――ジサツしたことのある子って、もう幸せになれないって本当ですか?
幻覚幻聴の快楽残響、電子中毒の幸福主義者達ばかり彷徨うこんな世界で生きるのはもう嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌イヤイヤイヤイヤイヤなの!
幸せを謳歌する人々の心を象徴する世界の中心で、わたしはその行く末を見下ろしていた。
きゃはははははと騒ぎながら腕を組んで歩くカップル。千鳥足で愚痴を零すサラリーマンの群れ。ビラを持つ手を機械的に出し入れするバイトの学生達。
きらきらと眩いネオンに彩られた高層ビル群が立ち並ぶ夜景の遥か彼方、人々の欲望がDNAのように渦巻く歓楽街『新宿』は今日も眠らない。
漠然と浮かぶ不安だけが目の前に突き付けられた現実を、その場限りの幸せと言う最も分かり易い処世術を以って、彼ら彼女らは一晩限りの真夏の夜の夢を過ごす。
あたかもこの世の中は楽しいと勘違いしてる人達は、こんな感じで目の前にある不安や恐怖から逃れようとする。臭いモノにはフタをして、見えないようにしてしまう。
遠い地で地雷を踏んで命を落とす子供、貧困による飢餓で苦しんでいる難民、抗癌剤の副作用で狂い叫ぶ末期患者――知らないもの感じないものはなかったこと、彼らは無意識に世界の惨状から目を背けてる。
そんな選民思想の持ち主が跳梁跋扈するこの街に、幸せが許されない運命を授けられた私達の気持ちが分かる人は如何程存在するのかな。
雑居テナントの腐臭を巻き込んだ気だるい風が頬を撫でる感触は、嗚咽が漏れそうなくらい気持ち悪い。
うわんうわんと輻輳する雑踏と喧騒に耳を塞いで、ビル屋上の錆付いたフェンスを乗り越えて地上を見据えた。
眼下に広がるモザイク状のコンクリートの上には、虫けらのような人々が歓楽街特有の浮かれた雰囲気を満喫しながら路地を闊歩している。
これからあの幸せの輪に放り込まれるぐちゃぐちゃになったわたしの死体のことを思うと、自然と下卑た笑みが零れ出す。
地上25階立てのビルから飛び降りて、あちこちから臓器がはみ出して折れた骨が筋肉を貫いてむき出しになった身元不明の遺体は、貴方達の生を高らかに祝福するの。
そしてやさしく微笑みながらどろどろの脳みそが流れ出た頭蓋を指差して「天国も地獄も、想いの全てが此処にある。貴女の頭も割って開いて見せてあげようか?」って恋人気分で伝えてあげるわ。
――飛び降りジサツは絶対に交わることのない平行から、垂直落下の無重力世界へ旅立つ行為を示す。
死とは一体どのような事実を指すのかつまらない学者様がご高説を垂れ流すけれど、それは結局のところ死んだ者達しか分からない。
それは当たり前過ぎる、どんな頭の悪い子供でも理解できる理由。だって私達生きている人間は、死を体験することができないんだよ。
そして死者は何も語らない。その先に辿り着く世界は天国や地獄なのか、それとも違う名も無き世界、はたまた『無』や輪廻転生、その類。正解は神様しか知らない。
所詮生きているものは死を想像することしかできないし、正直そんな答え自体に興味なんてない。ただわたしはこの世界から消えたくて、宇佐見蓮子と言う存在そのものを消し去りたいだけ。
そう、つまり意識さえなくなってしまえば、何も感じなくて済む。幸せ、悲しみ、苦しみ、あらゆる思考の束から解放される唯一の術――ジサツは全ての存在に許されるべき当然の権利だ。
それなのに現代社会は死を見捨てたところに存在する、死をタブー視する世界。死にたいと想う気持ちは絶対的な負の感情として扱われて、時には病気として基地外のレッテル張りをされてしまう。
常識なんてくだらない教義を狂ったように信じきった人達、幸せに目が眩んで不幸が見えない人達は、自分が理解できないものを『それは間違ってる、頭がおかしい』と容赦無く否定及び拒絶する。
何がどうして正しいかなんて、誰にも分からないのに。貴女の瞳に映る世界が善と信じて他人に押し付けること自体が図々しく傲慢であると、この世界に生きる人はちゃんと知るべきなんだよ。
だけど残念ながら社会には平等なんて存在しなくて、少数の意見は大多数に飲み込まれてもみ消される。大多数の幸せのために犠牲になった私達の苦痛を彼らは『感じない』んだから。
こんな世界で生きることを拒むためのジサツの何処がおかしいのかな。たった6日間で創造された世界は欠陥だらけの青林檎。さよなら。さよなら。さよならしたいんだよ。たった、それだけなの――
もしも過去に戻ることができたら、わたしは真っ先に自分の両親を殺す。
子は親を選ぶことができないと言う真実を呪うのは当然の帰結。人は誰しも幸せになれる――そう世界が作られていないにも関わらず、お互いの快楽の残滓である子供を産むなんて愚かにも程がある。
親って身勝手な生き物は、子が生まれてきたことがどれほど不幸か、産んだ者がどれだけ罪深い存在であるか全く以って自覚していない。結果論以前に少なくともわたしは、生を望んですらいなかった。
生まれてきた赤ん坊が泣いているのは、決して生を授かった喜びを祝福してるわけじゃない。この世界に産まれ堕ちてしまった絶望や悲しみ、自らの生に対する呪いや親への憎しみを悔やんで泣き叫ぶ。
その事実を履き違えて祝福と勘違いさせるしつけから親の罪は始まり、ろくに償いもせず無責任に放置した挙句、幸せは己が掴むものだなんて無自覚な暴論を振りかざして責任逃れを謀ろうとする。
大多数の幸せの背後には、不幸を背負った人間の死体が数えきれないほど横たわっている現実を彼らは知らない。そもそも存在それ自体が『存在』しなければ、何も起こらない。幸せとか不幸とか、そんな感情の一切は発生しないんだから。
この世界は残酷だと、生まれた時から赤子は知っている。ただ都合の悪いことは見えないように、必要ないものには極力触れさせず、人の幸せを踏み躙り幸せになりなさいと、親に教えられて育って行くだけのお話なんだよね。
そうやって虐待、家庭的境遇、クラス内のいじめ、全ての環境等々を総合した不幸の可能性を歪曲させることで、無意識下で知覚した世界の不条理さをひた隠しにして、あたかもこの世界は幸せであると言う偽りを蔓延させている。
絶望は旋律。
偽られる言葉。
食い散らかされた心。
抗う手段は見当たらず、わたしは今此処でジサツすることを選ぶ。
要するにたったそれだけ。何もかもどうでもいい。みんな死ねばいいんだよ。
キャスターが悲痛な面持ちの仮面を被って、ゆったりと言葉を紡ぐ。
7/20日未明、連休で盛り上がる新宿の高層ビルから高校三年生の女子が飛び降り自殺を図りました。
本人のものと思われる遺書には『天国は頭の中にある』『ふと空を見上げると、アンドロメダが見えた。此処が地獄だと言うことがちゃんと分かった』等々不可解な文章が残されています。
司法解剖の結果――少女は当日大量の抗精神薬を服用していたことから、当局は事故に至るまでの過程で少女の周りで異変がなかったかどうか、家族や関係者に事情を聴取している模様です云々。
そして何処か近所のおばさんが「あの子はやさしくていい子でした」とか、居もしない友達がわざとらしくショックな顔して「悲しいです、蓮子が死ぬなんて」なんて言いながら内心でほくそ笑んで見せるに違いない。
悲しいね、可哀想だったね、苦しかったね、痛かったねとか、上っ面だけで本当は何ひとつ感じてないくせに。そんな演出紛いでお涙頂戴。笑っちゃうくらい阿呆らしくてくだらないし馬鹿馬鹿しい。
自分以外の人に関わるのは面倒事だから、見ない、感じない、どうでもいい。無意識のうちに人を傷付けて得ている幸せだって事実すら知らず『愛のために生きることが幸せ』なんて他愛もない幸福論でのうのうと生きてる。
そんな不感症が生きるための処世術として必須となった世界は、誰かひとり欠けたところで何事もなかったかのようにちゃんと回り続けるからクソったれだ。夢も希望も救いもない、エンディングの虚しい御伽噺なんてわたしは見たくもない。
「こんなクソみたいな世界、消えてなくなればいいのに」
そう精一杯の皮肉を吐き捨てたところで、神様は何も知らない素振りを決め込んだ上の空。きゃははははははと旧都の喧騒だけがビルの屋上にこだまする。
鮮明な意識から逃れたくて思わず飲み込んだメジャートランキライザーやらごちゃ混ぜの抗不安薬のせいか、ゆらゆらと気だるい倦怠感でふらつく身体は夢遊病患者みたい。
ごうごうと吹き荒ぶ風で帽子が飛ばされないようにしっかりと抑えながら、漆黒の闇夜と眼下でうじゃうじゃと蠢く虫けらを背にフェンスの外側に掴まった。
誰もいない屋上の向こう側に煌く極彩色のネオンがぼんやりと霞んで見える。歓楽街を練り歩く人々が早く飛び降りろと騒がしくて、頭の中をかきむしるような感情と苛々が止まらない。
その中で一際大きな罵声を浴びせているのは他ならぬ宇佐見蓮子自身――わたしはわたしにジサツを要求する。わたしはわたしにクズだと言い聞かせる。わたしはわたしにゴミだと自分自身を罵り続ける。
ワタシハ虫ケラ以下デ、誰モ分カッテクレナクテ――踏ミ潰サレテ、死ンデモイイ。
コンナ世界デ生キルノハモウ嫌ダ嫌ダ嫌イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ頭ノ中で誰カ囁クノ。
オマエハ死ネオマエハ死ネオマエハ死ネオマエハ死ネオマエハ死ネオマエハ死ネオマエハ死ネオマエハ死ネオマエハ死ネオマエハ死ネオマエハ死ネ。
ウサミレンコニ生キル価値ハナイ。ウサミレンコは穢レタ薄汚イゲロ以下ノウジ虫。ウサミレンコハ誰カラモ愛サレナイ。ウサミレンコハ犯サレルコトニ快感ヲ覚エル淫ラナラヴドール。
ウルサイオマエガ死ネ。ワタシハワタシダオマエガ死ネ。言ワレナクテモワタシハ死ヌ。今カラジサツスル。ココカラ飛ビ降リテ死ンデヤル。オマエモ一緒ニ道連レダ。ザマアミロ腐レビッ血ウサミレンコサッサト死ネ。
前頭葉から発生したノイズが海馬で回転しながら脊髄に直で進入してきて、思考回路で心の言葉を反芻する。
やかましい幻聴に苛まれ始めたのは何時頃からだったかな……よく覚えていないけれど、どうせわたしはわたしでわたしでしかない。
クスリを入れると何かと合理的に合理的に頭で考えようとするから、脳内がパンク状態になって意味不明な言葉の数々がぐるぐると回り始める。
例えば神様がいたとして、心が死んで、眼が死んで、身体が穢れた、何をやっていても苦しみでしかない人生を貴女はどうしろって言うのかしら。
命って単語は命令形。つまり『生きろ』と命じている。幸せに、生きよ。そんな命題を課して神様は人間を創造したのに、その人間達が営み育んだ世界はこんな残酷な地獄に成り代わった。
神は死んだと誰かが言った。その瞬間に人間を創り出したと言う原罪が人間そのものに――つまり私達を縛る枷となって、こうしてわたしはわたしの首を真綿で絞め続けてる。何とも滑稽な話だと思わず苦笑いしてしまう。
結局誰が悪いのか。それは人間だ。それはわたしだ。この世界は器に過ぎなくて、満たしているのも人間だ。その器の一滴もわたしだ。空を見上げた時に感じる、この虚無感はその向こう側にあるものが幸せだと本能が知ってるから。
――だから、空に還る。
あの空は単なる世界の『限界』に過ぎなくて、幾億の星々が爛々と輝く夜空の先には誰も知らない名も無き世界が広がっている。
恵みの雨が降りしきる空の下、わたしは其処でただ咲き誇る一輪の花になりたい。何処までも続く地平線の遥か遥か遥か彼方まで広がる丘の上、宇佐見蓮子の墓標に手向けられた薔薇はわたしと壊れた『わたし』の終わりを告げる。
今から始まるジサツは、この残酷な世界から逃げ出すための儀式。ビルから飛び降りてぐちゃぐちゃばらばらになったわたしの死体は鮮やかな朱色に染まって、見る者全てに畏怖すべき恐怖と忌まわしき呪いを与えるだろう。
そして肉体を失って全ての原罪から開放された身体は再構築された後、透き通る夜空をすり抜けて世界の限界を超える。その見果てぬ地のサイハテで咲いている美しい幻想の花は、ただ、蒼い風に、ゆらりゆらりと揺れて永遠に――
ソラニカエロウ。
ソラニカエロウ。 ソラニカエロウ。
ソラニカエロウ。 ソラニカエロウ。 ソラニカエロウ。
ソラニカエロウ。ソラニカエロウ。 ソラニカエロウ。 ソラニカエロウ。
ソラニカエロウ。 ソラニカエロウ。 ソラニカエロウ。 ソラニカエロウ。 ソラニカエロウ。
サッサトシネクズ。ワタシノイバショハココニハナイ。ワタシノカエルソラヘブンヘルフエルヘブンバイバイサヨナラセカイ。
「きゃはっ、きゃはは、あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
そっとフェンスに掛けた手を離すと、ふわり全身が宇宙の風に浮かぶ。
透き通った世界の限界に寄り添う無重力の遊泳は、あの時からずっと憧れていた漆黒の空に全てが溶けていく感じ。
ふわんと浮かんだ帽子はUFO。宵闇のブラックホールに吸い込まれる身体が、地球の引力で真っ逆さまに堕ちていく。
VTRのスローモーションみたいにゆらりゆらりと落下しながら、在りし日の記憶が幾度となくフラッシュバックを繰り返す。
物心付いた矢先、わたしの目の前で頭蓋を指差し「蓮子、地獄は此処にあるんだよ」と言って頭を銃で撃ちぬいた瞬間の母親の安らかな微笑み。
酒に溺れていたアル中の父に散々罵詈雑言を浴びせられて、ストレス解消とかしつけと称しては虐待を繰り返された挙句、欲望の赴くままに性的快楽の吐け口にされた日々。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい何でも言うこと聞きますごめんなさいパパごめんなさいごめんなさいごめんなさいイイコニナリマスごめんなさいごめんなさいごめんなさいパパごめんなさいごめんなさいわたしはパパのものですごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいわたしはパパの奴隷ですごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいパパの気持ちいいことならなんでもするからごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいやだいたいいたい許してよごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
砂と塵が月に照らされたモノクロの空に舞いながら流れる無思考ノイズはただの自己愛。
きっと生まれた時からわたしは壊れていたんだ。最初からばらばらばらばら殺人事件だったんだよ。
逃げ場を求めた学校では即仲間ハズレにされて、みんなの都合のいい勝手ないじめ対象に仕立て上げられた。
「蓮子はキモい」「近付くと呪われる」「根暗なんだよ死ね」罵詈雑言や暴力による肉体的・精神的苦痛なんて日常茶飯事。幾ら懇願しても、彼ら彼女らは絶対にいじめをやめなかった。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいわたしのせいですごめんなさいごめんなさいごめんなさいわたしが全部悪いんですごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいわたしはキモいですごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいわたしが全部やりますからごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
関係ない連中ひいては挙句の果てに教師までが厄介事には関わりたくないと知らん振りを貫く。
陰湿ないじめはエスカレートし続けて、体操着を隠されたり教科書が燃やされるなんてことすら当たり前の風景だった。
終いには唯一の趣味で救いの詩を綴っていた二冊のノートを片方盗まれて、もう一冊はその場で読み上げられてクラス全員の晒し者。
黒板に散々書き殴られたわたしのわたしだけのわたしのため『詩』は、みんなの格好の笑いものとしてひどい誹謗中傷を受けた後、その場でびりびりと音を立てて破り捨てられた。
桜のように舞い散った夢を見ながら、げらげらと笑い出すクラスの生徒達を他所に、わたしはわんわんと泣き叫ぶことしかできなくて――
「――あの空の果てにはきっと素敵な世界が待ってる。其処には想像を超えるような幻想の花が咲き誇るだってよそんなもんあるわけねーしこいつ電波入ってんの?」
「そりゃそうだよ宇佐見はロボットだしリモコンで動いてんだ。ほらダッチワイフとかって今よくできてんじゃん、あれみたいな?」
「いや違うだろ頭の中にお花畑が咲いてんだろ? 蓮子の場合は蓮でもないよな、タンポポとか福寿草とかさ、どっちにしろ枯れてんだろ、ブスだしキモいし臭せえんだよ」
「やめなよ蓮子かわいそうじゃん、蓮子はね『わたしは世界を愛しています』とかマジ思っちゃってるんだから。チョー勘違い系で自分のこと天使だと思っててさ、始めての場所でも此処が何処で時計なくても何時何分か分かるらしいよ」
「ぎゃはははははははははははは! そんなの嘘に決まってんじゃんこいつどんだけ変な電波受信してんだよ」
「チョーおかしいよね、きゃははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
その時ようやくこの世界に救いがないことに気付いたわたしは――今みたいに校舎の屋上から飛び降りて、やっと事件になった。
カウンセリングとかわけの分からないものを受けさせられながら、保健室登校を繰り返す無駄な日常をだらだらと過ごして今に至る。
あの校舎は四階建てだったから高さが足りなくて入院で済んだけれど、あの時死んでいたらどれだけ楽だったかなと、その時からわたしはずっと神様を恨み続けた。
それにしても貴女は趣味が悪い。こんな最悪のエンドロールなんて誰も見たくないに決まってる。こんなにひどい人生だったんだから、最期くらいは素敵な夢を見させてくれてもいいと思うんだけど?
落ちていく星のメロディーが、優しく鼓膜を揺らす。
わたしは大きく手を広げて、この残酷な世界の全てと終わりの空を受け止めた。
星が降ってくるような美しい夜空。脳内と濁った空気が混ざって思考がぼんやりとしてくる間、何となく考えてみる――終わりのない螺旋階段を下りながら悲観的な未来を望んだのはわたしで、ずっと世界の終わりを待っていた。
『明日がやって来ませんように』なんて神様に泣きながらお願いしながら眠った日々、どうしようもない日常を繰り返す未来の遥か彼方でわたしは目が覚めたら頭がおかしくなって、空に還るなんて妄想を本気で信じてジサツできる瞬間を待ち望んでいた。
耳を澄ませば聞こえる星の声も、世界の向こう側で待っている希望の丘も、幻聴幻覚の類を見続ける自閉的なわたしも、全部わたしの書いた『詩』の世界のお話なのかもしれない。
全ての詩は後ろ向きな希望的観測の裏返しで、妄想大好きな吟遊詩人気取りのわたしに過ぎなくて。今これから死ぬとして、その先の世界もわたしの想像に過ぎないから、実際はどうなっているのかよく分からない。
だって死は体験できないもんね。きっと次に目が覚めたら、いつものように残酷な世界の始まりを告げる朝が待っている可能性だって勿論否定できないよ。
神様が世界を作る。人間と言う名の神様が世界を作る。出来損ないの世界を何度も何度も何度も作る。そうやって幾度となく永遠に繰り返して、ずっと果てしなくこの世界は続いていく。
それが物凄く気に入らないのに、幾ら足掻いても現実はこの通り。刹那的な幸福を時間的に引き伸ばして、これは有意義だと宣言するみたいな生き方は自分にはできない。ああ、結局のところ、わたしはそんな神様の作り出した欠陥品の玩具なんだよ。
月が笑う。わたしを見下すように笑う。
今此処は新宿歌舞伎町グリーンビル25階屋上から20フロアほど落ちた地点の空中。
オーバードーズした薬のせいでゆらゆらと定まらないはずの思考が、何故かやたらとはっきりとしてくる。
ふと、たった今飛び降りたはずの屋上に黒い人影が見えた。風になびく髪の毛を払いながら、わたしの落ちていく姿をじっと見守っている。
かの人物がどんな容姿なのか、宵闇のシルエットから窺い知ることは出来なかったけれど――ふいに、ちょうどくちびるの辺りだけがぱっくりと三日月色の白に曲がった。
笑っている。そう、笑っていた。月と並んでわたしを見下して、下卑た笑みを浮かべている。このジサツを待ち侘びていたかのように、あの人影はわたしのことを嘲笑っていた。
ああ、そっか。あれが神様と言う存在かしら。
せめて言葉を聞きたかった。詩を、星を、罪を、名前を、貴女について教えて欲しい。
どうやってこの世界を6日間なんて期間で作り上げたのか。どうして幸せは平等ではなく、世界は悲しみに満ちているのか。宇佐見蓮子と言う存在は、何故幸せになることができなかったのか。
もう結局そんなあれこれを訊ねたところで何の意味もない。貴女はこんな近くにいたのに、わたしを助けてくれなかった。所詮神様なんて路傍の石みたいな存在で、人間の生み出した妄想の産物だから。
ジサツを止めなかった点から考えると、神様はどうやら此処で死ねと仰っているらしい。この空中から戻ることができるんだったら今すぐ殺してやりたいけれど、それこそ天国とか地獄がない限りもう永遠に逢えないんだね。
それならもういいや。わたしは自分で作った『詩』の世界に想いを馳せよう。空に還ったその先で幻想の花として咲き誇る色鮮やかな未来――そんな想いを胸に秘めて、そっと都会の灰色にくすんだ空を見上げた。
――真紅に光り輝くアンタレス。
7月20日21時01分52秒、宇佐見蓮子は死んだ。
1.God bless you
――わたしはよくジサツする夢を見ます。
それは飛び降りが大半で、たまに刃物で刺される夢があるくらいでしょうか。
あの落下してる感覚は体験してるから何となく理解できるんですけど、その後の記憶と言えば大体真っ白なんですよね。
堕ちていく最中その自由落下から生命の意味を考えてみたり、噴出す鮮血から存在の意義を問うてみても答えは一向に浮かんで来ないのは何故なのかな?
死なんてものは所詮生命活動の停止を意味する記号に過ぎないことはご存知の通りですが、どうしてヒトはそれに無闇やたらとこだわるのかわたしには理解できません。
私達が普段考える『死』がタブー視される理由は所詮キリストなんて宗教の教えで定義されたものに過ぎず、この世界で生きている70億なんてバクテリアみたいな数の人間は、その盲目的とも取れる教義に囚われすぎているのだと思います。
命の存在そのものが希望であり絶望である。人々は死によってその両方を選択できると言う大切な真実からさり気なく目を背けているのです。そんな選択肢のひとつでしかないジサツを尊重しない現代の風潮に、わたしは疑問を抱かざるを得ません――
トゥルルルルルル、トゥルルルルルルル。トゥルルルルルル、トゥルルルルルルル。
ゆらゆらと眠りに落ちて意識喪失している至福の時間を、やかましい電子音がけたたましく鳴り響いて邪魔をし始めた。
枕に顔を埋めたまま無造作に手を伸ばして、ベッドの隣に置かれた小さな机の上をがさごそといい加減に物色する。
探し当てたインターフォンをゆっくりと耳元に当てると、はつらつとした声色でフロントマンが事務的な言葉を紡ぐ。
「おはようございます、長谷川様。チェックアウト30分前となりましたので、退室のご準備をお願い致します」
はいと適当に答えて、適当に受話器を投げ捨てる。
焦点が定まらない朦朧とした意識の中でふと視線を隣に移すと、一緒に寝ていたはずの男「長谷川」は忽然と姿を消していた。
その代わりにベッドの枕元には、お金が適当に投げ捨てられている。一万円札が3枚と五千円札が1枚、千円札が2枚に500円玉が1枚。
此処のラブホは一泊7500円だから、あの見知らぬ男にとってわたしの価値は3万円だと言うことらしい。
援助交際の相場がどのくらいなのかわたしは知らないし興味すらなかったけれど、まあこんなものかな。うん、大体正しいよ。だって零よりマシだと思わない?
中学校低学年までのわたしは無価値だった。売○が下衆で汚らわしい行為だと言われても否定するつもりはこれっぽっちもない。
幾らひどく無様で滅茶苦茶に犯されたとしても、宇佐見蓮子に『価値』が付くって事実が重要。つまるところ男に身体を売る意味なんて、たったそれだけのことに過ぎないんだよ。
ああ、それにしても出会い系は便利だね。身体売ります犯されたいですなんて書き込むだけで、欲望に目が眩んだ精子脳からメールが沢山送られて来て、それだけでわたしは必要とされてるって錯覚できる。
愛されたくて自分を売って、隙間を埋めたくて愛を売って。コンビニエンスな恋は何処までも安上がり、野蛮で煩悩に塗れた男に犯されることでわたしはわたしが此処で生きる意味を与えられているのだから。
時刻は9時30分。チェックアウトは10時ジャスト。これからの予定を考えるとちょうどいい頃合かな。
むせ返るような男の臭気が漂うベッドから抜け出して、バスルームで念入りに髪の毛と身体を洗い流す。
熱めに設定したシャワーから流れ出すお湯を浴びても、さっぱり目が覚める気配はない。眠りに就く前に飲んだ睡眠薬が、まだ大分身体の中に残ってるみたい。
そんなぼんやり混濁とした感覚のまま、あの夜に起こった出来事をわたしは何度も何度も反芻していた。
――7月20日21時01分52秒、宇佐見蓮子は死んだ。
わたしは新宿歌舞伎町グリーンビル25階屋上から飛び降りて間違いなく死んだはずだったのに……。
あの人影のいびつな笑いと月の嘲笑を一度に見て、もう此処は地上まで数メートルも存在しない地点まで到達してることだってちゃんと把握してた。
その直後、意識を失って……もう開くはずのない瞳が映し出した景色は、もう散々見飽きた新宿駅の喧騒ど真ん中。虫けら共がうじゃうじゃと這い回って帰宅の途に着く様は不快そのものでしかなかった。
わけが分からなくて飛び降りたビルまで戻ってみても、其処には何事もなかったかのように人々が闊歩している。みんなが幸せを謳歌する世界が続いていることに、憤りを通り越して諦観の境地が垣間見えた。
脳みそや臓器が飛び出してぐちゃぐちゃになって、血みどろで折れた骨をむき出しにして転がっているはずのわたしの死体はない。救急車は勿論警察なんているはずもないし、事故が起こった痕跡は一切残されていなかった。
確かにクスリを飲みすぎてオーバードーズしちゃってる場合、稀に記憶が飛ぶことはある。だけどあの時のわたしはちゃんと自意識が確定的に存在していた。飛び降りる数刻前の出来事だって、今も思い出せるくらい鮮明に覚えている。
もしもあの下卑た笑いを浮かべていた人影が本当に神様で、わたしを助けたとしたら――本当に余計なお世話、何処まで邪魔をすれば気が済むのだろうか。
そもそも、そんな可能性だって零に等しい。神様なんて所詮人間が作り出した信仰の産物に過ぎなくて、救いを求めるために崇めるためのイコンの対象でしかないんだから。
結局のところ結論は振り出しに戻る。わたしはクスリを飲みすぎて、いつものようにふらふらふらふらと街を幽霊のように彷徨った挙句、中学生の頃体験して以来ずっと憧れてた飛び降りジサツをする幻覚を見ていた。
勿論意識はちゃんとはっきりしていたし、ビルから飛び降りた実感は確かだったと思う。正直釈然としないけれど、今こうしてわたしは生きている。この残酷な世界で穢れて行くだけの宇佐見蓮子は、間違いなく生きている――
ふいに消えてしまっていた放課後はテレフォンワンコールで秘密のアルバイトをこなす日々。
さっとシャワーを済ませて身体を拭き終わったら、乱暴に脱ぎ散らされてくしゃくしゃになった服のシワを伸ばして身に付ける。
会う前はあれだけ「蓮子ちゃん可愛いね」「好きだよ」「世界で一番愛しているよ」とか胡散臭い台詞を繰り返しておきながら、いざ事が始まると欲望むき出しで必死こいて腰振って満足したら使い捨て便○はいさよなら。
昔から父親と言う最悪な生き物を見てきたせいもあるけれど、出会い系で実際寝た男は大体こんなもの。ヤりたくなったらお金をちらつかせて、お前が必要なんだとかばればれの嘘で騙そうとするから嫌い。
汚い。不潔。汚らわしい。うざい。キモいんだよ。貴方達が必要としているのは、渇望を満たしてくれる都合のいい女の子――彼らはわたしを、宇佐見蓮子を本当に必要としてくれているわけじゃない。
それでもいいよ。必要とされてるってニセモノの想いで生きる理由ができるのならば、別にそれでも構わない。大人になる、それは汚れることでしかなくて、わたしは『普通』になることも虫けらになることすらも叶わなかったってだけのお話だから。
ベッドに散らかされたお金を財布に収めてから、エルメスのバッグを抱えて部屋を後にした。
おもむろにポケットに入った蒼い試験管を取り出して、中に詰め込まれた錠剤を適当な数口内に流し込む。
クスリの名前はデパス。一般に抗不安薬と呼ばれる薬で「気分をリラックスさせるお薬です。不安や緊張感をやわらげたり、寝つきをよくします」なんて処方箋には書いてあるけど、とどのつまりお菓子みたいなもの。
糖衣錠で甘いキャンディみたいだし軽い筋弛緩効果もあるから、普段から恒常的に服用しているわたしのお気に入り。
プラケースのままだと味気ないから、こうしてピルケース代わりに試験管に入れてあげるだけでも、ちょっとお洒落な感じに見えるから素敵。
投与は1day/3mgまで決まっているけれど、そんなことはどうでもいい。ぺろぺろと舌の上でデパスを舐めしゃぶりながら、フロントで料金を支払って街中に繰り出した。
◆ ◆ ◆
うだるような炎天下の中、人ごみをかきわけながら新宿駅の構内を歩く。
うじゃうじゃと虫けらが生を謳歌する様は見ているだけで超不愉快。幾ら耳を塞いでも、うわんうわんと収束する蛆虫共の声が鼓膜に響き渡る。
iPodのヴォリュームを最大限に上げて必死に耐えようとしても歌詞が何かおかしくて「腐乱した君の死体。悲しい目をして、笑う声も、全て死んでしまえたら楽なのに蓮子ハマダイキテイルキエロ蓮子死ネ蓮子ウザイ蓮子クサイ蓮子ブサイク蓮子デヴ蓮子ビッチ尻軽オンナ蓮子xEx中毒蓮子ヤク中蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ」
喧騒の真っ只中、わたしの存在なんて感じないと言わんばかりに目を合わせることもなく「蓮子死ね」と囁いて行き交う人々の群れ。幻聴の類がひどく圧し掛かる心は破裂しそうだった。
そうやってみんなわたしのことを罵り嘲け笑うけれど、其処まで死んで欲しいんだったら包丁でも突き刺して殺せばいいのに……結局人間も神様も、ただわたしがこうして苦しんでいるのを見て楽しんでいるだけなんだよね。
そんなゴミクズらしいやり方をするんなら、わたしはわたしで好き勝手にやらせて貰う。妄想とリアルがごちゃ混ぜになった世界と折り合いを付けながら、地面を這いつくばって惨めで無様上等、血塗れになっても生きてみせる。
神様が与えた命によってわたしは壊れて、そして命によって救われた。この心臓の鼓動を感じて生の実感を抱く瞬間、命が尽きるその刹那こそが唯一の希望だから。
ちかちかと定まらない視点。幻覚のような症状も現れてきて、悪口を言う人々の群れに黒い影や屍の類が見え始める。
スプラッタ映画に登場するようなゾンビが徘徊する改札を抜けても「蓮子死ね」とか言う幻聴はさっぱり収まる気配がない。
蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ。
うるさいうるさいうるさいお前らが死ネお前らが死ネばわたしが楽になれるんだ蓮子死ネお前らが死ネうるさい黙れ虫けらわたしに話しかけるな蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!
とりあえず人気のない場所へ逃げ込もうと、近場のトイレに身を潜めた。
がちゃがちゃと鍵が掛かっていることを何度も何度も確認してから、iPodから流れる音楽をロックからサイケデリックトランスに変更する。
違法ドラッグを使う時に聴くと漏れなく『トベる』素敵なダンスミュージックを愉しみながら、再び蒼い試験管からデパスを口の中に放り込む。
そのまま直接噛み砕いてやると――ようやく人々の声が少し遠のいて行く感じがしてきた。ゆらりゆらりと心地良いトリップ感の後は決まって切りたくなるのはお約束。
バッグの中から取り出した小さなケースの三桁の数字を組み合わせる鍵をかちゃり合わせてやると、きらりと照明の光を受けて反射する銀色の刃が現れた。
この執刀用メスは裏サイトの掲示板で入手したもので、お値段も高かった分すっぱり切れるので愛用している。
ゆっくりとワイシャツの袖をめくり上げて、無数の傷が並ぶ左手の一番上、肘と手首の中間位にそっと刃先を当てた。
――メスの刃に鏡のように映し出されたわたしは、まるでこの世界のわたしのようにつまらない顔をしている。
不思議の国のアリスは鏡に映る世界がとても美しいと思えたそうだけど、わたしはわたしで宇佐見蓮子でしかなくて、宇佐見蓮子をやめることなんてできなくて。
その鏡の中に見えるドアを開いた先――つまり世界の延長だって、どうしようもない悲しみに包まれた絶望の丘が待っているだけなのかもしれないね。
始めてリスカした時のことを思い出す。
こうして鏡に映る自分を見据えながら、怖いから最初はママ譲りの茶髪を切ってみたの。
ずっと伸ばしてたお気に入りのロングヘアーは、あっさりとばらばらばらばら舞い散ってしまった。
その様子は鏡の向こうの世界も変わらなくて、此処も『鏡の中の』世界も何も変わらないと確信したわたしは、そのまま手首にゆっくりとカミソリを当てた。
恐る恐る力を入れると、じんわりと血がにじみ出す。真っ赤な血は何故かオレンジ色に見えて、後から遅れて伝わって来る鈍い痛みがたまらなく心地良かった。
痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いよ。肌にめり込んだ部分はとても痛々しいのに、突き立てた刃から伝う痛みは不思議とわたしの心に安らぎを与えてくれる。
両親も友達も教師も誰も教えてくれなかった感情。そんなうっとり笑みを浮かべてしまうような快楽にのめり込んだわたしのリストカット回数は段々と増えて、もう左腕は人に見せられないほど傷痕だらけになった。
その深さも頻度もひどい具合にエスカレートし続けて『やばい』なんて実感があるのに、やめようと決心してもすぐまた繰り返してしまう。ああ、この鈍い痛みが、ゆらゆら、ゆらゆら、どうして気持ちいいのかな?
ある日何となく見てた画像掲示板に貼り付けられたリストカット写真。
それは今此処でこの世界で、わたしが生きていることの証明だから――その手首を切った子はそんな説明を付け加えていたけれど、今のわたしには彼女の心境が痛いほどよく理解できる。
残酷な現実を目の当たりにして、抗うこともできず心は仮死状態のまま。その心臓の鼓動を確かめるために行うリストカットの痛みは身体が生きたいと叫んでるみたいで、心の言葉を代弁してくれてる気がした。
ゆらゆらと零れ落ちる血液をぼんやりと眺めて、その生温かい温度を感じているだけでほっとするの。心の底から安心できる。わたしのような生を否定され続けてきた存在は、こんな方法でしか自分の命を確かめられない。
物心付いた頃から、ずっと誰もわたしを愛してくれなかった。
愛と言う感情を知らずに育ったわたしの身体は、こうして自分で自分を傷付けることでしか『愛』や『ぬくもり』を感じられない。
そうやって手首を切ることでしか生きてるって認識が不可能なのに、その認知及び行為自体が異常で病的だと彼らや世間一般の人々は勝手に決め付ける。
自己愛性人格障害と境界性人格障害及び統合失調症の併発。そう精神科医はわたしのことを診断するけれど、両親や学校、そして社会、そうしたわたしを取り巻く世界がその原因を作り出したことは確定的な事実にも関わらず、みんな絶対その非を認めようとしない。
ああだこうだと他人に責任の擦り付け合いはまるで政治家やコメンテーターの十八番みたいでうんざり。最後結局は全ての責任をわたしに押し付けて、無理矢理クスリを飲ませて自傷をやめさせようとするからタチが悪い。
どうせ腕を切り落とすまで深々とメスを入れたところで「蓮子死ね」ってにやにやと下衆な笑いを浮かべながら、もがき苦しみ叫ぶわたしのことなんて本当はどうでもいいと思ってるくせにさ。
上辺だけで悲しいフリ哀れむフリ共感するフリ同情するフリをする善人気取りの調子良すぎる馬鹿共は死ねばいいんだよ――
メスを乗せた人差し指にちょっと力を入れてやると、すうっと皮膚にめり込んで血がにじみ出す。
ヴァイオリンの弓を弾くように刃先を動かしてやるだけで、白い腕に綺麗な赤い線の出来上がり。
皮膚近くに集中しているらしい痛覚から伝わる鈍い感触が、幻覚幻聴妄想の類からわたしを救ってくれる。
この世界は夢や幻ではなく、わたしの良く見知った呆れるくらいに残酷な世界。不感症で自分勝手な人々だけが幸せを謳歌する世界。
心臓は止まることなく血液を絶えず供給し続けながら全身に行き渡らせて、溢れ出す鮮血は宇佐見蓮子が間違いなく生きているとはっきり証明してくれた。
じんわりと浮かぶ赤い涙は、わたしが大人になって穢れているなんて事実を分かりやすく示している。こうして自分の身体を傷付けることでしか、わたしは生を実感することができない。
狂っているとかキチガイだとか言いたい人は幾らでも罵ればいいよ。リストカットと言う行為で傷付くわたしにこそ価値があって、それを他人からとやかく言われる筋合いは何処にもない。
何がどうして正しいかなんて、誰にも証明できないんだから。精神科医がわたしを病気だと判断して閉鎖病棟に放り込んだところで、そのジャッジは果たして正しいのかと問われたら勿論答えはNoだ。
常識とか言う狂言に囚われた成れの果てに、わたしの気持ちを分かって貰おうなんてこれっぽっちも思わない。わたしがわたしを愛してやらないと、誰が一体宇佐見蓮子と言う哀れな子羊を愛してあげられるのかなあ?
どす黒い鮮血がワイシャツに滴り落ちると、赤い雫が水辺に円を描く波紋のように広がって白い生地を美しく染め上げる。
もっと深く切りたい衝動が心をかきむしるけれど、これから外出先に行って大々的にやらかしたことがばれると厄介なのでやめておく。
派手にやれば、出血多量でいずれ死ねるかもしれない――そんな淡い期待を抱いていた時期はとっくに過ぎ去ってしまった。結局のところリストカットは精神安定剤のようなものだから。
死にたい死にたいわたしは死にたいんだとか喚き叫んで手首を切ってみても、何故か本能は生を実感していることに気付いて。ああ、別に死ぬ気もあんまりないんだなって笑って。
ただ結局生きてるって事実だけが其処に残る。それが当たり前のように黄昏て笑う。涙を流していれば悲しいの。血を流していれば痛々しいの。汚れてたら生きてるの。
ホント馬鹿みたいな話。嘘つきは死ねばいいのに。ジサツなんて出来もしないなら、黙ればいいのに。ただ鮮血に染まる世界で耽る空言妄想の類は、このゴミみたいな現実を忘れさせてくれる。
たったそれだけのことに過ぎない。今日帰ったら家でやればいいやと思って、傷口にガーゼを貼り付けて止血。医療用のテープで固定してからそっと袖を下ろした。
サイケデリックな音楽でラリった身体をゆらゆらと揺らしながら、幻聴に耳を傾けたままトイレから抜け出してホームの方向へ歩き出す。
相変わらず視点がぼんやりとした状態で、夢遊病患者のようにゆらゆらゆらゆらと新宿駅構内を彷徨う。
道行く虫けらに身体がぶつかるけれどお構いなし。文句を言ってくる奴らは「蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ」と口々に連呼していた。
常日頃リストカットを繰り返して慢性的に貧血気味なわたしはただでさえ立ちくらみが多いのに、クスリなんてやらなくてもこんな人ゴミの中にいてむせ返るような臭気を帯びた熱を浴びていたら常時ふらつくに決まってる。
トランス状態の脳髄に割り込んでくる人々の喧騒。普通の人間に混じって行進する黒い影と屍ゾンビの類は幻覚だと分かっていても気持ち悪い。そして彼らもやはり「蓮子死ね」と嘲笑いながら通り過ぎていく。
「……うるさい」
さり気なく囁いた声は、バスルームの中で発した声のように儚く霧散してかき消される。
蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ。
「うるさい、うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさい!」
ふらついたままの状態なのに、頭の中でふつふつと沸き上がる怒りで声のトーンだけは自然と上がっていく。
苛々をぶつけて制止させようとしても、わたしを罵る野次やくすくすと喉を鳴らす音はどんどん増して人々の嘲笑は止まらない。
何あの子独り言呟いてて超怖いキモっ。お酒でも飲んでるのかしら二十歳未満っぽいけど身体売ってそうだよねー。ぶつぶつぶつぶつ怖いよほら近寄ったらいけません。クスリでもキめてるんじゃねーの顔イッちゃってるよ。
蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ。
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいお前らが死ねみんな死んじゃえばいいんだ!」
そう叫びながら、わたしは脱兎の如く走り出した。
ふらつく身体で歩く世界は無重力を体験してる気分。
行く手を邪魔する人々の群れを無理矢理押し退けながら、うわんうわんと鳴り止まない声に耳を塞ぐ。
おかしなワルツを踊る壊れたマリオネットのように構内を駆け巡るわたしに、奇異の視線があちこちから注がれる。
そうしているうちに、頭の中でひそひそ話を繰り返す声がこだまし始めた。あの子はキチガイだ。頭おかしい狂ってる。これだから精神病患者は外に出さない方がいい。一生閉鎖病棟に入ってろクズ。社会復帰なんて出来ないんだから死ぬまで引きこもってろ。
蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ。
死ね、死ね、死ね、シネ、シネ、シネ、シネ、ジサツか殺人か。
わたしが死ねば世界は終わる。貴方達が死んでも世界は終わる。
多数決の結果が前者なだけで、わたしだって楽に死ねるのならば今すぐジサツしたい。
最悪の形で見るもの全てを恐怖のどん底に叩き落すような無残でむごい死体を見せ付けて自慢してやりたいな。
あはっ、臓物が飛び出して肋骨がむき出し、糞尿垂れ流しのむごい死体をセクシーにくねらせながら「ねえ、わたし、綺麗でしょ?」なんて訊ねたらどう答えてくれるのかな?
列車に飛び込んで命を経つ人なんて日常茶飯事。結局わたしが死んで見せたところで「また人身事故かようぜえなあ」とか「スケジュール間に合わないんだよ迷惑だなあ」なんて暢気な答えしか返って来ないんだろうけどね。
他人の死なんて所詮他人事に過ぎなくて、毎日100以上の人間がジサツしてるのに、幸せに生きている人達は見て見ぬフリを決め込むだけ。所詮彼らにとっては対岸の火事、不慮の事故くらいの認識しか持たないありふれた出来事だから。
人にリストカットを見せ付けて「キモい」「かまってちゃんうざい」と言われることと大した変わらないんだよね。どんな残虐な殺人を起こしてみせたところで、この世界に住む人々の大多数にとっては結局他人事の一言で済んでしまう。
自分が幸せならば、他人なんてどうでもいい。彼ら彼女らはそんな見知らぬ人が死んでいく世界より、自分の好きな漫画やアニメ等々の娯楽作品で人が死ぬことの方に共感を覚えてしまうような、現実から逃避して目を背けた人種でしかない。
それでも列車に飛び込んでの人身事故ならば、多くの人々が行き交う新宿駅で無残な死骸を曝すことができる。
飛び込みについての知識は殆ど持ち合わせていないけれど、跳ね飛ばされることさえなければ宇佐見蓮子の死体は間違いなく衆目の視線を集めるはず。
痛みなんて所詮ほんの一瞬。死んでしまえば何も感じないし、列車のダイヤを乱したところで請求が行くのはあのくそったれなパパ。わたしを産んだ罰だざまあみろと罵ってあげられる。
何度殺してやりたいと思ったか分からないあれには、ぶっちゃけ死すら生温い。わたしが手首を切って大量の血を流していようとも、大切な娘が朝帰りしても何ひとつ言わないゴミみたいな人間だから。
普段家事とかわたしに投げっぱなしで、経営してる洋食屋兼バーではただ働きさせて自分はいつも女遊びに明け暮れた挙句、それどころか我が子に犯らせろとまで脅してくる始末だし「五万出してくれるならいいよ」とか言ったら普通に金を出す最悪のクズ。
どうせわたしが死んだとしても、悲しむどころか大喜びするに違いない。わたしに対してはとことんケチだし、大学に進学する金は出せないとか言うくせに車買ったりとか自分の道楽にはお金掛けるし本当訳分かんない。
あのカスのためにも、わたしは死ねって声はとても正しいのかもしれない。この蓮子死ネなんて幻聴はわたしの心の叫びだと考えれば、ある程度の説得力を持った十分納得できる意見のように思えてくる。
いつも心の奥底で揺れている希死念慮が津波のように押し寄せて来て、ゴミクズ以下の人々と屍の群れでごった返すホームへ続く階段をおぼつかない足取りで駆け下りた。
虫けら達が相変わらず蓮子死ねと繰り返し無言の死刑執行を促す中、よろけてふらついて何度も転びそうになりながら、被った帽子をしっかりと片手で押さえたまま一番人の多そうな場所を探し始める。
文庫本に視線を落とす人。iPodで音楽を聴きながら目を瞑る人。死んだ魚の目をして虚ろに空を見上げる人。この世界に絶望してる人々はわたしだけじゃない、そんなことを考えながら無理矢理列に割り込む。
まもなく二番ホームに列車が参ります云々。ちょうどそんなアナウンスが流れて、此処で飛び込めば間違いなく大勢の人々にわたしのぐちゃぐちゃばらばら死体が確実に曝される。
死ネ死ネ死ネオ前ラガ死ヌ死ヌ死ヌワタシノ死体ヲミテ今カラ死ヌ死ヌ死ヌ――思い残すことなんて何もなくて、ただひたすら呪詛みたいに死ねと唱えながら最前列に辿り着いた瞬間、前のホームに佇む人影にわたしの目は釘付けになった。
――時間が止まる。そして視線の先に、神様が舞い降りた。
第六感が覚醒。あの日あのビルでわたしを見下していた存在が、今ホームを隔てた先であの夜と同じように微笑んでいる。
淡い桃色に彩られた花柄の日傘を差す彼女の目線は窺えない。
美しい金色の髪を青空が運ぶ風にふわりなびかせながら、僅かに覗かせる口元を三日月に吊り上げて笑みを零す。
木漏れ日に照らされて立ち尽くすその姿はあまりにも神々しい。黒い影や屍の群れが横行する中にあって、その並外れた存在感は常人離れしていた。
凛とした風情と妖艶な雰囲気が歪に同居したアンニュイな容姿。紫色を基調とした艶やかなドレスから覗くいつくしい白さの肌は粉雪を想わせる輝きを放つ。
美しい人だと思った。恨みや殺意、そんな感情の前に、ただ、ただ、その姿は美しいと思った。ぞくっと背筋に摂氏零度の冷たさが伝う感触が、頭を過ぎる直感を確信に変える。
あの向こう側に立っている存在は、あの飛び降りジサツをした時にまあるい月と一緒に笑っていた『神様』に違いない。そう頭が理解した直後、とっさにホームに飛び降りて駆け寄ろうとしたのに身体は金縛りのように動かなくて――
「二番ホームに列車が到着します。危険ですので白線の後ろに下がってお待ち頂くようお願い致します」
止まっていた時が突然動き出して、わたしは呆然とその場に立ち尽くした。
がたんがたんがたんがたんと列車が目の前を横切って、完全に視界を遮ってしまう。
しゅーと言う音がした後数秒、各所から開け放たれた乗降口から虫けら共がわらわらと外に飛び出して来る。
そして棒立ちしたままのわたしの腕や肩やあちこちに何の躊躇もなく体当たりしながら散らばって、うじゃうじゃと蠢く人々の群れが電車と言う名の棺おけの中に入り込んでいく。
サイケデリックトランスが耳元でがんがんと鳴り響いて、ぐるぐるぐるぐると頭の中で思考が回る。
あれが幻覚だとは到底思えない。この世界を作り出した神様は確かに存在して、今こうしてわたしの前に姿を現した。
理由なんて分からないし、そんなものは必要ない。ただわたしから問いたいことが沢山あるに過ぎなくて、彼女の答え如何では幸せになるための理論を構築できるかもしれない。
この世界を創造した神様。わたしの知る世界の理が正しいのかどうか、全てのジャッジメントは彼女が握っている。
ああ、ああ、わたしは、わたしは、貴女の声が聞きたい。
貴女の奏でる旋律を聴くことができれば、わたしは幸せになれる気がするの。
こんな残酷な世界の有様を見て貴女は何を想い、そのくちびるが紡ぐ言の葉は世界をどうやって美しく飾り付けているのかな。
慈しみとも愛情とも憎悪とも言い表すことのできない、今まで神様に抱いていた感情とは全く違う不思議な想いが心を支配する。
ああやって薔薇を掲げて待っている彼女は、死んだわたしに花束を手向けようとしてるみたいだった。ぐちゃぐちゃで血みどろのわたしの死体に、愛する者を失った恋人が永遠を誓う言葉を囁く瞬間を待ち侘びているかのようで――
目の前の扉がゆっくりと閉ざされて、ぎゅうぎゅうになった棺おけの人々が悲喜交々の表情を見せながら火葬場に運ばれていく。
列車のスチーム音が鳴り響く中、わたしは立ちすくんだまま葬列を見送る。その向こう側で笑っているであろう神様に想いを馳せながら。
「二番ホームから列車が発車致します。ドアが閉まりますのでご注意ください」
働き蟻には二種類が存在すると聞く。
働く意義を考えて生きている蟻と、仕事を放棄してただ遊んでいるだけの蟻。
そんなどうでもいい人達を諸々乗せた棺おけが動き出す。ドナドナとか言う民謡を想起させる滑稽な有様だった。
奴隷場に駆り出される人々はどんな想いを抱いているのか知らないけれど、ああやってわたしを罵って蔑んで自分を格上に見立てて騙し騙し生きているんだろう。
ニセモノの幸せでも掴めたら幸せだったのに、生憎わたしにはフェイクを弄ぶ権利すらないらしい。そんな現実を神様はどう思っているのかな。貴女の作り出したこの『世界』の意味を教えて欲しい。貴女の瞳に映るこの『世界』のことを教えて欲しい。
貴女の発する言葉には、わたしの納得する答えが存在するのかな。さすがに聞いてみないと分からないけど、もう問いは決めてあるから。そのたったひとつの質問は、至極単純明快に世界のロジックと心の内に秘めた感情を暴き出す。
――この残酷な世界は、貴女が望んだものですか?
No.なら貴女があの時飛び降りたわたしを何故助けたのか、さらに問おう。
そうしたら泣きながら跪いて、血を吐いてジサツの意志を明確に表してあげる。
ずっとわたしは神様と言う存在は決してサイを振ることはないと思っていたし、そんな貴女がわたしを救ったのは何かしらの意図があってのことなんだよね?
正直余計なお世話だとか、どうしてみんなが平等に幸せにならないのか等々あれこれ思いの丈は尽きない。しかし結局のところ、貴女の存在自体が悪だと決め付ける根拠をわたしは持ち合わせていない。
この世界を作った存在は別に『存在』して、彼女はただの傍観者に過ぎず世界と呼称されるシステムに干渉できないとしたら、全ての元凶は宇佐見蓮子を産み出した両親に他ならないから。
Yes.ならその美しい肢体を跪かせた後、そのまま此処で死んで貰う。
このわたしの左腕に刻んだ『わたしの生きた証』を作り出したメスで、その美しい黄金色の長髪も細い手首も白い肌も、全て全てずたずたに切り刻んでやる。
死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ンデシマエ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ!
アメジストの瞳をくり貫いて食べてやったら、身体を切り裂いて臓器を全て曝け出した後で線路に放り込んだらミンチの完成。何故殺されたか説明してやることさえ煩わしい。
調子乗んなよ。面倒。邪魔。うざいんだよバーカ。お前がこんな世界を作り出したせいで、わたしを始めとした多くの人々が絶望を糧に日々をもがき苦しみながらで過ごしてる。
生きる上で幸せになれることが常識と思い込んでる馬鹿共は、お前の作り出した紛い物の『幸せ』を享受しているけれど、彼らは決して私達のような人々に目を向けたりしない。
それは何故かと言えば、ただみんなが視野狭窄に陥って私達の不幸を踏み躙った上で成り立っている幸せだと言うことに気付きたくないから。
誰もが面倒だからと言って今持っている幸せを手放してまでは厄介事には関わろうとはしないし、不幸な出来事は胡散臭い綺麗事をさも当たり前のように並べて誤魔化す。
そんなやり方が平然と曲がり通る世界を作った貴女は死ぬべき。人間に痛みもなくジサツできる機能を付与しなかったのは、神様なんて存在が如何に自分勝手かと言う証拠でしょう?
今死にたいと思っている人は「やりなおしたい」なんて思ってない。この世界から消える、死ぬこと自体に幸せを見出しているのに、幸せな人も、社会も、世界も、神様もそれを決して好しとしない。
これだけ科学が発展した昨今、死の概念に目を背けている原因は神様の作り出した人体の機能及び、人間と言う神様の作り出した古臭い倫理観に他ならないんだよ。幸せのあり方として『死』を捨象した世界に未来はない。
がたんがたんと生きた死人を乗せた棺おけが動き出す。
車窓越しに見えるノルウェーの画家エドヴァルド・ムンク「叫び」のような顔をした虫けら共がうざい。
通り過ぎていく奴隷達を運ぶ列車を見送りながら段々と開けていく視界の先、其処にいるはずの美しい神様の姿は――
「……いない」
最初から希望なんて存在しない。そう誰かが腹を抱えて笑うかのような結末に、ただわたしは絶望に打ちひしがれるしかなかった。
幻覚によって見える黒い影や屍の類やリアルで往々に行き交う人々の中にあって、清楚で可憐かつ妖しい魅惑が溢れ出す美しいオーラを放っていた神様の姿はない。
まるで言葉の通り神隠し。向こうのホームに列車が到着した様子もないし、彼女があの場所に立っていた理由は一体何だったのかな。
それはきっと、わたしをからかうこと。神様は全てお見通しだと嘲笑うこと。貴女は全て他人のせいにしているだけだと言うこと。貴女はジサツする勇気なんて持ってないと罵ること。
殺してやりたい。もういっそ神様でなくてもいい。そこら辺にいる誰かでもいいから刺し殺したくなった。それは駄目だと言い聞かせると、今度は自分の手首を切りたくなる。さっき切ったばかりの傷がじゅくじゅくと疼く。
今此処で見せつけてあげましょう。わたしは本当に死にたいと願っていることを、この青空の下で神様に宣誓するのです。さもすれば神様はきっとわたしの目の前に現れて、血が噴き出した手首にそっと口付けを授けてくださるでしょう。
こんな場所でおかしな妄想モードだっていつも通り。だけど幻聴幻覚の類を以ってしても、わたしは神様なんて一度も見た覚えがなかった。
どんなにオーバードーズを繰り返して朦朧とした意識の中だって、少なくともあの日ビルから飛び降りるまでは……そして今見た妖艶な微笑みは、まぶたの奥にこびり付いて離れない。
あれは神様だった言う確かな感触だけが残った脳内は、サイケデリックトランスのもたらす快楽的な高揚感も相成って異常なまでに昂っていた。
あのね、ママ。わたし、神様を見たの。神様を見たの。神様を見たの。神様を見たの。ねえ、どうして誰も信じてくれないのかな。わたしが感じてるものは、そんなに間違っているのかな?
触れてもいないのに、悲しみに塗れて濡れている性感帯。涙を流しているのは瞳ではなくてはしたない箇所なんて、やっぱりわたしは汚れてしまうことでしか生を感じられないんだね。
ああ、わたしは、わたしは、この神様に弄ばれるだけの宇佐見蓮子は、どうすればいいのかな。
ママはジサツと言う方法でわたしから逃げて、パパはわたしを徹底的にいたぶることで生の意義を無理矢理教え込んだ。
そしてわたしはこうしてリストカットすることでしか、男に犯されることでしか、暴力を受け続けることでしか……生を感じられなくなった身体は、ただ惨めに汚れていく。
クスリを飲んで得られる快楽や幻覚幻聴妄想の類だって所詮xxxと同じ刹那でしかなくて。ラリった挙句待っている感覚なんて、どうしようもないバッドトリップと無常でしかない。
いざ死のうと決意が固まった直後は、必ず神様が邪魔をする。中学生だった頃の飛び降りジサツ、あの新宿の飛び降りジサツ、そして今日の列車飛び込みジサツ未遂、全ては神様の手によって妨害された。
ずっと首吊り台の上で処刑を待っている状態で、実際にはギロチンで首を切り落とされるわけでもなく、現実と言う名の毒ガスがじわじわと真綿で首を絞めるようにわたしを苦しめる。
もうわけが分からないし意味も分からないしどうでもいいし。だから神様、クスリをください。飲んだ瞬間に眠りに落ちるように安らかに眠れる素敵なクスリを、どうかこの哀れなわたくしに与えてください。
がたんがたん、がたんがたん。ふと気が付けば目の前に次の列車が到着していた。
わたしに用意された居場所は閉鎖病棟とラブホテル。もしも奴隷市場なんて存在していたら、自分には幾らの値段が付くのかな。
昨日みたいに三万円の価値が付くだけマシなのかもしれないね。少なくとも自宅や学校では価値なしでゴミクズ虫けら以下なんだから。
そう考えると、この列車って名前の棺おけはわたしにお似合いのような気がしてくる。これからもずっとこんな感じで……大人になって汚れ続けて生きて、そのうち神様が飽きたら死ぬんだろうし。
クスリでぼんやりとしたままの意識を振り戻して、ゆっくりと車内に入ると奴隷になった気分がするから不思議。ぷしゅーと音がしてドアが閉まり、動く棺おけは火葬場や死体置き場を経由して地獄へ向かって走り出す。
腐臭が漂う満員電車の中は、人々の不安な言葉で溢れ返っていて気持ち悪い。
蓮子キモイ蓮子クサイ蓮子デブ蓮子ブサイク蓮子ガリガリ蓮子ビッ血蓮子デンパ蓮子売女蓮子ヤク中蓮子淫○蓮子援交蓮子雌ブタ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ皆シネオマエガシネ皆シネオマエガシネ皆シネ。
サイケデリックトランスのボリュームを最大に上げて周りに不快感を与えてやっても、ぎゅうぎゅう詰めにされた棺おけの中では人を遠ざけることすら間々ならなかった。
そして神様について考え始めると、ぐるぐるぐるぐると頭の中で思考だか何だか分からないものが回転する。あの人に抱かれたら気持ちいいのかな、神様とxxxすると最高に感じて気絶するくらいイけるのかな。
最悪の妄想でいやらしい気分に浸っていると、目の前の臭そうな中年男がわたしを品定めするように舐め回して見つめていた。気が付けば電車の揺れに便乗して、贅肉だらけの胸板をわたしの乳房に押し付けてくる。
そして男を誘うために穿いてる超ミニのプリーツスカートの中に、脂肪がまとわりついた手を無造作に潜り込ませきた。汗で濡れてる太腿に気付いたのか、男の鼻息が荒くなってるアヘ顔が超ウケるんだけど。
ああ、やっぱりわたしにはこんな価値しかないわけです。見ていますか、わたしの親愛なる神様。これは下衆な欲望の吐け口なんて役割しか担えない宇佐見蓮子に相応しい光景ではありませんか?
所詮わたしにできる社会貢献及び価値なんて、このくらいしかないってことなんだよね。
あ、あ、ん、あはぁ、なんてxxxしてる時みたいな感じで、あの神様に弄られてることを想像しながら鼻声で鳴いてみせると、中年男の行為はさらにエスカレートし始める。
つり革は手錠の代わりにわたしを拘束して、電車と言う名前の棺おけの中で見知らぬおじさんにご奉仕。人間と言う神様は同じ人間に値段を付けるようになりましたが、宇佐見蓮子の価格は零円です。
せめて神様にとっては、宇佐見蓮子は大事な存在でありますように。そんな妄想に取り憑かれたわたしは、わざとらしい不可抗力を装った見知らぬ中年男のボディタッチを神様の慈愛だと思い込んで、あんあんとはしたない顔付きで喘いであげました。
こうして汚れていくことは何だかとても気持ちよくて、改めて貴女は悪い人だと思った次第です。
◆ ◆ ◆
池袋に着いた頃の時刻は11時を少し回ったくらいで、強い日差しがホームに燦々と照り付けていた。
まだ仕事なんて奴隷活動の真っ最中の方も多いだろうに、駅構内は虫けらの群れでごった返している。
痴漢された中年男の手の感触と体臭があまりに気持ち悪かったので、トイレに駆け込んでゲロを吐く。
今日起きてから何も食べていないし、空っぽの胃から吐き出される吐しゃ物の中は物の見事に真っ白だった。
あんな中年ピザ男を神様だと想像して耽って、実際はただ痴漢されて感じてるわたしってどれだけ頭イかれてるんだか。
実際頭おかしいって自覚はあっても、あれはさすがに蹴りの一発でもお見舞いしてやれば良かったかな。
ふつふつと沸き上がるリストカット衝動を必死に押さえ付けながら、げえげえと血を流す勢いで散々嘔吐した後、手持ちの香水を心持ち多めに使って臭いをかき消す。
ささっと身体を拭いて個室から出た後、さっと髪をすいてやったりして身嗜みを整えてから、ふらつく身体は当てもなく彷徨う幽霊宜しく街中に躍り出た。
夏本番と言って差し支えない炎天下、池袋駅周辺は奇抜なファッションに身を包んだ若者達が我が物顔で路上を闊歩する。
東京都副都心、豊島区池袋――俗に『新世代』なんてメディアで取り上げられるティーンエイジによるサブカルチャーが蔓延している街。
かつて秋葉原がオタクの街と呼ばれていたように、もはや此処もその手の宗教染みた主義思想に塗れた人々の溜まり場と化してるけれど、あいにくわたしは全く興味がない。
大都会の高層ビルに住み着いた蝉がみんみんみんみんと鳴く中、人ごみの群れを縫うように歩く。お目当てのビルは残念ながらクーラーの効いた地下街と直結していないので、渋々地上から入ることになった。
ちょっと歩いただけで嫌な汗がにじんだ徒歩5分、程なくして目的の場所に到着。
かの場所にあるメディカルビルのテナントを見ると、一階は各施設の調剤を一手に担う薬局となっていて、その他にはずらりと診療科の名前が並ぶ。
内科・循環器科・整形外科・泌尿器科・小児科・眼科・耳鼻咽喉科・皮膚科・リハビリテーション科――そんな大学病院染みたラインナップの看板を横目にしながら入り口へ。
冷房完備の涼しい屋内は、人のいる気配が全くしない。すぐ傍にあるエレベーターのスイッチを押すと、ただ遠くからゆっくりとした振動音だけがビルに響き渡って、目の前の小さな棺おけが開く。
静かに乗り込んで、ドアを閉める。ぐーんと低い音を立てながら垂直に吊り上げられた箱は6Fで停止。白で統一された無機質な廊下をひたすら歩くと、端に医療機関の扉としては不釣合いな木の扉が見えた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
☆☆☆ 岡崎メンタルクリニック ☆☆☆
院長:岡崎 夢美
医師:北白河 ちゆり
診療科:心療内科・精神科
診療時間:午前 9:00 - 12:00
午後 13:00 - 18:00
休診:水曜日
#完全予約制
#土曜日の診察は午前のみとなっております
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☆☆☆ 岡崎メンタルクリニック ☆☆☆
院長:岡崎 夢美
医師:北白河 ちゆり
診療科:心療内科・精神科
診療時間:午前 9:00 - 12:00
午後 13:00 - 18:00
休診:水曜日
#完全予約制
#土曜日の診察は午前のみとなっております
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若くして大学の教授に登りつめた誉れ高く今現在も賞賛を受け続ける天才であり、比較物理学で膨大な業績と栄光の数々を残した学者でもある岡崎夢美は、ある日突然東大を退職して此処にクリニックを開いた。
そんないわく付きの話を聞いたのは随分後のこと。わたしが保健室登校から引きこもりがちになった時期、スクールカウンセラーに無理矢理説得させられた挙句、パパの手によって強制的に精神科に連れて来られた。
その時のカウンセラーが書いてくれた紹介状にあった病院の名前が東京大学付属病院で、偶然診察してくださったのがちゆり先生だったと言うだけの縁で、こうして今は岡崎メンタルクリニックに通っている。
流れるような木目のアンティークなドアを開けると、ちりんちりんと澄んだ鈴の音が鳴った。
白で統一された清潔な室内を何となしに見渡してから、上靴を下駄箱に入れてスリッパに履き替えて受付へ。
いつもならば「こんにちは」と事務的かつ営業スマイルな医療事務のお姉さんが温かいお出迎え。
そんな日常茶飯事の予定だったんだけど、今日は何やらやかましい声が室内に響き渡っていた。
受付嬢の顔があからさまに引きつっていると言うか「こいつうぜえなあ」と言う感じになってるのが見え見え。
そのようなキチガイを相手するのが貴方達のお仕事ですし、こればかりは仕方ありませんよね。
「あんた何年事務やってるわけ!?」
「平謝りされて困んのは私なのよ、予約の手違いなんてこっちの手間も考えてよね!」
「この糞暑い中歩いてきた方の身になってごらんなさいよ!」
「予約とか他の人どかしたり先生が残業すればいいだけでしょうが!」
――等々、医療事務の人に一方的に罵声を浴びせかけているのは黒いノースリーブのワンピースに身を包んだ同年代らしき女の子。
ほっそりとした綺麗な身体付きでとても可愛いのに、その左腕にはわたしと全く同じ感じであちらこちらにリストカットの痕が見えている。
彼女が多分自分と同じ『ボダ』所謂『境界性人格障害』であることはすぐに分かった。わたしみたいに傷痕を隠そうとせず、堂々と曝け出してるのは正直少しだけ羨ましい。
と言うか、こう大体雰囲気で分かる反面、痛みを分かち合って仲良くなってみたいって感覚と同時に、所詮自分と同じタイプのクズかなんて同属嫌悪とも取れる不協和音が発生するから複雑な心境になってしまう。
何らかの理由で心をぼろぼろにされたわたしと彼女みたいな人種は、誰からも理解されないその理不尽な怒りのやり場を探す。俗に鬱な人は心にやりきれない想いを溜め込んだままと言われるけれど、人格障害と診断される人々はどうも違うらしい。
極端な話、その対象が自身であればわたしみたいなリストカットになるし、彼女のように矛先が他人となれば罵詈雑言の類や暴力は当然のように起こり得る。そうしないと自己のアイデンティティが保てないから。
奥の方にいるもうひとりの受付が目配せして見せたので、その子の後ろをくるりと回って診察券と保険証、障害者自立支援法の書類を提出する。
ちなみに後者はただの通院費助成のための証明書で、診察料の何割かを国が負担してくれる制度。ちゃんとわたしは社会に飼育された飼い犬で、最後は閉鎖病棟で暮らすって既に決まってるんだよ。
そう、最後は必ず国家予算内で死ぬの。この社会、この残酷な社会制度によって殺されるの。人は最低限度の幸せを享受する権利を有する、なんて日本国憲法の『幸せ』なんて所詮人間を社会的資源とする思想の一環に過ぎない。
まあお金の件は援助交際で稼いでるくせに我ながらせこいなあと思いつつも、どうせ奴隷が納める税金が使われてるんだし問題ない。おクスリだって無料じゃないしまともに払ってたら馬鹿にならないお値段だから。
くるりと踵を返して椅子に座ろうとしたら、いまだ怒鳴り続けている彼女に睨まれた。やっぱり何となくでもお互い同属だって分かるんだね。友達になれたら良かったけれど、ふたりで手首を切るのは嫌かもしれない。
「死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル死ンデヤル!」
結局彼女はあれこれと駄々を捏ねた結果、奥からやってきた看護士の人に連行された。こんな小さなメンタルクリニックにはそんなに部屋数があるはずもなく、きっと処置室で抗不安薬でも注射されるんだろう。
そのまま待合室に並べられたふたつの長椅子を見渡すと、午前の診察も終わりに近いせいか人はまばら。その片方の隅に座ってiPodを閉まい帽子を脱いでから、ふうっとわたしは小さくため息を付いた。
今掛かっている曲はバッハだろうか、それともモーツァルトかな。クラシックはサティしか聴かないから全然分からないよ。
この何処の心療内科でも大体流れているらしいオルゴールのBGMは、鼓膜に絡み付いて息がつまりそう。心の平静や安らぎを無理矢理押し付けてくる感じが、とても気持ち悪くて吐き気がする。
部屋の隅に置かれている液晶モニターで流れている映像は森林や川のせせらぎ、海や寺院、ヨーロッパの古城、その類。環境をテーマにした所謂『癒し系』『ヒーリング系」なんて名前が付く胡散臭い代物だ。
そんなものよりロックの衝動や、あるいはダンスミュージックの快楽の方が、もう圧倒的にわたしの心を満たしてくれる。一般に好しとされるものが、この世界で生きる人間全てに通用するって考え方自体がおかしい。
一般論では括ることのできないわたしや先程の彼女のような存在は、路頭に迷って狂い叫んだ挙句死んでしまうしかないのかな。そもそもわたしは、宇佐見蓮子は、どうして『病気』だと判断されたのかな?
「宇佐見蓮子さん。二番の診察室にお入りください」
何となしに耽っていた思考を遮るように、受付嬢の滑らかな声がわたしを指名する。
ふと時刻を見ると、腕時計の針は11時15分きっかりを差していた。こと心療内科や精神科において、予約時間通りに診察が受けられるケースは非常に珍しい。
大体前の患者とかが揉めてたり泣き出したり愚痴を零したり、時に暴れたもするからあれこれと処置に時間が掛かって、診察が芋づる式に伸び伸びになってしまうと言うのは日常茶飯事。
てっきり今日も大分待つのかと思っていたので、ちょっとだけ拍子抜けしてしまった。すっと席から立ち上がって、真直ぐ奥の診察室へ向かう。
二番の診察室は扉の横に貼り付けられた『担当医師:北白河 ちゆり』と書かれた木製の看板がまず目に付く。こんこんとノックすると「どうぞ」とよく通る澄んだ返事が聞こえてきた。
消え入るような声で「失礼します」と言いながら、おずおずと室内に入って静かにドアを閉める。カルテを持ってきた看護士の人がさっと奥の方へ消えて、診察室はわたしとちゆり先生のふたりきりになった。
この『白』がどうしてもわたしにとっては気持ち悪く感じてしまう。
それは己の欲求として「汚れたい」と言う願望や意識の裏返しなんだと思う。
何処の病院も白を基調とした作りになっていることは基本的に変わらないし、こればかりは流石に我慢するしかない。
1LDKくらいの広さの部屋はがらんとした感じで、背丈の大きな不思議な葉を携えた観葉植物と処置用の無機質な白い医療用ベッドが置いてある。
少しだけ横幅が広いデスクの上には大きな液晶ディスプレイと無骨なタワー型パソコンとインターフォン、そして午後からの患者用のカルテや薬辞典、資料の束等々が雑多に並ぶ。
プライバシー保護の観点から密室化されているので、ガラス一枚で隔てられた背後の通路では看護士がひっきりなしに往復してせっせと仕事をこなしている。
その向こう側でちょこんと座ってカルテに視線を落としていたちゆり先生はわたしの姿に気付くと、不思議なあどけなさが残る向日葵のような笑顔で出迎えてくれた。
「こんにちは。どうぞ、座って」
ちゆり先生に促されるがままに、対面に据えられた椅子に腰掛ける。
ふと、ちらりと覗き込むような視線を感じた。恐らく患者が今現在どんな心理状態であるか軽く判別したに違いない。
逆にわたしから見るちゆり先生の印象はと言えば、遊びたがりな同年代の女の子にしか見えなかった。一応白衣を纏っているものの、その下からは医師としては似つかわしくないセーラー服がちらちらと見え隠れしている。
ちょっとだけ耳に挟んだことがある噂――ちゆり先生は13歳で東大の新領域創成科学研究科、要するに大学院を卒業した岡崎先生と同じ『天才』の類らしい。飛び級が常識化したご時勢とは言え、普通に考えるとありえない。
当然診察及び医療行為をするのだから医師免許も持っているわけで、凡々なわたしとは対極な存在のはずなんだけど……お医者さんなんて偉そうなイメージは皆無だし、いい先生とめぐり合えたと個人的に感謝してる。
フランクで聞き上手だし話しやすい点はちゆり先生の素敵な魅力。患者にとって医者との相性は精神科医療における重要なファクターで、要するに人付き合いの上での相性と言っても差し支えない。
わたしが落ち着いていると判断したのか、ちゆり先生はおもむろにペンを取り出してカルテに日付を書き始めた。
情報セキュリティ系のベンダーが提供する総合システム内で患者のファイルを作成、現場でデータベース化して応用することが当たり前になった昨今、カルテを手書きなんて風習が残っているのは非常に珍しい。
それでもパソコンが置いてある理由と言えば、薬科系の最新治験状況検索と調剤薬局用の処方箋作成及び関連診療科への問い合わせ、そのくらいしか使うことがないなあ。なんてちゆり先生は笑っていたっけ。
まあわたしの場合はリストカットの傷がひどい場合は整形外科へ連絡されたりする。勿論こんな小さなクリニックには入院施設もないから、必要があると看做された場合は其方方面に連絡が行くことになってしまう。
「此処二週間、何か変わったことはなかったか?」
何の変哲もない定型句的な質問を、ちゆり先生はいつもの男口調と女口調が混じった特徴的かつフレンドリーな感じで問いかける。
それは診察を受ける患者にリラックスして欲しいって意味合いも含まれているし、ちゆり先生の素の性格が本当に明るいってことが多少なりとも混在しているのかもしれない。
もう5年くらいちゆり先生に罹っているわたしには、どうしても後者のように感じてしまう。かの人は本当に楽天的な性格の持ち主だし、独善的になりがちだと言われる精神科医の中において、ちゆり先生は非常に人間味に溢れた先生だと思う。
それ以前に精神科医が『独断先行的な傾向』だと言うのは都市伝説的な噂であり、所詮ネット上のな意識に蔓延る決め付けに過ぎないけれど……それは言い換えれば患者として付け込む隙はいとも容易く用意されていると言う意味を示す。
あたかもわたしがある病気のような素振りを見せたら、ちゆり先生は当然医学的見地からその線を疑う。至極真っ当で医師としては極めて正しい判断ではあるし、まあたったそれだけのお話だけどね。
「……」
――例えばの話。これはあくまで『例えば』の話だよ。そんなことを自分に言い聞かせながら、ぼんやりと医療について考えてみる。
内科にやってきた宇佐見蓮子は診察中もごほんごほんと絶え間なく咳きを繰り返し、体温計で熱を測って38度以上だった場合、ドクターは「風邪ですねと」診察して処置を施す。
抗生物質や熱冷まし等々クスリの処方、インフルエンザの可能性も考慮して注射や場合によっては点滴による栄養補給etc色々な治療を試みる。症状がはっきりと判断できる場合、処置可能な症例は大分多い。
外科や歯科、あるいはリハビリに罹る場合だって全く同様のことが言える。負傷した箇所に適切な治療を施せば、余程の重篤な事故でない限り完治可能なケースが増えたのは医療分野の発展に寄与する部分が大きい。
この『症状』または『病名』を決める権限は医師が持っている。大半は患者の問診及びCTスキャンや胃カメラ、MRIのデータ等々――全ては医師免許を持った人間の手によって裁定されて、最適と見なされた治療が施される。
ただ、心の病、俗に『メンタルヘルス』なんて呼ばれる無意味にお洒落な横文字の病気はどうかな。
心の中身なんて、人が何をどう考えているのかなんて、その本人にしか分からない。CTスキャンやMRIを使ってみたところで、心の傷なんて分かりっこない。
そもそも何を以ってして、彼らは心の病と人を見なすのか。答えは簡単。精神科医は基本的に『DSM』と呼ばれる精神障害の診断と統計の手引きに従って、その症例に当該した時点で患者を病気と判定する。
物凄く極論、ありえないくらいに分かり易く言ってしまえば――暗く陰鬱な性格の人が診察でネガティヴな答えを吐き出して基準に当てはまったら、その人は鬱と認定されて抗鬱剤やら抗不安薬を処方されてしまう。
彼氏にフラれてショックを受けた人がメンタルクリニックに駆け込んで泣き出せばパニック障害。誰かが常時耳元で死ねと呟いてる、後ろに存在しないはずの幻覚が見えると精神科受診時に喚き叫べば統合失調症。
自答自問して苦笑い、これはあくまで極論。でも考えてみるとやっぱりおかしいなあって思うことは、本当は何の病でもないのに5分診察で精神疾患のように宣告して、お金をむしり取ろうとする医療機関が存在するって事実。
なんて言うとちょっとジャーナリスト気取りでカッコいいけれど、こんな事実はちょっとネットで調べて精神科に罹った経験があればすぐに分かってしまうし、わたしにとってはどうでもいいことなんだけどね――
でもね、よく考えてみるとやっぱりおかしいんだよ。
突然わんわん泣き出して、思い出すたびに発狂したらパニック障害。
誰かの幻聴が聞こえたり、魂や幽霊とか幻覚が見えたら統合失調症。
この身体は自分のものではなく、自分の内側に幾つも人格が存在したら解離性同一障害。
誰も愛してくれないから自分で自分を過剰に愛し、手首を切らないと生を感じられないから自己愛性・境界性人格障害。
わたしは自己愛性人格障害と境界性人格障害の併発だと診断されている。
でも人は何を以ってして『正常』と言うのかな。人は何を以ってして『異常』と言うのかな。
何処かの知らない人が勝手に判断基準を決めて、ただ私達をその中に当てはめて病気だと言ってるだけじゃないの?
何が正しくて、何が間違ってるか。全ての判断を決めて裁定を下すのは自分自身に他ならない。
そんな全ての事象における理を把握している存在を、真理を知ってジャッジメントできる存在のことを、人は『神様』と呼ぶんじゃないかな。
人は、他人は、両親は、クラスメイトは、先生は、精神科医は――わたしのことを罵り嘲笑う。お前は病気だお前は死ねお前は糞だお前はゴミだとか言うけれど、そんなことを言われる筋合いは何処にもない。
確かにわたしは自分が大好きで可愛くて仕方なくて構って欲しくて愛が欲しくて身体を売ってニセモノの愛を貪った挙句、手首を何回も切って知らない男に犯されたりして生を実感するキチガイです。
そうだからと言って、わたしを常識だとか病気だとかくだらない概念で縛り付けないで。わたしはこうすることでしかこの世界で生きていく手段を見つけられなかったし、こんなわたしになりたくてこんなわたしになったわけじゃないんだから。
この世界がわたしを追い詰めたと言う真実を誰も分かってくれない。この世界がわたしを作り上げて、わたしを取り囲む環境がわたしのことを今のような燃えないゴミ以下惨めな虫けら以下に認定した。
もしも神様なんて存在が世界を創造することがなかったら、両親が欲望のためだけにxxxしてわたしが頼んでも望んでもいない『わたし』と言う生を産み出さなかったら、わたしはこんなにもがき苦しまずに済んだ。
人のせいにするな。全部お前のせい。努力が足りない。真面目に勉強しろ。社会に責任を押し付けないで働け。男に奉仕しろ。さっさと死ね。ジサツしろ。ああ、わたしが泣き喚いても誰も助けてくれなかったくせに!
結局のところ、精神科医もカウンセラーも誰もわたしのことなんて分かってくれない。
それもそのはず、こんな診察とか言う行為なんて、所詮馬鹿げたおままごとに過ぎないんだから。
どうせ来院した人間は漏れなく『鬱状態』と診察されて初診料と薬代を寄付してるだけで、実際は誰も助かってなんかいない。
だって、心の傷なんて、生きてる限り……絶対にまとわりついて離れなくて、死ぬまで開放されないんだから。たった5分の診察で、その人の何が分かるって言うの?
深く根ざした心の痛みや苦しみをこんな一錠20円程度のクスリで解決できたら、今頃心療内科や精神科はどこもかしこもパンク状態でごった返しているに違いない。
人々は、虫けらは、新興宗教にすがるように――医者やカウンセラー、そしてクスリに救いを求める。ありもしないまやかしの救いを求める。そしてわたしはもう此処には救いがないことを知っている――
「……神様を、見たんです」
多分きっとこの真実の告白だって、ちゆり先生からしてみれば統合失調症の症例として見なされる。
夜空に煌く星を見た瞬間に時間が分かること、月を見上げたら今此処が何処か分かることだって、結局「そうなんだ」って適当な相槌だけで信じて貰えなかった。
どうせ精神疾患者特有の幻覚か何かだろうなんて見解に決まってるし、もはや説明すら面倒臭くてやってられない。そしてこれも他愛もない雑談のつもりで切り出したから、適当な返事が戻ってくることも容易に予想が付いた。
ちゆり先生はカルテの上に立てたペンを動かすこともなく、ただじっとわたしの話に耳を傾けている。
ある哲学者は言いました。語りえないことについては、沈黙するほかない――そんな大嫌いだった有名な言葉を思い出す。
「一度はビルの屋上で見ました。その時は夜だったしよく分からなかったんですが……ついさっき、此処に来る前にも見かけて。ただ、何故か知らないけれど、今日は駅の向かい側のホームに立っていました」
恐る恐る小さな声で言葉を紡ぐわたしを他所に、後ろの方では看護士の人達が忙しなく動き回っている。
その慌しさとは打って変わって、デスクトップパソコンと空調の音が低いうなりをあげて響き渡る部屋の中は、水を打った後のような静寂が続く。
ふと、カルテの空白に何かしらの文字がさらさらっと書き込まれた。何らかの所見かな、この位置からだとよく見えない。
「どうして、蓮子ちゃんはその人影、ううん、違うな。その存在を神様だと思ったんだ?」
ちゆり先生から発せられた意外過ぎる一言に、つい言葉に窮して押し黙ってしまう。
いつもは、普段のちゆり先生だと――例えば「蓮子死ね」と言う幻聴が聞こえるんです。
とか相談すると様々な学問の観点から「それは病気だからだなあ」とか言うはずなのに、ちょっと調子がおかしい。
「……理由は、必要なんでしょうか?」
「いや、物事には必ずしも理由は必要ないぜ。例えばそれは恋とか、その類の感情のことに関しては理由は不要だよ」
ああ、ロマンチックなんだか非現実的なんだかよく分からない話になってきてる。
神様に恋をする、か。そう言えば聞こえは良いけれど、一目惚れした神様は見事に消えてしまった。
はつ恋は甘く切なく、そして舞い散るもの。こんな一瞬で終わるような経験を恋と呼んでもいいのかな。
こんなわたしが抱いた「あれは神様だ」と言う感情を其れ即ち恋とするならば、恋愛とは夢幻と恋をすることになってしまう。
しかも皮肉にも神様は女性だった。男に穢されるたび気持ち悪くて嘔吐しそうな勢いのわたしにとって、同性と恋仲に堕ちるなんて出来事はある意味とても魅力を感じる。
だけど彼女との出会いは、もう既に終わってしまったこと。またジサツでもしたら会えるのかしら。三回のジサツを止めて見せた美しくも惑わしい神様と、ただそっと微笑み合うだけの永遠に結ばれない恋人として契りを交わす。
ちょっとだけ素敵かもしれないね。わたしの、わたしだけの神様は、いつもわたしのことをやさしく見守っていてくれて、ずっとわたしのことを狂おしいほどに愛してくれて――
そんな何やら妄想に耽っていたわたしを、ちゆり先生が面白おかしそうに見つめていた。
くるくると椅子を回転させた後、またカルテにかつかつとメモ書きのように何かを記録している。
いつもの様子とちょっと違うだけに、正直戸惑いを隠せない。何せちゆり先生から幻覚の類を肯定する発言を聞いたこと自体が、始めての体験だったから。
「でも、少なくとも、あれは幻覚には思えませんでした。確かに幻覚として黒い影や屍は見えたりします。だけど、あれは間違いなくその中でも異端、あからさまな存在感を放っていたんです」
「駅のホームとなれば結構距離はあるよなあ、それでも感じられるくらい『神々しい』オーラでもまとっていたのかな。ははっ、それでも蓮子ちゃんは他人と違う何かを感じた。そういうことなんだろ?」
小さくこくり頷くと、若き天才主治医は何故か肩をすくめるような仕草を取って見せた。
肯定するわけでもなく、否定するわけでもなく、何処までも曖昧な態度。何事も学術的な観点からジャッジを下す理知的な先生だと思っていたのに、こんなオカルトめいた話を否定しないのも何だかおかしい。
勿論ちゆり先生はわたしが幻覚幻聴の類に苛まれていることを知っているし、MMPIやロールシャッハ等々の心理テストから統合失調症の兆候が現れていることだって重々承知なはず。
精神科の治療行為と言うものは大体の場合大雑把な問診で終わるだけに、何故この話題にちゆり先生が興味を示したのかわたしにはいまいちよく分からなかった。
そんなことを何となしに考えていると後ろの透明なドアから看護士が入ってきて、次の患者用のカルテをデスクの上にそっと置いて立ち去っていく。
ふと時計を見ると、もう部屋に入って9分は経過していた。心療内科や精神科の診察なんて5分診療が当たり前のご時世、こうして話をちゃんと聞いてくれる先生に巡り合えたことは素直にありがたいと思う。
「うん、分かった。この話は私自身が臨床心理士としてテストをするから、後日になるけどちょっとだけ診察とは別に時間が欲しい。大丈夫かな?」
別に分かって欲しいなんてこれっぽっちも思っていなかったんだけど、ちゆり先生は何故かこの話題に執着したい理由があるらしい。
診察と同じ日にちに予定入れてくれると助かります。と言うと、笑って承諾してくれた。わざわざ池袋まで二週間に一度の通院は正直面倒臭い。
「その他に、変わったことはなかったかな。最近は幻聴幻覚の類が結構ひどくなってるって前の診察で言ってたけれど」
「ああ、ええ、それはあると思います。そんな頻繁にと言うわけではないんですけど、嫌なことや心が不安定な時はやっぱりよく見てしまう気がします」
ちゆり先生は話を聞きながら、淡々とカルテに症状を書き込んでいく。
良くも悪くも異常なし。大体そんな感じかな。そもそもわたしは正常で異常でも何でもない、そう叫びたいくらいなんだけどね。
「うん、そっか。睡眠の方はちゃんと取れてる?」
「ええと、そうですね。相変わらず睡眠時間は短いですが、先日追加して貰ったピンクの錠剤のおかげで気持ち寝てる時間は長くなった気はします」
大分前からだけど、もうわたしは知ってしまった。
精神科医やカウンセラーは自分を救ってくれない。
それでも何故こうやって精神科に通い続けるかと言えば、単純にクスリを処方して貰うため。
勿論最初はクスリに期待していたし、其処に一縷の救いを求めていた。わたしの心は風邪のような病気に罹っていて、クスリをちゃんと飲めば熱冷ましのように体温は下がる。
しかし現実はこんな感じで、心を蝕む傷痕はひどくなる一方だった。ちゃんとクスリを飲んで治る人もいる。でもそんな人達はほんの一握りに過ぎなくて、大半はすぐにぶり返してしまう。
理由は簡単。この残酷な世界は心の病に罹りやすいようにできているから。幾ら自分の風邪が完治したとしても、周りの人がずっと病原菌を保持してる状態なんて考えると分かりやすい。
何処もかしこもストレスまみれになっているこの社会は、心の病に罹らない方がおかしいと思えるほどに計り知れない不安が蔓延している。仕事、学校、友人関係――理由は様々だけど、わたしの場合は最初から壊れていた。
ママはジサツ、パパはアル中。そしていじめに曝され続けて、心は虫歯だらけでもはや完治の見込みなし。抗鬱薬やメジャートランキライザーを幾ら飲んだところで、一度壊れたものは元通りには戻らない。
要するに、ちゆり先生には申し訳ないけれど……精神科医なんて所詮おクスリ処方箋発行マシーンでしかない。
さしずめカウンセラーは自分の愚痴を好き勝手に聞いて、うんうんと相槌を入れてくれるだけのトーキングボックスだろうか。
どうせ相手も商売なんだしわたしもお金を払っているんだから、クスリを貰うために来てますなんてことさえ言わなければ普通の理由になっちゃう。
わたしにとってメンタルクリニック・心療内科・精神科はその程度のものだって認識しかない。救いなんて結局何処にも落ちてないし、自分から拾いに行かないと何時まで経ってもやって来ない。
そう。結局はジサツするための勇気さえあれば、今すぐにでもこんな世界からさよならできる。1.2.3で線路に飛び込んじゃえばお終い。至極明快な結論だと思わない?
