Coolier - 新生・東方創想話

てんびん座の歩き方

2011/08/19 03:45:07
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「魔理沙先生さよならー!」
「気をつけて帰るんだぜ」

 元気に別れの挨拶をする生徒を見送った私は教壇の上で書類の縁を整えた。

「さて、と。私も帰ろうかな」

 蜜柑汁を撒き散らしたように淡泊な朱色で塗装され、稜稜とする教室はどことなく不気味だった。
 誰もいないからかもしれない。でもたったそれだけで世界に一人取り残されたような不愉快な居心地の悪さを覚えたため、早急に狭窄な個室に戻りたかった。廊下から階段へ半ば脊髄反射擬き、無意識に移動を行うことさえ可能となってしまった。
 職員室兼上白沢慧音の私室に……今となっては主不在の部屋に入室した。斜陽で熱気湿気がこもった室内はしかし整頓され掃除が行き届いていると自画自賛をしてみたり。
 小さな椅子に腰掛け一息吐くと、侘びしさが胸を侵すのが癪だった。

「……どこに行ったんだろうな」

 これじゃあ上白沢慧音の寺子屋から霧雨魔理沙の寺子屋になってしまう。まぁぼやいたところで彼女が戻ってくるわけでもないのだが。

「失礼します」

 唐突に戸を開く音が鳴る。同時に彼女が姿を現した。その白い装束を纏っているため、腰まで伸ばした白狐みたいな髪が保護色になり溶け込んでいる。
 少女は私に恭しく挨拶をした。おはようございます、そう短く告げこちらの動向を伺うかのように凝視する。
「もう夕方だけどね、今日は体調は大丈夫?」

 彼女は貧血で倒れる事がここのところ相次いだので暫く安静にさせていた。その甲斐もあり今日は血色が良さそうに見えた。

「ええ、おかげさまで」

 藤原妹紅は私に心配掛けまいとしたのか柔らかく私に微笑んだ。それは欣快とは言い難い気弱な微笑だった。余計に辛そうだと私が思うことは考慮に入っていないのか将又何かしら意図があり入れていないのか。彼女の病状と現状を考えれば前者後者どちらでも仕方のないことかも知れない。

「だったら今日は外でご飯でも食べに行こうぜ」
「いいですね。楽しみです」

 即答する彼女は、再び双眼を窄めた。
 儚げで桜みたいに微笑む妹紅は以前とは違い、それが良いか悪いかは別にしても淑女という表現が最も似合うのではなかろうか。
 藤原妹紅との一つ屋根の下で暮らすのも早六年……いや、その内五年は彼女は眠っていたため実際に一緒に生活し始めたのはここ一年足らずということか。素直に感慨深い。
 勿論、彼女は身体的に大きな変化は無い。変わったのは私だけ。昔大きく見えた彼女の背丈は、いつの間にか見下ろす形になってしまっている。
 でも敵わないなぁ。
 そうやって内心で苦笑するばかりだ。


 私にイタリアンやらフレンチが似合うかという問いにイエスオアノーで答えるならば返答は無理。というわけで例によって居酒屋である。真宵が滲み出たような薄暗い路地の裏側に馴染みの店はある。
 お世辞にもお洒落とは言い難い薄汚れたテーブルに少々ばかりの肴と酒が盛りつけられていき、茶色い料理ばかりが運ばれた。
 ざわつく店内だからこそ気兼ねなく話せるというものだ。

「で、どうなの。記憶は回復してる?」
「いえ……で、でも八意先生のお話だと、一時的なものだから直ぐに戻るって……」
「そっか……まぁ気楽に気長に待つしかないでしょ」

 『刻むことと保つことは出来るのだが之より昔の引き出しを開くことは出来ない』
 八意永琳はそう診断した。彼女自身記憶の錠前を壊してしまっている。いくら鍵がそこら一面に散らばっていたとしても、鍵穴が無いのだからどうしようも無い。
 つまり永遠に記憶は戻らない。
 私もかなりショックを受けた。偶然その場に居合わせた輝夜は複雑そうに妹紅を睥睨していたが、やがて「莫迦」と誰に向けたものか分からない言葉を発したことだけが私の脳に刻み込まれているが、それ以外の前後の記憶が曖昧模糊過ぎる。
 まぁ彼女に取ってそれ以上にやっかいなのが彼女のもう一つの病なのだが。

「…………」

 煙草をポケットから出そうとした指先にコツリと堅いものが触れた。取り出して注視する。それは小さな小さな八卦炉だった。何故このタイミングで紛れ込んだのか分からないが、掌のソレをまじまじと見つめた。
 私はいつからか魔法を行使することを止めた。
 それはどうして何故なのか。理由が探しても見つからない。
 理由としてアルバイトの教師から本業になるにあたり単に魔術探求の時間が薄まったかもしれないし、私自身が他者とは特別でありたいなどという思春期特有の自意識から脱却できたのかもしれないなどといった差し障りの無いことを方便として放つことは出来るだろう。
 しかしソレが本当にそうかと問われれば首を捻らざるを得ない。
 今の私は唯の人間に成り果てた……それでは語弊が生じる。魔法という力を屠竜之技とすることが出来たことを喜ぶべきだろう。
 結局博麗霊夢という神を越えた天才人間に勝利することは叶わなかったし、妖怪退治も次第に負けることが多くなってきたあたりから身の危険を感じ手を引いた。
 丁度そんなときに上白沢慧音が蒸発し、どちらかと謂えばこちらの業務を主軸に据えるようにしたため、人間以外と関わる時間が次第に減っていき……今に至る。パチュリーとか元気かなぁなどと思うこともあるが接触はしないようにした。

「…………」

 目の前には粛々と御猪口で日本酒を啜る少女の姿があった。
 ほんのりと頬を紅葉させているこの少女が、嘗て私に人間が人間を越えれば苦悩と懊悩しか生まれないと反面教師のように訴えてくれた秋の日を思い出すと、嗚呼、やはりというべきか。
 私はこれで良かったのだ。あれ以上進んだらきっと私は私で無くなってしまう。 
 恩人に心の中で謝辞を述べた。少し照れくさかったから心中だけにしておくが、いつかは直接自分の口で。

「あの、魔理沙さん」
「ん……あ、ごめんごめん。ちょっと考え事してて」
「いえっ、そんな大したことじゃないんですけど」
「いいよいいよ。何?」
「なんで煙草を吸うときに机で叩くんですか?」
「ああ。これはまぁ、癖みたいなもんかな」

 逆だよ、なんて言わずに苦笑いを隠しつつ純粋に笑って見せた。
 言いながら少しだけ昔を思い出して、帰郷にも似た感情が芽を出した。

「ってそんなことじゃないでしょ? アンタが話したいことって」
「あ、いや。そのですね」

 手をもじもじと捏ねくり回す妹紅は視線を右往左往させながら、なかなか話さない。
 やがて嬌羞を止め意を決したように私を真っ向から見据えた。決意したその瞳は刃のように美しい。

