空一面に広がった厚い雲が、太陽の光を完全に遮っている。
畑に咲いた向日葵は、皆気が抜けたようにうなだれていた。
窓辺から外の様子を見遣りながら、この畑の主たる大妖怪、風見幽香は大きなため息を吐いた。
「今日はもうまともに陽があたりそうにないわね」
暦ではすっかり真夏に入っていた。
燦々と照りつける太陽を目一杯浴びる向日葵。あの美しい姿を眺めることがなによりの楽しみなのに、それはしばらく期待できそうにない。
「一番好きな季節なのに……もったいないわ」
イライラとした手つきで髪をいじりながら、幽香は窓際の文机に頬杖をつく。湿気のせいか、髪も広がっているように思えた。
まったく、面白くない。
やる気まで雲に覆われてしまったかのように、幽香はただ恨めしく空を見上げていた。
やることがない。今日は何の楽しみも、見所もない一日としてただただ空虚にやり過ごそうかという考えが脳裏によぎったところで、幽香は思い直す。
こういう天気は向日葵の健康にもよろしくないものだ。もしこの曇り空や湿気のせいで向日葵が病気にでもなってしまったら目も当てられない。できる限りの世話をするのが最善だろう。
幽香は自らに鞭打ち、曇天の向日葵畑に繰り出すのだった。
向日葵の世話といっても、幽香には花を操る能力がある。病気になった向日葵があれば自らの能力で大体は治してしまえるので、基本的には畑の見回りに終始する。発見が遅れたからといって手遅れになることは殆どないが、その間向日葵を苦しめるのは心が痛む。
幽香は丁寧に、それでいて手際良く向日葵を観察していく。その時だった。
「この子、苦しんでいるわよ」
艶かしい声。幽香の背後から投げかけられた言葉が向日葵畑に響く。
幽香が振り向くと、そこには輝く金髪をなびかせた大妖怪が立っていた。
八雲紫。強大な力を持つこの妖怪の賢者は、易々と他人の領域へ侵入してくる。その底知れない不気味さに、畏怖する人間も数多い。
幽香は半歩ほど距離を空け、向き直る。
紫は金色の派手な扇子で顔を隠しており、その表情は伺えない。
一瞬で空気が張り詰めた。
幻想郷有数の力を持つ二人の大妖怪が、鉢合わせになったのだ。湿った空気が二人の間で淀んでいく。
唯我独尊が信条の妖怪にとって、妖怪同士の争いは珍しいことではない。しかし、この二人となると話は別だ。スペルカードルールに従っていたとしても、人間や力の弱い妖怪が巻き込まれればひとたまりもないだろう。それだけに、一触即発の雰囲気を醸し出す二人の様子は凶悪だった。
「何しにきたのよ」
幽香は怒気を存分に込めたとげとげしい言葉を放つ。
「あら、私はこのとおり、病気の向日葵を見つけてあげただけよ?」
扇子の陰から、紫の鋭い視線が向けられる。
紫の足元を覗いてみると、確かに病気にかかった向日葵があるようだ。遠目からなので定かではないが、葉に黒い斑点が見える。今日のような湿った日によくある症状で、特別に厄介な状態ではなさそうだ。むしろ、目の前のスキマ妖怪のほうが格段に厄介だろう。
「それはご苦労なことね。でも、この畑の管理は私一人で十分」
「何よ。感謝されるならわかるけど、煙たがられる覚えはないわよ?」
「余計なお世話よ。第一、向日葵に貴方が近づくことが不快なのよ」
紫があの向日葵に何かしたのかもしれない。彼女が真っ先に病気の向日葵を見つけたこと自体が怪しい。どんよりとした疑念が渦巻く。
「あら、私が向日葵を愛でてはいけないのかしら」
紫は動じた様子もなく、わざとらしく手元の向日葵に手をやってそんなことを言う。
「勝手に触らないで。本来花は誰でも気軽に扱っていいものじゃないのよ。自然を易々と捻じ曲げる貴方にその資格はないわ」
