「愛妾を亡くした帝が、反魂の香を焚いたのを知っている」
幽々子が何の脈絡もなく話題を転がしてくるのはそう珍しい話でもなく、そのときも彼女からのらりくらりとそう訊かれたが、その手の逸話なら、もちろん私も知っていた。この国には坊主が鬼を真似て死人を蘇らせた話さえある。「ばかにしないで」と笑ってやったつもりだった。こっちはあなたが亡霊をやるより何倍も長く、妖怪をやっているのですから。けれど、彼女はいつものように笑い返してはくれなかった。飄々と呆けの真似ごとをしてみせる幽々子らしくもなく、じいとこちらの顔をのぞき込んだだけだった。「怒っているの、紫」「怒っているって。私が」。
まさか、そんなことが。
香炉から立ち昇る薄い煙にじいと見入っていると、あのときの焦慮がまざまざと蘇って来る。何も言えずに押し黙ったままのところへ庭師が茶を持って来なかったら、さっさと白玉楼から退散していたかもしれないのだ。結局、その日は茶請けの餅にはひとつも手をつけなかった。世間話も四方山話もなく、久しぶりの再会は途切れ途切れに終わってしまった。熱い茶が舌先を火傷させたことだけが、やけに強く記憶に残っている。
「反魂の香ね」
そんなものに手を染める邪な道士を頼るつもりは、私には微塵もない。けれど、ある帝はそれを試したのだという記述が確かに残っている。愛妾を亡くした彼は、道士に命じて死者の姿を蘇らせる香を焚かせたという。しかし、煙の向こうに見えるのは女の影ばかりだった。香炉の燻らせる煙の向こう、死んだ女を垣間見た彼は、両の腕で抱き締めたいと思ったはずだ。しかし、いかに彼が望んだところで、その手にできるのは思い出だった、夢だった、幻だった。何よりも、どうにもならない彼自身の恋しさだった。大きく歪められた煙はその役目を全うできず、いずれ飛び散った香気の中に女の姿も消え去った。女はもういちど死んだのだ。殺された。他ならぬ、その帝のかなしさに。
帝の行いをばかげていると謗るつもりは、ほとんどない。ほんのわずかに蠢動する私の良心めいたものが未だあるとするのなら、それは、他の誰をも頼ってはならないという、八雲としての矜持だけだったのだと思う。熱くなった香炉の端を指先で叩きながら、直ぐ脇に備えてあった小さな文机の引き出しを開けた。金を吹くように蒔絵の施された小箱がのぞき、さらにそのふたを、弾き飛ばすさえもどかしく取り除く。白布と油紙に包まれて隠されたその中身は、刃物を使って粗く削り落とされた幾つかの樹皮だ。切り口は黒ずみを生じ、眼にすることでさえも、少しばかりためらわれるほどに醜かった。言うなれば、あたかも屍体の骨にこびりついた腐肉を削ぎ落としてきたようなものだった。それを、古代の神に捧げる生贄のようにして、ためらうことなく香炉の灰の中に投じた。鈍く輝く火の真中、ごつごつと微細なこぶをつくった小さな樹皮のかけらが落ちて行くたび、浅く火の粉が舞い上がった。桜の花弁のようだと思った。風に舞い上げられた桜の花弁が、そこに立つ人たちを残らず覆い隠してしまうような烈しさの光景だと。だが、そこには何の姿も生じなかった。一瞬、勢いを増した煙の中に、人の影さえ見ることはなかった。私の夢の中にだけ、その烈しさは何度も何度も蘇った。
愚かだ、私は。
そう思って、自分自身を突くべき嘲りの言葉を探そうとした。心はぐるぐると渦を巻いた。鳴動する大気のようにしてである。風がやがては吹き止むほどに、自分の心まで思い通りになることはなかった。ばかばかしくなって、しばらく笑い転げていた。たとえ懐かしさからつくられた香を嗅いだとしても、そうして理想の幻を見たとしても、懐かしさが懐かしさでなくなるはずはない。衰えると解りきったうえでの快楽になど、誰も見向きもしないというのに。そんなこと、嫌というほど知っていたはずなのに。
「紫さま、今日のお夕飯は何を召し上がりたいかと藍さまが……」
とた、とた、軽快な足音を次ぐようにがらりと障子を開け放って、二股の尻尾を揺らす式の式が元気よく部屋に飛び込んで来る。素直な良い子だとは思うのだが、少しやかましいときがあるのが悩ましいところかも知れない。だが、私の姿を眼にするだに彼女は彼女らしくもなく直ぐにその尻尾を萎れさせ、おろおろと、こちらの顔色をうかがうようにして身を屈めた。床に転げたままの私の元に這って来、そして遠慮がちに言った。
「紫さま。どうされたのですか。お腹でも、痛いのですか」
「……いいえ。何でもない、何でもないのよ、橙」
「でも、そんなにも涙を流していらっしゃいます。苦しそうに、紫さまは泣いています」
四つん這いになったままでいる両手をぎゅうと握り締め、橙は、自分もまた泣きそうな顔で私の顔を覗き込んでいた。どんな言葉をかければ良いのか、何をすれば私にとって最善かも解らず、申し訳なさそうに尻尾を垂らしているだけだった。良いの、と、私は言ってやりたかった。全部、私が悪いのだから。はるか遠くに過ぎ去ったものを今さら欲することがどんなに虚しいことなのかと、知っていたのに試してしまった。そんなことをして誰が蘇るわけでもない。だから、ただ、泣くことしか出来なかった。子供のように。怖い夢を見てしまった幼子が、どこかに行ってしまった母を求め続けるように。文机の、もっとも奥に隠された匕首のことを思い出した。橙が私の式だったら、それで私の胸を、ひと突きにするよう命じたものを。
障子の向こうで、春の嵐がごうごうとうなりを上げていた。
――――――
光芒を引いて落ちる花弁を夜の中に幻視したとき、ひどい眩みに襲われた。
喉の奥が震え、声が声として形になるのを、肉体が拒絶している。記憶の淵から追い落とされた甘やかさが毒となって、そのときの私を責め苛んだ。喩えるのなら嘔吐に対して感傷を抱くことと似ている。唾棄すべき生理の姿へさえ美しげな錯覚がある。忌んできたことごとくに対する、奇妙な愛着のようなものが生まれているらしい。それは刺々しさであり、またかぐわしさでもある。肺に食まれる芳香は、痛みが血と共に消え去るごとく滅びていく。
人喰いの桜はひとときも咲くことはなかった。咲いてはならないものだった。その根の奥底に沈む人ひとりの死が楔となって打ち込まれた瞬間からのことで、暗中に沈んだその場所だけが、生と死の常なる擾乱から完全にうち棄てられている。立ち尽くす私の手の中のものは、しかし、死の騒がしさを束の間に蘇らせるためにこそある。錆びついた匕首(あいくち)。かつてあわれな女の胸を貫き、桜の根元に亡骸を埋めさせた、憎らしい匕首。それを私は奪ったのだ。その女の屍骸のかたわらから、追い剥ぎのように。
ほう、と、息を吐いた。
すると、豊満な桜の幹は人の身体とそっくりに見えた。
幾千の記憶の代わり、ただひとりの命を吸い上げたせいだろう。
冴えかえった月の光が降り立つと、火を投ぜられた原を見るように、二百由旬は瞬く間に蒼々と燃え盛る。冥界での庭でも月は蒼く見えるものだという事実を、私はすっかり忘れていたらしい。吐胸を突かれて彼女の名を呼んだ。誰にも知らせずに忍びこんだこの晩のこと。友人の子飼いである庭師は未熟者だが優秀だ、もし見つかれば斬りかかられないとも限らない。しかし、束の間、破滅は夢見ていたい。夜が本来持っている騒がしさを、沈黙と取り違えることはさして珍しいことではない。きんきんと、耳の奥で冷たいものが弾ける感触がした。息の弾んだことだけを認識させる、そんな静けさはときに暴威だ。何ものも凌駕すること叶わない、どうしようもない憂鬱だった。
陰の気を孕んだ冷たい空気。冥界そのものと呼べる迂遠な死の気配が首を薙ぎ、闇に薄笑いの映えているだろう私の顔。鏡さえあれば私はそれを叩き割る心地と言えるだろう。一個の破片を飲み込んで、それでもなお数多ある銀色に顔を映して震えているに違いない。言葉もなく。沈黙をもたらしているのはむしろ生きることへの埋没であり、死はこんなにも生者の心の中で、追憶をやかましく騒ぎ立てることをする。
「この桜のために、幽々子は死んだ」
鞘から抜き放った匕首の先にツと指を触れた。皮膚の破れる緩慢な感触の直ぐ後に、血と熱と共に溢れ出す痛みを悦んだ。地面にぽたりと落ちる一滴の血に、夜の闇が融け込んで見えた。破けた指の傷を両の唇で挟み込み、舌先で幾度も幾度も突いた。歯で肉を噛み、唾で絡め、ぐずぐずと砕けていく冷たさに慄いた。血が止まる気配は未だなかった。口中から引き抜いた指先を、桜の幹に押し付ける。脈動するみたいな蠢きが感じられ、すると、指先から流れ出た血の跡が尾を引いて、桜が真っ赤な涙を流しているのではないかと錯覚した。刃を立てて、あるいは撫でるようにしながら、その樹皮をわずかずつ削っていった。がり、がりと、断続する音が耳に触れた。
私はこの桜を憎悪しているのではなかった。しかし親愛や共感などもっとありえなかった。西行妖は、古い古い観念の残骸だ。けれど、それを忌むことは、桜そのものを心の端に留め置き、懸想をするのとどこか根を同じくするとは言えないか。千年も遅れた恋情の真似ごとだ。ただし、その根から来たるものだけを求めてのことで。形而でしかなかった香気を、より確かに感じ取るために。匕首を力の限りに握りしめると、手のひらの熱さは少しずつ消え去っていた。汗をかきもしない自分にぞっとする。今の私は亡霊よりも亡霊らしい。とはいえ、立つのは柳ではなく桜の下だけれど。冷たすぎる思考の動きは、冷静さとはきっと違うというだけのことだ。
西行妖を切りつける匕首の真下、絶えず落下する樹皮のかけらを受け止めて、空だった片手はもういっぱいになっていた。しかし幾つかは地面に落ちた。また幾つかは風に吹かれてどこかへ消え去った。最後に残ったほんのひと握りのかけらの群れは、乾いた手のひらの真ん中で小さく小さく丸まっていた。弱々しい動物が尻尾を抱いて委縮したみたいに。だけれど私には、この木の下に手足を折り畳まれて埋められた屍体が、ごく矮小な姿に化身して降って来たのだとも思えてしまった。
それは、目一杯に溜め込んできたあらゆる命の残りかすが、私にだけ感じられる幻として結実した瞬間だったのだろう。死人は空想として幾度も幾度も蘇らされる。人がそれを忘れたときにだけ死に、誰かが思い出したとき、また新たに産まれ直すのだ。われわれは最も残酷な手段で死者を二度殺そうとしている。空想はいつでも傲慢だ。そんなことはとうに解っている。解っているはずなのに。生きていくとは孤独を発明することにほかならない。それは果たして、誰かと一緒に居ることでつくり上げられる。ひとりで居ることしか知らない者が、孤独を知っているわけはないのだから。
