春だ。
辺りは春に染まり切っていた。私が告げた甲斐あってか、十分に春だった。一仕事終えた心地よさに春の陽気にウトウトと。草かげに座ってまどろんでいると、ふとその心地よさが遮断されるのを感じた。飛び起きて辺りを見回す。同時に身体が浮いた。辺りがぐるぐる回る。光が円筒状に広がった。手をつく。なのに地面は遠かった。翅を広げる。でも、そこは狭かった。見えない壁に、硝子に手を触れて外を見上げた。子供が笑っていた。小さな女の子が私を見下ろしていた。彼女を取り巻く二三人の子供たちが、まじまじと私を見ていた。
怖くなって目をそむけた。
瓶の中、そこには春が無かった。上を見上げるとコルク栓。もう一度、世界が回る。瓶を振って、子供が笑う。
怖くなったからか、空気が薄くなったからかは分からないけど、意識が飛んだ。
それは私にとって、いつかの一際苦い春の事だった。
【WARABI-MOCHI:1/3】
春告精は、夏は何をしているの?
里の子供は時折、そんな質問を親に投げかけるらしい。らしい、というのも私はそれを耳にした事がない。だけどその答えは知っている。大した事ではない。
それは貴方達と一緒。
日がな一日遊びまわったりはしないけど、でも炎天下にのんびりお散歩をして冷たい物に恋焦がれて、日が傾いたらひぐらしの泣き声に耳を傾ける。こっそり、静かに過ごしてる。
他の妖精たちも似たようなものではないかしら。もちろん、暑かろうと寒かろうと一年中悪戯をしてまわっている子たちもいるかもしれないけれど。例えば氷の妖精だったら、夏は湖畔でひっそり、特に変わりなく過ごしているのではなくて? それは彼女は暑いのが苦手かもしれない。誰だって猛暑なんて好きではないわ。私もそう。でも夏は嫌いじゃない。
春には春の私がいて、夏には夏の私がいる。
これは私、リリーホワイトにとっての晩夏、なんて、そんなお話。
雑草がぼうぼうと伸びた荏胡麻(エゴマ)の畑。だけどその雑草のどれも、いつかと違って私よりも背が小さかった。縁側に腰掛け、手にした空っぽの瓶越しにそれを眺めた。一緒に苦い思い出が脳裏を過ぎる。苦笑しながら、春告精は夏に佇む。というのも私の事だけど。
栓のされたままの瓶の中には、まだいつかの春の空気が残っているだろうか。分からないけれど、瓶の中の空気を透かして右目が覗いた荏胡麻の畑は、実物よりも随分霞んで、なのに青々として見えた。
部屋には誰もいない。誰もいない部屋の隅、お人形の為のワンピースが畳んで置かれていた。その上には、やはりお人形にかぶせるような麦わら帽が置いてあった。まるで今私が身に着けている服と帽子を、そのまま小さくしたような。
私は前よりもぴったりとした草履を履いて縁側に腰掛ける。そしてワンピースの上にひっそりと置かれていた紙切れを見つめた。日焼けし、字も薄くなっている書置き。
――『百合』へ
今年はわらび餅を用意できそうにないと、その旨が書かれていた。というより、そうとしか書かれていなかった。
ぼんやり、思う。
「ひんやりしてぷにっとしたもの、食べたくなっちゃったなぁ――」
風が吹いた。風に包まれる。私は何とはいえない気持ちに包まれる。薄れゆく色々な感触が、弱々しく鳴くヒグラシの泣き声にかき消されそうだった。
「さて……」
風に抱き上げられるように、自然と身体が動いた。立ち上がって見回した風景に春の残り香は見つけられなくて、青く広がる空の先に晩夏が香る。
「あら?」
朝露なんてとうに消えてしまった茂みの奥。でも陽炎が揺れるほどに蒸してもいない畦道。地面に横たわるのは、見覚えのある姿だった。
駆け寄る。日差しはジリジリと肌を焼き、それこそ身体が溶け出しそうになる。
むしろ、彼女は溶けかけていた。
・
向日葵の立ち並ぶ畑に、一人の妖精が飛び込んできた。
「皆さん、リリーお姉様よ!」
「リリーお姉様?」
「あら、リリーお姉様ですって?」
「リリーお姉様がどうかしたの?」
「湖畔に、いらっしゃっているらしいのよ」
「え? だって今、夏じゃない」
「そんなの分かってるわよ」
「ど、どうしましょう、あのリリーお姉様が?」
先程飛び込んできた妖精も含め、皆揃ってうっとりした表情を浮かべると、身震いしながら互いの顔を見つめ合う。
「それ、本当?」