「自然を捻じ曲げているのはどちらかしらね。自分だけが花の気持ちを代弁できるかのようなその振る舞い、それこそが自然に対する傲慢さの表れではないのかしら」
それを聞いた幽香は一瞬呆れた表情を見せたが、すぐに冷徹な本性をさらけだした。胸元からスペルカードを取り出し、挑発する。
「どうやら、口で言ってもわからないおバカさんみたいね。妖怪の賢者が、聞いて呆れるわ」
「あら、やる気? まあ、丁度いい運動になるかしらね」
真正面から向かい合った二人の大妖怪は、互いの腹の内を探るように睨みあう。立ち込めた暗雲が、夕立を運んできた。この後の豪雨と雷を予感させながら、向日葵畑はそれとは別の緊張感に包まれていた。
紫が扇子を勢いよく閉じた。あたりに乾いた軽い音がこだまする。と同時にスキマが現れ、紫はそれに吸い込まれ姿を消す。
幽香は紫が出てくる場所が分かっているかのように、中空の一点を目指して跳躍した。みるみるうちに向日葵が小さくなっていき、代わりに出来たばかりのような雨粒が一滴、頬を掠める。
跳躍の頂点、そこには紫が待ち受けていた。
二人は同時にスペルカードを掲げ、勝負に出る。
始まりを告げるかのような雷が一閃。最強の妖怪同士の闘いが今、幕を開けた。
◆ ◆ ◆
その日、私は偶然にも早めに目が覚めた。すぐに二度寝しようとしたが、外の様子がいつもと違っているのを見て、思いとどまった。夏真っ盛りのはずの空が、曇っている。すぐにでも夕立が来るだろうことは、長年の経験で容易に予測できた。
私は眠い目を擦りながら起き出すと、一つ大きな欠伸をする。
「あら、珍しいですね、こんな時間に。お出かけですか?」
私が身支度を整えていると、急に後ろから声が聞こえてきた。まったく予期していなかったので少し驚いたが、それはずいぶんと聞き慣れた声だった。
「このぶんだと天気が崩れるかもしれません。お気を付けてくださいね。……まあ、だからこそお出かけになるのでしょうが」
「大丈夫よ。あなたが気にすることじゃないわ、藍」
我が式、八雲藍がいつのまにか現れたことへの戸惑いを隠しながら、とりあえず話を合わせておく。妖怪の賢者として、もとよりこの式の主として、こんなところでうろたえて尊厳を失うわけにはいかない。
「日傘も持っていかれたほうがよろしいのでは? いざとなれば、雨傘代わりにもなりますから」
「え、ええ、そうね」
なぜ、藍は日傘を勧めたのだろう。神社に行くときなどは必要ないのだが。まさか、私がこれから向日葵畑に行くことがわかったのだろうか。
賢すぎる式を持つのも大変なものだ。藍が何を考えているのか、主である私にもよく分からないことが多い。ぼろが出ないうちに、さっさと出かけてしまおう。
「そろそろ出かけるわ。留守番、お願いね」
「いってらっしゃいませ。ごゆるりと」
藍が即答し、ニコニコと立派な笑顔を作る。
今も、なぜ彼女が自慢の九尾を嬉しそうに振ってニヤニヤしているのか、その真意は掴めないままだ。私はその笑顔から隠れるように、隙間に逃げ込んだ。
あぶなかった。
藍にばれていたかは分からないが、私はこれから幽香のもとへ出かけるつもりだ。特別な理由はない。ただ、こんな真夏に今日のようなあいにくの天気だと、花の大妖怪といえどもやることがないだろう。一丁、弾幕勝負の相手でもしてやろうかと思ったのだ。
本当に、それだけの理由だ。別に、私とまともに取り合ってくれるのがあいつだけで人恋しくなったとか、見栄の張り方が同じで親近感が湧いているとか、そんなことは断じてない。絶対にない。
向日葵畑に降り立った私は、真っ暗な空と満開の向日葵を交互に見比べ、確信する。このぶんだと、幽香も暇をもてあましているに違いない。
