「最近平和すぎてボケてしまいそうだよ」
「ナズ?」
「私もいい歳だしね。そのうちご主人の顔も忘れてしまうかも、なんて。……うん?」
煙管をふかしながら縁側で夕焼け雲を眺めるナズーリン。
寅丸星は、その隣でお茶を飲んでいた……筈だった。ナズーリンが震える手に気付いてひょいと見上げれば、彼女の主人は顔色を失ってきゅっと唇を引き結んでいる。哀れ湯呑が、虎の力で握りしめられ悲鳴をあげて……と、四方八方に破片を飛び散らしながら割れてしまった。
「大げさなんだから。手、切ってないかい?」
「切って、ないです……あなたが私の顔を忘れてしまうかも、なんて言うから……驚いてしまったじゃありませんか……ぐずっ」
「与太に決まってるだろ。そら、顔見せて」
畳紙で赤くなった目元を拭いてやりながら、ナズーリンはそっと溜息を吐いた。
やはり昨今平和過ぎていけない。自分も気が抜けているけれど、主人が此れしきの事で泣くのは由々しき問題。近い内に何か対策を考えねばなるまい。
彼女は密かに決意をし、煙管の灰をトンと落として立ちあがった。
ある夏の、極めて平和な一日
ピカピカの白米に焼き茄子と田楽、それにふわふわの山芋を海苔で巻いて焼いた物。
色の綺麗な椀物の中身は、朝取りの新鮮な野菜を加工した。
チロリに入っていたのは口直しの梅ジュース。
無論あっという間に無くなった。
美味しく平らげた後に残るのは片付けの仕事。作った一輪と補佐のぬえは、一足先に、聖と一緒に役得湯浴み。後発の星、水蜜、ナズーリンの三人で後片付けを任されていた。
ところで、こういう気の抜けた時間にこそ面倒事は起きるもの。美味しい料理を食べて口が軽くなるからかもしれない。
口火を切ったのは船長こと村紗水蜜だ。
「二人とも、一輪の噂知ってる?」
「噂? ……ああ、存じております」
「知らないな。なんだいそれは?」
水蜜と星は真面目な顔でうなずき合っている。ナズーリンは手を休める事無く皿を棚に戻した。
「ナズ、聞いて驚かないでくださいね」
「だからなんだい。一輪に特に変わった所など無いようだけど?」
「あのね言い難い事なんだけど、一輪は……雲山と付き合ってるらしいの」
「は?」
食器を取り落しそうになって、ナズーリンは思わず尻尾でバランスを取った。
成程そうきたか。
暇というのは往々にして面白い噂を生むものだ。にしても相手が雲山とは……ありきたり過ぎて、逆に新鮮だ。
主人と水蜜が交互に語るロマンスを要約してみると、丁度30年前から雲山と一輪は付き合っているらしく(具体的過ぎる数字に妙に説得力があり、彼女は眉間にしわを寄せた)、なんと明日、30年のお祝いを兼ねて二人きりで出かけるそうな(出かけたって良いじゃないか、とは、聡明な彼女は言わなかった)。
「デートか。そういえば、明日は大きなお祭りがある日だね。新聞に花火の事も書いてあったような……」
「ええ、聖からお許しが出ています。あなたも行きませんか?」
「行こうよ、ナズー。噂が本当かどうか、確認してみなきゃ!」
正直調査なんて面倒くさかったし、一輪と雲山を特に怪しいとも思わなかったのだけれど、ナズーリンは承諾した。……主人の為に動くのもまた部下の務めなのだ。
「ま、暇つぶしには良いね」
それに、こんな減らず口を叩いている彼女だが、お祭りは実は嫌いではない。
どちらかと言うと好きな位である。
花火が上がるなら尚の事。彼女は我知らず鼻歌を歌いながら、皿を拭いては棚に戻した。
++++++
翌日。
聖は浴衣の三人をにこにこ見つめていた。
他の者はとうに出掛けてしまったのだろう。小山の様な寺からは一切の物音がせず、天から降る蝉の声ばかりが辺りを満たしていた。
日向に畏まった星。自身も出掛けると言う聖の供をしようとして、あっさり断られてしまってからこの体勢である。
「聖、本当に一人で大丈夫なのですか」
