文さんが、また逃げた。
***
「何してんの、早苗」
「はい、少し罠を仕掛けようと考えまして」
諏訪子様の疑問は尤もかも知れない。境内には馴染みのない光景だ。
私の手にはロープが一本。輪っかによって、足を捉える古典的トラップだ。
「何で」
「文さんを捕まえたいんです」
見つめられる。観察する目。けれども柔和な目。いつも私を見守り続けてくれた目。
この優しい神様に、私がお仕えしているのだ。そう思う度に、誇らしく、光栄だと感じる。
「どうして、お前は神奈子の奴と似てしまったんだろうねぇ」
「どうかなさいましたか」
「ああ、気にしなさんな」
似てるって、喜んでいいのかなぁ。多分だけど、違うと思う。溜息もおつきになったし。
すみません、敬愛する神奈子様。私は何だか駄目っぽいです。もっと修行しないと。
「それで、縄なんか使って捕まえられるの?」
「恐らくですが、話によれば」
証言。竹林在住の……どうやって略そう。R・U・Iさん? 何かアイドルみたいだ。ルビーのような赤い目と、ふくらはぎまである綺麗な髪。かわいらしい外見に、長くて白い兎の耳。うん、アイドルになれる。
ふりふりのドレス着て踊って欲しいなー。今度、お願いしてみよう。それはともかく、R・U・Iさんの証言。
――こんにちは、薬箱見せてくれる?
うん、確かに早いわね。でも少し気になったから。あのブン屋って、貴方の恋人なんでしょ? 師匠から聞いたんだけど、とても心配してたって。
そう、人間の病気に関して、取材しに来たらしいのよ。それで貴方が体調崩したのかな、って思ったんだけど。でも元気そうね。
どれくらい、って。えっと、対私用の罠に引っかかる程、って言ったら分かる?
うん、いたずらよ。単なる落とし穴。そんなものに嵌ったらしいの。それで面白がったてゐが、順々に試して。
例えば、人参の皮で転ぶでしょ、笹の葉を浴びて埋まるでしょ、倒れる障子に突き刺さるでしょ。てゐは叱っといたけど。お客さんに何してるのかしらね。
”ドリフ”? 何それ?
「妙なもんだ。あの天狗がねぇ」
「はい、それでロープの罠でも大丈夫だろうと考えました」
そう言えば、諏訪子様は”縄”ってお呼びになった。これは何だろう。縄さんなら稲出身な気がする。これもそのはず。ロープは……とりあえず稲じゃないと思う。
その他、両者の違いは何処にある? ロープって何か西部劇っぽい。カウボーイが振り回して捕まえるあれ。かっこいい。飛んでる文さんに巻きつけたら、私かっこいいかも知れない。やってみたいなー。それで文さんは少し涙目になると思う。それか真っ赤になって怒るかも。すみません。でも、かわいいなぁ。よし、撫でよう。
「早苗?」
「あ、はい、何でしょう」
危ない。ロープを撫でても仕方ないのに。あれ、縄だっけ? 多分そうだ。それに決定。
おめでとうございます。貴方は縄になりました。もう未確認細長い物体ではありません。
「面白そうだし、私の祟りも付けようか。罠の破壊力が増すよ」
「いえ、お手を煩わせることではありません。それに文さんを傷つけてもいけませんから」
妖怪だから転ぶ程度なら大丈夫。そう考えて選んだのだ。お力が加わればどうなるだろう。手加減はして頂けると思う。でも服が破れる程にはなるかも知れない。そして柔らかそうな腰が見えたり、綺麗な鎖骨が出てきたり。
大変だ。これはエロい。
「早苗、大丈夫?」
「いえ、はい、何でもありません」
私には刺激が強過ぎる。セクシーな鎖骨を見たら、全力で襲い掛かりそうだ。
折角、我慢して来ているのに、それは避けたい。考えないようにしよう。
「ならいいけど。それで、いつ来るか知ってるの。ずっと待ってるつもり?」
「多分そろそろだと思います。この三日ほど毎日、夕飯の支度を覗きに来るんです」
土間の出口に隠れる文さん。下がる肩は弱々しくて、覗きこむ目は不安そう。おどおどしてて、小動物っぽいかわいさに溢れてる。あんな姿、初めて見た。
いじめたい。頬を突っつけたなら、どれほど幸せになれるだろう。きっと指が止まらなくなる。例えて言うなら、そう、梱包のプチプチを潰さずにはいられない状態だ。
懐かしいなー。あれの名前って何だったんだろう。
「そっか。それじゃ、がんばりな。私は行くよ。お前さん達の邪魔はしたくないからね」
「ありがとうございます。お夕飯が出来ましたら、お呼びしますね」
うん、後でプチプチを探そう。まだ何処かに残っているはずだ。
それはともかく今、私がするべきは、文さんを捕まえること。そして、いじめる。大切なことだ。文さんを突っつきたい。私は幸せになりたい。ありがたくも、そのための心強い道具、掛け替えのない仲間がここにいる。ロープ……違う。縄だ。そう、これで私は幸せになるのだ。文さんはどうなるか分からないけど。
でも、何で逃げるんだろう。
***
背中を踏んづけられたような声。
驚いた。やっぱり”引っかかる訳がない”と、どこかで考えていたんだろう。
とにかく容疑者を確保しなければならない。ご協力ありがとうございます、縄さん。
いざ、倒れている不審者へ接近……何か変だ。起き上がる様子がないのは何故だろう。大丈夫だと思ったけど、やっぱり痛かったのかな。すみません、けれど貴方も悪いんです。乙女のプライベートを覗き込むなんて駄目ですよ。私の割烹着姿を見たいなら、そう言ってくれればいいのに。照れ屋さんだなー。
「射命丸特派員、応答せよ」
「何でしょうか」
よかった。特に痛がってる声音じゃない。でも、それなら何で起きないんだろうか。
気にしないでおこう。私がするべきことは、ただ一つ。犯人の確保だ。また逃亡されたら困る。違う。二つあった。まずはこっち。
捲れているスカートを、そっと直してあげる。これは武士の情けと言うものだ。乙女の思い遣りなのだ。色気があるかと思ったけれど、ちょっとこれは無理。
背中を踏んづけられたような声。
私が乗っかったんだから当たり前か。文さん、すみません。貴方は座り心地がいいです。跨ってるけど。そして届く、甘い香り。これぞ文さんだ。飛び回っているせいか、青空みたいな爽やかさもある。オレンジシャーベットかも知れない。よし、早速食べ……落ち着こう、私。
えーっと、何だっけ? これか。白い首筋を猛烈にくすぐること。違うような気がする。悩む頭に声が響いた。私の中で悪魔が囁く。「きっとかわいい声を出してくれるぜ」。私の中で天使が囁く。「きっとかわいい声を出してくれるわ」。誘惑って怖い。
これじゃなくって、用件だった。いじめるのは、その後だ。不届き者にだって、釈明の余地を残すべきだろう。
まずは、ご挨拶から。
「文さん、こんにちは。元気ですか」
「こんにちは、早苗。重いです」
失礼な。
「天狗なんだから、へっちゃらでしょう」
私の下で、悶える体。我が怒りの神罰を受けよ。いえ、違いますね。誘惑されたせいで、こうなりました。おのれ、悪魔に天使め。しかし、どちらも私です。許してください、文さん。でも女性に”重い”は禁句ですよ。いじめたくなるんです。”望むところだ”? 分かりました。全力でくすぐります。
文さんって首が弱いのかなー。こんなに仰け反られると、私が落ちそうだ。それに声が、
掠れてる。
エロい。やめよう。我慢できなくなる。
始めはかわいい声だったのに、どうしてそんなセクシー路線になってくるんですか。マリリン・モンローを目指してるんですか。息までエロいなんて、やめてください。私が大変になる。早く落ち着いて欲しい。私が原因だけど。我侭ですね、すみません。それと、もう一つ謝らせてください。貴方の姿を心にばっちり刻み込みました。貴重だし。
「やりすぎました。すみません」
「うん、平気だから、気にしないで」
大丈夫そうで、一安心だ。けれど、合間合間に体が跳ねるのは、どうなんだろう。
カエルの玩具が脳裏に浮かぶ。鴉なのに。
「でも首は勘弁してね」
「分かりました」
次はお腹にしよう。
落ち着いたところで用件だ。
「文さん、貴方には数々の嫌疑が掛けられています。不法侵入、ストーキング、えーっと、まぁ、とにかく沢山です。申し開きはありますか。一応、聞いてあげます」
「”ストーキング”とは、何でしょうか」
何だろう。
「尾行、かな?」
「それは記者の性分ですね。今更ですよ」
そうかも知れない。なかなか口が達者な奴である。誉めてつかわす。
御褒美に、背中を撫でよう。頭には届かないから。翼の付け根、触ってみたかったんですよね。どんな風にブラウスへ仕舞われてるのかなー。
また跳ねた。声も出た。やめとこう。どれだけ弱点があるんですか。迂闊に触れなくなる。
「それは置いといて、何でこんなことしてるんですか。口も利いてくれないなんて、とっても寂しいんですよ」
「すみませんが、一先ず退いてくれませんか。この姿勢は苦しいです」
「そうですね。話もし辛いですし」
ふと思い出す、プロレスのワンシーン。子供心に衝撃だった、あの寝技。首に手をかけキャメルクラッチ。
この体勢なら実に容易く……それは止めよう。私はギブを求めている訳じゃない。ラブを求めているのだ。出来ることなら、熱いベーゼを添えて。とっても初心なマイダーリン、時間なら幾ら掛けてもいいですから、出来るようになってくださいね。それまで私はずっと我慢します。無理強いなんて、したくありませんから。
「文さん、手をどうぞ」
「いえ、大丈夫ですよ」
我侭だって思うけど。
「王子様にならせてください」
「まるで少女漫画ですね。仕方ありません」
覚えてくれていたんですね。”乙女心の何たるか”を教育した甲斐があった。
でもこの場合、どっちがお礼を言うんだろう? 私かな。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
何でもない風を装ってるけど、ちょっとはにかんでる。
じゃれつくのを我慢してる子犬かも知れない。鴉なのに。
ずるいなぁ、文さん。もっと好きになっちゃうじゃないですか。
***
文さんも強情だ。取調室になった土間の中、黙秘権を行使中。
カツ丼は作るべき? でも豚肉ないしなぁ。けれど私も食べたいかも。駄目だ。煩悩退散。
上がり框に座る容疑者。隣へ腰掛け、かわいい顔に尋問開始。
「文さーん」
視線が流しへ向いた。そっちに私は居ません。それは大根です。
そう言えば、お夕飯の支度しないと。だからカツ丼は無理なんです。諦めましょう、私。
「最近、どうしたんですか」
居間に向けられても困ります。私より、ちゃぶ台を見たいんですか。そうですか。
妬ましい。ちゃぶ台が妬ましい。
「何があったのか、話してください」
天井……ランプがぶら下がるだけ。まっくろくろすけなら居るかも? あれは妬めないなぁ。かわいいから仕方ない。
そう言えば、こっちには居るのかな? 居そうだ。プチプチと一緒に、後で探そう。メイちゃんになれるかも知れない。
「文さん、かわいい」
どうしよう。”あっち向いてほい”なら全敗だ。でも真っ赤になったから、勝ちかも知れない。かわいいなぁ。
それはいいとして、このままだと何も聞き出せない気がする。私は保安官なのだ。不埒な悪党を捕まえ、事情を……何か違うような。とにかく進展が欲しい。
そうだ。今なら出来るかも知れない。うん、絶対出来る。文さん、覚悟してください。目を逸らせているから悪いんですよ。頬、突っついちゃいますよ。その柔らかいほっぺが歪むんです。そして私は幸せになるんです。いざ、甘美の世界へ。
「あやっ」
これは大変だ。
「やっ、にゃっ、やっ」
かわいい。
「こら」
あれ?
