さんは写真を検めていたようだ。
「あやや、すみません。今、片付けますね」
まとめられていく風景の中に、見慣れないものが見える。多分、建物だったんだろうけれど。
「それって神社ですか」
「ええ」
壊れたというよりも何というか、潰れた? ぺしゃんこだ。
木材置き場に瓦が被さっているような状態。
「そう言えば、うちの分社はどうなったか分かりますか」
「私としたことが。いえ、見てないです」
お見舞いついでに様子を見よう。
二人向き合い、ちゃぶ台に付く。いただきますの挨拶。合わせるように風鈴が慎ましく鳴った。
さぁ、ちゃぶ台に乗っかった雪山を攻略だ。ボウルに箸をいれ、持ち上げる。麺つゆに漬け込む。白は醤油の薄い黒と混ざった。一思いに
「ああ、そうでした」
文さんが何か言ってるけど、まずは素麺を啜りこむ。喉を滑り落ちる感触。夏だ。
視線を手元から正面に向ける。お箸は新たな素麺を求め、ガラスボウルへ向かう。
「一昨晩は何をしていたんですか」
やっぱり胡瓜にしよう。細切りの白みがかった緑を、麺つゆに漬け込む。
「それは乙女のプライベートですよ。文さんでも答えられません」
噛み応えを期待したんだけど、柔らかい。抵抗がない。味は塩辛いだけだ。頭の中にはサクサク胡瓜を噛んで、コツコツ歯が当たる音。
そこに捻じ込まれた、「私を見なさい、早苗」という声。語気に鋭さはない。素麺と同じほどの柔らかさ。だから尚更、目を合わせ辛い。誤魔化そうとした罪悪感が重みを増したせい。
それでも箸を置いて、顔を上げる。私が何をしたのか知ってる、って確信できたから。それならしっかり答えないといけない。
正面には予想通りの、紅くて柔らかくて優しい目があって、居心地の悪さときたら大変なものだ。腰を動かし、正座を組んだ足にもう一度落ち着かせる。逸らしたくなる視線を無理やり固定する。
「はっきり訊くんですね」
「早苗には、これが一番だと知りましたからね。もう勘違いはしたくないのです」
喉の奥で楽しそうに笑ってる。私をからかって遊ぶいつもの調子だ。
ほんとにいつも通りだから、私の悩み事まで、漬け物の出来不出来みたいに思えてくる。
「叱られるかと思いました」
「ええ、叱ります。あんな風の強い晩に飛ぶなんて死ぬ気ですか」
言葉は怒ってるけど、紅い目はやっぱり柔らかくて、梢を揺らす風のように優しくて爽やかなもの。
こんな人に心配かけるなんて。そんな申し訳なさが、針になって心を突付く。謝罪と感謝を込めて、「すみません」を真っ直ぐに言った。
「まったくですよ。貴方は神になるまで、と説教したいですけれど理由が先ですね。話してくれますか」
「はい」
迷惑かけっぱなしだ。
かじる音に啜る音、風鈴と蝉が居間を満たす。なんてことないお昼時だ。そんな中に、ぽつぽつと私の不安を挟んでいく。
文さんは頷いたり、「それで」と促したりするだけで静かに聞いてくれた。胃に素麺の収まる度、私の中で吹き荒れる風が穏やかになっていく。いただきましたを言う頃には凪になっていた。
「貴方達、人間は時として道を急ぎ過ぎます。だから転ぶのですよ」
食器を洗う私の背中に、呆れたような声が掛かる。「そういった点も面白いのですけどね」、そう小さく付け加えられた。振り向かなくても、どんな表情をしてるか分かる。きっと悪戯心が目元に小さく浮かんでいるはずだ。
でも私はそんなに急いでいるんだろうか。以前にも似たようなことを言われた。簡潔な一言、”焦ることはない”。
「二柱に相談はしたんですか」
すすぎ終えた食器を積み上げていく。油物が少ないせいで楽だ。
「いえ、私が勝手に悩んでいるだけですから、お手を煩わせるわけにはいきません」
「放任主義ですねぇ」、と呟きが耳に届く。何か違うような気がする。まだ相談してないんだから。
大きな溜息が聞こえた。今振り向いたら、柔らかい微笑みが見えるんだろう。そして私はもっと好きになる。
でも頼ってばかりも頼りない自分も嫌だから、食器の硬い表面を見続ける。
「早苗は我侭なのよ。年端も行かない少女だと自覚して、周りに気兼ねなく甘えなさい」
かちゃり、水切りかごの中で、小皿が軽い音を立てた。
何処かで鍵が掛かったような開いたような、そういう不思議な音だった。
***
私は母と歩いていた。
幼い頃のことだ。昼間の熱気が残る、アスファルトで舗装された帰り道。
視線の向こう、視線より少し高くから、紅くて大きくて怖い夕日が沈んでいく。
消え入る姿を見て”今日が終わるんだ”と知った。途端に喉の奥から”嫌だ”が込み上げる。
それでも隣に手を引いてくれる人がいたから、私は寂しさを蹴っ飛ばして笑顔になれた。
いつまでも、大切にしたい思い出だ。
ある日の広い境内に、私はひとりぼっちで立っていた。
残暑の熱気が残る地平線の上に、ぽつんと浮かぶ夕日。輪郭は揺れてぼやけている。
私の心もゆらゆら揺れて、輪郭がぼやけていって、溶けて崩れて流れ出しそうで。
何かに縋りつこうと周りを見渡しても、長く伸びていく影しか見えない。
縋れる何かも、頼れる誰かも全部捨てた。それを今になって寂しがるなんて我侭だ。
それでも泣き虫な私は我慢できなくて、喉が詰まって、肩が震えて、膝が折れて。
私は泣きじゃくる。
ある日の広い境内に、ひとりぼっちで泣いていた私を、優しい翼が抱き締めてくれた。
涙と鼻水でどろどろになった私の顔。袖で全部拭き取って、感謝の笑顔になれた。
優しい翼は安心したようで、やっぱり優しく微笑んでくれた。私はもっと笑顔になる。
いつまでも、大切にしたい思い出だ。
だけど、そうすると、これって。
私は一人でいられない?
私は昔と変わらない?
私は成長していない?
私は、このままでいいんだろうか?
