宇佐見 蓮子はマエリベリー・ハーンを見て考える。
事実は小説より奇なりというが、それは今世紀までの話だろう、と。
空想の果てに、仮想は、幻想として結実しようとしている。
"突破"するのは――明日かもしれない。
「なによ蓮子。じろじろ見てからに」
「いや……メリーの胸おっきいなア、ってさ」
「誰のせいよ」
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蓮子とメリーの100の問答 -Question & Answer of Existence & Phantasm in 100-
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宇佐見 蓮子 …… 女子大生
マエリベリー・ハーン …… 〃
藤森 猛 …… 大阪連合筆頭指定暴力団島田組直参組織・白虎会・幹事長。腕が立ち頭も切れるが話の都合上失態を重ねがちな不遇の男。義を通した末に親殺しの罪を犯し、播州組解散・白虎会吸収合併の流れを作る遠因となった。その後は修羅道に落ち、白虎会に招聘され辣腕を振るうことになる。
********************
[西暦二〇七〇年
七月十一日
オートモービル・ダイアリーズ]
静岡県富士市 東名高速道富士川SA
かんかん照りの太陽がアスファルトを焦がす、がらがらの駐車場に二人の女子大生がいた。
一人は車両のエンジンルームに頭を突っ込み、もう一人は運転席で気だるげに、流れる雲を眺める。
名を、それぞれ宇佐見 蓮子とマエリベリー・ハーンといった。
車が故障し、二人は立ち往生している。
だだっ広い駐車場に人影はなく、ひたすらにセミの声だけが響いていた。
「ねー、蓮子ー。まだなのー」
「もーちょい待ってー……よし! 今!」
蓮子の合図でメリーがエンジンをスタートする。二人を京都からここまで運んできたタタ・モータースのワゴンR、その小さなシリンダが咳き込んだ。ミッションの干渉する不快な音が響く。いい加減うんざりしてきた蓮子がナマのコブシでヘッドカバーを殴りつけると、その衝撃でどこかのフランジ同士が元の位置に戻り、急にエンジンの回転数が上がる。
「うわわわっわわわっわわ!?」
「落ち着けメリー。ニュートラルだから」
ゆっくりとアクセルペダルから足を離す。今ので故障の原因がつかめた蓮子は、再び軍手をはめてエンジンルームに頭を突っ込んだ。
三十分後。顔を煤だらけにしながらも、ボルトの代わりにそこらへんで拾ってきた針金で修理を終えた蓮子とメリーは高速道を降り、国道四六九号線を走り出した。運転は蓮子が。メリーは自作のパッシブレシーバーで周辺の電波を拾い人里の痕跡や営業しているガソリンスタンドを探す。
ひび割れ、標識がへし折れた、見晴らしの良い国道を流す。
――名古屋から静岡にかけての東海地方が、戦争による荒廃で政府の手を離れてから、既に三十年が経っていた。
陸上戦と戦略爆撃の影響で東海地方の人口はピーク時の二十分の一にまで減少し、経済規模は五分の一にまで縮小していた。各国道はインタステイトウェイとして利用者が多いといわれているが、実際に走ってみると一時間に一台大型トラックに追い抜かれる程度で、時折合流する高速道のサービスエリアも休憩所以上の意味を成していなかった。ガソリンも、今晩までは持つだろうがそれまでに入手できなければ今度こそヒッチハイクを覚悟しなければならなくなる。
「素直に海岸沿いを走れば、燃料の心配も無いんだけどね」
ブロンドの髪を風に遊ばせながら、メリーがアンテナを左右に振る。問われた蓮子は燃料メーターを一瞥し、ため息交じりに答えた。
「でも、それだとはるかに時間がかかるじゃない」
豊田市から東に、海沿いに伸びる東海工業地帯と呼ばれる新興の経済特区は治安もよく人も多い。ハイテク化された工場が延々と建ち並び、人工衛星で夜景を撮影すると煌々と輝いている様が見られる。しかしその分、軍閥の統制が強く二キロメートルごとに検問でストップがかかるのだ。社付のトラックならば顔パスできるのだが、放蕩学生に過ぎない二人には退屈極まりない旅路になること受けあいだ。それならばと、二人はあえて危険と言ってもいいこの道を選んだのだった。
「あ――蓮子。あれじゃない?」
メリーが不意に、双眼鏡で彼方の雲間を凝視した。
「マジで? どれどれ……おおーーっ! 見えた!」
裸眼でも双眼鏡より高い解像度で物が見える蓮子が歓声を上げる。
富士山だ。
二人があえて内陸部を進む、真の理由はこれだった。軌道上からの砲撃を受け美しい稜線は抉られて久しい。しかしその傷跡も、数十年を経て自然の一部になっていた。
「写真! ねえメリー写真撮って写真!」
「まだほとんど見えてないわよ!」
言いつつもメリーは、ぱしゃぱしゃとスマートフォンのシャッターを切った。ハンドルを握る蓮子と富士山、そして自分を一緒にレンズに収めるべく、蓮子の肩に腕を回す。
「前見えないってばメリー!」
「はいちーず!」
頬と頬をひっつけてどうにかこうにか記念を残し、二人はその後も富士に向けて走り続けた。夕方ごろに山を一望できるゴルフ場を農地開拓して住み着いていた富士信仰の人里にたどり着く。秋田で産出され新潟で精錬されたガソリンを購入し、民宿に宿を取ってようやく腰を落ち着けた。
その夜。
障子窓に腰掛け、缶飲料片手に二人は夜空を見上げた。
「ねえねえ蓮子蓮子。あの星はなんていうの」
「アークトゥルス」
「あれは?」
「アルタイル」
「その下」
「アンタレス」
「さっきの白いやつなんていったっけ?」
「スピカ」
「じゃあ今、スピカの上あたりを横切っていったのは?」
「オデッセイ」
「……そんなの、星座表に載ってないわよ」
「あれは星じゃなくて、合衆国"空軍"の"巡洋"戦艦よ。ダイダロス級宇宙戦艦U.S.A.F.オデッセイ」
「へえ、あれがそうなんだ」
蓮子があくびをかみ殺す。ここ数日はずっと車内泊を繰り返し疲れが溜まっていた。しかし、民宿の窓から見える星空はあろうことか満開満点のそれである。これを見ずして眠りに入るのは、一生の損だと蓮子も承知していた。
とはいえ。
こんな夜は、これまでもたくさんあった。
これからも、何千回と過ごす夜だ。
日常と言ってもいい。
それでも蓮子は、寝に入るまでの時間を惜しんでメリーと星空を心に映す。
結局、その後もなんやかんやとじゃれ合って、眠りについたときには午前二時になっていた。
********************
[七月十二日]
翌日の朝、先に起床したのはメリーだった。午前五時半。目覚めは良かった。疲労も眠気もまったくない。体に力を込めると素直に運動力が生ずる。完全快復状態。若い彼女たちには、短い睡眠時間でも十分すぎるのだった。
動きやすい格好に着替えた二人は近くの畑で作業していた老人に声をかけ、ごく自然に農作業に参加した。二人の存在は、見た目こそ異質であったもののすぐさま畑に馴染んだ。一時間もすると体が温まってくる。それと同時に周囲の畑からも声がかかり、二人は分担して仕事を片付けた。
宿に戻り朝食を摂っていると、玄関から二人を呼ぶ声。先ほど手伝いに行った先々から野菜や牛乳がダース単位で舞い込んでくる。民宿の女将はなにがおかしいのかずっと笑っていたが、蓮子とメリーにとってはまったくいつものこと、だった。
昼になる前に、二人はぶらぶらと村を散策する。すると情報の伝わる速さは二人の歩く速度をはるかに追い越していたらしく、行く先々で声をかけられた。比較的話し上手なメリーが受け答えをし、その中から仕事になりそうな情報を集める。
――左様。二人は、このようにして路銀を稼いでいた。
今日日どこへ行っても若い人手は不足している。メリーは実家が農家だし、蓮子も連れ立った経験が長いため二人は十分即戦力になることができた。農作業に慣れた両者は土を踏み荒らすことなく、自然の中から糧を得ることができるのだった。
加えて、二人が提供するのは労働力だけではない。
「おー、こりゃあ見事なミズナラの大木! ……の切り株!」
案内されたのは水田のわき、区画整備されたばかりの場所だった。下生えが取り除かれ適度に耕されている……が、直径五〇〇ミリを越す巨大な切り株が中ほどに陣取り、開墾を阻んでいた。話によると、雷に打たれて枯死した大樹の根が取り除けないでいるのだという。このまま水を流したら腐って害虫を呼び寄せるし、農機を入れにくいし、なんとかならないものか……と。
「ブルはないんですか?」
案内した、偉丈夫な老婆は首を振った。訛りがひどくて半分くらいなにを言っているのか解らなかったが、スマートフォンの翻訳機能でどうにか解読する。曰く、山裾の緩やかな斜面を一段登ったこの場所は、川上で水量が豊富であるものの、重機類の進入が難しいのだという。チェーンソーや耕運機を持ち込めば開墾は容易だが、地下数メートルにおよぶ太い根を取り除く方法だけが見つからず今に至ったのだ、と。
聞くにこの水田候補地は限られた個人の土地をどうにか有効利用したいという思惑からここまで切り開いたものだという。諦めるか進むかの瀬戸際に、依頼主は立っていた。
しばし、蓮子とメリーは切り株に背中合わせに座し、考える人のポーズを取った。のんきな雲が流れ、オニヤンマが視界を横切る。やがてメリーがハタと手を打った。
「ねえねえ蓮子蓮子。信管は持ってる?」
「新刊? 新刊なら落としたじゃない。メリーが一時間で起こしてくれなかったおかげで」
「違う違う。C190の新刊じゃなくて。ドカンとやるほうの信管よ」
「え、どーすんの。アンホでも作る――ってわけじゃなさそうね。信管?」
「臭いつくのが嫌だから、別の方法を考えましょ。さっきゴルフ場の駐車場通った時、廃棄された車がたくさんあったじゃない」
「硫酸はいくらでも手に入るか。エチレングリコールも」
「肥料や農薬はもちろん豊富にあるけど、園芸用品が気になるわ」
ごにょごにょと、二人はしばらくわけの解らない相談をした。十分ほどで話がまとまる。緩やかな斜面を降り、近くの納屋で作業をしていた依頼主に声をかけた。
「すいません。消毒薬って、ありますかね?」
********************
二時間後。
人里を少し離れた郊外の納屋に蓮子とメリーが材料をそろえて集まった。
二人ともエプロンとゴム手袋、三角巾を着用していた。そこだけ見ればこれから三分クッキングをやるのだといわれても十分納得できる。ただ、困ったことに顔面が防毒マスクで覆われていた。ゆえにその様相は、悪魔がベーコンでも作り出しそうな雰囲気をかもし出していた。
「じゃ、私が酸化剤を」
メリー。
「なら私は可燃剤ね」
蓮子。
二人はそれぞれの作業を開始した。
まず蓮子はトタン屋根の防錆や野生動物の侵入を阻む目的で光沢を施すのに使う銀色塗料ペーストを、スパチュラで掬い取り耐熱ガラスのボウルに入れた。そこにアセトンを加えてよく練ったあとフタをしポテトチップスの袋に充填されている窒素ガスを封入・密閉。オーブンレンジに投入する。アセトンは近くの文房具屋で、アロンアルファの剥離剤として販売されていたものだ。窒素ガスは無ければ無くても良い。オーブンレンジの温度はミディアムステーキを焼くコースに設定し七十度を維持。一時間焼く。
一方メリーは消毒に用いられている次亜塩素酸ナトリウムのタブレットを平鍋に張った水に溶かした。風通しの良い場所でとろ火にかけ溶融状態を作り出す。その間に、ガーデニング用品の軽石を運んでくる。これは花壇や鉢の底に敷き詰めて水はけを良くするために使われているものだ。麻袋に軽石を詰め、ハンマーで叩く、叩く、叩く。ある程度細かくなったら作業台の上に中身を空け、破片を一個一個丁寧に砕き、粉状にしたら袋に戻し取り置く。
オーブンレンジがチンと鳴る。耐熱ボウルをひっくり返して、カリカリになったカタマリを蓮子が砕いた。こちらはさほど労力をかけずとも粉状になる。二人はここでいったん動作を停止し、周囲を見渡した。一つ一つ指差し確認し最後にお互いを指差してよし、と頷きあう。
消毒薬タブレットを溶かしたぬるま湯をかき混ぜながら、ゆっくりと銀色の粉末を投入する。きらきらした粉末が液状に浮かび、ダマにならないうちに沈み込む。次に打ち棄てられた自動車から抜き取ってきた不凍液が流し込まれ、ついで、メリーの化粧ポーチから出てきた乳液クリームが混ぜ込まれる。白濁色。一時間ほど交代でかき回し続け、均一なジェルが出来上がったところで、やはりじれったいほどゆっくりした動作で軽石の粉末が加えられ、三度捏和された。
こうして練り上げられたジェル状の物質は丁寧に紙で巻かれる。そして、打ち棄てられた自動車から抜き取ってきたエンジンオイルを中に満たしたプリングルズの空缶に装填され、リード線で延長された信管が差し込まれる。信管は、打ち棄てられた車両のシートベルトを分解し、プリテンショナー装置から回収してきたイグナイターと、もっともポピュラーなライフルカートリッジ(連邦銃砲製.二二口径P222D弾)を分解・回収した雷管を組み合わせて作ったものだ。同じ信管を全体にバランスよく、合計六個差し込む。リード線は起爆装置に伸びており、これはLED懐中電灯を可逆的に改造して作られていた。
かくして。
「完成!」
「やったー!」
ようやく小屋から這い出して、プリングルズを持って切り株へ向かう。既に陽が暮れようとしていた。
そこにちょうど依頼主がやってきた。原稿が印字された紙を持っている。それを見てメリーは満足げに頷いた。
「段取りはついたようですね」
そのとき、暮れ行く里に村内放送のアナウンスが響いた。昼間のうちに録音しておいた、メリーの声。
『七月十二日、午後六時をお知らせします』
このような文句から始まった放送は、これから里外れの私有地で発破を行うので騒音に注意して欲しい、という呼びかけであった。二人がいま居る、発破予定地から近隣の民家までは十分な距離がある。ガラスが割れたり高齢者がショックを起こすような心配はほとんどなかったが、これは必要な注意喚起だった。
左様。
二人が作っていたのは爆弾だった。
「何度やっても、ワクワクするわあ」
「こら、蓮子。浮かれてちゃダメよ」
切り株の根元に掘った穴にプリングルズの缶をねじ込む。メリーは注意深く作業しながらも、蓮子と同じくニヤけそうになるのを堪えるのに必死だった。と同時にやはり不安も感じる。
「ところでこれって、なに爆薬かな? ウォータージェル? スラリー? カーリット?」
「うーん……硝酸塩じゃなくて塩酸塩だし、ニトロ化合物も使ってないし、含水率解んないし……まあいいじゃん。よっか、ちゃんと爆発するかなコレ」
爆弾には常に不発のリスクが付きまとう。そして、いま一番怖いのは不発だった。爆弾処理をやるための爆弾を二人は持っていない。爆発しなかった場合、二人は危険な橋を渡らねばならなくなる。
「鋭敏剤と起爆剤を多めにしておいたから大丈夫だとは思うけど」
「爆発、しますよーに!」
一〇〇メートルほど距離をとった場所、土嚢を積んだ即席の塹壕に退避し、依頼主に起爆装置を渡す。
依頼主はどうして良いか解らなかったものの、とりあえず懐中電灯のヘッドをひねってみて――
――そしてぶん殴られたような加速度を受けた。
発火。
伝播。
気化。
膨張。
爆轟。
衝撃。
――爆発。
土嚢に、まるで弾丸が当たるかのように土が飛び散って砕ける。濛々と煙が上がり。体の痺れがようやく痛みとして感知される。それと同時に耳の不調に気づくが、その前に蓮子とメリーは水バケツを担いで走り出していた。
「YAHOOOOO!」
立ち上った煙を見て、唾を飛ばし歓声を上げた。
十分もすると煙が晴れる。切り株のあった場所には、代わりに直径四メートル、深さ一メートルもの穴が開いていた。
紛れもない、クレーターであった。
「…………」
「…………」
蓮子が無言で、爆破残滓を検索。ほとんどすべてが後ガスになって消えていた。
爆破 ―――― 成功。
「ッいぇーい!」
「イエッヤァ!」
ハイタッチを交わす。諸手を挙げ互いの仕事を讃え合った。記念撮影もする。嬉しくて仕方がないといった様子の二人は顔を突き合わせ、前に両手の指を組んで、後ろに腰を突き出すポーズをとった。遅れてやってきた依頼主がカメラ係をやる羽目になる。
「これキャイーンっていうんですよ。百年くらい前に流行ったらしいです」
