あの人は、どんな味がするかしら。
捌いたうなぎの滑る白。串を通せば布団になる。揃える内に蘇る、これより輝く人の銀。
熾る炭火の小さな灯り。丸く削れば夕日になる。扇ぐ内に思い出す、これより燃える人の紅。
お願いしようか、「食べさせて」。
どういう顔になるかしら。きっと戸惑い悩む振り。それから破顔し言うだろう。「いいわよ、ちょっと待っててね」。
振り下ろされる山刀。肘から先がお別れだ。苦痛を滲ませ言うだろう。「あんまり期待はしないでよ」。
懐からは一振り匕首。何度も見てきた光景だ。首に当てつつ言うだろう。「腕の御代はうなぎでね」。
何これ、また考えてた。原因なら分かってる。忙しない土用が過ぎたせいだ。客足が普段並みに落ち着き、頭にも余裕が出来た。そこに割り込む、あの女。
馬鹿馬鹿しい。あの柔らかそうな肉ならば、歯触りが大層いいだろう。若い体は臭みも無くて旨いだろう。それだけだ。拘る理由なんて欠片もない、ただの人間だ。詰まらないことを考えていないで、準備を整えよう。
整ってた。思ったより考え込んでたのね。
東に月が昇ってる。西を見やれば日没だ。青に呑まれる赤の空。昼と夜の境が見える。
蝉が次第次第に鳴き止んでいく。風に運ばれ鴉の声が、二つ、三つと屋台に届いた。
耳目に感じる薄い黄昏。私達の時間が始まる。あの人間なんて、お呼びでない。だけど。ひょっとしたら、お客として来るかも知れないわね……だからどうした。それならそれで迎えよう。私はうなぎ屋なんだから。
逢魔ヶ時だ、頃合だ。暖簾を出そう、提灯に灯りを入れよう。
この光は灯台なのよ。闇に沈んだ森は暗礁。難破は嫌でしょ。波止場ならここにあるわよ。さぁいらっしゃい。
***
食パンが食べたい。
東風谷早苗は燃えていた。一度火が付いた欲求は、瞬く間に思考を制圧していく。
染み渡るほどにジャムを塗りつけ食べるのだ。カロリー? 些細な事である。
目玉焼きを載せてもいい。私の遺伝子に刻み込まれた、あの食べ方。
プレーンも素敵だ。小麦の甘さと、少し焦げた苦味が奏でるハーモニーは堪らない。
「ですよね、文さん」
団扇を恋人へ向け、振り下ろす。あたかも教鞭のように。
「そうですね」
指名された生徒にはやる気がない。うつ伏せになった姿は、早苗の御不興を買った。
キスを畳なんかにするくらいなら、私にください。早苗から謂れのない妬みを畳は受けた。
「もっとしゃきっと。元気を出して唱和しましょう。さん、はい」
教鞭からタクトに、団扇が変身を遂げた。
空気の抵抗を受け、拍子は不規則な波形を描く。
「”食パンが食べたい”」
しかし合わせる声はない。寂しいじゃないですか、早苗は不満を心中に留める。
こんな要求は、ただの我侭だと百も承知だ。何せ相手は真昼の熱に溶けている。
「暑苦しいです、早苗」
いぐさを擦り、文が這いずって行く。冷たい場所を探してるんだろうか、思いながら早苗は再び恋人を扇ぎだす。盆地の夏に慣れた諏訪育ちは涼しげな顔だ。
けれども、と思い直す、確かに暑い。縁側から吹き込む風はぬるま湯だ。それに伴う、溶ろけたような鈍い音。風鈴までやる気がない。
「食べたいのなら、その”食パン”とやらを存分に焼けばいいでしょう」
「店で買う物でしたし、金型がないんです」
言いながらケーキ型の存在に思い至る。引っ張り出す事を考え、シフォンみたいになるんだろうなぁ。雰囲気が皆無だ。即座に却下した。沸き立つ情熱は生半可な妥協を許さない。
「ないなら作ればいいんですよ。それで解決です」
「その手があったんですね。文さん流石です」
大の字になった文へ、感謝の風を送り続ける。
やや離れたせいで効果は疑わしい。
「何故、思いつかなかったのか取材したいですよ」
失礼な鴉天狗のことは放置を決め込んだ。今の早苗にとっては、全てが二の次になっている。
私は食パンが食べたいのだ。燃え上がる早苗は、傍迷惑そうな文の視線に気付かなかった。
***
果たして私は耐えられるのか。
犬走椛は葛藤していた。はたてさんの頼みであれば無碍には断れない、恋人としての使命感が囁く。しかし叶えたならば私は死ぬかも知れない、経験に裏打ちされた本能が警笛を鳴らした。
「どうしても、駄目?」
岸辺に立つ姿に三度問いかけられ、椛は視線を上げた。やはり目を合わせてくれない、煩悶する頭に若干の寂寥感が忍び込む。けれども浮かんだ寂しさは、諦めに取って代わった。原因は知っている。はたてさんは恥ずかしいのだ。サラシと袴のみを身に纏い、河に浸かる我が身。これを直視できないのだ、初心だから。
そしてまた、これが悩みの原因ともなっている。しかし、椛は心を決めた、ここで引いては夏を過ごす間に、命の危険を幾度感じるようになるか分からない。
中天をやや過ぎた日差しを、水面が照り返している。平穏の象徴たる流れは打ち砕かれ、光を含んだ飛沫が四方に飛び散った。椛の尻尾が鉄の意思を込めて水を叩いた故だ。
「駄目です。はたてさんであろうと、これだけは譲れません」
はたての要求”抱きつかせろ”。椛の交渉”暑いから上着を脱ぎたい”。はたての抗議”恥ずかしいから着て”。
しかし幾ら言われようと、椛には受け入れる余裕が無い。合間合間の水浴びで、ようやく暑さを誤魔化している程なのだから。
「叶うならば、袴も脱ぎ捨てたい程です」
「それは止めて」
間髪入れず制止する声。その勢いと共に視線は正面に据えられ、両者が目を合わせた。はたては赤面し、再びそっぽを向く。脱ぎ捨てたなら、晴れて椛はサラシと腰巻のみとなる。それは耐えられないのだろう、推測して椛は勝機を掴んだ。ここで一押しを加えたならば、折衷案で辛抱してくれるかも知れない。
はたてさんの期待に応えてあげられない、心を占める申し訳なさは、椛の耳を垂れさせた。先程見せた勇敢さを奪い取られ、尻尾もまた水中へと沈む。
けれども私は唯々諾々と従う部下ではありたくない。はたてさんの恋人として対等でありたい、断固たる決意と共に眦を岸辺へ向ける。