「あぁん、私、春になっちゃうわ……!」
「でも、本当かしら……」
「とにかく、行ってみましょうよ、ね?」
「えぇ、そうしましょう――」
・
霧の湖。
チルノが私の膝の上で寝息を立てている。湖畔は夏らしからぬ涼しげな空気を漂わせ、湖面は静かに揺れていた。水面は鏡のように深緑を映し出し、蝉が浮いているのを時折見た。そんな事に気をかけてみたところで、蝉の鳴き声が小さくなる事も、まして大きくなる事もなかった。
先程、霧の湖までチルノを負ぶって行くとすぐに大妖精が私たちに気が付いて、いつもチルノがいるという大きな樫の木の下に連れて行ってくれた。そこには何か特別な物があるというわけではなかったけど、なんというか、風が心地よく、湖の奏でるさざ波が良く聞こえた。落ち付く。チルノの寝息が穏やかになって行くのも事実だった。
木の下でそよ風と寝息に耳を傾けながら、念のため、隣に腰掛ける大妖精に尋ねる。
「この子、大丈夫かしら?」
「はい。チルノちゃん、夏は時々溶けちゃうんです」
「……溶ける?」
「大丈夫です、妖精ですから」
「そ、そう?」
「そんな事より、リリーさん。ありがとうございました。もし見つけてもらえなかったら、チルノちゃん、今頃気化熱発して幻想郷の温暖化に抗っていたところです」
「そう……?」
よく分からないけれど、とりあえず大丈夫らしい。膝の上の寝顔を眺める。湖畔の空気は薄ら湿っていて、水面と一緒に草の匂いがゆらゆら揺れていた。その空気をまとってか、チルノがハッキリとした存在になっていくのを感じた。
「それにしてもリリーさん、珍しいですね」
「そうね。夏だもの」
「一瞬、誰か分かりませんでしたよ。翅があるのを確認して「あぁ!」って」
背中の開いたワンピース。それに麦わら帽なんて、リリーホワイトっぽくはないけど、一応は妖精っぽいのかもしれない。なんというか春以外に私がのこのこ出ていったら皆を困らせてしまいそうで。夏の次に春が来た、これは異変だ! だなんて、それで私が退治されてしまったら私も困る。近頃の人間たちは物騒で、特に巫女なんて色に関わらず容赦がない。
「あ、それで、何か用事でもあったんですか?」
「用事、と言うほどのものではないのだけど」
でも、この気持ちをなんと言えばいいのかも釈然とせず。ただなんとなく縁側から眺めた景色――遠い山並みとか荏胡麻畑の事とか、そんなのを思い浮かべるだけで、具体的な用件を思い浮かべる事ができなかった。
「強いて言うなら……」
だけど、口が動いた。遠い山並みとか荏胡麻畑の事とか、それを思い浮かべたら、自然と。
「ひんやりしてぷにっとしたもの、食べたくなっちゃったなぁ、って」
「ひんやりして……ぷにっとしたもの?」
「夏だからね」
大妖精が疑問符を浮かべて首を傾げる。まぁ、無理もないかしら……。
ひんやりしててぷにっとしたもの。
要するにわらび餅の事だったんだけど、それを大妖精に説明している最中、辺りが騒がしくなった。
……というのも、
「リリーお姉様!」
「うむ、リリーお姉様だ」
「リリーお姉様??」
「成程リリーお姉様!」
「まあ、リリーお姉様よ」
「あれがリリーお姉様?」
「見給へ、リリーお姉様」
「あら、まあリリーお姉様??」
「すばらしいリリーお姉様」
「おそろしい光るのね、リリーお姉様」
「麗しのリリーお姉様!!」
樫の木の周りに数多の妖精たちが集っていた。太陽の畑にいる、春や夏の大好きな妖精たち。十一人。……そのどれも見た事のある顔で、思わず頭を抱えたくなってしまう。
「ど、どうしたの貴方たち」
膝の上に冷気を感じながら、私は動く事もできずに彼女たちの顔を眺める。大妖精は目を丸くして固まっていた。
「そんなリリーお姉様! 水臭いですわ」
「そうですわ。こうして避暑地にいらっしゃっているなら、私たちに教えて下さってもよろしいではないですか」
「いえ、別に避暑とかそういうのではなくて……」
「あら、まぁまぁ。膝に氷の妖精を侍らせて、そんなの説得力がありませんわよお姉様」
「私たちがいくらでも身の回りのお世話をしてあげますのに!」
「わざわざそんなおバカな妖精をお遣いにならなくても――」
「……あ、あの」
放っておけばいつまでも喋っていそうな妖精たちを遮るように、大妖精が恐る恐るといった調子で割って入った。