手の中のかけらを握りしめて、私は彼女の名を呼んだ。亡霊になって笑む彼女は確かに彼女だった。しかし、私が知っていた彼女ではない。私は、何ひとつも手に入れてはいなかった。孤独がもしもあるとするなら、今がそのかなしさのときだった。
――――――
「これは井蛙(せいあ)、というのね」
倦んだ声音で、彼女は言う。閉め切られた部屋の端、香炉を撫でる友人の指先は、おそらく冷たいはずなのだと思った。漂ってくるというよりも噴き上げているというほどに香気は強く、このままでは息をふさいでしまうとまで錯覚させられてしまうほどに。いいかげん戸を開けなさいよと言うと、香りが逃げてしまうから、嫌だと言い返された。
香炉は、井戸を模して丸い形をしている。古い鼎を思わせる三本や四本の脚の代わり、水かきのついた、肥った蛙の脚がその姿を支えている。ただ、蛙の顔らしいものはどこにも見当たらなかった。井蛙というのは、つまり何のことはない、『井の中の蛙』という意味の言葉だ。世には謙虚さのつもりか、この二文字を号する人も多いと聞く。しかしそれを現すにしてはいささか趣味の悪い造形をした香炉と思う。私は、彼女の審美の眼を褒めるべきかたしなめるべきか考えあぐねて、ただ苦笑いを返す。
「香霖堂とかいう古物商いの店があるでしょう。冷やかしのつもりで妖夢と見に行ったのだけれど、店先でついこの香炉を見初めてしまったの。まあ、それほど高くもなかったし、店主の言い値で買ったわ」
けたけたと、子供のように彼女は笑った。
「私はときどき、自分が“この子”と同じではないかと思うのよ。何かに囚われているに過ぎないと自覚している分、おそらくはふしあわせかもしれないのだけれど」
亡霊にはよくある気楽さは、しかし、欠落を隠すものに思えることがあった。“賢者”さまのお節介だろうか。彼女はいつもと変わりのない微笑を浮かべていた。桜の根元にその身を埋められているという事実を彼女は知らない。数百年の年月に追いつかれて忘却したか、あるいは命と共に棄て去ったのか。
「それなら、なおさら戸を開けるべきでしょう」。すッくと立ち上がって、私は勢いよく戸を開けはなった。「あ……っ」と、彼女はうなったが、直ぐに黙り込む。唇を尖らせるような素振りを見せたものの、直ぐにまた、つかみどころのまるでない笑みを浮かべ始めた。
開け放たれた戸の向こうには庭師が見え、彼女は手にした竹箒を絶えず動かしていた。未だ少女でしかない庭師は突然の物音に背筋を震わしていた。そのわけが私と知れると、こちらを見据えながらぺこりと頭を下げて見せる。先代より幾らか明るい銀色をした髪の毛がさらさらと揺れた。相手の眼が未だ伏せられているのを見届けたまま、からかいか、いたずらか、私は微笑んで見せた。
「“あれ”はね、」
友人がつぶやく。
「良い子よ。とても、良い子」
そう――、と、私もつぶやいた。
「それはなにより」
庭師のかたわらには、人喰いの桜が植わっている。
ざわざわと、桜の幹が揺れる気配がした。
二百由旬のただ一点、咲くこともなく、枯れることもないまま鎮座する人喰い桜を目前にして、香炉の放つ芳しさは、友人の語る言葉とひとつになった。庭師が倉からたまたま掘り起こしてきた、古い古い香木という。それを指の先ほどに刻み、小箱の中にしまっている。ひと摘まみごとに香炉の中に投じると、燻ぶる火の中から幻のような香気がまた映えていく。突き刺さるような甘ったるさで。
嗅覚に語りかけるものが不思議と厭わしくなって、「ふう」と息を吹いて煙を掻き消そうとした。乱された香を惜しむみたいに微笑を返して、友人は、ぽつり、ぽつり、と語る。忍び足の真似ごとをして、また香炉の前に座り込んだ私。
「西行妖はね、紫。ときおりひどく懐かしいものと、私には思えるのよ。今や在りもしないこの身の肉の一片、この魂の、この霊の、一塊を切り砕いて。そうして桜の中に埋め込んで、忘れることのないように、誰かがわざと私の眼に見えるところに隠しておいたみたいに」
ああ、そうかと、すべてを覚ったような気がした。
彼女はもう気づいているかもしれないのだ。自分が何であるのかを。そして、真実を眼にした瞬間、破綻が訪れてしまうのかもしれないということを。
「きっと偶然ですわ。知ってる、幽々子。唐国(からくに)では、そういうのをデジャヴュというそうで。知らないはずのものを、知っていると錯覚すること…………」
嘘に限りなく近い真実だ。生きていたころの彼女はもう居ない。今の彼女は、この指が触れ、この眼が見た彼女ではない。すべては過去のことで、しかし、私は過去の彼女も今の彼女も、同じく籠の中に囲おうと考えてさえいるのだ。いや、ここでは井蛙のようにという言うべきだったのだろうか。
私はすでに知っているのだ。人喰いの桜の楔となった少女が居たことを。それを自ら進んで選んだのが、他ならぬ西行寺幽々子であるということ。どうにもできない古びた憧憬から、八雲紫は未だに逃れられないでいるのだということ。
――――――
銀色の総髪を肩に垂らした家来が、懸命に桜の根元を掘り起こしていた。そうすることが主のご遺言にございます、と、彼は言った。彼女の最後の望みを私より早く知っていた彼が、そのときは少し、妬ましかった。
かたわらに置かれた亡骸を、ちらと見た。
もの言わない彼女の眼のふちに、黒い染みが這い込んでいるように思えた。それが腐敗の兆候であったとは考えない。早くしてと急き立てるあまりにも瞭然とした『声』の気配を、死者のものとも思わない。そんなものは自分の望みを、友人の声で代弁させているだけではないか。……夢想にふける私を横目で眺めて、家来が息を吐くのが判った。少しだけの呆れを覚えた顔つきで、彼の手は間に合わせの墓穴をこしらえていく。土の挟まって黒ずんだ爪の先や、ひやりと地面の下の冷たさが染み込んだ彼の手のひらのにおいを、妖怪の嗅覚は覚らずにはおかない。彼はおそらく笑っていた。竹でできた並はずれて大きな行李のふたを――まるで、始めから人ひとりを容れることだけ考えてつくられたように――開けるとき、笑っていた。忠義のゆえだろうか。生者の記憶に恋々とする、歪な心が残っていたからだろうか。私に解る由もなかったけれど。
ひととおり、桜の根元に行李を埋めるにちょうど良いくらいの穴を、円匙(えんし)でもって掘り返す彼。土をざらざら掻きだした後に、円匙を地面にざくりと突き立てた。すると木でできたそれは“ぐわり”とたわんだ。自分に墓標の役目は果たせない。薄汚れた木の身体を天に向け、まるでそう語っているようだ。手の甲で額の汗を拭い取り、家来は刀の柄に手を置いた。人を殺すための道具だ。実は桜と同じくらい、彼の腰に佩いた刀も、人を喰っているのではなかっただろうか。だとしたら、ひどくつまらない皮肉。
家来は次に、死んだ主を抱きあげ、行李の中に収めようとする。「手伝いましょうか」「いや、結構」。ふらふらと頼りなげに歩く彼の姿を放っておけなくなったのだが、にべもなく突き返された。とたん、彼の笑みは消える。あるいははじめから私の見間違いか。近くでは、彼は意外と華奢な体躯をしていると見える。いかにも刀を振り回すのに適したような屈強さに思えていたはずなのだけれど。行李の中にたたまれていた大きく真白い布を広げ、手こずりながらも余すところなく屍体を包み終えた。手も脚も顔も、もはやまったく見えることがない。布からわずかに透いて見える血の色は、赤ではなくどす黒かった。家来の手を離れ、彼女の屍体が行李に横たえられた。手足を可能な限り折り畳まれた姿は、もはや中に人がひとり包まれていると言っても容易には信じがたいほどの矮躯だった。行李の蓋を閉じた。間に合わせの埋葬であるにしても、いたずらに他人(ひと)の眼に犯されずに済むだけ、救われているのかもしれない。
ざりざりと土に埋められていく行李の周りに、どこからともなく翅を震わせながら小虫が飛び寄って行く。ときどき、家来は作業を止めてそれを手で払っていた。「気にしないで良いのに」と、私が声をかける。「虫くらいなら、いくらでも追い払って見せますのに」。彼がこちらに眼を向けた。だが、睨まれたのではない。ごく短い時間で私を観察し、にいと笑って見せただけだったのだ。「これもまた、わが務めであるのですから――」、他人の力を借りたくはないと、彼は言いたかったのだろうか。ぼそぼそと小さくなっていく言葉は上手く聞き取れなかった。やがて行李を完全に埋めてしまうと、弱々しく円匙で地面を叩く。足で踏み固めることには、さすがにためらいが勝ってしまったか。これからはあの桜の、いっとう大きく太い根が、西行寺幽々子の横たわる最後の褥(しとね)だ。
埋葬のために四肢を折り曲げられた私の友人は、胎児になった。羊水代わりに身体を沈める白い布に覆われて、肥え太った樹木に守られながら。人喰い桜が母の代わりを努めるとは、今生にこれ以上の皮肉が見つけ出せるだろうか。ここで、こうして埋められた西行寺幽々子は、生者の記憶の中でかつての姿のまま、産まれさせられるのだ。何度も、何度も。
――――――
あの桜は、どんな者も幹にその背を預け、そこで穏やかに死ぬことだけを夢見させる。西行妖の下で死との交わりを考えることは、人喰いの桜に果てしのない懸想を抱くことと、果たして何が違ったのだろう。
彼女が死んだと、使いに遣った式から報せを受けたとき、私はそれほど驚かなかった。ああ、やはりかと思って、喜ぶこともかなしむこともしなかった。自明のことに感情をむき出しにする必要はないと、本来の八雲紫が冷徹に語る。しかし、驚かなかったことに驚いた。私の中の、ばかに人間じみた部分がそうさせていた。要らぬ付き合いに首を突っ込んだせいかとも自問した。人間は妖怪を毒するのだ。その日、空はむかつきを覚えるくらい青々と抜けていた。その明るさにはるか見下ろされ、幽々子は幽々子自身を削り落としたのだと、そう思うことができる。その刃でもって、私の魂に存するある一面でさえ、容易に切りつけてしまいながら。昔日に記された古代の物語をときたま読むと、人間はかなしみのあまり、泣き叫びながら胸を打ちたたく、と、在る。大げさだと私は笑う。笑わなければならないと、妖怪は妖怪のままで居続けなければならないと、笑おうとする。通り抜けた隙間の向こうで、没落した公家であった西行寺の屋敷はとっくに草莽に帰している。銀色の髪をした、あの気難しい家来の姿は見えなかった。幽々子が死んだことを伝えるために使いに走ったのだろうか。だが、とうに滅んだような家と繋がる人が、いったいどれくらい居たというのだろうか。私は愕然とした。私は幽々子のことを、ほとんど何も知らなかったのかもしれない。