依頼主である老婆は、ギリギリでそのポーズを理解できる年代だった。しかしあえて口は挟まない。状況についてゆけていなかった。
ポーズを決めて、いざ撮影。
その――シャッターが下りる瞬間。
風が吹いた。
不意な突風。周囲の木々が薙がれる。二人のスカートが大きくはためいて。
「あっ」
押さえる手は、間に合わなかった。
********************
強風の根源は両者の上空にあった。ぬっ……っと大きな影が差す。見上げると、夕日の中に同化するようにしてモノ・グレーの機体がするすると降下していた。
F/A35-B スーパーライトニング。垂直離着陸可能な第五.五世代戦闘機。
唐突に現れた場違いな兵器は農村の外れ、僅かに開けた斜面に器用に着陸した。
「……私有地ですよ! ここ!」
顔を赤らめたメリーが怒鳴りつける。キャノピーが開いて降りてきたのは、意外にも女性であった。
女性は名を岡崎といった。航空自衛隊富士駐屯地に勤める一尉で、今しがたの爆発音を受けてスクランブルしてきたのだという。
「あー。それは……お騒がせを」
「すいませんでした……」
二人は、道理の通った岡崎一尉の要求に応えて身分証を提示した。磁気カードの学生証を見て、岡崎一尉は意外そうな顔で二人を見返す。娘の大学と同じだ、と。
「あれ――ひょっとして、岡崎教授の?」
すかさずメリーが前に出る。
懐柔するのに時間はかからなかった。
********************
その夜。二人は民宿に岡崎一尉を招いた。道中の安全に関する情報や便宜を手に入れるのが目的だったが、話せば話すうちにどんどん共通点が見つかる。気づいた時には意気投合していた。
「岡崎教授とは何度か話したことがありますよ」
「私たちも飛び級で、同じ年度に大学に入りましたからね。そういう縁で……もっとも、私たちは学生として、夢美さんはポスドクとして、ですけど」
蓮子とメリーが通う大学の理学部物理学科で、比較物理学の教授をやっている岡崎 夢美という少女は、ちょうどメリーや蓮子と同じ年に大学に来た。これが二年前のことで、岡崎 夢美は当時十六歳、ポスドク待遇であった。一度退職して、改めて教授職に就いたのはほんの三ヶ月ほど前、今年の四月だ。ちなみに大学入学時の蓮子とメリーは十七歳。
「いいえ、講義は受けたことないですね。三年生になってからでないと、岡崎教授の講義ははいんです」
「私たちはまだ二年生ですから。一年ほど、軍隊に行っていたもので」
蓮子とメリーは十六歳のとき大学の誘いを受け飛び級を決意したが、これには一つの条件があった。それは、十八歳になったら一年間休学をして徴兵制度に参加する、というもので……二人は十八歳の時、つまりは去年一年間を三沢で過ごしている。
その話を聞いた岡崎一尉は、三沢には従兄弟が勤めている、と言った。北部航空方面隊副司令官・北白河中将のことだと、二人は即座に悟った。
「中将には、私たちもお世話になりました」
「徴兵で来ただけの、まして女子だからといって特別視することなく、積極的に勉強会に呼んでくれましたからね」
岡崎一尉はそれを聞いてまた機嫌を良くした。
北白河中将は時々若い人間を宿舎に集めては、酒と菓子を振舞って長話をするのを楽しみにしていた。畳敷きのサロンにホワイトボードを持ち込み、藁半紙にプリントされた資料を配ってあれやこれやとサバイバル教練や都市ゲリラとの戦いの歴史を話してくれるのだ。
「ユーモアのセンスがありましたね。雫石を訓練飛行している時に、カメラ持った天狗とすれ違った、とかよく言ってましたっけ」
「それだけでなく、珍しい思想を持った人でした。あれほどの地位にいながら、世界各国のゲリラを手本に戦略を語っていた」
ある日の北白河塾のテーマに、こんなのがある――『車ひとつで、二万人を殺す方法』。大量生産され、どこででも見つかる車両ひとつからどれだけの兵器を作り、どうすれば効果的に使えるかを教えるものだった。
「するとやはり、北白河 ちゆりさんは中将の娘さんだったんですか」
「中将はそういうこと、言わない人でしたからね」
共通の知人が次々に見つかる。岡崎一尉は少し不安そうに、大学での娘の様子を聞いてきた。蓮子とメリーは顔を見合わせる。そして笑いあった。
「そりゃあ、もう! 伝説はたくさんありますよ」
「スピリタスマーライオン事件、北白河メロンパン事件、第四スタジオ炎上事件……数え上げたらきりがない」
蓮子とメリーはげらげら笑いながら伝説を語って聞かせた。二人にとっては身近な人物の武勇伝だったが、当の母親にとってはあまり知りたくない事実だったようで頭を抱えてしまう。
「まあまあ、飲みましょう。元気でやっているんだから、良いじゃないですか」
「コーラで恐縮ですけどね。私らも、まだ未成年なもので」
……そうして夜は更けてゆく。
この里で、二人は新たな知己と、次の目的地へ向かう道標を得たのだった。
********************
[七月十五日]
山間を抜ける国道を走る。
里をあとにしてから、すでに三日が過ぎていた。
「そろそろ、お昼にしよっか」
「さんせーい」
長く、くねった峠道。二人を乗せたワゴンはとろとろと時速三十キロほどの速度で走り続けていた。なにぶん蓮子が中古車市場をめぐって見つけてきた乗り捨て御免の一台である。十二年前に製造された、タタ・モータースがライセンス生産した日本の大衆車。交換部品が手に入りやすく、生産数が圧倒的に多いため修理費用も安い。走行距離は購入時点で二十二万キロを越えていた。車検前に廃車にするつもりだった。解体して部品を売れば、廃車費用はチャラになる。
「んっんー。良い見晴らしね」
「山と杉しか見えないじゃない」
「またまた、メリーさんは。上を見なさいよ上を」
「あー……空、か」
ブルーシートを敷いて、定期的に設けられている休憩場のアスファルトの上で弁当を広げる。近場の湧き水で茶を沸かし、しばし身体を伸ばした。シート越しに砂粒の感触。人工物は様々あったが、どれも自然と同化して久しかった。ゆえに人の気配は一つもなく、世界に二人しかいないような錯覚がメリーの感覚を支配する。
が、その幸せな時間は、振動するスマートフォンに打ち破られた。岡崎一尉からのメールだ。
「なんだって?」
「ん。この先にも、国道上なら危険はないってサ」
「そか。よかった――よぅし! そろそろ出発しよっか!」
再び走り出す。
やがて長い長いトンネルに差し掛かった。
ヘッドライトの心細い灯りを頼りに、見えない出口を目指して走る。
消えた蛍光板が脇を過ぎた。
『長野県』、そう書かれていた。
そしてトンネルを抜けると――見えたのは巨大なダム。
「おー……あれが第二諏訪湖」
「そして、第二諏訪湖ダムね」
長野県諏訪市南部の急峻地、三つ峰、花戸屋、守屋山にまたがって作られた、全長百メートルを越す重力式コンクリートダム。これは名を第二諏訪湖ダムといった。湛えられた水量は一億立米。戦後に作られた唯一のダムだった。
ワゴンはダム湖を眼下に眺めながら峠道を走り続け、ついに目的地に到着した。そこはダム管理事務棟であり、それと同時に――諏訪大社でもあった。
勇壮な御柱が、地中深くから聳えていた。
表面には日本人やインド人、さらには得体の知れない楔形文字の名前が、ケガキで刻まれている……びっしりと。
すべて、かつての戦争で諏訪大社とともに熱核弾頭ミサイルで消滅した者の名であった。
ひときわ高い御柱に、赤く刻まれた名前がある。
メリーの目がそこに、名前の形にひび割れた空間を見つけた。
そこに刻まれていたのは、東風谷 早苗の名であった。
********************
社務所は無人だった。二人は諏訪大社サーバー直属のインタフェイスに出迎えられる。観光や参拝目的で訪れる人間がほとんどであるため、ユーザーリクエストの範囲は限られていた。
「第二諏訪湖の水質に関して教えてちょうだい」
蓮子が問う。インタフェイスは微笑したままじっと蓮子を見るばかりだ。
「なにこれ。答えないわよ」
「こうするのよ――ほら」
「あ?」
メリーが蓮子の帽子をひょいと取り上げる。するとインタフェイスはぴたりと蓮子に目線を合わせ、待ってましたとばかりに語りだした。
「はい。諏訪湖は三峰に囲まれた緑豊かな湖です。水温は十五.〇度、pHは環境正常値内ですが、飲用には適しません。本日の透明度は四.二メートル。諏訪湖にはコイやカラスガイが生息し、季節になると漁猟や採取でにぎわいます」
「なるほど、神の殿中では脱帽しろってことね」
「そゆこと――ねえ、諏訪子ちゃん」
「はい、ご質問をどうぞ」
諏訪子、というのはこのインタフェイスにつけられた名前だった。諏訪の湖の案内役だから、諏訪子。安直。マイナーなキャラクターゆえに、蓮子とメリーは昨年これを丸パクリした。大胆な行いだったが、幸いにも世には受け入れられた。
メリーが問う。
「諏訪γ基地があった場所は、湖のどこら辺に位置するのかしら」
「はい。諏訪湖はかつての戦争で作られたクレーターが元になってできた湖です。このクレーターの中心は、ほぼ図のように推測されています」
写真が表示される。メリーがマーカーを置く。
「この地点の水深は?」
「はい。諏訪湖の水深は最大六十六メートルで、平均すると十一メートルになります。先ほどマーキングされたポイントは、約五十八メートルの深さです」
「……諏訪γ基地の、記録映像とかはないのかしら?」
「はい。諏訪湖と、その原型になった諏訪大本営は長野県民の戦場にして故郷といわれる場所です。多くの人々がその姿を記録しています」
サムネイルで動画が表示される。どれもこれも、ユーチューブで見たことのある記録映像ばかりだった。
「じゃ、最後の質問。今、現在。この湖の下に沈んでいる、諏訪グラウンドゼロに向かう方法はある?」
「はい。諏訪湖は霊験あらかたな湖です。第一諏訪湖側でしたら、レジャーや漁猟にも開放されていますので、ダイビングを楽しむことができます。しかし、ダムある第二諏訪湖側は封鎖区域となっておりますので、湖底に近づくことはできません。年に一度の神事の際に開放される以外には、一般の方が第二諏訪湖へお近づきになる機会はございません」
「そう。それでも行くといったら?」
「はい。諏訪湖は危険な湖です。警告いたします。第二諏訪湖は、一般の立ち入りを制限すべく有刺鉄線で区切られており、またフェンスには高圧電流が流れています。さらに、湖は波が荒くダムの放流で不規則な流れがあるので大変危険です。どうか、お近づきになろうなどとは考えないでください――まして」
「――?」
インタフェイスが、言葉を区切った。蓮子が違和感を覚える。このようなインタフェイスは社会の中にありふれている。示す反応、返す返答も、予想がつく。しかし、今の言葉の切り方は……類似する反応を見たことがない。
いやに、人間くさい。
諏訪子は言った。
「諏訪湖は、神秘に満ちた湖です。神の御庭を荒らすと、ミシャグジ様のお怒りを受けてしまいます」
「…………」
「…………」
やれやれ、と二人はかぶりを振る。
「参考になったわ、ありがと」
手を振ると、その動作でインタフェイスはにこりと笑ってスリープ状態に戻った。忘れていたが……ここは観光案内所ではない。宗教施設なのだ。インタラクティビティソフトを独自構築していても不思議はない。だいたいに諏訪子からして、帽子のデザインがアホみたいに奇抜だったし。常識が異なるのだろう。
「危険、だってサ。それで足踏みしてちゃ、秘封倶楽部の名折れよね」
「モチよ。そのためにわざわざ京都からここまで来たんだから」
********************
外に出る。駐車場へ向かう。リアハッチを持ち上げラゲッジスペースに収めていたプラスチック製のトランクケースを取り出した。
周囲に人影はない。諏訪信仰は近年、東京府にその機能と象徴を移し、大社には一切をもって人の出入りが途絶えて久しい。ゆえに蓮子とメリーはラジオペンチとシリコングローブで容易にバリケードを突破できた。湖畔に近づく。髑髏が描かれた立て看板が侵入者に攻性の危機を警告する。腐った根元を蹴り飛ばすと、看板はあっさり折れた。
「大丈夫よメリー。地雷、トラップは見当たらないわ」
「オーケー、進むわ」
蓮子の左目は"兎の目"と呼ばれる多機能光学素子で代替されている。NBC兵器から犬のクソまで、進行を阻むトラップを峻別することができた。やがて細かな砂が広がる水辺に到達。おもむろに、メリーがプラスチックケースを湖に投げた。
ばしゃん、と着水。
ぱしゅっ、と膨張。
水に入ったトランクケースは二つに割れ、内側に収められていたゴムボートが膨らむ。
「よォし、秘封倶楽部、活動開始よ!」
「よーそろー!」
二人は靴を脱ぎスカートをたくし上げ湖に踏み込んだ。水は冷たく、心地よい。夏の日差しは山中にあって柔らかく、絶好のレジャー日和であった。ボートが二人ぶんの体重で沈みこむ。ぷかぷか浮かんでいたプラスチックケースを手繰り寄せ、折りたたみ式のオールで漕ぎ出した。
「なーんだ、結構キレイな水じゃない。あ、おさかなだ」
「放射能除去のために、昔はバイオリメディエーションにお金をガンガンかけたらしいわよ」
透明度は四メートルという話だったが、直射日光を浴びた湖水は十メートル下を漂う流木の形すらくっきり見せ、白骨化した大腿骨を思わせた。オオクチバスの斑鱗がキラキラと光っている。
やがて、目的地へ向かう縦軸にボートが乗った。あとは自然な湖流に任せ、横軸を辿るように流れればいい。
「………………」
「………………」
メリーは無言で蓮子を見ていた。
蓮子は素足のまま、ボートの縁に体を預け左腕をちゃぷちゃぷと水に遊ばせている。手のひらで水をすくい、傾けて……こぼす。その動作一つに目を奪われる。
マエリベリー・ハーンは宇佐見 蓮子を見て考える。
私たちはいま、二人きりで、稀有な時間をすごしている、と。
蓮子は若い。メリーも若い。齢は未だ二十に届かず、体力に充実した身体と教養豊かな心を備えている――
――ありていに言えば、なんだってできる。
だからこうしている。
マエリベリー・ハーンは宇佐見 蓮子を見て考える。
ずっとこうしていたいものだ……、と。
が、その幸せな時間は、振動するスマートフォンに打ち破られた。設定したGPS座標に着いたことを知らせるアラーム。蓮子がすっくと立ち上がる。メリーも併せてひざ立ちになった。
「さて、メリー。なにか見える? 私の目にはなにも見えないけれど」
「んー……水底のほう。もしかしたら境界かもしれない、あれ」
「大きさは?」
「深さが解らないからなんとも」
揺れる、仄暗いほつれ。
メリーにもそれが境界なのかただの漂流物なのか、判別できなかった。ただ、境界だとしたら相当大きい。かなり深い場所にあるにも関わらず、しっかり見えているのだから。
「メリー、境界とすれ違ったら言ってね」
「オーケー蓮子」
蓮子は発炎筒の封を切り、そっと水に沈めた。正確に秒を数える。やがてメリーの目は、炎の形が不自然な揺らめきを示す瞬間を捉える。
間違いない。
境界の綻びがある。
「今すれ違った。私の手のひらと同じくらいの大きさに見える。円が三つ重なり合ったみたいな形状。今まで見てきた中でも界面が安定してる。かすかに色を呈していて……紫色……かな」
「……深さでいうと、五十八メートルくらいになるわね。面積だけでも十二平米はあるわよ。まさに底、ボトムね」
メリーの。
メリーの、境界を捉える視覚が、可視光に拠らないことは、既に知られた現象だった。
メリーは物質を透視して境界を見つけることができる。そもそも境界は可視光で見えているわけではない。もっと別の粒子でメリーの網膜に感知されていた。その粒子は、瞼や鉛コンクリート、ステンレスで遮蔽されることは判明しているが、水は透過する。ゆえにメリーは五十メートルに及ぶ水の層を隔てて、境界を目視できた。
それにしても。
なんだ、あれは。
思わずメリーが前のめりになる。揺らぎに同調するように、意識が揺れる……。
「 っ あ? 」
「え?」
じっと水底を覗き込んでいたメリーが不意に立ち上がった。目の色が――様子がおかしい。
「向こう側に景色が見えたわ」
「――! まだ見えているの」
「うん。見える。まるで、誘っているみたいに」
蓮子も慌てて立ち上がる。メリーがいつも見ている景色。恋焦がれんばかりに求めてきた、メリーのセカイ。
メリーの。
心の中を……心の中へ!