「これ以上の妥協はありません。さもなくば、私が暑さで死にます」
屈強な白狼天狗の双眸だった。
***
雛はまだのはずだけど。
河城にとりは疑問を抱いた。唐突に響いた戸を打つ音。来客の予定は厄神様、ただ一人だ。
「にとり、いますか」
「椛? ちょっと待ってて」
”途方に暮れた外来人”、にとりの中で言葉が過ぎった。弱々しく困り果てた声を聞き、慌てて立ち上がる。何か様子が変、直前に抱いた疑問が不安に変わった。油に塗れた手はおざなりに拭って、足早に土間へ向かう。
戸を引けば、容赦ない午後の白い光が目を刺す。日除けであろう蛇の目傘が先ず見えた。その下に立つ人影に驚き、にとりは挨拶も忘れ。
「大丈夫?」
「いえ、全く」
顔が真っ赤に茹で上がってる。舌は元気なさそうに垂れてるばかり。汗に濡れて巻きつくサラシは、白から灰に変わってる。確かに大丈夫じゃないみたい、一通り観察したにとりは奇妙な物体を発見する。きっと椛の変調は背中に蓑虫がへばりついてるせい。
「何? 文句あるの」
「大いに。はたてさんは暑くないのですか」
蓑虫が口を利いた。天狗様だったらしい。手足が胴と首を締め上げている。
「暑いけど仕方ないわよ。椛、かわいいから」
「そうですか。ありがとうございます」
げんなりした顔に見覚えがあった。あれは多分、椛の盾に花火を埋め込んだ時のはず。いたずらもあったけど、威嚇も兼ねた素敵な改造だ。その後もらった盛大なお説教まで思い出しながら、にとりは二人を招き入れる。
千鳥足で土間に足を踏み入れる椛。途端に居間へ倒れこんだ。背負い投げの要領で、宙に投げ出される長い二つ結い。乾いた音を発して、畳と背中を打ち合わせる。白星は椛丸、河童は相撲を先ず考えた。
重症だ。夏の風物詩たる熱中症の椛を、にとりは見慣れている。その目からしても大事に見えた。
見慣れているだけに、事態を把握してからの行動は素早かった。座布団を頭の下に差し入れる。サラシを解き――はたてが動転して土間へ転がり落ちた――呼吸を楽にしてやる。タライに水を張り、絞った手拭で汗を拭き取っていく。介抱しながら、事のあらましを聞いた。
いっそ河か風呂桶に放り込んだほうがいいかなぁ。だらしなく喘いでいる舌に、水を飲ませながら考えた。
「えーっと、はたてさん?」
「何」
土間に下ろした足はゆらゆらと所在無げ。視線はやっぱり土間へ落としたまま。椛を見ないようにしてるんだろう、にとりは納得した。茹だる羽目になった経緯と今の様子を合わせ、”はたては聞いた通りに初心なのだ”と結論付ける。これなら仲良くなれそうだ、とも考えた。こんなところは文と一緒で、ちょっとかわいいかも。
「椛って暑さに弱いから、手加減してあげてね」
「そうね。ここまでなんて、ちょっと思わなかったわ。ごめんね」
「いえ、私が出した条件ですから」
掠れさせながらも、気丈に声を絞り出す様に胸を打たれ。
「大人しく寝てなよ」
問答無用に寝かしつけた。椛って頑張りすぎの真面目すぎだ。
「ところで、しがみつくのって恥ずかしくないの?」
「慣れたわ。椛、柔らかいし、我慢できる訳ないじゃない」
なるほど、心底から納得した。布団代わりとして、椛に幾度となく抱きついてきた経験からくるものだ。でも、それなら肌見るのも平気なんじゃないのかなー、にとりの頭に湧いた疑問は、やめよう、あっさり捨てられる。天狗様の考えなんて分かる訳ない。こんなところも文と一緒だ。
「それじゃあ、椛にくっつくのを我慢する、っていうのも無理?」
「無理」
即答だった。
経緯を聞き出したついでに訊ねた、来訪の理由。”しがみつかれる暑さを、機械で僅かなりと抑えられないか”。おんぶを断ればいいのではないか、問うたにとりへの返答と言えば、”私も嬉しいから”。
分からなくはないかなー、にとりは抱きついてくる雛を考え、でも倒れるまで辛抱したら世話がないよねぇ、と呆れ返った。
「どうしようかなー」
出来ないなんて言いたくない、技術屋の魂が気炎を吐く。しかし熱するならともかく、物を冷やすとなると大分手間だ。いっそ二人とも氷室に押し込もうか、そう考え流石に無理があると諦める。そもそも携行できなくては用を為さないだろう。
「ちょっと胡瓜とってくるね。お八つだし、体も冷えるから丁度いいし」
頭を空っぽにしてれば、その内思いつくかも。何よりにとりは、”冷やす”から思い出した瑞々しい青。河の冷たい水に晒されている緑を考え、矢も盾も堪らず駆け出しそうになっていた。お八つは大切だ。
「にとり、いますか」
千客万来だなー。戸を引いた先の光景は、はたてと椛の来訪と同じものだった。
でも今は胡瓜だ。タライに水が張ってあると説明して、河へ走る。にとりは急に止まれない。
***
妙なこと。
「いつから診療所に鞍替えしたのかしら」
「そのつもりは無いんだけど。とりあえず雛も上がって」
「ええ、お邪魔するわね」
居間には涼しげな格好で寝ている椛。頭は座布団と手拭に挟まれている。傍のタライが物語る顛末は、労なく読み取れるもの。仕方ないわね。毎年一度はあるから驚きもしない。もう少しばかり体を気遣えればいいのだけど、無理な注文。
「何故、早苗まで寝込んでいるの」
「張り切り過ぎたようです。ここへ向かう途中に失速した時は、どうなるかと思いましたよ」
早苗を団扇で扇ぐ文の姿。苦労するわね。にとりを見続ける私と被って見える。徹夜を控えてくれたら嬉しいのだけれど、こちらも無理。それも折り込んで付き合っているのだから、今更何かしようとは思わない。文も納得済みなのかしら。
「それで、はたてはどうしたの」
「あれはただの昼寝だよ」
「静かなのは嬉しいですが、少々物足りなさもありますね」
椛の腕枕で眠る顔。緩んだ頬に、やはり緩んだ口元は安心しきった稚児だろう。随分と懐いたこと。
そう言えば近頃、腕枕はしてないわね。羨ましくなってきた。にとりに今夜
「私は食パンを焼くんです」
「分かりましたから、大人しく寝ていてください」
”ショクパン”?