けれど、そんな鈍った眼で見ても確かに幽々子は死んでいた。錆びついた匕首で、胸の真中、乳房に隠れたみぞおちを真っ直ぐひと突きにして。錆の赤と血の黒が互いに混じり合っている。その鮮やかさだけが、ただ烈しい。
ひと思いに心の臓を突かなかったのは、土壇場でためらいが生じたからだろうか。もし知らぬ者に彼女のことを物語るとき、そんなふうに言ってしまう方が最も合点の行く説明ではないかと何度も考えた。しかし、私は結論を躊躇した。虚ろな眼を、彼女は天頂へと向けていた。仰向けになったその頬に、たった一枚の萎れた桜の花弁だけを残して。だけれど、彼女が見たのは空ではない。確かに人喰い桜が力尽き、咲くを棄て去る様を、その眼に収めて死んだのだ。私に残ったのは歓喜ではなかった。恍惚でも忘我でもなかった。ただ、無意味な沈黙だけが、うるさく鳴り渡っていた。しょせん、こんなものだ。死者の顔に浮かんだ、ひどく寂しげな色を見た。胸を打ち叩くほどのこともない。涙を流すまでのこともない。今、こうして私の眼に収まっている幽々子の姿は、誰にも犯されない私だけのものなのだ。幽々子さえ、それを知りもしない。
彼女の手は未だ温かく、指を開かせ引き剥がすのは容易だった。握っていた匕首を、奪い取るためだ。柔らかいままでいる肌の感触に、私の熱が吸われていく。残された温かさが消え去ってしまうのも時間の問題だろう。傷口から刃を引き抜き、そばに転がっている鞘を拾い上げ、その中に収めた。死んだ彼女の代わりに冷たい息を、思いきり吐いた。こんなくだらないことさえ、もうできやしないのだから。何もかもが、ひどく古びて思えた。春の嵐が吹きすさぶ予感がした。どこか遠くの方で、風がごうごうとうなりを上げた。
――――――
彼女は、私に言ったことがある。
逃れられない物憂さを、両の眼に宿らせながら。弱々しい声と、何かに眩んだような表情。頬の内側から、唇までに熱を伝え、冷えきった事実を吐き出す。そのときは、彼女は未だ亡霊ではなく人間だ。打算も虚偽もなく、熱い肉体で冷たい言葉を成立させることができるのは、人間だけにできる矛盾だったから。
「この間もね、下女がひとり、死んだわ。ひどく年老いた顔を切り刻む、たくさんのしわをいっぱいに伸ばして、悶えながら。私の毒気に中(あ)てられてなのか、桜に喰われたのかは判らないけれど。でも、その由を自分自身に求める方が、何かをするにはちょうど良いのね」
だから愛おしい、と、彼女は切り出した。知っているでしょう。私は人を滅ぼすの、私の身体からは死が溢れ出していて、考えることなどできもしないままに誰かの命を刈り取るの。言葉の意味が解らなくて、私はただうなずいた。彼女の恍惚は、物憂さの中に身を隠していた。胸の前で両手を掻き抱いた幽々子が、いったい何を待ちわびているのか。理解するのにそれほど時間はかからない。
「死ぬことは、私の内から生み出される子供たちみたいなものなのよ。西行妖も、きっと似たようなものだわ。ああ、私、すっかりおかしくなってしまったのね。もうあんなにも狂った桜を――私の命を使って――封じることが、ちっとも怖ろしくなんかない。私は人喰いの桜に喰われることで、人喰いの桜を喰ってしまう。ひとつになってしまうの。もう、ずっと」
陶然としてくり返される微笑から眼を背けたくて仕方がなかったが、自ら叱咤する心がそれを拒む。
たとえ詭弁であったのだとしても、幽々子の言葉を受け容れることはできなかった。
心の奥底、感情の深奥、理性のいちばん深いところ。いずれにあっても、確かに理解できていたというのに。この感情が、紛れもない嫉妬であるということに。ある“秘密”めいたものを共有する、人喰いの桜に対して。とッ、とッ、と駈け出す幽々子の足取りは、もう直ぐやってくる儀式を心待ちにしているみたいに見えた。しかし、止める気ぶりも、言葉も、幾ら考えても形あるものにならなかったのは、あるいは私がどこかで望んでいたからではなかっただろうか。気丈に笑んで見せる佳人の姿を、ただ自分のみが眼の中に留める、その謀(はかりごと)の始まりとして。
この日、幽々子に会うのはもうこれっきりだと考えたのは薄情なことだっただろうか。生きたものだけ心のうちに保存して、喜色の思い出を食んでいようとしてしまうのは。それを絶えず祈念するくらい『妖怪の賢者』は狡猾で、同時に直ぐさま否定するくらい『八雲紫』は臆病だったのだ。
友人は、地上に打ち下ろされた巨人の足みたいに大きな妖怪桜――そのときは未だ咲いていたのだ――を、両の腕で抱いた。額を押しつけて深々と息を吐いた。後ろで見ていた私の眼には、それから、幾度か幹に唇を押しつけて微笑をしているようにさえ思えた。
どう、と風が吹くと、爛々と輝く花弁が飛び散る。このひとつひとつが、喰われていった人間たちのかけらだ。桜もまた目前の女を愉しんで、ごう、と風の音を借りて声を上げた。しかし、何とおそろしいことだろう。“吐き気をもよおすほどの”美しさというものは、実際に存在し得てしまうのだ。美しさなど、異形と似通うどころか、それぞれ同じものを表したふた通りの名前でしかないのだ。そして、幽々子もまたその一部になってしまおうとしていた。
化け物が帷子(かたびら)を着たようなとびきりのうつくしさの、あの桜に、幽々子は、犯されることを選んでしまった。
――――――
現実は幻想を語ることができる。しかし、その実においては現実こそ幻想を言葉にするための道具に過ぎない。八雲紫は胡蝶であり、胡蝶は八雲紫である。過去が現在を言い当てたのか、忠実に書き記された過去を現在がなぞっているだけなのか。
西行寺幽々子について語るとき、過去の彼女は幻想以上の幻想で、私の思考も意識も精神も、幽々子を物語るためにのみ在るべきものになる。本当に語っているのは、幽々子自身なのかもしれない。誰かのことを語るとき、言葉も、それを用いる別の誰かも、ほんの少しだけ従属を強いられるから。桜の根のかたわらに横たわる彼女は嬰児(みどりご)のようだった。手足を丸め、背を縮め、薄く開かれた唇から浅い呼吸をしていた。赤子のそうするように、“それ”は生きることを呼吸していただけだった。生きるためにという贅沢な目的ではなく、ただ生きることだけをしている。
ここに死のにおいは存在しない。死のにおいがもしあるとするのなら、それは生の残骸が全て途切れた瞬間のことなのだ。生が喪われて、そうして腐って落ちて行き、惨めさと一緒になって初めて死のにおいは昂ぶり出す。彼女は生きていた。しかし生きながらに死んでいた。ふたつのものの間(あわい)に横たわって、人になろうか蝶になろうか、幻想を語るのか現実を使役するのか決めかねている。
そうやって眠る彼女の情景に、私は直ぐに真っ黒な決別を塗りつけることもできた。冷め冷めとした視線を投げつけて、早々に踵を返すことももちろんできた。最初は単なる好奇心だったはずだ、桜が人を『喰う』ところを見てみたいという。そのことを、私はすでに知っていた。それからその桜と双子であるかのように、死を撒き散らすあわれな女が居るという話。単なる物見遊山で旅をすることよりも、距離の境界を越えるのは甚だたやすい。ぬるりと隙間を切り開くと、空間を分かつ暗渠から吐き出され、女の元に降り立った。
喰うためか。否。妖怪の爪や牙で脅かして、面白がるためだろうか。それも否だ。言うなればその感情は愛玩に近いものだったのだと、今では考えることができるのだろう。黒く光る蟻の隊列を見つけ出し、爪の先でひとつひとつの殻を押し潰す。彼女を私の眼の中に収めるということは、つまりそういった喩えに似ている。何らの意味もなく、さりとても特別の理由もない。費消されるべきひとかたまりの矮小である。
すでにして西行妖は歌聖をその腹の奥に収めてより幾百年、飽くこともなく無数の人間たちを貪食しているのである。今さら私が何をしてもその化け物じみた性向を取り除くことなどできはしないのだ。そのかたわらに横たわる女もまた同じことで、自らが他を食み続けるか、他に自らを戮させるかを決せざるまま無意義な生を永らえている。ばかな女。蟻の築いた一国が滅び去るのが、束の間、気の紛らわしにしかならないように、彼女のような生を送る者が居るということも、あるいは長い時間の慰みだ。
私は手の中の小さな籠へ眼を落とした。子供の好んで使うような、竹で編んだごく小さな虫籠である。鍵もないふたをひと撫でし、手指でゆっくり開けてやる。すると、白地に黒のまだらの翅をばたつかせ、不揃いの網目からその姿がほの見えるだけだった一匹の蝶が、のろのろと這い出て来る。息苦しさから逃れるように、ここには自分が呼吸すべき立派な空気があるということを確かめるように、蝶は翅を大きく羽ばたかせ、ふらふらと中空に触角を震わせた。そして見えもしない階段を、細く弱々しい六本足で確かめるごとく、いずこへともなく飛んで行く。これは、ここに来るよりも前に捕まえておいたものである。私とこの虫と、桜の毒気に中てられてるのはどちらが先であるのか、試してみたくなったのだ。住む者のなくなった籠を隙間の中に放り込み、もうどこか気力を失した心地で私は足を滑らせる。
落ち来る花弁を一歩、一歩と踏み、なおも眠りこける女へあと半歩というところまで近づいた。音もなく、また私と彼女と蝶と――それから桜の他には何の命ある気配もなく、打ち捨てられた静謐が、境もなく茫洋と広がっている。腰を屈めて女の顔を見、鼻を近づけてにおいを嗅いだ。耳を覆い隠して肩まで届いた髪の毛はわずかに波打つ形をつくっていた。花弁の色を映したような艶を持つその髪は黒でなしに薄赤く陽をはね返し、眼を細めるなら熟しきらない桃の色であるようにさえ見える。
