少しだけ昔、あるところにレミリアという吸血鬼がおりました。
皆さんは、吸血鬼というとどのようなイメージを持っていますか?
怖い? 人を襲う? 棺桶の中で眠る? 十字架が苦手?
それから一人ぼっち?
いいえ。このレミリアは一人ではありませんでした。
彼女の住む紅魔館には、まず妹のフランドールが住んでおりました。
この妹は性格の不一致のためか非常にレミリアと折り合いが悪く地下室に籠っておりましたが、現在は多少の改善が見られたため自由に屋敷を歩き回るようになりました。
それでもやはり、急に仲良しとはいかないため本拠地は地下室です。
次に親友のパチュリー。一部では大変な活躍をしており恐れられていますが、紅魔館の御意見番です。
御意見番と来たからには番犬、門番の紅美鈴。
忘れてはいけないのが小悪魔。名前は有りませんが、これもまた大変恐れられております。
それだけではありません。
一旦、日傘を持って外へ出れば外には博麗霊夢をはじめとしてたくさんのお友達がいます。
今回のお話の主人公はレミリアと……
……おっと。
大切な人を忘れていました。
そうです。レミリアの忠実なメイドであり、心を許せる数少ない人間である十六夜咲夜です。
普段は秘密にしていますが、時を操ることができるため人間はおろか並みの妖怪では歯が立ちません。
さて、今回のお話はそんな強い上に家事もこなせて無欠の美少女・咲夜さんと、とっても可愛いレミリアちゃんが主人公です。
一体、どんなことが起きるのでしょうか?
ある夜のことでした。
空のてっぺんへと高く登った月の写った湖には波一つありません。
とても静かな夜でした。
今晩は妖精すら音を立てようとしていません。
みんな、レミリアのことを恐れるあまり隠れてしまったのでしょうか?
誰もが寝静まっていた。そう思われた薄闇の中に動く影が一つ。
咲夜さんです。
紅魔館の長い廊下を滑るようにして、まるでそこだけ時の流れがおかしくなったかのように、埃一つ上げずに驚くほど軽やかに進んでいきます。
そう。
働き者である彼女は、夜遅くまで見回りをしているのです。
だからこそ、紅魔館のみんなは安心していられるというものですね。
広い上に曲がりくねった屋敷――里の人間などが入ったら、迷い込んだまま見つかることはないでしょう――を隅々まで知り尽くした咲夜さんはあっという間に見回りを終えると自分の部屋に戻ろうとしました。
いつも通りならばようやくベッドに潜る時間でしたが、ここでちょっとした異変が起きます。
咲夜さんの部屋の隣から恐ろしい音が突然、響いて来たのです。
それはこんな音でした。
あんぎゃぁ……
あんぎゃあ…
あんぎゃあ
一体何が起きたと言うのでしょう?
立ちどころに逃げ出したくなるような、恐ろしい響きは次第に強まってくるようでした。
ペンギンを締め上げている時のような音。あるいは、うっかり荷物を自分の足の上に置いてしまった時に出るような……。
お嬢様だ!!
咲夜さんは瞬時にそれが分かると、目にもとまらぬ速さで駆けだしました。
着きました。
レミリアの部屋は咲夜の部屋の隣です。
自分の部屋のドアを出て隣のドアを開ければ、着きます。
「お嬢様……?」
声の主は果たしてレミリアでした。
はてさて、どうしたことでしょう。
今日はお友達と喧嘩することもありませんでしたし、雷が鳴っていることもありません。
それなのに、どうしてレミリアは一人で泣いていたのでしょうか。
「どうされました、お嬢様」
咲夜さんは涙を拭いてやってから、あくまでも優しく問いただします。
長年の付き合いですから、慣れたものです。
するとレミリアはか細い声で言いました。
「お腹すいたの……」
!
よく見れば心なしか、レミリアの真っ白なお腹は窪んでいるようです。
そしてレミリアのお腹は小さな音を出して、空腹を訴えました。
!