畑を見回すと、目標はすぐに見つかった。桃色の日傘が揺れている。普通に近づいても良かったが、私はここでちょっとした悪戯を思いついた。心配性な幽香のことだ。どうせまた見回りをしているのだろう。調子の悪い花を見つけることだけに関しては、隙間を操ることのできる私のほうが有利なのだ。先に見つけて、驚かせてやろう。
辺りの花を素早く確認し、ほどなくしてそれっぽいものを見つけると、私は勢いよく飛び出し声をあげる。
「この子、苦しんでいるわよ」
奇襲成功。
幽香はあとずさりながら、ぱちくりと私のほうを見ている。上手い具合に風が吹き、髪がなびく。私の威厳も急上昇だ。
あまりのカリスマ的な登場に、我ながら恍惚とする。しまりなく緩んでしまう表情を見られないように、扇子で必死に顔を隠した。
しばらく唖然としていた幽香も、ようやく立て直す。
「何しにきたのよ」
顔真っ赤ですよ、幽香さん。長い付き合いだから分かることだが、彼女は恥ずかしいときも嬉しいときもこんな風に怒ったような声になる。私のドッキリが効いたのだろう。
「あら、私はこのとおり、病気の向日葵を見つけてあげただけよ?」
ここで、勘違いしないでほしい。私は向日葵に何もしていない。確かに私の能力で向日葵の健康不健康の境界を操ることは可能だ。ただ、もしそんなことをしたら幽香が本気で怒りかねない。
なんだか、幽香の視線が恐い。偶然見つけただけなんだってば。ほんとに、ちょっとした悪戯だったんです。私の目の訴えにも自然と力が入る。
「それはご苦労なことね」
どうやら、分かってもらえたようだ。幽香が握りこぶしをほどいたのを、私は見逃さなかった。
さて、こうなると私達の目的はただ一つ。幻想郷屈指の大妖怪として、いかにスマートに弾幕勝負に持っていくかだ。素直に「勝負しましょう」では尊厳も糞もない。ポイントは、相手を諭し、その正しさを力で誇示するようなかっこいいやり方だ。
幽香も考えていることは同じだろう。いつものように、軽口にみせかけた高度な駆け引きが続く。
「勝手に触らないで。本来花は誰でも気軽に扱っていいものじゃないのよ」
来た。
花に関する知識の差を武器にした、幽香お得意の諭し方だ。私は以前、これに何も言い返せず煮え湯を飲まされた経験がある。
しかし。私も馬鹿ではない。同じ作戦が何度も通じると思ってもらっては困る。私はこれに対する完璧な答えを模索し、メモ帳にしっかりと書き留め、空で言えるよう励んでいた。向日葵に手を触れたのも、私が練りに練った罠だったのである。
「自然を捻じ曲げているのはどちらかしらね。自分だけが花の気持ちを代弁できるかのようなその振る舞い、それこそが自然に対する傲慢さの表れではないのかしら」
はい論破。一度噛みそうになったが、なんとか余裕を見せ付けて言い切ることができた。端から見れば、私は今もっとも輝いている妖怪の一人だろう。
幽香は面食らったのか、慌ててスペルカードを取り出している。挙句の果てには、バカだとかなんとか言い返している。私の完全勝利だった。
「あら、やる気? まあ、丁度いい運動になるかしらね」
この分だと、雨が本降りになる前におひらきだろう。勝っても負けても、今日はいい一日になりそうだ。
◆ ◆ ◆
すっかり土砂降りなった雨を、紫は上機嫌で眺めていた。
雨が強くなったのは、紫がマヨヒガに帰ってきてすぐのことであった。
「紫様。なにかいいことでもあったんですか?」
「べつに、なんもないわよ」
しばらくして話しかけてきた藍に対し、紫は不自然なほどぶっきらぼうに返した。
「そうですか。また、幽香さんのところに遊びに……いえ、戦いに?」
遊び、という言葉に紫が動揺しかけたのを見てとると、藍はとっさに表現を変えた。
「ええ、そうよ。どちらが幻想郷を支配するにふさわしいか、しかと見せ付けてきてやったわ」
紫は嬉々としてふんぞりかえる。
