黄昏も過ぎると、月が出てくるわけだ。
煌々と輝くそれは美しく、雰囲気によっては感嘆の息も漏れることがあろう。
だが、よからぬ輩はこれを嫌うらしい。それはつまり、月は太陽の写し身だから、悪事を明らかにされてしまうからだ。
なるほどと思うが、今回においては単なる御託である。後ろ暗いところのある奴は、月を嫌うと。
「つまり、月見酒を楽しめるのに悪い奴はいないってわけ」
萃香はそうまとめて、酒を差し出した。
一つには、悪いようにはしないと言ってるのだろう。だが、この誘いを断るのは悪い奴で、悪い奴がどうなるかはご存じ、という流れでもある。
天狗である自分に、これは断れない。
そう、わかっている。わかっているのだが、容易に"云"とも言い辛い。
そういう事情があるのだ。だから困っていた。
「じゃあ、月を砕く鬼はどちらかといえば悪い奴ってことで、追い払っていい?」
思い切って、拒絶も試みる。
「おっ、いいね。天狗はどいつも世辞ばっかりで飽き飽きしてたところだ」
「いや、だから……」
既に、暖簾に腕押ししている感はあれど、弁解は続ける。
生きていれば月を楽しむ余裕が無いときだって、あるものだ。
たとえば現在の自分。新入り複数が仕事にひどく手間取って、その尻拭いにてんやわんやである。追っている事件の新聞づくりも急いでやらなくてはいけない。常識的に考えて、酒を飲んでいる暇などあるわけが無いのだ。
「だから正直言って、今は酒の誘いとかマジ勘弁なんですけど」
「いいね、面白い。今日の酒の相手はお前に決めた。なに、悪いようにはしないから安心しなって」
「くっ……」
しかし、駄目。話がまるでかみ合わない。
悪いようにしないとはなんぞや。
そもそも、こんな場所に前触れも無しに鬼が現れた時点で迷惑千万。その場で天狗を捕まえて、酒につき合わせようものなら、悪くしないという言葉も空しくなる。
個人的には、手段を問わずに断ろうと思っていた。
「いや、だから言ってるように……」
「もう決めたから。観念しなよ」
だが、現実だとそれも厳しい。
「おーい、こいつ貰っていくからなー」
ふと周囲の様子を見れば、同僚達は見て見ぬふり。新入りは委縮して何も言わず。
大天狗は、お前が一人でなんとかしろと無言で言っていた。
これでは、鬼相手に何ができようか。いや、もはや鬼に関係なくアウェーのど真ん中だ。同僚の一人が、『はたて、お前に任せた』とか遠くで言ったのもまたいやらしい。
「って、あれ? お前、はたて? この前、私に取材しに来た、あのはたて?」
「あー、うん、そうだけど……」
「なんだよ、知らんぷりなんて感じ悪いぞー。そんな髪の毛までおろして」
とうとう、こちらの正体までバレてしまった。せっかく顔まで隠していたのに。
同僚の余計なひと言さえなければ、強引に弾幕ごっこで追い払うこともできたかもしれない。やり過ごせたかもしれないのに……。
「ハァ……」
だが、こうなっては仕方ない。自分とて、他の同僚が絡まれたときは見て見ぬふり、似たようなものだった。所詮は五十歩百歩、溜息こそ漏れるが、恨むのも筋違いである。
ここは抵抗を諦めるのが道理。などの考えも案外スッと飲みこめた。
「それじゃ、とりあえず外に出ようか。あんまり邪魔しても悪いし」
「………」
だが、これは周囲の空気を読んだわけではない。
その証拠に、敗北感のような苦々しい気持ちは消えないものだ。
いざ自分が遭ってみてわかった、仕事を邪魔されることへの苛立ち。それを躊躇せずやる、鬼の理不尽さ。今になって、鬼も堂々と追い払えるように職場環境を改善しておけば良かったなどと思う。一応のベテランの一人として、できなかったとは思わない。
指導中の新入りにとっては良い迷惑だろう。強者にはひとまず媚びるなんて、悪習もいいところだ。そういうわけで、外に出てからまず当人に文句を言ってみる。
「あんまり天狗の縄張りを荒らしてもらうと、困っちゃうんだけどなー」
「へぇ、天狗の癖に偉そうなことを言うじゃん」
すると、頭に鈍い衝撃があった。
拳が飛んできたのだ。皮一枚でよけたが、風圧で頭が弾かれた。
グラグラする頭を押さえて、文句の続きを言おうとするが……。
「ま、まぁ、今回はサボりの良い口実にはなったかも、だけどー」
「そうそう、あんまり仕事仕事で生きてもねぇ。たまには息抜きしないと」
なぜか、無意識のうちに折れていた。
「あ、今のは……」
「ん? どうかした?」
だが、訂正しようにも鬼に二言は言い辛い。