「結局、この集まりは何なのかしら」
縁側で胡瓜を齧りながら説明を受けた。
無心に食べていると、私まで河童になった気分に陥る。嫌いではないし、毎年のことだけれど。
「頼られているわね」
「私は便利屋じゃないんだけどなー。嬉しいけどさ」
どの子も分かりやすいと言えばいいのかしら。欲求に従って、素直に行動する。付き合わされる方の苦労も考えて欲しいのだけれど。早苗の性格を考えれば止まりそうにない。まだ付き合いの薄いはたても、大した違いはないように思える。椛から聞かされている分だけでも推測は容易い。
「二人ともかわいいわね。意地を通した椛も、かしら」
「それでうちに担ぎ込まれても困るんだけどなー」
「にとり、感謝してますよ」
「素直な文って、何か変」
「河童風情が失礼ですね」
起きている三人で、ぽつりぽつりと会話を交わす。それぞれの寝顔を見比べて評を述べ、今夏に生った胡瓜の出来具合について講釈を聞き、日中の風から明日の天気を話題に載せる。
森に満ちる蝉時雨と、傍を流れるせせらぎが、途切れる話の合間を埋めた。時折、山から吹き降ろす風が風鈴を揺らし、涼を添える。その度に蚊遣りの白煙がゆるゆるとたなびき、様々な形を作った。
「早苗はどう」
「問題ないようです。大人しいものですよ。普段から、こうなら嬉しいんですが」
寝ている三人と、団扇を扇ぐ一人。緩やかに風を送り続ける横顔は穏やかだ。苦笑とも微笑みとも見える表情を、恋人へ向けている。ああ、この顔。疲れ果て眠るにとりを見て、私もこれを浮かべているのでしょうね。
”付き合わされる苦労”は、苦痛ではない。
恋人に手を引かれ、一緒にあろうと想われる我が身。勢いに流されるものであれ、折り合いを付け渋々飲み込んだものであれ、本質には変わりがない。喜びだ。
これは幼子を見守るような気持ちから来るのだと思う。また、恋人に想われているのだという充足感からも。二つは異質だけれど、愛しい点は同じ。そしてどちらであっても、愛しく想える自身が誇らしく、幸せだ。
「お代わり、淹れてこようか」
「そうね、お願い」
にとりの湯呑み、私の分、文の元へ。盆に載せられ、運ばれる。土間へ向かう足音。
「文は」
少しばかり湧いた好奇心。
「何でしょうか」
口をついて出る疑問。
「早苗のことで苦労しているかしら」
団扇の動きは変わらない。それでも顔はこちらへ向いた。合わせて風が髪を撫でていく。
風鈴の音が一つ。何故か気になり見てみれば、舌がくるくると回っていた。おどけているのかしら。
「もちろんですよ。我侭な小娘ですから」
「そう」
視線を戻せば、居間の暗がりに文が見える。
そして薄らと覗える表情。今しがた見た風鈴と重なる。
「よかったわ」
「それはどうでしょうね」
苦労はしている。そして私は、にとりに苦労を掛けている。特に思い出されるのは、些細な思い込みからした喧嘩。私の下らない勘違いから、別れる一歩手前まで行き、それでもあの子は許してくれた。泣きじゃくる私を抱き締めてくれた温かさは、大切な思い出だ。これに限らず、日常で困らせる事は枚挙に暇がない。そして一つ一つが、また思い出になっていく。それらを胸の宝石箱に仕舞いはすれども、未だに溢れる気配はない。
私はにとりに甘えている。にとりは私に甘えてくれている。あの子の苦労は、私と同じかしら。そうであって欲しいけれど。
「雛、おまたせ」
笑顔。私の大好きな笑顔だ。向日葵が力一杯に背伸びをしているような、明るい笑顔。
にとりが、どう感じているか分からない。けれども不安を抱かず、日々を過ごしていられる。この表情で”幸せを感じてくれている”、そう確信できるから。
「ありがとう」
隣に座るにとり。脇についた指を包まれ、恋人の体温が沁みてくる。嬉しいこと。
茶で唇を湿し、外を眺める。いつの間にやら、日差しは紅を含み始めていた。庭に落ちる影が伸びていく。山へ吹き上げる風が、日中の暑気を払っていった。風鈴の音が一つ。この日が終わる知らせに聞こえる。この鉦は小さな思い出になると思う。にとりや皆と過ごした、平凡な日常の思い出。そして小さな宝石になる。
「そろそろ起こしましょうか。あんまり遅くなってもいけないから」
「そうですね」
縁側に湯呑みを置けば、乾いた木の音がする。これは終幕の拍子木。
流れ続ける日常にも、けじめは必要だ。惜しいけれど、これで幕引き。
「早苗、起きてください。起きないと頬を突っつきますよ。変な顔ですね。これは変だ」
早苗は唸っている。後で私もしよう。にとりはかわいい顔になるから。
とりあえず椛を……はたてって大胆な子ね。手拭を被せていても、顔を埋めていると意味はない。確か椛の肌を見ただけで逃げ出したはず。どうしましょうか。このまま起こせば面白いだろうけれど、悪戯は控えましょう。知り合って日も浅いし、そこまで親しくないのだから。
先ず向きを戻して。
「ほら、二人とも起きなさい。昼寝が過ぎると、夕飯を作り損ねるわよ」
揺すり起こせば、鴉からは寝言にも聞こえる不明瞭な声。狼からは寝惚けた唸り声が上がった。目元を擦る様は猫ね。片や背伸びに、もう一方は大きな欠伸。こうした姿は、どちらも子供に見えてくるから不思議なこと。
「そう言えば、どうしようかなぁ。やっぱり冷やすって難しいよ」
「何か作るにしても時間が掛かるでしょう。当分は河の中で背負えばいいわよ。上下を脱ぐことになるけれど」
あら、どうしたのかしら。はたてったら腕を伸ばしたまま固まって。それだと体も解れないでしょうに。
ああ、”脱ぐ”に反応したのね。肌も見られないなら分かるけれど。本当、奥手な子。……面白いわね。
「水の中なら涼しいから、”裸”で”抱き合って”も平気じゃないかしら。椛はそれでいいわよね」
「ええ、よさそうですね。歓迎しますよ」
期待通りの返答。いい子ね、椛。
さて、はたては……茹で上がっていく。面白いわね。
***
あれ? 提灯ちょっと揺れた? ああ、蛾だ。
「飛んで火にいる夏の虫」
目を回したのか、地面でばたつく蛾を拾い上げる。
「気をつけてよ。あんた達には提灯だって危ないんだから」
星と月とに照らされる、夜の空へ解き放つ。あんまり慌てたのか鱗粉が、さらり零れて光を映す。使い魔から周りに教えても、やっぱり屋台に突撃してくる子はいるものだ。”飛んで火にいる夏の虫”。バカだバカだなんて言うけれど、あの子達はやっぱり灯りに惹かれる訳だ。好んで自害する訳じゃない。
自害と言えば人間くらいだ。一度だけ見た死にたがり。竹林にふらふら迷い込んだ妙な奴。
「殺してくれ」とあいつは言った。「殺してあげる」と私は言った。