「それだったら、もう少しそれは増やしてみようか。問題の寝つきの方はどうかな?」
「そっちの方は正直全然駄目……たまに中途覚醒してしまう時もあるし、そういう時に限ってクスリはもう飲めないし、短期型の頓服でも何か出して貰えたらありがたいです」
「うーん、でも蓮子ちゃんの睡眠前の処方、もう大分薬使ってしまっているし、正直これ以上出すのはどうかと思っているんだけど」
「たまにはちゃんと眠れる時もありますし、頓服でいいんです。たまにはぐっすり眠れる時もあるから、毎日飲む分は必要ありませんし……」
わたしは犯人解放のための交渉人さながらの様相で、さり気なくちゆり先生に睡眠薬を懇願する。
こうしてクスリについておねだりするために診察を受けているようなものだから、当然と言えば当然のことなんだけどね。
インターネットで気軽に情報収集ができるご時世にあって、例えば「○×△◇症候群」は基本的にこのクスリが処方される等々、大体の傾向は検索すればすぐに分かってしまう。
もしも欲しいクスリがあるのなら、その病気の通りに振舞えば良い。心療内科や精神科の致命的欠陥――それは例えば歯科や整形外科の場合、虫歯や交通事故は診察したら瞬時に状況が把握できるけれど心の病は違う。
現状において目に見えない心の傷を見抜くことなんて、それこそ神様くらいしかできないような未知なる領域のはずなのに、たった5分足らずの問診だけで精神科医にわたしの何が分かると言うのかな。
憂鬱なんですと言えば抗鬱薬、不安なんですと言えば抗不安薬、眠れないと言えば睡眠薬、幻聴幻覚の類だったら抗精神薬って具合に、ぽんぽんぽんぽん適当に出してくれる。
それで効かないからこっちにしましょう、また効かないから今度はこれね……そんな負のループを繰り返して苦しみ続けている患者が大半だと言う事実こそが、今現在の精神科における実態だと思う。
実際のところ診察は問診だけで済むことが大半だし、免許取り立ての医師が楽だからって理由だけでメンタルクリニックを開院なんてケースも結構あるらしい。
これだけみんなが不安を抱えながら仕事や学校に通って、ストレスを常に溜め込んで今にも爆発しそうな人々が支えている社会なのに、精神科医療は全くそれらの治癒に貢献できていない。
だから本当に精神科医なんて、とにかくいい加減で全く当てにならない。
少なくともわたしはそんな感じだと考えているから、精神科医に、ちゆり先生に救いを求めることなんてとっくのとうに諦めている。
クスリに期待していた頃もあって、もう全部試したんじゃないかと思うくらい色々なクスリを飲んだけれど、結局わたしの心を癒してくれるクスリなんてなかった。
この絶望なんて病に効く特効薬なんて何処にもない。どれもこれも、ただ頭痛や嘔吐、下痢や便秘、生理不順や離脱症状等々の副作用に悩まされるだけの毒ばかり。
そもそもわたしは病気なんだって認識がないにも関わらず「死にたい」とか「手首を切りたくて仕方ない」って素直な気持ちを告白しただけで病人扱いされる始末。
その言動や想い諸々わたしの全てを「病気」であると勝手に決め付けているのは精神科医であって、何が正常で何が異常かなんて本当は誰も知らないし分かるはずもない。
まあどうせこんなもんだろうなんてうんざりして諦めてるから、適当に逃避するためのクスリが合法的に手に入ればそれでいい。
最終的にわたしが選んで飲んでいるのは、ゆらゆらゆらゆらとした気分になれる抗不安薬、そして眠れない夜に意識を無理矢理闇の底に落とすための睡眠薬の二種類だけ。
多種多様に出されてる残りのクスリは、家に隠したり駅とかコンビニでそのまま捨てて帰ってる。治療と言う名目がある以上要らないです、とはなかなか言い出せないから。
「うん、そうだなあ……それなら頓服で寝つきを良くする薬を追加しておく」
「ありがとうございます、本当に助かります。やっぱり何だかんだで寝ている時間が一番幸せなので」
薬の情報なんて幾らでもネットで手に入るので、その手の知識だけは嫌でも身に付いてしまう。
さて今回処方されるクスリは何かなあ。まだ出てない薬だと思うし短期型のマイスリーとか中時間作用型のエバミールとか、ちょっと想像付かないしまあ眠剤なら何でもいいや。
イソミタール、ラボナ、眠剤じゃないけどリタリンやベタナミン等々……興味本位で欲しいだけのクスリなら沢山あるけれど、なかなか出して貰えない類のクスリもやっぱり多い。
ちゆり先生はじっと液晶ディスプレイを見つめながら、かちかちとマウスを操作してパソコンで処方箋を作成し始めた。
今時はメンタルクリニックじゃなくても院外処方が当たり前だから、外部の調剤薬局でクスリを受け取る方法が主流になっている。
次はデイケアか、面倒臭いなあ。帰る場所もないけどネカフェとかで独りになりたい。なんて次の予定をぼんやりと考えていると、ふと主治医はぽつりと呟いた。
「蓮子ちゃん、ちょっと左腕の袖まくっておいて」
ちゆり先生がリスカしてないかチェックする、これもまた恒例行事の一環になっていた。
衝動を抑えきれず待合室で思いきり切ったりした事件もあって、こと自傷に関しては嫌になるほど厳しく注意もされるし、その関係でクスリもたっぷりと盛られている。
手首を切るそれ自体が症状の一種だと仰るちゆり先生の言葉は、正直なところ全く以って納得できない。ただそれで嫌々と駄々を捏ねてもどうしようもないので、もうわたしはさっぱりと諦めた。
ワイシャツの左袖をめくり上げて、バーコードみたいに不規則に並んだ傷痕を空気に曝す。
今日駅のトイレで切った箇所のガーゼは真っ赤に染まっていて、あからさまに今日やらかしましたって感じがもろバレ。
当然リストカットなんてことでちゆり先生もいちいち驚かないし、ひどかった場合は整形外科で処置を受けるように言われるくらいだけどね。
「……また、やっちゃったのか。抑え切れないならすぐに両親なり此処に電話しろと言っているんだから、ちゃんと聞いて貰わないと困るぜ、蓮子ちゃん」
「でも、今日はあまり強くやるつもりもなかったですし、大した傷じゃないと思います。多少なりともクスリが効いてるせいか、結構控えめになって来てるとは思いませんか?」
「そう言う問題じゃないんだぜ。こうして手首を切ってしまうと言う行為そのものに問題がある。程度どうこうは関係ないし、自分を傷付けて落ち着きたい心理状態そのものが病と結びついているんだから」
どうせ私達が幾ら議論したところでお互いの主張は食い違うばかりで、終わりのない堂々巡りになることなんて分かりきってる。
両親やクラスメイト、精神科医からしてみればリストカットは異常。わたしからしてみれば極自然に生まれた逃避行動の一環なのに、何度話しても分かって貰えない。
もう説明するのも面倒臭くてわたしから理由を話すこともなければ、注意してもやめないことだってばれてるから、結局こんな事務的なやり取りに終始してしまう。
全く以って意味のない時間で正直うんざりするけれど、診察なんてクスリを貰うための行事として割り切っているし、もうすっかり慣れてしまった。
ちゆり先生はやれやれと言った感じの諦め顔で、処置用の薬剤等々が載せられた医療用カートを引っ張り出して来る。
小さなてのひらで止血用のガーゼを剥がして手首をじいっと見つめると、傷痕が浅いことはすぐ判断して貰えたらしい。やさしく丁寧に洗浄と消毒を施したら「うんばっちり!」とちゆり先生は元気な声で笑った。
そのままくるりと席に戻ってかたんとエンターキーを叩く音は、診察の終わりを告げるお決まりの合図。そして最後に話し合う事柄は、次の診察日のことやら云々。
「次の診察も二週間後のこの時間で大丈夫?」
「ちゆり先生も知ってると思いますけど、眠れなくて生活習慣ぐちゃぐちゃで起きるの大変なので、本当なら午後からがいいのですが……」
「それは分かるんだけどさ。現状予約でびっしり埋まってるし初診の人も溢れちゃってこっちも困ってるんだ。その辺り察してくれると助かるぜ」
「そうですよね、分かりました。それでは二週間後の11時15分からでお願いします」
「うん、心理テストの件は後日連絡するから。午後のデイケアも頑張れよ!」
くるりと椅子を一回転、金色の髪を翻しながらにっこりと笑みを作ってみせるちゆり先生はとてもキュートで可愛い。
凛とした佇まいの中にあどけなさを残したままの可憐な表情は、白衣でも着ていない限りやっぱりお医者さんには見えない。
その元気はつらつとした感じがちょっとだけ羨ましかったりして、わたしも真似をしてみるんだけど……元が元だけにあれと言うか、ちゆり先生には全く及ばないんだよね。
みんなに愛されるのは何だかんだで元気な女の子だと思うし、ちやほやされたいなら素敵な笑顔が一番に決まってる。わたしもちゆり先生みたいに可愛くて、みんなから愛されそうな性格に生まれたかったな。
白いリボンをあしらった黒い帽子を被って、ぺこりと一礼してから席を立つ。
腕時刻を見ると11時半を回っていた。いつもなら「今回二週間調子はどうだった?」って問いの後に適当な雑談を交わすだけ。
そうして新しいクスリを出して貰えないかと交渉することに終始する5~10分程度の診察だから、今日は神様の話もあったせいか結構長く感じた。
普段ちゆり先生は幻覚幻聴の類にはちっとも興味を示さないし、ちゃんと15分間きっちり診て貰えたのは結構久し振りだった気がする。
本来ならばどの患者にも一定量の時間を割くべきだし、当然と言えば当然のこと。まあ今日はクスリの処方変更なしで新しい頓服をゲット出来たし成果は上々かな。
失礼します、と小声で囁いて診察室のドアに手を掛けたその瞬間――ざわざわと背筋に悪寒らしき感覚が駆け巡った。
嘘を見透かされてるような、と表現するのが正しいのかな。真っ直ぐな彼女があえてわたしの嘘を暴くような真似は絶対にしないはずなのに、どうしてこんなに嫌な感じがするのか意味が分からない。
一瞬の静寂が永遠の一秒に変わる。そして心臓がとくんとひとつ脈を打って時を刻んだ直後、その気持ち悪い感触とは真逆な、ちゆり先生の快活で明るい声が背中に突き刺さった。
「――神様は、いるんだよ」
金属性の無機質なドアを開きかけた手が、ぴたりと途中で静止してしまう。
神様は、いるんだよ。その言葉はやたらと確信に満ち溢れている反面、普段のちゆり先生からは絶対に聞けない非科学的な事柄だった。
医療の原点――つまり江戸時代以降から取り入れられた西洋医療にはキリスト教に由来する「生きるための医学」と言う概念が存在するけれど、当然ちゆり先生が敬虔なカトリックとは思えない。
常に学術的な観点から理知的な判断を下し、幻想幻聴の類は病気だと言い張る精神科医が発する言葉としては当然納得できるはずがなかった。
現に神様を見たと話したわたしだって、まだ半信半疑なところも大分残ってる。それは何故かと言えば『勘』なんてものは正しい論拠として通用しない。
宇佐見蓮子はあの人を神様だと感じたので、あのお方は絶対に神様です。そんな理屈は幼稚園児が正義のヒーローを信じているのと同じで、心なんてものが何処まで曖昧か明確に証明している。
幻聴幻覚が見えると主張することは、要するにそれと大差ないんだよね。自分が存在すると思い込めば存在できるし、絶対に存在しないと信じ込んでしまえば存在できない。
全ての答えは各々の心の中に眠っている。なんて言えば聞こえだけは良いけれど、こんなわたしだって一応それとなりの社会常識は踏まえているからこそ、あの人を神様だと確信した理由は揺らぐわけで……。
そんな学術的視点や大人の事情なんてどうでもいいと言わんばかりに、この世界に『神様』は存在するなんて戯言を精神科医であるちゆり先生が正々堂々と言ってのけた。
――何故、ちゆり先生は神様がいると思うんですか?
心の底から湧き上がる問いを、喉元で必死に押さえ込んだ。
何となく、本当に勘でしかないけれど、ちゆり先生はまともに答えてくれる気がしなかった。
もしも答えたとしても「物事に理由は必要なんでしょうか?」ってさっきの診察のわたしと同じことを言いそうな感じ。
お互いに神様の存在を肯定してみたところで、何か得られるものがあるわけでもない。新興宗教の教祖を崇めても何のご利益もないのと同様で、神様がいても私達を救ってくれるとは限らないんだから。
くすくす、くすくすと背後でちゆり先生が笑ってる気がした。
からかっているような素振りもなく、ただ純粋に面白いから口からつい零してしまったみたい。
始めてちゆり先生がちょっと意地悪な人だと思った。もしも神様が実在するとしたら、どうして彼女は傍観者を決め込んでいるんでしょうか?
こうして心療内科や精神科に通う心の病でもがき苦しんでいる人々を平然と放置しておけるような、ずぼらで図太い面の皮の厚い最悪な性格なんでしょうか?
少なくともわたしの知っている神様は、とてつもなく悪い人です。
この残酷な世界に自分を産み落とし、散々足掻く様子をげらげらと嘲笑って、もうやだ死のうと思った途端にジサツを阻止してしまう。
外見はとても美しいのに、性格は何処までも汚い。そんな憎むべき相手に抱く感情をちゆり先生は恋と例えたけれど、そんな恋焦がれた相手をどうすればわたしは救われるのかな。
このメスで神様をずたずたに切り裂いて殺したところで、何事もなかったかのように世界は回り続ける。わたしが無残に死んだところで、何事もなかったかのように世界は回り続ける。
何をどうすればいいのかさっぱり分からないや。結局抗うべき相手は何処にもいなくて、不安な言葉と憂いを帯びた想いで覆い尽くされたくすんだ空の下で、宇佐見蓮子は生きてるフリをしてるだけ――
◆ ◆ ◆
そのまま振り向くことなく、診察室のドアを静かに閉めた。
狭い廊下の真正面は注射や点滴等々を行う処置室、左の部屋は院長が診療を行う第一診察室となっている。
普通は真直ぐ待合室に向かえばいいんだけど、受付会計と逆の方向へ歩き出す。目の前にはこれまたアンティークな木の扉。ぶら下げられたプレートには『デイケアルーム』と可愛らしい絵文字が描かれていた。
――デイケアとは、心療内科や精神科が提供する医療サービスの一種。
目的は利用者によって様々で、例えば決まった生活習慣を身に付けるための社会復帰訓練、あるいは人々とコミュニケーションを取ることが苦手な患者の自主性・協調性の底上げ等々が挙げられる。
作業療法士による折り紙切り絵等々の手芸を用いた作業療法が主で、場合によっては臨床心理士による認知行動療法の場として用いられるケースもあると聞く。
それらが果たして治療として成り立っているのかどうか良く分からないことはさておいて、人見知りが激しく引きこもりがちだったわたしは初診の時から真っ先にデイケアを勧められた。
ちょっと通ってみて思った素直な感想としては、デイケアなんて社会にも馴染めず、かと言って通常の生活では退屈してる暇人の集まりに過ぎなくて、ポイント稼ぎに病院の意向としても推進してるだけ。
診察報酬は点数制で診察料+検査料+処置料+薬材料で構成されている。身もフタもない言い方をしてしまうと、単にデイケアは点数が高くてクリニックの儲けに直結するから患者の方は是非どうぞって感じ。
まあそんなこんなで建前上は毎日通うことが推奨されているんだけど、ぶっちゃけ面倒だし虫けらと一緒にされたくないので、わたしは今日みたいな診察がある日だけ参加している。
そっと木製のドアを開くとからんからんと鈴が鳴って、中央のテーブルを囲んでいる人達が一斉に振り向いた。
臨床心理士の朝倉理香子さんと作業療法士のエレンさんがにっこりと笑って「こんにちは」と挨拶してくれる以外、黙っている人――要するに患者の方々はぷいっとそっぽを向いてしまう。
鞄を棚に置いて、ぐるりとみんなを見渡す。いつも見慣れたと言えば見慣れた、面識のあるような無いような、記憶にも残らない連中ばかり。まあ正直に言っちゃうと、マジでつまんない。
学校や仕事場と同じでデイケアにも案の定グループが存在して、普段全く顔を出さないわたしは完全に蚊帳の外。それだって日常茶飯事で、もう慣れてしまったから全然気にならないけどね。
この社会から不条理な扱いを受けて『可哀相』『病気』『キチガイ』『働けよクズ』なんて哀れみの視線で見られてる名目上同類項の人々は、何やら机の上で作業療法と言う名のお遊戯に打ち込んでいる。
そんなデイケアではごくありふれた風景にうんざりとしながら、理香子さんが用意してくれた椅子の辺りに視線をずらすと、鮮やかな幻が残像を描く。ちょうどエレンさんの隣で微笑む女の子にわたしの瞳は釘付けになった。
カ ミ サ マ ?
心臓の鼓動がみるみるうちに早くなっていく様子が、胸の内側から恐ろしいくらいに伝わって来た。
神様なんてものは宗教が作り上げたイコンに過ぎないと言う至極凡々な現実論と、神様とか言うまやかしが本当に存在するなんてオカルトめいた思考が、頭の中でぐるぐるぐるぐると回り続ける。
こんな出来すぎたゲームなんてあるはずがない。ちゆり先生が予言してみせたかのように、わたしが神様だと思った人が今まさに目の前に姿を現したなんて、すぐに受け入れられる方がおかしかった。
この人は間違いなくあの日の新宿でわたしが飛び降りた時に屋上から嘲笑っていた存在、そして今日駅のホームでわたしの気を引いて飛び込みジサツを止めて見せた存在。フラッシュバックする記憶と直感はその事実を確信していた。
ふと神様が五感の全てを通してわたしに訴えかける。そう、今貴女の目の前にいるこの私こそが、貴女、宇佐見蓮子が恋に恋焦がれて恨み憎んで心の底から殺したいと望んだ『神様』だと――
彼女の綺麗に整った輪郭から鼻筋、ほんのりと桃色に染まる薄めのくちびるに至るまで完璧な美貌を形作る容姿、その全てがわたしの心に抱く何かを惹き付けて止まない。
紫陽花をあしらった艶やかな薄紫色のキャミソールに身を包んた彼女は、合計8人にも満たないデイケアメンバーの中において美しいとしか形容のしようがない異彩を放っていた。
室内を循環するクーラーの風でゆらりとなびいて綺麗な弧を描くさらさらと流れる長髪は、麗しくも芳しい色香をほのかに漂わせながら、星座を線と線で繋いで編み込んだ金色のカペラを作り出す。
清楚かつ優雅な佇まいを感じさせる凛とした顔立ちの中にあって、くるんとカールしたまつ毛の下に伏せかけたアメジストの大きな瞳は、夜空に煌くアンタレスのようなヒカリを以って輝いている。
デイケアでは親近感を出すために心理士も普段着が認められているけれど、肝心なところが嫌味にならない絶妙なバランスで脹らみ、それでいて要所はきちんと引き締まった彼女の肢体はあからさまに目を引く。
真っ白な肌を曝け出したモデル体型のプロポーションはわたしなんか比べ物にならないくらい大人で、その何処かあどけなさが残る微笑みとはアンニュイな魅力を醸し出している。形容詞なんか必要ない。わたしの神様は、美しかった。
「……蓮子ちゃん?」
ただただ呆然としていると、理香子先生が心配そうに声を掛けてくれた。
「あ、いえ……なんでもありません」
「もし具合が悪いのだったら休んでても構わないし、先生呼んで来ても大丈夫よ?」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。ちょっと暑い中だったこともあって、貧血気味でぼーっとしちゃっただけで」
その場を何とか適当に取り繕って、理香子先生が用意してくれた椅子の方へ向かう。
ちょうど神様の隣。この高鳴る心臓と込められた想いが今にも空気から伝いそうで、普通に息をすることすら間々ならなかった。
そっと席に着くと、隣に座っている神様の呼吸する音が伝わる。
ううんそれはみんな同じ、みんな同じはずなのに、彼女の吐息だけは妖しい色香をまとっていた。
まるでアロマテラピーのラベンダーを思わせる芳醇な匂いが、涼しい風に乗ってふわりと鼻孔をかすめていく。
今の状態で言葉を吐き出すと、自分の心の中に渦巻く想いがそのまま溢れ出しそうな感じがしてとても怖い。
彼女、つまり神様に対する想い――この世界を作った張本人が貴女なら死んでどうしてわたしは生まれたの何故この世界は不安で溢れているのあの時ジサツを止めた意味は?
ぐるぐるぐるぐると巡り巡る思考の渦で言葉を捜してみても何も思い浮かばなくて、妄想と現実でシェイクされた想いがひたすら脳内をかき回す。
あれは幻覚で彼女はただの縁で此処にいる。そんな馬鹿な話、あるはずがない。どう考えても彼女はわたしが見て神様だと感じた本当の神様――
「ああ、そう言えば蓮子ちゃんは初めてじゃない?」
わたしの動揺はどうもしっかり伝わってしまったらしく、一瞬しんと静まり返った室内にエレンさんの声が響く。
その切符の良い言葉の意味に気付いたのか、理香子先生が我が意を得たりとばかりに相槌を打つ。ふたりともとても気配りの利く素敵な女性なので、グッドタイミングなフォローがとても嬉しかった。
「あ、そっか。蓮子ちゃんはマエリベリーさんのこと知らないもんね」
うんうんと頷きながら、理香子先生が立ち上がってマエリベリーと呼ばれた女性の横に立つ。
その動きにつられてわたしも振り返ると、神様はやさしい笑みを湛えてじっと此方を見つめていた。
「紹介するわ。こちらはマエリベリー・ハーンさん。京都大学で相対性精神学を専攻している子で、その権威でもある岡崎先生に是非学びたいと言うことで、先週からこのデイケアでお手伝いをして貰ってるの。仲良くしてあげてね」
そう紹介された神様は、ふわり黄金色の髪を翻して、わたしの方を見てぺこりとお辞儀をした。
きめ細やかなレースで飾られた真っ白な帽子が印象的で、とても素敵。その細やかな仕草から受ける清楚な印象とは逆に、自然と伝わる雰囲気からは艶めかしくて妖しい魅力が見え隠れする。
思わず恐縮して頭を下げるわたしを他所に、マエリベリーと名乗る女の子はそのまま顔を上げると、カナリヤのような美しい声で言葉を紡ぐ。
「始めまして、宇佐見さん。私はマエリベリー・ハーンと言う者で、京都の方から研修で此方にお世話になっております。どうぞよろしくお願いします」
ただ、ただ、綺麗な、綺麗な音がした。
澄んだ美しい音色。穢れてしまったわたしみたいな人間には取り戻すことのできない奏で。
あの幻聴に塗れたノイズの中からでも、はっきりと聞こえる可憐な声がわたしの名字を呼んでくれた。
彼女が親愛なる人の名前を呼ぶ時は、どんな音がするのかな。それはきっとふたりだけの秘密になって、マエリベリーさんの恋人としての素敵な特権に変わる。
全てが見目麗しい彼女は、神様に相応しい。この世界の神として、全知全能の神として、わたしの神様として――ちゃんと貴女は会いに来てくれたんだと思った。
――でも、だけど、そんなことなんて、あるはずがない。
何もかも後付けの理由で、自分の都合のいい妄想だってことくらい百も承知だから。
ああ、でも、何故、どうして、こんなに、わたしは惹かれてしまっているのかな。
素敵だと思う。だけど恨めしい。この想いの意味を教えて欲しい。鞄の中に忍ばせたメスで殺してやりたい。
分からない。この感情の意味が分からない。考えれば考えるほど頭の中はぐちゃぐちゃになって、何でもいいからクスリが欲しくなる。
できることなら目を背けたかった。いけない遊びに興じる子供みたいな気分……それなのに、貴女を見ているだけで、たまらなく心地良くてうっとりとしてしまう。
それは眠りに誘うような、天国へ誘うような、オーバードーズした時に見える歪んだ世界のような、xxxしてイった後快楽が引いていくような、幻聴幻覚夢幻の類のような――
「あ、あ、あの、えっと、その……こちらこそ、よ、よろしくお願いします」
超どもってるしぎくしゃくしまくり、ロボットみたいな声でわたしは言葉を返す。
それを聞くとマエリベリーさんはやさしく微笑みながら「よろしくね」と手を差し出してきた。
傷ひとつない美しいか細い腕に、淡いマニキュアを塗った綺麗な指はいつくしい雪を想わせる白さ。
ちょっとでも触れてしまうだけで、溶けてなくなってしまいそうな――透明な色彩を帯びたてのひらはとても美しかった。
これ以上ないパニック状態の思考を無理矢理正常に取り繕って、差し伸べられたてのひらに想いを込めて繋ぎ止める。
淡雪のような色と対照的なやさしい体温と、ゆらりたゆたうほのかな想い。絡めた指先から伝うぬくもりがたまらなく愛しくて、頭がおかしくなりそうだった。
自分があれだけ憎み忌み嫌った神様からの答えが分からない。今想うこの感情の意味がどうしても分からない。お願い、お願いだから……貴女の想いを、わたしの想いを、誰かはっきりと説明してよ。
――物事には必ずしも理由は必要ないぜ。例えばそれは恋とか、その類の感情のことを差すのかもしれないな。
さっきの診察中に聞いたちゆり先生の言葉が、嫌でも頭の中にこだまし続けて鳴り止まない。
わたしは神様に恋をしてる。ううん、違う。違うよ。今目の前にいるのは、ただ京都から来た研修生に過ぎない。
そもそも初対面の人に一目惚れなんてありえないし、こんなラヴソングのような綺麗事から始まるドラマチックな恋愛なんてあるはずないのに?
もしもこれが愛情の類ではなかったとして、今自分のてのひらからマエリベリーさんに伝わっているはずの想いは一体どうやって説明したらいいの?
こんな壊れた頭の片隅に残っている憎悪の感情なんて、これっぽっちも含まれていないはず。今想うわたしの気持ちはたったひとつだけ。ずっと貴女とこうしていたい。このまま時間が止まってしまえばいいのにって――
そんな想いを無視して、この世界は時を刻み回り続ける。
むすんで、ひらいた、てのひら。ふわり想いと共に宙に浮かぶ。
貴女の残した想いは甘く切ない余韻を残しながら、心の何処かに種を蒔いた。
その種子が芽吹き美しい花が咲く瞬間のことを、人は恋をすると呼ぶのかもしれない。
「うん、それじゃあ時間もちょうどいいしお昼ご飯にしましょうか」
感傷に浸るわたしを現実に引き戻すかのように、理香子先生が大きな声でみんなに呼びかけた。
デイケアは集団生活復帰の一助として、こうして食事を作ることが作業療法プログラムの一環として組み込まれている。
料理ができない男の子なんかは、食器や料理の配膳等々を手伝うことで協調性を養うなんて趣旨なんだと思う。
ふと献立表を見ると、今日の料理は定番の白米にお味噌汁、豚肉と野菜の味噌炒めと筑前煮らしい。
普段から食欲不振なわたしはあまり食べたくもないし、他人の作った食事を口に入れるのが苦手なので、出来ることなら遠慮したい行事のひとつだった。
料理を作ること自体は嫌いじゃないし不得意でもないと自負しているけれど、昨日の気だるさが残ってて何かやる気もしない。
普段来てる面子は和気藹々とあたしはこれやる俺はあれやるなんて話をどんどん進めている。
毎日通っている人も結構いて自然と学校や職場なんかと同じようにグループができるから、結局デイケアにもわたしの居場所なんてものはない。
どうせサボっても文句言われないし、仕切りで作られた休憩所のソファーで休んでよっかなあ。なんて考えながら所在何気にしていると、ふと後ろから肩を叩かれて飛び上がりそうになる。
恐る恐る後ろを振り向くと、駅のホームで見た時と何ひとつ変わらない艶めかしい雰囲気と清楚な佇まいを纏った表情で、マエリベリーさんがやんわりと微笑んでいた。
「筑前煮を作るメンバーがいないみたいで……よかったら宇佐見さん、私と一緒に作りませんか?」
こうしてスタッフの人が構ってくれるのもいつものパターンなんだけど、まさか彼女だとは思わずちょっと驚いてしまう。
マエリベリーさんがわたしを気遣ってくれる気持ちは素直に嬉しかったし、わたしはわたしで彼女のことを知ってみたいと言う気持ちは確か。
だから断る理由も何もないし、人見知りのわたしでも何か話のきっかけでもあればいいなと思って、こくりと頷いて席を立った。
「あ、はい。わたしでいいなら喜んで、よろしくお願いします」
「正直、私はあんまり料理得意な方ではなくて。宇佐見さんは料理はする方なのですか?」
「そうですね、機会だけならそれなりには。自宅の都合上自炊することが多いですし」
「あら、それは楽しみ。宇佐見さんに美味しい作り方をレクチャーして頂けるなんて嬉しいわ」
そんな他愛もない会話を交わしながら、そそくさとキッチンの方に向かうマエリベリーさんの袖をぎゅっと掴む。
小さなお願い事があった。自分から言い出すのはちょっと恥ずかしい。でも何となく、彼女にはそうして欲しかったから。
「マエリベリーさん、わたしに対して敬語とか使わなくていいですよ。きっと歳も近いと思いますし、友達のように接して貰った方が親しい感じがしてわたしは好きです」
さり気なく駄々を捏ねる辺り、多分わたしは心の整理もできてなければ、ただの子供に過ぎないんだろう。
勿論"友達のように"なんて建前に過ぎなくて"恋人のように"が本音、そんな淡い想いがきゅんと心を切なく締め付ける。
それにしても自分の感情を整理できないまま、こんなおかしな我侭を初対面の人に対して言ったのは初めてかもしれない。
マエリベリーさんはちょっとだけ驚いた表情を見せた後、多少苦笑いの混じった表情で首を縦に振った。
このデイケア内において貴女の"ちょっとだけ"特別な存在にステップアップできて、何だかとても嬉しい。
今まで抱いたことのない感情に戸惑いはあるけれど、それは決して悪いものではない気がした。
「確かに、一理あると思う。では私もスタッフさんと同じように『蓮子ちゃん』と呼ばせて貰ってもいいかしら?」
「『ちゃん』付けと言うのは何か子供っぽくて個人的には気に入らないんですが『さん』付けもそれはそれで、何か微妙なんですけど」
「うーん、でも呼び捨ては流石に気が引けるわ。他の人との兼ね合いも考えて、其処は蓮子ちゃんに譲って貰うしかないと思う」
「そうですね、確かにそうかもしれませんけど、でも……」
なんてわたしが渋っていると、キッチンの方からエレンさんがマエリベリーさんを呼ぶ声が聞こえた。
それを聞いて大きな瞳でぱちり目配せしてみせる仕草から察するに、今はその提案に渋々承知するしかないみたい。
くるり踵を返してキッチンに向かうマエリベリーさんを見送って、真っ白な天井を見上げながらぼんやりと思案に耽ってみるけれど、やっぱり今わたしが抱く想いはよく分からない。
――彼女は本当に神様なんだろうか?
新宿のビルから飛び降りた瞬間に見えた人影。
今日駅のホームで花柄の日傘を差していた彼女の姿。
そして先程まで目の前で笑っていたマエリベリー・ハーンと名乗る人物。
どうしてもわたしには同一人物としか思えなかった。それなのに唯一信じられそうな第六感の確信を、この残酷な世界の現実は全てを否定して見せる。
あの日の夜わたしはオーバードーズしてラリっていた。その勢いでジサツしたくなったから何となくビルから飛び降りようと思っただけで、その後の記憶はアンノウンで実際は生きてる。
今日だってリスカしたい衝動を抑え切れなくてすっぱり切った挙句、デパスをスニってサイケデリックトランス垂れ流しでゆらゆらゆらゆらしてた。幻聴幻覚がいつもの三割増しくらいひどかったような感じだったから、幻覚が神様を見せた可能性も零ではない。
それ以前の問題として、このデイケアは9時30分から始まる。もしもマエリベリーさんが研修で毎日参加しているのならば、あの時間あんな場所にいるはずがない。研修と言う名目上遅刻なんてことは、可能性としてはちょっと考えにくい。
ああ、何だかわたし、ただ考えすぎてるだけかな。
この感情を恋と呼ぶのならば、わたしが神様に恋をしていたと言う事実は変えられない。
まだ彼女のことなんて何も聞いていないのに、何故かわたしだけが一方的に分かってるみたいな想いが妙な優越感をもたらしてくれる。
よくよく考えてみれば、とってもおかしい話だよね。だってわたしは彼女と会ったばかりで、その素性なんて何ひとつ知らない。
ただ彼女はわたしが見た神様と瓜二つなだけで、マエリベリー・ハーンはマエリベリー・ハーンでしかないんだから。
そっか。あの、ね、好きって、こんな想いなの?
ずっと知らなかった。誰も教えてくれなかったんだもの。
そんな感情を教えてくれた貴女と出会えたこと、それ自体が運命なのかもしれないね。
はじめて、本当に、はじめて、はじめて……今なら神様にありがとうを言える気がするよ。
貴女のことを、もっと教えて欲しい。その美しい言の葉を奏でるくちびるから、この世界を美しく彩ってわたしの絶望を幸せに変える魔法を――
「お待たせ。蓮子ちゃんは私が切り分けた食材を下ごしらえしてくれるかな?」
小窓から差し込む陽だまりが心地良いキッチンの中で、こくり相槌を打つとマエリベリーさんも微笑んでくれる。
もう既にまな板の上に乗せられたザルの中には、こんにゃくや鶏肉、れんこんにんじん等々筑前煮の材料が用意してあった。
筑前煮の下ごしらえなんて、ごぼうを水にさらしたり、さやえんどうやこんにゃくを茹でるくらいだ。
こんなの料理とは言わないと思うけれど、この手の作業しかやらせて貰えないのはわたしのリストカット癖のせい。
刃物を持つと無造作にやらかしてしまう危険性が多少なりともある以上、スタッフとしても事を穏便に済ませたい思惑が垣間見える。
常にバッグの中にメスが入っているし、ポケットの中にはカミソリが入ってるなんて露知らず。空港のシステムみたいに危険物検知機でも置いておかないと、わたしのリスカなんて止められるはずがないのにね。
手馴れた包丁捌きでマエリベリーさんが野菜を次々と一口サイズに切り分けていく。
まな板の端に寄せられたそれを、わたしは淡々と火にかけた鍋に放り込んで下茹でを繰り返す。
ちらちらと気付かれないように彼女の姿を盗み見していても、やっぱり美しい人だと言う結論は覆らない。
凛々しく引き締まった顔立ち。強い光を湛えた瞳が、洗い場のステンレスに反射して宝石みたいにきらきらと煌く。
さっと目元に掛かった髪を振り払う些細な仕草も、とんとんと包丁が野菜を刻む音に呼応する艶やかな吐息も、彼女の全てが妖しい色を帯びた不思議な魅力を感じさせる。
――ああ、美しい人。ただ、何処までも、可憐で、美しい人。
わたしが手だけを動かしたままぼんやり妄想モードに突入すると、ふとマエリベリーさんが美しい言の葉を紡ぎ始めた――
「Please could you stop the noise, I'm trying to get some rest...」
(お願いだから頭をかきむしるノイズを止めて欲しいの、ただ私は休みたいだけなの)
何気なく歌われた曲の一節に、心は一瞬完全な思考停止に陥った。
わたしの頭の中を見透かしたようなその『詩』に、機械的に動かしていた手がぴたり止まってしまう。
頭をかきむしるノイズ。蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ。
わたしに統合失調症の兆候もあって、幻覚幻聴の類が聞こえるらしい等々の症状を、彼女は事前のスタッフミーティングか何かで知っていたのかもしれない。
それにしても、あまりにも意外過ぎる。
こんな古い曲を彼女が奏でること自体が信じられなかった。
建前上であろうともみんな仲良し子良しでやってるデイケアの中にあって、このバンドの曲はあまりにも不釣合い。
ふいに口ずさむにしても、あまりにネガティヴ過ぎて此処で口にするには相応しい類の歌ではないような気もする。
だけどマエリベリーさんがこの曲を知っていることが何だかとても嬉しかった。彼女の美しい声に続けてわたしも言葉を繋ぐ。
「From all the unborn chicken voices in my head...」
(頭の中にある未来への不安の声全てから逃れたいだけ)
その続きをわたしが口ずさんだことに驚いたのは、マエリベリーさんも同じだったらしい。
一瞬包丁を動かす手が止まったけれど、とんとんと小気味良い音を立てながらとても嬉しそうに野菜を切り分けて行く。
「What's that...?」
(いったいどうなっているの?)
それは精神医学的な観点から述べると、わたし宇佐見蓮子は自己愛性人格障害・境界性人格障害で統合失調症から来る幻聴や幻覚その類。
わたしからしてみれば、蓮子死ね蓮子キチガイだとかわたしは死にたいだとか聞こえてくる声はみんな本音で、確かに存在する本物の人間の言葉。
どちらにしても、わたしの望みは変わりない。この心を閉ざして思考が停止して、何も感じなくなればきっと楽になれる。要するにわたしは逃げたい、たったそれだけのこと。
「What's that...?」
「I may be paranoid, but not an android...」
(私は偏執症かもしれない。でも私は人造人間なんかじゃない)
マエリベリーさんの問いに答えるような形で紡ぐハーモニーは、何処か儚くも退廃的な様式美に満ち溢れていた。
わたしは偏執症かもしれない。自己愛性人格障害・境界性人格障害かもしれない。統合失調症かもしれない。はたまた不定形な精神疾患である可能性も否定できない。
だけどわたしは人造人間じゃない。わたしはわたし、わたしは宇佐見蓮子で、星の光で時刻が分かったとしても、月を見上げて現在位置が分かったとしても、わたしは人間で人間以外の何物でもない。
偶然こんな手品みたいな芸当ができるだけで、生きていく上で役に立つわけでもないし、ただそんな自分の眼がちょっと気持ち悪い程度で。
ただ、思う。いっそのこと心のない人造人間として生まれたら、ロボットのように何も感じずに生きることができたら、どれだけ幸せに日々を過ごせたのかな。
今ノ私ハ虫ケラ以下デ、誰モ分カッテクレナクテ――踏ミ潰サレテ、死ンデモイイ。ドレダケ汚レ続ケタラ、私ハ死ヌ権利ヲ与エラレルノダロウ?
そんなこんな考えているうちに、筑前煮の具材は全て切り終わったらしい。
わたしも慌てて自分の仕事に戻る。それにしても、今日の妄想は何時に増してひどい。
下茹でし終わった素材から順々に、サラダ油で熱した鍋の中に放り込んでいく。全体に油がまわるくらいに炒めたら、だし汁を加えて強火でひと煮たちさせる。
ちょうどいい頃合を見計らって、酒・砂糖・しょうゆを大さじ3と隠し味少々加えて煮込む。後は味がしみ込んだらお皿に盛り付けて、さやいんげんを添えたらできあがり。
てきぱきと料理を済ませながら交互に絶望の奏でを紡ぐこと4分と少し、本当は6分近くある曲はあっと言う間に終わってしまった。
「……まさか、この曲を知ってる人がいるとは思いませんでした」
思わず零れた本音がぽつり、空気に触れて振動してしまう。
マエリベリーさんがくすくすと笑うので、わたしもつられて笑ってしまった。
こんな素直に笑えたのは、本当に久し振りかもしれない。本当は途方もなくネガティヴな歌なのに、ふたりで歌ったら何故かこんなに楽しい。
曲を通じて彼女と何処か分かり合って、心の奥底で通じ合えたような気がして……とても心地良い余韻と不思議な感覚が後を引きずっていた。
「確かにそうかもしれないわね。本当に昔の曲だから、知ってる人を探す方が難しいかも。でも音楽だって本や他の芸術と同じ……素晴らしい作品は時代を超えて語り継がれるものだから」
「彼らのアルバムはどれも素晴らしいですが、その中でもとにかくこの曲が大好きだったから。まさかマエリベリーさんがこんなところで歌い始めるとは思いもしませんでしたし、正直びっくりしました」
RADIOHEAD『Paranoid Android』は1997年にリリースされたアルバム『OK Computer』に収録された彼らの代表曲。
事なかれ主義を痛烈に批判するフロントマンThom Yorkeのスタイルは、あらゆる方面から高い評価を受け続けている。
ただその売り上げも世界的な規模の反面、果たして彼のメッセージを受け取って真摯に向かい合おうとする人はどの程度いたのかな。
わたしは『僕達は世界を変えることができない』なんてタイトルのLiveDVDを見たことがあるんだけど、彼らのような歴史に名を刻むバンドは世界を変えることができた?
仮に世界を『わたし自身の感じえる全ての事柄』と定義するならば、こうしてわたしの考え方の血肉となっている彼らの曲は、十分世界を変えたと言えるのかもしれない。
少なくともわたしの中では、この曲で歌われるエモーショナルな要素の全て――残酷な現実に対する悲しみや絶望をありのままに謳い、この世界の歪んだ形を緻密なサウンドスケープに変えて叩き付ける迫真の演奏は、心から共感できる素晴らしいものだった。
この曲は、Paranoid Androidは、マエリベリーさんにとってどのような意味を持つのだろうか。
ひょっとしたらわたしと似た絶望を彼女も抱えていて、わたしと同じように共感しているのかもしれない。
遠い過去に存在した誰かの頭に浮かんだ旋律が、こうして私達によって奏でられている。
それは多分本人が否定しようがしまいが、彼らの多くの思想・生活・感情によって作られていたはず。
私達が奏でる音に込められた想いと、RADIOHEADの作詞作曲を手掛けるThom Yorkeの楽曲に込めた想い。
その全てを重ね合わせて再現することはできないけれど、今は彼の音楽的思想よりも……彼女とふたりきりの想いを共有できたことが、心躍るように嬉しくて幸せだった。
し、あ、わ、せ。幸セ。しあわせ。シアワセ――たった四文字の言葉の意味を、彼女は絶望の旋律に乗せてわたしに教えてみせた。
「RADIOHEADの楽曲はとにかく世界に起こり得ている事象を切り取ることに終始していたわ。単に切り絵のようにカットして見せるだけで、それ以上の意味は何もない。彼らは世界を憎むこともあれば、世界を愛することもあった。
でもそれは、ただ其処に世界があったから。その感情は今こうして存在する世界について歌った後に付いて来た副産物に過ぎないの。フロントマンのThom Yorkeはかつて雑誌のインタビューでこう言ったらしいわ。僕らの歌は基本的にラブソングなんだと――」
彼らの歌がラブソングなんだ――ちょっと考えてみると、よく考えてみればわたしに相応しい素敵な詩のような気がしてきた。
ぎゃーぎゃー喚き叫びながらグッチを身に付けてをあちこちを嗅ぎ回るいやらしいブタ。狂ったポリスチレン野郎。僕はクズ野郎。君はおかしくなってしまったんだ、君の汚れた心が考えることのために等々。
そんな歌詞が延々と並ぶ曲はわたしの日常とリンクして、この残酷な世界の日常を鮮やかに照らし出してくれる。貴女とのブライダルに掛かるBGMがRADIOHEADなんてお洒落ね。
マエリベリーさんがパラノイドで、わたしがアンドロイド。
恋煩いと言う病的な宇佐見蓮子中毒の偏執症患者と心のない機械仕掛けの人形の結婚式は真っ白な病院のICUで行われる。
人工呼吸器や心拍数を測る器具から伸びる管に繋がれたまま、ふたりは医療用ベッドの上で抱きしめあって永遠の契りを交わす。
そのまま目を覚ますこともなく『身体』と言う束縛から解放された瞬間、きっと私達はあの空に還ることができるはずだから。
貴女と狂うのも悪くないわ。むしろ、そうなりたい。そうして欲しいの。貴女に、貴女に、貴女に狂わせて欲しいの。貴女のためにおかしくなって貴女以外何も分からなくなりたいの。
ああ、想像するだけでうっとりしてしまう。誰からも愛されることもなかったわたしが、こんな形で神様から愛されるなんて素敵過ぎるよ。
――God loves his children, God loves his children...
神様は神様の子供だけを愛す。神様は神様の子供だけを愛す。
Paranoid Androidの最後はこう締め括られている。わたしは虫けらでも人間でもなくて、神様から選ばれた存在だった。
こんな偶然なんて、貴女が神様じゃなかったらありえない。貴女はわたしを愛してくれていたからこそ、ずっと見守っててくれて……この運命の出会いのためにジサツをやめさせた。
ある哲学者は「起きている事、つまり事実とは、幾つかの事態が成り立っていることである」なんて言葉を著書に残している。今わたしの置かれているこの状況は、その命題が雄弁に語ってくれていた。
あの新宿のジサツ未遂から連続して回転する一見無意味な出来事は必然性を持って繋がっているからこそ、この詩は提示されて『現在』が成り立つ。その一連の事実が表すこと、つまり宇佐見蓮子はマエリベリー・ハーンを愛していて――
かつてノートに書き留めていたわたしの『詩』の類が、頭の中でぐるぐるぐるぐると回り続けている。
自称詩人宇佐見蓮子、妄想もうよそうよ。なんて歌ってたバンドのことを思い出しながら、ふと我に帰るとマエリベリーさんが不思議そうな顔をしてわたしを覗き込んでいた。
人間って不便な生き物だから、一度考え始めてしまったら忘れられない。彼女はわたしのことをどう思っているのかな。わたしは、わたしは、宇佐見蓮子は、多分、ううん、絶対貴女のことが好きです。
理由は、要らない。マエリベリーさんが知る必要もない。運命なんて所詮後付けの理屈に過ぎないんだから。心が正解だよ。そう自分に言い聞かせて、全体に味が染み渡るように鍋をかき回しながら話を続ける。
「あ、ごめん、ちょっとぼーっとしてた。マエリベリーさんは音楽好きなんですか?」
「ええ。ロックからクラシック、ジャズまで節操なく色々と聴くけれど、そんなに詳しいわけじゃないの」
「でも私達の年齢でRADIOHEAD知ってるなんて、わたしが言うのも何ですけど結構通だと思う。今はみんな流行りしか追わないで、消費されるだけの音楽を好む人が多いから」
さり気に偉そうなことを言ってしまった気がするけれど、多分間違ってないと思う。
わたしはずっと音楽に救われてきたし、音楽には必ず世界を変える力があると信じてるから。
少なくとも今貴女と二人奏でたParanoid Androidのハーモニーは、もう一生忘れることのない記憶のカケラになった。
この曲を聴くたびにわたしは貴女を思い出して泣くのかもしれない。その涙のわけは、嬉しいのか、悲しいのか、今はまだ何も分からない。
ただ、わたしはもっともっと貴女のことが知りたいよ。どんな音楽が好きとか、お洋服の選び方や大好きな香水やアクセサリー、普段使っているリップからトリートメントまで、どんな些細なことでもいいの。
貴女を知れば知るほど、わたしは貴女を狂おしく愛せる気がするから。貴女のための『わたし』になれると思うの。貴女が気に入ってくれるような、貴女に捧げられる、貴女を廃人にする、貴女だけの素敵なマリオネットに――
「蓮子ちゃんは結構音楽聴く方なの?」
「そうですね。何かもう音楽しか生き甲斐がないとか言っちゃっても過言ではないレベルで……わたしも雑食ですけど、他の人よりは沢山聴いてる方だと思います」
「私も音楽大好きだし、今度蓮子ちゃんお勧めのアーティストとか教えてくださると嬉しいわ?」
「勿論、喜んで!」
そんなことを話していると、マエリベリーさんが鍋の中からこんにゃくを摘み取った。
薄い桃色のリップの中に放り込まれたそれをゆったりと咀嚼しながら、うんうんと得心が行った感じの仕草を見せて笑ってくれる。
「うん、美味しいわ。蓮子ちゃんお料理上手なのね」
ふいに褒められた途端、思わず帽子を深く被って視線を逸らしてしまう。
何か嬉しいような恥ずかしいような複雑な気持ち。それはジサツの記憶しかないママにいい子いい子して貰ってるみたいな、あるいは彼女としてお気に召して頂いてる感じ?
貴女の隣に置いて貰える恋人としては、わたし……残念だけど不適格かもしれない。貴女のような素敵な人ならば、きっと引く手数多、素晴らしい未来が約束されているんだろうね。
そんな貴女が手に取ってくれる、貴女のための、貴女が愛してくれる、わたしの親愛なるマエリベリー・ハーンが手放そうとしないオートクチュールとしての『宇佐見蓮子』に生まれ変わりたい。
また始まったばかりの小さな恋の詩。何故こんなにわたしは入れ込みやすい体質なんだか。とにかく気持ちだけが先走って、やきもきとした感情が胸を焦がす。まだ出会ったばかりなのに、わたしの心は既に彼女のことでいっぱいになってしまっていた。
ああ、恋に恋焦がれるって、こんなに甘くて、切なくて、苦しくて、つらいんだ。
こんなにも貴女を想っているのに、その一言が伝えられない。どうしてこんなに貴女が――心に秘めた想いを見せるために、今すぐメスで胸元を切り裂いて見せてあげたい。
だって、怖い、怖いよ。貴女が神様のように感じられたからとか、始めてわたしのことを分かってくれた貴女に全てを捧げたいとか、その真意を受け入れて愛して貰えなかったら、わたしにはジサツしか選択肢がなくなってしまう。
それはそれで、踏ん切りが付いていいのかもしれないね。この世に残ってる未練が分からないし生きてるのがもう心底面倒でイヤなのに、死ぬための理由も見つからないなんて言い訳をしてだらだらと生きてるんだから。
それを消し去るために……わたしは平然と汚れて、男に犯されて、頭がおかしいフリして、手首を切って、クスリでラリっちゃったりしてる。こんなどうしようもない人間だったとしても、貴女は愛してると言ってくれるのかな?
「あ、ありがとう。うれしい、うれしい、な」
「うん、十分私より上手。蓮子ちゃんの彼氏が羨ましいな。こんな手作り料理が食べられるなんてね」
顔を真っ赤にしながら、ぶんぶんと必死に首を横に振った。
男なんて嫌いだ。大っ嫌いだ。あんなの身体目当てで人間を買うような下衆な奴ばかり。
マエリベリーさんならきっとやさしくしてくれる。貴女と恋人同士になれたら、必ずわたしは幸せになれるよ。
――だから、抱いて。
やさしく、殺めるように、抱いて。
ああ、ああ、そう言えたら、此処で抱き付くことができたら良かった。
貴女の胸の中で泣きたい。今まで生きてきた分の絶望を全て受け止めて欲しい。
きっと貴女ならわたしのことを分かってくれる。今まで辛かったね、もうお大丈夫よ、泣かないで、これからも、ずっと一緒だからね。だから――調子ノンナヨ蓮子死ネ蓮子ウザイ蓮子クサイ蓮子ブサイク蓮子デヴ蓮子ビッ血xxx中毒蓮子ビッ血蓮子死ネxxx中毒蓮子ビッ血蓮子死ネxxx中毒蓮子ビッ血蓮子死ネxxx中毒蓮子ビッ血蓮子死ネxxx中毒蓮子ビッ血蓮子死ネxxx中毒蓮子ビッ血蓮子死ネ尻軽オンナ蓮子xxx中毒蓮子ヤク中蓮子死ネxxx中毒xxx中毒xxx中毒蓮子ビッ血蓮子死ネxxx中毒蓮子ビッ血蓮子死ネxxx中毒蓮子ビッ血蓮子死ネxxx中毒蓮子ビッ血蓮子死ネxxx中毒蓮子ビッ血蓮子死ネxxx中毒蓮子ビッ血蓮子死ネxxx中毒蓮子ビッ血蓮子死ネxxx中毒蓮子ビッ血蓮子死ネああうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい黙レ皆死ネ死ンジャエバイイ皆死ネヨ私ノタメニ死ネ死ンデオ願イダカラ死ンデ蓮子死ネ皆死ネ蓮子死ネ皆死ネ蓮子死ネ皆死ネ蓮子死ネ――
「あ、ああ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、やめて、やめてよ、やめて、やめて、やめてよ!」
突然舞い戻ってきた幻聴で、頭の中が発狂しそうな言語で埋め尽くされた。
眼を閉じて耳を塞いでも心は声声声声声声声声声声声其処は不安な言葉で満ち溢れている。
意識をなくして欲しい。ゲームの電源を切るようにリセットさせて。こんな姿見られたくないよ。
折角大好きになった人の前で、こんな狂ったわたしは嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌イヤイヤイヤイヤイヤ絶対嫌なんだから。
「蓮子ちゃん、大丈夫?」
心配そうなマエリベリーさんの声が、やさしさと憂いを帯びたトーンで鼓膜に響く。
頭の中のわたしの声と彼女の声がぐちゃぐちゃに混ざって、何が何だか分からなくなる。
今すぐ貴女に抱きしめて欲しかった。ぎゅっと抱きしめてくれたら、この幻聴は絶対収まるよ。
それなのに、わたしの大好きな人、わたしの神様は手を差し伸べるだけ。声で励ましてくれるだけ。所詮上辺だけなのかと信じたくもない想いが湧いた瞬間、自分で自分を殺したくなった。
蓮子ちゃん大丈夫? 蓮子ちゃん、大丈夫? 蓮子ちゃん、大丈夫? 蓮子ちゃん、大丈夫? 蓮子ちゃん、死んだら? 蓮子ちゃん、死んだら? 蓮子ちゃん、死んだら? 蓮子ちゃん、死んだら? 蓮子ちゃん、死んだら?
蓮子ちゃん、死んで? 蓮子ちゃん、死んで? 蓮子ちゃん、死んで? 蓮子ちゃん、死んで? 蓮子ちゃん、死んで? 蓮子ちゃん、死んで? 蓮子ちゃん、死んで? 蓮子ちゃん、死んで? 蓮子ちゃん、死んで? 蓮子ちゃん、死んで?
蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ――
ふざけるな全員死んじゃえばいいんだどうせわたしはクズだ恋愛する権利はないそれならみんな死ねばいい死んでよ死ね死ね死ね!
その叫び声が心の奥底から喉元でつっかえた瞬間――ぱしんと音がして、わたしは自分の肩に回されようとしていたマエリベリーさんのてのひらを乱暴に振り払っていた。
違う。こんなの、やだ。違う。無意識のせい。わたしのせいじゃない。無意識もわたしだよ。わたしはわたし。宇佐見蓮子は宇佐見蓮子にしかなれない。貴女が自分自身でマエリベリー・ハーンと言う存在を拒否したのよ。
心の中にいるわたしが笑う。げらげらげらげら、ざまあみろと言わんがばかりに嘲笑う。結局私ハ虫ケラ以下ノ腐レビッ血デxxx中毒ヤク中毒宇佐見蓮子ガ死ヌコトデ世界カラ害虫ガ駆除サレルダカラ早ク死ネ蓮子死ネ。
ぎゅっと閉じた瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
もう透明な血は流れ過ぎて、泣き疲れて枯れてしまったはずの雫が頬を伝っていく。
こんな狂ったわたしは愛して貰えるはずがない。こんな汚れたわたしが愛される資格なんて最初からなかったんだよ。
リストカット常習犯。
オーバードーズ大好き。
ニセモノの愛が欲しくて援助交際。
犯されてる瞬間だけひょっとして気持ちいいとか勘違いしたメス豚は、男の前では股を開いてあんあん鳴いておねだり。
終わったら汚されて悲しいね。宇佐見蓮子ちゃん可哀相だね。そうすることでしか生の実感を得られないんだから仕方ないよね。
あはっ、苦悩なんて随分偉そうなこと言うんだ。そうやって自分は悲劇のヒロイン、センチメンタルな気分に浸っちゃって悦に入ってるだよね?
――こんなわたし、誰が愛してくれるんだろうね。
ただでさえ汚らわしいわたしを神様が愛してくれるって言うの?
今更だよね。愛してくれる人がいないから、こんなことして惨めなフリしてお終い。
ああ、これが夢じゃないなら、せめて夢と忘れさせて。
貴女と奏でたハーモニーのことを思い出すたびに、きっと悲しくなってしまう。
もうこれ以上わたしをいじめないでよ。どうして、どうしてわたしだけこんな目に遭わないといけないの?
愛なんて欲しがったわたしが悪いなら謝ります。お願いします。何でもします。だから、どうか、どうか、お許してください。わたしの、わたしの信じた神様――
「や、やだ、やだよ、や、いや、やめて、やめて、ごめん、ごめんなさい、やだ、いやなの、だから、ゆ、る、し、て、よ……」
その場にぺたんと座り込んで、肩をわななかせながらうずくまるわたしの姿を見て、みんなが奇異の視線を浴びせ掛ける。
宇佐見さん大丈夫ですか? また蓮子かようぜえ。蓮子ちゃん、蓮子ちゃん!? あの子いつもパニックでああなってるよね、正直迷惑なんだけど。
蓮子ちゃん、しっかりして! あいつ構ってちゃんだからああしてんじゃねーの。蓮子ちゃん、先生呼んでくるから待ってて。いらねーよこいつどうせまた早退したいだけなんだろ。さっさと死ねよ。
上っ面だけの先生達の心配そうな言葉とデイケアのメンバーからの冷ややかな声が、頭の中で交互にうわんうわんと輻輳して鳴り止まない。
わたしはパニクってなんかいない。わたしはこうなりたくてこうなったんじゃない。わたしは構って欲しくなんてない。ちゃんと先生の指示通り此処に来ただけ。死ぬのはお前だお前が死ねばいい。
蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ宇佐見サンダイジョウブ死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子チャンセンセイ呼ンデクルネ死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子チャン頑張ッテ死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ。
うざい声。哀れむような言葉。上辺だけのぺらぺらな愛情。そんな中途半端なもので愛して欲しくない。本当は可哀相なんて思ってないし、面倒臭いだけの害虫だと思ってるくせに、そんな貴女達に同情されたくもない。
それなのに、それなのに、その中に……マエリベリーさんの声が混じっている。嫌だ嫌だ嫌嫌嫌聞きたくないわたしの愛する人の見せかけだけの愛情なんてわたしは要らない欲しくなんてない!
所詮わたしはこうやって普段は人付き合いの席では表面上ダウナーな感じに見えないように装っているだけに過ぎなくて、パニックに陥った瞬間こんな有様だからどうしようもない。
それで先生にチクられて、看護士に注射を打たれて無理矢理眠らされる。セルシンかヒルナミンの類で無理矢理沈静させられた身体は気だるくて動くこともできないし、そもそも注射が大嫌い。
あのトゲの先端自体は美しく思えるのに、身体の内部に入ってくるそれは虫けらの性器を思わせるから。また嘘をついたね。ああやって挿れられてあんあん鳴くのが大好きなくせに。汚れていく自分に酔ってるくせに。きゃはっ、馬鹿じゃねーの?
貴女は誰だ。わたしはわたし、わたしは宇佐見蓮子。それなのに、今心の中で笑ってる貴女は誰なの? わたしはわたし、宇佐見蓮子は宇佐見蓮子で、宇佐見蓮子は宇佐見蓮子をやめることができないんだよ?
あの空に還らない限り、ずっとキチガイのレッテルを貼られたまま生きるしかない。私ハ虫ケラ以下デ、誰モ分カッテクレナクテ――踏ミ潰サレテ、死ンデモイイ。
悲劇のプリンセスを演じたいわたし。
普通になろうとして『普通』になれなかったわたし。
虫けら以下の扱いを受け続けて人間として認められないわたし。
マエリベリーさんに愛されたいと思うわたし。わたしはわたしだけをわたしが愛したいと思うわたし。
わたしは何処までも強欲で全てを望んだ結果がこれか、そう思うと呆れを通り越して笑いが零れてくる。
たったひとつだけの望み、それはマエリベリーさんから愛されること。それ以外は捨ててしまっても構わない。もしも世界の人々を大量虐殺することになっても、わたしは彼女を愛し続けるから――
服の袖で目をこすりながら、ゆっくりと立ち上がって汚れを落とす。
心の中で歌う。思い出す。貴女と奏でたParanoid Androidの狂気と絶望が織り成すハーモニー。
そして先生を呼びに行こうとしたエレンさんの方を向いて、小さな声で言葉を掛けた。
「心配させてしまってすみません。でもわたし、もう大丈夫ですから」
理香子先生とエレンさん、そしてマエリベリーさんが戸惑いの表情を浮かべてじっとわたしを見つめる。
作り笑いは得意だから大丈夫。やんわりと微笑んで見せるけれど、流石にばればれだったかもしれない。
「ちょうど昼休みだし、先生も時間取ってくださると思うから……素直に診察を受けた方がいいと思うわ」
「うん、同感。蓮子ちゃんはそうやっていつも無理するからいけない。もっと自分のこと大切にしないと駄目だよ」
ふたりが口々に診察へ促す傍らでマエリベリーさんはわたしと同じように肩を震わせて、まるで何かに怯えているみたいだった。
他のデイケアメンバーは例によってシカト。そんな人達のことはどうでもいいけど、彼女はわたしのパニック症状、謎の発作に驚いて戦慄しているのかもしれない。
さっきまでは和気藹々と話していたから、それはある意味当然の反応だと思う。自分の言葉でわたしを傷付けたなんて思っているならそれは誤解、マエリベリーさんが自分を責めることだけは絶対にして欲しくなかった。
でも、だけど、彼女に怖がられている、恐れられている――そう思うだけでどうしようもなく悲しくて、目尻に溜まっている涙が今にも零れ落ちそうだった。
ぐにゃりと歪んだ景色の中で、エレンさんの袖をぎゅっと掴む。
注射だけは絶対に嫌だったし、独りにして貰えたらきっと大丈夫だから。
これ以上マエリベリーさんを悲しませるような真似なんて絶対にしたくない。
からからに渇いた喉の奥からその想いをぎゅっと搾り出して、大きな声で訴えかけた。
「エレンさん、わたし、わたし、本当に大丈夫ですから。ちゃんと頓服も持ってきてますし、お昼は食べられそうにありませんけど……奥で横になっててもいいですか?」
理香子先生とエレンさんは顔を見合わせた後、やれやれ仕方ないわねと言った感じではあと息を吐いた。
此処のデイケアには中学校の頃から通ってるから、理香子先生とエレンさんは主治医のちゆり先生よりわたしについて詳しいとも言える。
絶対嫌だと言う意思表示はちゃんと伝わったみたい。エレンさんは踵を返してこちらに戻ってきて、わたしの帽子をぽんと叩いて見せた。
「うん、分かった。午後のレクも無理しなくていいから、具合が良くなったら参加してね」
「それがいいわ。もしも調子悪くなったら絶対に言うのよ。診察中だってちゃんと先生は時間空けてくれるんだから」
エレンさんに続いて合いの手を入れる理香子先生の言葉に、わたしは「ありがとうございます」と小さく礼を返した。
ちょうど味が馴染んだ頃合だと思われる筑前煮の火を止めて、奥の方に設置してある仕切りで区切られた休憩スペースへ向かう。
周りの反応は、案の定「またかよ」って感じでわたしを軽蔑するような眼差し。その中でマエリベリーさんだけが、悲しそうな瞳でわたしをじっと見つめていた。
ふと目が合うと、申し訳なさそうに視線を逸らしてしまう。そんなの貴女らしくない。貴女には凛とした素敵な笑顔が似合うんだから、そんな顔はして欲しくないんだよ。
ちょっとだけ引き返して、マエリベリーさんの目の前に舞い戻った。
貴女と一緒に過ごした時間、とても楽しかったよ。そんな心からの想いを込めて、精一杯の笑顔で微笑んでみせる。
憂いと儚さを帯びた瞳は心なしか力なく見えたけれど、マエリベリーさんもわたしの目をしっかりと見据えてくれた。
今はたったそれだけのことでも、十分過ぎるほどに嬉しい。ひとつ呼吸を置いて、ちゆり先生の快活な笑い声を思い出しながら言の葉を紡ぐ。
「ごめんね。マエリベリーさんのせいじゃないの。こんな感じの病気だから、突然おかしくなっちゃうことがあって」
「ううん、私が悪いの。きっと多分、うっかり変なことを口走ったから蓮子ちゃんの心の何かを刺激しちゃったんだと思う。本当にごめんなさい」
「違う、違うの。自分を責めないで。さっきの会話ね、本当に楽しかったんだから。もっと、もっと貴女と話したい。
もっと沢山、色んな話を聞かせて欲しいの。マエリベリーさんと話したほんの僅かなひとときはわたしにとって……小さな幸せを噛みしめる、大事な時間だったんだから」
心からの本音をそのまま吐き出すと、マエリベリーさんがほっとした感じの笑顔を返してくれた。
愛されなくてもいい。貴女が笑っていてくれたらそれでいい。自惚れなの、お得意の自惚れだよ。
そんな覚悟を決めて生きていけるほど、わたしは強い人間じゃない。ただの構ってちゃんなメンヘラ、それがわたしだよ。
心の中に降り積もる小さな幸せを積み重ねて、それが連続するように人間は日々を乗り越えていく。
そんな些細な幸せだけで満足することができたら、きっとわたしは今よりマシに生きることができたのかもしれない。
だけど残念ながらあまりにも何もかもを与えられず、あらゆる感情を知らないまま育ったわたしは何処までも強欲で、どうしようもなく臆病者で、誰よりも汚くて穢れた人間になってしまった。
こんなわたしだから、貴女を愛する権利なんてやっぱりないんだよね。それでも、今だけでもいい、少しだけ、もう少しだけ――夢を見させて欲しいの。貴女の隣に置いてくれたら、それだけでわたしは本当に幸せだよ。
「うん、私も蓮子ちゃんと音楽の話をすることができて本当に楽しかったわ。また元気になったら、一杯お話しましょうね」
「約束だよ? 約束だよ? マエリベリーさん、ちゃんと約束して。わたし、心配なの。また、いつか、必ず話せるかなって……」
ずるいやり方かもしれない、でもわたしは形振り構っていられない。
ただ、もっと、純粋に……貴女と話がしたい。たったそれだけの想いで、約束と言う名の枷を強要させる。
答えなんて分かってる。分かってるのに、不安なの。だって貴女は神様だから、また気が付いたらふっと消えてしまいそうだから。
ふと、マエリベリーさんの真っ白なてのひらが差し出されていることに気付いた。
すらりとしたか細く綺麗な小指をおずおずと突き出して、ちょっとだけ恥ずかしそうに視線を逸らしている。
約束は指切り。絡めた先からほつれたままの運命の糸はまだ見えないけれど、必ず私達を繋ぐ想いが結ってあるってわたしは信じてるよ。
こうしてると手を繋いでるみたいで、何だかとても恥ずかしい。
でも、こうやって何かほら、ね、恥ずかしい、のに、ちょっと、嬉しいな。
この小さなてのひらを、むすんで、ひらいて。貴女の手を引いて走り出せたら、きっと新しい世界へ行ける。
「うん、約束しましょう。大丈夫だから、ゆっくり休んでね」
「ありがとう。ちょっと眠って、午後はちゃんとレク出られるようになってたらいいな」
そう言ってマエリベリーさんの顔を見ると、何故かぽっと顔を赤らめていてそれが滅茶苦茶可愛かった。
普通に考えたらこの歳でこんなのって、恥ずかしいことかもしれないよね。だけどそれだけでも、とってもわたしは嬉しいよ。
神様が叶えてくれる夢としては、あまりにもちっぽけな約束。ううん、でもね、今のわたしにはこれだけでも十分過ぎるから。
貴女の残してくれた指先のぬくもり、とてもやさしくて、大好き。大好きだよ。名残惜しいけれど、絡めた指と指を解く。
今度は逃げるんじゃなくて、本当に恥ずかしくて顔を背けてるって感じのマエリベリーさん、とってもキュートで大好き。
あまり感傷に浸ってても仕方ない。周りのことも考えて、そそくさとキッチンから移動する。
テーブルに置いてあった鞄を持って、仕切りで視線を遮るように囲われたスペースの奥へ向かう。
此処はデイケアの最中に具合が悪くなったり疲れた人が休憩するために用意されている空間で、三人掛けの長椅子に小さなテーブル、その上にはカモミールのアロマキャンドルが置いてある。
ゆらりゆらりとたゆたう炎と残り香の紫煙を横目に、ソファーに身体を投げ出す。いただきますとか普通の声が聞こえるだけで、幻聴の類はもう随分と遠くなった感じがするのに、何故か途方もなく落ち着かない。
蒼い試験管からデパスを口の中に流し込んで、がりがりと錠剤をかじってみるけれど、やっぱりどうしてもそわそわする。きっとマエリベリーさんのせい。だってあんなに素敵なんだもの、名残惜しくなるのは普通だよね。
――ああ、リスカしたい。
手首を切れば、間違いなく落ち着くから。
マエリベリーさんに触れた小指に傷を付けておきたい。
約束の証。誓いのキスの代わり。彼女を想って刻み込んだ流線型から走る痛みは狂おしいエクスタシーに変わる。
実際わたしは此処で切って何度も大騒ぎを起こしてる前科持ちだし、他のフロアにある整形外科に連れて行かれたことも数知れず。
衝動が走る。ぐっと押し殺す。気持ちいいの我慢するなんてらしくないし。切ろうよ、きゃはっ。そんな自分を殺す。何度も、何度も、ジサツする夢を見てる時みたいに殺し続ける。
わたしのヒステリックなんて此処だと日常茶飯事、でも彼女にとってあれは些細な出来事じゃなかったのかもしれない。
マエリベリーさんはあんなにわたしのことを心配してくれていた。此処で思いきりやらかしたら、きっとまた心配を掛けてしまう。
彼女の悲しむ顔なんて、絶対に見たくない。でも、ビルからの飛び降りや列車に飛び込む瞬間を見てた彼女は、妖艶な表情を浮かべたままくすくす笑っていたのに?
ふとそんな疑問が浮かぶけれど、マエリベリーさんと神様は違う。
きっとジサツする直前は必ず精神が混乱してしまうから、幻覚を見てしまっていたに過ぎない。
そうだ。あれは幻覚なんだよ。殺すべき、遺棄すべき、恨むべき、抗うべき――相手が見つからないわたしが設定した敵対する存在、それが神様なんて言うありえない対象に変わっていた。
そんな思考を、確かな勘が否定する。あの時に見た存在は確かに神様で、今目の前にいるマエリベリー・ハーンと同一人物だよ。ちゆり先生も「神様はいるんだよ」なんてはっきり言ってたよね?
もう考えれば考えるほどわけが分からなくなって、おかしくなった頭がさらにおかしくなりそう。
鞄の中から真っ白な普通の試験管を取り出す。そのままアーモンドみたいな蒼い錠剤ハルシオンを二錠飲み込んで、そっとソファーに横になった。
鮮やかに色付いた貴女の声が聞こえる。とても柔らかい音色を奏でるマエリベリーさんからのラヴソングはParanoid Android...
絶望の旋律に彩られた詩は、とてもやさしくて、たまらなく愛おしくて。意識がゆったりとした酩酊感を伴いながら遠のいて行く。
こんなに心地良く意識が薄れていくのは本当に久し振り。どうせすぐに眼は覚めてしまうけれど、何処までも安らかなこの感覚は死ぬ間際のそれに似ているのかもしれない。
...Rain down Rain down.
Paranoid Androidの後半で歌われていた雨の様子は、わたしの代わりに泣いてくれた貴女の涙だったのかもしれない。
ごめんなさい。ごめんなさい。嬉しくて笑い合ったり、悲しくて涙を流したり、不安な言葉に覆われた世界で悲しんだりするのも、全て貴女と一緒がいいな。
ようやく分かったような気がしたの。あの神様に抱いた感情の意味も、貴女に抱くこの想いの意味も、始めてのことで戸惑って困惑したけれど、もう大丈夫だから。
ああ、ああ、貴女とそんな関係になりたいわ。今すぐにでも伝えたい、この甘く切ない想い……この心臓をえぐり出して、貴女への想いが詰まった中身をそのまま見せてあげたい。
あの日からずっと、ずっと、宇佐見蓮子は、マエリベリー・ハーンに一目惚れしていました。こんなにも、こんなにも、愛しています、親愛なる貴女のことが好きで好きで好きで好き好き好キ好キ好キ好キ好キ大好キ――
<honeykiss>
<uncomfortable>
<sonic disorder>
隣のビルから覗き見防止のために取り付けられたシャッターの間から漏れ出す遮光で、ゆらりゆらり抗不安薬をオーバードーズしたような感覚のまま意識が覚醒した。
仕切りの向こうからはみんなの楽しそうな声が聞こえる。おそらく作業療法の真っ最中、折り紙で千羽鶴を作るとか手芸等々の治療になってもいないお遊びをしてるんだろう。
ふと、彼女のことを思い出す。マエリベリーさんとお話がしたいけれど、デイケア終了後患者は大体すぐに追い出されてしまうので、話す機会は実質レクの最中、要するに作業療法の時間しかない。
お遊びでも何でも構わない。さり気ない会話でいいから、彼女についてもっと知りたい。その一心で目を開いた瞬間飛び込んできた光景に、わたしの心は完全に奪われてしまった。
――な、ぜ ? な、ぜ ? な、ぜ ?
デイケアのみんなと作業療法に勤しんでいるはずなのに、どうしてこんな場所にいるの?
ソファーに寝転がっていたわたしの瞳に――マエリベリーさんの凛々しく引き締まった顔立ちが映っていた。
うなじに伝わるふわり柔らかい絹のような肌の感触。真っ白な彼女の太腿の上にわたしの頭が乗っかっていて、何故かどうしてか膝枕されている。
万華鏡の中で咲き誇る紫陽花の花柄を模したキャミソールは、女性的な肉付きの腿から始まって、深く切れ込んだウェストから布がびちびちに張り詰めた胸元へ続いていく。
少なくとも大学生と言うことはわたしと歳はそんなに変わらないはずなのに、こうして間近で見るとモデルみたいなプロポーションがより鮮明に浮き彫りになって見えた。
ああ、ああ、わたしの愛した人は夢見がちなシンデレラ。
陽だまりの匂いのする黄金色の髪は影を作り出して、エレガントなまつ毛に隠された大きな瞳は御伽噺の世界を映し出す。
憧れの夢を彼女はいつでも観ることができるのかな。口ずさむ魔法の歌は甘いソプラノ、奏でるメロディーはシャララララララ何処までもヘヴンリー。
貴女の見ている夢について教えて欲しい。貴女の瞳に映る世界のお話は、蒼い空の下で四つ葉のクローバーを探すシーンから始まる私達が主人公とヒロインの素敵な素敵な素敵な物語なの。
詩を忘れたカナリアにメロディーを思い出させて。貴女が好きだと、貴女のことを愛していますと誓いを告げるための詩を――神様に祈るように傷だらけの左手を伸ばして、そっと桃色のリップに触れた瞬間――
あは、ぁ……。声にならない、はしたない声が自分の口から漏れた。
ぬらりとした感触の舌が這い出して来て、指先に付いた蜜をぺろりと舐めしゃぶられる。
たまらなく心地良いエクスタシーが身体中に満ちていく。頭の中に快楽物質が直で流れてくる感覚が生々しくて、ふしだらな熱を帯びた吐息が止まらない。
そのまま伸ばした腕は、行き先を見失って虚空で停止してしまう。麗しの姫君はぺろぺろと舌でわたしの指を弄びながら、もう片方の手でワイシャツ袖口のボタンを外し始めた。
「あ、あ、やっ、や、だぁ、だ、め」
「パラノイアでヒステリアなアンドロイド。自己愛は快楽残響、妄想の幸福主義者。例えるならば、貴女はこんな感じかしら?」
マエリベリーさんは何かよくわけの分からないことを言いながら、指先を咥え込んだくちびるでちゅぱっと音を鳴らす。
ゆっくりとワイシャツの袖を下ろされると、そのか細い指がゆらり、ゆらり、曝されたわたしのリストカット痕を撫で始めた。
肘の内側から手首に至るまで縦横無尽、ずたずたに切り刻まれた無数の傷痕を順々になぞっていく。そのひとつひとつを緩やかにやさしく、狂おしいほど愛おしく指先を走らせる。
その傷を付けた瞬間のわたしの感情をしかと噛み締めて、刻み込まれた想いを確かめるように――彼女の指先から伝う低い体温に呼応して、痛みを感じないはずの傷痕がひどく疼いた。
感じる。感じてる。xxxやオ○ニーしてる時みたいなエクスタシーを、こんな行為でわたしは感じてる。体内を循環する血の流れがそのまま伝わって来て、確かな生の実感が其処には存在していた。
その切り刻まれた傷の意味を、彼女は肯定してくれてる。それがあまりにも嬉しくて、わたしを分かってくれることがとても心地良くて、血液は傷口の傍に集まって内側から張り裂けそうな勢いで蠢き始めた。
「あ、はぁ、ん、っ、あ、あぁん……」
傷痕に刻まれた思い出したくもない記憶を掘り返される嫌悪感と同時に、その込められた感情を察して想いを込めて貰ってるような不思議な感覚がゆったりと脳髄へ流れていく。
その傷は教科書を燃やされた時に切った。ああ、其処はパパに気絶するまで犯されて、ジサツするために刻んだ傷。あぁんそれは初めて援助交際した男に犯された後、どうしようもなく気持ち悪くてトイレを血塗れにしたんだよ。
嫌な記憶ばかりフラッシュバックするのに、背筋からぞくぞくっと悪寒とは違うおかしな快感が駆け巡る。その全てを赦し、癒すてのひらのぬくもりは何処までも艶やかで、眠りに落ちる時の夢幻な陶酔感に陥ってしまう。
価値のない自分への罰のつもりだったリストカットは自分の罪にはならなくて、ただ無残な傷細工として現在進行形で汚れているわたしのシンボルみたいなものだった。
そうやって何かと意味を付けてわたしが手首を切らなければならない理由は、きっと特にもう何もなくて……その痛みに無理矢理自分で意味を見出そうとしていたのかもしれない。
他人なんて傷痕を見てもキモいとかキチガイは死ねとか言うだけだし、可哀相だねとか痛いよね大丈夫なんて言うのは所詮上っ面だけの言葉だから、本当はどうでもいいと思ってるのが見え見えで苛々する。
そんな人ばかりだったけれど、マエリベリーさんは違う。貴女は、わたしが神様だと思った貴女は、わたしも忘れかけていたリストカットの理由を再び思い起こさせてくれた。
「この傷痕は、貴女が生きた証」
ああ、ああ、そうなの、わたしは、わたしは、ずっと飢えていた。
誰かに愛されたかったの。誰でもいいから、宇佐見蓮子を愛して欲しかったの。
そしてこの傷の意味を分かってくれる人が現れて――わたしの神様は全てお見通し、つまりそう言いたいわけでしょう?
ああ、今此処で、貴女の前でリスカさせて欲しい。
わたしの身体から、噴き出す鮮血を、貴女に見て欲しいの。
きっと、貴女なら、美しいと、言っ、てくれ、るはず、だから。
ことばがカタコト。意味が分からなくなってきた。
マエリベリー・ハーンはわたしのクスリ。飲み込んでしまえるのは、わたしだけだよ。
その指の動きを、そのまま、く、ち、び、る、で。わたしの、あ、そ、こ、で、続けて、欲しいの。
貴女にも味わって欲しいの、わた、し、の、くちび、る、だから、だから、あ、んっ、ぁ、はぁん、ぁ、あぁ……。
「す、き」
男の子を愛せなかったわたしが愛した人は女の子。
そんなことなんて、どうでもいい。心が正解だよ、ずっとそう信じてきたんだから。
「ア、ナ、タ、の、こと、だ、い、す、き……」
傷痕を愛おしむように撫で続けていたマエリベリーさんが、すうっと顔を近付けて来た。
一度ふわんと翻した蒲公英色の髪の毛が艶やかに舞って、シャンプーのいい匂いがふわり鼻孔をかすめる。
吐息と吐息が触れそうな距離。キス、して、欲しいの……そんな想いも見透かした神様は、すうっとくちびるをわたしの耳元まで逸らしてそっと囁いた。
「ちゃんと名前で呼んでくれないと嫌なの」
美しくも惑わしい甘い誘惑。
いじわる。いじわる。いじわる。いじわる、い、じ、わ、るぅ。
しれっとそんなことを言ってみせるなんて、焦らされる方の身にもなってよね。
わたしの心臓はもうどきどきが止まらなくて限界破裂。ああもう恋に恋焦がれて焼き切れちゃいそうなのに、どうしてそんないじわるするの?
雪のような純白のうなじから香るセカンドノートの匂いで、頭がおかしくなりそうだった。
黄金色の先端がくるんとウェーブした髪の毛はフローラル・フローラル。貴女の全てがわたしを狂わせる。
そう、こうして欲しかったの。狂わせて欲しかったの。もう貴女のことしか感じられなくなるようにおかしくしてみせてよ。
「……名前を呼んだら、わたしのこと好きって言ってくれる?」
親愛なる神様の御許で、ただわたしは懇願するしかなかった。
甘い吐息が吹きかけられた耳元で、ふっと彼女は鼻で笑って見せる。その仕草さえ何処までも美しいから為す術がない。
そのまま耳たぶを甘噛みされて「あはぁ」なんて喘ぐわたしを他所に、すっとマエリベリーさんが顔を上げた。
妖しく微笑んで見せる美貌の中にあって一際異彩を放つ、血の雫を落とした緋色の瞳が陶酔しきったわたしを映し出す。
紅い眼が瞬きをするたび、夜空に浮かぶ星のひとひらのようにきらきらと煌いて綺麗。淡く淡く光る空想の流星群が、真紅に染まる意識を狂わせる。
夢の世界に誘われる心地にうっとりしていると、リストカットの傷痕を愛でてくれた時と同じ肌触りで、細くすらりとした指がわたしの目に掛かった髪の毛をそっと払ってくれた。
「蓮子ちゃんのこと、大好きよ」
「『ちゃん』付けなんてイヤ。呼び捨てて言って。わたしは貴女だけの特別になりたいの」
くすくす、くすくす。くすくす、くすくす。
やんわりと笑いながらマエリベリーさんは再び耳元に顔を近付けて来た。
妖しい色香を吸い込んだ甘い吐息は、緩やかにそして確実にわたしの思考回路を蝕んでいく。
耳の聞こえないパラノイドに囁いて、大きな声で褒めてみてよ。
貴女の紡ぐ甘く切ない言の葉さえあれば、必ず愛だけは届くから。
眼の見えないアンドロイドに手紙でも、大きな字でしたためてよ。
頭の悪いこの虫けらに、大きな声で問いかけて。さもすれば愛だけは分かる。
こんなわたしでも怖がらずに扱えるなら、そのお礼に美しい詩を捧げましょう。
貴女のための、貴女にしか届かない、貴女だけに紡ぐ詩を、唯一残されたこのくちびるから伝えたいの。
いつでも望み通りに、いつまでも惜しげもなく、幾らでも何度でも与えてあげる。
「蓮子、愛してる」
ああ、ずっとわたしは心の底から愛されることを望んでいた。
奏でられた旋律は美しい音を響かせて、心の中をふわり包み込む。
もうわたしに神様は要らない。貴女が、貴女さえいてくれたら、必ず幸せになれるから。
他人は元より両親からも虫けら以下のゴミ扱い、誰からも愛されなかった宇佐見蓮子がこんな美しい人に愛して貰えるなんて。
あの駅のホームで心奪われた時から……そう、全て、全部貴女のせい。もうわたしは、自分の気持ちに我慢できなくなってしまった。
貴女が好きで好きで好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好きもう死ぬほど大好き。
どうしてだとか、意味がなんだとか、そんなの全然分からないよ。ただ貴女が愛の言葉を紡いで聞かせてくれたら、他のことなんて何も知りたくもないしどうでもいい。
頭の中で残響する貴女の声があまりにも心地良くて、うっとりまどろんだ眠り姫を演じるわたしは目を瞑って甘美な想いに耽った。
愛してるなんて言の葉を心に刻もうとすると、粉雪のように降り積もったやさしい想いがふわり、ふわりと宙に舞い散ってきらきら煌く。
ありがとう、嬉しい。今のわたし、とても幸せだよ。この世界を鮮やかに彩るためのロジックを、神様である貴女はたった一言で証明してみせた。
瞬きをする間に世界は変わる。何もおかしくなんかない。要するにわたしの見ているもの、それが世界だから。この素敵な魔法は、貴女にも通じるのかな。
詩を思い出したカナリヤは歌う。貴女を想う詩。貴女を信じる詩。貴女を愛する詩。貴女の全てを受け入れる詩。貴女との幸せを謳う詩。貴女との永遠を誓う詩――
「わ、た、し、も、わ、た、し、も、あなたのこと、あい、して、る」
「うん、私も、蓮子のこと愛してるわ。貴女と初めて会った時から、ずっと、ずっと、貴女に伝えたかった。借り物の詩ではなくて、私の言葉で、貴女へと誓う言の葉を……」
あやふやなわたしのカタコトの言葉に、彼女は心に抱えた薔薇の花束を手向けて美しい宣誓を告げた。
たどたどしくて出せないままのラヴレターみたいな想いと違って、貴女の紡ぐ言葉には確かな信念が宿っている。
それに比べて今視界に映ってるわたしの腕に刻まれたリストカットの痕は、何ともひどく無様で醜いんだろう。
よく見えるように、目立つところにこしらえた歪な傷細工。飾り疲れた傷痕の意味を知ってくれた貴女がいてくれて、わたしは本当に幸せなんだよ。
今語られた言葉は全て貴女――マエリベリー・ハーンの言葉として語られた愛だなんて考えるだけで、頭がどうにかなってしまいそう。
そんな貴女の全てを愛するし愛させて欲しい、それがたったひとつだけの願い。貴女は傷痕をなぞることでわたしを知ったけど、まだマエリベリーさんのことは全然教えて貰ってないよ。
だから、これからゆっくり、ひとつひとつ聞かせてくれたらいいの。どんなお洋服が好きか、貴女の好みの香水、貴女の好きな女の子、貴女の考える世界。貴女のことなら何でも知りたいわ。
わたしが知らない貴女が『ある』なんて絶対イヤ。その美しい矜持を以って手取り足取り教えてよ。ハグの仕方から、くちびるの重ね方、xxxで感じちゃう性感帯――わたしは貴女の思い通りのオートクチュールになりたいの、貴女好みの宇佐見蓮子に仕立てあげて見せて?
