1
――蓮子の様子がいつもと違う。
私がそんなことを思ったのは大学の講義が終わった後、行きつけの喫茶店でいつもどおりの紅茶を頼んでから、それが出てくるまでのちょっとした待ち時間のことだった。
「あれ、蓮子――」
「ん。何、メリー?」
突然名前を読んだ私に、不思議そうな顔を向ける蓮子。
私はそんな蓮子の顔のある部分を、じっと観察する。
――唇。
そこにはいつもの蓮子とは明らかに違う色がついていた。
「その口紅……アクアルミエールの95番?」
普段は簡単にリップクリームを塗る程度で済ませているはずの蓮子。
その蓮子が不意に色気づいたような、そんな雰囲気に私は少しの違和感を覚えた。
蓮子の心境に何か変化があったのだろうか。
そんなことを思いながら尋ねた私に、蓮子は答える。
「あー、やっぱりメリーは気付くか……それにしても番号まで当てるかな、普通」
そういってどことなく気恥ずかしそうに後頭部を掻く蓮子。
蓮子の異変にすぐ気付ける程度には、私と蓮子の関係は深い。むしろこの店に至るまで気付けなかったのが遅いくらいだった。
口紅の新しい色を試すとき、もしくは蓮子みたいに普段つけない口紅をつけるとき、普通はもっとそわそわと、どこか浮き足立って見えるものなのだけれど、それが今回の蓮子には無かったように思う。
だから蓮子は「やっぱり」と言ったが、実際は今この手持ち無沙汰な時間にふと蓮子の様子を窺ったりしなかったら、もしかすると私はその口紅に気付けなかったかも知れないのだ。
そして蓮子の言うとおり、番号まで言い当てられるほど私は本来化粧品に詳しいわけでもない。それがたまたま有名ブランドの口紅で、そしていかにも《夏の赤》といった、特徴的な色をした口紅だったからこそ分かった。ただそれだけの話だ。
だから言ってしまえば、私が蓮子の異変に気付いたのはただの偶然でしかないのだけれど。まあそんな事実はわざわざ口に出すこともないだろう。
私がそれに気付いたことが偶然であれ何であれ、蓮子が普段付けない口紅をつけている現状に変化が訪れるわけでもないのだから。
そんなことよりも今の私は、目の前にいる蓮子の変化が気になっているのだ。
だから私は少しからかうような、そんな軽い調子で蓮子に尋ねる。
「急に色気付いちゃって、どうしたの? もしかして蓮子、好きな人でも出来た?」
「なっ、何言ってるのよ。そんなことあるわけないじゃない」
あるわけないと、そう言い切ってしまう年頃の娘には、それはそれで色々と問題があるような気がするけれど。
嘘ではない、そんな気がする。何となくだけれど、それは蓮子との付き合いからくる私の勘だった。
私は蓮子が突然口紅をつけだした理由が気になっていたので、さらに追及しようかとも思ったが、私が口を開こうとすると同時に店員が紅茶を二つテーブルに運んできた。
「紅茶も来たことだし、それじゃあ本題の、秘封倶楽部の次の活動について――」
蓮子がそう切り出したことで、私は蓮子を追及する機会を失してしまった。
蓮子には話題を逸らそうという意図はなかっただろう。だからそれは蓮子を怨んでも仕方がない。
したがって私は、このときばかりは紅茶が出てくる早さに定評のあるこの店を少しだけ怨むことにした。
秘封倶楽部の次の活動についての打ち合わせも、いつもどおり大して進まずに話も横道に逸れてばかりのまま、今日の集いもそろそろお開きとなる頃合だった。
打ち合わせの最中に軽く食事もしたので、私は口紅を直すために化粧室へと向かうことにする。今日は口紅をしている蓮子も当然一緒に来るものだと私は思っていたけれど、蓮子は「あとは帰るだけだからいいや」と、そんなことを言った。
やはりそういった身だしなみなどに、あまり頓着のない蓮子の性格が変わったわけではないらしい。
そうして私は一人、化粧室で口紅を直しながら蓮子のことを考える。
――どうして蓮子は突然口紅をつけ始めたりしたのだろう。
それはおそらく誰かに見せるためだろうと、私は思う。
そしてその誰かとはきっと私以外の誰かだ。
それは蓮子の様子を窺う限り、そう考えた方が自然だった。
だとすれば問題となるのは、それが誰であるのか、ということだ。
好きな人が出来たというわけではないと蓮子は言った。そして私もその蓮子の言葉に嘘はないように思う。けれど、それだって私の勘でしかない。決して確証があるわけでは無い。
蓮子に好きな人が出来て、そしてその人の気を引くために蓮子が口紅をした可能性だって当然あるだろう。
そう考えはじめると、ある一つの感情が私の内側に芽生えてくるのが分かる。
――相手は、どんな人物なのだろうか。
結局気になるのはそれだった。
あの蓮子に変化をもたらすような相手――私はそれに興味があった。
別にそんな相手はいないというなら、それでもいい。
全てが私の勘違いだというのなら、それで一向に構わないのだ。
しかし私の中に芽生えた、蓮子に関する小さな違和感。それを解消するには、おそらく事実を明らかにする必要があるのだろう。
本来は蓮子に訊くのが早いのだけれど、さっき「好きな人でも出来たのか」と、少しからかうように訊いてしまったせいで、またその話題を蒸し返すのもしつこい気がして、どことなく気が引けてしまう。
それに蓮子は一度確かに「そんな相手はいない」と答えていて、私はその言葉に嘘はないと思ったのだ。それが本当は誤魔化すための嘘だというのなら、私にはその蓮子の嘘を見抜くことは出来ないだろう。