物言う肉に近付いた。自慢の爪が、お待ちかね。さぁやるよ。
爪を見るなり、あいつは逃げ出す。歌い叫んで、私は羽ばたく。
物言う肉を捕まえた。震えて泣いて、命乞い。さぁやるよ。
口を噤んだ肉は、やっぱりいつも通りの味で、「殺してくれ」なんて言っても、やっぱりいつも通りの人間だった。
でも、あの女は違うもので、死にたがりだと思ったら生きたがり。最近は特にそう。笑って死んで、笑って生きてる。
「殺して頂戴」、貴方は言います。涼しい声は、月の丸さを誉めるよう。
「一体どうして」、私は問います。涼しい声に、翼を止めて休ませる。
不思議な貴方、不思議に思っていいでしょう。人間達はいつでも生きる。そんな声は生きる日々に使うもの。
「苦しいからよ」、貴方は言います。涼しい声は、月のしじまに瓜二つ。
「それでもどうして」、私は問います。涼しい声で、体が凍って動かない。
奇妙な貴方、奇妙に思っていいでしょう。苦しいからこそ藻掻いて足掻く。そんな声に足掻く汗は感じない。
ねぇ不思議で奇妙な貴方。どうして死にたいなんて願うのかしら。
どうしてなんて、今の私は知っている。昔の私は驚かされて、震えて慄き怖がった。
貴方の視線が静かに注がれ、「どうかしたの」と私に訊ねる。何か変。こいつがどうかしてるんだ。
自慢の爪が鈍く光って、「早くしろ」と私を急かす。でも嫌だ。私を急かさないでよ。
――無理ならいいわ。放って置いても何とかなるから。
無理じゃない。何で私が躊躇わなきゃいけないんだ。お望み通り殺してやる。どうせあいつと同じだろう。いざとなれば逃げるんだ。
逃げられないわね。手足も碌に動かせないから。せめて鳴いて頂戴な。高く鋭く声をあげ、夜闇に歌って私に聞かせて。さぁやるよ。
――ありがとう。
血が首から流れ出す。風が吹いて、笹がざわめく。私の口から悲鳴が漏れる。死体は何も言わないまま。
動かない羽、動かない足。私は傍で震えて鳴いた。それはこいつの仕事でしょ。なのにどうして私が歌うの。
力が抜けて横たわる、夜の暗さに浮かぶ銀。膝を抱えて眺め続ける。
血が土へと染みていく。夜鷹が鳴いて、兎が寝惚ける。私の肺から息が漏れ出る。死体は何も言わないまま。
これは血抜きだ。大切なこと。私は傍で震えて待った。抱えて飛べば匂いが飛び散る。だから私は待っている。
肉が強張り横たわる、夜の暗さに浮かぶ紅。息を殺して眺め続ける。
待たずに食べる? まだ無理だ。もっと時間を掛けなきゃいけない。硬い肉は旨くない。柔くなるまで、じっと待つ。
血が乾いて黒くなる。月が傾き、影が移った。私の翼は凍って解けない。死体は何も……動いた? まさか。
――綺麗に殺してくれたのね。何で私を食べなかったの。
怖い。
「女将さん」
***
空ろな顔に声を掛ければ、この悲鳴だ。夜雀の声量を改めて思い知らされる。
耳鳴りはもちろんのこと、体を揺さぶられた心地さえした。羽の付け根にまで振動が響いて、少々むず痒い。
「今の何よ、文じゃないわよね」
恐らくは普段の大きさだろう問いかけすら、遠く霞んで聞こえる。
はたてが後れて暖簾を潜った。耳に手を当て、しかめっ面。当然だ。
「違うに決まってるでしょう。私なら喉が裂けてるわよ」
一応は否定しておく。誤解なぞしないだろうが。
当の発生源はどうなっているのか。なんか駄目っぽいわね。羽根が逆立っている。瘧かと思うような震え方。目を見開いて何を見詰めている。私? それはないだろう。焦点すら結んでいないようだというのに。少なくとも身に覚えはない。肝試しでもしていたのか。
「ミスティア、大丈夫?」
聞こえてはいたようだ。”あー”だの”うー”だの気の抜けた声と共に、へたり込む姿。
台に隠れて、頭の天辺しか見えなくなった。こうなると巻きついた臙脂の手拭が喋っているように思える。
「驚かさないでくださいよ」
辛うじて聞き取れる。耳鳴りは収まったのだから、単純に声が小さいというだけなのだろう。
にしても濡れ衣だと言いたいが、そうもいくまい。これ程の驚愕を見せ付けられては、いじるなぞ少々気の毒だ。私にも慈悲の心はある。
「そのつもりはなかったんだけどね。店は開いてるのかしら」
「折角の機会だし、何もなしで帰りたくないんだけど」
はたても不安になったか。
へたり込んだままだが、ミスティアは恐らく”どうぞ”と言ったのだろう。台の影から手がひょっくり出てきて、席を指し示す身振りもした。提灯は灯っているし、炭火も熾きている。問題ないのだろう。はたてを促し、揃って腰掛ける。さて、台拭き……汚れてないわね。私達が本日初めての客かしら。一応は拭っておこう。気分の問題だ。
落ち着いたところで、ようやく復帰したらしいミスティアに注文を告げる。蒲焼きは当然として、焼き茄子と箸休めにオクラの酢の物。これで先ずは十分だろう。一足先に出てきた濁り酒を注ぎ、乾杯する。ランプの周りで飛び交う羽虫が、仰いだ視界に映りこんだ。炭が小さく爆ぜる音。遅れて飲み干した液体が、喉を仄かに焼いていく。はたてとほぼ同時に杯を置いた。
「うん、美味しい。文の懐から出てるって思ったら格別ね」
「引っかかるいい方。でも仕方ないわね」
それぞれに注ぎ、一呼吸。
「改めて。この間はごめんなさい、はたて」
「よろしい、許す」
尊大だ。狭い長椅子にふんぞり返って、腰に手を当てられると尚更。引っぱたいてやろうかしら。そうは言っても、すぐさま許してくれた事に感謝しないとね。ここで溜めでも作られたら、どうなるか知れたもんじゃない。
「その態度、癪に障るわね。まぁいいわ。そういうことだから呑んで」
「言われなくても遠慮なんかしないわよ」
もう一度乾杯。しこりも何もない、この笑顔。早苗に少し似ているかも知れない。
一陣の風が舞い込み、前髪を掬っていく。背後で暖簾のはためく音。濁り酒ではあるものの、私の中から濁りは綺麗に晴れた。今夜は気分よく呑めるだろう。一息に杯を空け、注ぎ直す。はたてには手酌でやってもらおう。それ位は当然だ。見計らったのか、炭火越しに小鉢を渡された。酢の物へ箸をつける。”だけどね”、口へ運ぶ途中で言葉が耳に届いた。
「あんたには感謝してるのよ。謝ってもらっておいて何だけどさ」
何を言っているのか。オクラを噛みながら先を促す。
酒の合間に訥々と語られていく、先日の喧嘩について。
「からかわれたのは、やっぱり腹立ったけどさ」
――椛と恋人だって言うんなら、口付けも出来るんでしょ。
私は何を思って挑発したのだろうか。ネタを作る? 余白を埋める噂話にはなるだろうが、わざわざ諍いする程のものではない。何せ相手は生意気な椛に、何かと張り合ってくるはたてだ。払う労力には釣り合わない。考えてみれば、この二人を相手にするって結構面倒ね……あんた達、何で付き合ってんのよ。勘弁してよね。