「……あのね、マエリベリーさん」
「『さん』付けとか嫌だとか言ったの、蓮子じゃないの。折角愛を告げたのに、いきなり不公平なんて認められないわ」
「ううん、違う、違うの。何か、ええとさ、その、マエリベリーって言いにくいから……貴女の愛しい名前を呼ぶための美しい言葉が欲しい」
ああ、また、わたし、何か変な我侭を言ってるのかしら。
甘えたいのかな。構ってちゃんなのかな。やっぱりボダなのかな。
そんなことは関係ない。私達だけが知ってる秘密が欲しかった。貴女とわたしだけに通じるおまじない。
貴女が気に入ってくれるかどうか分からないけれど、その言葉をわたしは永遠に愛することができる。
「うふふっ、蓮子ってロマンチストなのね。いいわ、貴女の好きなように呼んで。きっと私も蓮子が付けてくれた名前なら、必ず気に入ると思うから」
――貴女のための、美しいな、ま、え。
宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンだけの秘密の名前。
蒼く切なくて、ほのかな甘さが残る、狂おしいほどに愛おしくなるような名前。
運命に引き裂かれて遠い彼方で離れ離れになってしまっても、何時何処にいても貴女を感じられる素敵な名前。
こんなわたしの醜い傷痕を撫でた淡く儚い感覚で、その言の葉を紡いだ瞬間――想いがふわり桜の花びらみたいに伝う可憐な名前。
深遠の国の王子様を待ち焦がれている白雪姫の目を覚ますために必要なキスと共に甘く囁かれるファーストネームは、この世界で最も美しい、な、ま、え。
そんなマエリベリー・ハーンに相応しい真名を決める栄誉が、こんなわたしに与えられる……ああ、なんて素敵なことかしら。
雨に濡れてしっとりと鮮やかに色付いた紫陽花は、妖艶な雰囲気を醸し出す彼女の象徴としてはとても雅で、何処か倒錯的な色を帯びている。
むらさき。紫。空のキャンバスに鮮やかな色彩を構成する虹の要素――赤・橙・黄・緑・青・藍・『紫』はその外周にあって全てを飲み込んだ色の名前。
むらさき。紫。ゆ、か、り――日本語的にはぴったりだし、偶然か必然か分からないけれど、かのRADIOHEADも『in Rainbows』と言うアルバムをリリースしている。
でもなるべくなら、彼女の名前の印象を残したかった。紫色と言えば真っ先に思い浮かぶアメジストは、その高貴な光と共に大切な人との心の絆を深め、真実の愛を守り抜く強さを育むともされる宝石――
「……メリー」
ふと口から溢れ出した言葉は、心の奥底からわたしが殺した『わたし』がすうっと吐き出した。
それは遠い遠い昔――輝かしい未来と悲観的な現実をノートに書き綴っていた時の哀れで幼稚なわたしが、あの日校舎の屋上から飛び降りてジサツした詩人として名付けたのかもしれない。
あの頃の自分は、目に見えない力を信じていた。散々いじめを受け続けても、永遠にずっと空を眺めて、飛行機雲を数えながら終わりを待っていた。うだつの上がらない日々の終焉と、この世界の終わりを信じていた。
わたしは立ち尽くして悲しまない明日を願うことしかできないけれど、ただ世界はより深い蒼に塗り替えられてく。そして全てが蒼に染まった時に、此処から見える世界の限界、あの蒼い空にいつか還ることができる。
うんざりするほど永遠にずっと、ずっと、気が遠くなるような時間……そんな御伽噺を詩にして綴っていた。希望的観測ばかりを紡ぐ自閉的なわたしが世界の終わりを求めるなんて、やっぱりちょっと頭がおかしいみたい。
何かね、そう……誰も触れられない場所で永遠を誓ったふたりは眠り続けて、深く沈む夢の中でずっと、ずっと、ゆらり、ゆれて、ゆらり、ゆれて、ゆらり、ゆれて、そして目が覚めたらわたしも貴女も消えるんだ。
そんな詩ばかり書いていたの。絶望的な世界に救いがあると信じ込んで、置いてけぼりにされた現実から目を背けて、砕け散ったあの日がフラッシュバックして浮かんだ言葉は「メリー」と言う美しい名前だった。
――あの日、わたし、考えたんだ。
飛び降りて死ぬことができなくて、未来には何もないんだと絶望した時「詩を書くのは、もう止めなくちゃ」って。
自分の書いた詩の数々は所詮夢物語で――七夕の短冊やサンタクロースに出す手紙みたいに、何も叶えてくれはしない。
だから頑張って『普通』になろうとした。みんな『普通』に生きるためにつらい日々を過ごしているんだって思ったから。
あの頃はずっと詩の世界に逃避しちゃいけないって必死になっていたけれど、何処までも現実は残酷なまま続いていく。
こんな世界に産み落とした両親を心底恨んでいたからこそ、ママはそれを知ってて脳みそをピストルで打ち抜いて死んだ。
パパはこの汚れきった世界にわたしを強制的に適応させようと、暴力や性的虐待を繰り返す。要するにクソみたいな世界だから、それに相応しいメス豚になれよカスってことなのかもしれない。
もうどうしようもない現実に抗う術もなくわんわん泣き叫んでるうちに『普通』と言う概念が段々分からなくなって、意味の分からない病気扱いされた挙句、宇佐見蓮子は完全に生きる意味を見失った。
存在の証明をロスト。宇佐見蓮子と言う存在をロスト。そして詩を書いて想いを示す行為を捨てた空っぽのわたしがこのやり切れない気持ちを伝える手段は、援助交際やリストカットしか残されていなかった。
そんな貴女の目の前にいる現在の『わたし』じゃない、あの日死んだはずの『わたし』がメリーって名前を決めたの。
其処には意味なんて、きっとあるようで何もない。あえて言うならば、わたしが付けたからこそ見目麗しい貴女の名前は美しくなる。
自惚れとか思われるかもしれないし、その通りキチガイだって感じるかもしれないけど、キモい思想家でナルシストなわたしが昔はいたんだよね。
よく考えると笑っちゃうようなおかしな話でしょ? でもね、この死んだはずの「あの日のわたし」が残した貴女の美しい名前は、きっと純粋で汚れていないわたしが考えてくれたものだよ。
今はこんな残酷な世界だって貴女と共に歩くことができたら、きっと変えられるとわたしは信じてる。いつか見た蒼い空を見ながら、深く暗い森の中で永遠を見続ける夢が叶うかもしれないなって――
「メリーって言うのが私の名前になるの?」
「うん、メリーだよ、貴女はメリー。初めてわたしを愛してくれた人の名前。初めてわたしと恋に堕ちたいけない子の名前。この汚れた世界で一番美しい名前……」
くすくすとマエリベリーさんは笑って、膝枕したままじっとわたしを見据える。
うっとりとまどろむように微笑むメリーと名付けられた女の子は、何処までも儚く夢現で美しい。
「うふふっ、初恋なんだ?」
「うん、そうだよ。メリーは初恋じゃないの?」
「どっちだと思う?」
メリーってば本当にずるいんだから。質問に質問で返すとか反則だよ。
ちょっとからかわれてる気がするし、メリーのはじめてがわたしじゃないなんて事実もイヤなの。
「メリーって、いじわるなんだね」
ふてくされて被ってた帽子で自分の視線を覆い隠してやると、またメリーはあどけなく笑ってみせる。
こんな態度を取ってしまうわたしがおかしくて言ってるんだと思うと、ほんの少しだけでも反抗したくもなるよ。
だってこれって、メリーのてのひらの上で遊ばれてるみたい。そんなにわたしは子供じゃないんだから。なりたくもない大人になっちゃっただけなんだよ。
まだお互いのことが全然分からないし不確かだけど、貴女の方が年上なんだろうし、主導権握ってるのは当たり前かもしれない。でもさ、何か悔しいんだもん。
真っ暗な帽子の中でささやかな抵抗を試みると、メリーの指がゆっくりとわたしの髪をすいてくれる。
素っ気ない口振りとは裏腹なやさしい体温が伝う感触はたまらなく心地良くて、あっさりとわたしの目論見なんか見抜かれてしまう。
それだけでもいいんだよ。こんな些細なやり取りだけでも嬉しい。ちゃんとわたしの心は、貴女に愛されてることが分かってる。
ずっと昔からばらばらに砕け散ったと思い込んでいたココロは、ただ眠って動いてなかっただけで壊れてなんかいなかったんだね。
「大丈夫。私も初めての恋なの」
「……うそ。うそだ。信じられない」
どんな表情をしているのか分からないけれど、やっぱりメリーはくすくす笑ってた。
精一杯強がってみても、まだいじわるするんだ。話し方のトーンとか考慮したら嘘を言ってないことなんてすぐに分かるよ。
でも此処まで来たらお返ししてやるんだから。メリーが好きってもう一度言ってくれるまで、わたしも好きって言ってあげない。
メリーはただゆったりとわたしの髪を撫でている。無言でそっと想いを伝えようとしてるみたいで嬉しい。
たおやかな肌触りの指先が触れると、絡み付いた部分をさらさらっとかき上げて大切に大切に扱ってくれる。
甘えたい。もっと甘えたい。その親愛なる人から可愛がられているなんて淡い想いに、もはやわたしの心は完全に病み付き状態だった。
ちょっと髪をいじられてるだけなのに、ついついうっとりとしてしまう。わたしが王子様のつもりだったのに、何かちょっと違う気がするよ。
「……どうしたら、信じて貰えるのかしら?」
「知らない。そんなの知らないんだから。メリーがちゃんと教えてよ」
玩具を買って貰えなくて駄々を捏ねる子供みたいにぶっきらぼうに言い放つと、髪をすいていた細い指がすっと移動して帽子を取り上げられた。
ほんのりと紅く火照った顔を改めて覗き込まれると、やっぱり物凄く恥ずかしい。ぷいっと背けると「逃げないの」と言わんばかりに、そっとほっぺたをてのひらで押し上げられた。
無理矢理正視させられる格好になって、じいっとメリーを見つめると……やっぱりどきどきして、どうしたらいいのか分からなって、ああ、本当に恋って焦れったくて、こんなにもどかしいの!
――穏やかな陽だまりの中で、メリーのぬくもりを感じながら眠る昼下がり。
まるで夢を見ているみたいだった。彼女から伝う体温がそれを否定してくれるけれど、それでも何か夢現な感じ。
抗不安薬をオーバードーズして筋肉が弛緩してゆらりゆらりする気分じゃなくて、心からこう何かな……ほっとして、安らいで、とろけてくる。
こうしてメリーが寄り添ってくれるだけで、幸せなんだ。そう、多分、これが幸せって言うんだよね。ようやく見つけたんだ、わたしの、し。あ、わ、せ。
そんなことをぼんやりと感じていると、ふとメリーが美しい長髪をふわり翻して見せた。
アメジストに輝く美しい瞳は、きらきらと輝くアンドロメダ。その瞳がわたししか見ていないことに気付いた瞬間「とくん」と心臓が大きく脈打った。
それは恋が鳴る音。絶望の旋律に乗せて届けられた借り物のラブソングとは全く違う、儚くも甘く切ないやさしい調べ。弾む恋のメロディを奏でるくちびるは、決して嘘をつかない――
「蓮子、愛してる」
小さな恋の詩を奏でたくちびるが、ゆらりゆらりとわたしの方に近付いて来る。
どきどき、どきどきと心臓の鼓動が止まらない。宝石のように強い光を湛えた瞳は、わたしを吸い込んで見たこともない不思議な色を映し出していた。
ふんわりといい髪の匂いと共に、優美な細面が影を作り出す。その真っ白な雪の上に咲いた真紅の薔薇から、恋の微熱を帯びた吐息を紡ぐ音と妖艶な色香が匂い立つ。
ほんの少しだけ、角度を合わせようと首を傾げたメリーと目が合った。
道端のシロツメグサみたいなわたしを映し出す瞳には――かつて、そして今も憧れている、この世界の限界を形作る色で、此処から一番遠い場所に存在する淡い空の蒼。
あの向こう側にずっと行きたいと想って止まない心の内側を見透かすメリーの瞳から視線を逸らすこともできず、わたしはそっと目を瞑った。
そっと、さり気なく「キスして」と求めるように……すると、そっと、ゆったりと、メリーの呼吸が、吐息が、わたしを犯そうとしてくれる。
そうやって貴女に、今メリーの心に秘めた想いの全てを以ってして、貴女のことしか分からなくなるようにぐちゃぐちゃに蹂躙して欲しいの。
おかしくなりたい。貴女とおかしくなりたい。貴女とぐちゃぐちゃになりたい。好きにしていいよ、この汚れた身体はもう貴女だけのものだから。
ああ、メリー。わたしの、めりぃ。狂わせてよ。おかしくして欲しいの。貴女のことを愛していると喚き叫ぶパラノイドなアンドロイドにしてみせて?
――天の蒼々たるは其れ正色なるや、その正の色なるか、その遠くして至極まる所なきがためか。
メリーのくちびるが落とされた瞬間に煌く赤い瞳。星の音が耳を塞いで世界が止まる。まぶたの裏側に広がる蒼い空は地平線の遥か遥か遥か遥か彼方――
「ん、あぁん、は、ぁ……」
薄桃色に染まったメリーのくちびるがねっとりと絡み付いて、わたしの呼吸を完全に塞いでいた。
頭の中は真空。呼吸不全。心肺停止。貴女のことが愛しい――その想いだけで身体に力を入れて、ゆっくりとメリーの首に手を回す。
くるんとロールした髪の毛の滑らかさと、絹のような触り心地のうなじから伝うぬくもりがたまらなく愛しい。ゆらり重ねられた吐息の先に、身体中の全神経が研ぎ澄まされていた。
上唇と下唇を丹念に舐め回すメリーの舌の動きに合わせながら、わたしも必死でくちびるをぎゅっと押し付けて、そのふんわりとやわらかい感触を愉しむ。
メリーから与えられる全てが欲しくて、もっと欲しくてどうしようもなくて、必死でくちびるを擦り付けた。
にじみ出した唾液が触れ合った先で絡んで、舌の先からだらりと蜜が零れ落ちる。それをすくい取ってぺろりと喉奥に押し込むと、キャンディみたいな甘い甘いアマイ恋の味が口の中に広がる。
とてもスウィートで美味しいの。それは多分きっといけないクスリ。恋に堕ちたふたりだけに許された禁断の果実は、甘美な快楽をもたらしてくれる。狂おしい色香が心の中に充満して、吐息が色っぽい熱を帯びていく。
その狂おしい香りと唾液のべとりとした生々しい感触をそのままに、メリーのくちびるにも口移ししてあげる。綿飴が絡んだ桃色のリップは潤んで、一際と艶やかな色彩を帯びて妖しい雰囲気を醸し出す。
目を開けてメリーの表情が見たい。でも、夢だったら……なんて考えると怖くて、わたしは、ただ、ただ、メリーにくちびるを思う存分弄ばれて、与えられる快楽に酔いしれていた。
こんな素敵なキス、本当にはじめて。こんなにもわたしを愛してくれているんだと言うことがやさしいタッチからふわりと伝う。
わたしをぐちゃぐちゃに犯すメリーの口付けは一切の抵抗を許さない強引なやり方なのに、そのくちびるの先からとろけてなくなってしまうような甘い一体感が素敵すぎて頭がおかしくなりそうだった。
今こうして互いのくちびるを貪り合うわたしとメリーは、もう間違いなく心の何処かで繋がっている。小指の先で結った運命の糸を、キスって言う名前のいけない遊びで確かめ合っているの。
愛なんて胡散臭いと思っていた絆――それは此処で真実となって、キスの快楽をクスリみたいな妖しいエクスタシーに変える。好きで好きすぎてどうしようもない、親愛なる人と交わすキスがこんなに気持ちよくて淫らなんて――
「は、ぁん……め、りぃ、めりぃ、あ、はぁ、め、り、ぃ…………」
メリーの芳しい吐息の匂いが口端から溢れて、わたしを狂わせる花の香りがふわりと鼻孔をかすめる。
ちゅぷちゅぷとはしたない音を奏でる可憐なくちびるから伝う感触は、今にも途絶えそうなわたしの意識から理性だけを的確に奪う。
しっとりと艶やかに濡れたくちびるから伝うゆらりゆらりとたゆたうぬくもりは、ふしだらな熱を帯びたまま真直ぐ心臓に向かって来る。
その鮮やかに色付いた淡い想いは、冷たくなった心の中でふんわりと溶けて消えていく。そして夢へ誘うような不思議な余韻を残しながら、ふわり霧散して宙に舞い散った。
誰からも愛して貰えなかったわたしの心に広がっていく、メリーのくちびるから届けられた答え。それはわたしが手首を切ることでしか感じられないと思い込んでいた、リアルな『生』の感覚だった。
――わたしは、生きている。今此処で、確かに生きている。
甘美な快楽と共に、心の底から湧き上がる実感。涙は枯れ果てて壊れたはずの命は、この胸の中で微かに鼓動を続けていた。
ずっと遥か昔にばらばらに壊れたと思っていた機械仕掛けの心臓は、こうしてメリーと紡いだくちびるから伝う想いを受け取った瞬間から、一秒毎に時を刻んでいることがはっきりと分かる。
何処までも心地良いメリーのぬくもりは触れ合ったくちびるの先で溶け合って、わたしの冷めた心と身体をやさしく温めてくれた。お互いが交じり合う感触は最高に甘く切なくて、色鮮やかに命の息吹を感じさせてくれる。
もうこの世界に救いなんて存在しないと諦めたあの日から――汚れ続けて傷付くことに慣れきった宇佐見蓮子と言う存在は、下衆で醜い欲望に塗れた男の掃き溜め、ただのメス豚、ひたすらに犯される対象でしかなく、最低な女、人間未満でしかなかった。
そんな醜悪で誰からも相手にされない虫けら以下のわたしが『わたし』であるためのリストカットと同じ感覚を、わたしにしかできないはずの『わたしは生きている』と言う証明を、メリーはキスなんて魔法でいとも簡単に暴いてみせた。
ああ、これは、なんなの、悪夢、それとも、現実、なの?
メリーの映し出して見せた世界は、わたしが『ありえない』とあの詩と共に遺棄したはずの希望的観測に満ち溢れた想いだった。
わたしのありとあらゆる全て――救いなき日常の虚無感に苛まれながら大人になって汚れることを選び、生きた証を刻むために手首にメスで切れ込みを入れて、知らない男と寝て刹那の快楽とお金を貰う等々の『価値』を得る行為。
そんな愛されるはずのないわたしが、在りし日に吐き捨てた想いで愛されている。どうしようもなく汚らわしいわたしのことをメリーはくちびるを重ねるだけで、宇佐見蓮子と言う存在を受け止めたまま全否定すると言う一見矛盾した完全な論理的証明をしてみせた。
こんなに気持ちいいのに、汚れた心がメリーの想いに触れると悲鳴を上げる。
心が痛い。心が痛いの。残酷な現実に胸が張り裂けそうなの。やだ、痛いの、やだ、痛いの嫌なの嫌嫌嫌イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤなの!
クスリが欲しい。メリー、もっとクスリを頂戴。キスしたい、もっと、キスしたいの。ずっとキスしていたいの。xxxしたい。貴女とxxxして死んでしまいたい。
だって、わたしは、わたしは、メリーのことがこんなに愛おしいんだったら、わたしはメリーのために、ずっと純潔でありたかった。メリーだけのものでありたかった。
どうして、おかしいよ。意味分かんないよ。不感症に戻りたいの。感じたくない。何も感じたくない。メリーの想いだけ感じていたい。メリーのこと以外分からなくなってしまいたい。
もう嫌なの。手首を切って血が噴出す瞬間の痛みも、滴り落ちる鮮血の色も、生臭い男の叫び声も、あの異物で犯される感覚も、もう思い出せなくていい。思い出したくもない。忘れさせて、忘れさせてよ、ね……。
わたしは自分が生きているって現実から逃れたいだけ。わたしは汚れないといけないんだってパパから教わったの。それなのに、どうしてメリーはわたしのこと好きなのに否定するの? わたしは死んでいるのに、何故貴女は生きているなんて言い聞かせるの?
メリーに愛されたまま死にたい。愛してるなら殺して。愛されてるから生きてるなんて意味不明。それなのにゼンマイ仕掛けの心に煌く幻の命は、あまりにも生々しく鼓動を刻む。生の悦びと絶望を叫びながら流れ出した血の涙が、どくんどくん動脈静脈を駆け巡る――
「あ、ん、れん、こ、あいしてる、ぁ、は、蓮子、れん、こぉ……は、あ、ぢゅ、あはぁ…………」
メリーの艶やかで倒錯的な色を帯びた嬌声が、このデイケアルームに響いても構わないとばかりに反響する。
この世界に存在しない紫色の薔薇の香りがするキスに酔っているのはわたしだけではなくて、メリーだって同じなんだってことはすぐに気付いた。
そんな彼女は上唇と下唇を舐るように挟み込んで、狭間に溜まった唾液をじゅるりと舌ですくい取って見せたり、こくんと白い喉を鳴らすいやらしい音が否が応でも背徳感を醸し出す。
ぬらりと蠢く軟体動物みたいな器官がくちびるの上を這いずり回って、生温かい蜂蜜を塗りたくりながら柔らかな表面を官能的なタッチでなぞっていく。
必死でわたしが抵抗しようにも、メリーにされるがまま犯されるのがあまりに気持ちよくて……舌をちろちろと絡ませたり、僅かな反抗を繰り返すことくらいしかできない。
何処までも好色な本性をむき出しにしたメリーの艶やかなキスは『ウサミレンコ』の存在を嫌でも認識させる、心も身体も蹂躙する繊細かつ威圧的な隷従の宣告だった。
貴女のお望み通りに、狂わせてあげるわ。私のことしか分からなくなるように――そう言わんばかりに、メリーのキスはひどくエスカレートしてやめる気配は一向に見当たらない。
香を焚いたようなむせ返るようなフェミニンな匂い、濃密に絡み合う花の蜜、湿り気を帯びて一段と鮮やかに染まるくちびる、その生々しい感触の数々が麻酔のように理性を蝕む。
いつもの援助交際なら頑なに拒み続けている舌を絡めるディープなキスを、わざとさせてくれないところがもどかしすぎて、余計におねだりの仕草を取ってしまう自分のいやらしさに嫌気が差す。
くちびるの間に割り込もうとするわたしの舌の侵食を、メリーはわざと歯を食い縛って逸らして見せるから意地悪。いじわる、いじわる、いじわる、いじわる、いじわる、本当にいじわるなんだから!
メリーはとことんサディスティックな方で、わたしを焦らすのがそんなに楽しいのかしら。
もう歯痒くて仕方ないキスは快楽を司る感覚のうち性感帯だけを残して、他の機能を完全に麻痺させていた。
くちびるから溢れ出した液体が、端の方からだらだらと零れ落ちる。彗星のような煌びやかな線を引いて残るそれは、つつっとわたしの首筋を伝って流れ落ちていく。
メリーの与えてくれたキスと言う名のクスリに、わたしの快楽中枢はもう完全な虜状態。こうして与えられる官能的な慈悲は、やっぱり神様のようにしか思えなかった。
わたしは子犬で貴女は神様。精神病患者隔離施設がエデンの園。絶望は旋律であって、絶望は快楽。そして此処は何処でわたしはだあれ――消えていくよ。わたしが、消えていく。
空の蒼に溶けて透き通っていくような、素敵な気分だった。交わったくちびるから溶けてなくなって、境界は何処までも曖昧。世界の限界を超えて、わたしの全てが蒼に変わる。
ああ、そうだ、わたしはこんな風になりたかったんだよ。ただこの記憶を真っ白に消して欲しかったの。そうしてわたしの心を貴女の極彩色に染まる記憶で上書きして貰ったら、きっと幸せになれるから。
メリー、貴女が欲しい。もっと激しく、狂おしいほどにぐちゃぐちゃに犯して欲しい。貴女の狂気に満ちたキス、零れ落ちた唾液、吐いて捨てた残飯、吐瀉物や排泄物、貴女が与えてくれるものならば何でもいい、もっと、もっと、メリーの、貴女の、全てが――
ああ、もう、メリーのこと、好きで、好きすぎて、もう苦しいくらいに好きすぎて頭がおかしくなっちゃった。
こんなの物足りないわ。わたしはもう大人だから大丈夫よ。こんな素敵なキスができる貴女だって、どうせ初めての恋なんてうそだったんだよね?
それでも構わないの。何もかも、メリーの言う通りにするわ。お金なら幾らでも貢ぐし、お洋服も好きなものを何でも買ってあげる。
わたしは、宇佐見蓮子は、貴女がお望みのいやらしい子になってみせるから、メリーお気に入りの可愛いラヴドールにして欲しいの。
――ずっと、ずっと、死ぬまで、わたしを愛して。
わたしのこと、離さないで。わたしのこと、見捨てないで。
わたしを、抱きしめてよ。わたしのすべて、奪って見せてよ。
宇佐見蓮子はメリーのものだって、みんなに自慢して街中で見せびらかしてよ。
こんなどうしようもない汚らわしいリストカット・オーバードーズ常習者でサポして男に犯されるのが大好きな頭おかしいこのわたしが貴女の恋人ですって――
「あは、めりぃ、めりぃ、めりぃ、だいすきだよぉ、だいすき、だいすき、だいすきだよぉ、めりぃのことぉ……」
ろれつが回らないくちびるをゆっくりと離すと、メリーも静かに顔を遠ざけた。
美しい線を引いた唾液が陽だまりに輝いて、きらきらと空想のシューティングスターを作り出す。
首に手を回している状態で顔を上げると体重が掛かってしまうので、自分も起き上がる勢いでメリーに抱き付く。
傍から見るとわたしがお姫様抱っこされてるように見えるかもしれない。このままラブホテルまでエスコートしてくれても構わないよ?
なんて冗談を平然と吐き出してしまうくらいには頭がおかしくなっていた。
あの幻覚幻聴の類を見ている時に起こりがちな、夢と現の狭間から無理矢理現実に引きずり込まれるような剥離感は全く感じない。
此処は間違いなく現実。甘い吐息の残り香がゆらゆらと心を彷徨う中、恐る恐る目を開けると――鮮血を垂らして紅く火照るメリーの顔がすぐ傍にあった。
キスの余韻をじっくりと咀嚼して心の中に仕舞い込んで、儚げな視線は虚空をぼうっと見つめている。その横顔は夢を見続けている少女のように可憐で、何処までも見目麗しかった。
このまま時を止めることができるのならば、メスで刺し殺して標本にしてあげたいほどの妖艶で官能的な美貌に、わたしの瞳は思わず釘付けになってしまう。
"幸せになりたいの"
呼吸を繰り返す理由なんて、たったそれだけだったのかもしれない。
残酷な現実を目の当たりにして、抗うこともできず心は仮死状態のまま。
それでもわたしには存在の証明が必要だったから、いじめにも抵抗できずリストカットを繰り返し、援助交際してニセモノの愛と身体を切り売りしてた。
段々そのクスリも効かなくなって、現実感が喪失――幾ら深く手首を切ってみても、イヤになるほど犯されてみても、痛みも、汚らわしさも、何も感じなくなってきた。
生死の二文字がぐるぐるぐるぐると回る頭の中。心と身体は、ばらばらばらばら殺人事件。わたしは死にたいのに、何故此処にいて、どうして息をしてるのかな?
生きてても何も感じなくなりつつあった不感症の夢遊病患者は、返り血で染まった紅い夢を見たまま、手首を切ることの意味すら忘れてしまいそうになっている。
そんなただの壊れたマリオネットに成り下がったわたしの目の前に現れた貴女は、その薔薇の花びらのようなくちびるからわたしの求めていた全てを曝け出した。
――わたしは生きていて、幸せは存在する。
証明は、成されたのだ。あれほど殺したいと憎んでいた神様の手によって。
仕切りの向こう側から、和やかなムードに包まれた歓談が聞こえてくる。
でも、そんなの、今の私達には関係ない。こんな焦らされた挙句、続きはお預けなんてわたしは考えたくもなかった。
お互いの荒い呼吸が繰り返される中、ゆっくりとメリーの身体に跨ってぎゅっと抱きしめる。
そして身体から伝うエクスタシーで火照った体温を感じながら、何処か違う世界を見つめているメリーの頬に口付けを落とす。
「こんな素敵なキスができるなんて、やっぱり初恋じゃないよ」
そんなことはもう関係ないけれど。と前置きしてから焦らされてる不満をあからさまにして言うと、やっぱりメリーはくすくすと笑ってみせた。
ふしだらな熱を帯びたままの夢現なキスの余韻を消化している身体のぬくもりを直に受け止めるだけで、わたしのおかしくなった頭はさらに制御不能に陥ってしまう。
メリーのことが、貴女のことが、貴女だけが、こんなにも、こんなにも、狂おしいほどに愛しくて――片時も離したくないの。貴女と笑う、世界のほとり。そんな何処までも続く蒼い空は、私達だけの世界だから。
もしも貴女がいなくなりそうだったら、貴女がわたしを愛してくれなくなったら、メスで臓器をえぐり取って標本にした貴女を大きな水槽の中に飾るの。ねえ、それってとても素敵だと思わない?
真っ白なほっぺたにつつっと舌を滑らせて、耳元で囁く言葉は『love you...』likeじゃなくて、loveだから。
心の中にある気持ちをそのまま、メリーに全て伝えてあげる。まるで壊れたマリオネットのようにわたしは繰り返し、繰り返し、愛の言葉を口ずさむ。
I love you, I love you, I love you, I love you, I love you, I love you, I love you, I love you, I love you, I love you, I love you, I love you, I love you, I love you, and kill you...?
そうだね、殺したいくらい、愛してしまったんだもの。貴女が違う人と話してると考えるだけで、わたしはいてもたってもいられなくなって、メリーにストーカーのように付きまとうかもしれない。
わたしの知らないメリーがいるなんて、そんなことは絶対に認めたくないから。もっと、ちゃんと、教えて欲しいの、貴女の秘密。眼球の大きさ、脳内細胞、心臓のカタチ、遺伝子情報まで貴女のあらゆる全てをわたしは知りたい。
「困った子。どうしたら、私は蓮子に初恋だってことを認めて貰えるのかしら?」
メリーが苦笑気味に言葉を紡ぐと、ふっとわたしのうなじに艶やかな余情を残したままの吐息が吹き付けられた。
未だキスの快楽は身体を蝕んだまま、あちこちが火照って低音火傷のように疼く。貴女の愛撫が欲しくて脳内で荒れ狂う快楽物質はもう制御不能に等しかった。
上の口はメリーのくちびるでぐちゃぐちゃになっているし、ショーツの生地も臭いが漂わないか心配になってしまう。こんなところで、そんな行為……できるはずがなかった。だけどそんなことはもうどうでもいい。
死ねとかキチガイ扱いされてもいいの。メリーが愛してくれるなら、わたしはこの残酷な社会及び世界を敵に回しても構わないから。理性と言う名の蝶番が外れてしまったわたしには、もうメリーのことしか考えられないしメリーのことしか感じられない。
メリーのことしか認識できないパラノイド・アンドロイド宇佐見蓮子はメリーの前に跪き靴を舐めた後、キスを交わしながら貴女のくちびるの中に鮮血を吐いて流し込むのだから。
そっとメリーに全体重を預けると、わたしが圧し掛かるような形で今度はさっきと逆の体勢になった。
貧相な胸と豊満な乳房同士が触れ合って、お互いの心臓の音が伝う。見下ろしたわたしの神様はじっとこちらを見つめたと思ったら、淫らに微笑んで大きな瞳を伏せた。
好きにしたらいいわ。そんな無言の合図に、わたしの中の理性は全て麻痺して思考が止まる。可憐な美貌に色付いた薔薇のようなくちびるに小さくキスを落としてから、そっと囁いた。
「したい」
したい。したい。xxxしたい。シタイ。死体。死体シタイ死体したい。美しい姿のまま標本にするために死体にシタイ。
そんな妄想に取り付かれてもおかしくはなかったけれど、此処は現実でもしもメリーを殺したらわたしは心の拠り所を失ってしまう。
本当に貴女を殺そうと思う時は――きっと他の誰かと親しそうに話してるとか、キスやハグを交わしてたとか、つまりわたしを裏切った場合以外ありえない。
わたしを愛してくれないメリーなんか殺して飾っておいて、貴女の死体とオ○ニーした方がマシだから。
大丈夫よ。ちゃんと毎日お着替えさせて、お外に連れて行って、お風呂に一緒に入ったらふたりでおやすみ。それも素敵な幸せの形だと思うよ?
「……何を?」
「エッチなこと。わたし、メリーとxxxしたいの」
ふと、メリーのくちびるが歪にねじれ曲がった。
あの神として振舞う時の彼女そっくりの、全てお見通しで楽しんでる証としての嘲笑。
そんなこと、今更――貴女が全てわたしの心を見透かしていようとも、全く以って構わない。
今持ってるメスで綺麗に胸を切り開いて、この心に渦巻く想いの全てを見せてあげたいくらいなんだから。
「私達、一応女の子同士なんだけど。蓮子は性別なんて気にしないのね」
「そんなこと、関係ない。わたしはメリーのことが好き。こんなにも愛してる。だからもっと可愛がって欲しいの。キスだけじゃ物足りないの」
「うん、そうね。キスなんかより手っ取り早いものね」
そんなことを言いながら、メリーは傷だらけの左腕をそっと手に取った。
そのまま誘われた先は、ふりふりのきめ細やかなレースで飾られたキャミソールドレスのアウター。
真っ白で女性的な質感の太腿を伝い、手触りだけであからさまに薄い生地だと分かるショーツにわたしの人差し指を触れさせた。
どくんどくん、どくんとくんと胸が張り裂けそうで、内側で脈打つ心臓の高鳴りが止まらない。
メリーがわたしのことを求めてくれていると考えるだけで、ありえない量のエクスタシーが脳内から溢れ出して頭が完全にイかれてしまった。
xxxしたいと言ったのはわたし、でも本当に受け入れて貰えるとは思わなかった。誘っているんだ。メリーが誘ってる。わたしとxxxしたいって、xxxして私達の愛を証明しようとしてくれている。
汚く欲望に塗れた、今までわたしを犯してきたパパや男達のことが脳裏を過ぎるけれど、ぶんぶんと頭を振る。わたしたちの行為は両者の同意と愛がきちんと通じ合った、お互いの愛を貪るためのxxxなんだから。
「……本当に、いいの?」
「ええ、勿論。私がどれだ蓮子のことぉ、を愛しているか、分かって貰えるなら、あ、はぁ、なんだっ、て、ん、っ、はぁ、するわ。それに――」
「それに?」
メリーはリストカットだらけのわたしの腕をすうっと股関節に導きながら、セクシャルな吐息を吐いて見せた。
興奮してたまらなくいやらしい気持ちになっていたのはわたしだけではなくて、きっとメリーも一緒だったに違いない。
こんなこと研修先の真っ最中にやっていることがデイケアの人にばれたら、停学どころの騒ぎではないと思う。
それでも、メリーは求めてくれた。わたしのことを愛している――とんでもないリスクを犯してでも、どうしても伝えたい。
其処まで愛してくれていると言うことがたまらなく嬉しくて、わたしは快楽に蒸気した顔を真っ赤にしながら気が付けば泣いていた。
メリーのキャミソールから曝け出した肌の部分から伝う低い体温が、ゆらりゆらりと揺らめく感じがたまらなく心地良い。
ずっとこうしていたい。メリーの傍らで、永遠の愛と快楽を貪るためのラヴドールとして可愛がって貰いたい。貴女のための、貴女のための、貴女だけの、貴女だけの宇佐見蓮子でありたい。
その可憐なくちびるから紡がれる言葉を待つ時間はまるで永遠のようで、心から吐き出したい想いが喉元で詰まってわたしは息ができなくなりそうだった。
「私が処女かどうか、蓮子自身に確かめて貰った方が早いでしょう?」
ぐるぐるぐるぐると頭の中で思考が錯綜する。
ああ、ああ、わたしが、この薄汚れたわたしが貴女の処女を奪う。
メリーがvirginだって言うことは何となく、勘としてだけど心の何処かで思ってた。
それはあの時貴女を神様だと感じた時と同じように――あはっ、美しい貴女が守り続けてきた純潔をわたしが穢す。わたしに犯されることを、貴女は心の底から望んでる。
Give and Takeなんて言葉は生温い。お互いを狂おしいほどに求め合って、愛を貪れば貪るほど愛おしくなって、メリーはわたしがいないと駄目で、わたしはメリーがいないと生きられない身体になっちゃえばいい。
万が一枯れ果てるようなことがあれば、ふたりで首を絞め合って死んでしまおうよ。わたしとメリー、片方でも欠けてしまった世界なんて何の価値もないわ。
ふたり仲良く何処かの高層ビルから飛び降りてあの空に還ったら、その世界の限界を超えて私達は永遠になれるはずだから。
クスリなんてお話にならないような狂おしいエクスタシーで、心の中は異様なまでに昂っていた。
メリーを犯す。あのクソみたいなパパや身体目当ての浅ましい男達と何ら変わらない人間として――宇佐見蓮子はようやく『普通』になるための第一歩を踏み出せるのかもしれない。
こうして大人になって、私達は汚れていく。子供の頃に描いた夢や詩を忘れて汚れながら、人間は『普通』になるために一生懸命生きている。
そんなことなんて無理だったし馬鹿らしいと心底思っていたけれど、メリーが隣にいてくれたらきっと大丈夫だから。
幾つものリスカを繰り返しては切り傷を数えて、いくつもの男に犯された罪を背負って、それでも心は何処かで夢を求めていたのかもしれない。
いつか見た日のわたしが――あの日から書き綴る詩に想い描く言葉と旋律を、メリーは想いを吹き込んで思い出させてくれた。
ああ、ああ、はじめて、はじめてわたしは神様に感謝します。メリーと出会うために今日までのわたしは存在していたとしか思えないよ。
貴女がいなければ、わたしはメリーと出会うこともできず死んでいたから。その神様が本当にマエリベリー・ハーンと言う名前だったとしても、今のわたしは全てを受け入れられる。
こんなにも貴女を愛しているとか、この気持ちをどう伝えたらいいのか、これからゆっくりと教え込んであげるからね。ただ、ただ、わたしはメリーのお気に入りのマリオネットになるために頑張るよ。
――身ノ程知ラズガ、虫ケラハ死ネ。
完全に麻痺した思考とメリーに支配されていた感情の狭間に入り込む幻聴。
世界が歪んだようなスローモーションに変わって、五感におかしな言葉不安な言葉汚い言葉がごちゃごちゃと渦巻き始める。
オマエハ幸セニナンカナレナイ。糞ビッ血に恋愛ナンテスル資格ハナイ。思イアガンナヨ、コノ淫○メス豚。コノメリートカ言ウ女モ売女ナンダロ。ネチョネチョ女同士デキストカキモインダヨ。
あああああああああああああああああああああ、ああああああああああああああああああうるさいうるさいうるさいわたしのことをメリーのことを馬鹿にするなお前が死ね死ね死ね死ネ死んじゃえばいいんだ!
死ヌノハオマエダ便○女男ノキャンディ舐メルノガオマエノ生キテル意味ナンダロ今更人間ノフリスンナヨ糞豚蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ。
落ち着けば大丈夫。大丈夫、わたしは、大丈夫。いつもの幻聴だから、メリーに慰めて貰って淫れてたらきっと忘れる。こんなのどうせ誰かの、デイケアの面子の妬みに決まってるんだから。
逃ゲンナ言イ訳スンナコノ糞ビッ血金ノタメナラココノ人間全員の△×○喜ンデシャブルヨウナ豚ニ誰ガ恋スルンダバカジャネーノオマエハ公共用ノ汚イ×器ナンダヨ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ。
ノイズが掛かったような幻聴が、次第にデイケア聞き覚えのある面子の声、スタッフの声、そしてメリーの声、わたしの声――ぐちゃぐちゃに混ざってわけが分からなくなる。やめて。やめてよ。もうやめてよ!
「早く奉仕しろよ、糞メス豚」
聞き覚えのある声。それはわたしの大嫌いな声。
ふと目の前を見ると、わたしを抱いているのはメリーではなくてあの糞みたいなパパになっていた。
ぞくぞくと背筋に悪寒が走る。夢が消えてメリーも消えて残った現実は、わたしが一番見たくない人の姿だったから。
パパは醜悪な笑みを浮かべて、わたしの髪の毛を乱暴にぐしゃぐしゃと弄繰り回す。
こんな男から生まれたと思うだけで自己嫌悪が身体中を駆け巡って、今すぐにでもジサツしたい衝動に駆り立てられてしまう。
こいつがわたしを生かしている理由、それはただの○器で性欲の吐け口。たったそれだけ、きっと歳を取って可愛くなくなったら、わたしはすぐに捨てられてしまうんだろう。
「お前が求めたんだろ。さっさと跪いて大好きなぺろぺろキャンディ舐めしゃぶれよ、早くしないと殺すぞ。誰がお前を育ててやったと思ってるんだ?」
平然と乳房を揉みしだきながら、パパはげらげらと笑って臭い口でキスを押し付けてきた。
オスのねっとりとした感触が気持ち悪くて、喉から嗚咽を漏らしても、パパはわたしのことなんて無視して身体のあちこちを触る。
べっとりと汗ばんだ手がキモ過ぎて吐きそうだった。そしてメリーに導かれていたはずの傷だらけの手を、わたしが一番忌み嫌う汚らわしい場所へ潜り込ませていく。
あ、あ、あ、あ、あぁ、あぁ、あ、や、いや、やだ、なにこれ、こんなの、やだ、あ、やだ、やだ、やだやだやだ、いや、近寄らないで。きたない、キモいってば、臭いんだって、触らないで、お前なんてわたしのパパじゃない。わたしを犯して頭をおかしくしてばらばらに壊した悪魔だ。死んでよ、早く死んで死んで死んで、もういやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!
</sonic disorder>
</uncomfortable>
</honeykiss>
ブラインドの間から差すやさしい夕日を浴びて、ゆっくりと意識が覚醒して目が覚めた。
あれからわたしはどうなったのか、どうされたのか皆目検討も付かないし思い出したくもない。
窓の隙間から外の景色を見ると、ぼんやりと夕景の空に幾億の星々が爛々と煌いている。
現在時刻は18時32分51秒、診察もデイケアもとっくに終わっている時間帯だった。
自分の身体に掛けられたタオルケットに気付くと同時に、仕切りの向こう側から声が聞こえる。
息を殺して耳を傾けると、どうやら今日のデイケアに関する反省会のような内容を話し合っているらしい。
――今まで見ていた夢は、本当に夢だったのかな?
わたしの心に自答自問――勿論答えは「あれは夢、ましてや幻覚でもない、間違いないリアル」だと答えた。
あのメリーから伝うやさしいぬくもりだって、髪をすいてくれた時の柔らかい仕草、やんわりと微笑んで見せる妖艶な表情、美しい言葉の数々――それは全て間違いなくリアリティに満ち溢れていた。
最後にパパに襲われた時のおぞましい感触だって、それはいつもの思い出したくもないそれに間違いない。あれが夢だとかありえない、その確信はわたしが神様を見た時のそれに似た感じだったけど……。
この記憶はおかしくなったわたしの脳内が見た幻覚に過ぎなくて、客観的事実を残す証拠は全く残されていない。
でも今回はいつもとは状況が全く違う。メリーと言う当事者がいる以上、わたしが寝てる間彼女が何をしていたのか訊ねれば全て判明する。
万が一にでも嘘をつく可能性は否定できないから100%の確証は得られない。でもある程度の目星のようなものは必ず付くはずだから。
ゆらゆらと仕切りに囲われたスペースから出ると、理香子先生とエレンさんが何やら話し合いをしていた。
メリーは何やらあれこれとペンを走らせている様子を見る限り、今日の出来事をレポートにしてまとめている最中と言ったところかな。
その面影には今日一緒に筑前煮を作っていた時の――Paranoid Androidを謳う可憐に咲き誇る薔薇のような澄んだ雰囲気を感じさせる。
凛とした端整な横顔から受ける印象からは、先程までキスを交わしていた時の妖艶な美貌は心なしか少し失われてる気がした。
ようやく起き上がってきたわたしに気付いた先生方は、ほっとした安堵の面持ちを湛えながらふんわりとしたいつもの笑顔で迎え入れてくれる。
「あ、蓮子ちゃん、具合大丈夫? 気分悪くない?」
「もし悪かったら先生まだ残ってるから診察して貰いなよ。処置受けたら少しは楽になると思うしさ」
身体的な具合と幻想幻聴の類は何ともなくても、心はあからさまに動揺していた。
此処は夢なのか現実なのか、わたしが知りたいことはたったそれだけ。あのメリーと交わしたキスが真実ならば、この世界がどうなっていようとも構わない。
――わたしの傷細工だらけの腕をやさしく愛でてくれたこと。
あのもちっとした感じで膨らんだ太腿から伝うとろけるようなぬくもり。
こげ茶色の髪をすうっとかき上げてくれる、何処までもしなやかでしとやかな指の感触。
濡れた蜜で絡み合う舌から伝わる質感と共に、お互いの境界が分からなくなるまで貪りあったくちびる。
あたかもそんな事柄は全てなかったかのような雰囲気。貴女は、メリーは、本当に何ひとつとして覚えていないの――?
もしも、もしも、万が一のことを考えるだけで、身震いが止まらない。
少なくとも理香子先生やエレンさんは、いつものわたしが知っている御二方に間違いなかった。
問題はメリーのことだ。メリーがわたしと耽ってた一部始終をちゃんと覚えていてくれたら、それだけでいいから。
大丈夫です。と歪んだ笑顔の仮面を被ったわたしは、ふたりを適当にあしらって中央のテーブルに近付いていく。
そっと視線の先にある書類を覗き込むと、メリーはすらすらと流麗な英字で詩を綴るようにレポートを書き上げていた。
夕凪の風にたなびいてふわり揺れるロングヘアーが、夜空に煌く黄金色の流星群を想わせる美しい残像を描き出す。
さっきメリーから貰った想いが胸につっかえて、言葉が上手く吐き出せない。それをぐいっと心の奥底に押し込んで、精一杯の声を振り絞った。
「メリー?」
ああ、どうか、夢ではありませんように――わたしは神様に祈る想いで話しかけた。
わたしとメリーだけの秘密。わたしとメリーだけの合言葉。わたしとメリーだけのおまじない。わたしが名付けた貴女の美しい名前。
ただ、ただ、それだけ、ちゃんと貴女が覚えてくれているのならば――他のことは全て妄想だったとしても構わない。
あまりにも唐突過ぎたからさ、仕方ないよね。名前さえ覚えていてくれたら、後からのことはもう一度私達が物語として紡いでいけばいい。
全てが嘘ではないと、今は信じさせて。どうか、どうか、素敵な思い出に変わりますように。そうふたりで心から願っていれば、その祈りは必ず叶うはずだから――
錯綜する想いが走馬灯の如く脳内を駆け巡っている間、メリーは小首を傾げて思慮に耽る仕草を見せた。
くるくるとペンを回転させた後、何処か遠い世界に想いを馳せる。それは何と言えばいいのか、都合の良い答えや素振り、あるいは答えに窮してるなんて印象を受けた。
一秒が永遠のように長く感じられる。貴女の紡ぐ言葉がわたしの理想であって欲しい。今のわたしはもはや、ただひたすらにメリーを信じることしかできなかった。
「私はマエリベリーだけど、メリーと言うのはデイケアのメンバーさんのあだ名のことかしら?」
う、そ、だ。う、そ、だ。う、そ、だよ、ね?
おかしくなった頭の中を駆け巡る快楽物資が逆流し始めて、あっと言う間にバッドトリップの拒絶反応と絶望が心を支配する。
周りに部外者がいるから、私達だけの秘密だから此処で話せない、恥ずかしいから後にしましょうとか、そんな雰囲気なんて微塵も感じられない。
何も知らない。彼女は、メリーは、マエリベリー・ハーンは本当に知らない。そんなことは何も覚えていないと言った素振りで淡々と語った。
――You don't remember You don't remember...
(あなたは覚えていない。あなたは覚えていない)
Paranoid Androidの歌詞通りの内容が、実際の出来事として起こっているような気がしてならない。
そんなこと、あるわけないよね。どうして、どうして貴女はわたしが名付けた美しい名前のことを覚えていないの?
いじわる。いじわる。メリーは、いじわる。ほんとにいじわるなんだから。
そんな言葉が脳裏を過ぎった瞬間は、そう思い込むしかなかった。わたしが目の当たりにしたメリーの全てを信じさせて欲しかった。
どうせ今はデイケアのスタッフがいるし、メリーは研修と言う名目でこのクリニックに通っている以上はある程度患者とは距離を置くこと、つまり公私混同してはならないと言う決まりを科せられている。
だけど此処からなら理香子先生にもエレンさんにも聞こえない。ただわたしは、メリーに一言だけ伝えて欲しかった。メリーに「これは夢じゃない」と言って欲しかった。メリーに「蓮子のこと、愛してる」と――
落ち着こう。落ち着こう。何度も心の中の自分に言い聞かせる。
クスリはそんなに飲んでない。むしろ処方通りだ。睡眠薬を昼間から服用すること自体が間違っているだけ。
超短期型だから身体から成分が抜けてないなんてイレギュラーもありえない。メリーはいじわるだから、何かしらの理由があるから、知らぬ素振りを決め込んでいるんだよ、ね?
「本当にいじわるなんだから。メリーはメリーだよ。さっき決めたばかりじゃない。貴女の名前は言いにくいから、メリーにしようって。そしたら貴女は喜んで――」
「さっき蓮子ちゃんが寝ている間は……ずっと私は午後のデイケアに参加していたわ。ほら、こうして今日は千羽鶴を折った後に編み物をしたの。蓮子ちゃんと一緒だったらもっと楽しめた、なんて考えると本当に残念だった」
メリーは嘘をついていない。
その理由は素直な口調だけで十分過ぎるほどに伝わって来た。
少しだけ困惑したような感じで話す彼女の机には、大きく広げられた千羽鶴の束と編みかけのマフラーが置いてある。
きっと理香子先生やエレンさんに聞いても答えは同じだろう。メリーはずっと午後のデイケアに参加していて、わたしはただ昏々と眠ったままあのソファーで夢を見ていた。
誰かに愛されるなんてことを知らない神様が見せてくれたものは夢や幻覚の類、これまで貴女のことが本当に大嫌いだったけど、此処まで辛辣な嫌がらせをするなんて思わなかった。
それ以前に、いまだわたしはこの状況を信じることができず、心がひどい拒絶反応を起こしている。あれは夢なんかじゃない、幻覚でもない、何処か遠い御伽噺を聞いていたわけでもない。
あれは確かに存在していた出来事であって、現実に起こりえた事象なんだと五感の全てが訴えかけていた。否定したくなかったのかもしれない、いや、でも、それ以前に、あんな感覚が夢や幻覚なんて思えるはずがなかった。
メリーが愛でてくれた全ての想いを、今もはっきりと鮮明に覚えている。髪の毛をすいてくれた時の柔らかいてのひらの感触、何処までも甘く切ないキスから伝うやさしい想い。それら全ては確かに……この世界で体験したはずの出来事だった。
わたしの認知している『現実』が、おかしくなったのかな。それともわたしの認知している『世界』がおかしくなってしまった?
CTスキャンやMRI等々の直接的な脳検査やロールシャッハ・MMPI心理テスト――色々受けたけれど、少なくもわたしはほとんど異常のない、つまり先天性ではなく後天的かつ環境的に因る発病だとちゆり先生から言われた。
何にしろそんな理由なんてどうでもいいし、わたしの頭がおかしいとかそんなことは前々から分かりきってる。ただ、ただ、メリーと見た夢が本当に夢であるなんて残酷な現実を、わたしは絶対に受け入れたくなかった。
物理的証拠がない心象風景が広がる世界において、恋なんてものは数式として定義できない。ある哲学者は論理的に思想を表明することを『世界は事実であることの全てである』と自らの著書で語っている。
さっきまでメリーとふたりっきりだったあの時間が事実ではないとするならば、わたしの世界は何処へ行ってしまったのかな。やはり全て夢で、事実ではない以上あれは『世界』として語りえないことになってしまう。
結局のところメリーが事実として認識できていない以上、あの何処までも甘くてスウィートなひとときは世界、つまり現実として受け入れられない。こんな作られた夢に酔いしれていた哀れなわたしを見て神様がげらげらと嘲笑う。
ああ、死んでしまうまで奈落は何処までも果てしなく続いていて、いつまでも苦しみ続けなければならないんだ、この命が終わりを迎えるその日まで……わたしは今にも零れそうな涙を必死になって堪えた。
――命題7:語りえないことについては人は沈黙せねばならない。
その哲学者の『哲学が扱うべき領域を明確に定義する』ための哲学書の最後はこう締め括られている。
つまり今のメリーのことだ。起きている事、つまり事実とは、幾つかの事態が成り立っていることを示す。
彼女にとってその事態、わたしと過ごした甘い時間が存在しないのであれば、それは事実でもなく事実でもない以上は、現実もしくは世界ではない。
この世界で起こりえなかったこと――つまりわたしの夢や幻覚の類に過ぎない。大嫌いな哲学の言葉によって論理的帰結に導かれた答えは途方もなく残酷な結論を突き付けた。
そう、要するにやっぱり世界を『わたし自身の感じえる全ての事柄』と仮定するならば、わたしにとっては先程の甘いひとときが世界でも、メリーにとっては何の変哲もないデイケアの時間が世界になってしまう。
お互いが見ている世界が一致しないと、恋愛なんて類のあやふやな感情論は主体性を持ち得ない。其処ですれ違いが発生している時点で、わたしたちは恋仲でも何でもなくて、ただ今日初めて此処で出会ったクランケと研修生。
もしもわたしが神様で、さっきまでわたしが見ていた世界を貴女の瞳が映し出す世界にそのまま置き換えてやることできたら……ああ、ああ、こんなのって、こんなひどいことなんて、ないよ、神様、貴女はやっぱり悪い人――
「メリー、本当に、本当に、あの時のメリーは貴女ではなかったの? わたしは、わたしは、夢を見ていただけなの?」
そんな答えなんて分かりきっている。
それでもわたしは聞かずにはいられなかった。
貴女のことを、貴女と過ごしたあの時間を――ただ、ただ信じたかったから。
ふとメリーが帽子を深く被りなおして、視線を隠す。
その行為は彼女にしては意味深で、まるでこの現実から目を伏せて夢に戻るような仕草だった。
「……夢と現、その判断を人間はどのようなプロセスを以って行うのかしら?」
「主観の外に確固たる客観がある。目が覚めて意識が覚醒したら、それが夢だってイヤでも分かるわ。夢なんて物理的にありえない事象が起こりえる世界を『夢』だと認識する理由、それは主観性に乏しく客観性がそれに勝るから」
「と言うことは、今もし貴女が死んで目が覚めたら、それは夢だったことになるの?」
そんなメリーの声は非情に明朗で、嘘やオカルトの類と言った胡散臭い話をしてる気はしない。
むしろ何処か隠し事を打ち明けるみたいな、心の内に秘めた自分自身の思想を語っている感じ。
それは誰も認めてくれないから、誰も信じてくれないから、そんな諦観と無常観を前提に言葉を紡いでる気がした。
――世界、それ即ち人間である。
そんな言葉は哲学でなくても往々に存在する概念で、要するに全世界で命を有するものの数だけ世界は存在すると言うことだ。
宇佐見蓮子が感じる世界も『世界』だしマエリベリー・ハーンが感じる世界も『世界』で、そんな世界の集合体がこの世界、社会とか言うコミュニティやら地球とか色々な物言いで示される。
わたしは個人的にはその主観の外には必ず客観、即ち全てを見ている何か――それはユングの提唱する無意識、あるいは宗教が信仰する神様と言う存在……形は何にしろ、確固たる客観が存在するからこそ世界は規定されると思っている。
もしもさっきまでメリーと過ごした時間が真実ならば、世界と言うものがひとつしかなかったとしたらあれは全て真実になってしまうけれど、メリーにはメリーの世界があって、ちゃんとそれは時を刻んでいた。
私達が見る世界はぴったりと重なって始めて事実になるのであって、私達が築く客観的要素が確実に存在する限り、どちらか片方だけ――わたしの世界だけで起こっていることだけが存在しても、それは総意及び共通認識としての『世界』にはならない。
とどのつまり、客観的な事実が示す事柄としての共通項が見出せない限り、わたしの世界はメリーの世界と絶対に合致しないと言うこと。
例えばテーブルに林檎が置いてあってわたしは認識できても、メリー及び他者が認識できなかった場合その時点において林檎は『事実』及び『世界』とは完全に結び付かない。誰も認識できなかったら『無』とイコールだ。
要するにわたしが死んだとして再び目が覚めたとしても、宇佐見蓮子は再び『世界』を形作るジグソーパズルのピースに組み込まれるだけ。神様が作り出した世界のシステムは、大体こんな感じだろうとわたしはいい加減に考えている。
所詮こんな世界なんて、神様が6日間で作った手抜きの代物に過ぎない。
その終わりを迎える方法、この世界から逃れる方法――ジサツ。空に還る。世界の限界を超える。
とても単純な話で、死んで意識がなくなってしまえば何も考えなくて済む。それはわたしを取り巻く全てから開放されて、この世界を規定するあらゆる事柄から解き放たれると言うこと。
そもそも世界なんて器に過ぎなくて、その先にある名前のない『世界』に行くことができたらわたしは生きようと思えるのかもしれないし、死んでみたところで今と違う悪夢が始まるだけかもしれない。
結局さ、何もかも『無価値』になっちゃえばいいんだよ。お金。友達。社会。肉体。感情。意志。ありとあらゆる物事の『価値』が無に帰す、何も感じない『無』こそが真の幸せと呼べるんだから――
「それは、個人的には夢にはならないと思う。ただ、何処かで人間が死んでも、世界は続いていく。たったそれだけのことだと思うから」
「確かに人それぞれがそれぞれの『世界』持つならば、貴女の言う通りだと思う。誰か一人死んだところで、世界は何事もなかったかのように自転して公転を繰り返すもの。だけど――」
くすくす、くすくす。くすくす、くすくす。
喉を鳴らしてふわり髪を翻すメリーの仕草は、先程までの狂った精神病患者をぞんざいにあしらう様子とはうって変わっていた。
それは紛れもなくあの時わたしが見ていた、わたしが大好きだった、わたしを狂わせた、わたしが『メリー』と名付けた存在に他ならない。
凛とした清楚な印象の中に可憐な色香を帯びる彼女と、美しくも惑わしい狂い咲く桜のように妖艶な彼女。
夢とか、現実とか。そんなことはやっぱりどうでもいいんだ。あれが幻だったとしても、この心と身体は全てを正しいと思い込んでる。
そんな夢現の狭間で全く異なるふたつの顔を見せるメリーと名付けられた女の子が、しっとりと濡れた薔薇色のくちびるをそっと開く。
「蓮子が感じる世界、それが貴女の全て。それが夢だろうと現実だろうと、全く関係ないわ。貴女が見て、感じて、想いを馳せて信じたもの。
貴女の心が感じた全てがこの世界を形作るの。つまり世界はたったひとつしかない。此処には宇佐見蓮子と言う存在が定義した世界以外の『世界』は存在しませんわ」
わたしの心を見透かしたようなメリーの声は、紛れもなくあの時わたしと吐息を重ねていたメリーのそれだった。
メリーはちゃんと午後のデイケアのプログラムに参加していた事実と、デイケアの間にわたしが見ていたメリーとくちびるを貪りあった事実は客観的に考えると辻褄が合わない。
どちらも真実だと言うには、あまりにも判断材料に乏しく根拠が希薄過ぎるような気がした。少なくともデイケア参加者はメリーが千羽鶴を折って、編み物をしていた場面を見ている。
それに比べてわたしの信じてることと言えば、それは夢とか幻の一言で片付けられてしまう。そしてさっきの出来事を知っている存在はわたしとメリーしかいない。
そんなふたりだけの真実もメリーと言う美しい名前を覚えていないって本人の弁がある以上、その言葉に抗う術は見当たらなくてわたしはただ途方に暮れるしかなかった。
この地球で生きる生命によって作られる主観が積み重なった上に成り立つ確固たる客観によって、私達が生きる世界は存在している。世界を形作っているのは神様ではなく私達人間、その事実だけは絶対に覆すことはできない。
でもそれは違うと、まるで神様からの宣託みたいな口振りでメリーは言いきってみせた。
自分の感じたこと――五感の全てから構成されるそれ自体が世界で、その他に世界は存在しない。
それは要するに宇佐見蓮子が想う世界が『世界』の全てであって、その事実を否定する要素なんて無意味だと平然と彼女は語った。
幻聴が聞こえたり幻覚が見えることを幾ら話しても一般人や精神科医や信じてくれないけれど、それを唯一感じられるのはわたし――宇佐見蓮子自身が『世界』そのものであるから。
ある長方形の物体を見て『これは箱だ』『これはルービックキューブだ』『これは四角だ』等々、ひとつの物事に対する見方は人それぞれで、人の分だけ世界が存在しているなんて身近な視点として考えると分かり易い。
きっとだから、あの時わたしが見ていたもの――それは夢とか幻とか関係なくて、わたしが感じて信じた時点で、もうそれは絶対的に真実で、世界である。そうメリーは言いたいんだと思った。
ああ、わたしだってそう思いたい。さっきまでの素敵な時間が夢幻だったなんて思いたくないよ。
でもね、事実として貴女はメリーと言う美しい名前を付けられたことを覚えていないし、あの甘く切ないキスも覚えていないんでしょう?
わたしはメリーと全く同じ世界を見ていたいの。狂おしいほどに貴女を愛して、メリーも宇佐見蓮子がいないと生きていけないと喚き叫ぶ破滅的な御伽噺を夢見ていたいの。
そんな夢物語みたいな願いを、貴女は叶えようとしてくれたんだよね。リストカットの傷痕をやさしく撫でてわたしの想いを噛みしめた。わたしが見ている世界を理解してくれて、わたしを愛そうと素敵な言の葉とたまらなく愛しいキスを交わしてくれた。
メリーと全てを共有することで初めて、愛とか幸せなんて感情が生まれる。わたしがハカイヨノユメを妄想することなら幾らでもできるけれど、貴女が隣にいないわたしの世界なんて何の意味もないゴミみたいなものだから。
――あはっ、そうだよ。そうだよね。自惚れているなんて言葉はわたしのための言葉。
貴女に愛されていると自惚れているわたしが、貴女にうざいくらいに教えてあげたらいいんだ。
このわたしが見ている世界において、わたしがどれほどメリーのことを愛して、狂おしいほどに切なくもがき苦しんで、貴女に狂わせて欲しくて、貴女にぐちゃぐちゃに犯してもらいたくて欲しいか。
あんなキス、メリーとじゃないとできないもの。キスしたい。あぁんって感じちゃうキス。深く舌を絡めてだらだらと蜜を垂れ流しながら無心でお互いを貪って、濡れ始めたらxxxするの。美しい貴女に滅茶苦茶に蹂躙されたら、今度はわたしが確かめてあげる。
メリーはどうしたら悦んで鳴いてくれるのか、身体の何処を弄ったらいやらしく感じるのか、どんな卑猥な言葉で虐めたらはしたなくおねだりしてくれるのか。ふたりで気持ちよくなって壊れちゃおうよ。あはっ、めりぃが快楽によがり狂う姿も、とても愛おしいわ。
あ、い、し、て、る。あ、い、し、て、る。あ、い、し、て、る。あ、い、し、て、る。
メリーをぐちゃぐちゃに犯して淫らにイッちゃってる姿を想像するだけできゃははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!
メリーに犯されてはしたなくメス豚になっちゃうわたしは嬉しくてああんとか鳴いてはしたなくおねだりして跪いて血を吐いてきゃはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは――!
「蓮子ちゃん、大丈夫?」
じっとわたしとメリーの様子を見つめていた理香子先生とエレンさんが心配そうに近付いて来た。
頭がどうにかしてしまって錯乱状態に見えてもおかしくはないと思うけれど、今わたしの思考は限りなくクリアに透き通っている。
それはまるでずっと憧れているあの蒼い空みたいな、どす黒い心が渦巻く棕櫚の海のような――パレットの上で変色してる絵の具を塗りたくられた歪な脳細胞が活性化。
こんなカオスなまま壊れてたら幸せなのに、ふと客観的に物事を捉えるもうひとりの『わたし』がひょこっと顔を出して、あれこれと余計な口出しをするから気に食わない。
わたしは狂っていたいの。嫌いなことはイヤったらイヤなの。好きなことだけ感じていたいの。そう、メリーのこと、メリーのことしか感じなくなってしまえば、わたしの世界は色鮮やかに生まれ変わるんだから。
折角幸せになるための詩篇を見つけたのに、そんなもうひとりの『わたし』はあれこれと現実的な思考、客観的な論点から物事を考慮する。
実際に彼女が話すこと、いやわたしはわたしだけど、たまに道標を指し示す場合もあるから便利だね。今のメリーに、さっきの記憶はないことが間違いないとすれば――ただ、分からせてやればいい。
わたしがどれだけメリーのことを愛してしまって、貴女がどれだけわたしを愛してくれていたのか、そしてわたしとメリーはどれだけお互いを愛し合っているのか、何もかも最初から全て伝えてあげれば解決する。
手の繋ぎ方から、髪をやさしく撫でる方法、くちびるの重ね方、舌の絡ませ具合、内緒の性感帯、xxxが濡れてよがり狂うまでの快楽物質分泌時間、わたしがおかしくなっちゃう性感帯――ひとつずつ、ひとつずつ、やさしく教えてあげるよ。
「……マエリベリーさんは、いつまでここで研修を続けるの?」
メリーのことを『マエリベリー』と呼ぶことにすらひどい嫌悪感を覚えてしまう。
ふざけるな、わたしの美しい名前が穢される。わたしの『めりぃ』はわたしだけのもの。
サイケデリックな思考をシャットアウト。どうすればまたあの『メリー』と出会えるのか、最善の方法は今のところ思い浮かばない。
だからとりあえず今は、また彼女と会えるかどうかだけは絶対に確認しておきたかった。
「うん、ええとね、今日で研修は終わりなの。明日の午前にレポートをまとめて、それを岡崎先生に見て貰ったらお終い。折角蓮子ちゃんと知り合ったのに、もっとお話したかったな……」
以前からずっと研修生は何度もデイケアに来たことがあったけれど、大体期間は二週間と決まっているらしい。
そして予約制の心療内科・精神科の場合、薬剤処方の都合等々で二週間おきの通院が基本的な通例となっている。
わたしとメリーは最悪のタイミングで出会ってしまったわけだ。今日は金曜日で、此処のクリニックは土曜日は午前診療のみデイケアなし。
今日を逃がしたらメリーと会えない。追いかけていくにしても滞在先を教えてくれるとは限らないし、平静を取り繕おうとしてもさすがにショックは隠しきれなかった。
――これ、で、お、わ、り、な、の、?
そんな言葉が脳裏を過ぎって絶望感に支配される胸中にあっても、今のわたしにはメリーのこと以外考えられなかった。
研修生は患者との間においてプライベートな関係を持ってはならない。研修生は個人的な事情の相談を受けたり、アドバイスすることは許されない。研修生は平等に他の患者と接しなければならない等々。
あくまで実習の一環であり、医療行為としての観点に則ったルールがきちんと定められている。患者に対して平等に接する、あの『さん』付けもそれに従ったもので、常識的に考えると一線を越えるあんな行為は夢だと判断せざるを得ない。
それでもわたしはどうしても諦めきれなかった。そんな簡単に諦められるはずがなかった。
もう此処でメリーと会えない以上は、個人的に接触を試みる他ない。もしも許されるのならば、今すぐ全員殺してでもメリーを連れ去りたかった。
勿論そんなことをしたら、すぐにメリーに嫌われてしまう。メリーに嫌われたわたしの存在価値は零。今まで通りの虫けら以下の生活が延々と続くどうしようもない日常が待っているだけ。
もう全ては神様に委ねるしかない。こんな大事な時にあの大好きなのか大嫌いなのか分からない人に神頼み。この世界は何処までも残酷だと絶望しながらとっさに判断して、あくまでも自然体な素振りでゆっくりとわたしは語りかけた。
「その後は観光とかしないの?」
「うん、特に予定はないわ。土曜日は岡崎先生の話を聞いた後に、スタッフの皆さんが送別会を開いてくれて、次の日の始発で京都に帰る予定になってる」
「そっか、そうなんだ」
その言葉を聞いてすぐに先程まで眠っていたソファーに戻って、バッグから手帳とペンを取り出した。
空っぽのカレンダーと空白だらけのメモ。その一片をびりびりと破り捨てて、自分のケータイ番号とメールアドレスを書き込む。
ふとページの先に目をやると、今度援助交際する約束になってる下衆野郎のケータイ番号が書いてあって一瞬苛々っとしてしまう。
この白いキャンパスの上にどんな詩を描いたら、今心に秘めた愛しい想いを伝えられるのかな――そんなことを考える猶予すら残されていないままに、わたしは下手糞な文字で素っ気ない文章を書き綴った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
My dear "Merry"
The more you change the less you feel.
Believe in me as I believe in you, tonight tonight...
明日の午後19時、新宿アルタ前で待ってます
貴女と是非お話がしたいんです。貴女に伝えたいことが沢山ありすぎて心が張り裂けそうなの
事情は重々承知してます。それでも、どうしても、どうしても貴女にお会いして伝えたいことが沢山あるんです
電話でも携帯でも直接着て頂いても構いません。うざかったら無視してください。お返事、待ってます
携帯:070-8A21-9B34
E-mail:usamimi_renren@evweb.ne.jp
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
My dear "Merry"
The more you change the less you feel.
Believe in me as I believe in you, tonight tonight...
明日の午後19時、新宿アルタ前で待ってます
貴女と是非お話がしたいんです。貴女に伝えたいことが沢山ありすぎて心が張り裂けそうなの
事情は重々承知してます。それでも、どうしても、どうしても貴女にお会いして伝えたいことが沢山あるんです
電話でも携帯でも直接着て頂いても構いません。うざかったら無視してください。お返事、待ってます
携帯:070-8A21-9B34
E-mail:usamimi_renren@evweb.ne.jp
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ああ、ああ、こんな詩を伝えるくらいしか、わたしにできることは残されていない。
だけど、わたしは、わたしは……宇佐見蓮子が生きていると実感させてくれた、わたしの存在の証明をしてくれた、麗しき名前を持つ神様を信じたかった。
触れ合った肌からふわりたゆたうぬくもり、髪の毛の間を縫う細い指のやわらかな心地良さ、紡いだくちびるから伝うやさしい想い、擦り付けた舌のざらつき、口の端から流れ落ちる蜜の味、わたしを狂わせた全てが夢を現実に変える。
これ以上自分が大人になってしまったら、貴女を愛した想いが遠ざかってしまう気がするの。だから、わたしを信じて欲しい。今、いま、イマ、此処で、貴女が見せてくれた夢を再現してみせる。ああ、どうか、どうか、わたしを信じて――
こんな紙切れ一枚が、天国への切符になるのか、それとも地獄への招待状に変わるのか。
常識的に考えたらこんな誘い、受けてくれるわけがない。たかが一期一会の虫けらで汚れた宇佐見蓮子と言う存在だし、ましてや相手は研修生って立場で患者との接触に関しては一定の距離を置いている。
それでも、狂おしい想いだけが加速し続けた。心の中にある全てがメリーを求めて止まない。あのオーロラのように儚く美しい幻覚をもう一度見せて欲しい、男が与えてくれるxxxより数万倍も気持ちいい快楽が欲しいと脳が訴えている。
メリーと言う名のいけないクスリの副作用の高揚感はいつまで経っても収まる気配がなかった。このバッグに入っているメスで今すぐ全員刺し殺してメリーを誘拐して、何処か遠い遠い空の彼方に行けたら、私達は必ず幸せになれるのにね。
違う、違うんだよ。メリーの心が手に入らないと何の意味もない。それは援助交際をしているわたしが一番よく分かっている。好きな人とじゃないxxxなんて気持ちよくないし、欲しいのはメリーの『ココロ』だから。
その次に初めて身体があって、お互いが愛し合っているからこそ途方もなく心地良い快楽が付いてくる。故にわたしが彼女を引き止める術は残されていなくて、今できる精一杯は――神様を信じ続けることだけ。
" 宇 佐 見 蓮 子 は 世 界 を 変 え る こ と が で き な い "
――そんなこと分かってる。分かってる。分かりきってるんだよ。
幾ら言い聞かせても、走り出した想いは止まることを知らず、ああ、わたしは、こんなにも、ああ、狂おしくも、切なくてハカイしたくなる耐え難い感情を抱いて、メリーを愛したい、メリーに愛されたい。
そのふたつの想いだけがわたしの全てに置き換わってしまって、もうどうしようもなかった。この身体さえメリーのものなんじゃないかって思うほどに、宇佐見蓮子には貴女しかいなくなってしまったから。
この感情の全てを以って、愛でたくて、触れたくて、目の前にいるのに、抱きしめられなくて、その美しいアメジストの瞳にはわたしだけが映ってて欲しくて、わたしだけしか映らないように壊れて欲しくて。
貴女の心が分からずに、苦しくて、冷たくて、妬ましくて、傍にいるだけでも、苦しくて胸が張り裂けそうなの。ああ、どうして、どうして、繋いだ想いなんて残らないものだと思い知ってもまだ、メリーのことが愛しくてたまらないの――?
めくるめく想いを振り切りながらわたしはたたっと駆け出して、なるべく落ち着いているように見えるニセモノの仮面を装ったままメリーの元へ戻った。
奏でる旋律は破滅に捧ぐ絶望と一縷の希望が織り成す小さな恋のメロディ。綺麗な恋の音が水面を揺らすたび、緩やかに波紋が広がって胸の中に激痛が走る。
もしも、もしも、メリーが受けてくれたら、わたしはどうすればいいのかな。もしも、もしも、メリーが何も反応してくれなかったり「ごめんね」って断られたら、わたしはジサツするしかないのかな。
ずっと離れない『if』の言葉に耳を塞いでも、頭の中で零と壱の群れがぐるぐるぐるぐると回転する。ふと思う。これはラヴレターを渡す時のときめきに似ているのかもしれない。
あはっ、恋なんて言う馬鹿らしい救いに、わたしはすがろうとしている。
どうせxxxと同じで、ヤってる最中だけ気持ちよくて、終わったら気だるくて適当に愛の言葉呟いたらはいさよなら。
ずっと相思相愛の甘い関係で、互いを慈しみながら続いてく理想の恋なんて存在しない夢物語。ちょっと男の子と遊んだりしてる女の子なら誰だって知ってるよ。
同じ温度で愛し合おうとすることが上手くいくケース自体稀なのに、何故かお互い平等なギブアンドテイクであろうとする。所詮恋なんてドライなものだと思うけど、メリーみたいなふしだらに火照るクスリは心に効きそうだよね。
貴女の想いにとち狂ったわたしは何もかもおかしくなって、メリーしか分からなくなって愛してる愛してるあいしてるアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルって囁くラヴドールになれたらそれでいいの。
やだよ、わたし、メリーと離れたくない。嫌われたくないの。ずっと一緒にいたいの。そのためだったら何でもする。だからお願い、一生のお願い。わたしのこと、愛してよ。わたしもメリーのこと、ずっとずっと愛し続けるから。
貴女がいないなんて考えるだけでわたしは死にたくなる。死ンデ。ジサツシテ。うるさいお前が死ね。メリーに愛して貰えないわたしの存在価値は零。最初から零だよ。うざいから死んで。ねえ、教えてよ。どうしたら、メリーはずっとわたしの傍にいてくれるの?
中央に置かれたテーブル付近に立っている人影に近付くと、みんなそれぞれ複雑そうな表情を浮かべていた。
わたしがおかしくないか観察しているような目線は正直嫌悪感を覚えるしちょっと怖いけれど、今は形振り構っていられないから仕方ない。
そっと三人に近付いても、何故かそれぞれ押し黙っている。何かやらかしそうだとか思われているのかと考えるだけで心外。まあいつもの自分の言動からしてみれば、こんな反応も予想の範囲内ってところかな。
ちらりちらりとテーブルに乗せられたままのメリーの指を見る。
控えめなマニキュアがあしらわれた繊細な指は、ピアノの旋律を奏でるようにわたしの傷痕をやさしく撫でてくれた。
想い返すだけで、心臓からとくんとくん血が巡る。貴女が教えてくれた『宇佐見蓮子』の証明は、此処で愛と言う形になって今も鳴り響いています。
ああ、どうか、どうか、この気持ちがメリーに届きますように――貴女が傍にいてくれたら、わたしは必ず幸せになれるんだから。そうしてあの時途中でやめてしまったいけないクスリで、愛の言の葉の続き、お、し、え、て?
「あの、マエリベリーさん、これ……」
きょとんとしたメリーの表情を他所に、他のふたりも訝しげな感じでわたしの様子を見つめている。
しんとした空気が支配する室内は途方もなく居心地の悪い空間でしかなくて、できることなら今すぐにでも此処から立ち去りたい。
そのふんわりとした笑顔を見ているだけで、胸の鼓動からくちびるの触れ合う心地まで感じられる気がして……これ以上メリーの前に立っていることがつらかった。
この想いを感じてる心臓をハカイしたくなるほどメリーのことが好きすぎて、このまま此処にいるとわたしは何をやらかしてしまうか分からないくらい思考が錯綜してしまってるから。
「ん?」
わたしは何も答えず、メリーの腕を掴む。
その柔らかい感触は間違いなくあの瞬間わたしの傷痕を可愛がってくれたあのやさしいてのひら。
狂おしいほど愛おしくて、離れたくない、それでも今は、ようやくほんの少しの未来が見えたのに、さよならなんだね。
――信じて。わたしのこと、信じて。
あの手紙にしたためた言葉に、今想うわたしの全てが込められている。
正確に言えば『信じさせて』が正解なのかもしれない。貴女の夢を見たわたしは、それを現実だと思い込みたいだけなのかもしれない。
夢は現実の投影であり、現実は夢の投影であるなんて言葉を残したフロイトは大嘘つき。この世界に生まれた瞬間からずっと現実と言うものは残酷で、どうすることもできない無常をただ突き付けるだけの最悪のアトラクションだから。
もう耐えられないなんて言って空に還った人は数知れず。わたしだってそのひとりなのに、どうして貴女はわたしを引き止めるのか分からない。そんな魅力を以ってわたしの前に現れたのは、単なる神様の悪戯なのかしら?
主人をなくしたパラノイドなアンドロイドには行くあてもない。
出会い系なんてブティックのショーウィンドに飾られて、また知らない誰かに買われてダッチワイフのように扱われる未来がすぐ其処にあると思うと笑えてしまう。
汚い指先と性器で身体を愛撫されながら、メリーと過ごした時間を思い出すたび苦しくなって……届かない想いを残した貴女を恨みながら、わたしはわたしであることを忘れてしまって、またぼろぼろになった身体を傷付ける。
きっとそんな未来すら、わたしに与えられた運命なんて一言で片付いてしまうんだろうね。貴女が傍にいてくれたら、わたしの世界は必ず変わるような気がするのに――
「あの、これ」
メリーのてのひらに走り書きしたメッセージの破片を無理矢理握らせる。
静かに右手を添えて、その指先にそっと願いを込めた。こんなぬくもりだけしか伝えられないけれど、眠れる森のお姫様は夢の中で何も気付かないまま。
わたしにはもう信じることしかできない。メリーを直視するだけでどうにかなってしまいそうで、これ以上此処にいると気が狂って本当に人を殺すかもしれない。
貴女の傍にいればいるほど、貴女が好きでたまらなくて、貴女が愛おしくて、貴女の全てが憎らしいほどに欲しくなって、イかれた頭がさらにおかしくなってしまう。
――気が狂いそうなくらい苦しいの。わたしは貴女のために何ができるのかな。
そのやさしい指先が撫でてくれた傷痕が今日と言う日のためにあったのなら、これっぽっちの悔いもないよ。
わたしのことを分かってくれたのは、本当に貴女が初めてだったんだよ。涙を堪えきれなくて、泣いてしまうほど嬉しかったんだから。
いつも未来はあとほんの少しのところで手が届かなくて、過去はいつもわたしを後ろから見守っている。結局わたしは今を生きることしかできないんだ。
あれが夢ではなくて本当だったと……信じ込んで生きる道しか、わたしには残されてない。繋いだてのひらとふたり夢見た白昼夢。幻の中で掴んだ真実を抱えて、寄り添う身体のぬくもりを感じながら未来を想ってきらり光る涙が――
「ちょ、ちょっと蓮子ちゃん!?」
「待って。大丈夫なの? 蓮子ちゃん、具合悪いならちゃんと先生に――」
理香子先生が思わず声を上げたけれど、それを無視して早足でデイケアの出口に駆け込んだ。
診察室や処置室のドアを横目にしながら、素っ気ない狭い廊下を小走りで通り抜けて受付に向かう。
灯りが落とされた室内はぼんやりと薄暗くて、出口を示す『EXIT』の蛍光灯が不気味に輝いている。
待合室には当然のように誰もいなくて、事後処理に追われている会計事務の姿だけが目に付いた。
椅子に腰掛けて一息付こうとしても、気分は全然落ち着かない。むしろ不安と希望と何か言葉にならない感情がない混ぜになって、頭の中をぐちゃぐちゃにかき回す。
メリーのことが忘れられない。あのキスを交わした時の記憶が頭から離れなくて、あの続きを想像しただけでオナ○ーしたくなっちゃう。ふしだらな快楽が心の底でふつふつと沸き立って、こっそりスカートの中に腕を潜り込ませて弄りたくなる。
そんな感じで折角ナチュラルにトリップしてるのに、あれは夢だったとか現実を見なさいとか、いちいち余計な現実的思考が駆け巡るからうざい。あれっきりの夢なんだから忘れた方がいいよなんて余計なお世話。何処かの知らない誰かの囁きが邪魔すぎて殺したくなる。
影になっている場所で蒼い試験管からデパスを取り出して、ラムネのようにかじってみても心が安らぐ気配は一向になかった。
こんな鎮静剤系統なんて結局大量に服用しないとふらふらにしかならないし、精神科で処方されるクスリなんて所詮ほんの気休め。
そもそもこんな『抗不安薬』なんて偉そうな名前が付いてるくせに、その肝心の不安って要素は全く解消されやしない。
お酒とかxxxの時に気持ちよくなるような覚せ○剤やエクスタ○ーの類の方が余程人の幸せに貢献してるのにね。
一錠。
甘いキャンディは角砂糖みたい。
また一錠。
タブレット状の清涼菓子はキスの味?
またまた一錠、此処が上限です。
虫歯にならないように気をつけましょう。
さらに一錠追加です。
あの時交わしたメリーのキスから伝う想いは、こんなつまらないクスリじゃ再現できません。
もう全部試験管の中身を口の中に流し込みます。
そうやって段々段々と増えて、何錠飲んだか分からなくなった頃、ふとメリーの笑顔を思い出したら胸が痛くなった。
――結局幸せなんて全て刹那で、この現実から逃げ出すことができれば何でも構わない。
生きてて見えるものなんかわたしにとって大体不愉快なものばかり。無に帰すこと、空に還ること、それが唯一残された絶対的な幸せだったはず。
そんなわたしの想う幸福論の結末を美しく裏切ってみせたメリーのことがとんでもなく憎いのに、その些細な仕草の全てに鮮やかな未来が見えたから、わたしは彼女を愛してしまったのかもしれない――
さっと会計を済ませて、すぐにビルの廊下に躍り出た。
他の医療機関も閉まっているせいか、人影は全く見当たらない。
白塗りの外装を照らす明かりが死人の肌のように白くて、やたらと気持ち悪かった。
そんな不気味な壁を伝いながらエレベーターのボタンを押して昇ってくる合間を待っている時も、心の中で何かが荒れ狂っている。
メリーに対する想いで張り裂けそうな胸の内で、天使と悪魔が言い合いをしている様子を無駄無駄と嘲笑って馬鹿にしている『わたし』が其処にいた。
1.2.3.4.5.6...機械的な音がして、ゆっくりと小さな箱が開く。
ふらふらと棺おけの中に吸い込まれるように中に入って、ばしんと一階のフロアを示すボタンを叩いてドアを閉める。
ごうんごうんと音を立てて小さな正方形が落下していく最中、ふと目の前にある鏡に映し出されたわたしを『見て』しまった。
白い大きなリボンで飾られた大きな帽子にママから受け継いだこげ茶色の髪の毛、そしてパパから受け継いだ瞳に映っていた景色は、あの夢の続きだった。
メリーの姿がパパに変わって脅された時の光景が、過去の記憶と連動して幾重にもフラッシュバックを繰り返す。そんなわたしの抹消したい全ての記憶が無理矢理脳内に流れ込んで来る。
<next>
<delete memories>
<sensation disorder>
――や、だ。や、だよ、やめて、やめて、やだ、こわい、やめて、やめてよパパ!
脂ぎったべとべとな手が、わたしの身体のあちこちを触る。自分の『モノ』だと言わんがばかりに、わたしの意志なんてお構いなしに好き勝手にねちねちと身体のあちこちを万遍なく弄っていく。
抵抗しようとすると容赦なく暴力を振るわれるから、いつしかわたしはされるがままに受け入れるようになった。いやだいやだいやいやいやいやいやイヤイヤイヤだと泣き叫ぶと、頬を思いきりぶたれてへたり込んでしまう。
無理矢理髪の毛を引っ張られてパパに馬乗りされると、くちびるを縦横無尽に犯された。メリーみたいなやさしさなんて微塵もない、ケモノのような野蛮な臭い液体がだらだらと口の中に流れ込んで来る。
そのままワイシャツをびりびり破かれて、今度はグーでほっぺたを殴られた。「そんな汚い腕見せるんじゃねえよ」とか声を荒げながら、わたしの胸の中に顔を埋めて匂いを嗅いだり触ったりを何度も繰り返す。
痛みに耐え切れず吐き出した「めりぃ」なんて悲鳴が気に入らなかったのか、パパはリストカットしてる左腕をひねるようにねじ曲げながら強引にへし折ろうとする。肩の関節辺りが外れる鈍い音がした瞬間、ざまあみろとげらげらげらげらと大きな声で笑った。
そして気持ち悪い太い腕がスカートの中を弄りながら、ふとショーツの部分が冷や汗で濡れてることに気付くと、何を勘違いしたのか脂に塗れた顔が醜悪な笑みを浮かべる。そして脅しのような言葉を、さも楽しそうに吐き捨てた――
「こんな淫×な女は俺の娘じゃない。お前はただのビッ血でどうしようもないクズだ」
この世界にわたしを産み落としたパパとママ、どっちがクズか何も分かってないんだね。
ママは自分が罪深いと自覚したから死んだんだよ。それに比べてパパは何も分かってない。
わたしは生すら望んでいなかったのに、ふたりの恋路だか何だかわけの分からない理由で、要するにxxxの副産物みたいな感じで宇佐見蓮子と言う存在を産み落とした。
そしてママがいないからわたしをその代わりとして育てて、こうしてお年頃になったら犯すことをずっと楽しみにしてたんでしょ?
わたしには行く場所も逃げ場所も最初から何もなかった。こんな風に暴力で躾けて、何も反抗できないように育てた狡猾さはヒトラー以下の下衆野郎だよ。
そんな遺伝子を受け継いだわたしが死にたくなる想いなんて、パパにはどうせ分からないよね。生きてる心地がしないんだよ。手首を切っても痛みさえ感じなくなってきた。
男に犯されても平然と受け入れて、イく瞬間だけ気持ちいいとか思っちゃうようになったんだよ。パパが全てわたしから奪ったからだ。パパが精子なんて吐き出さなかったらわたしは此処にいなかったんだからさ。
それなのに超いい加減で、パパはわたしが生きるために必要な機能、それは意志だとかやさしさとかその類、親が教えるべきものの全てを教えなかったよね。わたしが必死に頑張って培ったものは全て奪ったよね。
パパが死んでよ。お前がさっさと死ねばいいんだ。お前が死ね。みんな死ね。全員死んで世界が終われば不幸の連鎖は止まるんだから。
――わたしだけが死ねば全て終わるのに?
そうだね、わたしの『意志』がなくなれば世界と言うものは消失して、何もかも終わるんだよね。
悲しんでくれる人なんていない、最初からそんなこと分かってたもの。これ以上パパに犯されるくらいなら、ジサツした方がマシ。
最期に見た夢はとても美しかったよ。でもわたしとは無縁だった。とりあえずわたしが人生をリセットすることは予め決めてあったんだからね、これは神様とか言う人が決めた規定事項なんだよ――
キスを求める素振りをして近寄ってきたパパの鳩尾に膝をぶつけると、ブサイクな豚はよろよろとふらついて悶え始めた。
何発か汚い顔に蹴りを入れてやると、虫けらは気持ち悪い声を上げながらもがき苦しむ。立ち上がれないように、何度も何度もあちこちを思いきり踏みつけると、パパが口から汚いものを吐き出した。
その隙にバッグから拳銃を取り出して、パパの腹とか脚に何発か打ち込んでやると、うぎゃあああああああああああああああああああああああああああとか情けない声を上げながらごろごろと狭いエレベーターの中を転げ回った。
「あはっ、きゃはは、きゃはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
ざまあみろ。ざまあみろ。ざまあみろ。ざまあみろ!
ママがジサツした時に使ったピストルのお味は如何かしら。ガスと林檎とハチミツを混ぜ合わせた弾丸は甘いでしょ?
流れる血はどす黒くて気持ち悪い。健康番組でよくやってる『どろどろ血』とか言う陳腐な単語しか思い浮かばないほどに汚くて、何か臭ってきそうでキモい。
動けないように、太腿の辺りにもう一発。まるでゲームみたいなカラっとした銃声が鳴り響いて、パパの汚い脚に弾丸がめり込む。
のた打ち回る様は無様でパパにお似合い。こんな東京界隈なんか拳銃の所持なんて甘々で、女子高生のわたしが持っているのは至って普通のことだよ。
残念ながら弾はもう一発しか入ってないけれど、これはわたしのためにママが用意してくれた最期のプレゼントだから。
わたしは空に還るよ。
先にママのところに行くから。
パパはこの残酷な世界で生きていけばいいよ。
パパみたいな人にとって死は幸せでしかないもの。
壊れた日々と答えのない日々のループはもうお終い。
ああ、でもやっぱり、わたしさぁ、パパの娘なんだね。
いじめたくなっちゃうんだ。あれだけわたしのこと犯したんだもの、当然の報いだよね?
「ねえ、パパ。わたしさ、殺すよ。パパを殺すの。死にたくないなら、命乞いしたら?」
グッチを身に付けた豚はこめかみに銃口を突き付けられると、がたがたと震えながら「助けてくれ、助けてくれ、金なら出す」とか何とか言っていた。
そうやって物事に『価値』が生まれるから私達人間には格差が生まれる。その結果、醜い争いが耐えない残酷な世界が生まれていることをみんな知っているのに、あたかもそれが日常のように続いて幸せな人々は知らないフリを決め込む。
この豚みたいな人間がのさばる最悪な世界から逃れる手段は無価値になること、其れ即ち死也。そんな幸せをパパにくれてやるつもりなんて毛頭ないけどね。
――『価値』がなくなること、それが幸せ。
そんな世界の理をわたしに教えるために、あの日ママは空に還った。
ママが目の前でジサツした時、わんわんと泣き叫ぶわたしの隣でパパは泣きもせず淡々どころか薄ら笑いすら浮かべていた。
今思えば財産が手に入るとか遊び飽きた女が消えたとか、どうせくだらない理由だったんだろう。そんなお金はお墓になるはずもなく、全てパパの遊行費に当てられたに決まってる。
女と遊ぶ金がなくなったパパは、躾と称してはわたしに暴力を振るう。いじめられてることだって知ってるくせに助けもしてくれなかったし、引きこもっていた当時のわたしには逃げ場所すらなかった。
自宅の1LDKのおんぼろマンション、学校、保健室、図書館、何処にもわたしの居場所はない。だから家にも帰らなくなったし、ネットカフェで過ごす以外はずっと新宿駅の辺りをふらふらふらふらするしかなかった。
そんな生活を続けていたら結局補導されて大人の理屈を講釈するくだらないお説教。そしてあの日から一週間パパに監禁される羽目なった挙句、小学六年生の8月30日0時2分ちょうど、わたしはパパにfuxxされた。
痛くて痛くて泣き叫んだ。許して許して何でもしますだから許してお願い許して許して許してユルシテユルシテユルシテユルシテユルシテユルシテユルシテユルシテごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――
気絶するような行為が終わって、パパは服を着るとぽいっと小銭を投げ付けた。
100円玉が3枚、それが要するにわたしの価値。パパにとってのわたしの価値。小学校でクラスメイトが付ける価値は漏れなく零円だから、少しはマシかもしれないって思った記憶がちょっとだけ残ってる。
あの後は三万円の高級フレンチを食べてきたとか言ってたっけ。それに比べたら今は三万円。こんな紙くずで人間の価値が決まるなんてくだらない。それでも値札が付くだけわたしは幸せなのかもしれないね。
どうせ歳を取ったらわたしみたいな『女』は価値がないんだろうから。今はちょっとスカート短めに穿いて、素知らぬ感じでカワイコちゃん演じてたらお金だけを持ったつまんない虫けらがほいほい集まってくる。
まるで餌に群がる動物みたいで、男って生物は本当に気持ち悪い。何処まで行ってもわたしは誰にも共感して貰えず、身体を差し出さないと誰も構ってくれないし、心配してくれるフリをして上辺っ面な人ばかり。
もはや誰かに救いを求めること自体、お馬鹿過ぎてやってられない。宇佐見蓮子のココロのお値段はプライスレス。つまり零円です。肉体的価値は性欲の吐け口として現在相場は三万円。あなたも是非どうでしょう、こんなわたしをお買い上げいただけますか?