それから、全体に漂ってくる香気は、それが生きた人のものであるにしてはあまりに薄く、本来あるべき『人くささ』とでもいうべきものがない。というよりも、生きているにおいがしなかった。汗と糞と腹の中の食い物と、およそ生者であるなら美醜に関わりなく漂ってくるはずの、そうしたにおいがまるでしなかった。肉の腐り落ちて、土にどんどん近くなっていく、死者のにおいさえもしなかった。
感じたのは奇妙に懐かしいにおいだった。
親の顔など知らない、憶えてもおらない。この八雲の父母と生国(しょうごく)とは共に木の股とでも言えそうなものだから。だというのに、懐かしい。古い古い憧憬をさえ感じさせるそれは、『母』と呼ばれるものに近いのかもしれなかった。見えもしない胎の内より死を産み出し、周りには常にその子供らを侍らせている、異形の母。今はただ眠り、自分が何であるのかをしきりに確かめようとしている。人であるのか、蝶であるのか。生きているのか、死んでいるのか。境を越えた思惟のために、子を産むことを忘れながら。母で居たいのか、そうでないのか。口の中が乾き、舌の根が上顎にぴたりと貼りついた。飲み込む唾も凍りつくような峻厳の中で、いったい誰が眠りと死とを取り違えずにいることができるだろう。慄くような安逸に魅入られずにいることが。果たしてそれは人喰いの桜にではない。眼前の、自分などよりはるかに年若いはずの、人間の少女に。
ささやかな怖気を感じた。これを除いてしまわなければならないとも思った。彼女の身体に覆い被さって、頸に手を伸ばした。脈打つ血の気配に拭い去れない妖怪としての本能が昂ぶった。徐々に押しひしがれていく彼女の息が、私の咽喉(のど)を焼いた。これが、何だ。私が彼女を欲しているわけはない。私が、私の中から余計な物を切り出してしまわなければ、やがては彼女の存在が膿んだ毒のようにして身体を巡り、まともな心でいられなくしてしまう。最後に残っているのは、おそらく焦りの他には何もなかった。そうやって早く早くと急き立てるのは、彼女を見つめていることが、八雲紫という妖怪を殺してしまうことのもっとも容易な手段になりかねない危うさを持っているからだ。この少女が私の中に存在することが、やがて尊大な肯いとなって私の記憶を苛むだろう。病みついた魂が救いを欲し、彼女の手を取ることを選ばせてしまうだろう。
ひと群れの花弁が、力ない私の手の甲に落ちかかってきたのは、少女を絞め殺せずにいる私に翻意を促す桜の意思だったのかもしれなかった。西行妖は人を喰う。桜が欲しているのが私の命か、少女の命だったのかは解らなかった。けれども私は、風に押されて指の股から滑り落ちて行く花弁が少女の唇の端に触れたとき、それを取り除かなければならないと、摂理を超越したものに命じられた気がしてしまったのも確かなことだった。魂に直接、肌を張ったように少女の頬は冷たかった。幾枚かの花弁をすべて指先で取り除いてやったとき、少女はうっすらと両の目蓋を開けた。長い睫毛の合間から、蜜の垂れるようにゆっくりと、涙が彼女の頬を流れて行く。花が開くのと間違えたかのようにして、辺りを飛んでいた蝶が少女の唇にその身を寄せ、涙の流れた跡を探し始めていた。
ふう、と、新たに落ちかかる花弁を少女の息が吹き飛ばしたとき、二枚の翅を細かに震わせて、蝶はその大きな眼を私の顔まで巡らせた。さまようように、安息を求めるように、蝶は私の手のひらにその身を横たえようと飛び上がった。しかし、指先に幾本かの足を触れようとした刹那のことで、ぽとりと地面に墜落する。あまりにもあっけなく――しかし、最後に弱々しく翅をばたつかせた後、蝶は、とうとう動かなくなった。
「蝶でさえも、私の毒に中てられて苦しむことができてしまうのね」
彼女の手に押し遣られるより前に、私は自ら身を起こした。
そうして背を伸ばしてゆっくりと立ち上がり、唇を隠しながらあくびをする彼女を見つめていた。うつくしい少女だと思った。「あなたは、私のことが好きかしら」と、訊く彼女に、私は首を横に振ることをした。彼女は、唇の端を歪めて笑む。
「それは、これから決めることですわ」
「そう。でも、私はたぶん、あなたのことが好きなのよ。死というものは、難しい言葉を用いるまでもなく、いずれ誰も彼もを好いてしまうほどに寂しがっているのだもの。あなたも直ぐに居なくなってしまうわ。私の毒をたっぷりと吸い込んで。あの、蝶みたいに」
はじめましてと、彼女は言った。ひと握りの桜の花弁を手の中に収め、その中に蝶の屍骸を包んでやった。埋葬する死者を、生者の強すぎる息から守るために。あるいは腐敗して醜くなり、死が本当の死になってしまう様を誰の眼からも遠ざけようとでもしているように。花弁の群れで薄赤く埋まった桜の根元に、彼女は蝶をそっ、と、置いた。絶え間なく降りかかる花弁によって、彼女の手から離れた花弁も、蝶も、すべて見えなくなってしまう。「何をしているの」「“埋めてあげている”のよ。死んだものは、弔ってあげるのが道理というものでしょう」。振り返り、少女は頬を撫でる髪の毛を指先で押さえた。いっとうに強い風が吹き、花弁があちこちで渦を巻いた。だが、桜の根元に溜まったものだけはざわざわと震えるだけで、どこにも吹き飛ぶようなことがなかった。眼に見えない墓守でも立っているみたいに。それとも無自覚の意志が、死者を守ることをさせているのだろうか。人喰い桜の方か、それともこの少女の方なのか。
「ねえ。あなたもいずれは死んでしまうのでしょう」
「そうね。人間ですもの。あまり長く生きすぎた、人間ですもの」
「あなたは、たぶん、未だ二十年も生きてはいない」
「十分すぎる。弔いをくり返すには、十分すぎるのよ。だから、今度は誰かが私を弔ってくれる番だと思うの。それを、これから探しに行きたいの」
再び、ふう、と息を吐き出して、彼女は私に笑いかけた。
その短い吐息で何を殺してしまうつもりなのか。私のことを、彼女は欲していたのだろうか。それまでの私を殺し、自分のための弔いに従属させる者のひとりとして。
「人間は、そんなにもかなしそうな顔をする生き物」
「あなたは、人間ではないの」
「私は、妖怪。百年も生きた。千年も生きた」
「死なないの、それとも死ねないの」
かぶりを振った。
少女と同じようにして笑い、少女と同じようにして自嘲した。
「きっと、そのどちらでもあります。私を殺せるものは、ただ強すぎる“否”を突きつけることだけですもの」
けたけたと、少女は笑った。腹を抱えて、身体を思いきり折り曲げた。細められた眼の向こう側から、ばつが悪そうにしている様子は微塵もなかった。彼女は無垢だった。自らの死をどうにかして引き寄せようとしていることについて、言葉にも、身体にも、少しの穢れさえなかった。けれど、その望みを人の身に留めておくのは決してできることではないのだ。彼女が人喰いの桜を褥(しとね)としていたわけに、私は朧に気を向けた。誰かが、彼女を弔ってくれるということ。それは、彼女とよく似たあの桜だけなのだ。だから、他の誰をも眼にすることのできない聖域のようにして、彼女は西行妖だけを好いている――。「変な人」と、彼女は言う。「お互いさまで」と、私は答えた。「夢を見ていたことにすれば、良いと思うの」「夢」「ええ。いつか自分が死んでしまうときに、これからどこか、もっと“まし”な世界に辿り着くことができると考えるの。この生は悪い夢だったのだわ。そんな風にね」。少女はあくびをした。それから、眼を伏せて「西行寺幽々子」と言った。
「私の名前。あなたは」
「八雲紫と、名乗ることにしています」
「いかにも長生きできそうなお名前ね」
これが悪夢でないと証するだけのものを、私はたぶん持っていなかった。境界でさえも飛び越えることができたとして――そして私自身はそれを為すところの力があるけれど――その善し悪しに決まりをつけるような何かは元より持ち合わせてはいないのだ。それをおそらくは肯うだろう尊大さが重石としてはたらき始めるとき、幽々子は幽々子でいられなくなってしまうのだ。醒める幽々子と、醒めた後の幽々子が同じものであると、いったい誰が言うことができるだろうか。どこかの時間の流れにはきっと存在するだろう、ある真実を見つけ出すために負うべき苦役を、あえて選び取ることができないほどには、そのときの私は愚かだった。
「私が死んだら、泣いてくれる」
そう、幽々子が訊いた。
「何の縁もない、私のために」
「幽々子は、未だ二十年も生きてはいない」
「紫は、もう百年も生きた。千年も生きた」
「そろそろ、“夢から醒める”ことの予行をするのも、悪くはないのかもしれない」
「あなたの夢から醒めるのだから。それに、私の夢から醒めることでもある」
彼女は後ろを向いた。ゆっくりと絞り出されたか細い声は、蝶の翅の軋む音が、時間の流れを飛び越えて、ようやく私の耳に届いたのかと錯覚させた。死のうと思うの、と、幽々子は言った。やけにもったいぶった様子で。解りきったことを改めて、しかつめらしく、申し述べるかのように。
「もう直ぐ、死のうと思っているの」
ごおお、と、風が吹いた。土も花弁も一度に巻き上げて、西行妖の根元に溜まった最後のひと群れの花弁でさえも渦巻く大気の奔流のさなかに取り込んで、どこか遠くに――決して手の届かないほど遠くに、押し遣ろうと鳴動した。舞い上がった埃から逃れて、私は両目を強く閉じた。目蓋の間際を流れて行く一片一片の花弁それぞれが、空気の薄い膜を砕く音を発しているように思った。悲鳴が聞こえた。歓喜が聞こえた。およそ、人が持ち得るだろうあらゆる感情を具象する、声という声が響き渡った。それぞれの夢の境を踏み越えて、私の感覚のすべてを弄していった。それきり、風は止んだ。
弱々しく、おとなしくなっていく大気のうなりにうっすらと開けた眼が捉えたものは、幽々子の埋葬したあの蝶が、強すぎる風に揉まれたがために翅を喪って、ばらばらにちぎれて行く光景だった。
幽々子が何の脈絡もなく話題を転がしてくるのはそう珍しい話でもなく、そのときも彼女からのらりくらりとそう訊かれたが、その手の逸話なら、もちろん私も知っていた。この国には坊主が鬼を真似て死人を蘇らせた話さえある。「ばかにしないで」と笑ってやったつもりだった。こっちはあなたが亡霊をやるより何倍も長く、妖怪をやっているのですから。けれど、彼女はいつものように笑い返してはくれなかった。飄々と呆けの真似ごとをしてみせる幽々子らしくもなく、じいとこちらの顔をのぞき込んだだけだった。「怒っているの、紫」「怒っているって。私が」。
