――まだかなまだかな。
僕は待ちわびていた。
ずっと同じ場所に立って、ずっとずっと待っていた。今か今かと。あの娘のことを。
あの娘のことだけを。
――はやくこい。はやく。
ざざ、ざあ、っと風が通りすぎた。その風はまだ暖かくて、でも少しだけ涼しさが混ざっていて。夏の終わりを確かに感じさせてくれた。
僕は、体を震わせる。心が高鳴る。
この、夏の終わりの風が合図。もうすぐだ。
もうすぐ、あの娘にまた会えるんだ。
◇
あの娘に初めて会ったのは、今から一年くらい前。ちょうど今くらいの時分だった。
あの日も同じように、夏の終わりを感じさせる風が吹いていた。
もしかしたら、もっとずっと前に僕は彼女に会ったことがあったのかもしれない。去年と言わず、もっと昔に。いや、きっと会ったことがあるのだろう。残念ながら、僕にはその覚えがないけど。たぶんそうだ。
――彼女は毎年、俺たちに会いに、ここに来るんだ。
仲間のひとりがそう言っていた。
だから、僕が覚えていなくても、毎年彼女は会いに来てくれていたのだと思う。僕は小さかったから一昨年よりも前のことは覚えてないけれど。
でも、そんなことはどうでもよかった。
僕の中で初めて、彼女という存在を意識したのは一年前。
だから、僕はそのとき初めて、ほんとうにあの娘に会ったんだ。
一年前。その娘は、僕らの住む場所に現れた。
赤いワンピースドレスを来た女の子。
「ねえ。あの娘はだあれ?」
僕は、隣にいたおじさんにきいてみた。
おじさんは、僕より体が一回りも二回りも大きくて、僕より三回りも四回りも歳をとっている。おじさんはしわしわの体を大きく震わせて笑った。
「なんだ、知らんのか坊主。毎年来てくれる方じゃないか」
「しらない」
何がおかしいのか、おじさんは僕の答えにまた体を震わせる。
「そうだなあ。坊主はまだ小さいから覚えとらんかもしれんな」
「ねえ」
「うん?」
「みんながおかしな様子なのは、あの娘のせい?」
「ふうむ」
そこで、おじさんは間を挟んだ。
僕の問いに、どう答えようか迷っているみたいだった。
しばらく経ってから、おじさんが言った。
「坊主。みんながおかしくなってるように見えるか」
「うん。なんだかそわそわして、ぎらぎらして、なんだか体中にあついお湯を流し込まれたみたいに見える」
「わはは、そう見えるか」
「病気なの?」
「うーん。そうだなあ。病気といえば病気かもしれん。でもまあ誰でもかかるものなのさ。その病気には」
「そうなんだ」
「怖いか?」
僕は、体を震わせた。
怖くない、という意思表示のつもりだった。
まわりの仲間たちは、その娘が訪れてからずっとその病気とやらにかかってしまっていた。だけど、みんな苦しそうじゃなくて――いや苦しそうな仲間もいるけど、それ以上にみんな嬉しそうだった。
だから、僕は怖いとは思わなかった。
「そうか。まあ、心配しなくても来年になればわかるさ」
おじさんは、最後にひときわ大きく体を震わせる。
そのおじさんもまた、みんなと同じようにそわそわしてぎらぎらして、それでいて嬉しそうだった。
それから僕は、毎日のように考えた。
病気のこと。それから、毎年やってくるあの娘のこと。
ほんとうは考えるつもりなんかなかったのに、気がついたらそのことばかりを考えていた。
最初は病気のことだけを考えていた。みんなはどうしてああなってしまうんだろう。そもそもあれは病気なんだろうか。大丈夫なんだろうか。みんな死んだりしないんだろうか。そんなことを。
でも、病気のことを考えていたのは最初のうちだった。
しばらくして、雪がちらつき始める季節になった。
僕はそのときから、病気のことをあまり考えなくなった。考えてもわからないからというのもあったし、何より周りのみんながいつもの調子に戻ったから。病気が治ったのだ。寒い季節が来て、みんな薄着になってようやく、つきものが落ちたみたいに落ち着いた。
だから、僕は病気について考えるのをやめた。
だけどそのかわりに、空になった僕の頭に入り込んできたものがあった。
それが、あの娘だった。
病気のことを忘れてしばらくしたら、ふと「あの娘ってなんなんだろう」って考えるようになった。
あの娘って、どんな娘だっけ。
白い透き通るような肌をしていた気がする。髪はどんなの? 長かった? 短かった?
どんな服を着てたっけ。赤いワンピース。可愛かった、気がする。
どんな顔だった?