「大丈夫よ、私『口の上に作り物の漬け物石が乗ってる』ってよく言われるから」
「ちょっと心配なってきました……」
「大丈夫大丈夫。で、何?」
「実は……」
「実は?」
「求愛というものでしょうか? そういうのを先日されまして……」
「ふーん」

 何故か焼き鳥を咀嚼せずに飲み込んでしまい、その上串まで食いちぎってしまったらしい。人間とは思えぬというか寧ろ自分でもどこから出たのか分からない呻き声にも似た奇天烈な発声をして、糸の切れた操り人形みたいにぐねぐねと回り噎ぶ私にそっと妹紅は水を差しだしてくれた。お礼を言って思いっきり喉を通過させると、灼けるような焦げ付くようなじんわりとした熱さが訪れた。瞬間、嚥下できずに残った全ての液体をテーブルの上に撒き散らしてしまった。

「この大バカっ、酒じゃないか!」
「ご、ごめんなさい……!」
「間違えるなよ……喉がすごく熱い……じゃない私が叫ばなきゃいけないことは……!」
「喉痛いのに叫ぶんですか?」
「熱いのはお前のせい! この土手かぼちゃ!」
「ひっ……本当にごめんなさい……」

 あ、泣きそう。というか目尻に涙が溜まっていく。在りもしない微妙な罪悪感を味わう。

「あ、えぇと……も、もういいわ気にしてないから……で、誰に?」
「魔理沙さんの生徒さんの……ごにょごにょ」
「あのマセガキ……私というものがありながら」
「え、ソレは……どういう意味でしょうか……」

 まぁいいか。
 どっちにしろ今の妹紅の人気は男子女子共にあるから。記憶を失う前は女子人気が凄かったとだけ付け足しておこう。

「それでアナタはどうしたいの?」
「え……」
「それが一番問題じゃない。あんたがソイツを好きでずっと一緒にいたいのかってことだぜ?」
「それって結婚ですか?」
「まぁ、そうなるわね。でもそれ前提に考えないと、いつか終わりがあるって考えは相手に失礼だぜ?」
「まだ、よく分からないんです……」
「だったらまだ返さなくてもいいんじゃないのかな。若しくは友達からとか」
「っ! そうですね! まずは友達に成ってみます、ありがとうございます!」
「うん、まぁ私は嘘つきだからそうやって唯々諾々と従ってると痛い目に会わすぜ」
「えっ……」
「だから泣くなっ」

 その後も滔々と酒を飲み交わし、私の視界がぐわりぐわんと歪んだあたりでお開きにする予定だったのだが、どうもキャパシティを越えてしまったらしい。蹌々踉々とした足取りを妹紅に支えてもらってやっとこさ自宅に戻ったところでベッドに倒れ泥の様に眠った。
 少しだけ微睡むとそこには私によく似た女性が私を穏やかな顔で見つめていた。彼女は亜麻色の髪を少し束ねた私と同じぐらい長身の女だった。彼女は何かを私に伝えるとすっと消えてしまう。

「ン……」

 夢は其所で途切れた。
 半醒半睡など生ぬるい、厳しいお天道様はぎんぎんに私を照らしている。干物気分だ。いや、このままだったら確実に鰺の燻製とかになってしまう。
 もぞりと、手に言い知れぬ糸状ものが絡まった。

「えっ……なんで妹紅が寝てるの」

 ベッドに藤原妹紅なる人物が昨日と全く同じ服装で俯せで寝ていた。

「そっか。昨日あれだけ騒いだからか」

 起こすのも可哀想か。というか多分起きないし。
 ノイズ混じりの脳みそをシェイクしつつ、出撃の支度を進めた。
 後に私はいつものように寺子屋に向かった。
 寺子屋で午前中のみ授業を行い、午後は目的の場所に向かうべく準備をした。
 ぎらつく太陽で周囲がぼやけて見える。陽炎で揺らめく風景が触れたら壊れてしまいそうなシャボン玉を思わせ、宛ら浮き世の柵を芳しく思わない牛頭馬頭の仕業かと勘ぐってしまうほどだ。
 そんな地獄めいた道を邁進してでもやらなければならないことが私にはある。
 左手に並々と水を注いだ桶。右手には柄杓。要するに花壇に水をあげに行くだけだ。それだけなのに。

「今日は私も連れて行って貰えませんか?」

 既に眠りから覚醒していた妹紅は寺子屋まで来てそんなことを言い出した。
 幸薄そうな顔を憂い気に変化させた彼女を見ていると、保護欲が無常に湧き出るがそれとはまた別に彼女のために何かをしてあげたいというある種超常的な欲求も湧く。

「別にいいけど……そんなに面白いもんじゃないぜ」

 真夏の炎天下。目的地へと進む。
 無言故に背後から妹紅が土を踏む音だけが響き渡る。嚮導者と亡霊が永遠と地獄を巡り続ける小説を思い出した、なんというタイトルだったか。兎も角として少しの間探検家の気分を味わうのはまんざらでもなかった。
 藪と竹に囲まれた小さな箱庭にソレはあるのだから。
 森林を抜けた先は、紫の湖で満ちていた。

「これは……花畑?」

 辺り一面が藤色に包まれた大地を見て、少しだけ怯えたように私のシャツの袖を掴んだ。

「ああ……これはね、ラベンダーって花だよ。慧音に世話を頼まれてたんだ」

 ラベンダーは同性愛者の暗喩であるし、紫色は人が最期に辿り着く色だ。何の意図があって、慧音はこんなにも大量に植えたのだろう。
 しかし下世話で些末な疑問など消し飛んでしまえるほど美しい花塗れの大地は日光を浴び、宝石のように瞬き続ける。

「慧音……不思議。その言葉を聞くと少しだけほっとする」
「そう」

 それを告げるだけで十分だった。
 今まで見たことも無い満開の笑顔を見ていると、上白沢がこの花畑を私に世話させた意味が分かったような気がした。気がしただけだけど。

「妹紅、泣いてる?」
「あれ。なんででしょうか。悲しくも無いのに涙が出ちゃいました」

 向日葵みたいに笑う少女はそれこそ幸せの象徴みたいに思えた。

「時々疑問に思っていたことがあったんです。私は何のために生きてるんだろうって。バカみたいな疑問が、私の頭の中を這いずり回って苦しくて死にたいぐらい辛いんですよ。
 ソレが今日少しだけ素直な頭痛に変わりそうです。でもそれもホントにもしもでもしかしたらの話です。
 こうやって笑ったり泣いたり怒ったりして、色恋沙汰で悩んだりして。思わぬ事で人を傷つけて、憧れと嫉妬の区別が付かないまま、本音で話せない柵を疎ましく思ったり……。善意悪意、全てをひっくるめた世界で温もりを求めて。溜息吐いたり、苦しかったら友達に相談したり……人間として当たり前に生きるって事を私は凄くしたかったんじゃ無いかなぁって――――――」

 彼女は電池切れの玩具みたいに、どさりと倒れた。
 花に塗れたベッドで仰向けに寝転がり幸せそうに眠っている彼女。
 見上げれば蛇腹を持つ雲は青空をゆっくりと這う。
 切れ間から溢れる心地の良い恩恵たる日光が優しく彼女を包み込んだ。


