―― 序章-Ⅰ ――
ぱんっ、と水風船の弾ける音がした。
足元に広がった水が、土を真っ黒に変えていく。
足首に水が当たった冷たさも、刃を濡らすぬめりのある熱も。
彼女にとって、なにもかも同じものなのかもしれない。
「どうしてっ」
少年が、犬を抱く。
犬の首は、彼女の足下に転がっている。
刃がぬめり、光り、翳り、結局なにも云わなかった。
「太郎は、ぼくに会いに来てくれただけなのにっ」
おかしなことを。
彼女は頭の中をかき乱す感情を、たった一言で片付けた。
刃を振れば、そこにもうぬめりはない。この程度で振り払われ、刃は常と変わらず澄んでいた。
犬の霊だった。
犬の霊が、死後数分の身体に戻り、飼い主に会いに行った。
これは危険なことだ。直ぐに妖怪化してしまったり怨霊にでもなったら手がつけられない。
だから彼女はその犬を目にして直ぐ、首を、刎ねた。
そう説明しようかと口を開きかけ、声を出すこともなく噤む。
この少年に、ただ自分を睨む少年に、教えてやる意味があるのか。
そう考えたとき、彼女の胸から、説明の意思が消え失せた。
真っ黒な地面の上で、踵を返す。
濡れて湿った地面は、彼女の足跡を消していた。
冷たく鋭利な視線の奥にある、本人にもわからない感情。
そのどす黒くねばねばとした足枷が、彼女を捉えていた。
「あ、ぁぁぁ、うぁぁぁぁぁぁぁっ」
少年の声が聞こえる。喉を裂かんばかりに、ただ、泣き叫ぶ。
それも既に、彼女の耳には入らない。
ただ、彼女は、己の胸がひどくざわついていることだけが、気になっていた。
「どうして」
問いに答えは出ない。
問われたのは彼女ではなく、声を呑み込む久遠の青、晴天の空であるのだから。
そうと解っていても、彼女は――――魂魄妖夢は、問わずにはいられなかった。
恋色魂 ~みょんまり!~
―― 序章-Ⅱ ――
薄く翳る空の下、大きな枯れ木を中心に幽玄な桜が広がる。
まだ桜が咲くには早い初春……しかし、冥界の管理下にある桜は、色々と常識では計れない。
幽かに震える花弁は幻の如く、妖夢の紺碧の瞳を持て余していた。
ふと足を向ければ、かちゃ、と鞘が鳴る。
妖夢は己が愛刀に手をかけていることに気がついて、はっ、と我に返った。
「いけない」
か細い声でそう零すと、光りを取り戻した瞳を、そっと伏せた。
生唾を呑み込み己を整え、目を開き冷たい板間を歩く。
伸ばされた背筋は一振りの刃のように鋭く、しかし、鍛えた鉄のような柔らかさはない。
真面目というよりは“生”真面目な彼女は、ただ削りだしただけのような彫像のようだった。
「失礼します」
襖を開け、下げた頭を正面に戻す。
すると、彼女の視界に、あの幽玄な桜が垣間見えた。
青い衣を身に纏い、扇子を片手に柔らかく微笑む女性。
己の主、西行寺幽々子を前に、妖夢は呆けた自分を叱責する。
「何用でしょうか」
声が固くなるのを自覚していながらも、妖夢は己を整えることが出来ずにいた。
妖夢の日常は、幽々子の世話に始まり世話に終わる。
掃除などはそれを生業とした幽霊がいるが、料理と彼女の直接の世話は、妖夢に任された仕事であった。
尤も、彼女の本当の仕事は、庭師兼剣術指南役というごった煮のようなものであるのだが。
「妖夢、貴女、今朝からあまり集中できてないでしょう」
風のない日に舞う桜が、小鳥を惑わすような声。
身に響いただけでそっとうなじを撫でる妖美さに、妖夢は僅かに身震いした。
幽々子は訊ねてなどいない。確かに、断言しているのだ。
「そのようです」
「へんな言いぐさね。気がついていなかったのね」
「はい」
妖夢は、そうとしか答えられなかった。
昨日のことが蟠りとなって、日常の生業を疎かにしていた。それは許されないことだ。
けれど妖夢は幽々子にこうして指摘されるまで、己の翳りに気がつかずにいたのだ。
「ねぇ、話してご覧なさいな」
「いえ、しかし。幽々子様のお耳に入れることのほどでは」
「ばかね、私の暇つぶしのためよ」
そう断言されては、言うしかない。
何があっても言う気になれないであろう妖夢を動かすには、これが一番良い手だった。
そんな風に悠然とされては、妖夢も話す以外の手段を持たなくなるからだ。
「……はっ、畏まりました」
そうして妖夢は、語り始めた。
といっても、さほど長い話ではない。
昨日、里で犬を斬り、少年の持っていた水風船が弾け、ただじわりと己の心を蝕んだ。
たったそれだけの話に、どれほどの時間がかかろうものか。
聞き終えた幽々子は、眉尻を微笑みの形に柔らかくしたまま、扇子を閉じてため息を吐いた。
細められた瞳が開かれ、つぅ、と視線を動かすと、妖夢もそれに釣られて目を遣る。
冥界、白玉楼の妖怪桜――西行妖。そこに無数に浮かぶ霊魂が、幽々子の視線に応えてふわりと近づく。
それは、あの日、妖夢が少年の前で切った犬の霊だった。
「ねぇ、妖夢」
「はい」
胸の内側にじわりと届く、朧気な声。
緩やかな甘さに己を満たす声に、妖夢はふと我に返る。
幽々子に釣られて遣った目を戻すと、静かに伏せられた彼女の瞳が見えた。
「あの子、どうしてここにいるのか、わかる?」
何故そのようなことを問うのだろうか。
妖夢は問いの答えよりもむしろ、その意図に注視した。
しかし他ならぬこの亡霊嬢の心持ちを計りきるには、未だ修練が足らない。
そのことをふと思い出して、妖夢は嘆息しそうになる己の胸の内を隠した。
「私が白楼剣を用いて斬ったから、迷いが断たれて冥界にやってきたのでしょう」
「そう。その意味は、わかる?」
立て続けに問われて、妖夢は今度こそ目を泳がす。
瞳を他に遣ってみても、答えなんか見つかるはずがない。
だというのに、彼女の瞳はただ揺らぐ以外の答えを宿していなかった。
「三割くらい正解よ。全部呑み込めて云ったのなら九割だけど」
「は、はぁ」
それでも、十割には届かないらしい。
意図の計れない妖夢には、どう考えても三割にしか行き着かぬのであろうが。
「それじゃあ妖夢、宿題ね」
「え?」
幽々子の声が、楽しそうに弾む。それだけで、妖夢は既にこの場から立ち去りたくなっていた。
このままここで“お話”を聞いてしまえば、如何なる試練を与えられるか。
博麗神社で賽銭箱を漁る自分の姿を幻視して、妖夢は小さく肩を振るわせた。
ようは、そのくらい無茶なことを言われる可能性だってあるのだ。
「答えが解るまで、暇を上げるわ。ついでに休暇でも楽しみなさいな」
「ちょ、幽々子様?」
妖夢が何を言おうと、覆す気は無いのだろう。
細められた瞳の奥で輝く梅花のような瞳は、好奇から瞬いていた。
彼女の言葉を覆すには、己が己の答えを見つけてくるしかない。
なにせ彼女は、答えが解るまで暇を与えると言ったのだ。
「その間!……その間、幽々子様はどうなさるのですか?」
思わず張り上げた声。先の見えない不安から出たその躍動を、妖夢はぐっと抑える。
ここで口をついてしまえば、己の忠誠心に翳りが生まれる。
尊敬する師より譲られ、敬愛する主より賜ったこの栄誉を、穢したくはなかった。
「紫の所にでも行くわ。だから、安心なさいな」
「そう、ですか」
誰かに役職を取って代わられる。
そのことは、例え親交の深い八雲紫相手であっても、心を重くせずにはいられなかった。
こんな時、妖夢は己の未熟を実感する。
「だから、はい、いってらっしゃーい」
これから行かねばならぬのか。
準備も何も出来ていないというのに、けれど幽々子は強かだった。
手伝いの幽霊に持って来させた、当面の資金が入った若草色の三つ折り財布。
それに何時の間に用意したのか着替えまで袋に入れて、寄越してきた。
「……その命、確かに承りました」
妖夢はとうとう観念すると、頭を下げてそっと退出する。
足音もなく去っていく姿は、いっそ幽霊よりも幽霊らしかった。
けれども、と幽々子は思う。彼女は幽霊ではない、と。
「幽かな魂と苛烈な魄、さて、あなたの答えは如何なるものになるのでしょうね」
響いた声は、終わりを知らない。
ただ幽霊たちが舞い踊る、桜の中へと消えていった――。
―― 序章-Ⅲ ――
薄く、けれど深い灰色が空を覆う。
縁側から見た風景は薄暗く、もうすぐここら一帯が天の恵みで煙ることだろう。
その鬱屈とした空を見て、霧雨魔理沙は唇を真一文字に歪めた。
箒で空を駆け抜ける彼女にとって、この淀んだ天気は歓迎できたものでは無い。
「嫌な天気だぜ」
「そう?ここ最近、晴れ続きだったからちょうど良いわ」
独りごちるだけで潰えるはずだった語尾が、拾い上げられる。
魔理沙が黄色い瞳を眇めて目を遣ると、そこに強烈な紅白が飛び込んだ。
黒と白の寂寥の色を身に纏う魔理沙としては、その赤と白は些か刺激が強すぎる。
とくに彼女、魔理沙の幼馴染である博麗霊夢が相手となれば、胸に燻る火もいっそう勢いを増した。
「雨は、降って欲しいときに降ればいい」
「そうね。天子にでも頼む?」
「それはいいな。今度捕まえてくるか」
軽口を叩きながら、魔理沙は霊夢の淹れたお茶を啜る。
こうも肌寒い日であれば、熱いお茶はありがたい。
しかし、彼女の淹れるお茶は、いつも熱すぎるきらいがある。
不満と言うほどでも、ないのだけれど。
何かにつけて一言云いたくなるというのは、最早魔理沙の性分であった。
初春の雨雲。
雨でも降れば、いっそう肌寒くなることだろう。
けれど魔理沙は、このまま中途半端な寒さを欲していた。
ここでこうして寒さと温かさに惑わされていれば、別の“熱”に振り回されることはないのだから。
「魔理沙」
「なんだよ」
ふと、声がかけられた。
清流のせせらぎを、柔らかく断ち切る、強くて可憐な声だ。
その声に仕方なく目を向けると、鋭利に眇められた黒ビロードの瞳が魔理沙を射抜いた。
彼女の直感が込められた瞳、この鋭さだけは、何時まで経っても魔理沙を斬る。
「また、変なことで悩んでるでしょ」
「うるせぇ」
図星だった。そして、霊夢が自分の急所を突いてくることくらい、わかっていた。
それでもここに来てしまったのは、ここが一番気晴らしになり、一番気楽だと知っていたからだ。
魔理沙は、霊夢の言うとおり、悩んでいた。
幻想郷で力を持つ人間と言えば、幾人か思い浮かべることが出来る。
悪魔の館で能力を駆使するメイド、二柱の神に支えられた風祝、妖怪の賢者というバックアップを持つライバル。
その誰もが鮮烈な才能と恵まれた環境で、日々己を磨いている。
そうであるならば、何も持たず一人で努力を重ねている魔理沙は、彼女たちに着いていけるのか。
その答えは幾度となく脳裏を掠めていて、魔理沙に忘却という術を与えてはくれなかった。
「アンタさ」
耳朶を震わせる声に、魔理沙は小さく胸を跳ねさせた。
霊夢の、苛烈なまでの紅白は、魔理沙の閉じこもった心を、その鍵ごと砕こうとする。
この一連のやりとりが、魔理沙は苦手だった。苦手で、不得意で、好きだった。
「もっと他人を頼ればいいじゃない」
「頼ってるぜ?本を借りたりとか」
聞き捨てならないとばかりに魔理沙が告げると、黒曜石の瞳が再び魔理沙に向けられた。
それだけで、魔理沙の琥珀色の瞳が、虎の目のように乱れる。
「そうじゃなくて」
呆れの滲ませられた声。
面倒くさげに零れだした息が、春の境内に四散した。
緩やかに持ち上げられた湯飲み、嚥下する度に動く喉。
魔理沙は、良いから早く続きを言ってくれ、と苛立たしげに霊夢を見た。
「借りたり聞くんじゃなくて、誰かと過ごしてみたら?」
言われた意味を直ぐに把握できず、魔理沙は緩く首を傾げる。
しかし元来頭の回転の速かった彼女は、三度瞬く間に言われたことと、意図と、返答を整理した。
霊夢の言葉はいつも、魔理沙の中の何かを動かす。
「一緒に過ごせば、頼り方も解るってか」
「そう。私は駄目よ。アンタ、私だと頼るんじゃなくて甘えるから」
「甘えたことなんか無いぜ」
失礼なことを言うな、と魔理沙の唇が尖る。
霊夢はそんな魔理沙に対してほんの僅か、刹那の間だけ瞳を柔らかくした。
彼女の柔軟で軽やかな瞳は、親友を映すときだけ僅かに重みを得る。
心地の良い、僅かな間だけ地に足を着けるような、そんな瞳だ。
「よし、それならちょっと行ってくるぜ!」
「はいはい」
魔理沙が虚空に向かって指を弾くと、立てかけられていた箒が跳ね上がる。
それを左手で掴むと、ウエスタンよろしくくるりと回してから、軽やかに飛び乗った。
彼女の愛馬は、こうしてしなりのある体躯で、風を切る手伝いをしてきたのだ。
境内を蹴って飛び上がると、ほんの僅かに沈んだ身体が、幻想郷の空に投げ出される。
箒の尾が光の筋を空間に刻み、その度に五色の陽炎が浮かび上がった。
流星というには生ぬるい。彼女はきっと、燃え尽きることを知らぬ一等星だ。
「ふぅ……頑張りなさいよ」
呟いた霊夢の声は、優しげだった。
親しく、なにより近くに立つものしか聞けぬ声。
その柔らかな音は、幻想郷の曇天に、柔らかに響いていった。
―― 一章-Ⅰ ――
それから雨が降り出したのは、魔理沙が飛び立って直ぐのことだった。
肌を打つ冷たさに、身を震わせている暇は無い。
思い立ったら吉日というよりも、思い立った日にしか動く気にならない。
それが霧雨魔理沙という少女の常であった。
「くそっ、雨具くらい持ってくるべきだったか」
心に淀みを抱えて来たとはいえ、最低限の準備くらいはしておくべきだった。
一番大事なことでは後悔の無いように生きている魔理沙だが、詮無き後悔は存外多かった。
ふらつく箒で飛ぶ姿は滑稽で、自覚しているのか魔理沙の頬は上気している。
「あー、くそっ」
再び、悪態を吐く。
大きな声を出せば、少しは身体が温まるはずだろう。
そんな風に考えていたはずなのに、大声を開けたせいで喉に直撃した雨で、咽せることになってしまった。
今ここに霊夢でもいれば、素敵に鼻で笑ってくれることであろう。
脳裏を掠めた失笑を、魔理沙は青い顔でかき消した。
「あー、もう、今日は良いから帰――うん?」
ふと目を落とした先。
人里近くの柳の木に、魔理沙はなにかの影を見た。
好奇心旺盛な彼女は、それだけで寒さも忘れて片頬をつり上げる。
「どれどれ――」
箒の高度を落とし、緩やかに着地する。
地面に当たった雨はそこで弾けて、足下をドライアイスで覆うように曇らせていた。
その光景が彼岸と此岸を結ぶ三途の川を撫でつける、死出の風のようにも見えて、魔理沙は底知れぬ寒気を覚える。
「――っ」
思わず、叫びそうになった口元を、抑えた。
幽霊の、正体見たり枯れ尾花。
そんな言葉が頭を駆け巡り、しかし柳の下のそれが幻ほど生易しいものでは無いということを、魔理沙は理解する。
確かにそこに“在る”という存在感は、誤魔化すことなど叶わないのだ。
「だれ、だ」
漸く零れ出たのは、そんな幽霊の好奇心を存分に刺激しそうな言葉だった。
怪談話でこんなことを聞けば、その者の末路は決まっている。
屋台にまでストーキングしてきて、店主になりすましてくるのだ。
そんな緊張感溢れる夜は、御免だった。
「ま、り、さ」
「っ」
今度こそ、心臓を跳ねさせる。
柳の下、傘も差さずに魔理沙を見据える白い髪。
紺碧の瞳が魔理沙を見据えて、その二振りの刀で魔理沙の首を刈り取らんと――と、自分の未来を幻視した魔理沙は、首を傾げる。
白いおかっぱ頭に、黒いリボン。
幼さの残る顔立ちに、紺碧の瞳。
緑の服に、背には二振りの刀。
「おまえ、妖夢か?」
白玉楼の庭師。
魔理沙が密かに“辻斬り妖怪”とか思っている、半人半霊。
魂魄妖夢が、なんの抵抗も見せることなく、全身で雨を浴びていた。
一言でいうのならば、不気味である、とするだろう。
「そうですよ、魔理沙」
丁寧な物腰。
柳のようにしなやかに折れる腰と慎ましやかに伏せられた瞳。
その姿に、異変の時のような刺々しさは見あたらなかった。
「そ、そうか。こんなところで何をしてたんだよ?クビになったか?」
「失礼なことを言わないでください。ちょっと、休暇を戴いたんですよ」
休暇、と言ったとき、妖夢の瞳は僅かに揺らぎを見せた。
魔理沙はそれを、飛び交う蝶々を捕らえる猫のような瞳で、捉えていた。
好奇心に駆り立てられた彼女の止め方を知るものは、ほとんどいない。
「なぁ、ちょっと私に話してみろよ」
「は?ええと、何を?」
「悩んでいるんだろ?解るぜ」
妖夢は魔理沙の言葉に、目を瞠る。
見抜かれて驚いたのではなく、見抜かれるほど表に出していた自分に驚いたのだ。
先程まで、悩む余りに雨が降り出したことにすら気がついていなかったというのは、忘れておくことにしたようだ。
「話してみろよ。ちょっとは、何か解るかも知れないぜ」
「う、ううーん……」
魔理沙の押しの強さに、妖夢はたじろぐ。彼女のようにぐいぐいと手を引くタイプの人間を、妖夢は苦手としていた。
生真面目で頑固な面がある彼女は、それ故に柔軟な思考に着いていけないのだ。
けれど魔理沙は、そんな妖夢を知ってか知らずか知る気がないのか、妖夢にぐいぐいと迫っていた。
「悪いようにはしなから、な?」
「悪いことをしようとしているようにしか見えませんが、まぁ――」
「そうこなくっちゃ!」
とうとう、妖夢は観念した。
誰と過ごせばいいかいまいち思い浮かばず困っていた魔理沙同様、妖夢もまたどうやって答えを探せばいいか解らず頭を抱えていた。
だからこそ、この瞬間、二人の利害が見事に一致したのだろう。
そうして妖夢は、説明をする。
内容は幽々子に話したこことほとんど変わらない。
強いて変わるところを挙げるのならば、それは幽々子との会話も説明に含まれているということだろう。
魔理沙は妖夢の話を――犬の首を刎ねた下りでも、顔色を変えることなく――ただじっと聞いていた。
「斬られた犬の気持ちか……へぇ」
その、へぇ、に込められた万感の思いに、妖夢は眉を顰める。
魔法使いとは、有り余る好奇心で世界を上書きする生き物である。
好奇心だけで己の寿命を捨て、好奇心だけに特化した種族。
そんな魔法使いの興味を惹いてしまったということを、妖夢は漠然と感じ取っていた。
「なぁそれなら、私に協力させてくれないか?」
言われた言葉に、首を捻る。
妖夢の求めることと魔理沙の出来ること。
この二つには、大きな違いがあるだろう。
「協力、ですか?しかし分野がだいぶ違うのでは?」
それくらいのことは、魔法使いのなんたるかを理解していない妖夢でも理解することが出来る。
だからこそ、いったい何を協力するというのか。その疑問が溢れて零れた。
「協力って言っても、色々あるだろ?例えば――」
魔理沙は妖夢の訝しげな視線を受けて、飄々と肩を竦める。
やがて、すぅっ、と眇められた瞳に、妖夢は悪戯小僧のようなやんちゃな光を垣間見た。
「――寝床、とか」
してやったり。
そう瞳で訴えかける魔理沙に、妖夢は息を詰まらせた。
なるほど、それは魔理沙にもできる協力だ。
そしてそれは、今ここで提案をしてくれている魔理沙以外に相手が思い浮かばない妖夢にとっても、やはり魅力的な提案だった。
だからこそ、逡巡する暇もなく返事をするのははしたないと、ほんの少し間を置いた。
「うーん……では、お願いできますか?」
「おう!ま、細かい取り決めは帰ってからで良いだろ」
なにを望んでいるのか。
そう紡ぎそうになった口を、ぎゅっと絞る。
肌を打つ雨、背筋を濡らす寒気、頬を冷やす痛み。
このままじっとしていれば、風邪だけでは取り返しの付かない事になる可能性だってあった。
妖夢は魔理沙の提案に承諾すると、彼女に付き従って空を飛んだ。
風を切り雨を裂く彼女にはぐれないように、半霊をぴったりと着けて。
この先に待ち受ける、苦難など知る由もなく――妖夢はただ、寝床ができたことに喜ぶのであった。
―― 一章-Ⅱ ――
正気と瘴気と狂気で覆われた、魔法の森。
その年中じめじめとしていて薄暗い森の一角に、魔理沙の家があった。
あまり綺麗な家とはいえないが、二人暮らす程度の広さは十二分にあるようだった。
「まずは取り決めだ」
魔理沙が地下に召喚した温泉。
そこに二人揃って浸ると、まずは疲れをとって、それから改めて顔を合わせたのだ。
「まず、妖夢は和食派だよな?」
「ええ、そうですよ」
魔理沙は髪をタオルで適当に拭くと、そのまま肩に乗せた。
所々跳ねた髪を見るに、翌日は寝癖に苦しめられることであろう。
普段ならばそこまで自分に無頓着ということはないのだが、しかし今は好奇心への道程に、全神経を集中させていた。
黄色い、琥珀色の目を矯めつ眇めつ動かす様は、鼠を見つけた猫のようであった。
「うーんキノコ料理となると……それなら、妖夢が掃除で私が料理」
「わかりました。洗濯は?」
「掃除の一環だぜ」
「まぁ、構いませんが」
それでは、魔理沙の仕事は料理だけになる。
けれど寝床を貸して貰う訳なのだから、それくらいは良いだろうと、妖夢は一人納得した。
雨風防げる場所を、食事付きで提供してくれる。
そう考えてみれば、悪いことなど何もないのだ。
「で、妖夢の修行風景なんだが……私に見せてくれないか?」
「いいですけど、それこそ、何故?」
「私も研究に行き詰まっていてな。刺激が欲しいんだよ」
他の人間ならいざ知らず、相手は傍若無人で有名な――自分が辻斬りで有名だとは知らない――魔理沙だ。
その程度の下心を提示してくれた方が、妖夢としてもやりやすくあった。
あまり罪悪感を感じずに済むというのは、それだけでありがたいことなのだ。
「わかりました、ではそのように」
「おう!部屋は私の隣を掃除して使ってくれ」
「はい」
掃除していない部屋を、躊躇いもなく渡されるのだ。
これならますます、遠慮は要らないような気がしてきた。
それでも妖夢は元来の生真面目さが由来して、さほど気軽に過ごせはしないのだろう。
けれど生真面目だからこそ、罪悪感の有無は大きい。
約束を取り決めると、魔理沙は夕食を作りに去っていった。
妖夢はそんな魔理沙の背に掃除用具の在処を聞くと、さっそく指定された部屋へ行く。
どれほど掃除していない部屋かは知らないが、なんにしても腕が鳴る。
働かずに過ごす。
それが思っていたよりも自分の調子を崩していたと言うことに気がついて、妖夢は小さく苦笑するのであった。
―― 一章-Ⅲ ――
魔理沙の家の散らかり方は、尋常なものでは無かった。
そっと窓枠に指をなぞらせれば、雑巾のような固まりを取ることが出来る。
埃が層になっていて、一日二日で綺麗になるようには見えず、妖夢は顔を顰めた。
自分に宛がわれた部屋だけは、それでもどうにか綺麗にした。具体的には幽明の苦輪で。
二人に分身して、なんとか夕食前には綺麗に出来た。
夕食後も汚い部屋に向かわなければならないなんて嫌だったからこそ、半ば意固地になって掃除をしたのだ。
「掃除ということは、使っている場所は全部……それに加えて、洗濯」
妖夢はずきずきと痛み始めた頭に、手を添える。
こんな事になるのなら、日頃から掃除をしておけばいいのに。
そんな事を言っても無駄なんだろうということは、魔理沙を見ていれば解った。
彼女は、その程度で怯むタマじゃない。
掃除を終えて、食卓に向かう。
その最中で周囲を見回してみれば、台所付近はそこそこ綺麗にしてあるようだった。
流石にものを食べるところが汚れているのは嫌だったのか、四角い部屋を丸くするやり方ではあるが、努力の跡が見えた。
これなら、今し方想像していたほど非道いことにはならないだろう。
食卓から漂う匂いに、思わず鼻を動かした。
粗雑な実生活に似合わず料理は上手いのか、仄かな芳に妖夢は頬を緩ませる。
食事が楽しめれば、一日の苦労のだいたいを解消することが出来るもの。
そんな風に幽々子に言われたのを思い出して、しかし幽々子は日頃さほど苦労して生きていないということも同時に思い出した。
正直、それではなんの参考にもならない。
「魔理沙、用意できたの?」
「おう」
食卓に並べられた食事の数々。