まさか、そんなことが。
香炉から立ち昇る薄い煙にじいと見入っていると、あのときの焦慮がまざまざと蘇って来る。何も言えずに押し黙ったままのところへ庭師が茶を持って来なかったら、さっさと白玉楼から退散していたかもしれないのだ。結局、その日は茶請けの餅にはひとつも手をつけなかった。世間話も四方山話もなく、久しぶりの再会は途切れ途切れに終わってしまった。熱い茶が舌先を火傷させたことだけが、やけに強く記憶に残っている。
「反魂の香ね」
そんなものに手を染める邪な道士を頼るつもりは、私には微塵もない。けれど、ある帝はそれを試したのだという記述が確かに残っている。愛妾を亡くした彼は、道士に命じて死者の姿を蘇らせる香を焚かせたという。しかし、煙の向こうに見えるのは女の影ばかりだった。香炉の燻らせる煙の向こう、死んだ女を垣間見た彼は、両の腕で抱き締めたいと思ったはずだ。しかし、いかに彼が望んだところで、その手にできるのは思い出だった、夢だった、幻だった。何よりも、どうにもならない彼自身の恋しさだった。大きく歪められた煙はその役目を全うできず、いずれ飛び散った香気の中に女の姿も消え去った。女はもういちど死んだのだ。殺された。他ならぬ、その帝のかなしさに。
帝の行いをばかげていると謗るつもりは、ほとんどない。ほんのわずかに蠢動する私の良心めいたものが未だあるとするのなら、それは、他の誰をも頼ってはならないという、八雲としての矜持だけだったのだと思う。熱くなった香炉の端を指先で叩きながら、直ぐ脇に備えてあった小さな文机の引き出しを開けた。金を吹くように蒔絵の施された小箱がのぞき、さらにそのふたを、弾き飛ばすさえもどかしく取り除く。白布と油紙に包まれて隠されたその中身は、刃物を使って粗く削り落とされた幾つかの樹皮だ。切り口は黒ずみを生じ、眼にすることでさえも、少しばかりためらわれるほどに醜かった。言うなれば、あたかも屍体の骨にこびりついた腐肉を削ぎ落としてきたようなものだった。それを、古代の神に捧げる生贄のようにして、ためらうことなく香炉の灰の中に投じた。鈍く輝く火の真中、ごつごつと微細なこぶをつくった小さな樹皮のかけらが落ちて行くたび、浅く火の粉が舞い上がった。桜の花弁のようだと思った。風に舞い上げられた桜の花弁が、そこに立つ人たちを残らず覆い隠してしまうような烈しさの光景だと。だが、そこには何の姿も生じなかった。一瞬、勢いを増した煙の中に、人の影さえ見ることはなかった。私の夢の中にだけ、その烈しさは何度も何度も蘇った。
愚かだ、私は。
そう思って、自分自身を突くべき嘲りの言葉を探そうとした。心はぐるぐると渦を巻いた。鳴動する大気のようにしてである。風がやがては吹き止むほどに、自分の心まで思い通りになることはなかった。ばかばかしくなって、しばらく笑い転げていた。たとえ懐かしさからつくられた香を嗅いだとしても、そうして理想の幻を見たとしても、懐かしさが懐かしさでなくなるはずはない。衰えると解りきったうえでの快楽になど、誰も見向きもしないというのに。そんなこと、嫌というほど知っていたはずなのに。
「紫さま、今日のお夕飯は何を召し上がりたいかと藍さまが……」
とた、とた、軽快な足音を次ぐようにがらりと障子を開け放って、二股の尻尾を揺らす式の式が元気よく部屋に飛び込んで来る。素直な良い子だとは思うのだが、少しやかましいときがあるのが悩ましいところかも知れない。だが、私の姿を眼にするだに彼女は彼女らしくもなく直ぐにその尻尾を萎れさせ、おろおろと、こちらの顔色をうかがうようにして身を屈めた。床に転げたままの私の元に這って来、そして遠慮がちに言った。
「紫さま。どうされたのですか。お腹でも、痛いのですか」
「……いいえ。何でもない、何でもないのよ、橙」
「でも、そんなにも涙を流していらっしゃいます。苦しそうに、紫さまは泣いています」
四つん這いになったままでいる両手をぎゅうと握り締め、橙は、自分もまた泣きそうな顔で私の顔を覗き込んでいた。どんな言葉をかければ良いのか、何をすれば私にとって最善かも解らず、申し訳なさそうに尻尾を垂らしているだけだった。良いの、と、私は言ってやりたかった。全部、私が悪いのだから。はるか遠くに過ぎ去ったものを今さら欲することがどんなに虚しいことなのかと、知っていたのに試してしまった。そんなことをして誰が蘇るわけでもない。だから、ただ、泣くことしか出来なかった。子供のように。怖い夢を見てしまった幼子が、どこかに行ってしまった母を求め続けるように。文机の、もっとも奥に隠された匕首のことを思い出した。橙が私の式だったら、それで私の胸を、ひと突きにするよう命じたものを。
障子の向こうで、春の嵐がごうごうとうなりを上げていた。
――――――
光芒を引いて落ちる花弁を夜の中に幻視したとき、ひどい眩みに襲われた。
喉の奥が震え、声が声として形になるのを、肉体が拒絶している。記憶の淵から追い落とされた甘やかさが毒となって、そのときの私を責め苛んだ。喩えるのなら嘔吐に対して感傷を抱くことと似ている。唾棄すべき生理の姿へさえ美しげな錯覚がある。忌んできたことごとくに対する、奇妙な愛着のようなものが生まれているらしい。それは刺々しさであり、またかぐわしさでもある。肺に食まれる芳香は、痛みが血と共に消え去るごとく滅びていく。
人喰いの桜はひとときも咲くことはなかった。咲いてはならないものだった。その根の奥底に沈む人ひとりの死が楔となって打ち込まれた瞬間からのことで、暗中に沈んだその場所だけが、生と死の常なる擾乱から完全にうち棄てられている。立ち尽くす私の手の中のものは、しかし、死の騒がしさを束の間に蘇らせるためにこそある。錆びついた匕首(あいくち)。かつてあわれな女の胸を貫き、桜の根元に亡骸を埋めさせた、憎らしい匕首。それを私は奪ったのだ。その女の屍骸のかたわらから、追い剥ぎのように。
ほう、と、息を吐いた。
すると、豊満な桜の幹は人の身体とそっくりに見えた。
幾千の記憶の代わり、ただひとりの命を吸い上げたせいだろう。
冴えかえった月の光が降り立つと、火を投ぜられた原を見るように、二百由旬は瞬く間に蒼々と燃え盛る。冥界での庭でも月は蒼く見えるものだという事実を、私はすっかり忘れていたらしい。吐胸を突かれて彼女の名を呼んだ。誰にも知らせずに忍びこんだこの晩のこと。友人の子飼いである庭師は未熟者だが優秀だ、もし見つかれば斬りかかられないとも限らない。しかし、束の間、破滅は夢見ていたい。夜が本来持っている騒がしさを、沈黙と取り違えることはさして珍しいことではない。きんきんと、耳の奥で冷たいものが弾ける感触がした。息の弾んだことだけを認識させる、そんな静けさはときに暴威だ。何ものも凌駕すること叶わない、どうしようもない憂鬱だった。
陰の気を孕んだ冷たい空気。冥界そのものと呼べる迂遠な死の気配が首を薙ぎ、闇に薄笑いの映えているだろう私の顔。鏡さえあれば私はそれを叩き割る心地と言えるだろう。一個の破片を飲み込んで、それでもなお数多ある銀色に顔を映して震えているに違いない。言葉もなく。沈黙をもたらしているのはむしろ生きることへの埋没であり、死はこんなにも生者の心の中で、追憶をやかましく騒ぎ立てることをする。
「この桜のために、幽々子は死んだ」
鞘から抜き放った匕首の先にツと指を触れた。皮膚の破れる緩慢な感触の直ぐ後に、血と熱と共に溢れ出す痛みを悦んだ。地面にぽたりと落ちる一滴の血に、夜の闇が融け込んで見えた。破けた指の傷を両の唇で挟み込み、舌先で幾度も幾度も突いた。歯で肉を噛み、唾で絡め、ぐずぐずと砕けていく冷たさに慄いた。血が止まる気配は未だなかった。口中から引き抜いた指先を、桜の幹に押し付ける。脈動するみたいな蠢きが感じられ、すると、指先から流れ出た血の跡が尾を引いて、桜が真っ赤な涙を流しているのではないかと錯覚した。刃を立てて、あるいは撫でるようにしながら、その樹皮をわずかずつ削っていった。がり、がりと、断続する音が耳に触れた。
私はこの桜を憎悪しているのではなかった。しかし親愛や共感などもっとありえなかった。西行妖は、古い古い観念の残骸だ。けれど、それを忌むことは、桜そのものを心の端に留め置き、懸想をするのとどこか根を同じくするとは言えないか。千年も遅れた恋情の真似ごとだ。ただし、その根から来たるものだけを求めてのことで。形而でしかなかった香気を、より確かに感じ取るために。匕首を力の限りに握りしめると、手のひらの熱さは少しずつ消え去っていた。汗をかきもしない自分にぞっとする。今の私は亡霊よりも亡霊らしい。とはいえ、立つのは柳ではなく桜の下だけれど。冷たすぎる思考の動きは、冷静さとはきっと違うというだけのことだ。
西行妖を切りつける匕首の真下、絶えず落下する樹皮のかけらを受け止めて、空だった片手はもういっぱいになっていた。しかし幾つかは地面に落ちた。また幾つかは風に吹かれてどこかへ消え去った。最後に残ったほんのひと握りのかけらの群れは、乾いた手のひらの真ん中で小さく小さく丸まっていた。弱々しい動物が尻尾を抱いて委縮したみたいに。だけれど私には、この木の下に手足を折り畳まれて埋められた屍体が、ごく矮小な姿に化身して降って来たのだとも思えてしまった。
それは、目一杯に溜め込んできたあらゆる命の残りかすが、私にだけ感じられる幻として結実した瞬間だったのだろう。死人は空想として幾度も幾度も蘇らされる。人がそれを忘れたときにだけ死に、誰かが思い出したとき、また新たに産まれ直すのだ。われわれは最も残酷な手段で死者を二度殺そうとしている。空想はいつでも傲慢だ。そんなことはとうに解っている。解っているはずなのに。生きていくとは孤独を発明することにほかならない。それは果たして、誰かと一緒に居ることでつくり上げられる。ひとりで居ることしか知らない者が、孤独を知っているわけはないのだから。
手の中のかけらを握りしめて、私は彼女の名を呼んだ。亡霊になって笑む彼女は確かに彼女だった。しかし、私が知っていた彼女ではない。私は、何ひとつも手に入れてはいなかった。孤独がもしもあるとするなら、今がそのかなしさのときだった。