  ●


 私にとって感情というシロモノは少なからず薄気味悪いものでした。然るに歴史書というものは個人的な思い込みから記述してしまうと無謬性の欠如に他ならず、或いは公平性というものが失われてしまうと思っていますから。
 日常生活に於いて、感情が無くても生きることが出来ると知っていました。ある種の高度な脊髄反射のようなものだと考えて下さって結構です。嬉しかったら頬の筋肉を使い口角をつり上げる。理に反していると思ったら眉尻を揚げ、声を荒げる。悲しかったら目からアルカリ性の液体を流す。楽しかったら目尻を下げる。ええ。まったくもって簡単なものです。感情による客観性の排擠を私は最も嫌います。
 私のような人成らざる身体でも、たかだか数十年で最も尊い喜怒哀楽を思考により制御できてしまったのです。
 畢竟感情など己に要らない、そう心に堅く誓っておりました。
 失礼。過去形なのは偏に彼女に出会ったからであります。
 私と同じ白銀の毛並みを持つ少女でした。優しく気高く、気品に溢れた人でした。
 不思議な事に彼女と話していると、如何に自分が卑小であるかを浮き彫りにされてしまうのです。
 如何せ自意識ばかり高い自分でしたので其れが我慢なりませんでした。
 まるで孤高の鳥のように雄々しく、蟻みたいな私の狭い視野でしか見ることが出来ない生物には彼女の目指す生き方が想像出来ないのです。
 人が太陽に触れることが出来ないように私も又彼女に近づこうとすることさえ並々ならぬ勇気を必要としました。
 それと同時に思ってしまったことが私の唯一の欠点であります。
 即ち、彼女をもっと知りたい付き合いたいと恋い焦がれてしまったのです。


 ありふれた風景。失うことを恐れ、誰も彼もが口を噤んでいる風景はいつ見ても滑稽だ。
 灯籠が揺らめき闇を犯す光に一際目映く光る向かいの三面鏡。その中に唇は真一文字に結ばれ、姿勢を崩すことなく唯座している姿がありありと描写されている。
 此の地駿河国では松の羽衣伝承から分かるように、人間と人間成らざる魑魅魍魎の類いが共存をしている。だから私の風貌も別段不審がられない。
 いいえ。他人からの評価など関係の無い事だ。
 駿河国では人身御供とも云うべき風習が根強く残っている。おかしな話だ、既に木花咲耶姫為る不明瞭な畏怖の逃避行として無辜な命を散らさんとするのだから。
 即ち恐怖というものは人が克服出来ようが出来まいがそんなことは一向に視野に入れず、生きていく上で最も必要なものである。
 恐怖とは様々で在るが、それは闇に巣喰う。唯心唯物関わらずにだ。前者の場合はひどく明快だ。
 誰そ彼時なんて言葉を使うだろう。あれは物理的に相手の正体が不明瞭だから恐れるのだ。自分の視力の及ばない場所に伴い聴力味覚嗅覚触覚の感覚がずれればずれるほど、人は言い知れぬ違和感を覚え、即ち増長するソレは恐怖だ。
 それとはまた別に対象が見えているにも拘わらず自身の価値観との噛み違いから生まれる恐怖もまた存在する。痛みに対する価値観、自傷、殺傷、嫉み、妬み、侮蔑、舌禍、僻み。全てが全て己という物差しから外れたものを異様なまでに恐れ、排斥しようとする。
 例えば異国の世界での宗教戦争がこれに最も当てはまる。彼らは自分が理解出来ないものを遠ざけ、耳を塞ぎ、剰え全てを狂気と見なし剿滅しようとする。
 人間というものはこの物差しの長さが異様なまでに短い。まるで水を並々と注いだ御猪口のようだ。些もすればあっという間に垂れてしまう。
 嗚呼、なんて拙い生き物なのだろうか。一種の憐憫や哀れみすら覚えてしまいそうだ。
 ……自分を棚に上げすぎたか。それに関しては私も同罪だ。咳をする振りをして笑いを隠した。
 そんなことを考えていたら、いつの間にやら今年の贄が決まっていた。何事も無くまるで童子が遊びで蟻を殺すように人を殺すのだな。


 私の教え子に今年の贄が決まった。特別憐憫や同情は生まれなかった。それは生まれて持っての運命なのだから仕方ないものだ。禍福糾えるが如し享受するも抗うもそのものの自由。
 今を以てしても贄は楽しそうに魚と戯れている。

「楽しい?」

 私の問いかけに少女は快活に返答してくれた。子供というのはいい。無邪気で何も知らない無知の有様を具現化したような美しさを秘めている。この景色と同様美しいのだ。足下で咲き誇る可憐な花々と青く澄んだ空の最中にぽっかりと浮かぶ白い雲を見ていると、桃紅柳緑というありきたりな言葉を連想せざるを得ない。
 眼前には大きな川がある。水は一抹の濁りすら無く故に澄み渡り、点々と小魚が尾を必死に動かし少女から逃げるかのように泳いでいるのが見てとれる。
 ふと向こう岸に中性的な顔立ちの人間も視界に入り込んだ。同じように其人も私を睨んでいた。
 玉散る刃を連想する鋭い瞳が彼岸花のような凛としたかんばせに張り付いており、颶風が其人の鈍色の髪をふわりと盛り上げる。
 夜にも似た群青の地色に鬱金色の刺繍が日光に反射して鈍く光る。否、それ以上に眼を引くのが腰に差した二本の長短ある鞘と柄だ。これらのことから彼方はさぞ高貴な身分であることは容易に想像出来た。
 彼若しくは彼女はしばらく私達もしくは絶佳を無表情に見つめている。
 唐突に口を開き私の名を呼んだような気がして、はっとさせられたがなんと反応していいのか分からなく唯彼若しくは彼女の美しさに見とれていただけであり、失礼なことはしていない。
 しかしそれでも拙かったのか、彼女は私に背を向け緩慢な所作で歩みを始めた。何処に行くかなど知らないが、こちらに渡ってくるつもりなのだろう。私と彼女との間には大きな水の流れはあるが、渡し船などない。となれば必然、橋を渡るしかない。
 やがて、少女は遊び疲れて深い眠りへと落ちた。私の膝で健やかな寝息を立てて、実に幸せそうな顔色をしている。
 同時に中性的な人間はこちらに渡ってきた。驚いたことに先ほどは分からなかったが背丈は私よりも小さいことだ。小柄でふとすると其所で眠っている少女よりも小さい。
 徐に人間は口を開いた、声口調から察するに女性だ。その男装女は泊まる場所に案内して欲しいと私に頼んだが、私は不気味に思い口実としてこの子が寐ているため今すぐ案内は出来かねると返答した。