「それでも背中押してくれた、ってことになるのよ、あれ」
出来はすまい、と侮ったのが敗因。私としたことが。お陰で早苗から説教までもらった。言われるまでもなく、大人気ない言動をしたものだ。
ああ、そうか。大人気なかったんだ。ようやく早苗の頬に口付けが出来るようになって、恋人関係が一歩進んだ。そのことが嬉しくて、自慢したくて、たまたま付き合い始めたばかりの二人がそこに……私はガキか。こんな幼稚なんて情けない。はたて、ほんとごめん。
「あのままじゃ、一生出来なかったって思うわけ」
「でしょうね」
同じ立場になれば、私もそうだろう。悔しいが。
悔しいのでオクラをもう一本噛み砕く。酸っぱいわね。うなぎはまだかしら。
「だからまぁ、ありがとね、文」
はにかんではいるが、目はしっかり私に据えたまま。柄でもない。こう素直に来られると対処に困る。
けれども理解は出来たから、ここで私が言うべき言葉は、ただ一つだろう。
「どういたしまして。この酒は割り勘ね」
「嫌よ」
腹立つわね。とりあえず、もう一度乾杯。
はたて、私は負けないわよ。
***
「蒲焼き、お待ちどおさま」
この二人は仲がいいのか悪いのか、ちょっと判別が付きにくい。
何もなかったかのように、はたては食べ始めた。割り勘の件はどうなったんだろうか。やっぱり何もなかったかのように、文も呑み続ける。こちらは注文がどっさり来た。どうやら奢りには変わりがないようだ。どちらにしても、私は肴を仕上げていくだけ。
茄子を塩水から引き上げ、遠火にかざす。うなぎも白焼きを二人前。茄子をくるりと返して炙り続ける。片手間に梅干から種を抜いた。胡瓜と和えて、先ずは一鉢。さて、茄子を剥こう。
「椛の耳、触ったら動くのよ。分かる?」
「何を分かれって言うのよ」
こなす合間に聞こえてくる。世間話に追ってる事件、そこへ差し込まれる惚気の数々。
やれ告白がどうしたの、仕草の一つはどんなもの、困り顔やら微笑む顔やら。羨ましい。
羨ましい? うん、確かに羨ましい。
屋台を引けば客が来る。一人身だろうと、つがいだろうとお構い無しだ。
一人身ならば、酒に溺れて語っていく。淡い片恋、切ない悲恋、先立たれての操を立てる誓いについて。
つがいならば、酒を挟んで話していく。拙い馴れ初め、腐れ縁、飲み屋で交わした一目惚れ。
懐旧に浸ろうとも、喜びに打ち震えようとも、それぞれには想いがある。どれもこれもが唄になる。力が籠った生きてる唄だ。生きて跳ねて飛び回る元気の元。それを私は歌いたい。でも歌えていない。恋歌ならば、幾らでも知っている。初恋、恋文、逢引、離別。知っているのだ。知っているだけだ。
「焼酎を一本、燗を付けて」
「夏なのに物好きね」
「ほっといて」
繰り返される酒の催促。天狗はうわばみだ。うっかりしたら、屋台ごと呑まれるんじゃないだろうか。
白焼きがそろそろ消える。お代わりの蒲焼きは間に合いそうだ。田楽にした茗荷を差し出す。
「早苗に愚痴られたわ。『どうしてそんなに食べても太らないんですか。ずるいです』」
「どうしてって言われてもねー。飛んでたら肥えようがないわよ」
いつか誰かに言われた注意、”お前の歌は混沌だ”とかなんとか。難しい。でもまぁ多分そうなんだ。元気の元は、生きて跳ねて飛び回ってぐちゃぐちゃになる。それがきっと”混沌”なんだと思う。リリカの音から外れて、ルナサとメルランが混ざり合った状態だ。何年も煮込んだスープと同じくらいに、どろどろで味のぼやけた唄になる。それは確かに旨くない。
私は形を整え、向きを定めてぐちゃぐちゃを纏め上げる。そうしたら歌いこなせるようになってきた。と思う。多分。でもそれは、喜怒哀楽の話だ。実感や経験があってこそ。分からない題材は幾らでもある。”孝”や”忠”、”後悔”に”絶望”。”恋愛”もその一つ。
「そう言えば」
歌えるものを歌っていればいいじゃないか、って思うけど、やっぱり悔しい。
虫も鳥も獣も、恋をする。森に溢れかえる唄から目を逸らすなんてしたくない。
「貴方は誰かいないのかしら」
目の前にあるのに見ないなんて、耳に届いてるのに聞かないなんて、世界に対して盲目になるようなものだ。
私はローレライ。船人の目を潰し、耳を塞いで岩場に誘う。そんな私が盲目だなんて、笑い話にもならない。
「ミスティア」
ミスティア? あれ? 二人ともこっち見てる。
「私ですか」
「生憎ミスティアって名は貴方しか知らないわよ」
文なら交友関係は広そうだと思うんだけど。
「それで、えー、何をご注文で。うなぎはも少し掛かりますよ」
焼け具合は丁度いい。タレつけよう。
「うなぎじゃなくって、あんたに浮いた噂がない、って話よ。文の詮索好き」
「うっさいわね。あんたも乗り気じゃない。それで誰かいないの」
ああ、恋愛談義が私に飛び火したのか。
「特に誰とかはないですねー」
だから困っているんだ。つがいの一羽でも見つけた方が、とは思う。けれども心を無理に作っていいものか。求愛は大切。分かってる。目に付いた相手に、片っ端からぶつかっていく雄達を見てきた。そこから始まる恋愛は何も不自然じゃない。
――門から離れたら、ぐぅって苦しくなるんだ。でも近付いたら、ぽやって包まれるのよ。変だよね。でも変じゃないんだ。とっても当たり前なのよ。何でか知らないけどさ。
チルノが腕を振り回しながら言った台詞。相手は……誰だっけ。まぁいいか。とにかくあの子は恋をしている。水に載って流された小さな氷山、辿りついた先が煮え滾る釜の中。溶けて混ざって大慌てだ。それでも体全体を使って楽しそうに笑っている。羨ましい。
あんな風に、知らず知らず惹き付けられた恋をしたい。自然に流され気付いた頃には、はしゃぎ回っている私。喉から湧き出るラブソングは、トーンがぶれずに夜空へ響く。リズムが地面を踏み鳴らす。スタッカートで森が跳ねる。全ては恋人に捧げるソロライブ。きっと”混沌”なんて欠片もない、まぁるいお天道様のような唄になる。
「ミスティアなら引く手数多ってもんだと思うけれどね。がさつなはたてと比べれば気立てはいいし、お子様なはたてと違って着物は合うし、かわいげの欠片もないはたてっ」
突っ伏した? ああ、手刀か。はたての報復は鋭いようだ。用心しよう。
「で、いないの?」
「お客さんから声を掛けられたりはするけど、酒の席から来る言葉。それ以上はないですね」
うなぎが頃合。
「どうぞ」
「うん、ありがと。文の分もこっちに頂戴」
「渡さないわよ」