――――――
「これは井蛙(せいあ)、というのね」
倦んだ声音で、彼女は言う。閉め切られた部屋の端、香炉を撫でる友人の指先は、おそらく冷たいはずなのだと思った。漂ってくるというよりも噴き上げているというほどに香気は強く、このままでは息をふさいでしまうとまで錯覚させられてしまうほどに。いいかげん戸を開けなさいよと言うと、香りが逃げてしまうから、嫌だと言い返された。
香炉は、井戸を模して丸い形をしている。古い鼎を思わせる三本や四本の脚の代わり、水かきのついた、肥った蛙の脚がその姿を支えている。ただ、蛙の顔らしいものはどこにも見当たらなかった。井蛙というのは、つまり何のことはない、『井の中の蛙』という意味の言葉だ。世には謙虚さのつもりか、この二文字を号する人も多いと聞く。しかしそれを現すにしてはいささか趣味の悪い造形をした香炉と思う。私は、彼女の審美の眼を褒めるべきかたしなめるべきか考えあぐねて、ただ苦笑いを返す。
「香霖堂とかいう古物商いの店があるでしょう。冷やかしのつもりで妖夢と見に行ったのだけれど、店先でついこの香炉を見初めてしまったの。まあ、それほど高くもなかったし、店主の言い値で買ったわ」
けたけたと、子供のように彼女は笑った。
「私はときどき、自分が“この子”と同じではないかと思うのよ。何かに囚われているに過ぎないと自覚している分、おそらくはふしあわせかもしれないのだけれど」
亡霊にはよくある気楽さは、しかし、欠落を隠すものに思えることがあった。“賢者”さまのお節介だろうか。彼女はいつもと変わりのない微笑を浮かべていた。桜の根元にその身を埋められているという事実を彼女は知らない。数百年の年月に追いつかれて忘却したか、あるいは命と共に棄て去ったのか。
「それなら、なおさら戸を開けるべきでしょう」。すッくと立ち上がって、私は勢いよく戸を開けはなった。「あ……っ」と、彼女はうなったが、直ぐに黙り込む。唇を尖らせるような素振りを見せたものの、直ぐにまた、つかみどころのまるでない笑みを浮かべ始めた。
開け放たれた戸の向こうには庭師が見え、彼女は手にした竹箒を絶えず動かしていた。未だ少女でしかない庭師は突然の物音に背筋を震わしていた。そのわけが私と知れると、こちらを見据えながらぺこりと頭を下げて見せる。先代より幾らか明るい銀色をした髪の毛がさらさらと揺れた。相手の眼が未だ伏せられているのを見届けたまま、からかいか、いたずらか、私は微笑んで見せた。
「“あれ”はね、」
友人がつぶやく。
「良い子よ。とても、良い子」
そう――、と、私もつぶやいた。
「それはなにより」
庭師のかたわらには、人喰いの桜が植わっている。
ざわざわと、桜の幹が揺れる気配がした。
二百由旬のただ一点、咲くこともなく、枯れることもないまま鎮座する人喰い桜を目前にして、香炉の放つ芳しさは、友人の語る言葉とひとつになった。庭師が倉からたまたま掘り起こしてきた、古い古い香木という。それを指の先ほどに刻み、小箱の中にしまっている。ひと摘まみごとに香炉の中に投じると、燻ぶる火の中から幻のような香気がまた映えていく。突き刺さるような甘ったるさで。
嗅覚に語りかけるものが不思議と厭わしくなって、「ふう」と息を吹いて煙を掻き消そうとした。乱された香を惜しむみたいに微笑を返して、友人は、ぽつり、ぽつり、と語る。忍び足の真似ごとをして、また香炉の前に座り込んだ私。
「西行妖はね、紫。ときおりひどく懐かしいものと、私には思えるのよ。今や在りもしないこの身の肉の一片、この魂の、この霊の、一塊を切り砕いて。そうして桜の中に埋め込んで、忘れることのないように、誰かがわざと私の眼に見えるところに隠しておいたみたいに」
ああ、そうかと、すべてを覚ったような気がした。
彼女はもう気づいているかもしれないのだ。自分が何であるのかを。そして、真実を眼にした瞬間、破綻が訪れてしまうのかもしれないということを。
「きっと偶然ですわ。知ってる、幽々子。唐国(からくに)では、そういうのをデジャヴュというそうで。知らないはずのものを、知っていると錯覚すること…………」
嘘に限りなく近い真実だ。生きていたころの彼女はもう居ない。今の彼女は、この指が触れ、この眼が見た彼女ではない。すべては過去のことで、しかし、私は過去の彼女も今の彼女も、同じく籠の中に囲おうと考えてさえいるのだ。いや、ここでは井蛙のようにという言うべきだったのだろうか。
私はすでに知っているのだ。人喰いの桜の楔となった少女が居たことを。それを自ら進んで選んだのが、他ならぬ西行寺幽々子であるということ。どうにもできない古びた憧憬から、八雲紫は未だに逃れられないでいるのだということ。
――――――
銀色の総髪を肩に垂らした家来が、懸命に桜の根元を掘り起こしていた。そうすることが主のご遺言にございます、と、彼は言った。彼女の最後の望みを私より早く知っていた彼が、そのときは少し、妬ましかった。
かたわらに置かれた亡骸を、ちらと見た。
もの言わない彼女の眼のふちに、黒い染みが這い込んでいるように思えた。それが腐敗の兆候であったとは考えない。早くしてと急き立てるあまりにも瞭然とした『声』の気配を、死者のものとも思わない。そんなものは自分の望みを、友人の声で代弁させているだけではないか。……夢想にふける私を横目で眺めて、家来が息を吐くのが判った。少しだけの呆れを覚えた顔つきで、彼の手は間に合わせの墓穴をこしらえていく。土の挟まって黒ずんだ爪の先や、ひやりと地面の下の冷たさが染み込んだ彼の手のひらのにおいを、妖怪の嗅覚は覚らずにはおかない。彼はおそらく笑っていた。竹でできた並はずれて大きな行李のふたを――まるで、始めから人ひとりを容れることだけ考えてつくられたように――開けるとき、笑っていた。忠義のゆえだろうか。生者の記憶に恋々とする、歪な心が残っていたからだろうか。私に解る由もなかったけれど。
ひととおり、桜の根元に行李を埋めるにちょうど良いくらいの穴を、円匙(えんし)でもって掘り返す彼。土をざらざら掻きだした後に、円匙を地面にざくりと突き立てた。すると木でできたそれは“ぐわり”とたわんだ。自分に墓標の役目は果たせない。薄汚れた木の身体を天に向け、まるでそう語っているようだ。手の甲で額の汗を拭い取り、家来は刀の柄に手を置いた。人を殺すための道具だ。実は桜と同じくらい、彼の腰に佩いた刀も、人を喰っているのではなかっただろうか。だとしたら、ひどくつまらない皮肉。
家来は次に、死んだ主を抱きあげ、行李の中に収めようとする。「手伝いましょうか」「いや、結構」。ふらふらと頼りなげに歩く彼の姿を放っておけなくなったのだが、にべもなく突き返された。とたん、彼の笑みは消える。あるいははじめから私の見間違いか。近くでは、彼は意外と華奢な体躯をしていると見える。いかにも刀を振り回すのに適したような屈強さに思えていたはずなのだけれど。行李の中にたたまれていた大きく真白い布を広げ、手こずりながらも余すところなく屍体を包み終えた。手も脚も顔も、もはやまったく見えることがない。布からわずかに透いて見える血の色は、赤ではなくどす黒かった。家来の手を離れ、彼女の屍体が行李に横たえられた。手足を可能な限り折り畳まれた姿は、もはや中に人がひとり包まれていると言っても容易には信じがたいほどの矮躯だった。行李の蓋を閉じた。間に合わせの埋葬であるにしても、いたずらに他人(ひと)の眼に犯されずに済むだけ、救われているのかもしれない。
ざりざりと土に埋められていく行李の周りに、どこからともなく翅を震わせながら小虫が飛び寄って行く。ときどき、家来は作業を止めてそれを手で払っていた。「気にしないで良いのに」と、私が声をかける。「虫くらいなら、いくらでも追い払って見せますのに」。彼がこちらに眼を向けた。だが、睨まれたのではない。ごく短い時間で私を観察し、にいと笑って見せただけだったのだ。「これもまた、わが務めであるのですから――」、他人の力を借りたくはないと、彼は言いたかったのだろうか。ぼそぼそと小さくなっていく言葉は上手く聞き取れなかった。やがて行李を完全に埋めてしまうと、弱々しく円匙で地面を叩く。足で踏み固めることには、さすがにためらいが勝ってしまったか。これからはあの桜の、いっとう大きく太い根が、西行寺幽々子の横たわる最後の褥(しとね)だ。
埋葬のために四肢を折り曲げられた私の友人は、胎児になった。羊水代わりに身体を沈める白い布に覆われて、肥え太った樹木に守られながら。人喰い桜が母の代わりを努めるとは、今生にこれ以上の皮肉が見つけ出せるだろうか。ここで、こうして埋められた西行寺幽々子は、生者の記憶の中でかつての姿のまま、産まれさせられるのだ。何度も、何度も。
――――――
あの桜は、どんな者も幹にその背を預け、そこで穏やかに死ぬことだけを夢見させる。西行妖の下で死との交わりを考えることは、人喰いの桜に果てしのない懸想を抱くことと、果たして何が違ったのだろう。
彼女が死んだと、使いに遣った式から報せを受けたとき、私はそれほど驚かなかった。ああ、やはりかと思って、喜ぶこともかなしむこともしなかった。自明のことに感情をむき出しにする必要はないと、本来の八雲紫が冷徹に語る。しかし、驚かなかったことに驚いた。私の中の、ばかに人間じみた部分がそうさせていた。要らぬ付き合いに首を突っ込んだせいかとも自問した。人間は妖怪を毒するのだ。その日、空はむかつきを覚えるくらい青々と抜けていた。その明るさにはるか見下ろされ、幽々子は幽々子自身を削り落としたのだと、そう思うことができる。その刃でもって、私の魂に存するある一面でさえ、容易に切りつけてしまいながら。昔日に記された古代の物語をときたま読むと、人間はかなしみのあまり、泣き叫びながら胸を打ちたたく、と、在る。大げさだと私は笑う。笑わなければならないと、妖怪は妖怪のままで居続けなければならないと、笑おうとする。通り抜けた隙間の向こうで、没落した公家であった西行寺の屋敷はとっくに草莽に帰している。銀色の髪をした、あの気難しい家来の姿は見えなかった。幽々子が死んだことを伝えるために使いに走ったのだろうか。だが、とうに滅んだような家と繋がる人が、いったいどれくらい居たというのだろうか。私は愕然とした。私は幽々子のことを、ほとんど何も知らなかったのかもしれない。