すでに、萃香はこちらの態度に満足した様子だ。
結局のところ萃香は、こちらの文句は天狗が底意地の悪さの一部を披露しただけのものと、受け取ったようだ。意地をつき通さず、吐いただけの文句に意味は無かろう、と。たしかに行動が伴わなければ言葉に価値は無い。
しかし、こんな折れ方で、腹に一物も抱えていないわけがない。
自分が見捨てた新入りを、あっさり忘れるわけもない。
だが、それでも萃香に対してはあまり強く当たれない。ここで勝負を挑んで、打倒して帰ろうにも踏ん切りがつかない。一度折れてしまったからには萃香に付き合うのも仕方ないと無意識に感じているのか、なんとなく流されている。
「そうそう、つまんないことで意地張っても仕方ないし」
「………」
「なんか言ったら?」
「やっぱり帰っていい?」
「駄目」
最後に小さな抵抗もしたが、それには萃香に関節技で返され、完全に折れるに相成る。心理的にも、物理的にも鈍い音が響いた。プランプランと腕が揺れる。
「月はいつも表向きなのになぁ……。妬ましい」
「そんな、どっかの地底の妖怪みたいなこと……」
折れた腕をまっすぐに治すと、空を見上げた。
もはや、この葛藤にまともに向き合えば無事では済まないらしい。
妙な諦めというか、現実逃避的な考えが胸を満たしていた。
「なんか気になることもあるけど。まぁ、気楽にまずは一杯、やりなよ」
萃香が酒を注いだ碗は、こちらの折れてない手に渡った。
受け取ったからには飲むしかないが……。
「うわ、不味……」
だが、それは酔うには良いが、味の方は最悪に近い酒だった。
鬼の酒にしては意外なことだ。しかし、今の心中にはお似合いの酒に思えた。
月見に良い場所を探すという萃香に連れられ、後ろを歩いてしばらく。
山の麓まで下り、河原で岩の上に陣取ったところで萃香は落ち着いた。
「うん、此処が良い。いろいろ萃め易そうだし」
「代わりが来たら帰っていい?」
「駄目に決まってるじゃん」
三度目の攻防。急いで治した腕を全力で動かして、今度は骨折を免れる。
「なに、そんなに帰りたいわけ?」
「そう言ったら帰してくれるの?」
「いや、帰さないけど」
「じゃあ、そっちの酒も不味くして、さっさと解散にするのが手っ取り早いじゃん」
「天狗は性格が悪いね」
「はぁ? 力しか能が無い鬼とは違うってことだしー。それを性格が悪いとか、わけわかんないしー」
背負うものを失った後の方が強気になれるとは、皮肉なことである。
もっとも、半分見捨てられたような同僚達の元に帰ることにモチベーションが上がらないのはある種の必然。単純に、腕を折られた恨みで萃香への嫌がらせに終始している方が気楽にもなろう。今は、気分は暗澹としつつも、どこか吹っ切れたところがあった。
「だいたい、さっきのアレって何? 悪くしないとか言ってたけど、私ってば腕折られちゃったんですけど。もしかして、腕を折るのも鬼なりの親切って奴? 異文化すぎて理解できないわー」
「お前、なにげに神経図太いのな……。とりあえず、一回黙っときな!」
また萃香の拳が飛んできたので、今度は避けるだけでなくカウンターも合わせてみる。
けれど、寸前で気付く。萃香の顔面がガラ空きである。
あまりにぴったりのタイミングで、もう拳は止められない。結果、十分な手ごたえと共に、萃香は吹っ飛んだ。弾丸のように打ち出された彼女は河原を派手に転がってから、岩にぶつかって止まる。
これでは遊びで済まされない。自分でもやりすぎと思ってしまう有り様だったが……。
「くぅ……。やっぱり天狗の拳は効くなぁ……」
だが、それすら萃香の思い通りだったらしい。すぐに起き上がった彼女は、折れた鼻から血を垂らしながらも笑っていた。それだけで言いたい事はわかる。
「これで、おあいこってことでいいでしょ?」
強引だが、嫌とは言い辛い。言うとしたら、それはわがままである。
「えっと……。鼻まで折っちゃったけど、治せる?」
「大丈夫大丈夫。こんなのかすり傷じゃん?」
「まぁ、そうよね……。私の腕ももうくっついてるし」
ペキペキッと音を立てて、あっさり鼻を治した萃香はしたり顔だ。
「で、まだ帰るって言う?」
「いや、新入りは他の連中が世話してくれてるだろうし……。 まぁ、後で私が皆に頭下げればいいって感じ、かな。頭下げるのもホントは嫌なんだけどさ」
「そのぐらい我慢しなって」
「あんたが言うな。いや、もういいや……」