「あはっ、パパはあの時わたしに三百円くれたよね。ねえ、パパのお値段幾らかなあ?」
こめかみに銃口をぐりぐり押し当ててやると、ぶよぶよとだらしない頬の肉が揺れる。
こんな気持ち悪い生物から産まれたと思うだけで、喉奥から胃液が逆流してきて吐きそう。
ママの最期の笑顔はよく覚えているけれど、こいつのことは何もかも記憶から抹消してしまいたい。
パパのお値段は幾らか冷静に計算してみると、検死及び捜査費用が国民の皆様の税金から徴収されます。
正直ちょっと想像が付かないので置いておいて、後は死体処理費用――要するにお葬式やお墓は自己負担で、ええと、超適当に見積もって30万円くらいかな。
当たり前のことだけど、死体処分にはそれなりのコストが掛かる。このご時世行方不明になって死亡が確認されるケースなんて稀だし……それでもわたしの倍だよ。
そんなの許せるわけないじゃん。こいつの何処に価値があるって言うんだか、わたしには全然分かんないよ。ミンチにして家畜用の餌にしてあげたら、ほんの少しは社会貢献できるんじゃない?
――そんなパパのお値段は、勿論、ぜ、ろ、え、ん、です。
どうせこいつを殺してもそうじゃなくても、こんなことしちゃったからには……わたしは精神科の閉鎖病棟行き決定だから、此処で死なないと空に還れないんだよ。
このままもがき苦しんで生きて貰います。この残酷な世界で母と娘をジサツで亡くした可哀相な父親。そんな新聞の見出しが載って、もしかしたら本になったりするのかもね。
腕にジサツした娘の墓標を刺青として入れてる馬鹿な父親の話を読んだことがあるけれど、最期までわたしはパパの欲望のためだけに生かされていたんだと思うだけでうんざり。
「バイバイ」
そろそろ、お別れの言葉を言わなきゃ。
ああ、大嫌いなパパ、こんなわたしにしてくれて、最高にゴミな人生だったよ。
最期に無様な姿を見ることができて大満足。今までどうもありがとう、そしてFuxx You!!
ふいに出たその言葉は誰に向けたものなのか。自分でも分からなかったけれど、そんなことはどうでもいい。
パパの脂肪だらけの身体を蹴飛ばして、端っこに追いやる。こんなキモい人間にわたしの最期を見て欲しくない。
心は不思議と安らかで、とても落ち着いていた。幾度となく経験している瞬間だったし、覚悟を決めるのはもう何度目になるのかなあ。
頭の中は死の恐怖なんかより、悦びに近い開放感で満ち溢れていた。もう怖くない。第一もうわたしは後戻りなんてできるはずがないんだから。
エレベーターに付いた鏡に自分の姿を映すと、其処には銃口をこめかみに当てた女の子がくすくすと笑っていた。
真っ白なワイシャツにパパの汚い血が飛び散っていたけど、綺麗な死体なんて存在しない。どうせぐちゃぐちゃになるんだし、死んでしまったら何もかも分からなくなる。
此処からは空が見えないけれど、わたしの死体はきっと空に還ることができるはず。きっかけさえ作ってしまえば、ジサツなんてすぐに実行できてしまうんだね。ようやく言えるよ。さよなら、セ、カ、イ、と、わ、た、し。
――トリガーを引いた瞬間、弾丸が脳髄を貫通する感覚がはっきりと刻銘に残されていく。
ふと、その瞳の先にある鏡に映るわたしの後ろに、薄紫色の衣装に身を包んだ美しい人が佇んでいた。
その表情にはいつも見せていたはずの嘲笑う仕草はなく、ただ深い悲しみに包まれている。わたしの選んだジサツを悔やみ、彼女の瞳から零れ落ちた涙は流星のように儚く煌いていた。
ああ、どうして、こんなことになってしまったの?
そう言えばわたしは、メリーに、さよなら、言ってなかったね。
貴女がいてくれたら生きることを許されるかもしれないと思ったのに、わたしは愚かにもジサツしてしまった。
少なくとも貴女の答えを聞いてからでも遅くなかったかもしれない。何を言っても言い訳になってしまうから、許して欲しいとは言わない。
だけど察してくれたら嬉しいな。あの傷痕を分かってくれた貴女ならば、必ずわたしのことを分かってくれるって信じてるから。大好き。愛してるよ、メリーのこと――
腐乱したわたしの死体。これが最期だとしても、貴女に会えてよかった。
頭から鮮血と脳みその中身が飛び出す。そのまま身体が崩れ落ちて視線からメリーが消えていく。
無様にジサツを遂げるわたしの姿をじっと見つめていた悲しい瞳は、一体何を思うのだろうか。
美しいハーモニーを奏でる声も、艶やかな吐息のほのかを残すくちびるも、全てを忘れたまま死ぬことができたら楽だったのにね。
ああ、やさしい人。貴女がいるのに、どうしてこうも世界はいまだ残酷に続いていくのかな?
必要とされなかったわたし。そんな自分を愛してくれた人のためだったら、何だってするって決めたのに?
メリーと過ごした記憶、どうか、どうか消えないように……届かない想いを残したまま、わたしは死んでしまうの?
でもわたしにとって貴女は天使でしかなくて、叶わない恋ならないっそ壊してしまえと願ってしまうのはいけないことなのかな?
――ねえ、答えてよ。貴女の声が聞きたいの。
メリーは、わ、た、し、の、こ、と、が、す、き、な、の?
もし大好きならさ、何処までも広がる空の蒼は遥か遥か遥か遥か彼方、この汚れた心を限りなく限りなく白く染めて見せてよ、貴女の見せる嘘の世界で――
</sensation disorder>
</delete memories>
</next>
――チン、とか間抜けな音がして、気付くとエレベーターは停止していた。
周りを見渡しても誰もいない。小さな箱の中にはわたしだけがいて、その隅の方で震えながらうずくまっていた。
また悪い夢。さっきデイケア中に休んでいた時と同じシチュエーションなんて、もしもあれがメリーとは別人の神様だとしても趣味が悪過ぎる。
そもそもわたしを愛しているのなら、どうしてあんな悲しい夢を見せる必要があるのか全然理解できないし。でもわたしには、あの女性とメリーがどうしても被って見えてしまう。
清楚と妖艶を織り交ぜた歪な雰囲気の中に垣間見える妖しい美しさと、世界の理を知り尽くした聡明な智慧を感じさせる神々しい雰囲気はそっくり。
そして自惚れだけど、多分ふたりともわたしのことを少なくとも嫌ってはいないような気がする。何かの意図があるとは分かっていても、それを窺い知る術をわたしは持っていない。
夢については考えれば考えるほど意味が分からなくなる。ただ残される記憶は、わたしの願いでもある「パパを殺したい」なんて願いを叶えてくれて、そのままわたしがジサツすると言う理想――それがわたしの幸せにでも繋がると考えているのかな。
もしもそれが正解としても、メリーは何も分かってない。子供でも理解できることを忘れてる。夢は夢でしかないんだよ。
フロイトが言うみたいに『夢は現実の投影であり、現実は夢の投影である』のならば、わたしは多分貴女のもたらしてくれた幸せに狂喜できる。
でもこうしてわたしが生きている以上、こんな夢は何の意味もない。パパをいたぶって自分がジサツするなんて御伽噺を書いていたのは中学校の頃の詩が最後で、それ以降はもうやめてしまったの。
普通になるために一生懸命になってるみんなとは違う道を歩いているけれど、わたしはわたしで生きるために自分の『価値』が付くような場所を探しながら、汚れることで大人になっているんだよ。
そうして汚らわしい宇佐見蓮子になってわたしからはあらゆる理由がなくなって、全てが嫌になったら死ぬ覚悟ができて、そんな機会が何度もあったのに……貴女はことごとくそれを邪魔してきた。
まるでどんな不幸だと思っても、そんなものの大半は戯言だから――途方もなくつらいと感じる人生だって幸福に生きろなんて、自己啓発本が現実を知らず平然とのたまっているみたいに素敵な夢を見せる。
うそなんだよ。それは嘘なんだよ。適当ばっかり並べてるんだとしたら、とても悪趣味だね。叶えるだけの責務も義務もないからとでも言いたいのかな。この残酷な世界を作った張本人のくせにさ。
空想に過ぎない『わたしの』ジサツの繰り返しはもう飽き飽きなの。
覚めない夢は現実。叶うことのない希死念慮、美しい人、取り合わせがデタラメな夢の詰め合わせを見せる貴女は一体何がしたいのかしら。
ノートに好き勝手書き殴る遺書みたいな詩と何ら変わりない、何処までも無意味な行為の先に見える面影は、ただ夢を見ている時だけ存在を許される『宇佐見蓮子』と言う人間の幻影に過ぎない。
この現実では――わたしは数字みたいに記号呼ばれ、機械のように決められた日々を過ごすだけ。そんな止め処ないこの痛みと、やりきれない怒りと苛立ちは神様である貴女には到底理解できないでしょうね――
「くだらない」
そんな悪態を付いてみるけれど、此処には誰もいない。
夢でもいいから、メリーに抱きしめて欲しかった。苦しかったね、私がいるから大丈夫だよって、ぎゅっとしてくれたらきっとわたしは大丈夫。
結局は夢にすがることしかできない無様なわたしに変わりないなと思うと、なおさらメリーのことが愛おしくて愛おしくてたまらなくなってしまう。
恋と悪夢の動悸は止まらないまま、ずっとわたしは心の中でメリーのことばかり考えていた。わたしを愛してくれた夢を思い出すと恋しくてどうしようもないし、あの一瞬だけ見せたメリーの悲しそうな表情が浮かぶと切なくなる。
とにかく落ち着かない。心臓がばくばくと脈打っている。此処でオーバードーズするなりしてゆらゆらゆらゆらして帰ったら楽になるのかもしれないけれど、今のわたしはメリーと言う名のクスリで完全にラリっていた。
がくんと膝が折れた状態で崩れ落ちていた身体を持ち上げようとした途端、身体の奥底から気持ち悪いモノが逆流してきた。
パパとか男に注がれたモノや悪意に満ちた感情諸々の全てが濁流のように管を駆け上がってきて、思わず尻餅を付いてしまう。
吐き気止めを、吐き気止めを……バッグの中から取り出そうとしても、手付きがおぼつかなくてどうにもならず、わたしはその場にうずくまったまま身悶えた。
「お、ぇ、あ、がぁ、あぁ……」
喉奥から大量の吐しゃ物がべちゃべちゃと汚らしい音を立てて、エレベーターの床に零れ落ちる。
起きてから何も食べていないから、中身は空っぽ。殆ど胃液だったけれど、それが男のあれに見えて吐き気は収まらなかった。
自分の中に溜まっていた下衆な感情をだらだらと垂れ流しながら、粘着性の透明な物質が小さな水溜りを作り出す。
気持ち悪い。超気持ち悪い。デパスの甘味が余計不快。それでも止まらないから吐き続けていると、嘔吐癖のある子の話を思い出した。
自分の中にある穢れた何かが無理矢理でも気持ち悪い『カタチ』になって出てくるから、苦しいのに気持ちいいんだとか言ってた気がする。
だけどわたしには到底そうは思えなかった。こんなことであの醜い下衆野郎共の全てが吐き出されたら、どんなにわたしは綺麗な身体に戻れるんだろう。
犯された身体は元には戻らないし、あの豚に与えられたエクスタシーを快楽だと勘違いしてるゴミクズ以下のわたしの身体は死ぬことでしか自浄されようがない。
パパや見知らぬ男に感じさせられて、あんあんと嬌声を上げる淫らなメス豚宇佐見蓮子と言う存在は、ゲロを吐いたところでもうどうしようもない最低な人間となってしまったんだから。
「あ、かはっ、げぇ、ぉ、え、お、ぇ……」
やっと嘔吐感が収まってきた頃には、胃液に混じって血がべっとりと混じって嘔吐物は薄いピンク色に変わっていた。
血を吐くことはリストカットのそれに似ているなと何となく感じた瞬間、手首を切りたくて仕方ない衝動に駆られてしまう。
最初に見せてくれたメリーのたまらなく心地良い愛撫も、この悪夢の意味する憎しみも、多分こうしてゲロを吐き続けてるのも、全ては自分が今此処に存在しているなんて証明に過ぎない。
それは要するに、この世界に生きていると言う絶望。わたしはこのどうしようもなく残酷な世界で生きている。つまり生の証明とは、幸せに包まれた世界の中で置いてけぼりな自分を自覚することだから。
おぼつかない足取りでエレベーターから降りて、帰宅の途に着く人々が行き交うビルの外に躍り出た。
幸せそうな顔をしたマネキンみたいな人々が悠々と闊歩する世界は、どこもかしこも幸せに満ち溢れている。
ああやっていちゃいちゃしてるのは幸福を一時的に引き伸ばして、これは有意義だと宣言してるみたいで気味が悪い。
自分のように不条理な世界だと嘆いてる人はもっと沢山いるはずなのに、どうしてわたしだけひとりぼっちなんだろう。
ふと通り過ぎたカップルに、わたしとメリーの姿を重ねてみる。ああやっていつか自分にも愛する人ができたとして、その時に気付くことは一体何なんだろうね。
みんなと同じような幸せを掴むことができるのかもしれない。もしかしたら今と変わらない結論で、何にもない『無価値』こそが幸せなんだって感じたりするのかな。
結局息を吐いて、吸っての繰り返し。こんな命の重さなんてみんな虫けらと同等なのに、誰も彼もみんな自分が特別だと思いたがる。悲劇のヒロインでいたいと願っているのは、決してわたしだけじゃないんだから。
青とオレンジの混ざり合う景色から見えるビルの狭間には、ぼんやり青白い月が優しく浮かんでいる。
人々の喧騒に混じって相変わらずノイズが混じる。幾ら耳を塞いでも「蓮子死ネ」と繰り返す人々の叫びは止まない。
この瞳に映し出された灰色にくすんだモノクロの空は、何処までも遥か遥か遥か彼方まで続いて星々を覆い隠している。
どしゃ降りの雨の中、水溜りを蹴飛ばしながらメリーの手を取って走ったら、幾億光年の孤独も犯した罪も全て赦されるのかな。
誰もが絶望に耳を塞いでる雑踏の中で世界が幸せで満ちていることを感じた瞬間、もう其処で私達の何もかも全ては終わってしまうの?
――絶望と言うものは、ありもしない風景を見ることなのかもしれない。
絶望は憧れ、そして片想い。それはわたしが今メリーに抱く感情とあまりにも良く似ている――
◆ ◆ ◆
池袋駅ターミナルからバスに乗って家路に着いた頃には、既に時間は19時を過ぎていた。
指紋認証式のタッチパネルに指を乗せると無機質な音と共に自動ドアが開いて、そのまま待機してたエレベーターに乗り込んで15階の大嫌いな自宅に向かう。
カードキーをかざして扉を開けると、室内は案の定真っ暗だった。トイレ風呂別でキッチン付き1LDKの質素な一部屋は、ふたりで暮らすにはあまりにも狭苦しい。
中央にはカーテンの仕切りが敷かれていて、此処から向こう側がわたしの部屋と言うかテリトリー的な空間になっている。ずっと何も飲んでなくて喉がカラカラだったので、アクエリアスをごくんとコップ一杯分飲み干してパソコンの前に座る。
パパは洋食屋兼バーのオーナーだけど、いつも朝帰りだし仕事をちゃんとこなしているのかさえ分からない。どうせ途中でお手伝いの女性と不純異性交遊に耽っているのかな。このまま駆け落ちして一生帰って来なければいいのにね。
パソコンの電源を付けると浮かび上がってくるWindowsのロゴを見てると何となくお腹空いたなあなんて思うものの、それ以上にメリーのことが、あの夢のことが頭から離れない。
メリーを想うたび、やさしく撫でてくれた傷痕が疼く。わたしは生きていると言い聞かせるために切り刻んだ証明を認めて貰えた瞬間の幸せは、もう記憶なき幼き日々のママに愛されてた頃のような素敵な快感をもたらしてくれた。
悦びに満ち溢れたわたしの左腕は、傷口の下を流れる血液が滞留して破裂しそうな勢いで膨れ上がっている。錯覚ドラマチック半々リスカしたい衝動半々、動脈静脈を流れる血液が外に出たがっているみたいでどうも落ち着かない。
それは当然と言えば当然だった。ケータイを開いては閉じて、開いては閉じて。メリーから連絡が来るのを今か今かと待ち侘びているんだから、そわそわしたり焦るに決まってる。だけど連絡が気配なんてこれっぽっちもなかった。
今日初めて出会ったばかり、しかも相手は研修生で患者とプライベートな関係なんて固く禁じられている、はず。その上わたしとキスを交わしたあれは夢でしかなくて、メリーはわたしのことなんて全く知らないに等しいんだから。
――実るはずのない恋だけがわたしのものなんてイヤなの!
探していたのはメリーの声。描いていたのはわたしとメリーの未来。
私達があの時に見ていた夢は、この幾億の星々が煌く宇宙よりも広いのかな?
カーテンの隙間から見える星を眺めながら、神様に祈るようにメリーに想いを馳せた。
今日はムラムラしてヤりたいから犯させて5万円でxxxのお誘いだとか、くだらないヒモからのメールが届くだけでメリーからの連絡は一切来ない。
それはわたしの台詞だから。メリーを犯せるなら何万円でも出す。心が買えないことくらい分かってる。ただわたしは貴女に会いたくて、沢山お話を聞かせて貰った後で散々惚気合えたらそれだけで幸せ。
ぼんやり夏の大三角を眺めていると、時間だけが刻々と過ぎ去っていく。不安と焦り、そしてほんの僅かな期待と圧倒的な絶望。全てがない交ぜになった心は切なくて、苦しくて、わたしは貴女の名前を叫ぶことしかできなくて――
――め、り、ぃ。め、り、ぃ。
何度だって呼ぶよ。わたしが名付けたその美しい名前を、何度でも、何度でも……。
この腕をやさしくなぞった指先の感触はもう一生忘れられないわ。貴女が残してくれた想いだけで、わたしのココロは回っているような気がするよ。
傷痕から触れた血液まで貴女のぬくもりが伝わって、身体中をゆっくりと循環している。
ああ、時計の針を元に戻すことができたら、あの夢の中にいるメリーの目の前で、コノ手首ヲ切ッテ血ノ噴水ヲ見セツケテアゲルノニネ――?
――め、り、ぃ。め、り、ぃ。
何度だって呼ぶよ。だから、答えて欲しいの。わたしのこと、す、き?
素直に答えてよ。わたしはメリーに相応しい、メリーのお気に入りのラヴドールになることが夢なんだから。
貴女の大好きなお洋服、わたしにお似合いのお洋服、選んで着せて欲しいの。わたしはメリーのためならなんでもするよ。
それが貴女好みの宇佐見蓮子ならば、どんな恥ずかしい服でも喜んで着るわ。貴女に愛されるわたしになること、それが今わたしの全てだから。
はしたないxxxもお望み通りに、変態露出プレイでも、強盗でも、人殺しでも、売○でも、どんな犯罪行為でもメリーノタメナラドンナコトデモ奉仕サセテ――?
――め、り、ぃ。め、り、ぃ。
何度だって呼ぶよ。貴女を想うだけで、苦しくて胸が張り裂けそうなの。
あの時ぎゅっと抱きしめてくれた時の感触が今も忘れられなくて、想像すると濡れてきちゃう。
貴女はずっと大人だし色っぽいから、わたしxxxしたら絶対おかしくなって狂い叫んであんあん鳴くふしだらなメスに変わっちゃうよぉ。
だって、こうして名前を囁いてるだけなのに、メリーのこと、ただ呼んでるだけなのに、好き、好き、大好きって言ってるだけなのに、いやらしい気分になってくるの。
メリーにだったら、この身体を捧げてもいいと初めて思えた。愛してる相手と交わすxxxのエクスタシーは格別だから……ああ、あの続きがしたかったな、メリーの指デワタシノ秘密ノ場所ヲグチャグチャニシテ――?
一文字ずつ手繰り寄せるようにメリーの名前を呼ぶたび、狂おしいほど愛したい、壊れるほどに愛されたいと言う切望だけが心を完全に掌握していく。
ああ、メリー、メリー、めりぃ、めりぃ、めり、ぃ、めり、あ、やぁ、ん、あは、んっ、は、ぁ、めり、ぃ、めりぃ、あ、い、た、い、よ。抱きしめて、キスして、ほ、し、い。
こんなの、耐えられるはずがない。メリーのことを考えるだけで頭がどうにかなってしまいそうなのに、メリーを想って行為に耽ったらその後むなしくて死にたくなるに決まってる。
ずっと愛されたくて自分を売って、心の隙間を埋めたくて愛を売ってたのに、今はメリーのために愛を売りたい。わたしの汚れた身体を手向けたい。宇佐見蓮子の全てを奪い取ってぐちゃぐちゃに犯して欲しい。
お願い、会いたいの。メリー、声を、こ、え、を、キ、カ、セ、テ? コエ、ヲ、キ、カ、セ、テ、欲しいの。貴女の愛撫でよがり狂って頭がおかしくなっちゃったパラノイドなアンドロイドになりたいの。
わたしの名前、呼んでくれるだけでいいの。ただ「蓮子」って囁いてくれたら嬉しい。貴女のためならば、神様を殺すことだって厭わない。貴女のラヴドールにして貰えたら、わたしは絶対幸せになれるから。
このまま明日の19時までなんて過ごすなんて、頭が違う意味で壊れてしまうに決まってる。
完全に制御不能に陥った心を落ち着かせる方法なんてリスカくらいしか思いつかない。メリーの愛撫に叶うはずもないけれど、それでも幾分かのわたしの存在の証明にはなるはずだから。
これはあくまで心の安定を図るためのもの。そして今これから切る傷はメリーへの誓いの傷痕。貴女のことを一生愛し続けます。貴女の奴隷として一生を尽くします。貴女のラヴドールとして、淫らなダンスを踊り続けます。
嘘つきの詩人宇佐見蓮子として、全てをメリーのために捧げる儀式としては上等過ぎる。メリーを想うがために切る痛みは、さぞかし心地良い至高の快楽をもたらしてくれるはず。
真っ赤な鮮血に染まったわたしを見て「綺麗」なんて微笑んで囁いてくれるメリーを想像するだけで頭がきゃはははははははははははははははははははははははははははははははって壊れちゃいそうなんだよ?
その後は新しくあしらった綺麗な傷細工を飾った左手でオ○ニーしてみせるから。ただメリーのことを想ってふしだらに火照るわたしの姿はきっと気に入って貰えるわ。ねえ、メリー、早く連絡頂戴。わたし、また、おかしく、なる、よ。
マウスをかちかちと操作して『ニヤニヤ動画』の生放送ページからログインする。
そして自分の本名からからもじったハンドルネームを添えて「Renのリストカット実況生中継」と銘打った生放送を20時放送開始に予約しておく。
折角だからBGMはRADIOHEAD「OK computer」にセットしてWebカメラのスイッチを入れた。わたしは定期的に何度もやっているせいか、それなりに人気みたいで結構人が見に来てくれる。
StickamやUstreamなど配信が当たり前になって盛んになったご時世、平然と素顔を曝してジサツやリスカ、オーバードーズしてラリった姿を生中継なんて日常茶飯事。
わたしみたいな本気なんだか構ってちゃんなんだか分からない人もいれば、事故か偶然か運命か本当に死んでしまう人もいたりする。
そうやって真面目に苦しんでる人達を見ても、野次馬の大半はけろっとした顔をして好き勝手にげらげらげらげら笑いながら罵るだけ。
彼らにとって私達の行動は所詮キチガイの起こす珍事に過ぎない。他人のことは所詮他人事に過ぎず、それは幸せな人が不幸な人から目を逸らして気付かないフリをすることと全く同じで――考えるだけでむかつくし吐き気がする。
そんな虫けらと援助交際してしまうわたしも所詮同類。実際誘われて何人かとヤったこともあるし、リスカなんてオ○ニー的行為を生放送するお馬鹿さん達はわたしと同じ自己顕示欲の塊のような醜いゴミクズ以下ばかりだから。
キッチンからバケツと雑巾を持ってきて、軽く髪の毛をセットしてメイクを済ませたら準備完了。
そっと画面を覗き込むと、既に視聴者数は300人を超えていた。ページ内では既にチャットが行われていて、あれこれとくだらない書き込みがリアルタイムで流れ続けている。
そう言えばリスカ配信するのは久し振りかもしれない。わたしは帽子を深く被るくらいで顔を隠すこともしないし、ただいい加減なことを喋りながらアイドル気取りでお喋りしてるだけなんだけどね。
こんな場所にしかわたしの居場所はない。ふと考えてみる――此処にいたくないって気持ちと、何処か遠い場所に行きたいって想いはイコールになるのかな?
ぶんぶんと頭を横に振ってみても、レキソタンを飲み込んでみても、まぶたと心の中では相変わらずメリーのことが焼き付いて離れない。
Renは狂っているなんて評判はもう周知の事実だし、今更普通に振舞おうなんて気も起きないけれど。Webカメラを弄って『Live』に変更すると、パソコンの液晶ディスプレイにわたしの姿が映し出された。
小さな頃から正視恐怖――つまり誰とも、鏡に映る自分ともまともに視線を合わせることのできないわたしは、少し俯いたままいつものちょっとダウナーな感じでマイクに向かって話しかける。
「こんばんは、Renです。久し振りだね、みんな元気にしてた?」
名無し:ktkr
ハリー:こんばんはー
名無し:リスカ女死ね
774774:Renちゃんかわいいよかわいいよ
名無し:最近何してたの?またサポ?
たかし:Ren愛してる
名無し:Renちゃんちゅっちゅ
インターネットはわたしのような人間に居場所を与えてくれた。
出会ったこともなければ話をしたこともない人ばかりなのに、何故か繋がっている気がするから不思議。
宇佐見蓮子と言う名前ではなく、わたしは『Ren』と言う名前で確かにネットの世界に存在していて、不特定多数の人間に名前をちゃんと覚えて貰っている。
此処では全く違うわたしとして生きてるフリをすることだって可能――要するに可愛い女の子を装ったりもできるんだけど、その手のなりきりをする気は全く起きない。
ちっぽけなどうしようもないプライドなんて百も承知。わたしは『わたし』としてありのままの自分を見て欲しい。あくまでインターネットは現実の延長線上にあるヴァーチャルな仮想空間なのだから。
「今日は病院だったんだけど、デイケアで滅茶苦茶素敵な人に出会ったよ。あれ、多分ね、一目惚れって奴だと思う。だって、何か胸どきどきしてたもん」
矢:男?女?
名無し:可愛かった?
ラウル:俺のRenを奪うような野郎なら殺してやる
けびん:デイケア(笑)
名無し:Renって統失だっけ?ボダ?
田中:デイケアはピザとデブスしかいない印象
「女の子。研修生なんだって。多分わたしより1~2つ年上かな。でも凄く綺麗な人。紫色のキャミが本当似合っててね、背も高いしスタイル凄く良くてモデルさんみたい、ほんと羨ましいな」
名無し:Renちゃんだって自称高三のくせにボインじゃん。前胸元見せてたけど、そのネクタイ谷間に食い込んでるのがエロいよね
前田:Renちゅっちゅ
↑:セクハラすんな死ね
名無し:Renちゃんにちゅっちゅする方がいいな
小山田:最近の子は発育いいからなー
↑:こいつ自体ビッ血だからどうでもいい
名無し:どうでもいいから早くリスカして氏ね
「それでね、デイケア途中で具合悪くなっちゃって休んでたんだけど。その間ずっと夢を見てたの。その人とキスして、エッチなことする夢」
lain:レズきめえ
名無し:どんなことしてたの?服着たまま○×△の中に指入れちゃったり?
やがみ:こいつどうしようもない淫乱女だよなw
名無し:わたしRenちゃんのリスカ見たいんだから早くしてよ
たかこ:でもRenの気持ち分かるなあ。私のリスカもそうだけどさ、逃げたくなるもんね、痛くないと生きてる気がしないんだよ。xxxと変わらないよ
連死ね:お前が脱げばいいじゃんてめえみたいなリスカ女には全裸でxxxしか期待してねえんだよ
「抱きしめて貰ったんだけどね、わたしより胸大きかった。心臓の鼓動まで聞こえるみたいでどきどきしてね、髪をすいて貰ったら、ふんわりといい匂いがして気持ち良かったなあ……」
たかし:Renはどう考えもDはあるから、Eカップくらいあんのかな、でかくてやっぱきめえ
名無し:グラドルになればいいんじゃね?ああ手首傷だらけで無理か(笑)
孝美:かまってちゃん氏ね
明:Renちゃんちゅっちゅ
美紗子:わーわたしもRenちゃんに抱かれてみたーいvvv
名無し:何やってんのか知らんけど援助交際するくらいなら風俗で働けばいいんじゃね?
ユリカ:↑そんなこと言わないでよ。Renちゃんは苦しんで誰も助けてくれないからリスカしてるんだよ。皆の役に立ちたいから安値で身体売ってるんだよ
名無し:で、相場幾らなの?一発ヤらせて欲しいだけどメールすればいいの?
どいつもこいつもわたしのことなんて全く知らないくせに、言いたい放題好き勝手に話し始める。
それがどんな卑猥で罵詈雑言でも、その言葉全てがわたしが此処に居ることを証明している気がして、何故か嫌悪感は微塵も感じなかった。
もしもこの視聴者全員が直でわたしを見つめていたら羞恥に耐えられず逃げ出すだろうけれど、此処はあくまで現実の延長線上の仮想世界。
どうせこの人達との大半とは一生会う機会もないし、恥ずかしくも何ともない。こんな風に言われても何とも思わない辺り、わたしはMなのかなあとか何となく考えたりする程度のお話だよね。
――ああ、それにしてもメリーのことを思い出すだけで、ずきずきと傷と心が疼いて仕方ない。
会いたい、会いたいと心が悲鳴を上げるたび、抱きしめて、抱きしめてと身体がふしだらに火照るたび、わたしの身体を流れる血液が破裂しそうな感覚に襲われる。
メリーから与えられた想いが心の中にふわりと広がったまま、わたしの傍に寄り添って見守っているみたいだった。
それはあの神様みたいに、いつでも何処でも私は此処にいるから――そんな妄想が生み出した銀のナイフを心に突き刺すと噴き出した血がどくんどくん巡り巡る。
パソコンの脇に置いたケータイが鳴らないかどうか、ちらちらとしきりに目配せしてもやっぱりメリーからの連絡は来ない。
貴女の想いで張り裂けそうなこの心から溢れ出す紅い雫を、みんなに自慢して見せるの。この管から噴き出す真紅はメリーから与えられたわたしの生を祝福する想いが込められた神聖なる血だと――
「うん、だからね、その人のことを忘れないために今日は切ろうと思って。だって忘れられないんだもん。こんなに好きになっちゃったら、どうにもならないんだね」
名無し:刺青かよ
名無し:もうやめな。君のはどう考えてもやりすぎ、そのうち死ぬよ?
たかこ:いいなあ、うらやましい。わたしもそんな素敵な人のためならRenみたいにすると思うな
桜:好きな人の前でやった方が効果があっていいと思うよ。愛されるかどん引きのどちらかしかないけど(笑)
浩太:さっさとぶっつり完全に切って死ねよ
あかり:あーわたしもやりたくなってきた。一緒にリスカしちゃおうかな
名無し:そんなもんより俺に犯された方が気持ちいいし忘れられるぜ?金いくらよ?5万なら出す
「だって、xxxしたいけど、その人とわたしはもう会えないかもしれない。我慢できないの。オ○ニーなんかしてもむなしくなるだけ。だから今日は徹底的に切って、わたしはあの人を心から愛してるって自分に教え込むの」
名無し:やっぱ狂ってんな、こいつさあ
リリカ:リスカもxxxも同じようなものだと思うけど、Renがそうしたいならそうすればいいと思うよ。っていうかわたしと付き合ってよ(笑)
美佐:わたしも一緒にするから、Renも気持ちよくなろう?
↑:馴れ合いきめえ
富樫:運営にばれる前にちゃっちゃっとやってくれよ
シンジ:Renちゃんちゅっちゅちゅっちゅしたいよぉ
名無し:そのままオ○ニーしてるとこ見せた方がウケいいんじゃね?
サクマ:どうしてこんな可愛いのに、こんなことするのかな。やめなよ、まだ遅くないって。いくら現実が辛いからって、こんな方法で逃げることないよ
↑:分かったようなフリすんなこの偽善者どもが。この残酷な世界に俺らゴミクズの居場所はねえんだよ
ディスプレイの中を駆け巡る文字群を他所に、左手の袖をまくって傷だらけの生腕を曝し出すと、今朝駅のトイレで切った時の切れ込みを覆うガーゼが剥がれ落ちた。
ひとつひとつ想いを確かめるように、メリーが愛おしむように撫でてくれた傷痕。ただ、ア、イ、シ、テ、ル、って貴女に想いを馳せるだけで、わたしの中を軋み流れる真紅の砂が悲鳴を上げる。
今から執り行うこのリストカットは聖なる儀式。貴女への誓いと共に刻み込む綺麗な傷飾りからは赤い血飛沫が飛び散って、夕景の記憶と共に朱色に染まった美しい世界を見せてくれるはずだから。
赤い薔薇の咲いた部屋で、貴女をずっと待ってる。メリーが此処に着てくれるまで、わたしは悦んで、ヨ、ロ、コ、ン、デ……手首から滴る赤い涙をこの身体から空っぽになってしまうまで流し続けるの。
メリーを想うと頭がおかしくなっていくんだよ。貴女のいない世界なんて考えられない。わたしにはメリーしかいないんだよ。どうせ貴女はわたしが必死で足掻いてる姿を見てるのが大好きなんでしょ?
ずたずたに切り刻まれた腕の中で一番目立つ手首の先端部分に、箱から取り出しておいたメスをそっとあてがう。
ああ、貴女があの時抱いて殺めてくれたらわたしは幸せになれたのに。この心に突き刺さったままのナイフから流れる血が身体を駆け巡るたび、貴女を思い出してしまう。
この手首から滴り落ちる血の涙は、明け方頃には止むと思う。メリーがその時までに迎えに来てくれなかったら、わたしは此処で死ぬことを悦んで選ぶわ。貴女の想いが通っていない血液なんて必要ない。
わたしは人間としての本能をつかさどる脳の中枢が壊れているのかな。揺れる貴女のいい匂いの髪の毛や艶やかな声が聞こえてきて、わたしの頭の中では今すぐにでも会いに行ける気がするんだけどな。
あの日の『メリー』がわたしをおかしくしたんだ。あのビルで出会った日からわたしの運命はメリーの思うがまま。ジサツするたびに貴女が愛しくなって、段々おかしくなって、あはっ、シ、ア、ワ、セ、ナ、ノ、ワ、タ、シ、ィ――
――ア イ シ テ ル
ワ タ シ ノ メ リ ィ ワ タ シ ダ ケ ノ メ リ ィ
ヤサシク、抱、キ、シ、メ、テ、狂オシクナルヨウニ、殺、メ、テ、欲、シ、イ、ナ?
ひゃは。なんて間抜けな声と同時に、皮膚の中にメスがすうっと切り込んでいく。
すぐにぷつっと小さな音と共に血管が切れて、大量の鮮血が白いワイシャツに血のアゲハ蝶を描き出した。
わたしだけが創造できる真紅に染まる世界。夜空に散りばめられたアンドロメダの流星群を見上げながら、イエスの花束掲げて歌うよ。ワ、タ、シ、ノ、親愛ナ、ル、メ、リ、ィ――
「きゃははははは、きゃははははははは、きゃははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
名無し:うわああああああああああああああああああああ
碇:キチガイすぎる。やっぱこいつ頭おかしいわ
名無し:結構深くやってるっぽいし、下手すれば死ぬんじゃね?
ゆうこ:縫うのは確実だろうねー
わたる:おええええええええ、気持ちわりぃいいいい
らう:そのまま死ねよ
名無し:どす黒いよなあ、本人の心そのままって感じ?
ゆりか:あは、わたしもやっちゃってるけど、Renみたいにやる勇気はないなあ
ああ、狂おしいほどに、胸が張り裂けそうなくらいに愛してる人のために手首を切る、それがこんなに甘く切なくて素敵な快感に変わるなんて。
リストカットの痛みなんてとっくのとうに鈍くなって感じなくなっていった。それは段々とわたしが生の意味を失っていくことと同義なのかもしれない。
緩やかな痛みがあったからこそ、わたしは自分が生きていると実感できた。その痛みが薄らいでなくなってしまうと言う事実イコール現実感の喪失及び逃避行動としてのリストカットはもう意味を成していない。
こんな風に実況して言葉を掛けて貰うって意味では、わたしの存在は認識されているんだろうけど……それならリスカじゃなくても、詩を書くなり全裸でオ○ニーしたりして構ってちゃんになればいいだけの話だから。
完全に痛覚はロストしているし、左手の感覚が少しずつ失われていく――それは要するに、わたしが生きてるって実感がない。
皮膚感覚は麻痺して、脳細胞は死滅した。透明な血は流れ過ぎて、涙は枯れ果てた。痛みすら感じなくなってきたわたしを傷付けたところで何の意味もない。
今まではこのほんの少しの痛みが、心を満たしてくれる安定剤のようなものだった。ただ、今やらかしたこのリストカットは違う。これはわたしのためでもあり、彼女と結ぶ隷従の契り。
メリーと言う『神様』に捧げた祈りと鮮血の誓いは、本来やってくるはずの痛みを緩やかな快楽に変えてくれた。すぱっと切れて地が噴き出す刹那の爽快感は、心の昂りを最高潮まで高めてくれる至高のエクスタシー。
いやらしい雰囲気で濡れちゃってる感触と共に、快楽の波が押し寄せてきてぞくぞくと背筋に悪寒が走る。ただ最高に気持ちがよくて、わたしはやさしい愛の言葉をそっと囁く。
「ねえ、見てよ。ほら、綺麗綺麗キレイキレイなわたしの血、あの人の想いが込められているの……ワタシ、素敵デショ? ねえ、ほら、もっとちゃんと見てよ。わたしの愛スル人ノタメニ捧ゲル血ノ雨ヲ――」
名無し:完全に頭イってるなこいつ
ゆう:たまにODしてるみたいし、相当キめてるんじゃないの?
まさし:うわこっち腕近づけんなし!血でカメラのレンズ濡れてんぞ
名無し:きれいだよ、きれいだよ、Renちゃん。だから、xxxさせて?
名無し:Renちゃんちゅっちゅ
たろう:こんなん見て喜んでる奴もやってる奴も全員馬鹿だろ
みち:うわ傷口もろ見えだし、なんか違う物質?出てる……
血塗れになったまま赤いインクを噴き出し続ける腕をゆっくりとWebカメラの方に近付けていくと、みんなの反応があれこれと変わるから面白い。
綺麗に切れた白い真皮から内側の開けた肉が覗いて、その奥から血と一緒に黄色いぼこぼことした脂肪が見える。わたしのような小食な人間はあまり脂肪がないから、脂身が少なくて美味しくないかもしれない。
結構血管の方に深く刺さってしまったせいか、バケツの中にとぽとぽと溜まっていく血は、あっと言う間に1/3の量になってしまった。1.5Lくらいで致死量に至るらしいけれど、この程度は日常茶飯事の延長みたいなもの。
深くやりすぎると貧血気味になるせいか頭がちょっとだけゆらゆらするけれど、それもまた心地良くて素敵。ディスプレイやキーボードに血の雨が降り注ぐのもお構いなしに、自分の腕をアップにして映してあげる。
どうせパパは葬式なんてやらないだろうし、やって欲しくもないからお庭にでも埋めてくれたらいいよ。メリーに愛されないわたしだってある意味理想で、何故ならそれは神の断罪と等しくわたしがジサツするための完全な動機に繋がるから。
メリーに愛されないわたしは無価値だからゴミと同じだしね。死体でも構わないなら犯してくれても結構。意外とパパにはお似合いかもしれないよ。だって異常なプレイが大好きだったもんね、パパみたいな変態趣味に付き合わされたママは本当に可哀相だと思う。
どうせこのままメリーから連絡が来るまでやめるつもりもないし、バケツも雑巾は必要なかったね。永遠の物語に相応しい鮮やかな真紅に染まった部屋で行われる神聖な儀式、視聴者の皆さんはお気に召してくれたかな?
もしも連絡が来なかったとして、わたしが死んだとしても……何時の間にか時が経って、メリーも色んなことを忘れて、たまにふと思い出すんだよ。自分自身が変わっていたこととか。
其処には多分わたしの記憶なんて含まれていない。わたしだけ消えてしまうのかなって思うとちょっと寂しい気もするよ。だって、メリーのことわたし何も教えて貰ってないし、メリーの記憶の面影となって笑うわたしはいない。
それでも貴女には覚えておいて欲しいから、歪な傷の細工を目立つところに作ってみたよ。また今日みたいにメリーが撫でてくれたら、醜いと、綺麗な傷痕だと褒めてくれたら嬉しいな。労いのキスはおでこにして欲しいの。その後にゆっくりと楽しみたい。
今度はわたしが貴女を傷付ける番だよ。でも、こんな風にはしないよ、大丈夫。メリーには美しく凛とした姿がお似合いだしね。やさしく、やさしく、ヤ、サ、シ、ク、愛するよ、メスの代わりに白い花束を持って貴女を祝福してあげる。
会いたいよ。会いたいよ、メリー。貴女の想いが消えてしまう前に、どうかわたしを迎えに来て。ちゃんと抱いて貰いたいな、この心に貴女の想いが残るように。そして息も出来なくなる激しい口付けを交わしたまま、殺、メ、テ。
――なんとなくね、おもったんだよね。
わたしがジサツしようとすれば、必ずメリーが来てくれるんじゃないかなって――
「あはっ、ほら、ちゃんと見て、薔薇が咲いたみたいなの、この血の色はあの人の瞳みたいに美しい。きゃはは、感じちゃうよぉ、あはっ、サイコー、きゃははは、きゃはははははははははははははははははははははは――」
めぐみ:氏ねよ腐れビッ血
名無し:自分に酔いすぎてんな、完全にクスリでイっちゃってる系
ゆめこ:綺麗だよ。綺麗だよRen...貴女のこと、私大好き
ちくわ:Renちゃんちゅっちゅちゅっちゅしたいよぉ
奈々氏:血飛沫でカメラ見えない真っ赤だよー
最高に狂っちゃった頭はサイケデリックな妄想で完全に犯されていた。
Webカメラに飛び散ったものを右手の袖で拭いては、また血が噴き出す様を平然と見せ付ける。
その繰り返しのたびに鮮血に塗れたディスプレイの中を流れ続けるログは、さながらわたしとメリーを祝福する賛美歌のようだった。
赤い世界の白い病院に備え付けられた廃墟のチャペルで行われるウェディング。其処で貴女と交わす永遠の口付けは、どんなに可憐で素敵なのかしら。
よしお:もうやめろって、死ぬぞ
名無し:このまま死んだ方がいいだろ。死にたいからやってんだろ
さくら:素敵、Renのこと愛してる
クリス:おええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ
名無し:こんなことしなくても適当な男に寄生すりゃまともに生きていけんだろうに
名無し:どんだけ自分のこと好きなんだこいつ。ボダマジきめえ
わたしはわたしのことが好きだよ。メリーを愛してるわたしが好き。勿論メリーのことだって大好き大好き超大好きだよ。
わたしは可愛いのに、誰も可愛がってくれないから、こうやって自分で自分を慰めてるの。リスカなんて所詮オ○ニーと一緒だよ?
パラノイアでヒステリアなアンドロイド。自己愛は快楽残響、妄想の幸福主義者。メリーのたとえ、とても秀逸で今のわたしには最高の褒め言葉。
こんなわたしは、メリーのことが大好きで大好きでもう大好きすぎてどうしようもないの。優シク抱キシメタママ殺シ、タ、イ、ナ、ァ、きゃはっ。
名無し:笑い声からして完全にイってんなもう
ふかせ:精神科で処方されたクスリじゃなくて、違うやばいドラッグ系やってんじゃね?
ひさこ:Renちゃん天使マジ天使!
ゆき:Renさんみたいに悩んでるから、わたしもそっちの世界に行きたい
メリー:最低
「は――?」
――わたしの狂い叫ぶ声が響き渡る部屋に訪れた、サイケデリアを切り裂く静謐な空気。
首から冷たい汗が流れ落ちる感触がやけに生々しくて、背筋がぞくぞくと震えて止まらない。
血塗れになったディスプレイを拭いてログをチェックすると、確かに『メリー』と名乗るハンドルネームからの発言に「最低」の二文字が書き込まれていた。
血の気が失せた顔が蒼白になる様子が、手に取るように分かって気持ち悪い。相反するように悦びを上げて噴出し続ける血の雨が、キーボードをべちゃべちゃに汚していく。
別に珍しい名前ではないと思うけれど……偶然の一致にしてもあまりにもおかしい。だって今日決めたばかりの私達の秘密、私達だけしか知らない夢の中の話なのに、何故――?
貞夫:どうした、ついに死んだか?
竹:クスリ切れたんじゃね?
ひろみ:えーRenさんの狂った姿もっと見たいよぉ
メリー:パラノイアでヒステリアなアンドロイド。自己愛は快楽残響、妄想の幸福主義者。此処まで来ると、ただの道化ね。素直に気持ち悪いと思うわ
名無し:おい続けろよ死ぬまでやらないとつまんねえだろ
普段なら何のことはない普通のdisりでしかない、でもメリーと言う人物の今の発言は――あの夢で聞いた台詞と同じ。
急いでIDから素性を調べてみる。今日作成されたばかりのアカウントで動画のアクセスもチャットの発言もこれが始めて、IDも先程の「最低」発言と一致した。
血塗れの手で必死にキーボードを叩いてディスプレイを凝視している自分の姿は、多分物凄く必死で滑稽、まさに道化や壊れたマリオネットに見えてるのかもしれない。
あの時にメリーが与えてくれた想いがたゆたう心の動悸が収まらない。
今までは誰から罵られたって平気だったし、彼らの罵詈雑言がわたしの存在価値を示す言葉となっていた。
でも、もしも、もしも、彼女が本当にメリーだとしたら……掛けて欲しい言葉は違う。もっとやさしいハーモニーを奏でるような、清楚で可憐な美しい言の葉が貴女には相応しい。
それなのに、もう手遅れ。既に直感は最悪の事態を想定していた。完全にラリった本能の中にあって大半の器官が死んだはずなのに、何故か第六感は正常に機能して神の宣託を思い起こさせる。
――ビルから飛び降りジサツしたあの日から。
くだらない援助交際の後、病院に行く途中のホームで見かけた瞬間のときめき。
病院のデイケアで休んでいた時の、夢の中に入り込んで甘い夢を見せてくれた艶やかな戯れ。
帰りのエレベーターで幻覚に襲われて、パパをいたぶってからジサツするまでの一部始終を黙って見守っていた間の悲しそうな表情。
そして今、貴女への愛を誓うためのリストカットを拒絶して、最低だと冷酷に吐き捨てた言葉はわたしの一番恐れていた事実を突き付ける。それは――
" メ リ ー に 愛 さ れ な い わ た し に は 存 在 価 値 は な い "
この発言をしてる人物はメリーに違いない。それが絶対だと分かった途端、急速に身体中に渦巻いてたエクスタシーが凪いでいく。
今何処でこの配信を見て、わたしの姿を見つめているのかな。ケータイか宿泊先のパソコンか、それとも漫画喫茶とかネットカフェ?
それともあの空の遥か遥か遥か彼方――わたしがずっと憧れていた空の向こう側にある、神様が振り撒いたような星々が煌いている場所?
サイケデリックな覚醒状態からバッドトリップ状態に急降下した脳内は、メリーの言葉だけがぐるぐるぐるぐると回り続ける。
最低。サイテイ。最低。サイテイ。最低サイテイ最低サイテイ最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低最低。
パラノイアでヒステリアなアンドロイド。自己愛は快楽残響、妄想の幸福主義者。パラノイアでヒステリアなアンドロイド。自己愛は快楽残響、妄想の幸福主義者パラノイアでヒステリアなアンドロイド。自己愛は快楽残響、妄想の幸福主義者パラノイアでヒステリアなアンドロイド。自己愛は快楽残響、妄想の幸福主義者。パラノイアでヒステリアなアンドロイド。自己愛は快楽残響、妄想の幸福主義者。
いや、やだ、こんなの、いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやもういやなのやめて耐えられない!
「メリー、メリーなんでしょ!? 答えて、今何処にいるの? どうして、どうして連絡くれないの!? ずっと、ずっとメリーの返事を待ってるのに!」
名無し:メリーって誰?エンコー相手か?
鷹:彼女って説もありじゃね?Renがレズとか萌える
よしお:レズとかどっちにしろきめえんだよ
正志:あれだろボダだから誰かに依存しないと生きていけないんだろ
彩:メリーって人、何にしろそういう言い方ってよくない。Ren明らかに動揺してるよ
メリー:こんな行為如きでゴミクズ以下の価値しかない貴女自身への罰になるとでも思っているのかしら。それとも手首を切ることで誰かに同情されるとでも思っているの?
う、そ、だ。うそ、だと、言ってよ、メリー、ねえ、違うよね、冗談だよね、メリーが、こんなこと、言うはずないよね?
こんなの、夢、夢、そう、あの時と同じように夢であって欲しかった。わたしが、わたしがメリーに嫌われて、否定されるなんて考えたくもない。
メリーに拒絶される――それはパパを殺すよりも、ジサツするよりもつらいこと。メリーから愛されるために、貴女への忠誠を誓うために、メリーを愛してるわたしを愛するために切ったのに、そんな言い方って、ないよ……。
だってあの時はメリーはやさしくわたしの傷痕を撫でてくれて、ちゃんと分かってくれた。つらかったんだね、もう大丈夫だからねって、わたしの過去を受け入れて、慰めてくれたのに、こんなこと、こんなことなんて、信じられない。
わたしに与えられるものは、いつだって罰だった。想い描く夢は朽ち果てて、一縷の希望は常に他の誰かの手中に。だからわたしは自分で自分を可愛がることしかできなかったの!
そんなこと、今更……憂う過去に戻ることは叶わず、現在は途方もなく残酷で、未来は星の瞬かない宇宙の彼方。わたしは一体どうすればよかったのか、あの時は誰も教えてくれなかった。
だってこうしてたら誰か構ってくれて、ひとりは上辺っ面だけでも「可哀相」とか「痛いよね」とか言ってくれるんだよ。それが真意でなくても、わたしは誰かに存在の証明をして貰うこと自体に飢えていた。
別に同情なんてされたくもないし、あれこれお情けを貰うためとかいちいち考えてリストカットなんかしてない。ただ、ただ、自分が、わたしが此処にいると、生きていると、誰かに、誰かに、知って欲しくて、分かって欲しくて……。
「メリー、答えて、答えてよ! わたしは貴女に会いたい、今すぐ会いたいの。電話でもメールでもいい、貴女の声が聞きたい……お願い、お願いだから、わたし、わたしのこと、悪く言わないでよ」
高志:おいどうしたんだ、死ぬの怖くなったのかwwwwwwwwwwwwww
名無し:ラリってて急にクスリ切れたからやばいんじゃね?
もえ:Renちゃん大丈夫?大丈夫だったら放送やめてSkypeしよう?
サラダ:フィ言う家ウf呪医ウファじゃ言うフィウふぇいうふふぃうっふぃうfjふぃふぇ
メリー:貴女は誰も慰めてくれないから、自分で手首を切って痛いフリ傷付いたフリ悲しいフリして可哀想な気持ちになって、自分で自分を慰めているだけなのよ
ふぇえ:いい髄負英jf家ジョイ会う言う亜pふぁふぇ『@ふぉっフィおf@おいあぽpふぉぽあおふぇいふぃ
血塗れになったディスプレイに浮かぶメリーの言葉を見るたびに、枯れたはずの涙がぽろぽろと零れ落ちた。
今までは、ずっと、ずっと、助けてくれたのに。ねえ、本当の神様みたいにさ、わたしを見守っててくれたの、あれはメリーじゃなかったのかな?
上っ面のやさしさなんて、後からむなしくなるだけ。社会的正義感を振りかざしたり、反吐が出るような偽善や、中途半端なお情けなんて要らない。
そう思ってたわたしに心から接してくれた初めてのひと、それがメリーだった。そんな素敵な貴女が、何故今になってわたしを汚い言葉でひどく罵ったりするの?
ずっとメリーだけは分かってくれたと思っていたのに……物心付いた頃から、わたしの心は花が枯れるように壊れてしまった。
何もかも全て、悲しくて、つらいことばかり。誰も構ってくれないし、分かろうとしてもくれない。そうしているうちに人間としての想いは朽ち果てて、諦めることにも慣れた。
この世界は悲しい儚い汚い醜い壊れてるとかあれこれと理由繕って、解り切ったようなこと言って一人悦に入ってもどうしようもない。どうしようもないことを、どうにかしろって言われてもわけが分からない。
最初から分かってるよ。死にたいとか言って手首を切っても、死ねないことに気付いて。別に死ぬ気もあんまりないんだなって笑って。ただ結局わたしは生きてるって事実だけが其処に残る。
苦悩なんて随分偉そうな戯言だよね。己の無力を嘆いては、誰に言い訳したらいいのかな。全て社会、人間、世界、神様のせい、要するにこれは神のカルマなんだ。そうやって自分が幸せになれない理由をずっと貴女――つまりメリーのせいにしてた。
それでも、貴女がずっとわたしのことを見守ってくれてたから、ようやくわたしは救われるかもしれないってほんの少しだけ、ううん、本当は、心から期待してたんだ。それなのに、どうして貴女はこんなひどいこと……。
「ああ、神様、わたしの神様、メリー、ねえ、メリー、お願いだから、ひとつだけ答えて。わ、た、し、の、こ、と、す、き?」
jフィジf:ウふいフィかjフィf時fジェイ;亜f化lfけおふぇおっふぇflpふぉおふぃおfえふぉえふぇ
キい:ふぉイオこあ「vぽvぽ@f」っふぇふぇf』得ふぉpふぉkふぉj後gkぺpぇfplff;lfpふぇpふぉおぺ@f「
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メリー:私は蓮子のこと大嫌いよ
ふぇf:フィフィウ増えlふぇフィ絵フィ得ふい増えふぉふぃうふぃういっふいfぐぎうg
vじゅ:イヴ言う魏具g@えっふぉえおfこえふぇおふぇおふぇおfkふぉkふぉ囲碁イッ儀卯木ウghjfジェイフィ儀ウ具儀卯木ふい負日宇負言う皮膚日宇ひうほいふぃえいじふぇふぇっふぇ
やだ、そん、な、うそ、嘘だと言ってよ、嘘だよね、う、そ、だよね?
お願い。わたしが悪いなら謝るから許してよ。跪いて土下座でもなんでもするから。
メリーに嫌われたら、わたし、わたし、本当に、生きてる意味がないの。価値がなくなってしまうの。
わたしの存在を証明してくれた唯がわたしを否定する。それはわたしが生きたまま死んでるのと同じことだから。
血の雨に晒されたディスプレイの文字の見分けすらつかなくなって、プログラミング言語がロードされたような気持ち悪い文字列の羅列が次々と流れていく。
その中にあって、たったひとりの文章だけがはっきりとわたしの瞳に映し出されていた。文字化けした訳の分からない言葉の渦に紛れて、メリーの打ち込んだコメントが明確な意志を持ってわたしを罵る。
メリー:私は蓮子のこと大嫌いよ
メリー:私は蓮子のこと大嫌いよ
メリー:私は蓮子のこと大嫌いよ
メリー:私は蓮子のこと大嫌いよ
メリー:私は蓮子のこと大嫌いよ
メリー:私は蓮子のこと大嫌いよ
メリー:私は蓮子のこと大嫌いよ
メリー:私は蓮子のこと大嫌いよ
メリー:私は蓮子のこと大嫌いよ
メリー:私は蓮子のこと大嫌いよ
メリー:私は蓮子のこと大嫌いよ
メリー:私は蓮子のこと大嫌いよ
メリー:私は蓮子のこと大嫌いよ
メリー:私は蓮子のこと大嫌いよ
メリー:私は蓮子のこと大嫌いよ
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メリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよメリー:私は蓮子のこと大嫌いよ――
「いや、いやだ、こんなの、いや、いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
絶望に包まれてどうにかなってしまいそうな頭の中、無我夢中でパソコンを強制終了させてWebカメラの電源も切った。
大量の血が流れすぎたせいかゆらゆらゆらゆらして意識が朦朧としているのに、メリーの言葉だけが脳内ではっきり延々と繰り返されている。
逆にその言葉を聞くたびに心の何かが覚醒するような、不可解で不思議な感覚。あの美しいカナリヤの声でわたしを拒絶する言葉の終わらないループが、幾ら耳を塞いでも心の中に響き続ける。
これは幻聴なんかじゃない。幻覚を見ていたわけでもない。全ては、確かに、メリーが、わたしの愛していたメリーが囁いた言葉――最愛の人に絶望の奈落に突き落とされる気分は最低すぎて完全に頭がイかれてた。
メリーに愛して貰えないわたしには、何の価値もない。他の虫けらになんて認められなくてもいい。わたしは、わたしは、メリーにさえ愛して貰えたら、それだけで良かったのに、どうして、どうして、こんなことに……。
あやふやな脳内で彷徨う思考や理性の類は貧血のせいで確実に混濁しているはずなのに、メリーの言葉が無理矢理わたしの意識をはっきりと甦らせる。
ケータイを持ってふらふらとおぼつかない足取りで椅子から立ち上がろうとしたら、ふと足が引っ掛かってバケツに溜まっていた血液を思いきりぶちまけてしまった。
赤い絵の具が素っ気ない安物の絨毯の生地に染み込んで、抽象画みたいな絵を作り出す。その輪郭が段々人の顔に見えて来て気持ち悪い。とにかく現実から逃げ出したくて、嗚咽を漏らしながらベッドに逃げ込んだ。
明日、どうか、目が覚めませんように。ずっとそんな夢を願い続けながら過ごした寝床は、パパに何度も犯された忌まわしき場所。毛布に包まって星のない夜空を作り出したわたしは、その暗闇の中でがたがたと震えていた。
――あなたは、神様 と 悪魔 どっちなの?
この世界を無責任に創造した神様は傍観者であって、決して誰にも干渉しない。
つまり神様は絶対にサイを振らないものだと、わたしは勝手に思い込んでいた。
そんなわたしの前に突然現れた神様の行動は意味が全然分からない。あれはメリーの姿を模しているだけで、その中身はまるで多重人格者みたいにころころと入れ替わってる感じがする。
わたしが忌み嫌っているこの世界は美しく希望に溢れているような錯覚を見せることもあれば、時にわたしを突き放す……あたかも世界は不安と悲しみ、そして絶望に満ちていると言わんばかりの非情な現実を見せつける。
その両方が正解で、どんなに片方が強調されたとしても、わたしの答えは絶対に覆らない。全てが無価値になる。空に還る。そう、ジサツすることこそが、全ての意志から逃れる唯一の術であることは絶対に変わらないんだから。
I love you, I love you, I love you, I love you, I love you, I love you, and fuxx you...
ツミナガラと嘘つきの詩人宇佐見蓮子は謂ふ。このたまらなく愛しくて愛しくて心が破裂しそうな恋慕と、この世界に幸せが存在すると証明してみせた貴女への交差する想い。
そして抗うことのできない残酷な現実――わたしのわたしのためのわたしを許し、わたしの存在をわたしが認め、わたしがわたし自身を愛すると言う行為の愚かさを痛烈に皮肉って心臓をえぐりとってみせた貴女に対する恨み。
貴女の言うことは、全て、全て、正しい。それが一体何だって言うの? わたしにどうしろって言うの? わたしはどうしたらいいのか分からないよ。だって貴女はRADIOHEADのように其処にある現実を突き付けて見せたに過ぎない。
だから、何も変わらない。わたしはメリーを愛してる。こんなことをされたって、メリーのこと、貴女のこと、これっぽっちも嫌いになってないよ。全然怒ってないからね。ただ、わたしは、わたしは、お願いを聞いて欲しいだけなの――
――レ、ン、コ、ア、イ、シ、テ、ル
そう耳元で囁いて、殺めるように抱いてくれたらわたしは幸せ。
わたしの存在の証明は、それだけで十分。そのままくちびるを重ねた後は、狂おしい想いで喉を塞いで窒息死させて?
星ガ落チテクルヨウナ美しい夜。貴女ト笑ウ世界ノホトリデ、ソット身体ヲ寄セ合ッテ。
私達ハ分カリ合エナイママ震エル喉元ヲ締メ付ケアッテ、愛ノ言葉欲シガッテハマタ、ソノ美シイ声ヲ奪イ合ッテイク。
痛クナンテナイワ。痛ミナンテナクナッテシマッタモノ。メリーノ目ノ前デコノ胸元ヲ切リ裂イテ……心臓ヲミセテアゲル。ルララ、ホラ、ステキデショウ?
メリーノコトコンナニ愛シテルッテアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテル――
私 ハ 蓮 子 ノ コ ト 大 嫌 イ ヨ
「あぎゃあううううううううぅうぅぅぅぅぅぅうぅぅぅぅぅぅぅいたいいたいいたいいたいいたい手首いたいいたいいたいよいたいよいたいいたいたすけていたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい手首いたいいたいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいイタイイタイイタイイタイイタイ手首イタイイタイイタイイタイイタイイタ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ手首イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ手首イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ痛いよ痛い助けてよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
メスで切り裂いた手首の傷から強烈な痛みが身体中を突き抜けて、わたしは絶叫以上の咆哮に近い声を上げながらベッドの中を転げ回った。
ほんの少しの切れ目からごろんとてのひらが落ちてしまいそうな錯覚と、今まで体験したことのない耐え難い痛みが全身を駆け巡っていく様は、パパに処女を奪われた時の痛みなんて比べものにならない。
身体から血液が抜けて空っぽになっていく感覚は吐き気を催すほどに気持ち悪くて、手首から噴出すどす黒い血がシーツや毛布を真紅に染め上げる。
蛍光灯に照らされた傷口は真皮がめくれ上がって、黄色い脂肪がむき出しになって赤く変色していた。そんな様子なんてずっと当たり前でまるで人事のように見つめてきたはずなのに、今は自分の傷付けた手首がグロテスクにしか見えない。
刻まれた傷痕の羅列は、ただ醜くて歪な無残な五線譜。奏でるは絶望の旋律が織り成すハーモニーと無様なシャウト。幾ら切っても僅かな痛みしか走ることのない、とっくの昔に死んだはずの痛覚が何故か息を吹き返して強烈な悲鳴を上げていた。
ふと、ひとつの考えが頭を過ぎる。わたしが手首を切ることでしか感じられないと思い込んでいた、リアルな『生』の感覚。
とっくに死滅したはずの脳細胞、麻痺したままの五感はもう何も感じなかったはずなのに、それらは完全に甦って嫌でも生きていると言うことを実感させようとする。
わたしがリストカットに求めていたもの――それは切った瞬間に血が噴出す刹那の痛み、流れ出す鮮血を眺めている時の陶酔感、虚構の現実からの逃避。それらを欲して止まなかった想いの全ては既に完全に失われていた。
ただ残された事実は、わたし宇佐見蓮子は生きている。普通の人間と同じように痛みを感じて、今此処で生を実感している。それはあの夢でメリーがくちびるで教えてくれた、わたしの存在の証明と全く同じことを差しているんじゃないのかな。
重ねる毎日がわたしをずたずたにした。痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い――それはどのような意味を指す?
死を想像することは、痛みを想像することでしかない。だって死は死者しか体験できないし、そして死者は何も語らないから私達に死を経験する術はない。
全ての苦しみから解き放たれて、無価値になる快感。この残酷な世界で慎ましく幸せになりたかった、誰からも愛される人になりたかった――痛みから想像する死は希望と絶望に満ち溢れている。
きっとわたしは前者にずっとすがっていたんだ。だから心は勝手に死んで、頭はおかしくなって、痛みも感じなくなった。知らない男に身体を売って、自分が汚れていく感覚に酔いしれていた。
それは絶望に憧れているが故に救いを求めていた行為だけど、実は歪な矛盾を孕んでいる。誰かに必要とされることで、わたしはわたしが生きててもいいんだ、わたしは必要とされている、そう認識している自分が確かに存在していた。
宇佐見蓮子の存在の証明としての痛みが、死の希望を確かに抱かせていたんだから。要するに、わたしは、宇佐見蓮子は、生きたいのか死にたいのか、どちらなのか――そうメリーは問いかけているのかもしれない。
ううん、違う。恐らく多分だけど、あの時にわたしが答えを既に提示してしまったからこそ、このとてつもない痛みを再び感じるようになって、今こうして生と死の狭間でもがき苦しんでいる。
――そんなわたしの全てを問う魔法を、メリーはあのファーストキスに込めていた。
そして、わたしは答えた。貴女を愛している、と。何のことはない、簡単な証明――それはわたしが心の何処かで生きたいと願っている証拠に他ならない。
メリーの想いよって再び動き出した機械仕掛けの心臓はもう幻の命じゃない。貴女を愛する宇佐見蓮子の確かな心臓として、今此処で生きたいと必死に叫び続けている。
リストカット。オーバードーズ。援助交際。これら全ては自分が汚れて、死ぬ理由を捏造するためのもの。しかし同時に一連の行為は、わたしの存在の証明を自ら示すための手段でもあった。
零か壱。生と死。希望と絶望しか考えていなかった嘘つきの詩人宇佐見蓮子が書き綴るノートの中では、相変わらず希望的観測と悲観的現実を妄想とした詩が繰り広げられている。
其処でメリーが教えてくれたのは、その零と壱の具体的な内容――それはあのたまらなく幸せな夢を選ぶことも、もがき苦しむような地獄を見たままジサツもできると言うこと。
貴女が回答として提示して見せた恋の詩の一片は、確かにわたしの世界を変えた。その想いは世界を色鮮やかに彩って見せてくれたりするし、ある時は途方もない絶望に包まれた奈落の底を強制的に覗かせる。
ただそれは『神様』の気まぐれだとしても、彼女が自らサイを振ったわけではない。ただRADIOHEADのように、ありのままの世界をそのまま伝えて見せた。たったそれだけのこと。そして何故かと問えば、きっと多分メリーは、麗しい彼女なら、こんな風に答えてくれる。
この世界を彩るのは貴女次第、どんな色にも染まる白いキャンバスに描く風景は貴女の想いのまま。かつて宇佐見蓮子が愛した詩のように何処までも広がる世界は遥か遥か遥か彼方、空の果てに続く蒼い蒼い蒼い名前のない場所まで貴女となら行ける――
ずっと矛盾していたんだ。
生きたいのに、死にたい。
死にたいのに、生きたい。
宇佐見蓮子さん。貴女は生きたいの?
宇佐見蓮子さん。それとも死にたいの?
でもね、メリー。こんなの、あまりに突然過ぎて、わたしどうしたらいいのか全然分かんない。
痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い心が張り裂けそう。
こうして貴女が、生きたいと思わせてくれたの。だから、わたしは尚更貴女に会って確かめないといけなくなったよ。
今度はわたしが問う番だから。メリーはどう想っているのか、ちゃんと言葉で、キスで、ハグで、xxxで……教えて欲しいの。ああ、貴女に逢いたい。メリーに逢いたくてたまらない。
ごめんね、まだ戸惑ってる。大分困惑してるんだ。だから今は、これだけしか答えられない。わたしは大丈夫だよ。どちらを選ぶことになっても、絶対に後悔だけはしないって信じてる。
――わたしは生きていて、絶望は存在する。
証明は、成されたのだ。あれほど殺したいと憎んでいた神様の手によって再び――
2.Dreaming Sweetness
――夢を日記をつけていると死んでしまうそうです。
わたしは昨日見た夢の内容を明日の日記に付けて『ワタシサカサマ』なんて思いながらつい書いてしまいます。
夢って素敵なことが多いから、そうなればいいなっていつも願ってるんだけど、こんな噂がもしも本当だったらちょっと怖いですね。
ただしあの「夢は現実の投影である」なんて心理学者の言葉を信じるのならば、それは真実味を帯びた言葉に変わると思いますが、あれはもはや哲学的思想に近く的を得たものだとは考えられません。
ジサツを予めシミュレートすると言う点において、夢は極めて優れた人間の能力だと言えるでしょう。しかし夢の中の出来事は、真実になり得ないのです。大人になるにつれて人間はそれに気付いて絶望しますが、夢から逃れることはできません。
それが幸せかと言われたら、わたしはすぐにNo.とはっきり答えます。空を飛べると信じてビルから飛び降りる子供の純真無垢な想いは美しいものだし、この世界の残酷さと絶望を知った思春期における男の子女の子の心中はジサツ願望で溢れ返っています――
低く唸りを上げる空調とパソコンの稼動音、がさごそとあちこちからノイズが混じる空間の中で、ガラスのようなものが「がしゃん」と割れる音で目が覚めた。
意識を取り戻した瞬間、左手の傷がじゅくじゅくと痛む。いつものリストカットだったら傷痕は疼く程度で全然気にならないのに、この傷は本気で誰かに切り刻まれたような鋭い痛みが走る。
わたしがわたしで切れ込みを入れた、メリーに愛を誓うためのリスカ。それは綺麗な傷細工として美しく甘美な想いを与えてくれると思っていたのに……昨晩は文字通りの『絶望』をわたしは味わった。
あの苦痛は思い出すだけで、今もぞくっと背筋に悪寒が駆け抜ける。あれは夢でも幻でもなく、この残酷な現実において神様によって行われた『証明』だったんだと思う。
――痛い痛い痛いイタイイタイ痛いよ痛い痛い痛い痛い痛い痛いもうやめて!
あの後完全に錯乱状態に陥ったわたしは、その血に濡れた左腕を晒したままケータイで救急車を呼んで、整形外科で何針も縫ってもらう処置を受けた。
勿論持ち物から身分はバレて家族に連絡はしてくれたんだろうけど、わたしのことなんかよりお手伝いの女性とまぐわっている方が大切なパパは案の定来なかった。
その方が余計な詮索もされないし助かった反面、当然精神科にも連絡は行くから、後日の診察時あるいは緊急で呼び出されてちゆり先生から怒鳴り付けられる覚悟はしておかないといけない。
自宅には怖くて帰りたくないですと担当医にごねてみると、あっさり病院に泊めて貰えることになったので一夜を過ごす。睡眠薬飲まないと眠れないんですと言ってクスリまで処方して貰ったのに、メリーのことが気になって全然眠れなかった。
明くる朝、つまり今日もう一度診察を受けて傷口は異常なしとの診断だったので、また散々怒られたけど晴れて無事開放される。
自宅には朝帰りのパパがいるし、あの惨状を見たらまた殴られるだろうし……仕方ないのでわたしは新宿まで出て10時までふらふらして時間を潰す。
ブティックで飛びっきり高い白いワイシャツとお洒落なネクタイ、黒地のプリーツスカートからちょっとセクシー過ぎるショーツまで等々肌着一式を購入した。
その後はあからさまに芸能人御用達って感じの大層高そうな美容室で要予約なのに無理矢理お願いして、少しだけ髪の毛をカットして綺麗にトリートメントして貰う。
あれからもメリーから連絡が入ることはなくて……それでもわたしは途絶えかけている一縷の望みに賭けていた。必ず今日メリーが会いに来てくれると信じる。信じるしか、なかったから。
そのままネットカフェの個室に入ってシャワーを浴びた後、18時前に起きられるようにケータイのタイマーをセットして、あれこれと浮かんでくる妄想に耽りながら無理矢理眠りに落ちた――
此処は窓がないから星を見ることができなくて、時刻を確認するために仕方なくケータイを見るとデジタルの数字は18時半ちょうどを指していた。
狭苦しい個室から出て化粧室で軽く身嗜みを整える。鏡に映る自分をじっと見つめるとあからさまに疲労の色も見え隠れするし、緊張してる感じが物凄く顔に出てしまっていた。
この期に及んで運命なんて陳腐な後付けの理由に頼っているわたしが何だか無様に思えて仕方なかったけれど、もう至上の幸せも味わったし奈落に堕ちる絶望だって体験したんだから。
後わたしにできることなんて――メリーを信じる、たったそれだけ。不安な言葉と僅かな期待、そして諦観が入り混じった複雑な心境のまま、新宿駅のすぐ傍にあるネットカフェを後にした。
ビルの外から眺めた空の彼方に沈む夕日はマーマレードみたいで、オレンジ色の黒が交じり合った風景に星々と電飾が交じり合って煌々と輝いている。
日常と言う名の物語を紡ぎ続けてきた眠らない街『新宿』は、神亀の遷都によって首都機能が京都に移ってからもずっと変わることなく、東京で唯一昔の風情を残したままの歓楽街と言っても差し支えない。
不安な言葉とお金の臭い、そして計り知れない欲望がとぐろを巻いて滞留する空気――人間の下品な心の本性が見え隠れする街を織り成す高層ビル郡のネオンは、華やかさを無駄に演出して陰鬱な空気をかき消そうとしている。
様々な種類の快楽を売り出すための商売人が作り上げた浮付く雰囲気に飲み込まれた人々が、あれこれと品定めしながら街中を闊歩する姿はどう見ても虫けらの群れにしか思えない。
まあわたしもそんな虫けらのひとりで、この眠らない街で身体を売ってお金を稼いでいるわけだけど、神経擦り切れているような音が聞こえてきそうな夜を越えて、いい加減な言葉と最低なやり方でどうにか生きてこれた。
汚い虫けらでも女の子として商品価値が付くのは今だけ、どうせ大人になったらわたしなんて速攻用済みで虫けら未満ゴミ以下、この身体が売り物にならなくなったら価値は零になってしまう。
帰途に着く人々や遊びに繰り出す同年代の学生達の隙間を縫って、メリーと会う約束をした場所へ駆け足で向かう。
派手にやらかして貧血気味のせいか、ゆらゆらゆらゆらと足元がおぼつかなくて道行く人々に時たまぶつかってしまう。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいと独り言のように呟きながら、人ごみの中に入ると大抵鼓膜に響く「蓮子死ね」なんて幻聴を必死に堪えて歩き続ける。
新宿駅からほんの数分の場所にあるアルタ前が、信じられないくらい遠い場所のように感じられた。
ようやく遠目から、大きな液晶LEDハイヴィジョンが見え始める。その画面にはクスリやってるとか絶賛スクープ中の某グラビアアイドルのセクシーな水着姿が映し出されていた。
待ち合わせの定番だけにアルタの真下は人で溢れていて往来が盛ん。ふいに空を見上げる。現在新宿アルタ付近で現在午後18時42分21秒。勿論メリーからの連絡は来ないまま、わたしは死刑執行の面持ちで此処にやってきた。
愛してる。メリーのこと、アイシテル。そうやって期待して、諦めて、それでも臆病で、本当の気持ちだけが置き去りになっていく。誰も愛せなくて、愛されないなら、こんなに無理して生きてることもない。
そんなこと囁いて適当にすり抜けて、そう言って上手く誤魔化して、そう思い込んだら楽になれるかなって――だけど昨日メリーの見せてくれた全ての夢は、幼い頃に失っていた大切な何かを思い出させてくれた。
心の整理は全然付かないまま。それでも、もう一度だけ貴女のことを信じてみよう。信じたいの、信じさせて。貴女の見せてくれた夢を、貴女の見ている世界を、貴女の思想のカケラを、ずっと信じていたらきっと幸せになれるような気がしたから。
――メリーのくちびるで、ひとつひとつやさしく教えて欲しいの。
貴女の見せてくれた夢の憂鬱を感じながら、とろけるような甘い甘いキャンディでもう一度わたしをおかしくしてみせて――?
アルタ前は人々でごった返していて、なかなかメリーを見つけることができなかった。
最初からいない。いるはずもない。そんな不安が心を過ぎるけれど、待ち合わせの時間までほんの少しだけ猶予が残されている。
人ごみをかき分けて、アルタの入り口付近に向かう。恋人同士の待ち合わせと思われるカップルの片割れが複数、お洒落な格好をして今か今かと愛する人の到着を待ち侘びている。
その中に混じる権利がわたしにはないような気がして、いたたまれない気持ちとジェラシーから思わず後ずさってしまう。メリーは来てくれるかな……そのことだけで頭が一杯になって、もはや幻聴も幻覚もぐちゃぐちゃに混ざってしまっていた。
人々の群れを彷徨いながら恐る恐る入り口に近付いて、メリーの姿がないことを確認してから建物の中央側に移動していく。
ケータイを弄る女子高生やきゃっきゃと出会いを喜び合うカップルを余所目に、びくびくと怯える小動物のような挙動不審な足取りで開いているスペースを探す。
豪華絢爛なショーウィンドウに飾られている煌びやかで優雅な衣装を身に纏った等身大の人形達は、こんな光景を眺めながら一体どんな悪夢を見ているのかな。
そんなくだらないことに想いを馳せた瞬間――そのラヴドール達と並ぶように眼前に佇んでいるひとりの女の子に、わたしのどす黒い瞳は完全に心奪われてしまった。
「め、り、ぃ……?」
夕風に美しい黄金の髪をなびかせながら、漆黒のゴシックドレスに身を包んだ人物――マエリベリー・ハーンは憂いを帯びた横顔を覗かせたまま、不安な言葉が無数に浮かぶ空をぼんやり見上げていた。
ほっそりとした真っ白な首から始まるワンピースは、アンシンメトリーのラメを織り込んだ繊細な黒地のニットで作られた退廃的ゴシックロリータを思わせるドレスで、ぞくっとするほど彼女によく似合っている。
優美な曲線をエロティックに描き出すしなやかな肢体。汚れどころかほくろ一つもない真珠のように美しい肌。妖艶なベルベットでクラシックな黒い生地は、所々から覗かせる彼女の肌のいつくしい白さを一層際立たせていた。
首元から大きく広がって袂を分かつドレスから露になった雪のような胸元からは、豊満な乳房の谷間が無防備に晒されている。そのラインから下腹部へ続く縫い目はレースで編まれていて、か細い腰周りが美しい線を作り出す。
様々な箇所にあしらわれたレースにはプリーツ加工を施したエアリーな雰囲気が可愛い超ミニなペチコートスカート。ウエスト周りを大胆かつ官能的に演出する布地には大きなスリットが入って、大胆に脚を露出させていた。
その女性らしい肉感的な太腿から覗くガーターベルトが黒縫いのフリル付きタイツを繋いでいる。そのソックスを残した脚は膝下辺りで急激に細くなって長くしなやかなふくらはぎに至り、黒いアンクル丈のレザーブーツの中に消えていく。
ああ、わたしの愛する人は、こんなにも、こんなにも、美しい人なんだ。
彼女から感じる全ては、こんなに沢山の人々の喧騒と雑踏の中に紛れていても、その美しさは色褪せるどころか一際その艶やかさを増している。
清楚と妖艶をない交ぜにしたアンニュイな雰囲気は、この誰もが自分を『良く』見せようとする街においてあからさまにいびつだった。あまりにも官能的な容姿から漂うオーラは、悪魔のような妖しい魅力に満ち溢れている。
カリスマなんてつまらない言葉では形容し難いその美しさは、どんな存在をも虜にしてしまうような魔性の類と見紛う優艶としたエレガントな佇まい。そのどうしようもなくセクシャルな美貌は、私達虫けらみたいな比較対象が周りにいるからこそ余計に映えて見えた。
妖にして艶めかしいわたしの神様は何処までも夢幻で、その姿を見ているだけで恍惚の火照りが身体中を駆け巡って心が疼く。陶然とした想いが先走って止まらない。あの時に貴女が見せてくれた甘くスウィートな夢の続きが、今此処から再び始まるの?
1.2.3.感情が暴走。デタラメな現実と幻想の誕生。彼女がメリーだと確信するまで0.1秒も掛からなかった。遠ざかっていったはずの幻と、夢遊病の恋が愛しい。もうどうしようもなく嬉しくて、気が付いたらわたしは無我夢中でメリーの元へ走り出していた。
――あいしてるよ、めりぃ。
約束、守ってくれてありがとう。貴女のこと、ずっと、ずっと、信じてたよ。
どうして、わたしのことを待っててくれたのとか、言いたいことが沢山沢山あるの。
ただ、ただ、わたしは、今のわたしは、メリーにそれだけを伝えられたらいいなと思った。
その想いが絶対で揺らぐことのない唯であることを、彼女がわたしに見せた夢のように感じて欲しい。
うっとりまどろんでひとり天体観測。伏せられたまつ毛から覗くアンタレスの時間を止めるべく――ふいにぎゅっと抱き寄せて、そっとくちびるを重ねた。
――ふわりキスを受け止めてくれたメリーは、妖しく微笑んで見せるとわたしの背丈に合わせて首を傾げてくちびるを吸った。
ちゅっと口付けの音と共に、恋が鳴る音がした。綺麗な恋の音。蒼に澄みきった、神様しか奏でることのできない儚くも美しい旋律。
わたしのために用意された幸せを謳う詩が、心の中で不思議なハーモニーを織り成す。此処から貴女を連れ去りたい。そして堕ちていくの、深く暗く沈む深遠の彼方まで――
「ん、は、ぁ、あはぁ……」
あの時に感じた『生』の実感。それ以上に今繋がっているくちびるから感じる想いは、メリーから溢れ出すわたしへの感情――それはきっと多分、愛してると言うことなんだと思う。
それは何処までも甘い甘いスウィートなチョコレートで、口先から伝う温度が全く違うぬくもりを以ってわたしに快楽を与えてくれる。ふと思う。蹂躙されているんじゃない、分かち合っているのかもしれない。
わたしはメリーを愛していて、メリーもわたしを愛してくれていて。そんなこと、キスするような間柄なら当たり前かもしれない、だけどこれで私達はようやく恋人同士になれたのかな?
あの夢の中で交わしたキスと違う感情が入り混じった胸がきゅんとするような切ない感情は、ふしだらないけない欲情と最愛の人に想いを伝えて愛を与える悦び。アパルトヘイトの中の恋人達が夢中になる気持ちが分かる気がした。
今までは何処までも儀礼的なものでしかなかったキスと言う行為が、メリーのおかげでこんなにも妖しいクスリのような快楽を与えてくれる戯れに変わってしまったのだから。
くちびるとくちびるが一段と強く触れ合ってメリーからちゅっと音が聴こえるくらい押し付けられた後、名残惜しそうな仕草をみせたままの花びらがゆっくりと口元から離れていく。
気が付けば自然とメリーの身体に手を回して思いきり抱き付いてる自分にふと気付いて、さらにこんな人の多い場所で平然とキスしてしまったと言う事実に顔が真っ赤になってしまう。
わたしより背の高いメリーを見上げると、全く同じように頬がほんのりと赤く染まっている。やっぱりちょっと、って言うか大分、滅茶苦茶恥ずかしかったよね……。
でも、ずっと、ずっと、貴女とキスしたくてたまらなかったんだから。そのくちびるから伝う想いがあの時と変わらなくて、わたしは心の底から安心することができた。
そしてあの夢と現の狭間みたいな場所で起きた出来事は真実。あの夢の中で確かに私達は吐息を絡ませて、愛の言葉を花束に誓いを掲げた――それは間違いなく現実とリンクした『現在』の証明になっている。
――そっと目線を上げてみると、メリーの顔が真っ赤っ赤だった。
ぷいっとそっぽを向いて、わたしから恥ずかしがってる姿を見られないようにしてる。
恥ずかしいのは分かるけど、メリーがこんなに恥ずかしがってるのがとても可愛い。でも何かこう意外と言うか、メリーがリードしてくれるイメージを勝手にわたしが持っていたせいかな。
もうちょっとだけ顔を近付けたら、すぐくちびるまで届いてしまう距離でメリーをじっと見つめてると、やっぱり心がどきどきしてしまう。ああ、やっぱりわたし、恋をしてる。こんな素敵な人に恋してるなんて――
「あはっ、メリーさ、恥ずかしいの?」
くすくす、くすくす。そんな感じでにいっと笑ってメリーのほっぺたに顔を近付ける。
あの時のお返しだよ。なんて適当な感じでいじわるな質問をしてあげると、メリーの頬がさらに朱色に染まった。
「あ、あ、当たり前に決まってるじゃない! だっていきなりだったし、こんな大勢人がいるところで平然とキスするなんて、蓮子の方がデリカシーないって言うか……」
「ならさ、どうして拒否しなかったの? ねえ、メリーだって、本当はしたかったんでしょ?」
「だ、だって私だって蓮子のこと、も、勿論好き、好き、す、き、だし……もうそんなことこんなところで言わせないで!」
ふと、あの夢のメリーとその後の『メリー』のことを思い出す。わたしが夢から覚めた後の彼女は自分がメリーと名付けられた事実を知らなかった『はず』だ。
それなのにしれっと恋人同然のやさしいキスをしてくれたし『メリー』は自分をメリーだと認識してるみたいで、あの夢で起こった出来事もきちんと把握しているように見える。
今こうして頬を赤らめている『メリー』があの夢に現れたメリーと同じ記憶を共有していると言うことは、キスした瞬間に直感で間違いないと確信できたから――わたしの中では夢で会ったメリーと今の『メリー』が別人だと疑う余地がなくなってしまった。
事実『メリー』はわたしのことをちゃんと呼び捨てで呼んでくれたし、証拠としては色々十分過ぎる反面、不思議な点も結構ある。考えるだけ野暮だと言うのも分かるんだけど、愛する人についてできるだけ知りたいなんて想いは極自然なものだと思う。
ちょっと違和感を覚えるポイントと言えば、今目の前にいるメリーの言動全般はわたしが夢の中で感じたメリーの印象とは少しだけ違う。
簡単に言ってしまえば夢に現れたメリーは本当に神様みたいな振る舞いをしていたのに、今わたしの目の前にいるメリーは本当にちょっと年上の恋仲で親しみが持てる『普通』の学生だってこと。
あのサディスティックなメリーだったら妖しく微笑んだまま悦んで、むしろわたしを虜にするようなキスをしてくれそうなのに、今のメリーは物凄く恥ずかしがってたし、ちょっと同性をキスすることに対して不安と似た感情を抱いてた気がする。
だけど目の前にいるメリーは、確かにわたしを愛していると言ってくれた。それはあの夢の内容を覚えていると言うことだし、他の心当たりをあれやこれやと考えてみても答えらしきものは浮かばない。
これまでのようにビルの屋上からわたしを見下して、ホームの向こうで微笑み、挙句の果てにはパパを殺す夢を見せたり、ネットの中でわたしを鮮やかに嘲笑う、あれは今のメリーとは違う『神様』としての行動だった。
謎ばかりが残るけれど、今交わしたキスがわたしとメリーの全て。何が事実で理由が必要とかどうでもいいし、答えはくちびるを重ねた時に感じた想い、それだけでいい――そう酔いしれてしまうほどに、素敵な甘い甘いスウィートなキスを味わうことができたんだから。
「ところでメリー、今日何故お呼ばれしたか、勿論知ってるよね?」
どう考えても周りの視線が集まってることを感じてるせいもあるのか、恥ずかしくてどうしようもなくてメリーは離れたがってるようだった。
でもわたしは意地悪だから、抱きしめたまま固定してあげる。むしろぎゅっと抱き寄せるくらい力を入れて、引き寄せたメリーの頬に軽くキスを落とす。
さらに赤くなるメリーが本当に可愛い。こんなセクシーな服装で来るんだし恋愛とか慣れてそうなイメージがあるのに、意外過ぎるほどに初心なところが余計にチャーミングでわたしの心をくすぐる。
「……伝えたいことが、あるからって話だったから」
「それね、実は嘘なの。わたしね、ただメリーとデートしたかっただけなんだよ」
勿論嘘じゃない。本当の話だけど――メリーのことをもっと知りたかったし、わたしのことを知って欲しかった。
それがデートって形で実現するなんてとても素敵。ああ、もっとわたしもメリーに相応しい可愛い服を着て来ればよかったと後悔することしきり。
ううん、それ以前にこれは本当に現実なのかなって疑ってしまうくらいに、今のわたしは本当に幸せな気持ちで一杯だった。
「あのね、蓮子。普通は研修生って絶対患者の人とプライベートな関係を持ってはいけないの。それに――」
「そんなの知ってるよ。でも、メリーはちゃんと会いに来てくれた。わたしがデートしたいって思ってたことも知ってた。そうじゃなかったら、そんな色っぽい服着て来ないよね?」
「それは、うん、そうだけど……やっぱり普通に恥ずかしいわ。だってデートなんて、本当にしたことないんだから。それに、まだ、どきどきして……よく分からないの。自分の気持ちの整理が付かないって言うか……」
さっきからメリーはじりじりと後ろに下がろうとするんだけど、わたしが無理矢理しっかりと抱きしめるから動けない。
押し付けた胸元からメリーのどきどきが伝わってきて、わたしも同じように心が高鳴る。その美しい肢体を抱いてると思うだけで、妙な優越感に浸ってしまう。
無駄のない引き締まったしなやかな身体と、それと相反する肉感的な胸や臀部。典型的なモデル体系のプロポーションは女性のわたしでも惚れ惚れするような流麗な色彩を帯びている。
援助交際以外のデートなんて、わたしだってこれが初めて。大体は男が勝手に場所を選んで、そのおごりで適当に遊ぶだけだから。
だからこそ、逆に何だかとても嬉しい。わたしがメリーをしっかりとエスコートして、好き勝手に連れまわして色々な場所に連れて行くことができる。
それは男が抱きがちな『占有感』の類になってしまうのかしら。ちょっとうざいとわたしも正直思うけれど、相手がメリーならと考えるとそんな気持ちは分からなくもない。
ああ、でも、こんな夢が叶うなんて思っていなかったから、デートコースなんて何も考えてないよ。あまり男の子の真似はしたくないけど、ベターな選択肢を踏んでいけば問題ないかな。
「それも含めて、メリーのお話、沢山沢山聞かせて貰うからね。例えば、そう、わたしが好きってことを。どうして何が好きなのかってこととかね」
「そんなことなんてキスした瞬間に全て伝わるような気がするのに、蓮子は不思議な子ね。あまりからかわれてばかりなのも嫌だし、それは要するに私も同じことを聞かせて貰えるって考えてもいいのかしら?」
「勿論当たり前だよ。わたしがどんなにメリーを想って昨日を過ごしたか、たっぷり聞かせてあげる。それではっきりさせたいの。メリーへの想いが絶対だって……うん、そうだね、とりあえずご飯にしない?」
こくりと頷いたメリーに満足したわたしはようやく身体を開放してあげて、馴染みの洋食屋さんの方に向かって歩を進め始めた。
わたしの格好だとこんな雑踏の中を歩いたらすぐに見失ってしまいそうだけど、メリーの格好はあからさまに人の気を引くし目立ちまくってる。
事実一部の男子からの視線がキモいし、それが何だか値踏みをして下心が丸見えな感じが気に入らない辺り……やっぱりわたしはメリーを自分だけのものにしたいって欲望が強いのかなって思う。
やっぱり下衆な虫けらと同じ血を引いてるんだなと考えるとげんなりする。でも今はメリーが傍にいてくれるだけでこんなに幸せ。それに呼応するように、昨日切った左手の傷がじゅくじゅくと痛む。
――土曜日の夕方で賑わいを見せる新宿の街中は、週末を楽しもうと意気込む人々の群れでいつに増してごった返していた。
他愛もない雑談に花を咲かせながら楽しそうに歩く学生達、これから仕事の疲れを癒しに一杯飲もうかって感じのサラリーマン、お水の仕事に向かうチャラい感じの男子女子等々。
勿論カップルも多いし、いちゃいちゃしているのを見てるとわたしだってメリーとやりたくなる。今まで援助交際で男と歩いていた時のあれは、無理矢理と言うかサービスみたいなものだった。
ちゃんとお互いが愛し合っているのなら、あんなことくらい当然の権利としてあって然るべき。拒否られたらちょっと傷付きそうだけど、メリーだってデートだと思っているんだから大丈夫だよね。
ふいに突然立ち止まって、少し斜め後ろを歩いてたメリーをやさしく抱き寄せる。またメリーの真っ白な頬に朱が差す様子を見る限り、相当恥ずかしがり屋さん、と言うか本当にデートしたことないのかもしれないって思ってしまう。
わたしの胸元に急に収まった勢いで、決して色褪せることのない美しい金色の髪がふわりとなびいて、いいシャンプーの匂いが漂う。
そのまま淡雪のような色のうなじから、そっと肩を伝って手先まで指の腹を這わせていくと、メリーがちょっと悩ましげな息を吐いた。
微かに肌をなぞった指先から感じる小さなサインは、艶やかな色と恋のほのかを感じさせる。触れるだけで伝わる甘く切ない想いのうっとりとまどろむ感じは、エレクトリックブランを煽って酔ってしまった時のそれ。
不安な空気の中にふわり霧散する甘い吐息を首筋で感じながらひょいとメリーの肩に顔を乗せて、また悪い子なフリをしておねだりをしてみる。
「あの、メリー?」
その言葉を、その名前を呼べること自体が――たまらなく嬉しくて、狂おしいほどに愛しくて。
わたしが決めた、わたしだけが知っている、この美しい名前を呼ぶだけで心の奥底から快楽が走る。
「……キスなら、後に取っておきましょう?」
「あはっ、違うよ。全然違うの、キスもしたいけど、あのね、メリー」
わたしの左手とは全く違う、真っ白で美しいか細い腕を伝ってメリーの指に触れる。
真っ白な細い指にほんのりと彩りを添える薔薇色のマニキュア。血の色を吸い込んだように赤く染まる爪先に、そっと自分の指を絡ませた。
――むすんで、ひらいて。むすんで、ひらいて。
繋いだ手のひらから伝う想いは、キスのそれとはまた違う絆を感じさせてくれる。
小指に結った運命の糸はまだ見えないけれど、メリーと過ごす時間が長くなればきっと繋がるはずだから。
今はただ、ただ……細い指先から伝うぬくもりが素敵で、その想いからふわり感じ取れる素敵な恋に心を委ねてしまいたい。
そんなことを思いながらじっとしていたら、メリーがはにかんでわたしの顔をじいっと覗き込んでいた。
吸い込まれてしまうような澄んだアメジストの瞳。心がきゅんとして、切なくて、ときめいて……わたしはもうメリーの虜で、貴女の与えてくれる愛がないと生きられないの。
とても不思議だよね。ただの一度しか会ったことがないのに、何度も会ってる気がするけど話なんて一度もしたことないのに、ああ、どうして、どうして、わたしはメリーをこんなにも愛しているんだろう――
「……手、繋いで、いいかな?」
今度はわたしが恥ずかしくてどうしようもなくて、メリーの柔らかい髪の毛の中に顔を埋めて逃げる。
でも繋いだてのひらから伝う想いは止められない。くすくすと笑うメリーの顔が目に浮かぶようで、目をまともに合わせる勇気がない。
さっきはいきなりキスできたのに、今度はこんな些細なこと……ううん、大切なことだけど、キスよりは敷居の低そうな行為でわたしはどきどきしてる。
恋心はよく分からないと言うけれど、当事者になってみたら尚更分からない。こんなにどきどきするのに、傍にいて貰えるだけで安心する。
それは矛盾してる気がするだけの必然で、わたしはやっぱりメリーのことが好きなんだ。こうやって少しずつお互いの距離が縮まっていくことが、恋愛と言うものなのかもしれない。
そんなことを考えていた矢先、いきなり首筋にやさしい感触が伝ってふわり想いが空に浮かぶ。
メリーがわたしのうなじにそっとキスを落としたんだと言うことに気付いた瞬間、自分の顔がみるみるうちに真っ赤に染まるのが分かった。
主導権はわたしが持っているような気がしていただけにちょっとびっくりしたけど、そんなさり気ない愛の伝え方がとてもメリーらしくて素敵。
どきどきしたままの心臓はどうしていいか分からないまま、またほんの少しの時間こんな路上のど真ん中でメリーと抱きしめ合う。
まるでこの世界はわたしとメリーだけしかいないような錯覚に陥りそうなほどに……行き交う人々が耐えない歓楽街のネオンの下で、私達はふたりぼっちだった。
「うふふっ、蓮子ったらキスはいきなりだったのに、手を繋ぐ方は気にするのね」
「あ、あれは勢いもあったし、その、ね、ずっと、メリーのこと想ってたらどうしようもなかったから……」
「蓮子って積極的なのか恥ずかしがり屋さんなのか、ほんとよく分からないわ」
「だ、だってわたしだって、その、はつ、恋だから……当たり前でしょ、こんなにどきどきしてるのだって、メリーのせいなんだからっ!」
言ってるだけでもあまりにも恥ずかしくて、ぽっと紅くなった顔が熱を発してるみたい。
くすくすと笑う時に漏れる吐息がくすぐったくて気持ちいいから、やっぱりメリーったら本当にずるい!