魚の照り焼き、キノコのスープ、キノコご飯。
ほとんどキノコという食卓は、キノコ好きな魔理沙らしい食事風景だった。
むしろこれがやりたかったから、作る量が増えても食事係を担当したのだと思えるほどに。
「あの部屋はどうだった?」
「最後に掃除したのは、何時だったんですか?」
「今回が最初だ」
つまり、住み始めて一度も掃除したことがなかったということである。
あんまりと言えばあんまりな言いぐさに妖夢が顔を顰めると、魔理沙は、冗談だ、と解決に笑った。
そんな冗談にもならない冗談は、あまり歓迎できたものでは無い。
しかし、この生活は案外悪くないかも知れない。
苦労することは苦労するだろうが、それだけではない。
魔理沙も広い目で見れば気の良い性格だし、妖夢もある程度は合わせる術を持っている。
ならば、少しずつ譲歩していけば、なんの問題もなく生活を送れるはずだ。
よく味付けされたキノコご飯を食べ終えると、妖夢はそう微かに笑う。
そんな妖夢の考えは――――甘かった。
翌日から、妖夢は早速掃除を始めた。
本を整理し、物を片付け、ガラクタとそうでないものは見分けが付かないので一箇所に纏める。
そうして、魔理沙が朝起き出す前に、妖夢はだいたいの仕事を終えていた。
普段から朝早く起きて庭の剪定から料理までこなしているのだ。
この程度の仕事で尻込みすることは、なかった。
「ふぅ、だいたい終わり、っと」
そうして綺麗に片付けられた部屋を見て、妖夢は満足げに頷く。
これが健康な人間の生活風景であるべきだと、達成感で高揚した頭で考えていた。
「あ」
「おはようございます、魔理――」
けれど、それも。
寝ぼけ眼で起き出してきた魔理沙が、その光景を見るまでの、短い達成感だった。
彼女は綺麗になった――綺麗に“なり過ぎた”光景に、目を瞠った。
「ああああああぁぁぁぁっっっ!?」
「――沙?」
魔理沙は走り出すと、自分の机の周辺を走り回る。
叫び声は止まず、むしろ一箇所見る度に大きくなっていた。
昨日の食事に、怪しいキノコでも入っていたんじゃないか。
妖夢がそう疑ってしまうのも、仕方がない光景だった。
「おまえ、なんてことをしてくれたんだ!」
「な、なにって、言われたとおり掃除をしたのですが?」
せっかく朝早く起きて掃除をしたのに、この言いぐさ。
妖夢の声が強ばるのも仕方がないことだったのだが、魔理沙もそこは退けない。
退いてはならない理由があるのだから。
「掃除?!いいか!この部屋は、私が使いやすいように使いやすい物を配置してたんだっ」
「へ?え?散らかってただけじゃないですか!」
「おまえにとってはな!」
魔理沙はぼさぼさの髪を直そうともせずに、纏めた物をひっくり返し始めた。
せっかく綺麗に片付けたのに、もとの様子が分からないほどしっちゃかめっちゃかにされる。
妖夢としても、掃除を任されたからそれに従ったのだ。
説明しておかなかったことも含めて、ここまで言われる筋合いはない。
そんな意地が、頑固な性根が、妖夢から“謝罪”という選択肢を奪った。
そしてその意固地な態度が、同時に、魔理沙をも意固地にしていた。
「私の言ったところだけ掃除しとけよ!」
「なんですか、それ。それじゃあ小間使いじゃないですか!」
「そんな訳無いだろ!小間使い程度の事も出来ないみたいだからな!」
「んなっ」
妖夢は思わず殴りかかりそうになる自分を、ぐっと抑えた。
この程度の事で感情的になっていたら、悩みなんか解決できない。
仏の顔も三度まで。仏たり得ぬ妖夢は三度も我慢できないだろうけれど、せめて二度は我慢しよう。
そう、何度も何度も、大きく深呼吸して、頭を下げた。
「少し感情的になりすぎていました。申し訳ありません」
その冷静な言い方に、魔理沙も僅かに毒気を抜かれる。
そしてやや――というには、長いが――逡巡して、頷く。
「いや、事前に説明しなかったのは私だ。悪い」
魔理沙も、そこでやや気まずげにではあるが、謝った。
冷静になれば、相手もそれに答えてくれる。
それに間違いはなかったのだと考えると、妖夢も少しだけ嬉しくなる。
「それでは改めて、掃除の仕方、教えていただけますか?」
「おう、任せとけ!」
明朗に笑い、それから魔理沙はドンッと胸を叩く。
その様が実に“らしく”て、なるほど霧雨魔理沙という少女は後に引き摺ったりはしないのだと感じられた。
それはきっと、心地の良い生き方であり在り方なのだろう。
やっぱり、上手くやっていけそうだ。
妖夢は嬉しそうな微笑みの下で、そんな、“勘違い”をした。
――次に起こった問題は、魔理沙の方に非があった。
包丁というのは、定期的に研がねば使い物にならなくなる。
それは常識であり、魚の切り身が荒いことに気がつかねばずっと気がつかなかったようにも思えるだろう。
なにせ魔理沙は、まったく気にせずに包丁を使っていたのだから。
「これは、魔理沙。研がないと使い物になりませんよ?」
魔理沙が使っている包丁を見て、妖夢はそう零す。
刃こぼれをしているとはいわないが、正直自分の指すら切ることは出来ないだろう。
そんな切れ味の悪い刃は、包丁というよりも鈍器と言った方が正しい。
「面倒だから良いよ」
と、魔理沙は本当に面倒そうに言った。
またか、と言いたげな横顔に前回の反省があるようには見えない。
魔法使いの家を掃除するという意味では、危険があったかも知れないのだし、妖夢にも反省すべき点はあったのだが。
「でも、これじゃあいずれ完全に切れなくなりますよ?」
「そんなら、これでいいじゃん」
魔理沙はそう、なにを思ったのか、立てかけてあった白楼剣を手に取った。
しかし素人が簡単に抜けるはずもなく、中途半端に鞘が滑り、これから調理しようという生魚に当たった。
魂魄家に伝わる名刀が、生魚のぬめりにクリティカルヒットしたのだ。
「ま、まっ、ま、まり」
声を無くし、途切れ途切れに喉から空気を出す。
怒りだとか悲しみだとか、そんなものを超越した顔の赤さ。
その姿に、魔理沙は修羅を幻視した。
さすがにこれは、自分が悪い。
「す、すまん、こう、冗談のつもりだったんだ」
実のところ、魔理沙は寸止めをする気でいた。
それが予想外に重かったせいで、勢いが付いてしまったのだ。
「魔理沙っ、なにを考えているんですかっ!?!?!!」
妖夢は魔理沙の胸ぐらを掴むと、がくがくと動かす。
余りの勢いに魔理沙の顔がぶれて残像ができているように見えるのは、きっと気のせいだろう。
「ちょ、ま、待て、落ち着け、私が悪かったから!?」
「魔理沙が悪いのは解ってます!!」
揺れに揺らされて、魔理沙の顔が青くなってくる。
唇は青く、顔からは血の気が引き、目は虚ろ。
危ないクスリ(ダウン系)でもキメてしまったかのような表情を見て、しかし妖夢は止まらない。
「私のッ、白楼剣をッ、いったいッ、なんだとッ、思っているんですかッ!!」
激昂して達磨よりも赤くなっている妖夢は、気がつかない。
魔理沙の両手がぶらりとさがり、怯える小動物のように震えていることに。
妖夢が掴んでいる場所は、魔理沙の襟首であり、揺らしているのは全身だということに。
「ようむ」
力はない。
けれど、驚くほど静かな声だった。
その声が、妖夢を修羅道から一時的に帰還させた。
「はく」
「えっ」
――その後どうなったのか、一言でいうのならば……魔理沙の、少女達の尊厳は護られたという説明だけ、で充分だろう。
そうして、二度。
二度にわたり、妖夢の血管は危機を迎えた。
このまま生活を続けていけば、顔面が別の意味で赤くなることも想像に難くない。
けれど、それから。
二人はぎすぎすとしながらも、辛うじて生活を続けられて来た。
洗濯、片付け、料理、掃除、諸々。
度々衝突しながらも、三日ほどはそれでもなんとかやってきた。
ストレスは非常に溜まるものの、そのうち関係だって改善できるはず。
そんな風に夢を見始めていた頃だった。
――今度こそ、妖夢が“やらかした”のは。
「どうしよう」
その日は、たまには仕事を変えてみようと、変化を求めた妖夢が申し出た。
それなら自分は片付けをやろうと素直に引き受けた、魔理沙。
彼女も変化を求めていたのかも知れないが、それでもなにかを始めることに同意してくれたのはありがたかった。
ほんの僅かにでも、歩み寄ることが出来る。
魔理沙の中にそんな気持ちがないと言えば嘘だったということもあり、現在、妖夢が夕食の準備をしていたのだ。
……ところで、霧雨家には炭がない。
色々と万能な魔理沙の愛用魔法補助具、ミニ八卦炉。
その用途は、ドライヤーから炬燵の動力源まで、本当に幅広い。
当然、料理に使うのも、このミニ八卦炉だった。
つまり妖夢は、火を消そうとしたのだ。
しかし当然使い方が解らず、いやいやできるはずと意固地になり、危うく手を焼きそうになり、落とした。
「どうしよう、これ」
それが、今、妖夢の目の前で煮込まれている鍋。
塩味のキノコのお吸い物――――ミニ八卦炉風味である。
「おーい、調子はどうだ?」
「みょんっ!」
「みょ……は?」
変な声が出た。
思い切り変な声が出た。
それほどまでに、動揺していた。
最初は、連絡ミス。
細かい打ち合わせ前にしてしまったことだから、どちらも悪いとしか言いようがなかった。
次は、魔理沙が悪い。
白楼剣を包丁代わりに使おうとしたのだ。悪戯で済まされる問題ではない。
そして今回は、どう考えても妖夢が悪い。
白楼剣が駄目でミニ八卦炉が良いという理屈はないだろう。そろそろ味が染み込む。
「って、そうだ!出さないと!」
「良い匂いじゃないか。流石白玉楼の……従…者?」
慌てて出そうとする妖夢だったが、時既に遅し。
彼女が現実逃避をしている間に、魔理沙は鍋に近づいていた。
そうして妖夢の肩越しにその中を覗き――固まった。
「えっ」
何が起こったのか解っていないのだろう。
魔理沙の頭の中では、霖之助に作ってもらったときからのメモリアルが、走馬燈よろしく流れていた。
残念ながら、最後の光景は塩煮込みである。報われない。
「えっ」
よほどショックだったのだろう。
魔理沙はお玉でミニ八卦炉を掬い上げると、お椀に、大切な物をしまうように、移した。
「よ、よう、よ、よよよ」
そっと、妖夢は目を逸らす。
冷や汗が止まらず、まともに目を合わせる気になれない。
あの時魔理沙はこんな気持ちだったのかでもわざとじゃないというか、と、妖夢の頭の中では、ぐるぐると言い訳じみた言葉が巡っている。
有り体に言えば、彼女もまた、混乱していたのだ。
「ご、ごめんなさい」
「ごめんなさいで済んだら博麗の巫女はいらん!」
もっともである。
だが、それ以上の謝罪はしようがなかった。
白楼剣は軽く触れただけだったこともあり、魔理沙が――罰として――懇切丁寧に手入れすることで、直ぐに輝きを取り戻した。
けれど、ミニ八卦炉は、煮込まれてしまったのだ。
どちらの方が大切な物とひとえに言って良いものでは無いが、取り返しのつかない可能性だってある。
「ごめんなさい、魔理沙」
「あああ、もう、ホント、ねぇ、だいじょうぶ?」
口調がおかしくなっている。
魔理沙が一生この口調になってしまったら、自分は語尾にみょんをつけよう。
混乱した頭で、妖夢はそっとそう考えた。
「もう、もう、もーうっ」
「おおおお、おち、落ち着いてくださ、いっ」
魔理沙は妖夢の胸ぐらを掴むと、そのままぐらぐらと揺らす。
どこかでデジャブを感じる光景であり、それ故にその後の光景も想像できた。
だらしなく下がった手、青くなる唇、白い顔、虚ろな瞳。
「まりさ」
「えっ」
驚くほど、静かな声。
しかし一度経験している魔理沙は、素直に驚くことが出来なかった。
素直に、疑問に思うことが出来なかった。
「でます」
「ままま、待てっ!?」
――その後の少女達の尊厳がどうなったのか……きっと、大丈夫だったのだろう。たぶん。
―― 一章-Ⅳ ――
それからというもの、更にぎすぎすとした関係となった。
一緒に食事をしていても、掃除をするときにすれ違っても、ちょっと剣を振りに外へ出ても。
当初の目的を達成させることが出来ていない、切っ掛けすらも見えていない。
両者にとって、その無為に過ごす時間は、ただただ苛立ちを蓄積させる時間にしかなり得なかった。
口数が減り、たまに何か言えば悪態となる。
そう過ごすものとして進んでしまった時は、取り戻すことが出来ない。
ただ、時折気まずげに視線が交わるその瞬間ですら、両者にとって不快なものだった。
この状態が、煮込みミニ八卦炉事件から更に三日も経つと、当然のように空気も重くなる。
「修行、してきます」
「勝手に行けば良いだろ」
だから、だったのか。
けれど、だったのか。
ぶっきらぼうに告げた言葉への返答は、強ばったものだった。
「見たいんじゃ、無かったんですか?」
「おまえのへっぽこチャンバラ見てもなぁ」
「まぁ、見る方がへっぽこ魔法使いではそうでしょうね」
どちらがきっかけ、ということもなかった。
ただ、二人とも限界だったのだ。
重くのしかかるような空気、圧迫感のある雰囲気。
光の届かない海の底にいるような息苦しさに、二人は辟易していた。
だから、たまたまここで“爆発”したに、過ぎないのである。
「さっきから何が言いたいんだ?しらたま幽霊」
「そっちこそ、何が言いたいんですか?黒白鼠」
魔理沙が椅子から立ち上がると、妖夢も外へ行こうとしていた足を戻す。
身長は、やや妖夢の方が高いか。それでも、あまり変わらない。
本人たちでしか解らない程度の差しかないのに、妖夢は魔理沙の背を見て、鼻で笑った。
「帽子で身長、誤魔化してません?」
いやらしい言い方だった。
神経を逆なでしながら指で引っ掻いたような言い方だった。
その言いぐさに、魔理沙の額に血管が浮かび上がる。
「ホント、作って乗っけたみたいな頭だよな。将来禿げるぜ」
魔理沙は妖夢のおかっぱ頭を見て、やはり鼻で笑う。
もちろんそんなことはない、そんなことはないのだが心労で禿げるかも知れないとか考えたことがある妖夢は、頭に血が上るのを感じた。
「姑みたいに口うるさいし、まぁ、年寄り臭いのは確かだよな」
顔を赤くする妖夢に、魔理沙は畳みかける。
本気で莫迦にした目。その奥に光る生温かい同情を見て、妖夢の額に血管が浮かんだ。
半人半霊とて人間。人間、我慢には限界があるのだ。
「魔理沙はお若いですもんねぇ?頭が、必要以上に幼いと言いますか」
「お、おまえなんか“おばはん”だ――」
「いや、失礼しました。見た目相応でしたね。ぷぷっ」
「――っ」
魔理沙の額には、首都高速が如く血管の交通網が出来上がっている。
それに負けじと、妖夢の額には九字刺しもびっくりな陣が組まれていた。
両者とも、色んな意味で切れそうだった。
「黙れ、この辻斬り変質者!」
最初に手を出したのは、魔理沙だった。
スナップの利いた張り手が、ぱあんっと妖夢の頬を打つ。
しかし、妖夢もただ受けたりはしない。
「魔理沙の言えた事じゃないでしょう、この泥棒鼠!」
妖夢の張り手が、魔理沙の頬を打つ。
もう、二人の間に歯止めはない。
弾幕ごっこも、互いの得物も忘れて、ただ素手で取っ組み合った。
妖夢は、長年の経験から無意識のうちに、人間相手を想定した程度にストッパーがかかっていたようだったのだが、魔理沙は言わずもがな全力だ。
「いちいちいちいちピーチクパーチク!おまえは私の何なんだ!?」
「魔理沙だってなによ、我が儘で自分勝手で、子供ですか!?」
張り手が飛び交い、二人の顔が腫れていく。
その合間、魔理沙はおもむろに足を上げて、妖夢の脛を蹴り上げた。
そう……弁慶の泣き所である。
「っっっ」
「前から気に入らなかったんだ。だいたいなんだよ刀って!弾幕ごっこで刀を使うなよ!」
妖夢は脛を庇いながら後退――する振りをして、勢いよく踏み込んだ。
そしてそのまま、魔理沙のレバーに右フックを叩き込む。
魔理沙はそれに、うにゅ、と奇妙な声を出して蹲った。
「私だって前から気に入らなかったのよ!」
「ぐふ、ぅ」
「なによ箒って!頭悪いんじゃないの?!」
ひどい言いぐさである。
思い切り言い捨てられたところで、魔理沙は起き上がれない。
その様子にちょっとだけ冷静になった妖夢が様子を窺おうとすると、しかし勢いよく鼻を打ち付けた。
「あづっ」
「頭が悪いのはお前だ!」
奇襲めいたヘッドバッド。
そのまま胸ぐらを掴んで、もう一発。
更にもう一発叩き込もうとしたところで、妖夢の頭が傾いた。
「ふんっ!」
「いだっ」
ヘッドバッド返し。
風を切った一撃は、溜めようとしていた魔理沙の鼻を打ち付ける。
怯む魔理沙は再び襲いかかるヘッドバッドを避ける為に、妖夢の頬を掴んだ。
「なにふふのよ、はなひなはいっ」
「なにを言っているのかわから……んっ!?」
そんな魔理沙の頬を、妖夢も掴む。
二人して涙目になりながら、ただひたすらに引っ張り合う。
「はなひなはいよ、へほまほーつはいっ」
「おまえほほはなへよ、つひひりへんしっ」
最早、両者とも何を言っているのか解らない。
ただただ頬を引っ張り合い、いがみ合い、睨み合う。
やがて――先に吹き出したのは、妖夢だった。
生真面目な妖夢が、喧嘩の最中だというのに吹き出したのだ。
「ぶふっ、なによその顔!あはははははっ」
魔理沙から離れて、腹を抱えて笑う。
魔理沙は咄嗟に鏡を見ようと目を遣り、そうして妖夢の顔に気がついた。
その顔は、鏡を見るまでもなく、魔理沙と同じ物だったのだ。
赤く腫れた頬。
鼻血の流れた顔。
なんとも言えない、間抜け面。
「ばふっ、おまえこそなんだよその顔!あはははははっ」
二人で、床を転げ回る。
転げ回って、笑って、笑って、笑って。
そうしたころには、不思議と喧嘩を続ける気になれなかった。
ただ、鼻血を魔法で治療して、妖夢も同様に霊力で治し、床に寝転がる。
魔理沙がふと目を地面に向ければ、埃一つ立たない床が見えた。
丁寧に掃除された、床だ。
「なぁ、まだ続ける気、あるか?この生活」
魔理沙がふと口をついた言葉に、妖夢は自分でも驚くほどにすっきりとした思考で返答を導くことが出来た。
答えは、最初から一つしかないように思えた。
「魔理沙は、どうしたい?」
気がつけば、余所余所しい敬語はなくなっていた。
ただ自然に、魔理沙に語りかける。
「妖夢は?」
「なら、決まり」
「そうだな」
魔理沙は、近くに転がっていた帽子を、被る。
そしてそれを下げて、顔を隠した。
そんなに直ぐに腫れまでは治せないからこそ、恥ずかしかった。
「今度は互いに、色々考えてみよう」
「ああ、なんか、できそうだ」
立ちあがり、互いに向き合う。
腫れた頬を見ても、もう笑ったりはしなかった。
晴れやかな顔を見ていると、なんだかもうそれでよかった。
どちらかともなく、手を差し出す。
それはきっと、挨拶だったのだろう。
本来なら、最初に交わすべく儀式。
「これからよろしくね、魔理沙」
「ああ、よろしく頼むぜ。妖夢」
固く結んだ手は、しばらくそうして繋がっていた。
それが、握手が最初の儀式だというのなら、きっとこの瞬間が“最初”だったのだろう。
二人の生活の、本当の始まりであった。
―― 一章-Ⅴ ――
掃除は二人で協力して。
洗濯と料理は、当番制。
修行風景も見ながら、気になったことも言い合って。
喧嘩という過程を経て、二人は息の合った生活を送っていた。
喧嘩から、更に三日。
白玉楼を出て、もう九日目になる。
戻らないことは心苦しい。
けれど幽々子がああ言った以上、答えを得ずに戻ることは出来なかった。
朝焼けの中、妖夢は剣を振る。
答えの探し方なんて、よく解らない。
けれど朝露に刃を映し出せば、それだけで心が澄んでいくのだ。
紫雲が東へ延びて、振り下ろす刃が瞬く。その度に、妖夢は己を整えることができていた。
「ふぅ」
大きく息を吐いて、鞘に収める。
そうして、ただ何もない空間に、一礼をした。
「おはようさん」
かけられた声に、妖夢は微笑む。
ずっと彼女が見ていたことは、気がついていた。
彼女が、魔理沙が邪魔をしないように、大人しくしていてくれたことも。
「おはよう、魔理沙」
魔理沙は妖夢の隣まで来ると、彼女が今し方見ていた風景に目を遣った。
そこに何もないことは、百も承知だろう。
けれど彼女の瞳には、心地よい好奇心の色が浮かんでいた。
「なぁ、妖夢」
「なに?」
前を向いたまま、魔理沙はそっと声をかけた。
ただ世間話でも振るように、静かに、強く。
「妖夢の師匠って、どんな人だったんだ?」
言われて初めて、妖夢は自分の事をなにも話していないということに気がついた。
自分の師匠――剣の道を、教えてくれた人。
瞳を閉じれば直ぐにでも思い出すことが出来る、大きな背中を幻視する。
「強い人だった」
ひとたび剣を振れば、斬れぬものなど何もなかった。
それが、妖夢の師匠、魂魄妖忌の姿だった。
強く、たくましく、厳しく。
「優しくしてくれたことなんて、片手の指で数えられる程度」
それでも、優しくされたことがあった。
庭の剪定や料理の練習で、怪我をしたとき。
理由を聞きながら、それでも優しく介抱してくれた。
妖夢は頭の中に、その日のことを思い浮かべる。
否、優しく温かかった、その“日々”のことを。
「斬ればわかる、口癖のように教えてくれた言葉」
魂魄妖忌が、剣の、断迷の極意として伝えた言葉。
斬ればわかる。斬れば、全てわかる事が出来る。それが、迷いを断つ。
妖夢は未だに、その言葉の意味が理解できずにいた。
「私がまだ幼い頃、師匠と……お祖父ちゃんと、手合わせをして」
ただじっと聞く魔理沙。
彼女は時折、妖夢の顔を盗み見ていた。
確かな熱を込めて語る、妖夢の優しげな表情を。
「その後直ぐ、私に跡目を譲って去ってしまった」
「理由、は」
「頓悟したんだって。幽々子様がおっしゃっていたわ」
頓悟(とんご)――突然悟り、そうして幽居した。
それが、魂魄妖忌が妖夢の下を離れていった顛末である。
「魔理沙の師匠は?そういえば聞かないけど……いるの?」
妖夢が問うと、魔理沙は一度静かに目を伏せた。
それからゆっくりと、噛みしめるように、頷く。
「ああ。そうだな、うん、そうだ……強い人、だった」
思い浮かべるのは、深緑色の髪。
基本的に足はなくて、でもたまに足を作る事も出来た不思議なひと。
自らを悪霊と名乗った、魔理沙の師匠。
「魅魔さまって言ってな。強くて、頭が良くて、厳しくて、優しいひとだった」
歌うようだった。
吟遊詩人が望郷の歌を唄うように、魔理沙は思い出の断片を告げた。
風のない空に、ただただ、昔日の残照を奏でていた。
「家族、みたいに思っていたのかも知れない。二人目の、母さんみたいに」
魔理沙が紡いだ言葉を、深くは問わない。
問わずに、妖夢はそっと微笑んだ。
「それなら、一緒だね」
「ああ、一緒だぜ」
笑い合って、踵を返す。
まだ朝食も済ませてないのだ。
さっさと済ませて、今日のことを考えればいい。
そう、二人は、朝焼けを背に歩き出した。
足下に、長く続く大きな影を浮かべて。
その日の夜、計らずとも二人は夢を見た。
暗く、暗く、暗く。
確かにそれは悪夢だったのだけれど、どんな夢かは思い出せない。
ただ、ただ、ひたすらに。
――――昏く不快な、夢だった。
―― 二章-Ⅰ ――
白玉楼の廊下を、歩いていく。
ぼんやりとした視界、白濁した思考。
ただ歩くことしか考えられず、妖夢は夜の白玉楼を歩いていた。
引き抜かれた西行妖。
ひび割れた大地と、空。
廊下や壁を塗らす、黒い水。
何もかもが、妖夢の全てを惑わせる。
一部屋開けて、息を吐く。
立てかけられていた何かが、ごろんと転がった。
一部屋開けて、肩を落とす。
黒い水の中で、見慣れた何かが震えた。
一部屋開けて、微笑む。
畳一杯に広がる水と、投げ出された白い手。
まるで蝶の標本ようだ、と妖夢は思った。
その麗しい標本に、まるで花畑ではしゃぐ少女のような表情で、妖夢は近づく。
