(一)
ホワイトチャペル収容所に何とか潜り込もうとして、もう二度も失敗していた。三回目はそれまでよりも早く出かけ、午後三時前にわびしい行列にくわわった。
夕方六時になるまで収容所は開かない。が、その日、女が列に並んだ時には、すでに二十番目の順番だった。
女の腹は大きく膨れて、突き出ていた。妊娠していて、臨月だった。
行列の間で、ひそひそとうわさ話が交わされていた。耳を傾けると、その晩収容所に入れてもらえるのは、よくても二十二番目までではないか、とのことだった。
救貧院の臨時浮浪者収容所というのがどんなところかと説明すると、宿無しの連中が、つまり、寝るところがなく金もない連中が、運良く入れてもらえれば、ひと晩だけ疲れた身体を休めたあと、その代償として次の日には奴隷のように働かされるところだった。
女が妊娠したのは、自分でもよくわからないが、たぶん十ヶ月ほど前で――もうすぐ生まれそうだから、さしひきそのくらい、という計算だったんだけど――服を着ていても、お腹のところに大きなスイカを抱えているような格好だったし、一日に何度か、子宮にズキーンとした痛みが走る。当然、過酷な労働には耐えられないから、収容所の行列に並んでも、門前払いされる確率のほうが高かった。しかし昨夜のように、クライスト教会の柱廊玄関の側の舗道で、見も知らぬ男たちといっしょに何列にもなって横になるのはごめんだった。何か間違いでも起きて入れてもらえるかもしれない、と、けし粒ほどの望みをかけて、女はやってきたのだ。
四時までには、三十四名が行列に並んでいた。最後の十名は、女と同じように、奇跡か何かが起こって入れるかもしれない、と、かすかな希望にしがみついて並んでいるだけだった。もっと大勢やってきたのだったが、列を見て、こりゃ満員だ、と賢明にも気づいて立ち去っていった。
入れる人数のこと以外にも、いろいろと会話が交わされていた。もちろん、ひそひそ声で。やがて、女を挟んで前と後ろにいる男ふたりが、ここに来る前、同時期に同じ病院に入院していたことがわかった。天然痘病院。
千六百人も患者がいたから、入院中にふたりが知り合うことはなかった。それで機会を見つけたように、男たちは女を巻き込んで、自らの症状の不快な点や、お互いの症状の相違点などを、具体的に細かい点まで、微に入り細に入り論じはじめた。自分の病気のことを話しているのに、なぜだか、やけに突き放した態度だった。
天然痘病院の患者の死亡率は、平均して六人に一人。前の男は三ヶ月、後ろの男は三ヶ月半入院していた。退院したのは二週間前と、三週間前。ふたりともこの病気で「体が腐敗して」しまったのだという。男たちの顔は痘痕面で、そのうえ手や爪の下にある天然痘の「種」はまだ生きていた。片方の男が、ほら見てごらん、とばかりに種をひとつ、爪の先でほじくり出すと、その種が肉から出て空中にぽんと飛び出した。女は身を縮めて、種が体にくっつかないように心から祈った。
前のほうの男は以前、アメリカ合衆国に行っていた。それで、自分はずっとアメリカにとどまっているべきだった、イギリスに帰ってきたなんて、ほんとうに愚かなことをしたものだ、と果てしもなく自分を呪っていた――実際、彼の目から見るとイギリスは牢獄だった。それも永久に逃れられない牢獄だ。逃れようにも、今となってはアメリカまでの船賃を工面できないし、船賃稼ぎに船で働きながら航海することもできなかった。彼はもう体の利かなくなった人間だ。そして当時のイギリスには、そうした貧乏人があふれるほどにいた。
ロンドン、1902年――イギリスは産業革命と共に、貧困を発明した。そして貧困は、勤勉さという徳を欠いた者がおちいる、恥ずべき状態であると見なされていた。経済学者のA.C.ピグーによると、社会の最下層をなす「貧しい老人」と「くずの人間」はロンドンの人口の7.5パーセントを占めている。つまりおおよそ四十五万人の人間が、昨年、昨日、今日、まさにこの瞬間にも、どん底でみじめに死につつあるということだった。
六時になると列は動きはじめ、三人ずつまとめて入所を許された。名前、年齢、職業、出生地、貧窮の度合い、前夜の宿泊所などが係員によって手早く書き留められる。女も、なんとか入れてもらえた。まったくすばらしい出来事で、おそらく係員が、「ナイフ、マッチ、たばこを持ってるか?」と耳元で怒鳴ったときに、他の連中のように嘘をつかず、素直にたばこを渡したからだろう。
係員の指示に従い、ぐるっと収容所の入り口に向き直ったとき、後ろ手に何か煉瓦のような手触りのものを握らされた。もう一方の手には小鉢を持たされた。一段と暗くなっている地下室にころがりこむと、ベンチやテーブルがあり、周りに男たちがたむろしていた。不快なにおいがした。陰鬱な雰囲気で、奥のほうからぼんやりと何人もの声が聞こえてくるので、地獄に通じる控え室か何かのように思えた。
たいていの人間は足がひどくくたびれていたので、食事の前に靴を脱ぎ、足を包んでいる汚らしいぼろ布を取り去った。それでいちだんと悪臭がひどくなった。
小鉢に入っていたのは、とうもろこしと湯を混ぜあわせたスキリーだった。三クォートのオートミールをバケツ三倍半分の熱湯の中に入れてかきまわした流動食だ。煉瓦のように思えたのはパンだった。よごれたテーブルの上に、むきだしの塩が、瓶にも入れられず、ぱらぱらとばらまかれていた。女も他の人間も、塩をパンにまぶし、夢中で食べた。のどにつかえてしまった。うまくパンをのどに通すには、少なくとも一パイントの水が必要そうだったが、小鉢のスキリーは多く見積もっても四分の三パイントくらいしかなかった。
他の人間を観察すると、ちょくちょくと部屋の隅の方に行っているみたいだったので、女も行ってみると、水があった。そこで小鉢のスキリーに水を継ぎ足し、あらためて飲み込んだ。口当たりがとても悪かったし、味がなく、苦かった。スキリーが喉元を過ぎてしまったあとでも口の中にしつこく苦味が残り、不快だった。しかし女は自分の割り当て分のパンを残らず食い、小鉢をこするようにしてとうもろこしを一粒残らず口に入れた。ちっとも満腹にならなかった。もっともっと食べたかった。
その夜、陣痛が来た。医者にかかっていれば、予定日よりも早い、と言うところだったが、そもそも予定日がいつかなんて誰にもわからなかった。
生まれた赤ん坊は女の子だった。女の子はしばらく、この世とあの世の間を行ったり来たりしたあと――呼吸がなかなかできなかったので――幾分かばたばたともがき、やっとのことで、泣き声をたて、くしゃみをした。
いまや母となった女は、血の気が引いた顔をよわよわしくあげ、蚊の鳴くような声で、言葉も聞き取りにくいほどに言った。
「子どもを見せて。それから死なせてください」
手渡された赤ん坊を胸に抱くと、女は冷たい、青ざめた唇を赤ん坊の額に激しくおしつけ、両手で自分の顔をなで、もの狂おしくあたりを見まわし、身を震わせ、ぐったりとなって――死んでしまった。
このようにしてパチュリー・ノーレッジは生まれた。
(二)
藤原妹紅の家に着くと、パチュリーは肩からさげていたかばんに手を入れ、魔導書を一冊取り出した。それからぼそぼそと呪文をつむぎ、魔法を使って、妹紅の家の周りだけを冬にした。
だいたい氷点下10℃くらいになった。しばらくそのまま待っていると、妹紅が中から出てきた。真っ青な顔をしてがたがた震えていた。
「何っだこれ……」
自分の身体を両手で抱きしめて、縮こまっている。唇が青くなっていた。
レミリアや咲夜から話は聞いていたが、会うのははじめてだ。白髪で白い肌で、赤い目しているところが色素が薄そうだった。なんとなく、自分と相性がいいんじゃないか、とパチュリーは思った。震える妹紅を少し観察したあと、落ち着いて声をかけた。
「藤原妹紅ね。さっそくだけど頼みがあるの」
妹紅は今気づいたというふうに、首を曲げて、訝しげにパチュリーを見た。寒いせいか細目になっていて、異様に目つきが悪く見えた。
「あんた誰だ」
「パチュリー・ノーレッジ。紅魔館に棲む魔女よ。用件を言うわね。あなたの肝がほしいの」
「はァん?」
「蓬莱人の肝は、万能の薬になるという。もちろん、それだけでは材料が足りないけれど、他のものはすでに見繕ってきた。あとはあなたの肝だけなのよ。協力して」
「……この寒いの、お前か」
「ええ。どうせなら、凍死すれば良いと思っていたけど、そうもいかなかったわね。
じゃ、服を脱いでちょうだい。開腹するわ」
「わかった」
「ありがとう。無駄にはしないから、安心して」
「パゼスト・バイ・フェニックス」