あっという間にレミリアは咲夜の背中におんぶされて、厨房の方へ移動を開始しました。
着きました。
まるで時が止まっていたかのようにすぐでした。
そばの椅子へ腰を下ろさせて咲夜さんは「へへっ、ここが腕の見せ所よ」とばかりに腕まくりを一つ。
さあ、こうなるとレミリアも大喜び。
優しい咲夜は大張りきりです。
こんなとき
着てて良かった
メイド服
汚れても大丈夫な服を着ているのは良かったのですが、さあ何を作ろうかと考えます。
「お嬢様、何が食べたいですか?」
「何でもー」
それが一番困りますね。
一瞬バイキング方面へと頭をめぐらせた咲夜さんですが、そこは流石の機転。
そうよ。あれがあったわ。
「お嬢様。ナポリタンはいかがでしょうか?」
「ナポリタン?」
「ええ」
「美味しいの?」
「ええ」
「食べるー!」
本当は美味しいかどうか知りませんでした。
以前、博麗霊夢周辺からレシピを頂いていたのですが、機会がなかったため作らずにいたのです。
初めてのチャレンジはいわばバクチです。
でも、大丈夫。愛情があれば美味しいんです。
材料
たまねぎ 二分の一個
ピーマン 二個
ソーセージ お好み
マッシュルーム 二分の一缶
塩 適量
こしょう 適量
油 大匙一杯
ケチャップ 大匙七杯
牛乳 大匙二杯
スパゲッティ 180グラム
水 適量
塩 少々
粉チーズ お好み
タバスコ お好み
ソース 少々
※ナポリタンは純外国由来の料理でなく、日本人が独自に開発したものだと言われております。
まず、スパゲッティを茹でるお湯を沸かします。
沸いたら、塩を加え時間に従ってお湯を茹でますが、時間は咲夜さんの得意分野であると言えるでしょう。
ここで、調味料のケチャップ、ソース、牛乳は混ぜておきましょう。
フライパンに油を投入し中火で野菜を炒めます。
野菜の苦手なお嬢様に対する配慮として小さく刻んでおくことは欠かしません。
茹であがり、水気を切った麺と残りの油を加えて塩コショウとよくからむように軽く炒めます。
さあ、この辺でいい匂いがしてきましたね。
両手にナイフとフォークを持ったレミリアはもう大はしゃぎ。
ここからが大勝負。
中~強火で調味料を加えて一気に混ぜ合わせます。
加減をしてはいけません。
完全に、完璧に混ぜ合わせましょう。
味が薄いようであれば調味料を追加投入します。
さて、存分に混ぜ合わせられたら出来あがり。
どうです。この出来。
お好みで粉チーズを振って、どうぞ。
完全無欠のメイドに隙はないことがまたしても実証されてしまいました。
通りすがりのパチュリーも「こいつは旨そうだ……」と思わず独り言。
「さあ、召し上がれ!」
「いただきまーす」
レミリアときたらもう夢中。
咲夜の愛情がたっぷり入ったナポリタンを息もつかずに平らげて行きます。
「美味しいですか」
「すごく美味しい。これ大好きー!」
作った人としてこれほど嬉しいことはありませんよね。
トマトソースは実はレミリアの大好物なのです。
「うー! うー!」
あらあら。普段はめったに見せないような表情。
よっぽど嬉しいんですね。
真っ赤な口の周りをナプキンで拭いてやると、咲夜は食器を片づけます。
「咲夜のナポリタン美味しかった。また作ってね」
こんなに気に入ってもらえるなんて……。
咲夜さんの目に涙が浮かんでいるのが分かるでしょうか。
お腹がいっぱいになってしまったレミリアお嬢様は再び咲夜に負んぶされて寝室へ着くや否や眠ってしまいました。
ぽっこりと膨らんだお腹を見て、満足げな表情を浮かべる咲夜。
レミリアちゃんはどんな夢を見ているのでしょう。
さあ、しばしお休みなさい。
深い眠りに落ちた彼女は知らないのでした。
これが悪夢の始まりだという事を……
初日 朝
翌朝、目を醒ました小悪魔は大きく朝の空気を吸い込みました。
とてもさわやかな朝です。
きっと外では門番が太極拳なり対極剣を行っていることでしょう。
おや。
小悪魔の顔が怪訝そうに歪みました。
何でしょう、これは。
爽やかな空気に混じった重たい油のような感覚。
それでいてトマトソースのようでもある……。
不思議に思いながらものろのろと重たい体を引きずって朝食を摂りに向かいました。