「そうか。では待っていよう」
「しかし」

 私が答えるよりも早く女は私の眼前に顔を近づけてきた。動もすれば睫毛と睫毛が触れあいそうな距離。

「妖?」
「ええ」
「ふぅん。まぁいいさ」

 女は私の数歩隣の岩に腰掛け、目を閉じた。
 蕭蕭と時間の流れはゆっくりと過ぎ去り、日が湖をを真っ赤に浸食するまで少女は眼を醒まさなかった。少女は目蓋をごしごしと擦りながら、周囲を観察してようやく状況を掴めたようだった。
 見計らったかのように眼を開けて欲しくないと思っていた隣人は、研ぎ澄まされた刃のような視線を向ける。
 私は黙って少女の手を引き歩き始めた。私の後を女はついてくる。

「わら」
「……どういう意味ですか?」
「私の名前、藤原だ。お前は何という名前なの?」
「……上白沢慧音と申します」


 珍しく宿場は既に空室というモノが無く、故に女は少女の家に泊まろうとした。私はそれは危ないと思い、仕方なしに私の家に少女を招いたが、それは断じて女に対する老婆心宛らの親切心などではない。
 祭の前に大切な供物に傷を付けてはいけないという至極当然の理由からだ。
 行燈が煌煌と室内を照らし、藤原の象牙の様な白い肌がほんのりとだが高揚しているように錯覚した。

「明かりを消してくれないか」

 別段彼女と同衾することは構わないなどと訳の分からない解釈をしてみたが、彼女は唯唯山吹色が嫌いだと言った。
 私は蝋燭の火を手で仰いで消した。満月に救われ辛うじて彼女を視認できる。

「珍しいわね。他には何が苦手な色なの?」
「赤。山吹色も駄目だ。どちらも反吐が出るくらい嫌い」

 私は適当な相づちを打ちながら聞き流していた。
 月明かりで朧朧とする室内にきまりの悪い沈黙が訪れる。お互いの些とした息遣いのみが聞こえるばかりで、これといった会話もない。あの刀が不気味過ぎるし、一線を引いているように感じられた。
 藤原が息を少しだけ大きく吸い込んだ。

「刀が気になる?」

 彼女はこちらの云いたいことを察したかのように、鯉口を態とらしく鳴らした。

「触らない方がいいよ」
「そう」

 私は触れる勇気など毛頭無いため生返事をするばかりであった。

「その刀で何を斬るの……いいえ、何を斬ってきたの?」
「人に仇なすモノ全て、何せ私は人間だ。人として人を護るために禍いを殺すのは道理でしょう」
「私は人間では無いけど……」
「なら死ぬ?」

 それは冗談でもなんでもなかった。

「それは御免被りたいわ」
「だから殺さない」

 笑う表情は年相応で可愛げがあるがそれも一瞬。瞬きする間に既に澄ました顔へと変貌していた。 

「もしも災いに成るといったら?」
「容赦なく斬る。私は人間の味方だから」

 藤原の貪婪な瞳が燦燦と瞬き、その両目があまりにも純粋すぎて―――。

「そう」

 ―――笑いを噛み殺すのが大変だった。絵に描いたよう嘲謔さで私の唇が蠢く。私の震えに呼応するように炎が揺らめき立つ。
 自身が一本の護身刀であるかのような立ち振る舞いは到底揶揄できるものではないが、それでも彼女自身の思いの内が分かっただけ幾分か猜疑心は雲散した。
 まるで道化だ。
 何という虚仮、似非、完璧すぎる理想だろうか。身の程知らずな厚顔無恥だ。よっぽどの自信家か、何も知らぬ無謀者か……どちらでも構わない。
 彼女にひどく諧謔にも似た透明な興味が湧いた。
 私は口を開きこの地で行われている儀式の一部始終を彼女に話してあげた。彼女は何も言わずに私の話に耳を傾けていた。

「どうかしら。貴女は彼女を救える? そうね。その贄の少女と共に此処を去るというのは、まっとうな選択肢に入る。しかしながら、それでは他の者に厄災を押しつけるという貴女の義には反する。しかし、儀式は明日の宵です。代案など通るはずも無い」

 壊れる貴女を見てみたい。夢の欠片で心を八つ裂きにされなさい。
 反駁するためか、藤原は下弦の月を象っているその唇を開いた。

「至極単純さ。私が代わりに死ねば丸く収まる」

 …………。
 言い放つ彼女は瑪瑙を研磨したような丸い瞳が細めると同時に醜悪に口角をつり上げた。
 障子越しの月華に照らされる彼女の顔つきは比喩するならば狼というのが相応しい粗暴さを兼ね備え、私に雅だという感情を与えるほどであった。
 そして訂正しよう。少しでも彼女に当たり前の悪戯を求めた行動を。
 正真正銘、愚劣愚昧の湯で頭の中が煮えきっているこの女は間違いなく人間で在らざるべきだと確信した。
 

 欠月の青白い光に照らされる御戸渡が三途の川のように思えて酷く不気味であった……というのは半人半獣の自分が思うのは滑稽だろうか。馴染めないのは私よりも暫く前を闊歩する少女の思惑だ。
 何故と問えば、自ずと深淵にずぶりと足を侵される。それ故出来るだけ思考の外に置いてきたのだが、此処にきて幾度となく自問自答を繰り返す。
 一方で答えは出ない。
 遥か先を飄々と進む藤原の足取りに翳りは見えない……どうみても韜晦しているようには見えないのが、何よりも恐ろしい。

「別に、怖いわけじゃないさ」

 そう自分に言い聞かせ進むのだが、どうにもこうにも身体が思うように動かないのでその歩幅は狭い。それでも何とか最後の扉の前まで辿り着くことは出来た。青銅色の鍛鉄門がある種の懺悔にも近い感情さえ抱かせる。
「どうした? 怖じ気づいたか」

 別に、と私は返した。
 逝く目前だと謂うのに、こんな時でもこの女は泰然としているのがなんとも良い心地はしない。
 考えてみれば、この禁じられた場に入るのは初めてだ。私は本当の意味で祭壇を見たことは無い。