意外と復帰が早い。力のある天狗なんだと実感させられる。
「気になる人もいない?」
「そうですねー」
どうだろう。いて欲しい。上手くいったら唄が増えてくれるだろう。当てはないか、頭の中を引っくり返す。
ぱちりぱちりと炭が爆ぜ、うあんうあんと提灯に羽虫がぶつかる。静かな音を聞きながら、暖簾はじっとしているだけだ。何処か期待している二人の眼差し。ごめん。
「いませんね」
いる。銀髪赤目の怖い奴。喰らってやりたい人間の女が一人。いたけど違う。恋が云々は寄り添って、巣を暖める事を言うのだろう。殺しては何もならない。これは違うはずだ。
そもそもあの女からは、度々惚気を聞かされている。歴史食いに関してだ。あいつのせいで柔らかそうな肉に齧り付けない。食ったなら恨みを受けるだろう。優しいから受けないかも知れない。半分は人間の癖に妖怪を良く知っている。本当に優しい。多分だけど許してくれる。
けれど、もしかしたら、歴史食いと喧嘩になって、あの人が哀しむかも知れない。そして私は嫌われる。わざわざ進んで常連を遠ざけたくはない。だから食わないと決めている。そしてこれは食いたいだけの欲望だ。唄にしたなら真っ直ぐに伸びるだろう。お天道様に向かう向日葵だ。
「残念ね」
「記事に出来ないから?」
「はたてもそうでしょう」
「まぁね」
ご愁傷様。
***
酒を一杯。
「でも詰まんないわね」
視界の端に、同じく飲み干した文の姿が写る。
「ごめんなさい」
「別に責めてる訳じゃないから。話の種があったらいいなーって思っただけ」
ほんと、それだけ。ちょっと他の恋を知りたいって思ったから。私が椛を考えたら止まらなくなる。こんなことが私だけだって思いたくないから。私が変になったんじゃないって知りたいから。
でも変になったんだ。椛が”恋人になってくれ”なんて言った時に、私は爆発した。それからずっと変わらない。椛が何かする度に、私の中で何かが爆ぜる。怒って笑って戸惑う椛、見る度に飛びついて笑いたくなる。
我慢できる訳がない。思いっきり抱きついて”椛がいてくれてるんだ”って確かめる。そんな私を、どう思ってるんだろう。思い出されるのは昼間のこと。我侭を通して、熱で倒れこむまで椛に我慢させてしまった件。優しく微笑み許してくれたせいで、また飛びついて、今度は泣きたくなった。
「あのさ」
「何」
文は枝豆を口に含んで暢気な顔だ。
人が悩んでるっていうのに、腹立つわね。
「あんたは早苗に迷惑かけてる?」
「妙なこと聞くわね」
まぁそうだ。私だってそう思う。でも聞きたい。安心できるかも知れないから。
だから早く応えてよ。枝豆なんかとっくに食べ終わってるじゃない。私も食べるけど、味が分からない。どこ見たらいいのよ。ミスティアが包丁を動かし続けてる。ランプの灯心がじりじり燃えている。ああもう、酒呑んでいればいいんでしょ。分かったわよ。
苦くてまずい。
「早苗がどう思ってるか知らないけれど、そうね、苦労をさせているはずよ」
ため息が漏れかける。私だけじゃなかったんだ。
「どんなことで」
「さぁね」
しみったれ。
「でも”あんたが何を悩んでいるか”なら分かるわよ。顔に大書してあるから」
「へぇ、いつから人相見なんて始めたの」
何で混ぜっ返すのよ。話してくれそうなのに。もう一杯酒だ。
「あんた、かわいいわね」
噎せた。死ぬ。喉も鼻も痛い。っていうか熱い。ミスティア、おしぼりありがと。撒き散らすとか恥だ。
こいつ、いきなり何言ってんのよ。微笑を作る唇に、優しげな振りをしたこの目付き。憎たらしいわね。大方”どう弄れば楽しいだろうか”なんて考えてるに決まってる。引っぱたいてやろうかしら。
「悪かったわよ。そう睨まないで。酒が美味しくなる。ああ、美味しい」
「分かった。その喧嘩、買ってあげる。スペルカードは何枚?」
このバカを一刻も早く黙らせなきゃ駄目だ。
「ごめん、はたて」
あれ?
「何よいきなり真面目な顔で。気持ち悪いわよ、それ」
「言ってくれるわね。この間も、こんな風に喧嘩始めたこと思い出したのよ」
ああもう、調子狂う。このやる気、どこに持って行けって言うのよ。生ごみにもならないわよ。
ごみか、そうか。枝豆の殻と一緒に投げ捨てよう。それだ。握り固めて……吹っ飛べ。
「よく飛ばしたわね。梟がいたら撃ち落としていたわよ」
「あれがあんただと思ったら、力も入るに決まってるでしょ」
すっきりした。呑みなおそう。その前に、おしぼり何処。手が大変だ。
「まぁ何が言いたいかっていうとね、あんた悩み過ぎ。さっきの顔を椛が見たら、心労で倒れるわよ。あの狼、真面目だから」
それは困る。そんなにひどかったんだろうか。
「話を戻して、あんたの悩み事。『迷惑かけて、椛に嫌われないかしら』」
当たり。腹立つわね。そうでもないかな。からかわれてないようだし。こんな文は少し気味が悪いけど。
とりあえず、うなぎと酒だ。散々に弄られた私を慰めて。
「早苗から大体は聞いてるわ。あんた達が付き合うことになった経緯ね」
「そう、なら慧眼の射命丸先生は、どのようにお考えですか」
なんか悔しいなー。でも、この不安は吐き出さずにはいられない。相談できるなら文にだって頼む。
椛は優しいから、私が抱きつくのを拒めない。そんな椛がかわいくて、私はますます止まらなくなる。
「今更ね。悩むなんて馬鹿らしい。椛もそう思うんじゃないかしら。ああ、悩んでいるのはあんたが馬鹿だからね。仕方がないか、馬鹿だから」
「ご意見ありがとうございました。この酒、ぶっかけていい?」
「もったいないから駄目。豊穣神の罰が当たるわよ」
まぁそうか。うん、甘くて美味しい。今夜は気分よく呑めそうだ。
「甘えてもいい?」って今度、直接訊いてみよう。
「はたてさんってかわいいですねー」
「あんたまで言うの? やめてよ」
照れる。酒だ。
「ほんとですよ。今の顔、すごく女の子でしたから」
「ありがと。でも勘弁して」
文じゃないから素直に聞ける分、余計に恥ずかしい。
「はたてが女の子?」
「やっぱりそのうなぎ、寄越しなさいよ」
「嫌」
腹立つわね。
でもどうしようかなー。甘えていいか訊いても、返事なら分かりきってる。「いいですよ」とか何とか言ってくれるに決まってる。尻尾を振り回しながらのおまけ付きで。椛は優しいから。
でもそれじゃないんだよねー。文が請合ってくれたみたいに本心からだって知ってるけど、何か申し訳なくなる。やっぱり気分よくって訳にはいかないかな。ああ、そうだ。
「ミスティアせんせ。今までの話、聞いてたわよね。何か助言とかあったらくれない?」