露出したうなじの部分は雪のように白いのに、とてもふんわりとやさしい温かさが伝わって来る。
もう本当にずっとこうしていたい。メリーを感じていられるだけで幸せすぎて死んじゃうよわたし。
余計なことはいいから「このままラブホ行こ」って言いたいくらいにメリーを抱きしめて、その全てを征服してやりたい衝動に駆られるから本当どうしようもない。
たまにボーイッシュって言われたりして、そんなことないよって言うんだけど、そういう支配欲みたいなの実はあるのかなあ。
こうやって抱きしめて貰ってると、メリーの方が背が高いから何か負けた気分になると言うか、包み込まれてる感じがとても素敵で、ずるい。
わたしが思いきり手を広げて抱きしめてあげても、メリーみたいな包容力がないような気がするし、ちょっとだけ年下ってことに引け目を感じてしまう。
キスする時だってメリーがやさしく合わせてくれるわけだし、ほんのちょっと背伸びしないとメリーのくちびるまで届かないのが気に入らない。ふとキスが欲しいと想った時に、さっと奪ってやることができないのが悔しい。
わたしがハイヒールでも履いたらいいのかな。メリーもブーツ履いてるし、傍から見たらどう考えてもメリーが主導権握っててサディスティック云々。ああ、わたしは一体何を考えてるのかな。
何を思い浮かべても二言目にはメリーがどうこうって……メリーに好かれたい、メリーに愛されたいって。こんな感情今まで抱いたことがなかったし、心地良い甘さのスウィートな恋の病のせいで虫歯ができてしまう。
そんなこんなをぼーっと考えていると、メリーがやさしくわたしの髪をすいてくれながら催促する。
あ、考え事してた、ごめんね。なんて適当に誤魔化しながら、繋いだてのひらから伝う想いに恋心を馳せて人々の間を縫うようにして歩く。
彼女の隣にいることができるだけでも、こんなに幸せ。絡めた細い指の感触があの夢の時と全く変わらなくて、とてもどきどきしてしまう。
ゆらりゆらりとたゆたうメリーの素敵な想いを、わたしは離れてしまわぬように抱きしめたまま、息もできないくらいに吸い込んで死んでしまいたい。
――不安な言葉と欲望が舞い躍る夜空で、満月が私達のことを嘲笑っていた。
親愛なるプリンセスをエスコートしながら歩くこと五分ほど、ふと突然メリーが「待って」と声を掛けて立ち止まった――
「どうかしたの?」
メインの繁華街から一本外れた大きな道路の一角で、メリーはじっと地面を見据え始める。
人通りは先程より大分少なくなってはいるものの、それでも往来は途絶えることなく延々と続いていた。
じいっと目を凝らして覗いてみても、少しひび割れてるだけで何の変哲もないアスファルト舗装の歩道。
他の人々も平然と踏み付けて通り過ぎていくし、正直メリーが何を見ているのかさっぱり分からない。
「……此処にね、割れ目があるの」
「割れ目って、ひびのことかな? わたしには普通の道路に見えるけど?」
思ったままを素直に答えると「そっか」なんて言いながらメリーはあっけらかんと笑って見せる。
そのままうんと頷いてからわたしを同じ場所に立たせて手を繋いだまま、軽くステップしてちょっとだけ距離を取った。
そうして身体を広げてから「蓮子の立っている場所から、此処までくらいかな?」なんてよく分からないことを言う。
わたしとメリーを結ぶ線と線。その距離は大体人間一人分くらいと言ったところかな。この間に何かあるらしいけれど、それがどんな意味を指すのか皆目検討が付かない。
わたしが不思議そうな顔をして対角線上を見据えると、あの時の神様のようにメリーは妖しく微笑みながらこちらをじっと見つめていた。
あのデイケアの時に見た夢の中やパパを殺す幻を見せた『メリー』と入れ替わったような不思議な感覚に襲われる。メリーは『メリー』なはずなのに、どうしてこんな錯覚が起こるのかな。
しかもあからさまに何かが変わっている様子もないし、何よりもわたしはまだ普段の『メリー』のことをあまりにも知らなさすぎて、どちらが本物かなんて判断できるはずがない。
まあわたしにとってはどんなメリーであろうともメリーは『メリー』でしかなくて、どちらも受け入れる覚悟なんてとっくにできてるけどね。
「普通の人には見えないの。結界の綻び、裂け目が今私が立っている場所から、蓮子が立っている場所まで開いている」
「め、メリーってそういう感じのサブカル的な、何だろ、都市伝説みたいな、ほら、あれだよ。オカルト。その類のこと、信じてるのかな?」
「ううん、そうじゃなくて……ただ、そういうものが見える『眼』を持っているみたいなの。誰も信じてくれないのはいいんだけど、それが見えてしまうこと自体何か気持ち悪いの」
その言葉を聞いて途端、わたしは思わず自分の『眼』に気付いてはっとした。
自分だって星の光を見た瞬間に現在時刻が秒単位で分かるし、月を見ただけで今いる場所だってすぐに分かってしまう。
それがたとえ未知の場所でも……その場合はアンノウンかわたしが命名、もしくはそれすらも把握できるのかもしれない。ただわたしも物心付いた頃からいつの間にか、そんな『眼』を持っていることに気付いた。
超能力と言っていいのか分からないけれど、メリーもそれと似た能力を持っている。『結界』の境目が見えるなんてわけの分からない代物、気持ち悪いと思うのは自然だと思う。
こんな偶然があっていいのだろうか。これも目の前にいるメリーと言う神様か、或いは他の神様が決めた運命?
まさかオカルトめいた『眼』なんて信じられない能力みたいなところで共通点があるなんて、偶然にしては上手く出来過ぎている。
わたしもたまに気持ち悪いと思うことがあるけれど、結界の裂け目なんてものがどんな姿形をしているかなんて正直想像も付かない。
それがどうしようもなくグロテスクで、目も当てられないものだったらと考えると……ずっと大変な想いをしてメリーも生きてきたんだと思う。
みんなみんな、つらいんだ。そうだよ、わたしだけじゃないんだ。そんなのみんな分かってるはずなのにさ、どうして人は自分のことばかり考えてしまうのかな?
「……例えば、どんな風に見えたりするの?」
恐る恐る聞いてみると、メリーはそんなに怖がらなくてもって感じで笑ってくれた。
結界なんて言うと大仰なものを想像してしまうけど、実際は星空のように至るところで見ることができるのかもしれない。
「ただ亀裂が入ってて、穴が開いてるって感じ。其処には色々なもの……と言っても大抵ゴミが吸い込まれていくの。一度だけ中身の入ったままの瓶コーラが飲み込まれていくのを見たことがあるわ」
「確かに人間が吸い込まれたりするようなものだったら大変だもんね。でもさ、メリーのその『眼』って小さな頃からそうだったのかな。あのね、実は……わたしもその『眼』に心当たりがあるんだけど」
そんなさり気ないわたしの暴露に、メリーは心底驚いた様子で「えっ」と声を上げた。
まさかこんな眉唾事が理解されるとも思っていなかったみたいだし、自分以外にそんな能力を持っている人がいたとしたら、嫌でも何かあるんだと考えてしまう。
それこそ超能力とかオカルト、サブカルチャー関係の話だし、その類に詳しい人なら大喜びするのかもしれない。だけどあいにくわたしはメリーのことにしか興味がない。
それにしても、どうして神様はこの世界にわけの分からない悪戯を沢山仕込んで、一体何をどうしたいのかな。
まさかこんなことから接点が生まれるなんて思いもしなかった。それでも例えばメリーと同じ運命の下に生を受けたとか、前向きに考えたら意外とロマンチックかもね。
まあとりあえずメリーに直接害を及ぼすものでなければ一安心。わたしは再びメリーに歩み寄って、そっと肩を寄せてからゆっくりと言葉を紡いだ。
「ええと、わたしはね、星を見ると時間が分かるの。それで月を見ると今いる場所が分かる。例えば、今は――」
そう言って空を見上げた瞬間――わたしは我が『眼』を疑った。
運命が後付けの理由なんて理屈を真っ向から否定するような、神様が最初から用意しておいた運命の歯車を信じさせるための奇跡。
此処に結界があること、それは恐らく神様であるメリーが仕組んで、あの飛び降りジサツの時にわたしを助けるために使ったとか……?
それは勘でしかなかったけれど、間違いなく正しいと直感が告げている。神様は決して傍観者ではない。神様は平然とサイを振っていた。
かの創造者は予め決めておいた世界の命運すらも気が変わった途端に平然と無視して、いい加減に振ったサイの目で決めてしまう人なのかもしれない。
そうして結局は神様の思いのままに世界は回り続けている。この果てしなく広がる世界の全ては、たったひとりの気まぐれによって決められてしまう。
――現在時刻19時15分52秒、現在位置は新宿歌舞伎町グリーンビル。
そう、此処は……あの時にわたしが飛び降りジサツを図ったビルの目の前で、そしてメリーと言う名の神様がわたしを見下して月と共に笑っていた場所だ。
こんな偶然なんてありえない。ありえるはずがない。あるひとりの神様の頭脳によって、あの瞬間から今日に至るまでの運命は全て予定調和の如く決められていた。
わたしが今日メリーと出会うこと、それら全てが必然だったとしか思えない。過去も、現在も、未来も、全て私達人間と同じ『ココロ』を持つ存在が自由自在に操っている。
それはつまり――私達の頭はちょうど神様と同じ重さ。違うとすれば、それは言葉と旋律の違いほどしかない。それは何故かと言えば、そのサイを振った神様はたった今わたしの目の前にいるんだから。
7月20日、ビルの屋上で笑っていたメリー。
昨日病院に行く前、駅のホームで日傘を差して佇んでいたメリー。
デイケアでRADIOHEAD「Paranoid Android」を一緒に歌ってくれたメリー。
夢の中で甘いキスを交わしてわたしを完全に虜にしたメリー。
パパを殺すわたしを憂うような悲しい眼差しで見つめていたメリー。
リスカ配信をしてるわたしを道化と罵倒して大嫌いだと言ったメリー。
そしてそんな一連の事実すら露知らず一部の記憶だけが残された、今こうして手を繋いでいる貴女も――間違いなくマエリベリー・ハーン、わたしの名付けた美しい名前を持つ『メリー』でしかない。
ぐるぐるぐるぐる回る頭の中で整理しようとしても、残された事実はたったひとつだけ。それは今もわたしはメリーを愛してると言うこと。それだけで幸せなんだから、わたしは神様に文句を言う筋合いは何ひとつない。
でもやっぱり勿論どうしてこんな不可解な出来事が平然と起こってしまったのか気になるし、もしも自分が神様だと言う自覚をメリーが持っているとしてもないとしても……何が起こっているのか、わたしには知る権利があると思う。
全然気にならないと言えば嘘になるけれど、メリーが言いたくないんだったらそれでもいい。ただわたしは、どんなメリーでも愛するから、嫌わないで。今胸に秘めた想いを大切にして。もうわたしは貴女がいない世界なんて考えられないの。
そんな祈りを捧げることができない自分の無力さを呪っても仕方ないし、その事実は後ろ向きに考えるべきではないと思った。だって、神様としてのメリーも、きっと多分わたしを愛してくれているような気がしたから――
「……どうしたの?」
「ううん、何でもない。今は19時17分48秒、あってる?」
メリーはその言葉を受けて、胸元近くのポケットから鎖を掛けた半円形の物体を取り出した。
ゴシックな装いにぴったりな小さな銀無垢の懐中時計。その上蓋には翼を広げて祈りを捧げる天使の姿が刻まれている。
その中身をじっと覗いているメリーの横顔が驚愕の表情に変わっていく。手品だとか種明かしがあるなんて微塵も思わない辺り、本当に素直な子なのかもしれない。
「勿論蓮子が言ってからの秒数には『ずれ』があったけれど、ぴったりだった。どうして、どうして分かるの?」
「わたしもね、物心付いた時からで理由なんて全然分からない。でもメリーとは違って気持ち悪いものが見えない分楽だし、何かと便利だったりするし」
「……でも、何か不気味じゃない?」
「そうだね、だけどちゃんと分かってくれたのメリーが初めてだったから、ちょっとだけ嬉しかったな。仲間がいる、みたいな気がしてね」
此処までの出来事は運命による連続的なものだった、と言われて納得できる人が果たして何人いるのか、もはや不思議を通り越しちゃってる。
メリーは何時頃からわたしのことを知って、あんな風に見張っていたのかな。全てのジサツを止めようとして、ふと白昼夢を見せたり、そして時には悲しみ、冷酷な物言いで罵倒したり……。
考えれば考えるほど意味が分からなくなって頭が痛くなってくるけれど、結果としてわたしは今こうしてメリーと甘いひとときを過ごしている。
それが結末。それが全て。それでいいんだと自分を納得させようとしてみても、何処か腑に落ちない部分が残ってしまう。
――どうして、あんな甘い夢を見せてわたしの生の証明をしてみせたの?
わたしが貴女を愛してしまうよりも先に、メリーはわたしのことを愛していた。
この世界に幸せは、あるよ――そう貴女は教えたかったのかな。結果貴女が証明してみせたものは、宇佐見蓮子が探し求めていた欠けたままの心のピースにぴったりとはまってしまった。
誰からも愛されないわたしは、ずっと誰かに愛されたいと思い続けていて……その強い欲望をそのまま叶えて見せた貴女は、わたしに生きて欲しいと思ったからこそ、ジサツを止め続けていたの、か、な。
――パパをなぶり殺しにするような夢も、リスカするわたしを止めなかったのも、わたしの生を証明するための手段だったの?
死を疑似体験させて、リストカットするわたしを否定することで、あの夢の中で交わしたキスから五感は完全に甦って、わたしは忘れていた痛みによる生を久し振りに感じてしまった。
止めることなんて容易だったはずだ。それなのに貴女はわたしを徹底的に拒絶することで、愛するものから否定される精神的苦痛を味あわせた。それは皮肉にも身体的な痛みと共に、幸せは脆く崩れ去るなんて現実を曝け出してしまった。
今思えば、あれは貴女なりの警告だったのかもしれない。自分を傷付けることは悲しみしか生み出さない――それは綺麗事だ。私達は幸せに溺れて絶望を知る。そして絶望の最中にあるからこそ、それに耐え切れなくなった人間は自ら死を選ぶ。
人は生きることそのものが幸せであると生を賛歌するけれど、死ぬことに幸せを見出すことの何が悪いのか。秤にかけた時、どちらがいいか損得勘定によって決める、ジサツなんてたったそれだけのことなのに、生がもたらす負の部分について貴女は証明できなかった。
生には漏れなく絶望が付随する。あの時のわたしは貴女を愛することで生を感じていたから、その反証として貴女は「リスカする蓮子は嫌い」なんて愛する人に嫌われるありふれた絶望を証明して見せた。ただしそれは『絶望は片想いである』と言う命題が欠けている――
空を見上げてぼうっと思慮に耽っていると、突然繋いでいた手にぎゅっと力を入れられて、ふとわたしは我に帰った。
隣を見ると、ちょっとだけ不安そうな顔をしてメリーが見つめている。そうだ、わたしは今幸せなんだから、今しかないんだから、今を楽しまなくちゃいけないんだよ。
理屈なんか分からなくても結果オーライ。今はこうして愛してくれる人がちゃんと隣にいてくれるんだ。そんな事実だけでも十分過ぎるほどに、こんな虫けらには勿体無さすぎるレベルで、今のわたしは恵まれてる。
「……蓮子?」
「あ、うん、ごめんね」
ひょいとメリーの隣に寄り添うと、ふんわりと香水の匂いが漂う。
腕を組むような形で右手をくるりと回して、小さなてのひらを優しく握り締めた。
「どうせ何にも起こらないし、さっさと行きましょう。ちょっとだけ私お腹空いたかも」
「うん、そうだよね。わたしも今日はお昼とか全然食べてないから、お腹ぺこぺこ。もうすぐ其処だから、行こっか」
こくりと頷いて微笑んでくれたメリーと笑い合って、伝う幸せを存分に噛みしめる。
ずっと幸せなんて続くわけないんだから、今分かち合っている幸せを一杯に享受してもいいはず。
それに多分、メリーは包み隠さず教えてくれるんだと思った。わたしもメリーのことを知りたくて仕方なかったけれど、そんな気持ちだってきっと同じなんだね。
わたしとメリーしか知らない素敵な『秘密』を、これからふたりで少しずつ作っていけたらいいな。
貴女の美しい名前だって今は私達だけしか知らない内緒事で、その恋のおまじないを共有してる事実がふたりだけの絆をしっかりと感じさせてくれるからとても嬉しい。
そんな素敵な物語のプロローグの始まりが今日と言う日――ようやく会えた親愛なるメリーにうざいと思われるくらいに沢山沢山大好き超大好きって言ってやるんだ。
メリーと指を絡めて歩いていると王子様になった気分で独占欲に近い優越感に浸ることができるし、もう心がどきどきしまくってもうどうしようもなく幸せ。
知らない男に連れられて歩く時の奴隷みたいな心地とは大違い。こんな街で虫けら以下だったはずのわたしが、今はプリンセスをエスコートする物語の主人公みたい。
ずっと見てて不愉快だった楽しそうなカップルなんかにも引け目すら感じない。むしろ誇って見せ付けてやりたい衝動に駆られる辺り、わたしはわたしに完全に酔いしれて自惚れている。
好き好き大好き貴女のうなじの香水はスメルズ・グッド。メリーの手を取って可憐なステップで舞い踊れば、いつか見た日のわたしが夢見た世界まできっと行ける気がするんだよ。
――メリーと繋いだてのひら、その絡めた指先から全ては始まる。
こんなにも美しい素敵な世界があることを、わたしはあまりにも知らなさすぎた――
◆ ◆ ◆
大通りから二本程奥に入った道路の中程、薄汚い雑居ビルに挟まれる形でその洋食屋はこじんまりと佇んでいた。
古びたログハウス風の建物は埃や塵に塗れてお世辞にも綺麗とは言えないけれど、歓楽街のネオンが年季の入った柱の鮮やかな木目を照らし出している。
実は新宿『通』の人には結構有名なお店らしく、外から見ていると今日も大盛況みたいだった。小さなお店でそんなに人も入れないから、とりあえず聞いてみようと一歩踏み出す。
本日のお勧めメニューが書いてある黒板を横目に入り口を通り抜けて、アンティークな木製のドアを開けるとちりんちりん鈴が鳴る。案の定店内は満員御礼の盛況っぷり、私達の座る席すらなさそうで思わずがっかりしてしまう。
それにしてもふんわりと漂う香ばしい匂いの数々はとても素敵。ログハウスを支える柱に染み付いたワインの芳香や、長年煮込んだシチューの味わい深い香りが食欲をそそる。
手作り感一杯な不揃いな形のテーブルや椅子は使い込まれて艶がにじみ出てたりするし、ランプや蝋燭を基調とした柔らかいヒカリが照らす店内がふんわり温かい雰囲気を醸し出す。
でもどう見ても今日は満席みたい。うーん、困ったね、なんてメリーの方を振り返りながらどうしようかなと思案していると、ふと奥の厨房の方からマスターが顔を覗かせた。
「おう、蓮子ちゃん、いらっしゃい」
「こんばんはマスター、今日も大盛況なんですね。さすがに私達の席ないかなあ」
「すまんね。今日は予約のお客様メインで一般の席は埋まってしまってて……うん、その後ろのべっぴんさんは?」
マスターはきょとんとしな感じの少々意外そうな顔をして、メリーの方に視線を移した。
それもそのはず、わたしがこのお店を知ったきっかけは偶然援助交際の相手のひとりが此処に連れて来てくれたから。
それ以来、なよなよしてて自主性のないどうしようもない男の場合「夕食どうする?」なんて話になった時は、決まってこのお店を選んでいる。
相手は必ず男だったから、マスターが不思議に思ってしまうのは当然かもしれない。それにしてもかのマスターは人徳の熱い本当にいい人なんだよね。
わたしが援助交際をしてることも知っているし、たまに相談にも乗ってくれたりもするから……そんな色々な縁もあって顔見知りよりも込み入った話もできたりするし、わたしの恩人みたいなおじさんだ。
お人形さんのように佇んでいたメリーと繋いだ手を引き寄せて、わざとらしいくらいにぎゅっと抱きしめていちゃついて見せた。
いきなりでどきっとしたみたいだけど、メリーは素直に受け入れてくれる。カウンターに座っていたお客さんの視線が集まると余計にどきどきして、わたしの心を素敵な想いで満たしていく。
そのままキスでもして見せつけてやりたい衝動を必死に抑えながら、喜びで胸を思いきり膨らませて見目麗しき姫君の紹介を始める。
「ねえ、マスター、聞いてくださいよ。彼女なんです、わたしの恋人なんですよ!」
ああ、わたしの、わたしの親愛なる人のこと。何かもう自慢したくて自慢したくてどうしようもない。
他のお客さんもいるのに大きな声で言ってしまったものだから、マスターが驚いた顔をするのと同時にメリーも恥ずかしそうに顔を伏せた。
あはっ、もう本当にメリーは恥ずかしがり屋さんなんだね。それはわたしもそうだけど、今はもうとにかく幸せなんだって伝えたくて堪えきれないの。
これじゃないの?と援助交際の合図を示す仕草に、違うよって首を振るとマスターも快活に笑い始めた。
わたしのパパもこんな人情溢れる親だったら良かったのに、なんて神様を恨んでしまうくらい素敵な人だから、我がことのように喜んで貰えると素直に嬉しい。
本気だって一発で伝わってしまう辺り、やっぱり流石だなと思う。そのままマスターは厨房の方に引き返しながら、背を向けたまま私達に大きな声で呼びかけた。
「そういうことなら仕方ねえなあ、二階のカップル専用席が空いてるから其処に座んな。今日はお客はもう取らないことにするよ、ゆっくりしていくといい」
「でもマスター、そんな甘えてもいいんですか? もし予約とか既に入ってるんでしたら困るでしょうし、無理でしたら後日また来ますから」
「何言ってんだ。蓮子ちゃんが恋人連れて来てんのに追い返す馬鹿が何処にいるってんだよ。それにいつも『お客様』としてお世話になってるんだからな。料理はお任せにさせて貰うがおごりだ。楽しんでいきな!」
心から愉快だと言わんばかりに豪気に笑いながら、マスターはのっしのっしと厨房の奥の方へ戻っていく。
ああいう気風のいい人だから自然と周りにみんなが集まって、お店も繁盛するし信頼の厚い素敵なおじさんとしてもてはやされるんだね。
メリーはちょっと驚いた感じで「いいの?」って感じの顔をしてたけど、わたしが「いいのいいの」って言い返すとにっこりと微笑んでくれた。
マスターの息子さんが奥からひょいと出てきて、こちらへどうぞと案内してくれた。
年代物のヴィンテージワインが煌くカウンターと、20人も座れないだろう小さなテーブル席の間を縫って、お店の奥へ奥へと入って行く。
その先にある階段は一歩踏み出すたび、幼き頃を思い出す懐かしい木の軋む素敵な音がして鼓膜にやさしく響き渡る。
急傾斜な段差を登りきった先で通された部屋は、ワインの香りがふわり漂う柔らかみのある雰囲気を醸し出す素敵な空間が広がっていた。
室内をぼんやりと照らし出す天井のランプが放つ温かいヒカリは何処か幻想的で、まるで童話の世界に入り込んでしまったような錯覚を引き起こす。
中央には小さなアンティークのテーブルと椅子がひとつずつ置いてあって、花瓶に挿された大きな薔薇の花が落ち着いた室内に鮮やかな色彩を添えている。
奥には従業員専用らしき扉とヨーロピアン風のクラシカルな大きな二人掛けソファーが一脚。何処までも中世を感じさせる作りはデートにはぴったりな感じで、もうわたしはすぐ気に入ってしまった。
私達を招待してくれたバーテンダー風な格好をした息子さんが、ふとワインセラーから赤ワインを取り出して、素敵なグラスに綺麗な赤い世界を作り出してくれる。
そのままワインクーラーに何本かワインを並べて、その隣に赤い薔薇を手向けた。室内に漂うフランキンセンスのアロマオイルとログハウスの木材の匂いが、煌びやかな貴族の食卓のような優雅さを感じさせる。
未成年とかそんなことは無礼講。そういうところはマスターはとても気が利くから、本当に粋な人だと思う。もしかしたらメリーも二十歳じゃないかもしれないけれど、そっと目をやるともう既に納得した面持ちで独特の雰囲気に浸っている。
ぺこりとお辞儀をして階段を下りていく息子さんを横目に、こんな素敵な空間でメリーとふたりっきりなんて嬉しいな――なんてわたしも完全に悦に入り込んでいた。
伝えたいことが山ほどあるんです。なんて勢いで書いてしまったけれど、いざメリーを目の前にすると全然言葉が出てこない。ああ、どきどきして、ときめいて、もどかしい。こんなにも、こんなにも、大好きだと、ただそれだけを伝えられたらいいのに……。
もうどきどきしっぱなしのときめくビートはBPM200以上で刻まれて、心が硝子になってしまって何もかもがメリーに見透かされてるみたいでとても恥ずかしい。
――しんと静まり返った室内はわたしとメリーだけが生きている世界。
ランプの下で光輝いて色鮮やかに染まる黒いヒヤシンスの中に、わたしの求めていた答えがあるような気がしてる。
その漆黒の闇に飲み込まれて、もっともっと深く暗く奈落に堕ちて眠り夢を見続けることができたら、この世界の全てを忘れられるのかな――
「とても素敵なお店ね。蓮子は常連なの?」
甘い恋の雰囲気に浸ってるわたしに気を使ってくれたのか、ふとメリーの方から声を掛けてくれた。
ちょっとどきどきしてる感じが親愛なるお姫様からもしかと伝わって来て、それが何だかとても嬉しい。
「うん、料理が美味しいのはもう折り紙付きだし、それより本当にマスターがいい人なの。たまに怒られたりもするけれどね、わたしのことを想ってくれる唯一の人、かな」
「こう切符が良くて男らしい感じがするものね。最近の男の子って結構控えめな子、ほら、草食系が多いから、あんな感じの職人肌の男性はとてもカッコいいと思うの」
「ふーん、メリーってああいう感じの男の人が好みなんだ?」
「あはは、ええとね、そういうわけではないけれど『おじさま』として見るとね、とても素敵だと思うわ」
ああ、メリーの好みはどんな人なのかな、とても気になって仕方ない。
わたしみたいなちょっと生意気そうでしかもメンヘラの構ってちゃん、お洒落にあまり気を使ってなさそうな女の子には興味がないんだろうか。
それにメリーはさっき普通に手を繋いでくれたけれど、同性愛だと言うことに違和感を感じたりはしないのかな。わたしは昔からパパのせいもあるし援助交際のもあって、逆に女の子と付き合いたい願望が強い。
と言うか、愛してくれる人なら誰だって……だから、問題はメリーがどう思っているか、ちょっとだけ、ううん、大分気になる。確かにキスを交わした、愛の言葉も……でもまだ私達は恋人として付き合うって決まったわけじゃないから。
それも気になるし、やっぱり腑に落ちないことがあった。それは勿論――あの神様が(=メリー)なのかと言う点。だって夢の中にまで干渉できるなんて、流石にそんなオカルトめいた出来事をすぐ信用できるほどわたしは病んでいない。
適当な雑談をしながら時間を潰していても、前菜を運んで来る気配がないところを見るとちょっと不安になってしまう。いつも通り普通に注文した料理を振舞ってくれる感じなのかな。
ただしお任せ。お金は持ってるし最悪ツケだって効くけれど、此処は評判通りと言うこともあってお値段はそれなりに高い。おごりにして貰うのは流石に気が引けるし、後でそれなりの分はちゃんと支払っておこう。
それよりも……ワインを口に運ぶ前にメリーに聞いておこうと思った。その答えがどんな言葉で真意がどうであろうと、もうわたしのメリーの全てを受け入れる覚悟は万端だから。
たとえわたしのことが本当に嫌いであったとしても、わたしはメリーの愛してくれる『わたし』になればいい。ずっとふたりで一緒にいないと泣いちゃうような見目麗しい貴女だけのオートクチュールになれたら、わたしはとっても幸せなんだよ?
「あのね、メリーに聞きたいことがあるの」
メリーも覚悟していたのか――こくりと頷いてから、ぼんやりとたゆたう蝋燭の炎の向こう側に視線を傾けた。
不安、躊躇い、絶望、諦観、後悔、様々な感情が折り重なって憂いを帯びたアメジストの瞳には、この世界はどんな風に見えているのかな。
初めてわたしが知るメリーの真実。それがどんな告白なのか想像すら付かなかったけれど、もう奈落を何度も見てきたわたしには恐れるものなんて何もない。
それがもしもメリーがメリー自身を責めるような事実であるのならば、全否定してメリーのことを守ってあげたい。わたしにはもうメリーしかいない。貴女が悲しむ顔なんて絶対に見たくない。
あの日から起こった一連の出来事が全てメリーの仕業であったとしても、わたしは彼女を嫌いなるなんてことは絶対にありえない。あれは必ずメリーがわたしを想ってしてくれた行為だと信じてるから。
「さっきのビルで、わたしジサツしようとしたことがあるの。あの時、屋上で笑っていたのはメリー、貴女なの?」
「ええ、そうよ」
くるんとカーブしたまつ毛の下に隠された真紅の瞳を伏せて、耐えられないと言わんばかりにメリーは目線をわたしから逸らした。
きっとそう問い詰められることなんて、とっくに分かっていたんだと思う。ただ、その事実を悔いているような横顔はとても悲壮感に満ちていて、じっと耳を傾けてるわたしまで悲しくなってしまう。
その仕草だけで確信は十分だったけれど、同時にメリーが触れて欲しくない部分だと言うこともすぐに分かってしまった。それでもわたしにはどうしても確認しておく必要があるし、それを知る権利があるはずだから。
あの一見不連続な夢現の全てはわたしを愛してくれたから故の行動なのか、それとも全く別の意図があっての行為だったのか。どうしてわたしの『ココロ』とリンクする振る舞いが見知らぬ彼女にできたのか、それは本当にメリーが神様で――
「昨日、デイケアに行く前……11時ちょっと前、ホームの向こうで笑っていたのもメリー?」
「うん、そう。すぐに見えなくなってしまったけれど」
美しく流れる黄金の髪を翻して、力なく首を縦に振るメリーの表情は窺い知れない。
こんな悲しい顔をさせているのはわたしだ。空気を伝って届くメリーの言葉からひしと想いを感じるたび心は喚き叫ぶ。
今日と言う日まで一切抗うことができなかった――この世界でわたしが最も忌み嫌う神様と言う存在に、サイケデリックな『わたし』がきゃはははははははと嘲笑いながら「謝罪と懺悔をさせようよ」なんて絶叫を繰り返す。
あれはきっと事情があっての行為だったなんてすぐに察しが付いた。そして彼女は間違いなく罪の意識に苛まれて悲しんでいる。メリーはわたしの大好きな人なのに、何故、どうして……点と点でしかない表層だけの事実を懺悔させる必要があるの?
意味のない、全然意味のない会話。さっきの思考は所詮建前に過ぎなくて、本当はメリーを問い詰めたい『わたし』が実際に存在している。
それは残念ながらどうしようもない事実で、あのリスカをしてる時のような『わたし』はこの世界に宇佐見蓮子を放り込んだメリーの責任を問いただしたくて、その下卑た高笑いをやめようとはしなかった。
彼女の心をえぐるような尋問に近い――それこそ懺悔であることは分かっていても、メリーは全てYesと答えると分かっているのに、サイケデリックに侵食された心はまるで彼女のことなんて無視して言葉を紡ぐ。
「デイケアの途中で、夢を見せてくれたのも貴女なの?」
「……蓮子のくちびるが、やさしくて柔らかかったこと、よく覚えてる」
ざわめく思考と裏腹に落ち着いたわたしの瞳は、残酷なまでに全てを遠く見つめていた。
空気が凍り付くようにぴしっと張り詰めた室内に、蝋燭の灯火が陽炎の如く揺らめいている。
その向こう側でがっくりと肩を落として自責の念に苛まれたまま肯定の言葉を繰り返すメリーは、壊れたマリオネットのようにわなないていた。
ごめんね。ごめんね、本当にごめんね、メリー。
ざまあみろ、お前のせいでわたしはこの世に産まれ落ちてから今日までずっとずっと傷付いていたんじゃない。
やめて、やめて、貴女は誰でわたしなのにどうして大好きなメリーにそんなひどい言葉、わたしはメリーに愛されているのに、何処にそんなことを想う必要があるの?
メリーはメリーでメリーでしかないの。それが彼女である限りわたしはメリーを愛したい。ずっと、ずっと、変わらない気持ちで。やめて、もうやめてよ、メリーの悲しむ顔なんて、見たくも、ない。
「その帰りのエレベーターの中で、パパをいたぶってからピストルでジサツしようとしたわたしを止めなかったのも、メリー?」
「ええ、貴女の心が痛いほどに伝わって来て、私の方が狂いそうだった」
まるで予定調和のように続いていく、どうしようもなくむなしいだけのやりとり。
澄んだ声を振り絞りながら言葉を紡ぐメリーの身体はわなわなと震えて、やり場のない後悔と嘆きに打ちひしがれていた。
そんな今にも壊れそうな姿を目の当たりにしているのに、これ以上続ける必要はあるのかと自答自問するわたしの思考は完全に無視されて、心の底から勝手に声が吐き出される。
お願い、お願いだから……メリーだって全部分かってるんだから、これ以上もうメリーを責めるのはやめてよ。心の片隅で涙を流しながら、わたしはメリーの言葉をただ受け取るしかなかった。
それなのに、げらげらげらげらと嘲笑うもうひとりの『わたし』は、悲しみと罪悪感に苛まれているメリーを残酷なまでに問い詰める。
彼女を傷付けて、彼女の罪を暴き、全てを吐き出させて跪かせたいなんて醜い衝動の元に揺り動かされるばらばらの心と思考回路が、その背徳的な尋問自体にエクスタシーを感じていた。
メリーのことを愛してる。こんなにも、こんなにも、わたしはメリーが好きで好きでたまらない。だけど本当に彼女が神様だったとして――それでもわたしは本当に心の底からメリーを愛せるのかな。
この現実にわたしを産み落としたのは両親だけど、それすらも神様が決めた運命に過ぎず、こんな世界を作った存在を殺したいほどに憎んでいるわたしが、原罪と言うべき行為を赦し愛することができるのかしら?
「……リスカしてる時に、わたしのことを大嫌いとか罵ったのも、メリーなの?」
そのわたしの言葉を聞いた瞬間、アメジストの瞳から血の涙が――ぽつり、白いテーブルクロスに零れ落ちた。
声にならない声を上げて嗚咽を漏らしながら、メリーはさめざめと泣いていた。全ての罪を懺悔するかのように顔を俯けたまま、ぽろぽろと雫が頬を伝って流れ落ちていく。
そんなメリーが悲しむ姿なんて、泣いてる表情なんて見たくない。それでも、心の何処かで……その流れ落ちる涙はきらきらと光る彗星みたいで、とても美しいと想う自分がいることに気付いた。
笑って欲しいと思うよ。だけどいつかわたしだけ消えてしまうのかなって思う。だから、泣いていたって構わず、わたしは死んでもメリーのことだけは分かっていたいんだよ、それも難しいのかな。
やっぱりこうしてメリーが泣いている姿を見ていると、わたしが死にたくなる。そしたらメリーが泣いてしまうって分かってるのに、それでもわたしが死にたくなる。好きって、愛情って、どうなっているのかよく分からないよ。
たとえ想いが消えそうになりながらでも、知りたいのは本当のこと。貴女に隠さないで欲しいのは『宇佐見蓮子を愛しています』なんて事実だけ。メリーが流している涙に嘘偽りがないことが伝わるからこそ、その輝きは何処までも儚くも夢現で美しい。
シューティングスターのように煌く涙が過去を悔いて此処に光る意味を、このわたしの胸に秘めた想いの全てを以ってメリーを愛することで未来を想って煌く宝石に変えて見せてあげたら、私達は必ず幸せになれるはずだから。
わたしは自分を傷付けることでしか、自分を確かめることができなかった。
無力なわたしは泣いているメリーを見ているだけでも気が狂いそうなくらい苦しいの。それなのに心の何処かで、今伝う感情が嬉しいと感じている。
わたしのために涙を流してくれるメリーが、わたしのために罪を償おうとして何も出来ず嘆くメリーが、こんなにも、狂おしいほどに、たまらなく愛しい。
愛している人から与えられる悦びは、笑ったり楽しんだりすることだけじゃないから。あらゆる感情の全てが愛する人のため――今のわたしに向けられているからこそ愛々しい。
きらり光る雫はどんな宝石よりも美しく煌いて、すうっとわたしの心の中に染み込んでいく。今メリーの瞳から零れ落ちる涙は、わたしの胸の中でいつか必ず輝く価値が生まれる。
ああ、わたしは、あまりに長く、死んだような生き方をしてきた。だから今夜やり直す……あなたとわたしから始めるの。あのParanoid Androidのような壊れた恋の病のメロディを奏でながら素敵な物語を始めましょう?
――わたしのために泣いているメリーはとても綺麗だった。
虫ケラデ、人知レズ――踏ミ潰サレテ、消エテモイイ。かきむしられる心に麻酔をして、メリーのことだけを想うわたしになろう。
愛する意味がなんだとか、そんなこと分からないし知りたくもない。メリーの傍にいる以外のわたしは、どれだけ最低だっていい。どんなに最悪だっていい。
わたしはメリーじゃなきゃダメになる。メリーと言うクスリの中毒者になったわたしは、もうメリーが与えてくれるいけないクスリがないと生きていけないもの。
誰からも愛されず、誰からも必要とされなかった宇佐見蓮子と言う存在を愛してくれた人のためだったら、わたしは神様だろうと平然と殺してみせる。
チクタク、チクタク。チクタク、チクタク。
水を打ったように静まり返った室内で、柱時計の針がゆったりと無言の時の刻み続ける。
張り裂けそうな胸をセロテープで止めてから席を立って、そっとメリーの後ろに回った。
何も言わず指を這わせてすくいとった白い頬を伝う涙は、わたしを想ってきらり光る空想の流星群――
「泣かないで。笑って見せて? わたしは涙が見たくて『好き』って言ったんじゃないよ」
向日葵のレイルロードを思わせる黄金色の髪の毛の後ろ側から、ゆっくりと両手を首元に回してメリーの頬にキスを落とす。
流れ落ちた涙の跡をせき止めるように触れた彼女の肌は、ほんの少しだけ涙で冷たくなっていた。ぬらりと舌を這わせると、ほんのりと甘い味が口一杯に広がっていく。
メリーの流している涙はとても甘いスウィートな蜂蜜。わたしのことを想って溢れ出す大粒の雫が、何処までもたまらなく愛おしく思えた。
そんなメリーの泣いている姿はとても美しくて素敵だったけれど、これ以上貴女が悲しむ姿なんてもう見たくもない。
たまらずくちびるを重ねたくなる衝動と首を絞めて息の根を止めたくなるサイケデリックを必死で押し殺して、そっとやさしく、やさしく髪の毛をすいてやる。
あの夢の中でメリーがわたしに伝えてくれたような想いを、そのまま同じよう伝えてあげる。大丈夫だよ、わたしは何も怒ってないし、わたしの気持ちは何も変わってない。
ただこうして貴女の隣で、貴女の面影を見つめてるだけで幸せ。このまま時が止まってしまっても構わない。メリーと共に心を共有する時間は、かつてのわたしが想いを馳せて祈り続けた永遠だから。
「うん、そうね。だけど、これだけは隠しておけなかったの。後は……貴女次第で、私も、深く暗く素敵な夜空に吸い込まれて、恋に堕ちていくことができると思う」
「心配しないで、メリー。大丈夫。大丈夫だから。貴女を信じる、それはメリーを愛するための当たり前のことだよ。わたしは貴女の全て受け入れる覚悟なんて、もうとっくにできてる」
わたしは嘘つきの詩人だから、メリーの嘘なんて大体分かる。でもきっとわたしは何も言わないよ。
それがたとえ世間一般ではありえないことで、この世界では考えられない不条理だとしても、メリーがそう思うのならばそれは真実に変わるから。
貴女のついた、どんな嘘も信じてみせる。貴女の信じること、貴女の言葉全てがわたしの真実。貴女の見せてくれた夢は真実だったと確信したわたしが、貴女の言葉の嘘偽りを見抜けないはずがない。
メリーが神様だとしても、そうじゃなかったとしても、貴女は鮮やかな幻を美しい現実に変えて見せた。メリーが示したわたしがわたしであるなんて証明、あの事実は確かにわたしの存在が真実であると『証明』してくれたんだから。
信じるなんて所詮前提条件に過ぎない。私達の頭は、神様と同じ重さ。違うとしたら音楽と詩、旋律と言葉。そのふたつを限りなく同じく私達だけの絶対的なものに近付けて、わたしとメリーの世界をそっと重ね合わせること、それが恋愛だと思うから。
今わたしが感じるのは、例えば夢の中でメリーと交わしたキスの余韻。その先では貴女が笑っていたんだから、今流してる涙のわけも全部もう一度ふたりで捜しに行けばいいんだよ。そしたらわたしも一緒に泣くの。嬉しいことも悲しいことも、全部全部分かち合おうよ。
そもそも何がどうして本当で、それが何故どんな理由で嘘なのか――そんなことなんて、誰にも分かるはずがない。
ある人が面白いと絶賛する事柄を、ある人はつまらないと言う。物事の価値観は人間と言う神様の分だけ存在して、この世界に存在する命の数だけ事実が真実として存在する。
全ての人を納得させる証明なんて存在しない。1+1=2になるなんてことを決めたのは何処かの知らない数学者で、それが絶対的に正しいことを誰も証明できるはずがないんだから。
このわたしの『記憶』なんて記述の束は、神様が世界を十秒前に作り、脳内に植え付けただけかもしれない。ただメリーと言う神様がわたしに信じ込ませた力は絶対的で、それが真実であるって確信はもう誰にも変えられない。
「……多分、信じて貰えないと思うの。こんな馬鹿げた話、あるわけない嘘に決まってるって。それに、もう終わったことだし言い訳にしかならないから。それでも蓮子に聞いて欲しくて、今日会うことに決めたの」
「うん、それだけでも、本当に、本当に、嬉しかったんだよ。わたし、やっぱり最後までメリーは来てくれないんじゃないかなって思ってたから。こうして会えただけでも、とっても嬉しいんだよ。ありがとう、メリー」
そう言いながらやさしく頬を袖で拭って涙を拭いてあげると、ようやくメリーが薄っすら微笑んでくれた。
今貴女が悲しいと思うことが、わたしの一番大切な人のくれた答え――わたしに『神様』はいらない。そこにメリーがいて笑ってくれたら、わたしは必ず幸せになれる。
可愛いのは笑顔が一番なんだよ。勿論メリーだって笑ってる表情がこの上なく素敵だと思うし、貴女のはにかんだ微笑みは薔薇が咲いたように美しい。
そんなメリーの隣にいることができるだけでわたしは十分過ぎるほどに幸せだからこそ、貴女にとってのわたしもそんな存在でありたいと心の底から思う。
ふたりで手を繋いで寄り添ってるだけでふわり想いが感じられて、触れ合った肌から伝うぬくもりが何かいいなあって思えるような素敵な関係になりたいな。
ただお互いを愛する気持ちだけで、やさしく夜が明けていく時間を共に過ごして……わたしはわたしでいることだけで精一杯だけど、メリーの力があればわたしはわたしらしく在り続けることができるかもしれないんだよ。
わたしは王子様になりきったつもりでメリーのてのひらを取って、そっと誓いのキスを落とす。
ちょっと恥ずかしいと言うかカッコ付け過ぎだとは思うけれど、どんなことをしてもメリーは許してくれるような気がした。
そんな想いは希望的観測ばかりを書き綴っていた詩人だった頃の悪い癖か、それとも単なるヒロイン気取りたいだけの妄想の残滓か。
どちらにしろあまり調子に乗ってるとキモいと思われてしまうかもしれないから程々にしたいのは山々、でも今のわたしはあまりにもメリーのことが好きすぎてどうしようもなかった。
くすくすと笑ってくれたメリーを見ることができるだけでも、こんなわたしにとっては余りある光栄。貴女を想う気持ちが、今のわたしを、これからのわたしを揺り動かす唯となるから。
わたしが想うだけじゃ駄目なんだ。わたしも、そしてメリーも、お互いを想い続けることで、小指に結った運命の赤い糸は強い絆となって私達を永遠に繋ぎ止める。
とても名残惜しく想いながらそっとメリーから離れて席に戻ると、ランプの灯りに煌くアメジストの瞳は覚悟を決めたかのようにわたしを見据えていた。
雨に濡れた紫陽花の美しさを感じさせる、凛とした艶やかな表情。本能のレベルから屈服してしまいそうな眼差しと、何処かの国の姫君とも見紛う雰囲気を醸し出す美貌は、可憐な真紅の薔薇に相応しい。
鋭い棘が身体中に突き刺さって血塗れになろうとも抱きしめたくなるメリーと言う花が、高貴な佇まいを見せたまま落ち着き払った声で言葉を紡ぎ始める。
「簡単に言ってしまうと、私は二重人格なの」
精神科的に言えば解離性同一障害。勿論そんな診察は受けたこともないし学業の合間に受けた講義の受け売りだけどね。なんて言葉を付け加えて、メリーはちょっと困った感じの素振りで笑って見せた。
それはわたしも何となく予想していた線ではあったものの、本人にはっきりと自覚があるのは意外だったとしか言いようがない。わたしの知識も受け売りだけど、本人は知らず知らずと言うパターンも往々にして存在するらしいから。
――解離性同一障害。それは多重人格と言われていた時期もあったし、精神科医療の分野でも未知の領域に近いオカルトチックな病気。
事故などの強い心的外傷から逃れようとした結果、解離によりひとりの人間に二つ以上の同一性または人格状態が入れ替わって現れるようになって、自我の同一性が損なわれる疾患のことを差す。
しかし明確に独立した性格、記憶、属性を持つ複数の人格が現れるなんて症状の特性上、ほとんどが人格の移り変わりによって高度の記憶喪失を伴うため、メリーのように意識や記憶が連続していると言うケースは稀かもしれない。
具体的に言えば、わたしに関与した全ての事柄をメリーは正確に認知していた。もしも別の人格が現れて記憶が失われているとすれば、メリーはわたしのことなんて全く覚えていないに等しい状態のはずだ。
「……でも、そうだとしても納得できないことが沢山ある。夢の中に現れたことまで正確に記憶してるなんてありえないし」
「そうね。それは正直私も分からない。本当に分からないの。私の場合おかしいのは、二重人格であろうと身体はひとつしか存在しないはずなのに、恐らくもうひとりの『私』はちゃんとしたもうひとつの身体を持っている」
困惑気味な苦笑いを浮かべてるメリーも、どう説明したら良いのか本当に分からないって感じの笑みだった。
確かに常識的に考えたら理解できるはずもないし、嘘だと一蹴してしまう人がいても無理のない理屈だと思う。
要するにメリーの中にいるもうひとりの『メリー』は幽体離脱どころか、この現世に存在する肉体を持ち合わせていると言うこと?
――7月21日、ビルの屋上で笑っていたメリー。
昨日病院に行く前、駅のホームで日傘を差して佇んでいたメリー。
デイケアでRADIOHEAD「Paranoid Android」を一緒に歌ってくれたメリー。
夢の中で甘いキスを交わしてわたしを完全に虜にしたメリー。
パパを殺すわたしを憂うような悲しい眼差しで見つめていたメリー。
リスカ配信をしてるわたしを道化と罵倒して大嫌いだと言ったメリー――
これらのメリーは紛れもなく全てがマエリベリー・ハーンだけど、その中にはもうひとりの『メリー』が存在してずっとわたしと接触していた。
デイケアの時にメリーがわたしの名前を覚えていないと言ったあれは多分嘘で、あの時のメリーはちゃんとデイケアに参加している一方で……あの夢だと思っていた出来事を起こした張本人の『メリー』も確かに其処にいた。
そして、あの甘い夢をわたしに見せた。その帰りも彼女はデイケアのスタッフと一緒にいたまま、エレベーターの中でわたしに悪夢を見せた。あのリスカ配信の時に『メリー』と言うハンドルネームを使っていたことも納得がいく。
ビルの屋上の件も、デイケアが始まっている時間に駅のホームにいたことも、わたしのリスカ配信を見ていたことも――全てもうひとりの『メリー』の仕業で、同じ並行世界にふたりのメリーが存在していると仮定すれば何らおかしくはない。
あくまでも全ては推論に過ぎないけど、それを示す確かな根拠は――点と点に過ぎなかった夢幻で彼女に与えられた、わたしの『生の証明』だ。そう、恐らく、メリーの中に存在してるもうひとりの『メリー』を一番良く知っているのは、このわたしなのかもしれない。
「メリーは、その、もうひとりの『メリー』を見たことがないの?」
「ええ、ないわ。その代わり、彼女とは脳内を共有しているみたい。彼女の意思次第で、ある特定の物事に関して何をしたのかはっきりと自覚があったりもするし、五感で感じることは完全に覚えてるケースも多いわ。勿論、全てではないのだけど……」
「あくまで脳内の意思疎通は完全ではなくて、彼女の自由意志で一定の情報は共有したりさせなかったりできるってことかな。でも今のメリーは、最近のわたしがしていたこと、もうひとりの『メリー』と会話した内容も、全部、全部、覚えてるんだ」
「……ごめんなさい。本当に、本当に、どう謝ればいいのか分からない。覗き見してたみたいで、蓮子も気分悪いと思う。だけど、どうしようもないの。脳内に流れ込んで来る情報はシャットアウトできないから、私にはどうすることもできないの」
「それはメリーが悪いんじゃないよ。だから謝らないで、もう悲しまなくていい。わたしは大丈夫。今の話だけでもわたしは十分に納得したよ。結界の話も、そのもうひとりの『メリー』の能力みたいなものだと考えれば辻褄が合うし」
わたしとParanoid Androidを歌ってくれた何処までもやさしく凛とした真紅の薔薇の『メリー』
あの世界の理を知った風な振る舞いで見た者を夢現に誘い込む、気位が恐ろしいほどに高く妖艶な雰囲気を醸し出す神様としての『メリー』
こうして今わたしと話しているメリーは、一体どちらの『メリー』なのかな。
ふたりを見分ける術は彼女の言動から想像する他ないし、そもそもどちらもメリーであることには変わりないのだから考えるだけ無駄だ。
それ以前に先程の物言いからすると身体的な境界すら存在しないのだから、もうひとりの『メリー』は自由に行動できると思われる。
心身不一致なメリーはもうひとりの自分を制御できず、見たくもない物事を嫌になるほど見せられたりして、ずっとつらい想いを抱えながら生きてきた。
その苦しみは誰にも理解されることなく今日まで延々と……境遇は全く違えど、ある意味において私達は似た者同士なのかもしれない。
――脳内は共有されていると言うこと。
それはつまり、心や感情、想いも全てイコール?
わたしが『神様』と呼んだもうひとりのメリーはわたしを愛していると言ってくれた反面、今わたしの目の前にいるメリーはわたしのことをどう思っているのかいまいち分からなかった。
あの夢の中でわたしの傷痕を撫でて甘いキスを交わしてくれた『神様』はわたしに色々な感情を見せてくれたけれど、よく考えてみると今この瞳に映し出されているメリーと接触した回数の方が少ない。
こうして花瓶に挿した薔薇のように佇んでいるメリーも艶やかで美しい反面、あの神様みたいな全てを見透かした視線は感じない。現下わたしに全てを打ち明けてくれたメリーは多分『神様』ではない方のメリーなんだと思う。
極自然体で、清楚な中に艶やかな色が見え隠れする、あの神様とは全く違う趣のある美しさを醸し出す――ああ、貴女は、何処までも、何処までも、美しい人。わたしの愛しい人であることには何の変わりもない。
一抹の不安だって勿論隠しきれなくて、パパにひどい暴力を振るった挙句、ジサツを繰り返したわたしをメリーは見ていた。
あんなリスカもやらしかしてしまったし、血塗れになって笑い叫ぶひどく無様で汚い醜態を見ても、メリーはわたしのことを愛してくれるのかな。
だけど、それでも、メリーはちゃんと今日のデートに来てくれて、あんな公衆の面前だったのにいきなりのキスも躊躇なく、そして幸せそうに微笑んで受け止めてくれた。
今はただ、そのメリーの素敵な想いを信じることしかできない。それがこの事柄に関してわたしがしてあげられる唯一で精一杯の、メリーに対する誠意で誓いだから。
此処にいる貴女と『神様』であるメリー。そのどちらであっても、宇佐見蓮子は愛の薔薇を掲げて微笑んでみせる。どんな貴女でも、今の想いを以って同じように愛することができたらきっと必ず幸せだよ。
自分探しなんてしなくていい。どちらもメリーでしかないんだから、ただわたしは貴女に想いを馳せて恋に恋に焦がれたまま、貴女を愛して愛して愛して愛して愛して狂おしいほどに愛してると叫び続けて――
「そう言って貰えると嬉しい。でもね、はっきりと特定人物の記憶が連続して共有されたのは蓮子が初めてなの。もうひとりの『私』は様々な場所で色々な景色を脳内に残すけれど、ある決まった物事に執着することはなかった」
「それは彼女がわたしだけを何らかの理由で注視していた、と言うことになるのかな。例えば、例えばだけど……メリーはそのもうひとりの『メリー』に話しかけたりすることはできないの?」
「ええ、呼びかけても全く反応しない。もうひとりの『私』と話せるケースは一方的に語りかけられた時だけなの。それでも、不思議とあまり話す事柄もないわ。彼女と思想の類は物凄く酷似してて、話さなくても通じるって感じ」
「なるほど、何か難しいけれど一応それなりにやっていける間柄ではあるんだね。それでも全く見知らぬ記憶が共有されるんだから、考えてみるとやっぱり怖いよね。あまり見たくないものを強制的にフラッシュバックさせられるようなものだし」
「そんな記憶はもうひとりの『私』に意図的に消去されて欠損してる部分が多くて、実際に共有している箇所は意識だけ、かしら。でもね、東京に来て蓮子と出会ったこととか、あらゆる記憶が抹消される可能性が零ではない以上……まともに考えると怖くなってしまうわ」
もうひとりの『メリー』即ち神様に干渉することは、メリーを以ってしても不可能らしい。
それでもメリーが病んでいるように見えないのは、その思想の一致と記憶の抹消と言う面が非常に大きい気がする。
例えばスプラッタ映画が嫌いな人が連続で映像を見せられたら発狂するだろうけど、メリーの記憶に限って言えばその心配はないみたい。
神様がメリーの脳内に残す記憶。あらゆる場所の景色や心象は必ずしも全てが嫌悪する類のものではなく、一見無意味に回転を続ける連続した記憶の一部に過ぎないのかもしれない。
今まで神様としての『メリー』がどんな光景を見てきたのか本人が知ろうとしても、その断片は意図的に消去されている以上完全再現は不可能。
でも少なくともわたしのことは――あの飛び降りジサツからの神様が関わった出来事は、全てメリーの記憶としてもはっきり残されている。
ただ、どうしてわたしがメリーの中に住まう神様の対象に成り得たのか、それを知る手段はどうも存在しないらしい。
あの時から何度もジサツを思い留まらせて、甘いキスを交わし、父親をいたぶる姿を覗き見て悲しんで、リスカするわたしをひどく罵り痛みを感じさせる。
それら一連の行動は全てもうひとりのメリーによるものだとしても、今の神様ではない素のメリーがすんなりとわたしを受け入れてしまう理由がどうしても見えてこなかった。
彼女はメリーと違う独立した個体として活動し、ただその記憶だけを共有する間柄。それが真実だと仮定してみたところで、あんなキチガイじみたことをやらかすわたしをメリーがを好いてくれる理由が分からない。
その点だけがもやもやとした不安を増長させる反面、ふたりのメリーがわたしを愛してくれることがとても嬉しいから、心の何処かで下衆な詮索をしてしまう思考回路に無理矢理麻酔を打ち込みたくなる。
今はただ、ただ、メリーを信じるしかない。そのどちらの思惑も、いずれ必ずわたしに打ち明けてくれると信じているし、メリーが愛してくれなかったらわたしはジサツするだけだ。
「そっか。じゃあもうメリーの意思に関係なく、そのもうひとりの『メリー』は自由気ままに勝手にやらかす感じなんだ」
「うん、大体そんな感じかな。あの人は自分のことを名乗らないけど、わたしのことを『REM』と呼ぶの。私が真人格、つまり本当のマエリベリー・ハーンで、彼女は自分のことをフェイクだと言うわ」
――REM.「Rapid Eyes Movement」の略で、最も深い睡眠状態を示す。
覚醒には強い刺激が必要になる。俗に夢を見ている状態を差す「REM睡眠」はその頭文字を取った言葉。ただぱっと聞いても、それがどんな意味を指すのか全く見当も付かなかった。
REM睡眠に陥ってる状態の場合――脳は普段目覚めて覚醒している状態と同じ働きをしているとされていて、時に夢と一致する行動を取ってしまう症状が睡眠障害の一部として稀に起こると聞いた覚えがある。
神様がどうしてその単語を使ったのか分からないけれど、メリーが今その状態であるとすれば……彼女は夢と現実の境目が分からないまま、ゆらゆらゆらゆらと夢現の境界の狭間を彷徨ってることになってしまう。
ただしそれはこんな考え方もできないだろうか。あの神様が見せた夢の全てはメリーの意思でメリーが望んでわたしのことを知りたかったに過ぎず、メリーは現実でも夢の中でも今此処でもちゃんとわたしを愛している?
メリーともうひとりの『メリー』がわたしを愛してくれる理由――運命が後付けの理由だと吐き捨てる人がいるように、恋だって必ずしも理由を必要としない。
少なくともわたしは、Paranoid Androidを歌うメリーに心惹かれて、あの夢の中のメリーに一目惚れした。恋は鳴る。綺麗な、澄んだ音が鳴った。片方の、或いは両方のメリーにも、その音は届いたのかな。
メリーに「どうしてわたしのことを好いてくれたの?」なんて野暮な質問はしたくないけど、わたしはこの通り醜い汚れた人間。そんな腐った林檎の何処にメリーが惹かれたのかどうしても気になってしまう。
あの夢の中で味わったくちびるの感触が忘れられない。咲き誇る薔薇の花びらから伝えてくれたやさしい想いが、今のわたしの全てを司る心臓を幻から現実に引き戻してみせた。あの時のわたしは戸惑い、そして夢中で想いを確かなものとして伝えられず……。
それでも今日の出会い頭のキスだって、受け止めてくれただけでもとても嬉しかった。ああ、おかしくなってしまうくらいに狂おしいキスを交わしたい。そして伝えるの。麗しい花びら舞い降りた蝶は告げる、貴女のこと、メリーを、わたしはずっと愛しています、と。
何処までも夢見がちなお姫様がお好きなのは絶望を奏でる荘厳なハーモニー?
それともヘンゼルとグレーテルのお家のような甘いスイーツだらけのラヴロマンス?
ご主人様を見つけられないままの壊れたパラノイド・アンドロイドな宇佐見蓮子と重ねたくちびるの先に見えた未来は、想像を超える美しい色に染まっていたのかな。
直感は確信してる。REMが愛してくれた理由と、神様の愛してくれた理由はきっと同じ。愛してる、アイシテル、あ、い、し、て、る、って、何度も何度も伝えて欲しい。
その可憐なくちびるで紡ぐ美しい言の葉と甘く切ないキス、重ねた心と身体の全てを以ってして、接着剤で無理矢理貼り付けた心で貴女を想うわたしを殺めるように抱いて。
そしてメリーに壊れるほどに愛されて狂ったわたしは頭が余計おかしくなって、メリーのことしか感じられなくなって、完全な不感症を患ってICU行きになってしまうの。
身体中に管をチューブと点滴をたくさん付けたまま床に伏せたわたしをメリーは愛おしそうに見つめながら「綺麗ね」って笑ってくれるの。あはっ、とても、す、て、き、だね。
メリーが、REMが、神様が、奏でる言葉と旋律がわたしをどうにかしてしまう。
それがたまらなく気持ちいいから素敵なの。メリーと狂おしいほどに愛し合うことができたら、こんな世界はどうなったっていい。
ああ、いけない。妄想だ。妄想だ。妄想妄想妄想もうよそう。メリーに、ちゃんとわたしのことを伝えなくちゃ。わたしはメリーだけの素敵なラ、ヴ、ドール、で、す。
ぐるぐるぐるぐる回る思考回路の暴走は止まることなく、親愛なるメリーを狂おしいほどに求め続ける。クスリが、欲しい。ああ、メリー、わた、し、クスリ、欲しい。頭がおかしくなっちゃうあれ、そう、貴女のくちびるから垂らされるいやらしい蜜――
「その、メリーのことを『REM』と呼ぶメリーに会ったのは、ひょっとしてわたしだけ……なのかな?」
「ええ、そうよ。私だって見たことがないんですもの。彼女が直接干渉するくらいなんだから、余程蓮子のことが大好きなんでしょうけど」
ちょっとメリーが冗談っぽくもジェラシーを感じてそうな素振りで言うので、何だかわたしのほっぺたが気持ち赤く染まっていくのは気の、せい、かな。
こんなにも愛して貰えるだけでとても嬉しいのに、その理由が知りたいなんて思考はそれこそ野暮と言うものかしら。
もしもわたしが「どうして蓮子は私のことが好きなの?」なんて訊ねられたら、すぐにでも実力行使に訴えかけて狂おしいほどに教えてあげたい。
だって言葉は必要ないんだもの。百の言葉で説得するよりも、ねっとりと舌を絡ませるディープキスで分からせてあげた方が効率的だし、いやらしい気持ちになれるから。
恋人同士だからこそ貪り合うことのできる、狂気に満ちた底知れぬ愛で犯されてぐちゃぐちゃにされたい。メリーに犯されるなんて考えるだけでわたしの頭が限界破裂してしまう。
メリーに踏み躙られたいし、メリーを犯して同じような中毒症状にしてあげたい。わたしとメリーはもう運命を共にするしかなくなる。ふたりで堕ちる恋の病は-273.15摂氏零度の麻酔が冷たく効いて、たまらなく心地いいはずだよ。
結局わたしとメリーが出会ったのは神様の悪戯でも何でもなく、ただ事実が連続して回転した結果導かれた当然の帰結に過ぎなかった。
過去も、現在も、未来も、全ては事実で繋がっていて、人間の作り出す事実と言葉によって作り出される世界と言う名のたったひとつの大きな器の中に、小さな『人間』なんて存在の世界が沢山詰まっているだけ。
あの蒼い空は最も近くに見える世界の限界に過ぎなくて、あの向こう側に行くにはやっぱり死ぬしかない。ただ、わたしは偶然神様と出会って、それ以外に方法があることを知ってしまった。
そう、今は……メリーと一緒なら、あの空の遥か彼方まで行ける気がする。メリーと見る夢が一致する時、わたしの願いが叶う。だってメリーの存在自体が『REM』であって『夢』なんだから。
――夢こそが最後のメシアだと壊れた愛の詩を流布する誇大妄想狂宇佐見蓮子、願えば叶うよ願えば叶うよ。
愛して欲しいと心の底から叫び続けても、誰にも愛されなかった使徒は堕天使になって、その羽根で自らをずたずたに切り裂いてしまった。
わたしの翼は汚れてばらばらになっちゃったから、メリーに抱き抱えて貰ったまま虹色に輝く綺麗な翼で世界を色鮮やかに染め上げて、ふたりだけであの空に還るの――
「だけど、メリーはメリーでしかない。少なくともわたしには、どっちのメリーだとかそんなのは関係なくて、ただ貴女のことが愛しくてたまらない」
「そう言って貰えると嬉しいわ。物心付いた頃から何か違う存在が頭に住み着いてる感じでね、私の言うことなんて誰も信じてくれなかったの。ちゃんと信じてくれたのは、蓮子、貴女が初めて……」
「わたしだって、凄くメリーに感謝してるんだよ。言葉にはできないくらい、色々なことさ。わたしは誰にも愛して貰えなかったから、メリーからキスされた時、本当に嬉しくて嬉しくて泣きそうだったんだから」
物凄く微妙な距離感で惚気合っている気がして、それもまた何か嬉しくて笑顔が零れてしまう。
好きとか愛してるなんて言葉にしたこともなかったし、こんなにも誰かが愛しくなった経験なんて今まで一度もなかったから、余計そんな想いは強くなるばかり。
わたしのたどたどしい告白を、メリーもとても恥ずかしそうなあやふやな言い方で、だけど素敵な想いがふわり伝う可憐な声で返してくれることがもとても嬉しくて、たまらなく幸せ。
ああ、この想いを言葉なんかじゃなくて、もっと直接的に伝えてあげたい。貴女のくちびるから伝えて欲しいの。甘く切ない、心も身体もおかしくなる貴女の全てを感じさせてくれるキスとxxx...し、た、い。
メリーのことについては、何となくだけどわたしなりには把握できたし、その事実に関しては全く問題なかった。
REMとしてのメリーと神様としてのメリー。もっともっとふたりと話をしてみたい。彼女達の瞳には、この世界はどんな感じに映っているのかな。
その世界を客観的に捉えるフィルターを移植して貰って覗いてみたら、こんな世界がわたしなんかのような人間でも色鮮やかでとても美しく見えるのかもしれない。
私達が見ているこの『世界』と言う単位は共通だから、わたしもピントを合わせたり違うレンズで観測することができれば、瞳に映る景色は万華鏡みたいに変わってしまう。
それは要するに、心の在り方さえ変わってしまえば、瞬きひとつした瞬間にこの世界は変わると言うこと。この頭にこびりついた『残酷な世界』なんて要素が消去可能ならば、わたしだって美しい世界を夢見ることができる。
世界を美しく彩る術を知る――それは神様が世界の理として無意識に与えた幸福論の答えに相当するものなのかもしれない。人間なんて所詮脳内の働きで自分や世界を認知しているのだから、それさえねじ曲げてしまえば世界なんてあっと言う間に変わる。
モノクロの世界が七色の虹に見える瞬間は、どんな人間にも共通に与えられた機能。もしもそれが本当だったらこんな世界にはならないはずだけど、このぐちゃぐちゃになってしまった世の中を何故か私達はどうすることもできない。
――そんな妄想が頭の中をぐるぐるぐるぐると回っている最中、突然階段側のドアからコンコンとノックする音が聞こえて来て思考をシャットダウンする。
どうぞ、と答えるとマスターの息子さんが大量の料理を荷台に乗せて部屋の中に入ってきた。ふわんと鼻孔をかすめて五感を刺激する芳しい匂いが香る銀色のキャリアの上には、マスターの自信作が所狭しと並んでいる。
女の子みたいな細い指をしたご子息によって、とても食べきれそうもない量の豪勢な料理が淡々とテーブルの上に乗せられていく。やっぱりお値段も相当張りそうな感じがするんだけど、その辺り全然気にしない辺りもマスターらしい。
流石に一人でこなすのは大変そうなので、わたしも手伝おうとしたら「お客様ですから」なんてやんわりと断られてしまった。其処で笑ってくれたら可愛かったのになあ。彼、少しショタっぽくて美少年、実はちょっと好みの子だったのでさり気なくショック……。
テーブルの中心にはわたしがこのお店で一番お気に入りな苺のショートケーキ。
魚介類をふんだんに使った潮の香りが漂うボンゴレをメインディッシュに、雪のように真っ白なクラムチャウダーと具財が透けて見える綺麗なロールキャベツ。
デミグラスソースたっぷりの煮込みハンバーグにシーザーサラダと氷の器に盛られたカットフルーツが爽やかな彩りを添える。他にもアスパラガスのバターソテーや異国風オムレツ、ヒラメのムニエル等々そのバリエーションは本当に豊か。
流石和食・フレンチ・中華等々様々なお店を渡り歩いて修行を重ねたマスターならではの多国籍風な素敵な料理の数々に、子供が誕生日プレゼントを開いた時のような笑顔でメリーも嬉しそうに目を輝かせている。
素晴らしい料理をムード感溢れる感じで一通り並べ終わると、わたしにナプキンを手渡しながら、ふと息子さんが小さな声で言葉を掛けてきた。
「……」
「うん、ありがとうと伝えておいてね」
それはメリーに隠すようなことでもないと思うものの、その言葉はとても嬉しくて、伝えて貰った瞬間わたしの心はどうにかなりそうだった。
そのまま小さく会釈するとメリーにもナプキンを手渡して、空っぽになったキャリアを押し戻しながらマスターの息子さんがドアを閉めて階段を下りていく。
その後姿を確認してから、わたしもおもむろに席を立ってドアに内側から鍵を掛けた。
何やらメリーが腑に落ちないと言った顔付きだったので、そのまま受け取った鍵をひょいと投げてやる。
ぱたぱたと慌てながら何とかキャッチする姿も何だか可愛らしくて、とてもキュートで素敵なんだから。
「……鍵?」
幾つかの鍵が連なった束を見て、メリーが軽く首を傾げた。
どうにも良く分からないと言った感じの不思議そうな顔を他所に、わたしはしたり顔で答えてやる。
「ここのお店の鍵と、この部屋と奥の部屋の鍵。今日はこの部屋に誰も入らせないから好きに使っていいよ、何かあったら其処の呼び鈴から呼んで、だって」
「奥の部屋は何に使われているのかしら。わざわざお客様用に仕切るにはちょっとおかしい感じもするわ」
「ええとね、従業員用の仮眠室みたい。だから其処で一夜を過ごしてもいいってこと」
そんな言葉を聞いた途端、メリーの頬がぽっと花が咲いたように紅く染まった。
あはっ、可愛すぎる。可愛すぎるよ。凄く意識してる。って言うか滅茶苦茶意識してる。
わたしと寝る、わたしとキスする、わたしとxxxする、そんな想像でも脳裏に過ぎったのかな。
それとも、あの夢の続きの想像とかね。自分から招き入れた指で、わたしに犯される感覚を――恥ずかしがるメリーが何を考えているのか妄想して、その対象がわたしだと思うだけでときめいてしまう。
あの神様は恋に手馴れたやり方をしてきたけれど、こうして見ていると『REM』であるメリーはとてもおしとやかで本当に恋をしたことがない夢見る女の子だった。
印象や雰囲気だけだと清楚で優美な成熟しつつある大人をイメージさせるのに、内面は意外と歳相応以下なところがとても素敵。恋なんてはじめて、どうしたらいいか分からない。
そんな想いが真っ直ぐに伝わって来るから、からかってあげたくなっちゃう。わたしだって初恋で、しかも年下なのに好き勝手弄んでもいいのかしら。何処までも穢れのないメリーに悪戯するのは小悪魔になったな気分がして面白そう。
ゆっくりと席に戻って目の前に並んだ豪勢な食事をあれこれと見回しながら、ふと向こう側にいるメリーを見ると……まだ顔を赤らめたまま、恥ずかしそうに俯いていた。
あんな公衆の面前でキスを受け止めておいて、今更そんなに照れることなんてないのにね。でも、そんな貴女も可愛いから許せちゃうよ。些細な仕草にも何かと色が帯びる美貌に、もうわたしは完全に惚れ込んでいた。
メリーを知ったことで堕落するわたしは螺旋を描いてまっ逆さま。メリーによって突き刺された心臓のナイフから流れ続けている血が巡る巡り、メリーの描いた幻想がわたしの何もかも全てをおかしくする。
その夢の中に堕ちていく感覚が、たまらなく心地良い。貴女に愛されることは妄想の国の御伽噺で、もう決して叶わない夢みたいだったのに、こうしてふたりきりで過ごせるひとときが再び訪れるなんて本当に思いもしなかった。
――夢の続きは、永遠の始まり。
愛の薔薇を掲げて、声を思い出したカナリヤは歌う。
名前ヲ呼ンデ。呼ンデ。ヨ、ン、デ。ワタシハ此処ニ居ルヨ。居、ル、ヨ。
心ニ問イカケレバ、心、ニ、問、イ、カ、ケ、レ、バ、イケナイクスリデバラバラニナッテ満タサレルノ――
「これだけの量あると食べきれないかもね。でもまあ、とりあえず乾杯でもしよう?」
真紅のアメジストに彩られたグラスの向こう側に、何処までもいつくしい麗しき姫君の姿がぼんやりと映し出されている。
この紅い世界の向こう側に咲き誇るは、許された者だけが手に取ることのできる漆黒の薔薇。
こんな汚くなってしまったわたしにこの美しい花を摘み取る権利があると思うだけで、つい心から下衆な笑みを浮かべてしまう。
相変わらずの自称詩人宇佐見蓮子の妄想癖はいまだ治らないまま、夢遊病患者のようになってしまっているけれど……今は、今だけは、メリーの瞳を映し出した緋色の世界に酔っていたかった。
グラスの中に封じ込められた紅い夜が、ゆらゆらゆらゆらと揺れる。真紅の夜と現実との境目が曖昧になったニセモノの世界をこれから私達は飲み込んで、ありえないはずの美しい現実に変えて映し出す。
艶やかな赤と宵闇の黒が混じった紅の水面は、何となくリスカした時に噴出す鮮血のそれを連想させる。
その傷細工のない腕に紅い血がゆたりと流れ落ちて、真紅に染まる様子を想像するだけで性感帯がどうにかなってしまいそう。
メリーを傷付けたいとは思わない。だけど、その心をおかしくさせてやりたい。わたしだけの、わたしのための、わたしだけしか見えない、わたしのことしか感じない、わたしだけを愛してくれるメリーに……。
貴女を愛しているとか叫びながらナイフで互いの心をずたずたに切り刻んで、挙句噴き出したほんの僅かな幸せを必死で舐め合って。そうやって私達は私達のクスリでおかしくなったまま、お互いをケモノのように貪り合うの。
――こつん。と音がして、グラスの中に彩られた赤い世界の境界が歪む。
くすっと二人自然と笑みを零しながら、硝子の内に秘められた真紅の境界とそっと口付けを交わす。
メリーの紅いくちびるに真っ赤な液体が注ぎ込まれて、白い喉をこくんと鳴らす姿はまるで吸血鬼に見えた。
貴女が教えてくれた生を実感してる傷痕が疼く。メリーの尖った犬歯を食い込ませて、血を吸い取って貰えたらどんなに幸せかしら――あはっ、想いを馳せるだけでいやらしい感情が湧き出すのはどうしてかな。
でも確かに、わたしは願っている。あの夢の続きで、メリーに犯されること。この現実と言う悪夢で、貴女を犯すこと。そうして私達が共有した狂おしい快楽を糧に、鮮やかな未来は続いていくのだから。
そっと口付けた紅い夜を流し込むと、ふわんとした芳醇な香りと共にワイン特有の濃厚な味が口内に広がっていく。
未成年の癖に歳を偽ったことなんて数知れず、お酒だってそれなりに飲んでいるつもりだけど、これが果たして美味しいのかどうか正直わたしには判別不能だった。
あの切符のいいマスターが蔵出ししてくれたものだから、相当値の張る素晴らしいヴィンテージものだと言うことは容易に想像が付く。
メリーだって初恋なんだから、私達はまだ大人への階段を登っている道半ば。ううん、少なくともわたしの場合はむしろ途中から止まったまま。
だから味なんて分からないし実はどうでもよくて、結局お酒なんてものは場の雰囲気を楽しむための小道具だと思ってる。
それがこんなにアダルティックで妖しい色を醸し出す大人の世界へ誘うなんて知る由もなかったし、まだわたしにはこんな体験は早すぎるのかもしれない。
でもメリーと過ごす時間が耽美的であればあるほど、心の奥底から溢れ出すエクスタシーが愛おしく感じられるから素敵だね。
「ん、美味しい」
想いからつい口に出てしまったと言う感じの、素直な本音がとても嬉しい。
嘘をつくことが当たり前になってしまった世界に、私達は慣れ過ぎている。
メリーから届けられる澄んだ声色が紡ぐ言葉を、今のわたしは何でも信じ込んでしまいそう。
「うん、おいしいね。料理もきっとおいしいよ、冷めないうちにささっと食べちゃおう?」
わたしも満足してグラスを置くと、そのままフォークでパスタをくるくると巻き付けて口の中に運ぶ。
白ワインで煮込んだアサリからにじみ出した塩分だけで調理したような、素材の良さを存分に生かした潮の風味がぴりっと引き立つアルデンテは絶品だった。
クラムチャウダーも濃厚な生クリームにパルメザンチーズがコクが絶妙な味わいだし、きのこをたっぷりと使ったデミグラスソースたっぷりのハンバーグはミディアムレアで口の中でふわっととろける柔らかさ。
他の料理も全てマスターの素晴らしい職人芸と粋な計らいが見て取れる素敵な料理ばかり。ああやって黙って背中で語る男の人って、やっぱり何かカッコいいなあ。
メリーも美味しいと思ってくれてるようで、黙々と料理を口に運んでは表情が時々緩んだりしてる。
わたしの自慢の洋食屋さん、気に入って貰えたようで嬉しいな。ただ、何だろう、メリーは何か面白いことがあるらしく、わたしの方を見てくすくすと笑う。
きっと多分これのことだろうとわたしも分かっているんだけど、このちょっと茶目っ気に溢れたところが此処のマスターの素敵なところでもあるんだけどね。
「うふふっ、どうして蓮子のデザートだけ、そんなに苺だらけになってるのかしら」
「うん、このショートケーキもそうなんだけど、わたしが苺大好きでそれをマスターに言ったことがあったから、多分って言うか絶対いたずらでやったんだと思う」
「そうなんだ、やっぱり素敵なおじさまなのね。ちょっとした遊び心を忘れないところがまた紳士らしいと言うか、とっても面白いわ」
さっきからメリーが笑っているのは、わたしのお皿のデザートだけ苺がやたら多い上にハロウィンのかぼちゃ宜しく色々な形に刻まれてるからで、何故か一種のアート状態になっていた。
キウイやマンゴー等々のフルーツもちゃんと盛られているのだけど、中央に苺がピラミッドみたいに積まれているからおまけにしか見えない。大粒でとても美味しそうな苺だから、わざわざ此処までしなくてもいいのに。
それでもわたしのことをちゃんと分かってくれてるからこそ、こんな真似が出来るわけで……それはやっぱり感謝しないといけない。今日のことだって大分無理言ってしまったから、ちゃんとお金を払わせて貰わないと示しが付かないよ。
ゴシックな容姿のせいもあるのだろうけれど、ゆったりとした感じで料理を咀嚼するメリーの姿はどう見てもお嬢様のようにしか見えない。
中世風にあしらわれた周りの装飾品もそれを手伝って、清楚で可憐な美貌に一際優雅な花を添える。美しい黄金色を時折目元から払ったり、ナプキンで口元を拭う仕草――その全てが妖しくも華やかな色を帯びる。
実際のところメリーは日本語があまりにも流暢だから、普通に考えたら日本に住んでる期間の方が長いのかもしれないけれど、あまりにも中世でゴシック的な容貌がしっくり来るものだからついつい見入ってしまう。
飛び級なんて制度が当たり前の諸外国を考えたら意外と同い年だったりしてね。でもメリーの美しさは、わたしどころかそこら辺の可愛い女の子でも絶対に持ち得ない魔性の魅力を醸し出していた。
見目麗しい容姿、夢現な言の葉、可憐なくちびる――貴女の全てがわたしの心をサイケデリックな衝動をぐちゃぐちゃにかき回した挙句、その奥底から狂おしい想いを以ってじわじわと犯していく。
――メリィ、貴女ノコトガ、好きデ好キデ、タ、マ、ラ、ナ、イ、ノ。
タダ、ワタシヲ想ウ貴女ガ欲シイ。ワタシダケヲ想ウ貴女ガ欲シイ欲シイ。
アア、モット、モット、狂ワセテ。貴女ニ殺シテ欲シイノ。殺、シ、テ、欲、シ、イ、ノ。
貴女ニナイフデ突キ刺サレテ血塗れニナッタワタシノ死骸、トテモ綺麗、デ、シ、ョ、ウ――?
「ところで、メリーは……そんな感じのゴシックな感じのお洋服が好きなの?」
あまりにもしんとしてるのもあれかなと思って、わたしの方から話題を振ってみる。
狂った頭の中に渦巻く恋患いとは違う病的な衝動は、何故かメリーを想うと自然と穏やかに収まっていく。
こうやって料理を堪能している時間はどうしてもお口の方が疎かになってしまうと言うか、あまり話すことができないからちょっと困りもの。
なるべく当たり障りのない話題を選んだつもりだったけれど、それが功を奏したのかメリーはあっさりと答えてくれた。
「そうね、私はイギリスの生まれだけど、勿論貴族なんていいところのお嬢様でもないわ。小さな頃から日本で暮らしてるから母国ってイメージもないし、これは完全にこっちに来てからの私の趣味かな」
「でも、普段着からそんなドレスみたいな感じだと大変だよね。病院みたいなところだと勿論規制あるんだと思うんだけど、それでもメリーはとても綺麗だった。プライベートでもゴシック系で統一してるの?」
「まさか、プライベートだったらもっとカジュアルなゴシックパンク系だったり普通のワンピだったり色々適当よ。今日こんな服装で来たのは勿論蓮子とデートだから。それは自然に気合入るってものでしょう?」
そう言ってはにかんで見せるメリーは、ぞっとするほどに妖艶で可愛かった。
何かこう自ら墓穴を掘ってしまった感は否めない。デートだと思って誘ったのはわたしなのに、肝心の格好と言えば今日急場で揃えたワイシャツにネクタイとかいつものまま。
それに比べてメリーはきちんとそれを滅茶苦茶意識しまくってたみたい。まさかメリーが来てくれるなんて事態が予想外で運の尽き。しかもデートって自覚してくれてるなんて思考の片隅にもなかったよ。
あまりにも恥ずかしくて、穴があったら入りたい気分になってしまう。手首の傷があるから長袖は着ることはできないけれど、デートならデートなりの服装があるじゃんかわたしの馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿この大馬鹿!
うーん、複雑な気持ち。なんだろこれ。わたしはそんな基本的なところでもメリーと釣り合ってないと考えるだけでかなり凹む。
服装の乱れは心の乱れだとか偉そうにご高説を垂れ流す胡散臭い教師の言葉が、これだと滅茶苦茶的を得てる形になってしまってる。
しかしそれ以外でメリーに振ることができそうな話がなかったのも事実。その割に何故か、思い込みかもしれないけれど……ほとんど会ったこともないような感じなのに、自然と心は繋がっている気がした。
貴女の気持ちはちゃんと分かってるから大丈夫だよって、メリーがわたしを支えてくれてる感じ。よくよく考えてみればちょっとおかしな話だよね。
先に『好き』なんて感情が成り立っているのに、まだ私達はお互いのことを良く分かっていない。プライベートや私生活のほんの触りの部分、誰に教えてもいいことだって全然分からないままなんだから。
多分きっと、ずっとこれまではメリーだけがわたしのことを一方的に知っていた、みたいな形になっているのかなあ。でも、今はただ、こんな些細な会話だけでも本当に楽しい。そうやって少しずつ、少しずつ、その美しい言の葉で貴女の想いを伝えて欲しい。
愛する人のことなら何だって知りたい、教えて欲しい、わたしの知らないメリーの秘密があるなんてイヤ、わたしがメリーの全てを知っているからこそ、その素敵な想いを感じておかしくなれる――貴女に狂いたい、そんな切望なんてありふれた当たり前の想いだよね?