いつか私は本物の神様になるのだ。そして敬愛する二柱にお仕えして、大好きな文さんと一緒に暮らすのだ。
こんな頼りないままじゃ、神様になんてなれないと思う。けれども「じゃあ、どうしたらいいんだろう」、っていくら考えても何も思い浮かばないままだ。修行して何とかなる気はしないし。
やだなー。ずっと悩みっぱなしだ。
背に感じるベッドは何処か不安定だ。ワニのぬいぐるみを抱き締める。それでも安心はできなくて。
このべたべたする粘っこい気分を晴らしたい。星空を見られたなら、ちょっとはましになると思う。でも外は風雨だ。ざあざあ、びょうびょう、ごとごと、カーテンの向こうから色んな音が部屋に駆け込んでくる。
――気性の荒い天狗が多いのよ。私達で幾らかは抑えられるけれど、限界もあるわ。
――異変の解決は人間の仕事。私達がでしゃばる事じゃあないよ。
私だって人間です。そう言うと押し留められた。”修行不足”に”慣れていない”のお言葉。
私って頼りないんだなー。こんなところでも思い知らされるなんて。
考えたら、また我慢できなくなった。喉が詰まって、肩が震えて。
がばり、ベッドの上で身を起こす。ぬいぐるみは隅の定位置に。
風、浴びよう。
ベッドから飛び降り、窓へ駆け寄る。カーテンを脇に払って……もどかしい。必要ないのに、何で鍵をかけたんだろう。やっと開いた。途端に吹き込む風と雨。髪も体も、それ以外の何かも吹き飛ばしてくれそうで……駄目だ。部屋が大変になる。窓枠に手と足を掛けて屋根へ下りる。ちょっと擦ったけど気にしてられない。窓を後ろ手に閉め、
何もかも洗い流してくれそうな激しい風雨と、何もかも呑みこんでくれそうな暗い夜空に向かって、飛んだ。
***
夏本番の到来だ。
吹き渡る風で木々が擦れた。ざわめく音は潮騒に聞こえる。どこまでも続く空は海原。
これでもかって言うような快晴の中を、文さんと一緒に泳ぎ続ける。
波にも見える森の中に赤い岩礁が見えてきた。博麗神社の鳥居だ。
鳥居? 倒れてない? とりあえず神社へ。高度を下げていけば、光を照り返す屋根が見えてきた。
隅っこに蔵が建ってる。特に何処か壊れたような様子がない。その手前には赤い……野点傘?
場違いな感じだけれど、ビーチパラソルよりましか。とりあえずの目標に定め、十歩ほどの間を空けて降りる。
「霊夢さん、こんにちは」
やっぱりいた。傘が作る影の下、背もたれ付きの椅子に腰掛ける、いつもと変わらぬ巫女装束。
「早苗?」
訪ねる度に見かける、日向ぼっこしてる時の表情。こうなると椅子が縁側に見えてくるから不思議だ。
テーブルの上では、湯呑みが落ち着き払った居住まいをしている。持ち主に似たんだろうか。
「と、何。あんたまた来たの。写真なら撮ったでしょ」
訝しげな視線を向けた先で、土埃を舞い上がらせる羽ばたき。文さん煙いです。
「あらら、歓迎されてないわね。今日はお見舞いよ。助け合いは大切でしょう?」
ほら、と文さんが掲げた荷物。中身はタオルとか食器とか、うちの倉庫から引っ張り出してきた貰い物だ。
それにしても、崩した口調で話しかけられる霊夢さんが妬ましい。私との違いはどこにあるんだろうか。
「妖怪の口からそんな言葉が出るなんてね」
「好意は素直に受け取るものですよ、人間」
じゃれあいなんだろうな、とは分かる。
私もじゃれあいたい。主にスキンシップで。そして文さんは悶える。
「笑いに来たって言われた方が、まだ納得できるわよ」
「他所様の不幸を笑いなんてしません。飯のタネなんですから」
でも二人を止める頃合なんだろう。文さんは楽しそうだけど、霊夢さんの目が険しくなっていく。
「西瓜の差し入れです。よかったらどうぞ。それに胡瓜とか鮎の干物とか。こっちは晩にでも」
「そういうことなら、ありがたくもらうわね」
何もなかったように、ふにゃっと笑う様はかわいいと思う。気紛れな猫のような。
「今切るから座って待ってなさい。何ならお賽銭いれていってもいいのよ」
指し示された先、元本殿らしき残骸の前に佇む賽銭箱。侘び寂びを感じる。
御神体が見当たらなくても、おろそかにはできない。小銭を投げ入れ、拝する。
そういえば文さんは? 見渡せば、転がる瓦や柱に向かって無心にシャッターを切る姿を発見した。何かの記事にするんだろうか。それはそれとして。霊夢さんは……俎板代わりらしい木材を前に陣取っている。
「分社を見てきますね」
「特に何も起きてないわよ。心配になるのは分かるけど」
まぁそうなんだと思う。地震で壊れるほどに大きくも重くもない。
声を背中に受けて歩き出す。砂埃を踏む度に、ぎしぎしと音がする。強い日差しが朝から乾燥させていたんだろう。鳥居を潜って脇の小道へ。踏みしめる感触が、ざらつく砂から土の柔らかさにかわった。木陰に入ると、額から汗が引いていく。涼しさを感じながら十歩も進めば到着。
言う通り、予想通りに鳥居や蔵と同じで何も変わりがない。少しくらいは、ずれるなり歪むなりしてるかと思ったけど不思議だ。跳ねるはずの踏み込んだ水溜りに、何も起きなかった感じ。標的は神社だけだったって聞いてはいたけれど、こう目の前にすると”異変”というものを考えずにはいられない。
神奈子様が仰るには”祭り”。
諏訪子様は”遊び”。
文さんなら”ネタ”。
霊夢さんにとっては”仕事”。
今回の天人は”暇つぶし”だとかなんとか。
分からない。噂や宴席で聞いた分だけなら、今まで起きた異変はどれもこれも大災害だ。
それを呑んで笑い飛ばす、幻想郷に住む人妖達の感覚。今更だけど本当に不思議だ。常識が通用しないのは分かってたつもりでも、やっぱりどこかしら私は納得できていない。ここでの常識を信じきれていない。
学友達を思い出す。小学校の頃は何もなかった。普通に笑って楽しんで、いい思い出だ。
中学、高校と進むにつれて、作法の習得や修行に明け暮れる私と、周りとの差は開いていった。”そう言えば”と切り出される、主流から少し外れた話題に私はついていけない。口を噤む私を見て、友人達は慌てて話を切り替えてくれた。続けてくれればいいのに申し訳ない。
この疎外感は、何処か似ている。
ああ、まただ。こんなことで悩んでる暇はないのに。今は”頼りない私”で精一杯なのに。
泣いたら駄目だ。これ以上、情けなくなったら私が許せなくなる。考えていないで戻ろう。
覚束ない足取りで分社を後にする。土から石畳へ踏み出すと、確かな硬さに少しほっとした。