「ええ! 今日はあなたも休みなさい。私も神社に遊びに行きますから、心配は無用です」
幻想郷で一等見晴らしの良い博麗神社は、花火鑑賞にうってつけ。勿論、そこに住まうのんびり屋の霊夢が招待状などという洒落た物を出す訳も無い。しかし何故だか自然と人妖が集まり、毎年勝手気ままな宴を催していた。
一歩間違えれば物騒な場所かもしれぬが、そこは異変解決を主な生業とする少女の縄張りだ。“事故”が起きた噂はとんと聞かず、確かに心配は無用なのだが。
「……何かあったらすぐに呼んで下さいね」
金色の目と髪、そして玉のような汗を日にきらきら光らせて星はなおも心配そう。かれこれ半刻も渋っている所為か顔色が悪い。ひょっとすると太陽に炙られ過ぎたのやもしれない。一方優しく彼女を見つめる聖は、熱さの中で一切苦悶の表情を見せないで、涼やかな笑顔で星を窘めていた。流石は超人である。
みーんみんみんみ……じじ、じじじじ。
つくつくほーし、つくつくほーし、
にぃにぃに……。
蝉が鳴いている。
少し離れたところで見守る二人。水蜜の細い腕に、ナズーリンがおずおずと尻尾を絡ませた。
じぃわ、じぃわ、じぃわ。
かなかなかなかなかな……。
「ナズー、なんで私にくっついてるの?」
「……船長の身体、……冷たくて気持ち良いんだよ」
出発できたのは更に半刻後の事。少し日もかたぶいた。
+++
「ご主人が粘るから、二人とも行ってしまったじゃないか」
ナズーリンは呆れて言った。
言われた星は真っ赤な顔で部下に寄りかかるようにして歩いていた。
熱くなった身体に水蜜が水をかけるとあっという間に蒸発してしまう。そんな訳で、星が歩くと湯気がちぎれてふわふわ飛んだ。まるで小さな雲を纏っているようだ。水蜜は浮かんだ湯気をつつきながら、深刻な顔で呟く。
「これは……何は無くともかき氷が必要ね」
「うぅ……氷……」
「別に氷でなくとも良いだろう」
賑々しいお囃子の笛の音に誘われて山から下りる三人。真っ先に目に入ったのはかき氷の旗。町外れの茶屋の軒先から、風鈴の音と共に涼しげに削る音がする。
水蜜の予言が的中したのか?
「……知ってたね? 一輪の調査をするんじゃなかったのかい?」
「ナズー、言いっこなし。尻尾が揺れてるよ」
どうせ作戦を練らなければならないし、三人は顔を見合わせるとひょいと暖簾をくぐった。
「簀子に水が打ってあるのか……涼しいもんだね」
「風流ですね……団扇まである」
「あ、来たよ来たよ!」
宇治抹茶、甘夏甘露、イチゴのシロップ。
白い雪にたっぷりかかった蜜。
星の身体からもやっと湯気が消えた。
個室を幾つか用意しているらしいこの店は、脚を伸ばして寛ぐのにもってこい。
ことんと置かれた可愛らしい容器に山盛りの氷。匙を突っこむと、さくっと良い音がして薄い欠片がシロップに沈む。半分まではもう夢中。もう半分は、話しながらゆっくり楽しむ。当初の目的を忘れて三人じゃくじゃく食べていると、襖の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「「「……!?」」」
思わず皆動きを止めてしまう。
ちりん、と風鈴の音。
「雲山、あなたは何にする?」
「…………」
「そう、じゃあ私はメロン味にしましょう」
「…………」
「普通すぎる? 良いのよ、これが好きなんだから……っ!?」
「…………」
「誰かに見られたらどうするん……んんっ」
衣擦れの音に思わず緊張してしまう。
溶けていく器の中身。
誰かに見られたら、とはどういう意味だろう。ナズーリンはこくりと唾を飲み込んで、襖を見遣った。水蜜と星もじっと隣の様子をうかがっている。
その内、隣にも注文の品が来たようだ。怪しげな沈黙は止んで、代わりにしゃくしゃくと小気味良い音がする。
「……」
「そうね、楽しいわね。食べたら屋台めぐりをして……神社で花火を見ましょうね」