「そ、じゃあ開けるね」

 彼女の玲瓏たる声を扉が奏でる不協和音の旋律が悠然と霧散させた。
 そして彼女は祀られた。
 光が届かぬこの場所は、澱み腐り果てている。鼻を焦がす腐臭と反響する嬌声。
 その中央に藤原と名乗る少女は縛り付けられていた。不朽に燦然と生気を宿す瞳が恐懼が私を蝕んでいく。
 子宮を蠱毒と見立て百足で充たすこと早一刻。残ったものは薄汚れた精液と一匹の醜い昆虫だけだった。
 生き残った其奴を齢十二の少女は何の躊躇も無く飲み干し、手足を鎖で繋がれた。その姿は自由に羽ばたく白鴉宛らだ。
 ここまでは知識として知ってはいたものの、いざ実際に目にしてみると悍ましく凄惨たる有様で幾度となく甘酸っぱい胃液を飲み込んだ。
 藤原が目を見開くと同時に彼女の内臓から刺々しい薔薇の蔓が奔流し彼女の肢体を掻き毟る。伴い四肢がありえない方向へと拉げていき、幾千もの獰悪な鞭が痩躯な少女の身体に巻き付き絡め引き裂く。その度彼女は呻き叫ぶが、泣き言などは決して謂わなかった。その内彼女の血肉の一片が私の右頬にこびり付いた。生暖かくそれはまるで生きている蛭の様に自然の摂理に乗っ取り、顎へと流れていく。神々しく雄々しい美しさを兼ね備える戦慄が私を縛り上げる。彼女の回りでは幾人かの男性が聞き取れないぐらいの音量で呪い言を呟き続けた。其れはこの世を正すという旨を歌い上げるだけの呪詛であるが故に、恐らくはこの雑音を耳にしたものの臓腑が腐り爛れるだろうな。
 私は今度こそ畳針で爪と肉の間を丁寧に手入れするかのような痛み無き激痛を覚えた。因果は眼前の惨劇にではなく、自分の躯を壊されているのに高らかに嗤う少女。私の目は壊れた風車のように彼女を鎖縛してしまうのだ。次第に人としての原型すら留めないまでに捻じ曲がる。
 貴女は何の為に傷ついているの。
 貴女は何を思っているの。
 貴女は誰のために笑っているの。
 縋るように強く握りしめる歴史書は何も答えない。
 答えなさい。
 否、普通の人間だ。ひどく歪曲している器に絶望と希望が混濁する唯の人間風情。

 ……っ!

 私の心が、砕け拉げ煉獄業火で焼かれる音が確かに聞こえた。無防備に晒しすぎた私の心を彼女に浸食されてしまう。茨の様な蜘蛛の巣に紛れ込む泡沫の蝶々の如く。
 彼女の禍福が理解出来ない。紡がれ続ける彼女の生きた意味が。
 藤原の身が炎を纏い人肉の焦げる嫌な腐臭が生じ始め、再び吐き気を催したがそれをぐっと飲み込んだ。
 熾る猛る灯火が彼女を包み込み、そして彼女は何も言わなくなった。
 白い鳥は触れられないからこそ美しい。憧れや夢は叶わないから雅であると、彼女を見ていると自然にそう思えてならなかった。

 祭が終わり、烏合の衆は足取り軽やかにその場を去って行く。

 私はその場で暫く動けなかった。
 途端、彼女から受け取った純銀色の髪の毛が手の内でもぞもぞと蠢いた。不気味になり手を離すとそれは瞬く間に人の形になり、一糸纏わぬ少女にへと成る。
 自らの痴態を顧みることなく

「言ったでしょ。大丈夫って」

 あっけらかんとして一粲する彼女はなんのことはない、不老不死だったのだ。
 は、はは。
 なるほど、私の物差しも彼女の前では塵芥も同義だったのか。

「…………」

 素直に嘆賞すればいいのか、はたまた呆れればいいのか。私の人生の経験の遥か上を行くような思いの丈をどう表現すれば正しいのだろう。それこそ私は空気を求める金魚のように口をぱくぱくと動かすばかりだった。

「どうしたの?」

 藤原は怪訝な顔を隠すこと無く私を睥睨し闇夜で満ちた世界へ躍り出ようとした。
 私は迷わず口をきいた。

「貴女について行きたい」

 藤原の蛾眉が八の字になったが、猩猩緋色の瞳は少しだけ和らいだように見えた気がした。
 彼女の雪駄は土を噛んだまま離さない。

「嫌か?」
「別に、嫌じゃないよ」
「そうか、なら―――」

 ぎっと床が軋む。
 私の言葉を待つこと無く遮るように幾人か公儀隠密と思しき人間に取り囲まれた。彼らは私たちの弁明やら言い分を聞くこと無く鞘から鈍く光る刃物を抜き出す。
 それが嚆矢。私の横を旋風の様に躍り出るが早いか、何の迷いも躊躇いすらも斬るが如く少女は瞬く間に屠り、鏖殺していく。演舞を見ているように滑らかで美しい。血飛沫が硝子玉のように少女の白い髪を装飾していく様は抽象的且つ概念的な美麗さを保ち、私はたちまち見惚れてしまった。
 悉皆骸と成り果て、血肉の湖で羽根休めをする少女の足下でぴちゃりと赤が跳ねる。

「ねえ。アナタ先生でしょ。だったら教えて」
「……」
「私は人間だよね」

 彼女は後ろを向いていたため、その時の表情は知ることが出来ないが、その声色は一抹の憂いも含んではいなかった。
 私は彼女という鳥が如何に飛ぶのか、如何にして堕ちるのか、見てみたい。
 少しくらいの鋭い棘塗れの蜘蛛の巣で頓挫して欲しくは無い。足掻いて藻掻いて、その両翼が摩り切れ、血だらけになって、尚も羽ばたく姿。君が露悪な絶望を見たときに見せる表情を笑顔にするのが私の使命。
 思うと、口元が歪に吊り上がるのを実感した。


  ●


 軟風がちろりと舌を出して濃煙を舐めとる。
 愉快な宵闇に蝉時雨が木霊し、曳航するように深緑色の竹林の囁き陽気に炎が燻る音が付随する。全てが全て幻の中の孤児である様に私には思えてならない。
 時同じくして黄色い声真宵の中で響き渡った。目の前の少女が注文する音だ。
 私は今日も屋台で鶏の肉片を焼いている。
 愉快そうに寂しそうに微笑む少女は金髪碧眼。白蝋の様な肌に整った顔立ちが朱色に染まっていた。
 少女は名を霧雨魔理沙という。私の店のなじみの客とでも言えば分かりやすいだろうか。
 人形の様に楚々たる少女ではあったが今日に限り痣だらけの右腕、壊れそうな左腕、右頬には掠り傷がある。
 私はすぐに理由に思い当たったが、而して声を掛けるのは疑問符付きのありふれた言葉だ。

「ん……別に」

 ぶっきらぼうに彼女は応える。少女は嘘がとっても下手で一目で分かる彼女の似非非似非。それは私と彼女の付き合いの長さを示す。ま、店主と客の関係に留まっているわけだが。
 天才少女と努力の鏡の人間関係は決して歪んだモノでは無く常日頃から親しげだった。
 嗚呼私と輝夜も彼女たちのようであったのならばどんなに素晴らしいことだろうかと羨んだり嫉妬したりすることもあった。閑話休題だ。今は霧雨魔理沙について語ろう。
 決して越えることの出来ない境界線上は存在するということを私は何百年も前に悟ってしまっている。
 結果は怏々にして努力を裏切る。同時に仮定は努力の従順なる奴隷であるとも。
 それを少女は未だ知らない。唯努力の先は必ず酬われる世界があると信仰し進行する。
 その縷々とした糸が千切れぬ事を心から願う。でも祈りはするけど忠告はしないよ。
 だってそれは自分で見つけるものだから。

「あれ、もう店閉めるの?」
「うん。今日はもう閉める。私も呑む」

 言いながら一升瓶の封を切り猪口に透明な液体を注いだ。口に含み嚥下すると胸が痺れるような心地の良い感覚に犯される。
 昔を語れば騙るほど醜い自分が嫌いになる。
 私は今別段輝夜を怨むべきもない。そもそも其の資格がない。
 紙煙草をいつものように吸う。