「何をするんですか」
「放してください。私は文さんを突っつかなきゃいけないんです義務なんです天命なんです」
「義務も何もありませんよ。気楽なものですね。私がこうして悩んで」
止まった?
うーん、こんなのは嫌だなぁ。照れたり拗ねたりしながらがいいのだ。こう哀しそうに涙を浮かべられると困るだけ。喉の奥から唸り声も出てきた。さっきのセクシーボイスとは違う低音。迷子になった幼稚園児じゃないんだから。私まで泣きそうになる。とにかく慰めないと。抱き締め
居ない?
うん、予想はしてましたよ、文さん。でも、すぐには逃げられません。土間の中では飛べませんよね。翼を広げても無駄なんです。ハッハッハ、どこへ行こうというのかね? 違う。言ってみたかった台詞だけど、高笑いしてる場合じゃない。外に出そうだ。追いかけないと。
私の手にはロープが一本。ロープです。貴方は縄ではありません。今はそう信じてください。そしてカウボーイたる私は颯爽と貴方を投げつけるんです。私、かっこいい。文さん、覚悟。
あれー?
ご不満でしたか、縄さん。すみません、何度も名前を変えられるなんて、怒りたくもなりますよね。でも足元へ落ちられると、流石に哀しくなります。へにょって感じだ。私、かっこわるいなぁ。
風に舞う羽根が一本。群青と茜の夕焼け空に混ざる黒は幻想的だ。慰めてくれているんだろうか。違う気がする。
文さんが、また逃げた。
***
証言。九天の滝付近に在住のI・Mさん。どうしよう。考えたら、また耳と尻尾を触りたくなってきた。けれど、あれは暑い。きっとハスキーとか犬ぞり出来る犬種。狼だけど。そんなふわふわっぷりなのだ。それでも私は、この欲求に誠実でありたい。
でも我慢だ。文さんを捕まえて翼を撫でるのだ。今考えるのは、I・Mさんの証言。
――ええ、来ましたね。内容ですか? 口付けがどうのこうのと、まぁまどろっこしく訊ねられましたよ。普段の長広舌は何処へやったのでしょうね。鬱陶しくないことは歓迎すべきですが。いや、あれはあれで鬱陶しい。まったく、何を悩んでいると言うのか。
耳? ええ、倒れていますね。
ありがとうございます。やはり撫で方がお上手だ。
話が逸れました。そう、口付けです。以前、私が早苗さんにしていたことでしたね。それを覚えていたらしい。「何故、”する”のか」? 「親愛の挨拶だ」。尤も、文さんにはしませんが。仮にも鴉天狗様ですから、無礼になります。仮にも。一応。あんなのでも。ああ、申し訳ない。配慮が足りませんでした。早苗さんの恋人だというのに。
そうですか? すみません。いえ、尻尾は気に掛けないでください。
ありがとうございます。優しい指ですね。
話に戻りましょう。「口付けは挨拶です」、そう答えても、どうやら納得がいかなかったようだ。難しい顔をしたまま、帰って行きました。ただでさえ蒸し暑い梅雨だと言うのに、黒い翼で余計暑くなる。飛び方も定まらず、見ていて危なっかしい。
ああ、そうだ。黒い邪魔者がいませんから、早苗さんにも久方ぶりに。
頬に残る、小さな感触。嬉しいなー。でも唇は駄目です。これだけは譲れません。文さんのものなんです。けれど、してくれないんですよね。ほんと、照れ屋さんだ。
証言。九天の滝付近に在住のK・Nさん。そう言えば、職業も付けるべきなんだろうか。だとしたら、機械工? 発明家? 雛さんの恋人……は職業じゃない。
芸術家にしとこう。爆発は芸術だ。爆発家、K・Nさんの証言。
――文? うん、来たよ。すっごく悩んでた。泳げなくなったら、私もあんな風になるかも。
――面白いけれど、少しばかり心配にもなるわね。詰まらないことで悩んでも、仕方がないのに。
――天狗様も、よく分かんないこと訊くよねぇ。「貴方達は、どういう時に涙を流しますか」だってさ。
――早苗を傷つけないか、恐れているのかしら。臆病で優しい子。泣く機会なら幾らでもあるのに。
――哀しかったり、寂しかったりね。怒った時もそう。
――にとりが私のために泣いてくれた時もね。嬉しいから。
――そんな時の雛はとっても綺麗でかわいいんだ。
――少しばかり照れるわね。貴方もかわいいわよ。
――ありがとう。雛、大好き。
――私もにとりが好きよ。
見せ付けられた。いいなー。いただきました。
文さんも、”好き”を言ってくれればいいのに。初心にも程があると思います。
証言。霧の湖在住のP・Kさん。涼しい地下って羨ましいなー。夏休みの間、図書館へ涼みに行ったっけ。やめよう。宿題まで思い出す。”神奈子様観察日記”とか。諏訪子様大笑いだったなー。恥ずかしい。やめやめ。
ショートな司書のお姉さんがかわいい。素敵な環境にお住まい、P・Kさんの証言。
――いらっしゃい、阿求……と、誰? 東風谷早苗? 聞いたことがあるわね。
咲夜は下がっていいわよ、ご苦労様。小悪魔、お茶の準備をして。
あら、クッキー? 小悪魔、お茶だけで構わないわ。それで用件は何かしら。
ああ、そういうこと。読書に割く時間を削られるとは雖も、仕方がないか。私も悩む恋人を手助けできるなら、何処へでも行くわ。そして、どのような手段でも取る。魂と引き換えにしてでもね。
ロマンチック? そうね、少し大袈裟に聞こえるわね。けれども貴方達、人間と違って禁忌は無いから気楽よ。
何、阿求?