そして、その先で彼女は見るのです。
一種異様な光景を。
それは真っ赤に染まったテーブルの上です。
最上座から、小悪魔の席を含めて最後尾まで一様に。本来、朝食が乗っている皿が真っ赤に染め上げられています。
「これは、どういう事……?」
質問に答えるものはありませんでした。
みな、黙ってフォークとスプーンを動かしています。
「パチュリー様、これは?」
「ナポリタンよ……」
「いや、そうじゃなくて。どうしてこうなってるんですか」
「……」
「サラダとかないんですかね」
「黙って食べて……」
「はい。あ。以外に美味しいかも……」
それ以降会話をする者はありませんでした。
二人を除いては。
「ナポリタン美味しいですね。お嬢様!」
「うー! うー!」
咲夜にとってお嬢様の喜ぶ顔が見ながらの食事は最高でした。
昼
「パチュリー様。ご飯の時間ですよ!」
「ああ、そうだったわね」
「じゃあ、早速ホールへ行きましょうね」
「ええ」
「お昼ご飯は何かなー」
「ふふ、はしゃぎ過ぎよ」
「えへへ……、……!?」
「何。どうかした……、……!!???」
そこにはやはり一様に、俯いたまま食事を摂る一同がいました。
「美鈴、これはどういうこと?」
静かな声で問いただすが、麺をかき込むのに精いっぱいな美鈴はやはり静かに首を振るのでした。
「パチュリー様……」
「……」
「怒ってますか?」
「別に」
脇に控える一般メイドたちの表情は暗いものです。
そして相変わらず聞こえてくるのが二人の会話。
「美味しいですね。ナポリタン!」
「うー、うー」
夜
「パチュリー様」
「何……?」
「お願いします。何とかしてください」
「……」
「怒ってますか?」
「別に」
こんな二人と無関係な二人はすぐ隣にいました。
咲夜さんとレミリアちゃんです。
「お嬢様、美味しいですねナポリタン!」
そう。食べる人の喜ぶ顔と言うのは本当にうれしいものです。
ところが、おや……。
レミリアちゃん、なぜか元気がありません。
「うー……、うー」
「どうしたのですか。お嬢様……。具合が悪いようですが」
列席する一同は思い思いにナポリタンを啜ったり、水に渇きを癒したり、あるいは沈鬱な面持ちで宙を眺めたりと様々です。
そこで、突然声が上がりました。
誰でしょう。
立ち上がった彼女はフランドールでした。
「なんでナポリタンばっかりなの!?」
最初は何が起きたのか分からないといった様子でしたが、一斉に人の目が集まりました。
「やっと言ってくれたか」という期待の目。「ありがとう」という感謝の目。それはやはり様々なものがありました。
しかし、咲夜さんは違ったのです。
「何でって……、お嬢様が好きだからです」
「何度もナポリタンばかりで飽きちゃうでしょっ」
「何を……。お嬢様はこれが好きなのです! お嬢様が好きなものを作って何の問題があるのでしょうか!」
一瞬は怯んでしまったのですが、そうは行くかとフランドールはレミリアを指差しました。
「お姉さまだって何度も何度もじゃ飽きてしまうわ。 そうよね! お姉さま」
「そんな……。お嬢様は美味しいって言ってくれましたよね!? 好きですよね!? 私のナポリタン!!」
さあ、大変。
レミリアお嬢様は二人から責められてしまいました。
当然、レミリアお嬢様は高貴な生まれなのでこんな経験などありません。
一体、どうなってしまうのでしょう。
「お姉さま。答えて!」
フランドールを見つめる大勢の目に熱がこもりました。
しかし、それを遮るように咲夜はレミリアの顔を覗き込みます。
「好きですよね! 好きって言ってください!」
そしてレミリアは答えたのでした。
「うー、うー……」
それを聞いたフランドールは「お姉さまの馬鹿! 意気地なし!」と言うや否や部屋を飛び出していきました。
同時にみんな、がっかりした表情をします。
「咲夜」
ここで呼びかけたのはパチュリーです。
「そんなやり方はよくないわ……」
しかし、その声はか細く咲夜には到底届かないものなのでした。
「お代わりもありますよ、お嬢様!」
「うー、うー……」
一週間後
目を醒まして、また地獄に舞い戻って来てしまった、と美鈴は思いました。
ここは真っ赤な地獄です。
以前から真っ赤だった?