目的地が神社なら、見失う事もないだろう。三人は頷き合った。
++++++
カタヌキに水風船。流れる煙に醤油の焦げる香ばしい香り。
屋台を巡っている間にどんどん時間が過ぎていく。村紗が買ってきたお面を皆でかぶる。なんだか別の妖怪になったような気になった。
当の二人は楽しそうに先を歩いていた。雲山が綿菓子に間違えられるという珍事があったけれど、二人は順調に祭りを楽しんでいる様だ。
「……それにしても、普段と変わらないね」
「まぁまぁ、焦らず行こうよ!」
山車の打ち合いを見ている二人を遠くから眺めつつ、ナズーリンはふと不思議な事に気が付いた。山車ではなく二人を見つめる人物を見つけたのだ。簪を挿した後姿は声を掛けるでもなく、ただ二人の斜め後方に佇んでいた。見たところ連れもいない。賑やかな場所でぽつねんと立って動かない。
「……ご主人、あの人先刻も見なかったかい?」
「どの方ですか?」
「ほら、あの着物の……あれ? いない。おかしいな」
何時の間にかに、周囲は朱に染まっていた。
笛の音が颯々と雑踏を駆け抜けていく。
ドドン、ドン、ドン、ドン、カッカッ!
太鼓の音が地を揺らし、耳を打つ。
「……ぇ」
「村紗?」
「……船長、どうしたんだい?」
水蜜は何かを見つけて、立ち竦んでいた。お面の所為で表情が分からない。不安になったナズーリンが辺りを見渡しても、立ち並ぶ屋台が見えるだけ。怪しいモノなんて見当たらない。
「船長?」
「あ、……二人とも、リンゴ飴と鼈甲飴どっちがいいと思う?」
「なんだい、また食べ物か。リンゴ飴が良いと思うよ。ところで調査は……」
「言いっこなしなし!」
+++++
リンゴ飴を買い振り返ると、主人は一輪と雲山に目を向けていた。
二人は相変わらず山車を眺めているようだけれど、何か、……そう、何かがおかしい。ナズーリンは二人の様子に違和感を覚えて首をひねった。そうだ、それに……一体、誰が二人を見つめていたと言うのだろう。
心当たりを考えるも思いつかない。ひょっとしたら船長も“何か”を見たのではないかとも勘ぐったが……。
「ご主人、ほら」
「わぁ、ありがとうございます」
差し出された飴を、面を持ち上げて美味しそうに齧る主人を見たら、なんだか何もかもどうでも良くなってくるから不思議だ。
「星、美味しい?」
「ええ」
船長も、もう何時もの様子だ。やはり考え過ぎなのかもしれない。
提灯に明かりが灯されて、見上げると白っぽい月が浮かんでいた。一輪と雲山が動き出したのを機に、三人も移動を開始した。
+++++
黒々とした人波に揉まれて、上も下も分からなくなるような熱気の中を進む。狐に火吹き男、鬼の面を被った三人は香具師の掛け声にふらふらしながら一輪達を追う。
「てゐ、まちなさい! 財布もってかないで!!」
「この前、生徒たちがこんな大きなカブトムシを捕まえてな……」
「……き鳥があるわよ~」
誰かとすれ違うたび、会話の断片が聞こえるがそれも瞬時に消えてしまう。
一輪と雲山は寄り添いながら進んでいた。下駄の鼻緒が切れた時ばかりは、路肩に寄って直していたけれど、ほとんど立ち止まる事無く神社へ向かっている様だった。
沢山の人妖とすれ違いぶつかりながら追いかける。
どの位、人波を掻き分け進んだか。三人がくたくたに草臥れてもう少しで見失いそうになった時、博麗神社の鳥居が忽然と姿を現した。
人の渦から離れ、鳥居の下まで来た頃には大分息が上がってしまっていた。一輪と雲山が夜空に向かって飛んだのを見上げ、三人はへたり込んで大きく息を吐いた。お面を額の上に持ち上げて笑いあう。
「は、……すごい混みようだね」
「ふふっ、浴衣着た兎が二羽いましたね」
「はぁ、はぁ……兎は見なかったけど、天狗なら」
人ごみに紛れて祭りを楽しめるなんて。
「まるで、楽園ですね」
星は愛おしむように、影の踊る様を見つめている。