妹紅は燃えた。パチュリーも燃えた。近くにいた、青色の服の、小さな幽霊みたいなものも燃えた。覗きに来ていた魅魔様だった。対策をしてあったが、それでもパチュリーは全身に大やけどを負った。魔法の効力がなくなって、竹林は平常の気温に戻った。
妹紅ははあ、ふう、と息を吸ったり吐いたり、手足をぷらぷら動かしたりして、徐々に戻ってくる気温をたしかめた。さっきよりはよほどあったかいけど、やっぱり数日前より寒いな、と思った。夏が終わり、秋がやってくるのだ。魅魔様はいなくなった。
◆
「で、肝の話だけど」
「もう復活したのか」
妹紅は驚いた。輝夜に対するときとはちがっていくらかは手加減していたから、気候を冬に変えられるような魔女なら、まあ、死なないだろう、とは思っていたが、それにしても数日は動けなくなると踏んでいた。それがわずか数時間で、火傷の痕もなく、服まできちんと再生して顔を出してきたところを見ると、なるほど大魔女にはちがいない。
パチュリーはちょこんと正座して、妹紅の家の茶の間にちんまりおさまっている。面食らったが、半分くらいは面白がってもいた。ネグリジェみたいな服を着たどこから見ても西洋風の魔女が、どこから見ても和風の、お粗末な自分の家にお行儀よく座っている。どことなく味のある光景だった。
妹紅の家(通称:超藤原亭)は狭い。寝るところと厠と、台所だけがあって、壁材も柱もすべてが竹でまかなわれている。紅魔館や永遠亭とくらべると、見た目はほんとうにぼろっちい、風が吹けば飛んでしまいそうな代物だったが、これでもかなりの風雨には耐えるので、建築物の本懐は形態ではなく機能にあり、つまるところ居住に不自由がなければそれで良いのであって、それ以上の過剰な備えやごてごてした、奇を衒ったコストの高い装飾は、まったくもって意味のない、いわば観念的な倒錯であると妹紅は考えていた。ようするに建てるのがめんどうくさかった。
お茶出すから待ってろ、と言って、妹紅は台所に向かった。パチュリーは作法のお手本のように、正座して座っていたが、畳は古くてぼろぼろにささくれ立っており、座布団もなかったので、すねにいぐさが刺さってちくちくして痛かった。そうとうに居心地が悪かったが、しかし不平を言うのは礼儀違反であると考え、黙って座っていた。お茶が運ばれて来た。ぺこり、と頭を下げて、口へ運ぶ。
水だった。パチュリーは泣きそうになった。
「貧乏なのね」
「うっさい。何の用だ」
「だから、さっきから言ってるじゃない。肝が欲しいって」
「ほんとうにそれだけなのか。だったら、もう一度燃やして、川に捨ててやる」
「やれるものなら……と、言いたいところだけど、先ほどの爆発力はこちらの想定外だったわ。どうも、まずは友好を深める必要があるみたいね」
もともとしていた正座を、わずかに直して、パチュリーは妹紅へ向き直った。背筋を伸ばす。薄手の服が体の前面に沿って貼り付き、起伏をあらわにした。やわらかそうな乳房の形が見えた。
それからまた、頭を下げる。先ほどのように軽くではなく、深々とお辞儀し、両手の指先を揃えて畳につける、昔風のお辞儀だった。
「私はパチュリー・ノーレッジ。紅魔館の図書館を管理しています。魔女、と考えてもらって良いわ。あなたは藤原妹紅。蓬莱人ね。今日はあなたに頼みごとがあって来ました。突然の訪問はお詫びするわ。けれどそうするしかなかったの。時間がないのよ」
一息にしゃべる。妹紅はあっけにとられていた。目の前の魔女が、パチュリー・ノーレッジであることは先刻聞いて承知していたが、以前にやってきた巫女や魔法使い以上に、人の話を聞かない迷惑な奴だと思っていた(突然人の家を氷点下にするなど、頭がいかれているとしか思えなかった)。しかし残念ながら、幻想郷ではそうしたいかれたパーソナリティーのほうが一般的でさえある。すぐに復活してきたのに免じて、暇つぶしに話くらいは聞いてやろうと思っていたのだった。
しかし一転して、はじめの態度が嘘のように、こちらに敬意を示す形を見せている。
単純に信じてしまうのは危険だが、多少は真面目に、彼女の意図や目的などを聞いてやってもいいかと思いはじめた。
妹紅は自分のぶんの水を一気に飲み、部屋の奥から焼酎を出してきた。
今度はパチュリーのほうがあっけにとられた。
「呆れた。朝から酒なんて、鬼みたいね」
「暇人だからね。今日やることは明日、明日やることは明後日……そうやってどんどん先延ばしにしていっても、一向に困らない身の上なのさ。酒くらいいつでも呑む。それに肝がどうのなんて話、酒なしで聞きたくないもの。さ、ぐっと。ほら。まずは水飲んで」
パチュリーは言われた通り、まずは水を飲み干した。からになった湯のみに、焼酎が注がれる。自分の湯のみにも注いだ。片手で湯のみを目の高さまで持ち上げ、パチュリーを見てにやりと笑う。
「こいつァただの酒じゃない。蓬莱人用の、特別なお酒だよ。あんた見たところ、体が弱そうだけど、私についてこれるかな」
パチュリーは、馬鹿にしないで、弱いのは気管だけで、肝臓はステンレスのように強いのよ、と言い放ち、ぐいっと酒を呑んだ。美味しかったけど、思った以上に強烈で、げほげほ咳が出てしまった。
言わんこっちゃない、と言って妹紅がまた笑う。
それからふたりで酒を呑みつづけた。妹紅が目を覚まさない早朝を狙って来たはずが、いつの間にかお昼になっていた。つまみは妹紅が、奥から漬物と鶏刺しを出してきた。漬物はともかく、鶏刺しはなんだか意外だったので、訊いてみると、「慧音からもらった」とのことだった。
焼酎のびんの中味が半分くらいなくなるころ、パチュリーはまた、肝の話をはじめた。
「肝ねえ。肝がほしいねえ。どういうこと」
「薬を作るのよ。病人がいるから、治すの」
「病人か。私、いい方法を知ってるよ。永遠亭に連れていけばいい。あそこの永琳って奴は、気に食わない奴だが、すごい医者だよ。あんたが薬を作るより、こう、ばばっと治してくれるよー」
「だめよ。月人なんて、信用できるもんですか。とても大事な患者なんだから」
「あれ、永琳が月人だって、知ってるんだ。さすがだね」
「私に知らないことなんてない。伊達に知識人を名乗ってないわ。あなたの友達の白澤だって、私にはかなわないの」
「へえ、大きく出たね。慧音はああ見えて、頭にお弁当箱のっけてるだけの女じゃないよ。こと幻想郷の歴史についてなら、それこそ生き字引だ。いっぺん勝負してみるのも面白いかも」
「望むところよ。……って、また、話がずれちゃうじゃない。私は、肝、肝、肝。肝がほしいの」
「肝って、肝臓のことだっけ」
「そうよ。ああ、だから、あんまりお酒飲まないでちょうだい。影響ないとは思うけど、まかり間違って、品質が悪くなったらたまったもんじゃないわ」
「ずいぶんな言い草ね。私より、輝夜の肝とってきたらいいのに」
「だから、月人は嫌なのよ。嫌というか、だめなの。何が起こるかわからない」
「そっかー、じゃあ、これもだめなんだね」
妹紅はふたりの間にある、鶏刺しのお皿をひょいと持ち上げた。先ほどまでぱくぱく食べていたものだった。箸は竹箸で、これは自分で竹を削って作った、お手製なんだ、とのことだった。それぞれの箸の先はお互いの唾液と、ごま油で濡れている。
パチュリーは少し、怪訝そうな顔をした。それから唇の両端が引き締まって、固まってしまった。病的に白い肌から、さらに血の気が引いた。
妹紅は手にした皿から、もうひときれ、手で摘んで口に入れた。んー、おいしっ、と言って、顔をほころばせる。
「これ、鶏刺しって言ったけどさ。ごま油と塩を混ぜたもので味付けしてるから、って言ったら、素直に信じてくれたね。何かに似てる、と思っただろ。食べてもそういう味がしただろ? おいしいよね、ぱくぱく食べてたなぁ」
「何を言ってるの」
「何って、おいしかったよね、って話。で、これさ、実は慧音からじゃなくって、輝夜からもらったんだ」
「まさか」
「レバーに似てただろ? 味。似てるだけじゃないんだな、それが。
私と輝夜がどんな関係か、知ってるよね、何万回も殺し合ってる。最近では、相手の死肉を食うことが流行りでね。……これも何百回目だかの流行だけどね。ははは」
酒のせいで上気した顔で、妹紅は、ははははは、といつまでも笑っていた。パチュリーは喉から搾り出すようにして、小さく声を出した。
「それは何」
「はは、言わせないと、確認しないと気が済まないか。さすがは知識人、慧音んとこの寺子屋の生徒にも、見習わせるべきだな。
さて、これは何か。お察しの通りよ。これは輝夜のレバ刺し――肝臓の刺身さ。ちょうど昨日、殺し合いをやったんだから、新鮮でよかったろう。
あんたの望む、蓬莱人の肝、手に入ったじゃないか。食っちゃったじゃないか!