ええ、話し過ぎたわね。好きなだけ笑いなさい。
天狗のことだったわね。単純な話よ。”捨虫の法”。人を捨て、魔に身を捧げる誓い。それを巫女が修められるか、訊いてきたの。てっきり紅白だと思ったけれど、私も洞察が足りていないわね。
ご苦労、小悪魔。貴方も一息入れなさい。そのネズミ花火は置いて。挨拶? お前の口に突っ込むよ。
さて、お茶も入ったことだから、寛いでいきなさい。読書に割く時間を削られるとは雖も、仕方がないわ。
このクッキー、悪くないわね。
堪えずに笑えばいいのよ、阿求。らしくないのは重々承知。
いただきました。声は小さいけれど、笑い合う時は少し大きくなった。
分かりやすい人なのかも知れない。魔法使いだけど。そんなところが、文さんと似ている気がする。
”涙”と”キス”、”不老”と”病気”。
東風谷捜査官、ピンチです。迷宮入りです。プロファイリングが出来ません。
うん、まだ早い。諦めません、勝つまでは。勝って文さんのほっぺを独り占めします。
東風谷捜査官、会議を開け。
***
大ワニ先生、ご意見をお聞かせください。
「プロポーズですね。いつ切り出そうか悩んでいるんですよ。貴方は静かに待ちましょう」
それは違うだろう。花束は持ってなかったしなぁ。それに文さんが”好き”って告白してくれたのだ。プロポーズなら私の番だと思う。そう言えば、どっちが旦那様になるんだろう。
文さん? それは違うだろう。文さん、かわいいから。じゃあ、私? やだなー。私はお嫁さんになりたい。白無垢とウェディングドレスで結婚式が夢なのだ。どうしよう。
ああ、そうか。私達、二人共お嫁さんだ。うん、それだ。文さん、一緒にドレスを着ましょうね。でも神前式なら我が家でいいけど、チャペルは里に無かったと思う。これは問題だ。
発見。昼間のお館にあったはず。あれって、どうなんだろう。屋根に十字架まで付いていたけれど。まぁいいか。式を挙げることになったら、交渉してみよう。
問題解決。してない。中ワニさん、貴方はどう考えますか。
「あら、簡単なことよ。気紛れで鴉が、怯える子猫になった。それだけじゃなくて? 貴方の好みでしょう」
うん、大好きです。突っつきたい。撫で擦りたい。そして文さんは真っ赤な顔で涙目になる。私は掌にねこじゃらしをあてているように、むずむずする幸福感へ包まれるのだ。カムバック、文さん。
でも私は子猫の怯える訳を知りたいのだ。涙が零れる前に、全力で逃げ出すなんて。土間の出口も忘れるなんて。そんな哀しそうに泣かれるなんて嫌です。それで済むなら、ねこじゃらしなんか投げ捨てます。
どうして何も言ってくれないんですか。悩んでる理由、教えてくれてもいいでしょう。そしたら私がこんな苦労しなくても済むんです。気になって眠れないじゃないですか。最近、ずっと寝不足なんですよ。乙女の顔が無残にやつれそうです。肌が荒れても、ここにはスキンケアなんて……ヘチマか。天然素材使用。むしろ天然の塊。これはこれでいいのかなぁ。穣子様が”もう直だ”って仰ってたっけ。採れる場所、教えて頂けるかも。
問題解決。は、まだです。小ワニちゃん、どう思う?
「捕まえろ。問いただせ」
小ワニちゃん怖い。それはもうやりました。ついでに捕まえてからこっち、覗きにも来てくれません。罠は無理です。追いかけても振り切られるだろうしなー。どうしよう。
鳴かぬなら鳴かせて見せよう射命丸。いっそのこと、文さん家へ電撃訪問とか。いいかも知れない。突撃取材されてばっかりだし、たまにはこっちから。うん、積極的な求愛だ。プロポーズの予行練習によさそう。
でも会ってくれなさそうだなー。それに飛び回ってばっかりみたいだから、家にはいないかも。手詰まりだ。
ワニさん達、ご意見ありがとうございました。
会議は終わり。
***
三匹のぬいぐるみ。ベッドの端に並べていく。
向こうから連いて来てもらったワニさんだ。一緒に思い出を作ってきた友人達。そして両親や二柱にさえ言えない悩みを、打ち明けても来た間柄。抱えて笑い、抱き締め泣いた。嬉しかったり、哀しかったり、寂しかったり色々だ。
それでも、お人形ごっこは久しぶり。小学生以来だろうか。私はちょっと駄目になってるのかも知れない。やだなぁ。
布団に倒れ、友人達を覗き込む。夜の暗さはあるけれど、お腹の黄色い部分がはっきり見える。今夜は月夜。
文さんを捕まえた日。涙の理由を考えている内に眠っていた。何時までなんだろう。寝坊したから、結構遅いはずだ。そして二柱へ心配を少しお掛けした。少しだと思う。顔色を咎められたけれど、笑って誤魔化せたから。
里へ買出し。阿求さんに会えて幸運だ。日常の些細な会話まで覚えているんだから。”文さんの様子がおかしかった”、そんな伝言ゲームがパチュリーさんから阿求さん、そして私へ。ほんと、幸運だ。ヒントが貰えるかも、なんて浮かれながら帰宅。それでも結局、その晩もなかなか寝付けなかった。
私の胸に重石が乗っかる。”何を相談したのだろう”、そう黒のペンキで書かれた大きな石だ。
寝坊はしなかった。分かっていれば、何とかなるものだ。二柱の目は不安に陰っていた。風邪を引く度に向けられる眼差しだ。朝ご飯を笑顔で噛む内に、微笑んで頂けるようにはなった。それでも目は変わらない。私のせいだと思う度に、笑顔が崩れかける。尤も、始めから引きつっていたのかも知れない。上手く出来てる自信なんて、これっぽっちもなかった。
心苦しく感じながら外出。パチュリーさんへ会いに行ったのなら、もしかして。そう考えて訪ねまわった結果が、”涙”と”キス”だ。
私の手足に縄が絡みつく。付箋がべたべた張り付けられていた。”何故、悩んでいるのだろう”。
そして今日だ。
朝餉の間、二柱は普段通りのお芝居をしていた。有難い。私も普段通りの真似っこだ。
クッキーを焼き、パチュリーさんへヒントを訊ねに行く。重石は消えず、ペンキは上書きされた。”何故、不老について訊いたのだろう”。そしておまけの石が積み重なった。鈴仙さんの言う”病気”。
文さん、私が死ぬって考えたんですか? どうやったら、そんなことになるんだろう。文さんと式を挙げるまで、私は死ねはしないのだ。それどころか、結婚後も神様として添い遂げる予定。お前百まで、私九十九まで。足りないなぁ。
二柱を見習い、百万年? これでも満足しないとは、人間は欲深いものよのぅ。とりあえず、早くちゃんとした神様になろう。話はそれからだ。
結婚生活は置いておこう。考えるのは、涙とキス。分からないなぁ。
あれかも。初デートの時に両方あったっけ。キス、嬉しかったなぁ。勇気を出して、合わせてくれた唇。真っ赤になって、涙目で……また思い出した。
文さん、今にも泣き出しそうな顔で見つめないでください。私がちょっと駄目になってしまいます。変なことばかり考えるようになるんです。いじめたら、少しでも怒ってくれればいいなって。怒ったら、悩んで歪む表情が壊れてくれるかもって。
頬を突っついた私に、貴方は怒ってくれましたよね。とても嬉しかったんですよ。”いつもの文さんだ”って、全力で抱きつきたくなる程でした。抱き締めて泣きたくなる程だったんです。溜め込んだ涙を流し切るつもりだったんです。そこで、どうして先に泣いちゃうんですか。文さんはずるいです。
自分勝手ですね、すみません。貴方が悩んでいるのに、こんなこと言って。
それにもう一つ。おどおどした小動物みたいな顔。だけどパンダなんですよね。隈が出来ているから。せめて睡眠だけは取ってください。私が眠れないじゃないですか。すみません、これも我侭ですね。
うん、ちょっとじゃない。とってもだ。今の私は本当に駄目だ。
ほら、手足がベッドに縛り付けられた。これは文さんを転ばせた縄だ。ほら、体が布団に沈んで行く。文さんに乗っかった私が重石になっているせいだ。月夜で明るいはずなのに、天井はどんどん暗くなる。違うなぁ。水面で揺らめいているんだ。何とかしないと溺れてしまう。どうにかしないと。どうにかしよう。息を詰めて、お腹に力。手もしっかり握りしめる。なんとかなるかも。息が出来そう。あと少し。
危なかった。
大丈夫。もう平気なはずだ。溺れてなんかいられない。恋人を助けないといけないから。一人だけで沈もうとしている、私の大切な人だ。気付いて欲しい。私の手に気付いてください。目を瞑っている愛しい貴方。
「文さん、私を頼ってください」
掠れてるなー。喉を締め付けられている。これは首をくすぐった指なんだ。聞いて欲しかったのに、こんな声を文さんに聞かれたくない。そして私は聞いてしまった。もう我慢できなくなる。また沈む。分かりきってることだけど。
空気が胸を叩いてる。肺から出せって喚いてる。こんなもの、吐き出したくない。出してしまえば、私は溺れてしまうんだ。あと何秒持つのかな。握り締めた手が痛い。血が昇った顔が熱い。息をこらえる胸が苦しい。まだ耐えられる? もう無理だ。私、かっこわるいなぁ。文さん、ごめんなさい。
ワニさん、しばらく抱き締めさせてください。
***
月明かりが満ちている。
今夜は蒸し暑い。カーテンも引かずに、窓は網戸を閉めただけだ。
空き巣も何もないことは、山に来た利点の一つだとしみじみ思う。
部屋は梅雨の湿った空気で一杯だ。たまに吹き込む温い風が、緩やかに室内を掻き混ぜる。汗ばむ額には気持ちが良い。
寝不足の頭には耐えられなかったようだ。寝られないはずが、夢と現を行ったり来たり。途切れ途切れの視界には、ぼんやり部屋が映りこむ。その度に月が傾き、眠っていたのだと私に知らせる。
羽ばたき。
鳥が寝惚けたのかも知れない。ギロを弾くような虫の音が、夜に呑まれて静まり返る。
石畳を軽めに叩く何かの音。一つ、二つ、三つ。瓦だったのかも知れない。かろかろと網戸が開く。開いたと思う。何だろう。体はベッドの上で漂うまま。頭は霞み、動かない。これは夢なんだろう。
板を軽めに叩く何かの音。一つ、二つ、三つ。半分も開かない目に写る誰か。これは夢だ。
スプリングの小さな悲鳴。頭が沈む。沈んでいく。止まった。
そんな顔しないでください。私まで泣きそうになる。笑って欲しい。我侭なんかじゃないはず。私の夢だから。
何だろう。衣擦れ。そうか、私の夢だから。早く欲しい。もう少し。もどかしい。あと僅か。焦らさないで。今、
一つ
頭が浮かぶ。
一つ、二つ、三つ。網戸が閉まる。一つ、二つ、三つ。遠ざかる。羽ばたき。
虫の音が戻った。
起きたら目が腫れているはず。私の夢だったから。
私はこんなに好きなんだなぁ。
***
「あー、おはよう、早苗」
声を合図に華麗なターン。波打つ白はチュチュの裾。私、かっこいい。
割烹着ではない。チュチュなのだ。思ったより翻らなかった裾を押さえて、深く一礼。
「神奈子様、おはようございます」
姿勢を戻したら、笑顔を忘れずに。淑女の大切な心構えだ。あれ?