蓮子は。
メリーの心を求めぬわけにはいかぬという、焦燥に駆られて水面を睨む。
しかし。
「なにも……見えないわ」
「蓮子。手、握って?」
手を差し出すメリー。蓮子が握り返した。
湖上にボートがポツンと浮かび――二人の少女が手を繋いで。
並び立つ。
「ねえ蓮子」
微笑んで。
「このまま飛び降りたら、二人で幻想の郷へ行けるんじゃないかしら」
「そっ――」
メリーが踏み出す。
蓮子が手をぎゅっと握る。
制動力。
メリーは止まらない。
止まらない。
止まらない。
止まらない!
「ちょっおまっ……素潜りじゃ無理だって常考!」
「いいからいいからー。メリーを信じてー♪」
「ざけっおまっちょっ……落ちる落ちる越智にゃあああああん!?」
「蓮子は嫌なの? 私と二人で。幻想を求めたくはない?」
「そっ――それは! 私だってメリーがメリーとメメメメメメ」
押すなよ、絶対押すなよ状態で二人はボート上で傾いた。
今しも、メリーの身体は幻想へと落ち込んでゆきそうだった。
手を握る。
メリーがどこへも行かないように。
しかしその一方で、蓮子は確実に望んでいた。
メリーのセカイ。そこへ、自ら到達することを。
「行きましょう」
「やめて、メリーやめてやめっ――っ……ファッキン!」
「Oops!」
さてはて、痴話問答の末に修羅場と化したボートの上で蓮子がとった行動は、なんと思いっきりメリーを突き飛ばすという奇策であった。どぼーん、とマヌケな音が響いてボートがひっくり返り、二人とも湖に投げ出される。
沈む、沈む。
青白い視界の中、蓮子はメリーを探した。
気泡が邪魔だ。服も邪魔だ。"兎の目"が水中でも像を結んでくれる。探す探す探す探す。メリーメリーメリーメリー!
「――がぼっ!」
見つけた。深い。野郎、沈み込んでいる。泳いでいるようには見えない。錘もない。なのに――吸い込まれるように、沈んでいる!
蓮子は身に着けていた服をすべて脱ぎ去った。一度水面に顔を出す。息を整える。のん気なほど悠長に呼吸を整える。冷静になる。
「ふうー、ふうー、ふー……。……、……!?」
視線を感じた。見上げると、諏訪子がいた。
浮かんでいた。こちらを見下ろしていた。確かに見えた。実像として見えた。"兎の目"もそこに人がいることを認めた。ありえないと思った。オカルトだ。浮いてるんだもん。いいや勘違いだ。オカルトじゃない。そこに人がいる。ただそれだけのこと。どうでもいい。今はそれよりやらねばならんことがある。よし、呼吸は十分整った。
「ふう――う」
大きく肺腑に酸素を取り込み、蓮子は真っ逆さまに湖に潜った。
「ケロケロケロケロケーロケロ」
見下ろす諏訪子は、不気味に笑うばかりだった。
********************
"兎の目"を赤外線受光素子に切り替える。メリーは直下、水深十二メートルの地点にいた。毎秒〇.二~〇.三メートルの速さで沈んでいる。速い。これを蓮子はほとんど垂直に潜り、追った。手はむやみに動かさず。足をそろえて、イルカのように。
メリーはまっすぐゆるゆると沈んでゆく。蓮子は流されながら、方向転換しつつ追う。蓮子は速かった。水深二十メートルでついにメリーに手が届く。僅かに肺が軋み、口腔内に圧迫感を感じた。
捕まえる。持ち上げる。メリーと目が合った。もはや抵抗はない。
息を吐きながら水面に向かい浮上してゆく時間は、ほんの一分ほどの出来事だったろうが、十倍にも二十倍にも感じられた。窒息がもたらす苦痛が意識にならない思考を無為に加速させる。水泳経験が無ければ確実にブラックアウトしていたであろう。だが蓮子とメリーは耐え切った。
「――がっ――」
水面が隆起する。
黒い髪で水を引っ張りながら、ついに蓮子が大気に到達――メリーを連れ帰ることに成功した。
「――ぶはっ――」
ひゅう、ひゅうと音を立てて呼吸する。目が開けられない。その体力が戻らない。だが、隣で同じようにメリーも咳き込んでいる音は届いた。
「あー……」
やがて体力が回復する。
メリーが言った。
「……死ぬかと思った!」
蓮子はそれを聞いて、どうにか沈まぬようにするので精一杯だった。
********************
[七月十七日]
「さてメリーさん。なにか申し開きすることはありますか?」
「スンマセンほっんと調子乗ってましたスンマセン」
どうにかボートによじ登った二人は、さっそく反省会を開くことになった。
蓮子は全裸で、メリーも全身ずぶぬれである。知らないものが見つけたら露出モノの撮影と思われても致し方ないような状態だった。ちなみに減圧症の心配はない。二人の身体は未だに徴兵時代に毎食摂取したタンパクマイクロマシン群と共生関係にあるからだ。蓮子の"兎の目"にしてもそうだが、代謝しきるまでの半年間(個人差はあるが)、二人は常人の数倍に比する治癒能力と免疫を備えている。本来ならば除隊する時に白くて熱くてどろどろした抗体を飲まされ、数日で排出されるのだが、同期の中では二人だけの女性ということもあって、監視が緩く二人は今でもMMを活用している。
しかし、それにしてもメリーの行動はむちゃくちゃだった。だが同時にいつものことでもあった。
思い出すたびに、なんであの時死ななかったのか、と。
あるいは、今すぐ死んだほうがいいんじゃないか、と。
そんなことばかりしている。それが秘封倶楽部という連中なのだった。
なもんだから蓮子もあまり追求はしなかった。メリーがやらなくても、蓮子がやっていたであろうから。
「んで? 今回はなにが見えたのよ」
「いや、暗かったから実はあんまり見えなかったのよね」
「ヘイ、ヘイ、ヘヘーイ」
「ギャーゴメンゴメンごめんなさい見ました見えましたきっちり目に焼き付けてきました!」
「そうそうそれでいい。じゃあ、さっさと岸に戻りましょ」
蓮子が漕ぎ出そうと、オールを探した。しかし取るべき柄がどこにもない。嫌な予感。
「オールがねえーっ!」
「あっはははははっ!」
「笑ってる場合か!? いや笑ってる場合だな、私も笑おう。って笑えるか! あはははは!」
「くっ……蓮子全裸だし……! ブハー」
「うっさい! 帽子はキープしたからセーフよ!」
「局部を隠しておいたら、そのうち高値で落札されるかもね」
「あんたが買え。2400ユーロで買え」
一頻り笑い、さてこれからどうしようかと蓮子がかすかな不安と充実感とともに考えをめぐらせた、そのとき。
風が吹いた。
「おぉ……!?」
強風だった。成人女性二人を乗せたゴムボートを、たやすく岸へと押し流す強風――山風ではない。
「あれは……」
メリーが空を見上げる。夏の太陽に同化するベクタッドスラスト。小刻みに動くフラッペロン。鋭いアレイ。二人をなぶる風は、はるか上空に位置するスーパーライトニングが起こす風だった。
第五.五世代戦闘機は、既に就役してから半世紀以上を経ており、その戦力も脅威も限界がはっきり見えてしまっている。それでもなお現役で空を飛び続け、生産が続けられているのには明確な理由がある――なぜならば、大気圏内で格闘する戦闘機は、これが最後裔の機種だからだ。
半世紀前の戦争から、兵器開発の主軸は、地球から月にかけての微小重力・有視界環境で用いられるものと、太陽系外縁部から隣接銀河にかけての無重力・暗黒環境で用いられるものに移っている。大気圏を飛ぶ戦闘機はその流れの中で開発が途切れ、材料技術は進化したものの、機械技術は半世紀以上進歩がないままなのだった。
しかしそして。
いざ空中戦となれば反重力やらアンチマタードライブやらで飛ぶ戦闘機よりも、灯油で飛ぶ戦闘機のほうが、少なくとも大気圏内では強い。ただ、戦争に用いるには貴重すぎる資源になってしまっただけ、なのだった。
「こりゃいいドライヤーだ」
「油臭くなっちゃうね」
航空機燃料に含まれる有毒成分が起こす健康被害はバイオエタノール製造技術の進歩で解消されていたが、代わりに悪臭公害が発生するようになっていた。エンジンにスラッジを溜めないよう航空機には榎本藻から作られる高純度のバイオ燃料が供されているが――二人は甘ったるい排気に流されて、岸にたどり着く。
そして二人は、自分たちが四十八時間、この世界から消えていたことを知らされた。
********************
「どっ――どういうこっちゃ兄弟!?」
二人を捜索に来た岡崎一尉はその反応に面食らった。神隠しにでもあっていたというのか、と。あとなんで蓮子全裸なの、と。
「私たちはふつーに湖に漕ぎ出て、ふつーに落ちて、ふつーに帰ってきただけですよ」
「そうですとも。まったく覚えの無いことですよ。四十八時間なんて」
衛星写真で確認した二人の車は駐車されたまま二日間動いた形跡がなく、また連絡も途絶してしまったことから岡崎一尉は時間と権限の許す限り二人の捜索を行っていた。地元警察も近づけない場所で、女二人旅。状況から考えれば無理心中の可能性が高く、半ば絶望視していたのだが……ともかく岡崎一尉は泣いて喜んでいた。その様子にウソはなく、蓮子とメリーは戸惑いながらも事実を認めざるを得なかった。
「そういえば、携帯電話……」
自身の行動ログを確かめる。メリーのスマートフォンは水深三百メートルまでの防水性能を誇っており、電池も十分で故障はなかった。ゆえにその記録は妥当なものだと考えるべきだろう――つまり。携帯電話は、二日間、途切れ途切れにしか電波の届かない場所に連れて行かれていた。だというのに電池の減り具合も、二人の体調の変化も、どう考えても四十八時間を経過したものではなく、にも拘らず、確実に時間の経過は存在している。
神隠しにあっていた。
時間をスキップしていた。
蓮子とメリーは、蓮子とメリーならば……この状況を、そう診断するだろう。
「はー……」
「ほー……」
二人して、マヌケな顔を晒す。岡崎一尉は医者をよこそうか、と言ったが、二人は明確な意志の元それを拒否した。無頼旅をやめるつもりはない。医者が必要ならば自分の足で行く。結局は岡崎一尉が折れた。その後、一尉はMM含有レーション……合成食品を二人に供与し、モノグレーを映す機体――鉄・トリニウム・ニッポリウムの三元系合金を主とした複合材料で作られた機体は、地でモノグレー色をしている――で再び空の中へ溶け、消えていった。
車は無事だった。荷物もすべて揃っている。
「とりあえず……服、着ようか?」
「そーだね……あ、そういえば。私、諏訪子ちゃん見たのよ、諏訪子ちゃん」
「ハァ? 酸欠でアタマいかれたの?」
「あんたに言われかないわ。あと着替えじろじろ見んな」
その夜は湖畔でキャンプを組んだ。水は豊富にある。一リットルあたり一錠の浄水剤を水に溶かし飲み水を確保。生水でも二人の免疫力ならば問題ないのだが、大事にするほどMMは長生きする。
飯を炊き、味噌汁を温める。釣り上げた淡水魚を捌き、塩もみの上カリカリに焼く。お湯でレトルトカレーを温めて夕食とした。
腹を満たし、ぼんやりと空を眺める。
「今日はガスが薄いから、遠くの星までよく見えるわ」
「そうなの?」
「ええ。馬頭星雲の形まで見える」
「それは蓮子だけよ」
「はは、残念。だけど、これはメリーにだって見えるものよ。七千万円の、天体望遠鏡があればね」
「私が見ている境界だって、蓮子にも見えるわよ。毎年七億円のリース料がかかる機材があればだけど」
ハハハと笑う。
含みのない笑い声だった。
「……ところで、蓮子はさ。誰に星の名前を教えてもらったの」
「ひいおじいちゃん。現役時代は超新星をこれでもかってほど見つけてたらしいわ。またあいつか、ってよく言われてた。メリーのひいおじいちゃんはどんな人だったの?」
「私が生まれる前に死んでたわよ。私の家系が日本に渡ってきたのは八代前くらいで、その人のことなら多少は知ってる」
「…………」
「…………」
沈黙が落ちる。
虫の音が二人の間を満たす。
手を握ったのは蓮子だった。握り返したのはメリーだった。
「 」
言葉を探す。
見つからない。
今度もまた。
幻想が目の前をすり抜けていった。
行きたかった。行きたくなかった。後悔はしていない。だが惜しい。幻想のリスクを管理したい。どしようもなく惹かれている。現実以外に世界などない。しかし現実など無価値。勇気が足りなかった。無謀すぎた。メリーが大事だ。それより大事なものがあるのではないか。蓮子はなにがしたいのか。とどのつまりどこでなにがしたいのか。どうするべきだったのか。次はどうするのか。ああ、言葉では言い表せない。適切な単語が見つからない。
「ね、メリー。私さあ」
「うん」
「私ねえ……」
「うん」
「その、さあ。私はあ……」
「んん」
「…………」
ああ参ったな。
形にならぬまま、想いだけが溢れ、募り、傷み、消える。
「――――…………ゆめ、たーがーえ」
ほら、あんまりにも。
言葉がないもんだから、歌い始めちゃったよ。
「ゆめたーが、えー」
メリーが続く。蓮子が歌う。歌詞は適当。メロディだけでも可。
「まぼろーしの」
「あさもやのきおくのせかいをー」
「うつしーよは」
「くずれーゆく」
「すなのー、」
『うーえーにっ』
たたた、らららと二人は歌う。意味もなければ進歩もない。反省などしないし次にも活きない。今日一日、否、二日分を棒に振るかのように口笛を吹き歌を口ずさむ。やけくそのようであったが、これがどうにも楽しく代え難い。左様、二人ならば……なんだっていいのだった。理屈も道理もすっ飛ばし、失敗も危機も苦痛も悔恨も期待も羨望も恐怖も不足も負荷も快楽も不可能も過去も未来もこのままだ。
「なんの問題ですか?」
「なんの問題もないね」
夜が深けた。
歌は続いた。
********************
[七月十八日]
翌日。
処、山梨県甲府市。中央自動車道上。
「眉は薄めで、唇は厚いの。髪は小麦色で、背中でしょってる感じ」
「鼻は? まぶたの形も」
「鼻頭は結構低くて、瞳の赤が際立つの。まぶたは大きく、けど酷薄でさ」
「すると、耳にかけて頬が鋭くなるけれど……こう?」
「ちょっと違うかな、悪魔というよりは鬼ね。角生えてたし」
蓮子とメリーは一路、高速道を走っていた。武蔵野にある蓮子の実家に向け、帰省の途である。
これまでと違うところがひとつある。運転しているのがメリーであるということ。蓮子は助手席でスケッチブックに鉛筆を走らせている。
さらさらとB2の芯が磨り減って、代わりに少女が一人顔を出した。その少女は額に角を生やし丸襟のシャツを着て、朱の盃を持っている。名を、その名を――
「この娘、名前はなんていうの?」
「星熊 勇儀。鬼の娘よ。すっごい力が強いの。怪力乱心。二つ名は"語られる怪力乱心"、なんてどうかしら?」
蓮子が白い部分に星熊、とサインを入れる。
「できた? 見せて見せて」
「ほい」
「……おー、さすが蓮子。これよこれ。まさにこんなだった」
「よかったあ」
蓮子が胸をなでおろす。爆弾の製作などよりはるかに緊張を要する作業だった。そう――メリーが見てきたという景色を、現実にするという行為は。
メリーの空想を。
メリーが見てきたという、幻想郷を。
蓮子は絵に起こしていた。
形にしているのは蓮子だった。
「それで? この星熊って娘は、さっきの霊烏路って娘となにかを話してたのよね」
「うん。二人の話によると、二人がいる場所は地底らしいわ」