いいえ。以前はこんなどす黒い赤ではありませんでした。
そう。以前はこんなんじゃなかったはずなのです。
ワインのような赤……。懐かしさを感じます。
ところが今、テーブルのお皿の上を一面染め上げるそれは別の赤でした。
今日もナポリタンは指示を受けたメイドの手によって作られ、間断なく運び出されてきます。
屋敷は一日中、トマトソースの匂いがします。
一日三食、美味しいご飯を作ってくれたメイド達はもはや美鈴の知っている彼女達ではありませんでした。
空ろな目でひたすらナポリタンを造る機械でした。
パチュリーも元気がありません。
以前からあまり元気はありませんでしたが、やはり元気がありません。
とても悲しくなってしまいます。
フランドールはあの後、部屋にこもったきり出てくることはありませんでした。
美味しいものは食べられているでしょうか。それともお腹が空いてしまって困っているでしょうか。
どちらにしてもここよりはずっといいか知れません。
以前は口の周りにべっとりとトマトソースを付けてはしゃいでいたレミリアお嬢様もここ数日は何だか元気がないようです。
咲夜さんはとても心配しています。
「ナ(以下略はもう嫌ぁ……」
そう言って冷めざめと泣くのは小悪魔でした。
それでも、まだ泣けるだけ彼女は良い方だと思うのでした。
「もう、いつまでこんな地獄が……」
さてそんな日の夕方に事件は起こりました。
一体、何が起きてしまったのでしょうか。
時は夕暮れ、夕食を食べる段になってレミリアが突然癇癪を起したのです。
食事を前にしたレミリアは立ち上がり、止めようとする咲夜の手を振り払うと厨房へ駆けこんだまま出てこなくなってしまったのでした。
実はレミリアがこんなふうになるのはとても珍しいことなのです。
眠れなくなったり、お腹が減って咲夜を呼ぶことはありますが、逆に咲夜を拒んでしまうのは考えられないことなのでした。
「お嬢様 どうしたのですか?」
厨房の中へ咲夜が入って行きます。
「いやー」と聞こえるのはレミリアの叫び声です。
「本当にどうしたのです。お嬢様。さ、機嫌を直して一緒に晩御飯食べましょうね」
「やー!」
「今日はお嬢様な大好きなナポリタンですよ!」
「うー! うー!」
「ええ。ナポリタンは美味しいですからね」
「やーー!!」
レミリアは必死に抵抗しますが、何しろ咲夜さんは時を止められるのです。
あっという間に捕まってしまいました。
脇から抱きかかえるようにしながら、引っ張って行こうとします。
「お代わりもありますよ」
「やーーーー!!」
そう。その時でした。
レミリアの右手が真っ直ぐに咲夜へ伸びました。
そうです。ここは厨房でした。
「……、お嬢様?」
「レミィ!」
異変に気付き駆けつけてきたパチュリーでしたが、ほんの少し間に合わずレミリアの持った包丁は咲夜に刺さってしまいました。
「何て事を」
レミリアの手から包丁が落ち、同時に咲夜さんも倒れました。
「お嬢様、どうして?」
「咲夜あ……」
レミリアの目から涙がこぼれました。
「私、私、ナポリタンじゃないものが食べたかったの」
「……ナポリタンが嫌いになってしまったのですか?」
「違うの。毎日は嫌なの」
咲夜さんは静かに目をつむりました。
「そうですか」
「今まで黙っててごめんなさい」
「いえ。私こそ気付いてあげられなくてごめんなさい……」
レミリアは泣きながら続けます。
「私、私、本当は……」
「……はい?」
「カレーが食べたかったの!!」
レミリアは知っているでしょうか。
妖怪は突かれても切られても簡単には死にません。
でも、人間は違うのです。
突かれても切られてもすぐに死んでしまいます。そして死んだ人は帰ってはきません。
皆さんは覚えていますか。
私が咲夜さんを完全無欠の美少女だと言ったことを。
彼女は人間です。
だから、簡単に死んでしまうのです。
では、始めから彼女が吸血鬼ならばよかったでしょうか。
皆さん、一緒になって考えてみてください。
咲夜さんはただレミリアお嬢様を喜ばせたかっただけなのです。
レミリアちゃんは咲夜さんが大好きだっただけなのです。
一体、それがなぜこんなことになってしまったのでしょうか。
どこでどちらが間違ってしまったのでしょうか。
それから月日は流れ。
紅魔館に再び静寂が訪れ、氷精が飛び始め、すっかり季節が変わりました。
――紅魔館 厨房
「それじゃ、カレーライス召し上がれ!」
「わーーい!! 咲夜大好きー」
「おかわりもありますよ!」
「刺さったのが腕でよかったですよね! パチュリー様」
「そうね。(もぐもぐ」
めでたしめでたし
皆さんは、吸血鬼というとどのようなイメージを持っていますか?