「幽香さんと普通にお茶したりだとか、そういうことではなかったんですよね……」
「当たり前じゃない!」
紫が慌てて否定するのを見て、藍の表情が徐々に失望の色に変わる。
「まったく、お二人とも、素直じゃないんですから」
「素直って何よ。真っ当な力と力のぶつかりあいよ」
「そこまで認め合ってる仲なんじゃないですか。日傘もおそろいで、実力伯仲。お似合いだと思うんですけどねえ。いかんせん、変なプライドが邪魔をしているといいますか……」
藍は、言い終わらないうちに隙間に引っ込んでしまった主を見て、ただただ呆れるのだった。
幽香はひたすら反省していた。
予期していなかったとはいえ、紫に完全に主導権を握られたまま弾幕勝負を終えてしまったからだ。言葉に詰まって無理矢理言い返したり、力任せでスペルカードを使ってしまった様を思い返すと、顔が熱くなるぐらい恥ずかしかった。
今日の大勢を決めたあの台詞には、今後十分な対策が必要だろう。紫が今頃有頂天になっているかと思うと悔しいが、そのぶん次が楽しみでもあった。
今度はどうやって返してやろうか。想像を膨らませながら、幽香は部屋の壁に掛けてあるカレンダーに目をやった。
このカレンダーは幽香の日課の一つで、その一日がどんな日だったか自分にだけ分かるように、印を付けていた。
気に掛けていた種が芽吹いた日には緑色の丸を。とにかくいい天気だった日には朱色の丸を。向日葵が満開になった日には、黄色の二重丸をつけた。
今日はどんな印にしよう。
こんなに天気が悪かったし、向日葵は病気になっていた。普通なら、黒いバッテンでもつけてしまうかもしれない。
でも。
今日という日に、このわくわくした気持ちに、幽香はそんな印を付ける気にはなれなかった。ここだけには、嘘をつくことも見栄を張ることもできなかった。
少しだけ考えた後、幽香は誰にも見つからないような小さな印をつけた。
丁寧につけられたその印は、紫色の花丸だった。
畑に咲いた向日葵は、皆気が抜けたようにうなだれていた。
窓辺から外の様子を見遣りながら、この畑の主たる大妖怪、風見幽香は大きなため息を吐いた。
「今日はもうまともに陽があたりそうにないわね」
暦ではすっかり真夏に入っていた。
燦々と照りつける太陽を目一杯浴びる向日葵。あの美しい姿を眺めることがなによりの楽しみなのに、それはしばらく期待できそうにない。
「一番好きな季節なのに……もったいないわ」
イライラとした手つきで髪をいじりながら、幽香は窓際の文机に頬杖をつく。湿気のせいか、髪も広がっているように思えた。
まったく、面白くない。
やる気まで雲に覆われてしまったかのように、幽香はただ恨めしく空を見上げていた。
やることがない。今日は何の楽しみも、見所もない一日としてただただ空虚にやり過ごそうかという考えが脳裏によぎったところで、幽香は思い直す。
こういう天気は向日葵の健康にもよろしくないものだ。もしこの曇り空や湿気のせいで向日葵が病気にでもなってしまったら目も当てられない。できる限りの世話をするのが最善だろう。
幽香は自らに鞭打ち、曇天の向日葵畑に繰り出すのだった。
向日葵の世話といっても、幽香には花を操る能力がある。病気になった向日葵があれば自らの能力で大体は治してしまえるので、基本的には畑の見回りに終始する。発見が遅れたからといって手遅れになることは殆どないが、その間向日葵を苦しめるのは心が痛む。
幽香は丁寧に、それでいて手際良く向日葵を観察していく。その時だった。
「この子、苦しんでいるわよ」
艶かしい声。幽香の背後から投げかけられた言葉が向日葵畑に響く。
幽香が振り向くと、そこには輝く金髪をなびかせた大妖怪が立っていた。
八雲紫。強大な力を持つこの妖怪の賢者は、易々と他人の領域へ侵入してくる。その底知れない不気味さに、畏怖する人間も数多い。