萃香の思い通りというのも気に食わないが、ここは一歩譲るとした。ようやく落ち着いたところ、特別な理由も無くなると、場をひっかき回すのが不粋に思えてきた。
「んじゃ、改めて一杯いっときな」
「うん、どうして?」
「さっき、私の酒が不味いとか言ってただろ。聞き間違えだと思うから、確認だ」
差し出された碗を、また受け取る。
なみなみと注がれたそれを、一気に飲み干してみるが、やはり一言。
「……なんか、いまいち」
「なんだい、こんなに良い月が出てるのに、そのうえ私の酒がいまいちだって?」
萃香は不満そうだが、嘘はつけない。
せめて取り繕うように、あんまり美味しく感じない理由を挙げてみる。
「やっぱり、この二人じゃいまいち盛りあがらないし。お酒ってそういうものじゃん?」
「あぁ……。それじゃあ、いろいろ萃まれば、もっと良い返事も聞けるってわけだ」
それで萃香もある程度は納得したらしい。
そして、萃香はそう言うと、ふいに空を指差す。
その先には、三人目らしい人影があった。近づいてくるほどに姿がはっきりと見える。白黒ツートンの烏天狗で、友人の射命丸文である。
「はたてー、鬼に連れ去られたって聞いて助けに来たわよー」
手を振ってくるので、それに応えていると萃香がもう一杯、酒を差し出してくる。
「もう一杯。で、味はどう?」
「うーん、微妙。あ、でもさっきよりは美味しいかも……」
それだけだが、三回飲んでみてようやくわかった。
この酒は、どうやらそういうものらしい。鬼の酒とは、毎日飲んでも飽きないように工夫がされている。この酒の場合、そのときの気分次第で味まで変幻自在のようだ。
もちろん嗜好品としては外道だろう。気分でそんなに味が変わるなど、離れ業にも程がある。だが、個人的には悪くないとも思う。
そう言うと萃香はニヤニヤ笑い、満足そうに頷いた。
「あれ、はたてあんまり困ってない?」
「あぁ! 待って帰らないで!」
それはさておき、文が帰ろうとするのでそっちを引き留める。
仲間ができるという希望から、一転してまた一人きりになるのは精神的に辛い。
「まぁ、文もせっかく来たなら一杯やってきなよ」
「それもそうですね。そのぐらいの駄賃は貰っておかないと気が済みませんし」
説得には、萃香の助けもあって、文はなんとか腰をおろしてくれた。
「新しい酒にしてみたんだけど、味の方はどうだい?」
文は酒の器を受け取ると、一気に中身を煽る。
ちなみに、『ぷはっ』と息を吐いたときの表情は、見るからに幸せそうだった。
「んー、なかなかですね。ホッとする味わいで、個人的にはかなり好きですよ」
「ふんふん、なるほどねー」
「ん?」
そうして文はなんとか此処に留まってくれたが、萃香がニヤニヤするのが気になる。
一人で妙なことを呟いて、いやに機嫌良さげだ。
「はたて、ちょっと離れなさいよ。暑苦しい」
「あ、ごめんごめん」
無意識に手首を捕まえていた文に、迷惑そうにされたのでまずはそちらに謝るが。
「萃まるのは、今日はあと二人ってところかな。酒はどんどん美味しくなるよ」
再度そちらを見ても、意味ありげに微笑む萃香の奇妙な感じは消えていない。
どこか不安を感じるのは、果たして気のせいか。文から離した手が少し寂しかった。
「そういえばはたて、あんたが追ってる事件って結局どうなったの?」
三人で、一つの器で酒を回し飲みしてしばらく。
文がふとそんな話題をふってきた。
「そういえば、なんか新聞づくりで忙しいとか言ってたっけ……」
「あー、例の殺人事件ね」
「へぇ、殺人?」
そして意外な事に、萃香がそれに喰いついた。
こんな話に興味を持つタイプだとは思わなかったが、それも偏見だったらしい。
「ねぇ、殺人事件ってなんのこと?」
「話せば長くなるんだけど……」
「聞きたい聞きたい」
萃香の望みとあっては、ここは話すべきだろう。
文の方も確認するが、特別に何かを言う様子は無い。
そこで、おもむろに話し始めるのだが、先に重要なことを断っておいた。
「あれは基本は、起きるべくして起きた事件なのよ」
最初にあったのは、とある家の叔父と甥の、遺産相続の歪みである。
人里では通常、家長が亡くなったとき、その長男が新しく家長となり、その遺産を相続するのが決まりである。ところが、このときは家長がかなりの早逝だったので、話し合いによって、故人の弟、新しい家長との関係でいえば叔父にあたる人物が、遺産の半分を受け取ることになった。もちろん、話し合いそれ自体はとても有意義なものだった。真剣な交流を経て、年少の家長は叔父と良好な関係を築くことができたのだ。