ナズーリンは目から鱗の落ちる思いでその横顔を見つめてしまった。
気が抜けるくらい平和で良いのかもしれない――ならば――。
「船長、一輪と雲山が付き合ってるっていう話なんだけど」
「……! ナズー……?」
「作り話だろう?」
階段をのぼりながらこっそりと水蜜に問う。
数日前、決意をした彼女は水蜜に相談した。何か事件でも起これば、平和で気の緩んだ星もしゃっきりするのでは、という内容だった。水蜜は腕組みして一つ考えると、ナズーリンに頷いで見せたものだ。
星も噂を信じているようだったから事件の内容は兎も角、成功と言えば成功なのだが。
「まあ、そうなんだけどね」
「?」
「……あなたもでしたか。私も、あなたの事で相談したのですよ」
「ご主人?」
少し上の段からすまなそうな顔で、星は二人を見下ろしている。
最初の花火が上がって空を彩り、追いかけるようにして音が轟いた。空に咲いた大輪が消えるのを待ってから、三人はまたのぼりはじめる。
「ああそういう事か。私とご主人に同時期に相談されて、船長は兎も角“事件”を起こそうと思ったんだね? けど……そうすると妙だな」
ぱらぱらと、花火が弾ける音がする。
「私も先刻から気になっていた事があります。……一輪は、この話知っているんですか? 彼女が先刻から一切振り返らないのがどうも不自然に思えて。私は山門を出てから彼女の顔を見た覚えがありません。それに、芝居にしたら……恋人同士らしい演技なんて全然なかった」
色の雨が散る。
「一輪は知ってるわ。かき氷屋までは確かに打ち合わせ通りだったんだけど……あの時」
「リンゴ飴の時か」
「あなたは何を見たんです?」
ひょう、ひゅるる……。空に沢山の種が蒔かれる。ぱっぱと幾つも空に開き、歓声がどっと上がる。
「……あのね、雲山の傍にいたの一輪じゃなかった」
+++++
階段をのぼりきると、宴もたけなわの神社に辿り着いた。
「聖と合流した方が良い気がするのですが」
「同感だね、これは本当に事件の可能性がある」
「……」
狐火がふわふわ浮いている所には、和やかな笑い声と濃い妖気が漂う。
屋根の上では鬼が天狗と飲み比べ。
冷やした胡瓜をもらって喜んでいるのは普段、ここらで見ない妖精達。
酒の香りがそこら中に広がって、普段は閑散とした境内は下の祭りに負けず劣らずにぎにぎしい。
「あら? あんた達、見違えたわ」
「ああ、霊夢お邪魔しているよ。聖はどの辺にいるかな」
きちんと正座する霊夢にナズーリンが声を掛ける。星と水蜜もお辞儀をする。
「聖……? 紫や幽々子なら来てるけど、今夜はまだ見てないわねー」
「え、どういう……」
「どういう事ですか!?」
勢い混んで詰め寄った星に、霊夢は肩を竦めて見せた。
「どうもこうも、あんた達が本日初めて此処にきた命蓮寺の面子って事」
なんだか、気が抜けたようになってしまった三人は、石段に座ってぼんやりと花火を見ていた。結局一輪や雲山の姿も無く、完全に見失ってしまった。
「帰りましょう。聖も戻っているかもしれない」
「……うん、一輪、どこに行ったんだろ」
一際大きく華が咲き。辺りが明るくなる。
立ちあがろうとしたナズーリンは、一輪に似た人影を捉えた。影は神社の裏手へと通じる小道へと消えていく。其方を指し示すと、二人も気が付いたようだ。浴衣の裾を払い、地面すれすれを飛んで追いかけた。
花火の見えない社の裏手には二人の姿以外無い。三人は茂みに身を隠すと、様子を窺った。雲山と、一輪の格好をした誰かが向かい合っていた。彼女は雲山に腕を回しぎゅう、と抱き締めている。
「うわぁ」
「星ちゃん、立っちゃダメ!」
「ちょ、ちょっと、なんだかマズくないか?」
雲山はされるがままだったが、三人が見ている事に気が付いて、燃える拳骨を振り上げた。それが見る間に大きくなり……
「え」
「ひっ」
「うわ!」
ドガンッ!