幽香は半歩ほど距離を空け、向き直る。
紫は金色の派手な扇子で顔を隠しており、その表情は伺えない。
一瞬で空気が張り詰めた。
幻想郷有数の力を持つ二人の大妖怪が、鉢合わせになったのだ。湿った空気が二人の間で淀んでいく。
唯我独尊が信条の妖怪にとって、妖怪同士の争いは珍しいことではない。しかし、この二人となると話は別だ。スペルカードルールに従っていたとしても、人間や力の弱い妖怪が巻き込まれればひとたまりもないだろう。それだけに、一触即発の雰囲気を醸し出す二人の様子は凶悪だった。
「何しにきたのよ」
幽香は怒気を存分に込めたとげとげしい言葉を放つ。
「あら、私はこのとおり、病気の向日葵を見つけてあげただけよ?」
扇子の陰から、紫の鋭い視線が向けられる。
紫の足元を覗いてみると、確かに病気にかかった向日葵があるようだ。遠目からなので定かではないが、葉に黒い斑点が見える。今日のような湿った日によくある症状で、特別に厄介な状態ではなさそうだ。むしろ、目の前のスキマ妖怪のほうが格段に厄介だろう。
「それはご苦労なことね。でも、この畑の管理は私一人で十分」
「何よ。感謝されるならわかるけど、煙たがられる覚えはないわよ?」
「余計なお世話よ。第一、向日葵に貴方が近づくことが不快なのよ」
紫があの向日葵に何かしたのかもしれない。彼女が真っ先に病気の向日葵を見つけたこと自体が怪しい。どんよりとした疑念が渦巻く。
「あら、私が向日葵を愛でてはいけないのかしら」
紫は動じた様子もなく、わざとらしく手元の向日葵に手をやってそんなことを言う。
「勝手に触らないで。本来花は誰でも気軽に扱っていいものじゃないのよ。自然を易々と捻じ曲げる貴方にその資格はないわ」
「自然を捻じ曲げているのはどちらかしらね。自分だけが花の気持ちを代弁できるかのようなその振る舞い、それこそが自然に対する傲慢さの表れではないのかしら」
それを聞いた幽香は一瞬呆れた表情を見せたが、すぐに冷徹な本性をさらけだした。胸元からスペルカードを取り出し、挑発する。
「どうやら、口で言ってもわからないおバカさんみたいね。妖怪の賢者が、聞いて呆れるわ」
「あら、やる気? まあ、丁度いい運動になるかしらね」
真正面から向かい合った二人の大妖怪は、互いの腹の内を探るように睨みあう。立ち込めた暗雲が、夕立を運んできた。この後の豪雨と雷を予感させながら、向日葵畑はそれとは別の緊張感に包まれていた。
紫が扇子を勢いよく閉じた。あたりに乾いた軽い音がこだまする。と同時にスキマが現れ、紫はそれに吸い込まれ姿を消す。
幽香は紫が出てくる場所が分かっているかのように、中空の一点を目指して跳躍した。みるみるうちに向日葵が小さくなっていき、代わりに出来たばかりのような雨粒が一滴、頬を掠める。
跳躍の頂点、そこには紫が待ち受けていた。
二人は同時にスペルカードを掲げ、勝負に出る。
始まりを告げるかのような雷が一閃。最強の妖怪同士の闘いが今、幕を開けた。
◆ ◆ ◆
その日、私は偶然にも早めに目が覚めた。すぐに二度寝しようとしたが、外の様子がいつもと違っているのを見て、思いとどまった。夏真っ盛りのはずの空が、曇っている。すぐにでも夕立が来るだろうことは、長年の経験で容易に予測できた。
私は眠い目を擦りながら起き出すと、一つ大きな欠伸をする。
「あら、珍しいですね、こんな時間に。お出かけですか?」
私が身支度を整えていると、急に後ろから声が聞こえてきた。まったく予期していなかったので少し驚いたが、それはずいぶんと聞き慣れた声だった。
「このぶんだと天気が崩れるかもしれません。お気を付けてくださいね。……まあ、だからこそお出かけになるのでしょうが」