ただ、話し合いから数年後のことである。あるとき家長の方で、幼い子供が病気になったときに薬代に困って土地の一部を手放したのが、歪みの顕れるきっかけになった。竹林の薬屋もまだいなかった頃の出来事で、代償は高くついた。結果として、子供は助かったものの家長の一家が食べていくには土地が足りなくなってしまったのだ。
家長でありながら、一家は困り果てた挙句、叔父に助けを求めるようになった。だが、叔父もそれを仕方ないと受け止めて、そう悪くはしなかった。頻繁に助けの手が差し伸べられるようになり、家長の一家の生活も安定したのだ。
しかし、そんな家長と叔父の関係を眺めて、確執を作ってしまったのが子供達である。
叔父の家の子供が、いつしか家長の子供を下に見るようになったのだ。それどころか、ついには叔父の子供は一方的に、家長の子供に暴力を振るっていじめるようになった。
「そんな風に力関係がひっくり返った原因は、そもそもの遺産相続の話に戻る、と」
「まぁ、これだけならまだ諸行無常で済ませられたんだけどね。問題はいじめっ子の方が調子に乗りすぎたことくらいかな」
その人間関係の崩れは、最終的には叔父と家長自身にまで累を及ぼす。
ある日、家長が襲われたのに理由はほとんど無かった。供述によればいじめられっ子が『自分達の事はともかく、家長のことまで馬鹿にするお前達は恥知らずだ』と虚勢を張ったのにムカついたなどという話だった。犯人は叔父の子供達だったのだ。
叔父の子供達は遊び半分で、家長が一人のときに背後から襲いかかり、頭から血を流すほどの怪我を負わせた。それで一日、家長は意識を朦朧とさせることになったが、そうして子供達の抑えがなくなったときに真の事件は起きた。
「いじめっ子の一人が殺されたの。犯人は家長の子供達で、父親に代わってとか、いろいろ思うところがあったらしいわ」
「それはそれは、よくやったって言いたいね。いじめっ子は因果応報だ」
凄惨な話のはずが、萃香が苦笑いする。
まぁ、人間を襲って退治されてを繰り返してきた妖怪なら、誰もが似たような反応をするだろう。恨みを買えば、いつか跳ね返って来るのは必然なのだ。
とはいえ、それは一部の妖怪の常識である。
「けど、人里じゃそんな話は無いみたいねー。まぁ、いじめられっ子の方がそのまま調子にのってボヤ騒ぎまで起こしてるから、仕方ないとも言えるけど」
「ん? どういうこと?」
事件は、状況からして起きるべくして起きたのだ。
しかし、人里の人間はその状況を問題視するより、他のことを第一に考えた。里の権力者達の話し合いに限れば、起きた事件の責任を誰に負わせるのかに焦点が当てられたのである。とにかく早急な判断が、里の治安維持の観点から求められたのだろう。
その結果として、事件からわずか半月で、情状酌量が一切無い沙汰が下された。
「子供達は首吊り刑。家長夫妻は監督責任がどうとかで、土地没収のうえ村八分だって。わりとふざけた沙汰だと思わない?」
「……なんでそうなったの?」
「殺人、里全体に延焼する可能性のある放火未遂、それだけで十分すぎる理由になるって言い分」
文面のうえでは、たしかに間違いではない。
だが、人心をまったく考慮していない。あまりにあんまりである。妖怪でもそう思うのに、どうして人里の人間は何も言わないのか。
そんな風に、実際に道行く人に尋ねたこともあった。
しかし、返ってきた言葉もひどいものだった。人々の意見はどれも結局は一言にまとめることができて、最初から答えが決まりきっていたのがわかった。
「上がそう言うなら仕方ない、ってさ」
そのときは呆れて文句も言えなかった。
無関心にも程があるだろう。
「でも、天狗だって似たようなもんでしょ?」
「絡み酒を見て見ぬふりはともかく、仲間が殺されそうなら、そんなことないわよ。そんな温いこと言ってる奴がいたらぶん殴ってやるわ。文もそうでしょ!?」
「へ? あ、まぁ、そうね」
若干の温度差はあるが、文も同意してくれた。
いくら上意下達の組織とはいえ、越えてはいけない一線は守るものだ。
と、新聞では組織の構成員として、自分の意志を持つことの大切さを訴えようと思うのだ。
「以上!」
これで、話の大筋は言い終えたことになるが、ふと見ると萃香がまだ苦笑いしている。
「なによ……」
「なんていうか、青臭いねぇ」
「青臭いって、これがフツーだと思うんだけど」
「んじゃ、それが普通かどうか、聞いてみようか」