美しい蝶を射止めているのは、自分の愛刀だった。
妖怪が鍛えた楼観剣。その幽霊十匹分の切れ味は、妖夢の大切な物を容易く貫いた。
その、黒い水に浮かぶ、桃色の髪と、白い手と、絶望に染まった梅花の瞳が。
小さく、瞬いた。
「あああぁぁぁっっっ」
けたたましい叫び声とともに、妖夢はベッドから転げ落ちた。
その時、枕元に置いてあった楼観剣がぐらつき、ついでに妖夢の上に落ちてくる。
咄嗟の判断で避けることに成功したが、代わりに転がった先、ベッドの足に額を打ち付けた。
「あうっ……は、つぅぅぅっ」
額を抑えて、それから涙目で起き上がる。
小鳥のさえずり、陽光で朧気になる木々の輪郭。
瘴気でむせ返る森の中の一軒家――ここは確かに、魔理沙の家だった。
「ゆ、め?」
胸元を掴むと、己の胸が未だに鼓動を速くしていることに、気がつく。
窓ガラスに映った妖夢の顔は、血の気が引いて真っ青になっている。
身体からは汗が噴き出し、それも妖夢の心胆を冷やしていた。
余計に汗を掻いたせいか、妖夢はひどく喉が渇いていることに気がついた。
それまで、気がつけなかったのだ。あの夢の、衝撃に、立ち直れていなかった。
畳に広がる黒い水、襖にもたれかかっていた老骨、楼観剣で貫かれた――己の、主。
「っはぁ」
肺で淀んでいた空気を、万感の思いとともに吐き捨てた。
もうこれ以上、あの夢を覚えていたくなかったのだ。
つぅ、と妖夢の額から汗が落ちる。床板を叩く己の汗を見て、妖夢はなんとか自分を奮い立たせた。
「はぁ……水、水」
ただ一つの目的に向かって、足を動かす。
台所へ行って水を飲んで、それから鍛錬でもすればいいだろう。
そう考えていた妖夢だったが、ふと、魔理沙の部屋の前で足を止めた。
もしかしたら、魔理沙も同じように悪夢に魘されているかもしれない。
だとしたら助けないとならないと言い訳を考えると、人の温もりを求めて扉を開ける。
妖夢が来てから片付き始めた、魔理沙の部屋。
その窓際のベッドで、魔理沙は寝ていた。
「ぁ、ぅ、ぁあ」
――真っ青な顔で魘されているという、おまけ付きで。
強くシーツを握りしめる左手と、ただ助けを求めるように伸ばされた右手。
苦しげに歪められた眉、引きつった頬、切なげな吐息。
気がついたら、妖夢は走り出していた。
「起きて、起きなさい!魔理沙!」
妖夢の渾身のデコピンが、魔理沙の額にテクニカルヒットする。
手加減は良好。当てた場所が、妖夢がベッドの足にぶつけた箇所と同じだったのは偶然だ。
……偶然なのだ。
「ほぉぉぉぉっ!?」
魔理沙はベッドの上で、額を抑えながらごろごろと転がる。
その様子が余りに痛そうだったから、妖夢は誤魔化すことに決めた。
魔理沙と過ごしている内に、どうやら彼女に染められてきたようだ。駄目な方向に。
「大丈夫、もの凄く魘されていたけれど……」
「ほぅおぉぉおぉ……お?」
妖夢に背中をさすられて、魔理沙は目を瞠った。
そして、妖夢がそうしたように、周囲の状況を確認する。
「なんだ、これ」
ひどい悪夢だったのだろう。
かちかちと鳴る歯、虚ろな中に恐怖の込められた瞳、赤くなった額……は、違うが。
「妖夢、も、見たのか?」
「ええ、ひどい、本当に非道い悪夢だった」
伏せられた瞳。
暗雲の航海から見た海のような紺碧が、薄く閉じられていた。
その内側で揺らめく戸惑いに、魔理沙は妖夢が自分に合わせている訳ではないということを知る。
「妖夢――――これは、“異変”だ」
妖夢もまた、魔理沙の瞳の奥に、琥珀色の陽炎を見る。
彼女もまた、適当なことを言っている訳ではないのだろう。
噛みしめられた歯は、未だにかちかちと音を刻んでいた。
「異変って……それで、どうするの?」
「まずは人里で調査だ。私たち以外の被害を調べよう」
何度も異変解決に出向いているせいか、それを異変であると暫定すると、魔理沙の足は軽くなっていた。
妖夢が親しい人を己の手で斬り殺す夢を見たというのなら、魔理沙も同様だったのかも知れない。
そう考えると、魔理沙のその強がりはいっそう痛々しい物に見えた。
ここで止めるべきではないか。
もしかしたらその方が良いのかも知れない――と、妖夢の頭を警告がよぎる。
「なぁ、妖夢。なんか額が痛いんだがこれって――」
「――異変、絶対解決しよう、魔理沙!」
「お、おう」
若干引いてしまった魔理沙を余所に、妖夢は強く頷いた。
駄目なときの駄目な誤魔化し方は、魔理沙と出会うことで開花した妖夢自身の才能だった。
だったのだが、妖夢はそれに気がつかない。
ただ魔理沙を心配している、というのも、嘘偽りではなかった。
―― 二章-Ⅱ ――
雲一つ無い、とは言えないが、太陽は隠れることなくその姿を見せている。
所々浮かんだ雲は白く、妖夢は魔理沙の言葉が悪夢を紛らわす為のものでは無いかと思い始めていた。
左隣に首を傾けると、既に調子を取り戻した魔理沙が箒に跨っていた。
春先の暖かい風の中、魔理沙の頬は桜色に染まっていて、瞳は星色の輝きを宿している。
その瞳を見ると、妖夢は、やはり異変なのかも知れないと考えを正した。
魔法の森から人里は、さほど遠くはない。
瘴気の残滓が晴れた頃、平地を抜けた先に人間の里がある。
基本的に人妖入り乱れ、誰もがそれに構うことなく快活な笑みを浮かべていた。
「まずは……慧音だな」
魔理沙の言葉に、妖夢は永い夜の異変を思い出す。
主、幽々子と共に夜を駆け巡ったときに出逢った、自分と同じ“半分”だ。
その後も宴会で度々出会っているが、彼女が真面目で好感の持てる人柄だということはわかっていた。
人里上空を、魔理沙が滑空する。
文字どおり滑るような、なだらかな飛行。
その先にあったのは、寺子屋だった。
敷地内には入らず、門前に着地する。
意外と行儀良く入ろうとする魔理沙に、妖夢は上白沢慧音という人物の苦労を思い知った。
こうさせるのに、いったい何度注意をしたのだろうか、と。
「おーい、慧音ー」
魔理沙が門前で声を張り上げる。
そんな大声を上げなくても、聞こえるだろう。けれど、こればっかりは性分なのか、魔理沙は晴れやかな顔をしていた。
そうしてしばらく待つと、見覚えのある姿が歩いてきた。
「……魔理沙、と妖夢か」
妖夢は慧音に、普段から気丈としているイメージしか持っていない。
それは彼女が子供たちの見本になろうと、ぴんと背筋を伸ばしているからだろう。
だから、背が曲がっているだけでも――こんなにも、印象が変わる。
「すまんが、どうにも朝から調子が悪くてな」
乱れたまま直していない髪。
急いで着込んだような皺の寄った服。
なにより目には隈ができていて、今にも倒れそうだ。
「おいおい慧音、大丈夫か?何かあったんじゃないか?そう、例えば――」
「ああいや、特に気にするようなことは」
「――“悪夢”を見た、とか」
魔理沙の言葉に、慧音は目を瞠る。
チャシャ猫のように目を眇めた魔理沙、その後ろで強く頷く妖夢。
二人の姿から、慧音は彼女たちが自分をからかっている訳ではないということに気がついた。
「ああ、そうだ」
本当に、異変という可能性。
妖夢は魔理沙ほどではないとはいえ、幾度か異変に参加している。
けれど、彼女ほど鋭く異変を見抜くことは、できなかった。
数々の異変に乗り込んできた、人間の魔法使い。彼女の状況予測は才能による直感などではない。
培ってきた経験とそれを巧く用いる努力によって、完成されたものなのだ。
「おい妖夢、なにやってんだ?行くぞ」
「ぁ、うん。ごめん、魔理沙」
いつの間にか慧音と話を終えていた魔理沙が、妖夢に声をかける。
慧音は妖夢の会釈にそれを返すと、ふらふらと寺子屋の敷地内にある離れに戻っていった。
「慧音、なんだって?」
「聞いてなかったのか?……人里の全容を見たいなら、ここじゃない方が良いってさ」
「ここじゃない方?」
妖夢の問いに、魔理沙はただ、笑う。
口角をつり上げて笑う姿は、如何にも彼女らしい茶目っ気が垣間見える。
やはり、魘されている姿なんかではなくこちらの方が、ずっと彼女らしい。
人里の中を歩いて、その中央まで進む。
行き交う人々の快活さは、何度見ても心地よい……はずだった。
だが異変だと確信してから周囲を見ると、誰も彼もが元気に振る舞うことで気を紛らわせているような感触を覚えた。
「ここだ」
「ここ、は?」
大きな屋敷だった。
白玉楼や永遠亭、紅魔館に命蓮寺とは比べものにもならないけれど、しかしここは人里だ。
人間の里の中にこんな大きな屋敷があるということを、妖夢は知らなかった。
彼女が時折利用する八百屋や魚屋という商店からは、離れているのだ。
魔理沙が意外にも行儀良くノックをすると、正門隣の勝手口が開く。
そこから出て来た奉公人と思われる女性も、やはり青い顔をしていた。
「阿求に会いたいんだが、いいか?」
「今回の、“悪夢”のことです」
魔理沙が言い放ち、すかさず妖夢がフォローする。
どちらか片方が落ち着いている状況なら、さほど駄目なフォローもしないようだ。
奉公人と思われる女性は、たった一度肩を震わせると、そのまま一礼して戻っていった。
「ここはどこなの?魔理沙」
「うーん……物書きの家だ」
大別すれば含めて良いのかも知れないが、だいぶ違う。
そのことに気がつかず、妖夢は感心したように首を上下させていた。
彼女はまだ、魔理沙の所謂“冗談”への耐性が、足らないようだ。
「どうぞ」
戻ってきた女性に声をかけられ、魔理沙と妖夢は屋敷に入っていく。
静かに整えられた庭と、屋敷の様相。それは仏教観から来る“侘び寂”の空気によく似ていた。
小さな部屋に通されて、妖夢はその中で書物をめくる少女を見る。
濃い紫色、紫陽花色の髪と、同じ色の瞳。
花をあしらった着物から覗く手は、白く小さい。
「阿求、悪夢を見たか?」
魔理沙の言葉と、自分で見た容姿。
そこから妖夢初めて、彼女が自分のことを“幻想郷縁起”に載せたいと取材に来た少女だと、思い始めた。
物を書くけれど、物書きではないのだ。
「そうですね、ひどく不快な夢なら」
阿求は書物から目を離さない。
悪夢を見た者は共通してやつれていたというのに、彼女は平然としていた。
「悪夢では、なかったのですか?」
「悪夢でしたよ。ただいったい、どの“私”を対象にしたものなのかは分かりませんでしたが」
それほど昔の記憶が残っている訳でもないのに、と、阿求は続けて零す。
稗田阿求は、転生者だ。
幾度となく魂を受け継いできた、幻想郷縁起の執筆者。
彼女の見る風景がどんなものであるか、妖夢は計り知れずにいた。
「人里で同様の事態は?」
「起こっています。規模は……まぁ、無差別でしょうね」
「夢の内容は?」
「身近な誰かを手に掛ける夢、なようです」
「なるほど。夢以外は?」
「体調にも、とくには」
流れるような会話。
二人とも、訊ねるべきことと答えるべきことを承知しているような。
そんな微かな疎外感に、妖夢はそっと眉を寄せた。
「……私は、この里の空気を気に入っています」
阿求が突然零した言葉に、妖夢は顔を上げる。
紫陽花色の瞳は書物から引き離されていて、ただじっと魔理沙を、妖夢を見ていた。
「ですから里に再び翳りのない笑みが戻るよう、お願いしてもよろしいでしょうか」
病弱な為、顔色はさほど良くない。
けれど伸ばされた背筋と真摯な表情が、それを感じさせなかった。
ただ凜と佇む、一輪の紫陽花だ。
「おう、任せとけ!」
「はい、お任せ下さい!」
だから二人は、胸を張って頷く。
今彼女たちは、英雄なのだ。
未知の敵に挑み、それを打倒せんとするもの。
幻想郷縁起に綴られた、英雄伝の異変解決人。
確かな誇りに胸を張ると、魔理沙と妖夢は踵を返した。
その澄み渡った瞳になにを見たのか、阿求は歳不相応の笑みを浮かべる。
「よろしく、お願いします」
二人が去った後、阿求は畳に三つ指をついて、ゆっくりと頭を下げる。
そして、彼女たちを見送り、柔らかく微笑むのであった。
―― 二章-Ⅲ ――
人里の外れ。
手の中で箒をくるりと回す魔理沙を、妖夢はただ並んで見る。
勝ち気な笑み、自信に溢れた顔、やり遂げるという意志に込められた琥珀色の瞳。
妖夢の紺碧の瞳もまた似た様な色を浮かべていることに、彼女は薄々と感じていた。
「次はどうするつもりなの?」
「夢の中に入る」
簡潔に述べられた言葉。まさしく、夢物語とでもいうべきか。
妖夢のそんな訝しげな感情は、変わらず前を見続ける魔理沙を見て、吹き飛んだ。
好奇心でなにもかも成し遂げようと神秘を手にする、魔法使い。
こうして“未知”に挑むときの表情は、魔理沙の他のどんな顔よりも可憐だった。
「たぶん、準備さえ出来れば何とかなると思うんだ」
「その準備が、大変ってこと?」
「ああ、コイン一枚だぜ」
魔理沙はそう言うと、箒に跨り浮き上がる。
妖夢もまた、そんな魔理沙の横に付き従った。
空へ舞い上がり、速度を上げる魔理沙に着いていく。
ともすれば置いていかれそうなほどに魔理沙は早く、着いていくのに精一杯だった。
通り過ぎる光景が、ただ色の続く線と化し、春風が頬を打って身体が一気に冷え込む。
「準備さえ整えば良いんだが……それには、参考書が必要でな」
「参考書……って、まさか」
そうして、魔理沙が急停止する。
それに倣って妖夢も止まるが、勢いを付けすぎてやや前に出てしまった。
眼前に広がる真紅の屋敷に、誰よりも強く踏み込まんとせんが如く。
「やる気だな、良いことだぜ」
「勢いが付いちゃったのよ。……で、誰もいないみたいだけど?」
「あ?そういえば妖精の姿は見えないが……ああでもほら、門番、は」
魔理沙の声が、途切れ途切れになる。
それに首を傾げて視線を遣ると、門前には確かに門番がいた。
宴会の異変の時、妖夢と軽く手合わせをした門番と――魔法使い。
「え?」
異様だった。
七色の魔力を溢れさせながら、門番の横に佇む魔女。
全身を淡い紫で包み込んだ彼女の顔は、暗く伏せられていて窺うことが出来ない。
わかる事があるとすれば、ただ彼女が尋常な様子ではないということだ。
「パ、パチュリー。悪い夢でも見たのか?」
紅魔館地下代図書館の魔女、パチュリー・ノーレッジ。
紅の門番、紅美鈴の横に浮かぶ彼女は、ただ首を横に振った。
「見てないわ。寝てないもの」
その悪夢の回避方法は、地味に盲点だった。
けれど、パチュリーの表情から、異変を調べるような気配は無かった。
その割りには空気は重く、どこか痛々しい。
「お、おい、美鈴。パチュリーのヤツ、どうしたんだよ」
ここで初めて、魔理沙は美鈴に声をかける。
こんな状況でも変わらず笑みを浮かべていて、その表情は強かだ。
美鈴は笑顔を崩さないままパチュリーの背をさすり、魔理沙に視線を寄越し、ついで妖夢を見た。
「おはようございます、魔理沙さん。っと、妖夢さんも」
「おう」
「は、はい。おはようございます。美鈴さん」
暢気に会話をしていて良い空気ではない。
そう言おうと口を開きかけた妖夢だが、それは当のパチュリーから遮られた。
「久々に、研究が捗って、参考になる本を読もうと思ったの」
「ま、まさか」
魔理沙の声が、震える。
その震えに呼応するように、あるいは伝染するように、パチュリーの周りの空気が震えた。
「そうしたらね、一冊だけ足らないの、そうね、鼠かなって」
「ま、待て、返す!返すから!」
「死んだら、でしょう?手伝ってあげるわ」
顔を上げたパチュリーの、その瞳。
淡い紫色だったはずのその瞳は、不自然なほど光っていた。
光りすぎて、むしろ自然に思える。
「ま、魔理沙!あなた、何をやったの!?」
「れ、連番の途中を借りた」
「みょん!?」
それは怒る。
魔導書がどんな構成になっているか知らないが、妖夢だって時代劇を呼んでいて、次の巻で突然仲間が裏切り者として処刑されていたら唖然とする。
した上で、おそらく犯人と思われる悪戯好きの幽霊を締めにいくだろう。
つまり、そういうことであった。
「異変解決に必要なんだ!だから、本を貸してくれパチュリー!」
「いいわ。私“たち”に勝てるものならいくらでも貸してあげる」
不気味な笑みを浮かべるパチュリー。
その正面、魔理沙と妖夢からパチュリーを護るように、笑顔の美鈴が立った。
「ただし負けたら、死んで返しなさい!」
「あっはっはっ、今回ばかりではありませんが、自業自得ですよ?」
何時かの宴会の時のようなルールなのだろう。
格闘技を織り交ぜた弾幕ごっこ。
美鈴の最も得意とする戦い方であり、パチュリーの最も苦手とする戦い方。
それの火蓋は、あれよあれよという間に切って落とされてしまったようだ。
「あー、くそっ!ひとまず応戦だ。行くぞ、妖夢!前衛を頼む!」
「ええ、わかったわ、魔理沙!」
背から一息で抜かれた楼観剣が、太陽の光を反射してきらりと光る。
一振り薙ぎ払い構えるは、脇。
刃の長さを悟られまい――覚えていられたら意味を為さないが――と、妖夢は美鈴から楼観剣を隠した。
「あなたとの組み手も久しぶりですね」
「はい。でも、今回“も”勝ちます」
宴会の異変の時は、美鈴に勝つことが出来た。
その上、今回は格闘技で戦う者なら苦手とせずにはいられない、空中戦。
これだけ状況が揃っているのなら、今回も打ち破ればいい。
そう瞳で強く訴える妖夢に、美鈴はほんの少しだけ微笑みを崩した。
――崩して、艶美な笑みを象る。
「はい。楽しみにしています」
ふと視線を逸らせば、魔理沙は真っ直ぐとパチュリーに飛んでいった。
――その背中に、美鈴がクナイ弾を放つ。
「なっ」
「土水符【ノエキアンデリュージュ】」
背中に目でもついているのではないかという速度で、魔理沙が身を翻す。
そこへパチュリーの魔法が放たれた。泥水の、怒濤が。
「避けて!」
「おっと、無視をされては困ります」
「っ」
眼前に迫る拳を、妖夢は寸での所で避ける。
しかし、傾けた先に迫るのは、避けたはずの拳だった。
蛇のように意志を持ちしなる腕を、妖夢は白楼剣を抜かずに盾にした。
抜くことが、できなかったのだ。
「ッなら」
白楼剣に拳がぶつかる、そのインパクト。
衝撃をいなし、弾き、ぶつける妖夢のカウンター。
慧眼――炯眼(けいがん)の、剣。
「シッ」
一息一閃。
白楼剣で拳を弾いた一瞬の隙に、楼観剣で美鈴の胴を薙ごうとする。
一挙一動まで積み上げられた修練の基盤は、今ここで、妖夢の反射試験を最大まで回転させていた。
「“ウィンターエレメント”」
一撃必殺――だがそれも、一対一に限ったこと。
「っぁあ」
足下から吹き出た水に、妖夢は思わず後退する。
空にいてなおこちらを狙撃する優秀な魔女は、魔理沙の猛攻を防御に徹することでいなしていた。
怒りに身を任せながらもなお、冷静な判断力。紅魔館の魔女の、実力の一端。
「“天龍脚”」
水によって後退した妖夢が見たのは、迫り来る七色の光だった。
陽光煌めき携え舞う虹は、暗雲を打ち破る飛竜の咆吼。
その息苦しい圧迫感を、妖夢は――呑み込んだ。
「“折伏――」
悪人を屈服させ、その思考を否定する。
折伏(しゃくぶく)と名付けたその意味は、相手を屈服させ己を押し通すことにあった。
美鈴の虹色の蹴りを、前に踏み込んで避ける。
半身になってもその威力を交わしきることが出来ず、妖夢の頬に一筋の赤が刻まれた。
それでもなお、妖夢は楼観剣を納めた右手で、美鈴の胸ぐらを掴んだ。
「――無間”」
永遠に他者を屈させる。
ともすれば悪徳とも思われかねないその思想も、ひとたび己が正義の為に用いれば、自分にとっての必殺――最善――となり得るのだ。
「とった!」
掴んで、投げる。
投げは、相手の重心を崩すことに意味がある。
支えている支柱を見失えば、たちまち威力は弱まるのだ。
ましてここは空中。空中戦ならば、それに慣れた妖夢に分がある。
「妖夢、スマン!そっち行った!」
ふと妖夢が目を向けると、幾重にも連なる鉄の刃に追われている魔理沙が見えた。
何事かと目を剥いた時、妖夢は美鈴から離れて楼観剣でなにかを弾いた。
それは、今し方魔理沙を追いかけていた、鉄の刃の、一つであった。
「あなたも余所見をしていて良いの?」
「くっ、パチュリー」
追いかけられていた魔理沙は、気がつけばパチュリーの正面まで来ていた。
咄嗟に魔法で牽制し離脱しようとするも、発動は、パチュリーの方が遙かに速い。
「金木符【エレメンタルハーベスター】」
木製の脱穀機。
その鉄の刃が、魔理沙の眼前に迫る。
美鈴に張り付かれている妖夢は、それを助けることが出来ない。
「魔理沙!」
「ッ――」
ここで終わりなど、認められない。
そう自身に負荷がかかることを承知で、魔理沙が魔力の逆噴射で離脱する。
それなら入っても浅いだろうと安心したのも、束の間であった。
「ぇ?」
ハーベスターが横に寝て、パチュリーから発射される。
その方角にいるのは、魔理沙を心配していた妖夢だった。
妖夢の足首の高さに来たそれに、妖夢は戦慄する。
「まさか、最初からッ!?」
妖夢が咄嗟にしたのは、足首を切り刻もうと迫るハーベスターを踏むことだった。
回転するそれを踏みでもしたら、足が傷つくかも知れない……なんて、心配は、別の脅威に打ち砕かれた。
妖夢が踏むと同時に、回転が停止。
――その“足場”を見逃す美鈴では、ない。
「気符【地龍――」
ハーベスターに、左足が踏み込まれる。
その強烈な震脚は、気の波を生み出し妖夢の重心を崩し。
そして、飛び上がると同時にハーベスターを粉々に砕いた。
「――天龍脚】!」
最初に重心を崩すことで活路を見いだそうとしたのは、妖夢だ。
だからこそ妖夢は、自分がこの一撃を避けられないということを、悟った。
咄嗟に楼観剣を盾にするも、それでは、衝撃の全てをいなせない。
「ッあぐ、あぁぁぁぁっ!?」
鋭い衝撃に、吹き飛ぶ。
空中で、己の意思で立て直すのに、幾分か時が必要だった。
けれども、その間にも、魔理沙が追い詰められて――そして。
「火金符【セントエルモピラー】」
「ぐぁっ!?」
強く上がる火柱が、障壁ごと魔理沙を弾く。
奇しくも同じ場所に停止した魔理沙に、妖夢は痛みを堪えて飛び寄った。
「づっぅ……なんつーコンビネーションだ」
吸血鬼、レミリア・スカーレットの居城、紅魔館。
そこで如何なる歴史が紡がれてきたのか、妖夢は想像することしかできない。
けれど、培われてきた経験に、信頼に、妖夢たちは確かに押されていた。
「こっちも、コンビネーションを、なんとか……」
「急造で、か?」
完膚無きまでに叩き潰すつもりなのだろう。
普段なら有無を言わせず止めを刺しにかかるであろうパチュリーは、ただ獰猛な笑みで佇んでいた。
こうして見て初めて、妖夢は彼女が怒っていることを思い出す。
冷静な判断で戦闘をしているように見えたのは、ただたんに積み上げられてきた経験と信頼の成せる技だった。
「ねぇ魔理沙」
「なんだ?」
培ってきた、信頼。
思い浮かべた言葉に、妖夢は一つ、閃いた。
閃いたと言うには、些か頼りない策であったのだが。
「私たちが築いてきた信頼って、どんなものだった?」
「は?そりゃあ、おまえ――――ああ」
魔理沙が、笑う。
勝ち気で、我が儘で、悪戯小僧のような瞳。
好奇心、猫を殺す。けれどパチュリーたちにとって、魔理沙は鼠だ。
ならば鼠を生かすのは、好奇心ではないのか。
新しい戦い方、新しいスペルの使い方。
それは確かに、魔理沙の好奇心をくすぐるものであった。
端的に言うのなら、卑怯卑劣の類は妖夢の肌には合わない。
けれどそういった意味で両極端と言える魔理沙との生活は、彼女の中に“折り合い”を生み出していた。
元来純真で染められやすかったのも、幸いしたのだろう。
「待たせたな、パチュリー、美鈴」
「作戦タイムは終わり?ちゃんと、死亡フラグを立てておいたかしら?」
「死亡フラグ……また外の本の情報ですか?パチュリー様」
「黙りなさい、美鈴」
コントをしつつも、気を抜かない二人。