「失礼ですけど、貴方たちはなんなんですか? 折角静かに過ごしていたというのに。こっちには病人がいるんですよ」
至極もっともな質問だった。前半に関しては……私は触れないでおこうかな、たぶん自分たちで説明してくれるし……。
「良くぞ聞いてくれましたわ」
「しっかとお聞きなさい大ちゃんよ!」
「私たちは!」
「泣く子も黙る」
「リリーお姉様親衛隊」
「なのですわ」
「春の日はもちろん夏の日も」
「秋の日も冬の日も」
「晴れの日も雨の日も」
「ハレの日もケの日も」
「リリーお姉様の事をお慕い申しておりますの」
私に好意を持ってくれているのかなんなのか、というか、まぁ好意は持ってくれているんだろうけれど。自然と引き攣り笑いが漏れた。大妖精が、大口を開けて私を見つめていた。返す言葉は、見当たらないのです。
「いやはやそれにしても、病人ですって……?」
「まさかリリーお姉様、どこかお具合でも悪いのですか!?」
「まぁ大変! どうしましょう!」
「あぁん、私、春になってしまいますわ!!」
「貴方が春になってどうするの、しっかりなさい」
「もう春春春春で良いんじゃないかしら?」
「なによ、それじゃリリーお姉様が休めないじゃない」
「そうよ。しかも具合が悪いとお聞きするわ」
「それにしても、リリーお姉様。本日のお召し物も、とっても素敵…………!!」
「いやぁん、髪の毛が光ってるぅ!」
「夏の日差しに、お姉様の粒子が舞っていますわ!」
……賑やかな昼下がり。チルノがひんやりとしていて気持ち良いわと目の前の様相から視線を逸らす。騒がしいというのに、チルノはよくよく眠っていた。
「違います! チルノちゃんが、溶けかかっちゃったんですよ! あとチルノちゃんはおバカじゃないです! 純心なだけです!」
気遣いと一緒にワンテンポ遅れた弁明を放つ。太陽の畑の妖精たち(A~K)と大妖精が対峙する形になって、当の私とチルノは樫の木の下で置いてけぼりだった。
「あらチルノ」
「氷の精ね」
「あのおバカで有名の」
「チルノかしら――」「あー、もう! だから! チルノちゃんは! おバカじゃ! ないです!」
(自称)親衛隊Dの言葉を遮って大妖精が咆哮を上げる。これは結構比喩じゃなくって、その声に追い立てられるように木々に止まっていた鳥たちが飛び立っていくのが聞こえた。
「それは少しくらいお茶目でドジっ子なところもあるけれど……あぁ、そう! そんなドジっ子なところがとっても可愛いんじゃないですか! 貴方たちは分かってないです。表層的な行いから短絡的にバカだバカだだなんて――」
まくしたてる。このままあの十一人がチルノ愛好会でも設立してくれればいいのに。
「……んー」
「あらチルノ、起こしてしまった?」
「ん、大ちゃんうるさい」
「ふふ、そうね」
「って、あんたリリー」
「そうよ、リリーよ」
「なんで? 夏じゃん?」
「あら、いけないかしら?」
「別に」
こうして会話をすると、自然と年上然とした口調になってしまう。何故かは分からない。事実、私とチルノ、どちらが年上なのかも分からない。コソコソと話しているというのもあるけれど、妖精たちA~Kと大妖精はチルノが起きた事には気が付かずに、相変わらず討論を繰り広げていた。チルノは身体を起こすと、私の隣、樫の木に寄りかかった。膝の上の冷気が、徐々に消えていく。
「大ちゃんたち、なにやってんの?」
「さぁ、なにかしら?」
当然のように、はぐらかすしかできない。
「……なんかお腹空いた」
チルノがポツリと呟いた。私も、ちょっと退屈だった。それで、チルノの言葉を聞いて思いついた。
「ねぇチルノ」
「なにリリー?」
「ひんやりしててぷにっとしたもの、食べにいかないかしら?」
【WARABI-MOCHI:2/3】
風が吹く。風が吹くとスカートが翻って、それを左手で押さえると代わりにふわり浮きそうになる麦わら帽を右手で押さえつける。そんな些細な動きだけでも夏を感じてしまう。盛りは過ぎて、少しは落ち着いた日照り。だけど日中というだけあって決して肌に優しくはなかった。ふと一瞬、日が陰った。見上げる。箒が、真っ黒の魔法使いを乗せて私の向かうのと反対の方向、森へと向かって行った。彼女が私の事を覚えているかは分からないけど、仮にそうだったとしても彼女が私に気がつく事はないだろう。私はリリーだけど、今は春告精じゃないのだから。