「大丈夫よ。あなたが気にすることじゃないわ、藍」
我が式、八雲藍がいつのまにか現れたことへの戸惑いを隠しながら、とりあえず話を合わせておく。妖怪の賢者として、もとよりこの式の主として、こんなところでうろたえて尊厳を失うわけにはいかない。
「日傘も持っていかれたほうがよろしいのでは? いざとなれば、雨傘代わりにもなりますから」
「え、ええ、そうね」
なぜ、藍は日傘を勧めたのだろう。神社に行くときなどは必要ないのだが。まさか、私がこれから向日葵畑に行くことがわかったのだろうか。
賢すぎる式を持つのも大変なものだ。藍が何を考えているのか、主である私にもよく分からないことが多い。ぼろが出ないうちに、さっさと出かけてしまおう。
「そろそろ出かけるわ。留守番、お願いね」
「いってらっしゃいませ。ごゆるりと」
藍が即答し、ニコニコと立派な笑顔を作る。
今も、なぜ彼女が自慢の九尾を嬉しそうに振ってニヤニヤしているのか、その真意は掴めないままだ。私はその笑顔から隠れるように、隙間に逃げ込んだ。
あぶなかった。
藍にばれていたかは分からないが、私はこれから幽香のもとへ出かけるつもりだ。特別な理由はない。ただ、こんな真夏に今日のようなあいにくの天気だと、花の大妖怪といえどもやることがないだろう。一丁、弾幕勝負の相手でもしてやろうかと思ったのだ。
本当に、それだけの理由だ。別に、私とまともに取り合ってくれるのがあいつだけで人恋しくなったとか、見栄の張り方が同じで親近感が湧いているとか、そんなことは断じてない。絶対にない。
向日葵畑に降り立った私は、真っ暗な空と満開の向日葵を交互に見比べ、確信する。このぶんだと、幽香も暇をもてあましているに違いない。
畑を見回すと、目標はすぐに見つかった。桃色の日傘が揺れている。普通に近づいても良かったが、私はここでちょっとした悪戯を思いついた。心配性な幽香のことだ。どうせまた見回りをしているのだろう。調子の悪い花を見つけることだけに関しては、隙間を操ることのできる私のほうが有利なのだ。先に見つけて、驚かせてやろう。
辺りの花を素早く確認し、ほどなくしてそれっぽいものを見つけると、私は勢いよく飛び出し声をあげる。
「この子、苦しんでいるわよ」
奇襲成功。
幽香はあとずさりながら、ぱちくりと私のほうを見ている。上手い具合に風が吹き、髪がなびく。私の威厳も急上昇だ。
あまりのカリスマ的な登場に、我ながら恍惚とする。しまりなく緩んでしまう表情を見られないように、扇子で必死に顔を隠した。
しばらく唖然としていた幽香も、ようやく立て直す。
「何しにきたのよ」
顔真っ赤ですよ、幽香さん。長い付き合いだから分かることだが、彼女は恥ずかしいときも嬉しいときもこんな風に怒ったような声になる。私のドッキリが効いたのだろう。
「あら、私はこのとおり、病気の向日葵を見つけてあげただけよ?」
ここで、勘違いしないでほしい。私は向日葵に何もしていない。確かに私の能力で向日葵の健康不健康の境界を操ることは可能だ。ただ、もしそんなことをしたら幽香が本気で怒りかねない。
なんだか、幽香の視線が恐い。偶然見つけただけなんだってば。ほんとに、ちょっとした悪戯だったんです。私の目の訴えにも自然と力が入る。
「それはご苦労なことね」
どうやら、分かってもらえたようだ。幽香が握りこぶしをほどいたのを、私は見逃さなかった。
さて、こうなると私達の目的はただ一つ。幻想郷屈指の大妖怪として、いかにスマートに弾幕勝負に持っていくかだ。素直に「勝負しましょう」では尊厳も糞もない。ポイントは、相手を諭し、その正しさを力で誇示するようなかっこいいやり方だ。
幽香も考えていることは同じだろう。いつものように、軽口にみせかけた高度な駆け引きが続く。