そんな二人を見ていると、妖夢は途端に申し訳なくなった。
これから自分たちがするのは――ある意味、人をおちょくることなのだから。
「行くぜ!」
最初に、魔理沙が飛び込む。
その横に、ぴったりと妖夢を張り付けて。
一塊であるのなら、パチュリーの魔法で一網打尽にすればいい。
「懲りないわね。火金符【セントエルモピラー】」
再び放たれた火柱を前に、魔理沙は斜め上に飛び上がる。
その動きに目を瞠る妖夢の姿を見て、美鈴は首を傾げた。
「きゃあぁぁっ」
「へっ?」
火柱に巻き込まれて、木の葉のように吹き飛ぶ妖夢。
直接当たったようには見えなかったが、パチュリーの魔法の威力は凄まじい。
その衝撃に当てられたと考えれば、不自然ではない。
「妖夢!おまえの犠牲は無駄にはしない!……彗星【ブレイジングゥ――」
「仲間を盾に……見損ないましたよ、魔理沙さん」
すぅっと眼を細め……そうして、残念な表情で浮かぶ妖夢に気がついた。
爆風を受けたはずなのにその身体に欠損はなく、服に乱れはなく。
そしてなにより……刀が、無い。
「いけない……パチュリー様!」
気配がない……のではなく。
魔理沙の背後、派手な魔法の光で隠れる姿。
もう迎撃の叶わない速度に達した魔理沙の背後から、妖夢が飛び出した。
「残念ですが、あれは残像です!」
半霊である。
それほど効果時間が長くないのか、妖夢だったものは半霊に戻って、ふわふわと妖夢の下へ戻ろうとしていた。
「慌てないの、美鈴」
「――スタァァァァァァァッッッ】!!」
「土金符【エメラルドメガロポリス】」
地面のないところから、エメラルドの柱を乱立させる。
七曜の魔女パチュリー・ノーレッジに、不可能なことなどちょっとしかない。
魔理沙の特攻を、パチュリーは防ぐ。
その頭上に浮かぶ妖夢の姿を捉えて、美鈴は迎撃しようと動いた。
けれど、その背後には――半霊が、迫っていた。
「“憑坐の縛”」
憑坐(よりまし)の縛。
美鈴に纏わり付いた半霊から、弾幕が放たれる。
ただ周囲にばらまくだけの弾幕も、背後から迫るとなれば脅威だ。
「人符【現世――」
妖夢の足が、エメラルドメガロポリスの壁面に踏み込まれる。
急転直下の体勢で、ただ真っ直ぐパチュリーを見据える紺碧の瞳。
パチュリーはアメジストの瞳で眠たげに睨み返すと、そっと指を向けた。
「私を忘れて貰っちゃ困るぜ」
パチュリーと美鈴。
両者の足下に浮かぶ、二つの瓶。
そこから放たれる謎のキノコ臭に、二人は同時に頬を引きつらせた。
「魔廃【ディープエコロジカルボム】」
目を閉じれば思い浮かぶ、研究と失敗の日々。
もうどうしようもなくなった産業廃棄物の数々を、一生懸命煮詰めた爆弾。
本人ですら触るのも嫌なその爆弾を前に、パチュリーは慌てて障壁を張った。
「――斬】」
「え?」
その障壁を――妖夢が、断ち切る。
神速の踏み込み、抜刀からの通り抜け。
障壁を斬り裂いた妖夢は、そのままパチュリーの遙か下へ駆け抜けた。
コンビネーションは、即席に過ぎない。
やったことは、普段と何も変わらない。
それ即ち――やりたいことの、譲り合い。
「きゃぁぁぁっ」
「うわっ!?」
パチュリーと美鈴、両者を一週間は取れないであろうキノコ臭が襲う。
これから一週間、ないし二週間は、この館の主とその妹は、彼女たちに近づけないことであろう。
むわっとした臭いの中、目を回す二人。
二人を見て、妖夢はいたたまれない気持ちになる。
それは魔理沙も同様なのか、そっと目を逸らしていた。
「魔理沙は本を探しておいて」
「ああ。妖夢は?」
「魔理沙の家から、本を回収してくる」
断言した妖夢に、魔理沙は口を閉じたり開けたりしていた。
そして逡巡して、逡巡して、逡巡して、キノコ臭に我に返って頷いた。
「頼む」
「うん」
門前で、二人は別れる。
魔理沙は紅魔館の中へ、妖夢は一路魔法の森へ。
異変解決調査の二歩目は、なんともキノコ臭い終演であった。
―― 二章-Ⅳ ――
紅魔館にだいたいの本を返すと、霧雨家はなんともすっきりとしてしまった。
新しい本を抱えて来た魔理沙は早くも後悔し始めて来たようで、すっきりとした部屋を所在なさげに見ていた。
どれが借りた本かは、掃除中に判明している。
だから借りた本だけ返したのだが、それにしてはすっきりしすぎている。
「ほとんど“借り物”?」
「ちょっとは自分のだぜ」
否定はしなかった。
だが妖夢もこれ以上問い詰める気にはなれず、ただため息を吐く。
そんな妖夢の仕草に気がつかないのか、目を逸らしたのか、魔理沙は早速魔導書を開いた。
その瞳は既に好奇の形に眇められていて、こうなったら何を話しかけても無駄だろう。
なら、自分に出来ることは何か。
そう考えた妖夢は、台所へ向かっていた。
せめて魔理沙が集中して作業に取りかかれるように、腹を満たすものでも作ろう。
魔理沙の好物は既に把握している。
彼女は、キノコの味噌汁よりもキノコの炊き込みご飯の方が好きなのだ。
切れ味が良すぎるほどに研いだ包丁。
白楼剣をぬめらせられても困るので、妖夢自ら丁寧に手入れした包丁だ。
それを手に握ると、ふと桜色が脳裏に沈んだ。
そういえば、幽々子はどうしているのだろう。きちんと、食べているのだろうか。
そこまで心配して、そして直ぐに頭を振る、彼女は、子供ではないのだから。
だから自分が居なくても、大丈夫。
彼女の師匠であれば胸を張って笑い飛ばすであろう言葉も、何故か紡げはしなかった。
「私は、臆病なのでしょうね。師匠」
包丁に映る己の姿は、何も答えない。
ただ感情を受けた半霊だけが、ふわふわと浮かんでいた。
結局、魔理沙の研究が終わったのは、月が中天にかかる頃であった。
夜寝たら、また悪夢に魘されることになる。
それだけは避けたいことであり、魔理沙の研究速度を飛躍的に速める動力源でもあった。
「よし!ギリギリ成功だッ!」
「お疲れ、魔理沙!」
「おう、疲れた!」
謙遜がないのは、彼女の美徳だ。
そのどこまでも真っ直ぐな姿勢は、両極端な仲にあっても互いに評価できる部分であった。
「それで、どうするの?」
「二人で同じ夢に入る」
首を傾げた妖夢に向かって、魔理沙は不敵に笑う。
細められた瞳で手にするのは、あの魔導書であった。
「そんなことが、できるんだ」
「魔法ってのは、“無理”を鼻で笑うことだからな」
それはなんとも、不遜な言いぐさだった。
けれどそうやって常識を吹き飛ばしてきたからこそ、今の彼女の輝きがあるのであろう。
星の瞬きを凝縮して、宝石にしたような煌めきが。
魔理沙はチョークを取り出すと、小さなナイフで指先を切った。
チョークの粉に血を混ぜながら、床に線を引いていく。
込められた魔力に呼応して陣が赤く光ると、先程までは何事もなかった霧雨家が、途端に神秘的なものに切り替わった。
「妖夢も、真ん中に」
ナイフを手渡されて、頷く。
多少切れ味が悪くても、妖夢の腕なら楽に傷つけることが出来た。
そうして流れ出る真紅を陣に落とすと、不可思議な反応を見せ、空間が五色に瞬き始めた。
「心の準備は良いか?」
「何時でも良いよ、魔理沙」
「よし、それなら行くぜ」
「ええ、行こう!」
光が満ち、充ち、未知への道を造る。
途端に襲ってきた眠気に不安になるも、魔理沙の表情を見るとそんな不安は消し飛んだ。
意識を失おうとしながらなお、挑戦的な琥珀色を見ていると。
そうして二人は、夢の中へ――飛び込むのであった。
―― 二章-Ⅴ ――
赤茶けた大地、淀んだ雲、影を纏う太陽、東側に見える三日月。
その暗く落ち込んだ空間に、二人は足を踏み入れた。
ひとたび息を吸い込めば、真に迫る焦げ付いた臭いが鼻をつく。
ここが夢の中であるなど、いったい誰が想像できようか。
「これが……悪夢の?」
「ああ。中だ」
魔理沙も、その空間に目を鋭くしていた。
一歩踏み出す度に赤茶けた大地が躍動し、途端に泥に変わって波紋が広がる。
慌てて足を引き抜けば、そこには変わらぬ赤土があった。
その奇妙さ、不可思議さ、不快さは、まさしく“悪夢”といえた。
「進もう、妖夢」
「うん」
魔理沙は乾いた唇に舌を這わせると、帽子の中からミニ八卦炉を取りだした。
夢の中にも持って行けたのか、それとも夢の中だから自由なのか。
ただ一つ言えることがあるとしたら、妖夢の二振りの愛刀は、彼女の腕の中で変わらぬ重みを宿しているということだけであった。
枯れ果てた木に、葉はない。
けれど、その枝の先端には、毒々しい果実が実っていた。
視界を掠める、幾重もの果実。
そのどれもが鮮やかな色をしていて、目を閉じても残滓に悩まされた。
リアリティのありすぎる空間。紫のリンゴ、青い桃、黒いスモモ、それから――オレンジ。
「え?」
妖夢が思わず足を止めると、魔理沙もそれに倣う。
ただ変わらぬ色で生り茂るオレンジ。この空間でなければ、問題ない。
だがこの不可思議な空間にあってなお鮮やかなオレンジは、妖夢の瞳を容易く灼いた。
『――――』
「妖夢、下がれ!」
魔理沙の声で、咄嗟に跳躍する。
寸での所で避けた妖夢の、正面。
そこにはどことなく美鈴に似た雰囲気の、女性がいた。
特筆すべき部分があるとすれば、一つ。
彼女の目が、木の洞のように、白目すら黒く濁っているということだろう。
瞬きをする間に流れ出る涙は、泥のように黒かった。
「“ナロースパーク”」
『――ッ』
魔理沙から放たれた白い閃光が、それを灼く。
途端に妖夢は走り出し、すれ違い様に胴を斬り裂いた。
鎧袖一触――斬れぬものなど、ほとんど無い。
「ふぅ」
『―ッ――……―』
女性が倒れ、そして泥に変わって消えていく。
そこに何かがいた形跡はなく、あのオレンジすらも消えていたのだ。
「魔理沙?」
妖夢は、魔理沙を見て小首を傾げた。
目を瞠って消えた女性を見る彼女は、なんともらしくない、戸惑いの表情を浮かべていたのだから。
「あ、いや……なんでもない。気のせいだ」
魔理沙はそれだけ言うと、さっさと歩き去ってしまう。
足早に立ち去ろうとする魔理沙。
妖夢は、そんな彼女の様子のおかしさを知りながらも、追いかけることしかできなかった。
心なしか、普段よりも、背中が小さい。
そうして魔理沙の全身をどこともなく見ていた妖夢は――今度は、魔理沙よりも早く、気がついた。
『――ッ――……!!』
「次から、次へと!」
魔理沙を突き飛ばし、白楼剣で魔理沙を襲おうとした凶刃を受け止める。
目から黒い水を出し続ける、赤い髪の侍。
その鋭い太刀筋に驚きを見せながらも、しかし妖夢は冷静だった。
白楼剣で弾き、楼観剣を素早く引き抜く。対美鈴の時は成功しなかった一撃。
「“炯眼剣”」
一撃必殺のカウンターが、侍を袈裟に斬り裂いた。
刃で傷つけたのにもかかわらず、その傷口から血は吹き出ない。
ただ、やはり先程と同じように、泥となって消え失せた。
「魔理沙、一度退こう!これじゃあ、誰が元凶か判らない!」
妖夢が思ったことは、本当だ。
けれど考えたのは、それだけではない。
明らかに調子のおかしい魔理沙を連れて帰らねばならないという考えも、確かにそこにあったのだ。
「ッ――――わかった。行くぞ!」
魔理沙と共に並んで、妖夢は走る。
弾幕を半霊に撃たせながら、ただひたすらに走って――魔理沙が撃ったマジックミサイルで開けた穴に、飛び込んだ。
白く続く、無音の空間の中に。
―― 二章-Ⅵ ――
瞼の裏を灼く、光。
その強烈な輝きで、妖夢は目を醒ました。
ふと隣を見れば、安らかな表情で眠る、魔理沙の姿。
魔法陣の中、二人は身を寄せ合って眠っていたのだ。
「もう、朝なんだ」
陽光は眩しく、鋭い。
今日の天気は、昨日にまして良くなっていた。
妖夢はその眩しさから目を逸らすと、起き上がる。
昨晩作って置いておいた炊き込みご飯が、残っているはずであった。
味噌汁を温め直し、炊き込みご飯をおにぎりにする。
ついでにキノコの炒め物を作っていると、ちょうど魔理沙が起き出してきた。
「おはよう」
「おう。……ふわぁ、悪いな、二日連続で任せちまって」
謝りながら、魔理沙は席に着く。
よほど眠いのか、首はこくりこくりと上下に揺れていた。
それも仕方がないと言えるだろう。昨晩までは、夢で追い詰められていたのだから。
「話は……うん、後にしよう」
ひとまず今は、腹ごなしだ。
妖夢はそう強く頷くと、食卓に料理を並べる。
その豪勢さに、魔理沙は目を輝かせた。
好物を把握されている為、たまにこうして好きなものだけの料理が出てくるのである。
「おう、相変わらず美味そうだな。いただきます!」
「はい、召し上がれ」
言いながらも、自分も手を合わせて食べ始める。
火の通りも良く、味付けも良い、これなら文句はないだろう。
そんな自画自賛で少し恥ずかしく思いながらも、妖夢は食事を続けていく。
炊き込みご飯のおにぎりにかぶりつく、魔理沙。
そこに、昨晩彼女が夢の中で見せた動揺はない。
ただいつもの明るさだけがあった。あるいは、忘れているのかも知れない。
「ごちそうさま」
「お粗末様」
互いに手を合わせて食事を終えると、妖夢は一息吐く。
それから、椅子に深くもたれる魔理沙を見た。
その瞳に、前から見せてくれていた、好奇心と不屈の挑戦心に充ちた輝きはない。
どこか一歩退いているような空気……それでいて、進みたがっているような表情。
「ねぇ、魔理沙」
意を決して、口を開く。
そうしてしまえばもう、遠慮をしているのが莫迦らしく思えてきた。
魔理沙は自分に遠慮を持って接しはしなかった。例え譲り合っても、だ。
「何が気になったのか、教えて」
だからただ、紺碧で琥珀を捉えた。
自分にできるのは、真っ直ぐとぶつかることだ。どこまでも実直に、真摯に。
そう例え、愚直と言われようとも、変わりはしない。
「――敵わないな、本当」
その瞳に、想いに、魔理沙は苦笑する。
ここまで共に踏み込んだ相手に対して、僅かでも隠しておきたくなかった。
結局魔理沙も、妖夢と変わらない。その心根の奥は、なによりも“真っ直ぐ”なのだから。
「見たことがある訳じゃない。まず、それはいいか?」
机の上で手を組み、それからゆっくりと語り出す。
その真剣な瞳に、妖夢はただ、頷いた。
「聞いた事が、あるんだ。死んだ……母さんから」
僅かに憂いを見せて、それから直ぐに持ち直る。
哀愁か、望郷が、それともまた別の感情か。
いずれにしても、その瞳に悪いもの――恨みや後悔――は含まれていなかった。
「私がまだ小さい頃、母さんが聞かせてくれた“おとぎ話”」
「その、登場人物だったって、こと?」
今度は魔理沙が、ただ、頷いた。
魔理沙の記憶に残る風景。
病弱だった母親が、布団の横で目を輝かせる魔理沙に話して聞かせた、物語。
興奮と喜びと未知への好奇心を奮い立たせてくれた、霧雨魔理沙の原点。
魔理沙はその“おとぎ話”を、忘れたことがない。
魔理沙はその“心躍る物語”を、今でも胸に秘めていたのだ。
「妖怪退治に乗り出す巫女、大きな遺跡を求めて戦う魔法使い」
魔理沙が思い浮かべる光景は、どれもこれも美しく、猛々しいものだった。
その光景に、思いを寄せて、魔理沙はそっと目を伏せる。
「私は母さんのことを…………なにも、知らないのかもな」
そのまま顔を伏せた魔理沙が、どんな表情を浮かべているのかはわからない。
けれど妖夢は、魔理沙の浮かべている表情が、何と無しに読み取れた。
これだけ密接に過ごしてきたのに、わからないはずがない。そう、思っていた。
「だったら、今から知ればいいじゃない」
思えば、妖夢は己の両親を知らない。
物心ついた頃には、祖父と未来の主に囲まれていた。
けれど妖夢に全てを教えてくれたのは、妖忌と幽々子で。
妖夢にとっての両親とは、紛れもなく――主に対していって良いのかわからないけれど――妖忌と幽々子の二人であった。
「お父さんは、まだ、会えるんでしょう?」
魔理沙は、親元から勘当されている。
だが、それは、互いが死んだということではない。
まだ、会いに行けば会えるのだ。言葉を交わして貰えるかは、別としても。
「――ったく。とんだ強情ものだぜ」
魔理沙はそう一言零すと、妖夢が目を逸らしてくれた隙に、そっと目元を拭った。
その琥珀に、もう哀愁の色は、なかった。
「お互い様、でしょ?」
「はっ、違いない」
魔理沙は椅子から立ち上がると、指を弾いて掛けてあった帽子を引き寄せる。
それを指先で二回三回と回すと、頭の上に乗せた。
霧雨魔理沙のシンボルは、箒とミニ八卦炉と、黒白衣装にとんがり帽子なのだ。
「気が変わらないうちに、行くぜ!」
「そうね、ええ、行こう!」
この遣り取りも、何度繰り返したか。
けれどこれからも、繰り返していくことだろう。
互いの胸の内側に踏み込んだもの同士――その絆に、翳りはなかった。
―― 二章-Ⅶ ――
人里の一角。
その屋敷に近づく度に、周囲の人が魔理沙を見て振り返る。
多くの視線の中に晒されながらも、魔理沙は威風堂々と歩いていた。
「ここ?」
「ああ」
人の賑わう、大きな店。
人里で最も大きな商店――それが、“霧雨道具店”だ。
魔理沙が店の暖簾を潜ると、そこに目当ての人物はいなかった。
魔理沙の父は、この店のオーナーだ。
直接店に出て仕事をするよりも、むしろ自室で書類仕事をしていることの方が多い。
「お、お嬢様」
「ぶっ」
「お嬢様じゃない。妖夢も、そこで笑うな!」
店員の一人が呻くように漏らした言葉を、魔理沙は否定する。
そしてその言葉に反応して思わず吹き出した妖夢に、ツッコミを入れていた。
真面目な場面で気が緩む癖は、確実に魔理沙から“感染”したものであった。
「こっちにいないなら……妖夢、行くぞ」
「ああ、うん、待ってっ」
走り出した魔理沙に着いて、妖夢も走る。
けれど自力では妖夢の方が速い為、直ぐに追い抜いてしまった。
……ので、じわじわと肩を怒らせる魔理沙に、速度を合わせる。
細目で自分を睨む魔理沙から、妖夢はただ目を逸らすことしかできなかった。
店の裏手に回り、ごく普通の一軒家に入る。
ノックもせずに無造作に入った魔理沙を、妖夢は止めることが出来なかった。
否、止めてはならない気がしたのだ。
「親父」
短く、呼ぶ。
すると奥から、大柄な人影が現れた。
黒い髪をなでつけた、端整な顔立ちの男であった。
「二度と家の敷地を跨ぐな。そう言ったはずだ」
男はそれだけ言うと、踵を返す。
もう言うことはないと、言外に告げていた。
それでは余りにも、魔理沙が報われない。
「あのっ――」
「――任せてくれ」
「魔理沙」
一言なにか、言おうとする。
けれどその一歩は、他ならぬ魔理沙によって遮られた。
これは彼女と、彼女の父親の問題……なら、妖夢はこれ以上言う事が出来なかった。
「母さんのことを、教えて欲しいんだ」
父の背に、魔理沙は告げる。
ただ真っ直ぐと、真摯に、想いを告げる。
病弱だった母親。
彼女を癒す為に、魔法を求めた少女。
魔法を拒み、喧嘩別れした、一組の親娘。
昔日の後悔を無かったことに出来なくても、焼き回すことは出来る。
焼き回したそれを、より良いものにすることは、出来るはず。
霧雨魔理沙という一人の少女の、願い。
「何故だ」
その想いが、再び彼を振り向かせた。
魔理沙と同じ、琥珀色の目を持つ彼を。
「色んな人を苦しめている異変に、母さんが関わっているかも知れない」
拳を握り、慟哭を交えて声を出す。
震えた喉から放たれた言葉は、しかし揺るぎなかった。
「母さんを、私と親父の大好きだった人との思い出を、壊したくないんだ」
言えずにいた想いが、言葉となって紡ぎ出される。
この異変に、魔理沙の母がなんらかの形で関わっていて、もし悪い形で誤解され解決してしまったら。
その時、魔理沙の中の優しかった母親は、色んな人達の中で悪鬼となる。
それが魔理沙は、どうしても、嫌だった。
妖夢は、魔理沙と一緒に言葉を紡ぐことは出来ない。
だから、魔理沙の後ろで、ただじっと彼を見つめた。
魔理沙の真っ直ぐな心に呼応するように、ただ、ただ。
「――良い友達を、持ったな」
「ああ。自慢の友達だ」
彼の声に、魔理沙は刹那、目を瞠る。
それから、妖夢の方を見ることなく、頷いた。
耳まで真っ赤にさせた顔を、必死に隠そうとしながら。
「そうか。きっとその絆は――この道を歩まなければ、得られなかったんだろうな」
彼の言葉は、肯定だった。
長年の蟠りを一時忘れ去り、そして澄んだ琥珀色の瞳を魔理沙に向けた。
もう喧嘩別れしてから、何年になるかわからない。
わからなくとも彼は、この年月に幾ばくかの後悔を抱いていたのだろう。
「来い……長い話に、なる」
「ああ。妖夢も、いいか?」
「友達、なんだろう」
父の許可を貰い、魔理沙は笑顔を浮かべる。
そうしてから、妖夢に手を差し出した。
「私も聞いて、いいの?」
「は?当たり前じゃないか。何言ってんだおまえ」
心底莫迦にした表情だった。
だから、それが照れ隠しとわかって、妖夢は頬を掻きながら手を取った。
魔理沙の生家。その玄関を上がり、魔理沙に手を引かれて歩いて行く。
廊下を曲がり、襖を開けて、やがてさほど広くない部屋に入った。
「ここが、おまえの母さんの部屋だ。覚えているな?」
「ああ……覚えてる」
忘れたりは出来ない。
魔理沙はここで、この部屋の入り口で、母の亡骸に縋り付く父の姿を見ているのだ。
喧嘩別れする。魔理沙が勘当される、その日のことだ。
「まずは、何から話そうか。ああいや……最初から、聞きたいのだな」
魔理沙が頷くのを確認するまでもなく、彼女の父は語り始める。
窓辺では、白百合の花が、微かに揺れた――。
―― 二章-Ⅷ ――
彼が生まれた家は、商人の家だった。
とくに悪くなることはなかったが、とくに良くなることもない。
そんな経済環境に置かれた中堅商人の次男。それが、彼だった。
彼は、商才があった。
けれどどんなに勉強をしても、家を継ぐことは出来ない。
だから一人娘の家に婿養子として入り、そこで自分を立てていくという方法しかなかったのだ。
そこで彼の許嫁となったのが、両親と親交のあった商人の家だった。
彼の家とは違い、里で一番大きな商店――それが、霧雨商店であった。
男子に恵まれず、しかし一人娘を蝶よ花よと育てた霧雨の両親は、信頼できる家のものに娘を預けたかったのだという。
ではそこに恋心はなかったのか、と問われると、彼は即座に否定する。
顔を合わせたのは、まだ二人とも幼い頃。
両親の付き合いで訪れた料亭で、彼は彼女の姿を見た。
淡い金色の髪と、蜂蜜色の瞳。
浮かべた笑顔は蝶のように可憐で、膝元に置かれた手は白磁の陶器のようだった。
その時の感動を、彼は寸分違わず思い出すことが出来る。
それ以来彼は、彼女を連れ出して遊ぶようになった。
小川、森、花畑、鞠、詩、花、茶。
思い出せば数え切れない、輝きを宿した宝石箱のような日々であった。
両親ともに仲が良く、彼らの仲も良く。
この幸福な時間が未来永劫続くのだと――彼は信じて疑わなかった。
そんな日々に訪れた終焉は、妖怪によるものだった。
日に日に激しくなっていく、妖怪と人間との攻防。
その渦中で暮らす彼らが巻き込まれずに過ごせるなどということは、なかった。
誰もが肩を寄せ合って生きなければならない、過酷な時代。
日々の安寧だけを憂い続ける日常の中、ある日、訃報が入った。
霧雨の家の、使用人。
彼女がとくに仲良くして貰っていた、乳母が、妖怪に襲われて命を落としたのだという。
崩れ去った平穏。
関わってしまった悲しみ。
行く宛のない憎悪と後悔。
その日から彼女は、家族を失う恐怖に怯えるようになった。
あどけない笑顔は、引きつった笑みに変わり。
好奇心と向上心に満ちた目は、なにかの影に怯えるようになり。
小川のせせらぎにゆれる砂金のようだった髪は、日に日にくすんでいった。
彼はそんな彼女から目を逸らさず、しかしただ側にいることしかできなかった。
――誰も失いたくない。私は、もう、誰も失いたくない!