けれど、そんな鈍った眼で見ても確かに幽々子は死んでいた。錆びついた匕首で、胸の真中、乳房に隠れたみぞおちを真っ直ぐひと突きにして。錆の赤と血の黒が互いに混じり合っている。その鮮やかさだけが、ただ烈しい。
ひと思いに心の臓を突かなかったのは、土壇場でためらいが生じたからだろうか。もし知らぬ者に彼女のことを物語るとき、そんなふうに言ってしまう方が最も合点の行く説明ではないかと何度も考えた。しかし、私は結論を躊躇した。虚ろな眼を、彼女は天頂へと向けていた。仰向けになったその頬に、たった一枚の萎れた桜の花弁だけを残して。だけれど、彼女が見たのは空ではない。確かに人喰い桜が力尽き、咲くを棄て去る様を、その眼に収めて死んだのだ。私に残ったのは歓喜ではなかった。恍惚でも忘我でもなかった。ただ、無意味な沈黙だけが、うるさく鳴り渡っていた。しょせん、こんなものだ。死者の顔に浮かんだ、ひどく寂しげな色を見た。胸を打ち叩くほどのこともない。涙を流すまでのこともない。今、こうして私の眼に収まっている幽々子の姿は、誰にも犯されない私だけのものなのだ。幽々子さえ、それを知りもしない。
彼女の手は未だ温かく、指を開かせ引き剥がすのは容易だった。握っていた匕首を、奪い取るためだ。柔らかいままでいる肌の感触に、私の熱が吸われていく。残された温かさが消え去ってしまうのも時間の問題だろう。傷口から刃を引き抜き、そばに転がっている鞘を拾い上げ、その中に収めた。死んだ彼女の代わりに冷たい息を、思いきり吐いた。こんなくだらないことさえ、もうできやしないのだから。何もかもが、ひどく古びて思えた。春の嵐が吹きすさぶ予感がした。どこか遠くの方で、風がごうごうとうなりを上げた。
――――――
彼女は、私に言ったことがある。
逃れられない物憂さを、両の眼に宿らせながら。弱々しい声と、何かに眩んだような表情。頬の内側から、唇までに熱を伝え、冷えきった事実を吐き出す。そのときは、彼女は未だ亡霊ではなく人間だ。打算も虚偽もなく、熱い肉体で冷たい言葉を成立させることができるのは、人間だけにできる矛盾だったから。
「この間もね、下女がひとり、死んだわ。ひどく年老いた顔を切り刻む、たくさんのしわをいっぱいに伸ばして、悶えながら。私の毒気に中(あ)てられてなのか、桜に喰われたのかは判らないけれど。でも、その由を自分自身に求める方が、何かをするにはちょうど良いのね」
だから愛おしい、と、彼女は切り出した。知っているでしょう。私は人を滅ぼすの、私の身体からは死が溢れ出していて、考えることなどできもしないままに誰かの命を刈り取るの。言葉の意味が解らなくて、私はただうなずいた。彼女の恍惚は、物憂さの中に身を隠していた。胸の前で両手を掻き抱いた幽々子が、いったい何を待ちわびているのか。理解するのにそれほど時間はかからない。
「死ぬことは、私の内から生み出される子供たちみたいなものなのよ。西行妖も、きっと似たようなものだわ。ああ、私、すっかりおかしくなってしまったのね。もうあんなにも狂った桜を――私の命を使って――封じることが、ちっとも怖ろしくなんかない。私は人喰いの桜に喰われることで、人喰いの桜を喰ってしまう。ひとつになってしまうの。もう、ずっと」
陶然としてくり返される微笑から眼を背けたくて仕方がなかったが、自ら叱咤する心がそれを拒む。
たとえ詭弁であったのだとしても、幽々子の言葉を受け容れることはできなかった。
心の奥底、感情の深奥、理性のいちばん深いところ。いずれにあっても、確かに理解できていたというのに。この感情が、紛れもない嫉妬であるということに。ある“秘密”めいたものを共有する、人喰いの桜に対して。とッ、とッ、と駈け出す幽々子の足取りは、もう直ぐやってくる儀式を心待ちにしているみたいに見えた。しかし、止める気ぶりも、言葉も、幾ら考えても形あるものにならなかったのは、あるいは私がどこかで望んでいたからではなかっただろうか。気丈に笑んで見せる佳人の姿を、ただ自分のみが眼の中に留める、その謀(はかりごと)の始まりとして。
この日、幽々子に会うのはもうこれっきりだと考えたのは薄情なことだっただろうか。生きたものだけ心のうちに保存して、喜色の思い出を食んでいようとしてしまうのは。それを絶えず祈念するくらい『妖怪の賢者』は狡猾で、同時に直ぐさま否定するくらい『八雲紫』は臆病だったのだ。
友人は、地上に打ち下ろされた巨人の足みたいに大きな妖怪桜――そのときは未だ咲いていたのだ――を、両の腕で抱いた。額を押しつけて深々と息を吐いた。後ろで見ていた私の眼には、それから、幾度か幹に唇を押しつけて微笑をしているようにさえ思えた。
どう、と風が吹くと、爛々と輝く花弁が飛び散る。このひとつひとつが、喰われていった人間たちのかけらだ。桜もまた目前の女を愉しんで、ごう、と風の音を借りて声を上げた。しかし、何とおそろしいことだろう。“吐き気をもよおすほどの”美しさというものは、実際に存在し得てしまうのだ。美しさなど、異形と似通うどころか、それぞれ同じものを表したふた通りの名前でしかないのだ。そして、幽々子もまたその一部になってしまおうとしていた。
化け物が帷子(かたびら)を着たようなとびきりのうつくしさの、あの桜に、幽々子は、犯されることを選んでしまった。
――――――
現実は幻想を語ることができる。しかし、その実においては現実こそ幻想を言葉にするための道具に過ぎない。八雲紫は胡蝶であり、胡蝶は八雲紫である。過去が現在を言い当てたのか、忠実に書き記された過去を現在がなぞっているだけなのか。
西行寺幽々子について語るとき、過去の彼女は幻想以上の幻想で、私の思考も意識も精神も、幽々子を物語るためにのみ在るべきものになる。本当に語っているのは、幽々子自身なのかもしれない。誰かのことを語るとき、言葉も、それを用いる別の誰かも、ほんの少しだけ従属を強いられるから。桜の根のかたわらに横たわる彼女は嬰児(みどりご)のようだった。手足を丸め、背を縮め、薄く開かれた唇から浅い呼吸をしていた。赤子のそうするように、“それ”は生きることを呼吸していただけだった。生きるためにという贅沢な目的ではなく、ただ生きることだけをしている。
ここに死のにおいは存在しない。死のにおいがもしあるとするのなら、それは生の残骸が全て途切れた瞬間のことなのだ。生が喪われて、そうして腐って落ちて行き、惨めさと一緒になって初めて死のにおいは昂ぶり出す。彼女は生きていた。しかし生きながらに死んでいた。ふたつのものの間(あわい)に横たわって、人になろうか蝶になろうか、幻想を語るのか現実を使役するのか決めかねている。
そうやって眠る彼女の情景に、私は直ぐに真っ黒な決別を塗りつけることもできた。冷め冷めとした視線を投げつけて、早々に踵を返すことももちろんできた。最初は単なる好奇心だったはずだ、桜が人を『喰う』ところを見てみたいという。そのことを、私はすでに知っていた。それからその桜と双子であるかのように、死を撒き散らすあわれな女が居るという話。単なる物見遊山で旅をすることよりも、距離の境界を越えるのは甚だたやすい。ぬるりと隙間を切り開くと、空間を分かつ暗渠から吐き出され、女の元に降り立った。
喰うためか。否。妖怪の爪や牙で脅かして、面白がるためだろうか。それも否だ。言うなればその感情は愛玩に近いものだったのだと、今では考えることができるのだろう。黒く光る蟻の隊列を見つけ出し、爪の先でひとつひとつの殻を押し潰す。彼女を私の眼の中に収めるということは、つまりそういった喩えに似ている。何らの意味もなく、さりとても特別の理由もない。費消されるべきひとかたまりの矮小である。
すでにして西行妖は歌聖をその腹の奥に収めてより幾百年、飽くこともなく無数の人間たちを貪食しているのである。今さら私が何をしてもその化け物じみた性向を取り除くことなどできはしないのだ。そのかたわらに横たわる女もまた同じことで、自らが他を食み続けるか、他に自らを戮させるかを決せざるまま無意義な生を永らえている。ばかな女。蟻の築いた一国が滅び去るのが、束の間、気の紛らわしにしかならないように、彼女のような生を送る者が居るということも、あるいは長い時間の慰みだ。
私は手の中の小さな籠へ眼を落とした。子供の好んで使うような、竹で編んだごく小さな虫籠である。鍵もないふたをひと撫でし、手指でゆっくり開けてやる。すると、白地に黒のまだらの翅をばたつかせ、不揃いの網目からその姿がほの見えるだけだった一匹の蝶が、のろのろと這い出て来る。息苦しさから逃れるように、ここには自分が呼吸すべき立派な空気があるということを確かめるように、蝶は翅を大きく羽ばたかせ、ふらふらと中空に触角を震わせた。そして見えもしない階段を、細く弱々しい六本足で確かめるごとく、いずこへともなく飛んで行く。これは、ここに来るよりも前に捕まえておいたものである。私とこの虫と、桜の毒気に中てられてるのはどちらが先であるのか、試してみたくなったのだ。住む者のなくなった籠を隙間の中に放り込み、もうどこか気力を失した心地で私は足を滑らせる。
落ち来る花弁を一歩、一歩と踏み、なおも眠りこける女へあと半歩というところまで近づいた。音もなく、また私と彼女と蝶と――それから桜の他には何の命ある気配もなく、打ち捨てられた静謐が、境もなく茫洋と広がっている。腰を屈めて女の顔を見、鼻を近づけてにおいを嗅いだ。耳を覆い隠して肩まで届いた髪の毛はわずかに波打つ形をつくっていた。花弁の色を映したような艶を持つその髪は黒でなしに薄赤く陽をはね返し、眼を細めるなら熟しきらない桃の色であるようにさえ見える。
それから、全体に漂ってくる香気は、それが生きた人のものであるにしてはあまりに薄く、本来あるべき『人くささ』とでもいうべきものがない。というよりも、生きているにおいがしなかった。汗と糞と腹の中の食い物と、およそ生者であるなら美醜に関わりなく漂ってくるはずの、そうしたにおいがまるでしなかった。肉の腐り落ちて、土にどんどん近くなっていく、死者のにおいさえもしなかった。
感じたのは奇妙に懐かしいにおいだった。