それでは蓮子を追及したところで、また軽くかわされて終わりに違いない。ともすれば蓮子にもう一度真っ向から尋ねたところで、意味があるとは言いがたい。
しかし、それでも私に打つ手がないわけでもない。
ヒントはすでに蓮子が出してくれているのだ。
蓮子は食事の後に口紅を直さない理由として、「あとは帰るだけだから」とした。
それはつまり、蓮子が口紅をつける動機は大学にあるということだった。
私と蓮子は同じ大学に通ってはいるけど、専攻が異なるため大学の中ではあまり会うことがない。会えるとしたら昼休みくらいだが、それだって稀だった。だから私は普段の蓮子が大学でどんな生活をしているのか、実際のところはよく知らない。
私が知っているのは、あくまでも蓮子が語る《それ》だ。
蓮子の目というフィルター。思考というフィルター。言葉というフィルター。
蓮子が見たものから、蓮子が考えたことのうち、蓮子が私に対して口に出していいと判断したことしか私は知らない。
それは言ってしまえば当然のことだと思う。友達といっても、全てをさらけ出せるものではないのだから。
だから私が知らない蓮子だって、そこには当然いるのだろう。そしてそれはおそらく、蓮子自身が私に知られたくないと思ったことなのだ。
その領域に、果たして私は踏み込んでしまってもいいのだろうか。
私は蓮子のことを一番の友達だと思っている。だから私は可能な限り蓮子のことを深く知りたいと考えていた。
けれど蓮子にだって、侵されたくない領域はあるはずだ。
確かに蓮子のことは知りたいが、しかし大切な友達を失うことは絶対に避けたい。
相反する二つの感情。
この板ばさみの中で、一体私はどうするべきなのだろう。私は、どうしたいのだろう。
「……やっぱり、もう一回蓮子に訊いてみよう」
私はそう独り言を呟いて決意した。
そして口紅を直し終えた私は、蓮子の待つ席へと戻る。
「ごめん、おまたせ」
私はそう言いながら席に座った。
「んー、確かにいつもより時間かかっていたみたいね。どうしたの、珍しく失敗でもしちゃった?」
蓮子は微笑みながら尋ねてくる。
まさか蓮子のことをずっと考えていたとは言えず、私は「そんなところ」と返事をした。
そして私は蓮子の目をじっと見つめる。
そんな私に対して、不可解な面持ちで小首を傾げる蓮子。
尋ねるなら今しかないだろうと思い、私は口を開く。
「それで蓮子は、どうして急に口紅なんてつけ始めたのかしら?」
友人の変化が気になるのは当たり前のことだろう。だからこの質問には何もおかしいところなんてない――はずだ。
だから蓮子も、当たり前のような顔で答える。
「別に、ちょっとした気分転換よ」
――何となくだけれど、それは嘘だと思った。
けれど私は蓮子にそう言われてしまった以上、もう何も言うことは出来ない。
だから私は「そう」とだけ呟くように言った。
そこで話は終わり、時間も時間なので蓮子が「そろそろ帰ろうか」と切り出したので、それに同調するようにして私は蓮子と共に喫茶店を後にした。
そうして道の途中でいつもどおり蓮子と別れ、私は一人で自分の家に向かって歩く。
その道すがら考えるのは蓮子と口紅のことだ。
その口紅をつけた理由を、蓮子はただの気分転換だと言った。
けれどそれは違うような、そんな気が私はしていた。
根拠はないけれど、蓮子のその口紅には何か明確な理由がある気がする。
――そしてその理由は、どうやら私には言えない理由らしい。
2
――理解はしていた。
私と蓮子は友達ではあっても、それでも友達でしかないということを。
だから隠し事の一つや二つ、あるいはもっと沢山あったところで、本来は何ら不思議ではないのだろう。
そしてそれに気付いたとしても、そっと気付かない振りをしてあげるのが優しさに違いない。友達だからといってむやみやたらと詮索することは、決して褒められたことではないのだ。
――そんなこと、当然分かってはいたはずなのだけれど。
それでも知りたいと思ってしまうこの感情は、一体何なのだろうか。
これが好奇心だというなら、それも分からない話ではない。
私は蓮子と二人で《秘封倶楽部》というオカルトサークルとして活動する程度には、好奇心が旺盛だという自覚がある。
けれどこの感情は本当に好奇心なのかと考えたとき、それはどうにも違うような気がした。単純な好奇心というよりも、これは相手が蓮子だからこそ気になるといった方が正確に思える。
だから言ってしまうと、私は蓮子のことが心配なのかもしれない。
それは蓮子を信頼していないとか、そういうわけではないのだけれど。
私の知らないところで蓮子が変わってしまって、いつか私の知らない人になってしまうのではないかって――。
――ああ、そうか。
私は蓮子のことばかりを考えていて、自分のことが見えていないのだ。
私は決して蓮子を心配しているわけではないのだろう。
だからこの感情は単純に、《私の知らない蓮子》という存在を私が恐れているに過ぎない。
私と二人でいるときの蓮子と、私の知らない蓮子。そのどちらが本当の蓮子なのだろうか。
――きっと、そのどちらもが本当の蓮子であるはずだ。
そこには蓮子と蓮子でない者の境界はないのだから。