あ、月人のは、だめなんだよね。ははははは、残念残念」
パチュリーの頭の中に、輝夜の顔が浮かんで、すぐに消えた。猛烈な吐き気が胸の底からこみ上げてきて、痛いほどだった。よっぽど外に出て、今までに食べたものを吐き出してしまおうかと思った。しかし意地を張って、そのまま座っていた。
「……私が食べてもしょうがないのよ。持って帰って、材料に使うんだから」
「ははははは……あれ、あんまり驚いてないのか。なんだ、期待はずれだな。やっぱり知識人だと、お見通しなのかなぁ。慧音はひっかかったけどなぁ」
「……何のこと」
「これ、ほんとに鶏刺しだよ。いくらなんでも、そんな趣味の悪いもの、お客様にお出しするわけないでしょ。どう、単純なものだけど、おいしいだろ。あとにんにくとか使っても、これがまたいけてね」
パチュリーは数秒間、黙っていたが、やがてスペルカードを取り出し、ロイヤルフレアを妹紅にぶち込んだ。
妹紅は燃えたが、能力の特性上まったく効かなかった。しかし妹紅の家はばらばらに吹き飛んでしまった。骨組みも床も残さず吹き飛んでしまったため、あとには呆然とした顔で地べたに座る妹紅と、はあはあ、はあはあ、こひゅーこひゅーと死にそうな息をついているパチュリーだけが残された。
◆
ひどいことするなあ、と言いながら、妹紅はまた笑いはじめた。家がなくなったというのに、余裕たっぷりだった。自分を驚かせたのがそんなにうれしかったのか、と思うと、とても悔しかった。
「ひどいのはどっちよ。ほんとうにやっつけてやろうか」
「ははははは……朝みたいに不意でもつかない限り、あんたじゃ無理ね。魔女ったって底が知れてる」
「ふん」
パチュリーは下唇を噛んで、そっぽを向いてしまった。
お酒もなくなっちゃったなぁ、と言いながら、妹紅が立ち上がった。
「ね、ミスティアの屋台にでも行こうか。鰻は旨いし、お酒もいいのがおいてある。歌も聴けるよ」
「まだ呑むの? ほんと、鬼みたいね」
「実は、会話に飢えててさ。こんなところに住んで、それで……殺し合いばっかりやってると、その、心が荒んでくるんだよ。あんた、面白くて好きだよ。最初はちょっといかれてるかと思ったけど……うん、いかれてるけど、なんていうか刺激的だね。
そう言えばさ、聞いてなかったけど、私の肝をどうするの?」
「だから、薬にするのよ。何度も言ったじゃない、この酔っ払い」
「うん、ごめん。薬にするのは聞いたよ。で、それを誰に使うの?」
誰が病人なの? と、小鳥みたいな顔をして、妹紅は尋ねた。
そっぽを向いていたパチュリーが、おずおずと妹紅に向き直って、まっすぐに目を見つめ、それから下を向いた。
「ごめんなさい。それは私からは言えないの」
「はァん?」
「私には、そこまでの権限はあずけられていない……」
さらに問いただそうとしたときだった。妹紅の横を、青いとんがり帽子をかぶった青い服の小さなものが、さっと通り過ぎ、パチュリーに取りすがった。
「ミマー」
「魅魔様!何かあったの」
「ミマー」
「……そう、魔法の森に……。念のため、網を張っていて良かったわね。さすが私」
「おい、なんだそれ」
「これは魅魔様よ。私の作った使い魔。デザインは、オリジナルじゃないけどね。朝にもいたのよ、あなたに燃やされちゃったけど。気づかなかった?」
朝は寒くて、それどころではなかった。頭をかいて、さっきまでしていた話をもう一度つづけようとした矢先に、
「行くわよ」
と、パチュリーが立ち上がった。魅魔様とやらを伴って、ふわりと浮いて飛ぶ体勢に入る。
何処に行くんだ、と聞いた。
「魔法の森よ。聞いてなかったの? 急ぎたい。早く」
「ん……うん」
いっしょに竹林を出た。ありがとう、とパチュリーが言った。暇だしね、と返す。
「あとででいいから、さっきの話、詳しくね」
「ええ」
パチュリーは申し訳なさそうに思っているようだった。白い頬が若干、赤くなっているので、照れているんだとも思った。それで妹紅は、
「ね、私のこと、もこたんって呼んでいいよ。ははは……」
と付け加えた。パチュリーはさらに赤くなった。
(三)
マエリベリー・ハーンは森の中にいた。鳥や虫や風が立てる、さまざまな音が入り交じって聞こえていた。うす暗かった。濃く生い茂った木々の葉に遮られて、太陽の光がなかなか届かないのだ。だから今が朝なのか昼なのか、よくわからなかった。
昨日は夜の十一時くらいに寝た。メリーにしては、平均的な就寝時刻で、けれど学校の友達からは、もっと夜更かししてもいいのに、と言われているような時間だった。夢は見なかった。それで、起きたらこの森にいた。
目を覚ましてから、まぶたを開けるまでの間、うつらうつらしながらも、おかしなにおいが鼻についていたので、不自然さには気づいていた。横向きになって寝ていたから、頬の下の肌ざわりや、パジャマ越しの胸や腹、足に伝わる感触に注意を向けてみた。シーツがなかった。目を閉じたまま、姿勢を変えて足や手を伸ばして、布団やマットレスがどこかにないかと探してみた。どこにもなかった。そろそろおしっこもしたくなっていた。それでおっかなびっくり、目を開けた。
目に飛び込んできたのは、まずは木の葉の緑色で、それとその隙間から、申し訳なさそうにちらほらと見えている空の青。身を起こして、状況を確かめる。体の下に草があった。手で触ってみると間違いなくほんものの草で、やがて、夢じゃない、と認めざるをえなくなった。夢だと信じこむには、現実感がありすぎた。
立ち上がって、少しだけ歩いてみた。素足が草を踏み、足の裏をを切ってしまわないかと心配になった。裸足で地面を歩くなんて、ふだんならまずしないことなので、なんだか悪いことをしているような気分になった。着ているものはパジャマ一枚で、ほかに身を包むものがないから、とても無防備だった。両手で自分の腕をつかんで、震えた。恐ろしいからでもあったし、パジャマだけでいるには、気温が低すぎたからでもあった。
寝ているうちに、何かの境界を越えて、こんなところに来てしまったんだ。
メリーはそう考えた。であれば、またどこかで境界を見つけて、元の場所へ帰ることもできるかもしれない。
考えはすぐに、そういうふうに進んだ。だから、いくらかでも動いて、怪しい境界を探すべきだと思った。だけどどちらへ行けば良いのか、まるで見当がつかなかったし、森の中には生き物の気配が充満していて、へんに動いて獣に襲われたらと思うと、怖くて勇気が出なかった。
そのままそこにへたりこんで、しばらくじっとしていた。メリーは泣きそうになってしまった。やがて、雨が降りだした。
ぽつりぽつりとした雨が、すぐに、量を増してザーッという雨になった。メリーは大きな木の根元によりかかり、森の木と葉に抱かれるようにして、雨を凌ごうとした。日の光も遮るくらいの森だから、雨も防ぐだろうと考えていたが、でも、やっぱり少しずつ、枝と葉の隙間を通るようにして森の内側へやってきた雨粒が、メリーの身体を濡らしていった。パジャマが肌に張り付いて、寒くて、心細くて、おなかがすいていた。
――ここはどこなんだろう。
はじめて、そう考えた。けれどすぐに、意味のないことだと思った。自分が知っている場所だとは思わないし、そういう正体探しをするほど、気持ちに余裕がなかった。とにかく、帰る方法を見つけたかった。
帰れなかったらどうなるのだろう。
起きてから時間が経ったので、ちょっとだけ頭が回り始めた。主に、暗い方向に。食べ物がない。水は――雨が降るところであることはわかったので、水たまりや、池や、川がどこかに――唐突に、雨が止んだ。
下を向いていた顔を持ち上げて、前を見た。雨粒が地面を叩いて、草を水びたしにしていた。雨は止んでいない。ただ自分にふりかかっていた、冷たく透明な雨粒が、スイッチをひねるみたいに消えてしまっていた。誰かの手が見えた。横を向くと、少女がそこにいて、自分に傘をさしかけていた。折りたたみ傘だった。