そういって指差した先には、再び人影が現れる。
どうやら四人目らしい。ただ、それは意外な人物であった。
通りすがりだろうか。
「あやや、これは珍しい人が」
「こんなところで酒盛りか。鬼と天狗が?」
「えぇ、月が綺麗ですから。それより慧音さんはこんなところに、何か御用ですか?」
この酒盛りの場には似合わない。人里で寺子屋教師をしている半獣がそこには居た。
文がひとまず相手をしているので、離れたところから様子だけ観察するが……。
「いや、気晴らしに散歩をしていたんだ。あと、盗み聞きしたわけじゃないが、面白そうな話が聞こえたんでな」
「それって、もしかしてはたての青臭い主張のことですか?」
しかし、話の中心はどうやら自分らしい。
慧音の視線がこちらを向いたので、挨拶だけはしておく。
「まぁ、そこに座ってまずは一杯やりなよ」
萃香はいつもの調子で、酒を勧める。
ところが、慧音は少し眉を顰めるとそれを断った。
「それは、酒なのか? すまないが、臭いからして私には駄目そうだ」
「ふぅん、よっぽど気疲れしてるわけだ」
「ん?」
「そんな暮らしじゃ、そのうち倒れるかもね。身体は大事にしないと駄目だよ」
慧音が怪訝そうな顔をするので、酒のことを説明しておく。
慧音は、また変なものを作ったものだと苦い顔はするが、納得はしたらしい。
「基本は美味しいはずなんだけどねー」
「なんだ、私達が悪いとでも言うのか?」
「そうは言わないけど、そんな気持ちじゃ、何やっても楽しくないんじゃないの?」
「誰でも気を病むことの一つや二つはあるだろう。なぁ?」
「へ? 私?」
いきなり話を振られたもので、少し焦る。
慧音のいう気を病むことといえば、先ほどまで話していたことだろうか。
たしかに、例の理不尽な沙汰には、第三者としても嫌な気分にはなる。
「とはいえ、最悪は力ずくって手もあるじゃん?」
「力ずく?」
「一家丸々修験道の山伏にするって体で連れだして、沙汰も糞も無くしちゃうとかさ」
「いや、それはどうなんだ?」
「井戸端会議に一石を投じるにも、人里の無気力具合からして、このくらいは必要だと思うのよ。だいたい、罪人が出家で罰を免じられるなんてよくある話じゃん」
このように、打つ手が無いわけでもないのだ。なら、気を病むのはまだ早いだろう。
慧音には悪いが、そう言っておく。楽天的かもしれないが、そう考えて自分は慧音よりは酒を美味しく飲めているのだ。
案の定、慧音は予想外といった様子でこちらを見ている。
「今、何と言った?」
「ん? いざとなったら力ずくもありだって」
「違う、最後に言った方だ」
「罪人も出家で罰が免じられる?」
「それだ」
だが、それは自分が予想したのとは違う、ポジティブな表情だったらしい。
そういえば、人里の近くには寺ができたのだ。それも天狗まがいの修験道ではない奴だ。だが、かつての無縁所のように容易く逃げ込める場所かどうかは知らない。
「いや、それでも寺だ。まだ幼い子供に、やり直す機会も与えずに首を括らせるなんてことを見過ごすはずがない」
「なら、私が一っ飛びして聞いてきますね。そういう出家は"あり"か」
言うが早いか、文が一人で飛び出していく。
萃香は再び、慧音に酒を勧めているが……。
「……辛いな。だが、切れが良くてなかなか美味い」
「もう一杯いっとく?」
「いや、酔っぱらってはいけないからな。これでやめておこう」
「じゃあ、はたて。残りはお前が飲みな」
酒瓶がまるごとこちらに渡されて、萃香は自分の瓢箪から飲み始める。
仕方なしにちびちび飲んでいたが、文もほどなく戻ってくる。
答えは、文の表情を見ただけでわかった。慧音もそれに合わせて顔を綻ばせる。
「で、はたて。味はどうよ?」
「ん……。まぁまぁ、かな」
「そうかい。んじゃ、今日はもう解散ってことでいいや」
すると、萃香がいきなりそんなことを言いだす。
どんな風の吹きまわしかと思ったが、冗談でもなさそうだ。
「あれ、もう一人来るんじゃなかったの?」
「あいつは来ないってさ。あぁ、器に一杯だけ注いでくれる?」
そう頼まれたので、手にあった器に酒を注いで、萃香に渡す。
萃香がそれを掲げる。すると、器はふっと空気に溶けるように消えてしまった。
それだけで、もう一人が誰であったのかは予想がついたが……。
「なんだい、酒の感想は無しか」
つまらなそうにしている萃香をよそに、耳元で小さな声がした。
『今夜は月が綺麗ですわね』