しかしどうやら私は、私の知っている蓮子こそが本当の蓮子であって欲しいと、そんなわがままなことを心のどこかで思っているらしいのだ。
――独占欲。
これはそういった感情なのかも知れないし、また少し違ったものなのかも知れない。それは私自身にも曖昧で、だから決して断言出来るようなものでもない。
ただ一つだけ言えることは、私が知らないところで起きた蓮子の変化を、私はどうにも不安に思っているということだ。
そして蓮子はその変化の理由を私には語りたくないのだと思う。
だからそっと、そのことには触れないであげるのが優しさというものだろう。
――そう、理解はしていたはずなのだけど。
それでも気付けば私は、大学の講義を自主的に休講として、その代わりに蓮子の受けている講義を受けることにした。
それは当然、蓮子を尾行するために他ならない。
3
しかし私の外見はこの国だと目立ちすぎるため、変装をする必要があった。
私はその金髪を隠すために、黒い長髪のウィッグを購入してつけることにする。
瞳の色はカラーコンタクトで誤魔化し、ついでに伊達眼鏡もつけておく。
肌の色は普段どおりファンデーションとチークを使えば、それほど目立つこともないはずだ。
あとは服装を目立たないように地味なものを選んでしまえば、それで変装は完了だった。
姿見で何度も確認するが、自分で見る限りは特に違和感はないように思う。
おそらくこれならば蓮子にだって簡単にばれたりはしないだろう。
そう考えた私は、少しだけワクワクとしながら家を出る。
それはまるで、新しい化粧品を試したときのような感覚だった。
やはり今までの自分とは少し違うという状況に、普通は浮き足立ってしまうものなのだ。
だから本来なら蓮子だって普段つけない口紅をつけるなら、もっと楽しそうにするはずなのに――そんな違和感が、少しだけ私を不安にさせるのだ。
そうして蓮子のことを考えていると、ふとある感情が口をついて出る。
「尾行なんて、本当は悪いことなのに」
それは蓮子に対する裏切りだと言われても、きっと私は否定することが出来ないだろう。
しかしその言葉や理性とは裏腹に、私の心はどこかでそれを楽しんでいた。それはあるいは、私の知らない普段の蓮子を知ることが嬉しいのかも知れない。
そうして大学に向かう道すがら、私はふと、周囲から見られているような気がした。
私の変装がばれたのか、などと一瞬思うが、当然そんなことは気のせいだ。
それは自意識過剰というものに他ならない。誰も私のことなんて知るはずもないし、この変装はそうそうばれるものでもない。確かに面と向かってまじまじと見られれば見抜かれるかも知れないが、見ず知らずの通行人がそんなことをするはずもなければ、そもそも私を見るような理由があるわけでもない。
それに私は普段から珍しいものを見るような好奇の視線には慣れている。そして今回はそういった視線ではなかった。だから今私が感じている視線は、私の浮き足立った気持ちが作り出した幻想の産物である。
大学に着くと、私はまず蓮子の受ける講義に休講や教室変更がないかを調べた。
「どうやら教室変更なんかは無いみたいね」
それを確認した私は時計を見て、そろそろ移動を始めるべきだと判断してゆっくりと歩き出した。
揺れの少ない高品質なエレベーターに乗り、目的の階を目指す。講義前という時間帯のせいか、エレベーターは混雑している上にほぼ各駅停車状態だった。
途中で蓮子が乗ってきたりしないかと少し不安になったりもしたが、それは杞憂に終わった。
目的の階に着くと、何人かが一緒に降りた。歩く方向を見る限り同じ教室を目指しているのだろう。私はその後ろに着いていくようにする。
教室に着くと、すでに蓮子はそこにいた。それも困ったことに、よりによって一番後ろの席だ。私は後ろから気付かれずに蓮子を観察する予定だったのだけれど、これではそういうわけにもいかない。
仕方がないので、私は蓮子から少し離れた列の一番後ろの席に座ることにした。
そうして講義を受けている振りをするためにノートや筆記用具を準備しながら、ばれないように蓮子の様子を窺ってみる。
蓮子はすでに準備を終えた状態で、ただぼうっとしてだらけた雰囲気のまま講義が始まるのを待っているようだ。目を凝らしてよく見てみると、やはり今日もあの口紅をつけていた。
やはり私の推測どおり、その口紅は大学にいる誰かへのアピールのためにつけているのだろう。
あまりじろじろと見ていたら気付かれてしまうので、観察はほどほどにして私は前を見る。するとちょうどこの講義を担当する若い男性の准教授が教室に入ってくるところだった。
私はまさかと思いながら蓮子の方を窺うが、しかし蓮子は相変わらずだらけたままだった。
4
朝から講義を二つ連続して受けると、もう昼休みである。
私は蓮子にばれないようにその後ろをついていくが、相変わらず収穫はない。もしかしたら、その口紅には本当に特別な意味なんてないのだろうか。
そうして学食にたどり着いた蓮子は、券売機で《カレーそばつけ麺》という何とも言えないものの食券を購入していた。
私はその後から日替わり定食の食券を購入し、それを対応した窓口にその食券を持っていく。
何人もの人間が流れ作業で定食をあっという間に完成させ、私はそれらを載せたトレイを持って蓮子を探す。
広い食堂とはいえ、見慣れた服装でカレーそばを食べている友人を見つけることはさして難しくもなかった。私は蓮子の背中が見える席に座り、すでに食べ始めている蓮子に置いていかれないように、少し急ぐように食事を開始する。