「雨の日は傘をさす。これ、偉大な発明だよね。持っててよかった。へ、へっへっへー」
水色の、雨合羽とも作業用のつなぎともつかない妙ちきりんな服を着た女の子が、メリーを見て、へへへと笑っていた。
なんかその、ここに来るたび、その、予想のつかない出会いがあるもんでね、正味な話がこれしかし、と、河城にとりはできるだけ緊張を隠しながらつぶやいた。
◆
少しすると、ほんとうに雨が止んだ。するととても暑くなったので、メリーの肌にはりついたパジャマも、少しずつ乾いていった。
熱帯みたいな気候なのかな、と思うほどだったけど、にとりの言い分からすると、ちゃんと季節はあって、今は夏が終わり、秋に差し掛かっているところである。むしろ冬が長くて、嫌気がさすほどだという。ただ、この森は特別で、気候も含めて、何が起こるかわからない。外の人間が、よりにもよってここに放り出されるなんて、ついてないにもほどがある。私が来なかったら、すぐ死んでしまっていたことだろう。
でも、安心して。私が見つけたからには、責任持ってちゃんと元のところに帰してあげるよ、と白い歯を見せて、にとりは請け負った。
にとりは妖怪で、河童だった。水に棲む生き物だから、雨も別に苦にはならないとのことなので、ではどうして傘を持ち歩いていたの、と訊くと、幻想郷の大物妖怪の間では傘がファッションアイテムのひとつになってるので、真似して作ってリュックに放り込んどいた、とのことだった。
幻想郷。それがこの世界の名前で、妖怪と人間の入り交じる、昔の日本みたいなところのようだった。もっと詳しく訊きたかったが、それより先に、自分の身の上のことを話すように促された。
「ふん、ふん。起きたらここにいた、ね。まあよくあることだね」
「よくあるの?」
「たまにあるね」
「へえ……」
「ご、ごめん。私もよく知らないんだ。でも、まかせてよ。私、はりきってるんだ。今度はきちんと守ってみせる」
歩きながら、いろいろなことを話した。生まれたときから世界の境界が見えて、おそろしいとも、かっこいいとも思っていたこと。他の人間には見えないので、だからまだ誰にも、この能力のことは話していなかった。そしていつか、こういうふうに、知らない世界に放り出されることもありうると、心の底で受け入れていた。
ぽつりぽつりと話すうちに、気分が落ち着いた。にとりはふんふん、うなずきながら聞いてくれた。ときおり、興味深そうな、真剣そうな顔つきになった。そのうち、メリーは自分の身に起きている、とある重大なことを思い出した。
メリーが話し終わると、交代して、にとりが話し出した。今自分たちが向かっているのは、博麗神社というところで、幻想郷と外の世界をつなぐ境目の位置にあり、また幻想郷そのものを維持する結界の管理を行っている重大施設である。そこに行けば、博麗の巫女という管理者がいて、メリーを元の世界にもどしてくれるはずだ、うんぬん。
「昨日、宴会やってたからさ。まだ寝てるやつらもいるかも知れない。みんながいるところのほうが、安全だと思う。歩くのきついかもだけど、もうちょっと頑張ってね」
「うん」
「今回の異変は、なんて名前になるんだろうなあ……紅霧異変その2とか、マークⅡとか、紅霧異変マックスハートとか」
にとりが前を歩き、それをメリーがついて歩く。にとりの背中には大きなリュックが背負われていて、先ほどの折りたたみ傘以外にも、すこぶるいろんなものが入ってそうだった。河童は発明家なので、工具や自分の作った道具を持ち歩くことが多いんだよ、と言う。
妖怪とかうんぬんには疎いメリーでも、河童は知っていた。で、お皿見せてください。とお願いすると、頑として拒否された。それを言うなら河童と人間の、盟友としての絆を断ち切らなきゃいけない、とまで言われたので、そうとう恥ずかしいことなのだろう。
ほかにもいろいろなことを話した。にとりが作った数々の発明品について、妖怪と人間の関係について、河童の国にある日迷いこんできたひとりの男の話、アイマス2の響の可愛さ、とある業界でときおり取り沙汰される、やおい穴についてなど……。メリーは興味深く、話を聞いていた。でも、そのうち我慢ができなくなった。このまま黙っていたら、大変なことになってしまう。意を決してにとりの袖を引き、声をひそめて話しかけた。
「あの」
「うん。やおい穴っていうのは、実際にそういう描写があるというよりは、アナルセックスをよく知らない子が変な絵を描いちゃうことを揶揄または自嘲する意味合いが強いんだ。だから別に、やおい穴で子どもができるわけじゃないんだよ」
「あの、にとりちゃん」
「でも、男同士で出産っていうジャンルもちゃんとあってさ。まあ、詳しいことは、魔理沙に聞けば……どうしたの」
「……おしっこ」
「へぇっ?」
「おしっこしたいです」
「お、おしっこぉ?」
にとりはあわてた。まさか突然そんなふらちなことを言い出されるとは思っていなかった。
とはいえ、どうしようもない。メリーは両手を体の前で組み合わせて、顔を赤くしてもじもじしていた。腿をすりすりこすりあわせているところからすると、限界が近いのだろう。にとりは一瞬迷ったが、すぐに決意した。
「わかった。ちょっと我慢してね」
「えっ」
にとりはメリーを素早くお姫様だっこして、ふわりと地面から浮いた。びっくりしているメリーを気遣いながら、前に行ったり後ろに行ったり、何度か細かく反動をつけて、それから徒歩の何倍ものスピードで、滑るように前に動きはじめた。メリーはちょっと、漏らしそうになってしまった。怖かったが、風が肌を撫でていくのが涼しくて気持ちよくって、最初からこうしてくれればいいのに、と思ったが、口には出さなかった。
すぐに、目的の場所についた。森の中に長くてうねうねした、川のようにも見える池があって、そのほとりで、にとりはメリーを降ろすと、はい、紙、と言って、背中のリュックサックからポケットティッシュを取り出してメリーに渡した。メリーはそれを受け取ると、ありがとう、覗かないでね、と言ってから近くの木の後ろに入って、長いおしっこをした。
終わって出てくると、にとりが池の中に全身を沈めて、手で水をすくって顔を洗っていた。自分も手や顔を洗おうか、と池に近寄ると、そばに白い花が咲いているのに気づいた。
クロッカスに似た花で、白い花ばかりではなく、黄色い花や青い花も同じ場所にまとめて咲いていた。池の水は澄んでいて、花や、池の上空だけぽっかりあいている空を、水面によく映していた。きれいな青空だった。
メリーの顔も、金髪も、同様に池に映った。花に囲まれてゆらゆら揺れている自分を見ると、まるで自分がヨーロッパのお姫様になったような気持ちがした。
メリーはゆっくり、記憶を呼び起こしながら、呪文を唱えるように、演技者のように台詞を口にした。
「"これからさき、あたしのところに遊びにくるものは、心臓のないものにしてね"……だっけ」
「へ?」
「あ、えっと、昔の作家の童話の中にある言葉で、お姫様の台詞なの。すごく残酷なお話なんだけど、とても印象に残っていて、なんとなく、言ってみたくなっちゃった」
「ふうん――メリーって、変な子だよね。はじめて幻想郷に来たっていうのに、なんだか落ち着いてる。おっぱいも大きいし」
おっぱいは関係ないんじゃないかな、と思いながら、メリーはぽつりと告げた。
「昔から、こういうことがあるかも、って、ずっと思ってたから」
でも、いつからだろう?
生まれたときから、身の回りに自分にしか見えない、変な線や、境界みたいなものがあるのを知っていた。他の誰にも見えないことも、すぐにわかった。
けれどそれが、世界の隙間であると知ったのは――ごく自然に、それがこの世界とどこかちがう、別の世界との出入口であると気づいていたのは、いつからだったろうか?