当然のように、急いで周囲を見渡しても声の正体は見つからない。
声の主は想像がつくが、何がしたいのやら。
とりあえず空を見上げてみるが、今日はまだ月を楽しむ余裕は無いのであった。
日が昇ると、刷り上がった紙束を抱えて人里を駆け回る。
そこらの家に、花果子念報と題された号外記事が投げ込まれる。
「号外だよー! 人里から初めて命蓮寺に出家するのが、首吊りの沙汰が決まっている子供達! 命蓮寺が受け入れを決めて、沙汰は翻るのか!?」
内容は慧音から聞いた限りだが、命蓮寺は二つ返事で出家を認めてくれたそうだ。
また、昨日の文はついでに件の一家のところにまで立ち寄り、どうするかと問うたそうである。そして、子供の命が助かるのであれば、両親の言うことなど決まっていた。
「事の訴えを起こしたのは、寺子屋教師の上白沢慧音先生! 幼い子供が、なんの事情も酌まれることなく殺されるのを見ていられないという話だ!」
そういう事の経緯を声に出しつつ、号外を配り歩くのだが、調子は芳しくなかった。
そこそこの人は集まる。だが、刷った枚数と比べれば微々たるものだ。小脇に抱えられる程度の号外がいつまでも無くならないといえば、その程度は知れる。
だが、そう言っても、やめるわけにはいかないのが現実だ。むしろ、数人でも号外の中身を見に来てくれるのがありがたい。
今も一枚、取りに来てくれる人がいた。
「あら、この新聞大事なことが抜けてるわよ?」
「え……?」
妙にヒラヒラした服を着た、どうやら妖怪のようだが。
「妖怪の賢者、八雲紫はこの方針に賛成だってこと。里を守る妖怪の大事な言葉が抜けたら、記事に重みが生まれないじゃないの」
「えっと、八雲紫のそんな話は聞いたことがないんだけど……」
「だったら今聞いたってことでいいじゃない。私は里長達との折衝で忙しいんだから、あんまり手間取らせないで欲しいわ」
この話ぶりだと、目の前の金髪の女が八雲紫のように聞こえる。
そういえば、昨日聞いたのと似た声であるが……。
「私はそれで正しいと思って、きちんと動いてるんだから。言葉だってきっちり伝えてくれないと」
「動くのが遅すぎない?」
「制度改革とかは、下の訴えがないと上も動きづらいのよ。知ってるでしょ?」
ひょっとすると、本物なのだろうか。その割には見た目が幼すぎる気がするが……。
「あやや、紫さんじゃないですか。こんなところで何をされてるんで?」
そう思っていたところ、ツッコミのように現実を突きつける声があった。
振り向くと、自分と同じように新聞の束を抱えた文がそこに居る。
「てっきり、忙しくしているとばかり思ってたんですが?」
「今は会議の休憩時間よ。すぐ戻るわ」
「それは大変結構です。私もデマを流したとは思われたくないので」
そう言って、文が自分の新聞を広げて見せる。
号外と書かれた記事の一面には大きく、慈母のような温かい雰囲気の女性、命蓮寺の聖白蓮の写真がある。そして、おそらく使い回しだろうが、八雲紫が真面目に仕事をしている様子が小さな写真で端っこに載っている。見出しには、『未来の子供の為。人里の制度改革は成るか!?』とある。
イメージ先行だが、人間の子供を救うため、人里の制度改革に取り組んでいる人々がいることがよく伝わって来る。紙面の下に、慧音主催とした、署名を募る欄を設けているのもあざとい。
「あんまり政治色が濃いのもアレですけど、はたてだけに任せておいてもどうせ失敗するでしょうからね」
「なっ……!」
「そうみたい。でも、貴女のだけだと私に都合が良すぎるから、二つ足して割れば丁度良いと思うわ」
紫がそう言って、どこかへと消える。
すると、まるで紫の言ったことを証明するように、文の号外を片手に持った里人が寄って来る。いわく、文は都合のよいことばかり言ってるが本当にこれに署名して大丈夫なのか、と。文の新聞のなんとも信用のないことだ。だが、おかげでこちらの号外も捌ける。
はたてもそれほど客観的な記事を書いたとは思わないが、ひとまず子供達が首吊りの沙汰を受けるに至った経緯から述べる。
「普段からのいじめに加え、ついには父親にまで伸びた悪意を払おうと、子供達は立ち上がる! しかし、未だかつてない感情に駆られた子供たちを、正しい方向に導く大人はそこに居なかった! この事件の根本にあるのは、いったい何なのか! 気になる人は読んでみてちょうだい!」
文が付け足すように、ついでに話の方向を誘導するように声を上げる。