テーブルに戻れば、文さんも霊夢さんも席についていた。西瓜に巫女装束に野点傘と赤尽くしだ。
「遅かったわね。先に食べてるわよ」
気付かれないか心配だったけど、大丈夫なようだ。返事をして椅子を引く。
しばらく、さくりさくり西瓜をかじる音と蝉だけが、真夏の空気を振るわせた。
ふと疑問が浮かび上がる。
「霊夢さん」
口をもにょもにょさせている。目は宙を睨みつけたまま。見ていると、形のいい唇から種の弾幕が撃ち出された。傍らに降り注ぐ黒い雨。
「何」と言いざま、もうひとかじり。聞いてくれるようだ。
「こんなことになりましたけど怒ってないんですか。犯人は天人の方だって聞きましたが」
答えは、んー、と悩む唸り声にしかめられた眉。口はやっぱり動き続けていて、止まり、再び発射された。
「まぁ怒ってるかな。天子、その天人のことだけど、『見取り図はできたから、今日は帰るわね』って昼前に仕事終わらせるし」
「悠長なもんですねぇ。一夜で再建したとかならネタにもなるのですが、これではつまらないです」
霊夢さんは暢気な様子。食べ終わった文さんは、文花帖に何かを書き付けている。
どこかずれてるような。私の方だろうか。違うと思うんだけれど。
「神社が壊されたことは平気なんですか」
「あー、それ? とっちめたし、建て直す約束はさせたし、もういいわよ」
「でも今回は霊夢さん自身に被害が出たんですよ」
「たまたま私だったってだけね」
さも当然のように受け入れている顔と声。「今日は晴れてるわね」って言われた気がした。
目が痛いほどに晴れてはいるけれど、私の疑問には霧がかかっている。
「何か納得いかなさそうね。異変の度に引きずるのは面倒、ってこともあるのよ」
そして西瓜をもう一口。底の白い部分が見え始めた。
そんなに割り切れるものなんだろうか。私だったらもっと落ち込むとかしてそうだけど。もしかして私はねちっこいんだろうか。そうかも知れない。少なくとも、文さんに一日中ひっついてても飽きる気がしない。ひっつき虫だ。でもそれは文さんだからか。
霊夢さんにとっての神社はどういう位置づけだったんだろう。どうって言っても、大切な住処だってことは疑いようがないわけで。縁側なんか特にお気に入りだったようだし。
「早苗、熱い視線を送られても困るわよ」
「あ、すみません」
霊夢さんが戸惑っている。珍しいかも知れない。少しかわいい。
「霊夢さんは所有物に関して淡白ですからねぇ。所有されたいという欲求は一人前のようですが」
ぼそりと呟かれる一言。
「何が言いたいわけ」
「言葉通りですよ」
かんかん照りを遮る傘の下、急に熱気がこもりだした。視線を戦わせる二人を見続けたら汗をかきそうだ。いたたまれない。こんな雰囲気に浸かりたくはないし仲裁しようか。そもそも原因は私だ。
不意に霊夢さんの口端に、ふっ、と余裕の微笑が見えた。そして顔を私の方へ……私?
「教育係が嫉妬深い鴉なんて早苗も苦労するわね。どこまで教えてもらったのかしら。例えば
「分かりました手打ちをしませんか。霊夢さん、ちょっとこちらへ」
文さんの椅子が派手に倒れた。話が早いわね、と霊夢さんが鷹揚に立ち上がる。微笑は崩さないままだ。
二人が離れていく。狛犬の影で相談し始めたようだ。
それにしても教えてもらうって、色々あったからどこまでって言われても……ああ、納得だ。照れ屋さんだなー。でもどちらかと言えば、私が教える方かも知れない。文さん、私はいつでもウェルカムです。待ってますよ。
とりあえず解決しそうだから西瓜食べよう。
甘い果肉を噛みながら考える、”淡白”という言葉。霊夢さんが言った”引きずるのは面倒”ということに、それぞれの持つ異変への見方について。
なるほど、”弾幕ごっこ”って言葉からして遊びだ。”遊び”で目くじらを立てるのは大人げないし、つまらない。なんとなく分かる。
だとしたら私は遊べてるんだろうか。違うんだろうなぁ。霊夢さんの平然とした様子が、不思議でたまらなかったんだから。大人に”どうして?”を言い続ける子供みたいだ。
そもそも私は遊びたいんだろうか? ひとりぼっちは寂しい。だからといって遊んで紛らわせるのは、誰かに縋りつくのと一緒で
「物足りなさそうに皮見つめて、何してるの」
「あ、はい。少し考え事をしてました」
いつの間にか食べ終わってたけれど、私は種をどうしたんだろうか。盲腸になる? 不安だ。
椅子に落ち着く二人。霊夢さんはほくほく顔で、文さんは……後で慰めよう。嫉妬してくれたのは嬉しいけれど責任を感じる。こんなに独占欲強かったっけ? やっぱり久しぶりだからかなー。霊夢さん、とばっちりが行ってすみません。
「教育係、早苗がさっきから何悩んでるのか説明して」
「引っ張るわね。大体興味なんかないでしょう」
文さんが拗ねている。口を尖らせて聞かん坊だ。猛烈に頭を撫でたい。でも我慢だ。
「私は冷血漢じゃないわよ。景気悪い顔されたら、お節介のひとつも焼きたくなるでしょ」
それにこれ美味しいから、そう言って西瓜をもう一切れ手に取った。
「だそうですよ。早苗はどうしたいですか」
拗ねていた風もどこかに消えて、軽い調子でこちらに向いた。けれども見つめる目は優しくて、「気兼ねなく甘えなさい」と言ってくれたことを思い出す。あの時もきっとこんな風に子供扱いしていたんだろう。思った通りだ。また好きになった。でも抱きつくのは霊夢さんの目があるから我慢するとして。
今日の頼りない私は迷惑かけてばかりだけれど、ありがたく甘えさせてもらおう。文さんに相談して気の軽くなった私は、少し素直になれたのかも知れない。
凪を淀ませる不安を吐き出す。
「……あんまり情けない私に嫌気が差すんです」
一通り話し終えると、霊夢さんは皮を捨てに行った。鎮守の森に対して、それはどうなんだろう。
「まぁ馴染んだとは思ってなかったけどね」
戻り、湯呑みを手にして呟いた。遠くを眺める横顔は大人びている。
つられてそちらへ目を向けた。夏の太陽はまだ高いけれど、空の茜に染まる時間が近い。入道雲の照り返す光が弱まってきている。
「早苗、私と弾幕ごっこしない?」
「何故ですか」
唐突な言葉に戸惑った。
「ただの気晴らし。どうする」
いきなり言われても困る。
吸い込まれそうなほどに深い、黒の瞳が私を見つめている。感情は読み取れなくて、何もないと言われれば、そのまま納得できそうな眼差しだ。表情はいつものふわふわしてつかみ所のないもの。