畦道を行く。虫が賑やか。目当ての畑が見えてきた。私よりよっぽど大きな背丈になった荏胡麻(エゴマ)が花を咲かせ始めていた。少し、ほんの少しと日が短くなってきている証。規則正しく並ぶ緑の向こう、おばあちゃんが折れた腰のまま私に手を振る。私もそれに手を振り返して、草履をぺたぺた鳴らした。貰い物であるこの草履は、私には少し大きいのだ。
「今日は早いね」
「はい」
「別に毎日手伝いに来なくても良いっていうに」
「他にする事、ないですから」
それでもおばあちゃんは私に来て欲しいって、そう言って、この洋服と麦わら帽と草履をくれたのに。こういうの…………ツンデレ?
「友達と遊びに行ったり、したいんじゃないかね」
「大丈夫」
不憫そうな目を向けるおばあちゃんに、苦笑いで微笑みかける。
「それにしても、大きくなりましたね」
話を逸らすみたいに、辺りを囲む緑を見回した。
「大きくなりすぎだね、こりゃ。台風でも来たら、ひとたまりもない」
おばあちゃんの言葉に、幾年か前のひどい台風の事を思い出した。そう、私がおばあちゃんと出会ってから既に幾年が経っているのだ。小さな人間なら、その間に外見も内面も成長してしまう。妖精はいつだって自然のあるがままに、何も変わらない。おばあちゃんは私が人間の子供だと思い込んでいるのだろうか。それともはじめっから妖精だって、分かっているんだろうか。
「孫は顔も見せない、手も出さない、口も出さない。孫の事よりも、畑の事が心配だ」
おばあちゃんはそれ自体はさほど大きくなく、だけど一人で手入れするにはいかんせん大きすぎる荏胡麻畑を見渡しながら呟いた。そうやって流れていく時間が、子供を大人にして、離れていく。
何から離れていくのだろう。実家から、畑から、荏胡麻の白く小さい花から、記憶から――
妖精にはあまりにも難しすぎて、馴染みもなくて、想像すらできない。でもおばあちゃんはどこか寂しそうで、だから私はそれを知るのが怖かった。
「雑草取りをしなくちゃならないけれど、小百合が来たから、一休みしようか」
「はい」
私の事なんて構わなくても良いのに、と言いそうになるけれど、おばあちゃんが休みたいのかもしれないし、口をつぐむ。
ちなみにおばあちゃんには「百合」と名乗った。リリーだから、百合。一応の偽名である。なのに何故か、おばあちゃんは私を小百合と呼ぶ。
ボケちゃってるのかもしれないし、そもそも偽名だから、いいんだけど。
曲がった腰は強かで、おばあちゃんはスタスタと歩いて行ってしまう。私もそれを追いかけて、時々石ころにつまづきそうになって、おばあちゃんの家へ行く。
「そこにかけてお待ち」
「はい」
おばあちゃんは優しく笑って、私を見つめる。その視線は名残もなく私から逸れて、おばあちゃんは部屋の奥へと消えていった。
向き直って庭を眺める。木々の隙間から山が見えた。山の頂には薄らと雲が掛かり、とても遠くだという事を否が応でも見せつける。私はその遠さに嘆く事もなく、ぼんやり次の春の事を思った。春もまた、夏から遠い。同じ『遠い』でもあの雲の中には春はなくて、たぶん秋の息吹が身を潜めてるんだろうなんて、そんな事を考える。でもすぐに考え事になんか飽きてしまって、ほんの少し土に汚れた白いスカートの裾を揺らして遊ぶ。地面に映った影もひらひらと、蝶みたいに漂った。
「ほら、お食べ」
「ありがとうおばあちゃん」
おばあちゃんは湯のみとわらび餅を持ってきてくれた。ひんやりしててぷにってしてて、わらび餅。私は大好き。黒蜜に春の花の蜜を思い浮かべる。あ、でもきなこはパサパサしててちょっと苦手。両手で抱えたようじに刺して、頬張って。足をぶらぶらとさせて、サンダルをぶらぶら揺らす。
「洋服、汚れてるじゃないかい」
「ん、これくらいは、平気」
汚れをこすったら、余計に広がった。
「こらこら」
おばあちゃんは笑っていた。その笑みの、深い皺の奥になにが刻み込まれているのか私は知らない。たぶんおばあちゃんも、私の事はほとんど知らない。それはお互い知ろうとしていないからで、改めて考えてみると不思議だったりする。