ああ、でも、そうやってさり気にデートなんて言われると、恥ずかしすぎるよメリー。
わたしだって、わたしだってデートだと思ってた。思いたかったの。だから凄く嬉しいけれど、やっぱり、恥ずかしい、よ……。
勿論美味しいものを食べるひとときは幸せ。ただそれよりも幸せなことは、貴女からのスウィートな想いを感じられる今この瞬間の安らぎだから。
「そ、それは、そう、だけ、ど……それじゃあわたしが全然メリーと合わないよ。もっと素敵な服着て来れば良かったと思うし、それに、それに……」
「それならお食事終わったら買いに行きましょう? 東京は全然知らないから具体的なお店は決められないけれど、本当は今日これから服を買いに行くつもりだったからちょうどいいし、ね?」
「え、でも、わたしそんな服似合わないよ。フランス人形みたいなメリーだから似合うのであって、わたしは、わたしはこんなのだから!」
「そんなことないわ。蓮子だってとても綺麗だもの。白い肌に良く映えるこげ茶色の髪だし純白のクラシカルなゴシックとか似合いそう。うん、私が選んであげたい、私が蓮子が着る服を選びたくなってきちゃった」
くすくすと笑いながら勝手にひとりで盛り上がり始めるメリーを他所に、わたしの顔はワインじゃなくて惚気られたせいで真っ赤っ赤だった。
ほおずきのように紅い紅い苺を口に放り込むと、甘い甘い恋の味。酸っぱいとか、切ないとか、そんな感情が過ぎるくらいに、ただ純粋無垢なメリーの想いだけがゆらりゆらりと伝う。
穢れのないメリーに汚れたままのわたし。こんな『血』に塗れたわたしはメリーに相応しい恋人なのかな。あまりにもメリーから届く想いが素敵過ぎて、ココロが切なさできゅんと軋んだ。
ああ、わたしもメリーと同じ雰囲気のゴシックで歩くと街中は大騒ぎになるのかしら。
ただでさえメリーが漆黒のドレスを着てるだけで道行く人々の目を惹いてわたしまで巻き添えなのに、ふたり共そんな格好してると別の世界の人に思われそう。
うん、わたしがちょっとボーイッシュなゴシックで、メリーはそのままお姫様。こんな自分が見目麗しいフィアンセを颯爽とエスコートしてあげたら、あの虫けら以下だと罵っていた奴らを見返してやれるかもしれない。
だけどね、わたしはメリーの傍にいることができたら、それでいいの。この世界で最も美しい黒い薔薇を引き立たせるための、白いカーネーションのような彩りを添える存在になることができたら、わたしはとても幸せだよ。
「む、無理、絶対無理だってば! わたしなんか絶対似合わないよ! わ、わたしは、メリーの隣にいることが、できたら、そ、れで……」
「もう私の中ではどんなお洋服がお似合いかばっちり決まってるわ。ヘッドドレスからブーツ、アクセサリーまでもう完璧。嗚呼もうそれで一緒に歩けたら、私が蓮子のフィアンセみたいで素敵……」
ちょっとメリーが自分の世界入っちゃってる風な、しかも何故か思考がシンクロしてるみたいで余計恥ずかしいんだけど!
デイケアにいる時は飄々と自分の仕事をこなしていた感じだったのに、今目の前にいるメリーは滅茶苦茶乙女チックと言うか、実は本当に夢見がちなのかもしれない。
でも、そんなわたしとメリーだけの物語も素敵。ああ、メリーがわたしのフィアンセ、わたしの、フィアンセ、ワ、タ、シ、ノ、フィアンセ――男の人がやたらと腕組みたがったりするあれと同じ完全な支配欲の類だ。
どうせわたしは汚れているんだし、下衆な欲望だと罵られても構わない。わたしはメリーを自分のものにしたい、わたしはメリーだけを愛し続けたい、わたしだけのラヴドールにしたいと願うことの何処がいけないのかな?
半ば強引な形でメリーの妄想に自分を投影させてみると、不思議な想いがサイケデリックな思考で破廉恥になって宇宙の風に浮かぶ。
たまらなく愛しくて可愛がりたい気持ちとぐちゃぐちゃに犯してやりたい気持ち。甘くとろけるキスを交し合った後は、ケダモノみたいに互いの身体から快楽を貪り合ってきゃははははははははははって悶え叫ぶの。
ピアノのような美しい旋律を奏でながら、いけないクスリに酔いしれるメリーの痴態を見てみたい。メリーと頭おかしくなる気分は、きっと麻薬なんか比べ物にならないわ。それこそ天国くらい簡単に見えちゃうかもね。
私達の頭は神様と同じ重さ。この夢と世界を創造した神様がメリーだとしたら、其処に作り出した『ヘヴン』は一体どんな風になっているのかしら。誰も見たことがない禁断の花園、夢現な深遠の姫君の世界に迷い込めるのは、この宇佐見蓮子だけ――
「め、メリー、ちょっと思考が飛躍しすぎ、だと、思う」
それはわたしがわたし自身に言い聞かせた意味が多分にあった。
もう自称詩人はやめたのに、ついつい変な妄想に耽ってしまうのは本当に悪い癖だから。
「私本気なんだけど、もしかして酔っちゃってるように見える? 全然大丈夫よ、私お酒の類は滅茶苦茶強いから。本当に蓮子に着せて一緒に歩きたいだけ。うん、考えてるだけであれこれと想像が浮かんじゃって困るわ」
「いやいや待って待って待ってってばメリー! いきなり言われてもお金とかは大丈夫でも、そ、そんな勇気、ないし、ね、メリー、ちょっと冷静になろうよ」
さり気なく抵抗を試みるものの、メリーは懇願するような眼差しでじっとわたしを見つめている。
REMである『メリー』はデイケアで会った時のように大人っぽい方なのかなと勝手に思っていたけれど、実際は意外とワガママな子らしい。
だけどそんな貴女もとてもプリティでキュートだから許せちゃう。わたしは甘えたい方、メリーも甘えたい方。うん、とても仲良しで素敵だね。
でも、こんな何気なくて、些細なやりとりがとても嬉しい。
こんな身近な場所に小さな幸せが落ちているなんて思いもしなかった。
ただそれは気付かなかっただけで、普通に生きている人にとっては当たり前のことなのかもしれない。
少なくともわたしにとっては、こんなかけがえのない大切なもの。いつからか人間は強欲になって、一部の声の大きい人達は誰もが享受すべき小さな幸せすら奪ってしまった。
そんなことすら教えられず罪もなく殺されて行く子供達。飢えながら死んで行く子供達。自爆テロの生贄として街中で爆散する子供達。核弾頭を落とされて死んで行く子供達――その代わりに強大な幸せを手に入れる虫けら。
こんな残酷な世界における原罪を犯しているのは、私達人間と言う神様の仕業。今頃世界の何処かで血の雨が降り注いでいるのに、私達はこんなところでいちゃいちゃしてる。何か変。何か変なんだよ、おかしいんだよ、この世界ってさ。
――そんなこと忘れて貴女も『普通』になればいいんだよ。メリーに狂ってしまえば全て忘れられるんだから。
頭の中のサイケデリックな何かが囁く。わたしもその通りだねと答えて、メリーとの甘いひとときを楽しむ虫けらです――
「……嗚呼、いきなり蓮子に拒否られるとか超ショックなんだけど。キスは喜んでしてくれたのにお洋服着るのは駄目とか、私明日京都に帰れなくなってしまうわ」
「ち、違うってば、違うの、メリー。あのね、その、ちょっと、って言うか、かなり恥ずかしい、だ、だけなの。メリーがそんなに着て欲しいって言うなら、その……うん、いいよ、だから、今はディナーを楽しもう?」
「うん、やった、約束だからね! 結構蓮子ってSっ気とマゾっぽいところで揺れてるのかしら、素直にうんって言えば可愛いのに、そうやって意地っ張りなところも愛くるしくて素敵ね」
「そ、そんなの、違う、違うってば。わたし、わたし……メリーが嬉しいんだったらなんだってするよ。でも、ただ、本当に、ちょっと、ちょっとだけ恥ずかしかっただけなんだから!」
そう言い放って苺をあーんと口の中に放り込むわたしを見て、メリーがくすくすと喉を鳴らしながら微笑む。
当たり前、凄く当たり前だけど援助交際なんて名目だけの恋人なんかと比べるまでもない、心と心を繋ぐ確かな想いが胸をぎゅっと締め付ける。
ずっと欲しくて欲しくて恋して恋焦がれていた『誰かに愛して貰うこと』の意味を、今ようやく知ることができたと言う実感がリストカットさながらに刻まれていく。
メリーの紡ぐ美しい言の葉が響くたび、桜の花びらのように降り積もった小さな幸せがふわり、ふわり舞い上がる。心を満たす感触はxxxみたいな刹那ではない、やさしいぬくもりに溢れた素敵な快感だった。
偽ることに慣れたわたしの世界に煌く想いは、ずっと酔いしれていたくなる素敵な余韻を残して……ココロが狂おしいほどに切なくなってしまう。そしてわたしはふと思った。この『もっと、ほしい』こそ宇佐見蓮子が忌み嫌う人間の原罪なのかもしれない。
だけどもう戻れないんだよ。こんないけないクスリを覚えさせたメリーには勿論責任を取って貰う。いけない、いけないと背徳感に苛まれながら愉しむふたりで犯す美しい罪は、きっとたまらない快楽をもたらしてくれるよ。
そんなわたしとメリーを罰し騒ぎ立てるまやかしの神は決してサイを振らない。
その果てに何があるのか今は知る術はないけれど……絶望は無限大に広がっていて、幸せはきっと多分花のように朽ち果てる。
むすんで、ひらいて。咲き誇った幸せ。ふたりで貪ってなくなってしまったら、後は欲望の赴くままに傷付け合って貪り合って罪を重ねることしか残されていないのかもしれない。
幸せを掴むためならば、どんな手段だろうと厭わない。それは実際のところ手首を切るなんて行為と殆ど変わらないだよね……これってわたしの気のせいかな。
そのうちリスカと同じで何もかも感じなくなって、酸いも甘いも全てを知った幸せの先には惨めな傷痕だけが残る。貴女と愛し合って作ったいびつな傷細工、メリーは褒めてくれる?
つまり幸せとは絶望へ続く甘い罠。知ってしまった感覚は、時計の針のように元には戻せない。だからわたしは「このまま幸せに騙されてみるのもまた一興かもね」なんてくすくす笑いながらメリーから愛を貪るの。
だって今しかないんだもの。わたしには今しかないんだから。今日今が素敵で快感ならそれでいいの。明日なんて最初から考えてない。こんな世界で明日を憂うことがどんなに馬鹿らしいか、天才だった頃のわたしは最初から気付いてた。
――じゃあ人類だって動物だから最終目的ってxxxで子供作ることなんでしょ?
もういいよそういうの面倒臭いから。結局みんな誰かが隣にいないと生きていけなくて、幸せになれないってことになってるんでしょ。
ひとりでもいいじゃん幸せになりたいよ。って言うか多分今も充分幸せだと思う。でもさ、誰からも愛されるって形で愛貰ってなくてxxxだって援助交際以外予定もなくて、つまり非モテ非リア充の奴がさ、生きてる必要ってなくない?
さっさと楽に死ねる安楽死センター作ればいいのにね。生活保護とか余計な税金使わなくて済むから生きたくもない人を生かす必要もなくなるよ。人類減らして地球環境改善のためにちょっとでも酸素消費を抑えておいた方がよくない?
やっぱり死んどくべきなんだよわたし。シニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイシニタイキエタイ――
嘘つきの自称詩人宇佐見蓮子は今日からスイーツ(笑)になるからこんなことなんて考えなくてもいいんだね。
今日以上に明日が素晴らしくなる可能性がなくなったら死ぬしかないし、メリーから嫌われたわたしに存在価値なんてないから生きる意味なんて何処にもない。
たったそれだけになったんだよ。詩としてああだこうだ書かなくていいから、分かりやすくていいね。ああ、そうだ、わたしを嘲笑っていた虫けら共に吐き捨ててあげるよ。
"あはっ、ざまあみろ"
――夢を見ている時だけ存在を許されるわたしにとってひどく非現実的なディナータイムは、あの校舎から飛び降りジサツする直前に詩に書いた世界で見る予定だった真夏の夜の夢。
詩の世界にひとり置き去りな自閉的な『わたし』を迎えに来てくれた貴女は、鮮やかな幻を現実に変えて見せた。このままセンチメンタルな恋に狂いながら頭おかしくなってジサツするのも素敵だと思わない?
リスカやオーバードーズ、援助交際とジサツ未遂を繰り返して、幸せになるための方法論だけを磨いていた宇佐見蓮子の空想妄想虚言癖は全て貴女のものです。どうか末長く淫らなラヴドールとしてご自由にお使いくださいませ。
甘く切ない恋の音とサイケデリックな思考が巡り巡る世界は摩訶不思議だったけれど、ふたりだけの空間で何も気にすることなく食事を愉しむ時間は格別だった。
愛のカケラもないデートだけならうんざりするほどこなしてきて、学校では陸上部なんですとか嘘だらけの話をぺらぺらと喋っていたのに、メリーに嘘を言えるはずもなくわたしの言葉は何処までもカタコトで途切れ途切れ。
ただふたりでそっと微笑み合う小さな幸せを噛みしめていると、メリーは色々な話を聞かせてくれた。京都大学の臨床心理学部で相対性精神学を専攻していることや『神様』の残した記憶の断片――幻想的で不思議な風景のこと等々。
可憐に紡がれる言の葉の端々に見えるメリーの素顔を知れば知るほど、メリーが好きになっていく自分が誇らしく思えた。虫けら以下だと自他共に認めるわたしに愛をくれた貴女の慈悲と美しさは、何の花にたとえられましょう――
まさに夢のような時間はあっと言う間に過ぎ去って、わたしはあっさりとデザート以外の料理を食べ尽くしてしまった。
マスターはこんなところまで気を利かせてくれたのだろうか、私達女の子でもちょうど食べられるくらいの腹八分目の量を計算して用意してくれたみたい。
わたしが喋る機会があまりなかったと言うか、メリーがお喋り好きっぽくて沢山沢山お話を聞かせてくれたおかげで、彼女の方はまだ少しだけ料理が残っている。
赤ワインはとっくに空っぽで今度は白ワインを飲んでいるけれど、こちらも香りと飲み口が絶品だった。それにしても、心地良い酔いはアルコールなんか比べ物にならない恋の眩暈――ぼうっとしていると夢見心地でついうっとりしてしまう。
今はもうテーブルを挟んだ距離でさえ果てしなく遠く感じて――メリーの与えてくれたいけないクスリの副作用は徐々にわたしの頭を蝕んで思考をエスカレートさせる。
ただ、ただ、わたしはメリーの傍にいたいだけなの。そっと腰掛けていた椅子を持ち上げて、しれっとメリーの隣に移動した。身体を寄せ合うこともできないけれど、精一杯心を込めて御奉仕して差し上げますわお姫様?
きょとんとしたメリーを余所目に、にっとはにかんで見せる。くすっと声を漏らす無邪気な笑顔でわたしが満足するはずもなく、恋人としていちゃいちゃしながら貴女の想いをもっと貪りたい、これはたったそれだけのこと。
援助交際なんかでやるようなニセモノで上っ面だけの恋心の交換じゃない、心からメリーを愛していると言う証として……きっとお互いの愛や絆って、こんな些細なやりとりから少しずつ硬く強くなっていくものだと思うから。
それは当然こんなお遊びからスウィートなキス、壊れるほどのハグや桜咲き乱れるxxx然り。くすくすと笑う彼女の表情にどきどきしながらそっと綺麗な指が操っていたフォークを拝借して、その先端に刺さったオムレツの一口をゆっくりとメリーのくちびるに近付ける。
「うふふ、蓮子、もしかして、酔ってる?」
残念なことにあのパパの娘として生まれてしまったわたしは、滅法お酒は強いと言うか酔った記憶は一度もないんだよね。
そもそもパパの反面教師で自分から飲もうと思うことがないし、オーバードーズしたりする時の補助用として缶チューハイを嗜む程度だから。
「ううん、全然。いつも不思議に思うんだけど、どうしてこういう席って向かい合って座らないといけないのかな?」
「確かにそんな決まりはないけれど……うふふっ、やっぱり蓮子酔ってるみたい。それより、食べさせてくれるなら戴けないかしら、私の親愛なる王子様」
「その王子様はね、恋に酔っているの、メリーが与えてくれた素敵な恋にね。メリーがいけないんだよ、悪いのは貴女なんだから。ほら、メリー、あーんして?」
そんな言葉を聞いて花が綻ぶように笑うメリーが、どうしようもなく愛しくて愛しくて仕方ない。
小さく開いた薄桃色のくちびるに、ゆっくりと食べ物を運んで口の中に入れてやる。上品な仕草で咀嚼するメリーの表情はとても満足気で嬉しくなるのに、何か違う、どうしても物足りない。
わたしの手作り料理だったら違うのかもしれないけれど、その美しい薔薇に与えてやりたい水は……今にも胸が張り裂けそうになるほど狂おしいまで「貴女のことを愛しています」と言うわたしの想いの全てだから。
ああ、そんな考え方は間違ってるのかな。ちゃんとした恋をしたことがなくて分からないから尚更、この行為はもどかしくてもどかしくてたまらない。わたしは、早く、早く、はやく、貴女が、めりぃが、欲しい、の。
そう、所詮こんなのはお遊び。下準備も念入りにしないでがっつくオスばかりでうんざりするよ。甘く切ない戯れを焦れったいほどにしてあげたら快楽だって何倍にも膨れ上がるのにさ。
ちゃんとしてくれないと痛いことなんてお構いなしで逸るドーテイの多いこと多いこと。愛の代わりにお金貰ってるんだから気持ち良くないのは分かってるけど、せめて素敵なxxxだったらふたりともおかしくなれてWinWinなのにね。
だからメリーにはメイプルシロップたっぷりのパンケーキを食べさせて、たまらなく甘く甘く甘く甘く甘くスウィートな想いに浸って貰ったら、ぐちゃぐちゃに犯してあげるの。想像しただけで脳内から快楽物質がどぴゅって漏れて、濡れてきちゃう、あぁ、んっ……。
「ん、おい、し……」
「あはっ、なんかわたしが作ったみたいで嬉しいな」
粉雪のようないつくしい肌の上に、鮮やかな桜の花びらが、ゆらり、ゆらり。
真っ白な頬を煌びやかな紅で染めた親愛なる姫君は、しとやかな恍惚の微笑を浮かべてみせる。
楚々とした品性の中に織り交ぜた色を優艶な大人の美にまで昇華させる仕草は見目麗しいとしか形容し難い。
生来の美貌を微塵も乱さないまま、あーんと小さく口を開いておねだりしてみせる姿はたまらなく情欲をそそる。
儚くも美しい夢現で幻想的なメリーの魅力に惹き付けられて、完全に快楽中枢を支配されてる気さえしてしまう。
小さな幸せを大切に噛みしめるようにオムレツのカケラを食べながら、嬉しそうに微笑むメリーを見てるとわたしまで幸せになれる。
ココロに広がるやさしい想いをわたしもメリーと同じく、大切に大切に、そっと抱きしめるとふわり桜が舞い散ってきらきらと光り輝いた。
それは眠りに落ちる時のうっとりとまどろむ素敵な感覚。メリーと同じ気持ちを共有してると感じられるだけで、ときめく心が止められない。
メリーのくれた甘い甘いキャンディ、とっても美味しいよ。ぎゅっとすると儚くて消えてしまいそうだから、溶けてなくならないようにやさしく舌の上で転がしてあげるとたまらなくスウィート。
あはっ、甘くて甘くてばらばらの心がさらに虫歯になっちゃう。ちゅぱちゅぱと心の中でいやらしい音を鳴らしてキャンディを舐めしゃぶりながら、メリーの口の中に食べ物と共に想いを残す。
「蓮子の作ったお料理も今度食べてみたいわ」
「えーわたしあんまり上手くできないから、メリーに作って貰った方がいいな。わたしが独り占めするんだ、メリーの作ったお料理全部ひとりで食べちゃうの」
「うふふっ、何それ。私は専業主婦ならお断りだから、家事は半々ね。でも基本的にはこうやって蓮子が食べさせてくれるの。大切なフィアンセの言うことなら聞いてくれるでしょう?」
「わ、わたしだってたまには、メリーのお料理、食べてみたいよ?」
「ええ、蓮子は食べさせてくれるだけでいいの。ほら、もう最後なんだから、素敵な愛をくださいませ、My dear...」
フランキンセンスとワインの残り香がふわり漂う室内は完全に隔離された私達だけの世界。
英語なんて使って洒落っ気を見せながら口を開いて哀願してくれるメリーは、本当に不思議の国のお姫様と思えてしまうほどに美しく妖艶だった。
可憐なリップに黄色い卵黄の塊を差し出すと、真珠の煌きを見せる歯が艶かしく柔らかいそれを噛み砕いて、最後の一口をゆったりとした仕草で嚥下する。
ワンテンポ遅れて白い喉が跳ねる瞬間は「貴女に嫌われた私になんか価値はない」と自ら首を絞めて安らかに息を引き取ったメリーの様子の一部始終を見送るようなサイケデリックな夢の痕。
メリーと言うクスリを飲み込めるのはわたしだけしかいないし、わたしの愛を飲み込めるのもメリーしかいない。実際わたしを抱いた男なんて全てクズだった。わたしのことなんて何も知らないで、自分の好き放題に犯してはいお終い。
だけど、メリーは違う。ちゃんとわたしの想いを真っ直ぐに受け取って、何倍も素敵な気持ちに変えて返してくれる。いけないクスリにさらに甘いキャンディを溶かして舐めさせるお姫様。そんな貴女を独り占めすることができるなんて、本当に幸せ者だね、わたし。
――メリーのこと、大好き、大好き、本当に大好きなんだから。
たったそれだけのこと。それだけのこと、なのに……こんなわたしでも、ちゃんと想いを伝えることができているのかな。
どきどきと鳴りっぱなしの心臓は何処となく不安なのに、メリーの与えてくれた幸せが包み込むようにわたしを守ってくれる。
メリーに愛されているって確かな実感――それが今此処に、この胸の中に、わたしの心の中に在って、心臓に突き刺さったナイフは漆黒の薔薇となって可憐に咲き誇る咲き誇る――
ずっと、ずっと、不安だった。わたしは、人を、愛することができるのだろうか?
誰からも愛されることもなく、愛することもできなかったわたしが、このたまらなく愛しい気持ちを伝えられるのかな。
心が正解だよ。わたしの心が感じていることが正解。だから、あの夢の中のキスや今日交わしたキス、ちゃんとできてたはずだよね。
メリーがわたしの想いを感じて笑ってくれる。メリーがわたしの想いを感じて泣いてくれる。メリーがわたしの想いを感じて愛してくれる。
それが確信に変わった今はもう、恐れることなんて何もない。この命が花のように朽ち果てるまで、ずっとわたしはメリーを愛し続けるから。
わたしがガラクタになっても、貴女が欲しいと望む快楽を与え続けられる限り、奴隷として服従を誓って、性欲の吐け口として扱われても、望む快感のために羞恥に晒されても、貴女が必要なくなるまで、見捨てられても、貴女が死んでも、そう全ては妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル妄想リアル――
そんなサイケデリックな感傷に浸って心の中できゃははははとか独り狂っていると、いつの間にかメリーが最後に残っていたデザートのショートケーキを目の前に並べていた。
とても幸せそうな顔に拍車が掛かった様子を見ると、わたしと同じくらいスイーツの類が大好きっぽい。此処のお店のデザートは全部美味しいんだけど、中でもショートケーキは至高の一品と言っても過言ではない。
ちょっと甘さ控えめでほんのりとした柔らかい苦味が残るスポンジ生地と、それを覆う生クリームの甘さが絶妙なハーモニーを奏でる。何の飾り気もないシンプルイズベストなところがマスターのこだわりなんだとか。
他の料理も美味しく頂くことができたし、今日は本当マスターに感謝しないといけない。これからもお客さん連れて来るから、どうかよしなに……もうメリー以外連れて来ないかもしれないけどね。
「あはっ、メリーまだ食べるつもりなんだ」
さも当然、スイーツは別腹ですなんて感じで、くすくすと笑ってくれるメリーがまた可愛い。
甘い甘い甘い甘いアマイアマイアマイアマイアマイ何もかも甘くて虫歯だらけになっちゃうよ。
愛に飢えてからからになったくちびるの中に、透明なワインに混じったエヴァーグリーンな想いが溶けていく。
「勿論、私だけ甘えてばかりなんて不公平で嫌だから。ふたりでいちゃいちゃするから楽しいの。ほら、蓮子もあーんして、ね?」
ちょ、ちょっと、あの、その、超恥ずかし……なんて言う間もなく、メリーはすっとショートケーキにフォークを差し込んでわたしの前に差し出した。
有無を言わせない満面の笑みを見ると余計恥ずかしくなって、ぽっと顔が火照る様が自分でも手に取るように分かってしまう。人前でキスしたところからわたしが主導権を握ってるつもりだったのに、全く以って逆転してしまってる。
あの時は無我夢中で「駄目かも」とか「最初で最後」とか思ってたからかもしれないけれど、今はそれこそ愛し合ってるって事実を滅茶苦茶意識しまくってて、そんな親愛なる人からこんなことされたらわたしはやっぱりおかしくなっちゃう。
なんて思いながら、やっぱりして欲しい心は我慢できるはずもなく、あーんと情けなく口を開けるわたしはご主人に甘える狂犬みたい。
ああん、やだ、何か『おあずけ』させられてるみたい。そっとフォーク片手に近付いて来るメリーの姿を見てるだけで心臓がどきどきして、思わず目をぎゅっと閉じてしまう。
自分がしてあげる時はただこうふわり伝う幸せだったのに、今はどきどきどきどき鼓動が早くなって心に広がる想いが勝手に駆け出して行く。
して、欲しい、早く、して、欲しい、のに、一度与えられたらもう甘えたくなる衝動が止められない気がして、それもいいかなって想うと嬉しくて……。
こんな風に弄ばれながらあーんってしたり、手を繋いだりお喋りしたり、キスやハグとかxxxだって、貴女からされることなら何でも幸せに感じるんだから。
...1.2.3.4.5.108?
ずっと待ってるのに、お口の中に銀色のフォークが入ってくる様子はこれっぽっちもない。
ああ、どうしてわたしはこんなに焦れったい想い、しなくちゃ、いけない、の。いじわる、いじわる、いじわる、メリーのいじわる。
上目遣いで顔を上げて見ると、面白可笑しそうに微笑んでいるメリーと目が合った。気品溢れる佇まいの中に垣間見える妖艶な美貌が、わたしの、かおの、まえ、に、どうして?
スローモーションのように流れる時間軸と世界。そして、でも、どうして、何故か、そのまま、ショートケーキのカケラはメリーのくちびるの中へ。
ちょっと、メリーったら、いじわる。いじわる。いじわる。わたしにあーんしてくれるんじゃないの、なんて声を出そうとした瞬間、薔薇の花びらが、ゆらり、ゆらり、舞い散った。
――わたしのくちびるにそっと重ねられた紅い蝶々。
芳しく香る濃厚な匂いを漂わせながら押し出されたケーキだった『もの』は、お口の中の性感帯で甘く溶けて消えた。
メリーのざらついた舌が蜜を引きながら外に這い出して、わたしのお口の周りをぬらりぬらり確かめるようになぞっていく。
触れ合ったくちびるの先から互いの境界線が曖昧になって、ふたりでひとつになるたまらない感覚が理性を完全に破壊する。
飲み込まれた奈落の奥で見つけたのは、美しく咲き誇る幻想の花の群れ。ああ、神様。このまま時間を止めて、永遠に、永遠に――
「あ、はぁ、ん、めり、ぃ……」
永遠の一秒と共に流れ出した吐息が、甘く切ない想いをたゆたわせて真っ白な頬に紅い花を咲かせた。
ゆっくりと顔を引こうとするメリーの上唇をついばむように口元を寄せると、やさしいぬくもりとやわらかい感触がゆらりゆらりと心地良い余韻を残しながら伝わって来る。
パラノイドなアンドロイドなわたしのくちびるで可憐に踊る、生まれて初めて奏でるメロディはア、イ、シ、テ、ル――ヴァイオリンのピッツィカートのような高く澄んだ恋が鳴る音色は、心の全てを伝える魔法みたい。
お互いの想いが交じり合って溶けていく感じがたまらなくスウィートで素敵。ゆらり、ゆらり、蝶々が舞う。ようやく掴まえたくちびるをぎゅっと押し付けてキスをおねだりすると、メリーは何も言わずにそっと受け止めてくれた。
べっとりと張り付いた下唇の生クリームを舌でぬらりと動かして舐め取りながら、そっと目を伏せてキスして――そう無言で催促するメリーの姿は、とろける甘さとサイケデリックな衝動で犯されたわたしの欲情を掻き立てる。
抱き付くこともできず、求めることもできないもどかしい体勢のまま、美しく咲き誇った薔薇の花びらに口先をそっと押し付けた。
わたしの体重はぴったりあてがったくちびるだけで支えられてるみたいで、余計に心臓の鼓動が速くなっていく。荒くなる呼吸をなだめるようにメリーが舌を丸めながらくちびるの間に滑り込ませて、その表面をやさしく舐めしゃぶってくれる。
触れ合ったくちびるの隙間からにじみ出した液体をちゅぷっと音を立てて吸われるたび、嬉しいんだけど恥ずかしくて、もどかしい、焦れったい。こんなおままごとみたいなキスはイヤ。もっと、もっと、乱暴にしてよ。貴女に犯されたくて我慢できないの。
薔薇の花びらを口に挟みながらお盛んな発情した犬みたいにちゅぱちゅぱと吸い尽くすと、欲情に塗れた妖艶な色香が口端から漏れ出す。絡み合うくちびるから溢れる吐息のリズムが段々シンクロし始めて、鼻から抜けていく甘ったるい媚びた音色が鼓膜を揺らす。
「ん、はぁ、ぁ、あ、は、ぁん、れん、こ、れんこ、れん、こ……あ、あぁ、はぁ…………」
はしたなく開いたくちびるの中に溢れる想いを詰め込んで垂れ流してやると、惚気た表情を浮かべたメリーが嬉しそうに喉を鳴らす。
わたしのくちびるを舐める舌を押し退けて、その裏側のねっとりとした内側の部分とくっつける。宙ぶらりんになった舌にタッチしてから、逆に上唇をぺろぺろと舐めしゃぶるとメリーの吐息が荒くなって余計興奮が止まらない。
男とか言う下衆な存在と交わす欲望に満ちた自己満足とは違う、快楽を与え合うことのできる幸せは純度から桁違いに甘くて快感に満ち溢れている。もう病み付きで二度と手放したくない、わたしのわたしのわたしのわたしのわたしのわたしだけのめりぃ。
キスが気持ちいい行為だとは知ってたものの、それは大好きな人と交わすからこそ初めて感じられるいけないクスリ。穢れのない想いがしゃぼん玉のようにふわり浮かんで弾けると、艶やかな匂いがふしだらな火照りを伴って口の中いっぱいに広がっていく。
完全なメリー中毒なわたしはきゃははははははははははははって狂っちゃってサイコーなんだけど、これはめりぃのせいなんだから。貪り合うくちびるの生々しい感触がxxxの快感と重なって、エクスタシー塗れの唾液の味でわたしの頭は完全にイカれてしまっていた。
親愛なる姫君に快楽を与えることがこんなにも素敵で、そのままメリーが感じてるのが伝わると自分もケモノのように盛って感じちゃうのがたまらなく気持ちいい。
上唇をただ舐めているだけで、ぴくぴくとメリーの舌が物欲しそう震える。そのわたしが零した唾液を無心ですくい取るお姫様の表情は、ただの快楽に溺れた女の子と化して淫らに歪む。あはっ、わたしとメリーの見てる夢がひとつになって、素敵な愛を貪ってるんだよ。
そんなことを想う、ただ愛していると想う――そうするとキスが、メリーがもっと欲しくなって、犯して欲しくて、ワインで潤っていたはずの喉がからからになった。わたしがべちゃべちゃにしたくちびるだけが満たされて、お互いの心からどばどば快楽が溢れ出す。
メリーの呼吸が妖しい熱を帯びて、ただ色を求めて一心不乱に接吻に耽る姿はたまらなく欲情をそそった。ただ、ずっと、わたしが求めていた。でも今は、今は、メリーがわたしだけを求めてキスをせがんで、しっとり濡れたくちびるでキスを受け止めようとする。
もうその想いだけでわたしは満たされた。あの清楚で可憐なメリーがふしだらな快楽に酔いしれる、わたしのくちびるを求めて――美しい髪を翻しながら首を傾げて必死におねだりしてみせる仕草、零れた雫を一心不乱にすくって喉を鳴らす淫靡で甘く切ないメロディ。
貴女の、メリーの、何もかもが愛おしい。貴女の快楽がわたしの快楽なんだから、わたしがどうしたってメリーも気持ちいいよね。あはっ、ぐちゃぐちゃに犯してやりたい。メリーを、ぐちゃぐちゃに、犯す。あはっ、犯す、の。犯す、犯す、犯す、犯す、犯す、の。
――わたしは『REM』であるメリーをちゃんと愛することができる。
ああ、そうなんだ。名前知らない憧れのあの子に、わたしが神様と呼んだあの人に、メリーのドッペルゲンガーに恋してたの。
でも、わたしはちゃんとどちらも愛することができた。神様が奏でる旋律が絶望の最中に垣間見える希望ならば、REMであるメリーが奏でる調べはセンチメンタルでアイロニカルな切ない魔法のコトノハ。
恋なんて知ってる、わたしは恋ができる。援助交際とか言う名目だけの恋だったけれど。だから、はじめてじゃない。それはメリーには申し訳なく思う、でもわたしの『はつ恋』の初めては間違いなく貴女のものだよ。
メリーのお気に入りになるために、貴女好みの『わたし』になるために、メリーのために選んだルージュを引いて綺麗に彩を添える、メリーに相応しい花になりたい。鮮やかな化粧に濡れた感傷的な恋は何処までも儚くて夢現なのね。
微かに触れ合ったくちびるの先から感じる想いは、もう汚れてしまったわたしが叶うはずもないと諦めて詩の世界に置いてきたわすれもの。
取り戻そうとしたことは何度もあった。でも、心が痛い。心がひどく軋んで、ふと振り返って立ち止まると不安と後悔に押し潰されて、目を閉じればいつもの妄想世界に逆戻り。
そもそも後戻りなんてできないんだと知った汚れるだけの日常では、予定調和の如く悲しみに負けてしまう。そんなどうしようもない日々の繰り返しにうんざりしてた今のわたしには夢がある。メリーの見せてくれた鮮やかな夢が輝いてる。
この残酷な世界は色を失ってしまったけれど、貴女が七色を奏でる虹を盗んでわたしのために取っておいてくれたのかな。こんな素敵な夢から覚めてしまったら最後、メリーを愛することができないわたしにはもう生きてる価値なんて何も残らない。
貴女のヒカリで彩られた世界は色鮮やかで美しい。もう絶対に離れてしまわぬようにぎゅっと抱きしめて、心が破裂するくらいの想いを吹き込んで貰ったらわたしの呼吸は止まって、その狂おしい感情で窒息死した宇佐見蓮子はメリーの愛しのラヴドールに――
――あはっ。だからね、メリー。
xxxしたいの。しようよ。ね、貴女とヤらせて――?
もう、わたしは、わたしは、この気持ち、押さえ切れないから。
ちゅぷっといやらしく音を立ててメリーのくちびるを吸って、寄せていた顔をゆっくりと離す。
まだ夢見心地なお姫様は快楽に惚気た表情のまま、ぷいっとそっぽを向いたわたしを上目遣いで見つめていた。
いじわる。いじわる。蓮子のいじわる。そう言いたそうなくちびるから垂れた糸は、彗星の尾を引くようにきらきらと輝いていた。
あは、何だかおかしな話。ずっといじわるだと思っていたのはわたしの方なのにね。
それをぷつんと切って、メリーの目の前であーんと口を開けて自分の口の中に入れてみせる。
もうケーキなんて要らないの。こんな素敵なキスの甘さを味わってしまったら、味覚がおかしくなってしまうよ。
わたしが欲しいのはメリーのくちびると、その奥でわたしと同じようにときめいている想い、そして狂おしいほどのエクスタシー。
もっと、もっと、ちゃんとメリーと快楽を貪り合いたいの。ちょうど時刻は21時を回ったところ、門限なんてないけれど……ああ、愛しのお姫様、シンデレラにはもう時間が残されていないのです。
そんな言い訳だったら許してくれるかしら。純度100%混じり気なしのいけないクスリ、もうちょっとだけ我慢してくださいませ。
「……蓮子、キス、いや、な、の?」
もっと欲しい、貴女が欲しい、だから、続けて……そう哀願する儚い旋律がそっと耳元に届く。
ううん、もっとしたいよ、したくてたまらないよ。快楽を分かち合ってわたしも気持ちよくなりたい。
そんな気持ちを押し殺して、お、あ、ず、け。無理矢理現実に引き戻された漆黒の薔薇は、しっとりと雨露に濡れていた。
ちょっと下の方からにいっといやらしく微笑んであげると、さらに顔を赤らめて恥ずかしそうな表情を隠しきれないまま、ぷいっと目を背ける仕草がとっても可愛い。
ああ、わたしとメリーはひどい共依存。こんな快楽に汚染されちゃったら、わたしは我慢できないよ、できるはずがないよ。
もうわたしの好きにさせて貰うことにするね。単に此処でするには落ち着かないから。もっとメリーに求めて欲しいから。この真夏の夜の夢を、ずっと見続けていたいから。
きっと多分、メリーは「もっと、して」なんて言えないんだ。その想いが痛いほどに伝うからこそ、もうたまらなく愛しくなって、わたしの薄汚い欲望に紅蓮の焔を焚き付けるの。
メリーをわたしのものにしたい、メリーを、わたしの、ものに、して、ぐちゃぐちゃ、に、して……そんな独占欲は、所詮出会い系にTeLする男と大した変わらないのかもしれない。
「ううん、一応これでも高校生だし、門限だし、もう帰らなくちゃ。泊まっていいってマスターも言ってくれたけど、其処まで甘えるわけにもいかないから」
「……そっか。そうよね。ちょっと私調子乗りすぎたかもしれない。だって、蓮子のキス、とても素敵で、うっとりして、気持ち良かったから、もっとしたくて……時間のことなんて、すっかり忘れてた」
うん、わたしもだよ、わたしもだよ。きっと私達は恋に酔っているんだと思う。
今は、でも、許して。ただちょっとだけメリーを焦らしてみたくなっちゃったんだ。
それが嫌なら押し倒してキスして。もう我慢できないんなら、この場で犯してくれてもいい。
そうやって貴女と狂っていくことがたまらなく素敵だから、わたしのことなんて好きにしたらいいんだよ。
だけど残念、このキスで完全にメリーを虜にしたと思ったのに、まだほんの少しだけ理性が残ってるみたいだね。
あの白い花を引き千切るように犯す男達のようにわたしを扱ってくれても全然構わないし、むしろそうやって無理矢理奪ってくれた方が嬉しい。
スウィートな愛の受け皿としても、欲望に塗れた性欲の吐け口としても――わたしはメリーのためなら、貴女が望むのなら、どんなことだって悦んで受け入れるよ。
あーんして、あーんして。ほら、あーんするの。あーんして、メリー。
あはっ、そうだよ。わたしね、美味しいものは最後に取っておくタイプなの。
もっと求めたいって本能と僅かに残った理性の狭間で戸惑うメリーを他所に、残ったショートケーキを口に運んでみてもちっとも甘くない。
あんなに大好きだったのに、あのキスの後だとすっかり霞んでしまう。ぱさぱさなスポンジはくちびるの感触なんて程遠いし、生クリームの上品な甘さもメリーのくちびるから垂れ流されるものに比べたら全然大したことないや。
そんなわたしの姿を見て、釈然としない面持ちでメリーもケーキを消化し始める。美味しいね、なんて言っているけれど、メリーは「お、あ、ず、け」された気分なのかもしれないね。焦らされてるメリーも超可愛い。大好きだよ。
――ショートケーキの最後を飾る甘い甘いとろけるstrawberry heart...
メリーにあーんして貰った苺はとても甘酸っぱくて、虫歯になりそうなわたしの心からすうっと糖分を抜き取ってしまう。
甘いのも大好きだけど、わたしが欲しいのはもっと情欲に塗れた『快楽』だから。貴女は綺麗過ぎる。大人になると言う抗えない事実は汚れてしまうことと同義なのに、貴女から伝う全ては何処までも美しい。
変わらないものなんて存在しないんだから、穢れなき貴女の純潔を奪うチャンスはたった一度。わたしに犯されたメリーは朽ち果てた薔薇のような退廃的な麗しさを保ったまま、ゆらり、ゆらり、奈落へ墜ちていくの。
ああ、そして繋がる想いは私達を永遠に連れて行く――その世界の果てで死ぬほど鮮やかな未来が見たい。
わたしはメリーがいないと生きられないと喚き叫びながらメリーを犯して、メリーはメリーでわたしがいないとジェラシーを抱いてくれるくらいに狂ってしまう。
汚れてしまったわたしには綺麗事な恋なんて分からないし知りたくもない。今分かること、それは、わたしは、ただ、ただ、貴女が欲しい。貴女を犯したい。貴女を宇佐見蓮子と言う名の快楽で隷従させたい。そんなふしだらな想いはもう止められない――
全ての料理を食べ終わった頃には、蓮の花を想わせる紅が差すメリーのほっぺたも心なしか色褪せて見えた。
それに比べてわたしの心は……これから自分の全てを曝け出すと言う欲望に満ち溢れて、きゃははははははははと頭がイっちゃってる。
最後に残ったワインをくいっと飲み干してメリーに目配せすると、先程の甘美に耽っていた艶やかな表情とはうって変わっていつもの清楚な笑みで返してくれた。
その笑顔は作り笑いとまではいかなくても、何処か自分の感情を必死に抑えているような気がして、わたしがメリーを支配しているんだって感覚が快楽中枢を犯す。
「そろそろ、行こっか」
「うん、そうね。とても美味しかったわ。また蓮子に連れてきて貰いたいな」
こくりと頷いて笑って見せると、メリーも嬉しそうに笑ってくれる。
些細な仕草や何気ない言葉から伝う小さな幸せが、今は本当に素敵なものに感じられてたまらなく愛しい。
素敵な時間をありがとう。なんてソファーに飾られた人形に心の中で呟きながら、さっと後片付けをして身支度を済ませた。
そっとふたりゆっくりと席を立って、素敵な雰囲気を演出してくれたクラシカルな部屋を後にすると、ひどい剥離感が頭の中に流れ込んで来る。
とんとんと急傾斜の階段を踏んでいくに従って階下の賑やかな歓談や調理場の忙しない喧騒が耳元に届いて、此処は夢ではなく現実であることを改めて思い知らされた。
だけどわたしは、まだ夢を見ている。いつも寝る前に「明日目が覚めませんように」っておまじないが叶うといいなと願いながら、ひたすら余地夢を手繰り続けた末に見つけた答えが『此処』だから。
ゆらり、ゆらり、花の匂い弾けた夢現。此処が泡沫の夢と残酷な世界が作り出す現実の境目だとしても、わたしとメリーが想い描いた夢はまだ覚めない。
――透明な貴女に憧れた。水晶のように純粋な貴女に憧れた。
だからこの手で汚してやるんだ。わたしが、この汚いわたしの手で、麗しき貴女の純潔を穢す。
それはわたしとメリーの心がばらばらに壊れるほどの狂おしいエクスタシーを与えてくれるはずだから――
小さな洋食屋さんなのでバイトも一切雇っていないこのお店は、今日の賑わいを見ると何時に増して忙しそう。
メリーとあれこれ話しながら会計のところで待っていると、マスターの息子さんが出てきて「会計はいいですよ」と声を掛けてくれた。
それでもまさかあれだけの振る舞いをして頂いて、お金を払わないなんてとんでもないとかああだこうだと駄々を捏ねていると、マスターが奥からやって来て「今忙しいから後で教えてくれよ」とか言いながらにやにやしている。
何もありませんよ健全ですから、なんて言うとメリーの顔がぽっと赤くなるから可愛い。お代のことは結局わたしが折れて後払いにして貰ったので、そのまま何度もお礼をしてお店を後にした。
この世界と空の境界を隔離するように立てられた雑居ビルの群れの隙間からそっと夜空を見上げると、煌くアンタレスは21時31分と赤い血を零す。
傍らにいるメリーのてのひらから伝う想いは、いつもモノクロに見えている景色に鮮やかな彩りを添えてくれた。高層建築物から溢れ出すネオンのヒカリは、死に場所を探しながら彷徨う蛍みたい。
メリーの手を取って走り出したらスライドする世界はどんどん加速して、私達人間が認識及び感じ取り得る最大限の『世界』が続く夜空の遥か遥か遥か彼方――世界の限界まで透き通って行ける気がする。
愛されることに飢えてぬくもりに飢えて神様に飢えて幸せが見つからないからジサツします。それが世界に絶望するわたしが見出した唯一の幸せだから実行します、いやそんな行為は認められない悪だ最低だロマンチズムの成れの果てだなんて誰が言えるのかな?
だけど、もう……貴女のおかげで、そんな灯りのない世界を無我夢中で駆け回った日々はお終い。未来なんて要らない。わたしには今しかないんだ。今しかない。今が、今が幸せで快楽に満ち溢れてて気持ち良ければ、明日死んだってどうでもいい。
◆ ◆ ◆
――新宿は豪雨。突然襲い掛かってきた雨粒は、この世界の嘆きの声を代弁するようにざあざあと音を立てて頬に打ちつける。
泣きたい気持ちは連なって雨を降らすと言うけれど、答えはジサツ以外ないと喚いていたわたしを責めるどしゃ降りの雫が心を冷やしていく。
お店を出た直後に降り始めたさんざめく雨の中、ふと逃げ込んだ場所は風俗テナントばかり入った高層ビルの軒先。
いやらしい悩殺ポーズを取ってるAV女優のポスターが壁一面に貼り付けれたポルノ映画館の看板の下で、私達は急な雨宿りを強いられる羽目になった。
急場を凌ぐためにくすんだ空を見上げてる普通の人もいれば、薄暗い奥の入り口へ向かっていく人や胸元が肌蹴た衣服を着込む呼び込みのキャバ嬢に、援助交際の相手を待っている女子高生等々。
売春を生業とする人が闊歩していく、新宿と言う街のふざけた日常は反吐が出る。だけどそれは今日までのわたしも同じだった。そう、少なくともメリーに出会うまでは、この街でわたしは死んだまま生きていた。
あの制服姿の女の子みたいに、薄汚れた刹那の快楽とありもしない救いと悟ったフリした諦観とジサツ願望を抱える日々の意味を考えることさえ忘れて。でも、願えば、叶うよ。夢こそが最後のメシアだと信じて止まない誇大妄想狂宇佐見蓮子宜しく、願えば、叶うよ――
「あは、メリー、気になるの?」
しれっと下からショーツを覗き込むように雨露に濡れた表情を見上げると、心底恥ずかしそうにううん違うのなんて首を振る仕草は明らかに動揺してるっぽかった。
残念ですがお見通しです。悩ましい刺激的な写真の数々に目を奪われていたメリーはきっと、それをわたしと自分に置き換えてたんだよね。いやらしい想像に耽るメリーも色っぽくて大好きだよ。
「べ、別に、そんなこと、ないけど……」
「此処、新宿だと待ち合わせの定番なの。そっち関係のね」
「そっち関係って……その、援助交際とか、出会い系とか、その類かしら?」
「ご名答。愛なんてお金で買えると当たり前のように考えている人は、メリーが思ってる以上に沢山いるんだよ」
そんな講釈を垂れるわたしもそう考えている人間だけど、そう言いかけてつい口をつぐむ。
愛とか快楽とか、定義するとややこしくて哲学なんてこれっぽっちも役に立たないと思うものの、エピクロス的主義に則った安っぽい愛情やひとときの快楽なら幾らでも買えるのは本当の話だから。
童貞や非モテが恋愛に飢えているのであれば、出会い系にアクセスするなり此処でフリーにしてる子に話しかけたら相手なんてすぐに見つかってしまう。はした金で買えるんだから安いよ、わたしなんて三万円でやりたい放題だよ?
快楽が欲しくなったら、このビルのテナントに入ってる風俗店に入れば選り取り見取り。好みだと感じた女の子を指名してお金さえ払えば幾らでもxxxできるし、単純に気持ちよくなりたかったら非合法のクスリだってすぐネットで買える。
需要と供給が噛み合った商売としても『それ以外』の目的としても此処にはれっきとしたコミュニティが存在している。たかが援助交際、頭の悪い女子高生のお遊びと鼻で笑われるかもしれない。でも、その『それ以外』にすがってる人間が、この街に沢山集まって来る。
その行為に走る意味は人それぞれで、どうせ人に話したって分かって貰えるはずもないし、分かって貰おうとも思わない。マジで救いを求めてる子だっているけど、きっとわたしみたいにすぐ悟っちゃうんだよね。
どうせ何もかも刹那でしかない。上っ面だけで「好き」なんて言い合って恋人みたいにいちゃついてたら幸せになれるのかと言えば、それは違うなんてことは頭が悪くても気付いてしまう。それでも僅かな希望すら見出せない、絶望を抱えた女の子が此処には溢れてる。
少なくともわたしにとっては『宇佐見蓮子』を認めて貰える時間が援助交際で、見ず知らずの男に必要とされる――愛もないデートで心をヤスリで削りながら切り売りして、ぐちゃぐちゃに犯された挙句、最低の気分を抱くことが存在の証明だったってだけのお話だから。
所詮意味なんてリストカットと同じようなものだね。わたしは必要とされないから、誰でもいいから助けて欲しい。救って欲しい。求めて欲しい。必要として欲しい。そうして汚れていくうちに大人になって、この世界に未練がなくなってジサツできたらそれでいいの。
「でも、それはきっと多分、本当の恋じゃないわ?」
「そうだよ。そんなこと、みんな分かってる。ニセモノでも騙されてたら幸せで、刹那の快感でも気持ちいいことには変わりないから。たったそれだけだと思う」
「自分で幸せを掴むことを諦めてしまった人達なのかしら。こんなリアリティのない関係でニセモノの幸せを貪ったところで、心が満たされるわけないのに、どうして……」
「だけど人間って、その日その日でその場限りの理由を適当に作って、それを繋ぎ合わせて生きてるんだよね。此処には意味とか口実を見失って探しに来る子が少なからずいてさ、必要とされない自分が必要とされるなら理由なんて何だって構わないんだよ」
わたしの持論を語ってみたところできっと真意は伝わらないと思うし、それでも別に構わない。
メリーは一生懸命理解しようと努力してくれるはずで、その気持ちを受け取ったら満足しておかないといけないんだ。
だってわたしとメリーはあまりにも生きてきた世界が違いすぎるから。おかしな話だよね。みんな同じ世界で生きているはずなのに、見える景色は人の数だけ存在して、今わたしが持ち得る考えに至る病のわけは理解して貰えない。
そもそも物事に理由なんて必要ないんだよ。わたしがどうしてメリーを愛してしまったのか、何故ジサツすることを望み、リストカットやオーバードーズをやめないのか、其処に必ずしも理由が存在する必要はあるのかな。
メリーに隠し事をするつもりは毛頭ないけれど、何故どうしてわたしがこうしなければならなかったのか、それはわたしの心の中にそっと閉まっておけばいい。この世界には知らない方が幸せなことが腐るほどあるんだから。
救いなんて夢物語とふざけた希望を花束にして抱えた女子高生が、どう考えても容姿的に不釣合いなピザ男と落ち合って、相合傘をしながら雨の新宿に消えていく。
あの子はどんな目的で出会い系に登録して、あの男に何を求めるのかな。わたしと同じように、それは救いとか、希望とか、快楽とか、もしかしたら運命の出会いとか、その類……。
わたしが偶然見つけてしまった夢は何億分の一の確率で巡り合えた本物の愛。彼女が見ず知らずの男に掴まされたのは安っぽい下衆な愛。彼女のことを想うと、ずきんと心が痛む。人はいつしか自分達を神様と思うようになって、その名前に値札を付けるようになった。
どうせあの男もわたしを犯した奴らと同じで、次の日にはもう新しいカタログを横目にベッドをごろごろとしているんだろうね。一夜限りで使い捨てのラヴドールのお値段なんて、彼らにとってはゴミ同然の価値しかない。
その点、今のわたしは幸せ。メリーは絶対にわたしを虫けらみたいに扱う真似はしないだろうし、ずっと死ぬまで永遠に可愛がってくれる。ああ、夢なんて偶像だと思ってたのに、真実になった夢を信じきってるわたしは背徳者?
――虫ケラデ、人知レズ――踏ミ潰サレテ、消エテモイイ。
メリーが知るわたし以外はどんな最低だって構わない。こんな汚れたわたしはもう原子レベルで分解されないと洗浄不可だから。
明日を苦しむために適当な理由を作って生きて、またどうしようもない今日を越えて大人になっていくなんて日々はうんざりなの。
そんな繰り返しはもうイヤ嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤなの飽き飽きしてるんだよ!
このテナントに入ってるICUのベッドの上でわたしはぐちゃぐちゃに犯された後、謎の死を遂げてメリーのラヴドールとして愛される。メリーの記憶の面影となったわたしは、永遠に咲き誇る咲き誇る――
「それは……蓮子、貴女自身が本気でそう思っているの?」
うん、そうだよ。ごめんね、メリー。
今のわたしは嘘つきの詩人宇佐見蓮子だから、半分は本当で半分は嘘。そう答えることしかできないんだ。
本当は全部真実だと思っているし今も正しいと考えているけど、それを否定してみせたのは貴女自身だよ?
心理療法全般、カウンセリング、援助交際、オーバードーズ、リストカット――結局救いなんて何処にもなかった。
全部本日今日たった今の『わたし』を繋ぎ止める一時凌ぎにしか過ぎなくて、この世界が抱える絶望を開放するための完璧な解決手段なんてジサツしかないから。
メリーと出会うまでのわたしは本気でそう思っていたし、その幸福論は揺らいでいても間違いなく真実だって確信は今もしっかりと持ってる。
誰でもいいから愛されたくて自分を売って、心にぽっかりと空いた白いキャンバスに色を塗りたくて身体を売り捌く。
ご主人様にお買い求め頂いたわたしはニセモノの愛で奉仕して、きゃはははははははって叫んでイっちゃったらそれでお終い。
後に残るのは無様な傷痕。それもリストカットと何ら変わらない惨めな傷細工、虫けら扱いなんてもう日常茶飯事みたいなものだから。
すがるものがなくて宙ぶらりんのわたしは、ジサツするための方法を探して今日まで何となく生きてきたけれど、其処には何の意味も価値もなかった。
この世界に意味なんて何もないんだよ。無意味になること、それ即ち死――無意識こそが幸せ足りえる唯一の希望。わたしはただ大人になって朽ち果てて、もう正気さえ保てない。淫らに笑うよ、メリーのためにね。
「あはっ、まさか。わたしにはメリーがいるのに、そんなことを考える必要なんて何処にもないよ」
「それならいいんだけど……ごめんなさい。私ね、今一瞬蓮子のこと疑ったのかもしれない。貴女の想いは確かだと信じていたのに、どうしてかな……」
そんな言葉をぽつり。メリーは心から申し訳なさそうに呟くと、自分の想いに嘘をついたことを悔いて小さく顔を背けてしまう。
真紅の瞳は雲に覆われた空を吸い込んで、その色はモノクロに染まっていた。この世界を鮮やかに彩る貴女には相応しくない物憂げな表情は、見つめているだけで心が痛くなるからやめて欲しいな。
とても初心なところは、はつ恋なんだなと思うしわたしだって同じ。恋ではないニセモノの恋路をシミュレーションして慣れてるように見えるだけで、本当は心踊ってときめいているしどきどきしてるんだよ。
ちゃんとした恋は、わたしだって初めてなんだから……不器用なところは許してね。ちゃんとわたしはメリーのことだけを想っているわ。だからそんな顔はしないで欲しいの。だって可愛いのは笑顔が一番でしょ?
それにメリーはわたしを疑ってなんていない。ただ事実を正そうとしただけなんだよね。
残念だけどわたしは嘘をつくのが得意だから、貴女の嘘なんて大体分かるわ。メリーの言葉ならどんな嘘だって信じてみせる。だってそれがわたしの全てだから。
わたしがしれっとメリーに隠し事をしてるのは、もう少しの間だけでいいから許して欲しい。いつか話せることも、必ず話さなければならない事実も沢山持ってる。
でも、今夜だけ、今夜だけは……このまま、美しい恋人同士でいさせて欲しいの。貴女から貰った想いを信じられなくなった時点でわたしにはもう、ジサツするって選択肢しか残されていない。
やっぱりわたしだけが知っていることが多すぎるなんて不公平だよね。だから、分かち合おうよ。切なさも、悦びも、悲しみも、快楽も、メリーとわたしが持っている想いの全てを共有できたら、必ず私達は幸せになれる。
メリーがいてくれたら、わたしはきっと大丈夫。メリーに愛されることが狂おしいほどに素敵なんだもの、メリーに求められたいよ。もっとメリーに必要とされたいよ。恋の奈落に堕ちたメリーに「わたしがいないと生きていけない」って泣き叫んで欲しいよ。
「ひょっとしてメリーはさ、わたしがメリーを心から愛してないとか、そういうこと、不安なの?」
今のわたしとメリーが抱く想いはきっと同じ形で、お互いのこと大好きで大好きで仕方ないからどきどきどきどきして、たまらなく幸せだから終わるのが嫌なんだよね。
この夜が終わらなければいいのにって思う気持ちはわたしだって一緒だよ。だからこそ貴女を連れ出した。星が瞬く刹那の一秒で、メリーとわたしの想いが永遠であることを証明してみせる。
ただ、わたしはこうやってただ寄り添って、メリーのことを好きでいたいだけ。もう小指に結った運命の紅い糸は絶対に解れたりなんかしないよ。
メリーが心配してしまう理由だって分かってる。まだ私達、出会ったばかりだもんね。うん、きっと戸惑いもあるだろうし、不安な気持ちを拭い去れないなんて当たり前だと思う。
でもね、そんな不安を解消することなんて簡単だよ。わたしの想いを証明できるのはメリーしかいないけど、今この胸に抱く想いを1mmのずれもなく伝えられる存在もわたしだけだから。
「ううん、違う。やっぱり、はじめて、だから、ね。色々どきどきして、落ち着かないの。今日蓮子と過ごした時間はずっと幸せだったから、夢から覚めるのかなって思うと嫌だなって……」
雨音が奏でる優しいハーモニーに乗せて、儚くも憂いを帯びたメリーの声がすうっと耳に入り込んで来た。
その泡沫の夢現な表情は艶やかさを増して、雨でしっとりと濡れた頬はいっそう叙情的な紅色に染まっている。
風に揺らいだ漆黒の薔薇は、わたしが思うより存外センチメンタルで――やっぱりあの神様とは別人としか思えなかった。
少なくともあのもうひとりの『メリー』は、妖艶な微笑みを湛えながらわたしのこと全て知っているような素振りで物事を話す。
でも今目の前にいるメリーはわたしが分からなくて、繋いだてのひらから伝う想いに不安を抱く恋に恋焦がれた普通の女の子でしかない。
それでも、わたしは嬉しかった。あの神様とは違って今目の前にいる『REM』と呼ばれたメリーは、自分の心が抱く感情をを包み隠さずに教えてくれたから。
そう、だから……わたしが証明してあげる。メリーの想いが正しいことを、わたしの想いに嘘偽りがないことを――私達が共有する想いだけが真実で、この夢こそが現実であることを心に刻み付けてあげる。
壊れてしまうくらいに激しく抱きしめて、狂おしく求めたくなるエクスタシーに塗れたキスを交わして、お互いの汚れた箇所を浄化するために身体を重ねあって、ケダモノみたいに快感を貪って、コ、コ、ロ、ヲ傷付ケ合オウヨ?
幻聴幻覚は聞こえない。素のわたしが笑ってる。この世界はクソだと汚れることを選び、ドブ水を浴び続けていた『自閉症的死にたがりで、刹那の快楽を求める欲望に塗れたかまってちゃんなわたし』がきゃはははははははと嘲笑っていた。
――この美しい夜は、わたしが終わらせない。
だって今しかないんだよ。今日と言う日はもう存在しないんだよ。わたしには今しかないんだよ。
毎日毎日絵空事の物語みたいな日常なんてあるはずもなくて、大切な思い出もいつか色褪せて消えてしまう。
だからメリーが今と言う夢を幻覚として見続けることができるように、わたしの心の排水溝から溢れ出す愛と泥水と快楽と淫らな妄想を口移しするの――
「そんなこと、メリーが考える必要はないよ。この夢には、終わりがないんだから」
走り出した想いは止められない、止まる必要もなくて――まっさらなシーツに全身を投げ出す勢いで、ぱっとメリーの胸の中に飛び込んだ。
黄金色の絨毯のような美しいロングヘアーがふわりなびいて、そっと受け止めてくれた身体から伝う肌と肌の感触と体温がわたしの心を昂らせる。
雨に濡れたうなじから漂う柑橘系のミドルノートは想像を超える幻想の香り。ゆらりゆらりとたゆたうぬくもりが、屈折した興奮を呼び起こして感情を恋色に塗り替えていく。
あの夢の中だって素敵だったけれど、こうして身体ごと触れ合っているとてのひらやくちびる以外からも想いがにじむ。ようやく『REM』であるメリーの深遠に近付けた気がして、自惚れの激しい頭がさらにおかしくなってくる。
あまりにも嬉しくてどうしようもなくて、感情は制御不能。後ろに手を回して強引にメリーの身体を引き寄せて抱きしめると、切ない喘ぎ声が鼻から抜けて肌の中に溶けて消えた。
雨粒と汗で湿った柔らかい肌の感触と、倒錯的な感情で高まったぬくもりが交わっていく感覚はたまらなく心地良い。黒の令嬢の甘美な吐息がわたしの首筋に吹きかかるたび、背筋からもぞくぞくと快感が迸る。
よくすいた羊毛のように心地良い柔らかな髪をかき上げてあげると、とても素敵なシャンプーのいい匂いが鼻孔をかすめて、向日葵の花畑を吹き抜ける微風が心の奥底に降り積もる淡い想いをふわり宙に浮かべた。
雨宿りする人達の目線が集中していることなんてお構いなしに、見目麗しき最愛の人とぎゅっと抱きしめ合う。
大勢の人がいる最中でハグなんて、普通は恥ずかしくて躊躇ってしまう。少なくとも昔のわたしだったら絶対に無理だった。
だけど、もう今日メリーと会った時から……ううん、元から狂ってたわたしに羞恥なんて今更って感じ。今はその周りの視線すら被虐と言う名の快楽に変わって、わたしの脳内に大量のエクスタシーを分泌し続ける。
人間は本能が壊れた生き物だから許してね、なんてくすくす笑いながらメリーの髪の毛をすいてあげると、淡い吐息がより深く艶やかな色に染まり始めた。
「ちょ、ちょっと、蓮子ったら……」
「いや、なの? イヤだったら、振り払えばいい。拒めばいいよ」
幻想的に舞い踊る黄金色の美しい髪をすいてあげながら、ほんのり紅が浮かぶ頬を素通りして真っ白な首筋に顔を近付ける。
雪原に映し出された月明かりのようなきらきらと輝く肌は、漆黒のドレスとも相成ってそのいつくしい白さを妖しく際立たせていた。
ただでさえどきどきしているメリーにいたずらしてやることが、ひどく一方的に彼女を犯してるみたいで下卑た笑いが止まらない。
身体のあちこちから感じられる快楽を増幅させる麝香を吸い込んで、そっとメリーのうなじにやさしく口付けを落とす。
「あ、はぁ、違う、違うの。突然だったし……わたし、私だってどきどきしてるんだからぁ」
「わたしだって同じだよ。メリーと同じように、感じてる。頭がおかしくなっちゃうくらい、こうして抱きしめてるだけで自分が壊れてしまいそう。だけど、もっと、もっと、メリーを、感じていたいの」
「蓮子の想い、ちゃんと届いているわ。とて、も、素敵。くちびるからも、その指先からも、触れ合った全てから、貴女の甘く切ない想い、私のことを心から愛してるって想い……」
ああ、貴女を狂おしいほどに、壊れそうなほどに抱きしめたら、わたしは天国へ突き落とされるのかもしれない。
こんなジサツの方法、貴女しか知らないわ。そして一緒に堕ちて行くことは何処か後ろめたくて、背徳感に近い倒錯的な感情すらも快楽に変わってしまう。
キスを落としたまま舌の先でメリーの肌を舐めると、甘美な吐息がより一層色っぽく吐き出されてわたしのうなじを撫でる。お互いに甘え媚びる鼻息を漏らすたび、悦楽を感じて段々と深く甘く息が弾む。
見目麗しき深遠の国のお姫様は宇佐見蓮子の虜。貴女の艶やかな声が紡ぐ言葉のひとつひとつが、わたしをおかしくするいけないクスリ。肌から直接伝う想いはたまらなく素敵で、私達は人目をはばかることなくハグに興じていた。
――もうひとりのメリーである『神様』が残した、儚くも美しく永遠に感じられる夢のような想い。
それは所詮妄想リアルに過ぎないと思っていた詩の世界のお話。幻聴幻覚その類と変わらない、昔の自称詩人だった頃の自分が夢想していた『幸せ』なんて叶うはずのない夢物語だった。
神様が見せてくれた夢の中で、わたしが知りたかったのは貴女の想い。隠さないで欲しかったのは、私達が愛し合っていると言う確かな絆。
その貴女が伝えてくれた全てが……どうか、どうか、現実でありますように。このまま、このまま、目が覚めませんように。ゆらゆら、ゆらゆら、意識が途切れてジサツできますように……。
ずっと、ずっと、わたしは心の底からそう願っていた。そしてわたしはいつも分かりきった風に言って諦めていた。どうせ現実なんてこんなもんだよね、何もかもどうでもいい、そんな諦観に慣れきっていたから。
こんな夢もきっと覚めてしまうのかなって思うと、冷めた視線で物事を悲観的観測で捉える自閉的な『わたし』が心の中で喚き叫ぶ。今しかないわたしは未来について思考不能、今しかないとか言って内心でほくそ笑みながら悦に入って物事をやり過ごすことにも慣れた。
大人にはなりたくない。だけど、大人にならないと、この世界と、現実と、社会と、迎合できずひとりぼっち。そんなわたしの幼心付いた頃からの祈りを無視し続けてきた神様は、何故か初めて願いを叶えてくれた。
妄想リアルに過ぎなかったはずの希望的観測に満ち溢れた『現在』は、過去、未来、幻覚、妄想、リアル、そのどれにも当てはまらない。此処は間違いなく現実で、あれほどわたしがさよならしたかった残酷な世界だ。
そんなセピアに染まる景色の中で、私達は寄り添って花になっているみたい。そう、ゴミ捨て場の隅で咲き誇る、凛とした美しい花になりたい――そんな叶うはずもないと思い込んでいた御伽噺を、今この手で抱きしめてるメリーが現実として変えて見せた。
あのビルから見上げた、わたしが『神様』だと感じていた存在ではない、もうひとりの『REM』であるメリー。あの白昼夢の中で名付けた『メリー』と言う美しい名前を持つ最愛の人が、いつか見た日のわたしが想い描いていた夢を叶えてくれた。
そして今、そんな最愛の人の想いに応えることができる唯に――わたしはメリーの恋人としても、それこそメリーの神様としても振舞うことができる。
自惚れているなんて言葉は、ナルシストで自分がとにかく可愛いわたしのために用意された能書き。最悪、クズ、ビッ血、他の虫けらの前だったら、わたしはどんな最低な人間でも構わない。
メリーに愛して貰えるんだったら、わたしはパパだって神様だって平然と殺す。メリーを奪われるくらいだったらそいつを殺して、メリーに嫌われたらわたしはジサツするしかない。それもわたしの願いが叶うことと同義だから、ひとつの形としてアリかもしれない。
生きるなんて、目的があれば存外楽なんだね。わたしは、メリーを愛してる。アイシテル。そう、愛してる。愛しているの。愛してる、愛してる、愛してるアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテル――
――あはっ。だからね、メリー。
xxxしたいの。しようよ。ね、早く、早くぅ、ヤらせて――?
――あはっ。だからね、メリー。
xxxしたいの。しようよ。ね、早く、早くぅ、ヤらせて――?
――あはっ。だからね、メリー。
xxxしたいの。しようよ。ね、早く、早くぅ、ヤらせて――?
――あはっ。だからね、メリー。
xxxしたいの。しようよ。ね、早く、早くぅ、ヤらせて――?
――あはっ。だからね、メリー。
xxxしたいの。しようよ。ね、早く、早くぅ、ヤらせて――?
艶やかな黄金色の髪の毛の中に顔を埋めている真っ最中で、メリーが今どんな表情をしているのか窺い知れない。
それでも抱きしめあった身体を伝って感じるぬくもりから、想いを察することくらいはできる。勿論、わたしと同じだよね。って言うか、最初からわたしはメリーを犯すつもり満々だったしね。
ごめんね、もう我慢できないや。せめて貴女の前では可愛い普通の女の子でいたかったけれど、それはやっぱり無理みたい。わたしはわたしでしかなくて、今しかないとか叫ぶわたしはメリーが欲しい。
たったそれだけの話なの。とっくにわたしは汚れているし、どうせメリーだってそんなわたしを見てきたわけだから……メリーを犯したいなんて浅ましい欲望を抱えて、その甘美な快楽に飢えているんだって当然分かってくれるよね?
雪色の眩い輝きを放つうなじに舌を走らせると、メリーの吐息がわたしが欲しいと哀願するように荒くなっていく。
さらさらのロングヘアーをかき分けて、口先をそっと耳元に近付ける。いたずらっぽく耳たぶを甘噛みすると、あられもない声で鳴いてくれるのがたまらなく愛しい。
わたしも、そしてメリーも、いやらしく昂ぶっていく様子があからさまに分かる。ふしだらな熱に侵食される脳内から、ひどく性感を刺激する快楽物質がべちゃべちゃっと汚い音を立てて溢れ出す。
押し付け合っている乳房から感じるメリーの鼓動が、わたしの愛の言の葉を、わたしの心の底で渦巻くひどく変質した愛情を、わたしのありとあらゆる想いを今か今かと待ち焦がれている。
あげる、あげるよ。何もかも、わたしの全て。宇佐見蓮子はメリーだけを愛するラヴドール。だから全部見て、わたしの汚れた心の全てを言葉に変えるから、ちゃんと聞、イ、テ?
「……抱いて、欲しい」
いびつな背徳感がぞくぞくと身体中を駆け巡って快楽に変わる。
答えは、ない。ただ、わたしのうなじを撫でるメリーの吐息が倒錯的な色を醸し出す。
「……チなこと、しようよ」
貴女のたった一度だけの『はじめて』はわたしだけのもの。
今までの甘いひとときなんて所詮余興で、情事の前戯に過ぎない。
壊れた心から溢れ出す下衆な想いを旋律に乗せて、そっと囁いてあげるだけでメリーの鼓動がどんどん加速し始める。
「……わたしのこと、愛してくれるなら、抱いて、くれる、よね?」
ただ、ただ、神様にお願い事。必ず叶う、お願い事。ああ、今此処で、夢と現実は逆さまになってしまった。
わたし、汚れてるから、ずるいんだ。メリーはやさしいから、わたしの言うことは何でも聞いてくれるんだよね。あはっ、とっても嬉しいな。メリーは断らない、そして断れない。
わたしのこと、こんなにも、こんなにも、想ってくれるのは貴女だけだから……わたし、とても幸せ。だけどもっと愛して欲しいの。誰からも愛されなかったわたしを、もっともっと、愛、シ、テ?
耳を塞ぐこともできず、無理矢理鼓膜に響く旋律を感じ取っているメリーは熱が篭った呼吸を不規則に繰り返す。
此処から先に足を踏み入れたら、もう後戻りなんて許されない。きっと今日起こった出来事はメリーにとっても想像すらしていなくて、動揺や困惑その類の感情で思考が錯綜してることくらいは、滅茶苦茶空気の読めないわたしでもさすがに理解できた。
そんなメリーの凛とした矜持を突き崩す行為すら、背徳的な快楽に変わってしまう。わたしは下衆な欲望に塗れた虫けら以下だから、ただありのままの想いを口にしてるだけだよ。
そもそもメリーだって心は決まってて、ちょっと背中押して欲しいだけなんだよね。xxxしたいなんて言えないんだよね。きゃはっ、メリー。私達ハモウ共犯ナンダヨ。ダカラ綺麗デイルコトナンテ諦メテワタシト気持チヨクナロウヨ?
「……わたしはさぁ、もうメリーに身も心も全て捧げるって決めてるの。だから、抱いてよ。わたし、の、全て、貰って欲しいの。奪い取って、ぐちゃぐちゃにしてよ。ねえ、めりぃ、に、犯、シ、テ、ホ、シ、イ、ノ」
わたしの醜くて薄汚れた本性をさらけ出した言葉に、メリーの吐息が一段と艶やかな色彩を帯びる。
浅い呼吸。繋いだ手からにじむ汗。抱きしめた身体の内側から伝う想い、どきどきしたままの鼓動。
抗えないことなんて分かりきってるメリーに突き付ける宣告は、まるで自分がメリーの神様になったみたいできゃはははははって心が狂い叫ぶ。
零のナイフでメリーの心を突き刺しているようなたまらなくサディスティックな快感が、わたしの心を完全に侵食してどす黒く塗り替えていく。
心の奥底まで想いを伝えるために奏でたわたしのとち狂った旋律は、可憐で優雅な矜持とくだらない世間一般の常識なんて枷を外すための鍵となって、今メリーの心をぐらぐらと揺さぶっている。
そんな風に焦らされてふしだらな色香に犯されていく貴女は、あまりにも可憐で美しい。こんなにも、こんなにも愛おしい。わたしはメリーと一線を越えた関係になりたいと心から願っているし、その気持ちは同じだからこそ思い悩むメリーが尚更愛おしく感じられた。
もうわたしには隠すことなんて何もないし、貴女は最初からわたしのことなんて全てお見通し。神様を通じてわたしを見ていたのならば、わたしが望むことの意味だって当然理解できるよね。
ずっと、ずっと自分のことを愛してくれる相手をようやく見つけた。そんな最愛の人に心も身体も犯されたいと祈る、それはおかしいことなの? 愛する人に狂おしいエクスタシーを与えてあげたいと願う、それはいけないことなの?
私達人間は本能が壊れた生き物なんだよ。わたしとメリーも同類。だからその壊れたココロに従えばいい。快楽を求めて幸せを貪り尽くすケモノのような存在に成り果てても、貴女は美しいままだから大丈夫だよ。
――貴女を隷従させるための言葉がもっと必要なの?
もうわたしを止めることができる存在は貴女しかいないのに?
それならさらにエスカレートするしかないね。あはっ、公衆の面前で犯されるのがお望みなら、喜んでわたしも付き合ってあげるよ。
xxxって、あれは好きな人とヤるとたまらなく気持ちいい。
わたしが手取り足取り教えてあげる。犯して、犯されて、ふたりで汚れてぐちゃぐちゃになろうよ。
メリーはわたしの与える快楽の虜になるの。あのキスはそれを赦す誓い。何も怖がらなくていいんだよ、その想いをわたしに委ねてくれたら天国へ行ける――
「……答えてよ、メリー。わたし、貴女とxxxしたいの。プライドやくだらない常識なんて捨ててしまえばいい。わたしが全て忘れさせてあげる。あまり気は進まないけれど、無理矢理『うん』って言わせることだってできるんだよ、例えば、こうやって――」
くすくすと笑いながら、メリーの耳の奥まで舌をねじ込んでぺろりと舐めしゃぶると、抱きしめた身体がびくんと跳ね上がった。
この残酷な世界に綺麗事なんて存在しない。ただそっと寄り添っているだけでも、私達は想いを感じて、幸せに包まれて、いやらしい快楽を感じ取って、汚れていく。
こうして穢れることを知って、みんな大人になってしまう。わたしはそれがたまらなく嫌だったけど、それはジサツするために必要な理由としてはあまりにも十分過ぎた。
だってもう手遅れなんだよ。あの中学生の時に校舎から飛び降りた瞬間まで想っていたこと――大人になんてなりたくないと想った在りし日の願いはもう絶対に叶わないんだから。
そっとメリーを抱きしめている片方の手を開放して、ゆっくりと漆黒のスカートをめくってショーツの方に手を伸ばしていく。
雨露でしととに濡れた真っ白な太腿からゆらりゆらりぬくもりが伝う感触は何処までも心地よくて、いびつに歪んだ背徳感が加速してわたしの頭がますますおかしくなる。
ふるふると震える身体をぎゅっと拘束して耳の中で舌を這いずり回らせると、ようやくメリーがもう許してと言わんばかりの甘ったるい美しい音色で鳴いてみせた。
「あ、はぁ、んっ、や、だぁ…………」
「わたし、もう自分の気持ちに我慢できないの。全部、全部メリーのせいだよ。わたしが大好きな大好きなメリーのせい。ちゃんと答えてくれないと、もっといけないことしちゃうよ?」
「……は、ぁ、だ、って、門限、あるって、れんこがぁ、言ったんでしょう?」
あはっ、ようやく答えてくれたね。わたしはメリーをいじめたいわけじゃないし、ただあんまりにも可愛過ぎるから、こんな風にいたずらしてあげたくなっちゃうの。
散々焦らされて、抗うこともできず、ただセクシャルな吐息を漏らすだけのメリーも、とても素敵。でもわたしはそんなにいじわるじゃないし、こんなところでおかしなことしちゃうほど悪趣味じゃない。
わたしとメリーはこの世界でふたりきりで、少なくとも貴女はわたしにとって特別な存在なんだよ。あんな虫ケラみたいな存在共に、わたしのメリーの美しい全てを見られてしまうなんて苛々するしそれこそ耐えられないんだから。
ゆっくりとメリーの耳元からくちびるを離してから、そのままより強く抱き寄せて、もう一度さらさらと流れる髪の毛の中に顔を埋めた。
すらりと伸びた太腿の上を滑らせていた指はぴたりとその場で止めて、そっと肌の感触を確かめるとしなやかな肢体は緩い快楽でかすかに震えていた。
そのくちびるの動きを、耳の中を弄ぶ舌遣いを、太腿を這いずり回る指の動きを、もっと続けて欲しい。そんな愛撫を、一番気持ちいい場所で、どうして続けてくれないの?
そんな無言の哀願をしてみせる貴女が狂おしいほどに愛おしい。ずっとお預けさせられて快楽を待ち焦がれているメリーの内股はじっとりと汗ばんで、雨で湿ったくちびるから漏れ出す吐息もより深く熱っぽい倒錯的で艶やかな彩を帯びていた。
「そんなことなんて、どうでもいい」
わたしの心臓が鼓動を止めるまで、この夜は絶対に終わらせない。この夢も絶対に終わらせない。
どうせ最初から形はどうあれ迫るつもりだったし、メリーがわたしを拒絶できないことは明白だった。
あのデイケアでキスを交わした瞬間から、もう私達は天国へ続く奈落から一歩踏み出してしまったんだよ。
鼓膜を通して直で吹き込まれる恋の旋律に耐えかねたのか、ぷいっとメリーは顔をずらしてしまう。
つつっと白い肌を滑ったわたしのくちびるは、ほんのりと紅潮したほっぺたに口付けを落とす。そっと覗き込んだ美しい真紅の瞳は、心なしか潤んでいるように見えた。
それは勿論、悲しみからにじんだものではなくて、わたしのいじわるが生み出した澄んだ雫。瞬きをするときらきら輝いて落ちる涙が、未来を想って此処に光る。
「……でも、帰らないと、家族の人、心配するでしょう?」
今更。今更。今更だよね。今更過ぎる言葉だった。
わたしは帰るつもりなんて最初からこれっぽっちもない。
ショートケーキを食べる時に残しておく苺みたいに取っておいたけれど、もうメリーが好きすぎて我慢できなくなった。
一番美味しいものは最後のお楽しみ。それが貴女のせいで我慢できなくなって発情真っ盛り、たったそれだけの話なんだよ。
そもそもわたしを心配してくれる人なんて、この世界の何処にもいない。
今も新宿で働いてると称して女遊びに耽ってるクソな父親は、どうせ気まぐれで仕事休んで家でごろごろしてる可能性が十分ありえる。
それこそ女の子でも連れ込んで遊んでるのかもしれないし。わたしを気晴らしに使おうかと苛々してるくらいしか想像できない辺り、本当ゴミクズ以下の最低な人間だと思う。
あーあ、つまんない男。あんなパパの娘だって考えるだけで虫唾が走る。パパとママが刹那の快楽のために性行為をして、わたしを産まなかったらこんなに苦しまなくても済んだ。
さっさと死んでくれないかな。わたしを産み落とした罪はジサツなんかで償えるものではないけれど、この世界からパパが消えてくれたらちょっとだけすっきりするかもしれない。
「あのね、メリー。わたしには帰る場所なんてないんだよ。自宅も、学校も、デイケアも、わたしを受け入れてくれる場所なんて何処にもない。そうだよ、この世界にはわたしの居場所なんて何処にもなかったんだよ。こうして貴女が、作ってくれるまでは……」
わたしの居場所なんて、心穏やかに過ごせる場所なんて今まで一度もなかった。
小さな幸せを精一杯謳歌している人と、どうしようもない絶望を噛みしめる人が溢れ返ったこの社会でわたしは何故か置き去りにされて、この心に鬱積した想いのはけ口を知る術もなく、ただ無情を感じながら日々を過ごす。
パパ専用のメス豚扱いされるだけの自宅なんて、ただ「お前を育ててやったことに感謝しろ」なんて罵られながら抵抗することもなく虐待されて、部屋に引き篭もっても無理矢理引きずり出されて散々な目にあうだけの場所だった。
ただ普通にしてるだけなのに、頑張って普通であろうとしたのに何故かいじめの対象に仕立て上げられて、大切な詩を捨てられてアイデンティティを失うだけの生活を強制される学校は、きっとわたしのリスカや援助交際の話題を笑いのタネにしてるんだろう。
こんなに文明が発達しても人間の心を作り出す脳の仕組みなんてさっぱり分かってないのに、ボダとか自己愛性とか適当な病名を付けられて無意味な治療を受けさせられるだけで、何の救いも幸せも与えてくれない病院は一体何のために存在しているのかな。
そうやって考えてみると、わたしの居場所なんてラブホと精神科のデイケア、それか棺おけとか火葬場くらいしかないんだよ。
本当にどうでもいい好きでもない日替わりご主人様と、その日暮らしをするためにご奉仕を続けるラヴドールとして過ごすピンクのお部屋がわたしの住処です。
それとも人間として扱われない『人間をやめさせられた』人が収容されるアウシュビッツみたいな施設がお似合いなのかしら。それか、天国や地獄。まあ存在すればの話だけど。
そんなありもしないようなことは考えるだけ無駄で、ただ残された事実として――この世界にわたしの居場所はない。そう、ずっと、ずっと、なかったんだよ、少なくともメリーと出会うまではね。
ようやく手に入れた居場所、勿論手放したくないしずっと自分だけのものにしていたい。
そう願うのは、いけないことなのかな。ずっとメリーの隣にいたいと思うことは、メリーに迷惑を掛けてしまうのかな。
使い捨てのラヴドールでもいい。飽きたらボロ雑巾のように扱ってくれてもいい。存分に快楽を貪り尽くしたら、捨ててくれても構わない。
どうせわたしには帰る場所なんてない。メリーの隣にいる権利がなくなってしまったら、それこそジサツしたくなる。何の未練もなくジサツできると思う。
だけど、どうか、どうか……今だけは、この夜だけは、貴女の傍に置いて欲しいの。わたしの『生』はきっとこの一瞬のために存在していたと言っても過言ではないのだから。
「……ごめんね、ごめんなさい」
「ううん、メリーが謝ることじゃないの。だって、こうして貴女の隣にわたしの居場所ができたんだよ」
「私の、となり?」
「そうだよ、わたしが安心できる場所。幸せな気持ちで満たされる場所。わたしがわたしでいてもいい場所。それがメリーの隣だよ。今こうして抱き合っている、此処だよ?」
くすくすっと笑って、くるんと愛くるしい大きな瞳から涙を拭き取ってぺろりと舐めてみせる。
すうっと口の中に広がる想いはやっぱり何処までもやさしかったけれど、わたしの最愛の人に涙は似合わない。
ほっぺたに押し付けたままのくちびるをちゅっと音を立てて離すと、完全に身体を預けた体勢でメリーがふんわりと微笑んでくれる。そして優美な仕草でわたしの瞳を覆い隠す髪の毛を払ってくれた。
指先から伝う愛しさ、繋いだてのひらから伝う毅然とした覚悟、真紅と黒を混ぜ合わせた美しい虹彩から放たれる視線の煌き――全てが、メリーの全てが、わたしを愛してくれる、わたしだけを愛してくれる。
「そう言って貰えると、私も嬉しいわ。だって、蓮子にこんなに愛して貰えるんだもの。私だって蓮子と同じように、今とても幸せに想ってるわ」
「きっと私達さ、同じ気持ちをちゃんと共有できてるんだね。メリーの隣を独占できるなんて嬉しすぎるよ。しかも此処はわたしだけの特等席なんだから、こうして抱きしめ合っているだけでも幸せ。だけど、もっと、もっと、メリーが、欲しい」
メリーの紡ぐ言葉のひとつひとつが淡い恋色の素敵な音を奏でて、わたしのばらばらになった心を繋ぐ蝶番を外していく。
お互いを愛し合いたいと想う気持ちは一緒。きっとメリーだってずっと我慢してたんだろうけど、その枷から解き放たれた今……抱き寄せた肢体から感じる全てが艶やかな色香を醸し出す。
溢れ出す想いがふんわりと心を包み込んで――わたしを可愛がってくれる。わたしを欲してくれる。わたしを愛してくれる。わたしを必要としてくれる。わたしといやらしいことがしたいって心を身体を求めてくれる。
ああ、メリーの傍にいればいるほど、尚更メリーがたまらなく愛しくなってしまう。
帰る場所なんてない。わたしはずっとひとりぼっちだった。そして今わたしが何を想い貴女を求めているのか。
以心伝心なんて言葉がぴったり。テレパシーで通じ合ってるみたい。ちょっとだけしか話してないのに、メリーは何もかも全部分かってくれた。
すぐ抱いて欲しいなんて想いをメリーが拒否しないと分かってはいても、こんなどうしようもないわたしのことを此処まで理解してくれて本当に嬉しい。
「うん。私も、蓮子に……もっと抱いて、欲しい」
それ以上メリーは何も言わず、完全に身体を委ねてわたしの肌が触れる感触を愉しんでいるようだった。
もういいの、好きにして。そんな無言の意思表示は最後の恥じらいなのかな、なんて考えるとそれもメリーらしい気がして可愛い。
わたしの髪の毛をすいてくれるたびに、ふわんと手首に絡めた色香がはしたない想いを募らせる。ただ一言告げたら、メリーはわたしと寝てくれるんだ。
ほっぺたにくっつけたくちびるから伝う熱も上がってきた。いけないことに人を誘うような妖しいフェロモンが脳内を犯して、しきりにサイケデリックなわたしが催促する。
早く、はやく、欲しいの。メリーが、ほしい。キス、ハグ、愛撫、きもちいいこと、快楽、まだぁ……こんなやさしくされてもいやらしくないよぉ。ほら、ラブホ入って、ベッドの上で、シ、ヨ、ウ、ヨ?
――あはっ、そうだよね。帰る場所のないわたしを、メリーが放っておくはずがないもんね。
抱いて。抱いてよ。そう、抱いてくれるんだよね。ぐちゃぐちゃに犯してくれるんだよね。その美しい肢体をわたしがぐちゃぐちゃにしてもいいんだよね?