「子供達を凶行に走らせたその感情は、元を正せば父親への愛情でした! 元が愛情であるなら、それが正しく導かれたなら、こんな悲劇は生まれなかったはず! だから上白沢慧音先生は、出家によって導きを得ることができれば、子供達はきっとやり直せると考えて署名を募っています!」
文の語りぶりは、守矢神社の信者として良いのかと尋ねたくなるものだが、今は言わないでおく。思っていた以上に署名は順調に集まっているのだ。それこそ、太陽が昇り切る頃には人口が五千いくらの人里で二千弱もの署名が集まっていた。人里の幼い子供の割合も考えると、ほとんどの大人が署名してくれたことになる。
「あの……。私達もいいですか?」
「はい。ありがとうございます」
最後に、遠慮がちな夫婦から署名を受け取って、署名の数はぴったり二千になった。
署名を渡して、そのまま早足で去っていく二人を見送っていると、文が聞いてくる。
「ねぇ、今の二人って……」
「とりあえず、別にとっておくわね。被害者家族の証言って大事らしいし」
文は意外そうにしていたが、ひとまずは気にしないことにする。
自分の子供が甥を襲撃したことに限らず、気に掛けることがあったのかもしれない。
「じゃあ、新聞も一通り捌けたし、署名を慧音さんに渡しに行こっか?」
実際に一つにまとめてみると、署名があまりに"集まりすぎ"のような気もしたが、それもここでは気にしないことにした。
「で、里長の説得はできそうかい?」
場所と時間は移り、西日が差す、人里より少し東の位置。
博麗神社の境内にて、すこし胸を張りつつ萃香が問うた。
だが、それへの返事は良いものではない。
「どうかしら。署名については、里長は貴女の暗躍を疑ってるみたいよ?」
「そりゃ、暗躍しているからね。でも、こうでもしなきゃ、緘口令が敷かれるより早く署名を集め尽くすなんて無理に決まってる。里長に限らず、沙汰を翻すことで面子が潰れるのを気にする輩は何処にでもいるんだから」
「別に責めてるわけじゃないわ。ただ、珍しいと思ったのよ」
珍しいとは、萃香が人里のややこしい事情に首を突っ込むことが、だろうか。
「まぁ、そうかもね。でも、こうしたら今夜は美味い酒が飲めるじゃん?」
「あぁ、あのお酒のこと」
「そう、我ながらめんどくさい酒を作ったもんだよ。けど、面倒だからこそ美味く飲めたときはまた感慨深い」
はたてはアレを気分次第で味の変わる酒と思ったようだが、それだけでは正しくない。
自分の気分でも、たしかに味は変わるが、大事なのは次である。
実はアレは、誰かを幸せな気分にさせると、より美味しくなる酒なのだ。幸せといってもほんの小さなものでいい。誰かがちょっと笑ってくれただけでも、酒が美味しくなる。
夏目漱石が、愛している人が隣にいるときには"月が綺麗ですね"とでも言っておけば気持ちは伝わると言った話から、"名月"と銘を打った。
それが美味しいときは、自分も周囲も幸せなのだ。
「けど、はたてはなんでか美味しいって言わないんだよねぇ。慧音が酒を美味いって言ったときには、これはいけると思ったんだけど……」
「無意識に、幸せの基準が高いんじゃない?」
「へぇ?」
「私もあのお酒は好きじゃないわ。私の基準での幸福なんて、そんなに価値があるとは思わないもの。私が誰かを幸せにしてあげたなんて、恩着せがましいことはとてもとても」
「不幸な性格してるねぇ、紫は」
「でも、昨日のアレは美味しかったわ。きっとそれを補うくらいに私が幸せな気分だったんでしょうね」
紫はそういって、遠くを見る目をしながら微笑む。
「紫は自分であれこれしないで、誰かが幸せになってくれるのが嬉しいわけだ」
「えぇ、私はそういう怠け者だもの」
生きている誰もが自分以外の幸福のために努力できれば、特定個人の価値基準で無理矢理に恩を着せられることもなく、誰もが最適の幸福を得られるだろうというわけだ。しかし、紫がどの程度まで理想を追求するかは定かではない。
だいたい、狭い幻想郷さえうまく回し切れているとは言い難いのだ。
「あ、藍からの報告だわ。里長達の意見がまとまったみたい。ちょっと行ってくるわね」
そうして紫は一方的に言い残して、スキマの中に消えた。萃香としては、ついて行ってもよかったが、それより今の会話を一人で噛みしめていたいとも思った。
はたては紫のように、自分とは無関係なところで誰かが幸福になることを良いと思うのだろうか。それは微妙に似合わないことだと思ったが、では実際はどうなのか。