それは彼女が見せた、最後の慟哭。
その日から彼女は、力を望むようになった。
彼女は、自分に宿る才能に気がついたのだ。
超常の力を手にすることが出来るという、才能に。
やがて少し経った頃、彼女は突如として姿を消す。
たった一枚の置き手紙に、“魔法を得る”とだけ書き残して――。
――ここから先は、彼が彼女から聞いた話になる。
彼女は森に入ると、直ぐに道に迷ってしまった。
途方もない暗闇とじめじめとした空気。
目を瞑れば、誰かの悲鳴が聞こえてきそうな森。
その中を、彼女はただ前進していた。
噂に聞く、“森の魔法使い”に会いに行く為に。
妖怪が出なかったのは、幸運なんかではなかった。
ただ森の魔法使いを畏れて、その周辺に近づかないようにしていただけだった。
けれど、そんなことは知る由もない彼女は、ただひたすらにつき進むしかなかった。
歩いて、歩いて、歩いて。
足が縺れて転んでも、飛び出た枝で腕を切っても。
彼女は涙を流す――彼が聞いた話なので、定かではないが――こともなく歩き続けた。
そうしてついに倒れ伏し。
そうしてついに出会ったのだ。
深緑色の髪と翡翠の瞳を持つ――魔法使いに。
魔法使いに才を見込まれ弟子入りした彼女は、それから様々な魔法を覚えた。
効率よく使える癖に身体への魔力の適合だけはどうにも調子が悪かったが、それも類い希なる才能と努力で乗り越えた。
最初は、師匠の起こした異変に着いて巫女と戦い。
次は、遺跡から漏れてくる魔力に惹かれて乗り込み。
その次は、湖から溢れ出してきた魔力に惹かれて突撃した。
その後は、外界から襲ってきた吸血鬼相手に、仲間達と奮闘した。
大好きな師匠、いなくては退屈で死んでしまうと断言できる親友。
異変で巡り会った妖怪たちとも、日々充実して過ごしていた。
彼女が自分の力で掴んだ、二度目の幸福。
大切な人たちを失わない為に得た、魔法の力。
しかしそれが呼ぶのは、幸福ばかりではなかった。
魔力が身体に適合しない。
それは、彼女の体調を崩すという形で、彼女に牙を剥いた。
それまでの戦いの負荷から巫女も代替わりを探し始めて、ならば未練も薄いだろう。
彼女の師匠は、そう判断して、彼女を里に帰した。
最後まで破門にしなかったのは、彼女の師匠の、優しさだった。
そうして帰ってきた彼女を迎えたのは、涙と、怒号と、温かい出迎えだった。
漸く家族の下へ戻った彼女は、彼と結婚し、彼は霧雨を継いだ。
二人の間には愛する子供が出来て、幸福な日々が続くものだと、誰もが信じていた。
けれど、その頃になって、魔法の代償が彼女を襲った。
免疫能力の低下していた彼女は、難病に罹ってしまったのだ。
おおよそその時の技術では治すことの出来ない、難病に。
家族三人が揃った幸福な家庭は、長くは続かなかった。
苦労して、苦労して、苦労して漸く築いた幸福は、いとも容易く打ち砕かれた。
誰が悪いというのなら、時代が悪かった。
生きてきた世界が悪かった――けれど彼は、納得することが出来なかった。
何かを恨まずに生きていくことなど、できなかった。
―― 二章-Ⅸ ――
日の落ち始めた部屋に、一つの人生が語り終えられた。
難病に罹った母を治す為に魔理沙が選んだ手段は、奇しくも魔法だった。
魔法を使って母を癒そうとし、そして彼と喧嘩になり、その間に息を引き取った。
「誰が悪いのではない。時代が悪いと知っていた」
大粒の涙が、落ちて、畳に消えていく。
大きな背中が震える姿は、痛々しい。
「けれど、魔法を恨まずには、いられなかったッ」
結果、彼は自らの言葉で娘を失うことになる。
勘当された魔理沙はその後魅魔に弟子入りし、彼女と一緒に魔界の異変を乗り越える。
それからスペルカードルールが制定されて、同時に魅魔は姿を消した。
今日に至る道程。
その軌跡は、全ての道に繋がっていたのだ。
「不甲斐ない父を、許してくれ、魔理沙ッ」
ただ涙を流し続ける父。
その姿に、魔理沙は目元を抑える。
何もいう事が出来ない魔理沙の頭を、妖夢はそっと後ろから抱きかかえた。
「――辛かったら、泣いても良い。泣いても良いんだよ。魔理沙」
「ぅぁぁ、あぁぁぁぁ」
自分の手の下で、魔理沙はただ嗚咽を漏らす。
抗いきれない痛みと気持ちに、ただただ、目を腫らす。
そうしてしばらくすると、落ち着いた魔理沙が妖夢から離れた。
真っ赤に充血した目。父と、同様に。
「私は魔法が好きだ。だから、止められない」
強い瞳だった。
この話を聞いた後でもなお揺るがない、強い瞳だった。
「そう、だろうな」
彼はその言葉が返ってくるのがわかっていたのだろう。
静かに、けれど納得した表情で、頷いた。
「おまえの母さんも、そうだった。魔法が、好きだった」
続いて告げられた言葉に、魔理沙はもう一度目元を拭う。
拭ってただ一度、赤く腫らした瞳で頷いた。
「でも、私は、母さんも…………親父も、好きだ」
「魔理沙、おまえ」
目を瞠る父を、魔理沙はじっと覗き込む。
真っ直ぐな瞳だった。真っ直ぐで、どんな影にも覆われていない瞳だった。
晴れ渡った夜に浮かぶ、一等星のような瞳だった。
「だから、約束する。絶対に死なないって、約束するぜ。親父」
魔理沙がそっと差し出した小指を、彼は震える手つきで合わせる。
小さな子供が自分の親と大切な約束を交わすとき、きっと、こんな風なのだろう。
幼い頃にその思い出を得ることは叶わなかった――けれど、今なら。
「ああ――ああ、約束だ。魔理沙。それと……何時でも帰ってこい。友達と、一緒に」
指切りげんまん、嘘ついたら針千本。
柔らかく震える声で紡がれた、大切で、破りたくない、破ってはならない約束。
それがここに、漸く結ばれたのだ。
己の生家を後にしようというとき。
魔理沙は最後にもう一度だけ、振り向いた。
柔らかい瞳で送り出してくれる父に、一つだけ聞きたい事があった。
「なぁ親父」
「なんだ」
「母さんの師匠って、なんて名前だったんだ?」
話の中に出て来た特徴で、もう解っているようなものだ。
けれども、それでも魔理沙は、聞いておきたかった。
「確か、そう――――“魅魔様”と呼んでいた」
父の言葉を胸に秘めて、魔理沙は今度こそ踵を返す。
「それじゃあ……“また”な、親父」
「ああ。“また”な、魔理沙」
最後に交わし合った視線は柔らかく、妖夢はそこに、祖父の姿を思い浮かべていた。
自分の下を去ってしまった祖父。次に白玉楼に戻ったら、主に祖父のことを聞こう。
妖夢の胸には、そんな願いが生まれ始めていた。
夕暮れの幻想郷に、長い影が落ちる。
二つ並んだ、長く、どこか優しげな影が――。
―― 三章-Ⅰ ――
朝方の魔法の森。
キノコの胞子から発生された瘴気に覆われたこの森は、春先だというのにじめじめとしていた。
妖怪の山へ行けばそろそろ桜が芽吹く頃だろう、冥界は、既に八分咲きだ。
ならば魔法の森はどうなのかと訊ねられれば、迷うことなく“桜などない”という答えが返ってくることだろう。
朝焼けの幻想郷で、魔理沙は妖夢と顔を合わせていた。
この季節の朝方はまだ肌寒く、魔理沙は今、妖夢が編んだマフラーを首に巻いている。
半分とはいえ妖怪と、完全な人間。その健康の保ち方の違いなど、妖夢にはわからない。
だから妖夢は、異変のために奔走し生活リズムが崩れがちな魔理沙を心配して、マフラーを編んだのだ。
「とにかく」
寒さに当てられて上気したのであろう。
魔理沙の頬は、ほんのりと桃色に染まっていた。
「異変の発端が母さんなのかそれとも他の誰かなのは、正直わからない」
「そうね……」
母親の記憶になぞらえて起こる、異変。
その正体を突き止め異変を解決するべきなのは、他ならぬ霧雨魔理沙自身なのだろう。
魔理沙は漠然と、しかしある種の確信を持ってそう考えていた。
「もう一度夢に入り込む必要がある。だよね?」
「ああ」
魔理沙は、眼を鋭く細めて頷いた。
そして、「でも」と話を続ける。
「その前に、やらなきゃならんことがある」
「やらなきゃ、いけないこと?」
「そうだ」
魔理沙の目は、真剣そのものだ。
そしてその真剣さの中には、切実さや、焦燥といった感情まで浮かんでいた。
この異変を解決する。一言でいう分には、ひどく単純だ
だが、魔理沙が、という枕詞をつけると、途端に難易度が跳ね上がる。
「幻想郷の異変解決の、専門家」
「ぁ」
魔理沙の言葉で、妖夢の頭にもその人物が浮かび上がる。
万物から解き放たれ、なにもかもを無視しして元凶を叩き潰す。
空を飛ぶ程度――幻想郷の弾幕ごっこを嗜む人妖なら、誰もが持っているはずの力。
けれどその力も、こと“彼女”のものとなれば、その意味合いが大きく変わる。
「アイツの――霊夢の動向を探る。霊夢に動かれたら、きっと」
博麗霊夢、紅白の巫女。
彼女の手に委ねられれば、異変は瞬く間に解決することであろう。
それこそ、魔理沙と妖夢の入る余地なんか、ないほどに。
「それじゃあ」
「ああ、そうだ」
霊夢の動向を探り、そして彼女の先回りをする。
これこそが、魔理沙と妖夢が行うべきことであった。
箒を片手に、ミニ八卦炉を帽子に。
白楼剣を腰に、楼観剣を背に。
それぞれの準備が出来ると、二人はともに頷き合う。
目指すは幻想郷の端――博麗神社であった。
―― 三章-Ⅱ ――
幻想郷を囲う常識と非常識の論理結界――博麗大結界。
その要となるのが、幻想郷と“外の世界”の境界にある、博麗神社である。
鬱蒼と茂る森を抜け、人気のない獣道を往き、長い古びた石段を登った先。
そこにある博麗神社は、まるで神社に暮らす巫女のように、悠然と佇んでいた。
「あれ?」
妖夢と並んで飛んでいた魔理沙は、ぴたりと空で静止した。
風はまだ冷たく、動いていないと肌寒さを覚える。
この季節は、日によって寒くなったり温かくなったりするが、今日は格別に寒かった。
「まだ動いてない、のかな?」
首を傾げていた魔理沙に、妖夢がそっと告げる。
未だ咲いていない桜の木、春告精は、まだ起き出していないのだろう。
そんな青々とした葉桜の下、博麗霊夢は黒い髪を靡かせて、境内に佇んでいた。
「ちょっと声をかけて――」
「いや、待て」
「――え?」
魔理沙の琥珀色の瞳が、すぅっと細められる。
矯めつ眇めつ境内の霊夢を見る姿は、真剣そのものであった。
「様子が、おかしい」
低く強ばった声が、妖夢の耳朶を撫でつける。
そうしてから再び境内に視線を移すと、先程までとはまた違った光景が見えた。
様子がおかしい……そう示した魔理沙の言葉の意味が、妖夢にも感じ取れた。
箒も持たず、動くこともせず、ただ薄く目を伏せて佇む。
夜色の髪が風でふわりと舞い上がるも、直ぐに乱れ一つ無い形に収まった。
静かだった。静かで、彼女は世界から“浮いて”いた。
「妖夢、覚悟しとけ」
「――ええ、わかった」
生唾を呑み込むと、緩やかに喉が躍動する。
その音が骨から耳に伝わって、妖夢はやっと、自分が緊張していることに気がついた。
妖夢は、今の霊夢に相対することを、本能から避けようとしていたのだ。
箒を傾け、滑空。
巻き上がる葉桜の合間を縫って、魔理沙は境内に着地した。
その後ろにおずおずと、妖夢が付き従う。
「よう、霊夢」
幾分か笑い方がぎこちなく見える魔理沙を、霊夢は見据える。
黒曜石のような瞳が鋭くなったのを、魔理沙は己の琥珀で捉えた。
「霊夢は気がついているのか?この――」
「――今回、私は動かない。動けないわ」
魔理沙の言葉を遮り、霊夢が淡々と言い放った。
その言葉には、激昂も、悔しさも、楽観や悲観でさえ込められていない。
ただ、落ちれば戻って来られないような久遠の空虚が、滑らかな黒曜石の向こう側でがらんとしていた。
「異変の首謀者は、博麗の巫女を目的としている。だから、私が動けば被害が拡大する」
「え?」
「紫のヤツが、言うのよ。“貴女は座して待てばいい”ってね」
ここにきて霊夢は、漸く無感動以外の顔を見せた。
妖夢にとっては、この気怠そうな表情が、霊夢の“本物”であった。
先程までの、まるで、そう――機械のような霊夢は……。
「いけない」
妖夢はそこまで考えて、頭を振る。
横目で魔理沙を見れば、彼女は霊夢が異変に積極的に参加しないということに、胸を撫で下ろしていた。
霊夢さえ乗り出してこないのなら、どうとでもしてみせよう。そんな気概が、瞳に宿る。
「ははっ、そうか。それなら私が解決してやるから、楽しみにしてな」
踵を返し、箒に跨る。
博麗の巫女を攻撃しようとする理由はわからない。
けれど、異変の首謀者が霊夢に手を出す前に見つけてしまえば、それでどうにか出来ることだろう。
「待ちなさい」
そうして飛び立とうとした魔理沙が、呼び止められる。
彼女よりも早く振り向いた妖夢は――大きく、後退した。
攻撃をされた訳ではない。ただ、見据えられただけであった。
それだけなのはずなのに、空虚な瞳は妖夢の背筋を、ぞわりと粟立たせた。
「魔理沙、アンタはこの異変から手を引きなさい」
その黒曜を、空虚を、深淵を、魔理沙は真正面から見返した。
博麗霊夢は、自分のライバルだ。そう言って憚らない魔理沙が、彼女の視線に怯えるはずもなかった。
「それはお得意の“勘”か?霊夢」
「そう勘」
霊夢の声が、強くなる。
それに合わせるように、魔理沙の声もまた大きくなる。
「なんだよ、それ」
「もう一度だけ言うわ、魔理沙。今回は手を引きなさい。妖夢、アンタもよ」
霊夢は、普段の暢気な様子からでは考えられないような鋭い声で、魔理沙と妖夢を打ち据える。
魔理沙を見据える瞳は、刃の形に鋭く削られた黒曜石に、その姿を移り変える。
霊夢は長年の付き合いから、魔理沙がここで退きはしないとわかっていた。
そしてそれは魔理沙も同様で、霊夢が決して退きはしないということを感じていた。
「悪いが私は、手を引く気は無いぜ」
「でしょうね。ま、そう言うと思ったわ」
風が吹く。
博麗神社から吹きさすぶ風が、霊夢の背を押すように。
やがてその風は、霊夢を護りながら霊夢を避けるつむじ風となって――唐突に、止んだ。
「ちょ、ちょっと待って下さい!霊夢」
妖夢が思わず、叫ぶ。
このまま何もせずにいたら、自分では――ただの人妖では手の度解かぬ場所へ、霊夢が行ってしまうような気がした。
そうすれば、きっとこの諦念を知らない魔法使いは、追いかけてしまうのだ。
届かぬと知りながらも、掴めぬと識りながらも、きっと。
「ここで負けたら、素直に神社で寝ていなさい。しばらくは、起き上がれなくしてあげる」
右手に封魔針。左手にアミュレット。眼前に二つの陰陽玉。
周囲にスペルカードを浮かべて、それを直ぐに、しまった。
「そうやって勝ったときのことばかり考えているから、足下を掬われるんだぜ」
箒に跨り。手にミニ八卦炉を持ち。周囲に四色の球体を展開。
左手に持ったスペルカードを眼前に掲げると、直ぐに、帽子の中へ戻した。
「勝てないはずがないんだから、仕方がないでしょう」
いつになく、強気だった。
必ず勝てる戦いでも、彼女はこんなことを、言ったことがないのに。
けれど霊夢は言い放つ。まるで、魔理沙の逃げ道を塞ぐように。
「言うじゃないか」
その糸に絡め取られていることに、魔理沙は気がつかない。
背後で自身の名を呼ぶ妖夢にすら、魔理沙は気がつけずにいた。
ただ噛みしめた歯から、ぎりっ、と強い音がする。
「ええ。だからさっさと、あいつらと一緒に寝ろって言ったのよ。無駄だから」
「あいつら?」
霊夢が空に浮き、少しだけ横に逸れる。
博麗神社の奥、賽銭箱の向こう側、石段の上。
そこに、二人の少女が目を回していた。
どれほどに激しい弾幕ごっこをしたのか、服はぼろぼろになっている。
「早苗……それに、咲夜……」
早苗は異変だとわかった時点――神にでも、忠告されて。
咲夜は魔理沙が本を借りて帰った時点で、動き始めたのだろう。
そうすると彼女たちは、一度霊夢に話を聞きに行く。
場合によっては弾幕ごっこをして、時折少し追い詰めて、それから負ける。
けれどその惨状を見るに、霊夢に傷一つ付けることなく敗北したであろうことがわかった。
「二人に倣って休みなさい。この異変、アンタの出る幕はないわ――魔理沙」
「はっ、おまえこそ寝てればいいだろ、さっさと退場させてやるぜ――霊夢」
身体の内側をかき混ぜられるような、重くのしかかる空気。
妖夢はそれに負けまいと、強く歯がみし声を張り上げた。
「落ち着いて下さい、霊夢!魔理沙も、ぁ」
けれど二人、声は――届かない。
空に駆け上がった二人は、弾幕ごっこを始めた。
美しさからかけ離れた、死線一歩手前の弾幕戦を。
―― 三章-Ⅲ ――
霧雨魔理沙にとって博麗霊夢は、友達だ。
魅魔に弟子入りをし、最初に出会ったのは博麗神社だった。
幼いながらに達観した瞳、体調を崩していた先代巫女が側へ行くと、僅かに微笑む少女。
それが、魔理沙が最初に見た霊夢の、“本当”の表情だった。
封魔針が風を切り、魔理沙の腕を掠める。
首筋がぴりりと痛んで初めて、手の甲に伝う赤い雫に気がついた。
自分のマジックミサイルも、得意のレーザーも、霊夢には通じない。
瞬きをする間に別の場所へ移動していて、かと思えばまた戻っている。
「くそっ」
思わず悪態を吐きながらも、状況を逆転する術を探す。
だが琥珀色の瞳をどんなに忙しなく動かせようと、そんなものは見つからなかった。
「どうして、私はッ」
――異変の時の霊夢には、絶対に勝てない。
思い浮かんだフレーズを、血が滲むほどに唇を噛んで振り払おうとする。
けれど一度彼女の中で浮き彫りになった劣等感は、どんなに目を逸らそうと、魔理沙の瞳に刻み込まれた。
「私は――」
ライバルだった。
最初の異変は、魔界。
スペルカードルール制定前の、新しい世代への“試練”として用意された舞台。
直接聞かされた訳ではないが、魔理沙と霊夢以外は人外で固められたその異変。
その意図を感づいていながらも、魔理沙はそれを胸の内に隠蔽した。目を、逸らした。
おまえの力は、まだ足りない、劣ると言われているようで、嫌だった。
「――霊夢に、勝てない?」
一度も口に出したことはなかった。
それを今ここで、初めて言ってしまった。
目を瞠り、迫り来る陰陽玉を受け入れる。その向こう側にあるのがただ空虚な瞳だと気がついて、魔理沙の心に罅が入った。
認めたくない“現実”が、波となって襲ってくる。
負けたくないから、勝てないなんて思いたくないから、誰よりも努力を積んできた。
積み上げた努力の数々、実感の伴わない成長、簡単に追い抜いていくライバル。
足掻いても、足掻いても、足掻いても、結局己に残るのは、つま先に縋って胸を張る――虚勢。
「ぁ」
胸に当たった陰陽玉で、箒から叩き落とされる。
石畳にぶつかる直前、反射的に張った障壁の力でバウンドした。
そうでなければ今頃、真っ赤な花を咲かせていたことだろう。
「っ、ぃ」
魔理沙はあの日、夢を見た。
妖夢と同時に見た、彼女の悪夢。
博麗霊夢を、殺す夢。
「わ、たし、は」
そんなことは望んでいない。
それを証明したくて出た言葉、それが――“異変”だった。
結果的に、それは真実だった。逃げてはならない異変だということもわかった。
けれどもし、それが己の本心を反映したものだったら、どうすればいいのか。
「わたし、は」
声が、押し潰される。
胸が、圧し潰される。
心が、磨り潰される。
「魔理沙」
声が聞こえて、顔を上げた。
つい最近仲良くなった、友達の姿。生真面目で純朴で、なにより自分と同じ“努力家”の友達。
魔理沙同様師を失い、ただ研鑽を積み重ねる毎日。
肌に合わない性格だ――そんな感情は、直ぐに吹き飛んだ。
その“在り方”が、どこまでも似ていたから。
――――そしてそれは、妖夢にも言えたことであった。
石畳の上で蹲る、友達。
魔理沙の姿に、妖夢は瞑目する。
自分勝手で我が儘で、それでも雨の中佇む妖夢に声をかけたその瞳には、魔理沙自身も気がつかなかった、他者を案ずる感情が込められていた。
空に浮かぶ霊夢は、動かない。
向かってくる敵を打ち倒すことだけに、全ての“感情”を誤作動させている。
彼女がそこまでして魔理沙を“止めたい”理由が、この異変にはあるのだろう。
二人の戦いを、望む望まざるに関わらず、一歩退いて見ていた妖夢。
彼女だからこそわかる、二人の蟠りの、形。
これは二人の問題だ。二人の心の、問題だ。
そんなことは百も承知としていながら、妖夢は何かがしたかった。
このままでは、きっと、己は何も掴むことは出来ないだろう。
新しい何かを得たいなら、新しい一歩を踏み出さなければならないのだから。
「私も手伝うよ、魔理沙」
「だめ、だ。駄目だ。それだけは、駄目なんだ」
駄目だ、駄目だ、駄目だ。
そう幾度も繰り返す魔理沙に、妖夢の声は届かない。
――届かないなら、届かせればいい。
妖夢はおもむろに、白楼剣を手に取った。
鞘からは抜かず、むしろ、抜けないようにして。
そしてそれを、瞑目して妖夢を見ようとしない魔理沙に――
「断迷剣(殴打)」
――振り下ろした。
「あぐっぉぅ!?!?!!」
がぅん、と脳みそに直接響くような音。
魔理沙は転げ回ることすら出来ずに、両手で頭を押さえて震え始めた。