今の話と何の関係があるんだろう。単純に、私が思いつめてるように見えたんだろうか。
「私は見たいです。二人の組み合わせは、秋以来見てないですからね」
文さんからの言葉は後押しなんだろうか。言われて見ればその通りで、顔見世の宴会で二、三度したっきりだ。
問題は私が遊びたいかどうかだけれど、やる必要はないかなぁ。気晴らしなら相談で済んだ気がする。
「何でそんなに悩むのよ。文、あんたは早苗とやりあうことってよくあるの」
文さんはくるりと目を回して思案顔。
「そうはないです。一番最近のものは春先」
宙を睨んでいた視線が霊夢さんに落ちる。
「は違うか。大寒ごろの一回が最後ですね」
”文さんを新聞から取り戻せ大作戦”だ。一週間も私を放置した文さんに「新聞or私」を突きつけたのだ。負けて枕を濡らしたことはよく覚えている。けれど要求されて焼いたクッキーを、笑顔で食べてくれたから満足した。
今回の空白期間は話を聞いてもらったから帳消しにします。むしろキスだけでお釣りが出ました。文さん、ありがとうございます。
「文でそれってことは、早苗、もしかしてスペルカードほとんど使ってないの」
目を眇めて覗き込まれると怯んでしまう。宿題を忘れて叱られている気分だ。
「そうですねー。冬辺りまでは物珍しさで挑まれましたが、近頃は全然です」
「挑む挑まれるじゃなくて、暇つぶしでもちょっとした遊びでもよ」
それははっきりしてる。
「ありませんね」
霊夢さんは呆気に取られた表情だ。続いて溜息、肺から息を出し切るつもりだろうか。
終われば、キッと文さんを睨みつけた。私の掛ける迷惑が拡大していってる雰囲気だ。どうしよう。
「教育係、ほんと何してんのよ」
「失礼ですね。私は私なりにやってます。それに干渉し過ぎるのもよくないでしょう。霊夢さんこそらしくない」
あー、そうね、と気の抜けた声を出して霊夢さんが俯いた。
よくわからない展開だけれど、とりあえず。
「ええと、弾幕ごっこどうしましょうか。私のためにって考えていただけたようですから、否やはありませんけど」
「いいわ。するまでもないみたいだし、あんたも特にやりたいわけじゃないんでしょ」
「それはまぁ、そうですね」
これといった理由は結局見つからないままだ。積極的に動きたいと思える気分ではない。
「じゃ、ひとつだけ言っとく」
湯飲みから一口啜り、ぽつんと呟いた。やっぱり目は宙に向けられている。瞳の奥に広がる果てしなさは、空とそのまま続いているように思える。
今度はつられないまま見ていたはずなのに、いつの間にか視線が私と交わっていた。
「あんたは何処かで一歩引いてるのよ」
静かな言葉が私に届く。
「それって勘ですか」
「違うわ。確信」
お見舞いのお礼はこれ、そう言ってお茶を口に含んだ。
ことり、湯呑みが立てた音は持ち主と似て、落ち着いたものだった。
***
ずぶ濡れのパジャマが肌にへばり着く。重さを引きずり、闇雲に飛び続ける。
疲れが溜まり、体まで重い。もしかしたら眩暈もしているかも知れないけれど、風景すら見えない視界では分からない。感じるだるさは身を蝕んで、いつしか”これが普通だ”と思い始める。
そうした奇妙な慣れを、”余裕が出来たんだ”と、霞む頭は勘違いした。相も変わらず震える喉へ、欠片ほどの怒りが芽生える。
迷子になって泣くなんて、お前は何歳のつもりなんだ。幼稚園児みたいに泣くだけで、ただ求めるだけなんて許されない。こんな私が、お二方にお仕えするというのか。未熟さを吹き飛ばすために飛び出たのに。そして何より、文さんと生きるためなのに。
怒りに克己心という燃料が注がれた。頭の中にある本棚をひっくり返して、打開策を手当たり次第に探し始める。
神社は諦めて里へ向かう? 山さえ見えない闇夜だ。どっちを向いてるかも分からないのに、辿り着けるはずがない。
地表に降りて道を探す? イカ墨で煮染めたような暗さの森だ。迷うだけに決まってる。これも無理。
それでも、いっそ野営とか? 飛んでるだけで精一杯なのに、寝たら起き上がれなくなりそう。そこで狼や妖怪に襲われたら……やめよう。降りること自体が無茶だ。
けれども飛び続けていたら私が駄目になる。立ち止まっているだけでも、風をいなすための力に体力を奪われる。神奈子様にお借りしている分まで尽きそうで。
忘れてた。神奈子様だ。この天気を鎮めようとお努めなさっている。風だ。嵐を束ねようと吹く風があるはずだ。探って見つけられたなら、見つけて辿れたなら戻れるはずだ。私は帰れる。
すみません神奈子様。早苗は情けない風祝です。お仕えする光栄に浴するなんて出来ません。でも今一度、その御力に縋らせてください。どうかお願いします。御尊顔を拝見したいんです。「ただいま」って言いたいんです。「おかえり」って言われたいんです。どうか、どうか。
風
優しい風。穏やかな風。いつも私を守り続けてくれた風。見つけた。神奈子様だ。
胡麻粒くらいに残っていた理性は、迷子の心細さに消し飛ばされた。
たっぷり雨を吸い込み膨張した本能が、風を手繰って体を前に推し進める。
軽い
吹き付ける勢いが急に消えた。力が空転する。たたらを踏んだ。毛布のような質感に包まれる。
ああ、神奈子様の風があったからだ。
安心から気の抜けた頭が、理由に思い至った。安心から力の抜けた体が、森に落ちていく。
***
暮れなずむ空の中、文さんと並び飛ぶ。
「悩んでますね」
「悩んでます」
”一歩引いている”、霊夢さんの言葉が私に食い込んだままだ。
信仰は、畏れ敬われてこそだと常々考えている。けれども、それだけではついて来ない。外の世界で感じた”失われていく感覚”はよく覚えている。神々が日常に坐すことを忘れられ、徐々に敬遠されていくものだ。斜陽という単語がぴったり当てはまる。
信仰は、身近に意識されてこそだ。それどころか、日常の無意識な行動にすら映し出されてあって欲しい。言葉一つを取ってもそうだ。”いただきます”や”桑原”を例に出すまでもない。神々は傍にいる。忘れないで欲しかったけれど、私達は忘れられ、忘れられたものが住まう幻想郷に越してきた。
身近に在りたい。日々を共に過ごしたい。いつも念頭に置いてきたことだ。布教するにも、近所付き合いするにも、”一歩引く”なんてとんでもない。
けれども私の思いは、