怖い? 人を襲う? 棺桶の中で眠る? 十字架が苦手?
それから一人ぼっち?
いいえ。このレミリアは一人ではありませんでした。
彼女の住む紅魔館には、まず妹のフランドールが住んでおりました。
この妹は性格の不一致のためか非常にレミリアと折り合いが悪く地下室に籠っておりましたが、現在は多少の改善が見られたため自由に屋敷を歩き回るようになりました。
それでもやはり、急に仲良しとはいかないため本拠地は地下室です。
次に親友のパチュリー。一部では大変な活躍をしており恐れられていますが、紅魔館の御意見番です。
御意見番と来たからには番犬、門番の紅美鈴。
忘れてはいけないのが小悪魔。名前は有りませんが、これもまた大変恐れられております。
それだけではありません。
一旦、日傘を持って外へ出れば外には博麗霊夢をはじめとしてたくさんのお友達がいます。
今回のお話の主人公はレミリアと……
……おっと。
大切な人を忘れていました。
そうです。レミリアの忠実なメイドであり、心を許せる数少ない人間である十六夜咲夜です。
普段は秘密にしていますが、時を操ることができるため人間はおろか並みの妖怪では歯が立ちません。
さて、今回のお話はそんな強い上に家事もこなせて無欠の美少女・咲夜さんと、とっても可愛いレミリアちゃんが主人公です。
一体、どんなことが起きるのでしょうか?
ある夜のことでした。
空のてっぺんへと高く登った月の写った湖には波一つありません。
とても静かな夜でした。
今晩は妖精すら音を立てようとしていません。
みんな、レミリアのことを恐れるあまり隠れてしまったのでしょうか?
誰もが寝静まっていた。そう思われた薄闇の中に動く影が一つ。
咲夜さんです。
紅魔館の長い廊下を滑るようにして、まるでそこだけ時の流れがおかしくなったかのように、埃一つ上げずに驚くほど軽やかに進んでいきます。
そう。
働き者である彼女は、夜遅くまで見回りをしているのです。
だからこそ、紅魔館のみんなは安心していられるというものですね。
広い上に曲がりくねった屋敷――里の人間などが入ったら、迷い込んだまま見つかることはないでしょう――を隅々まで知り尽くした咲夜さんはあっという間に見回りを終えると自分の部屋に戻ろうとしました。
いつも通りならばようやくベッドに潜る時間でしたが、ここでちょっとした異変が起きます。
咲夜さんの部屋の隣から恐ろしい音が突然、響いて来たのです。
それはこんな音でした。
あんぎゃぁ……
あんぎゃあ…
あんぎゃあ
一体何が起きたと言うのでしょう?
立ちどころに逃げ出したくなるような、恐ろしい響きは次第に強まってくるようでした。
ペンギンを締め上げている時のような音。あるいは、うっかり荷物を自分の足の上に置いてしまった時に出るような……。
お嬢様だ!!
咲夜さんは瞬時にそれが分かると、目にもとまらぬ速さで駆けだしました。
着きました。
レミリアの部屋は咲夜の部屋の隣です。
自分の部屋のドアを出て隣のドアを開ければ、着きます。
「お嬢様……?」
声の主は果たしてレミリアでした。
はてさて、どうしたことでしょう。
今日はお友達と喧嘩することもありませんでしたし、雷が鳴っていることもありません。
それなのに、どうしてレミリアは一人で泣いていたのでしょうか。
「どうされました、お嬢様」
咲夜さんは涙を拭いてやってから、あくまでも優しく問いただします。
長年の付き合いですから、慣れたものです。
するとレミリアはか細い声で言いました。
「お腹すいたの……」
!
よく見れば心なしか、レミリアの真っ白なお腹は窪んでいるようです。
そしてレミリアのお腹は小さな音を出して、空腹を訴えました。
!