どうなさったんだろう。上目がちに私を覗き込んで……最近の文さんとそっくりだ。いじめたいなんて思わないけれど。不遜だし、親代わりをしてくださっている方だから。それに色々するのは諏訪子様の特権だ。
「早苗、平気なのかい?」
忘れてた。最高の夢を見たからって、浮かれ過ぎだ。神奈子様、すみません。
「はい、ありがとうございます。ご心配お掛けしました。今なら月まで飛べそうです。むしろ飛びます」
神奈子様が一回り萎んだ。お萎みになられた? 日本語って難しい。
まだ続く。ここまで息が収まるものなんだなー。豊満でいらっしゃるためだろうか。羨ましい。
「何があったかは知らないけれど、それなら解決したのね」
「いえ、特に進んではいません」
御尊顔が瞬間凍結。フリーズドライ?
「あの天狗をとっちめたんじゃないのかい。逆にやられたって言うんなら、一っ飛び爆撃してくるわよ」
有言即実行な点は、敬愛する理由の一つだ。
でも今は困る。使い魔の鴉が傍に住んでいるはずだ。雛が居るって聞いたような。
「いえ、お手を煩わせる訳にはいきません。お言葉、ありがとうございます。進展はありませんが、どのような手段を取ってでも、文さんを捕まえると決心したんです。そうしたら気持ちが軽くなりました」
見つめられる。呆れた目。けれども慈愛に溢れた目。いつも私を見守り続けてくれた目。
全てを撫で過ぎる穏やかな春風。いつか私もこんな優しさで、恋人を包めるようになりたい。目に映る全てがメッセージなのだ。初デートの時は本当にそうだったなぁ。全部、文さんの優しさだった。
「何故、お前は諏訪子と似てしまったんだろうなぁ」
あれ? いつか見た光景だ。私はお二方のどちらに似ているのだろう。
まぁいいか。ありがとうございます。
「良く分かりませんが、そうであれば光栄に思います」
「素直なところは違うわね。あのバカ、腹黒いから。似なくて良かったわ」
これは迂闊にお応えできない。繊細すぎる。
諏訪子様、いらっしゃるかなー? ちゃぶ台の下とか柱の影、天井の隙間に……いた。土間の梁に潜んだ、赤い紐。金糸を束ねた、煌く御髪。周囲に漂う紫黒色の正体なんて考えたくない。
「うん? どうかしたかい」
「あ、はい、忘れてました。魚が焦げるかも。すみません、もうしばらくお待ち頂けますか。すぐに朝餉を支度いたしますので」
すみません、神奈子様。私は卑怯者です。
「ああ、そうだった。邪魔をしたわ。頼むわね」
さぁ朝ごはん調理任務を続行だ。居間から響く音は気にしない。
そう言えば、いつも”第二次諏訪大戦”が起きているような。
”歴史は繰り返す”って、こう言うこと何だろうか。深いなぁ。
***
証言。妖怪の山在住のK・Sさん。敬称はどうだろう。それは無いと思う。いっそ、”ちゃん”で……無理だ。女の子だった時もあるのになー。違うかも知れない。キキに憧れ、箒で男子とチャンバラした記憶がある。何で先に飛ぶ方へいかなかったんだろう。そもそも何処からチャンバラが出てきたのか不思議だ。
うん、多分違う。女の子じゃないけれど、乙女でありたいK・Sの証言。
――これは実際にあった話です。十日ほど前のことでしょうか。私達はパジャマパーティーをしました。メンバーは河童のNさん、神様のHさん、天狗のAさん、そして私の四人です。Aさんは強制連行しました。
普段の集まりとは違う環境のせいでしょう。皆、はしゃぎ、歓談は途絶えないように思えました。それでも終わりは来るものです。ランプを消し、布団に入れば程なくして「おやすみなさい」を交わすことになりました。その時まで、いつもより賑やかな、それでいて普通の夜でした。いえ、普通だと思い込もうとしていたのかも知れません。わだかまる暗闇が確かに居たのですから。
皆が寝静まった深夜。Aさんの隣には、何かが蹲っていました。月が煌々と部屋を照らしています。その白く冷たい明かりの中で、何かは魅入られたのか微動だにしません。梅雨の蒸し暑い空気は、それを避けるように窓から逃げていきます。虫達も察したのか鳴き声は止み、無音になった部屋はしんしんと冷えていくばかり。
どれ程の時間が経ったでしょうか。石像に変わり果てたかと思われた何かが、音を出しました。いえ、それは声だったのでしょう。哀切に塗れた、貪欲の塊としか聞こえませんでしたが。
そして何かは屈みこみます。一つ、Aさんの顔に滴り落ちた雫は、欲を満たさんとする浅ましさからくる慟哭でした。そしてAさんの生気を吸い取るため、唇を寄せ……柔らかかったなー。
「そんなことがあったんです」
境内の石畳には一羽の鴉。文さんの使い魔だ。くりくりした瞳が愛らしい。外では群れてる姿が怖かったけれど、そう勝手に思い込んでいただけなんだろう。無闇に刺激しなければ、鴉は大人しくてかわいい。文さんと会っている内に分かったことだ。
この子は特にかわいい。慣れたせいもある。会って二ヶ月ほど過ぎた頃に、頭を撫でさせてくれるようになった。そして今は、手に乗せたクッキーを啄ばんでくれてる最中だ。掌が少しくすぐったい。大きなインコかも知れない。
「まず、相棒の貴方に謝りたかったんです。文さんの様子。もしかしたら私が原因なんじゃないか、って」
――嗚呼。
一つ鳴き声。囁きよりは少し大きい。それでも鋭く力強い音が、耳に刺さった。
「文さんには言わないでくれますか。我侭ですが直接、自分で謝りたくて」
――嗚呼。
鴉語が分かったらなー。でも、怒っている気はする。クッキーを食べる嘴は止まったままだ。愛らしい瞳が険を帯び、私を睨みつけている。叱られている気分だ。いたずらどころじゃない、悪質なものを咎められている。私の罪悪感からだけじゃ
熱っ
違う。痛いんだ。痛い。小指?
血が出てきた。ピジョンブラッドだっけ。我ながら綺麗な色だ。
――嗚呼。
棘が抜けている。ビブラートが少しかかった、柔らかくて優しい声。拳骨を一つ落として終わる、肝っ玉お母さんみたいだ。でも誇り高い感じもする。胸を張って、嘴を高く上げている姿は凛々しい。文さんは”誇りある鴉天狗”だって言うけれど、鴉もそうなんだろうか。気風が良くて、誇り高い。江戸っ子?
「許してくれるんですか」
カスタネットが二度鳴らされた。続いて突っつく私の掌。
嘴がくすぐったい。そうか、クッキー無くなってたんだ。催促かな? もう一枚どうぞ。
鴉が飛んだ。消えていく。
そう言えば雛がいるんだっけ。お土産にするのかなー。今度、見せて貰えないか頼んでみよう。雛なんて、燕くらいしか見たことない気がする。小学校の庇に毎年、巣を作ってたなぁ。
小指、忘れてた。熱くて痛い。血が伝わってる。
塩辛い。
よしっ。明日の準備だ。
***
森の小さな休憩所。響く流れを聞きながら、一人ぼんやり座ってる。
雨が屋根をまばらに叩く。竹の覆いは何だか静かだ。
待ってる間、傍の河を眺め続ける。波の合間に漂う木の葉。折れた枝もたまにある。
私の疑問も似たように、顔を出したり引っ込めたりだ。
あの日、文さんは起きていた?
起きていて、私の真似をした?
昨日の晩に見た夢は現実だった?