今日の日替わり定食のメニューは鶏南蛮とサラダにご飯、あとはいつもどおり味噌汁が付いていた。これで三百八十円はおそらく安いのだろうというボリューム。
そういえばと、私はその味噌汁であることを思い出す。
――あれはまだ、私と蓮子が出会ったばかりの頃の話だ。
5
蓮子と知り合って、それはすぐの出来事だった。
「そういえばメリー」
蓮子は出会ってすぐに、私のことを《メリー》と呼ぶようになった。どうやら日本人の蓮子には、私の名前を正しく発音するのが難しいらしい。
最初は頑張って発音しようとして、私のことを《メリベリー》などと呼んでいたが、あるときを境に蓮子は私に《メリー》というニックネームをつけたのだ。
単純に発音することを諦めたのだとは、決して蓮子は認めようとしないのだけど。
それでも私としては、名前をそのまま呼ばれるよりもニックネームで呼ばれることの方が嬉しかった。それは何というか、ニックネームの方が親愛の情がこもっているような、そんな気がするのだ。
「何、蓮子」
私は蓮子のことを普通に蓮子と呼ぶ。
一度だけ私もニックネームを付けようと《蓮ちゃん》と呼んでみたこともあるが、蓮子が顔を真っ赤にして恥ずかしそうに拒否するので、その案は却下とされた。
「メリーって、こっちでの食事は普段どうしてるの?」
こっちというのはこの日本という国のことだ。見かけの通り私は外国人なので、どうしたところでそういったことは気になってしまうものらしい。
「ん、普通に自炊してるわよ? 最近は日本食も練習中だし――」
そのとき私は自分がそう言ったことを覚えている。
そしてそんな話の成り行きで、私は練習中の手料理を味見してもらうために蓮子を家に招待することになったのだ。
そうして訪ねてきた蓮子には居間でごろごろとしていてもらって、私は一人台所で黙々と調理をする。
自分で調べたレシピのメモを元に、しばらく悪戦苦闘しながらも私は、何とか慣れない日本食を完成させた。
なかなかに美味しそうに出来たと自分では思う。あとは盛り付けるだけだ。
「ん、出来たの?」
「うん。そっちに運ぶから、蓮子はテーブルの上を片付けてくれる?」
「分かった」
蓮子はそう返事すると、テーブルの上の物を片付けて、洗った台拭きでテーブルをさらりと拭いた。
私は盛り付けた料理をトレイに載せ、蓮子の拭いてくれたテーブルに運んで次々と並べていく。
それらの料理を並べていくうちに、ふと蓮子の様子がおかしいことに気付いた。
日本食にまだ詳しくない私は、何かおかしい料理でもあっただろうかと、心配になりながら蓮子に尋ねる。
「……蓮子?」
その名前を呼んで、私は蓮子の反応を待つ。
すると、少しだけ間を置いてから蓮子は口を開いた。
「知らなかったわ……メリーがそんな、《味噌汁》を《ラーメンのどんぶり》で食べるような人だったなんて」
6
アジアのスープ料理としてひとくくりにしてしまった、味噌汁に関する私の失敗談。これは今でも、時折笑い話として蓮子にからかわれたりする。
ふとそんなことを思い返せば、私の大学での思い出はその全てが蓮子との思い出だった。
楽しいことがあったら、私はいつだって蓮子と一緒に笑ってきた。腹の立つことがあったら、どちらか一人がなだめたり、時には二人で一緒に文句を言い合ったりもした。
――そうだ。
私たちはいつも二人だったのだ。私たちは二人で《秘封倶楽部》なのだから。
それゆえに私は思う。
今の私たちは、どう見たところで二人ではない。
蓮子は一人、私には話せない理由で普段はつけない口紅をつけて大学に通っている。
私はそんな蓮子を、蓮子にはばれないように尾行してその身辺を探っている。
お互いがお互いに秘密を持ちながら、個別に動いているのが今の状況だった。
――ああ、私は一体何をしているのだろう。
そんなに蓮子のことが気になるのなら、正直に面と向かって訊くべきだったのに。たとえ何度誤魔化されたって、「訊かないで」と蓮子にはっきりとそう言われるまでは、遠慮なんてするべきじゃなかったのだ。
こんな風に隠れて蓮子を尾行したりするよりも、無遠慮でも面と向かって尋ねるほうが、ずっと友達として正しい形なのだから。
そんなことばかり考えていたせいか、どうにも私の箸は進まないでいた。
しかし蓮子はそんなことをお構いなしに食事をすでに終えていて、今は携帯端末を操作していた。
蓮子が席を立つのも時間の問題だろうと思う。
蓮子を尾行するつもりなら、私も定食の残りを急いで平らげる必要がある。
けれど、そう考えたところで箸が進むようにはならなかった。
私はゆっくりと少しずつ食事を続けるが、そうしているうちに、ふと蓮子は席を立つ。
それを追いかけるのならば、当然この食事を残すという選択もある。実際今は食欲もそれほどないのだから、尾行を続けるつもりならそれが正しい選択だったのだろう。
けれど私はもう、蓮子の跡をつける気にはならなかった。
食堂を去る蓮子の背中を見ながら、私は味のしなくなった定食をもそもそと口に運んでいる。そうしながら私が考えることは一つだけだった。
――尾行なんて、もうやめにしよう。
尾行をやめると決心してからは箸も進み、意外とすんなり食事を終えることが出来た。