思い出せなかった。その認識自体に気が向いたのも、今がはじめてだった。
水面を見つめた。おしっこをしたので、というわけでもないけれど、起きてからちっとも水を飲んでないことを思い出して、メリーは手で水を汲んでたっぷり飲んだ。水面がゆれて、花も自分の顔も不定期に歪んだ。
にとりが、
「下がって。私の後ろ方向に」
と、突然、厳しい声を出した。よく、意味がとれなくて、聞き返そうとしたとき、にとりが見つめる先の森から、金髪の、特徴的な帽子をかぶった、背の高い少女が現われた。
◆
少女は大陸風の、ぶかぶかした服を着ており、腕を体の横にぶらんと下げているが、袖が長いので手は見えなかった。短い金髪に、頭の上につのがふたつ付いたような帽子をかぶっていた。肌は白く、はっきりとした美しい顔立ちをしている。尻尾が生えていた。とても太い、金色の獣の尻尾が、何本もまとめて生えていて、背をこちらに向けなくても体からはみ出て見えていた。
森の入口のところで立ち止まって、こちらと視線を合わせようとせず、斜め下の地面を見つめて、じっとしていた。にとりが口を開いた。メリーがはじめて聞くような、すごむような調子だった。
「変な気配が漂ってたからさ。あんたかな、と思ったんだ。見つからないようにこっそり動いてたけど――まあ、いいや。で、どうするの。今日は気合が入ってるから、この前みたいにはいかないよ。この池は私の領域だし、今はいろいろと準備がいい!」
言葉を聞いても、少女はうつむいたままで、体からは力が抜けたままだった。何も反応しなかった。聞こえているのかどうかもわからなかった。
メリーはにとりに言われたとおり、そさくさと後ろに下がった。少女はきっと、にとりと同じ、妖怪なんだろうと思った。しかしにとりとちがって、友好的ではないようだ――どころか、何もしていないのに、とてもおそろしく、不吉なものに見えた。まるで映画に出てくる悪魔や、怪談話の悪霊のように、ひとつでも受け答えを間違ったら、まばたきする間に命を取られてしまうような予感があった。
少女はまだ黙っている。メリーと対照的に、にとりは少し、気を緩めたようだった。
「えっと、何もしないってんなら、それがいちばんいいんだ。あんたの言うことはなにひとつわからないけど、その、殺すことはないもんね。もしも、邪魔なんだとしてもね。外の世界に帰してあげればいいじゃん。それにこの子は、前の子とちがって――」
それまでぴくりとも動かなかった少女が、突然屈み込んで、足の下の地面に手を突き刺した。その手の先が、空間を渡ったように、いきなりメリーの手前の地面から飛び出て、メリーの右足首をつかんだ。
メリーは叫び声をあげた。足首をつかんだ手が、骨が折れるくらいの力でぐいぐい絞めつけてくる。逃げようとしたが、手は離れず、引っ張られて、尻もちをついてしまった。
「のびーるアーム!」
にとりが背負ったリュックサックから機械製の腕が飛び出して、あっという間にメリーのところまで伸びた。メリーの足首をつかんでいる手を弾き飛ばし、そのままメリーを守るようにその場所に留まる。跳ね飛ばされた手は、空中にあるうちに、周りに溶け込むみたいにして消えてしまった。
離れた位置で、少女は地面から手を抜いた。何事もなかったように、手首はきちんとくっついていた。それから、はじめてにとりのほうに視線を向けた。
頬が痩せこけて、凄絶な表情を作っていた。藍色の瞳はうつろで、光を吸い込むようだった。夏のはじめのころ、八雲藍から聞かされた言葉が、にとりの脳裏に蘇ってきた。
(名前と同じ色の瞳)
と、にとりは思った。
すぐにスペルカードを宣言する。
「水符『河童のポロロッカ』!」
にとりの両脇の池の水が盛り上がり、質量を保ったまま、みるみるうちに森の木よりも高くなり、水の壁のようになった。それが勢いをつけて、濁流になって少女に襲いかかった。
水は生き物のようにうねり、少女を飲み込んで、後ろの木々をなぎ倒して連れ去った。水がなくなると、森に、見通しの良い開けた道ができあがっていた。大きな池の水が、半分ほどまで減っていた。
メリーは呆然とした。何が起こったのか、とうてい理解できなかった。やっぱり、夢なのかもしれない、と思った。
「まだだよ! 光学『ハイドロカモフラージュ』!」
にとりは残った池の水を、片手ですくいあげて、離れた位置にいるメリーにぴょいっと投げつけた。メリーはひっ、と叫んで、思わず目を閉じてしまった。水は空中で薄い膜のように広がり、メリーの頭からかぶさって、布でくるむように全身を包み込んだ。
おそるおそる目を開ける。にとりの姿が消えていた。あたりを見回す。どこにもいない。
「音立てちゃだめだよ」
横から声が聞こえた。メリーはまた、ひっ、と叫んでしまった。声のしたほうを見ても、誰もいなかった。腕を掴まれた。驚きが重なりすぎて、息をするのも大変だった。
「落ち着いて。今、私たちは透明になってるんだ。このまま逃げるよ!」
にとりの声だった。何も無いところから聞こえてくる。メリーはそちらに手を伸ばした。やわらかいものに当たった。
「ひゅい!? ……こら、変なところを揉まない。手を引っ張るから、ついてきてね。うかうかしてられないんだってば」
見えない手に引っ張られて、メリーは歩き出した。見た目に似合わず、大きかった。自分のほうが大きいけど。
森の中に入って、しばらくすると、にとりがひそひそ声で話しだした。
「あいつ、八雲藍っていってさ。やばい奴なんだ。前はそうじゃなかったんだけど」
「やっぱり、妖怪なの」
「そうだよ。それも、とびっきり強い妖怪さ。悔しいけど、私じゃあ歯が立たない。見つからずに逃げなくちゃ」
「にとりちゃんだって、あんな、すごいことをして。びっくりしたわ」
「だめだめ。あんなんじゃ、時間稼ぎにしかならないよ。でも、水とは相性が悪いはずだから、式でも剥がれてくれればいいんだけど」
次に現れたら、水がないから、さっきよりも困るよ、とのことだった。だからあそこに行っておしっこしたのか。
にとりは魔法の森に入ったときから、変な気配を感じていたのだという。妖力なのか何なのか、よくわからない感じだったけど、とにかく、何かを察知して連絡をする術式が張り巡らされているようだった。不穏に思いながら、いつも材料を採取する場所へ向かうと、途中にメリーがいた、ということだった。
それからまたいろいろなことを話しているうちに、今度はパチュリー・ノーレッジに出会った。
(四)
◆1655年、イギリス、トーマス・エイディ『闇の中のローソク』のイメージ
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◆スペンサーの『妖精の女王』で描かれる魔女の一般的イメージ
影濃き谷合いの空き地に、 小枝を編んで作った粗末な 小屋があり、壁は土で固められていた。 魔女はそこに、いやらしい薬草に埋もれ、 窮乏に悪意をかきたて、なりふりかまわず住んでいた。 かくて魔女は人里を遠く離れて 孤独の棲み家を選び、人知れず 悪魔的な所業と地獄の業を保ち、 嫉妬を覚える人たちを遠くから害するのだ。 |
◆フランス、哲学者ジャン・ボダンが1580年に書いた『魔女論』による黒ミサ的魔女像
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(五)
「河城にとり。ばればれだから、出てきなさい」
魔女が言った。ちぇ、と舌打ちして、にとりは光学迷彩を解除した。
パチュリーはふよふよ浮いていて、体の周りに、なにか薄いバリヤーでも張っているように見えた。歩くのが面倒くさいのと、虫にたかられるのが嫌なのだろう。危険はなさそうだったが、一応、メリーを自分の後ろに隠して、にとりは口を開いた。
「紅魔館の魔女だね。めずらしいな、魔法の森に用なんかあるの?」
「ないわよ。用があるのは、あなたと、そっちの子」
メリーに目を向ける。じっとりとした視線がにとりの体を突き抜けて、直接自分を見ているようで、メリーは身を固くした。そうおびえることもないわ、とパチュリーが言う。
「確認しに来ただけよ。以前の子と同じかどうかね。しかし――」
一拍おいて、
「あなた、何歳?」
とパチュリーは尋ねた。メリーは、
「十五歳です」
とこたえた。
◆
パチュリーと妹紅は魔法の森を歩いていた。草を足で踏むと、草どうしがこすれあってしゃわしゃわと音がする。このあたりの木は紅葉樹らしく、気の早いひとつふたつがもう、少し色を変えていた。
「飛んでいけば早いのに」
妹紅は腕を頭の後ろで組んで、ぶつくさ言った。森に入ったときからこんな調子だった。パチュリーがなだめる。
「なるべくこっそり行きたいの。退屈なら、話でもしましょうか。BLにおける出産問題について」
「いらん」
「私の考えでは、腐女子の欲望のひとつに"幸福な一対をずっと見ていたい"というのがあるのよ。その欲望が極まった形のひとつが出産で、つまるところ、一対の間に子どもを放り込むことによって形成される疑似家族への嗜好ね。これは絶対数は少ないけど、どのパロディにも必ず一定数が存在する。ま、このあたりの詳しいことは魔理沙の領分で……魅魔様」