「地底?」
蓮子がその設定を書き留める。なるほどね、湖の底は、確かに地の深くだ……そんな風に、メリーの発想を分析しながら。
「霊烏路 空はね、地獄烏なんだけど、ヤタガラスの神威を備えているんだ。そのチカラで地上を目指そうとしている。そして、地底の盟主である星熊 勇儀と対立しているの。これはそういう場面だったと思うわ」
「なるほどなるほど」
頷きながらも蓮子にはさっぱりメリーの言っていることが解らなかった。当たり前だ。予備知識がなけりゃ解りっこない。けれど二人は、度重なる心身ともどもの接触により、互いの思考を共有するに至っている。なんとなく、漠然と、雰囲気は掴めるのだった。
「するってーと、人間たちは地底に行くことになるのね」
「地底はすごいわよお。アウェーもアウェーだから。人間だけじゃキビしいかもね。けど、地底と地上の間には相互不可侵協定があるの。だから妖怪は地底に行けないの」
「そうなの? すると、前みたいに、妖怪とコンビを組むってわけにはいかないわね」
「大丈夫。陰陽ボールでなんとかなるの。れん……霊夢と、紫。他にもパートナーはいるかもね。文とか、萃香とか」
「へー」
霊夢、という名前にぴくりと蓮子が反応する。メリーの語る、その、主人公のモデルが誰であるのか。考えずとも絵を見れば一目で解る。ゆえに蓮子は気が気でない。他のすべてのキャラクターは完全に現実から乖離している。その中で唯一、幻想と現実の狭間にいるのが霊夢であるからだ――設定的にも、メタ設定的にも。その扱いには慎重を期さねばならない。まかり間違って蓮子が霊夢の動き方に意思を見せたりした日には、メリーのセカイは現実の延長線上に固定されてしまうだろう。
「そうだ。メリー。魔理沙のほうはどうなの?」
「え? どうって?」
「だから。魔理沙のパートナーよ。やっぱり三人いるの? 誰と誰と誰?」
「えー? あー。そうね。アリスでしょ、パチュリー。あとはあれよ、うーん。にとり」
「にとり? なんでにとり?」
蓮子が疑問符を浮かべる。
先ほど、緑色の看板とすれ違ったことには気づかなかった。
「まあいいじゃん、魔理沙のことは。それよりもね、地底には空の仲間たちがいるのよ――」
その後、メリーは多くを語って聞かせた。次の本を作るには、十分なアイディアだった。
――最初は、ただの空想だった。
マエリベリー・ハーン十四歳の冬。
試験勉強で夜を明かし、雪で覆われた窓の外をうかがったとある朝。
巫女が空を飛んでいるのを見た。
紫色に染まっていた大気。遠い山の天辺にある、赤い赤い鳥居。白の中にあってこそ二色は際立ち、雪景色の中を巫女は悠然と飛んでいた。
……綺麗だった。
かく見えた幻想の世界は、幼いメリーの心を揺さぶるに十分だった。
"ああきっと、あの鳥居の元には別の世界で生きる巫女さんがいるに違いない"
"そしてその巫女さんは、きっと煩わしいしがらみなんかいっこもなくて"
"だれよりも自由で、満ち足りているに違いない"
そう思うと、なぜだか勇気が出た。今の自分は先も解らぬまま模試の結果を争っているけれど、本当にくだらない人生だけど――どこかで、同い年の誰かが、幸せに生きている。そう思うだけで、メリーは自分が救われるのを感じた。
そしてこの思いを、ほんの少しだけ手紙に書いた。
宛先は、模試で毎回上位を争う相手である、宇佐見という少女。
東京という遠地に住む蓮子は、メリーが僅かだが気を許せる唯一の相手であった。自分の心を、ちょっとだけならば。見せてもいいかなと、思える文通相手。このとき、空想は妄想に変わった。
蓮子の反応は上々だった。ゆえにメリーはまた物語を紡いだ。やがて高校に進学するころ蓮子が京都に移住。二人の間で物語は大きく、深く、形を得た。少女二人ぶんの思春期という繭の中で、妄想は新たな世界の予想となった。
「ねえメリー。これ同人コンテンツにしてみない?」
「いいんじゃない? 蓮子の絵、もっと見たいわ」
高校一年生のときに媒体を通じて拡散した予想は次第に人心を集め、異なる意識の間でも生存可能な仮想へと進化した。それはつまり、多数の意識が相互作用する気質の宇宙に新たな生命が誕生したということである……心の中で摩擦し、代謝し、そして死ぬ。空想構造体。
そして現在。二人は大学生になった。岩国財団の奨学金を取得し、軍隊で技能を磨き、無頼旅で力を試し……より多くの見識を得、経験を積み、今いる世界の不確定を食い尽くそうとしている。仮想に負のエントロピーを与え、集束を促すために――そう! 二人は別に、乳繰り合いながらのハネムーンをしていたわけではなかった。簡単に言えばネタ探しの旅であった。
こうまでして、なぜ二人は物語を続けるのか。
そんなのは愚問である。創作活動に理由を求めたって答えが出ないことは諸氏共々ご承知であろう。だが例外的に、蓮子とメリーには目的があった。果たして、その目的というのは――
――移民である。
境界の向こうに土地があるのか。未だ確証は持てていない。蓮子も数えるほどしか向こう側を見たことがない。公的には"ある"とされているが、それらは停戦空域調査監視航空隊 ( 国際連合安全保障理事会>軍事参謀委員会>室蘭条約機構常設軍>航空幕僚部情報課>那覇偵察飛行軍団>停戦空域調査監視航空隊 ) が主張しているもので、ようするに"境界"のほとんどは軍事偵察のための口実でしかない。異世界の存在など、オカルトマニアが勝手な解釈を加えただけだ。だけ、だが。
されど。
あるのだ。
メリーは仮想と現実を行き来し、エネルギーの交換までしている。
遠からず道を見つけるだろう。
必ず。
必ずだ。
秘封倶楽部が仮想を作ったのか、仮想が秘封倶楽部を作ったのか。それはもはや解らない。相対性精神学からすればそのどちらも正しい。いずれにせよ、いずれにしても――。
「それでね。藤森はとっさの判断で、テスタロッサに銃を向けた金沢を後ろから撃つの。その罪を被って刑に服した部下もいた。けど金沢の銃には……」
宇佐見 蓮子はマエリベリー・ハーンを見て考える。
事実は小説より奇なりというが、それは今世紀までの話だろう、と。
空想の果てに、仮想は、幻想として結実しようとしている。
"突破"するのは――明日かもしれない。
「なによ蓮子。じろじろ見てからに」
「いや……メリーの胸おっきいなア、ってさ」
「誰のせいよ。それよりも、話は聞いてたの?」
「聞いてたわよ。ところでさ、今回はなにか持ってこれなかったの?」
「もちろん。ポケットに入ってるから出して」
蓮子がメリーのポケットを探る。張りのある太ももに触れながら、取り出されたのは壊れたプラスチックと金属のカタマリだった。
「見ろ、また奇妙なやつが出てきたぞ」
「なんだと思う?」
「解んねーのかよ!」
小さい。手のひらに収まるサイズ。軽い。モーターのようにも見える。"兎の目"が放射線を検出。蓮子は「わっ」と言って取り落としそうになった。
「これ、プルトニウム入ってるわよ」
「マジで? 諏訪湖で拾ったからかな」
「おいテメー幻想郷で拾ってきたんじゃねーのかよ……ちょっと、式の力を借りましょうか」
再び蓮子がメリーのポケットを探る。スマートフォンを操り、京都にあるアパートの一室で稼動しているマシンを呼び出した。
「宇佐見 蓮子。 [email protected]」
"認証成功"
「藍、起きてた?」
"起きてましたよ。蓮子さん。旅は順調ですか"
スマートフォンの画面に、蓮子がデザインしたインタフェイスが現れた。澄んだ声で二人に笑顔を向ける、キツネの耳を生やした少女。彼女こそが、蓮子が日本橋でパーツを集め、メリーがOS2(Open Source Operation System)で構築した式。
その名を藍といった。
「メリーも私も相変わらずよ。そっちは問題なし?」
"あなたがたの宿題を代わりに片付けるのが大変ですよ。まったく、大学生にもなってなぜ宿題など課されているのですか"
「大学説き伏せて軍隊行ったからよ。それより、調べて欲しいことがあるの」
蓮子がカメラに例のブツを写す。藍は考え込むようなそぶりを見せたが、指を立てて即答した。
"ペースメーカーですね。戦前の医療器具です。心臓の悪い人の身体に埋め込み、心筋に電気を流して収縮させる機械です。プルトニウムが電池に使われているはずですよ"
「ああ、アタリだわ、それっぽい」
"それはよかった。ところでマスター?"
メリーがハンドルを握りながら、ちらと藍に視線を向ける。
「え、なに?」
"読書感想文なんですけど。ほんとにこんな文庫本を読まないといけないんですか? 学術書ならウェルカムなんですが"
「あー、藍よ、藍藍。苦手にこそ挑戦しなくちゃダメよ。がんばって!」
"はあ。なんだか、私はサボることを覚えてしまいそうです。早く帰ってきてくださいね、マスター"
藍はぼやきながらもメガネをかけて本に向かい、そしてぷつりと衛星回線は途切れた。
「あんた、藍になに読ませてるの?」
「遠野物語。あの娘はちょっと、頭が固いからね」
「まるで母親だ」
「あら。蓮子も小さいころ、遠野物語を読み聞かされたの?」
「母親じゃなくて、父親よ。小学生のころ、民話の語り聞かせに連れて行かれたわ。私としては、行き帰りの車内で観た冒険野郎マクガイバーのほうが面白かったけど」
その折、八王子ジャンクションへの案内看板が二人の頭上を過ぎた。いよいよ東京に入ろうとしている。
「はあーあ。長かった旅も、あと少しで終わっちゃうのか」
「そうね……ね、メリー。来年はさ、私の実家からスタートしない? 今度は東北行きましょう。蓮台野の彼岸花ヶ原もよかったけど、磐木の向日葵畑も壮観よ」
「アハハ。蓮子も物好きね。こんな貧乏旅行、またやろうっての?」
バイトして溜めた金で捨て値の車を買い、燃料の心配をしながら悪路を走り、ゲリラから逃げ回りつつ野営と日雇い仕事を繰り返し、その挙句、目的は無理心中まがいの結界破りだというのだから甲斐がないといったらない。
しかし蓮子は本気だった。メリーの心を、まっすぐな視線が射抜く。
「だって、まだ旅の目的が果たせてないわ。空想の果てを、見に行くのよ」
「空想の果て、か」
そこには一体なにがあるというのだろう。
知らない花でも咲いているのか。三人目の仲間でもいるのか。道が続くのか。それは解らない。しかし、僅かながら判明していることもある――そこに、行ってみたい。そう、思うということ。
「いーよ。行こうか」
「よしきた。それでこそ秘封倶楽部だ」
「そうとも、私たちは秘封倶楽部」
「世界中の結界暴いてさ」
「誰も行ったことない場所まで行ってやろう」
二〇七〇年 七月十八日
午後一時四十三分
東京府 八王子市 元八王子町
蓮子とメリーの右手には大規模な霊園が広がり、左手には御陵が聳える。
ここは東京。
ここが世界の中心だった。
「おお、見える見える。ホツレだらけだ」
「よそ見しないでよー。あと、そろそろオービスも息を吹き返すからね」
進路上に目を凝らす。道の先で光が瞬く。
遠くの空は暗く、雲は黒い。罅割れたような雷光が荒れ狂っている。
荒れ模様であることは、一目瞭然であった。
「雷雲だわ。メリー」
「ええ。嵐が来るわね」
この低気圧こそ、後に激甚災害指定されるハリケーン"マエリベリー"、その前兆であった。
アクセルを踏み込む。速度が増す。
かくして、二人を乗せた車は走る。
どんな過去も追いつけない未来まで。
「あー、お腹減ったなっ」
少女二人の旅は、未だ、はじまったばかりである。
事実は小説より奇なりというが、それは今世紀までの話だろう、と。
空想の果てに、仮想は、幻想として結実しようとしている。
"突破"するのは――明日かもしれない。
「なによ蓮子。じろじろ見てからに」
「いや……メリーの胸おっきいなア、ってさ」
「誰のせいよ」
********************
蓮子とメリーの100の問答 -Question & Answer of Existence & Phantasm in 100-
<>
宇佐見 蓮子 …… 女子大生
マエリベリー・ハーン …… 〃
藤森 猛 …… 大阪連合筆頭指定暴力団島田組直参組織・白虎会・幹事長。腕が立ち頭も切れるが話の都合上失態を重ねがちな不遇の男。義を通した末に親殺しの罪を犯し、播州組解散・白虎会吸収合併の流れを作る遠因となった。その後は修羅道に落ち、白虎会に招聘され辣腕を振るうことになる。
********************
[西暦二〇七〇年
七月十一日
オートモービル・ダイアリーズ]
静岡県富士市 東名高速道富士川SA
かんかん照りの太陽がアスファルトを焦がす、がらがらの駐車場に二人の女子大生がいた。
一人は車両のエンジンルームに頭を突っ込み、もう一人は運転席で気だるげに、流れる雲を眺める。
名を、それぞれ宇佐見 蓮子とマエリベリー・ハーンといった。
車が故障し、二人は立ち往生している。
だだっ広い駐車場に人影はなく、ひたすらにセミの声だけが響いていた。
「ねー、蓮子ー。まだなのー」
「もーちょい待ってー……よし! 今!」
蓮子の合図でメリーがエンジンをスタートする。二人を京都からここまで運んできたタタ・モータースのワゴンR、その小さなシリンダが咳き込んだ。ミッションの干渉する不快な音が響く。いい加減うんざりしてきた蓮子がナマのコブシでヘッドカバーを殴りつけると、その衝撃でどこかのフランジ同士が元の位置に戻り、急にエンジンの回転数が上がる。
「うわわわっわわわっわわ!?」
「落ち着けメリー。ニュートラルだから」
ゆっくりとアクセルペダルから足を離す。今ので故障の原因がつかめた蓮子は、再び軍手をはめてエンジンルームに頭を突っ込んだ。
三十分後。顔を煤だらけにしながらも、ボルトの代わりにそこらへんで拾ってきた針金で修理を終えた蓮子とメリーは高速道を降り、国道四六九号線を走り出した。運転は蓮子が。メリーは自作のパッシブレシーバーで周辺の電波を拾い人里の痕跡や営業しているガソリンスタンドを探す。
ひび割れ、標識がへし折れた、見晴らしの良い国道を流す。
――名古屋から静岡にかけての東海地方が、戦争による荒廃で政府の手を離れてから、既に三十年が経っていた。
陸上戦と戦略爆撃の影響で東海地方の人口はピーク時の二十分の一にまで減少し、経済規模は五分の一にまで縮小していた。各国道はインタステイトウェイとして利用者が多いといわれているが、実際に走ってみると一時間に一台大型トラックに追い抜かれる程度で、時折合流する高速道のサービスエリアも休憩所以上の意味を成していなかった。ガソリンも、今晩までは持つだろうがそれまでに入手できなければ今度こそヒッチハイクを覚悟しなければならなくなる。
「素直に海岸沿いを走れば、燃料の心配も無いんだけどね」
ブロンドの髪を風に遊ばせながら、メリーがアンテナを左右に振る。問われた蓮子は燃料メーターを一瞥し、ため息交じりに答えた。
「でも、それだとはるかに時間がかかるじゃない」
豊田市から東に、海沿いに伸びる東海工業地帯と呼ばれる新興の経済特区は治安もよく人も多い。ハイテク化された工場が延々と建ち並び、人工衛星で夜景を撮影すると煌々と輝いている様が見られる。しかしその分、軍閥の統制が強く二キロメートルごとに検問でストップがかかるのだ。社付のトラックならば顔パスできるのだが、放蕩学生に過ぎない二人には退屈極まりない旅路になること受けあいだ。それならばと、二人はあえて危険と言ってもいいこの道を選んだのだった。