もうわたし、我慢できない。そんな風に愛してくれるのは嬉しいけれど、もう焦れったくてたまらない。布越しに伝う貴女の肌触りを感じているだけで、頭がとろけてどうにかなってしまいそう。
お遊びはお終いだよ。最後の甘酸っぱくて、それでいていやらしいエクスタシーをもらたしてくれる苺をふたりであーんするの。口の中に広がる甘酸っぱい味は私達をおかしくする素敵なクスリになって、キスなんかより何倍も気持ちよくなれるよ。
それでお互いの心を貪り合って、もう引き返せないように心を追い詰めてしまえば……どんなことだって素敵な快楽に変わる。このわたしの世界はメリーさえいれば、色褪せることなく永遠に続いていくんだから。
永遠の一秒に流れる想い――見えないものばかりのこの世界で空を見上げている赤い瞳には、一体どんな景色が映っているのかな。
わたしの瞳はもうメリーしか見ていない。ああ、帰る必要もなくなったなら、もう手っ取り早いわ。そっとメリーを抱きしめていた腕を離して、そのまま小さなてのひらを結んで繋ぎ止める。
濁った空気と真っ暗な空、きらきらと輝くポルノ映画館のネオンの下で微笑む彼女は穢れのないイノセンス。いやらしい想像に耽りながら、わたしだけの色に染まるイノセンスイノセンス――
「それではご案内しますわ。私の親愛なるお姫様」
自分に酔っちゃってる気持ち悪い台詞を吐きながら、そっと雑居ビルの奥に踵を返す。
このビルは風俗テナントばかりごちゃごちゃ入っているので、勿論ラブホもあるし何回か利用したこともある。
やさしく手を引いて颯爽と歩き出そうとしたら、何故かメリーが動かなかった。まだ何処か怖いのかな、ふとあれこれ考えたりしてみてもよく分からない。
お姫様はラブホテルなんて汚らわしい場所はお気に召さないのかしら。
学生だからお金がないとか考えられないわけじゃないけど、こんな素敵なドレスを着てくるんだからその線も薄い。
後悔なんて絶対にしない、その想いだけは確か。それでもメリーの心情から察するに、虫けらと同属になることに嫌悪感のような感情を抱いているのかな。
「……此処に、入るの?」
「そう。このビルはお客さん用にラブホがあるんだよ。素敵なスウィートルームもある。汚くないから、大丈夫。何か心配なこと、あるの?」
「ううん、ないわ。でも、そうじゃなくて、その……」
ビルの狭間から吹き荒ぶ腐臭の漂う風が、ふわりとメリーの髪を舞い上げて美しい金色のカペラを作り出す。
その表情には迷いと言うよりは、戸惑いや恥辱の類の色が見え隠れしていた。要するに恥ずかしいだけなんだって思うと、やっぱり可愛くてどうしようもない。
くるんとカールしたまつ毛の下に隠れた瞳は何処か儚くて、雪のような頬には薄く紅が差している。どきどきしてるのは、わたしだって一緒だよ。さっき抱き合ってた時に伝わらなかったのかしら。
此処まで来て、今更何を言いよどんだりするのか――揺れ動く恋心は繊細かつ謎だらけで難しいね。
まだちょっとだけ良心の呵責に苛まれているとか『はじめて』だから怖いとか、そんな素振りはあまり感じられない。
ああ、もしかしてわたしが処女じゃないからイヤだとか、やっぱり女の子同士でxxxはまずいよねとか、その手の類なのかな。
同性愛に関してわたしは全く抵抗がない、と言うより汚らわしい男に犯されること自体が目的で、恋愛の対象として相手の性別がどうであるかなんて考えまで及ばなかった。
でもメリーはちゃんとキスを受け止めてくれたし、手も繋いでくれたし……女の子同士の戯れに何か引け目があるようにも見えないし、それ以前に私達の交わしたキスから伝う想いの全ては恋愛感情以外の何物でもない。
その証明は確かに今私達の心にしかと刻まれている。きっと多分メリーは我侭が言いたくても言えないタイプで、結構相手に流されて合わせてしまう方とか。いきなりキスしたり強引なところもあるのに、ちょっとおかしいけどそれも可愛いから許せちゃう。
「隠し事なんて、お互いなしにしようよ。これでも、わたし……あんなこと言っておいて何だけど、なるべくならメリーが望むようにしてあげたいと思ってるから、大丈夫だよ。遠慮なく言ってよ」
「ありがとう。蓮子はやさしいのね。ええと、その、もう私だって蓮子のことで頭一杯だし、抱いて貰いたいと思ってる。ただ、その、やっぱりちょっと此処に入るのは抵抗あるし、何か落ち着かないから……私の今暮らしてるホテルでどうかなと思っただけなの」
ぽっと顔を火照らせて目を背けながらしれっと提案するメリーも愛らしくてとても素敵だった。
そうだよね。わたしはともかく、メリーは『はじめて』だもんね。いきなり女の子ふたりで此処に入るのは、結構勇気必要かもしれない。
そのくらいの妥協なら幾らでもするし、むしろメリーが主導権を握ってくれたって全然構わないのに。何か私達ったらおかしいよね、いきなり大胆になったり恥ずかしがったり、その波が不思議と激しいみたい。
ただ、この雨の調子だと止む気配もないし、此処から駅まで急いで走ってもずぶ濡れになってしまう。
わたしはいつものようにどうでもいい服装をしてるからいいけど、本当にお姫様みたいなメリーのゴシックドレスを汚すわけにはいかない。
この場所はあまり人気もない路地だから車も全然通らないし……でもちょっと一本大通りに出たらタクシーも拾えるだろうし、わたしがひとっ走りしてくればいいかな。
うん。と勝手にそういうことにして、メリーのてのひらを離す。ほんの数秒しか経っていないのに、ゆらゆらとたゆたう甘く切ない想いがすぐに恋しくなった。
「わたしは構わないけれど、それでメリーに迷惑掛からないのかな?」
「ええ、それは全然心配しなくても大丈夫よ。もう知られても心配ないことだし、私も蓮子に隠し事なんてしたくないわ」
「あはっ、それは嬉しいな。じゃあわたし、ちょっとタクシー拾ってくるから此処で待ってて。そんな素敵なドレス濡らしてしまうなんて勿体ないから、絶対動いちゃ駄目だからね!」
そうわたしは笑って言い放って、たたっと降りしきる雨の中に飛び込んで水溜りを蹴散らしながら走り出す。
後ろの方からメリーの引き止める声が聞こえたけれど、それ以外は雨音しか鼓膜に響かない。あれだけうざったいほどにわたしの頭の中にこだましてるはずの「蓮子死ね」なんて幻聴はもう完全に消えていた。
慢性貧血気味のせいでだるくてしゃきっと動くことすら間々ならなかった身体は軽快なステップを踏んで、しんと静まり返ったわたしとメリーだけの世界を颯爽を駆け巡る。
通り雨は止む気配もなく、ただざんざんと振り続けて――わたしの汚い心や魂を洗い流していく。
この世界に抗うこともできず打ちのめされて、きらきらと光る細やかな雨粒は瞳から零れ落ちる涙みたい。わたしは、ずっと、ずっと、こんな世の中に合わせられなかった。
みんなが口にする『普通』って言うのが分からないし、それができないんだと悟ったところでどうしようもなく、それでも何故か生きることを『命』じられて、それがたまらなくイヤだった。
今メリーといる瞬間だって、明日になれば夢となって消えるのかもしれない。そんな恐怖に心の奥底で震えながら、わたしは今を生きる。今しかない。今しかないんだ。今日世界が終わったとしても、わたしは神様を恨まない。
どうせわたしの歩んできた道は過ちだらけだった。このまま何も残らなくたって後悔なんてない。メリーが覚えててくれなくても構わない。結局これが夢現のどちらかだとしても、其処にメリーがいないのならば……それはジサツするための十分過ぎる理由になるから。
わたし以外の誰かに、わたしのことを愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して貰いたい。そんなわたしの願いはもう叶ったんだ。意味を失ったら此処に残る理由なんて何もない。
『愛して』なんて言葉の中身を満たしたくて、わたしの人生はこんなだったんだって意味を探してて、嘘ばっかり、嘘ばっかり、詩に書いて、偽って、偽って、偽って、偽って、笑った。
――虚脱と失望と残酷な仕打ちが入り混じった日々。
壊れた日々のループ。答えのない日々のループ。みんなみんなもうお終い。
わたしはメリーと言う名のクスリを、メリーと言う名の居場所を手に入れて、これから一体どうなってしまうのかな?
明日、目が覚めてメリーがいなくなったわたしはパニックを起こして狂い叫んで、虫歯だらけの心は崩れ落ちてばらばらになって壊れてしまう。
そうやっておかしな考えに取り憑かれているの。みんなはわたしの考え方をポエムだとか幻想幻聴妄想、病気だとか言うけれど、それは違うよ。嘘つきの詩人宇佐見蓮子としてのれっきとした信念だよ。
この現実は覚めない夢だと思うことをやめたら楽になれたんだね。ずっと残酷でどうしようもない世界だと思ってたわたしの考え方を、メリーと名付けられた女の子は見事に反証してみせた。わたし宇佐見蓮子は生きているんだと証明してみせた。
そして、貴女が見せてくれた夢も、いずれ覚める。覚めない夢なんて現実、所詮心臓が鼓動を続けている限りは全てが現実。夢中だったことも、ずっと欲しかったものも、あんなに好きだった人も、全て忘れてしまって、意味を失ったら、どうせ死ぬしかないんだよ――
――永遠は、あるよ。
あの空の彼方。死と言う希望の先にね――
◆ ◆ ◆
ざんざんと降りしきる雨の中、タクシーで移動すること30分と僅か。
メリーが研修で寝泊りしてる落ち着き先は、池袋駅直結のわたしが通っている岡崎メンタルクリニックのすぐ傍にあった。
どう考えてもお金持ちの観光客や芸能人政治家御用達と言った感じの超高級ホテルで、到着と同時に清楚なドアガールが案内してくれたりと全く縁のないわたしは何かと落ち着かない。
ゴシックドレス姿のメリーはそれこそ似合っているけれど、わたしはどう考えてもこの場に相応しくない感じで正直滅茶苦茶恥ずかしい。
吹き抜けになっている荘厳な庭園状のエントランスを通って、落ち着いた装飾で綺麗に統一されたフロントへ。そのまま受付でメリーがわたしの宿泊費を出そうとしたので、無理矢理制止して自分のお財布からお金を出す。
案の定結構なお値段だったのに麗しき姫君は「此処に泊まってるのは大学からのお達しで、勿論お金は研修費として出てるわ」なんてけろっと笑って見せた。そのまま部屋の鍵を受け取ると、気品溢れる佇まいでわたしをエスコートしてエレベーターの方に歩き始める。
東京の夜景が一望できる小さな箱がゆったりと上昇していく中で、ふたりっきりなのを良いことにキスを交わす。
我を忘れてくちびるを貪るディープキスの感覚は、浮遊する空間のそれとは逆の恋の奈落。吐息も絶え絶えになるくらい無我夢中で舌を絡ませながら、透き通った心の深遠へ堕ちていく。
口惜しいまま40階で降りて、一番奥にある部屋に向かう。さあ入って、ちょっと散らかっているけど――なんて可憐に微笑むメリーの後ろから恐る恐るお邪魔すると、上品なアロマの香りが漂ってきた。
ゆったりとした間取りの部屋はひとりで生活する分には十分過ぎるほどの広さで、やわらかい色使いを基調としたアンティークな家具や洋風の装飾品がエレガントな感じの優美な空間を演出している。
もう明日引き払うと言うことですっかり片付けられた室内はさっぱりとしてて、ドレッサーの上に化粧品がずらりと並んでいる他は最低限の荷物を持ち運ぶためのトランクがひとつ置いてあるだけだった。
ラブホとして見るなら信じられないほど豪華だと思うけど、わたしが覗いてみたいのは本当のメリーの自室。此処は所詮借り物の部屋だから、なんて考えるとやっぱりほんの少しだけがっかりしてしまう。
――やっと、ふたり、きり、だね。抱い、て、よ。早く、ね。ワ、タ、シ、ヲ、抱、イ、テ?
完全にネジが外れた思考回路の中でぐるぐるぐるぐる回る感情を他所に、ぽんとバッグを放り投げてメリーは綺麗にベッドメイキングされたシーツの上にちょこんと座り込んだ。
それに習って隣に腰を下ろすと、しなやかな肢体がわたしの方にゆっくりと傾いて全体重をお互いに支え合う形になる。こうしてふたりそっと寄り添っているだけでも、ふわり幸せが空に浮かぶ。
小さく首をかしげて肩に乗せられたメリーのほっぺたから伝うぬくもりはとてもやさしくて、自分の体温と交じり合う感触がたまらなく心地良い。そして艶やかなくちびるから伝う規則的な呼吸が、不思議な熱を帯びてわたしの心を昂ぶらせる。
ずっと、ずっと、このまま……時が止まってしまえばいい。メリーと一緒にいると、どうしていつもそんな風に考えてしまうのかな。思い出は、残しておけないから? 狂おしいほどに貴女が愛しすぎて、この夜が終わったらわたしは生きていけないから?
朝を迎えることが怖いのならば、ずっと夜が続けばいい。
誰か愛して傷付くことが怖いのならば、ずっと夜が続けばいい。
なんて言えば、貴女の夢の中に留まり続けることができるのかな?
なんて言えば、貴女の夢の中にいる『貴女』にこの想いを届けることができるのかな?
あのビルから飛び降りた瞬間――崩れ落ちた足下、空になった身体、浮かぶ感覚UFO的帽子、そして星を眺める視線を釘付けにしたもうひとつのアンタレス――貴女の百合を射った緋色の瞳が、とても美しいことにわたしは気付いた。
あれは終わりの始まりに過ぎなかったんだね。わたしの抱く感情が恋だと想うに至るまで随分と時間が掛かったけれど、今こうしてわたしとメリーは寄り添っている。仰々しく言えば、わたしの『シンセカイ』の幕開けに相応しい夜の始まり。
まだ私達は知らないことがあまりにも多すぎるけど、それでもいいの。貴女のぬくもりで、貴女のくちびるで、貴女の言葉で、貴女の全てを以って、少しずつでいいからわたしに教えてよ。メリーのことを、その胸に秘めた素敵な想いを、わたしの心に刻み付けて欲しい。
もしも今が終わってしまっても、明日目覚めた時に貴女が消えてしまっても大丈夫なように、この身体に痛いくらいに、狂おしいほどに焼き付けてよ。そしたらわたしは朝に怯えることをやめて、メリーの想いを抱いて幸せに高層ビルから飛び降りることができるから。
小さな部屋の片隅で、わたしとメリーの世界を染めるイノセンスがひび割れる音がした。
ふと片手でなぞった窓の余白は漆黒の闇で覆われていて、ガラスに触れると水滴がすうっと透けていく。
そっか、そういうこと。このわたしの想いも、雨の雫みたいに透過して消えてしまう。今しかないわたしには、明日なんて、未来なんてないんだったね。だから今、こうしてひびが入ってしまった。
未来なんか知らない方が良かったんだよ。だって、明日メリーはこの街からいなくなっちゃうんだ。それって要するにさ、やっぱりわたし、幸せを手に入れたのに、ジサツするしかないってことじゃないかな。
メリーがいなくなったわたしを待っているのは、いつものクスリや病院やいじめやパパから暴力とか援助交際を繰り返すだけのどうしようもない毎日。死んだ方がマシってくらいどうしようもない、覚めることのない夢の続きがまた始まってしまう。
ううん、考えすぎだよ。考えすぎだよ。メリーにちゃんと自分の想い、話せば……近くに置いてくれるかもしれない。だめ、ダメだよ、嫌われるの、怖いよ。ただでさえ可愛くないし、リスカするしクスリ飲んでるし、男に犯されて悦んでる虫けらだし。
そんなわたしのこと、普通メリーみたいな人が好きになってくれるはずがないんだよね。もしも叶うのならば此処に無理矢理監禁してやりたいけれど、それはわたしの幸せにしかならない。わたしとメリーがふたりで幸せだって思えないと何の意味もない。
明日が怖い。やっぱり、メリーがいてくれないと、明日が、未来が、怖くて、わたし、わたし……。未来は不安だらけで、希望と絶望は等価交換で差し引き零。ああ、もう、やだ、やっぱり、今は、明日のことを、未来のことを、考えたくない――
――ただ、ただ、一言も交わすこともなく、わたしとメリーは寄り添っていた。
窓越しの雲間から見える幾億の星々が、この世界の終わりのカウントダウンを始めている。この眼に嫌悪感を覚えたのは、これが初めて――
「……あの、さ。めり、ぃ?」
メリーは何も言わず、ただ顔を上げて軽く首をひねった。
うっとりとまどろむような視線でわたしを見つめる表情は夢見るお姫様。
さらさらと揺れる黄金色の髪の毛の間から、真紅の瞳が硝子の世界を映し出す。
ずっと、ずっと、わたしだってこうしていたいけれど、時間は有限で元に戻すことはできない。
時間が勿体ないとか、早く抱きたいとか、それ以前に……この沈黙にわたしは耐えられなかった。
「……ど、どうして、わたしの、こと、さ、好きに、なって、くれたの、かなって。ね、どうして、メリーは、そ、その、わたしのこと、愛してるって、言ってくれたのかなって、気に、なって」
ぎくしゃくな言葉。まとまらない思考。何を言いたいのかさっぱり自分でも把握してないのに、今の思考をそのまま吐き出してしまった。
どきどきは、してる。抱いて、欲しい、とは、思ってる。でも、どうしてメリーがわたしを好いてくれるのか『必ずしも理由は要らない』なんて言葉とは裏腹に、やっぱり気になって仕方ない。
今までのことだって、メリーは神様を通して見聞きしていたんだろうし、わたしが少なくとも『普通』ではないことも承知の上。それでも此処まで慕ってくれる理由が、メリーの心の中には絶対的に存在しているはずだから。
それを知りたいって望み自体が我侭だって分かってる。でもだって、メリーと交わしたキスは間違いなくわたしを愛してくれてた。ただ、わたしは、もうあのデイケアで神様が見せた夢みたいに有耶無耶にされるのがイヤなだけなの。
そんなわたしの感情なんてばっさり切り捨てるように、光沢の美しい髪を勢いよく翻してメリーがぐいっと顔を近付けてきた。
それは愚問ね。なんて言いたそうにくすくすと喉を鳴らしながら、くちびるの端を歪めて笑う。ふっと気の抜けたような表情で見つめられるだけで、かきむしられるような想いが心の中を錯綜し始める。
待ち合わせの人の隙間は歩き慣れてるけれど、メリーならわたしの心の隙間を見抜きそうな気がした。ああ、好きなんて言葉は口にすれば儚いだけで、やっぱり貴女を抱きしめて確かめるしかないのかな。
それはそれで幸せだよね。でも勘や閃き、直感とか本能の類がさり気なくほのめかす――メリーは明快な答えを持っている。神様のしてのメリーではなく『REM』としてのメリーがわたしを愛してくれる理由は、くちびるの先から想いとして確かに伝わっていたから。
「そんなの、当たり前の話で何を今更って感じだけど。恋に理由なんて必要なのかしら?」
「ううん、そんなこと、ないよ。すごく、すごく、嬉しい。本当に嬉しいんだよ。でも、わたしはこんなに汚れてるし、メリーには相応しくないんじゃないかなって、もっと、素敵な人、いるかな、って……」
「うふふっ、蓮子以上の人、ね。それこそ、そんなこと考えられないわ。夢で憧れたと思っていた初恋の人。ずっと、ずっと、恋に恋焦がれて愛していた人。そんな親愛なる私の……宇佐見蓮子が私に相応しくないなんて、ありえない」
鈴の鳴るような声色が紡ぐ愛の言の葉に、わたしの心はひたすらに鼓動が早くなるばかり。
いけない、いけないと心でたしなめても身体は言うことを聞かず、メリーのくちびるをそのまま塞ぎたくなる衝動を必死になって堪えた。
貴女の何処までも美しい旋律で、奏でるように答えさせてやりたい。そのくちびるから、わたしを愛する理由を契りとして宣誓させてやりたい。
さっきのお返しとばかりにわたしを焦らすメリーがあまりにもいじわるで、いじわるで、いじわるで、心が恋の音でキンと割れそうな悲鳴を上げる。
メリーは運命を知ってる。メリーにはちゃんとわたしを愛するが故の理由があるんだ。それなのに、どうして、ちゃんと、そのくちびるで、教えて、くれ、ない、の?
ああ、そういうことかな。メリーさ、わたしを誘ってるんだ。挑発してるんだ。わたしに勇気があるのか、貴女を抱く勇気があるのか試しているのかな。
そんなことどうだっていいけれど、そう言う考え方ならわたしだって望むところ。この薄汚い本性むき出しでメリーをぐちゃぐちゃに犯してでも、その答えを可憐なくちびるから吐き出させてみせる。
恋は麻薬なんて言葉の意味がようやく分かった気がする。キスした時から狂ってたんだよ、私達さ……貴女がデイケアでわたしに口付けを落としたその瞬間から、少なくともわたしの頭はさらにおかしくなった。
きっとメリーだって前からそんな症状だったから、わたしを夢の中から犯し始めたんだよね。我慢できなかったんだよね。いけないクスリ、メリーはもっと前から吸ってしまってたんだよ。これ、全部わたしの妄想かな、お得意の自惚れ?
そんな色情狂でもない限り、こんなわたしのこと好きになるはずないもの。あはっ、おかしくなりたいのだって、同じ望みなら早く叶えようよ。わたしだって、もっと、もっと、愛とか言ういけないおクスリでめりぃとおかしくなりたいのにぃ……。
メリーがわたしの言葉をせかすように――頬を桜色に蒸気させたまま、上目遣いでじいっと視線を合わせようとする。
今すぐにでもそのくちびるを奪って、息を殺して心に問いかけたい。めりぃはどうしてわたしのことをこんなにもあいしているのですか?
再びお互いの吐息がいやらしい熱を持ち始めて、妖しい倒錯的な色を帯び始める。幻覚幻聴妄想の類に狂っているのはメリーも一緒なんだね。
だって貴女が思うほど、わたしは綺麗でも何でもないんだから。ただ貴女に愛して欲しくてどうしようもない頭がイカれた誇大妄想狂宇佐見蓮子は、メリーに可愛がって貰うためだったらどんなに最低でもいい。
「でも、わたし、メリーのこと、幸せにできるかな?」
「あはっ、心配性過ぎるわ。蓮子は私のことを可愛がりすぎてる。大切にしてくれるのは勿論嬉しいけれど、貴女はちょっとサディスティックな方がお似合いだと思うわ」
「……それって、どういう意味?」
「もっと強引に、求めて欲しい。そんなに気遣ってくれなくても、私は貴女の傍から離れないわ。だから蓮子の好きにして欲しいの。それがキスでも、ハグでも、xxxでも、貴女が求めることに応えてあげたい。それが、私の、望み……」
くすっとメリーは髪をかき分けながら笑うと「キスして」なんて求めるように紅潮した頬を首筋に乗せて、そっと目を伏せた。
その陶酔の兆しを見せる表情は儚くも美しくて、恋の眩暈がひどくなってくる。こんな色気を自分は持ち合わせていないし、同じ女の子なのにどうしてメリーは此処まで艶やかで色鮮やかなのかな。
あからさまにいやらしい行為へと誘う妖しい色香をふわり漂わせて、わたしといけない遊びに興じましょうと無言で囁く。しっとりと濡れた汗からふしだらな熱っぽさが伝わってきて、わたしの快楽中枢は欲望に支配されていた。
もうとっくメリーだって狂おしいほどの恋に墜ちていることは明らか。あの清楚で凛とした美貌に背徳的な色がない交ぜになったメリーのうっとりとした笑みを見ていたら、突然心の中の蝶番が「がちゃん」と外れる音がした。
恋の駆け引きなんてくだらないお遊びや戯言。それをメリーは何だか愉しんでいる気がして、ちょっとだけ嫉妬やジェラシーの類を感じてしまう。
そうやって大切な選択肢だけわたしに押し付けるんだ。わたしがどうしたいか、貴女とどうなりたいのか、全て知ってるくせに……メリーのいじわる、いじわる、いじわる。ほんと、ほんと、本当にいじわるなんだから。
今だって必死で押さえ込んでいる「め、り、ぃ、を、犯、し、た、い」なんて衝動を、そうやって貴女は吐き出させようとするんだね。醜いわたしの本性をもっと見たくて仕方ないんだよね。それとも単なるマゾヒスティックなメリーの嗜好性の問題?
どんな貴女だって、わたしは愛することができる。メリーの望みはわたしの望み、その逆もきっと然り。素直に言えないのは恥ずかしいだけだよね。もう焦らされるのはイヤだよ。貪り合おうよ、ずっと我慢してきた最後の甘酸っぱい苺をふたりであーんするの。
マゾヒスティックな美しい貴女をぐちゃぐちゃに犯したり、サディスティックな貴女にケダモノとしての本性をむき出しにされて、奴隷のように快楽を求めてエクスタシーに悶えるわたしのあられもない姿を晒す……あはっ、考えるだけで感じて濡れてきちゃうよぉ。
――あなたがいなくなってしまうってことは、わたしがいなくなってしまうってこと。
純粋であり続けるための代償は、居場所がないって意味と同義だから。この世界で生きていくためには、どんなに汚れても心を欲望で満たし続けるしかない。
それがイヤだから、ずっとわたしは死にたいと願っている。こんなにも貴女を愛しているのに、心の中は何故か死んでいるわたし。どうしてそう思うのかと言えば、それはきっと明日が、未来が、メリーを奪ってしまうから。
だって、全然分からない。理解できない。そんな未来を生きる意味なんて何処にあるって言うの?
メリーがいない世界に、一体何の意味があるのかな。メリーに愛して貰えないわたしに、果たしてメス豚以外の価値があるのかな。
其処までして生きる意味を見出すこともできず、生に執着する意味すらよく分からないまま生きることを『命』じられて過ごす日々はうんざり。
だから、どうか、どうか、このひび割れたイノセンスを、わたしの心を完全にばらばらにして。その真紅の瞳に映る世界を、夢に夢見た季節を、現実だと思い込ませて欲しいの。
メリーがいなくなったら、きっとわたしも消える。だってわたしは、貴女の中でしか生きられない。メリーがいないと言う絶対的な理由が突き付けられたら、わたしはあっさりとジサツを遂げられるから。
時計の針は元に戻すことができないんだよ。だから今があれば、今さえあれば、こうしてメリーと抱きしめあって狂ってしまえたら、それだけでいい。もうわたしの思考は限界破裂。もう奈落へ墜ちるような恋はとっくに始まっているの、ゆらり、ゆらり天国へダイヴ――
もう絶対に貴女を離さない――ふと一瞬だけ意識が途絶えた刹那、わたしはメリーをぎゅっと抱きしめて乱暴に押し倒していた。
さらさらとした美しい髪の毛が、黄金色を編み込んだ絨毯のようにベッドにふわり広がっていく。その先端のくるんとロールした前髪をそっとすいてやると、抒情的な紅を帯びた艶めかしい表情の姫君が妖しく微笑む。
そんな彼女が何処までも可憐で美しく、狂おしいほどに愛おしく感じられてたまらなく胸が切なくなる。そして同時に湧き上がる下衆な欲望が、心の奥底でどす黒いとぐろを巻いていた。
その感情に抗うこともなく真っ白に染まる額にそっとキスを落とすと、綺麗に整った高い鼻先でメリーは切ない哀訴の音色を奏でる。
ゆっくりと両手だけをついて身体を持ち上げると、わたしを見つめる真紅の瞳は薄っすらと甘ったるく潤んで、吐息も一段と熱っぽさが篭り始めていた。
ああ、わたしはどんな顔をしているのかな。あの援助交際の最後に犯される瞬間の、下卑た笑みを零している男の表情が真っ先に思い浮ぶ。
そんな汚れた存在とわたしは名実共に同類の虫けらになったわけだ。どうせ引き返すつもりもないし、後悔なんてこれっぽっちもないけれど。
ふと頭を過ぎった超どうでもいいくだらない自虐を遮って昂ぶった感情に理性を委ねる。お互いの呼吸が触れる距離でメリーはわたしの襟元にそっと手を伸ばすと、乱れていたネクタイをきゅっと結び直してくすっと笑った。
「それでいいの。その方が貴女らしくて好き。もう、私だって、我慢できないんだからぁ……大好き。こんなに、愛しているの。だから、蓮子、わ、た、し、を、早くぅ……」
その端整な顔立ちの中に咲いた可憐な薔薇から紡がれる言葉は鼻先からすうっと抜けて、その声色はもう隠せないくらいに甘ったるい。
ネクタイを結った腕をわたしの首に絡めて、メリーはぐっと身体を引き寄せて抱きしめる。されるがままのわたしは真っ白な首筋に二回目のキスを無理矢理落とす。
もう離さないなんて考えていたのはメリーだって同じだったんだね。ぎゅっと抱き寄せられた肢体から、妖しい色香を纏った熱がじんわりと伝わってくる。
わたしなんかよりずっと肉感的な柔らかさにどきっとしたのは言うまでもなく、そのやさしい感触が布越しであることがもどかしくてあまりにも焦れったい。
ふわんと香るシャンプーの匂い、吐き出される浅い呼吸のふしだらな火照り、フローラルな香水のラストノートの芳しさ――メリーから伝うあらゆる感覚がわたしの身体のあちこちを刺激して、脳内の快楽中枢を狂わせようとする。
「……此処まで来てさ、後悔なんて、しないよね?」
美しく咲き誇る向日葵色の髪の毛の中に顔を埋めたまま問うてみても、メリーは全く答える素振りすら見せなかった。
そうだよね、もう言葉なんて必要ないよね。この世界を定義するために『言葉』を必要としているだけで、想いを伝えるために『言葉』にする必要なんて何処にもない。
わたしもメリーもこのままお互いを貪り合うことを望んでる。そのくちびるの先から伝う想いと溢れ出すエクスタシーによがり狂う行為の果てに、貴女の答えは込められているのだから。
あはっ、答えるつもりがないのなら、鳴かせてあげればいいだけだよね。そのくちびるから漏れ出すはしたないよがり声で、愛の言葉を吐き出させてあげるよ。
見目麗しきの姫君のいつくしさを兼ね備えた女の子は、これからわたしにぐちゃぐちゃに犯されること、ずたずたにされるプライド――その妖しいスリルに完全に酔っている。
朽ちていくことの美しさを、汚れて行くことで大人になる意味を、わたしがやさしく教えてあげるね。くすくすと心の中で笑いながら首だけを持ち上げると、いけない遊びに誘うような惚気た笑みを浮かべるメリーがじっとわたしを見つめていた。
そのままなだらかな肩に横顔を乗せて、ゆっくりとくちびるを近付けると自堕落な熱を帯びた吐息が吹きかかる。流線型を描くまつ毛の下に伏せられた大きな瞳の中に映っているのはわたしだけ。もう今のメリーはわたしのことしか考えられないはずだ。
メリーもわたしがいないと生きていけない身体にしてあげるよ。そしたら私達、きっと幸せになれるね。わたしはこのまま死んでも何の文句も言わない。これ以上の快楽は絶対にないんだから、貴女を失ったらわたしは今すぐにでも其処の窓から飛び降りジサツする。
――メリーを犯すこと。それがジサツのための最後の方法。
こんないけないクスリをやってしまったら、わたしは間違いなく中毒になって元の生活なんて考えられなくなるんだよ。
一分一秒だって貴女と離れたらわたしは頭がおかしくなって幻聴幻覚の類にもがき苦しむんだ。そうして楽になりたくて、気持ちよくなりたくて、メリーと言う名のクスリを狂い叫びながら必死に求める。
誰からも虫けらと罵られたって全然構わない。貴女が愛してくれると言って微笑んでくれるならそれでいい。どんな方法を用いてもわたしはメリーの最愛の人であろうとするけれど……人の心なんて、未来なんて、誰も分からないんだから。
わたしが永遠に愛される保障なんて何処にもない。どんなに嫌われないように愛されるために頑張ったところで後悔だらけの過去に戻ってやり直すことは叶わないし、未来でもメリーがずっとわたしの隣にいてくれるって担保が存在するはずないんだよ。
貴女がいなくなる日、つまり明日からわたしはどうしたらいいのかな。今しかないわたしに明日なんて用意されてないし必要もない。メリーが伝えてくれる想いが感じられなくなった瞬間、その事実がわたしのジサツするための絶対的な『ワケ』に変わる。
メリーと初めてキスをした時から、薄々気付いてた。確信に変わったと言う方が正しいかもしれない。
こんなのそれこそ今更……結果論に過ぎないけれど、きっとメリーと出会ってなかったらわたしはだらだらと生きていた気がする。
知らなければ良かったなんて思うはずもないし、勿論後悔なんて全くしてないよ。だけど私達の間に咲き誇った幸せも、小指に結った運命の紅い糸も、いずれ暗転、そして断線――ぷつんと儚く千切れてしまう。
心の中に凛として咲き誇った幸せも、ふたりで貪ってなくなってしまったら後は傷付け合うだけ。貴女を愛してるとか叫びながらナイフでお互いの心をずたずたに切り刻んで、挙句噴き出したほんの僅かな幸せを必死で舐め合ってお終い。
それは身体を売ったり手首を切るなんて行為と殆ど変わらないんだよね。きっとそのうち何もかも感じなくなって、惨めな傷痕だけが残る。そしてわたしは悟ることになるんだ。わたしは、メリーがいなければ、生、キ、テ、ル、価値、ガ、ナ、イ。
それでいいんだよ。ずっとわたしはこの時を待っていたんだから。
美しい花は必ず朽ち果てる。わたしの最初で最後の恋、ひび割れたイノセンス、全て貴女にあげる。
何処までも夢現なお姫様には目覚めと狂気のキス。その淡い色の花びらにそっと吐息を重ねようとした瞬間、凛とした声がわたしの心臓を射抜いた――
――それは、遠い、遠い、御伽噺。鮮やかな幻に彩られた世界のお話です。
きみとわたしが重ねた未来、神様が叶えてくれたんだよ。此処にはきみとわたしだけしかいない。
夏の憂鬱、小さな命も芽吹かぬままに、人、社会、そして世界と繋がることを諦めてしまったわたしは、きみだけが感じてくれる存在になりたいと望んだ。
ぱったり人々の喧騒は途絶えて、空っぽになった都会の喧騒は音もなく、風は感傷性の蒼で、きらきら輝く星座に憧れて、ただ、ふたり、笑った。
アンドロメダが煌く夜空で花の匂い弾けた夢現――いつか見た日のわたしを大好きなきみにあげる。
季節を織り成す詩のような、あの美しい旋律だけが遠くで鳴り響く。それをヒトは『終わり』と言ってサヨナラするの。
誰もいない世界。緩やかに朽ちていく世界。きみに出会ったそのわけも分からないまま、世界が終わる。だけどわたしが此処で生きていたことは、きみがちゃんと証明してくれるから大丈夫だよ。
ふたりで雨宿りしてたバス停でそっと紡いだ恋の魔法は今も解けることなく、ただ寄り添い合っているだけで幸せ。そんな素敵なきみと手を繋いでいたら、きっと誰も見たことのない場所まで歩いていける。
ああ、もしも叶うなら、あの空の遥か遥か遥か彼方できみとわたしで花になりたい。ざんざんと降りしきる雨に打たれながら、ゴミ捨て場の片隅で、ゆらりゆらり揺れる幻想の花となって永遠に咲き誇る――
絶望は旋律。
世界は言葉。
希望は旋律。
世界は言葉。
美しい薔薇のくちびるが一字一句違わず愛おしく紡ぎ出した詩は、あの日クラスメイトの前で晒し者にされたわたしのノートの最初に書かれた詩篇だった。
二冊持っていたノートの片方はいじめと言う名目の朗読会の後にわたしの目の前で塵と化して、もう一冊は行方不明。どうせ面倒だからって同じように破り捨てられたと思っていた。
それなのに、その後者の、誰も知らないはずの一編を、なぜ、どうして、どうして、貴女が、よりによってメリーが、わたしも思い出すことが間々ならないその詩を知っているの?
ずっと、いつからか、貴女の中にいるもうひとりの『貴女』はわたしのことを知っていた。
そしてあの日にジサツしたはずのわたしが書き記してあるノートの内容をメリーに伝えた。
今現在が予定調和のように神様に仕組まれた運命だとしても、もうあの日以前のわたしはいない。
この世界はどうしようもないことばかりだけど、きっといつか幸せになれるなんて希望的観測を詩にして救いを求めてたわたしはもういない。
わたしの真っ白なイノセンスはあの詩に書き留めてあったのに、もう思い出せないの。大人になるにつれて、消えていく最初のメロディーとメモリーズ。
ああ、だって、それはあの時に、全部わたしのデタラメな夢として葬り去られたんだから。
「ど、う、し、て、知ってるの?」
カタコトの言葉を吐き出す身体はわなないているのに、本能は屈服したままキスしたくてたまらなくて……指が我慢出来ず、震え、そっと、メリーのくちびるに手を伸ばす。
やわらかい三日月の花びらは熱っぽさを帯びていて、今すぐにでもお水をあげないと枯れてしまいそうだった。その詩篇の言葉をひとつひとつ愛おしく手繰るように紡いでくれた意味、それはずっとわたしを愛してくれていたと言う証明でしかない。
ようやくわたしは神様が仕組んだ悪戯に気付いてしまった。わたし、宇佐見蓮子のことを、メリーが愛してくれた理由。そしてその事実は、今しかないと狂い叫ぶわたしにとって絶望の始まりでしかないような気がした。
「今も忘れない。もうひとりの『わたし』の存在を知った、あの日のこと。誰もいない放課後、私の教室の机に、一冊のノートが置いてあったの。それが蓮子を知るきっかけだった。貴女のことが大好きでたまらなくなった、きっかけの詩……」
ゆったりとした手付きでメリーがわたしの髪をすきながら、うっとり陶酔した口調で淡い恋の始まりを語り始める。
ずっと教えて欲しいと願っていた素敵な物語は、もうこの世界に存在しない『わたし』と見目麗しきメリーの御伽噺。
錆びたハサミで耳を切り落としてでも聞きたくない言葉は、わたしの心を誘い惑わすセイレーンの歌声みたいだった。
ああ、わたしだって、今も、今も忘れない――だけど、あの時あの瞬間、この世界には夢とか希望なんて何もないと悟った宇佐見蓮子は、もうこの世界にはいないんだよ。
メリーがそのノートを手に取った時には、わたしはもう死んでいたんだ。其処に書かれていた詩の全ては、桜のように舞い散って粉々になって、わたしの記憶からほぼ完全に抹消された。
今しかないとか言ってるわたしは、どんなに頑張ったって過去に戻ることなんかできない。その『きっかけ』になった詩を書いていた時の、貴女の愛してくれた宇佐見蓮子だった頃のわたしに戻ることは叶わない。
それは、もう死んだ。その詩を書いたわたしは、死んだんだ。人間はイヤだった時の体験や、つらかった時期の記憶は忘れようとする。遺棄すべき事柄は全て忘れられる都合のいい生き物。それが私達人間とか言う醜い存在だから。
「あっと言う間に好きになった。恋に墜ちるって、こういうことなんだって……こんな詩を書ける素敵な人に愛して欲しい。想い人が描いた世界を想像しては恋に恋焦がれて、毎日、毎日繰り返し読んだ。ページがセピア色に染まるまで、何度も、何度も……」
甘く切ない声色で言葉を紡ぐメリーの吐息が肌を撫でるたび、止め処なく大粒の涙が瞳に溜まっていく。
夢見心地なお姫様はキスを求めるように瞳を薄っすらと閉じたまま、わたしを愛してくれた理由をそっと囁いてみせる。
その甘く切ない言の葉が鼓膜に響くたび、途方もない絶望と悲しみがばらばらになった心に広がって声にならない悲鳴を上げた。
今にも零れ落ちそうな涙を拭うこともできず、顔を背けることもできず……あれほど「もう引き返せない」と自分に言い聞かせていたのに、後悔なんて何もないって思ってたのに、こんな現実って神様的にどうなの?
貴女と言う人は、何処までも他人事として私達を扱うんだね。これも全て予定調和で規定事項、後付けの運命。わたしは幸せになれないって、最初から貴女は知っていた。ふざけないで、冗談じゃない。こんなのってないよ。こんな、詩、なんて、さ……。
わたしは今のメリーをたまらなく愛しているのに、メリーが愛しているのは多分その過去の詩を書いていた死んだわたし。
ずっと、ずっと、愛してくれたんだね。こんな嬉しいことなんてないのに、ひどいよ。こんなの、ひどすぎるよ。どうして、ずれちゃったのかな。わたしはわたし、だけど、死んだ。覚えてない。思い出せないんだよ。
過去も現在も未来も繋がっているはずなのに、わたしはあの頃の『わたし』には戻れない。人は変わってしまう生き物だとは言え、メリーがあの詩を書いていたわたしに恋焦がれていたって事実はもう絶対に変えられない。
そして、今しかないと思うわたしを変えることも、できない。この薄汚く汚れた心はセロハンテープでくっつけただけで、今メリーの目の前にいるのは、あの時に死んでから以降のわたし。どうしようもなく救いようのない人間以下のゴミクズなわたし。
これ、全部わたしが悪いのかな。貴女の中に存在する『神様』が悪いんじゃないのかな。人のせいにしたくもなるよ。だって、こんなのって、ひどい。あんまりだよ。全部貴女のおかしな運命の悪戯で、メリーは死んだ『わたし』のことを狂おしいほどに愛してしまった。
ううん、違う、違うよ。ノートを置いたのは神様だとしても、きっと多分……わたしを愛してくれたのは紛れもないメリーであって『REM』なんだから。
神様はきっかけを与えたに過ぎなくて、その悪魔の詩を書いたのはわたしに他ならない。ああ、どうして、わたしはあの時死んだ瞬間に、取り返しの付かない罪を犯してしまったと言うことなの?
あの時から、誰も信じられなくて、ずっと独りきりで生きてきたはずなのに。誰かに愛されてるなんて知らないまま、ずっとジサツするための理由を探して彷徨い続けた日々は……最愛の人の夢をハカイして、メリーの瞳に映る世界すら残酷な現実に変えてしまった。
わたしがこの世界から消え去っていれば、今頃メリーは素晴らしき日々を送っていたのかもしれない。わたしはあの日に確実に死んでおくべきで、詩に書いた夢が砕け散った瞬間にジサツしていたら、貴女の美しい想いや儚く煌く色鮮やかな未来を傷付けずに済んだ。
「初めてもうひとりの"わたし"と出会った時ね、彼女はこんなことを言ったの。『誰よりも優しい、この詩を書いた子はいつも泣いている。それはきっとこの世界で一番の不条理ですわ』
そんな事実を知っても、私は何もできない。大好きな人のために何もできない。苦しかった。ずっと、ずっと、苦しかった。こんな世界なのに、どうしてこの子は凛とした美しい光景を夢見ることができるのかしら。この詩に想いを馳せる、それはつまり恋だと思ったわ」
ああ、もう、メリーを真直ぐ見つめることすら叶わない。まぶたには水色がいっぱいいっぱいに溜まって、瞬きしたら硝子の涙が零れ落ちそうだった。
過去の記憶を甘ったるい声で訥々と囁くメリーの感情は嘘偽りのない、穢れのないイノセンス。その境界線が消えてしまうような真っ白な世界で、死んだはずのわたしはずっと愛して貰っていた。
今日と言う日まで、メリーはずっとそんな気持ちを抱いて生きてきたのかな。そう考えるだけで胸が張り裂けそうで、ばらばらになった心の隙間から様々な感情が溢れ出す。それは、嬉しい、とか、愛してる、とか、ありがとう、とか、ごめんね、とか……。
そうやってメリーだって、わたしを想うとずっと苦しかったんだよね。昨日からわたしがずっと苛まれていた感情――はじめての恋、しかも片想い。恋が鳴る。澄んだ音、物凄く切ない。でもね、わたしはこうしてメリーがいてくれるだけで、とても、とても幸せ。
たったそれだけでいいんだよ。貴女は無力なんかじゃない。ちゃんとわたしを探し当てて、此処まで来てくれた。そしてわたしが『わたし』である証明を、この心に刻み付けてくれた。そんなメリーを、わたしは、宇佐見蓮子は、こんなにも、狂おしいほど愛してる。
それなのに、わたしは、わたしは……貴女の想いに報いることができない。大好キナ人ノタメニ、何モデキナイ。大好キナ人ノタメニ、何モデキナイ。大好キナ人ノタメニ、何モデキナイ。大好キナ人ノタメニ、何モデキナイ。大好キナ人ノタメニ、何モデキナイ。大好キナ人ノタメニ、何モデキナイ。大好キナ人ノタメニ、何モデキナイ。大好キナ人ノタメニ、何モデキナイ。大好キナ人ノタメニ、何モデキナイ。
メリーの愛してくれた宇佐見蓮子は、もうこの世界に存在しない。今貴女の目の前にいるわたしは、嘘つきの詩人宇佐見蓮子。境界性・自己愛性人格障害の宇佐見蓮子。パラノイド・アンドロイドな宇佐見蓮子。
貴女の愛した思想あるいは言葉は、全てフォーマットされてしまった。この脳みそはパソコンのようにデータ復旧できる構造になっていないし、もうあの日のわたしに還ることは、あの日までのメリーが愛してくれたわたしに還ることは叶わぬ願い。
あの頃の想いや詩を書いてた頃の『わたし』なんて思い出せない。思い出せないんだよ。メリーに全て教えて貰ったとして、ノートが残ってて読み返したところで、死んだ『わたし』は二度と生き返ることはないんだから。
ねえ、メリー。その貴女が愛してくれた宇佐見蓮子が死んだことを知ったら、貴女は一体どう思うのかな……きっと、悲しんでくれるよね、こんなにも愛してくれたんだもの。ずっと、ずっと泣き止まないよね。失望するよね。絶望するよね。ジサツしたくなるよね。
そして今しかないなんて言いながらふしだらな快楽に目が眩んでる汚れたわたしを、きっと恨むよね。貴女なんてただの頭のおかしい精神病患者。ただの誇大妄想狂で露出狂のリスカシンパ。ニセモノの快感が欲しいとか言って援助交際して身体を売る最低のクズ。
貴女は私の愛した宇佐見蓮子じゃないって、わたしのことを嫌いになってしまうんだ。それでわたしは死ぬしかなくなる。そっか、要するにあの日のわたしは自分が自分であることの証明を捨てただけで、昨日メリーにキスされるまで、生、キ、テ、イ、タ、ン、ダ、ネ。
少なくともメリーの心の中で、確かにわたしは生きていたんだ。他人の中に自分の生が存在するなんて、全く想像すらしてなかった。こんなにもメリーを愛しているのに、心の中は死んでいるわたし。ああ、どうして、どうして、こんなことに、なっちゃったのかな……?
人間は死を体験しようがない。死者は『死とはどのようなことか』語るべき言葉を持たず、その死体を以ってしか死を証明することができない。だけど今のメリーが語っている話の内容は、死んだ『わたし』の言葉。詩。愛。ああ、矛盾だらけ。何もかも、矛盾だらけだ。
何故死んだはずの宇佐見蓮子は、メリーから貰った愛とくちびるの先から吹き込まれた『命』を抱えて立ちすくんでいるのかな。
今しかないとか喚き叫ぶわたしには明日や未来のことなんて分かるはずもないし、そもそも分かりたくもないし知りたくもなかった。
そんな今において理解できる唯一の真実、それはこの世界で唯一宇佐見蓮子を愛してくれた人を失ったら、わたしはジサツするしかない。
だけどわたしはいない。わたしはもう、いないんだ。メリーの愛してくれた『わたし』はいない。そしたらわたしの愛した貴女も、いなくなってしまう。
メリーがいない世界に価値なんかこれっぽっちもない。いや、わたしはそんな世界を望んでた。何もかも無価値になって消えてしまえばいい。
でも、イヤだ。メリーは、メリーだけは、ずっと変わらずに、笑っていて欲しい。そのためにも、やっぱりわたしはジサツするしかないんだ。
だって、死んだ『わたし』のことをメリーは愛しているんだから。そうだよ、簡単な理屈だよね。ああ、そういうことなんだ。結局のところ死んだ『わたし』を愛してくれるのなら、今すぐお前は死ね、ジサツしろ、わたしだってそれを望んでる。
それなのに、このわだかまりは何だろう。わたしは死にたいの。ずっと、ずっと、ジサツしたいと思ってた。その気持ちが、ぐらぐら、ぐらぐらと、こんなに揺らいでしまっている。それはきっと、メリーの記憶の中でわたしは『生きている』から。
――死んだ彼女の代わりになればいいよ。
ばらばらになった心の中で、パラノイド・アンドロイドなわたしが囁く。
何を言ってるのか、意味が分からない。もうわたしは、わたしは……死んだわたしがいた、死んだわたしが存在した世界には戻れないんだから。
世界は、言葉。死者は言葉を扱えないのだから、あの時のわたしが持っていた世界を想像できなければ、メリーを満足させることなんて、不可能、なんだ、よ。
――嘘をつけばいいんだよ。死んだわたしのニセモノを演じるの。
思い出せない。何もかも思い出せないのに、どうやって道化を演じろっていうの?
わたしは、わたしは、メリーに隠し事なんてしたくない。リスカや援交してることだって全部話す覚悟はできてた。
それはこんなわたしでも愛してくれたメリーへの誠意としては当たり前のことだし、どうせ最初で最後……明日わたしはジサツするんだから、知られても、何ともない、と、思って、た。
――本当は、生きたいんでしょ? めりぃと一緒に、ラブラブな関係でいたいんでしょ?
そうだよ。そうだから、こんなに幸せだから生きたいと思うし、つらいんだよ。わたしの愛してるメリーが、死んだわたしを愛してるから、悲しくて、切ないし、どうしたらいいのか分からなくて……。
その壊れたマリオネットみたいなニセモノを演じるわたしを、メリーが愛してくれる保障なんて何処にもない。ああ、でも、わたし、今日さ、愛して貰ってたよね。普通のカップルみたいにいちゃいちゃしてた。
でもそれは、メリーがわたしのことを死んだ『わたし』と同じだと思ってるから。メリーが真実を知ったら、絶対嫌われる。こんなわたしがメリーから愛される資格なんて、最初から、な、か、っ、た、ん、だ、よ。
――偽って生きることに、どうして今更こだわるの?
どうしようもなく汚れたわたしはもうこれ以上墜ちるための空もない。
欲望の掃き溜めとして使い捨てられたら、さっさとジサツすればいいだけの話。ずっとそう思ってたはずなのに、それは違うの?
メリーに嫌われてしまったら、わたしは死ぬしかない。メリーが愛してくれるのならば、それ以外のわたしは……いじめられようと、ボダ扱いされようと、ビッ○や便×女扱いされて、リスカ基地外と罵られ貶されても、どんな最低なわたしだって生きていける。
もう偽るような真似もしない。多分全部見られているんだろうし、それでもメリーが好きって言ってくれるなら、わたしはどんな運命でも甘んじて受ける覚悟がある。最初からプライドなんてこれっぽっちもないし、メリーに捨てられたたらジサツするだけだよ。
わたしにはメリーしかいない。それ以外にこだわることなんて、何も、ない。でも、そんなわたしを、メリーは認めてくれる、かな。こんなキモくて頭の悪いメス豚な宇佐見蓮子のことを、それでも、大好きって、あい、してる、って、言って、くれる、か、な?
――どうせめりぃはわたしに陶酔しきってるし、めりぃは優シイカライイコイイコシテクレルヨ。
わたしたちは同じ形の恋に酔ってる。だけど、そうかな……確かに、わたしのこと、嫌いなら、抱きしめてくれたり、キスしてくれたり、そもそもこんなこと、してくれないよね。
メリーはあの詩を書いた『わたし』が死んだって気付いてないのかもしれない。今のわたしもそのままだと思ってて、こんな風に無理矢理犯そうとするのもわたしらしいって笑ってくれた。
それにあの神様と脳内を共有しているんだから、リスカしたりパパを殴る醜いわたしだって知ってるはず。それなのに、メリーはとてもやさしい。ほんとに、ほんとにやさしいから。わたしがうそをついても、ゆるして、くれる、の、か、な?
――それはわたしが一番よく知ってること。めりぃがこんなにもわたしを愛してくれるのは、彼女ニハ死ンダワタシノコトガ分カラナイカラ。コノママ虜ニシテシマエバ、めりぃハワタシノモノニナルンダヨ?
そうだよ、そうだよね。メリーは気付いてない。あのもうひとりの『メリー』だって、わたしの心を読めるとは到底思えない。今は、メリーは、わたしのことを、あの時から何も変わらないと想って愛してくれてる。
最初に交わしたキスの時から、ずっとわたしはメリーの虜だった。あれは神様だったんだろうけど、今日会った時だってちゃんとキスしてくれた。いきなりなのに微笑んで受け止めてくれたのは、ずっと、ずっと、メリーもわたしの虜だったから。
そっか、もしかしたらわたしもメリーの『神様』みたいに振舞うことだってできるのかもしれない。現に今、わたしはこうしてメリーを犯そうとしてる。このわたしの手で、メリーの全てを奪ってしまえば、もうメリーはわたしがいないと生きていけなく、な、って……。
――ソウダヨ、ダッテ、めりぃノ方ガワタシノコトヲ欲シクテオネダリシテルヨネ。
グチャグチャニ犯シテ欲シイッテ、サッキカラズット誘ッテルノサ、分カルデショウ?
ソンナ子ニタマラナイックスノエクスタシーヲ与エテヤッタラ、ドンナ嘘デモ信ジ込ンデシマウワ?
めりぃを、めりぃを、わたしのものにする。上手くばれないように、死んだわたしを演じてあげながら本当の『今しかない』淫らな性欲まみれのわたしの快楽を与えて、ぐちゃぐちゃになるまで犯してあげたら、頭がおかしくなった挙句メリーはどうなってしまうのかな。
死んだわたしのことも、今のわたしのことも、何もかも、分からなく、なって、今のわたしを、宇佐見蓮子だけを愛するようになって。もうわたしがいないとイヤ、生きていくのもイヤ、蓮子が死ぬなら、私も一緒に死ぬって、お互いがいないと生きていけなくなるの。
ああ、それって、素敵だよね。きっとめりぃもそうなりたいから、わたしと、狂いたいから、あたま、おかしくなりたいから、誘ってるんだよね。わたしとxxxしてるとこ、ずっと想像してオ○ニーしてたりして。あはっ、そんな風に考えるとあたまがおかしく、な、るぅ。
――あはっ、早くぅ、めりぃを、ぐちゃぐちゃに、したいよぉ……。
メリーがどうしてわたしを好きになったのか、それが分からなくなるまで犯してあげればいいだけなんだね。
壊れるくらいに切なく抱きしめて、狂おしいほどにお互いの身体を貪り合うの。死んだ『わたし』のことなんて分からなくなるよ。
その可憐なくちびるから一方的に淫らな想いを注ぎ込んで、メリーの頭がおかしくなるまでぐちゃぐちゃに犯してたっぷりと可愛がってあげる。
貴女の心の中を見せてよ。貴女の記憶の中で生きてるわたしを、あの時に死んだはずの『わたし』を、この手でずたずたに切り刻んで殺してみせるから。
その後は甘く切ないキスをあげる。とろけるようにやさしく、今のわたしを教えてあげるからね。
このひび割れた心の奥底で蠢く貴女へ捧ぐ全ての想いを、だらだらとくちびるから垂れ流すから全部ちゃんと残さず飲み込んでよ。
今しかないとか言って刹那を生きるわたしのゲロに塗れてどろどろに変質したいびつな想いを、イかれたエクスタシーに変えて飲み干せるのはメリーだけだから。
大人になるってことは、汚れることなんだよ。その美しいイノセンスを犯したら快楽中枢がイッちゃって、私達あっと言う間におかしくなっちゃうわ。
あはっ、だってキスだけであんなに感じてるんだもん。想像するだけで濡れてきちゃうよ、メリーのはじめてを、こんな汚い最低なわたしが、もら、う、な、ん、て。
ねえ、わたしさぁ、早くメリーとおかしくなりたいの。もう死んだ『わたし』のことなんてどうでもいい。
わたしがおかしくなって、メリーも狂って、お互いの快楽がないと生きていけなくなるような運命こそ、神様が与えた幸せになるための道標だったんだね。
大丈夫よ。きっと幸せだよ。もしも、それでも、メリーが死んだわたしが好きなら、一緒ニ死ノウヨ。独リデ死ヌノハ寂シイヨ。都合イイジャン。ワタシ自殺スルタメノ理由ガ欲シカッタノ。
この狂ってるサイケデリックな誇大妄想狂のメス豚が本当のわたしだよ。欲望に塗れた自分だけを愛して欲しくてたまらない自己愛の塊、それが貴女の愛した宇佐見蓮子と言う人間なんだよ。
メリーはわたしの言うことなら何でも聞いてくれるよね。好きにしていいって言ったもんね。ああ、わたしの大切なラヴドール。たっぷり可愛がってあげる。よがり狂わせてあげる。一方的に蹂躪されたメリーはわたしに与えられる快楽で頭がおかしくなっちゃうの――
「でも、貴女に会えた。抱きしめて貰って、キスまでしてくれた。私の愛する人は想像を超える美しい花だった。
正直、不安だったの。これを書いた子はもうこの世界にいないんじゃないかって、もう絶対に会えないんじゃないかって。だけど、もう怖くない。蓮子の書いた詩のように、私達、永遠に咲き誇る幻想の花に――あ、はぁ……んっ」
何処までも甘ったるく死んだ『わたし』について話すメリーの言葉を遮る。そっと薄っすら火照った頬に手を当ててわたしのくちびるの方向に寄せると、その語尾が悩ましげに跳ねた。
呼吸が突然近くなっていやらしい色香を感じたのか、夢心地なメリーの吐息が一段と艶やかな熱を帯びて頬を撫でる。恥ずかしそうに伏せられたまつ毛の下に潜む潤んだ瞳と可憐な三日月の花びらが儚くも可憐で、わたしの心を誘い惑わす。
ごめんね、メリー。どうして好きになったのか聞きたかったのはわたしの方だけど、もうそんなの興味なくなっちゃった。貴女はわたしのもの。そしてメリーはわたしがいないと生きていけないの。今からちゃんと手取り足取りそのことを教え込んであげるからね。
もっと話したがってそうな雰囲気だったメリーの想いなんて、今しかないわたしにとってはそれこそどうでもいい。
自分の首に回されていた手をゆっくりと解いて、逆にシーツの後ろまで手を回してメリーの身体をぎゅっと抱きしめてやる。
やさしさなんて微塵も感じられないハグで強引に拘束すると、悩ましい嬌声が頭の中で快楽に変わってぱちんと弾け飛ぶ。
密着した身体の感触は心地良い反面、布越しのふしだらな火照りがもどかしくて苛々とサイケデリックな衝動は募るばかり。
もう我慢できなくて、どうしようもなく愛おしくて、わたしの頭は限界破裂してしまった。心の奥底で無理矢理押し殺していた感情を解き放って、そっと真紅の薔薇の花びらに顔を近付ける。
――わたしの心に咲いた黒い薔薇、素敵でしょう?
メリーの心に咲き誇っている白い薔薇も、こんな色になるんだよ。
死んだ『わたし』を夢見た貴女に捧げる詩は……そう、狂おしい愛とハカイの旋律――
「もういい。ヤらせてよ」
どす黒い血を流す心の奥底から吐き出されたひどく底冷えのする声には、愛してるなんて感情はこれっぽっちも混ざっていなかった。
小さく首をかしげてゆっくりと位置を合わせ、ちらっとメリーの姿を見た瞬間――わたしの瞳に溜まっていた大粒の涙が、ぽつりぽつり零れ落ちていく。
真っ白な首筋を伝う涙を感じ取って、緋色の瞳に映し出されたわたしはどんな表情をしてるのかな。きっとあの虫ケラ共がわたしを犯す時と同じような、醜悪な微笑みを浮かべてるんだろうね。
――わたしの心の在り処は黒。
サイケデリックに支配された快楽中枢から溢れ出すエクスタシーは、ほんの僅か残っていた理性を的確に奪い取ってしまう。
純粋で儚く切ない、甘美なメリーの想いをぐちゃぐちゃに咀嚼した心は、もう、めりぃノコトシカ、考エラレナクテ、胸ガ、張り裂ケソウデ、苦、シ、イ。
だけどメリーが与えてくれるいけないクスリがあれば大丈夫。ねぇ、ほら、一緒ニ、気持チ良クナロウヨ。ワタシダッテ、モウ我慢デキナインダ、カ、ラ、ぁ。
あはっ、これで、めりぃと、いっしょに、おかしくなれるぅ。めりぃのはじめてが、処女が、わたしの、もの。わたしの愛で麻痺してるから痛くないよ、安心して、めりぃ。
わたしがやさしく、やさしく、ぐちゃぐちゃにしてあげる。めりぃがおかしくなっちゃうくらい、わたしに「もっとして」っておねだりしちゃういけない子になってもらうんだからね。
あいしてる。こんなにも、こんなにも、わたし、もう、めりぃがいないと生きていけないの。だから、ずっと、わたしといっしょにいてよ。わたし、あなたのためなら、どんなサイテーな子にもなるからぁ、わたしを、あ、い、し、て?
おかしくなろうよ。わたしと、めりぃで、おかしくなろうよぉ。死んだ『わたし』のことなんて、どうでもよくなるよ。
想像するだけでわたしはもう頭がどうにかなってるんだよ。めりぃのこと、大好きで、大好きすぎて、ああ、もう、やだ、愛してる、あい、してるからぁ……。
このキスから伝うそんな狂おしい想いの全てを、切なくて胸が張り裂けそうになるほどに感じて欲しい。その心と身体に秘められた美しいイノセンスに『今しかない』わたしを刻み込んであげるから。
ぐちゃぐちゃになった想いの形は歪んでしまっているけれど、貴女を愛していることだけはどんなにおかしくなっても変わらない。だから、どうか、どうか、こんなわたしのサイケデリックな想い、受け取って、欲しい。
ああ、舐めるように品定めして、汚らわしいと、蔑んで、快楽を貪ったら、見下して、嫌いだと、私の愛した宇佐見蓮子じゃないと、罵って、汚らわしいと、捨てて。今しかないわたしには、今だけでも貴女を騙すことができたらそれでいいの。
貴女はやさしいから、あまりにもやさしいから、気付かないフリをすることだけはやめて欲しい。ただ、ただ、そう想って、わたしはいびつな背徳感に犯されたまま、色っぽい呼吸を不規則に繰り返す薔薇の花びらの上に、絶望の旋律を奏でながらくちびるを重ねた――
今日は最期の日か。貴女の中に、まだ、イタイヨ……。
死んだ『わたし』に似せたわたしのイメージは、メリーの心の中で同じように揺れている。
死んだ『わたし』に似せたわたしのイメージは、メリーの心の中で同じように揺れている。
「あ、はぁ、ん、ぁ、あぁ、ん、ん、や、ぁん……れん、こぉ…………」
しんと静まり返った小さな部屋の中から、メリーの世界にひびが入る。真っ白なメリーのイノセンスに、ひびが入る音がきんと響き渡った。
甘く引きつったメリーの声音を押し殺すようにくちびるを乱暴にぎゅっと押し付けると、からからに乾いた表面の柔らかい感触が伝わってくる。
上のくちびると下のくちびるを順番に挟み込んで舐めしゃぶってあげると、真っ赤に咲き誇る花びらはあっと言う間に瑞々しいうるおいを取り戻した。
メリーも求めたい一心でくちびるを突き出そうとするけれど、わたしは絶対にそれを許さない。そのままねちっこく表面を押さえ付けて、ぺろぺろとメリーのリップに唾液を塗りたくる。
舌先で縦横無尽に弄んでやるたび、メリーは完全に媚びた甘ったるい調子で鳴いてくれるのがたまらなく愛おしい。きゅっと中途半端に結ばれたくちびるの間をゆったりと舌を這わせると、ゆらり、ゆらり、薔薇の花びらが綻び始めた。
その花弁の隙間を広げながらねっとりくちびるを舐めまわすたび、熱っぽい吐息がわたしの頬を撫でる。完全に陶酔しきった生々しい感触の数々が、今までお預けされて昂ぶったままの心にエクスタシーを混ぜた注射針を突き刺す。
そっと上目遣いにメリーを見上げると、真っ白な頬に美しい蓮の花が咲いていた。
その艶やかな表情は何処までも甘く切なく、無心でわたしのくちびるを受け止めている。
熱く熟れ始めた肌の感触を確かめ合っているだけで心の底から湧き上がる想いが手に取るように伝わって来て、脳内から快楽物質がぶちゅっと汚い音を立てて噴き出す。
脳内で絶え間なく分泌されるたまらない快楽に、私達の頭は緩やかに、確実に、おかしく、おかしくなって、気持ち、いいよぉ。ふしだらに火照るメリーの吐息から香る淫靡な臭いが、サイケデリックなわたしの思考を犯していく。
こんな甘い甘い甘いキャンディばかり舐めしゃぶっていたら、間違いなく虫歯になってしまうわ。このばらばらになった心はもうぼろぼろに崩れかけているのに、そうやってメリーはさらにわたしを壊そうとするんだね。
あはっ、それもいいね。わたしも、めりぃを、壊したい。ハカイしたいよ。あぁん、狂わせてあげる、わたしがキスしてあげないと一生眠り続けるシンデレラにして、あ、げ、る。
「ん、あは、ぁ、ちゅ、あんっ、めりぃ、めりぃ、めり、ぃ……はぁ、んっ…………」
貴女の名前を、わたしが名付けたその美しい名前を、めりぃ、めりぃと……たまらなく愛おしく、あやすように呼ぶだけで、甘く切ない想いで満たされていく。
たおやかなくちびるはひたすら瑞々しくなって、お互いの甘ったるい嬌声もひどく卑猥な色を帯びる。妖しい色香がふんわり部屋に充満して、はしたない想いの昂りは増すばかり。
露でしっとりと濡れた薔薇の花びらはやさしく押し込んであげると包み込むようなやさしさで受け止めてくれるし、ちょっと引けば撫でるようなやわらかい感触でくちびるを押し返す。
わたしも、貴女と、一緒に、対等に、キス、したい……そんなメリーの儚く切ない恋慕がふわり口先から伝うけれど、そんな一途な感情はわたしのねじれ曲がった欲望を余計に逆撫でする。
今はただわたしのことをメリーに教え込む、服従させるための『調教』のお時間だから、貴女はじっとしてたらいいの。あはっ、でも、そうやって精一杯抵抗しようとするメリーも可愛いよ。
かすかな抵抗を続けるくちびるをやさしく制して、だらだらと流れ出す唾液を絡めながらルージュも引いてないリップをべっとり押し付けるたび、どうしようもない快感がはしたなく溢れ出して来るから超気持ちいい。
もう、わたしがどうしたいかなんて、とっくに分かってるんだよね。今のメリーにはわたしに歯向かう権利はないってこと。それでも、全然イヤどころか、貴女は愉しんでる。わたしに一方的にくちびるを犯されて、わたしに穢されることを……。
それが宇佐見蓮子にのみ許された特権だと考えるだけで、ぞくぞくと背筋から快楽が迸って身体中を駆け巡る。めりぃは、わたしに、犯されて、こんなに、いやらしく、なってる、なんて、おかしくなっちゃうにきまってるよ。
親愛なる人を想って小さなキスを何度も何度も繰り返すたび、くちびるがくちゅくちゅと淫らな旋律を奏で始める。
清楚にして可憐、凛とした絶世の美貌を保ち続けながら――メリーはうっとりと恍惚の表情を浮かべて、わたしから与えられる愛撫をされるがまま享受していた。
抵抗する意思を完全に失いつつある身体は快楽に従順だった。すっかり緩んでほころんだ薔薇の花びらから、すうっと透明な雫が真っ白な首筋を伝って流れ落ちていく。
めりぃ、の、味が、する。くちびるの隙間から吐き出される浅い呼吸が、ゆっくりと重なって心地良い。そうしているうちに甘ったるい息吹がシンクロして、全身の力が完全に抜けてしまう。
ああ、それなのに、心だけは焦れったくてずきずきと疼く。ただわたしが強引に犯してるだけなのに、それをやさしく受け止めてくれるメリーの想いが伝わって来て、モノクロの空を吸い込んだ瞳から涙が零れた。
「はぁ、ん……れん、こ、すき、すき、ぁは、もっとぉ、あ、はっ、ぁ、あ、あ、はぁん…………」
いつも凛とした澄んだ美しい旋律を奏でるメリーの声色が、鼻にかかるようなカタコトの言葉でキスをおねだりしてくる。
その甘い誘惑に呼応するようにねっとりとくちびるを舐め回してあげると、火照る吐息が一際艶やかな色を帯びて芳しい香りを醸し出す。
夜霧の夢を見せる花の残り香は芳しいフローラル・フローラル。何処までも妖しく誘い惑わす美しい薔薇の花びらに舞い降りたアゲハチョウは、ひたすらにその甘い蜜を貪り続ける。
重ね合ったくちびるがとろけるように甘く融解してしまって、お互いのボーダーラインが分からなくなる一体感がたまらなく心地良い。花びらが綻んだ箇所から溢れ出す愛おしさを纏った液体が、快楽を司る器官以外を完全に麻痺させていく。
人間の頭なんて単純で、ほんの数グラムの薬物を入れてやればすぐに気持ちよくなれる。要するに恋だってそれと同じことなんだから、キスなんていけないクスリでおかしくなっちゃう私達は極めて普通だよ。普通におかしくなっちゃうの。あはっ、最高だね。
真上からくちびるを覆い被せて、ねっとりとした口付けを何度も繰り返す。その綺麗な花びらの一枚一枚を丹念に、万感の想いを込めてしゃぶってあげると――いちいちあられもない声で鳴いてくれるから尚更愛しくなって仕方ない。
もうメリーは完全に力が入らないみたいで、身体を抱きしめるてのひらがふるふると震えていた。欲しい。もっと欲しい。貴女の全てが、欲しい。そうメリーは懇願するかのように、てのひらが悩ましく服の上から腰の辺りを物欲しそうになぞる。
こんな激しくキスをした経験なんて一度もない。でも最愛の人と交わす口付けが此処まで情感を揺さぶるもので、エクスタシーに満ち溢れてるなんて……もどかしいのはわたしも一緒だけど、ずっと焦らされたままプライドを捨ててしきりにおねだりするメリーも可愛い。
上のくちびるをついばんでちゅっちゅっとキスを何度を落としてみたり、下のくちびるに舌で思いきり唾液を塗りたくってあげたりするたび、くんくんと鼻を鳴らしながら甘ったるい吐息を繰り返すメリーはもう完全にわたしの虜になっていた。
境界線上から溢れ出した甘い蜜が三日月型の先端から、すうっと純白の雪肌に美しい流星を描く。淡い蛍光灯に照らされて宝石のような輝きを放つ真紅の瞳に映るのは、間違いなく『現在』のわたし。彼女が憧れた『過去』のわたしは何処にもいない。
好き放題されるがままにわたしのくちびるに蹂躙され続けて、儚くも陶酔しきったメリーの眼差しからはもう『正常』なんてとっくに消え失せていた。狂ったわたしのことを真直ぐで純粋な感情で受け止めてくれて、たまらなく愛しく想ってくれている。
ああ、貴女に抱かれて天国に墜ちていく、ゆらゆら、ゆらゆら、気持ち、い、い、よ……このまま、死にたい。きっとメリーなら、わたしの言うこと何でも聞いてくれるよね。このまま狂い叫んで、一緒にジサツしようよ。わたし、もう、ひとりは、いや、だから。
――もっと貴女のあられもない姿が見たい。メリーの秘密を全て曝け出して欲しいの。
わたしはメリーとおかしくなりたいだけ。貴女のことならどんな事実だって受け入れて、その全てを愛してみせる。
今しかないわたしが嘘をつくことは許して欲しい。多分ふたりでおかしくなったら、メリーも同じように考えられるよ。
わたしのことを、全て知りたいと想うはず。自分のありのままを分かって欲しいとは勿論思うけれど、何もかも理解して貰いたいなんて我侭は言わない。
ただ今の狂ったわたしが信じる唯は、信じること。メリーを、信じる。こんなわたしを知っても、メリーは愛してくれるって信じてるから。
それで結果わたしが嫌われてしまったとしても、今日と言う日は間違いなくメリーの心の中にしかと刻まれる。
自分が宇佐見蓮子を殺した。自分が宇佐見蓮子をジサツに追いやった。貴女はやさしいから、そうやって自責の念に駆られる未来も容易に予想できる。
そんな風に貴女を苦しめることなんて絶対にしたくないし、あってはならないことなんだよ。だけどわたしがジサツを望んでいるって想いは、きっと多分メリーにも受け入れて貰えない。
だからわたし自ら手を下す。このわたしが狂おしく喚き叫ぶほどにメリーをぐちゃぐちゃに犯して、頭がおかしくなっちゃうような快楽を与え続けてあげる。そうやってメリーも壊れてしまったら、そんな心配なんてしなくても済むから。
大丈夫、安心して。メリーも、ただわたしと同じになるだけだよ。わたしがいないと生きていけない、それはつまりわたしが死んだら自分も死ぬしかないってこと。マエリベリー・ハーンにとって、宇佐見蓮子のいない世界なんて何の価値もない。
何もかも全ての事柄が、わたしとメリーどちらかがいないと意味を成さなくなっちゃうんだよ。お互いの中でしか存在価値を見出せない、そんなふたりだけの世界を生きていくの。ねえ、それってさ、とても素敵な未来だと思わない――?
――万が一失敗したら、一緒に死ねばいい。
メリーを殺したら、わたしもすぐに後を追うから。ずっとわたしたち、いっしょだよ。
うそ、うそつき。わたしは馬鹿だ。狂ってる。メリーには何の罪もないのに、どうしてメリーが死なないといけないの――?
「あ、は、めりぃ、めりぃ、ん、は、あい、してる、だいす、き、だよぉ。だいすき、だいすき、だからぁ、あぁんっ……」
今私達が口にしている言葉には虚飾のかけらはこれっぽっちも混じってない、何もかも全て生々しい感覚の垂れ流し。
可憐に咲き誇る黒い薔薇の甘い蜜を吸い続けるアゲハチョウはそれだけでは飽き足らず、その奥へ奥へと焦れったくなる速度で侵入を試みる。
お互いの口先に出来上がった水溜りの中にすうっと舌を差し込んで、くちゅくちゅと音を立てながら艶やかな花びらを撫でると、メリーのくちびるはあっさりと隙間を広げた。
小さなキスを繰り返して焦らされた末に吐き出された吐息は、発情しきった女の子が放つ濃密な甘い香り。だらしなく開いたくちびるを舌で持ち上げてあげると、もうどちらのものかも分からなくなった甘い蜜が、だらだらとメリーの口の中に流れ込んでいく。
こくん、こくん。白い喉を鳴らすメリーの仕草がサイケデリックな衝動を加速させる。その喉奥の先、脳か心臓まで恋の麻酔塗れなベロを突き刺して、頭がどうにかなっちゃうくらい、ぐちゃぐちゃに犯しちゃうからさぁ、いっしょに、気持ちよく、な、ろ、う、よ、ぉ。
「ぁ、はぁ、や、れんこ、れんこ、れん、こぉ、ん、は、ぁ、ぁ、ぁ、わた、しだって、す、き。あい、してるんだからぁ、あ、はぁんっ」
「それならぁ、もっと、もっとぉ、おし、えてよ。わたしの、こと、どれだけ、あいしてるの、かって、ぁ、はぁん、ぁ、はぁ、めりぃ、めりぃ、めり、ぃ……」
甘ったるい声色で互いの名前を呼び合うだけで、狂おしいほどの愛しさが心の奥底から溢れ出す。
もうわたしとメリーには正気なんてなかった。お互いのことを満足させようと、気持ちよくなって欲しいという想いしか残されていない。
「は、ぁんっ、やだ、いや、れんこに、おしえてもらうんだからぁ、は、ぁ、もっと、ちゃんと、わからない、たりな、い、そんなやさしくなんて、いやぁ……」
「あはっ、めりぃって、こうやって、犯されるのが好きなんだ。マゾなんだ、きゃはっ。めりぃ、もっとぉ、乱暴にして欲しいなら、ちゃんとおねがいしなくちゃダメだよ。もっと、ほらぁ、わたしのこと、もとめてよぉ」
「あぁんっ、だ、ってぇ、れんこが、強引だから、わたし、そんなんじゃ、ぁはんっ、や、はぁ、おか、しくなるぅ、はぁんっ、あ、ぁ、ぁ、ぁ、ん、は、はずかし、いぃよぉ……」
ろれつが回ってない会話の中にさりげなくメリーの羞恥心を煽る言葉を入れてやるだけで、唇弁から吐き出される甘い吐息がより深く艶やかになっていく。
いやいやと軽く首を振ってはいるけれど、そのたびに黄金色の髪の毛が幻想的に舞って、ワンテンポ遅れて快楽が駆け巡って身体が震えている。その恥じらいの意思とは真逆の反応を見せるメリーがたまらなく愛しい。
飲めもしないアルコールをひどく煽った時に見える、世界がぐんにゃりと歪むような感覚。あれと似てしかし異なるうっとりしてしまう快感と共に、何処までも甘く切ない想いが心の中でふわり弾けては消えていく。
どうでもいい言い訳を繰り返すメリーの浅い呼吸を強引に吸い上げると、ふしだらな熱が篭った呼気が流れ込んできた。
わたしの口の中があっと言う間に甘美な愉悦で満たされて、おかしく、なるぅ。狂おしいほどの愛に満ちた吐息は粘膜を透き通って、あたま、が、ぼうっとしてくるぅ。
甘くスウィートなココアを飲み込んだ時みたいな粘り気の強い濃厚な想いと浅ましい欲情は、ねっとりと喉の奥で絡み付いてなかなか心の底まで届かない。
そのメリーから受け取ったきゅんと胸が切なくなる素敵な想いに、たっぷりのサイケデリックな想いを付け足してゆっくりとメリーの口の中に送り返してやる。
愛しさを、切なさを、狂おしさを……わたしの想う全てを、小さな接吻を、何度も何度も繰り返す。あはっ、人工呼吸器がないと生きられない身体になってしまうのかな、メリーが息を吹き込んでくれないと、わたし死んじゃうよぉ。
「あ、はぁんっ、こんなにわたしのこと、さそっておいてさぁ、はずかしいとかやめようよ、なんて、おかしいんだから。めりぃ、わたしのことすきなんでしょ?」
「ん、はぁ、うん、そんなの、いま、さ、らぁ、ぁはっ、んっ、どうして、そんなことぉ……きくの…………わた、し、もう、こんなになってるの、知ってるくせにぃ」
「それならさ、ちょっとは反抗してみなよ。わたしもめりぃに犯され、て、ぁ、はぁ、みた、い、しぃ……あはっ、どうせ、できなんだよね、めりぃはわたしの、と、り、こ、だもんね」
とことんマゾっぽいメリーは煽れば煽るほどあられもない反応を見せるので、わたしの行為はどんどんエスカレートするばかり。
お互いの唾液で潤んだくちびるを、外側から内側まで丁寧に撫で回す。ナメクジのように這い回る舌をメリーのくちびるの裏側に回すと、完全にほころんだ隙間から漏れ出す淫らな吐息がわたしの頬をやさしく撫でる。
胸に広がる甘く切ない感情と相反する醜い支配欲で頭は完全にとち狂っていた。わたしとのキスで隷従の契りを交わしたメリーは、普段の清楚で凛とした佇まいとは異なる甘美な色香を以ってサイケデリックな脳内を無意識に誘惑する。
「ぁ、は、そ、んなことぉ……いい、わた、し、れんこのぉ、とりこでも、どれ、い、でも、いい、から、もっと、してよぉ、もう、じらすの、いやぁ」
「いいこだねめりぃは。でもさぁ、わたしだって同じなんだよ。めりぃのとりこなの。だからぁ、めりぃが感じてるの見てると、わたしまで、あ、はっ、ちゅる、くちゅぅ……」
鼓膜に届く言葉のひとつひとつが脳内を犯す猛毒となって、見目麗しきお姫様の心を確実に侵食していく。
紡いだくちびるの先からふわり漏れ出す花の匂いがより深く妖艶な色に変わって、メリーは心酔しきった表情を切なげに歪める。
段々とお互いの呼吸が荒くなって、言葉も息も絶え絶えになってくる。喘ぎを止められなくて全開になったくちびるを、屈辱的とも取れる強引なやり方で貪り尽くす。
すると、メリーも、欲しい、欲しいと、中に招き入れるように花びらをゆらり、ゆらり。わたしのくちびるにぴったりくっつけるように動かして、ひたすらに快楽をせがむ。
あはっ、麻薬中毒者みたいにキスをおねだりする、めりぃ、とても、とても、可愛い。
この狂おしいほどの愛を確かめ合う素敵な戯れはまだ始まったばかりなのに、もうクスリに酔っちゃうなんてめりぃったらいやらしい子なんだから。
でもそんな貴女も可愛いから許してあげる。はじめてだもんね、わたしだって、恋ははじめてだよ。エッチなことだって、女の子とはしたことないよ。
どうしたらいいのか分からないけど、メリーはわたしがしてあげるだけでいいんだよね。どんな色っぽい声で喘いでくれるのか、考えるだけでわたしだっていやらしい気持ちになっちゃう。
わたしとメリーが興じているお遊びは、ただくちびるを交わして交換しているだけ。それなのに、こんなにも頭をおかしくするエクスタシーの大半は、自分の心の奥底から垂れ流されていることがはっきりと感じられた。
今にも途絶えそうな、熱っぽくて浅い呼吸。だらだらと垂れ流しのよだれを飲み込む音。くちゃくちゃと舌先でクスリを作って、流れ出した唾液がメリーの舌に当たる音。セクシャルな雰囲気を醸し出す音の数々が室内に反響し続ける。
「や、あはぁ、れんこの、いじわる。いじわ、る。いじわるぅ、なんだ、から。そんな、や、はぁんっ、そん、なにぃ、いじわるするの、もうやめてよ、わかってるんでしょぉ」
「いじわるなんて、ぁは、して、ないよぉ。わたしはめりぃがすき、だから、あいしてるから、ん、ふ、好き、だからぁ、こうしてかわいがりたくなっちゃうんだよ。ほんとは、めりぃだって、こんなふうに、ずっとされてたいくせに……」
「いや、ぁ、もう、わたし、がまん、できないんだからぁ。はやく、はやく、れんこ、れん、こ……あなたが、あなたが、ほしいんだから、いじめるの、もう、いやぁ…………」
ただ想いを貪りたいがために、私達はひたすら吐息を重ね続けた。
親愛なる人の瑞々しい花びらはもはや全開のまま、わたしの肌とぴったりと密着して離れない。
くちびるから溢れ出す甘い蜜をこくんと飲み込んでみせると、メリーは恥辱と陶酔の交じった恥ずかしそうな表情を見せてくれる。
そしてまた激しくキスを繰り返すと、その表情はすぐ倒錯的な恍惚に飲み込まれてしまう。唾液塗れになった口端から漏れ出す吐息が、ふわんと頬に吹き付けられる感触がたまらなく心地良い。
ちゅっ、ちゅっ、とわざと音を立ててやると、薄桃色のリップが狂おしげにわたしが欲しいとせがむ。メリーが本能のレベルから服従を誓って、わたしを求めてくれることがとても嬉しかった。
死んだ『わたし』なんて忘れて、今を、今を愉しみたいと、無心でわたしのくちびるを貪るメリーの姿が尽きることのない情欲をそそる。だらだらと流れ落ちる唾液の糸がつつっと跡を残して真っ白な肌から零れ落ちていく様は、あまりにも艶やかだった。
――あはぁ、おかしくなる。おかしく、なる。おかしく、なるぅ。おかしく、なっちゃうよぉ……。
こんな甘い甘い甘いアマイアマイキャンディを舐めしゃぶり続けていたら、どんな人だって五感が破壊されて身体がおかしくなってしまうに決まってる。
援助交際なんて行為で売られている愛なんて質の悪い粗悪品。わたしを買っていく男の人はあんなちゃちな恋愛で一瞬だけ気持ちよくなってはいお終いだったなんてチョー笑えるんだけど。
あの事後のどうしようもなくけだるい感覚とか、むなしさ、空虚さ、その類は多分一切残らない。わたしがメリーから与えて貰う想いは刹那なんかじゃない永遠だから。
触れ合ったくちびるの先からゆらりゆらりとたゆたう感触は、心の中でメロンソーダみたいにしゅわしゅわ弾けて消えて、すうっとわたしの世界の内側に染み込んでいく。
何処までも切なくわたしの心を蝕む与えられるこんな甘美な快楽がお金で買えるなら、わたしは幾らでも身体を売るし、楽になれるなら延々と手首を切り続けるよ。
終わることのない夜。ざあざあと降り止まない雨をもたらす暗雲が星空を覆い隠して、私達の時間を完全に停止させている。
この眼から時間が把握できるなんて概念はもうとっくに消え失せた。今わたしの黒い瞳に映る景色は――目の前でいやらしい快楽に溺れるお姫様のあられもない姿だけ。
こんなにも、どうしようもないくらいに、貴女と狂いたいと、おかしくなりたいと、わたしは望んだ。だけどそれは全部メリーのせい。メリーのせいだよ。メリーのキスがいけなかったの。
あの時にわたしがビルから飛び降りたその日から、貴女も今を望んでいた。宇佐見蓮子の手によってぐちゃぐちゃにして欲しい。宇佐見蓮子のラヴドールとして、ずっと、ずっと、可愛がって欲しい、と。
ああ、わたしの願いはようやく叶う。もう手遅れ。何もかも、手遅れなんだよ。私達は共犯なんだから。そのプライドとか矜持の類、すべて壊してあげる。大事なものは全部壊してしまうの。
この世界にたった1mmも未練が残らないように、わたしの親愛なるメリーをずたずたに切り刻んで、ばらばらに壊してあげる。わたしの想いで、全て、全て、壊し、て、あ、げ、るぅ。
もしも生きることになったとしても、メリーを犯すことで得られるクスリがあれば、それだけでわたしは十分だよ。メリーが好いていてくれたら、抱いてくれたら、わたしは生きていける。
もうわたしは、メリーが隣にいないと、貴女がいないと、生きていけない身体になってしまった。後悔なんてない。もう完全に吹っ切れて頭が壊れたわたしには、そんな感情はこれっぽっちも残ってない。
ずっと、ずっと、メリーとこんな関係なりたいと想い続けていた。だからメリーがいない世界なんて何の価値もない。こんな場所に留まる理由も何処にもない。わたしとか人間は、みんな壊れやすくできているから、大切に扱ってね。
さあ、そうしてわたしが壊れたとして、ジサツの方法は幾つあるのでしょうか。あれやこれやで苦しいものばかりだけど、どれも貴女に捨てられる絶望に比べたら何のことはない楽な方法ばかり。
メリーに捨てられると想うだけで胸が張り裂けそうで、きらいなんて言われたら、フられてしまったら、わたしは今すぐにでもこの手首を切ってジサツする。わたしの存在価値はメリーに愛して貰うこと、たったそれだけしかないのだから。
あはっ、きっとそれがわたしが死ぬための正しいジサツの方法だよ。それでね、わたしがおかしくしてあげたメリーも、わたしがいないとイヤってジサツするの。一緒ニ死ノウヨ。独リデ死ヌノハ寂シイヨ。アノ奈落ノ底に見エル天国ヘ墜チテイコウ――?
狂おしげにキスをせがむメリーのだらしなく開いたくちびるの中に、お互いの唾液で塗れた舌をそっと突き入れた。
その奥で待ち構えていたぬるりとした器官をぺろりと舐めあげてやると、しなやかに引き締まった肢体が快楽に悶えてがくがくと震え出す。
そのまま抱きしめてた片方の腕を解いて、ゆっくりとメリーのスカートの中に手を忍ばせる。
もじもじとすり合わせていた太腿のじっとりとにじんだ汗をすくい取りながら、ずっと待ち焦がれていたエデンの園へ踏み込む。
抱きしめ合った肌から伝うやさしい体温は、くちびると同じようにゆっくりと溶けて交じり合っていく。ああ、ようやく誰も知らない真っ白な世界で、わたしとメリーはひとつになれるんだ――
<Dreaming Sweetness>
<Psychedelic Syndrome>
――きっと、全て、全て、夢なんだよ。
いずれ、覚める、夢を、わたしは、見ている。
見えないものばかりの世界で、貴女と空を見上げた夢。
知らないことばかりの世界で、貴女のことを失った夢。
要らないものばかりの世界で、貴女のことを忘れた夢。
分からないことばかりのふたりは、ただ寄り添って笑うことしかできなかった。
もしも時計の針を戻す魔法があれば、この無力なわたしも生きたいと思えるはずなのに。
――すき。きらい。すき。きらい。すき。きらい。すき。きらい。すき。きらい。すき。きらい。
可憐に咲き誇る漆黒の薔薇を乱暴に摘み取って、花びらを一枚、また一枚。最後の一枚を引きちぎって意識が飛んだ瞬間、目の前が突然暗転して誘われた白の世界。
ゆらり、ゆらり、お互いの想いだけが伝う。此処には境界線が存在しない、ボーダーラインが存在しないから、わたしもメリーも輪郭を失って、全てが白昼夢の中に溶けてしまっているみたい。
いつかわたしが夢見た世界の限界を超えると、その先にはこんな景色が広がっているのかな。蒼い風が吹いて、心の種を蒔いて、想いと言う名の水をやって、やがて小さな息吹は幻想の花となって咲き誇る。
それは遥か昔に死んだわたしが考えそうな妄想だった。ひょっとしたら、此処はメリーの穢れなきイノセンス。メリーが想像するわたしの『詩』の夢なのかもしれない。何故か分からないけれど、はっきりと思い出せる、あの詩を書いていた頃のわたし――
そんな世界も突然暗転して、わたしは無理矢理現実に引きずり戻された。
ふと隣を見ると、すうすうとやさしい寝息を立ててメリーが胸の中で眠っている。
その安らかな寝顔を見ているだけで、小さな灯火が心に宿る。些細なことで感じる何気ない幸せすら、夢か現か分からなくなってしまう。
あの後の記憶は飛び飛びであやふやだけど、わたしの左腕のリスカ痕を見てメリーが泣き出したことだけは、はっきりと覚えてる。
どうしたらいいのか分かってるのに、分からないフリをした。ごめん、ごめんね。うん、約束する、もう絶対しないから――そう、嘘をついた。
そしてこれからも、わたしは嘘をつく。メリーに愛して貰えるような自分を演じるために、嘘を繰り返す。そうやって今しかないわたしは今を誤魔化して、明日と未来に怯えながら生きる。
そんな不安を抱え込んでしまって、全く眠れそうにない。明日は、未来は、わたしとメリーは、どうなってしまうのかな。怖いよ。とても、怖い。だって朝が来てしまうんだよ? ねえ、メリーは、怖いと思わない?