やはり蓮子に対する後ろめたい気持ちが私の心の中にはあったのだろう。尾行をしていたという事実は消えないけれど、それでもいくらか気持ちが楽になり、食欲も戻ったようだった。
「さて、この後はどうしようかしら」
当初の予定では蓮子の時間割に合わせて行動するはずだったが、今となってはそうするつもりもない。そうしてぽっかりと予定が空いてしまって、手持ち無沙汰になってしまった。
本来自分が受講するはずだった講義にも、一つだけは参加することが可能だったが、それもこの格好で参加することはどうにも気が引けてしまう。それ以前に一度休むと決めたその講義を、予定が崩れたから受けようと思いなおせるほど積極的に受けたいような講義でもなかったのだ。
今日は秘封倶楽部の集いもないので、こうなってしまうと本格的にすることがなくなってしまう。この後の空いた時間をどうするのか、私はそれを考えながら、とりあえずは食事で落ちてしまった口紅を直すことにした。
食堂の近くの化粧室は同じ目的の人間で混み合っているので、私はエレベーターを使って別の階まで足を運んだ。時間の余っている私としては、これくらいのことは特に問題とはならない。それに、友達同士で喋りながら鏡の前で口紅を直している人たちを待つよりも、結果としてこの方が早く済むこともあるだろう。
「まあ、早い遅いはこの際あまり関係ないのだけど」
つまり私が気にしていたのは、そこに他人がいるかどうかという部分だった。
私は他人の前で口紅を直したりすることがどうにも嫌いだった。それがどうしてかと訊かれれば、あれやこれやと理由をいくつか付ける事も出来るだろうけど、それは結局のところ後付けの理由でしかない。
だからどうして私が人前で口紅を直すことを嫌悪するのかという話になれば、その根本の理由は単に「なんとなく」であったり「気分的に」であったりと、つまりはそういうことになるのだ。
次の講義まではまだしばらく時間があるので、教室しかない階の化粧室は比較的空いているだろうという読みが私の中にはあった。しかし別に他人がいたからといって逃げるように場所を変えるようなことまではするつもりもないので、まあそこに誰かがいたのならそれは運が悪かったと諦めるのだけれど。
そんなことを考えながら私が化粧室に向けて足を進める、そのときだった――。
――その化粧室から出てきたのは、他ならぬ蓮子である。
それは全くの偶然だったのだろうと思う。だからそれ自体はどうでもいいことで、それゆえに重要なのはその事実ではなかった。それはつまりどうして蓮子がここにいるのかなんて、考えても仕方がないということだ。
それよりも私は、ふと蓮子の異変に気付く。こちらに向かってくる蓮子は肩に力が入った様子のまま、大股でわき目も振らずに歩いていた。そうして私に気付いた様子もなく、そのまますれ違う。
私はそんな状態の蓮子をよく知っていた。それはまさしく何かに腹を立てているときの蓮子だ。
だから私は考える。どうして蓮子がここにいたのかではなく、蓮子が何に腹を立てているのかを。
そして――嫌な予感がした。
蓮子は普段つけない口紅をしていた。それにも関わらず楽しそうというか、一切浮き足立つような雰囲気を見せなかった。
蓮子は「好きな人なんていない」と言った。その言葉に嘘はないと私は思った。
蓮子は口紅をつけている理由を「気分転換」だと言った。それは嘘だと私は思った。
これらの私の勘が正しいのだとして、だ。
もし私の考えていることが正しいのだとしたら――。
――きっとその口紅は、《あてつけ》だったのだろう。
それが《誰》に対するものなのかは分からない。しかし、それはすぐに分かることだった。
私は静かに、蓮子が腹を立てながら出てきた化粧室を見やる。
おそらくはそこに、その《誰か》はいるはずなのだ。
だからこそ私は、蓮子が立ち去ったその場所へ、ゆっくりと足を進めた。
7
「あはははは」
最初に聞こえたのは、品のない笑い声。
声のする方を見てみると、鏡の前に立っているのは三人の女性だった。
三人は私に気付いていないのか、それとも気付いてはいても私が自分たちに用事があるなどとは思っていないのか、こちらに目を向ける様子は無かった。
――さて、私はこれからどうするべきだろうか。
私の考えが正しいとするなら、私の望む答えを持っているのはこの三人だろう。
しかしそれには確証がなかった。もしこれが私の勘違いだとしたら、ここで踏み込むことは要らぬ火種を起こすことになる。
それは蓮子に迷惑をかける行為に他ならない――いや、それを言うならそもそも私の考えが正しいとしても、ここで踏み込んでしまえば蓮子に迷惑をかけてしまうのだけど。
私のただ知りたいという、そんなわがままで蓮子に迷惑をかけてしまうなんて、それは断じて避けるべきことだ。
けれど、もし仮にこの三人が私の想像するとおりに、蓮子を傷つけていたのだとしたら――。
――私は彼女たちを許すことが出来るだろうか。
大切な友人を傷つけられて、何もせずに見てみぬ振りをする?
そんなことが許されるのだろうか。
――私はそんな自分自身を、許すことが出来るのだろうか。
確証はない。けれど十中八九、彼女たちこそが蓮子の《敵》なのだ。
二つの相反する感情。その板ばさみの中で、私は考える。
蓮子は私の友達だ。だから蓮子を傷つけられたなら、私は許せない気持ちでいっぱいになる。
――私は?