あっという間にレミリアは咲夜の背中におんぶされて、厨房の方へ移動を開始しました。
着きました。
まるで時が止まっていたかのようにすぐでした。
そばの椅子へ腰を下ろさせて咲夜さんは「へへっ、ここが腕の見せ所よ」とばかりに腕まくりを一つ。
さあ、こうなるとレミリアも大喜び。
優しい咲夜は大張りきりです。
こんなとき
着てて良かった
メイド服
汚れても大丈夫な服を着ているのは良かったのですが、さあ何を作ろうかと考えます。
「お嬢様、何が食べたいですか?」
「何でもー」
それが一番困りますね。
一瞬バイキング方面へと頭をめぐらせた咲夜さんですが、そこは流石の機転。
そうよ。あれがあったわ。
「お嬢様。ナポリタンはいかがでしょうか?」
「ナポリタン?」
「ええ」
「美味しいの?」
「ええ」
「食べるー!」
本当は美味しいかどうか知りませんでした。
以前、博麗霊夢周辺からレシピを頂いていたのですが、機会がなかったため作らずにいたのです。
初めてのチャレンジはいわばバクチです。
でも、大丈夫。愛情があれば美味しいんです。
材料
たまねぎ 二分の一個
ピーマン 二個
ソーセージ お好み
マッシュルーム 二分の一缶
塩 適量
こしょう 適量
油 大匙一杯
ケチャップ 大匙七杯
牛乳 大匙二杯
スパゲッティ 180グラム
水 適量
塩 少々
粉チーズ お好み
タバスコ お好み
ソース 少々
※ナポリタンは純外国由来の料理でなく、日本人が独自に開発したものだと言われております。
まず、スパゲッティを茹でるお湯を沸かします。
沸いたら、塩を加え時間に従ってお湯を茹でますが、時間は咲夜さんの得意分野であると言えるでしょう。
ここで、調味料のケチャップ、ソース、牛乳は混ぜておきましょう。
フライパンに油を投入し中火で野菜を炒めます。
野菜の苦手なお嬢様に対する配慮として小さく刻んでおくことは欠かしません。
茹であがり、水気を切った麺と残りの油を加えて塩コショウとよくからむように軽く炒めます。
さあ、この辺でいい匂いがしてきましたね。
両手にナイフとフォークを持ったレミリアはもう大はしゃぎ。
ここからが大勝負。
中~強火で調味料を加えて一気に混ぜ合わせます。
加減をしてはいけません。
完全に、完璧に混ぜ合わせましょう。
味が薄いようであれば調味料を追加投入します。
さて、存分に混ぜ合わせられたら出来あがり。
どうです。この出来。
お好みで粉チーズを振って、どうぞ。
完全無欠のメイドに隙はないことがまたしても実証されてしまいました。
通りすがりのパチュリーも「こいつは旨そうだ……」と思わず独り言。
「さあ、召し上がれ!」
「いただきまーす」
レミリアときたらもう夢中。
咲夜の愛情がたっぷり入ったナポリタンを息もつかずに平らげて行きます。
「美味しいですか」
「すごく美味しい。これ大好きー!」
作った人としてこれほど嬉しいことはありませんよね。
トマトソースは実はレミリアの大好物なのです。
「うー! うー!」
あらあら。普段はめったに見せないような表情。
よっぽど嬉しいんですね。
真っ赤な口の周りをナプキンで拭いてやると、咲夜は食器を片づけます。
「咲夜のナポリタン美味しかった。また作ってね」
こんなに気に入ってもらえるなんて……。
咲夜さんの目に涙が浮かんでいるのが分かるでしょうか。
お腹がいっぱいになってしまったレミリアお嬢様は再び咲夜に負んぶされて寝室へ着くや否や眠ってしまいました。
ぽっこりと膨らんだお腹を見て、満足げな表情を浮かべる咲夜。
レミリアちゃんはどんな夢を見ているのでしょう。
さあ、しばしお休みなさい。
深い眠りに落ちた彼女は知らないのでした。
これが悪夢の始まりだという事を……
初日 朝
翌朝、目を醒ました小悪魔は大きく朝の空気を吸い込みました。
とてもさわやかな朝です。
きっと外では門番が太極拳なり対極剣を行っていることでしょう。
おや。
小悪魔の顔が怪訝そうに歪みました。
何でしょう、これは。
爽やかな空気に混じった重たい油のような感覚。
それでいてトマトソースのようでもある……。
不思議に思いながらものろのろと重たい体を引きずって朝食を摂りに向かいました。