魅魔様が一体、森の中からぽてんと飛び出して、パチュリーと妹紅の目の前に落ちた。拾い上げて、視線を合わせる。
「どうしたの」
「ミマー」
「そう……えっ、こっちに? そう」
「言葉わかるの?」
「わかるわよ。魅魔様だもの。まあ、それならそれで、好都合ね。妹紅、準備して」
「何をさ」
「襲撃が来るわよ」
パチュリーは魅魔様を放すと、口の中で呪文をぶつぶつ紡いで、風を起こした。周りの木の枝が揺れて、かすかに色づいた葉が一枚か二枚落ちた。森の中の空気がかき乱されて、あらゆるにおいが入り交じったあと、上空に向かって吹き飛んでいった。風が渦を巻いている。新しい空気がどこからか運ばれてきて、なんとはなしに、視界が開けたように感じられた。
「ええと」
パチュリーが指さす。
「あっちかな」
その方向から、八雲藍が襲いかかってきた。爪を伸ばし、最も素早い獣の何十倍もの速度で、パチュリーの頭に向けて腕を振り下ろす。
妹紅が受け止めた。
「何の用だ」
妹紅は藍の顔を見た。いつもの穏やかな、落ち着いた従者の姿ではなかった。口を大きく開け、頬の真横までかっぴらき、牙をむき出しにして、唸り声をあげていた。ぐるるるる、と、喉から威嚇音まで発している。極限まで見開かれた瞳には、理性のかけらも宿っていないように見えた。
押しとどめられた手を、そのまま使って妹紅の腕を掴む。妹紅は思わず腕を引いた。一瞬前まで腕があったところに、藍の顔があった。思い切り歯を食いしばっている。噛み付こうとしたのだ。
妹紅は藍を蹴り飛ばした。声も立てず、藍は後ろに跳ねた。少し距離が開く。
掴まれた手が、いくらか爪で切り裂かれて、痛かった。妹紅は藍を見据えながら、パチュリーに質問した。
「おい。あいつおかしいぞ。どうなってるんだ」
「主人のために狂うことを選択した。馬鹿なのよ」
前を向いているから、パチュリーの顔は見えなかった。声の調子はひどく静かで、暗く、無感情なようにも、逆にものすごく感情がこもっているようにも思えた。けれど、それがどんな感情なのか、妹紅にはわからなかった。
「狂ってしまえば、考えることは少ない。けれどそれは愚かな手段。効率も合理もなく、目的まで見失ってしまう」
「どういう……」
「妹紅。燃やしちゃって。おとなしくさせれば、あとは私がなんとかするわ」
「……もうちょっと説明をさぁ……」
「妹紅、お願い」
「いやだからさぁ」
「お願い、もこたん」
妹紅は極力、藍に注意を向けながら、パチュリーの顔を盗み見た。真面目そうな顔で、真っ直ぐ前を見ている。こちらと視線を合わせようとしないから、魔女の気持ちを推し量ることは難しかったが、しかし全体的にわずかにぷるぷるピンクローターのように震えているので、恥ずかしかったんだろうな、と妹紅はあたりをつけた。
ふん、と言いながら、妹紅は手のひらの上に炎を形作った。藍の右の地面にひとつ、左の地面にひとつ、投げつける。線を書くように炎が燃え広がって、藍の背後でつながり、壁のようになった。
「逃すな、ってことだよね」
「ええ」
「私は身を守ることばかりやってきたから、こういうのは苦手なんだけどさ……」
炎にあおられて、うす暗い森に赤い色がついた。妹紅の顔を下から炎が照らす。白い肌に炎の色が宿って、にわかにできた影とともに激しく踊っていた。
「友達の頼みだ。狩らせてもらうよ、化狐」
言葉を合図にしたように、再度、藍が襲いかかってきた。また真正面から突っ込んできたので、妹紅はこいつ馬鹿なんじゃないかと思った。
一瞬、藍の姿を見失った。妹紅の手前まで突っ込んできたあと、一歩で上方向へ跳躍し、視界から消えたのだ。妹紅が首を持ち上げたときには、藍の影も見えなかった。
右方向へ手を突き出す。藍の顔面に拳が当たった。
藍はそのままの姿勢で立ち止まり、動きを止めた。妹紅が拳を引く。
妹紅の拳が当たった場所が焼け焦げていた。妹紅は首を曲げて、藍を見る。次に自分の拳を見た。皮膚が噛み削られ、血が流れていた。痛い。
妹紅と藍の視線が合った。その瞬間、また藍が姿を消した。妹紅は思わず、目を瞬いた。先ほどのように、動きで撹乱されたわけではない。その場にいながら、あたりに溶けこむように、すうっと消えてしまった。
両手から炎を出す。炎は大きくなると、手から離れて、少し間をおいた位置におさまった。
「普段なら効かないだろうが、今はどうかな? 馬鹿だからな。滅罪『正直者の死』」
炎から、弾幕が飛び出した。弾が列のように連なり、炎で囲まれた森の空間を満たしていく。妹紅は人差し指を立てると、さっと自分の前を横切るように動かした。遅れて、帯状の炎が出現する。左から右へ掃き掃除でもするように、炎が空間をなぎ払った。
地面の草が燃えたが、瞬間に燃え尽きてしまうため煙すら立たない。それでも、パチュリーはけほけほと咳をした。けむいとかなんとか以前に、炎のなかにいるため、酸素が足りないのだ。熱くて、肌が焼けるようだった。
「当たったかな?」
「早くして」
「注文が多いよ。わがままな……でも、すぐに」
言い終わる前に、地面から手が出て、妹紅の両足首をつかんだ。妹紅は思わず、
「おぉォ?」
と、変な声を出してしまった。
地面の中から現われた八雲藍が、足首だけをつかんだまま妹紅を持ち上げて、唸り声をあげた。妹紅は逆さ吊りになって、藍の前面にぶら下がるような格好になった。かなりあわてた。
藍が口を開けて、妹紅の太腿に噛み付こうとする。その前に、妹紅は炎を藍の腹部に叩きつけた。
爆発的な音が藍の腹部で弾けて、服と肉に火がついて燃え広がった。しかし藍は、まったくひるまなかった。
妹紅の足に牙を立て、服ごと、がぶりと肉を噛みとった。
――噛み切った傷口から、炎があふれ出た。妹紅の体内が燃えていた。口内に高熱の炎が炸裂し、藍は唸り声ではない、叫び声をはじめてあげた。たまらず、妹紅の足を放す。
パチュリーが、おぉ、と感心した声を出した。朝に自分がくらった術だった。あれは熱い。
「『パゼストバイフェニックス』」
炎の塊になって、妹紅は地面に着地した。背中から炎の羽根が生えていた。
不死鳥のようだ、とパチュリーは思った。
そのまま、距離をとった藍に突っ込もうとする妹紅を、「待って」と言って、パチュリーは止めた。
「何よ」
「――はつ、げほっ。発現せよ。水&木符『ウォーターエルフ』」
地中から、水に包まれた木の根が伸びて、藍をとらえた。
空間に水気が満ちて、徐々に炎を消していった。焼け焦げて真っ黒になった地面から次々と魔法の木の根が伸びて、二重にも三重にも藍に巻きつき、絡みついて、動きを封じていく。はじめのうちこそ、藍はもがいていたが、やがてまったく動けなくなってしまった。しばらくすると、根っこの塊みたいになってしまったが、それでも顔だけは木の根に覆われておらず、威嚇のためにむき出しになった牙と、正気を失った目が見えていた。
妹紅はスペルカードを解除して、汗を拭いた。はじめから自分でやれよ、と文句を言おうかとも思ったが、自分で言ったとおり、妹紅の能力は迎撃又は殲滅用なので、こうした捕縛には向いていない。パチュリーからすれば、しかたなく手を貸してやった、というところなのかもしれない。
気を抜いていたら、木の根が妹紅にも巻き付いてきた。あれ、と思っているうちに、手と足を絡め取られて、身を起こされ、森の真ん中で磔になったような格好になってしまった。
「……あら」
「なにすんのよ」
「わざとよ」
「こらぁ!」
「冗談よ。あなたがあたりを燃やしまくるから、苦しくて咳が出ちゃったんじゃない。ぱちぇ悪くないもん」
「悪いわ! 早くほどいてよ、もう」
「冗談よ。それにしても……」
パチュリーは妹紅の身体を、じっとりと見つめた。妹紅は変な気持ちになった。
「腰が細い……そしてそれと不釣合なほど大きい。咲夜がまた泣くわね」
「ごめん、意味がとれない」
「咲夜はうちのメイドで、ひた隠しにしてるけど、とあるコンプレックスを抱えていて」
「いいから外してよ、これ」
「さっきの、身体を炎に変える術を使えば?」
「あれはもう打ち止めだよ。朝に、あんたにも使ったでしょ」
「そうよね……あれは熱かった……」
「ちょ、ちょっと」
「さて」
パチュリーが指を鳴らすと、拘束が解けた。――妹紅のではなく、藍の。巻き戻しをするように、木の根が地中に潜っていって、狐の手も足も、尻尾もあらわになって、自由になってしまった。
妹紅は焦った。
「馬鹿かお前! また冗談か!」
「これは、冗談じゃないわね。実はさっきのも」
藍がまた飛び掛かろうと、身をかがめる。パチュリーはそれをじっと見ながら、一言だけ口にした。教師が生徒に注意するような、落ち着いた口調だった。
「やめなさい。あなたのことはわかっているわ――橙」
とたんに、藍は動きを止めた。先ほどまでの獣のような表情が、洗ったように消え去って、呆けた顔つきになった。パチュリーはそれを確認すると、すたすた歩いて近寄って、藍の額に手を当てた。今までが嘘のように、藍はおとなしくなっていて、身体に触られたのも気づかないようだった。ぶつぶつと呪文をつむぐ。