分からないなぁ。”好き”さえ言えない文さんなのに。初めてのデートから、一度もキスを出来ずにいたのに。今更どうして? それに、あの涙と態度が不思議だ。やっぱり私が死ぬって……縁起でもないなー。
けれど可能性は捨てきれない。何があっても不思議じゃない。何せ、文さんからお誘いが来たのだ。こっちから誘っても、新聞だとか理由を付けて断ったりもするのに。照れてるからだって知ってるけど。かわいいなぁ。
うん、悩んでも仕方ないか。デートに専念しよう。そして、さりげなく悩みの種を聞き出すのだ。折角の機会、また逃げられたら敵わない。気合は十分だ。格好も多分だけど大丈夫。
髪は普段通り、片側には二柱の髪留め。白のカーディガンに、ライトブルーなノースリーブワンピース。胸元へレモン色のリボンをアクセントに。
そして下駄。雨でぬかるむ森は、靴だと歩きにくい。うっかりしたら転ぶだろう。この一年近くで、何度も経験済みだ。嫌ってくらい分かってる。それでも妥協してしまった私が哀しい。この雨さえなければ……悩んでも仕方ない。仕方ないんです。
和裁習おう。誰か教えてくれる人を見つけて、着物を仕立てるのだ。下駄だって気兼ねなく履けるようになる。
「お待たせしました、早苗」
あれ? 羽ばたきが聞こえなかった。
「いえ、私が早く来てしまっただけです」
振り向けば蛇の目傘。翼は出ていない。わざわざ歩いてきたんだろうか。雨に濡れるのが嫌だって言っても、風を使えば防げるはずだ。飛んでいる間は、いつもそうしているのに。
「それでも、待たせたことには違いないですから」
なんか……これって文さん? 殊勝すぎる。「それでは行きましょうか」とか予想してたのに。
それに変なところがもう一つ。初デートの時くらいしか、おめかしはしなかったのに。傘から雨を振るい落としている格好は、浴衣だ。
濃紺の地に、白のアヤメが咲いている。これが梅雨なんだろう。白の帯には、黒の帯留め。仕事着の色合いが少しだけ残ってる。それから一本歯の下駄も普段とは変わって……た。朱塗り? 落ち着いた色が上品だけど。あ、贈ったチョーカーしてくれてるんだ。でも浴衣にはどうなんだろう。三日月のアクセが首元に……うん、セクシー。ありです。それに紅も差してる? 緩く結んだ唇が紅い。グロスは流石になかったんだろうけど、返って清楚な雰囲気になってる。ひっつめ髪の文さんもいいなぁ。いつものセミショートよりも大人の女性だ。目を手元の傘に落とした横顔がさらに大人。普段なら髪に隠れがちな耳もはっきり見える。艶っぽいってこれだ。振り返る姿もすっきり整ってて
「どうかしましたか、早苗」
「綺麗」
あれ?
「あ、はい、文さんがとても綺麗で見蕩れちゃいました」
びっくりした。まさかそのまま口走るなんて。こんなこと無かったのになー。文さんも驚いてるみたいだ。目が丸くなって、口も薄く開いて。猫だましされた子猫かも知れない。あっという間に大人が子供になった。かわいいなぁ。
うん、変だって思ったけれど、これぞ文さんだ。どんどん真っ赤になって、真っ赤になって、まだ赤くなって、何で涙目に
「へ?」
倒れ……踏ん張った。私、偉い。
あー、そうか、抱きつかれたんだ。放り出された傘が跳ねてる。大丈夫なのかなぁ。
それはともかく少し苦しい。もっと手加減してください。貴方が天狗だってこと、忘れてませんか。
「こんなに」
緩まってきた。そうです。人間レベルはそれです。神様だけど。以心伝心だったらいいなぁ。
「嬉しいのね。綺麗って」
あ、泣いてる。文さん泣いているんだ。
「早苗、ありがとう」
やっぱり天狗だってこと忘れてますね。初心なのはまだ納得できますけど、これだと普通の女の子じゃないですか。過ごした歳月は数百じゃ足りないって言ってるのに。かわいいなぁ。抱き心地がいい。香りもする。久しぶりの文さんだ。
そういえば”かわいい”ならよく言うけれど、”綺麗”ってどうだっけ? こっちも割と言って……ない。思うことはあるけれど、そんなには。あんまり。もしかしたら一度も? まさか、そんな。
おさらいだ。今までのデートでは、言ってない。照れたり拗ねたりがかわいいから、これは確実だ。普段は心の内外で”かわいい”を連呼して、文さんを朱塗りの彫像に変えている。かわいいなぁ。そして綺麗ではない。綺麗なんだけど違う。”かっこいい”ならあるかも? うん、あった。幻想風靡の時なんかに。でもそれは関係ない。
文さん、すみません。どうやら、その”まさか”のようです。
「文さん、綺麗です。似合ってますよ」
力が少し強まったけれど、これくらいなら大丈夫。しっかり体を合わせられて、丁度いいくらいだ。
不思議だなぁ。こんなにかわいい人が、どうして私を好きになってくれたんだろう。私は自分勝手なのに。
どこまで私は好きになるんだろう。その内、鴉の羽根を見ただけで、のぼせ上がるようになりそうだ。
嬉しいなぁ。
***
余は不満である。
「やっぱり傘を持つ手、逆にしませんか」
「貴方が濡れるでしょう。駄目ですよ」
相合傘は嬉しいけれど、やはり不満である。折角こんなに綺麗なのに、もったいない。手を繋げられたなら、散歩が当社比三割は楽しくなると思う。具体的には、文さんを撫でる衝動をぎりぎり抑えられる程度。いつもか。
「諦めてください。指を睨みつけられても、どうしようもありませんよ」
諦められません。諦めてなるものか。目の前に骨付き肉を出されながら”待て”なんて無理です。
一休さん、お知恵を……借りるまでもなかった。こんなに簡単な方法があるじゃないですか。いざ。
背中を撫でられたような声。
エロい。やめて欲しい。そんなに驚かないでください。
寝惚けた猫でも、そこまで飛び上がりません。足まで止めるなんて。
「どうですか。これならばっちりです」
文さんの小指に重なる、私の人差し指。二人で持てば完璧だ。
触れ合い方が少し足りないけれど、これで満足してあげましょう。
「自慢げに胸を張られても困りますよ。貴方は妙なことを考え付きますね」
「妙とは失礼な。渾身の一手です」
「そうかも知れませんね」
ご不満なんだろうか。眉をしかめられると、何だか申し訳なくなる。いい考えだと思ったんだけど。
何か悩んでいる、ひっつめ髪の横顔。やっぱり綺麗だ。細くて滑らかな首筋が私を誘惑する。くすぐりたいけど、我慢だ。別にいじめたい訳じゃない。哀しそうな表情をしなければ、私には十分だ。
「そうですね。それならこれはどうですか。一度、手を放してください」
「あ、はい」
何だろう。傘を左手に移し替えて。何だろう。肘を掴まれて。あれ? 近い。文さん近い、何これ何ですかこれ。傘持たされて何なんですか本当に
「どうですか。これならばっちりでしょう」
背中を撫でられたような声。
むしろ撫でられた気がする。囁き声が背中を這い回った。何で私が驚いているんだろう。恥ずかしい。どうしよう。
これって腕を組んでることになるのかなぁ。私の小指から下に離れて文さんの人差し指。肩が密着して肘が交差して。大変だ。これは大変だ。甘い香りしかしなくて、顔熱い。でも、とにかく返事をしないと。
声、掠れてる。
「俯いてたら聞こえません。こっちを見て」
いじわるしないでください。今、顔を上げたら、鼻が擦れ合うかも知れない。肌に吐息が直接かかる程なのに。そんなの無理に決まってます。あれ、頬に指? やめてください顔そっちになんて
「ねぇ、早苗」
近い、目だ、赤い、柘榴だ。
「どう、満足した?」
囁きに頭を揺さぶられてる。耳だけじゃなくて、全身で聞かされるような音。
それに、この目だ。猫が獲物を捕まえた時の目。吊り上がって細められてる。私は獲物じゃなくて神様なんです。 あ、でも顔赤い。初めてキスを迫った時の表情とそっくり。瞳が少し潤んでる。そうか、文さんも緊張してるんだ。
「えー、はい、大満足です」
「そう、よかった」
あれ? この雰囲気って何だろう。
幽かに鼻をくすぐる甘さ。文さんの香りだ。真正面には、いじわるそうな紅い花。視界の端に傘の柄が写ってる。ぱらぱら続く雨の音。遠いどこかで河が流れて……すぐ傍なのに。触れ合う肩は、衣服越しでも柔らかい。やっぱり女の子なんだ。顔が近くて、目も近い。紅を引いた唇は、仄かに焼けて熱そうだ。触れたら絶対火傷する。火傷したい。溶ける。
「さて、散歩を続けましょうか」
死ぬかと思った。
「あやや、どうしました」
どうもこうもないんです。誰のせいだと思ってるんですか。ずっと息を止めてたなんて今、気付きましたよ。キスだと思っちゃったじゃないですか。よりによって何故、そんなに気合を入れているのか理由を訊きたい。唇が綺麗すぎますよ。シロップ漬けのサクランボですか。お陰様で腰が砕けたんですよ。大変だ。
「それでは地面に裾がついてしまいますよ」
あれ? 脇に手が差し込まれて、顔が上がって、
「おや、茹で上がってますね」
近い。
「かわいいわよ、早苗」
死ぬ。
***
「本当に、これで満足なんですか」
「はい、ありがとうございます。大満足なんです。それにさっきのままだと、やっぱり歩き辛そうですし」
「それならいいんですが」
腕がたまに擦れあう。二人で柄を握ってる。今の私には丁度いい。腕を組むなんて大それた願いだった。こっちからなら平気なのに、近寄られたら駄目なんて。我侭ですね、すみません。でも無理。
「そういえば、その浴衣はどうしたんですか。仕事着以外って余り持ってませんよね。初めて見ました」
アヤメの柄が鮮やかで綺麗だ。池の畔ならぴったりなんだろうけれど、河原にもよく合うと思う。雨雲で薄暗い景色の中、一歩ごとに白い花弁が小さく揺れる。後の河に紛れて紺の地が、流れにそのまま溶け込んでいくようだ。
そして、アヤメしかなるべく見ない。何でこんなに意識しているんだろう。横顔が見られない。文さんの香りが常に届いてる。
「ああ、これですか。人形遣いに依頼しました」
「そうだったんですか。やっぱり綺麗ですね。それに爽やかで文さんに合ってると思います」
止まった。どうしたんだろう。あ、また赤くなってきてる。頑張って作ってる無表情がかわいいなぁ。
うあっ、つんのめりかけた。危ない。急に歩き出さないでください。
「嬉しいですね。合っていると言えば、人形遣いに言われました。『もうすぐ梅雨も終わりだけど、貴方ならアヤメかしら』」
似ているような気がする。声真似って鴉も出来たんだっけ?