「文さんは」
独りよがりだったんだろうか。
「私に距離を感じますか」
視線を上げて文さんへ向ける。遠い。半畳はある翼に合わせて取った距離。隣とはいえない遠さだ。
寂しい。急に心細くなって縋りつきたくなった。でも、こんなことで迷惑かけたらいけない。私は強くならなくちゃ駄目だから。こらえて、じっと待つ。
文さんの羽ばたき方は妙に大人しい。何だかいつもとは違う静けさがある。夕焼けに溶け込みそうな穏やかさだ。はたてさんのゆったりした飛び方が思い出される。
目は正面に据えられたまま、口が開いた。
「ええ」
息が詰まる。心臓が縮み上がる。思わず手を握った。
”もしかして”と覚悟したつもりだったけれど、”つもり”のままで終わった。何の役にも立たない。ただのはりぼてだ。
「おや、不満そうですねぇ」
私をいじめてるんだろう。向けられた目は楽しげで、口元はいじわるそうに吊り上がっている。
「不満じゃなくて、泣きそうなんです」
「それは結構です。貴方が素直で安心しました」
キンと耳鳴りがする。視界が滲み出した。泣きそうじゃなくて、もう泣いてるかも知れない。
近しいはずの恋人にまでそんな風に思われてるなんて、私は駄目駄目だ。こんな私は神様になれるわけがなくて
「目を瞑ってください」
「はい?」
混乱したせいで涙が引っ込んだ。いきなり何だろう。
文さんがますますいじわるそうになった。頬が持ち上がってる。
「目を瞑ってください。元気になれるお呪いをしてあげます。天狗のものですから効果覿面ですよ」
「よく分かりませんが、分かりました」
とりあえず目は閉じたけれど、胡散臭い。そんなもの、された覚えも見た覚えもない。”修験道は天狗が発祥”だとか聞いた気がするけれど、それに関係するんだろうか。けど文さん、全然話してくれないしなぁ。さっぱりだ。
あれかな。頬にキス。うん、それは確実に元気になれます。私への特効薬です。でも飛んだままだと近寄れないし難し
「ふぁうっ」
落ちる。
「あやさん」
景色が流れる。
乗っかられた?
「文さんっ」
声でた。
「落ち着いて。私の風に乗れば問題ないです」
囁き。文さんの風。包まれた。
「いやぁ初デートの仕返しが出来ましたねぇ。早苗の驚きよう、写真に残しておきたくなるほどでした」
「ひどいですっ」
体全体で感じた重力。風も何も消えて、思い出したように体が地面へ引かれた。”死ぬ”も何も考えられなくて、ただ腕を振り回して叫ぶしか出来ないなんて。合わせて汗腺が全開になっていた。じっとり背中が汗ばんでいく。ついでに全身の血は逆流していて、”総毛立つ”っていうのはこういうことだ。肝試しやホラー映画なんて目じゃないほどに緊張した。
「お相子ですよ。お呪いは効いたでしょう」
言う通りだ。落下する勢いで、沈んだ気分は振り落とされた。悔しいけど何も言えない。原因を睨み付けたくても、首は真後ろに向けられない。
つと文さんの腕が胴にまわされた。密着して知る、トクントクン落ち着いた鼓動。私のドキドキが溶け合って、少しづつ収まっていく。
「早苗、昼間に私が言ったことは考えてくれましたか」
「それは、一応」
どうしても応えが濁ってしまう。驚かされた憤りは、ちょっとやそっとじゃ消えはしない。
でも考えたのは本当で、私が悩む理由のひとつだ。我侭なのは自覚はしているし直そうとも思った。文さんにも伝えてある。今更どうして確かめられるんだろう。
「もっと早く気付くべきでした。霊夢さんの言ったことは、私にも当てはまります。傍観者として早苗を見守ろうとあり続けてしまいました。恋人である以上、不可能だというのに私としたことが。もう遠慮はしません」
腕に力が込められ、胴が締まる。きつくて、でも苦しくなる手前の強さ。文さんの体温が、一層染みて安らいでいく。
「貴方達、人間は弱い。何かに縋らないと生きていけない。里がいい証拠です。それなのに急ごうとする。だから転ぶのですよ。殊に早苗、貴方は意地っ張りで弱さを隠そうとする。転んでも傷を頑ななまでに見せようとしない」
茜の空を飛び続ける。昼間の熱が籠った空気に、ふわり溶け行く優しい声音。
耳へ入るままに素直な気持ちで聞ける。けれども何を言おうとしてるんだろう。
「早苗、私に」
柔らかな声に芯が通った。
「『助けて』って言って」
耳元で囁かれた。それでも風の音に混じることはなくて。
「私を頼って。私に心配させないで」
じわり、言葉が染みていく。恋人の鼓動と一緒に皮膚を通じて、血管を通って、心臓を通して、体全体に運ばれる。
「早苗は我侭なのよ。ひとりで無理をして抱え込む。身の程をわきまえなさい」
指先を巡って、爪先に届いて、頭を溢れさせていく。
「早苗が風の晩に外へ出ていた、って使い魔から聞かされた時、私がどう思ったか分かる? 『また無茶をしたな』? 違うわよ。『早苗は無事?』、それだけ。そう私が詰め寄ったら、あの子、ギャァギャァ鳴き叫んだのよ。『怖い』って」
頭は文さんの言葉と気持ちで一杯になって、それ以外の何かが目から押し出される。
「お願い早苗、私に『助けて』って言って。もうあんな思いをするのは御免よ」
喉が詰まって肩が震える。喉から勝手に音が漏れ出る。やっぱり私は泣き虫だ。
首は真後ろに向けられない。それがありがたい。こんな顔は見せたくないから。
「変わりませんねぇ。貴方はずっと泣いている」
真夏の熱気が残る地平線の上に、ぽつんと浮かぶ夕日。輪郭は揺れてぼやけている。
私の心もゆらゆら揺れて、輪郭がぼやけていって、溶けて崩れて流れ出しそうで。
そんな私を、抱きとめてくれる人がいる。文さん、心配掛けて、ごめんなさい。
「変わりましたよ。私は嬉しくて泣いているんです」
ひょうひょうと恋人の優しい風が、私の心を洗い流していく。
***
体は痛いし気力が根こそぎ消え失せた。もう飛べない。空にでないと風が分からないのに。
森は暗い。目を開けても閉じても変わらない。このまま寝てしまおうか。でも食べられるのはやだなぁ。仏様じゃあるまいし。それに私は文さんと生きていくのだ。大人しく餌になんてなってやるもんか。
なりたくないけど、腕あがらない。体は寝転がったきりで、背中に敷いた根っこが痛い。私は駄目なのかも知れない。文さん、会いたいです。
――嗚呼。
鴉の鳴き声。今にも千切れそうな程に幽かだったけれど、擦れ合う枝の音に混じって確かに聞こえた。