「ねぇ。前から聞きたかったんだけどさ。なんで、火を付ける前にトントンって叩くんだ?」
「ああ。そっちの方が美味しいから」
「そうなのか」

 まぁ煙草の味なんて分かるはずもないが、他人と距離を置くには最も適した小道具だ。
 紫煙が燻る中、暫し思い返す。
 完璧すぎた夢を掲げ、成りたかった。
 私は輝夜などとは違う。もっと正直に清く正しく人を助け導いていきたかった。それこそ嚮導者というやつだ。
 だから手始めに人成らざる者を捻伏せることを生業とした。人間と姿形が同じヤツも多くいたが例外なく屠った。その度に山吹色の謝礼を貰ったが、その重みは決して欣喜雀躍とできるわけもない。生命を摘み取り、金品を貰うのは非常に賤しいことだと自覚はしていた。
 次第に理想の破片は、私を傷つけてくる。
 内面に欠片の機峰が突き刺さり、溶けるでもなく抜けるでもなく永遠墓標のように私の脳を縛り付ける。
 現実は平気で私に背を向けているのではないのかと思い始めたときに慧音と出会った。
 事実、慧音と出会ってからは人を殺した回数の方が多い。権威を楯に猖獗の種蒔く人間や他者を平気で傷つけ妬み殺す人間。
 彼らを幾度となく鏖殺してきた。
 そしてある日ふと思った。
 嗚呼人間とはこんなものかと。絶望と驕慢が入り乱れ、私は何をすることが出来なくなった。
 私のような小娘が何を語っているのかと、笑う声すら鬱陶しく五月蠅い。

「私だって人間だぜ」
「ん……そうだな」

 まんざら悪くないのかもしれないって自己を護るために言い訳して。
 優しい夜風に乗って何処まで行けるかを競いたいと願った日はもう戻れない。


 真昼蜥蜴が干涸らびそうな午前十一時にことは起きた。
 慧音が具合が悪いのを我慢して授業をしていたらその最中に倒れたと聞いて、飛んできたわけだ。
 狂奔と表現するのが適するほど最速且つ快速で永遠亭まで彼女を担ぎ込んだ。

「普通に夏風邪ね」

 八意永琳は淡泊に告げた。

「普通にって何よ! ……その、助かるの?」
「朝晩二錠、三日ぐらいで治るわ」
「よかった」
「…………」
「なによ、人の顔をじろじろ見て」
「別に」
 八意永琳はにやけ面を隠そうともせずに私を凝視していた。
「気になるじゃない」
「結構誤解されやすいわね、貴女」
「……知らないわよ」
「もったいないわ。貴女の真摯で直向きな想いはフロイトさんが見たらさぞ絶賛することでしょうに」
「関係ない」
「……。……ところでアナタのは最近調子は大丈夫なの?」
「……うん、前よりは安定していると思う。倒れることも少なくなったし、必ず慧音の傍にいるようにしているし」
「そう。ならいいわね。でもアナタの症状は慢性的なものだから苦労して付き合っていくしかないわよ」
「分かってるさ」

 病名はたしか、何とかレプシーとかいうやつだ。
 恐怖や感情から引き起こされる睡眠障害は、気持ちが昂ぶると私の肉体機能を停止させてしまうらしい。それが日中だろうがなんだろうが病はお構いなしだ。
 喜怒哀楽を心から表現すれば、途端に私は糸の切れた操り人形みたいにクシャリと地面に臥してしまう。自分はその姿を見ることが出来ないがさぞ滑稽で惨めなものだろう。
 我慢成らない。
 最後に彼女は事務的に置き薬のどれを処方すれば良いのかを教えてくれたが、その恩を仇で返すように早早と踵を返した。
 慧音をお姫様だっこよろしく抱きかかえ再び来た道を駆ける。彼女の白い蛇みたいな腕が私の首に巻き付き、耳元で慧音の荒い息が残響するのと僅かに触れる生暖かい呼吸でどうかなってしまいそうだった。


 彼女を彼女自身の部屋に連れて行き、予め敷いておいた花柄模様の褥の上に横たわらせた。

「…………」

 やがて乱れた呼吸音と胸の上下が穏やかになり、一定感覚で音を刻むようになった。
 こんな彼女を見ていると苦しくなるのはどうしてだろうかと少し考えて止める。答えが出ないことは分かりきっていたから。だって今まで幾億と繰り返し思索してきたんだもの。
 そうこうしていると、彼女はうっすらと目蓋を上げた。瞳は虚ろそうに見えていたが、僅かに光が有った。

「あのときの約束、まだ、覚えてる?」

 そんなことを呟いた。玄翁で頭を小突かれたように視界がぐわりと歪んだ、刹那耐えがたい睡魔が全身に駆け巡る。
 右手の人差し指を折り、眠りの抗う。

「……何か作ろうか?」 
「おかゆが食べたい、かな」
「うん、分かった」

 気弱に私に縋る無辜そのものの彼女は、私には眩しすぎる。
 私は了承しながら、体の良い理由が見つかったと、逃げるようにしてその場を去った。ほっとした自分がまた矮小で卑劣で。昔から変わらない。うぅ、眠い。


 作り終えた雑炊を慧音の元に持って行くと、彼女は嬉しそうに啜った。

「優しい味がするね」
「別に特別な事はしてないんだけどな」

 その間もずっと袋小路の迷路に耽っていた。
 何をするでもなく、漫然と生きていると云えるわけでもない。
 死は勇猛であり、生きるは恥であるなんて訳の分からない理論を振りかざす戯曲家と同じ運命を辿ってしまっていることが皮肉すぎて苦笑ものだ。

「ごめん。慧音、ちょっと席を外すね」

 吐き気を我慢できずに、慌てて外に出て嘔吐した。
 慧音が心配すると困るので、彼女が不審と思う要因を排除するべく鏡に向かい合いお色直しだ。
 鏡を見るのが憂鬱になる、というのもあの日の翳りが欠片も無い瞳は既にくすみ濁ってしまっているからに他ならないのは自明の理だ。だけど。それでもいいさと、そっと鏡の中の自分の頬を撫でてやる。
 私が見ている私と、慧音が見ている私は本当に同じなのか。
 内部から光り輝いていると見紛うほどに蠱惑めいた髪が風でそっと靡く錯覚を覚えた。
 上白沢慧音が気弱ながら元気に振る舞おうとした笑顔が脳裏に焼き付いて私を鎖縛して止まない。永遠や悠久の意味は未だ分からないまるで風のような私だが、これはこれで彼女のために生きている価値があると思える今日この頃……違う。
 人間と仲良くしたふりをしながら、本当は見下していたりもする。
 妖怪なんてと絶望しながらも、本当は期待している。
 どれが嘘? これも真実? 痛む。どこか、脳じゃない、胸でもない。刺激のある睡魔の棘が、ずぶりと吸い込まれた。
 純粋に、イタイ。眠い。駄目なのに。慧音が待ってる。
 痛くて、痛くて。行かないと。駄目、動けない。身体が重い。まるで水中で漂う海月みたいだ。見たこと無いけど。
 耐えられなくなって、その場に座り込み、撓垂れるように目を閉じた。
 急速に、速やかに。しかし堕ちてゆく。
 どこから、どこまで。私なのか、他人なのか、分からない世界。
 真っ暗闇。
 暗く深い、恐怖の園だ。
 深淵など怖くない。ちょっと長い眠りだけど。
 きっと君の泣き声で目覚める。