「アリスさんが見立ててくれたんですか。納得しました」
「引き換えに、次回の人形劇について広告を載せることになりましたが。これなら底値だったようですね」
そうなると、デートのために用意した、ってことなんだろうか。うん、照れる。嬉しいなぁ。
でも何故だろう。今まで着たきり雀だったのに。初デートの時だって着飾ったけれど、私が無理やり着せたのだ。
「そう、それで一つ」
また目だ。今度は余裕を含んで、子供を見る目付き。私を捉えている。それに穏やかな微笑も付けて。
こんな笑い方って珍しい。はにかむか、皮肉げか、無理やり押さえ込んだものばかりなのに。
「貴方も綺麗ですね」
誉められた? 文さんに? むずむずする。
あー、何だろう、これ。優しいお姉さんのような。そう、あれだ、先輩だ。憧れ程でもないけれど、素敵だって素直に思える先輩。そんな人から誉められてる感じだ。身長なんて変わらないのに、高下駄が無ければ私の方が高いのに。これが長く生きた妖怪のキャリアなのかなー。
「どうかしましたか」
文さんずるい。何でそんな風に優しく言ってくれるんですか。まるで私が子供になったみたいだ。それも入学式で舞い上がって緊張してる子供。そんな私を撫でて落ち着かせてくれるような声。大変だ。聞こえそうなくらいに、心臓が高鳴ってる。はっきりと分かる程、顔が火照ってる。どんどん私が駄目になる。
「誉めてくれるなんて思わなかったんです。ありがとうございます」
「そうですね。確かに私らしくありません」
目を伏せて、喉の奥で笑う姿。ますますお姉さんだ。
「それでも言わせてください。例えば、この」
指が頬に触れている。私の熱を知られてしまう。髪を掻き揚げないでください。指柔らかい。すべすべしてる。
もう駄目だ。背筋が鉄柱になった。全身に熱湯が掛けられてる。指が接着剤で張り付けられた。
「耳飾りが良く合っている。銀の星ですね。五芒星は貴方の十八番でしたか」
お気に入りのイヤーカフ。穴を開けるのは怖いけれど、好奇心が溢れそうになった。そんな時に見つけたもの。
「何で。殆ど見えないのに」
「記者の観察眼を甘く見ないで欲しいですね」
それでもどうして耳に行くんですか。何で気付いてくれるんですか。
「もちろん、飾り以外も素敵ですよ」
また微笑だ。妖艶って言うんだろうなぁ。妖怪だから。それでも少し目を細めたところは、やっぱり優しげで。見守られているような気にさえなってしまう。これが文さん? 本当に本物? 「今日は巫女服ではないんですね。それでは行きましょうか」なんて言ってきたこともあるのに。東風谷選手、大人度によって完全K.O.です。死にそうだ。
けれど不満はありません。もっと好きになりました。力一杯、甘えたい。頭を優しく撫でて欲しい。そして押し倒され……邪念は抑えこもう。止まらなくなる。
でも、やっぱり変。
***
杉の根元で雨宿り。ハンカチを敷いて、お弁当のお時間です。
ようやく助かった。これなら文さんから少しは距離が置ける。散歩中に交わした会話なんて覚えてない。あのままだったら心臓が過労になる。それでも指を放さない私。何か負けた気分になりそうだから。杉さん、私の愚かな行為を止めてくださって、ありがとうございます。それと、命を救ってくれたことに感謝します。
「毛虫はいないようですね。一安心と言ったところでしょうか。河も眺められて、いい場所です」
「杉にも毛虫って付くんですか。広葉樹にばっかりだと思ってました」
「ええ、何にでもですよ。鴉の食事になるからいいんですけどね。この時期は雛もいるから尚更です」
そうだった。丁度いいから頼んでみようか。
「文さんの使い魔にも雛っているんですよね」
「いますね。飛ぶ練習を始めました」
「よかったら見せて貰えませんか。どんなのか興味があるんです」
「貴方は何にでも興味を示しますね」
足を投げ出して考え始めた。姉さん座りを期待してたんだけどなぁ。けれど、これがいつもの文さんだから、少し安心だ。せめて食事の時間は平穏であって欲しい。年上オーラの色気を撒き散らされていたら消化に悪そうだ。
とりあえず弁当箱を出そう。
「申し訳ないですが、諦めてください。雛に影響が出ないとも限りませんから。早い内に人へ慣れると後々厄介です。私も出来る限り、姿を見せないようにしているんですよ」
「はい、それなら仕方ないですね。どうしても、って訳でもありませんし」
”刷り込み”っていうんだっけ? 何か違うような。あれって親代わりになることだったはず。警戒心が薄れるってことかな。野生の動物を飼ったら戻せなくなった、って話はよく聞いた気がする。餌を取れなくなって、人間を頼るようになって。とにかく大変なんだなぁ。
「そしたら頂きましょうか」
「ええ」
雨もいいのかも知れない。静かだ。
厳かにおかずのトレードをする。これは何の儀式だろうか。静けさもあって、笑ったらいけない雰囲気だ。笑いたい。
妙な緊張感は耐えよう。我が人参のグラッセを半数差し出し、里芋の煮っ転がしを受け取る。煮崩れはしてないし、出汁が染みてて美味しい。文さんって料理上手なんだろうか。何百年も生きていれば、当然なのかも。
たまねぎのマリネは、枝豆の塩茹でに。塩梅は丁度いいし、歯触りもある。やっぱり上手だ。今度教えてもらおうかなー。二人で台所に並んで。いいなぁ。すごくいいなぁ。それで、いつの間にか距離が詰まり、肩を寄せ合って、ふと視線が合えば互いに目を離せなくなりそのまま私達は
「その」
そっと抱き合う瞳は潤み愛しい恋人の姿を映すだけ世界にはただ私達二人のみに
「鮭でしょうか? 鮎の煮付けと交換は如何ですか」
「あ、へ? あー、はい、もちろんです、どうぞ」
危ない。さっきまで心臓がフルマラソン状態だったのに、何を想像しているんだ私。
「鮭で合ってます。ソテーにしました。油で炒めた、でいいのかな」
神奈子様が愛情を込め、燻製にした時期外れの鮭だ。鉢巻まで巻いて燻す、広い背中は何処か頼もしい。そして頑固オヤジにしか見えない。すみません、でも頼もしいのは本当です。
交換は大体済んだみたいだ。あとは胡瓜の浅漬けとおにぎり。定番のから揚げ系は入れないように気をつけた。以前、この単語を口にした時、お説教を受けたのだ。感情を交えず、淡々と紡がれる鳥肉に関しての言葉。
曰く「川魚、鹿や猪に比べ、鳥は食材として扱うには身が少ない」
曰く「別途に確保できる我々ではなく、蛇や猛禽の餌になるべきである」
曰く「せめて目の前では食べないで」
平板な説明口調が怖かった。一時間くらい経ってから、やっと解放される。
椛さん達に愚痴ると、”文さんはそういうものだ”という連れないお言葉。鴉天狗も大変だ。
から揚げも美味しいんだけど、難しいなぁ。
***
河と一緒に流れる時間。
ぷかりぷかりと会話が浮かぶ。
雨が止む気配は見えない。梅雨の色彩が散りばめられた森の景色。ぼんやりと滲んだ水彩画だ。
目の前に雫が落ちる。ぽつりぽつりと落ち続ける。杉から静かに垂れている。メトロノームかも知れない。
これは何てことない日常なんだろう。私はこういう静けさも好きだ。喫茶店で何をするでもなく、コーヒーを飲むような過ごし方。てろてろの時間と言うのは、きっとこれなんだろう。
私はこの時間が好きだ。隣に恋人が居てくれるから。
そして私は、
「そう言えば、謝りたいことがあるんです」
「謝る? 何をですか」
この時間を壊す。
「少し前に、パジャマパーティーをしましたよね」
視線を向けてくれない。やっぱりこれだった。
「ええ、ありましたね」
日付の確認と、その返事。そんな声だ。けれども河に向いたままの横顔は、真っ白く塗り潰された。
表情を作るのが得意なんじゃないんですか。そんな調子だと、私にはばればれです。
「あの日、私は文さんにひどいことをしました」
「一体何でしょう。ネタになりますか」
おどけた声音。私が無理をさせてしまっているんだ。
「どうでしょうか。ただの恥ですよ」
「それは残念ですね。たまには貴方もネタになって欲しいものです」
無表情の横顔は、こっちを見てくれないままだ。
見て欲しいなんて言えないけれど。
「すみません」
「ネタにならない巫女が早苗なんだと分かっていますよ。それで謝るとは何ですか」
また重石が乗っかった。手足も縄で縛られた。喉を絞められ声が出ない。
それでも言わなければならない。ありったけの平静さを掻き集めてでも謝らなければ、これから私は恋人の振りをするだけになるだろう。
許してくれなんて言いません。ただ、これで貴方が哀しい思いをしなくて済むなら、嬉しいです。また我侭ですね、すみません。でも、どうか貴方の悩みを聞かせてください。
「私は眠っている文さんにキスをしました」