もしかすると、この思考における主体は、結局私自身なのではないだろうか。
蓮子を傷つけられた、それは確かに許せない――私が。
それを見てみぬ振りする自分自身を許せない――私が。
そうだ。この思考の中には、どこを探しても蓮子がいないのだ。
蓮子を傷つけられたと思って、怒っているのは私ではないか。蓮子の迷惑を顧みず、ただその怒りを収めるために、私は「友達」という言葉を免罪符にしようとしているだけではないか。
本当に蓮子のためを思って行動するのなら、何よりもまず蓮子の気持ちを尋ねるべきなのだ。
それをせずして、どうして私が正しくいられるというのだろう。
本当に彼女たちが蓮子の敵だとして――。
――けれどそれと戦うのは、他ならぬ蓮子自身の役割に違いないのだ。
私は結局この苛立ちの腹いせを、たまたま目に付いた彼女たちで行おうとしているだけに過ぎないのだろう。
だから私は、その三人に何を言うこともなく、ただその場を後にした。
それはまるで、他人の前で口紅を直したくないからと、人のいる化粧室から逃げるかのように。
それでも私は、その三人の声と顔はしっかりと覚えておくことにした。
化粧室を出ると同時に、私は驚くことになった。
――血相を変えた蓮子が、こちらに向かって歩いてきていたのだ。
その蓮子の目的を私が考えるよりも先に、蓮子はただ無言で私の手を掴んだ。
「え?」
ふと私は間の抜けた声を上げてしまう。
「メリー、いいから黙ってついてきて」
蓮子は私をメリーと、確かにそう呼んだ。つまりこの変装はすでにばれているということだった。
私の手を引いて蓮子は走るような速さで歩き出す。
そのせいで私は引っ張られるようにして一瞬転びそうになった。
「ちょっと蓮子、廊下を走ったらあぶないわよ」
「両足が同時に地面から離れない限りは音速を出していても走っていることにはならないのよ」
私の抗議の声に対して、蓮子はそんなふざけたようなことを真面目な声色で言った。
そんな今の蓮子が何を考えているのか、だから私には全く分からない。
けれど状況からすればきっと蓮子は怒っているのだろう。そしてそれは無理もないことだと私は思った。
私は色々と負い目があるので、蓮子相手に強く出ることも出来ない。だから蓮子に連れられるまま、走るような速さで私は廊下を歩いていく。
――そうして辿りついたのは、小さな教室だった。
おそらくこの教室では次の時間に講義はないのだろう、そこには誰もいなかった。
私は蓮子に促されるままに適当な席に座り、そして蓮子はその前の席に後ろ向きで座る。
先に口を開いたのは蓮子だった。
「メリー……ごめん!」
「……え?」
私の口から疑問の声が漏れる。
どうして私が謝られているのか、それが私には分からなかったのだ。
「ごめんって蓮子、それは私のセリフでしょ?」
そうだ。まず謝らなければならないのは私であるはずなのに。
そもそも蓮子は何に対して謝ったのだろうか。それを知らないことには話にならないだろう。
「というか蓮子は、何に対して謝っているのよ」
だから私はそう尋ねた。
「何に対してってそれは、メリーに誤解させてしまったから」
――誤解?
それは一体何の話だろうか。
「メリーは気になったんでしょ? どうして私が突然口紅なんてつけ始めたのか――」
その通りだった。
これまでそういったことに興味を示さなかった蓮子が、どうして突然口紅なんてつけたりしたのだろうか。
私はそれが――そのきっかけが気になっていた。
だから私は変装して、蓮子を尾行までしてそれを探ろうとしたのだ。
けれど、そこにいたのは普段どおりの蓮子だった。それは口紅をつけている以外、私の知る蓮子と一切の相違はない。
その蓮子が普段と違う顔を見せたのは、化粧室から何やら腹を立てながら出てきたときだった。それはすなわち、「その中にいる人間」に蓮子が何やら不愉快なことを言われたのだろうと、あのときの私はそう判断した。
だから化粧室の中にいた三人は私にとって、蓮子を傷つける《敵》なのだと思った。
蓮子が口紅をつけたりしないことを、あの三人はからかうように陰口などを言ったのだろうと私は考えていた。
――蓮子が口紅をつけた理由はつまり、その三人への《あてつけ》なのだろう。
そしてあのとき、その《あてつけ》に対して、彼女たちはまた何かを言ったに違いない。
これが私の出した答えだった。
「だからそれが誤解なのよ」
しかしそれを蓮子は誤解だという。どうやら私の解答は間違っているらしい。
「……つまり、蓮子が口紅をつけた理由は、あの三人とは関係ないの?」
「関係がないとは言わないわ。でも直接の理由でもないのは確かね。言うならば遠因といった感じ、かな」
蓮子の物言いは存外に明るいが、しかしどうにもはっきりとしなかった。
私は蓮子があの三人から嫌がらせを受けていて、それを私に心配させないために私に黙っていたのだろうと、そんな自意識過剰なことを考えていた。
しかしそれが誤解だとするならば、正解は――。
――やはりその口紅をつけていることは、私には言いたくない理由だったのだろうか。
だとすればやはり、謝るべきは私の方だ。
「蓮子……ごめんね。蓮子が知られたくないと思っていることを私は暴こうとしたわ。親しき仲にも礼儀ありっていうのにね。友達同士にも、侵してはならない領域はあるって分かっていたのに……私はそれを、侵してしまったの。許されざる罪を、犯してしまったのよ。……本当に、ごめんなさい」
私は蓮子を裏切った。蓮子の信頼を踏みにじった。
私の知っている蓮子こそが本当の蓮子であって欲しいと、そんな自分勝手なことを願いながら。蓮子のことを一番大切な友達だといいながらも、実際に私がやっていることはこんなにも醜いのだ。
こんな私を蓮子はどう思うのだろうか。
蓮子はこんな私を、許したりするだろうか。
私は不安を胸に抱きながら、ただ蓮子の言葉を待つ。それは永遠にも感じられるような一瞬だった。
蓮子は困ったような顔をしながら、ゆっくりと口を開く。
「だからメリー、違うの。私がメリーに謝りたいのは、まさしくそのことなのよ。……あーもう、何て言ったらいいのか全然分からないけど――。あのね、メリー。私が口紅をつけた理由は、そうした方がもっとメリーに近づけるんじゃないかって思ったからなの」
その言葉の意味がすぐには理解できず、私は呆けたような顔で蓮子を見ていただろう。
――蓮子が私にもっと近づくために?