  ●


 あの日の約束は今だ胸に傷跡として刻み込まれている。
 矜持であり支えであり、決して実行されることは無いと思い込んでいた。
 花は白百合の如き足下でひっそりと静寂の中に咲き誇っており、鳥が大木の別れ技の麓で羽根休めをしているのが視界端に小さく映った。風が御櫛のように私の髪を攫うのが妙に擽ったい。
 宛ら此の風景を花鳥風月とでも呼ぼうか。幻想で脆く儚い宵闇を見ているのは私だけでは無かった。
 彼女は小高い丘の上でひっそりと佇んでいた。
 私がかすれた声で彼女の名を呼ぶと、満月を背負った女性はゆっくりと首をそらしこちらに視線を向ける。
 僅かに玉露色を帯びた銀髪と艶のある象牙宛らの二本の角が月明かりで鋭く瞬き揺らぎ、慈愛と憐憫に塗れた紅色の両目と交錯した。

「あら妹紅。今日はお店はお休み?」

 空に舞う大輪の秋花火が鼓膜を振るわせ、その爆音に負けず透明で簡勁な声色が耳に木霊した。夜中に太陽が出現したみたいに雲がぼんやりと瞬いた。
 平生となんら変わりない、穏やかで優しい声だったが故に胸を強く締めつけられる。
 嘲笑や冷笑などではなく、本当に暖かい笑顔だったから。
 慧音が、魔理沙を、その言葉の続きを紡ぐのが怖くて黙り込んだ。
 私の予感はこと厭な部分に限り的中する。

「そう。こうするしか悪しき八雲の陋習を防ぐ術は無かった。莫迦らしいと思わない? 善良な民が傷つき、幻想の母を騙る女の贄になるなんて……私には我慢ならない。それが愛おしい教え子であるのであれば尚更」

 魔理沙だって同じ人間ではないかと声を荒げ糾弾したが彼女は顔色一つ睫毛の一本でさえ動かさなかった。

「それだけは非常に申し訳ないと思っている。しかしこれは彼女自身の願望でもある。博麗霊夢という人を越えた天才と常日頃から比べられ、見下され、劣等感に苛まれる。荒み苦しむ懊悩を心に飼い続けるであろう彼女の心は遠くて近い未来に砂丘の楼閣のように崩れ落ちる。そんな彼女を一時的にとはいえ解放してあげた。即ち私は彼女の望みを叶えてあげた」

 故に、

「解決は至って簡単。霧雨魔理沙と八雲紫を闘わせ前者が勝つように仕組めばいいの。結果負の連鎖は止まり、霧雨魔理沙も心の解放がなされる」

「自我と天秤に掛けた少女がどちらを取るかは猫みたいにわからないけれど……しかし代償と引き替えに八雲紫に押しも押されぬ絶対的圧倒的能力を行使するまでに至るでしょう、いいえそうでなくては困るわ。犠牲は常に最小限。魔理沙と今年限りの供物で終わり……これ以上は無い。私は間違っていない」

 彼女は嘘を吐いてる。否、彼女自身それすら気づかない虚構の世界を作り上げてしまっているのだ。
 私は何も言わずに、あの日の誓いを果たすべく紅蓮の翼と刃を具現化させた。この背の両翼は絶望を蹴散らし傷跡さえ飛び越える為にある。

「妹紅だったら理解(わ)かってくれると思ったのに……初めて出会ったあの日のアナタならきっと分かってくれたわ」

 分からない。
 だって今のアナタは唯の妖怪だもの。

「そうね。アナタは太陽で私は月。私は常に妹紅の後ろを追いかけるだけで、アナタ無しでは私は輝けず、時間と共に翳み濁ってしまう。君がいないときにひっそりと私は存在する」

 そんなことは無い。だって慧音は月などでは無い。比べることすら烏滸がましいほど、私の心を虜にしてしまっているのに。

「それはきっと間違った恋心だ。訂正した方がいい」

 こんなにも嘘で輝く世界が美しくて、素晴らしいと思えるのはきっと貴女のおかげ。

「それも嘘。だって君はずっと自ら輝き続けていたのだから」

 繊維が引き千切れる程度の膂力で彼女を愛撫する。私のキョウキは彼女の胸に浸透し喀血をさせた。彼女の生暖かい血液が私の左頬にこびり付いた。

「血の味は嫌い。妹紅も、血は嫌いだよね」

 慧音は微笑しながら、白くてか細い指を私の頬に当てた。
 愛でるように撫でた後、力なく宙を彷徨い至る。
 灼熱の羽根を羽ばたかせ、重力に流され滑空した私は依然として事切れた彼女を抱きしめるしか出来ない。
 儘大地に堕りたった時に彼女の重さが両腕に掛かった。摩り切れた翼ではもう飛ぶことは叶わない。恋心という鎖があるならば尚更だ。

「――――――」

 眠ったように、死んでいる彼女は例えようも無く唯唯関雅的で美しい。

「ハ……はァ……ッ、ぅ」

 遠くで花火が咲いたが炸裂音は自分の呼吸音で聞こえなかった。

 粘り気のある液体が震える様に滴り落ちる。一滴の雫が大地を真っ赤に染め上げるが、根源である彼女は穏やかな微笑を崩さない。何の抵抗もしない何の反応もしない、永遠に眠る私だけの最愛の女性。私は彼女に何か出来たのだろうか。
 否、出来ない。彼女は、私を本当に必要としてくれていたのだろうか。

 彼女が欲しい。

 生命が生まれ以て自然に起こりえる熾る感情が燃え上がる。
 慧音の胸元に当てられた熟れた林檎のような色のスカーフを外すと、彼女の首筋から鎖骨までが露わになった。染み一つ無い、透き通るように淡く白い肌。官能的でありながら俗塵とは一線を画す命が本能的に求める美の一種。蠱惑の馨を漂わせるように情事を誘うように彼女の肌は魔性のように月光に照らされ宝石みたいに輝き放つ。