そんなことを、とりとめもなく考えた。
僕は、熱に浮かされたようにあの娘のことを考えた。どうしてこんなに考えるのか、自分でもよくわからなかった。
そして、あの娘のことを考えるとなぜか決まって胸の奥がもやもやした。
そうして気がついたら、雪が溶けて地面から新芽が顔を出していた。
ある日、仲間のひとりが言った。それはお前、恋ってやつだ。
へえそうなんだ。その言葉に僕は頷いたけど、実は半信半疑だった。なんとなく、それは半分正解で、半分はずれだと思った。
この気持ちは、もっと違うものだ。恋じゃない。恋という形に固められる前の、もっとぐにゃぐにゃした曖昧なもの。
恋というものをしたことがなかったけど、何となく違うと思った。
でも、その恋という言葉を知って、初めてわかったこともあった。あの娘が会いに来てからみんながかかった病気の正体。
それが恋なんだ。
そうだ。おじさんたちはみんな、あの娘に恋してたんだ。
そしていつか僕も。
あの娘にきっと、恋をする。
夏が来た。
足下では、草たちが一斉に背伸びしていた。
僕たちの体にカブトムシが止まった。カナブンも止まった。セミも止まった。セミはうるさかった。がんがんに歌って、ロックに魂を燃やしていた。
夏の風が吹いた。嬉しくて、僕は体を揺すった。みんなも、何かを期待するように体を震わせた。
もうすぐ。この季節が終われば、もうすぐまた来るんだ。
僕らが身を焦がす、あの季節が。
◇
――まだかな。まだかな。
また風が、ざざざあっと吹いた。もうすぐ来るよ、だから待ってて。そう風に言われたような気がした。
でも、僕は逸る気持ちをおさえきれない。その風は、夏の気配を残していて、でも確かにあの娘の香りを含んでいて。
だから僕は、思わずそわそわと体をゆすってしまうんだ。
これは、はたして恋なんだろうか。
もう一度、自分に問いなおしてみる。やっぱり違うと思った。
恋っていうのは、もっと激しくて情熱的で衝動的なものだ。火の中に入れた栗みたいに勢いよく弾けて、とれたての山葡萄みたいに酸っぱくて、地面の下で肥えた甘藷みたいに甘くて。きっとそういうものなんだ。
それに比べれば、僕のこの気持ちはちっぽけだ。まるでじわじわと燃える埋火のよう。時間が経てば経つほど熱くなって、いつまでもちりちりと体を灼くけれど、それだけ。
違うんだ。ずっとずっとくすぶっていたこの気持ちは、恋する前の下火でしかない。恋の炎じゃない。
でももうすぐ。
僕はきっと恋をする。
あの娘に会ったら。
あの娘が僕のお腹に、そっと手を触れてくれたら。その白い綺麗な指を、僕の中を通る芯の部分に優しく這わせたら。そのときはきっと。
――きっと初めて、僕は彼女に恋をするんだろう。
* * *
「お姉ちゃんもさ、因果なもんだよね」
私は、先を歩くお姉ちゃんにそんな言葉を投げかける。
「何が」とお姉ちゃんは、振り返りもせずにそっけなく返した。
暦ではもう秋だった。しつこかった熱気の季節はだんだんと遠ざかり、やっと次の季節へと移ろい始めようとしている。
そんな夏の終わりの妖怪の山。秋を司る神様である私・秋穣子と静葉お姉ちゃんは、その奥へと草の根をかき分けて入っていく。
毎年、お姉ちゃんはこの時期になるとひとり妖怪の山に昇る。
何をしに、と私が訊くと、お仕事よ、としか答えてくれなかった。何度訊いても、詳しいことは教えてくれない。
ならば、と今年は私も強引についてきたのだった。
「だって、紅葉を司るだけの能力なんてさ、つまらないじゃない。人里の人たちに大して喜ばれるわけでもなし」
「あら、そんなことないわよ」
答えながら、相変わらずお姉ちゃんは振り返らない。
歩を進める背中をじっと見つめながら、私は考える。
確かに、紅葉は人たちに好まれる。葉が色づけば人間たちは喜び、季節の移ろいの美しさに酔いしれる。
でもそれで得られる信仰の量は、私の豊穣の能力と比べれば雲泥の差だと思う。何しろ、その年の作物がちゃんと収穫できるかどうかということは人々の生活に直結した問題だからだ。
だから私は人々に、不作の年には能力を使って助けてくれと泣いて請われるし、豊作の年には収穫祭で崇め奉られる。
比べて、お姉ちゃんはどうだ。仮にその年に木々の葉が色づかなかったとしても、人々には「今年は寂しいなあ」という程度の感慨しか持たれないに決まってる。所詮、紅葉というのは嗜好品のようなものなのだから。
本当に因果なものだと思う。同じ、秋の神様だというのに。
「そんなことないわ」
振り返って、お姉ちゃんが言う。
負け惜しみだ。私は内心勝ち誇った。
私はちょっぴり自慢げに、胸を反らす。
「ふふん。どうせお姉ちゃんは請われたことなんてないでしょ? 是非お力を貸してください、お願いしますってさ」
私はお姉ちゃんに言う。でも、お姉ちゃんはあまり悔しそうじゃなかった。
私の自慢話を聞くと、いつもむきになって対抗するのに、珍しい。