――こうして毎年夏には顔を合わせているのに。ひょっとしたら、私はおばあちゃんに自分の事を話した事があったかもしれない。でも今の私はそれを覚えていないのだし、おばあちゃんも私に多くを尋ねたりはしていない、と思う。少なくとも、私がおばあちゃんの身の上についてあまり詳しくないのは事実だった。
「小百合は、山伏って分かるかい?」
「やまぶし?」
「そう。お山で修業しちょる僧侶さんじゃ」
「分からない」
分からないけど、おばあちゃんがこうやって疑問を投げかけてくるのは大抵『お話』をしてくれる時だ。前には蛙の恩返し、っていうのを聞いた。それより前は、覚えてないけど……きっと面白かった。
「それじゃ、キツネは分かるかい?」
「うん」
「これは山伏と狐っていう話でね――」
やっぱり『お話』が始まった。わらび餅の刺さったようじを抱えたまま、私は無意識におばあちゃんを見上げていた。
風が吹く。風が吹くと、おばあちゃんの声も一緒に山に流れて行くようだった。それを見送ったりもできずに、ただ私はおばあちゃんの目を見つめていた。
――私はぼんやり、随分前の夏の日を思い出そうとした。
おばあちゃんの『お話』が嫌になったわけじゃない。だけどその『お話』をどこかで聞いた気がした。どこかってというと、やっぱりおばあちゃん家以外あり得なくて、それなら以前同じ話をしてもらったって事なのかもしれない。そうだとしたら、おばあちゃんと出会ったあの夏の日も、頑張れば思い出せるんじゃないかって、そう思った。
というより、一度(ひとたび)そんな事を考えてしまった私は、いまさらおばあちゃんの声に再び耳を傾ける事ができなかった。ごめんね、って思いながら、ずっと遠くの夏の日を思い浮かべた。
・
……その年は冬が長かった。だから春になるのが遅かった。でも梅雨は意地らしくて夏は頑固で、居場所をほんの少しも譲ってくれなかった。春が短かった。春を告げて春に浸って、浸っていたら知らないうちに雨が降って気がついたら暑くなっていた。夏だ。夏は暑いから、涼しい所で過ごす。でもその年は良く分からないうちに夏になっていたから、よく分からずにそこらじゅうを飛び回っていた。暑いとやっぱり、疲れる。溶けそう、っていうのもなんとなく分かった。疲れたから、一休みする事にした。丁度なにかの畑があった。私の背なんかよりも高い草が生えていて、私はその葉陰に飛び込んだ。それが荏胡麻の畑だったんだ。
腰を降ろす。日陰。ほんの少しだけ涼しくて、暗くなって。
瞼を落とす。もっと暗くなって、眠くなる。
――――――。
――――。
――。
目を覚ますとそこがおばあちゃんの家で、私をなんの遮りもなしに見下ろすのは太陽ではなくて、おばあちゃんだった。おばあちゃんはその頃からおばあちゃんだったけど、ちょっとは若々しかった。
目を覚ました私におばあちゃんが気がつく。私を見つめて、微笑む。
蝉の音、風の音。夏の音。
おばあちゃんは口を開かない。ただ微笑んでいた。目が合ったまま、すごく不思議だった。
なぜか恥ずかしくなってしまって「あ、あの」口を開いたら「あんた、名前は?」遮られる。
おばあちゃんは、相変わらずニコニコ。私、リリーホワイトって言おうとしたけど「百合、って、いいます」隠す事にする。
春告精だって知られたら、瓶詰にされちゃうかもしれないし。漠然としたトラウマ。そんな事、あったような、なかったような。
「ふふ、そうかそうか。小さいから、小百合かね」
笑いながらおばあちゃんが言う。私は頬を膨らませる。それを見て、おばあちゃんは一層愉快そうに笑った。
「ほれ、これでも食べなさい」
言って、おばあちゃんが差し出してくれたのはわらび餅だった。なんだか冷気が心地よくて、でも食べ物には見えなくて、というかそもそもすごく大きかった。
「大きすぎます」
「あぁ、そうだねぇ」
それで、おばあちゃんはようじを上手く使って、わらび餅を小さく切り分けてくれた。私はそれをじっと見つめる。きなこと黒蜜のせいで砂に汚れた氷みたいだけど、すごく柔らかそう。
恐る恐る触れてみる。
「……柔らかい」
おばあちゃんの顔を見上げる。懐かしそうな、そんな顔をしている。
食べてみないと、ずっとそんな顔で見つめられてしまいそうだから、お餅の刺さったようじを恐る恐る手に取り、口に運んだ。