藍の身体が分解されて、溶けて空中に混ざっていくように、妹紅には見えた。あとに残ったのは、妹紅やパチュリーよりも小さい、子どもの身体だった。栗色の髪に赤い服を着ていて、うす緑色の帽子をかぶっている。妹紅も何度か、宴会で見かけたことがある。すきま妖怪の式の式、化け猫の橙だった。
橙は少しの間、ぼーっとして、状況がわからないみたいだったが、やがて雪が溶けるように、なめらかに表情が変わり、泣き出しそうになってしまった。髪と同じ色の瞳をうるうるさせながら、パチュリーを見上げ、そしてすぐに、ぺこんと頭を下げた。
「ごめんなさい」
へたりこんでいる橙を、パチュリーは立ったまま見下ろした。何を謝るの、と訊く。
「私、悪いことしたでしょ? 妹紅さんに怪我させちゃったし、あのメリーって子を殺そうとしたし」
「メリーはともかく、妹紅のことは気にしなくていいわ。どうせすぐ治るもの。プラナリアのごとく」
「おい」
「どうしてこんなことをしたのか、聞かせてくれるかしら」
「藍様が、もうすぐ子どもを産むの。でも、紫様が死んじゃうんだ。私には何もできなくって。悔しくって」
がさがさ、草をかき分ける音が聞こえた。橙は驚いて、口を閉じた。パチュリーも、身動きがとれないままの妹紅も、首を曲げてそちらを向いた。森の中から、河城にとりと、マエリベリー・ハーンと、そして、もうひとりのパチュリー・ノーレッジが、姿をあらわした。
にとりは三人を、とりわけ橙の頭を撫でているパチュリーを認めると、面白そうに笑った。
「おお、ほんとうにいるねえ」
「な、な、な」
妹紅はあっけにとられてしまった。少し考えた。正解だと思われるものに行き当たった。
「双子の姉妹」
「ちがうわ」
今まで、いっしょにいたほうのパチュリーがこたえた。申し訳なさそうな顔をしていた。
「あっちが司令塔になってる私。今の私は、分身で、あまりたいしたことはできないの。魔力も低いし」
「へ?」
「ごめんなさい。今からもとに戻るから、詳しい話はそれからするわ。このままだと、情報の公開にも権限がないのよ」
にとりたちといっしょにあらわれたほうのパチュリーが、じゃ、と短く言った。
「ええ」
ふたりのパチュリーは横に並んで、少し離れた位置に立った。それから指先まで揃えた両手を、相手の反対方向に伸ばす。
その手を頭の上を通して回すように動かしながら、ちょっとがに股になって、ちょこちょこちょこ、とお互いに近づく。
「……ージョン、ハッ」
ダンスにも似た特定の動きを、鏡写しにして連続して行い、最後にふたりはお互いの指先を合わせた。まばゆい、見るものの目を焼くほどの光が生まれて、気づいたときには、パチュリーはひとりに戻っていた。ものすごく得意そうな顔をしていたが、動きが格別にかっこ悪かったので、妹紅とにとりは気まずそうに目を逸らした。メリーだけがうっとりして、あこがれの目でパチュリーを見ていた。
「どう、かっこいいでしょう」
「ない」
「ないわー」
「素敵です」
パチュリーはメリーの頭を撫でた。なんだこの茶番、と妹紅は思った。
いらいらした声を出す。
「おい。説明しろ」
「これはもともとメタモル星人の技でね、レミィの自爆で私が死亡したあと、あの世で教わった」
「ふざけるのもいい加減にしろ。お前は誰だ」
「……というのは冗談。妹様のスペルカードにアレンジを加えて、分身とオリジナルの間で序列をつけるようにしたの。さっきまであなたと話していたのは、下位のほうの私だったわ」
まだ呆けている橙と、メリーをにとりにあずけると、パチュリーは妹紅に深々と頭を下げた。朝と同じくらい、心が込められた、立派なお辞儀のように、妹紅には感じられた。それで、もともと混乱していた頭が、さらにごちゃごちゃになってしまった。
意図したわけじゃないけど、敬意を欠いたやり方になってしまったわ。
パチュリーはそう言って、はっきりした声で、ごめんなさい、とつづけた。
それから、スペルカードを宣言した。
「金木符『エレメンタルハーベスター』」
歯車のように回転する刃が、パチュリーの手元にあらわれた。それで周りの木の根を斬って、助けてくれるのか、と妹紅は思った。でも、そうはならなかった。パチュリーは魔法の刃を妹紅の首に当てて、喉の肉を引き裂き、半分くらいまでかき切った。
(六)
血がどばどばと流れでて、妹紅はしゃべれなくなってしまった。気管も血管もやられている。あと数分で死ぬだろう。
にとりも橙も、何が起きたのかわからなくて、身動きが取れず、声も出せなかった。メリーは半ば意識を失った。
パチュリーはごそごそ、かばんをまさぐって、小さな刃物を取り出した。では、開腹するわ、と言って、妹紅の服を切り裂き、腹をあらわにした。色素のない真っ白な肌に、喉から流れた血が赤い川を作った。乳房の間に刃物をおくと、パチュリーはそこで、手を休めた。
「説明するわ。概要を」
妹紅の目から、パチュリーの頭が見えた。ピンク色の帽子と、紫色の髪の毛が邪魔をして、表情は見えなかった。けれど、この期に及んで、申し訳なさそうな顔をしているのだと、そう信じさせるような声色だった。頭に血が回らず、痛みと驚きで麻痺してもいたので、それ以上は考えられなかった。
「仕方がなかった。どちらかはここにいて、網を張っておきたかったし、あなたの爆発力を考えると、上位者が行くのは危険だった。実際、大やけどをするほど燃やされたしね。それから、誰が病気なの、とあなたは質問したわね。
誰のために肝が必要なのかと。誰のために薬をつくろうとしているのかと。
答えるわ。八雲紫よ」
橙の耳が、ぴくっと動いて、目が丸くなった。身体に力が戻って、勝手にぶるぶると震えるようだった。
何をしていいのかわからなかったが、とにかく、自分や自分の主人たちに関係のあることだ。橙は立ち上がろうとした。が、動けなかった。いつの間にか、先ほどと同じ木の根が、手や足に巻き付いて自分を地面につなぎ止めていた。うぎぎ、と声がして、横を向くと、にとりも、それから、あのメリーっていう女の子も、同じように動きを封じられているのがわかった。
「静かにしてて」
背中を向けたまま、パチュリーはこちらに向けて言った。妹紅は今にも死にそうに見えた。藍様にはかなわないとしても、妹紅はたくさん術を知っているし、不死身なので、そうとう強いことは確かである。けれど、肉体の強度自体は、ふつうの人間にちょっと毛が生えた程度なのだ。意識を失っていないだけ、立派だと思った。
橙のほうは、そう考えられるくらいは余裕があった。が、にとりはそうはいかなかった。驚きと怒りで、頭が沸騰して、皿が乾いてしまいそうだった。こいつはいったい何をしてるんだ?
「やめろ!」
そう叫んだ。パチュリーはこちらを、振り向きもしなかった。乳房の間から、へその下まで、刃物を滑らせて、妹紅の腹を割いた。首から出ているものよりも、さらに何倍もの血が、そこから流れ出た。パチュリーの服も、顔も、血まみれになった。切断面の両側に、パチュリーは手をかけると、力を込めて外側に押し開いた。妹紅の内臓が見えた。服と腹を割くのに使った刃物で、邪魔なものをひとつひとつ切ったりより分けたりして、最後に、パチュリーは妹紅の肝臓を取り出した。
かばんの中から、透明な、模型の船でも入れるような瓶を取り出すと、パチュリーはそれに注意深く肝臓をおさめた。かばんにしまって、口を閉じる。
妹紅は死んでしまった。
「……数時間経てば、生き返るでしょう」
誰に言うでもなく、パチュリーはつぶやいた。それからやっとのことで、にとりたちの方に向き直り、橙と、気絶しているメリーの拘束を解いた。にとりだけはそのままにしておいた。にとりは先ほどの、八雲藍の格好をしていた橙よりも、何倍も危険に見えた。
言い訳になってしまうな、と思いながらも、パチュリーは我慢できず、にとりに声をかけた。
「さっき言ったわね。八雲紫が病気だから、私はこの肝を使って、薬を作るの。必要なことなのよ」
「何、言ってる」
「メリーは八雲紫と八雲藍の娘よ」
「ふざけるな!」
にとりの背中のリュックサックから、機械製の義手がいくつもあふれ出て、魔法の木の根を次々と断ち切っていった。
あわてて、パチュリーは後ろに下がった。妹紅の死体の下に血溜まりができており、靴と、服の裾が濡れた。
立ち上がったにとりの左右と、頭の上の位置に、次々と義手が伸びて組み合わさっていった。よく見ると、義手の表面はぬらりと輝いていて、光を反射しているようだった。金属の上に、水がまとわりついている。連鎖的に継ぎ足された義手が、あっという間に、大きな射出口を作り上げた。パチュリーから見ると、にとりを中心にして、分子のような六角形の幾何学模様ができあがっていた。
「成程。河童に水気は効果がうすいか」
「河符『ディバイディングエッジ』」
射出口から水の弾幕が飛び出し、ばらばらになってパチュリーを襲った。森と地面に数えきれないほどの穴が開いた。いくつかの木が倒れ、地面が掘り起こされたように地形を変えていく――パチュリーが、体の前面に巨大な列石を呼び出し、自分と、妹紅の死体を守った。
にとりが動きを止めた。列石が崩れて、頭ほどの大きさの欠片になって落ちた。パチュリーの顔が見えた。
「土符『トリリトンシェイク』。おとなしくしてくれると助かる。これ以上の損傷は避けたいわ」
にとりの義手が伸び、パチュリーを狙った――空中で、それは叩き落された。