「確かに、請われたことはないかもしれない。でも、恋われたことはあるわ」
「なにそれ。いったい誰によ」
お姉ちゃんは、人差し指を口元に当てて笑った。
ないしょ。そういうことだろう。
追及しようと私が口を開くのと、お姉ちゃんが駆け出すのは同時だった。
いつの間にか、開けた場所に出ていた。
妖怪の山の中腹あたりにある、ぽっかり空いた空間。自然の広場というおもむきだった。青々と葉を茂らせた、背の高い樹木たちに囲まれた場所。
ざざざ、っと風が吹いた。歓迎するかのように、木々がその身を大きく震わせた。
お姉ちゃんは、広場の奥へと足を進める。向かうその先に、一本の木があった。
背の高い周りの木に比べて、かなり小さい。まだ若木なのだろう。やっと森の一員として認められるようになった、そんな感じの木だった。
何をするのだろう。少し離れた場所から、私はお姉ちゃんの背中を見守る。
お姉ちゃんは、若木の元にたどり着くとゆっくりとその手を幹に当てた。
「この子はね」
「うん?」
「まだ紅葉したことがないの。まだ小さいから。去年も、紅葉してくれるかなと思ったけど、まだ駄目みたいだった」
「ふうん」
「でもね、きっと。今年はきっと――」
きっと。そう、念じるように繰り返す。
お姉ちゃんが目を閉じた――こちらからは見えないけれど、そんな気がした。
そして優しく、幹に指を這わせた。慈しむように。愛撫するように。
そして、その瞬間は突然やってきた。
緑から、紅へ。一瞬の出来事だった。
まるで弾けるように、景色が色づいた。視界がすべて、紅に埋め尽くされた。
一息に、一瞬で。見渡す限りのすべての緑が、ひっくり返したみたいに、ぱあっと紅に染まったのだ。
木々が、その身を一瞬で焼き焦がす。その瞬間の光景はまるで、何というか――そう、樹木たちが顔を赤らめたように見えて。
――木々がお姉ちゃんに、いっせいに恋をしたみたい。
思わず、そんな私らしくないことを思ってしまった。
「すごい……」
周りを見渡しながら、私は思わずため息をもらす。
お姉ちゃんの能力が紅葉を司るものだというのは知っていた。だけど、毎年こんな風に幻想的な光景を作り出していたなんて。
「うまくいったみたい」
お姉ちゃんの声。
私はきょろきょろと動かしていた視線を、お姉ちゃんに戻した。
まだ背中をこちらに向けて、若木に手をかざしていた。その若木も、まるで一目惚れでもしたかのように、鮮やかに色づいていた。
初めて、その若木は紅葉したのだ。
「やったね! お姉ちゃん!」
思わず、私は駆け寄る。
いつもお姉ちゃんの能力を馬鹿にしていた私だけど、このときばかりは違った。気持ちが高ぶり、思わず自分のことみたいに喜んでいた。
お姉ちゃんの手をとって強引にこちらに向かせる。
そして、振り返ったその顔はといえば――
「うん。ありがとう」
笑顔だった。満面の笑み。
大輪の花を、顔に咲かせていた。
その弾けるお姉ちゃんの笑顔が、あまりにもうれしそうで、輝いてて、可愛くて。
不覚にも、どきっとしてしまった。
そして思わず。
――本当にこの木々たちは、お姉ちゃんに恋してるのかもね。
なんて。
そんな突拍子もない話を、本気で信じてしまいそうになるのだった。
――了
最初は人里のお話かと思ったw
秋の描写がとても綺麗でした
――木々がお姉ちゃんに、いっせいに恋をしたみたい。←これ綺麗な表現だなー。
初めて紅葉した木は記念にその葉っぱを使って毎年スカートを新しくしてるとか勝手に思ってみたり。
静葉姉さん可愛いよ イヤッホオオオオオオウ!!
あとがきで台無しだな、まったくおちつけよぉぉぉぉう!!
静葉様ー!! いやっほぉぉい!!
何もかもみなうつくしい。
始めは人里の話かと思い、
恋って話題が出た時にはなんかおかしいなと気づかされ
蝉のロックと聞いてあぁこの視点は木なんだなとようやく分かりましたよ
いやぁ、お見事です
秋万歳!紅葉万歳!
静葉さま可愛いよ静葉さま。
成る程、そういうことだったのね
これは見事!
ちょうど秋姉妹の話を待ち望んでいたところだったので、
もう感極まってヒャッホホオオオオオオオウ!
詩的だなあ
とりあえず秋早くね?w
所々に違和感を覚えて、引っ掛かりながら読んでいて、最後に謎がすっと解けるという技法の使い方が巧みすぎる。
しかも、それぞれの言葉が透き通っていて、文章自体も非常に美しい。
非常に魅力的で素敵な作品を有難う御座いました。
気持ちのいい最上の数分間をもらえた気分です。
こういう静葉様のお話も素敵ですねぇ。感服しました。
静葉様流石です。
秋大好きです。なにしろ過ごしやすい(ぇ
想像の膨らむとても素晴らしいお話でした、感謝です。
あの娘にきっと、恋をする。 」
この一文がたまらなく好き
奇麗な作品でした
秋だぜイヤッホオオオウ!
お美事です。
次の秋が待ち遠しくなる作品でした。