「勝手に触らないで。本来花は誰でも気軽に扱っていいものじゃないのよ」
来た。
花に関する知識の差を武器にした、幽香お得意の諭し方だ。私は以前、これに何も言い返せず煮え湯を飲まされた経験がある。
しかし。私も馬鹿ではない。同じ作戦が何度も通じると思ってもらっては困る。私はこれに対する完璧な答えを模索し、メモ帳にしっかりと書き留め、空で言えるよう励んでいた。向日葵に手を触れたのも、私が練りに練った罠だったのである。
「自然を捻じ曲げているのはどちらかしらね。自分だけが花の気持ちを代弁できるかのようなその振る舞い、それこそが自然に対する傲慢さの表れではないのかしら」
はい論破。一度噛みそうになったが、なんとか余裕を見せ付けて言い切ることができた。端から見れば、私は今もっとも輝いている妖怪の一人だろう。
幽香は面食らったのか、慌ててスペルカードを取り出している。挙句の果てには、バカだとかなんとか言い返している。私の完全勝利だった。
「あら、やる気? まあ、丁度いい運動になるかしらね」
この分だと、雨が本降りになる前におひらきだろう。勝っても負けても、今日はいい一日になりそうだ。
◆ ◆ ◆
すっかり土砂降りなった雨を、紫は上機嫌で眺めていた。
雨が強くなったのは、紫がマヨヒガに帰ってきてすぐのことであった。
「紫様。なにかいいことでもあったんですか?」
「べつに、なんもないわよ」
しばらくして話しかけてきた藍に対し、紫は不自然なほどぶっきらぼうに返した。
「そうですか。また、幽香さんのところに遊びに……いえ、戦いに?」
遊び、という言葉に紫が動揺しかけたのを見てとると、藍はとっさに表現を変えた。
「ええ、そうよ。どちらが幻想郷を支配するにふさわしいか、しかと見せ付けてきてやったわ」
紫は嬉々としてふんぞりかえる。
「幽香さんと普通にお茶したりだとか、そういうことではなかったんですよね……」
「当たり前じゃない!」
紫が慌てて否定するのを見て、藍の表情が徐々に失望の色に変わる。
「まったく、お二人とも、素直じゃないんですから」
「素直って何よ。真っ当な力と力のぶつかりあいよ」
「そこまで認め合ってる仲なんじゃないですか。日傘もおそろいで、実力伯仲。お似合いだと思うんですけどねえ。いかんせん、変なプライドが邪魔をしているといいますか……」
藍は、言い終わらないうちに隙間に引っ込んでしまった主を見て、ただただ呆れるのだった。
幽香はひたすら反省していた。
予期していなかったとはいえ、紫に完全に主導権を握られたまま弾幕勝負を終えてしまったからだ。言葉に詰まって無理矢理言い返したり、力任せでスペルカードを使ってしまった様を思い返すと、顔が熱くなるぐらい恥ずかしかった。
今日の大勢を決めたあの台詞には、今後十分な対策が必要だろう。紫が今頃有頂天になっているかと思うと悔しいが、そのぶん次が楽しみでもあった。
今度はどうやって返してやろうか。想像を膨らませながら、幽香は部屋の壁に掛けてあるカレンダーに目をやった。
このカレンダーは幽香の日課の一つで、その一日がどんな日だったか自分にだけ分かるように、印を付けていた。
気に掛けていた種が芽吹いた日には緑色の丸を。とにかくいい天気だった日には朱色の丸を。向日葵が満開になった日には、黄色の二重丸をつけた。
今日はどんな印にしよう。
こんなに天気が悪かったし、向日葵は病気になっていた。普通なら、黒いバッテンでもつけてしまうかもしれない。
でも。
今日という日に、このわくわくした気持ちに、幽香はそんな印を付ける気にはなれなかった。ここだけには、嘘をつくことも見栄を張ることもできなかった。
少しだけ考えた後、幽香は誰にも見つからないような小さな印をつけた。
丁寧につけられたその印は、紫色の花丸だった。