私は貴方の恋人でありたい。だから打ち明けてください。自分勝手なお願いです。
「ええ、そうでしたね」
そんな顔しないでください。私まで泣きそうになる。
「何で早苗は思い出させるのよ」
でも泣いたら駄目だ。この人がもう、
「折角、我慢してたのに」
泣いている。
***
――裏を取れないものは、記事にしませんよ。
いつもそう言ってるじゃないですか。ここで何故、それを枉げるのか分かりません。
私の胸で泣きじゃくる愛しい人。息が落ち着いてきたところで、理由を話してくれた。
涙と共に交わす口付けは離別の証だと、少女漫画で学んだ事。
喧嘩別れには心当たりがなく、どのような気持ちで口付けしたのか知りたくなり真似をした事。
それでも見当が付かず、ならば病気や何らかの原因による、免れ得ぬ死であろうと考えた事。
「だから、せめて早苗には、楽しいデートの思い出、持ってくれたらいいなって」
私の下らない自分勝手から出た勘違い。拍子抜けする程、単純な理由。
それを文さんは疑いもせず、走り続けてしまった。不思議だなぁ。”恋は盲目”って、こういう時に使うんだろうか。
雛さんは”臆病で優しい子”だって言うけれど、それは違うと思う。”勇敢で優しい人”だ。何せ、悩んで隈が出来るほど寝不足になって、あっちこっちに相談して、それでも最後には死別を受け入れる決心をしてくれたのだ。本当に勇敢で優しい人。
こんなに優しい人が、どうして私を好きになってくれたんだろう。いつも困らせるばかりなのに、何故優しくしてくれるのだろう。
こちらに越して来た当初からずっとそうだ。皮肉を言いながら、何度も様子を見にきてくれた。買出しでへばる私を手助けもしてくれた。泣き虫の私を見かける度に慰めてくれもした。挙句の果てには、文さんからの告白だ。
こんなに愛しい恋人を、私は嫌いになんてなれないだろう。
胸に収まり震える体。いつまでも抱き締めていたい。
「文さん、ありがとうございます。心配してくれたんですね」
締め付けられる胴が苦しい。これも縄なんだろう。
「私には病気も何もありませんよ」
「ほんと?」
顔は埋まったままで、声がくぐもってる。
かわいいなぁ。天狗だってこと絶対忘れてる。
「本当です。だから安心してください」
少し楽になった。流石に骨は折れないと思うけれど、やっぱり心配にもなる。
「文さんは怒っていいと思います。当然です。私が原因で悩ませたのに」
横に振られる首は弱々しい。むずがる幼稚園児みたいだ。
ひっつめ髪の大人っぽさが、どっかに消えてしまってる。もったいない。
「怒らないから、もうちょっと私を抱いてて」
「はい、好きなだけ抱いています。文さん、ごめんなさい」
「うん」
かわいいなぁ。
***
流れ流れて視界から消える木の葉達。
この河は何処へ辿り着くのだろう。眺める限りは、雨に煙る木立が続くだけ。その先は何処に行くのだろう。下った先には人里だ。それなら更に下った先は? やっぱり海へ出るんだろうか。それとも別の何かへ繋がっているんだろうか。
山の裏には彼岸があると聞いている。三途の川もあるのだ、とも。この河もその一部だったりするんだろうか。流石にそれはないか。それでも流れは、何となくだけど人生を考えさせる。
杉から滴り落ちる水滴。目の前にあるひっつめ髪が起き上がった。弱々しいけど、もう大丈夫そうだ。
「すみません、恥ずかしいところを見せましたね。私としたことが、情けない」
「かわいいから、どんどん見せてください。私にだけですけど」
やっぱり目が充血……してても、ちょっと分かり辛い。白目の境がぼやけてる。
柘榴みたいな瞳は得なんだろうか。難しい。
「私を独占するつもりですか。大胆ですね」
「私は自分勝手ですから」
かわいいなぁ。少し赤らんだ顔は、泣いたせいだけじゃないと思う。
「何であれ、私の勘違いだったと言うのなら安心しました」
これは迂闊に応えられないなぁ。繊細すぎる。
それでも訊かなければ駄目なんだろう。私は恋人でありたい。関係にしこりがあったなら、後悔し続けるはずだ。それはもう恋人じゃないと思う。ただの”ごっこ遊び”だ。そんなことをするくらいなら、私は恋人を辞める。私達、どちらも幸せにはなれないから。
そして少なくとも、文さんには幸せでいて欲しい。笑顔でいて欲しい。あんな今にも泣きそうな顔なんて、もう嫌だ。ほんと、我侭だと思う。でも聞いてください、文さん。
「そうですね。病気や、それ以外の何かは勘違いでした」
私は文さんをいじめている。落ち着いたばかりの人を、また抉る。そして、それを文さんも気付いたようだ。
どう見てもそうだろう。顔が能面になった。杉と雨の暗がりで、何処からも光を当てられていない無表情だ。
「文さんに訊ねたい疑問があるんです」
「何でしょうか」
おどけた調子は見当たらない。やっぱり余裕が無くなっているんだと思う。
さっきは妖艶なお姉さんだったけれど、今はもうおどおど怯える小動物だ。
「一週間ほど前に、パチュリーさんを訪ねましたよね」
「何故、貴方が知っているのかは置いておきましょう。その通りです。それがどうかしましたか」
固い口調だなぁ。取材の時だって、もっと柔らかいのに。
あれはちょっと違うか。丁寧にはするけれど、親しみ易くしたいとか言ってたっけ。
何だって、話が早いのはいいことだと思う。大切なことだから、回り道はしたくない。聞かせてください、文さん。
「何故、”捨虫の法”について訊いたんですか」
静寂が耳に痛い。雨も河も音を立てているのに、一帯を雪で覆われているみたいだ。
さっきの喫茶店みたいな静けさが、ちょっと懐かしい。三十分も経ってないと思うんだけどなー。
「簡単なことですよ。貴方が死ぬと考えたからです」
「私の寿命は遠い先です。簡単なことですよね」
私もつられているのかな。少し固いかも。
この人に、こんな言い方したくないのに。
「文さんは別れの決心をしてくれました。そして勘違いだったと知りました」
浴衣のアヤメは静かに咲いているままだ。やっぱり綺麗だなー。
「もう一度、決心してくれますか」
遠い先だと思ったけれど、結構近いのかも知れない。何せ恋人は妖怪だ。
「私には、寿命があります」
そんな顔しないでください。私まで泣きそうになる。泣いたら駄目だって分かってるけれど。
もし涙を我慢できなくなれば、二人とも話を続けられなくなるんだろう。そして曖昧になったままで終わる。それは恋人じゃなくなって、”ごっこ遊び”になるってことだ。私には耐えられない。
アヤメが揺れた。
「貴方は神なんでしょう。寿命など無いはずです」
「そう思うなら”捨虫の法”を調べませんよね。それに私は現人神ですから、まだ人間なんですよ」
やっぱり余裕が無くなっている。話は続いても、平行線を辿るだけだ。
私は神様になれる”かも知れない”。そして寿命は無くなる”かも知れない”。飽くまで可能性だ。
また、魔法使いになるつもりは無い。魔女っ子には憧れる。箒で空を飛びたいって思ったこともある。でも、夢は夢だ。女の子だった時もあるのになー。なかったっけ。うん、多分違う。
それに私は敬愛する二柱にお仕えするのだ。受けた恩はそれこそ山よりなんとかだし、そんなものは目じゃない程に尊敬している。お仕え出来ることが、光栄で誇らしい。それが風祝の私だ。これ以外の道は選びたくない。私は風祝として生きたい。
「貴方の存在が現世から消えるんですよ。病気でもない、怪我でもない、理不尽で無意味な死に方です。そんなの早苗だって避けたいでしょう。それなのに神格化なんていう不確実な方法にしか頼らないと言う。そして私を一人にして置いていくかも知れない。我侭ですよ」
怒ってるなー。口調は落ち着いてるけど、たまに油断してる時の言葉遣いになってる。
「はい、我侭です。決心してくれますか。受け入れるか、拒むかです」
「安心させておいて、もう一度? なかなか酷なことを言う。どれだけ私が悩んだって思ってるんですか。それに今回は時間が無かったから、私も諦めが何とか付いたんです。しかし今は違うんですよ」
握った拳が痛そうだ。関節が白くなってる。でも妖怪だから大丈夫なのかな? そうならいいけど。
「”捨虫の法”がある。妖怪になる手立てもある。私が鴉天狗の手解きをしてもいい。これなら貴方の一助になれるし、確実です。早苗は風に馴染みもあるから、請合える。それなのに何でその一本なんですか。納得できませんよ」
これだと先には進めないかなぁ。私もいじめすぎた。もうやめよう。
「天狗なんでしょう。何百年じゃ足りないほど生きてきたんでしょう。こんな別れなんて、幾らでも経験したはずです。恋人に限らず、友人や同僚の方々ともです」
「それは」
いつか文さんから聞かされた言葉。