「あ――蓮子。あれじゃない?」
メリーが不意に、双眼鏡で彼方の雲間を凝視した。
「マジで? どれどれ……おおーーっ! 見えた!」
裸眼でも双眼鏡より高い解像度で物が見える蓮子が歓声を上げる。
富士山だ。
二人があえて内陸部を進む、真の理由はこれだった。軌道上からの砲撃を受け美しい稜線は抉られて久しい。しかしその傷跡も、数十年を経て自然の一部になっていた。
「写真! ねえメリー写真撮って写真!」
「まだほとんど見えてないわよ!」
言いつつもメリーは、ぱしゃぱしゃとスマートフォンのシャッターを切った。ハンドルを握る蓮子と富士山、そして自分を一緒にレンズに収めるべく、蓮子の肩に腕を回す。
「前見えないってばメリー!」
「はいちーず!」
頬と頬をひっつけてどうにかこうにか記念を残し、二人はその後も富士に向けて走り続けた。夕方ごろに山を一望できるゴルフ場を農地開拓して住み着いていた富士信仰の人里にたどり着く。秋田で産出され新潟で精錬されたガソリンを購入し、民宿に宿を取ってようやく腰を落ち着けた。
その夜。
障子窓に腰掛け、缶飲料片手に二人は夜空を見上げた。
「ねえねえ蓮子蓮子。あの星はなんていうの」
「アークトゥルス」
「あれは?」
「アルタイル」
「その下」
「アンタレス」
「さっきの白いやつなんていったっけ?」
「スピカ」
「じゃあ今、スピカの上あたりを横切っていったのは?」
「オデッセイ」
「……そんなの、星座表に載ってないわよ」
「あれは星じゃなくて、合衆国"空軍"の"巡洋"戦艦よ。ダイダロス級宇宙戦艦U.S.A.F.オデッセイ」
「へえ、あれがそうなんだ」
蓮子があくびをかみ殺す。ここ数日はずっと車内泊を繰り返し疲れが溜まっていた。しかし、民宿の窓から見える星空はあろうことか満開満点のそれである。これを見ずして眠りに入るのは、一生の損だと蓮子も承知していた。
とはいえ。
こんな夜は、これまでもたくさんあった。
これからも、何千回と過ごす夜だ。
日常と言ってもいい。
それでも蓮子は、寝に入るまでの時間を惜しんでメリーと星空を心に映す。
結局、その後もなんやかんやとじゃれ合って、眠りについたときには午前二時になっていた。
********************
[七月十二日]
翌日の朝、先に起床したのはメリーだった。午前五時半。目覚めは良かった。疲労も眠気もまったくない。体に力を込めると素直に運動力が生ずる。完全快復状態。若い彼女たちには、短い睡眠時間でも十分すぎるのだった。
動きやすい格好に着替えた二人は近くの畑で作業していた老人に声をかけ、ごく自然に農作業に参加した。二人の存在は、見た目こそ異質であったもののすぐさま畑に馴染んだ。一時間もすると体が温まってくる。それと同時に周囲の畑からも声がかかり、二人は分担して仕事を片付けた。
宿に戻り朝食を摂っていると、玄関から二人を呼ぶ声。先ほど手伝いに行った先々から野菜や牛乳がダース単位で舞い込んでくる。民宿の女将はなにがおかしいのかずっと笑っていたが、蓮子とメリーにとってはまったくいつものこと、だった。
昼になる前に、二人はぶらぶらと村を散策する。すると情報の伝わる速さは二人の歩く速度をはるかに追い越していたらしく、行く先々で声をかけられた。比較的話し上手なメリーが受け答えをし、その中から仕事になりそうな情報を集める。
――左様。二人は、このようにして路銀を稼いでいた。
今日日どこへ行っても若い人手は不足している。メリーは実家が農家だし、蓮子も連れ立った経験が長いため二人は十分即戦力になることができた。農作業に慣れた両者は土を踏み荒らすことなく、自然の中から糧を得ることができるのだった。
加えて、二人が提供するのは労働力だけではない。
「おー、こりゃあ見事なミズナラの大木! ……の切り株!」
案内されたのは水田のわき、区画整備されたばかりの場所だった。下生えが取り除かれ適度に耕されている……が、直径五〇〇ミリを越す巨大な切り株が中ほどに陣取り、開墾を阻んでいた。話によると、雷に打たれて枯死した大樹の根が取り除けないでいるのだという。このまま水を流したら腐って害虫を呼び寄せるし、農機を入れにくいし、なんとかならないものか……と。
「ブルはないんですか?」
案内した、偉丈夫な老婆は首を振った。訛りがひどくて半分くらいなにを言っているのか解らなかったが、スマートフォンの翻訳機能でどうにか解読する。曰く、山裾の緩やかな斜面を一段登ったこの場所は、川上で水量が豊富であるものの、重機類の進入が難しいのだという。チェーンソーや耕運機を持ち込めば開墾は容易だが、地下数メートルにおよぶ太い根を取り除く方法だけが見つからず今に至ったのだ、と。
聞くにこの水田候補地は限られた個人の土地をどうにか有効利用したいという思惑からここまで切り開いたものだという。諦めるか進むかの瀬戸際に、依頼主は立っていた。
しばし、蓮子とメリーは切り株に背中合わせに座し、考える人のポーズを取った。のんきな雲が流れ、オニヤンマが視界を横切る。やがてメリーがハタと手を打った。
「ねえねえ蓮子蓮子。信管は持ってる?」
「新刊? 新刊なら落としたじゃない。メリーが一時間で起こしてくれなかったおかげで」
「違う違う。C190の新刊じゃなくて。ドカンとやるほうの信管よ」
「え、どーすんの。アンホでも作る――ってわけじゃなさそうね。信管?」
「臭いつくのが嫌だから、別の方法を考えましょ。さっきゴルフ場の駐車場通った時、廃棄された車がたくさんあったじゃない」
「硫酸はいくらでも手に入るか。エチレングリコールも」
「肥料や農薬はもちろん豊富にあるけど、園芸用品が気になるわ」
ごにょごにょと、二人はしばらくわけの解らない相談をした。十分ほどで話がまとまる。緩やかな斜面を降り、近くの納屋で作業をしていた依頼主に声をかけた。
「すいません。消毒薬って、ありますかね?」
********************
二時間後。
人里を少し離れた郊外の納屋に蓮子とメリーが材料をそろえて集まった。
二人ともエプロンとゴム手袋、三角巾を着用していた。そこだけ見ればこれから三分クッキングをやるのだといわれても十分納得できる。ただ、困ったことに顔面が防毒マスクで覆われていた。ゆえにその様相は、悪魔がベーコンでも作り出しそうな雰囲気をかもし出していた。
「じゃ、私が酸化剤を」
メリー。
「なら私は可燃剤ね」
蓮子。
二人はそれぞれの作業を開始した。
まず蓮子はトタン屋根の防錆や野生動物の侵入を阻む目的で光沢を施すのに使う銀色塗料ペーストを、スパチュラで掬い取り耐熱ガラスのボウルに入れた。そこにアセトンを加えてよく練ったあとフタをしポテトチップスの袋に充填されている窒素ガスを封入・密閉。オーブンレンジに投入する。アセトンは近くの文房具屋で、アロンアルファの剥離剤として販売されていたものだ。窒素ガスは無ければ無くても良い。オーブンレンジの温度はミディアムステーキを焼くコースに設定し七十度を維持。一時間焼く。
一方メリーは消毒に用いられている次亜塩素酸ナトリウムのタブレットを平鍋に張った水に溶かした。風通しの良い場所でとろ火にかけ溶融状態を作り出す。その間に、ガーデニング用品の軽石を運んでくる。これは花壇や鉢の底に敷き詰めて水はけを良くするために使われているものだ。麻袋に軽石を詰め、ハンマーで叩く、叩く、叩く。ある程度細かくなったら作業台の上に中身を空け、破片を一個一個丁寧に砕き、粉状にしたら袋に戻し取り置く。
オーブンレンジがチンと鳴る。耐熱ボウルをひっくり返して、カリカリになったカタマリを蓮子が砕いた。こちらはさほど労力をかけずとも粉状になる。二人はここでいったん動作を停止し、周囲を見渡した。一つ一つ指差し確認し最後にお互いを指差してよし、と頷きあう。
消毒薬タブレットを溶かしたぬるま湯をかき混ぜながら、ゆっくりと銀色の粉末を投入する。きらきらした粉末が液状に浮かび、ダマにならないうちに沈み込む。次に打ち棄てられた自動車から抜き取ってきた不凍液が流し込まれ、ついで、メリーの化粧ポーチから出てきた乳液クリームが混ぜ込まれる。白濁色。一時間ほど交代でかき回し続け、均一なジェルが出来上がったところで、やはりじれったいほどゆっくりした動作で軽石の粉末が加えられ、三度捏和された。
こうして練り上げられたジェル状の物質は丁寧に紙で巻かれる。そして、打ち棄てられた自動車から抜き取ってきたエンジンオイルを中に満たしたプリングルズの空缶に装填され、リード線で延長された信管が差し込まれる。信管は、打ち棄てられた車両のシートベルトを分解し、プリテンショナー装置から回収してきたイグナイターと、もっともポピュラーなライフルカートリッジ(連邦銃砲製.二二口径P222D弾)を分解・回収した雷管を組み合わせて作ったものだ。同じ信管を全体にバランスよく、合計六個差し込む。リード線は起爆装置に伸びており、これはLED懐中電灯を可逆的に改造して作られていた。
かくして。
「完成!」
「やったー!」
ようやく小屋から這い出して、プリングルズを持って切り株へ向かう。既に陽が暮れようとしていた。
そこにちょうど依頼主がやってきた。原稿が印字された紙を持っている。それを見てメリーは満足げに頷いた。
「段取りはついたようですね」
そのとき、暮れ行く里に村内放送のアナウンスが響いた。昼間のうちに録音しておいた、メリーの声。
『七月十二日、午後六時をお知らせします』
このような文句から始まった放送は、これから里外れの私有地で発破を行うので騒音に注意して欲しい、という呼びかけであった。二人がいま居る、発破予定地から近隣の民家までは十分な距離がある。ガラスが割れたり高齢者がショックを起こすような心配はほとんどなかったが、これは必要な注意喚起だった。
左様。
二人が作っていたのは爆弾だった。
「何度やっても、ワクワクするわあ」
「こら、蓮子。浮かれてちゃダメよ」
切り株の根元に掘った穴にプリングルズの缶をねじ込む。メリーは注意深く作業しながらも、蓮子と同じくニヤけそうになるのを堪えるのに必死だった。と同時にやはり不安も感じる。
「ところでこれって、なに爆薬かな? ウォータージェル? スラリー? カーリット?」
「うーん……硝酸塩じゃなくて塩酸塩だし、ニトロ化合物も使ってないし、含水率解んないし……まあいいじゃん。よっか、ちゃんと爆発するかなコレ」
爆弾には常に不発のリスクが付きまとう。そして、いま一番怖いのは不発だった。爆弾処理をやるための爆弾を二人は持っていない。爆発しなかった場合、二人は危険な橋を渡らねばならなくなる。
「鋭敏剤と起爆剤を多めにしておいたから大丈夫だとは思うけど」
「爆発、しますよーに!」
一〇〇メートルほど距離をとった場所、土嚢を積んだ即席の塹壕に退避し、依頼主に起爆装置を渡す。
依頼主はどうして良いか解らなかったものの、とりあえず懐中電灯のヘッドをひねってみて――
――そしてぶん殴られたような加速度を受けた。
発火。
伝播。
気化。
膨張。
爆轟。
衝撃。
――爆発。
土嚢に、まるで弾丸が当たるかのように土が飛び散って砕ける。濛々と煙が上がり。体の痺れがようやく痛みとして感知される。それと同時に耳の不調に気づくが、その前に蓮子とメリーは水バケツを担いで走り出していた。
「YAHOOOOO!」
立ち上った煙を見て、唾を飛ばし歓声を上げた。
十分もすると煙が晴れる。切り株のあった場所には、代わりに直径四メートル、深さ一メートルもの穴が開いていた。
紛れもない、クレーターであった。
「…………」
「…………」
蓮子が無言で、爆破残滓を検索。ほとんどすべてが後ガスになって消えていた。
爆破 ―――― 成功。
「ッいぇーい!」
「イエッヤァ!」
ハイタッチを交わす。諸手を挙げ互いの仕事を讃え合った。記念撮影もする。嬉しくて仕方がないといった様子の二人は顔を突き合わせ、前に両手の指を組んで、後ろに腰を突き出すポーズをとった。遅れてやってきた依頼主がカメラ係をやる羽目になる。
「これキャイーンっていうんですよ。百年くらい前に流行ったらしいです」
依頼主である老婆は、ギリギリでそのポーズを理解できる年代だった。しかしあえて口は挟まない。状況についてゆけていなかった。
ポーズを決めて、いざ撮影。
その――シャッターが下りる瞬間。
風が吹いた。
不意な突風。周囲の木々が薙がれる。二人のスカートが大きくはためいて。
「あっ」
押さえる手は、間に合わなかった。
********************
強風の根源は両者の上空にあった。ぬっ……っと大きな影が差す。見上げると、夕日の中に同化するようにしてモノ・グレーの機体がするすると降下していた。
F/A35-B スーパーライトニング。垂直離着陸可能な第五.五世代戦闘機。
唐突に現れた場違いな兵器は農村の外れ、僅かに開けた斜面に器用に着陸した。
「……私有地ですよ! ここ!」
顔を赤らめたメリーが怒鳴りつける。キャノピーが開いて降りてきたのは、意外にも女性であった。
女性は名を岡崎といった。航空自衛隊富士駐屯地に勤める一尉で、今しがたの爆発音を受けてスクランブルしてきたのだという。
「あー。それは……お騒がせを」
「すいませんでした……」
二人は、道理の通った岡崎一尉の要求に応えて身分証を提示した。磁気カードの学生証を見て、岡崎一尉は意外そうな顔で二人を見返す。娘の大学と同じだ、と。
「あれ――ひょっとして、岡崎教授の?」
すかさずメリーが前に出る。
懐柔するのに時間はかからなかった。
********************
その夜。二人は民宿に岡崎一尉を招いた。道中の安全に関する情報や便宜を手に入れるのが目的だったが、話せば話すうちにどんどん共通点が見つかる。気づいた時には意気投合していた。
「岡崎教授とは何度か話したことがありますよ」
「私たちも飛び級で、同じ年度に大学に入りましたからね。そういう縁で……もっとも、私たちは学生として、夢美さんはポスドクとして、ですけど」
蓮子とメリーが通う大学の理学部物理学科で、比較物理学の教授をやっている岡崎 夢美という少女は、ちょうどメリーや蓮子と同じ年に大学に来た。これが二年前のことで、岡崎 夢美は当時十六歳、ポスドク待遇であった。一度退職して、改めて教授職に就いたのはほんの三ヶ月ほど前、今年の四月だ。ちなみに大学入学時の蓮子とメリーは十七歳。
「いいえ、講義は受けたことないですね。三年生になってからでないと、岡崎教授の講義ははいんです」
「私たちはまだ二年生ですから。一年ほど、軍隊に行っていたもので」
蓮子とメリーは十六歳のとき大学の誘いを受け飛び級を決意したが、これには一つの条件があった。それは、十八歳になったら一年間休学をして徴兵制度に参加する、というもので……二人は十八歳の時、つまりは去年一年間を三沢で過ごしている。
その話を聞いた岡崎一尉は、三沢には従兄弟が勤めている、と言った。北部航空方面隊副司令官・北白河中将のことだと、二人は即座に悟った。