ちょっと泣いているのかも知れない。
「……ぁ――アンタたち、なにやってんのよ?」
その音で、その悲鳴で、霊夢が我に返る。
眼下に広がる光景は、実に奇妙なモノだった。
必死に魔理沙から目を逸らす妖夢、両肘を石畳について頭を押さえ、震える魔理沙。
どこからどうツッコミを入れて良いのかわからない中、妖夢がそっと口を開いた。
「一緒に解決するんじゃなかったの?魔理沙」
妖夢は、魔理沙を真っ直ぐと見つめる。
しかし魔理沙は蹲っている為、残念ながら見返すことができなかった。
けれど、大きく深呼吸を――涙声で――繰り返し、幽鬼のように立ち上がった。
「良いこと言って誤魔化せる威力にしろッ!!」
「あだっ!?」
尤もなことを叫びながら、箒で妖夢の頭を殴打する。
すると痛みが蘇ったのか、蹲る妖夢の横で、魔理沙も再び蹲った。
その突然変わった空気に、霊夢は、ただ唖然としながら見ていることしかできない。
ただ、成り行きを見守ることしか、できなかった。
「ホント自重しろ、おまえ」
「魔理沙にだけは言われたくないよ」
「私もおまえだけには言われたくなくなったぜ」
二人揃って立ちあがり、それから霊夢に向き直る。
燃え立つような琥珀と紺碧。その澄んだ色に、翳りはない。
――それでは、駄目なのだ。
完膚無きまでに叩き潰して、博麗神社で“護”らなければならない。
今回の異変は、どうあっても魔理沙を傷つけることだろう。
霊夢は、僅かな努力が実を結びそれ故にどこまでも頑張れる魔理沙が、いつも太陽と星空の下で笑う魔理沙が眩しくて、翳って欲しくなかった。
例え、恨まれたとしても、それでも。
「悪いな霊夢。二対一だ」
「そう。もう、それでもいいわ。好きにしなさい」
だから、繰り返し言葉を紡ぐ。
諦めない魔理沙は強い。諦めずに負けたら、きっと何度でも立ち上がる。
それだけは、駄目だから、霊夢は己の感情を押し殺した。
「やけに物わかりが良いじゃないか」
空虚な瞳――空虚に見られなければ、ならない瞳。
異変を解決するのは自分で、それ以外はいらないと、捨てる瞳。
その瞳で霊夢は、絶対に言わなかった――言いたくなかったことを、言う。
「――――アンタが、一度でも私に勝てたことがあったの?それが答えよ」
再び、僅かに空気が重くなった。
それで良かった。それで、霊夢の願いは叶う。
この場所に、彼女が、“妖夢”がいなければ。
霊夢が無感動の裏に隠した感情。
震える声、伏せられた瞳、空けられた間、無理に強められた語尾。
彼女が隠したかった全ては、しかし一歩離れて見ていた妖夢に感づかれた。
ほんの一瞬、刹那の間の動揺を、剣の稽古で鍛えられた妖夢の瞳が捉えていたのだ。
「ねぇ魔理沙。霊夢、自分で言ったことに傷ついて涙目になってる」
捉え方は、ずいぶんとひどいものだったのだが。
「ちょっ、ちょっと!誰が涙目になんか――」
妙におどけた妖夢の声と、視線。
それから、いつになく慌てた様子の霊夢。
それだけ状況が揃っていれば、気がつかないものなど居ない。
無論、魔理沙も同様に。
「あ、ホントだ」
「――っ!?」
魔理沙の言葉に目を瞠り、霊夢は思わず目元を拭う。
しかしそこに心配していたものはなく、安心からほっと息を吐く。
だがその安堵も、魔理沙と妖夢の顔を見るまでのものだった。
ニヤニヤと口角をつり上げる魔理沙。
よちよち歩きの雛を見るような、生温かい目の妖夢。
ここにきて、この緊迫していた“はず”の場面で、見事に嵌められた。
そのことに気がついて、霊夢は頬に熱を集める。
「あ、あんたたち!」
顔赤くする霊夢と、互いの健闘をたたえ合いながら霊夢に向き直る二人。
その二つ並んだ翳り無い表情に、霊夢は歯がみする。
わかっていたのだ。もう今から、先程までの空気に戻すことなど出来ないということが。
「――霊夢」
「ッなによ!ぁ」
掛けられた声に霊夢が振り向くと、そこには起き上がった二人の姿があった。
賽銭箱の上に腰掛ける咲夜と、その横の石畳の上で正座をする早苗。
辛うじて動いている――そんな言葉がよく似合う、疲れ果てた声。
しかしその表情は、まだ折れてはいないのだと訴えていた。
きっと、彼女たちも自分の“敵”になる。
霊夢の心はそう、痛みを訴えて、啼いていた。
けれど――咲夜が放ったのは、霊夢の予想に違う言葉であった。
「どっちか、手伝いましょうか?パチュリー様と美鈴が、二人に頬ずりしたいそうなのよ」
「え?」
唖然とする霊夢の後ろでは、妖夢と魔理沙が頬を引きつらせていた。
キノコ臭のことを思い出しているのだろうが、そんな二人の様子に霊夢が気がつく前に、早苗が続く。
「二対一とは卑怯な!……いやでも、霊夢の方が悪役っぽいかも」
失礼である。あながち、間違ってもいない空気“だった”が。
けれど、そんな彼女たちの言葉が、霊夢の心に残響した。
完膚無きまでに叩きつぶされて、それでもなお、二人は常日頃と変わらない“弾幕ごっこ”の空気を運んでくれた。
霊夢の愛する――“幻想郷の風”を。
不思議と、霊夢の心は軽くなっていた。
魔理沙ができないと、傷つくと誰が決めたのか。
霊夢の言葉を受けて、なお立ち上がるあの力強い少女が。
霊夢がふと、妖夢に視線を向ける。
妖夢もまた、霊夢の視線に気がついて、顔を上げた。
魔理沙の隣いる少女。彼女の立場が欲しいとは、霊夢は思わない。
霊夢には霊夢の出来ることがあって、それに後悔したくないから。
だから願わくば、この三人――この五人で、並び立ちたい。
霊夢は万感の思いを込めた苦笑を浮かべて、そしてスペルカードを掲げた。
「いいわ。アンタたちはそこで、私の勝利を飾りなさい」
咲夜と早苗の申し出を断ると、霊夢は勝ち気な笑みを浮かべて魔理沙たちに向き直る。
霊夢の表情にもまた翳りはなく、どこから沸き上がるのかもわからない自信に満ちていた。
「あんまり体力も時間もないし、カード宣言は一枚でいいわ」
「言うじゃないか」
「そう言われたら、負けられないわね」
ミニ八卦炉を手に、二振りの剣を手に。
魔理沙と妖夢はそれぞれ一枚ずつ、スペルカードを手に取った。
「今日はちょっと長めに百五十秒間、避けきって見せなさい」
「げっ、まさか」
魔理沙の声に、妖夢は首を傾げる。
妖夢は未だ、知らなかった。魔理沙が名前を付けることで“遊び”の枠に収めなければならなかった、霊夢の能力の形。
それがここに、発現する。
「――【夢想天生】――」
大量の御札が、壁のようになって周囲に満ちる。
ルールに則り、隙間のある弾幕。
けれど霊夢自身の存在は朧気になり、幻想郷の空で唄っているようにすら見えた。
誰よりも自由で、何者をも受け入れる、幻想郷の“空を飛ぶ不思議な巫女”の姿。
誰よりも楽しげに宙に浮く少女を見て、魔理沙は、妖夢は、咲夜は早苗は――僅か、我を失った。
「きゃあぁぁっ!?」
しっかり範囲に入っていた為か、最初に早苗が被弾する。
それで我に返った咲夜は、時を止めて賽銭箱の裏に隠れた。
再び目を回してしまった早苗を、回収しながら。
「妖夢、避けきるぞ!」
「返事をしている暇がなぃぃぃぃぃっ!?」
飛び交う弾幕。
腕を掠り、服を裂き、箒の尾を散らし。
落とされるまで続くようにも見える、遊びと本気のボーダーライン。
けれどその中でも、妖夢と魔理沙は分断されることなく動いていた。
血が滾り、情熱が溢れ、歓喜が身体を奔り廻る。
その最中を、妖夢と魔理沙はつかず離れず避け回る。
「天儀【オーレリーズユニバース】!」
残り六十秒。
魔理沙は自分の周囲に五色の球体を設置すると、そこから自動射出される弾幕で、霊夢の弾幕を撃ち落とす。
反則気味かも知れないが、ボム扱いならそうでもない。展開時間は長めだが。
「魔理沙、捕まって!」
「おう!」
被弾し半ばから叩き折られた箒。
魔理沙は僅かな躊躇いのあとそれを投げ捨てると、妖夢の背に飛び乗った。
彼女の手に掲げられたスペルカードは、庭の剪定をしながら思いついたもの。
魔理沙が好きな、“生活感溢れる特殊技能”のスペル。
「桜花剣【閃々散華】!」
神速で動き回りながら、弾幕を叩き斬る。
桜色の霊力が空間に満ち充ちて、博麗神社の葉桜を満開に仕立て上げた。
「妖怪が鍛えた楼観剣に、斬れないものはあんまり無い!」
「斬ってるの、弾幕だけだけどな!」
弾幕と桜と刃と星。
無限に続くかと思われた世界が、最後に厚い弾幕を放つ。
その、余りにも小さい隙間に、妖夢は足を踏み込んだ。
「落ちないでね、魔理沙!」
「落とすなよ、妖夢!」
周囲から襲いかかる衝撃。
首筋に回された手に力が込められ。
全身全霊を胸に宿し――――駆け、抜けた。
「っわぁぁっ」
「ちょ、妖夢おまえ、とま、れっ?!」
勢い余って、二人で境内へスライディング。
石畳に額を打ち付けた妖夢が、悶え苦しむ。
悲鳴を上げることも出来ず蹲る妖夢から、魔理沙はそっと目を逸らした。
魔理沙も投げ出されはしたが、半霊がクッションになった。
……つまり、妖夢へのダメージが二倍になったのだ。
「霊夢」
魔理沙が、声を掛ける。
霊夢は相変わらず、傷一つ無い――けれど、霊夢の負けなのだ。
彼女が定めたルール、即ち、避けきることに二人は成功したのだから。
「私は、行くぜ」
「……そうね。はぁ、まったく。負けたわ」
霊夢の顔は、穏やかだった。
穏やかで、優しげで、どこか満足してもいるようであった。
全てを出し切ったとは言えないかもしれない。
けれどあの最後の瞬間――霊夢は間違いなく、本気だったのだから。
「魔理沙、後でちゃんとパチュリー様に謝っておきなさいよ。美鈴にも」
「あー、はは、一週間後くらいにな」
早苗を肩に抱えた咲夜が、賽銭箱の裏から出てくる。
不思議なことに、あれほど厚い弾幕だったのにもかかわらず、神社は傷ついていなかった。
「くぅぅ、やっと痛みが引いてきた」
ふらりと立ち上がった妖夢が、魔理沙の肩にもたれ掛かる。
それを魔理沙は、重そうに眉を寄せて避けようとしていた。
一つの“本気”がぶつかりあっても、なお笑っていられる。
これこそが……幻想郷の魅力であった。
「あんまり時間があるとも思えないし、さっさと行こう」
「ええ、そうね」
ふらふらと歩き始めた、魔理沙と妖夢。
その背中に、霊夢は小さく笑みを零す。
覚悟は、もう、決めたのだから。
「魔理沙、妖夢」
振り向いた二人に、告げる。
敗者は知っていることを言う……それくらいは、するべきだから。
「紅魔館前の湖。あそこが怪しいわ」
だから霊夢は、己の“勘”が告げた場所を、教える。
こうなったらもう、余計な回り道をさせないことが最善だ。
どんなに遠ざけても、折れなかった以上は、必ず辿り漬いてしまうのだろうから。
「おう、サンキュ!霊夢!」
「ありがとうございます……ううん、ありがとう、霊夢!」
魔理沙が妖夢の背に飛び乗り、そのまま飛び上がる。
箒は折れて、身体はぼろぼろで、それでも心は健在で。
それでも魔理沙は、妖夢は、まだやれると確信していた。
「霧の湖か」
「障害は?」
「妖精一杯」
「問題なし」
「そうだな」
敵の住処は夢の中、なら、心が折れていなければ問題ない。
何度だって戦えるし、折れたりもしない。
二人はそう背中越しに笑い合うと、ただ、前を見据えるのであった。
―― 三章-Ⅳ ――
目を醒ました早苗は、ちょうど、空の向こうに消えていった魔理沙たちの姿を見た。
霊夢は負けて、魔理沙と妖夢が勝った。
一目でわかる状況だけに、早苗と咲夜は互いに視線を交わして、戸惑う。
いったい霊夢に、どうやって声をかけたものか、と。
「あの、霊夢?」
早苗が声をかけても、反応しない。
流石にこのままでは、困ってしまう。
どうしたらいいのか、わからないのだから。
「ここはやっぱり、妖夢がやっていたみたいに“断迷剣(殴打)”しか!」
「返り討ちにされるわよ。針で」
「うっ……ですよねぇー」
そんな遣り取りをしている中でも、霊夢は動かない。
ただ二人が去った空を、その久遠に広がる青を見上げて、佇んでいる。
けれど、流石にずっと動かないつもりではなかったらしく、ふと、ため息を吐いた。
「出て来なさい」
「わ、私は既にここにいます!」
「早苗じゃなくて」
渾身のボケだった。
あえなく撃沈してしまい、石畳を濡らすことになってしまったが。
「あら?わかってたの?」
空間に亀裂が入り、そこから声が零れる。
流麗で、艶然としていて、しかし可憐さの残した声。
それを聞いて、早苗と咲夜は納得した顔になった。
言うなれば、“やっぱり”という表情である。
「当たり前でしょ。何の用よ」
ぶっきらぼうな言いぐさ。
しかしその調子は、既に普段どおりのものに戻っていた。
緩やかで暢気で面倒くさがり屋で――誰に対しても、柔らかなものに。
「ふふ、用なんか、一つだけですわ」
「胡散臭いわね」
「あら、ひどいわ」
しなを作ってみせる、声の主――八雲紫に、霊夢は嫌そうな顔を向ける。
ここまでが、普段の遣り取り。日常の中の、ワンシーンだ。
いわば、儀式のようなものである。
それを終えた紫は、体勢を整えて、もう一度微笑んだ。
「さて、それじゃあ、彼女たちが帰ってこられるように鍋でも準備しましょう」
「なによ、アンタ、それ。だいたい異変はどうすればいいのよ」
楽観が過ぎる紫の言葉に、霊夢は眉を顰める。
けれど紫は、変わらず笑みを浮かべていた。
「それは彼女たちに任せればいいわ。きっと、あなたのお友達は大丈夫だから。ね、霊夢」
――優しげで温かな、笑みを。
「べつに……心配なんか、していないわ」
「ふふ、そう言うことにしておきましょう」
「ッ!?」
顔を赤くして封魔針を構える霊夢。
その姿を見て、早苗と咲夜は顔を合わせる。
いつの間にか霊夢は、すっかり調子を取り戻していた。
「咲夜、どうします?私たち、“友達”にカウントされているのか怪しいですよ?」
「そうね。鍋の準備でもしながら、ゆっくりと親睦を深めましょうか」
「どうせ、私たちは敗者ですからね。ええ、手伝いくらいはしませんと」
楽しげに立ち上がると、霊夢の下へ歩いて行く。
霊夢は更に顔を顰めながらも、結局は、申し出を受け入れた。
どこか、楽しげな表情で。
最後にもう一度だけ、霊夢は空を見上げる。
魔理沙たちが去っていった空、その向こう側にあるもの。
霊夢の勘が、告げているのだ。
その先にあるのものは、過ぎ去った日々にもう一度目を向けなければならない。
――そんな、辛く重いものであると、ただ、告げていたのだ。
―― 四章-Ⅰ ――
霧の湖に到着する頃には、幻想郷に“異変”が生じ始めていた。
空には暗雲が立ちこめ、緑は不安げに揺れ、動物たちはざわめいている。
その様子に、魔理沙と妖夢は余り時間がないということを悟る。
魔理沙が帽子から魔導書を引っ張り――傷ついていないことに安心しながら――出して、それから数ページめくる。
目当ての場所で開いたままに置くと、それから半ばから砕けたチョークを取り出した。
「地面に書けるの?」
「魔法使いだからな」
答えになっていないようで、なっている。
魔法使いとは恐ろしいものだと、妖夢はこっそり考えていた。
密かに畏怖の目を向けられているとも知らずに、魔理沙は血とチョークで魔法陣を書き続ける。
指先を傷つけただけなのに直ぐ血が止まらないのも魔法なのだろうと、妖夢は今更ながらに思い至った。
「……結局、全然修行できなかったな」
書きながら、魔理沙が呟く。
魔法陣を書いている為、顔は伏せられていて、表情は窺えない。
けれど妖夢はなんとなく、“似合わない顔をしているのだろう”と考えていた。
「ううん。私はね、魔理沙。きっとここで、なにかが掴めるような気がするんだ」
だから妖夢は、魔理沙の顔を晴れさせたいと、願う。
魔理沙が落ち込んだ表情をしてしまうのは、妖夢の望むところではない。
「そうか」
「そうよ」
魔法陣を書き終わると、魔理沙は妖夢にナイフを渡す。
妖夢は魔理沙に倣って指先を切ると、示された場所へ落とした。
これで、準備は出来たと、二人は魔法陣に入って、向き合う。
両手の平を握りあい、目を見ながら、こつんと額を合わせた。
「それなら――放すなよ?妖夢」
「魔理沙こそ、しっかり掴んでいてよ」
光が満ちる。
闇の世界へ舞い降りる為の、五色の光。
その光が多い尽くさんとする中、妖夢は魔理沙の笑みを見た。
妖夢自身が浮かべているものと同様に――不屈の心から溢れ出た、笑顔を。
そうして、光が、反転する。
―― 四章-Ⅱ ――
風がつま先から駆け上り、頭の上まで吹き抜ける。
さらりと頬を撫でる風の心地よさに、妖夢はそっと目を開けた。
背中合わせに両手を繋いだ、魔理沙の体温。
その熱に、妖夢は一人でこの“寂しげ”な場所に来たのではないと、思い出した。
どこまでも続く、草原。
吹き続ける風に揺れる青い草、その先には、青く澄んだ空が広がる。
雲一つ無い晴天に太陽はなく、代わりに三日月が浮かんでいた。
「ここが……“悪夢”の中?」
「ああ。それも、元凶に一番近い、な」
元凶がいると思われる、湖。
霊夢の“勘”の正確さを誰よりも近くで見てきた魔理沙は、それを信用した。
信用して、信頼して、湖で“夢”を繋いだのだ。
「右側、見えるか?」
魔理沙に言われて右を向き、そして直ぐに背中合わせの魔理沙にとっての“右側”だと気がついて、左側を向いた。
長く続く草原。そのずっと先に見える、石段。その更に上には、赤い鳥居が見えた。
「あれが、目的の場所……だよね」
「そうだろうな。わかりやすすぎてブラフって可能性もあるが」
「こんな何もない空間じゃ、ね」
背中合わせから、空を見上げるように顎を上げる。
すると、妖夢の後頭部と魔理沙のそれが、こつんとぶつかった。
「行ける?」
「違うだろ?妖夢」
少しだけ、躊躇いの込められた言葉を、魔理沙は否定する。
ここで退いてしまったら、魔理沙の父の、送り出してくれた霊夢の気持ちは、どこへ行ってしまうのか。
その成されることの無かった想いは、どこへ消えてしまうのか。
「うん、行こう」
「ああ、行こう!」
妖夢の言葉に、今度こそ頷く。
それが何よりも力強い言葉だったから、だから魔理沙に躊躇いはない。
両手を離すと、二人の手の中に光が宿った。眩い、希望の光が煌めいた。
妖夢の手には、楼観剣と白楼剣が。
魔理沙の手には、箒とミニ八卦炉が。
それぞれ、完璧に手入れされた状態で、強い力を放っていた。
背中合わせだった身体を、勢いよく引き離す。
草原に踏み込まれた足は、ざりっと音を立てて葉を散らせた。
――途端、世界が変革される。
「っこれは、いったい」
「おいおい、マジかよ」
二人が踏み込んだ足。
そのつま先から、波紋が広がる。
静謐な水面に泥を投じたように、円を描きながら草原が枯れていった。
地面は茶色に包まれ。
天蓋は赤く染まり。
神社は、黒に覆われた。
「“らしい”な」
「そうね。“らしい”」
軽口を叩き合いながら、唇を舐める。
なるほどここが終点なのだろう。演出の凝り方に、魔理沙は失笑した。
自分たちは異物であり、おまえたちが来たからこの楽園は穢された。
そんな八つ当たりじみたメッセージを、この空間から感じ取ったのだ。
「来るよ、魔理沙」
鳥居同様に黒く染まった三日月。
その歪んだ月から、雫が落ちる。
まるで涙を流しているように、ぽたりぽたりと。
枯れ草の原に落ちた雫はその形を変え、様々な姿で魔理沙と妖夢を囲み始めた。
五つの目玉の集合体。
羽の生えた大きな目玉に乗る少女。
悪魔の羽を持つ少女に、大きな鎌を持つ女性。
誰も彼も、魔理沙が母から聞いた物語に登場した、敵役たちだった。
「一気に抜けるぞ、妖夢!」
「了解、遅れないでよね!」
「はっ、誰に言ってやがる」
箒に跨り、青白い光が尾となって魔理沙に追従する。
ぼっ、ぼっ、と点火された魔力が示すのは、彼女自身が胸に誓った称号の一つ。
それ即ち、“幻想郷最速”の名。
「彗星【ブレイジングゥ――」
実際にどちらが速いかと聞かれたら、ほとんどの人が天狗の名を上げるだろう。
それは確かに、事実に基づく称号であり、そうそう覆せるものでは無いだろう。
けれど彼女が、魔理沙が胸に誓うのは、そんなちっぽけな“事実”なんかじゃない。
速くありたいと願う、彼女の意思の象徴なのだ。
「――スタァァァァァァッッッッ】!!!」
青い白い魔力がその色を増し、五色に煌めく。
彗星とは、大質量を持ってやってきて、そして帰っていく星である。
ならば魔理沙のそれも、突き抜けるだけのものでは無かった。
『―――ッ―!?』
『……――!……!!』
『…―ッ―……!』
影たちを蹴散らして、突き進み、旋回する。
暴虐の嵐の中、影たちはただ一人佇む剣士に目を向けた。
巨大な刀を背に、短い刀を腰に、ただ目を瞑り立つ少女。
影たちは、逃げるようにそこへ集った。
「転生剣」
小さな唇が、開く。
小鳥の囀りのようなその声は、集った影たちを怯えさせた。
彼女の、魂魄妖夢の背後に、咲かぬ桜を垣間見て。
「【円心――」
妖夢の身体が、回転する。
左足を踏み込み、右から刃を放つ。
右足を踏み込み、また右から刃が煌めく。
――二重三重四重五重六重七重八重九重十重……ッッッ!!!