そして、その先で彼女は見るのです。
一種異様な光景を。
それは真っ赤に染まったテーブルの上です。
最上座から、小悪魔の席を含めて最後尾まで一様に。本来、朝食が乗っている皿が真っ赤に染め上げられています。
「これは、どういう事……?」
質問に答えるものはありませんでした。
みな、黙ってフォークとスプーンを動かしています。
「パチュリー様、これは?」
「ナポリタンよ……」
「いや、そうじゃなくて。どうしてこうなってるんですか」
「……」
「サラダとかないんですかね」
「黙って食べて……」
「はい。あ。以外に美味しいかも……」
それ以降会話をする者はありませんでした。
二人を除いては。
「ナポリタン美味しいですね。お嬢様!」
「うー! うー!」
咲夜にとってお嬢様の喜ぶ顔が見ながらの食事は最高でした。
昼
「パチュリー様。ご飯の時間ですよ!」
「ああ、そうだったわね」
「じゃあ、早速ホールへ行きましょうね」
「ええ」
「お昼ご飯は何かなー」
「ふふ、はしゃぎ過ぎよ」
「えへへ……、……!?」
「何。どうかした……、……!!???」
そこにはやはり一様に、俯いたまま食事を摂る一同がいました。
「美鈴、これはどういうこと?」
静かな声で問いただすが、麺をかき込むのに精いっぱいな美鈴はやはり静かに首を振るのでした。
「パチュリー様……」
「……」
「怒ってますか?」
「別に」
脇に控える一般メイドたちの表情は暗いものです。
そして相変わらず聞こえてくるのが二人の会話。
「美味しいですね。ナポリタン!」
「うー、うー」
夜
「パチュリー様」
「何……?」
「お願いします。何とかしてください」
「……」
「怒ってますか?」
「別に」
こんな二人と無関係な二人はすぐ隣にいました。
咲夜さんとレミリアちゃんです。
「お嬢様、美味しいですねナポリタン!」
そう。食べる人の喜ぶ顔と言うのは本当にうれしいものです。
ところが、おや……。
レミリアちゃん、なぜか元気がありません。
「うー……、うー」
「どうしたのですか。お嬢様……。具合が悪いようですが」
列席する一同は思い思いにナポリタンを啜ったり、水に渇きを癒したり、あるいは沈鬱な面持ちで宙を眺めたりと様々です。
そこで、突然声が上がりました。
誰でしょう。
立ち上がった彼女はフランドールでした。
「なんでナポリタンばっかりなの!?」
最初は何が起きたのか分からないといった様子でしたが、一斉に人の目が集まりました。
「やっと言ってくれたか」という期待の目。「ありがとう」という感謝の目。それはやはり様々なものがありました。
しかし、咲夜さんは違ったのです。
「何でって……、お嬢様が好きだからです」
「何度もナポリタンばかりで飽きちゃうでしょっ」
「何を……。お嬢様はこれが好きなのです! お嬢様が好きなものを作って何の問題があるのでしょうか!」
一瞬は怯んでしまったのですが、そうは行くかとフランドールはレミリアを指差しました。
「お姉さまだって何度も何度もじゃ飽きてしまうわ。 そうよね! お姉さま」
「そんな……。お嬢様は美味しいって言ってくれましたよね!? 好きですよね!? 私のナポリタン!!」
さあ、大変。
レミリアお嬢様は二人から責められてしまいました。
当然、レミリアお嬢様は高貴な生まれなのでこんな経験などありません。
一体、どうなってしまうのでしょう。
「お姉さま。答えて!」
フランドールを見つめる大勢の目に熱がこもりました。
しかし、それを遮るように咲夜はレミリアの顔を覗き込みます。
「好きですよね! 好きって言ってください!」
そしてレミリアは答えたのでした。
「うー、うー……」
それを聞いたフランドールは「お姉さまの馬鹿! 意気地なし!」と言うや否や部屋を飛び出していきました。
同時にみんな、がっかりした表情をします。
「咲夜」
ここで呼びかけたのはパチュリーです。
「そんなやり方はよくないわ……」
しかし、その声はか細く咲夜には到底届かないものなのでした。
「お代わりもありますよ、お嬢様!」
「うー、うー……」
一週間後
目を醒まして、また地獄に舞い戻って来てしまった、と美鈴は思いました。
ここは真っ赤な地獄です。
以前から真っ赤だった?