「中将には、私たちもお世話になりました」
「徴兵で来ただけの、まして女子だからといって特別視することなく、積極的に勉強会に呼んでくれましたからね」
岡崎一尉はそれを聞いてまた機嫌を良くした。
北白河中将は時々若い人間を宿舎に集めては、酒と菓子を振舞って長話をするのを楽しみにしていた。畳敷きのサロンにホワイトボードを持ち込み、藁半紙にプリントされた資料を配ってあれやこれやとサバイバル教練や都市ゲリラとの戦いの歴史を話してくれるのだ。
「ユーモアのセンスがありましたね。雫石を訓練飛行している時に、カメラ持った天狗とすれ違った、とかよく言ってましたっけ」
「それだけでなく、珍しい思想を持った人でした。あれほどの地位にいながら、世界各国のゲリラを手本に戦略を語っていた」
ある日の北白河塾のテーマに、こんなのがある――『車ひとつで、二万人を殺す方法』。大量生産され、どこででも見つかる車両ひとつからどれだけの兵器を作り、どうすれば効果的に使えるかを教えるものだった。
「するとやはり、北白河 ちゆりさんは中将の娘さんだったんですか」
「中将はそういうこと、言わない人でしたからね」
共通の知人が次々に見つかる。岡崎一尉は少し不安そうに、大学での娘の様子を聞いてきた。蓮子とメリーは顔を見合わせる。そして笑いあった。
「そりゃあ、もう! 伝説はたくさんありますよ」
「スピリタスマーライオン事件、北白河メロンパン事件、第四スタジオ炎上事件……数え上げたらきりがない」
蓮子とメリーはげらげら笑いながら伝説を語って聞かせた。二人にとっては身近な人物の武勇伝だったが、当の母親にとってはあまり知りたくない事実だったようで頭を抱えてしまう。
「まあまあ、飲みましょう。元気でやっているんだから、良いじゃないですか」
「コーラで恐縮ですけどね。私らも、まだ未成年なもので」
……そうして夜は更けてゆく。
この里で、二人は新たな知己と、次の目的地へ向かう道標を得たのだった。
********************
[七月十五日]
山間を抜ける国道を走る。
里をあとにしてから、すでに三日が過ぎていた。
「そろそろ、お昼にしよっか」
「さんせーい」
長く、くねった峠道。二人を乗せたワゴンはとろとろと時速三十キロほどの速度で走り続けていた。なにぶん蓮子が中古車市場をめぐって見つけてきた乗り捨て御免の一台である。十二年前に製造された、タタ・モータースがライセンス生産した日本の大衆車。交換部品が手に入りやすく、生産数が圧倒的に多いため修理費用も安い。走行距離は購入時点で二十二万キロを越えていた。車検前に廃車にするつもりだった。解体して部品を売れば、廃車費用はチャラになる。
「んっんー。良い見晴らしね」
「山と杉しか見えないじゃない」
「またまた、メリーさんは。上を見なさいよ上を」
「あー……空、か」
ブルーシートを敷いて、定期的に設けられている休憩場のアスファルトの上で弁当を広げる。近場の湧き水で茶を沸かし、しばし身体を伸ばした。シート越しに砂粒の感触。人工物は様々あったが、どれも自然と同化して久しかった。ゆえに人の気配は一つもなく、世界に二人しかいないような錯覚がメリーの感覚を支配する。
が、その幸せな時間は、振動するスマートフォンに打ち破られた。岡崎一尉からのメールだ。
「なんだって?」
「ん。この先にも、国道上なら危険はないってサ」
「そか。よかった――よぅし! そろそろ出発しよっか!」
再び走り出す。
やがて長い長いトンネルに差し掛かった。
ヘッドライトの心細い灯りを頼りに、見えない出口を目指して走る。
消えた蛍光板が脇を過ぎた。
『長野県』、そう書かれていた。
そしてトンネルを抜けると――見えたのは巨大なダム。
「おー……あれが第二諏訪湖」
「そして、第二諏訪湖ダムね」
長野県諏訪市南部の急峻地、三つ峰、花戸屋、守屋山にまたがって作られた、全長百メートルを越す重力式コンクリートダム。これは名を第二諏訪湖ダムといった。湛えられた水量は一億立米。戦後に作られた唯一のダムだった。
ワゴンはダム湖を眼下に眺めながら峠道を走り続け、ついに目的地に到着した。そこはダム管理事務棟であり、それと同時に――諏訪大社でもあった。
勇壮な御柱が、地中深くから聳えていた。
表面には日本人やインド人、さらには得体の知れない楔形文字の名前が、ケガキで刻まれている……びっしりと。
すべて、かつての戦争で諏訪大社とともに熱核弾頭ミサイルで消滅した者の名であった。
ひときわ高い御柱に、赤く刻まれた名前がある。
メリーの目がそこに、名前の形にひび割れた空間を見つけた。
そこに刻まれていたのは、東風谷 早苗の名であった。
********************
社務所は無人だった。二人は諏訪大社サーバー直属のインタフェイスに出迎えられる。観光や参拝目的で訪れる人間がほとんどであるため、ユーザーリクエストの範囲は限られていた。
「第二諏訪湖の水質に関して教えてちょうだい」
蓮子が問う。インタフェイスは微笑したままじっと蓮子を見るばかりだ。
「なにこれ。答えないわよ」
「こうするのよ――ほら」
「あ?」
メリーが蓮子の帽子をひょいと取り上げる。するとインタフェイスはぴたりと蓮子に目線を合わせ、待ってましたとばかりに語りだした。
「はい。諏訪湖は三峰に囲まれた緑豊かな湖です。水温は十五.〇度、pHは環境正常値内ですが、飲用には適しません。本日の透明度は四.二メートル。諏訪湖にはコイやカラスガイが生息し、季節になると漁猟や採取でにぎわいます」
「なるほど、神の殿中では脱帽しろってことね」
「そゆこと――ねえ、諏訪子ちゃん」
「はい、ご質問をどうぞ」
諏訪子、というのはこのインタフェイスにつけられた名前だった。諏訪の湖の案内役だから、諏訪子。安直。マイナーなキャラクターゆえに、蓮子とメリーは昨年これを丸パクリした。大胆な行いだったが、幸いにも世には受け入れられた。
メリーが問う。
「諏訪γ基地があった場所は、湖のどこら辺に位置するのかしら」
「はい。諏訪湖はかつての戦争で作られたクレーターが元になってできた湖です。このクレーターの中心は、ほぼ図のように推測されています」
写真が表示される。メリーがマーカーを置く。
「この地点の水深は?」
「はい。諏訪湖の水深は最大六十六メートルで、平均すると十一メートルになります。先ほどマーキングされたポイントは、約五十八メートルの深さです」
「……諏訪γ基地の、記録映像とかはないのかしら?」
「はい。諏訪湖と、その原型になった諏訪大本営は長野県民の戦場にして故郷といわれる場所です。多くの人々がその姿を記録しています」
サムネイルで動画が表示される。どれもこれも、ユーチューブで見たことのある記録映像ばかりだった。
「じゃ、最後の質問。今、現在。この湖の下に沈んでいる、諏訪グラウンドゼロに向かう方法はある?」
「はい。諏訪湖は霊験あらかたな湖です。第一諏訪湖側でしたら、レジャーや漁猟にも開放されていますので、ダイビングを楽しむことができます。しかし、ダムある第二諏訪湖側は封鎖区域となっておりますので、湖底に近づくことはできません。年に一度の神事の際に開放される以外には、一般の方が第二諏訪湖へお近づきになる機会はございません」
「そう。それでも行くといったら?」
「はい。諏訪湖は危険な湖です。警告いたします。第二諏訪湖は、一般の立ち入りを制限すべく有刺鉄線で区切られており、またフェンスには高圧電流が流れています。さらに、湖は波が荒くダムの放流で不規則な流れがあるので大変危険です。どうか、お近づきになろうなどとは考えないでください――まして」
「――?」
インタフェイスが、言葉を区切った。蓮子が違和感を覚える。このようなインタフェイスは社会の中にありふれている。示す反応、返す返答も、予想がつく。しかし、今の言葉の切り方は……類似する反応を見たことがない。
いやに、人間くさい。
諏訪子は言った。
「諏訪湖は、神秘に満ちた湖です。神の御庭を荒らすと、ミシャグジ様のお怒りを受けてしまいます」
「…………」
「…………」
やれやれ、と二人はかぶりを振る。
「参考になったわ、ありがと」
手を振ると、その動作でインタフェイスはにこりと笑ってスリープ状態に戻った。忘れていたが……ここは観光案内所ではない。宗教施設なのだ。インタラクティビティソフトを独自構築していても不思議はない。だいたいに諏訪子からして、帽子のデザインがアホみたいに奇抜だったし。常識が異なるのだろう。
「危険、だってサ。それで足踏みしてちゃ、秘封倶楽部の名折れよね」
「モチよ。そのためにわざわざ京都からここまで来たんだから」
********************
外に出る。駐車場へ向かう。リアハッチを持ち上げラゲッジスペースに収めていたプラスチック製のトランクケースを取り出した。
周囲に人影はない。諏訪信仰は近年、東京府にその機能と象徴を移し、大社には一切をもって人の出入りが途絶えて久しい。ゆえに蓮子とメリーはラジオペンチとシリコングローブで容易にバリケードを突破できた。湖畔に近づく。髑髏が描かれた立て看板が侵入者に攻性の危機を警告する。腐った根元を蹴り飛ばすと、看板はあっさり折れた。
「大丈夫よメリー。地雷、トラップは見当たらないわ」
「オーケー、進むわ」
蓮子の左目は"兎の目"と呼ばれる多機能光学素子で代替されている。NBC兵器から犬のクソまで、進行を阻むトラップを峻別することができた。やがて細かな砂が広がる水辺に到達。おもむろに、メリーがプラスチックケースを湖に投げた。
ばしゃん、と着水。
ぱしゅっ、と膨張。
水に入ったトランクケースは二つに割れ、内側に収められていたゴムボートが膨らむ。
「よォし、秘封倶楽部、活動開始よ!」
「よーそろー!」
二人は靴を脱ぎスカートをたくし上げ湖に踏み込んだ。水は冷たく、心地よい。夏の日差しは山中にあって柔らかく、絶好のレジャー日和であった。ボートが二人ぶんの体重で沈みこむ。ぷかぷか浮かんでいたプラスチックケースを手繰り寄せ、折りたたみ式のオールで漕ぎ出した。
「なーんだ、結構キレイな水じゃない。あ、おさかなだ」
「放射能除去のために、昔はバイオリメディエーションにお金をガンガンかけたらしいわよ」
透明度は四メートルという話だったが、直射日光を浴びた湖水は十メートル下を漂う流木の形すらくっきり見せ、白骨化した大腿骨を思わせた。オオクチバスの斑鱗がキラキラと光っている。
やがて、目的地へ向かう縦軸にボートが乗った。あとは自然な湖流に任せ、横軸を辿るように流れればいい。
「………………」
「………………」
メリーは無言で蓮子を見ていた。
蓮子は素足のまま、ボートの縁に体を預け左腕をちゃぷちゃぷと水に遊ばせている。手のひらで水をすくい、傾けて……こぼす。その動作一つに目を奪われる。
マエリベリー・ハーンは宇佐見 蓮子を見て考える。
私たちはいま、二人きりで、稀有な時間をすごしている、と。
蓮子は若い。メリーも若い。齢は未だ二十に届かず、体力に充実した身体と教養豊かな心を備えている――
――ありていに言えば、なんだってできる。
だからこうしている。
マエリベリー・ハーンは宇佐見 蓮子を見て考える。
ずっとこうしていたいものだ……、と。
が、その幸せな時間は、振動するスマートフォンに打ち破られた。設定したGPS座標に着いたことを知らせるアラーム。蓮子がすっくと立ち上がる。メリーも併せてひざ立ちになった。
「さて、メリー。なにか見える? 私の目にはなにも見えないけれど」
「んー……水底のほう。もしかしたら境界かもしれない、あれ」
「大きさは?」
「深さが解らないからなんとも」
揺れる、仄暗いほつれ。
メリーにもそれが境界なのかただの漂流物なのか、判別できなかった。ただ、境界だとしたら相当大きい。かなり深い場所にあるにも関わらず、しっかり見えているのだから。
「メリー、境界とすれ違ったら言ってね」
「オーケー蓮子」
蓮子は発炎筒の封を切り、そっと水に沈めた。正確に秒を数える。やがてメリーの目は、炎の形が不自然な揺らめきを示す瞬間を捉える。
間違いない。
境界の綻びがある。
「今すれ違った。私の手のひらと同じくらいの大きさに見える。円が三つ重なり合ったみたいな形状。今まで見てきた中でも界面が安定してる。かすかに色を呈していて……紫色……かな」
「……深さでいうと、五十八メートルくらいになるわね。面積だけでも十二平米はあるわよ。まさに底、ボトムね」
メリーの。
メリーの、境界を捉える視覚が、可視光に拠らないことは、既に知られた現象だった。
メリーは物質を透視して境界を見つけることができる。そもそも境界は可視光で見えているわけではない。もっと別の粒子でメリーの網膜に感知されていた。その粒子は、瞼や鉛コンクリート、ステンレスで遮蔽されることは判明しているが、水は透過する。ゆえにメリーは五十メートルに及ぶ水の層を隔てて、境界を目視できた。
それにしても。
なんだ、あれは。
思わずメリーが前のめりになる。揺らぎに同調するように、意識が揺れる……。
「 っ あ? 」
「え?」
じっと水底を覗き込んでいたメリーが不意に立ち上がった。目の色が――様子がおかしい。
「向こう側に景色が見えたわ」
「――! まだ見えているの」
「うん。見える。まるで、誘っているみたいに」
蓮子も慌てて立ち上がる。メリーがいつも見ている景色。恋焦がれんばかりに求めてきた、メリーのセカイ。
メリーの。
心の中を……心の中へ!
蓮子は。
メリーの心を求めぬわけにはいかぬという、焦燥に駆られて水面を睨む。
しかし。
「なにも……見えないわ」
「蓮子。手、握って?」
手を差し出すメリー。蓮子が握り返した。
湖上にボートがポツンと浮かび――二人の少女が手を繋いで。
並び立つ。
「ねえ蓮子」
微笑んで。
「このまま飛び降りたら、二人で幻想の郷へ行けるんじゃないかしら」
「そっ――」
メリーが踏み出す。
蓮子が手をぎゅっと握る。
制動力。
メリーは止まらない。
止まらない。
止まらない。
止まらない!
「ちょっおまっ……素潜りじゃ無理だって常考!」
「いいからいいからー。メリーを信じてー♪」
「ざけっおまっちょっ……落ちる落ちる越智にゃあああああん!?」
「蓮子は嫌なの? 私と二人で。幻想を求めたくはない?」
「そっ――それは! 私だってメリーがメリーとメメメメメメ」
押すなよ、絶対押すなよ状態で二人はボート上で傾いた。
今しも、メリーの身体は幻想へと落ち込んでゆきそうだった。
手を握る。
メリーがどこへも行かないように。
しかしその一方で、蓮子は確実に望んでいた。
メリーのセカイ。そこへ、自ら到達することを。
「行きましょう」
「やめて、メリーやめてやめっ――っ……ファッキン!」
「Oops!」
さてはて、痴話問答の末に修羅場と化したボートの上で蓮子がとった行動は、なんと思いっきりメリーを突き飛ばすという奇策であった。どぼーん、とマヌケな音が響いてボートがひっくり返り、二人とも湖に投げ出される。
沈む、沈む。
青白い視界の中、蓮子はメリーを探した。
気泡が邪魔だ。服も邪魔だ。"兎の目"が水中でも像を結んでくれる。探す探す探す探す。メリーメリーメリーメリー!