”私が折角”とか、ぶちぶち文句垂れる文は気にしない。視点は色んな方向からあった方がいいに決まってる。新聞と同じ。第三者としての立ち位置を、僅かでも確保するためには必須だ。
「私が、ですか」
「あったら、でいいんだけどね。必要な分は文が一応言ってくれたし」
かわいいって言ってくれたけど、”ミスティアの方が”って思うのよね。目を白黒させてる。
それでも手が動いてる辺り、仕事が体に染み付いてるのね。
「えーっと、なんだっけ、”迷惑を掛けたくない”ってことでしたか」
「そうそれ」
小首を傾げる姿もかわいい。文がやったらぶん殴ってるけど、ミスティアなら様になってる。
「そうですねー。私達、夜雀の間では違うんです。”迷惑は掛けて当然なんだから、迷惑を掛けられても許してやれ”って。助け合うのが最初にあるんですよ。助言になるか分からないけど」
視点は色んな方向からあった方がいいに決まってる。
「完璧。ありがと、ミスティア」
椛に甘えてもらおう。それで解決だ。酒が美味しい。
***
はたては満足してくれたみたいだ。
「今度、椛連れてくるわ。感謝の印よ」
「お役に立てたようで良かったです。期待してますね」
うんうん、飲み屋の冥利を感じる。こんな風に旨そうに呑んでくれると、腕を振るう甲斐があるってもの。
ああ、鼻歌が漏れてた。流石に雰囲気を掻き回しちゃいけない。歌は請われた時だけ。これは大切。
「そっか、ミスティアだもんね。何か歌ってくれない? 食べる以外の肴も欲しいし」
あれ、聞かれてた? でもまぁ歌いたい。楽しい雰囲気は更に楽しく。これも大切。
でも、どうしようか。折角だから、はたてか文に合った唄を選びたいけれど。
あった。これがいい。覚えたばかりだから、耳新しさもあるだろうし。
「よござんす。お耳汚しですが、一曲」
カスタネットは準備よし。一つ咳払い。喉の調子もよし。さぁやるよ。
フレーズへ湧き立つ恋を込めて華やかに。テンポへ浮かれる愛を込めて軽やかに。
歌い上げるはラブソング。初恋、接吻、抑えきれない恋心。さぁ跳ねて飛んで踊り明かそう。
メロディは震える恋を纏めて鮮やかに。リズムは弾ける愛を纏めて爽やかに。
歌い上げるはラブソング。幸福、情熱、燃え上がった恋心。さぁ跳ねて飛んで舞い上がれ。
手拍子に拍手をもらえた。うんうん、嬉しいなー。羽の先までふわふわしてる充実感。
「あー、これって私?」
「はい、ちゃんと合ってたみたいですね」
良かった。はたてが嬉しそう。酔いだけじゃない赤みに、頬を染めて笑ってる。照れもありそうだ。
”混沌”だって言っても、捨てたもんじゃない。目の前で幸せそうに語られたなら、少し位は歌えるものだ。
「外の唄? 初めて聞いたわ」
「はい、『東京ドドンパ娘』って曲名です。入梅前かな? 紅くない方の巫女が熱唱していって。教えてもらったんです。歌詞も書いてもらって」
「あの子、何してんのよ」
頭を抱えて文が沈んだ。何かあったんだろうか。まぁいいか。弄るのははたてに任せよう。口端を限界まで吊り上げたにやにや笑いでからかってる。ここぞとばかりに頭を突っついたり、背中を叩いたりと忙しそうだ。とにかく私は私の仕事をする。
「すいませんが、枝豆と酒を出して置きますから、ちょっとこれで凌いでてください。食器洗ってきますね」
山になった洗物をタライに積み上げる。はたては笑顔で送り出してくれた。うん、大丈夫だ。傍の小川へ。
月明かりのみに照らされる細い流れ。黒くて深くて、石を投げたら何処までも沈んでいきそうだ。
小さな虫の音が響く中に、食器の立てる硬い音を混ぜていく。私の中でも音がする。今歌ったばかりの馴れ初め話。屋台の準備をしている間に歌ったあの女との邂逅。
悔しかった。死体から声を掛けられた瞬間、逃げ出した私が悔しい。凍っていたはずの翼は一瞬で溶けて、出鱈目に羽ばたいた。手足を無茶苦茶に振り回して、何とかして離れようとした。上に出ることも忘れて、竹にぶつかりながら只管に飛んだ。気付けば地面に落ちていて、息を切らせて倒れてた。「あの女は、もういない?」、四方八方を目で探る。何処にも見えない。自然に湧き出る私の鳴き声。喉が枯れるまで歌い続ける。
お前を喰らってやる
私に恥を掻かせた貴方。探し探して林を巡る。合間に見えた銀の髪。さぁやるよ。貴方は笑った。
「何で笑った」「かわいいからよ」「何がかわいい」「会いに来た貴方の理由よ」
私に向かって笑った貴方。笑われたなら何にも出来ない。私は元気を歌うから。その笑顔は唄になる。
私に恥を掻かせた貴方。探し探して林を巡る。合間に見えた紅の服。さぁやるよ。貴方は笑った。
「何で笑った」「嬉しいからよ」「何が嬉しい」「会いに来た貴方の姿よ」
私に向かって笑った貴方。また会えたなんて喜ばないで。私は元気を歌うから。その喜びは唄になる。
日々を過ごして、貴方に会って、貴方と語らい、酒を呑み。お前をいつか、食ってやる。
屋台を構えて、うなぎを焼いて、客と語らい、酒を呑み。あいつをいつか、食ってやる。
ぽつりぽつりと貴方が立ち寄る。屋台に訪れ、うなぎを食べる。「美味しいわ」なんて言わないで。
あんたの肉こそ旨いだろう。店に並べるなんてとんでもない。私が一人で食ってやる。
ふらりふらりと貴方が立ち寄る。屋台に訪れ、酒を呑む。「いい場所ね」なんて言わないで。
あんたの住処は寂し過ぎる。店で呑んで騒げばいい。油断したなら食ってやる。
あんたの隣に歴史食い。あんたはもう食われてしまった。私に残った肉がない。
あんたと笑う歴史食い。あんたの笑顔は食われてしまった。私の歌う唄がない。
「ああ、いやだいやだ」
***
ああもう散々。はたて如きに、こうまでからかわれるなんて。
酒……は切れてる。棚にはあるわね。届くかしら。
「何してるんですか」
丁度いいところに。
「ミスティア、お帰り。早速だけど酒をお願い。白焼きも」
「それでしたか。遅くなって、すいません。ところで何で羽、広げてるんですか」
「気にしないで」
私としたことが、気付かなかったとは。手を伸ばす事に必死すぎた。
翼に掛かった暖簾が鬱陶しい。それにこの様子だと、はたてはどうせ。
「文、あんたかわいいわよ」
このにやけ面、腹立つわね。さっさと話を逸らすに限る。さて、どうしようか。
「それはそれとして、さっき何歌ってたの。聞き慣れないものだったけど、やっぱり外の奴?」
「あ、聞こえてたんですか」
意外そうな声に顔。私としては、聞こえないと思う方が不思議だけれど。
「はい、外の曲ですよ。あれも巫女から教えてもらいました。『天城越え』だそうです」
「なるほどね」