幾重にも連ねられた刃に、影たちは呆然とするしかなかった。
現実の世界ならばいざ知らず、ここは夢の中の世界。
疲れ知らずの霊断の剣は、影たちの意識を両断していく。
最後尾、そこに在る巨大な玉。
黒く染まった陰陽玉に、強烈な横薙ぎが放たれた。
「――流転斬】」
妖夢の左足が、陰陽玉の背後に着地する。
枯れ葉を散らし風を吹き上げ、大地が窪んで亀裂が入る。
その石つぶてが地面に落ちると同時に、陰陽玉が二つに割れた。
「御免」
きんっ、と鞘鳴りの音が響く。
すると、彼女に両断された影たちが、跡形もなく消滅した。
「なにカッコつけてんだよ」
「いいじゃない」
「ま、いいけどさ」
隣り合って立ち、拳を合わせる。
精神が疲れたとき、これまでの疲労が押し寄せるのだろう。
それは、諦めることが己の終焉に繋がるという意味であり、同時に彼女たちに終わりがないことを示していた。
そう――――敗北するまでは、戦い続けられるのだ。
「魔理沙」
「ああ」
これが誰の悪夢かは、わからない。
もう、ほとんど絞り込まれては、いるのだが。
その答えが今まさに、現れようとしていた。
月からまた、雫が落ちる。
それは先程までのものとは比べものにならないほど凝縮されたもので、故に力を持つものであることがわかった。
「これで、どっちが“首謀者”か、わかる」
魔理沙の声が、僅かに震えていた。
ここで現れるのが、記憶の結晶であり。
そしてきっと、神社に現れるのが“夢の主”なのだろう。
じっと待つ二人の前で、影が分裂する。
二つに分かれたその影は――それぞれ、違う形をとった。
目に洞など持たず、“本物”と相違ない姿を。
「え?」
それはどちらの声だったのか――あるいは、両者の声だったのかも知れない。
影は、他の者達のように歪な形をしていない。
夢の主にとってそれほどに思い入れの強い存在なのか、見た“そのまま”の形で、再現されていった。
片方は、少女の姿。
紫を基調とした、とんがり帽子の魔女服。
右手には先端に星のついた杖を持ち、左手には蔦にランプが取り付けられたような、奇妙な長い杖を持っている。
もう片方は、年老いた男性。
家紋つきの羽織袴に、後ろで結ばれた長い白髪と白い髭。
背には大きな太刀を、腰には短い小太刀を差している。
傍目から見ても名刀であり、けれど銘の打たれた名の知れた刀には見えない。
「……母さん」
「師、匠……?」
魔理沙の母がここに現れたのなら、この異変の首謀者は一人しかいないだろう。
けれど、いやならばなおさら――何故、“魂魄妖忌”が“あのひと”の夢に居るのか。
「呆けている暇は無いぜ、妖夢」
「ぁ――うん。ごめん、魔理沙」
魔理沙の声で、我に返る。
どうして、などという問いは意味を為さない。
それを問うのならば、相手は神社に居るであろう首謀者である。
だったら、今ここでできるのは――目の前の敵を、屠ることのみ。
『うふふ、魔理沙と戦えるなんて、楽しみね♪』
『どれほどの腕になったのか見せてみろ、妖夢』
ある程度の記憶を持っているのか、妖忌たちが親しげな言葉を口にする。
それを妖夢と魔理沙は、偽物、と一蹴に出来ない。
余りにも、記憶に残る彼らに、似ているのだから。
「くっ」
妖夢は妖忌を前にして、刀に込める力を強めた。
どれほど彼に追いすがれただろうか。
記憶に残る妖忌の姿は、未だに、妖夢にとっての“目指すべき場所”であった。
「妖夢、一人で戦うんじゃないって忘れたら、断迷するぜ?」
「え?」
かけられた声に、隣を見る。
琥珀色の瞳に戸惑いや不安を全て押し込めてもなお、魔理沙は笑っていた。
妖夢を奮い立たせ――己を、奮い立たせる為に。
「……うん。ははは、それは怖いなぁ」
「だろ?だから、“二人で”戦うぞ、妖夢!」
魔理沙が箒に跨り、直角に上昇する。
それを追いかけようとする“彼女”を、妖夢が迎撃しようと走った。
しかし、飛んで来た半霊が、妖夢の行く手を阻む。
「っ」
『させん!』
眼前に迫った半霊は、形を作って妖忌の姿になる。
その手には、名も無き小太刀が握られていた。
妖忌の抜刀は、妖夢をして目で追える速度ではない。思わず立ち止まって、“だいたい”の位置に楼観剣を置き、防いだ。
「ぐっ」
あまりの衝撃に、耐えきれず妖夢が後退する。
両足を地面に蹴り込み、それでも枯れ草を散らせながら数メートル距離を取らされる。
距離を取ることは、体勢の立て直しに繋がる――相手が、魂魄の剣士で無ければ。
『現世――』
半霊の向こう側、大太刀を居合いの形で構える老練の剣士。
刃が煌めく瞬間など、見ることは叶わない。
横並びの“現在”を、ただの一閃で斬り払う剣なのだから。
『――斬』
妖夢は避けることを諦め、楼観剣と白楼剣を交互させる。
どこで斬り払われるか、どのタイミングで抜くのか、記憶を辿って予測する。
最早それ以外に、防ぐ方法は残されていなかった。
「あづっ!?」
がんっ、と衝撃が腕を痺れさせる。
その痛みに苦悶する暇は無いと、妖夢は最早直感に近い動きで“上”へ飛んだ。
妖夢を通り抜けた妖忌が、自身の背でもう一度構えていたことに、半ば直感めいた確信を覚えたのだ。
『現世斬』
つま先の下を通り過ぎる、妖忌の姿。
一陣の風が舞い、その激しさで妖夢は着地を失敗した。
そうして仰向けになって見上げた先にいたのは、魔理沙だった。
飛び交う弾幕。
緑色の、マジックミサイル。
その一撃の威力は――魔理沙の比ではない。
赤い空を、黒白の魔女が飛び交う。
魔理沙を目で追う“彼女”は未だ動く姿を見せず、ただ立ったままで大威力の攻撃を放ってきた。
「くそっ……“ナロースパーク”」
『うーん、惜しいわ。“イリュージョンレーザー”』
魔理沙の全力のナロースパークが、“真正面”からかき消される。
一歩遅れて放たれたはずの一撃は、魔理沙の頬を掠めて、赤い空に消えていった。
『ライズレーザー』
その余韻に恐れている暇は無い。
魔理沙の横面を叩くように放たれた追尾レーザーを、旋回することで避ける。
しかしそこにもまた、輝きを放つレーザーが魔理沙の目を焼いた。
「おぉっ!?」
急停止、急旋回、急下降、急上昇。
腕や足、頬に鋭い熱を感じて怯みながら、ひたすら進む。
「埒があかない、なら――“マスターァァァッ――」
スペルカードを用いない、全力の魔砲。
ミニ八卦炉が過剰なほどに輝き、そしてその魔砲を発射した。
「――スパァァァァクゥゥッ”!!」
『あんまり綺麗じゃないのね。幽香みたいな、もっと綺麗なのを見せてよ、魔理沙』
その全力すらも、通らない。
イリュージョンレーザー……それは、魔理沙の魔法と同じ名前だ。
けれど通り過ぎた後の残像にまで威力を及ぼすその力は、マスタースパークにも似た暴虐さを宿していた。
「ぁ」
脇腹を掠め、じわりとエプロンドレスが赤く染まる。
傷はさほど深くない、戦うには支障ない――けれどそれは、魔理沙から“飛び続ける”気力を奪った。
“彼女”は、落下していく魔理沙を追わない。
ただその場で、じっと魔理沙のことを見ていた。
「ぜんぜん、綺麗じゃ、ない?」
落ちていく中で、魔理沙の頭に声が反響する。
何度も何度も繰り返し木霊する声に、魔理沙は……笑う。
「ははっ、当たり前だ。あんな魔法、誰だって撃てる」
それは、自嘲の笑みだった。
落ちながら、下で剣撃の音が聞こえなくなったことにも気が付く。
まさか気力を失って寝転がっているだけとは知らずに、ただ、悪い想像が魔理沙の頭をよぎった。
このまま負ければ、また妖夢と笑い合う日々を送れなくなる。
霊夢と、咲夜と、早苗と、たくさんの妖怪たち。
彼女たちと二度と酒も飲めないというのは、なんとも寂しいことに思えた。
「くっ」
地面に背中を打ち付ける。
だが思ったよりも衝撃はなく、見れば半霊が下敷きになっていた。
潰された訳ではなく受け止めたのだろう、妖夢に怪我は見えない。
「なにやってんだよ」
「寝ている相手に、追い打ちはかけないみたいだから」
「あー、なるほど」
敵の前で寝転がる、二人の姿。
傍から見れば滑稽でも、魔理沙と妖夢は真剣だった。
「諦める?魔理沙」
妖夢の声。
魔理沙はそれに思わず、頷きそうになる。
肯定しそうになったはずなのに、その口から出たのは真逆の言葉だった。
「はっ、誰が諦めるかよ。まだ私は、私にしかできない“弾幕ごっこ”を見せてない」
空に掲げた魔理沙の手に、スペルカードが現れる。
ただの極太レーザーなんて、誰にでも撃てる。
けれど、“恋符”は、魔理沙にしか撃てないのだから。
「ねぇ魔理沙、魔理沙の記憶の中のお母さんは、強かった?」
「ああ、強かった――」
病弱であろうと、いつも笑顔で居てくれた。
“彼女”のおとぎ話に出てくる魔法使いは、魔理沙にとって英雄だった。
諦めそうになったはずなのに、一度口にしてしまえば、前を向く心が溢れて止まらなかった。
「――強かった、だから……母さんが、この程度なはずがない」
立ち上がると、魔理沙の身体に傷はなかった。
その強い背中と差し出された手に、妖夢は己の心を重ねる。
誰よりも強かった祖父。尊敬する、師匠。
「そう、そうだ。お祖父ちゃんは、強かった」
もう一度、立ち上がる。
胸に秘めた想いは、不屈。
決して折れない、鍛えられた鋼鉄。
焼いて灼いて何度も鍛えられた刃は、砕けない。
「母さんがこの程度?嘗めるなよ、偽物」
だから今度こそ、断言する。
「師匠が私をまだ倒せないなんて、あるはずがない。師匠を騙った罪は重いぞ、偽物!」
彼らが、魔理沙と妖夢にとっての、真に尊敬する者ではないと。
立ち向かい打ち克ち乗り越え前に進む為に、声を高らかに宣言した。
「行くぞ、妖夢!」
「行こう、魔理沙!」
魔理沙が再び空へ駆け上り、同時に妖夢が走り出す。
悠然と腕を組み微かに笑う妖忌、彼の壁は高い。
けれど、だからこそ、負けられない。
勝負は一瞬。
最高加速からの最高の一撃。
それしかないだろうと、妖夢はただの一撃に集中する。
同じ敵に立ち向かっている訳ではない、けれど心は共に在る。
ならば目の前の敵に集中できないなど、あり得ないのだから。
『未来――』
妖忌の身体が、沈む。
その姿に、妖忌の姿となった半霊が重なった。
妖夢もまたそれに合わせて、半霊を己に重ねる。
これで難易度は、二乗。
けれどその程度、諦める理由には弱すぎる。
「師匠、あなたを超えます…………空観剣」
『超えて見せろ、妖夢――――永劫斬』
後押しをされた気がして、妖夢は微笑む。
確かに今、妖夢は、“師匠”に促されたのだ。
打ち克ち、破り、超えて見せろと。
「【六根――」
がぎぃん、と白楼剣に大太刀がぶつかる。
そのインパクトは、妖忌を弾く力に変えられていた。
半霊と妖忌、二つの姿が大きく仰け反り、刹那、五人の妖夢が陣を作った。
『これはッ』
五人の妖夢が一斉に踏み込むと、地面に桜の紋章が刻まれた。
舞い散るそれは、冥界の桜。彼らの主が求めた桜。
五人が一斉に、中央の妖忌を斬りつける。
妖忌はそれを卓越した技術で斬り、捌き、いなし、躱し。
しかし最初のカウンターで崩された体勢だけは、戻せなかった。
『くっ』
苦しげに息を零し、空中で姿勢を正そうとする。
――あと刹那、速ければ、それも叶ったかも知れない。
「――清浄斬】!!」
妖忌の上空。
妖怪が鍛えた楼観剣に、斬れぬものなど無い。
そう目で訴えかける妖夢に、妖忌はただ、微笑んだ。
『よくぞやった、妖夢』
一直線に切り抜かれて、妖忌が空に還っていく。
楼観剣を鞘に収めて立ち上がった妖夢は、ただ一度だけ、目元を拭った。
「ありがとうございます。師匠」
ほんの僅か、刹那の攻防。
ふと空を見上げると、魔理沙と“彼女”の姿が見える。
その戦いに横槍を入れることは出来なくとも、妖夢はただ、強い瞳で魔理沙を見ていた。
妖夢がそう下から見上げていることに、魔理沙は何と無しに気がつく。
相棒は、自慢の友達は――己の壁を、乗り越えたのだ。
そう考えた途端に、魔理沙の頬が綻んだ。
迫り来る五つのビット。
赤青緑黄色に紫、放たれる弾幕を、魔理沙は避ける。
周囲に展開するのは、自分のビット。オーレリーズサンが魔理沙の周りを旋回していた。
『ほーら、ちゃんと動かないとあたっちゃうわよ?』
「悪いが、当たってやる気はないぜ」
妖夢に出来て、魔理沙に出来ないのか。
純粋な人間でも強い者はいる。
魔理沙のライバルの巫女なら、この程度の状況、直ぐにどうにかしていることだろう。
「綺麗じゃないって言ったな、母さん」
ただの人間が、普通の魔法使いが出来ること。
箒に灯った魔力の炎が、魔理沙の軌跡を残す。
霧雨魔理沙の弾幕は、何時だって美しくあろうとする。
だからこそ、誰よりも強くあれるのだ。
『“イリュージョンレーザー”』
白く輝くレーザーが、魔理沙を掠める。
箒を焼き、腕を切り、熱を抱かせ薙ぎ払う。
その首筋から全身を駆け巡る痛みに、しかし魔理沙は笑って見せた。
手に掲げるスペルカードは、霧雨魔理沙の代名詞。
魔理沙の、最も“好き”で得意とする弾幕。
「恋符【マスタースパーク】!」
魔理沙の放ったマスタースパークが、星の光を撒き散らしながらつき進む。
その幻想的な弾幕に、“彼女”は己でレーザーを消し、微笑んだ。
『うふふ、今のは綺麗だったわ!魔理沙!』
「そうかよ、だったらもう一発喰らっといてくれ」
『え?』
急停止、急上昇。
赤い空に浮かぶ雲を打ち破り、黒い月を背後に捉える。
誰よりも高く、誰よりも上へ、高みから放つ龍の咆吼。
『いいよ、魔理沙。撃ち合いね』
「ああそうだ、撃ち合いだ」
越える為に。
超える為に。
霧雨魔理沙は咆吼する。
「星符【ドラゴンッ――」
込められた魔力が強すぎて、魔理沙の指から血が噴き出す。
その痛みが代償ならば、その程度の代償ならば、魔理沙に躊躇いなど生まれない。
ここにあるのは、ただ一つの星なのだから。
『――“ギャラクシー”――』
“彼女”の手に集った暴虐。
まるでマスタースパークのような力強い光が、“彼女”の手に集う。
そうして、その煌めきが、放たれた。
「――メテオォォォォォォッッッッ】!!!」
声のあらん限り、心を奮い立たせる。
痛みも、絶望も、失望も、熱も、全て呑み込む輝き。
「かあ、さん――――だいすきだぜ」
強く、強く、強く。
束ねられた魔力、急転直下の大魔砲。
そこに魔理沙は、更に、魔力を叩き込む。
この拮抗した状況を覆す、さらなる一手を撃ち出す為に。
「恋心ッ!」
帽子が吹き飛び、箒が空中でばらばらに砕け、それでもなお見下ろし続ける。
人を想い求めることが恋ならば、魔理沙のそれは恋心。
鮮烈に、苛烈に、強烈に、全てを屠る二重の魔砲。
「――【ダブルッ……スパァァァァァクゥゥゥゥッッッッ】!!!――」
『きゃあぁぁぁっ!?』
拮抗していた“彼女”のレーザーが、巨大な力に呑み込まれる。
何もかも消し飛ばす、魔理沙の魔砲。
それはまさしく、霧雨魔理沙にしか出来ない、魔理沙だけの“魔法”であった。
その光の中、魔理沙は最後に“彼女”の顔を見る。
満足げに、そして誰よりも柔らかく微笑む――記憶の中の“母”の笑顔を。
『よく頑張ったね、魔理沙。すっごく……素敵よ』
星の中へ消えゆく“彼女”の笑顔。
最後に垣間見た笑顔と声に、魔理沙は一筋の涙を流す。
そうして降り注いだ雫は、妖夢の頬に落ち。
「ぁ」
まるで魔理沙と共に、妖夢が泣いているようにも見えた。
降り立った魔理沙の傷だらけの手を、妖夢はそっと掴む。
手に伝わる熱は、確かに魔理沙の温かさを宿していた。
絶望なんか、していない。その事実が、妖夢は何より誇らしかった。
「行ける?」
「違う。行くんだ。妖夢」
「うん」
所々が裂けた帽子を、半霊が拾ってくる。
魔理沙はそれを掴むと、礼を言うように半霊を撫でた。
次いで、頬を赤らめている妖夢を見て、首を傾げる。
「どうしたんだ?風邪か?」
「魔理沙……半霊も、私なんだけど?」
つまり、間接撫でである。
意味に気がついた魔理沙が慌てて手を離すと、胸を撫で下ろす妖夢の姿が見えた。
どうしてだかそこに茶々を入れたかった魔理沙は、半霊をぎゅっと抱き締めた。
「みょんっっ!?」
「お、冷たい」
案外冷たかったようだ。
氷室で冷やした大福のような感触に、魔理沙は満足げに笑う。
魔法で癒しているとはいえ、完治にはまだかかる。
そんな中、半霊の冷たさは、傷だらけの腕に気持ちが良かった。
「冥想斬(殴打)!」
「あだっ」
たっぷりと深呼吸をした妖夢から放たれた一撃に、魔理沙は蹲る。
心なしか妖夢の息は荒くなっていて、切なげな吐息が悩ましげであった。
「つつぅ」
「いい加減にしなさい!」
「す、すまん」
そうして戯れて、じゃれあって。
その頃には、二人の胸に溜まった心苦しさは消えていた。
いつの間にか、緩やかな空気が、二人を包み込んでいた。
「怪我は?」
「私自身の気持ちが楽になったら、このとおりだ」
傷だらけの腕は、もうない。
沈んだ心では癒しきれなかった怪我も、軽くなった心なら怪我にもならなかった。
魔理沙がそっと顔を上げると、その先には黒い鳥居が見えた。
あの向こう側に、二人の求めていたモノがある。
そう力強く頷き合うと、大地を蹴って飛び上がる。
異変の収束が、見え始めていた――。
―― 四章-Ⅲ ――
石段を飛び越えて、黒い鳥居を潜る。
その先に感じた人の気配に、魔理沙はそっと目を伏せた。
妖夢の生唾を呑み込む音が聞こえても、なお。
伏せられた琥珀色の瞳の、裏側。
そこに蘇るのは、世界の全てに目を輝かせていた幼い日々。
母の語ったおとぎ話に出て来た、“森の魔法使い”は、どんな存在だったのか。
魔理沙はそれだけが、思い出せずにいた。
「魔理沙。辛いなら、見ない方が良い」
何かを、ぶつり、と断ち切る音がした。
足首に温かな水があたり、身震いする。
目を開けたくなかった――けれど閉じているのは、もっと嫌だった。
「っ」
そうして見つめた光景に、目を瞠る。
石畳に転がる、誰かの首。
傷口は存在していないかのように真っ黒で、魔理沙の足下には黒い水が広がっていた。
その先、刎ね飛ばされた首の主。
魔理沙が見たこともない――おとぎ話に聞いていた“巫女”とも雰囲気の違う――知らない巫女。
影から生まれたのであろうその女性が、鮮烈なまでの“翡翠”によって、惨殺されていた。
「魅魔、さま」
「……やっぱり、彼女が」
妖夢の呻るような声に、魔理沙はただ頷く。
瑠璃色のとんがり帽子、幽霊の足、深緑色の髪。
なによりその翡翠の瞳を、魔理沙が忘れるはずがなかった。
『誰だい、アンタら』
影に消えた巫女に見向きもせず、魔理沙の師匠――魅魔が振り返る。
その声は余りにも冷たくて、魔理沙の心に波紋を作った。
「私が、私が解らないのか!?私だ、魔理沙だ!魅魔さまの弟子の――」
『弟子?そんなものは、いないよ』
魔理沙の必死な声も、魅魔に両断される。
魅魔の瞳には、敵とその他しか、映っていないようであった。
「魔理沙、だめ。彼女は……“悪霊”よ」
「そんなの!……そんなの、前からだぜ」
「魔理沙の言う“前”がどんなものかは知らないけれど――」
妖夢の悲痛な声と瞳に、魅魔の憎悪に満ちた声と姿に。
魔理沙は、断定できずとも気がついていた。
「――彼女は、完全に憎悪に堕ちている」
「ッ」
唇を強く噛みしめ、顎の下を赤い雫が落ちる。
魔理沙はそれを拭いもせず、強く瞼を閉じた。
『ああそうか、アンタたちは……この巫女の仲間か』
淀んだ瞳だった。
魔理沙の記憶の中で、誰よりも強く輝いていた翡翠は、泥が混じり黒く濁っていた。
魔理沙は、こんな瞳が見たくて、彼女を求めたことはない。
この問いに答えたら、きっと魅魔は魔理沙たちに牙を剥くだろう。
けれどもしこれに答えなかったら、魔理沙も妖夢も、魅魔にとって“どうでもいい者”とされて相手にもされなくなってしまう。
ここまでの態度でそれがわかったからこそ、魔理沙は決意した。
「そう――」
「そうだ、と言ったら?」
「――妖夢!?」
しかし、そんな魔理沙を、妖夢が遮る。
あの朝焼けの中で、魔理沙は魅魔を“家族”と言った。
その魔理沙自身に、己は魅魔の敵だと断言させたくなかった。
『――なら、私の怨嗟を喰らって、共に死ねッ』
三日月の杖と、悪魔の羽のように広がったマント。
全身から放たれる赤黒い力に、妖夢は歯を噛みしめる。
「ごめん、魔理沙」
「今度、借りは返せよ」
「うん、わかった!」
魔理沙が手を弾くと、無傷の箒が現れる。
それに跨ると、魔理沙は再び空高くへ駆け上った。
遠くなっていく彼女の姿を確認する事もなく、妖夢は踏み込む。
「はぁぁぁぁっっっ!!!」
楼観剣を大上段に。
頭上で水平に構えられた大太刀が、魅魔に襲いかかる。
例えどんな分厚い障壁でも、叩き斬って見せよう。
妖夢のその気概は――三日月の杖によって妨げられる。
「なっ!」
片手で持たれた杖。
たったそれだけで渾身の一撃を止められた。
『弾けろ』
「ぐあっ!?」
白い魔力が爆発し、妖夢が大きく弾かれる。
石畳に着地することも叶わず地面と水平に飛び、しかし妖夢は空中で体勢を整えた。
黒い鳥居に両足を着けて、そのまま魅魔の姿を見据える。
「人鬼【未来――」
「合わせるぜ!魔符【スタァァダストォッ――」
遙か上空で、魔理沙がミニ八卦炉を手に、振りかぶる。
星の原を薙ぎ払う、星屑の弾幕。
その瞬きが、妖夢の遙か上で輝いた。
「――永劫斬】」
「――レヴァリエェェェェェッッッ】!!」
色も、音も、光も、全て背後に置いていく。
超低速を飛来し、目指すは魅魔の胴。
鞘鳴りの音すらかき消し放たれた一撃は、しかし常人を超えた魅魔の杖によって防がれる。
けれど初撃を防がれても、この技の極意は連続斬り。
初撃にカウンターを入れるか避けなかった時点で、妖夢の刃は息を吹き返すことが決まっていた。
『ッ』
空から降り注ぐ星屑が、魅魔の視界をかき消す。
その狭間を縫うように、妖夢が地面を強く蹴って、戻ってきた。
着地の力を、そのまま踏み込みの力に変換。
空中に飛び上がり、六芒星の形に走り抜ける。
「これで!」
最後の一撃は、上空から。
最初の一撃とは比べものにもならない、急転直下の唐竹割り。
疾風を斬り怒濤を叩く一撃を――ビットが、迎え撃つ。
「妖夢、避けろ!」
「ッ魂符【幽明の苦輪】!」
魔理沙の声に、妖夢は咄嗟に分身を作る。
そしてその分身に、自らの脇腹に蹴りを入れさせた。
「づっ」
そのまま、分身を引き寄せて半霊に戻す。
勢いが付きすぎて、こうでもしないと戻せなかったのだ。
弾かれた妖夢は、ほんの数秒前まで自分が立っていた場所を見る。
するとそこで――ビットが、強烈な閃光と共に破裂した。
「大丈夫か?よく反応できたな」
「信頼しているからね。魔理沙のこと」
「…………そ、うか。うん」
近くに降り立った魔理沙と共に、魅魔を睨む。
憎悪に染まりきった彼女を見て、魔理沙はそっと己の胸を押さえた。
「魅魔さま、正気に戻ってくれ!」
『私は正気さ。正気が狂気になる程度に、時が経っているがね』
血を吐くような、魔理沙の痛く切ない叫び。
その叫びが、妖夢の心を強く打つ。
『そんなことより、さっきからバカにしているのかい?』
「なにを言って――」
『無駄だらけの魔法で、私を倒せると?嘗めてくれるじゃないか』
弾幕ごっこの、魔法。
それは確かに無駄だらけだろう。
敵がいないところにも弾幕を放って、そして逃げられる隙まで作っている。
「無駄なんかじゃないぜ」
『なに?』
「そう、無駄なんかじゃないのよ」
魔理沙が再び飛び立ち、その下を妖夢が走る。
無駄な魔法なんかじゃない。
弾幕ごっこは、制作者の“努力”を鏡のように映し出す技だ。
だからこれは、魔理沙と妖夢の“訴え”なのだ。
悔恨なんか、必要ない。
ただ意思さえあれば、望む道は切り拓かれる。
誰をも受け入れる幻想郷の、強く煌びやかな意思表示方法。
――弾幕ごっこの、極意。
『戯けたことを!』
魅魔の放ったビットが、空中で次々と弾ける。
それはやがて空を覆い尽くす弾幕と化し、魔理沙を覆った。
マジックミサイルで叩き落としながらつき進んでも、腕を焼き、足を斬り、胴を打つ。
沸き上がってくる吐き気と痛みを、魔理沙は必死で隠していた。
死ねば、流石に蘇ったりはしない。
そう理解してしまっているからこそ、魔理沙の背筋に冷たいものが走る。
死者は蘇る。そんな常識を持っていれば、この世界では別かも知れない。
けれど魔理沙は、そんな形で、死んでいった大切な人の生涯を、冒涜したくなかった。
「光符【ルミネストライク】!」
魔理沙の箒から放たれた超高速の、星弾。
巨大なそれを、魅魔は危うげ無く避けた。
「シッ」
『無駄だよ』
それを隙と言わんばかりに飛び込んできた妖夢を、魅魔は杖で迎撃する――前に、その姿が揺らいだ。
妖夢の姿は輪郭を失い、弾幕を放つ人魂に変わる。
魅魔のその刹那の驚きを利用して、真逆の方向から妖夢が飛び込んできた。
「せいやぁっ!」
『――――そろそろ諦めな。“幽幻乱舞”』
魅魔の宣言と共に、波紋状の弾幕が放たれる。
魅魔が無駄だと言い放ったスペルカードによく似てはいるが、けれどそこに隙間はない。
ただ息苦しくなるほどの“弾幕”が、壁となって襲いかかった。
「あぐぅっ」
身体が浮き上がり、肋骨に鋭い痛みが走る。
上空を見れば魔理沙も同様に吹き飛ばされていて、妖夢の頬に温かい雫が落ちた。
「泣いてるの?魔理沙」
迫り来る第二波。
極限まで追い詰められた妖夢は、スローモーションのようにその光景を捉えていた。
あの紫雲の下で。
あの朝焼けに照らされて。
魔理沙は妖夢に、なんと告げたのか。
――家族、みたいに思っていたのかも知れない。二人目の、母さんみたいに。
声が、蘇る。
魔理沙の、嬉しそうな声が。
ひねくれ者の魔理沙の言葉が、声となって再生した。
「剣伎【桜花閃々】」
石畳を踏み割り、破片を弾幕の盾にする。
その僅かに出来た隙間を、桜の花びらと共につき進んでいく。
庭の剪定から生まれた技――それは、彼女の祖父の優しさが、垣間見える技。
剣の修行の時とは違って、比較的笑顔を見せてくれることが多かった、剪定。
その優しさを桜の花弁に変えて、妖夢は走る。
「魔理沙は、たった一人の弟子じゃないのかッ――」
友達の名前を、零す。
我が儘で自分勝手で……真っ直ぐで優しくて、笑顔が素敵な、自慢の友達。
魔理沙の思いを報いさせる為に、妖夢は――境界を、踏み超える。
「――魔理沙はあなたのことを母親のように思っていたのに!!」
楼観剣で杖を受け止めて、白楼剣で胴を薙ぐ。
零距離での攻防で、妖夢は魅魔に追いすがる。
澄んだ紺碧の瞳と淀んだ翡翠の瞳が、境界を超えて交わった。
『母、親?……まり、さ?』
「え?あぅっ」
弾かれて、後退する。
魅魔は頭を抱えて一言二言呟くと、妖夢にビットを放って牽制した。
「くっ……声が、届いた?」
魔理沙の声も、届かなかったのに。
ビットから放たれる弾幕を捌きながら、妖夢はその理由を考える。
……と、ふと、あの日の幽々子の言葉が思い浮かぶ。
――あの子、どうしてここにいるのか、わかる?