「――がぼっ!」
見つけた。深い。野郎、沈み込んでいる。泳いでいるようには見えない。錘もない。なのに――吸い込まれるように、沈んでいる!
蓮子は身に着けていた服をすべて脱ぎ去った。一度水面に顔を出す。息を整える。のん気なほど悠長に呼吸を整える。冷静になる。
「ふうー、ふうー、ふー……。……、……!?」
視線を感じた。見上げると、諏訪子がいた。
浮かんでいた。こちらを見下ろしていた。確かに見えた。実像として見えた。"兎の目"もそこに人がいることを認めた。ありえないと思った。オカルトだ。浮いてるんだもん。いいや勘違いだ。オカルトじゃない。そこに人がいる。ただそれだけのこと。どうでもいい。今はそれよりやらねばならんことがある。よし、呼吸は十分整った。
「ふう――う」
大きく肺腑に酸素を取り込み、蓮子は真っ逆さまに湖に潜った。
「ケロケロケロケロケーロケロ」
見下ろす諏訪子は、不気味に笑うばかりだった。
********************
"兎の目"を赤外線受光素子に切り替える。メリーは直下、水深十二メートルの地点にいた。毎秒〇.二~〇.三メートルの速さで沈んでいる。速い。これを蓮子はほとんど垂直に潜り、追った。手はむやみに動かさず。足をそろえて、イルカのように。
メリーはまっすぐゆるゆると沈んでゆく。蓮子は流されながら、方向転換しつつ追う。蓮子は速かった。水深二十メートルでついにメリーに手が届く。僅かに肺が軋み、口腔内に圧迫感を感じた。
捕まえる。持ち上げる。メリーと目が合った。もはや抵抗はない。
息を吐きながら水面に向かい浮上してゆく時間は、ほんの一分ほどの出来事だったろうが、十倍にも二十倍にも感じられた。窒息がもたらす苦痛が意識にならない思考を無為に加速させる。水泳経験が無ければ確実にブラックアウトしていたであろう。だが蓮子とメリーは耐え切った。
「――がっ――」
水面が隆起する。
黒い髪で水を引っ張りながら、ついに蓮子が大気に到達――メリーを連れ帰ることに成功した。
「――ぶはっ――」
ひゅう、ひゅうと音を立てて呼吸する。目が開けられない。その体力が戻らない。だが、隣で同じようにメリーも咳き込んでいる音は届いた。
「あー……」
やがて体力が回復する。
メリーが言った。
「……死ぬかと思った!」
蓮子はそれを聞いて、どうにか沈まぬようにするので精一杯だった。
********************
[七月十七日]
「さてメリーさん。なにか申し開きすることはありますか?」
「スンマセンほっんと調子乗ってましたスンマセン」
どうにかボートによじ登った二人は、さっそく反省会を開くことになった。
蓮子は全裸で、メリーも全身ずぶぬれである。知らないものが見つけたら露出モノの撮影と思われても致し方ないような状態だった。ちなみに減圧症の心配はない。二人の身体は未だに徴兵時代に毎食摂取したタンパクマイクロマシン群と共生関係にあるからだ。蓮子の"兎の目"にしてもそうだが、代謝しきるまでの半年間(個人差はあるが)、二人は常人の数倍に比する治癒能力と免疫を備えている。本来ならば除隊する時に白くて熱くてどろどろした抗体を飲まされ、数日で排出されるのだが、同期の中では二人だけの女性ということもあって、監視が緩く二人は今でもMMを活用している。
しかし、それにしてもメリーの行動はむちゃくちゃだった。だが同時にいつものことでもあった。
思い出すたびに、なんであの時死ななかったのか、と。
あるいは、今すぐ死んだほうがいいんじゃないか、と。
そんなことばかりしている。それが秘封倶楽部という連中なのだった。
なもんだから蓮子もあまり追求はしなかった。メリーがやらなくても、蓮子がやっていたであろうから。
「んで? 今回はなにが見えたのよ」
「いや、暗かったから実はあんまり見えなかったのよね」
「ヘイ、ヘイ、ヘヘーイ」
「ギャーゴメンゴメンごめんなさい見ました見えましたきっちり目に焼き付けてきました!」
「そうそうそれでいい。じゃあ、さっさと岸に戻りましょ」
蓮子が漕ぎ出そうと、オールを探した。しかし取るべき柄がどこにもない。嫌な予感。
「オールがねえーっ!」
「あっはははははっ!」
「笑ってる場合か!? いや笑ってる場合だな、私も笑おう。って笑えるか! あはははは!」
「くっ……蓮子全裸だし……! ブハー」
「うっさい! 帽子はキープしたからセーフよ!」
「局部を隠しておいたら、そのうち高値で落札されるかもね」
「あんたが買え。2400ユーロで買え」
一頻り笑い、さてこれからどうしようかと蓮子がかすかな不安と充実感とともに考えをめぐらせた、そのとき。
風が吹いた。
「おぉ……!?」
強風だった。成人女性二人を乗せたゴムボートを、たやすく岸へと押し流す強風――山風ではない。
「あれは……」
メリーが空を見上げる。夏の太陽に同化するベクタッドスラスト。小刻みに動くフラッペロン。鋭いアレイ。二人をなぶる風は、はるか上空に位置するスーパーライトニングが起こす風だった。
第五.五世代戦闘機は、既に就役してから半世紀以上を経ており、その戦力も脅威も限界がはっきり見えてしまっている。それでもなお現役で空を飛び続け、生産が続けられているのには明確な理由がある――なぜならば、大気圏内で格闘する戦闘機は、これが最後裔の機種だからだ。
半世紀前の戦争から、兵器開発の主軸は、地球から月にかけての微小重力・有視界環境で用いられるものと、太陽系外縁部から隣接銀河にかけての無重力・暗黒環境で用いられるものに移っている。大気圏を飛ぶ戦闘機はその流れの中で開発が途切れ、材料技術は進化したものの、機械技術は半世紀以上進歩がないままなのだった。
しかしそして。
いざ空中戦となれば反重力やらアンチマタードライブやらで飛ぶ戦闘機よりも、灯油で飛ぶ戦闘機のほうが、少なくとも大気圏内では強い。ただ、戦争に用いるには貴重すぎる資源になってしまっただけ、なのだった。
「こりゃいいドライヤーだ」
「油臭くなっちゃうね」
航空機燃料に含まれる有毒成分が起こす健康被害はバイオエタノール製造技術の進歩で解消されていたが、代わりに悪臭公害が発生するようになっていた。エンジンにスラッジを溜めないよう航空機には榎本藻から作られる高純度のバイオ燃料が供されているが――二人は甘ったるい排気に流されて、岸にたどり着く。
そして二人は、自分たちが四十八時間、この世界から消えていたことを知らされた。
********************
「どっ――どういうこっちゃ兄弟!?」
二人を捜索に来た岡崎一尉はその反応に面食らった。神隠しにでもあっていたというのか、と。あとなんで蓮子全裸なの、と。
「私たちはふつーに湖に漕ぎ出て、ふつーに落ちて、ふつーに帰ってきただけですよ」
「そうですとも。まったく覚えの無いことですよ。四十八時間なんて」
衛星写真で確認した二人の車は駐車されたまま二日間動いた形跡がなく、また連絡も途絶してしまったことから岡崎一尉は時間と権限の許す限り二人の捜索を行っていた。地元警察も近づけない場所で、女二人旅。状況から考えれば無理心中の可能性が高く、半ば絶望視していたのだが……ともかく岡崎一尉は泣いて喜んでいた。その様子にウソはなく、蓮子とメリーは戸惑いながらも事実を認めざるを得なかった。
「そういえば、携帯電話……」
自身の行動ログを確かめる。メリーのスマートフォンは水深三百メートルまでの防水性能を誇っており、電池も十分で故障はなかった。ゆえにその記録は妥当なものだと考えるべきだろう――つまり。携帯電話は、二日間、途切れ途切れにしか電波の届かない場所に連れて行かれていた。だというのに電池の減り具合も、二人の体調の変化も、どう考えても四十八時間を経過したものではなく、にも拘らず、確実に時間の経過は存在している。
神隠しにあっていた。
時間をスキップしていた。
蓮子とメリーは、蓮子とメリーならば……この状況を、そう診断するだろう。
「はー……」
「ほー……」
二人して、マヌケな顔を晒す。岡崎一尉は医者をよこそうか、と言ったが、二人は明確な意志の元それを拒否した。無頼旅をやめるつもりはない。医者が必要ならば自分の足で行く。結局は岡崎一尉が折れた。その後、一尉はMM含有レーション……合成食品を二人に供与し、モノグレーを映す機体――鉄・トリニウム・ニッポリウムの三元系合金を主とした複合材料で作られた機体は、地でモノグレー色をしている――で再び空の中へ溶け、消えていった。
車は無事だった。荷物もすべて揃っている。
「とりあえず……服、着ようか?」
「そーだね……あ、そういえば。私、諏訪子ちゃん見たのよ、諏訪子ちゃん」
「ハァ? 酸欠でアタマいかれたの?」
「あんたに言われかないわ。あと着替えじろじろ見んな」
その夜は湖畔でキャンプを組んだ。水は豊富にある。一リットルあたり一錠の浄水剤を水に溶かし飲み水を確保。生水でも二人の免疫力ならば問題ないのだが、大事にするほどMMは長生きする。
飯を炊き、味噌汁を温める。釣り上げた淡水魚を捌き、塩もみの上カリカリに焼く。お湯でレトルトカレーを温めて夕食とした。
腹を満たし、ぼんやりと空を眺める。
「今日はガスが薄いから、遠くの星までよく見えるわ」
「そうなの?」
「ええ。馬頭星雲の形まで見える」
「それは蓮子だけよ」
「はは、残念。だけど、これはメリーにだって見えるものよ。七千万円の、天体望遠鏡があればね」
「私が見ている境界だって、蓮子にも見えるわよ。毎年七億円のリース料がかかる機材があればだけど」
ハハハと笑う。
含みのない笑い声だった。
「……ところで、蓮子はさ。誰に星の名前を教えてもらったの」
「ひいおじいちゃん。現役時代は超新星をこれでもかってほど見つけてたらしいわ。またあいつか、ってよく言われてた。メリーのひいおじいちゃんはどんな人だったの?」
「私が生まれる前に死んでたわよ。私の家系が日本に渡ってきたのは八代前くらいで、その人のことなら多少は知ってる」
「…………」
「…………」
沈黙が落ちる。
虫の音が二人の間を満たす。
手を握ったのは蓮子だった。握り返したのはメリーだった。
「 」
言葉を探す。
見つからない。
今度もまた。
幻想が目の前をすり抜けていった。
行きたかった。行きたくなかった。後悔はしていない。だが惜しい。幻想のリスクを管理したい。どしようもなく惹かれている。現実以外に世界などない。しかし現実など無価値。勇気が足りなかった。無謀すぎた。メリーが大事だ。それより大事なものがあるのではないか。蓮子はなにがしたいのか。とどのつまりどこでなにがしたいのか。どうするべきだったのか。次はどうするのか。ああ、言葉では言い表せない。適切な単語が見つからない。
「ね、メリー。私さあ」
「うん」
「私ねえ……」
「うん」
「その、さあ。私はあ……」
「んん」
「…………」
ああ参ったな。
形にならぬまま、想いだけが溢れ、募り、傷み、消える。
「――――…………ゆめ、たーがーえ」
ほら、あんまりにも。
言葉がないもんだから、歌い始めちゃったよ。
「ゆめたーが、えー」
メリーが続く。蓮子が歌う。歌詞は適当。メロディだけでも可。
「まぼろーしの」
「あさもやのきおくのせかいをー」
「うつしーよは」
「くずれーゆく」
「すなのー、」
『うーえーにっ』
たたた、らららと二人は歌う。意味もなければ進歩もない。反省などしないし次にも活きない。今日一日、否、二日分を棒に振るかのように口笛を吹き歌を口ずさむ。やけくそのようであったが、これがどうにも楽しく代え難い。左様、二人ならば……なんだっていいのだった。理屈も道理もすっ飛ばし、失敗も危機も苦痛も悔恨も期待も羨望も恐怖も不足も負荷も快楽も不可能も過去も未来もこのままだ。
「なんの問題ですか?」
「なんの問題もないね」
夜が深けた。
歌は続いた。
********************
[七月十八日]
翌日。
処、山梨県甲府市。中央自動車道上。
「眉は薄めで、唇は厚いの。髪は小麦色で、背中でしょってる感じ」
「鼻は? まぶたの形も」
「鼻頭は結構低くて、瞳の赤が際立つの。まぶたは大きく、けど酷薄でさ」
「すると、耳にかけて頬が鋭くなるけれど……こう?」
「ちょっと違うかな、悪魔というよりは鬼ね。角生えてたし」
蓮子とメリーは一路、高速道を走っていた。武蔵野にある蓮子の実家に向け、帰省の途である。
これまでと違うところがひとつある。運転しているのがメリーであるということ。蓮子は助手席でスケッチブックに鉛筆を走らせている。
さらさらとB2の芯が磨り減って、代わりに少女が一人顔を出した。その少女は額に角を生やし丸襟のシャツを着て、朱の盃を持っている。名を、その名を――
「この娘、名前はなんていうの?」
「星熊 勇儀。鬼の娘よ。すっごい力が強いの。怪力乱心。二つ名は"語られる怪力乱心"、なんてどうかしら?」
蓮子が白い部分に星熊、とサインを入れる。
「できた? 見せて見せて」
「ほい」
「……おー、さすが蓮子。これよこれ。まさにこんなだった」
「よかったあ」
蓮子が胸をなでおろす。爆弾の製作などよりはるかに緊張を要する作業だった。そう――メリーが見てきたという景色を、現実にするという行為は。
メリーの空想を。
メリーが見てきたという、幻想郷を。
蓮子は絵に起こしていた。
形にしているのは蓮子だった。
「それで? この星熊って娘は、さっきの霊烏路って娘となにかを話してたのよね」
「うん。二人の話によると、二人がいる場所は地底らしいわ」
「地底?」
蓮子がその設定を書き留める。なるほどね、湖の底は、確かに地の深くだ……そんな風に、メリーの発想を分析しながら。
「霊烏路 空はね、地獄烏なんだけど、ヤタガラスの神威を備えているんだ。そのチカラで地上を目指そうとしている。そして、地底の盟主である星熊 勇儀と対立しているの。これはそういう場面だったと思うわ」
「なるほどなるほど」
頷きながらも蓮子にはさっぱりメリーの言っていることが解らなかった。当たり前だ。予備知識がなけりゃ解りっこない。けれど二人は、度重なる心身ともどもの接触により、互いの思考を共有するに至っている。なんとなく、漠然と、雰囲気は掴めるのだった。
「するってーと、人間たちは地底に行くことになるのね」
「地底はすごいわよお。アウェーもアウェーだから。人間だけじゃキビしいかもね。けど、地底と地上の間には相互不可侵協定があるの。だから妖怪は地底に行けないの」
「そうなの? すると、前みたいに、妖怪とコンビを組むってわけにはいかないわね」
「大丈夫。陰陽ボールでなんとかなるの。れん……霊夢と、紫。他にもパートナーはいるかもね。文とか、萃香とか」
「へー」
霊夢、という名前にぴくりと蓮子が反応する。メリーの語る、その、主人公のモデルが誰であるのか。考えずとも絵を見れば一目で解る。ゆえに蓮子は気が気でない。他のすべてのキャラクターは完全に現実から乖離している。その中で唯一、幻想と現実の狭間にいるのが霊夢であるからだ――設定的にも、メタ設定的にも。その扱いには慎重を期さねばならない。まかり間違って蓮子が霊夢の動き方に意思を見せたりした日には、メリーのセカイは現実の延長線上に固定されてしまうだろう。
「そうだ。メリー。魔理沙のほうはどうなの?」
「え? どうって?」
「だから。魔理沙のパートナーよ。やっぱり三人いるの? 誰と誰と誰?」
「えー? あー。そうね。アリスでしょ、パチュリー。あとはあれよ、うーん。にとり」
「にとり? なんでにとり?」