親の顔など知らない、憶えてもおらない。この八雲の父母と生国(しょうごく)とは共に木の股とでも言えそうなものだから。だというのに、懐かしい。古い古い憧憬をさえ感じさせるそれは、『母』と呼ばれるものに近いのかもしれなかった。見えもしない胎の内より死を産み出し、周りには常にその子供らを侍らせている、異形の母。今はただ眠り、自分が何であるのかをしきりに確かめようとしている。人であるのか、蝶であるのか。生きているのか、死んでいるのか。境を越えた思惟のために、子を産むことを忘れながら。母で居たいのか、そうでないのか。口の中が乾き、舌の根が上顎にぴたりと貼りついた。飲み込む唾も凍りつくような峻厳の中で、いったい誰が眠りと死とを取り違えずにいることができるだろう。慄くような安逸に魅入られずにいることが。果たしてそれは人喰いの桜にではない。眼前の、自分などよりはるかに年若いはずの、人間の少女に。
ささやかな怖気を感じた。これを除いてしまわなければならないとも思った。彼女の身体に覆い被さって、頸に手を伸ばした。脈打つ血の気配に拭い去れない妖怪としての本能が昂ぶった。徐々に押しひしがれていく彼女の息が、私の咽喉(のど)を焼いた。これが、何だ。私が彼女を欲しているわけはない。私が、私の中から余計な物を切り出してしまわなければ、やがては彼女の存在が膿んだ毒のようにして身体を巡り、まともな心でいられなくしてしまう。最後に残っているのは、おそらく焦りの他には何もなかった。そうやって早く早くと急き立てるのは、彼女を見つめていることが、八雲紫という妖怪を殺してしまうことのもっとも容易な手段になりかねない危うさを持っているからだ。この少女が私の中に存在することが、やがて尊大な肯いとなって私の記憶を苛むだろう。病みついた魂が救いを欲し、彼女の手を取ることを選ばせてしまうだろう。
ひと群れの花弁が、力ない私の手の甲に落ちかかってきたのは、少女を絞め殺せずにいる私に翻意を促す桜の意思だったのかもしれなかった。西行妖は人を喰う。桜が欲しているのが私の命か、少女の命だったのかは解らなかった。けれども私は、風に押されて指の股から滑り落ちて行く花弁が少女の唇の端に触れたとき、それを取り除かなければならないと、摂理を超越したものに命じられた気がしてしまったのも確かなことだった。魂に直接、肌を張ったように少女の頬は冷たかった。幾枚かの花弁をすべて指先で取り除いてやったとき、少女はうっすらと両の目蓋を開けた。長い睫毛の合間から、蜜の垂れるようにゆっくりと、涙が彼女の頬を流れて行く。花が開くのと間違えたかのようにして、辺りを飛んでいた蝶が少女の唇にその身を寄せ、涙の流れた跡を探し始めていた。
ふう、と、新たに落ちかかる花弁を少女の息が吹き飛ばしたとき、二枚の翅を細かに震わせて、蝶はその大きな眼を私の顔まで巡らせた。さまようように、安息を求めるように、蝶は私の手のひらにその身を横たえようと飛び上がった。しかし、指先に幾本かの足を触れようとした刹那のことで、ぽとりと地面に墜落する。あまりにもあっけなく――しかし、最後に弱々しく翅をばたつかせた後、蝶は、とうとう動かなくなった。
「蝶でさえも、私の毒に中てられて苦しむことができてしまうのね」
彼女の手に押し遣られるより前に、私は自ら身を起こした。
そうして背を伸ばしてゆっくりと立ち上がり、唇を隠しながらあくびをする彼女を見つめていた。うつくしい少女だと思った。「あなたは、私のことが好きかしら」と、訊く彼女に、私は首を横に振ることをした。彼女は、唇の端を歪めて笑む。
「それは、これから決めることですわ」
「そう。でも、私はたぶん、あなたのことが好きなのよ。死というものは、難しい言葉を用いるまでもなく、いずれ誰も彼もを好いてしまうほどに寂しがっているのだもの。あなたも直ぐに居なくなってしまうわ。私の毒をたっぷりと吸い込んで。あの、蝶みたいに」
はじめましてと、彼女は言った。ひと握りの桜の花弁を手の中に収め、その中に蝶の屍骸を包んでやった。埋葬する死者を、生者の強すぎる息から守るために。あるいは腐敗して醜くなり、死が本当の死になってしまう様を誰の眼からも遠ざけようとでもしているように。花弁の群れで薄赤く埋まった桜の根元に、彼女は蝶をそっ、と、置いた。絶え間なく降りかかる花弁によって、彼女の手から離れた花弁も、蝶も、すべて見えなくなってしまう。「何をしているの」「“埋めてあげている”のよ。死んだものは、弔ってあげるのが道理というものでしょう」。振り返り、少女は頬を撫でる髪の毛を指先で押さえた。いっとうに強い風が吹き、花弁があちこちで渦を巻いた。だが、桜の根元に溜まったものだけはざわざわと震えるだけで、どこにも吹き飛ぶようなことがなかった。眼に見えない墓守でも立っているみたいに。それとも無自覚の意志が、死者を守ることをさせているのだろうか。人喰い桜の方か、それともこの少女の方なのか。
「ねえ。あなたもいずれは死んでしまうのでしょう」
「そうね。人間ですもの。あまり長く生きすぎた、人間ですもの」
「あなたは、たぶん、未だ二十年も生きてはいない」
「十分すぎる。弔いをくり返すには、十分すぎるのよ。だから、今度は誰かが私を弔ってくれる番だと思うの。それを、これから探しに行きたいの」
再び、ふう、と息を吐き出して、彼女は私に笑いかけた。
その短い吐息で何を殺してしまうつもりなのか。私のことを、彼女は欲していたのだろうか。それまでの私を殺し、自分のための弔いに従属させる者のひとりとして。
「人間は、そんなにもかなしそうな顔をする生き物」
「あなたは、人間ではないの」
「私は、妖怪。百年も生きた。千年も生きた」
「死なないの、それとも死ねないの」
かぶりを振った。
少女と同じようにして笑い、少女と同じようにして自嘲した。
「きっと、そのどちらでもあります。私を殺せるものは、ただ強すぎる“否”を突きつけることだけですもの」
けたけたと、少女は笑った。腹を抱えて、身体を思いきり折り曲げた。細められた眼の向こう側から、ばつが悪そうにしている様子は微塵もなかった。彼女は無垢だった。自らの死をどうにかして引き寄せようとしていることについて、言葉にも、身体にも、少しの穢れさえなかった。けれど、その望みを人の身に留めておくのは決してできることではないのだ。彼女が人喰いの桜を褥(しとね)としていたわけに、私は朧に気を向けた。誰かが、彼女を弔ってくれるということ。それは、彼女とよく似たあの桜だけなのだ。だから、他の誰をも眼にすることのできない聖域のようにして、彼女は西行妖だけを好いている――。「変な人」と、彼女は言う。「お互いさまで」と、私は答えた。「夢を見ていたことにすれば、良いと思うの」「夢」「ええ。いつか自分が死んでしまうときに、これからどこか、もっと“まし”な世界に辿り着くことができると考えるの。この生は悪い夢だったのだわ。そんな風にね」。少女はあくびをした。それから、眼を伏せて「西行寺幽々子」と言った。
「私の名前。あなたは」
「八雲紫と、名乗ることにしています」
「いかにも長生きできそうなお名前ね」
これが悪夢でないと証するだけのものを、私はたぶん持っていなかった。境界でさえも飛び越えることができたとして――そして私自身はそれを為すところの力があるけれど――その善し悪しに決まりをつけるような何かは元より持ち合わせてはいないのだ。それをおそらくは肯うだろう尊大さが重石としてはたらき始めるとき、幽々子は幽々子でいられなくなってしまうのだ。醒める幽々子と、醒めた後の幽々子が同じものであると、いったい誰が言うことができるだろうか。どこかの時間の流れにはきっと存在するだろう、ある真実を見つけ出すために負うべき苦役を、あえて選び取ることができないほどには、そのときの私は愚かだった。
「私が死んだら、泣いてくれる」
そう、幽々子が訊いた。
「何の縁もない、私のために」
「幽々子は、未だ二十年も生きてはいない」
「紫は、もう百年も生きた。千年も生きた」
「そろそろ、“夢から醒める”ことの予行をするのも、悪くはないのかもしれない」
「あなたの夢から醒めるのだから。それに、私の夢から醒めることでもある」
彼女は後ろを向いた。ゆっくりと絞り出されたか細い声は、蝶の翅の軋む音が、時間の流れを飛び越えて、ようやく私の耳に届いたのかと錯覚させた。死のうと思うの、と、幽々子は言った。やけにもったいぶった様子で。解りきったことを改めて、しかつめらしく、申し述べるかのように。
「もう直ぐ、死のうと思っているの」
ごおお、と、風が吹いた。土も花弁も一度に巻き上げて、西行妖の根元に溜まった最後のひと群れの花弁でさえも渦巻く大気の奔流のさなかに取り込んで、どこか遠くに――決して手の届かないほど遠くに、押し遣ろうと鳴動した。舞い上がった埃から逃れて、私は両目を強く閉じた。目蓋の間際を流れて行く一片一片の花弁それぞれが、空気の薄い膜を砕く音を発しているように思った。悲鳴が聞こえた。歓喜が聞こえた。およそ、人が持ち得るだろうあらゆる感情を具象する、声という声が響き渡った。それぞれの夢の境を踏み越えて、私の感覚のすべてを弄していった。それきり、風は止んだ。
弱々しく、おとなしくなっていく大気のうなりにうっすらと開けた眼が捉えたものは、幽々子の埋葬したあの蝶が、強すぎる風に揉まれたがために翅を喪って、ばらばらにちぎれて行く光景だった。
素敵な作品でした。
魅せられる文章で楽しめました。
なんて残酷で綺麗で素敵な物語。おいしゅうございました。
どうにもならぬ八雲紫の感傷を存分に堪能する事が出来ました
満開の西行妖の元に少女が一人、恐ろしく綺麗な光景なんだろうなあ
何故かイラッとしたなぁ・・・
頭の出来が違いすぎるからかw
死にたくは無いけど西行妖を見てみたいし、俗世から離れた生活ってあこがれるわ。
幻想郷に行きたくなった。
ゆゆ様にまつわる昔話の中でも一等好き
西行妖と、幽々子と、身体的死と精神的死の共通項から死を描き出している。しかしながら死ぬ本人にもその従者にも、紫というトモダチにも、人間の死に向けられるべき悲しみってのがここにはない。幽々子は覚悟の上だし、紫は淡々と受け入れることに勤めてそれに成功してしまっているし。先代の魂魄に関しては想像するしかないけど、そういう連中の態度というか死に対する姿勢が、なんともネクロファンタジア。
死を逆再生で見る楽しさはありました。