「……美味しい」
「そりゃ良かった」
そうして、おばあちゃんはやっぱり笑う。私も釣られて笑みをこぼしてしまった。
「なぁ小百合や」
一瞬私を呼んでいるのだと分からなくて、ちょっとしてから慌てて顔を上げた。
「良かったら、また来てくれないかい?」
思えばまるで餌付けされた妖精だ。でも実際私は(隠してたけど)妖精だったし、このわらび餅が食べれるのならいいかなぁ、なんて思って、
「これ、また食べられるなら」
条件付きで、頷いた。
「こんなもので良ければ、いくらでもやるよ。どうせ減らないからね」
「ん、それなら」
「ふふ、ありがとよ。夏だけでいいんだ、夏だけで……」
なぜおばあちゃんが夏だけって強調したのか分からなかったけど、私も秋は山に行きたいし、冬は冬眠したいし、春は忙しいから、夏だけなら、良いかな、って。
そういう事で私はわらび餅を食べるため、おばあちゃんの手伝いをする事にした。交渉成立。
それで次におばあちゃんの家に行った時にワンピースをもらって、麦わら帽子をもらって、草履をもらったんだっけ。
思い出しても、わらび餅の冷たい感触、暑い日差し、おばあちゃんの暖かい瞳。私にとっての夏はそればかり。
あぁ……その感触日差し瞳。どれもが、ふとした瞬間に離れていってしまいそう。離れていっても季節のように巡ってくる事はなくて、私がそれを忘れたらきっと、手の届かないところに離れていってしまう――
・
「――小百合? 小百合?」
おばあちゃんの声に、今に引き戻される。
「え、あ、どうかしました?」
「はは、ぼーっとしてたからねぇ」
「ははは……そういえば、お孫さんはどうなさってるんです?」
「孫、ねぇ。相変わらずだよ」
おばあちゃんの苦笑い。見慣れてしまった苦笑い。私を毎年夏に呼ぶのは、わらび餅が好きだった孫が避暑に訪れていた事を思い出すから、らしい。だからきっと、私はおばあちゃんの孫に重ねられていて、でも重なり合う事ができなくて。もどかしいって思うけど――、
「そういえばねなぁ、小さい頃に、春告精を瓶詰にして遊んだ事があったんだ」
その言葉の羅列を聞いて、まずビクリと、心臓が跳ねた。そしてそれからその意味を理解した。でもいきなりだったし、おばあちゃんがなんでそんな話をするのか分からなかった。同時にフラッシュバックする。でも、いつかの子供の顔が、おばあちゃんの顔と重なる事はなかった。
違いすぎたし、遠すぎた。記憶が遠すぎた。それこそ、手の届かないほどに。
「そ、そうなんですか」
「あぁ、でもすぐに逃がしてしまったよ」
沈黙。私は何も言えなかったし、おばあちゃんは何も言わなかった。どうしたら良いのか分からなかった。それに、私がおばあちゃんの孫の代わりになり得ないって、その実感がハッキリと浮かび上がる。
瓶に入るくらいの、妖精が――
あれ、でも、でも、それじゃあ――、
「お、おばあちゃん?」
「ん、なんだい? 小百合」
「えっと、私、あの、妖精だって…………春告精だって、知ってました?」
穏やかな横顔はそのままに、おばあちゃんは頷いた。それから、
「あぁ」
って、一言。
「でも、どうか逃げたりしないで欲しいんだよ。そのせめてもの償いに、こうして小百合と、親しくなりたいと思っているんだから――」
逃げるつもりはなかった。
でも、夏が終わってしまったのだ。
だから私はおばあちゃんのところへ行かなくなった。
逃げたんじゃなくて、これはいつもの事。いつもの事だったと、自分に言い聞かせる。
夏が過ぎ秋が来て、冬になったが、春は来なかった。私は幻想郷での春探しを続けた。あちらこちらに行ったけれど、春の気配は薄らとしか感じられなかった。その薄らとした気配を求めて幻想郷を飛ぶ。そして、私は知らぬうちに雲の上にいた。寒々とした雲の上はまるで冬の空なのに、そこにほんの少し春の訪れを感じる。
「ひょっとして……」
心当たりがあったわけではないけれど、身体が引き寄せられるのに逆らえない。この小さな体では逆らえない。私の知り得ないところから溢れ出る、春の奔流。
溢れ出て来るそれに、流れに逆らうように引き寄せられる。滅茶苦茶に視界が回って地面は遠くて、桜の香りが胸一杯になって、遠い春の日を想起した。
ここは瓶の中じゃない。
ここは春じゃない――?