朦朧としていた意識が叩き起こされる。痺れた体を無理やり起こし、吹き荒らされる夜へ耳を澄ませた。何かに縋ることも、誰かに頼ることも嫌だなんて思いながらこの様だ。泥と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔が、今はもっと酷くなっているんだろう。百年の恋だって冷めるかも知れない。文さんに会いたいなんて思った私が馬鹿だった。
――嗚呼。
もうひとつ。
身構えていたせいだろう、方向が分かる。腕を突き出して、前を探りながら歩き出す。
向かったところでどうなるんだ。鴉に訊ねるつもりか。「夜分恐れ入ります。神社はどちらにあるか教えてもらえませんか」。大体、夜に混じった鴉を見つけられるはずはないのに。よしんば会えたとしても鴉語なんて分からない。この風雨の中を道案内なんて、お願いできやしない。小さな体は瞬きする間もなく、風に攫われ消えるだろう。
でも近付きたい。鴉は文さんを思い出させてくれる。それだけで足を動かす気力が戻る。
――嗚呼。
ありがとうございます。戻れたらクッキーを焼こう。文さんに聞けば何処の鴉だったかは、きっと分かるはず。
もう一歩。摺り足が何かに引っかかった。べしょ、倒れこみ情けない音を立てる。けれど大丈夫だ。私は動ける。
上げた顔の先に光が見えた。何かに遮られるのか、跳ねるたびに見え隠れする。鬼火というものだろうか。眺める内に近付いてくる。灯りに照らされ、周りの木が夜に浮かび上がる。ようやくここが森だと実感できた。
鬼火は更に近く、もっと近くへ……諏訪子様?
「ああ、いたいた。触れ回っておいてよかったよ」
ぱしゃり、水を跳ね上げ目の前に着地した。
カンテラの中で火が小さく燃えている。
「夜歩きなんて感心しないね。それとも夜飛びかな」
本当に諏訪子様だ。
「口は利けるかい」
灯りをかざして覗きこまれる。
私は伏せたままだ。こんな失礼したくないのに、もう動けない。粘つく口をこじ開けて、震える「はい」を絞り出す。”ありがとうございます”も”すみません”も言いきれる気がしなかったから。
よし、と諏訪子様が頷いた。
「さて、帰ろうか。あんまり待たせたら、あいつが狂い死にしそうだ」
それはそれで見物だろうけどねぇ、呟き忍び笑いをなさった。
お気持ちは察せられるけれど私は見たくない。きっと身も世もあらぬ態で体を振り回し、喉も裂けよとばかりに咆哮し、その気迫に大気は鳴動するのだ。疲れ切った頭にぽかんと浮かんだ想像で、私の顔が少し緩んだ。
「どれ、掴まるくらいは出来るだろう」
説教はあいつから受けな、そう仰りながら私を背負った。
泥だらけのパジャマが急に意識された。申し訳なさに体がむずがる。反面、腕はお体に回ってしがみ付いた。落ち着ける優しい背中だ。離れたくない。
「たった一昔程前のことなのに、この感じ、懐かしいねぇ」
諏訪子様の体温で、パジャマがじんわり温まる。
私の意識はちゃぷんちゃぷんと揺れて沈んで。
「おかえり、早苗」
何処かで声がした。
***
甘えさせてください、と私は言った。そして今。
「速過ぎますっ」
「思いっきりと注文したのは貴方でしょう。苦情は受け付けませんよ」
体に当たる風を強引に捻じ曲げ、それでも防ぎきれずに前髪が押し付けられる。鬱陶しくなって払うと、一瞬、後に引っ張られた感じまでした。襟元にも吹き込むせいで、裾の動きが忙しない。
「いつもこんな風に飛んでるんですか」
「滅多にないです。存分に遊覧をお楽しみくださいね」
これで遊覧になるのかなぁ。眼下を流れる景色は溶きすぎた水彩絵の具だ。夕日に染まった画用紙の上で、濃淡もはっきりしない緑と、ぽつぽつ見える茶色が交じり合う。多分、季節の花もあるんだろうけど見分けがつかない。
空はといえば……なんかあれはもう目の前に。
「文さん木が!」
ごう、と脇を過ぎ去る。死ぬかと思った。振り返れば、風に煽られて幹まで揺れてる様子が見える。ジェットコースターだってもうちょっと余裕があったはずだ。
「心配性ですねぇ。ぶつかるようなヘマはしませんよ」
絶対にです、小声と共に、抱き締めてくれる腕に力を感じた。
お腹の前で組まれた前腕に、指で触れる。柔らかい。
「好評のようですから、おまけをつけましょう」
嫌な予感がする。録でもないことを企んでいる声音だ。
「ぶつからなくても、びっくりして死ぬことだってありますよ。念のため」
「ええ、肝が据わってない人間ならそうでしょうね。舌を噛まないように注意してください」
そう言われても困ります。何を言っても聞いてくれないんだろうなぁ。諦めも大切だ。
急上昇。血が足の方へ押し付けられる。体の中を移動する音まで聞こえてきそうだ。
空を駆け上がって、高く高く、まだ高く。やっと止まった。ほんとに高い。山から森を含んで平野まで、すっかり一望できる。こうなると、流れるだけだった水彩絵の具に、きっちり色と輪郭がついた。ぽこぽこ盛り上がった景色は、むしろ油絵になっている。綺麗。
「それでは」
変な溜め具合。焦らしているつもりですか。やめてください。これから何が起きるかなんて、もう十分過ぎるほど分かりました。分かってしまいました。満足しましたから途中下車させて欲しいなー、なんて。無理ですね。それも分かってます。
「行きましょうか」
急降下。垂直だ。巡っていた血がまた足へ。でも上下は逆。
これは絶叫するシーンだ。遠慮なく絶叫だ。文さんの耳をつんざいてやる。私なりの抵抗を喰らえ。
全身を打ち続ける空気の塊。耳元で唸りを上げる轟音は、形をもったように私を叩く。これでも文さんが風を曲げているんだろう。今の私に叫ぶ以外の余裕なんかない。
肺を絞り上げて声を吐ききった。吸い込んで、もう一度。
「元気ですねぇ」
ほっといてください。貴方のせいなんです。喉がちょっと痛くなってきた。でも余裕は出来てきたかも。周りを見渡す。
遠くの景色は流れ続ける。でも真下……真上? に見える木はしっかりしたままで。見る見るうちに大きくなって。近付く。近い。
「ぐぅっ」
苦しい。下へ引っ張られる力。文さんの腕にお腹が押し付けられる。平衡感覚が混乱してる。垂直から斜めに、斜めから水平に。息できるようになった。まだ叫んでやる。
横殴りの力。また変な呻き声が出た。聞こえてないならいいけれど。水平が傾いた。落ちて落ちて……白と紅の光。河? 夕日を跳ね返してる?