何故、妖夢に斬られた犬が、冥界にいたのか。
飼い主と引き離された記憶はあるであろうに、何故あの時妖夢に襲いかかることなくそこに居たのか。
その理由に、その意味に、妖夢は他ならぬ己自身の言葉を思い出した。
――私が白楼剣を用いて斬ったから、迷いが断たれて冥界にやってきたのでしょう。
迷いが断たれるとは、どういうことか。
迷いを断つ剣で斬れば、誰だって迷いを断てるのか。
それならば、そこに魂魄の業など必要ない。ただ、白楼剣があればいい。
けれどそれでは、駄目で、だからこそ魂魄に白楼剣が伝えられている。
「斬れば、わかる」
襲いかかるビットを断ち切り、その場に停滞する。
妖夢は目を伏せると、心を静かに、澄ませて、鎮めた。
犬が妖夢に憎しみを抱かなかった理由。
それは、妖夢があの少年が犬に襲われて傷つくことを懸念し斬ったのだと、わかっていたのだとしたら。
「斬ることで、己の心を他者に写し出す」
その意味に、妖夢は漸く気がついた。
実直で真摯で、なにより澄んだ心。
その心を刃に写し出し、想いを共感させて迷いを断つ。
「斬ればわかる。斬って己の想いを伝えられるのなら、逆もまた然り」
――それこそが、“断迷”の極意。
「魔理沙!」
声を張り上げると、上空の魔理沙が妖夢を見た。
その視線を受けて、妖夢は紺碧の瞳を開く。
万物を受け入れ、生み、還らせる――大海の色を映した瞳を。
「私に魔理沙の、“全身全霊”をぶつけて!」
普通に考えれば、それはただの自殺行為だ。
けれど妖夢は、魔理沙を“信頼している”と、恥ずかしげもなく言い切った。
ならば魔理沙は、ただ、それに答えるだけだ。
「……わかった、上手くやれよ、妖夢!……魔砲【ファイナル――」
『ぐ……母、おや、弟子?わた、し、は、どう、して』
遙か上空から、魔理沙がミニ八卦炉を構える。
そしてそこに超新星爆発が如く煌めく、星の光を放った。
「――マスタァァァ……スパァァァァクゥゥゥゥッッッッ】!!!!」
光が収束して、一直線につき進む。
それに対して妖夢は、どこまでも澄み渡った瞳で、白楼剣を構えた。
斬って己の想いを伝えられるのなら、逆もまた然り。
ならばそこに、共感するものの想いを乗せることだって、できるはず。
「断迷剣」
白楼剣に魔砲が衝突し、それは音を立てることもなく刃に吸収される。
眩い星色に輝く白楼剣、その光が、解放された。
「――【魔砲反射恒星斬】――」
記憶が、想いが、心が。
全てが乗せられた輝きが、巨大な閃光を生み出した。
『これは…………わたし、は』
未来過去現在、全てを走り抜けるその星色が――――魅魔の“迷い”を、斬った。
―― 四章-Ⅳ ――
何もない空間に、妖夢と魔理沙が浮かび上がる。
ただ一つ目の前にあるのは、翡翠色の宝玉だった。
二人は目を合わせると、言葉を発することなく頷き合う。
ここでは、声で想いを伝える必要なんか無い。
迷いを断つ剣によって、全ての想いが繋がっているのだから。
翡翠の宝玉。
それがなんであるかも、また、二人には理解できた。
それは、記憶。愛しきひとの、在りし日の記憶。
迷いの果てに生まれ出た、迷いの結晶だった。
妖夢は躊躇うことなく、魔理沙は躊躇いながらも、手を伸ばす。
これに触れるのは、知ることだ。踏み込む、ことだ。
なのに触れてしまうのは、彼女たちが望み――そして望まれているからだった。
緩やかに、二人の指先が触れる。
瞬間――世界が、反転した。
ごく普通の家庭。
愛されることは確約されて生まれてくるはずだった、少女。
けれど彼女は、それが許されなかった。
人間のものとはかけ離れた、深緑色の髪と翡翠色の瞳。
笑う度に風が吹き、泣く度に家屋が揺れる――魔力に愛された少女。
彼女は常人に比べかけ離れた能力を持っていたがために、ごく普通の両親は、彼女を疎むようになった。
――生まなきゃ、良かった。
妖怪が出るというその森に、彼女は捨てられた。
実の両親から、魔を魅了する悪魔――“魅魔”という名をつけられた上で。
本来――生みの親の思惑どおり――ならば、魅魔は妖怪に喰われるはずだった。
妖怪に喰われ、その妖怪が力を付け、近隣の人間を襲う。
決して乱れることのない自然のサイクルは、しかしある夫婦によってを断たれた。
――子供?こんなところに、どうして?
夫婦は、妖怪の森に住む魔法使いだった。
自身の研究にしか興味がないはずなのに、他者を愛した魔法使い。
だが魔法使いであるが故に子宝に恵まれなかった彼らは、魅魔を育てることを決意した。
――魔をも魅了する少女か。うん、良い名前じゃないか。
半紙に書かれた名を見て、彼らはそう喜んだ。
愛そうとするもの、愛するもの、それだけにしか興味がわかないからこそ、実の親のことなどどうでも良かった。
彼らは、魅魔を己の子供のように育てた。
実の両親は違うことも早い時期に告げて、愛情を持って育てた。
その過程に、教養と魔法も教えながら。
例え両親が妖怪でも、魅魔は幸せだった。
愛情を持って育ててくれる両親が、大好きだった。
だから魅魔は、彼らに捨てられることを恐れた。
恐れて――彼らが自分の為にしてくれる行為に、目を逸らしていた。
――人間を育てるには、私たちに必要のないものが必要だ。
例えば食事。
例えば絵本。
例えば病薬。
妖怪が必要とするものと人間が必要とするものは、違う。
だからこそ彼らは、近隣の村を襲い、それから住居を転々として生きてきた。
だがそんな日々が――長続きするはずも、なかった。
襲った村の近くにあった、神社。
そこの巫女は、人間の平穏を護る為に、妖怪を退治した。
もう何代も前の博麗の巫女が、魅魔の両親を討ったのだ。
博麗の巫女は、何も知らなかった“ことに”して、魅魔を助けようとした。
けれど魅魔はどうしても納得できず、その手から逃げた。
自分の魔法では勝てぬと知って、ただ逃げた。
――幸福を求めることは、許されないことなのかッ!
捨てられた彼女は、人間を信用できない。
けれど妖怪だから信用できるということはないのだと、他ならぬ両親から教わっていた。
――憎い、憎い、憎い憎い憎い憎いッ!!
誰が悪い訳ではない。
きっと、世界が悪いのだ。
そうと知りながらも数年は逃げて過ごした。
けれどそれも耐えきれなくなり、魅魔は魔法で己の首を掻き切った。
しかし高い魔力を有していた魅魔は死ぬことも叶わず――憎悪を抱いた霊になった。
――博麗の巫女、だけは!
ぶつける先。
その矛先は、自然と博麗の巫女に定められた。
それが正しいことか否かなど、最早考えることも出来なかった。
しかし博麗の巫女は――幸いなことに――強く、幾代にわたっても勝つことが出来なかった。
そうして何代も繰り返すうちに憎悪が薄まり、そんな折りに、魅魔は一人の少女を拾う。
――うふふ、見つけたわ!私に魔法を教えて下さいっ!
変な子供だった。
やたらと乙女チックな言動。
けれど身に宿した魔力は強大で、そこに魅魔は己の姿を重ねた。
――しょうがないねぇ。それなら私のことは、“魅魔様”と呼びな!
魅魔は、それから彼女を鍛えることにした。
魔力を宿していながら、行使すると体調を崩し、けれどそれすら魔法でねじ伏せる。
そんな少女を、魅魔は弟子にすることを、決意した。
弟子を通して出会った、亀に乗らないと飛べない巫女。
彼女とも、からかえる程度に仲良くなれば、自然と憎悪は鎮まった。
天真爛漫な己の弟子のおかげで、魅魔の憎悪は薄れていった。
数々の異変に参加し、時には巫女を助け。
八雲紫が大結界の強化を図りたいと言い、それを助ける為に一時的に博麗神社の祭神になって、負荷を減らした。
――礼なんか良いよ。好きでやったことさ。
それから直ぐに起こった、吸血鬼異変。
それを解決すると、博麗の巫女の身体にガタが来た。
――異変解決はもう無理そう。子供もちょっと怪しいから、良い子を探すわ。
そう言って引退した、博麗の巫女。
彼女が引退すると同時に、己の弟子も体調を崩した。
適合しない魔力を行使し続けてきた、結果だった。
――身体が治ったら、いつでも帰っておいで。
弟子を人里に帰し、それから数年間、弱まった博麗の巫女を襲う妖怪たちと戦った。
時には、八雲紫や風見幽香といった古き日の悪友たちと、力を合わせて。
そうして博麗の巫女が新たな子供をどこからか拾ってきて、育てていた頃。
新しい巫女に物心ついた頃、ちょうど、魅魔の下に同年代と思われる少女がやってきた。
――私に魔法を教えてくれ!
琥珀色の瞳の、少女だった。
顔立ちからかつての弟子の面影を見た魅魔は、彼女を弟子にすることを決意した。
かつての弟子ほど才能はないが、かつて出会った誰よりも、強い瞳をした少女だった。
――よろしく!魅魔さま!
少しだけニュアンスの違う呼び方。
好奇心で煌めく琥珀色の瞳は、魅魔にとって心地よいものだった。
魔界の異変に連れて行き、実戦を教えた。
それから直ぐに新しい巫女の提案で、平和な決闘方法が提示された。
全てが、上手く行くと思った。
――あ、ぁぁ、あぁあぁぁ、あぁっっ!
けれど、そうではなかった。
スペルカードルール――そのために、礎となった過去。
その屍の山に、魅魔は己の“両親”を見た。
目を閉じれば、あの日に死んだ育ての親が、魅魔をじっと見つめるようになった。
暴走してしまう前に、魅魔は弟子の前から姿を消す。
自分を探す彼女から隠れて、御しきれない己と戦っていた。
けれどついにそれも耐えられなくなり、近場にあった“強い人間”の気配へ襲いかかった。
――ふむ、お主……迷いを抱えているな?
半分だけ人間の気配をした、不思議な老人。
名も無き二振りの刀を携えた老人は、暴走状態の魅魔と渡り合った。
――幽居前の運動か。老骨には厳しいぞ。
そう言いながらも魅魔を切り伏せ、名も無き刃で魅魔の“迷い”を断って見せた。
強く、誰よりも猛々しく、そして儚く消えてしまいそうな男だった。
――迷いは断った。しかし、一時的なものだ。
完全に断ちたいのなら、己で片付けるか、もう一度斬れるものを探せ。
そう言い残して、老人は踵を返す。
――儂の腕では、これが限界。なに、もうしばし待てば、儂以上の剣客が現れようぞ。
老人の言葉を反芻しながら、魅魔は一つの決意をする。
いずれまたこの憎悪が吹き上がるのなら、自身を完全に封印してしまおう。
そう決意した魅魔は、大きな湖に己の身体を沈めた。
――これで、良かったんだ。
しかしその悲痛な決意も虚しく、魅魔は僅か数年で復活してしまう。
我を忘れ、手当たり次第に悪夢を広げ、そうすることで巫女の居場所を捜し。
今度こそ、巫女を殺し、悲願を達成しようとした。
その巫女が友人の忘れ形見であることなど、とうに覚えていなかった――。
―― 四章-Ⅴ ――
澄み渡った空。
風に靡く草原。
白く輝く三日月。
心地よい世界で、魅魔は目を醒ました。
「やっと起きたか、魅魔さま」
「一時はどうなるかと思いましたが、大丈夫ですか?」
魔理沙と妖夢。
自分たちを救ってくれた少女達を見て、魅魔は全てを思い出す。
何もかも捨てて自分を封印したのに、暴走してしまったその顛末を。
「私は、取り返しのつかないことを、してしまったんだね」
たくさんの人々を、辛い悪夢で苦しめた。
それは、許されないことだと、魅魔は考えていた。
「覚悟は出来ているよ、魔理沙。私はアンタたちの手で終われるのなら――」
「――何言ってんだ?魅魔さま」
しかし、その魅魔の言葉は、魔理沙の声で遮られた。
澄んだ翡翠の瞳を丸くして魅魔が身体を起こすと、魔理沙がわざとらしく肩を落とす。
「取り返しが付かないって、レミリアなんか作物にどれだけのダメージを与えたか」
「日光を遮った紅い霧ね。だったら、幽々子様と私は春よ、春」
「あれ以来、冥界の桜ってちょっと早く長く咲いてないか?」
「気のせいよ。それより、収穫時期の調整が大変だったって秋の神様に睨まれるんだけど」
「おいこら誤魔化すな。絶対何かやってるだろ。幽々子」
口々に言い合う二人に、魅魔は首を捻ることしかできなかった。
その意図するところを、把握できずにいた。
そんな魅魔の様子に苦笑すると、魔理沙と妖夢は互いに頷き合う。
「知らないのか?魅魔さま。幻想郷での異変の片付け方」
「そうですよ。いいですか、幻想郷には伝統的な“幕の引き方”があるんです」
言って、笑顔で、手を伸ばした。
「え?」
戸惑う魅魔を引っ張り、景色が光に包まれる。
思わず目を瞑り、それから、温かい手を感じた。
日も落ちた頃。
金の月が浮かぶ空。
常闇の下で輝く、二人の笑顔。
「ちょ、ちょっとアンタたち!」
「いいから早く!」
「急ぎましょう、魅魔さん」
箒が手元に無いことに気がついた魔理沙は、妖夢の腕にしがみつく。
そうしながらも、魅魔の手は離さなかった。
森を飛び越え、人里を眼下に見下ろし、それから見覚えのある神社へ向かう。
「ま、待ちな、待ってって、魔理沙!ええと、そう、妖夢も!」
聞く耳持たず、鳥居の中に投げ出される。
どんな叱責を受けるのか――魅魔は、覚悟を決めて目を開いた。
「うわ、やっぱり」
「新人さんですか!私は幻想郷一の巫女で……いたっ!なんですか?霊夢!」
「あら、懐かしい顔ね。花束でもあげましょうか?」
「お嬢様、新しい犠牲者ですわ」
「ちょっと咲夜、それじゃあ私が古い犠牲者みたいじゃない」
騒がしく自分を見る、沢山の人妖たち。
そこに恨み辛みといった感情は込められて居らず、ただ、宴会を楽しんでいた。
中央に巨大な鍋を置いた、宴会を。
「おもえたち、私も混ぜろ!」
「待って魔理沙なんで私にしがみついたままなのっ?!」
途端に置いていかれて、次に幻想郷からいなくなったはずの鬼に絡まれる。
封印されていたはずの地底の妖怪、初めて見る僧侶の女性、人間とも妖怪とも生きているかも死んでいるかもわからない者達。
「これ、が、今の、幻想郷?」
「ほら飲みなーっ」
「うわっ、ちょ、むぐっ!?」
そのどんちゃん騒ぎの渦中に放り込まれて、魅魔は為す術もなく口に酒瓶を突っ込まれる。
「ええい、自分で飲む!ぁ」
結局酒瓶を受け取ってしまい、やがて、徐々に笑みを浮かべながら飲み干すのであった。
宴会もたけなわという頃。
やっと解放された魅魔は、博麗神社の縁側に腰掛けていた。
「ふぅ」
肩を落として息を吐き、疲労を知る。
けれど不思議と不快さはなく、どこまでも穏やかな気持ちで居られた。
異変を起こしたら、飲んで騒いで、それで解決。
そのなんと、美しいことか。
隣に腰掛ける妖怪に、魅魔はそっと目を伏せる。
そんな魅魔はお構いなしに、妖怪――八雲紫は語りかけた。
「お疲れ様、魅魔」
目を開けて横目で見ると、魅魔の視界に胡散臭い笑顔が見える。
付き合いの長い魅魔は、その奥に優しい光が込められていることを、知っていた。
「なぁ、なんでアンタが動かなかったんだ?こうなるって、解っていたのか?」
思わず、問いかける。
紫ほどの力があれば、苦労することなく片付いたはず。
そんな風に、思ったからだった。
「異変は人間が解決するものですわ。それに――」
紫の言葉に、耳を傾ける。
彼女の言葉が、どう続くのか、気になったからだ。
「それに?」
続きを促す魅魔だが、なんとなく、答えがわかっていた。
自身もまた、その一端に、触れたのだから。
「――“あの子”と“彼”の忘れ形見なら、きっとできると信じていたもの」
きっとなんとかしてしまう。
そう思える、力強い瞳の少女達を見たのだから。
「そうか。ああ、まったく――――そうだ」
三日月に、杯を掲げる。
魅魔の翡翠の瞳から、一筋の雫がこぼれ落ちた。
それは、後悔から生まれたものではない。
そう、それはきっと――今日より続く毎日への、始まりの涙であった。
―― 終章 ――
冥界の桜は、幽玄と咲き誇っていた。
妖夢は滑らかに庭を剪定しながら、その花弁を眺める。
月明かりに照らされた夜桜は、普段とは違った趣があった。
あの異変……“悪霊異変”から、しばらくして、妖夢は変わらず冥界にいた。
庭を剪定し、幽々子の世話をする。
そんな、平穏で穏やかな毎日だ。
「さて、そろそろ行こうかな」
白玉楼の庭を歩きながら、妖夢は“悪霊異変”の後のことを、思い出す。
幽々子に帰宅の許可を貰った妖夢は、その場で、妖忌が頓悟した理由を聞いた。
『手合わせをした貴女が、真摯な心を刃に写していた』
『斬れば、わかる……ですか?』
『そう。妖忌は貴女から“斬られて得る”ものを見て、悟ったそうよ。剣の真髄を』
その話を聞いた妖夢は、己の刃を見つめ直した。
未だに冥界で、幽々子の遊び相手を務めて――引き止めて――いた犬の霊。
彼にもう一度触れた妖夢は、今度こそ彼の心を読み取った。
その想いを受け取り、あの日の少年に会いに行ったのだ。
妖夢自身が監視の下という条件下で、犬の霊を連れて。
『その、ありがとう』
複雑そうな表情であった。
けれど愛犬に促されるように、最後には、そう礼を言った。
その時の光景が、妖夢は忘れられずにいる。
何かがまた、わかった気がした。
空を見上げて、妖夢はふと、笑みを零す。
冥界の夜空から降りてくる、黒と白のツートンカラー。
自慢の友達の姿に、軽く手を振った。
「よう、妖夢」
妖夢の前まで降り立つと、彼女――魔理沙は朗らかに笑った。
妖夢とこうして過ごそうというのが、楽しくて仕方がないという様子で。
あの異変が終わった後も、妖夢と魔理沙は度々会っていた。
博麗神社に行くと、魔理沙が居て、霊夢が居て、魅魔が居る。
時々そこに早苗や咲夜、レミリアなんかも加わるのだ。
「修行は良いの?“魅魔さま”との」
妖夢がそう問うと、魔理沙はつぃっと目を逸らした。
「最近は幽香とガーデニングに嵌っちまってな」
「それで拗ねてるんだ」
「拗ねてないぜ。……っと、そんなことよりも」
魔理沙は己の言葉を遮ると、冥界から辺りをざっと見る。
それからそっと、妖夢に語りかけた。
「気がついているか?あれ」
「ええ、神霊がどこかへ行こうとしているみたい」
新しい、異変の気配。
それを敏感に感じ取り、魔理沙は口角をつり上げる。
「競争するか?」
「協力する?」
琥珀色の瞳と紺碧の瞳が、緩く、交差する。
瞳と瞳で意思を感じ取った二人は、こつんと拳を合わせた。
「競争――」
「時々協力」
「――だぜ」
一陣の風が、冥界の桜を舞い上げる。
その色濃い桜吹雪が、妖夢と魔理沙を包み込んだ。
「さあ、行くぞ、妖夢!」
「うん、行こう、魔理沙!」
この日々は、まだまだ続くことだろう。
異変が起こって、解決に出向いて、酒を飲み交わし、悔恨を無くす。
その鮮烈な日々は、まだ、終わらない。
幻想郷に桜が満ちる頃。
新たな異変が、幕を開ける。
しかしその騒動も、束の間のことだろう。
なにせこの幻想郷には――――諦めることを知らない、少女達が居るのだから。
――Continue into the ten desires.――
頑張る子が大好きな私としては、この2人は本当にいい。
百合っぽく無く、友情で纏まっているのもまた、とてもいいです。
色々言いたい事はあれど、一言だけ。
面白かったです。ありがとう。
断迷剣(殴打)を見て、ティロ•フィナーレ(物理)を思い出したのは私だけじゃないはず…!
序盤をもうちょっとシンプルにまとめてみてもよかったかも?
(個人的な好みの可能性:大 なのでスルーしていただいてもokです)
ふぅ……アリですね!
後半からの流れにはガッツリ持ってかれました。楽しかった!
>碑田阿求は、転生者だ。→稗田阿求
長編をがつっと読んだ時の満足感は若干いまいちかなと思いますが
ちゃんと内容もしっかりとしてて面白かった
所謂旧作の主人公が、実は二人の親という設定は初めて見かけたのですが、なるほどこれなら今の二人に旧作のメンツの記憶がないとしても納得ですし、さらには旧作のメンツが今なお健在であっても何ら問題の無い流れになりますね。メモメモ……(←
ともかく、すばらしい作品をありがとうございました!
王道できっちり締めたストーリーが心地よかったです。
納得