橙だった。にとりの目にも、パチュリーの目にもおさまらないような速度で、橙は動いた。化け猫の爪がにとりの首をつかんで、地面におさえつけた。
泣きそうな目で、パチュリーを見る。「藍様は」と言いかけて、あとがつづけられない。
「八雲紫は死にかけている。そして、八雲藍がその力を受け継ごうとしている」
と、パチュリーは言った。そのあと、少し間をおいて、「私の推測だけどね」と付け加えた。
風が起きて、倒れているメリーの身体の下に空気を送り込み、浮かせて、パチュリーのもとまで引き寄せた。
「案内して」
と、橙を見て言う。
「知っているでしょう。あなたの主人たちが、何処にいるか。狐の真似なんて、頭の悪いことをやっていないで、最善を尽くしなさい」
「紫様は」
言いかけて、橙は嗚咽した。ひっ、ひっ、と、後から後から涙と声が出てくるような泣きかたで、それでもなんとか、最低限のことだけは、言うことができた。
「治るの?」
「治すのよ。ぐずぐずしている暇はないわ。河城にとり」
「……」
「説明はじゅうぶんしたわね。理解した? 理解したなら、どうするのかは、自分で判断しなさい」
にとりの首をおさえていた手を、橙が離した。にとりは立ち上がると、うつむいたまま、片手を一度折り曲げ、そしてもとに戻した。かちん、と音がして、義手が出てきたときと逆回しに、なめらかにリュックに戻っていった。もう一度手を曲げた。ヴン、と棒を振るような音がして、気づくと、膨らんでいたリュックがぺったんこになって、にとりの背中から垂れ下がっていた。
わかってくれたようね、とパチュリーは言って、では行くわよ、とその場にいる全員を促した。にとりも連れて行くつもりのようだった。しかしにとりは、その場から動かなかった。声をかけた。
「待て」
「……何かしら」
「メリーを置いていけ。メリーは人間だ。それも外の世界の。ここのことには関係ない」
「そうもいかないわ。聞いてなかったの? 彼女は八雲紫と八雲藍の子どもよ」
「うるさい。信じない!」
にとりが顔を上げると、また、棒を振ったような音がした。いつの間にかにとりの両腕に、透けるような色合いの、金属とも宝石ともつかぬような素材の器具が装着されていた。腕から先に薄い板がくっついているような形で、その板が先で分かれて、ザリガニのはさみのようになっていた。にとりは腕を引き、パチュリーに向かって突っ込んだ。パチュリーの腹を、その器具で思い切り貫いた。
布地が舞った。それからいくつかのスペルカードが、パチュリーの服からこぼれて、ばらばらと落ちた。にとりの腕の金属具が、半ばからぼきりと折れて、地面に落ちた。
パチュリーは顔をしかめて、金属具が当たった箇所を見た。平手打ちをされたように肌が赤くなっていた。戸惑っているにとりの体を、橙がまた、上からたたき落とした。地面に腹ばいになったあと、頭を殴られて、にとりは失神してしまった。
「危なかった。用意しててよかったわ――金符『メタルファティーグ』(金属疲労)」
気を失ったにとりを見下ろして、パチュリーはぼそぼそとつぶやいた。
「私たちは子ども。いつか大人の皮を食い破り、生まれてくる子ども――私と、このメリーもね。
しかし、死なせない。子どもにとって、母親は必要なのよ。産みっぱなしで自分は死んでしまうなんて、そんな勝手、許すものですか」
にとりが目を覚ましたときには、パチュリーも、橙もメリーもいなくなっていた。にとりは、うわああああああ、と叫んだ。声は森の中に響いて、誰のこたえも得られず、そのまま消えていった。
(七)
水色の髪の毛の、小さな子どもが、とてとて歩いて、大きな扉を開けて、紅魔館の大ホールに入っていった。レミリア・スカーレットは、幼い身体に不釣合いな大きな、豪壮な椅子に腰掛けて、入ってくる女の子を見ていた。女の子は、ここに来るまでと同じように、行儀よく、歩いてレミリアのもとまでやってきた。飛べないのだ。レミリアの血を受け継いでいて、指先から紅い霧を出すことができるし、身体の一部を蝙蝠に変えることができる。けれど女の子は、吸血鬼ではなく、人間だった。
レミリアにはそれが、面白いことのようにも思えるし、なにかものすごく大事なことのようにも思える。
「レミリアおかあさま」
レミリアの手前で立ち止まって、女の子が言った。レミリアは笑って、女の子を手で招き寄せた。椅子に座ったまま、ひょいと持ち上げて、自分の膝の上に座らせてやる。女の子はレミリアよりもさらに背が低く、五歳くらいに見える。
「おかあさま。寝ないの?」
「私は吸血鬼だから、夜起きて、朝に眠るのよ。あなたもそうしなさい」
「はい」
「いい子ね。フランドールも、あなたみたいに聞き分けが良ければいいんだけどね。困ったなあ……」
「でも、おかあさま」
「なあに」
「何してるの? 真っ暗で、怖いのに」
「おかあさまは悪魔だから、真っ暗でも怖くないのよ」
レミリアは女の子の髪の毛を、くしゃくしゃに撫でた。女の子はくすぐったそうに目を閉じた。目を開けたときには、藍色の瞳が、まっすぐにレミリアを見つめていた。とてもかわいかった。レミリアは今夜、ずっと考えていたことを、順番を気にしながら、女の子に向けて話しはじめた。
「あなたの名前を考えていたのよ」
「私、名前あるよ。八雲紅(あか)」
「いいえ。それではだめよ。あなたはこの、レミリア・スカーレットの娘なのだから、悪魔の名を受け継がなくてはならないわ」
「悪魔って何」
「私たちのことよ。とにかく、あなたの苗字は八雲じゃなくて、スカーレットなの。紅・スカーレットじゃかぶるし、格好良くないでしょう。いろいろ考えたんだけどね。グレート金剛山とか、デリシャスベリーメロンとか、イカスのをいくつも用意したのよ。で、ついさっき決まったわ」
だから、ちょうどよかった、と言って、女の子の頬を両手で挟んで、手のひらでぐにぐに弄んでやった。藍色の瞳と、レミリアの闇に朱を混ぜたような瞳がかち合った。女の子が言ったように、真っ暗闇だったけど、それでもふたりにはお互いの姿がはっきりと見えていた。音や色にならないものが、ふたりの間に流れている。どちらも幼いため、親娘というよりも、よく似た姉妹のように見えた。
「パチェが言ってたんだ。昔の錬金術士たちは、土星の中に水星が隠されていると考えていた。黒の中の白、鉛の中の水銀。
古代天文学において、もっとも遠くもっとも遅くもっとも暗く、もっとも憂鬱に沈んだ惑星、土星。その輪は逃れることのできない運命の輪を意味している。物質の久遠の果ての成れの果てである鉛。その中に、もっとも近くもっとも早く、もっとも明るく、もっとも快活な惑星が――水星が隠されている。水銀は液体金属で、運動性を持ち、何者にもおかされぬ黄金すら溶かし込み、アマルガムをつくる。
あなたは私の子宮の意訳。憂鬱の中の快活さ、土星の中の水星。いつか私の――運命の皮を食い破ってあらわれる子ども。
その名はヘルメス」
ヘルメス・スカーレット。という名前になった女の子は、こくりとうなずいた。言われたことは、ちっとも理解できなかったし、八雲紅のほうがかわいくて好きだったけど、おかあさまの言うことだから、素直に聞いておくべきだと思った。
「良い子ね」
おかあさまが、また、頭をくしゃくしゃに撫でてくれた。とても嬉しかった。
「それじゃあ、出かけましょうか」
「どこか行くの?」
「ええ。動きがありそうだしね――パチェもほんと、やってくれるよ。私に相談してからにすればいいのにさ……。
さて、でも、その前に……あぁぁ、気が重いなぁ」
レミリアとヘルメスは、連れ立って紅魔館の地下階段を降りた。ヘルメスの考えでは、この先には、おばさまのいる地下室があるはずだった。
地下室の扉を、どんどん、と叩いて、レミリアは妹に呼びかけた。返事はなかった。もう一度。反応がないので、扉に耳をつけてみた。はかったようなタイミングで、地下室の中から何かが爆発するような、ドカーンという音が聞こえてきた。
「フラぁぁぁん」
「うるさぁい! お姉さまの、ばかぁぁぁぁ」
「落ち着いてよぉぉ。私は何もしてないのよぉぉ。ただ、娘ができちゃっただけでぇぇ」
「知るもんかぁ! お姉さまの、エッチ、すけべ、変態ぃぃぃ!」
「ちがうのよぉぉ。話を聞いてよぉぉ」
「だって、その子、お姉さまの子どもなんでしょお」
「そうだけどぉ」
「ほら、やっぱりぃ! 裏切り者ぉ」
「ごめーん。……じゃなくてさぁぁ、もう、出かけるわよぉ。えっとぉ、どこだっけぇ……」
いったん扉から身を離して、レミリアは目を閉じ、むん、と気合を入れた。運命がどうとかの、能力を使っているんだ、とヘルメスは思った。やっぱり、おかあさまは格好いい。
レミリアはもう一度、扉に身をくっつけて、フランドール・スカーレットに呼びかけた。
「冥界よぉぉ。あなた、行ったことないでしょお。いっしょに行くわよぉぉ」
(つづく)
あと100KBしかないのにまだ風呂敷を広げるのか? とか、
もしかして最後までKAIUN的なノリで突っ走ってしまうのか? とか、
期待と不安、共に我にあり。ってやつですね、今の心境は。
いよいよ完結。
刮目して紫様編を拝読させて頂きたいと思います。
死にかけとるやないか・・・・・・