「水浴びはしませんよ」
風に負けじと大きな声。当たり前です。この調子で水に突っ込まれたら大変です。でも近い。水面触れそう。
河は右に左に曲がってうねって、その度に、私達もうねって曲がって体が揺れる。揺さぶられる。
風に混じる滝の音。でも見えない。どこだろう。ああ、そうか。後だ。河が捲れてる。通った跡に波がある。波どころじゃない壁がある。泡を含んだ大きな波頭。煌き崩れて夕日を映す。
「やっと笑いましたね。明るい笑い声を聞くのは一週間ぶりです」
悔しいなぁ。叫び続けるつもりでも、これだと笑って笑って笑うしかない。お腹の底から湧き出て溢れる。喉を通って風に乗る。森にばら撒き河に投げ込み、空に向かって響かせる。
風に混じる滝の音。まだ見えない。カーブをひとつ。ぐっと傾く私の体。もうひとつ。ざっと流れる左右の緑。見えてきた。九天の滝だ。
「仕上げと行きましょうか」
悔しいなぁ。待ちきれない。カーブをひとつ。視界が開ける。逆巻く波に覆われた、でこぼこしてるグラウンド。滝壺の縁を巡って急上昇。垂直だ。視線の先にダイヤが見える。日差しを受ける無数の水滴。真珠も見える。気泡を抱えて落ちる水流。
まだ高くに昇り続ける。突き出した岩をよけた。水煙を体に浴びた。その先、真っ直ぐ上には
虹
抜けた。垂直に架かる橋。私は虹を潜り抜けたんだ。七色なんて嘘だと思う。色数なんて数え切れない。
まだまだ高くに昇り続ける。滝の天辺を横目に過ぎた。帰る鴉に手を振った。山に被さる雲を見た。吹き付ける風が弱まってくる。耳を埋め尽くしていた音も小さい。羽ばたきの方が大きく聞こえるほどだ。ゆっくりペースが落ちてきて、止まった。
「遊覧はこれにて仕舞いにございます。お客様、ご満足いただけましたか」
高い。本当に高い。視線と同じ高さに夕日がある。
「早苗?」
けふん、返事をしようとして噎せた。息を呑みこんでたなんて知らなかった。
おまけに脈も速くて体が震えてる。興奮しすぎだ私。でも仕方ない。
「雰囲気は大切なんでしょう。それでは台無しですよ」
「我ながらひどいと思いますから言わないでください」
がらがら声だ。ちょっと泣けてくる。コンコンやって喉の調子を整えた。うん、何とかなった気がする。
「えっと、はい、大満足です。ありがとうございます、文さん」
「そう、よかった」
耳元で囁かれる声。耳元で……考えたら、この態勢って何か大変な気が。
やめよう。意識したら私が大変になる。腕が柔らかいとか息が肌にかかるとか背中で密着してるとか、やめ。どうしよう。
「このまま少しの間、聞いてください」
変な声が出そうになった。真面目な雰囲気みたいなのに、私は何してるんだろう。
「貴方は一歩引いている。霊夢さんの言う通りだと思います。それでは翼に黴が生える。弾幕ごっこをすることは稀です。山から出るのは、買出しか布教程度。麓での宴会が辛うじて羽を伸ばす機会になっている」
落ち着いた声音。私も何とか鎮まりそうだ。後は、少しこそばゆい耳を我慢できればいいなぁ。
「けれども最近になって、押し過ぎるようにもなっています。その最も足るものが今回の悩みでしょう。貴方は押して、勢いがつき、止まらなくなり転んだ」
反省しないといけない。二柱にも文さんにも迷惑を掛けて、霊夢さんには気を遣ってもらって。私、駄目だなぁ。
「事の是非は置いておきましょう。何故そうなったか、分かりますか」
何故って、それは。
「文さんが私の寿命について、真剣に考えてくれたからです。だから私も頑張ろうって思って」
「それは切欠です。根本的な理由は分かりますか」
違った? そうだった。悩み始めた訳じゃなくて、私が変わった理由だ。
けれど、そもそも私は変わったんだろうか? 言われてみれば? でもそんな気もあんまりしなくて。
「分かりません」
自覚がないんだから当然かも知れない。
「自分のことを考える余裕ができた、という話なのですよ。推測になりますが、恐らくこれで合っているはずです」
そうなんだろうか。でも遊ぶといったら語弊があるけど、確かに色々やれるようになってきた。大きな神事は宴会に摩り替わるか、取りやめになったりしてるし。御頭祭や蛙狩神事なんかが代表的なもので……思い出さないようにしよう。悪夢だ。
「そして今回の悩みです。このままでは何かある毎に貴方は転ぶでしょう」
反論できない。
「私のこと、よく分かってますね」
「嫌というほど分からされましたよ。誰かさんのお陰です」
やっぱり反論できない。
「早苗は神になるつもりですか」
「なります」
断言できる。私は何が何でも神様になる。そして二柱にお仕えしながら、文さんと暮らすのだ。不純だと思うけど迷いはない。
返事をすると、文さんの腕から力が抜けた。でも抱き締める強さを緩めるだけのもので、包まれる感触は深くて厚いクッションのようになる。
「それならば、寄り道しても構わないでしょう。焦ることはないです」
「何でですか」
今の私がするべき最重要課題なのに、足踏みなんてしてられない。
「神格化さえ成し遂げれば時間はある。うんざりする程です。暇つぶしのために異変を起こしたくなる程、と言ってもいいでしょう」
件の天人もそうだったんだっけ。
「こうして気晴らしに飛んでいる時間は、ちょっと前借しているのだと思えてきませんか。ならば今、逸る気を脇に置いて、ゆったり飛んでも構わないでしょう。急がなければ、余程のヘマを打たない限り転ぶこともないです」
もっとも、貴方が寿命を迎える前に、というのは絶対の条件ですが。そう続けた後に、くつくつと頭の後ろで笑い声。