蓮子が疑問符を浮かべる。
先ほど、緑色の看板とすれ違ったことには気づかなかった。
「まあいいじゃん、魔理沙のことは。それよりもね、地底には空の仲間たちがいるのよ――」
その後、メリーは多くを語って聞かせた。次の本を作るには、十分なアイディアだった。
――最初は、ただの空想だった。
マエリベリー・ハーン十四歳の冬。
試験勉強で夜を明かし、雪で覆われた窓の外をうかがったとある朝。
巫女が空を飛んでいるのを見た。
紫色に染まっていた大気。遠い山の天辺にある、赤い赤い鳥居。白の中にあってこそ二色は際立ち、雪景色の中を巫女は悠然と飛んでいた。
……綺麗だった。
かく見えた幻想の世界は、幼いメリーの心を揺さぶるに十分だった。
"ああきっと、あの鳥居の元には別の世界で生きる巫女さんがいるに違いない"
"そしてその巫女さんは、きっと煩わしいしがらみなんかいっこもなくて"
"だれよりも自由で、満ち足りているに違いない"
そう思うと、なぜだか勇気が出た。今の自分は先も解らぬまま模試の結果を争っているけれど、本当にくだらない人生だけど――どこかで、同い年の誰かが、幸せに生きている。そう思うだけで、メリーは自分が救われるのを感じた。
そしてこの思いを、ほんの少しだけ手紙に書いた。
宛先は、模試で毎回上位を争う相手である、宇佐見という少女。
東京という遠地に住む蓮子は、メリーが僅かだが気を許せる唯一の相手であった。自分の心を、ちょっとだけならば。見せてもいいかなと、思える文通相手。このとき、空想は妄想に変わった。
蓮子の反応は上々だった。ゆえにメリーはまた物語を紡いだ。やがて高校に進学するころ蓮子が京都に移住。二人の間で物語は大きく、深く、形を得た。少女二人ぶんの思春期という繭の中で、妄想は新たな世界の予想となった。
「ねえメリー。これ同人コンテンツにしてみない?」
「いいんじゃない? 蓮子の絵、もっと見たいわ」
高校一年生のときに媒体を通じて拡散した予想は次第に人心を集め、異なる意識の間でも生存可能な仮想へと進化した。それはつまり、多数の意識が相互作用する気質の宇宙に新たな生命が誕生したということである……心の中で摩擦し、代謝し、そして死ぬ。空想構造体。
そして現在。二人は大学生になった。岩国財団の奨学金を取得し、軍隊で技能を磨き、無頼旅で力を試し……より多くの見識を得、経験を積み、今いる世界の不確定を食い尽くそうとしている。仮想に負のエントロピーを与え、集束を促すために――そう! 二人は別に、乳繰り合いながらのハネムーンをしていたわけではなかった。簡単に言えばネタ探しの旅であった。
こうまでして、なぜ二人は物語を続けるのか。
そんなのは愚問である。創作活動に理由を求めたって答えが出ないことは諸氏共々ご承知であろう。だが例外的に、蓮子とメリーには目的があった。果たして、その目的というのは――
――移民である。
境界の向こうに土地があるのか。未だ確証は持てていない。蓮子も数えるほどしか向こう側を見たことがない。公的には"ある"とされているが、それらは停戦空域調査監視航空隊 ( 国際連合安全保障理事会>軍事参謀委員会>室蘭条約機構常設軍>航空幕僚部情報課>那覇偵察飛行軍団>停戦空域調査監視航空隊 ) が主張しているもので、ようするに"境界"のほとんどは軍事偵察のための口実でしかない。異世界の存在など、オカルトマニアが勝手な解釈を加えただけだ。だけ、だが。
されど。
あるのだ。
メリーは仮想と現実を行き来し、エネルギーの交換までしている。
遠からず道を見つけるだろう。
必ず。
必ずだ。
秘封倶楽部が仮想を作ったのか、仮想が秘封倶楽部を作ったのか。それはもはや解らない。相対性精神学からすればそのどちらも正しい。いずれにせよ、いずれにしても――。
「それでね。藤森はとっさの判断で、テスタロッサに銃を向けた金沢を後ろから撃つの。その罪を被って刑に服した部下もいた。けど金沢の銃には……」
宇佐見 蓮子はマエリベリー・ハーンを見て考える。
事実は小説より奇なりというが、それは今世紀までの話だろう、と。
空想の果てに、仮想は、幻想として結実しようとしている。
"突破"するのは――明日かもしれない。
「なによ蓮子。じろじろ見てからに」
「いや……メリーの胸おっきいなア、ってさ」
「誰のせいよ。それよりも、話は聞いてたの?」
「聞いてたわよ。ところでさ、今回はなにか持ってこれなかったの?」
「もちろん。ポケットに入ってるから出して」
蓮子がメリーのポケットを探る。張りのある太ももに触れながら、取り出されたのは壊れたプラスチックと金属のカタマリだった。
「見ろ、また奇妙なやつが出てきたぞ」
「なんだと思う?」
「解んねーのかよ!」
小さい。手のひらに収まるサイズ。軽い。モーターのようにも見える。"兎の目"が放射線を検出。蓮子は「わっ」と言って取り落としそうになった。
「これ、プルトニウム入ってるわよ」
「マジで? 諏訪湖で拾ったからかな」
「おいテメー幻想郷で拾ってきたんじゃねーのかよ……ちょっと、式の力を借りましょうか」
再び蓮子がメリーのポケットを探る。スマートフォンを操り、京都にあるアパートの一室で稼動しているマシンを呼び出した。
「宇佐見 蓮子。 [email protected]」
"認証成功"
「藍、起きてた?」
"起きてましたよ。蓮子さん。旅は順調ですか"
スマートフォンの画面に、蓮子がデザインしたインタフェイスが現れた。澄んだ声で二人に笑顔を向ける、キツネの耳を生やした少女。彼女こそが、蓮子が日本橋でパーツを集め、メリーがOS2(Open Source Operation System)で構築した式。
その名を藍といった。
「メリーも私も相変わらずよ。そっちは問題なし?」
"あなたがたの宿題を代わりに片付けるのが大変ですよ。まったく、大学生にもなってなぜ宿題など課されているのですか"
「大学説き伏せて軍隊行ったからよ。それより、調べて欲しいことがあるの」
蓮子がカメラに例のブツを写す。藍は考え込むようなそぶりを見せたが、指を立てて即答した。
"ペースメーカーですね。戦前の医療器具です。心臓の悪い人の身体に埋め込み、心筋に電気を流して収縮させる機械です。プルトニウムが電池に使われているはずですよ"
「ああ、アタリだわ、それっぽい」
"それはよかった。ところでマスター?"
メリーがハンドルを握りながら、ちらと藍に視線を向ける。
「え、なに?」
"読書感想文なんですけど。ほんとにこんな文庫本を読まないといけないんですか? 学術書ならウェルカムなんですが"
「あー、藍よ、藍藍。苦手にこそ挑戦しなくちゃダメよ。がんばって!」
"はあ。なんだか、私はサボることを覚えてしまいそうです。早く帰ってきてくださいね、マスター"
藍はぼやきながらもメガネをかけて本に向かい、そしてぷつりと衛星回線は途切れた。
「あんた、藍になに読ませてるの?」
「遠野物語。あの娘はちょっと、頭が固いからね」
「まるで母親だ」
「あら。蓮子も小さいころ、遠野物語を読み聞かされたの?」
「母親じゃなくて、父親よ。小学生のころ、民話の語り聞かせに連れて行かれたわ。私としては、行き帰りの車内で観た冒険野郎マクガイバーのほうが面白かったけど」
その折、八王子ジャンクションへの案内看板が二人の頭上を過ぎた。いよいよ東京に入ろうとしている。
「はあーあ。長かった旅も、あと少しで終わっちゃうのか」
「そうね……ね、メリー。来年はさ、私の実家からスタートしない? 今度は東北行きましょう。蓮台野の彼岸花ヶ原もよかったけど、磐木の向日葵畑も壮観よ」
「アハハ。蓮子も物好きね。こんな貧乏旅行、またやろうっての?」
バイトして溜めた金で捨て値の車を買い、燃料の心配をしながら悪路を走り、ゲリラから逃げ回りつつ野営と日雇い仕事を繰り返し、その挙句、目的は無理心中まがいの結界破りだというのだから甲斐がないといったらない。
しかし蓮子は本気だった。メリーの心を、まっすぐな視線が射抜く。
「だって、まだ旅の目的が果たせてないわ。空想の果てを、見に行くのよ」
「空想の果て、か」
そこには一体なにがあるというのだろう。
知らない花でも咲いているのか。三人目の仲間でもいるのか。道が続くのか。それは解らない。しかし、僅かながら判明していることもある――そこに、行ってみたい。そう、思うということ。
「いーよ。行こうか」
「よしきた。それでこそ秘封倶楽部だ」
「そうとも、私たちは秘封倶楽部」
「世界中の結界暴いてさ」
「誰も行ったことない場所まで行ってやろう」
二〇七〇年 七月十八日
午後一時四十三分
東京府 八王子市 元八王子町
蓮子とメリーの右手には大規模な霊園が広がり、左手には御陵が聳える。
ここは東京。
ここが世界の中心だった。
「おお、見える見える。ホツレだらけだ」
「よそ見しないでよー。あと、そろそろオービスも息を吹き返すからね」
進路上に目を凝らす。道の先で光が瞬く。
遠くの空は暗く、雲は黒い。罅割れたような雷光が荒れ狂っている。
荒れ模様であることは、一目瞭然であった。
「雷雲だわ。メリー」
「ええ。嵐が来るわね」
この低気圧こそ、後に激甚災害指定されるハリケーン"マエリベリー"、その前兆であった。
アクセルを踏み込む。速度が増す。
かくして、二人を乗せた車は走る。
どんな過去も追いつけない未来まで。
「あー、お腹減ったなっ」
少女二人の旅は、未だ、はじまったばかりである。
独特な世界感に圧倒されつつも引き込まれてしまいました
こういう秘封世界もありだと思いました。
冒頭の暴力団員と言い、諏訪子と言い、続きがありそうなのは気のせいか……?
しかし何と言う羨ましい体・・・。まさに有意義な大学生活を送るためにあるような健康体ですな。
百年で文明進みすぎじゃないか?とも思ったりしましたが、基本的に進歩は加速するそうなので案外百年でもこれ位行くかも。
批判批評との事ですが、確かに途中までは東方成分あまり無いな?と感じました。でもでも、秘封だったらばこその行動と、幻想成分具合と、トータルで見ればこれはやはり秘封なのではないかと思います。と言うか、本当にもっと読んでいたい。いつかの完成版が楽しみですね。
うーん、他にも言いたい事が有った気がするんだけど良く思い出せないぞ。
とにかく、私はこの作品を読んで大変満足しました。この満足感こそが、作品の価値を端的に表しているのでは無いかと思います。
蓮子とメリーが存在する世界と岡崎教授が存在する世界を同一とするなら、飛び級したと言っていた蓮子とメリーの年齢に激しい矛盾が生じます。
敢えてそれを無視したのかご存知なかったのかは知りませんが、違和感を感じずにはいられませんでした
しかし先に指摘している方がおられますが、年齢の設定無視がどうも解せなくて最期まで頭の中に引っかかりました。
ただ話自体の内容は面白かったですし、調べてなかったとは思いたくないのでこの点数で
秘封倶楽部。妥協の産物であるのならばどうなのかはわからないけれど、のっけでもって西暦二〇七〇年と表記するのにどのような意味があるのかあるいは作者の癖なのかもしくは時代設定とかそんなイメージを強固にするためなのか、しかしこういう書き方をされてしまうとやはり殺麗事件において匂わされた秘封倶楽部を思い浮かべてしまうのは私がかの作品の中毒状態にあるからかもわかりませんし、そしてそれとは別にここではそれは、それは敢えて、脇に置きたい。なぜなら、ここでかの作品との結びつきの可能性をもってこの作品への賛美をうたいあげることは、ともすればこの「蓮子とメリーの100の問答」といういち作品をないがしろにしてるのではないかという気がちょびっとくらいはなきにしもあらずなために。つまりあの作品はずるい。ひきょうだ!
ところで諸々を脇に置いて、この作品もひきょうだとおもいます。
エネルギッシュで、なんか超絶技能持ってて、たとえば廃墟なんかが原作の秘封倶楽部よりも似合いそうな、そんな秘封倶楽部。それをここまで説得力持って(という以外になんかうまい言葉が見つからないのでとりあえずこれで)書けるのもかっこいい。なんでこんなにかっこいいんだろう。なんかかっこいい設定を一つ二つじゃなくて、三つ四つ五つ六つ……と「全体的に」突っ込むことができてるからなのでしょうかわかりません。
しかし、しかしですね。それよりも、だ。
文明のたそがれ。二人の空想。幻想のはじまり。
なんでこんなにも夢にあふれたお話をこんなにも短い文量で書けるのか。個人的にはですがそっちですよそっち。ていうかもうこういうお話が大好きすぎて、もう。狙ってやってるでしょ? そりゃそうだよ。とノリツッコミしてしまうわけです。そう。世界は、少女がふとしたとき、一瞬だけ目にした、なんてことない空想から始まるべきなのです。なぜかって、そうなのだから仕方ない、と思ってるんだけど、意外とそういうお話をみないのはなぜだろうなんて思いながら感嘆の息を吐いていました。序盤からこの魅力的な秘封倶楽部に引き込まれたのはたしかですが、それよりもなによりもいまはもうここのところがジャストフィットすぎて軽く泣きそうで、しょうじきこの作品について何かを述べろと言われたらただこれに関してのみでいいんじゃないかとすら思えたりもしなくもないです。素晴らしかった。ありがとう。お米おいしいです。
これがSFアバンチュールってやつなのか!?
最初の発破からもう「こいつは怪物の予感がするぞ」と胸を高鳴り、F-35が登場した時には度肝を抜かれ、諏訪湖での探索で頭を揺さぶられ、何事もなかったかのようにまた出発するシーンでは別世界が見えました。
今まで読めなかった「殺麗事件」の方も読んでこようかと思います。
素晴らしい作品を読ませてくれて本当にありがとう!
こういう雰囲気は秘封ならではですねー。
幻想郷の住人だとファンタジー世界に慣れ切ってて、それが当たり前のことになってますからね。
霊夢のモデルが蓮子というのも良いなと思いました。
続いてくれると嬉しいです。
(誤字?)
OSはOperating Systemの略というのが普通じゃないかなと思いました。
次は突き抜けるぐらいに遠慮のない作品を書いてほしい
こういう未来空想ものは読んでてワクワクします。作者様の妄想力に脱帽。
あ、自分はパルスィが大好きです。
後付けが多かったのに気にならなかった面白さでした
また楽しみにしてます
こういうねつ造っぽい世界観は大好きです。
またこの二人に会いたいぜ。
ただオリキャラに俺世界をやらせてるだけのような気がしました
こう言う、世界観が広がっていく感じの話は。
いいな、旅をして、何かを見つけていくのは。彼女らだからこそ出来る青春ですね。
でもいいなぁ、旅。どこかに出かけてみたくなりますね
きっと、そこから新しい場所に行ける筈だ。
いい作品でした。
鶏が先か、卵が先かがこの作品からは微妙に見えないのもまたいいです。ケロケロ。
あと、後半の全裸シーン。
全裸なのに全くエロく無いのが、とても大事だと思います。
要するに、とても良かったです。
色々いいたいことはあるんですが、それが的外れである可能性と理解してもらえない可能性を鑑みて、何も言わずに起きます。
ただ思うのは、これは自分が昔好きだったサブカルの味によく似ているということです。
つまり、とてもいいサブカル作品でした。面白かった。
この世界観の続きが是非見てみたいですね
ところでこのペースメーカーって、例のペースメーカーですよね。とんでもないわー。