その言葉の意味を私は考えるが、どうにも頭が上手く働いていないようで、すぐに答えを得ることは出来なかった。
蓮子は続ける。
「メリーの考えたとおり、確かにあの三人は私に対してからかうようなことを言ったわ。『大学生にもなって化粧の一つもしないなんて』とかね。でもそんなことは問題じゃないの。私はそんなことでむきになって、あてつけるようなことをしたりはしない。でもあの三人が言った、あの綺麗な外国人と私じゃ釣り合わないという言葉は一理あるなって、そんなことを思ったりしてね――」
――私と蓮子が釣り合わない?
何と馬鹿げた物言いだろうかと私は思った。
そもそも友人関係とは、蓮子が私を友達だと思い、そして私が蓮子を友達だと思えば、それだけで釣り合うものなのだ。
だからあの三人の物言いは結局のところ、ただの言いがかりにすぎない。
しかし――。
――蓮子はそれを、一理あると思ったのだという。
私はその事実に、少しの違和感を覚える。あの頭のいい蓮子が、どうしてそんな考え方に共感するようなことがあるのだろうか。
「釣り合うも釣り合わないもないでしょ? だって私と蓮子は、そんな打算なんかでこの関係を結んでいるわけじゃないのだから」
「それはそうだけど、でも……」
蓮子はそこで言いよどむ。さっきからそれは、どうにも蓮子らしくない。
言いたいことがあれば、はっきりと真っ直ぐに言うのが蓮子だ。私に遠慮するなんて、それは普段の蓮子の積極性からは考えにくいことだった。
しかし、それでも一つだけ思い当たる節がある。
何故なららしくないのは、私だって同じだったのだから。今日の私の行動は蓮子からしたら、きっと私らしくない行動に思えただろう。だから蓮子が蓮子らしくないのは、もしかすると私と同じような理由なのかも知れない。
――蓮子も私と同じように、心が不安に支配されていたのだろうか。
そんなことを考えながら私は蓮子の言葉の続きを、ただ静かに待っていた。
そしてやがて、蓮子は意を決したように口を開く。
「メリーともっと色々なことを一緒に話したいなって、そう思ったから――」
「………………へ?」
――私と、何だって?
「だから、私も化粧とかすればメリーと化粧の話とか出来るようになるかなって……あーもう恥ずかしい! やっぱ今のなし、だから忘れてよ」
そう言った蓮子は恥ずかしそうに私から目を逸らすと、椅子を正しく座りなおして机に突っ伏すようにした。
一体、何なのだろうか――この、今私の目の前にいる、最高に可愛らしい生物は。
蓮子が口紅をつけた本当の理由。
それが、まさか私との「共通の話題作り」のためだったなんて。
「ねぇ、蓮子」
――つんつん。
私はその背中を指でつつきながら声をかける。しかし蓮子は反応しない。
私には蓮子の気持ちが理解できた。それは私と同じ《不安》だった。
私にとって蓮子は大切な友達である。それこそかけがえの無い、唯一無二の存在だった。
だからこそ蓮子と離れたくはなかった。蓮子が私から離れていくことが怖かった。
私は蓮子が口紅をつけたことで、私の知っている今までの蓮子が、どこか遠くに行ってしまうようで不安だった。
蓮子が私の家に遊びに来て、特にすることもなくダラダラと過ごすとき、二人は同じ部屋で別々のことをしていることがある。たとえば蓮子が学術書を読んでいる横で、私は化粧品のカタログを読んでいたりする。
私はそんな二人の、沈黙を苦にしない関係に安心を覚えていた。
けれど蓮子は、心のどこかでその関係を不安に思っていたのだろう。自分が興味のない化粧品などに興味を示す私に、どこか距離を感じてしまったのかも知れない。
そしてその不安を煽るように、あの三人の言葉は蓮子の心に作用した。
――ああ、そういうことなのか。
ここに至って、私はようやく蓮子の謝罪の意味を理解した。
蓮子は最初から、ただ私に見せるためだけに口紅をつけたのだ。
その不安な心の色を口紅で隠すようにして、あわよくばその不安が解消出来たらいい、と。
蓮子が「気付いてくれたら嬉しい」と思えば浮き足立つはずのその口紅も、「気付いてくれなかったらどうしよう」といった思いでは、その心には結局不安しか芽生えない。
そして結果から語れば、その行為は私の不安を煽っただけだった。
だから蓮子は謝った。
蓮子は、蓮子自身の行為によって私を尾行という行動に走らせてしまったと思っているのだ。
――全く、宇佐見蓮子という人間はどこまで人が良いのだろう。
私は蓮子が思うような、そんな綺麗な人間なんかでは決して無い。事実、私は蓮子のその不安に気付いてあげることも出来なかった。ただ蓮子が与えてくれる安心を享受するだけで、私は蓮子に何も与えてあげることが出来ていなかったのだから。
だとすれば、やはり私は蓮子に謝らなければならない。