私は周りに迷惑かけてばっかりだ。言われて見ればその通りで。焦って急いで挙句の果てに、暗い森の中で迷子になって。でも私のためだと言い聞かせた。大体、”私のため”っていうのが我侭だった。文さんを心配させたくない、っていう私が駄々を捏ねた。これじゃ、あべこべだ。
どうしようか。私はゆっくり飛びたい。そうしたら、迷子にならなくて済むようになるかも知れない。文さんの言う通りにしたい。でも。
「ふたつだけ、質問していいですか」
「どうぞ。答えられる範囲でならありがたいですね」
それはどうか分からない。私が同じ立場になったらどうなるか分からない。
私は文さんを苛めることになるんだろうか。きっとそうだ。妖怪と人間の溝がくっきり見える。これから見せ付ける。
「ひとつ目。文さんは、待っていてくれますか」
「無論です。転んで目も当てられない状況になるのは勘弁願いたいですからね」
躊躇いのない言葉。言い切ってくれた。
ことり、漂い続けていた心が落ち着く。
「ふたつ目。文さんは」
こんなこと訊くのは嫌だし、訊いたら決心が揺らぐかも知れない。
けれども必要なことだ。どうしても答えがいる。文さん、何度も試すような真似ばかりして、すみません。
「私が死んだら泣きますか」
沈黙。
お腹に感じる腕に縋りつきたい。でも我慢だ。柔らかくて優しい腕。けれども今は強張って、力が無駄にこもってる。こんなところに縋りついたら、きっと文さんは無理に笑顔を作るだろう。優しいから。
こらえて顔を夕日に向ける。静葉様の度々仰る言葉を思い出す。「終焉は日常」。
私もやっぱり日常の一部で、寿命も同じだ。私は神様になれなくて、夕日と同じように沈むかも知れない。そうなったら文さんはどうなるんだろうか。笑って欲しいなんて我侭で、私の勝手な押し付けだ。でも後に残すことはやっぱり考えてしまって、私の寿命と文さんの笑顔を結び付けてしまう。
ひょうと風がひとつ鳴いた。強くきつく抱き締められる。でも天狗の力任せじゃなくて、私が耐えられる心地いいくっつき具合だ。
「勿論ですよ。泣きます。そして命日が来る毎に、貴方の墓へ『馬鹿だ馬鹿だ』と罵りに行ってやりますよ」
少し震えて、でも強い言葉。”鋼のように”ってこういう時に使うんだろう。
かちゃり、ぴったり元の位置に心が収まった。
「ありがとうございます」
私はゆっくり飛ぼう。
「礼なんて言われたくないわよ。神に絶対なりなさいよね、早苗」
「はい」
腕に手を置く。柔らかくて優しくて、離したくない。離れたくない。
「うん、そうと決まれば色々寄り道しまくりますよ。手始めに和裁とか、弾幕ごっことか」
「あんなにくよくよ悩んでいたというのに、現金なものですね。私の心労を少し考えてくれてもいいんですよ」
「塞ぎこむなんて詰まらないですから」
夕日は沈むけど、やっぱり朝は来るもので。穣子様の言う言葉。「そして終焉は再生の種」。
わりと当たり前のようだけど、忘れちゃいけない大切なことだ。日常を大切にしていこう。
腕から抜け出し正対する。私の背中に夕日が差して、文さんの笑顔は紅く染まっている。かわいいなぁ。
「今度、弾幕ごっこの練習に付き合ってください。まだ”いろは”も良く分かってない気がします」
「随分とやる気ですね。いいですよ。手加減をしてあげますから、全力で掛かってきてください」
分かってはいたけれど、はっきり言われると反骨心も芽生える。
どうしようか。苛めたい。早速だけど甘えたい。何せ私は、年端も行かない少女なのだ。文句は言わせない。
「それと”甘えろ”って昼間、言ってくれましたよね。ちょっと甘えていいですか。頼れるお姉さんだと見込んでお願いします」
「その笑顔はいただけませんね。腹黒い何かが透けて見えるようで、ぞっとしません」
失礼な。
「鴉天狗に言われるのは心外です。私はピュアなんですよ。純粋なんですよ。純粋培養100%です」
「胸を張って言われても意味が通じなければ、どう反応したものか困ります。それで何なんですか」
何処かたじろいでいる様子の文さん。羽ばたく翼は、逃げる準備をしているようで忙しない。
でも私は引かない。一歩引いてた私とはおさらばだ。迷惑なんて構うものか。散々かけたおまけで、もうひとつ。
「キスをください」
あからさまな逃げ腰にならなくてもいいと思います。
私の繊細なハートが傷ついても知りませんよ。
「頬にですね。ええ、構いませんよ」
ぎこちない笑顔。マッサージしても解れなさそうだ。
「唇です」
私は引かないのだ。
「そうですか。すみません早苗。用事を思い出しました。また今度」
風。何もかも巻き込む嵐。咄嗟にかばうけど、私はもみくちゃにされて、ぐるぐる回って、地面に足がついてないなんて頼りなくて不安すぎる。空中戦に慣れないと駄目だ。
気付けば、私はひとりぼっちだ。逃げられた。また逃げられた。どうしよう。対策を講じないと、一生唇を奪えないかも知れない。私は止まりませんよ、文さん。覚悟してください。
とりあえず帰ろう。時間はたっぷりあるんだから、焦らなくても大丈夫だ。
ぷかぷか漂う夕焼け空。見下ろした山は、緑と紅と黄色と、それ以外の色で一杯で。
平野が見える。里も見える。麓には霧の湖。森を流れる河もある。それにさっき駆け上った九天の滝。
こんな光景、ゆっくり飛んで眺めないと勿体ない。
私は幻想郷が好きだ。今気付いたけれど、大好きなんだ。
次の作品も楽しみにしております。
…霊夢は誰に所有されたいのだろうか?
やはり紫かな?
素晴らしいあやさなを堪能させていただきました
早苗のまわりの神・妖・人、みんななんて素敵な先輩たちなんだ。