いや、違う。春だ。春だった。視界が開ける。真っ白な世界。光が眩しい。思わず目を瞑る。しばらくそのまま、奔流に身を任せた。肌寒さはなかったけれど、暖かくもない。生まれたばかりの春を思った。だけどこの妙な肌寒さ、私には覚えがなかった。
「――ちょっとぉ、妖夢なの?」
遠くで声がした。知らぬ間に倒れ込んでいた地面に座り直し、目を開いた私はまず桜色の世界に圧倒され、次に目の前の女性に気圧された。
「あら、違うわね。妖夢には翅なんて生えていないし、第一もっと小さいわ」
……小さい?
「そんな事より春告精が、どうしてこんなところにいるのかしら」
儚げな吐息で彼女が言った。笑みを浮かべた瞳に、そこはかとない含みを感じた。
「ここは……?」
「幽冥界。死者の世界、幽冥界」
「幽冥界……?」
すると私は、死んでしまったのだろうか? それを言うのなら目の前の女性も死んでいるのだろうか。ここに咲く万階の桜たちも、ここに溢れる春も死んでしまったの――?
「願わくば花の下にて春死なん。その望月の如月の頃」
「はい?」
「いえ、なんでもないわ。それにしても、貴方が来なくてもここはもう春なのよ?」
「は、はい……」
「それに貴方には春を伝えなくてはいけない人がいるんじゃないのかしら?」
「春を伝えなくてはいけない人?」
「それは沢山いるんじゃないかしら」
沢山、幻想郷中に。……でも、まず真っ先に思い浮かんだのは、おばあちゃんだった。夏にしか出会う事のないおばあちゃんは、春、何をしているのだろう。
「それにしても、おかしいわねぇ」
「……おかしい、ですか?」
「だって春告精って、もっと小さいものではなかったかしら?」
その言葉に改めて気がつく。しゃがみ込んでいるから彼女を見上げていたけれど、しゃがみ込んだ私の背は、ずっと大きくなっていた。私が唖然としていると、彼女が続ける。
「まぁ、いいわ。それより貴方、もうほんの少しだけ、春を借りるわよ。大丈夫、きっとそう遠くないうちに、ちゃんと返すから――」
微笑みが妖艶に、彼女を縁取る桜の花びらが可憐に、そして優雅に舞っていた。
Interlude
それで、瓶詰にされる事もない大きさになった私は嬉々としておばあさんの家へ向かった。
途中雲の上で人間たちに襲われたりしたけど……あれ? 襲われた? んだよね、うんそうだった。夏ではないけれど、春を伝えてあげないと。まだ雲の下は冥界と比べるとずっと冬だった。変な話だと思った。死後の世界の方が、春みたいだなんて。
ちょっとどきどきしながら、初めて訪れる夏じゃないおばあちゃんの家。
「おばあちゃん!」
もう小百合だなんて呼ばせない。って、そう思って縁側から家の中を覗く。誰もいない。部屋の隅に、服が畳まれていた。私が去年の夏まで着ていた、小さなワンピース。縁側に腰掛けて待つ事にして、待っていて、日が暮れて……。でもおばあちゃんと会う事はできなかった。どうしようかと思ったけれど、意を決して部屋に上がった。ワンピースを眺める。
そこには書置きがった。それだけだった。
――『百合』へ
今年の夏はわらび餅が用意できないって、それだけの書置き。
…………え?
なんの事だか、私には理解できなかった。理解できる気がしなかった。
私は一人、取り残された?