私はそんなことを考えながら席を立ち、そのまま歩いて蓮子の隣の席に座る。
「蓮子、ごめんね」
私がそういうと、突っ伏していた蓮子は顔を上げて私の方を見る。
「メリーは何も悪くないわよ。あれは私が――」
「だから、蓮子の寂しさに気付いてあげられなくて、ごめんなさい」
「……っ!」
私がそう言うと、蓮子は突然私に飛び掛るようにして抱きついてきた。
「れ、蓮子?」
「やっぱりメリーが、私にとって最高のパートナーだった!」
蓮子が心の底から嬉しそうにそう言ってくれて、だからだろうか、私もつい嬉しくなって蓮子の背中に手を回して軽く抱きしめ返した。
「それは私も同じ気持ちよ。やっぱり私の隣には蓮子がいてくれないと、私は安心出来ないもの」
それが私の素直な気持ちだった。
蓮子が私から離れていくことに大きな不安を感じるのと同じくらい、蓮子が隣にいてくれることに私は安心を覚えるのだから。
結局今回の話は、私と蓮子の距離感が不確かだったことからくる、互いの不安が発端だったということになるのだろう。
蓮子は私ともっと近い関係になりたくて口紅をつけた。
しかし私はその蓮子の変化に戸惑うばかりで、蓮子の感じていた不安に気付いてあげることが出来なかった。
蓮子は私の方に一歩踏み出してくれたのに、それを見て私は蓮子が私から離れていくような感覚に襲われた。
親しき仲にも礼儀あり。友達関係であっても、わきまえるべきことは多々あるだろう。
けれど私たちは二人。
二人で一つの《秘封倶楽部》。
私たちはその意味を、今回のことでやっと理解したのだった。
8
あれからしばらくして、結局蓮子はその日の残りの講義をサボることにした。
そして今は私と一緒に帰る道すがら、どこに寄り道するかを二人で相談しながら街を歩いている。
「せっかく蓮子が話題作りのために私に歩み寄ってくれたんだし、化粧品でも一緒に見に行く?」
私はそんなことを蓮子に提案した。
「それはいいんだけど、メリーさ……もしかしてその格好気に入ったの?」
その格好とはつまり尾行用の変装のことだった。
さすがに着替えは持ってきていなかったので無理だけど、ウィッグやカラーコンタクト、伊達眼鏡などは簡単に取り外せるものである。
それを私が外さないことに蓮子は疑問を感じたのだろう。
「あはは、ばれちゃったか。でも蓮子だってその口紅、気に入ったんでしょ?」
そうでなければ、私に見せるための口紅を今日もつけている理由が説明出来ないのだから。
「気に入った、のかな?」
しかし蓮子の反応は何とも曖昧だった。
もしかして――。
「――せっかく買ったのにもったいなくて、とか言わないわよね?」
私は少し冷ややかな目で蓮子を見ながら訊ねた。
「いや、そういうわけじゃないけど……何というか、この口紅は私に似合ってないような気がするのよね。店で見たときはこれだって思ったんだけど、実際につけてみると印象が違うというか」
「うーん、確かに蓮子には少し派手かな? 蓮子にはもっと甘い色の方が似合いそうだけど……そうだ、それなら今からグロスを見に行こうよ」
ちょうどいいとばかりに、私はそう提案したのだけれど――。
「グロス? ……って何?」
――蓮子のその発言に出鼻を挫かれた。
リップグロスを知らないなんて、本当に蓮子は今まで化粧品に興味を持っていなかったのだと認識させられる。スキンケアなんかは毎日しているようなのに、どうにも不思議な話だった。
しかしそんな蓮子が私のために口紅をつけてくれたというのは、何とも嬉しかった。
「グロスっていうのは――というかそういうことは店で全部説明してあげるから、とりあえず行くわよ」
私はそう言って蓮子の手を掴むと、人目もはばからずそのまま手を引いて歩き出す。
「ちょっとメリー、走ったら危ないって」
蓮子がそんなことを言うものだから、私は蓮子の方に向き直り、いたずらっぽい笑みを浮かべながら口を開いた。
「私の大切な人が教えてくれたわ」
「教えてくれたって、何を?」
「両足が同時に地面から離れない限りは音速を出していても走っていることにはならないのよ」
私がそう言うと、蓮子はどこか呆れたような顔で苦笑いをした。
そんな蓮子の手を引いたまま、私は目的の店へと歩き出す。
そうしながら私は自分自身の心が、どこか浮き足立っているのを感じた。
それはきっと嬉しいのだろう。
――二人で楽しめることが一つ増えたのだから。
でもお話は好みです。口紅とかね、日常のちょっとしたワンポイント。これは良い蓮メリ。文章も読みやすかったです。
読んでて良い気分になれました
蓮子かわいいなぁ
読みやすい文章で、心理描写も丁寧に書かれていたので、最後までだれることなく読めました。
依存、よりはもっとウェットでなく、しかし強固な関係に思えました
次も楽しみにしています。