私は何か早苗に悪い事をしたのだろうか。情感たっぷりに歌い上げられた歌詞が、今になって胸へ突き刺さる。
浮気なぞした覚えはないのだが、単なる冗談だと思いたい。でもそれ以外の心当たりなら、幾らでもあるのよね。
「それで文は何しでかしたの。興味あるわね。何なら記事にしてもいいわよ」
「こちとら『清く正しい射命丸』。何もないわよ」
とんだ薮蛇だった。にやけが止まらない口を、力一杯横に引っ張ってやりたい。
からかわれついでに、愚痴を押し付けてやろう。 相談にのってやったのだから、お相子だ。
「それはともかくはたて、ちょっと話に付き合いなさい」
「何よ」
夜が更けて、昼間の熱も引けてきた。微風に散る、虫の音と暖簾のはためき。
胸にわだかまる泥を吐き出すには、いい頃合だ。酒を呷る。台に打ち付けた杯の音。
「そもそも早苗は我侭なのよ」
つらつら並べ立てる愚痴。
初デートにて催促された、”早苗が好き”という言葉。私に非があるとはいえ、暴虐の限りだ。最近になって、ようやく羞恥を抑えて言えるようになった程だと言うのに。
隙あらば狙ってくる、奇異な服装への着替え。下着とも思える肌の露出が多い服から、少女趣味にひた走るフリルで重厚感すら醸し出すドレスなど。
他には幾らでもあるのに、寿命を無くす方法として神格化のみへ頼る拘り。その不確実性から、不安に胃がやられそうだ。私が手解きをしたなら、鴉天狗にはそう時間も掛けず為れるだろうに。
「で、何が言いたいのよ」
「話したかっただけ」
すっきりした。誰かにぶちまけるって気分いいわね。酒が美味しい。
はたては不満げだが、気にしなくていいだろう。何より私の満足感が大切だ。
「”好き”は言って欲しいし分かるわよ。椛が言ってくれたら何か溶けそうになるし。抱きついて撫で回したくなるし。
椛にはかわいい格好して欲しいから、やっぱりそれも早苗に同調。まぁ椛は何してもかわいいんだけど。耳と尻尾にリボンつけたいけど。
それと寿命は仕方ないんじゃない。人間ってそんなもんだし、方法があるだけ満足したら?」
きっちり全部否定したわね、こいつ。折角、人が美味しい酒を味わってるというのに。
それでも概ね理解は出来る。私もそうだから。けれども。
「まぁそうね。でも寿命は納得いかないのよ。一応は飲み込んだわよ。早苗に”巫女をやめろ”って、きっと私達にとっては”空を飛ぶな”って言われるようなものだと思うから」
「それは死ぬわね」
私も死ぬ。
「でもそれならそれで、巫女のままでも寿命を無くせる方法、探してもいいでしょう。神格化だけしか見てないのよ、あの子」
「さっきも言ったけどさ、人間ってそんなもんでしょ。大人しく受け入れたら?」
気楽に言ってくれるわね。
「それなら、あんたは椛が死んだらどう思うのよ」
***
はたてが泣いて、文は慰めている。細切れに聞こえる、嗚咽の合間に挟まる言葉。”そんなのやだ”やら”椛は死なない”など。気が滅入る。何かしら明るいものを歌えば、とは思っても、雰囲気を塗り替えられそうにない。困ったわね。
よくあることではあるけれど、目の前で愁嘆場を繰り広げられたなら、気分がいいはずもない。私は元気を歌いたいというのに。
「ごめん、うなぎ焼いてくれてるところ悪いけれど帰るわね。はたて送るから」
「はい、お気になさらず」
御足を受け取り、二人を見送る。色を付けてくれたのは迷惑代だろうか。”迷惑は掛けて当然なんだから、迷惑を掛けられても許してやれ”。私は構わないのに、鴉天狗も律儀だと思う。
残ったうなぎはお八つにしよう。体力は大切だ。まだ宵の口を過ぎて間もない。客は来るだろう。
ぽかりと空いた時間の中で、先程の時間がぷかりと浮かぶ。
はたての涙に歪む顔。恋の終わりを嘆く顔。
不死を纏った貴方はいつも、呑みながらにして鳴いていた。囀る言葉はただ一つ。「慧音は半人半獣なのよ」。
私は見ぬ振り、聞かぬ振り。人間なんて、お呼びでない。知らぬことを言われても、返す言葉に困るだけ。
不死を纏った貴方はいつか、呑みながらにして笑ってた。囀る言葉はただ一つ。「慧音と一緒に生きるのよ」。
私は見ぬ振り、聞かぬ振り。決心なんて、お呼びでない。いらぬことを言われても、返す言葉に困るだけ。
寿命があると、貴方は鳴いた。死別が嫌だと、はたては鳴いた。
くぐもる声に、割れる顔。死別が嫌だと……死別?
何が喉を遮った? 死別だ。何で唄を遮った? 何で。
ああ、簡単なことじゃないか。あいつは人間だけど、人間じゃない。不死だけじゃなくて、不老なんだ。
ああ、簡単なことじゃないか。あいつはいつか死別する。歴史食いは人間だ。半分だけど人間なんだ。
私はあいつを食える。嫌われないまま食えるんだ。ああ、簡単なことじゃないか。
歴史食いは精一杯生きればいい。それが人間なんだから。そして私に後を託せ。寿命のある人間だから。
お前が一人身になる時を、つがいでなくなる時を待ってやる。不死鳥に釣り合う鳥は、早々いないと思い知れ。しかも相手は鳥じゃない、半分混ざった人間だから、ほんの僅かな時間さね。歴史食い、しばらくだけど、あんたにあいつを任せるよ。そうして幸せが詰まった肉は、さぞ旨くなることだろう。
私に恥を掻かせた貴方。逃げられるとは思わないでよ。私はローレライ、船人の目を潰し、耳を塞いで岩場に誘う。そしてあんたを食べるんだ。今の私は真っ直ぐ歌える。まぁるいお月様に向かう月下草だ。混沌なんて、お呼びでない。
私は貴方を喰らってやる。
***
この歌声。うなぎ屋は、こうでなくちゃいけないね。
「女将さん、お邪魔するよ」
「あら、いらっしゃい。随分と夜更かしですね」
炭火の香りは落ち着くよ。こうでなくちゃいけないね。
「子供の急患が出たのよ。永遠亭まで抱えて走ったわ。お陰で眠れやしない」
「それは何とも、お気の毒様」
苦労しても、命が助かるなら安いもの。この労う笑顔を向けられたなら、それこそただ同然ね。
でも慧音の笑顔も欲しいなぁ。うん、明日誉めてもらおう。
「ありがとう。ところで随分と機嫌がよさそうね。さっき歌ってたのって何。聞いたこと無いけど、すごく楽しそう」
「はい、外の曲なんです」
何だろ。少し、何か、意地悪そうな目が見えたような。
ランプの光が跳ね返った? 気のせいかなぁ。
「『東京ドドンパ娘』って言うんですよ」
後書きにちょっと和んだw
あとトースターが動かないなら直火で焼けばいいじゃない!
とっても美味しいという話を聞いたことがあるよ。
妖怪らしいおかみすちーは、意外や意外に珍しい。
しかももこみすもこけーね。これは良い良いご飯がすすむ。
あとがきは安定の早苗さん
あとみんな可愛いです。