いいえ。以前はこんなどす黒い赤ではありませんでした。
そう。以前はこんなんじゃなかったはずなのです。
ワインのような赤……。懐かしさを感じます。
ところが今、テーブルのお皿の上を一面染め上げるそれは別の赤でした。
今日もナポリタンは指示を受けたメイドの手によって作られ、間断なく運び出されてきます。
屋敷は一日中、トマトソースの匂いがします。
一日三食、美味しいご飯を作ってくれたメイド達はもはや美鈴の知っている彼女達ではありませんでした。
空ろな目でひたすらナポリタンを造る機械でした。
パチュリーも元気がありません。
以前からあまり元気はありませんでしたが、やはり元気がありません。
とても悲しくなってしまいます。
フランドールはあの後、部屋にこもったきり出てくることはありませんでした。
美味しいものは食べられているでしょうか。それともお腹が空いてしまって困っているでしょうか。
どちらにしてもここよりはずっといいか知れません。
以前は口の周りにべっとりとトマトソースを付けてはしゃいでいたレミリアお嬢様もここ数日は何だか元気がないようです。
咲夜さんはとても心配しています。
「ナ(以下略はもう嫌ぁ……」
そう言って冷めざめと泣くのは小悪魔でした。
それでも、まだ泣けるだけ彼女は良い方だと思うのでした。
「もう、いつまでこんな地獄が……」
さてそんな日の夕方に事件は起こりました。
一体、何が起きてしまったのでしょうか。
時は夕暮れ、夕食を食べる段になってレミリアが突然癇癪を起したのです。
食事を前にしたレミリアは立ち上がり、止めようとする咲夜の手を振り払うと厨房へ駆けこんだまま出てこなくなってしまったのでした。
実はレミリアがこんなふうになるのはとても珍しいことなのです。
眠れなくなったり、お腹が減って咲夜を呼ぶことはありますが、逆に咲夜を拒んでしまうのは考えられないことなのでした。
「お嬢様 どうしたのですか?」
厨房の中へ咲夜が入って行きます。
「いやー」と聞こえるのはレミリアの叫び声です。
「本当にどうしたのです。お嬢様。さ、機嫌を直して一緒に晩御飯食べましょうね」
「やー!」
「今日はお嬢様な大好きなナポリタンですよ!」
「うー! うー!」
「ええ。ナポリタンは美味しいですからね」
「やーー!!」
レミリアは必死に抵抗しますが、何しろ咲夜さんは時を止められるのです。
あっという間に捕まってしまいました。
脇から抱きかかえるようにしながら、引っ張って行こうとします。
「お代わりもありますよ」
「やーーーー!!」
そう。その時でした。
レミリアの右手が真っ直ぐに咲夜へ伸びました。
そうです。ここは厨房でした。
「……、お嬢様?」
「レミィ!」
異変に気付き駆けつけてきたパチュリーでしたが、ほんの少し間に合わずレミリアの持った包丁は咲夜に刺さってしまいました。
「何て事を」
レミリアの手から包丁が落ち、同時に咲夜さんも倒れました。
「お嬢様、どうして?」
「咲夜あ……」
レミリアの目から涙がこぼれました。
「私、私、ナポリタンじゃないものが食べたかったの」
「……ナポリタンが嫌いになってしまったのですか?」
「違うの。毎日は嫌なの」
咲夜さんは静かに目をつむりました。
「そうですか」
「今まで黙っててごめんなさい」
「いえ。私こそ気付いてあげられなくてごめんなさい……」
レミリアは泣きながら続けます。
「私、私、本当は……」
「……はい?」
「カレーが食べたかったの!!」
レミリアは知っているでしょうか。
妖怪は突かれても切られても簡単には死にません。
でも、人間は違うのです。
突かれても切られてもすぐに死んでしまいます。そして死んだ人は帰ってはきません。
皆さんは覚えていますか。
私が咲夜さんを完全無欠の美少女だと言ったことを。
彼女は人間です。
だから、簡単に死んでしまうのです。
では、始めから彼女が吸血鬼ならばよかったでしょうか。
皆さん、一緒になって考えてみてください。
咲夜さんはただレミリアお嬢様を喜ばせたかっただけなのです。
レミリアちゃんは咲夜さんが大好きだっただけなのです。
一体、それがなぜこんなことになってしまったのでしょうか。
どこでどちらが間違ってしまったのでしょうか。
それから月日は流れ。
紅魔館に再び静寂が訪れ、氷精が飛び始め、すっかり季節が変わりました。
――紅魔館 厨房
「それじゃ、カレーライス召し上がれ!」
「わーーい!! 咲夜大好きー」
「おかわりもありますよ!」
「刺さったのが腕でよかったですよね! パチュリー様」
「そうね。(もぐもぐ」
めでたしめでたし
正直、ちょっと中途半端過ぎるかなぁ…
気苦労の絶えない妖精メイド達はちょっとかわいかったです
それはともかく、嫌いじゃない感じでした。展開にもう一捻り欲しかったかな。