「ん……」

 蛇蝎のように舌を骨の窪みに這わし続けた。まるで駄犬が小皿の水をちろりちろりと舐め取るように。優雅美麗嬋娟といった所謂扇情的とは違う、痴情的で下衆の戯れの延長線上である。唯一違うのは行為自体に終焉の気配が見えないということだけ。当初は僅かに塩味がしたが次第に甘くなっていき、最後には味が失われてしまう。私の舌の味なのか、それとも彼女の味なのか、境界線すらも私の唾液で溶けてゆく。
 その行為にも少しだけ飽きが生じたため、深緑色のワンピースを脱がせ彼女の肌に比べると限りなく黒に近い白ワイシャツを開(はだ)けさせる。自分でも驚くほど冷静に器用に彼女の服を外すことが出来た。綺麗だという感情しか抱けない程、整えられた美、愛しさ、可愛らしさ、それら全てが濃縮に豊沃した肉体を見ていると躯が暑苦しく、下手すればナイロンワイシャツが燃えてしまいそうなまでに火照ってしまう。私も衣服を脱ぎ捨てた。彼女と一緒になるためには服が邪魔で莫迦らしい。

「慧音、好きだよ」
 
 幾度となく唇を重ね合わせた。蛙が雨池で踊るような液体音が虚無的に断続的に響き渡る。彼女の髪から漏れる竜涎香にも似た鼻孔を麻痺させる。舌骨が枯れ果てそうになるまで、彼女の唇が乾きはじめ唾液が糸を引かなくなるまで。悠久かと思える時間、舌が爛れ腐り堕ちるまで繰り返した。接吻を続けながらも手入れの届いた慧音の髪を弄り続けた。絹の様に滑らかなソレが私の指に蜘蛛の糸宛らに絡み離れることは無い。指と指の間にこそばゆい触感を与え続け、なおのこと悦楽やら快感やらという感情が私の脳漿を、支配し、一方で理性を掠奪し犯す。

「んっ……ふっ……好き、ァ、好きです……ァ」

 秘肉が鶏肉を捏ねるように粘着質な音をかき立てる。迷いも衒いも無く唯好きな人と肌を重ねたい。
 それだけだ。邪な心など在るはずも無く、即ち之は純愛であるはずなのだ。

「好きだ。大好きだよ慧音。愛してる、だから……」

「好き、好き……好き好き、好キ、好キ好キ好キ、好キ……」

 ………………。
 …………。
 ……。

「ハ……はァ……ッ」

 私の荒い息遣いだけが、静かな丘に聞こえた。
 幾度となく蠢動し、狂い、果て、私自身も脾肉やらが張りぐったりと慧音にもたれ掛かった。
 やがてゆっくりと月と太陽とが混じり合う黎明が顔を出した。
 太陽が、眩しい。苦しい。可笑しい。吸血鬼になった記憶は無いのに。

「ひっ……」

 驚愕した(振リヲシナケレバ)。

 眼下、慧音が(真実ヲ知ッテイル)。誰が。どうして、何が。

 私?

 どうして寝ていないのか。
 
 それは、

「私は私は、私は、私はッ!」






                                              」

 もしもの話。
 今度次があるのならば、格好つけず、理想を捨てて生きてみたい。
 笑って、泣いて、怒って、恋愛に一喜一憂したり、平気で人を傷つけて、嫉む度に暖かい温もりを共有して。本音で話せない柵を疎ましく思ったりしながら。
 痛いときは溜息吐いて、苦しかったら友達に相談して。
 それが人間として生きるって事。
読了頂きありがとうございます。

自分の中で一番の妹紅×慧音が書けました。
素晴らしい機会をくださった、カミソリさんに多大な感謝を。

ありがとうございます。

誤字脱字、ご感想などいただけたら幸いです。
今回は出来るだけコメント返したいのでコメントお願いしますです。
きゃんでぃ
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コメント



0.230簡易評価
2.90奇声を発する程度の能力削除
相変わらずの独特の雰囲気が全体に出ていて素晴らしかったです
3.70愚迂多良童子削除
なんか、世界観が掴みづらい・・・
文体は結構良い感じなんですけどね。
あと、最後は死姦してるんですか?

>>「だから泣くなっ
括弧の閉じ忘れ
>>ふと向こう岸に中性的な顔立ち人間も視界に入り込んだ。
顔立ちの?
>>他人と距離を奥には最も適した小道具だ。
置く
>>前者が活用に仕組めばいいの。
勝つように
>>已然として
依然
4.100名前が無い程度の能力削除
良いねえ
好みの雰囲気でした。もっとやれ
何故か京極を感じてしまったのは文章の巧みさと魑魅魍魎が調和していたからだろうか
特に妹紅の描写が素晴らしい
自分は百合が苦手なのに違和感無く読めるのは稀少です
9.80コチドリ削除
正直この作品単体では評価し難い。妹紅が慧音を愛する理由が明確になっていない気がするので。
過去作を含めればなんとなくわかるんですけどね。

文体について。
個人的には十全に使いこなせていない印象。語彙の選択に時々違和感を覚えます。
単純にペダントリーよりも池波文体のような平易を愛するからってのが一番の理由かも。

作品全体について。
己の読解力はとりあえず脇に置いといて、もうちょい物語を読み解くためのヒントが欲しいな。
一から十まで説明する必要はないですけど、わかったと錯覚させる位には撒餌しても罰は当たらないと思う。
わかる人にわかれば良い、ってスタンスならグゥの音も出ないんですけど。

蜃気楼のような慧音は大好き。俺的にきゃんでぃさん世界のミューズは間違いなく彼女だ。
10.無評価きゃんでぃ削除
>奇声を発する程度の能力さん
ありがとうございます。
よく尖ってるとは言われますが、独特というのは初めて言われましたです。嬉しいです。

>愚迂多良童子さん
誤字脱字の訂正ありがとうございます。
世界観は結構悩みましたが、一番やりやすい土俵に一番好きなキャラを入れ込んだ感じです。
時系列を入り乱れさせたので混乱させてしまったのでしょうか。

>名前が無い程度の能力さん
妹紅は一番好きというか身近なキャラかなぁとか思ってますです。
もこたんは慧音と友人以上の関係になりたいのに言い出す度胸がない臆病で繊細な子供なのかなぁというのが自分の中でずっと変わらないイメージですね。
感想ありがとうございますです。

>コチドリさん
誤字脱字訂正ありがとうございます。
テーマは「妹紅の愛と理想の両立は出来るのか」で、全四章にしたのはモチーフとなった花鳥風月を準えて書きたいなぁと……もこたんの愛描写が足りなかったのか……。なんか以前書いた文章は覚えてるので、前に書いたからもういいやという感覚が先行してしまったのです(爆
平坦な文章だとどうも味気ないなぁという……ごめんなさい、飲食店の調味料はとりあえず全部試す派です。
自分の中でのボーダーは「二回読むと『ああ、そういうことだったのか』と気づける作品」というのは心がけてます。
ところで慧音が一番不気味な存在だと思っているのは自分だけなのでしょうか。
11.90カミソリの値札削除
おはあああああああああん//////////////////
きゃんでぃさんの作品はいいですねヤッパリ(^_^)
もう僕の大好きな雰囲気のやヴぁい作品です。もこけーねですからなお良い!物語で分からせるより雰囲気で分からせるのが、濃密で良いですね!
でももうちょっと、もこけーねの恋愛描写があっても良かったかな!!(^ω^)
そうしたらなお妹紅の最後の願望が引きたてられてた気がします!!!!1111111