本人に聞いてみるしかなかろう、と萃香は結論付けた。
文と自分が、慧音の家を出たのはすっかり月が高くなってからのことである。
紫が上手くやりすぎたのだ。最終的には子供の助命だけでなく、その両親の土地没収から村八分の沙汰までも、ひっくり返してしまった。おかげで慧音の家で本当の沙汰を待っていた件の家長夫婦の喜びようは尋常ではない。少し手を貸しただけの天狗二人を捕まえても、命の恩人のように深々と礼を言って、いつまでも帰してくれなかった。
「くすぐったいけど、楽しかったわね」
そういう文は、表情も緩々で、なんとも幸せそうだ。
もちろん自分も、あれで気分を良くしなかったといえば嘘になる。
そして、少し反省もした。人里の人々があれほどまで他人のことを気に掛けていたとは知らなかった。良い意味での予想外だ。胸の奥も、温かく感じられたものである。
「ちょっと人間を見くびってたわ」
「あんまり血生臭い事件ばっかり追いかけてても、つまらないって思ったでしょ?」
「いやいや、この事件解決後の大団円が一番楽しいのよ。文もこういう事件を追いかけることの良さが少しはわかったんじゃない?」
文と新聞作成の方針で、気が合うことは無さそうだ。
そう考えると、文がこうして手伝ってくれたのも、予想だにしない奇縁である。
きっかけは昨日、自分が萃香に連れ出されたから、文が様子を見にくることになったわけだ。さらに慧音がやって来て、事件が文の好むような方向に変わり、紆余曲折を経て、結果として此処に二人がいる。
「あれ、どうしたのはたて?」
なにか感慨深いものが感じられて、思わず空を見上げる。
「月が綺麗……かも」
「かも? あー、ホントだ。満月じゃないけど綺麗な月ねー」
これは非常にありがたいことだと思う。
これとは何か、と言われても言葉にはしづらい。あえて言うならば、巡り合わせがそれに近い。
「おーい、はたて!」
と、落ち着いた雰囲気の中で、静かな幸福感を味わっていたところ、萃香がやってくる。酒瓶を片手に、昨日の職場にやってきたのとまったく同じ調子である。
思えば、彼女が全ての奇縁のきっかけだった。
「何か用?」
「いやぁ、一件落着したところで、気分は晴れたかなって。ほら、やってみなよ」
出会い頭に酒を勧めるとは、まったく萃香らしい。
だが、なみなみと酒が注がれた器を受け取って、それを一口啜ると……。
「あ……」
「ん? どうだい?」
美味しかった、のかもしれない。
だが、文の一言で全てはぶち壊しとなる。
「あ、早苗……」
強烈な臭いが鼻を突いて、思わずむせ返る。
文の言ったことは、聞き間違えではないか。だが、その視線を追えば、そこには人里に遊びに来たらしい、まぎれもない東風谷早苗の姿があった。神様には内緒の、ちょっとした夜遊びだろうか。
しかし、まだ気付いていない。こちらのこともそうだが、命蓮寺が人里でちょっとした立場を確立してしまったこともだ。二千人の署名が、命蓮寺のために集められたことも、知っていれば無邪気に遊んでなどいられまい。
ましてや、それを手助けしたのが信者である天狗達だとわかれば……。
「えっと、味は……?」
「マジ最悪。早苗が怖い味。不幸のどん底な味」
「どうするはたて、逃げる?」
「さ、最初から覚悟は決めてたし……」
「じゃあ、あんたに任せたから。全部あんたの責任ってことで」
「はぁ!? ちょっと、なに一人だけ助かろうとしてるのよ!」
「ちょ、声が大きいから!」
早苗の視線がこちらに向いたとき、萃香は霧になって逃げた。
だが、足の引っ張り合いをしていた自分と文は、そのまま逃げ遅れることになる。
「あら、文さんとはたてさんじゃないですか。今日も人里で取材ですか?」
月はこんなに綺麗なのに、どうして自分達はこうなるのだろう。
そう尋ねると、文は溜息をついて、こちらを見て、首を横に振った。
「月なんて、そんな大層なもんじゃないから」
二人して、今はひたすら現実の、自分の苦しさを直視するしか無いのであった。
>こんな場所に前ぶりも無く鬼が現れた?
あと、「前触れ」の方が良いような気がします。
人里のごたごたに関わる話と言うのは余り見ないので面白かったです
個人的にはそういうの好きだからもっと増えろ
キャラが生き生きしてるのがいいですね。特にはたて。天狗なのに鬼を前に物怖じしない態度、現代っ子のような口調、紫の容姿も知らない世間しらずっぷり、そして意外に熱いハートを持ってるところ、どれも自分のはたて像とどんぴしゃりでした。