ドドン!
大きな花火の音と同時に、三人は社の裏から放り出された。
+++++
「すみません、つい」
「いたた、派手にやられたね」
「あ~……雲山の奴、手加減無かったね」
森の中に転がって、木の隙間から月を眺める。祭りの音はいまだに聞こえていたけれど、何時の間にか花火は終わってしまったようだった。
「結局、どういう事だったんでしょうね」
星が心底不思議そうな声で呟く。
コオロギや鈴虫の音が、地面から湧き出して天に昇って行く。
「船長は、分かったんじゃないかい?」
「……多分ね。ナズーこそ、私が気付いたって良く分かったね?」
「あの時、君は“一輪じゃない”って言っただけだ。ひょっとしたらと思って」
夜露がぽたりとナズーリンの鼻先に落ちた。星の頭にはキリギリスが乗っている。目の周りにあざを作った水蜜は、手足を投げ出したまま語り始めた。
「かき氷屋を出た時におかしいなって思ったの。星の言う通りもっと芝居もする予定だったけど、そんな様子微塵もなかったからね。でも店にいた一輪は確かに一輪だった。襖越しでも声を間違えるなんて事はないでしょう? ……で、一体どうしたんだろって思い返してみると……」
「衣の擦れる音がしましたね」
「誰かに見られたらどうする、って言っていた」
「そう、あの時隣には、一輪と雲山の他にもう一人いたんじゃないかな」
つまりそれは、一輪が親しく言葉を交わし、雲山が黙ってついていくような人物。
「そういえば私が供を申し出た時も」
「神社にもいなかったね」
そして、雑踏の中を妖怪である三人が息を切らして追いかけても追いつけない人物。
「その通り」
不意に、良く知った声がした。
三人が驚いてそちらを見ると、着物姿の一輪が腰に手をやって見下ろしていた。髪には簪が挿してある。
「……私はかき氷屋で入れ替わってから、ずっと短気な雲山を見張ってたってわけ。ナズーリンに気が付かれた時は少し焦ったわね。さて、姐さんから伝言よ。手当をするから早く寺に戻ってきなさい、だって」
+++++
寺に戻ると、聖は何時もの格好で雲山と共に三人を出迎えた。
「一輪から聴いたのですよ。だったら私も参加してみたいじゃないですか」
聖が水を使うと、汚れも傷も消えていく。水蜜の目の周りのあざは柔らかい布をつかってふき取った。
水蜜の相談を受けた一輪は、聖に話を伝えていた。まさか参加するとは彼女も思っていなかったようだが。
「とんだ黒幕だったね」
「ええ、黒幕は沢山の方が楽しいでしょう。私も長い時間を生きています。ボケてしまわないように、偶にこういう悪戯をするのも良いものかもしれませんね」
聖はにこにこ笑っている。
三人は小さくなって、畏まった。
寝る直前、ナズーリンは星の元を訪れた。
ふすま越しに言葉を伝える。
「ご主人、いいかい?」
「なんでしょう」
「平和って、良いものだね」
「そうですねぇ」
「……私はボケたりしないから、安心するといい。それじゃ」
「! 良かった。おやすみなさい」
命蓮寺に於けるある夏の、極めて平和な一日はこうして終わりを告げた。
夏らしくて、さわやかなお話でした