――鴉は一度伴侶を決めたなら、一生を添い遂げるものなんです。
「今更それが嫌だなんて言うんですか。それに一度決心できたんでしょう。それでも無理だって言うんですか」
文さんはどうなのかな。伴侶はいたんだろうか。そう言えば聞いてなかったなー。でも初心だし、いなさそうだ。
気にすることでもないか。未来の誰かが考えることだ。私じゃない。
「それなら、こんな面倒な恋人なんて捨てればいいんです。簡単なことですよ」
恋人に、これを選択させるなんて、卑怯者だと思う。
だから私が選ぶ。そして文さんに幸せになって欲しい。
「私は傲慢で、我侭で、意地っ張りなんです。その上、人間です。鴉天狗ではありません。無茶な話だったんですよ。それから別れるには決定的な理由があります」
せめて、これくらいなら、私にだって出来る。
「私は、射命丸さんが嫌いになりました」
***
朝食を済ませる。
今度はお芝居じゃない、普段通りの朝だ。二柱には普通に御挨拶できた。お返事だって何事もない、平穏なもの。ご飯を噛んでいる間も、何も変わらない日常の顔だ。笑顔は浮かべられるし、会話も滞り無し。
何処かで、涙腺が詰まっているようだ。
食器をまとめ、流しへ運んだ。指は覚えている作業を、単調に繰り返していく。
タライに張った水へ浸ける度に、小指の傷を意識した。使い魔が付けてくれた嘴の跡だ。三日も掛ければ、もう治りかけている。それでも一生治らないんだろう。
洗濯物を洗う。ワンピースには、紅い跡。洗い流した。
洗濯物を干す。雲のない晴天。梅雨明けが近い。これならすぐに乾くはずだ。羨ましい。
箒を持ち、境内を掃いて行く。昨日の雨で、土埃は流されている。木の葉も点々と散らばるだけ。
掃き甲斐がない。何かしていなければ、思い出してしまうのに。
――最後に我侭を一つ、聞いてくれませんか。
――それなら未練も消せますね。いいでしょう。
冷たいものを、一つ。躊躇いも照れも無い、事務的なもの。柔らかいはずの感触は、石のように硬かった。
唇を何度なぞっても、全く思い出せなくなっている。未練は消えたのだろうか。
私は泣き虫だ。何かあれば、向こうを思い出して泣く。その度に、大きな翼が私の肩を抱いてくれた。
ここで生きていくと決心した日。向こうの思い出を忘れないとも考えた。泣き虫になる憎い原因として目を逸らすのではなく、大切にしていこうと決めたのだ。そして大切にするのは、ここで積み重ねる光景のことでもある。
阿求さんは強い。全てを忘れずにいるのだ。どんな思い出だろうと、抱えて生きている。
私も阿求さんのように強くなりたい。
けれど。もしかしたら。阿求さんが強いのは、恋人が傍にいるから? 悩みがあれば、何をしてでも手助けすると断言してくれる人がいるから?
違う。違って欲しい。大丈夫だ。阿求さんはこれまで何度も転生をした。それを全て生きてきたんだ。そもそも恋人に会う前は、思い出を一人で背負っていたんだ。芯の強い人だってよく分かる。躊躇わずに見習おう。
風?
鳥居の向こうに、あの風。どうしたんだろうか。
「おはようございます、東風谷さん」
大きな翼が畳まれていく。
「射命丸さん、おはようございます」
深く一礼。来客には大切なことだ。
「何か御用件でしょうか」
「御用件という程のものではありません」
それなら、わざわざ何をしにきたんだろう。
「取材ですか」
「いえ、貴方に少々文句がありまして」
そうか。終わったんだなぁ。やっと涙腺が働いてくれそうだ。気分が晴れそうで嬉しい。
ずっと泣き虫だった私は、少しだけ成長できた気がする。今だって、ぎりぎりだけど耐えられているから。
「一晩たてば頭も冷えると言うものです。色々と出てきましたよ。このままでは腹の虫が収まりません」
きっと刷り込みだったんだろう。ここに来て、初めて会った妖怪がこの人だ。しかも泣いている私を慰めてくれた。懐くのも納得だ。巣立ちが出来たなら嬉しい。でも、やだなぁ。お母さんなんかじゃなかったはずだ。一つのキスで、私の顔が見っともない程になるんだから。
考えたら駄目だ。私が駄目になる。
「まずは浴衣です。お陰で無駄に新聞の空きを潰す事になりました。詰まらない只働きですよ」
「申し訳なく存じます。後程、改めて償いを致します」
掃除が済んだら部屋に戻ろう。そしてワニを抱き締めさせてもらおう。哀しい時も傍に居てくれる、大切な友人達だ。きっと一日中、布団に潜っているんだろう。そして私は、生きていけるようになると思う。
「償いなぞいりません。重要なのは誇りですよ。鴉天狗たる私をこけにしましたね。無様な醜態を晒させるとは」
「すみません。口外は致しませんので、お許しください」
怒ってるなー。当然だろうけれど。落ち着いた口調な上に、声音に感情が何もない。
私もこんな風に、哀しさとかを殺せればいいなぁ。
「口外? 誰か一人に見られただけで、十分です。出来る事なら記憶を消して欲しいところですよ」
「どうか、ご勘弁願います。取るに足らぬ人間の身には、まま為らぬことも多々ございますので」
私はどうなんだろうか。覚えていたい? 忘れたい? やっぱり覚えていたい。とても楽しかったから。
阿求さんのように強くなろう。この人と作った思い出だけで、きっと生きていける。
「まぁいいでしょう。詰まるところ貴方は傲慢で、我侭で、意地っ張りなんです。その通りだ。年端も行かぬ少女だと改めて痛感しましたよ」
「仰る通りです。返す言葉もございません」
成長できたと思ったけれど、限界はある。下げる頭と一緒に涙も落とさないだろうか。
うん、まだ平気だ。頬は乾いてる。早く終わらないかなー。
「私を見下げ、愚弄し、諦めたのですよ。誇りある鴉天狗の、この私を。たかが人間の癖に」
「はい、非礼の数々、申し訳なく存じます」
二柱に見つからないといいけれど。今の状況に鉢合わせしたなら、どうなるか分からない。
私はこの人に幸せになって欲しいのだ。危険な目には合わせられない。
「全くもって、面倒極まりない」
何だろう。声が潤んだ?
「私ともあろうものが」
そんな顔しないでください。
「何故こんな人間の小娘なんかに」
私まで泣きそうになる。
「私は、早苗が好きなのよ」
***
”第二次諏訪大戦”が、一週間ぶりに勃発した。
障子で四角く切り取られた景色。朝日に照らされる境内を居間から眺める。
御柱と翡翠の玉、藤の蔓と鉄の輪。様々な物が飛び交う戦場だ。激しいなぁ。
火種は単純なこと。諏訪子様が里芋の煮っ転がしを強奪したのだ。
”美味しい”と、お喜びになるのはありがたい。けれども、こうなると少し複雑。
「いただきました」
ご飯美味しかったなー。我ながら、なかなかの出来栄えだ。感謝しないと。
さて、どうしよう。食器はまとめて洗いたいけど、二柱はまだまだ続けるみたいだ。先に他の事を済ませよう。
洗濯物を洗う。特に際立った汚れ物はなし。楽に済ませられた。
洗濯物を干す。雲のない晴天。梅雨明けが近い。これならすぐに乾くはずだ。気持ちがいい。
箒を持ち、境内を掃いて行く。裏手では喧騒が続いている。頑張るなぁ。
私もあんな風に喧嘩をしたい。”歴史は繰り返す”のだ。とても幸せなことだと思う。
風。
鳥居の向こうに降り立つ人影。
「早苗、おはようございます」
大きな翼が畳まれていく。
「文さん、おはようございます」
箒を片手に、歩み寄る。
「何か御用件でしょうか」
「御用件という程のものではありません」
ちょっとした冗談だ。
「取材ですか」
「いえ、貴方に挨拶をしようと思いまして」
「挨拶なら、今しましたよね」
私は何も分からない振りをする。
「そうですね。とりあえず目を瞑ってください」
「よく分かりませんが、分かりました」
ここまではいつも通り。今日はどうだろう。また逃げるのかなぁ。
石畳を軽めに叩く何かの音。一つ、二つ、三つ。まぶたを透かす、朝日が消える。
小さく聞こえる深呼吸。一つ、二つ、三つ。肩に二つの柔らかな重み。引き寄せられて
一つ
びっくりした。
「それでは用事がありますので」
「用事って文さん待っ
風。
空に舞う羽根が一本。抜けるような青空と、朝日に混ざる黒は幻想的だ。
逃げられた。まだ私から挨拶してなかったのに。やっぱり照れ屋さんだなー。
でも、嬉しいなぁ。頬に感触が残ってる。文さんから初めて受けた挨拶。
唇は遠そうだけど、今の私達には十分だ。
時期が来るまで待ってますよ、文さん。
プロポーズは、絶対に私の役目です。
作者氏の書かれるさなあや大好きです。
終盤が難しくて自分の頭ではついていけませんでした。
そして勘違い文ちゃんかわいい。早苗さんは無事神格化すればいいと思うよ
この二人にはぜひともずっと幸せに暮らして欲しいです。目指せ神格化!