そして紙きれの裏には、こう書かれていた。
願わくば花の下にて春死なん。その望月の如月の頃。
【WARABI-MOCHI:3/3】
あっという間の事だった。人間たちにとってどうだったのか、おばあさんにとってどうだったのか。そんなのは私には分からない。少なくとも、私には唐突だった。知らないうちに大きくなって、知らないうちに……だから今も、私はこの家に、引き寄せられてしまうのだろう。あの時、私が春に満ちた幽冥結界に引き寄せられたように、この家に……。
――――――。
――――。
――。
「ひんやりしてぷにっとしたもの、食べたくなっちゃったなぁ――」
本日、三度目の台詞。
誰もいない、前よりもずっと古びてしまった家。私の、夏の心のよりどころ。おばあさんが返ってくるのを期待しているんじゃない。でも、なぜか夏はここから離れられなかった。こんな気持ちで、私はおばあさんのように微笑む事はできないだろう。私はここにいるけれど、おばあさんは、私の手の届かないところへ行ってしまった。薄れゆくわらび餅の感触が、弱々しく鳴くヒグラシの泣き声にかき消されそうだった。
「折角買ったんだから、リリーも食べればいいじゃん」
ふと、声に引き戻される。同時に右手に、ひんやりした感触を感じた。チルノが私と手を重ねて、口元をもぐもぐと動かしながら私を見上げている。里で買ってきたわらび餅。それをチルノが頬張りながら、私を見上げていた。
湖畔の喧騒から抜け出した私とチルノは、手を繋いで里を歩いた。露天の人にはチルノと私を見比べて、姉妹みたいねって声をかけられて。
道中ずっと繋いでいて慣れてしまったチルノの手の冷たさも、少し離れただけで一際鮮烈に際立った。その冷たさは身体の芯まで届く事なく、ただ手の辺りでふわふわとしていた。
「そうね」
チルノに促されてようじを摘まむ。なんだか違和感があった。その違和感は釈然としないままで、私とわらび餅の間に横たわっていた。それを振り払うように突き刺して、
「はい、あーん」
「あーん、ってなによいきなり」
「あら、嫌かしら?」
「べ、別にそういうんじゃ」
「それじゃ、あーん」
頬を赤らめながら、ぱくりと食べてくれた。和む。
「もう全部、チルノが食べてしまっていいわよ」
「本当?」
嬉しそうな、でも疑問を含んだ声色でチルノが言う。
「えぇ」
荏胡麻の畑を眺めて、ふと雑草を抜いた方いいのかな、なんて思った。でもそれも一瞬で、手を引かれて、視線も魅かれる。チルノが私の手を、チルノ自らの頬に伸ばした。
「ひんやりしてて、ぷにっと……してる?」
「…………え?」
びっくりして、彼女の目をじっと見つめる。
「だ、だって、あんなに食べたいって言ってたから」
「……もう。ふふ、それでは、食べちゃっていいのかしら?」
「なに言ってんのよ」
チルノは頬を染めて、目を逸らしてしまう。
自然と頬が緩む。ただ、微笑みがこぼれた。
「それで、どうよ、あたいのほっぺは」
「そうね、食べてしまいたいくらい」
チルノのを頬を優しくつまむ。その手を、離す気にはなれなかった。
「笑わないでよ」
頬をつままれた表情を笑われたと思ったのか、チルノに手を振り払われてしまう。
「……ふふ、ごめんなさい」
「まだ笑ってる!」
自然と溢れ出てしまうのだから、しょうがない。
ちらりと横目で、折りたたまれたミニチュアの服を、麦わら帽を見つめた。『小百合』の思い出は、恐らく永遠にそこに在り続けるだろう。私の覚えている限り、私の手の及ぶ範囲に。
空を仰ぐ。雲が大きく、空を漂う。ずっと遠くへ飛んで行ってしまうのだろう。
「――さようなら」
言い忘れていた言葉を、真白な雲に目がけて呟いた。それからいつもみたいに、遠い春の事についてぼんやり思う。
ま……そんなものよね。私は春告精(リリーホワイト)なんだから。
鳴き声?
切ない感じが良かったです
リリーがなんで大きくなったのかは読み取れませんでしたけど
この雰囲気とおばあちゃんの人柄で満足できたので
気にしないことにしました
なんだか夏の切ない部分がぎっしり詰まっている気がする。
このチルノは素直で愛くるしいこと。
余韻がじんわりと広がるお話でした