ああ、この夜を永遠に変えてあの空に還ることができたら、こんな夢見がちなわたしも必ず幸せになれる。ただ、ただ、わたしは、こうして眠り姫の隣で咲く白い花になりたいだけなの。
――わたしとメリーってさ、付き合ってるんだよね?
最後の最後まで、喉の奥でつっかえて吐き出せなかった言葉。臆病なわたしは口に出す勇気がなくて、その問いを無視してぐちゃぐちゃにメリーを犯した。
きっとわたしは希望の代償として、とてつもない絶望を科せられる。それはずっと死んだ『わたし』を演じることを決めた宇佐見蓮子に対する神様からの罰だから――
</Psychedelic Syndrome>
</Dreaming Sweetness>
3.終の棲家
――いつもとは違う、おかしな夢を見ました。
夜空には星も月も出ていなくて、わたしの周りはゴミだらけ。
はらはらと舞い散る微粒子は星クズかゴミクズか、どちらにしろ何の意味もありません。
ただブラックホールに吸い込まれて黒に染まって溶けていく様が、たまらなく心地良かったです。
わたしはあらゆる悪徳こそが人間存在の本質であり、善とはかろうじて悪ではない状態に過ぎないんだと考えます。
リスカやオーバードーズを繰り返すことはそんな悪徳のひとつであって、転じてしまえばとても有意義なメリットに変わり得る『善』としか捉えようがありません。
それは例えばどういうことかと言えば、わたしみたいなクズが死ぬと酸素を消耗しなくて済むし、税金その他諸々の社会的負担の軽減及び自然エネルギーの簡素化、病院のベッドにもひとり分の余裕が生まれる等々。
ジサツとは極めて社会や経済活動、ひいては地球のエコロジーのために有意義な行為なのです。そんな善行のために死にたい死にたいと喚き叫んでも死ねなかったわたしが生きる日々はこんなにもむなしくてむなしくてむなしくて――
<blue moment>
<sentimental memories>
どうか、どうか終わらないで。この夜を終わらせないでください。
朝日が昇ってきて、やがて星が見えなくなって、時間が分からなくなるまで、わたしは延々と願っていた。
ずっと正しき祈りを、捧げていたはずなのに……案の定と言うべきなのか、そんな淡い期待をあっさりと裏切る辺り、神様は何かしら恨みを持っているらしい。
夢から覚めた後に平然と突き付けられる、このどうしようもなくやるせない現実。それにうんざりする朝はもう慣れっこだったけれど、やっぱり結局のところ抗う手段は何処にも見当たらず、わたしはただ晴れ渡る空を仰ぐしかなかった。
さっと身支度を整えるメリーをベッドの上からぼんやりと見つめていると、自分が何ひとつ成し得てない気がして心をかきむしられるような想いに駆られてしまう。
――行かないで。
たった一言そう抱きついて泣き叫べば、メリーはずっとわたしの隣にいてくれるのかな。
もしもその願いを聞き入れてくれるんなら、私達は駆け落ちしてしまおうよ。それも悪くないよね。
でもメリーにも友達や家族がいて、大学があって生活があって……わたしが持ってないものを、沢山沢山抱え込んでる。
昨日身体を貪り合った時の記憶は随分と曖昧だけど、あれは行きずりの恋、仮初めの恋、そんな類だとは思えないし思いたくもなかった。そうだったとしても、どうして、どうして、メリーはわたしに『好き』としか言ってくれないの?
聡明な貴女だからこそ愚かなわたしとは違って、明日のこと、未来のこと、きっと色々考えてるはずなんだ。ねえ、ずっと、ずっと、わたしにかまってよ。メリーがいないと、わたしはどうしたらいいのか分からない。やっぱり、ジサツするしか、ない、のかな。
ううん、違う。それは絶対に違う。わたしがジサツするのは、メリーに嫌われたその瞬間だから。
今もメリーは何も言わないけど、ずっとわたしを好いてくれている。きっと多分わたしとのこれから、あれこれと想うところがあるんだよね。
だから今しかないわたしにできることは何か、それをわたしも一緒に考えないといけないんだ。ずっとメリーの傍に置いて貰えるような、メリーの愛してくれるメリーの大好きなわたしで在り続けたい。
ちゃんと上手く偽りの自分を演じられる自信もないし、きっと長く付き合っていたらメッキは剥がれてしまう。現に昨日のわたしは『今しかない』なんて自分のエゴ丸出しで、欲望の赴くままにメリーを犯した。
そんな汚いわたしでも、大好きだと、愛してると言ってくれた貴女を永遠に愛していたい。そう願って止まない今のわたしにできる手段は、あの昨日過ごしたかけがえのないひとときを永遠に変える魔法を探し出すこと。
ああ、少しずつ、ほんの少しずつでいいから、ちゃんと受け入れて貰えるわたしになれば、あんな詩はもう書けないけれど、それでも愛して貰えるわたしになれたら、きっとジサツしたいなんて思うこともなく、メリーと幸せになれる――
ひょいとベッドから飛び降りて、化粧台の前に座ってるお姫様に後ろから思いっきりハグしてあげると、とても嬉しそうな猫撫で声で笑ってくれた。
いたずらっぽい口調で「やってあげるよ」なんて言いながら、無理矢理手に持っていたドライヤーを奪い取ってメリーの髪をわたし好みにセットする。
見たこともないブランドの洗い流さないトリートメントをを付けて、やさしく丁寧にブローするだけであっと言う間に流麗で艶々なヘアメイクの出来上がり。
その後は何故かわたしもやって貰う羽目になって、あれこれ言い合いながら髪の毛を綺麗に整えてくれるメリーが超楽しそうで、じゃれ合ってるだけでとても幸せ。
わたしは確かに此処にいて、メリーの隣がわたしの居場所で、こうしてやさしく、やさしく愛して貰える。メリーがいなくなってしまうなんてイヤ。誰かに取られてしまうかもしれないなんて考えるだけで、胸が張り裂けそうな悲鳴を上げて軋む。
ひらいたてのひらを、じいっと覗き込んでみる。此処は現実でしかなくて、これから神様のいない世界をひとり歩いて生きていくのかな。それもイヤだけど、今のわたしには『現在』が永遠に続いて欲しいと祈ることしかできなくて、鏡に映る無力な自分を心底恨んだ。
◆ ◆ ◆
がたんがたんがたんがたんと揺れる車内で、わたしとメリーは一言も交わすことなくただそっと寄り添っていた。
折角の日曜日なのに何なのかな。朝っぱらから山手線は背広姿のサラリーマンや街に繰り出す友達やカップル連れでうんざりするほど混雑している。
見送りは要らないとメリーに散々言われたけど「イヤだ絶対に付いてく」と駄々をこねた手前、わたしが文句を言う余地はこれっぽっちもない。
そっとメリーから伝う体温を感じながら辺りを見回すと、此処が、この車内が、この社会が、この世界が、余計おかしく見えて仕方ない。
疲れ果てた顔で出勤する人達は死んだ魚のような目をしているし、今はきゃっきゃと騒いでる同年代の子達だって、きっとお祭り騒ぎして遊び終わったら帰りの電車でむなしく空を見上げるんだ。
みんなあからさまに疲れた顔をしていた。こんなどうしようもない現実で、何処からともなく不安を突き付けられたまま過ごす日々に、ほんの少しだけ刹那の快楽を混ぜた時間。それが神様が与えた『人生』と言う営みならば、それは随分と残酷なものだと思う。
こうして電車なんて棺おけで毎日毎日『学校』とか『会社』って名前の火葬場に無理矢理通わされて、死ぬまでそれの繰り返しって何か変、おかしいよって感じるのはわたしだけなのかな。それはとても単純な話で、幸せなんて概念は平等に分配されてないんだもん。
例えばリア充とかその類の言葉で揶揄される人々や、生きてて楽しいなんて言う人は、そんな現実を見ないフリをしてるだけだよ。一年で五万人がジサツしてるこの社会で、声を上げることもできずもがき苦しんで死んでいく人を見ても、みんな平然と知らんぷり。
そんな現状を知ったかぶりで語る政治家様は、口だけの幸せを謳って自分だけ幸せになろうとする。まあ形は違えど、みんなそれは同じなんだよね。綺麗事なんか並べてみても、生きることに絶望するだけだから。自分が幸せなら、他人の存在なんかどうでもいいんだよ。
みんなみんな自分の存在を物語の主人公だと自負してるし、わたしみたいに悲劇のヒロインだと思ってる。でもね、この世界は命の数だけ主人公がいる、それは嘘だよ。みんなどうなるかなんて予め決まってる。産まれた時からはめられたんだよ、神様って悪いヤツにさ。
――希望的観測を膨らませる余地が、私達の頭の中の何処にあるとでも言うのかな?
あの浅いまどろみの中では、はっきりと思い出すことができたのに、もう、それは、叶わない、みたい。
ああ、死んだ『わたし』が想い描いてた詩の世界の話を、小さな恋の詩に変えてメリーに聞かせてあげたかったのに――
チェックアウト寸前まで惚気合ってたせいで、東京駅に着いた頃の時刻は発車ぎりぎりに近かった。
人ごみでごった返す構内は道行く虫けらの往来が激しく、ちょっとでも気を抜くとすぐにはぐれてしまいそう。
此処でメリーを見失って迷子になったら、もう二度と会えない気がして、お別れも言えないような予感がして、わたしはぎゅっとてのひらを握り締めた。
その指先から伝うぬくもりは、ゆらり、ゆらり、感じると心がきゅんと切なくなる。それはまるで夢みたいな感覚でどうしてもうっとりしてしまうけど、これは妄想や幻覚でもクスリでラリってるわけでもなければ、決して幻なんかじゃない。
今しかないとか言って刹那の快楽へ逃げ込むわたしは、メリーのおかげで……明日のこと、そして未来のことを、ほんの少しだけ考えられるようになった。死んでしまえば全て終わるはずの未来を考えるなんて馬鹿馬鹿しい戯言を、今の自分はちゃんと意識してる。
それを含めても今しかないわたしは、昨日の出来事を在りし日の思い出になんかしたくない。もしもこの命に意義が存在するのならば、最愛の人を犯す快楽を愉しむ営みこそが人間の本質であって、それは『日常系』なんて綺麗な物語として収めるべきものじゃない。
物語っぽく言うならこうかな――『ずっと、ずっと、遠い未来に、あの頃の私達はあんなだったねって、ふたりで笑うための「はじまり」だから。』みたいな。そんな風に考えられなくなったから詩を忘れてしまって、それはきっと大人になったって言うことなんだよ。
たたっと卯酉新幹線のホームに急いで駆け上がると、既にヒロシゲは到着済みで人々がぞろぞろと乗り込んでいる。
ふと空を見上げると、ちょうど発車時刻の5分前――『間に合わなければ良かったのに』なんて心の中でもうひとりのわたしが笑った。
おみやげ、買わなくていいの。お別れのラブレターとかないの。わたしの分の乗車券、買ってもいいかな。このてのひらを繋いだまま、1.2.3で線路に飛び込もうよ。わたしがいないとイヤって泣いてよ。わたしが此処で泣き喚いたら行かないでくれる?
あれだけ話すべきことを考える時間があったはずなのに、こんな時に限って伝えたい言葉が次々と溢れ出す。最後の願いに呼応するかのように昨日メリーと出会ってから病んでいたはずの幻聴が甦って、わたしの頭の中でうわんうわんと輻輳して鳴り止まない。
今しかないわたしの想いは? このまま何も言えないの? 私達、付き合ってるよね、とか、これからどうしよっか、とか、また逢おうね、とか。違う、わたしは、何を言えばいいの? 行かないで、そう言って泣けばいいの? 違う、全然違う、わたしは、わたしは――
" め り ぃ の こ と が す き だ か ら "
「メリー」
ああ、貴女を夢に見た時、わたしが付けた名前が、こんなにも美しい名前で……心に言えば、それだけで満たされるの。
荷物を持ってた分手ぶらな腕で、所在何気にしてるメリーの身体をぐっと抱き寄せると、ふわり舞い踊るようにわたしの胸の中に収まった。
少しだけつま先立ちになって、そのままくちびるの位置を合わせる。靴の分を差し引いてもメリーの方がちょっとだけ背が高いから、こうしないとくちびるがフィットしない。
そっと上目遣いで見上げると「キスして」と惚気た微笑みを浮かべて、メリーが恥ずかしそうにまつげを伏せる。わたしにはサディスティックでいて欲しい、そんな意思がさり気なく伝わって来た。
うっすらと頬を赤らめた艶やかな表情を見ていると、ふとあの晩の出来事を思い出す。
きっと、そうなんだよね。わたしもメリーも、繋いだてのひらを離せないのは、あの甘く切ない想いが忘れられないから。
やさしく抱きしめたしなやかな肢体に手を回してから、首を小さくかしげるとメリーがそっと眼をつむる。さらり流れた金色の髪の毛が、美しい空想の星座を作り出す。
わたしの親愛なる人はあまりにも見目麗しくて、目が眩んでしまいそう。ああ、鮮やかに色付いた貴女の想い、わたしだけに届いて、永遠に……。
――あいしてる、めりぃ。
そう小さく呟いて、ゆらりくちびるを寄せた。
薔薇の香りがするキス。ふわんと甘く切ない色香に恋の眩暈。
メリーはいつもやさしいけれど、こんなにやさしいキス、はじめてかもね?
慌ただしい喧騒の中、わたしとメリーの時間が止まったような感覚。
ううん、違う。ちゃんと重ね合った胸元から時を刻む音がする。このままヒロシゲが行ってしまったら、メリーはどうするつもりなのかな。
ふと、わたしは思った。気付いた、と言う方が正解かもしれない。どうしてメリーが何も言わず、もうすぐ発車してしまうヒロシゲなんて気にすることもなく、こうして素敵なキスに興じているのか。
考えすぎだよ。考えすぎだ。自惚れるのは得意だとは言え、自分の導き出した解答が信じられなかった。だけど、その閃きが正しいと言う神の託宣が今わたしの心の中、重ねたくちびるから伝うぬくもりの先、流れ込んで来るメリーの想い、その全てから――
――蓮子の好きにして欲しいの。それがキスでも、ハグでも、xxxでも、貴女が求めることに応えてあげたい。それが、私の、望み……。
そんなことを、あの時メリーは言ってた。それが嘘だとは勿論思わなかったし、とても嬉しかったけれど……今持ってる自分の全てを捨ててまでわたしを愛してくれるなんて、そんな恋愛小説みたいな話あるわけないよ。
もしもこのままわたしがぎゅっと抱きしめていたら、甘く切ないキスを続けていたら、多分メリーはヒロシゲに乗ることもしない。もしも、もしも、わたしが「行かないで」と言ったら、本当にメリーはずっとわたしの隣にいてくれる。
ありえない仮説、遺棄すべき自惚れ。でも、わたしの好きなように弄ばれることが、わたしの好きにされることが、わたしの好き勝手に犯されることが、もう宇佐見蓮子の存在と共に在り続けることそのものが、メリーの悦びであり存在意義になっているとしたら?
だから、何も言わなかった。何も言葉にしないで、繋いだてのひらとくちびるだけで、わたしに問いかけた。
それは深遠の国の姫君らしい矜持に満ちた命題であり美しいとさえ思える。『私を愛する覚悟ができているのならば、それ相応の誓いを貴女も見せなさい』――そう暗にメリーはわたしの覚悟を窺っていた。
ずっと主導権を握ってるのはわたしだと思ってたのに、実際試されていたのは自分だったのかもしれない。今しかないとか言って生きてるわたしの想いを見抜いた上で、不安定な未来を委ねるなんて暴挙に平然と打って出た。
それはメリーの穢れ無きイノセンスを犯した過ち、あるいは『はつ恋』のもたらしたメリーの狂気だとしても、わたしは為す術もなく無力。ねえ、神様でも誰でもいいから、どうすればいいのか、教えてよ。
そっとくちびるを離すと、メリーは夢現にまどろんだまま、いたずらっぽく口端に人差し指を立ててみせた。
『それで、どうするの?』なんてわたしに催促するかのように、かすかに潤んだ真紅の瞳はわたしを吸い込んでどす黒く染まっている。
恋に恋焦がれているとか、夢に夢見ているとか、そんな生温い思想を唾棄した、正気の沙汰とは思えない覚悟を宿す優艶な微笑み。もう死んだ『わたし』の詩を読んでしまった瞬間から、ずっとメリーは恋に狂っていたのかもしれない――
「……めり、ぃ?」
「ん、もっと欲しくなっちゃうから、できるだけ人前でするのはやめましょう?」
わたしは、考える。ひたすらに、考える。でも頭の中でぐるぐるぐるぐると思考が回るだけでどうにもならない。
死んだ『わたし』を演じなければ、メリーに絶交されてこんなことにはならなかったのかな。後悔なんてしてみても時既に遅し、とにかくメリーはわたしと一蓮托生の身になりたいと強く望んでいた。
それは素直に考えればとても嬉しいことで、メリーがわたしのものになった瞬間――空と地上を結ぶ境界線上で夢と現が逆さまになって世界は変わる。たった一言「行かないで、一緒にいて」と耳元で囁けば、今しかないわたしの幸せは間違いなく保証されるから。
だけど何故かそれは口にすれば何処か夢物語で、どうしようもない後ろめたさがあった。それはまるでこの世界に蔓延する漠然とした不安のような、うだつの上がらない明日に怯えながら眠る時の心境に近い。
――それで、いいの?
――それで、メリーは幸せ、なのかな?
もう生きたまま死んでいるわたしと違って、メリーにはちゃんとした生活があるはず。
恵まれた環境、素敵な家族、心許せる親友――わたしよりずっと沢山のものを抱えて生きている。
もしもわたしなんかいなければ、普通に他の誰かと恋に落ちて、愛し合って、結婚して、晴れて幸せに――それを全て捨て去ってでも、わたしの好きにして欲しいなんて世迷い事をメリーはしれっと言ってのけた。
死んだ『わたし』を演じるわたしだって、必ずボロが出るに決まってる。わたしは精神科通院のボダで自己愛だし、リスカもオーバードーズも援助交際も平然と繰り返す人間だと知っても、わたしを今みたいに狂おしいほどに愛してくれるのかな。
ただ、ただ、わたしが怖いのは……メリーが悲しむような真似をしてしまったら、それは全部わたしの責任だと言うこと。幸せな未来を神様から約束された貴女が、こんな自分のせいで心を病んで苦しみに苛まれる姿なんて絶対に見たくないから。
ああ、どうして、どうして、今しかないわたしが未来を考えているの?
わたしにとって『これからのこと』なんて言葉は、メリーに嫌われて捨てられるまでの期間だと思っていた。
でも、メリーは違う。メリーは本気で、わたしと永遠になりたいって考えてる。死んだ『わたし』が残したあの詩は、どんな対価を支払っても償いきれない罪を残した。
どうすればいいのか全然分からない。あの死んだ『わたし』なら、昨夜のサイケデリックなわたしなら、どう答えるのかな。さよなら、わたしは逝くよ、メリー。行かないで、わたしにはもう貴女しかいないの、一緒ニ死ノウヨ、オカシクナロウヨ。
違う、違う、そんなの違う。夢とか幻とか幻覚幻聴の類に惑わされず、わたしはふたりで幸せになる未来を提示してあげないといけないんだ。でも、そんなすぐ、思いつかないよ……ああ、きっとこれも、今しかないと刹那を望んだわたしへの罰だ――
「……メリー、早く乗らないと、ヒロシゲ、行っちゃうよ」
「お別れのキスだけでお終いなんて、私はイヤなの。それとも蓮子にとっては、もうサヨナラバイバイって感じなの? 犯しちゃったら私は用済みで、ただのラヴドールとしか見てくれていなかったのかしら?」
あの日出会った女の子が、わたしを苛立たせる。それはメリーなのか、神様なのか、それとも、死んだわたし?
突き付けられた問いから目を背けたいって想いを零してしまった途端、わたしの気持ちを見透かしてメリーはさらっと自分の胸の内を明かして見せた。
その気品高い声色に秘められた言葉の意味が、今のわたしには痛いほどよく分かる。どいつもこいつも、今までわたしを犯した男はみんなそうだった。
ラヴドールとしての値札イコールわたしの存在価値で、その根拠は淫らなメス豚だからってだけ。ただの性欲処理用○器で、わたしはわたしとして、宇佐見蓮子として見られてない。
そんな虫ケラとわたしは同類じゃない――だからこそ愛してるなんて曖昧な意思表示とは違う、メリーの決意に相応しい想いを此処で示したい。でもばらばらになった心は死滅して「どうすればいい?」と何度問いかけても返らない上の空。
今答えなければならないことは、たったひとつだけ。それはわたしとメリーを繋ぐための約束、覚悟、契約、誓い、その類――今わたしの心は募る想いで溢れ返っているのに、その気持ちをはっきりと告げられなくて滅茶苦茶情けなかった。
――わたしはね、メリーが幸せならそれで自分も幸せ、なんて美しい恋物語を紡ぐことはできない。
わたしは誰からも愛されたことがなかったんだから、いきなりあんな愛情を注いで貰ったら頭がおかしくなっちゃうに決まってる。
昨日みたいに狂ったように求めて、満たされたらその想いをガツガツと貪って、また空っぽになったら求めて……そうやって生きていくしかないんだよ。
だからきっとわたしは、メリーと付き合ってしまったらメリーを求めずにはいられなくなる。きっと四六時中一緒にいないとイヤだイヤだって駄々をこねて、メリーに構って貰うためだったら何でもしてしまう。
それでも貴女のことだから、笑って許してくれて現実としっかり折り合いをつけるのかもしれない。でも、イヤだ。そうやってメリーを困らせたくないし、メリーは、メリーだけは、ずっと変わらずに笑っていて欲しい。
そんな考え方だって、所詮綺麗事なんだよね。分かってる、分かってるから尚更どうしようもない。
たった一言、そっと耳元で「わ、た、し、の、そ、ば、に、い、て」と囁いたらメリーはわたしのものになってくれる。
もう援助交際しなくてもいいね、愛しのメリーが宇佐見蓮子のラヴドールなんて素敵。わたしと同じような快楽に従順な子に調教してあげましょう。そんなこと考えてない、わたしは、ただ、ただ、メリーを愛したくて、犯して欲しいって言うから……。
きゃはっ、言い訳するんだ、あんなによがり狂ってしゃぶりついて、あの品のあるドレスを滅茶苦茶にして、何度も何度も意識を失わせたくせに。うるさい、うるさい、お前は誰だ。わたしだよ、宇佐見蓮子。あなたに殺された死んだ『わたし』だよ。
同意の上で私達はxxxしたんだし、メリーだって悦んでくれた。あなたはただメリーを狂わせたくて、滅茶苦茶に壊したくて、あんなぐちゃぐちゃに犯したのにね。自分に嘘をつくのはよくないよ。死ね。死んでよ。あなたがいるから、メリーはおかしくなった。
ジサツしたくせに人のせいにするんだ。わたしは生きてる。ちゃんとメリーが愛してくれたから、わたしは生を実感してる。わたしが生きていると証明してくれたのはメリーなんだから。そのメリーの愛しているのは死んだ『わたし』だけど――?
心の中で意味不明なことを抜かす『わたし』のこめかみにピストルを向けて、ぐちゃぐちゃに脳みそをぶちまけさせてやった。
過去の自分に縛られるのはうんざり。あの時のわたしは死んだ、それで良かったんだ。もう生き返らなくてもいいし、過去なんて振り返りたくもない。
明日のこと。未来のこと。わたしとメリーの将来のこと――繋いでいたいよ、貴女との想い。もう私達、完全に依存しちゃってるね。
だけど本当に後悔なんて何もないの。わたしだってメリーのためなら、できるだけのことはしたいよ。させてよ。貴女のためなら、わたしはどんな罪を背負うことだっていとわないから。
――奏でてみせる、恋の病のメロディ。
メリーがこんなにもわたしを想ってくれているんだから、さよならなんて言葉は必要ない。
今の私達に必要なものは、現実と夢を繋ぐ想い。お互いを結ぶ運命の絆。未来を想って此処に光る詩――
「そんなことない! そんなことあるわけない! メリー、そんな言い方ってないよ!」
わたしは声を荒げて叫びながら――壊れるくらいに無茶苦茶に、狂おしいほどに激しく、メリーの身体を強く抱きしめた。
どんなに乱暴に扱っても、しなやかな肢体はふんわりとやさしくわたしを包み込んでくれる。ぎゅっとしてあげるだけで、切ない想いがきゅんと弾けた。
メリーはわたしにされるがまま肩口にもたれ掛かって、ゆっくりと艶やかな呼吸を繰り返す。
触れ合った肌とくちびる。絡まる細い指。わたしとメリーが巡り合えた奇跡を繰り返して、これからも幸せに――そんな小さな祈りを繋いだてのひら込めた。
「……ごめんなさい。ちょっと言い過ぎた」
「ううん、全然大丈夫。謝らないといけないのはわたしだよ。知らないフリをして、想いを隠していたのはわたしの方だから」
「ちゃんと、蓮子の想いは伝わっていたわ。あのね、私、怖いの。普通の恋人のように『またね』って言えたら安心できるはずなのに、このまま別れたら、もう蓮子と会えない、そんな気がして……」
消え入るようなか細い声と憂いを帯びた吐息。その切なさと同時にすうっと冷たい雫がわたしの背筋を流れ落ちていく。
ずっと我慢してたけど、こらえきれなかったんだよね。わたしが「可愛いのは、笑顔が一番でしょう?」なんて言ったから、ただずっとわたしの前では微笑んでくれてた。
でもわたしがはっきりしないから、有耶無耶で、ちゃんとメリーのことを分かってあげられなかったから……愛して欲しいのは、きっとメリーも同じだよね、全て託してくれたのにわたしが何も言わないから、泣いてるんだよね。
メリーの気持ちが痛いほどに理解できるからこそ、心が張り裂けそうな音を立てて軋む。この期に及んで、ようやく気付く。もう私達の小指には運命の紅い糸がしっかりと結ってあって、繋いだ想いは止め処なく心に流れ込んでいる。
ああ、そういうことなんだね。わたしの心の在り処は黒だけど、それも含めて全ての想いはメリーに伝わっていた。
交わしたキスから伝う感情は『貴女のことが愛しい』たったそれだけで良かったのに……全てメリーはお見通しで、自分がいなくなったらわたしがどんな行動にでるのか、予め察しが付いていたのかな。
貴女は射抜いた。わたしの卑怯さ。死んだ『わたし』と、今しかないと叫ぶ『わたし』のこと。そして気付いた。あの狂おしいキスの渇望、左腕に刻んだ傷痕の意味、この世界がイヤだからジサツしたいって想い。
もしかしたら、あのノートに詩を書き綴っていた頃の宇佐見蓮子はもういない。聡明なメリーのことだから、昨日わたしと身体を重ねた瞬間から、心の何処かで『わたし』がロストしている事実を感じていた。
声もなく、少しの汚れもなく、やさしくなんてなれはしないもんね。だからメリーはわたしを責めた。自分は全てを曝け出したのに、どうして素直にちゃんと想ってること、ありのままを話してくれないの?
だってわたし、メリーに迷惑掛けたくないんだよ。それにメリーはね、もっと自分自身を愛してやりなよ。わたしはその余った分でいいんだから。きっとわたしの幸せは、そのくらいがちょうどいいんだよ。
「大丈夫よ。そんなことない、そんなことは、絶対にないから」
「……約束して。約束してよ。これが終わりじゃないって、また必ず会えるって、私、蓮子の言うことなら何でも聞くから、お願い、お願いだから、愛して、私の、こと」
「メリーは自分を大切にしなきゃ駄目。わたしの幸せはメリーから溢れ出した分の余りでいいんだよ。それにね、わたしだって、このままサヨナラなんて言いたくないんだから。ちゃんと約束する。だから、信じて……聞いて欲しいの」
そっと囁いたわたしの言葉に、メリーが小さく喉を鳴らす音が鼓膜に響き渡った。
抱き合った身体から伝うお互いの心臓の鼓動が手に取るように伝わってきて、どうしようもなく心の奥底が疼く。
それこそ会いたいと思えば、いつでも会うことはできる。ヒロシゲに乗って行けば東京と京都なんて53分程度の距離しかないんだから。
でも、メリーが求めているのは「これから、私達どうしよう?」みたいな回答。ちゃんとした未来を提示して欲しい、そうメリーは願っているんだとわたしは解釈したし、それは間違いないはず。
そうだとしても、わたしは何と答えたらいいんだろう。どんな答えだったら、メリーは納得するのかな。考えれば考えるほど頭の中はぐるぐる回って、また死んだ『わたし』がうざい妄想の類を吐き出しそうでイヤになるけど、もうそんな時間も残されていない。
誓い、なんて言うと大袈裟かもしれない。ただ、本当に、今しかないわたしが未来を決めるなんて、怖い、怖いよ……。
相変わらずサイケデリックなわたしが叫び続ける。たった一言「イ、カ、ナ、イ、デ」と言えば、メリーはずっとわたしの隣にいてくれるし、ぐちゃぐちゃに犯セル、ヨ?
まず現実問題として、メリーが悦んでわたしのラヴドールになってくれたとして、わたしは自分のことで精一杯だしふたりで暮らす分のお金もなければ居場所なんて何処にもない。
パパを殺せばいいだけの話で、そうやって駆け落ちするような形でもいいのかな。全て捨てる覚悟を見せてくれたことは素直に嬉しい反面、その結果としてメリーが失ってしまう代償だって決して小さなものじゃない。
もうわたしは大分依存してしまっているけれど、このまま完全に依存してしまったら一体どうなってしまうのかな。やっぱり頭がさらにおかしくなって、狂って壊れたわたしはきっとメリーに迷惑を掛けてしまう未来しか想像できない。
それでも、どうしてもわたしはメリーと離れたくなかった。わたしの居場所はメリーの隣で、わたしはいつまでも其処にいたいと思うし、傍にいないとやっぱり頭がどうにかなってしまいそうだから。
もう忘れられないんだよ。繋いだてのひら、貴女が教えてくれたくちびるの感触、身体から伝うぬくもり、心から伝う想いの全ては、もう忘れられないんだ。
ああ、わたしはこんなにもメリーに飢えているのに、ううん、メリーもきっと求めてくれているのに、ずっと一緒にいると何もかも壊れてしまうなんておかしいよ。
逢いたくて、触れたくて、目の前にいるのに、今こうやって抱き合ってても、わたしは結局どうしようもなく貴女のことが愛しすぎて、苦しくて、冷たくて、みしみしと胸が軋む。
全て、全て、メリーのせい。わたしがこんなになってしまったのは、貴女のせいなのに、それでも幸せで、苦しくて、こんなにも、こんなにも、心が痛いよ。後悔なんてこれっぽっちもない、だけどわたしはやっぱり弱くて、貴女を幸せにできないのかな。
せめてこの東京のくすんだ空に想いを馳せたら、貴女のところまで届けばいいのに……そんな願いも叶いそうにない。何もかもワガママで独りよがりで、わたしは、宇佐見蓮子は、今どうして何を望んでいるの?
――貴女ノ傍ニイタイヨ……。
心が、正解だよ。ぐちゃぐちゃになった心の中から吐き出された想いを、わたしは信じることにした。
ただ寄り添って、何か素敵だねって空気があって、瞳を閉じたら、貴女の想いがふわり感じられて――そんな小さな幸せを噛みしめられたら、他には何も要らない。
ずっとそう在り続けられるように、その日を待ち焦がれて、わたしは言うよ。少しの間はさよなら。さよならなんだ。でもまた会えた時も、今みたいにぎゅっと抱きしめてくれるって信じてるから。
此処にいたくないってことと、何処かに行きたいって言うのは同じ意味なのかな?
どちらにしろ、わたしとメリーが出会った瞬間から、心の懐中時計はゆったり時を刻み始めた。
とりあえず、歩いてみるよ。わたしが生きるために求めていた『始まり』は見つけることができたけれど、わたしが恋焦がれていた『終わり』は何処まで歩いたら見つかるの――
「……わたし、メリーの通ってる大学、受験してみることにするよ。それで受かったら京都で暮らせるし、今のメリーの生活に迷惑を掛けることもないと思うの。昨日のことを夢にしないように、わたし頑張るから」
未来なんてどうでもいい――ずっとそんな風に考えてたわたしが決めた答えは、メリーの望む想いを汲んだ言葉にはならなかったかもしれない。
それでもそれはメリーを自分のものにしたいなんて衝動を押し殺した、わたしなりの理知的な決断のつもり。悪く言ってしまえば、ただの現在回答先延ばし。
そんな言葉をわたしの顔の真横で聞いていたメリーは、何処か物思いに耽るように押し黙ってしまう。
あれかな、その、家庭の事情とか、色々、あるから。それにわたし、色々あれだし――なんて言い訳を考えていると、ホームの喧騒の中に凛とした声が響き渡った。
「やっぱり、蓮子はやさしいのね」
「そんなこと、ないよ。ただ、ね、わたし、その……やっぱりメリーが大好きで、大切に、したい、から、無理強いしたくないの」
「昨日みたいに、私から犯して欲しいと望んでも?」
「うん、それは、ちゃんとメリーがそうして欲しいって分かるなら、どんなことでもするけれど……わたしね、わたしはね、ちゃんとメリーの恋――」
――二番線より京都行き卯酉新幹線ヒロシゲが発車致します。お客様お見送りの方は白い線の内側までお下がりください。
わたしの声を遮るように、ホームのスピーカーから別れを促す放送が流れた。エンジンのスチーム音と共に、ホームの人々が忙しなくヒロシゲに乗り込んでいく。
ああ、どうして、わたしの想い、ちゃんと伝わってるかな。わたしは、ただ、ただ、メリーと普通の恋人同士になりたいだけなの。それは頭のネジが外れたわたしなんかには、到底無理な夢物語かもしれない。
だって、もうこの腕を、抱き寄せた身体を、そっと離さないといけないの。そう思うだけで気が狂いそうだし、やっぱり貴女をこのまま引き止めて拉致監禁したくなる。自分のことだけで精一杯のわたしが、メリーを幸せにできるわけ、ない、よ……。
ばらばらな心、歪んだ想い、パラノイドなアンドロイドは制御不能で、生きていく苦しみとジサツ願望を抱えても、それでもメリーのことを、心から愛しているの。だから、どうか、どうか、少しだけ、待ってて欲しいの、わたしの親愛なるめりぃ。
すうっとメリーの身体がわたしから離れていくのに、不思議と寂しさのような感情は湧き上がって来なかった。
お互いを繋ぐ小指に結った紅い糸に、漆黒の薔薇が彩りを添える。その先から伝う想いは変わることなく、わたしをずっと愛してくれていた。
絡めた指が解けた瞬間の世界がぐんにゃりと歪む錯覚で頭がおかしくなりそうだったけれど、心を照らす灯火は消えることなくぼんやりと煌いている。
そうして目の前に立っているメリーのアメジストの瞳には、もう涙の痕すら残っていない。その可憐で優美な細面は、わたしをじっと見つめて惚気た笑みを浮かべた。
「……信じてるから、蓮子のこと」
鈴の鳴るような凛とした声が神と契りを結ぶような宣誓を告げた後、薔薇の花びらがゆらり、わたしのくちびるを塞いだ。
綺麗な、蒼く澄みきった恋の鳴る音が響く。奏でる旋律は夢と幻を繋いで、至高のエクスタシーが甘く狂おしいほどに脳髄を犯す。
声にならない声を漏らすわたしのくちびるから、黒いアゲハチョウは淡い想いだけを抜き取ってゆらり宙に舞う。そのまま黄金色の長い髪を幻想的に翻すメリーの姿は、背筋に寒気が走るほど美しかった。
メリーがわたしの心の中に挿した黒い薔薇は、いけない毒を頭の中に駆け巡らせる。
あはっ、その、くちびるの、とろけるような感触がわたしをおかしくするのに、めりぃったら本当何も分かってないんだから。
そうやってわたしを妖しく惑わせるから、深く暗い泥沼に沈むようにめりぃに狂っていくの……それがたまらなく心地良くて、感じちゃうから、切なくて胸がきゅんと締め付けられる。
そんな念入りにわたしの心を犯さなくても、貴女のことはもう忘れられるはずがないのにね。でも、大丈夫。わたしは、正気だよ。正気を保ったまま、メリーに狂ってるの。思い出すだけで快楽がぶり返すから、それだけでわたしは幸せだよ?
――貴女の抱えている白い薔薇の花束に、そっと口付けを交わして始まった私達のストーリー。
そっと覗き込んだ緋色の瞳が映し出す横顔は儚く煌いて、私達を繋ぐ想いが永遠だと夢現に感じさせてくれる。
メリーの後を追いかけて、夢心に走る。わたしは貴女に告げた誓いを叶えるために、全てを今、捨てなきゃいけないの。
もうわたしは迷わない。メリーと再び会える日まで、この小指に結った運命の糸が奏でるメロディを、ずっと、ずっと感じていたい。
そして、愛し合うの。またxxxするの。快楽に溺れたジャンキーなメリーが淫らに微笑む。
そんな狂おしいほどの愛を貪り合う日々を、わたしは待ち焦がれている。この世界が宇佐見蓮子を無視し続けても、ずっと貴女だけは傍にいてくれるはずだから。
罪深き旋律は美しく、私達の心を蝕む。ああ、考えるだけで性感帯がおかしくなる。こじ開けたメリーのくちびるに、狂おしいほどの愛を垂れ流すことを想像するだけで頭がどうにかなっちゃう――
「必ず、必ず、メリーのところまで行くから! 信じて、わたしのこと、信じて、待ってて!」
精一杯大きな声で叫んでみても、わたしの言葉はもう届かない。
行く宛てもない言葉は青空に吸い込まれて消えてなくなるけれど、何度も、何度も、メリーのことを想って繰り返し叫び続ける。
私は蓮子を信じてる。だからもう、迷わない。後戻りなんてしないわ――ヒロシゲに乗り込んでいくその背中からは、そんな揺るぎない決意を秘めた想いが感じられた。
その声は確かに聞こえているはずなのに、親愛なる人は決して振り返らない。それでもわたしは、自分の想いがちゃんと伝わっているのか怯えたまま、ずっとメリーに向かって叫び続けた。
貴女のことが大好きで、こんなにも大好きで、わたしを愛してくれてありがとう、ワガママばかり言ってごめんね、凄く楽しかったよ、最高に頭おかしくなっちゃったよ、お別れは、イヤだ、さよならは、いやだよ。
そんな想いの数々を遮断するように、ヒロシゲの自動ドアが大きな発車音と共に閉まっていく。
結んだてのひらから伝う感傷が、抱きしめあった時の包み込むようなやさしさが、花の香りがするくちびるから流れ込んできた鮮やかな想いが……たまらなく愛しいから余計に切なくなって、繋ぎ止めた心が悲鳴を上げる。
また必ず会える、そう信じて別れたはずのに、どうしても現実に戻ることができなかった。やっぱりメリーと過ごした昨日と言う日は夢みたいで、目を覚ますのがどうしてもイヤで、わたしは記憶の面影になった鮮やかな幻にすがっている。
ああ、貴女との出会いも、貴女との別れも、同じくらい愛せたら、こんな想いをせずに済んだのかな。ツギハギだらけの心はセンチメンタルな感情に押し潰されそうで、ぎしぎしと音を立てて軋み、ずぎずきとひどく疼く。
こんな切ない想いになってしまうんだって分かってた。きっと今のメリーも、わたしと同じ感情に苛まれている。そんな最愛の人に今しかないわたしができるたったひとつの唯、それは交わした誓いを果たすことだけだから。
――二番線より京都行き卯酉新幹線ヒロシゲが発車致します。お見送りの方は白線の後ろまでお下がりくださいますよう願いします。
がたんがたん、がたんがたん。がたんがたん、がたんがたん。目の前でスライドしていく景色のスピードが段々と速くなって、ただ呆然とわたしは立ち尽くす。
ふと、あの時を思い出す。ヒロシゲが過ぎ去った後、向こう側のホームにメリーが立っていてくれたら、なんて。もうひとりの『神様』でも構わないから……おかしな想像が駆け巡ったけど、勿論そんなことが起こるはずもなかった。
ゆっくりと深呼吸。汚い東京の息を吸って、吐き出す。そっと空を見上げると、かすかにくすんではいるものの、雲ひとつない綺麗な青空が広がっている。この世界には存在しないと思い込んでいたわたしの居場所、それはたった今旅立ってしまった。
あの空の遥か彼方にも、きっとわたしが求める理想的な世界が待っている。それでも、どうしても、振り切れない。メリーと言う大切な人がいるのに、何故わたしはこんなにもジサツすることに憧れているんだろう?
きっといつだって斜めにモノが見える世界なんか、どんな時だってまともに歩けるわけないんだよ。
わたしはもうメリーがいないと生きていくことすら間々ならなくて、メリーにすがらなくちゃ明日を越すことすらできない。
居場所がなくなった途端、また幻覚幻聴の類がうわんうわんと耳元で輻輳し始める。夢が終わって目覚めたところで、この世界は随分と代わり映えしないんだね。
わたしの世界とメリーの見てる世界は、一緒のように見えてやっぱりずれているのかもしれない。後ろを振り返れば、立ち止まれば不安と後悔に押し潰されて、目を閉じればいつものあの風が吹く。此処で諦めたら最後。夢に敗れたら最後。
過去を抹消して生きているわたしには振り返るべき思い出なんてずっとなかったけれど、昨日のことが今日に、未来になるようわたしは生きると約束した。今になれば思う。死にたいと願うわたしが生きたいなんて矛盾は、どうやってメリーに説明すればいいのかな。
――終わりの見つからない世界の片隅で、生きる意味を見失ったパラノイド・アンドロイドはゆらりゆらりと雑踏の中を彷徨い続ける。
其処でふと抱きしめた漆黒の薔薇は、この世界とわたしを繋ぐ唯一の絆になった。壊れかけた御伽の国で再び見目麗しき姫君に出会えることを夢見ながら、宇佐見蓮子は今日と言う日を生きる――
◆ ◆ ◆
しんと静まり返ったホームからもう一度ぼんやりと見上げた空は、ただ広くて、蒼い、蒼い、ひたすらに蒼の世界が延々と続いている。
遠くから僅かに聞こえる人々の喧騒と幻聴を他所に、わたしは離れてしまったてのひらを、むすんで、ひらいて。ぎゅっとメリーの想いを感じ取って、そっと近くのベンチに座り込む。
メリーの通っている京都大学は簡単に言ってしまえば、この日本と言う国でとりわけ頭のいい人達、これからの人生の幸せがある程度約束されたエリートが通う最高峰の大学だ。
一昔前は東京大学がその地位をずっと守り続けていたんだけど、福島の原発事故から端を発した日本改革路線によって神亀の遷都が行われて以降、その座を京都大学に譲り渡すことになった。
それはともかくとして、毎日保健室登校でそれすらもサボり、出席日数ぎりぎりな落伍者が進学を考えているはずもなく、まともな勉強なんてテスト前に範囲をさらっと流すくらいの人間が「行きたい」なんて適当に言って通える大学じゃない。
家庭の事情で公立しか入れなかったわたしは一応は有名高校に在籍しているものの、勉強はと言えば物凄く微妙な感じ。成績なんかは真ん中辺りだけど所詮その程度、当然ながら推薦して貰えるレベルの優等生なわけがないし、つい頭を抱えたくなる。
まあそれは実際のところ、大した問題ではないような気がする。後半年の猶予は残されているし、寝る間も惜しんでひたすら勉強すれば決して不可能な壁ではないと思う。思いたい、と言うのが正解かな。
無我夢中で学習に打ち込めば何とかなる、わたしの頑張り次第では叶う夢だけど、今考えなければならない大きな壁は家庭の事情。高校は義務教育だから無償に近いし、あんなクソみたいな人間でも社会で生きている以上曲がりなりにも親としての体裁がある。
でもあのパパがわたしを大学に通わせてくれるとは到底思えなかった。そもそも援助交際を繰り返して一晩一晩何処かの家やラブホ、あるいはネットカフェの類を転々としているわたしには『居場所』がないから、ゆっくりと腰をすえて勉強できる環境がないに等しい。
クラスに入れば漏れなくいじめられるし、自宅に帰ればパパに家事や仕事先のパシリとしてこき使われた挙句暴力や虐待の繰り返し。かと言って何処かで愛人や人妻もどきをしながら勉強できるはずもなく、それ以前にパパはお金なんてびた一文出してくれないだろう。
入学金くらいは自分の稼いだお金で何とかなるし、合格さえしてしまえば後は奨学金なり貰ってバイトすればぎりぎりやりくりできそうだから、まずは勉強するための場所の確保が最優先事項。ああ、どうしよう、すぐにタイムリミット、名案なんか全然思い付かないよ。
――うーんとうなって仰いだ空も、何処までも蒼く、蒼く、わたしの瞳も吸い込んで蒼く染まっている。
本日の天気も終末思想系の快晴夏真っ盛り。此処からじゃ背伸びをしたって、あの蒼い空の遥か彼方、世界の限界には決して触れられない。
それでも綺麗に蒼く見えるだけの空に向かって、夜空に散らばった星を掴むように手を伸ばしてみると、すっかりしわが付いてしまってるワイシャツの袖から傷だらけの手首がそっと顔を覗かせた。
その真っ白な生地から透けて見える傷痕をじっと眺めていると、ふとひとつの閃きが思い浮かんだ。
まさに青天の霹靂なんてカッコよく言うと聞こえだけはいいけど、実際はあまりにもひどいやり方で、こんなことをメリーが知ったら絶対に泣かれてしまう。
ただ今はそれしか考え付かないし、わたしに残された時間は少ない。多少の不便は生じるだろうし確実な手段とは言えない反面、成功すれば間違いなく完全な居場所が確保される方法――
小さく深呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ。
排気ガス塗れの空気を吸い込んでから、そっとベンチから立ち上がって歩き出す。
途中の自販機でグレープフルーツ果汁100%のジュースを購入。バッグからクスリの入った色とりどりの試験管を取り出して、その中身を片っ端から喉奥に流し込む。
あれこれと手持ちのクスリを全部――ヒルナミン・ベゲタミンA・ハルシオン・リスパダール・ロヒプノールをありったけの数、吐き気を催さない程度に少しずつ口の中に入れていく。
かじったり舌下してしまえば効きも早いんだけど、これらは糖衣錠ではないので苦くてわたしには無理。最後に愛用のデパスをかじりながら、駅構内に続く階段へ向かって歩みを進める。
ひたすらに蒸し暑い東京駅は休日の昼食時と言うこともあって、普段見慣れている新宿駅のように虫けらでごった返していた。
ひとりになったせいかクスリのせいなのか、よく分からないけどいつもの幻聴が例によってあちこちから聞こえてくる蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ?
残念ながら今わたしは死ぬためにクスリ飲んだわけじゃないし、余命は半年ほど伸びたの。あはっ、愛する人を犯すためだから、貴方達みたいなゴミには関係ない話だけどね。
iPodでサイケデリックトランスを聴きながら、あちこちをふらふらしているうちに段々と頭がおかしくなってくる。ああ、やっぱりメリーがいないわたしはどうしようもないクズで、存在価値のないゴミなんだよ。
知ってる、知ってるからいちいち言わなくていいよもううんざりなんだからそういうのさ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネ蓮子死ネはいはいメリーに死ねって言われたらすぐに死ぬから黙っててよ!
この世界のクズ共はプライドなんて微塵もなくて、わたしのことを言葉でしか罵れないくせにああだこうだいちいちうるさいんだよね。
メス豚、淫×、売女、ビッ血、リスカとかサイテーだよね、ポエム垂れ流すなクズ、さっさと死ねよ――そんなに醜い汚らわしいのにどうしてわたしを求めるの?
どうせみんな快楽が欲しいだけなのに、綺麗なフリして自分は正しいです根拠は法律です規範ですモラルですとか、変に偽善者面してるあんたらの方が数倍うざい。その欲しがってる愛とか、身体とか、快楽なんて、お金とやらで自由に買えるんでしょ?
幾らでも好きに言えばいいよ。わたしはメリーにさえ好きでいて貰えたら、他のことなんてどうでもいいし。結局貴方達のような下衆で最低な存在は、わたしの思い通りに利用されるだけの虫けらでしかないんだから。
ぼうっとしてゆらゆらゆらゆらと世界がぶれ始めたので、そろそろ他のクスリも効き始める頃かなと思ってわたしは近くにある女子トイレに入り込んだ。
朦朧とした意識そのままにバッグの中に入っている医療用メスを取り出す。三桁の鍵番号を合わせようとしても、がちがちと手が震えていてなかなか開かない。
ただ頭がクスリで犯されてるだけじゃない、今わたしは怖いと思ってる。リスカするのが怖い。怖いから、震えてる……それはとっくにわたしが失ったはずの、人間として備わっている防衛本能だった。
イヤでも思い出すあの晩のこと――リスカした時にメリーに最低と罵られて、その後に襲ってきた耐え難い痛み。わたしは今それと同じ過ちを繰り返そうとしている。こんなことは、もうやめて。またメリーを悲しませてもいいの?
僅かに残った本能を押し殺すためのオーバードーズだったのに、ばらばらになった心の中の誰かが叫ぶ。うるさい、黙れ、死ね。わたしはもう引き返せない。こうして自分を追い込まないと、わたしはメリーと幸せになれないんだから。
――手首に当てたメスは小刻みに震えていたけれど、その刃先に映し出されたわたしは相変わらずつまらなさそうな顔をしていた。
それは当たり前のことだよね。だってメリーがいないんだから、つまんないに決まってる。これから来年の桜が咲き誇る季節まで、わたしは正気を保っていられるのかな。
そもそもまともに勉強なんて無理。リスカなんて行為に走る馬鹿なわたしが京大なんて無理だよどうせ。やる前から諦めちゃダメだよ、これもメリーとまた笑い合うためなんだから、わたしは絶対やり遂げて見せる。
誰かに脳みそをシェイクされてるみたいに、思考がぐちゃぐちゃになっていく。それでもわたしは薄皮一枚の理性はぎりぎり何とか保っている。うそ。ウソ。ウソツキ。実ハ今カラxxxト同ジクライ気持チヨクナルノ。
何が何だか分からない。わたしがわたしであることを証明するためのリスカなのに、何故か自分が消えてしまうような気がした。ああ、それなのに、サイケデリックに犯された脳内でメリーを想像するだけで、快楽がどぴゅって注がれて心が汚染されていく。
あはっ、見ててよ、めりぃ。これから貴女を想ってリスカするの。あの時と違って、今度はちゃんと理解してくれるよね?
これは仕方ないことなんだよ。やむを得ない選択ってやつなの。ああ、いや、ぁ、は、めりぃに見られてると想うと、なんか、どきどき、して、き、た。
この傷痕を見ると、めりぃはちゃんとわたしを分かってくれるんだもん。貴女の中にいる神様と『REM』のめりぃだと反応は違うけれど、どちらのめりぃもわたしを想ってくれているから。
今から刻み付ける傷痕は、生涯癒えることのない永遠に変わる。撫でるたびにめりぃを感じられるような、今日貴女と誓った契りを未来永劫忘れないための傷痕。こんな気持ちいいリスカは多分もう二度とないよ、めりぃ、ありがと、あいし、てるぅ。
もう、何も怖くない――刃に映るわたしの表情が恍惚の笑顔に変わっていく。
手首の一番細い場所に当てた刃先を肌の奥にぐっと押し込むと、美しい漆黒の薔薇が咲いた。
噴き出すどす黒い鮮血と同時に溢れ出す多幸感といびつな背徳感に、快楽中枢がぶちゅっといやらしい音を立てて狂おしい愛を叫ぶ――
「あはぁぁぁあんっあぁっイクイクイクううううううううぅうぅぅぅぅぅぅうぅぅぅぅぅぅぅいたいいたいいたいいたいいたい手首いたいいたいいたいよいたいよいたいいたいたすけていたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい手首いたいいたいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいイタイイタイイタイイタイイタイ手首イタイイタイイタイイタイイタイイタ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ手首イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガ血ガめりぃめりぃめりぃめりぃめりぃめりぃめりぃめりぃめりぃめりぃめりぃめりぃめりぃめりぃめりぃアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルイタイイタイイタイイタイイタイイ感ジルめりぃ感ジルめりぃ感ジルめりぃ感ジルめりぃ感ジルめりぃ感ジルめりぃ感ジルめりぃ感ジルめりぃ感ジルめりぃ感ジルめりぃ手首感ジルイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ痛いよ痛いあは○×よおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
メリーのことを想い過ぎてオ○ニーみたいな気分で思いきりやらかしたせいか、やば、わたし、死ぬ、かも、ってくらいメスの先端が手首に食い込んでいた。
ぷつっと切れたのは血管なのか、頭の神経の何処か、よく分からない。クスリの作用と手首の痛みと背徳的なエクスタシーが同時に溢れ出してもう頭の中はぐちゃぐちゃだけど、なんかこれ、やばいよねってことは何となく分かる程度の意識は残ってる。
リスカなんてジサツするための行為じゃなくて、所詮ただのオ○ニーだよね――心の片隅で『わたし』がげらげらと笑い出す。血が噴き出す感覚がたまらなく心地良くて、ゆらりゆらりとしたままの身体でトイレの個室から飛び出した。
さっきの悲鳴に呆然としていた人達が、わたしの左手に携えた黒い薔薇を見て絶叫する。もっと見て欲しくて、たまらず手首を近付けてあげると、20代くらいのOLらしき女性が心底気持ち悪いって感じの表情を露にして逃げていってしまう。
変なの。折角見せてあげたのに。って言うか超失礼なんだけど。めりぃの想いのおかげで、こんな綺麗に咲いてくれたのに……ああ、もうめりぃのことしか考えられない。めりぃのことを想うだけで、わたし、わたし、たまらなく幸せなの。
ふらふら、ふらふらとする身体。ゆらゆら、ゆらゆらとたまらない快楽を感じる心――何処までも心身不一致な宇佐見蓮子はパラノイド・アンドロイド。
絶叫しながら飛び出していった人や、その場で尻込みする人を余所目にしながら、東京駅の構内に躍り出ると、わたしを見る虫けら共が一斉に奇声を上げ始めた。
誰か救急車、100当番、何あれキモっ、基地外うぜえさっさと死ねよ等々、それは普段わたしが聞いている幻聴と全く変わらない言葉もあれば、かわいそうだとか、どうしてあんな目にだとか、わたしのことを上っ面で哀れむ声も聞こえる。
この社会によって傷付けられて人格を破壊されたわたしは、どうせ社会不適合者・落伍者として扱われるだけで……例えばわたしが常に抱えてるジサツ衝動や「死にたい」なんて想いは大多数の人にとってリアリティのない感覚なんだろうね。
どうせ今傍観してる人達は、わたしが血の薔薇を咲かせてるから「かわいそう」なんて能面みたいな顔して言ってるだけ。この社会の虫けら共はどいつもこいつも分かりやすい悲しみにだけ目を向けて、悲鳴を上げることすらできない人の悲しみには無関心を決め込む。
わたしがどんなにつらいよ苦しいよって喚いても、絶対に助けてくれない。みんな偽善者の仮面を被って、悲しんでる人を助けたフリして自己満足してご満悦。何様のつもりなのかな、誰にも見向きもされず絶望してる人の気持ちなんて、何ひとつ分かってないくせにさ。
こんな世界で「幸福に、生きよ」なんて馬鹿らしくてやってられないよ。偶然とか運命の悪戯で助かった人の物語は美談として受け継がれるけど、わたしみたいに傍目から理解されない痛みを抱えながら、もがき苦しみ続けて死んでいく人々の歴史は闇に葬り去られる。
憲法に基本的人権の尊重とかあって、最低限の幸せを享受する権利がどうのこうのとか、あれ全部デタラメだしね。どうしてジサツする権利は認められないのかなあ。変なんだよ。おかしいよね、ジサツが幸せに繋がる人だって、この日本には沢山いるはずなんだけど。
――わたし、このまま、死ぬ、のかなぁ……。
ふいに視点が逆さま、いきなり身体のバランスがおかしくなって転んでしまう。
横向けになったわたしの手足は壊れたマリオネットのように、手首足首の間接がありえない方向にねじれ曲がっていた。
虫けら共が寄ってたかってわたしを見世物にしてる。普段なら超うざいキモいんだよ早く死ねとか言いたいところだけど、今わたしの左手にある漆黒の薔薇に心奪われてしまうのは仕方ない、よ、ね。
ああ、でも、その薔薇も枯れてしまう。血液が足りてないから思考回路が回らなくなってきた。ぎゃーぎゃーと喚く通りすがりの声がチョーうざくて殺したくなる。って言うかわたしに触るな、わたしはめりぃだけのものだ。
そう、わたしは、めりぃだけのもの……そう想うだけで心の中のわたしはきゃははははははははははははとか狂い叫んでいるのに、全く声が出ない。酸欠、セロトニン不足、感情、欠落。内に溜め込んでいた何かが、どばどばと流れ出してる。
意識は遠のいていくのに、ぎりぎりのところで理性を保ってるのが何か不思議。いつものわたしなら、本能の赴くままサイケデリックな狂気に身を任せてるはずなのに、妙に他人事っぽく見てるわたしが何処かにいる気がしてならない。
それは、今しかないわたしじゃなくて、明日を、未来を、考えているから?
もしかしたら、死ぬのかな。なんかそれくらいの軽い感じでしか、今自分の状況を説明できそうにないよ。
メリーが大嫌いだと言った宇佐見蓮子はたった今ジサツしたのかもしれない。このまま出血多量で死んでしまったら、もう貴女に会えないのかな。
薄れゆく意識の中で、ふと思う。このどうしようもない絶望は、メリーが教えてくれた幸福の中で溺れることができたからこそ与えられた特権なのかもしれない。
そもそも幸せを望まなければ、絶望なんて感情は存在しないはずだ。嘘つきの詩人宇佐見蓮子は謳う、幸せとは命から解放されることである。そして心身と言う束縛から解放されて空に還ることが、真の幸せであると――
</sentimental memories>
</blue moment>
しんと静まり返った廊下に、かつんかつんとフローリングの床を踏みつける靴の音とがらがらとカートを引く音が鳴り響く。
平日にも関わらず他の患者とすれ違うこともほとんどなくて、都内随一の広さを誇る病院にも関わらず、この精神科第三病棟はとにかく閑散としている。
案内役の看護士に引き連れられるがまま歩いて数分ほどだろうか、ちょうど病棟の中央付近にあるエレベーターの前に辿り着いた。
ボタンを押すとフロアのナンバーを表示するディスプレイがゆっくりとカウントダウンを開始。5.4.3.2.1...小さな箱の中には、当たり前のように誰もいなかった。
ゆっくりとエレベーターに乗り込むと、看護士さんは『4』のボタンを押してドアを閉める。ふわんと身体が浮き上がって、あっと言う間にお目当ての場所に運ばれていく。
そのまま小さな箱から降りてすぐの場所には、全面硝子張りの壁に覆われた部屋が検問所の如く立ち塞がっていた。
俗にナースステーションなんて呼ばれる部屋の中には、医療用器具・緊急投与用医薬品やカルテ他等々が所狭しと詰まれている。
狭いのか広いのかいまいちよく分からない室内では何名かのスタッフが忙しなく動き回っていて、どたばたどたばたと何かと落ち着かない。
エレベーターの目の前を真直ぐ進むと小さな窓があって、机の上には面会用の記帳ノートが設置されていた。その隣にはカードリーダー式の特殊な扉が行く手を阻む。
外からの病原菌等々の感染防止用に厳重になっているわけではなくて、恐らく此処の病棟で暮らす患者の脱走防止のため、こんなややこしい造りになっているんだろう。
わたしの付き添いのナースが小窓で中の人と何やら事務的なやり取りをしてる様子を見送ること数分、隣のドアがしゅーっと無機質な音を立てて横に開いた。
後は中のスタッフに任せてあるから――そう言って案内してくれた看護士が立ち去っていく。ナースステーションの中は薬品の臭いが立ち込めていて、ある種の生活臭に近い何かを感じさせる。
さっきの人とバトンタッチした病棟担当の看護士が、わたしの荷物三箱分を乗せたカートを何処かに持って行ってしまう。そうして奥の方からすぐ戻ってくると、わたしを蔑むような目つきでぶっきらぼうに言葉を紡いだ。
「名前は、宇佐見……蓮子さん、であってるかな?」
その看護士の視線は、何だかわたしのことを見下すような、値踏みするような、そんな目つきだった。
それが凄く気に入らなくて声を出さずにこくりと頷くと、それはそれでコミュ障だなあって感じの目付きでこちらを見つめる。
「此処東京大学の精神科閉鎖病棟は、どんな患者も最低3日は保護室に入って貰うことになっています。その後については、普通の部屋に戻ることになってから説明する。分かったね」
看護士は事務的かつ仕事上の建前的な、と言うよりは何と言うか本当いい加減な感じで、わたしが何も言わないのに首をくいっと振って着いて来るよう促す。
これが病人を扱う看護士のモラルなのかとかその類、要するに患者との接し方として許されるのかな、なんて疑問が頭を過ぎるけれど……今のわたしにはそれこそ後戻りなんて選択肢は残されていない。
膨大なカルテと書類の山が積み重なった事務用デスクの隣を通り過ぎて、看護士を後ろをゆっくりと歩く。ナースステーションから閉鎖病棟に立ち入るための扉にも、入り口と同等のシステムが採用されていた。
ネットや雑誌などで話だけはよく聞いていたものの、実際こうして目の当たりにすると何とも言えない気持ちになる。此処は社会から完全に隔離された別世界――そんな場所でわたしは『わたし』を保ち続けることができるのかな。
そんなことをぼんやりと考えながら、わたしは目の前の看護士に先導されてその後ろをついていく。
まず扉を出たところには、大きな談話室のようなだだっ広いリビングが設置されている。きっと多分、入院してる人は此処で食事を取るのだろう。
この場所に似つかわしくないハイヴィジョン液晶テレビがひとつだけ置いてあって、どうしようもない内容の民放番組を死んだ目で見ている人が何名か確認できる。
その奥にはコカコーラの自販機が低いうなり声を上げながらぽつんと佇んでいた。それ以外は何の変哲もない、よくありそうな病院の景色。病棟内部は相変わらずの白を基調とした空間で、中央が吹き抜けになっていた。
円形状になった病棟の左側の方へ、看護士とわたしは歩を進める。そのすぐ先には廊下を遮る形で防火扉のようなシャッターが下りていて、扉を通り抜けると壁伝いに病室が幾つも並んでいた。
何となく生活臭が漂っているにも関わらず、此処は人が住んでいると言う気配が全く感じられない。広めの廊下を歩いている人は誰もいないし、たまに部屋の中から変な奇声が聞こえるくらいで病棟自体は閑散としている。
そのまま病室の一番奥らしき場所で、看護士は突然立ち止まってポケットから鍵の束を取り出した。
一見すると気付かないかもしれないけれど、よくよく壁を見ると其処は物置用のスペースか何かなのか、鍵を差し込むための穴が開いている。
がちゃんと鍵がはまって隠し扉が開くと、さらに先へと続く通路が伸びていた。この病棟の中でも此処だけは、さらに隔離された空間になってるらしい。
促されるがままに中に入ると、重苦しい鉄の扉がずらりと並んでいた。その奥へと歩き続ける私達の足音に気付いたらしく、中に閉じ込められている人々が、がんがんがんがんと扉を物凄い勢いで叩く音や悲鳴が鳴り止まない。
そして一番奥の行き止まりにある扉に掛かった鍵を開けて、看護士から中に入りなさいと指示された。部屋の間取りは六畳一間、その片隅には質素な作りのトイレがあって、中央には死体を安置するような向きで敷布団がぽつりと置いてある。
ただ此処は、頭のおかしい人を監禁するためだけに存在する世界だった。わたしみたいに『精神病』と認定されて入院する人々は、みんな漏れなくこんな扱いを受ける――そう考えるだけで、物凄くイヤな感じの寒気が背筋を駆け巡る。
「宇佐見蓮子さん。あなたは医師の指示があるまで、この部屋で過ごすことになります。具合が悪い等々の用件があれば、天井のカメラに向かって話しかけてください。何か質問はありますか?」
どうしてもこの人とまともに会話する気が起こらなくて、わたしはゆっくりと首を横に振って無言で答えた。
何処か、何処か、デジャヴ、あるいは既視感を覚える。この人の向ける視線や諸々の仕草は、普段街中で聴こえる「蓮子死ね」なんて言葉のそれに近い、少なくもわたしを人間扱いしていない素振りだから。
人を野良犬扱いするような声色、人を見下すような高圧的な態度、人を基地外扱いして人間として認識していないような、淡々と事務的な口調で喋る看護士の言動の全てが、わたしのことを小馬鹿にしている気がして仕方なかった。
結局のところわたしは何処にいても虫けら以下のゴミクズ扱いなんだろうけど、それは多分この病棟に入院している人全てに当てはまるのかもしれない。精神病患者は漏れなくゴミ――それが看護士共通の認識だとしたら、この国の精神科医療制度は腐ってる。
その一言も喋らないわたしの態度が気に食わなかったのか、看護士はあからさまに聞こえる舌打ちをして「朝昼夕と寝る前のクスリの時に来ます」と吐き捨てながら部屋から出て行った。
重い鋼鉄の扉がゆっくりと閉まって、外から「がちゃん」と施錠する音がやたらと大きく廊下に響き渡る。それに呼応するように、絶叫とも奇声とも言える言葉として表現できない音が厚い壁をすり抜けて鼓膜を揺らす。
ひとりぼっちになったところで、こんな空っぽの部屋では何にもすることがなくて、何となく窓側に寄ってみる。窓枠にはきちっと格子がはまっていて、その僅かな隙間から空を見上げるどころか星を見ることすら間々ならない。
こんな仕打ち、こんなやり方は、人間の施す『医療行為』として正しいのかな。ふとあれこれ考えてみても全くの無意味。だってこれは自分が望んだ結果でもあるんだから仕方ない。あまり考えてもどうしようもないやと思い直して、わたしは布団の上に寝転がった。
ぼんやりと思考を巡らせていると、此処に閉じ込められるまでの経緯が浮かんでは消えていく。
うーんと虚空を掴んで、てのひらを、むすんで、ひらいて。そうしていると、メリーの想いがふわりと浮かんでは消えて……とても嬉しくて、ちょっぴり切ない。
ねえ、メリー。わたし、これで良かったのかな。見知らぬ天井に囁いてみても答えは返らない上の空。わたしはそっと目をつむって、今まであったことをちょっと整理してみることにした。
<disconnected memories>
――終の棲家。
ほとんどの人間が死ぬ間際に辿り着く場所。つまり病院のことを、わたしは勝手にそう名付けている。
こんな世の中で老衰して安からに亡くなっていく人の話なんてほとんど聞かないし、普通の人間が生涯を終える場所は何処かと考えてみると大体は病院なんじゃないか、なんて勝手な憶測妄想の産物だけどね。
そもそもわたしは、ただ延命のために助かる、あるいは治る見込みのないに等しい治療を行う意味に疑問を抱いているし、わざわざ苦しみを背負って終の棲家で生き永らえることが幸せかと考えた時、それは違うんじゃないかなって思う。
生きるなんて耐え難い苦痛から逃れるための安楽死と言う選択肢がどうして認められないのか、正直なところわたしにはさっぱり理解できない。生きることそれこそが幸せであるなんて考え方自体が、物凄く固定観念に囚われている発想だから。
痛みなく生きる権利は無理矢理与えられているけど、痛みなく死ぬ権利は与えられていない。この終の棲家には、苦しんでる人が溢れてる。生を望んでいる人ならまだしも『生』を『命』じられて、望んでもいないのに無理矢理生かされてもがき続けている人が……。
それ以前にわたしが病気扱いされるって事実が納得できないし、この死にたいって気持ちを抱くこと自体が病だとは絶対に思わない。それは綺麗事でも憧れでも何でもない純粋な幸せ、救いとしてのジサツなのに――どうしてみんな確定的な事実から目を背けるのかな?
そんな途方もない絶望を背負った人々が集う場所――終の棲家を、わたしは一時的な居場所として選ぶことに決めた。
少なくともあの時の自分には、それ以外の手段は思い浮かばなかったし、上手く行く保障もなかったけれど……そんなに時間が残されてるわけでもなくて、メリーへの想いが薄れないうちに自分を追い込まないと決行できないと思ったから。
東京駅で手首を切って狂い叫んだ後出血多量で意識を失ったわたしは、そのまま救急車で都立の救急医療センターに運ばれた。此処に来るまでの数日間の記憶は有耶無耶で、点々として残っている断片としか認識できず全てをはっきりとは思い出せない。
エヴァーグリーンのヒカリが灯るICUに寝かされていたこと。「死にたい、死にたい、わたしは死にたいんだ!」って手首を縛られても暴れ続けたら、何かの注射を打たれて強制的に気絶させられたこと。めりぃ、めりぃ、めりぃ、と泣き叫びながら助けを求めたこと。
そうして意識の消失と覚醒を繰り返すたびにおとなしくなってきたらしく、気が付いたらわたしは開放病棟のベッドに寝かされていた。手足には枷が取り付けられて、完全に拘束された状態で。それでもふと、メリーを想うとやさしい気持ちになれた。
看護士の人が昨日パパが来てわたしと口論してたと言ってたけれど、全然記憶もないし思い出したくもなかった。
あれでも親としての世間体があったせいか、ちゃんと治療費は払ってくれたらしい。後から間違いなく請求されるんだろうなあ、払えないんだったら身体でその分きちんと返せよとか吐き捨てそうで、考えるだけで苛々してくる。
不安定だった感情も落ち着いているし傷口も「痕は残る」と前置きがあったものの一応塞がったので、緊急医療センターで診てくれた先生からは数日で退院の許可を貰った。ただしそれはれっきとした、と言うよりも普通に考えたらごく当たり前の条件付きだけど。
勿論わたしの身元や通院歴含めたありとあらゆる全てはバレバレで――このリストカットを引き起こした原因である精神に関する事柄は、ちゃんとかかりつけの医師の診察を受けて治療すること。まあ当然そうなるよねって予測していたし、無言であっさりと了承する。
わたしの退院に合わせて予約は取ってあるとのことだったので、一度自宅に戻って着替えを済ませてから、その足ですぐ岡崎メンタルクリニックに向かった。
診察券を出すや否や「二番へどうぞ」と言われて、そのままちゆり先生の待つ診察室へ入ると、あからさまに空気が違う……それも当たり前の話だった。クスリをあんな風に使うなんて言語道断だし、あんな派手なリスカも久しぶりにやらかした。
少なくともオーバードーズに関してはずっとばれてなかったし、致死に至るまで切ったことはどんなに謝っても許して貰えそうにない。ましてや理由が理由だけあって、わたしも今回ばかりは多少の後ろめたさを隠しきれなかった。
だけど、わたしみたいにジサツ未遂を図る輩は決して多いとは言えないまでも、この日本では年間5万人近い人がジサツしている。ちゆり先生は覚悟を決めていたのか、いつもの軽快な口調とは違ったものの、感情を表に出さずさばさばとした感じで淡々と話し始めた。
――結論から言うと、蓮子ちゃんには入院して貰うしかないな。
はい、分かりました。それだけ言っておけば良かったのに、ずっと親身にわたしを診察してくれてたちゆり先生に対して後ろめたい想いを隠せず、メリーのことや援交の話とか、不都合な事案を取り除いた理由を洗いざらいぶちまけてしまった。
大学に行きたいんです。どうしても、行かないといけないんです。理由は、その、ええと……家から出たいからで、あの、自宅だとパパから虐待されているから落ち着いて勉強できなくて、学校も同じようなものだから、入院するためにやりました等々。
学校でいじめられてることや、パパと仲が悪いことなんかは打ち明けていたけど、DV的な行為が日常茶飯事だと言うことはずっと隠していた。ちゆり先生に話したところで解決するわけでもないと半ば諦めていたし、どうせ死ねば終わるなんて感じでどうでもよかったし。
勿論その一連の事実がオーバードーズやリスカの言い訳として成り立つはずもないし、ちゆり先生の治療や想いを踏み躙ったと言う事実は変わらない。それでも懺悔せずにはいられなかった。中学生の頃から、ずっと、ずっと、わたしを診てくれてた先生だったから。
どうしようもない暴露を全部聞き終わったちゆり先生は、がたがたと身体をわななかせながら「馬鹿野郎!」と思いきりデスクに拳を叩き付けた。
当然ながらその声色にはわたしに対する怒りも含まれていたと思う。だけど、それ以上に自分の無力さを嘆くような、ひとりの患者を救ってやれなかった医師としての矜持と自分に対する憤怒の想いが、その声色には込められていたのかもしれない。
精神科医と言う仕事に就いている以上、少しでも多くの患者の痛みを和らげてあげたい、助けてあげたいと言う想いは当然持っているだろうし……今回のわたしの行動がちゆり先生の医師としてのプライドをひどく傷付けてしまったことは容易に想像が付く。
でも、ずっと精神科に通っているうちにわたしは知ってしまった。クスリはわたしを助けてくれないし、ちゆり先生を始めとした精神科医療に従事している人はわたしを助けてくれない。そんな簡単に人間が助かるんなら、全人類は精神科に罹って幸せになっている。
希望なんてものは、そう簡単に拾えるはずがない。わたしは精神科なんてものに救いを求めることを、もうとっくの昔にやめていた。信じられるものは睡眠薬とか筋弛緩効果のある抗不安薬くらいで、カウンセリングやデイケアなんか何の救いや希望にもならない。
そんな風に考えてるわたしにとっては、どうしてもちゆり先生の怒りのやり場は何処かずれている気がした。精神科医療の全てが無駄とは言わないけど、それは必ずしも人を救わないし、悪く言えば人の心を安易に弄くって楽にしますって考え方自体が傲慢だと思うから。
わたしは必死に頭を下げて、入院させてください、お願いしますと、ひたすらに思いの丈を話し続けること一時間と少々――普段の診療時間なんてあっと言う間に過ぎていたと思う。
どちらにしろ任意入院は変わらないみたいだったけれど、治療に関してはクスリを増やされたりするのがイヤだったので、その点だけは頭がこれ以上おかしくならないように、受験に差し支えないように配慮して貰いたいと頼み込んだ。
その熱意が伝わったのか、多少なりとも自責の念を持ってしまったちゆり先生はあれこれと事情も含めて考えてくれたみたいで、最終的には「蓮子ちゃんが二度とこんなことをしないと誓うなら、最大限の努力はする」と言う前提で全ての条件を飲み込んでくれた。
此処岡崎メンタルクリニックには入院施設がないので、当然違う医療機関を紹介されることになる。其処で選ばれた、と言うよりは提携している病院が、夢美先生とちゆり先生の母校でもある此処『東京大学』付属病院精神科の閉鎖病棟と言うわけだ。
ちゆり先生が懇意にしてる恩師の方がわたしの担当主治医になって、予め事情を話した上でクスリは全てちゆり先生の指定通り、かつ入院期間は来年3月末まで、閉鎖病棟だけど受験時は特別に外泊許可付き、なんて普通ではありえない待遇が決まった。
入院に関してはちゆり先生自らパパにお達しするから、費用その他諸々の雑事は考えなくていいと言ってくれたり……何よりもわたしを気遣ってくれることがとても嬉しい半面、自分のやらかした行為に関しては取り返しが付かず、大分良心の呵責に苛まれた。
とりあえずやり方は正しかったかと言えばもう真っ黒でどうしようもなかったにしろ、わたしの思惑通り無事入院は決まった。すぐ家に帰って最低限の衣類をバッグに詰め込んでから、途中の大きな本屋で受験用の参考書を大量に買い込む。
あまりに多くて持ちきれなかったのでタクシーで東大まで移動。そして診察室と言うよりはただの研究室で、主治医となる初老に近い医師の診察を受けた。ありきたりな質問に適当に答えてから研究棟を後にして、わたしは今この保護室でひとり――
</disconnected memories>
――随分と滅茶苦茶なことをしてしまったと我ながら思うけど、それは逆に言えばメリーのためならわたしはどんなことでも躊躇なく実行できるって証明のような気がした。
こんながらんとした独房のような部屋で考えることなんて、何ひとつとして思い浮かばないし。そもそも意識と言うものが存在してるだけで本当に邪魔、鬱陶しいんだからどうしようもない。
まだ卯酉新幹線のホームで別れてから3日ほどしか経っていないのに、もうメリーが恋しくなってくる。まだ、わたしのこと、覚えていてくれるかな。その場凌ぎの嘘なんかじゃないわたしの想い、ちゃんと伝わったのかな。
どうしてもネガティヴな思考に陥りやすいのは本当に悪い癖だと思う。あの時ちゃんと信じるって約束したんだから――今のわたしはただがむしゃらに勉強して、大学に受かることだけを考えていればいい。
天井の真上に張り付いたUFOみたいな形の変わった監視カメラが、逐次わたしの挙動を物言わず監視していた。多分音声の諸々も全てナースステーションまで伝わってる、プライバシーもへったくれもないね。
こんな閉鎖空間に耐え切れず、舌を噛み切って死んだり、壁に頭を何度も何度も打ち付けて死んだ人もいるらしい。医療行為の一環とは言え、こんなひどい場所に監禁されていたら頭がおかしくなるに決まってる。
でも、まだわたしは死ぬこともできないし、何としても正気を保たないといけない。頭がおかしくなるのは、狂ってしまうのはメリーの前だけで十分。此処からは空を見上げることも間々ならないけれど、メリーも同じ空の下にいる。
そしてきっと、わたしを想ってくれているんだ。この運命の紅い糸は今も此処でちゃんとわたしとメリーを繋いでいるんだから。記憶の中でふんわりと貴女が微笑んでくれて、透き通る左手で繋いだてのひらから伝う想いがあれば大丈夫だよ。
そうやって、ずっと、ずっと、メリーのことを考えていると、天井に付いたスピーカーから「就寝前のお薬の時間です」なんてアナウンスが流れて、看護士がクスリを持ってやってきた。
イソミタール0.3グラム・ベゲタミンA3錠・ロヒプノール・ユーロジン2錠・アモバン2錠・ハルシオン2錠――これだけあると何が何だか分からなくなりそうだけど、ちゆり先生の処方と何も変わってなくて安心する。
クスリを飲み込んでから格子の隙間から星を見ると、21時をちょうど過ぎた辺りだった。こんな時間に床について、わたしは眠ることができるのかな。まあどうでもいいや、おやすみなさい、わたしの親愛なるめりぃ――
- day 1 -
ただでさえリスカのせいで血が足りてないのに、慢性的に低血圧なわたしにとって朝はどうしようもなく嫌な時間だ。
毎日「明日目が覚めませんように」と願う真夜中三時四十五分を規定事項宜しく裏切る朝なんて、もう消えてしまえばいいのに……。
寝逃げだけが得意なわたしが普段通り二度寝を試みて布団を被ると、その行為を阻むかのようにがんがんがんがんと鋼鉄の扉を叩く音が響き渡った。
「宇佐見さん、朝ご飯ですよ」
そんな素っ気ない声と共に、扉の下にぽっかりと開いた隙間から朝食のお盆が室内に差し入れられる。
普通の白米に牛乳と、後はよく分からない料理が三品。いかにも病院食的と言うか学校給食みたいな感じで、ちゃんと栄養士の人がきちんとカロリー計算諸々をした食事なんだろう。
だけど朝ご飯なんて軽く見積もっても8年くらいまともに食べた記憶がないし、所謂偏食なわたしは食べても嘔吐の可能性大、それに食欲なんてこれっぽっちもないので無視することに決めた。
30分後くらい経ってからお盆を下げに再び看護士がやってきて「どうして食べないの?」とかあれこれ聞いてくる。うざい。マジでうざいよ。とにかく態度が気に入らないのでこちらも無視を決め込む。
どうせわたしは虫けら以下なんだから、言語が通じなくてもおかしくないよね。看護士も看護士で精神病患者が相手だってことで馬鹿にしてるのかな、まるでわたしなんか気にする素振りもなくさっさと食器を持ち帰ってしまった。
再び布団に寝転がってみるものの、昨日は眠ったのか眠れなかったのか有耶無耶で思い出せない。
意識を失ってる時間も多少なりともあったような気がするのに、中途半端に意識が残ったまま無理矢理眠ろうとしてたせいか、だるい感じの気持ちさだけが身体に残っている。
何もやることないし、おとなしく寝よう。寝逃げしてメリーとの思い出の世界に逃げ込もう。でもさっぱり眠れる気配もなくて、わたしは布団の上で生きた屍みたいにぼんやりと天井を眺めた。
どんどんと壁を叩くような音。ぎゃーぎゃーと悲鳴のような奇声のような、いまいち判別の付かない音があちらこちらから壁伝いに聞こえてくる。
この人達が本当に病んでいるのか、わたしには知る術もない。まあ少なくとも人間扱いと言うよりは奇人変人扱い、あるいは救いのない病人、そんな程度の存在として認識されているんだと思う。
治療なんて大義名分を抱えているものの、こんな仕打ちが患者にとっての幸せに成り得るのかな。みんな、みんな、生きたまま死んでいるようなもので、ただ社会とかモラルなんてエゴに縛られた人間によって強制的に生かされているだけじゃない?
だってこんなのってさ、トリカゴの中で飼われてる動物と全く変わらないよね。ただ餌を与えられて、意味のないクスリを飲まされて、楽しみなんて何も与えられないまま一生を此処で過ごして死んでいく。
どうせ死なんて時期は違えど平等に訪れる恒例行事なんだし、苦しみだけを背負わされて生きるくらいなら最初から殺して貰った方がマシ。意識、思考、心なんてものがあるから苦しいんだよ。
今のわたしみたいに、神様と出会える確率なんてそれこそ奇跡なんだから。この世界は平等じゃない。そんなこと、小さな子供も知ってる。それならせめて、駄目だった人には苦しまずに息を引き取る権利があってもいいはずなんだよね。
此処にいると本当に自分が人間なのか分からなくなってくる。ただの治験のためにクスリを飲まされてるモルモット的な気分と言うか、自分と言う存在が消えていく感じがしてどうしようもない。
そんなことを半分眠りかけた意識の中で考えているうちに昼食が運ばれてきて、例によって無視して、まただらだら寝て、何か朦朧とした意識の中でメリーのことを想っていると夕食が運ばれてきて、それもまた無視して……。
普通の健康な人から見たら、規則正しい生活サイクルでちゃんとクスリを飲んでるから、これは治療行為として成り立っているように見えるのかな。こんなペット以下の、感情も何も感じられない、自分のアイデンティティを失ってしまうような生活が?
きっとナースステーションでわたしを覗いてる奴等は、マジキモい救いないよね死んだらいいのにとか、どうせ人間として扱うことなんてとっくにやめてるんだ。それって苦しんでる人を平然と見捨てて、笑いの種にしてるのと同じだから。最低、マジで最低だよ。
――ああ、でもそれって、わたしのことを虫けら以下扱いしてる他の人達だって同じだよね。
そこら辺を歩いてる見知らぬ通りすがりとか、クラスメイト、学校の担任、パパとママ、カウンセラー、看護士等々、まともにわたしを人間扱いしてくれる人なんてメリーくらいしかいない。
こうやって完全にゴミクズ扱いされると、そんな事実を改めて思い知って打ちひしがれる。ワタシハ虫ケラ以下デ、誰モ分カッテクレナクテ、踏ミ潰サレテ、死ンデモイイ。それでもわたしは、死ぬのはメリーに嫌われるまでは、イヤだな、なんて思う――
- day 2 -
たったひとつしかない格子窓はほとんど隙間がないので、この部屋は常に電気が付けっぱなしの状態になっていた。
わたしはこの眼があるから正確に時間が把握できるけれど、普通の人間が此処にずっと収監されていたら時間の感覚もおかしくなるだろうし、あまりの孤独に発狂してしまうと思う。
自分以外の存在を感じる機会と言えば看護士が食事とクスリを持って来る時と、他の部屋に収容されている人の奇声が聞こえる時くらいで、外部からの情報なんて完全にシャットアウトされている。
他者は自分を映す鏡なんて言葉が示す通り、人間は他人を見て自己を判断するケースが往々にしてあるから、こんなところに長い間閉じ込められていたら、自分が正常か異常か――それ以前にわたしはわたしなのか、と言うことすら見失ってしまいそうだった。
今日も昨日と同じように、動物園で買われてるライオンに餌やりをするみたいに食事が差し入れられる。
当然のように無視して、ぼんやりと虚空とにらめっこ。こうして何もしないでいると『意識』の存在そのものが不必要だと感じたりするので、クスリなりリスカなりでやり過ごしたい想いは無きにしもあらず、ただ此処では許される以前に手段がない。
とにかくひたすらに寝てやり過ごそうにもクスリがないと眠ることすら間々ならないし、これだけ暇だと流石に自分の存在の必要性自体を疑ってしまう。どうしてこんな不必要な存在が半ば強制的に生かされる必要があるのか、全く意味が分からなかった。
幸せを保障しないで1分間に137の人間を増やし続ける神様の仕業なのか、それとも憲法で謳われてる生命と自由及び幸福追求に対する国民の権利とか何とかに基くあれなのか、それとも医療の根本にある『人を生きさせるための治療』の一端なのか。
それらは世論一般で言えば大多数の支持を受けるのかもしれない、でもジサツすることが幸せって考え方はどうしても所詮マイノリティなのかな。みんな人それぞれとか言うけれど、少数派の意見は漏れなく排除するよね。それさ、本当に理解できないよ。
――幸せに、生きよ。
そんな言葉は神様や社会が勝手に作り出したプロパガンダだってことに、どうしてみんな気付かないのかな?
希望の代価として絶望があって、差し引きは零。その両方を体験するくらいなら、最初から零で固定してしまえばいい。みんな命を持ったまま、ある共通の意識化に生きるなんて不可能なんだから。
価値なんて概念があるから相違が生まれて、争いごとが絶えず、苦しむ人々だけが増える。そのことに気付いてしまった人間が選ぶ選択肢、それがジサツと言う行為の本質的な意味なのに、何故かみんなその事実を否定したがる。
命を絶つことは苦しみから逃れるための『逃げ』だと社会は揶揄するけれど、わたしのような人間は価値が消え失せて、意識がロストする状態自体に幸せを見出していると言う事実を社会は認めてくれない。
わたしをわたしと感じなくなってしまえば、自分は『自分』だと感じなくなってしまえば、この世界は幸せに包まれるのにね。生きる意味、自分探し、居場所探しとかを、無理矢理しないと生きていけない世界で一喜一憂して結局は零なら最初から零でいいよ。
わたしが望む世界。それは心とか身体とかなんて束縛から解放されて、あらゆるものから価値がなくなってしまう世界。
意識、心、自己、他人、『わたし』なんて、何もかも感じることさえできなくなってしまったら、あっと言う間に私達は楽になれる。
人間が扱う思考とか、世界を定義する言葉なんて、ただ私達を雁字搦めにする枷。ただ意識がなくなってしまえば、そもそも諸々の感情が、喜びも、痛みも、苦しみも、幸せも、全て消えてしまうんだから。
ジサツを選ぶことや死ぬことは決してロマンチストの妄想の産物なんかじゃない。この世界に産み落とされた命ある生物にとって、ジサツを行使することは当然あって然るべき権利なんだよ。
そっと手を伸ばすと、パジャマからぐるぐる巻きにされた包帯が見えて、ふとこの腕をやさしく撫でてくれたメリーのことを思い出す。
どうしてわたしがジサツに憧れるのか、メリーは分かってくれるかな。分かって、くれない、よ、ね。きっと「私がいるのに、そんなこと言わないで」ってぎゅっと抱きしめてくれる気がする。
心を空っぽにすると、わたしは生きていると言うことがはっきりと分かる。ゆらり、ゆらり、今でもちゃんとメリーの想いがこの胸の中に……。それがたまらなく心地良くて、ほっと安心してしまう。
でもそれは自分の考え方とあからさまに相反する揺るぎない『価値』が付与された感情。わたしは矛盾してる。宇佐見蓮子の存在は矛盾してる。それでもいい、めりぃのことが感じられたら、それで、いい。
だって、どうしようもないくらい、愛してるんだよ。ずっと人を好きになったことがなくて、むしろ大嫌いだったわたしが、こんなにも、めりぃのこと、大好きになっちゃって、名前を呼ぶだけで、幸せになれるの。愛してる。愛してる。あいしてる、めりぃ。
――あはっ、メリーのこと、思い出すだけでいやらしい気持ちになってるんだわたし……あの幻聴とかにビッ血だとか淫×だとか罵られたそれが事実になっちゃう。
あの晩のxxx、記憶を手繰るとぞくぞくするの。あんな日々が続くって考えるだけで、わたしの頭はもうどうしようもなくて、貴女を、メリーを想うわたしは間違いなくおかしくて、滅茶苦茶に狂ってる。
あんな行為は汚れるだけだと考えてたし刹那でしかないと思い込んでいたのに、貴女のくれた快楽は違ったから。強烈な電流を流されたみたいに身体が硬直した後、それだけで普段はお終いなのに、貴女の愛撫は身体の中にすうっと染み渡るように広がっていく。
長時間ずっと後を引きずる、あの快感が忘れられないの。好きな人とするとあんな風になっちゃうんだって、わたし知らなかったし。だから、何度も、何度も、したい。ぐちゃぐちゃにしたい。ぐちゃぐちゃにされたい。そして淫らに笑うの、あはっ、めりぃ……。
ああ、慰めてあげたい。ぐちゃぐちゃに犯して、あられもない声で快楽に狂ってる姿が見たい。
それは、めりぃのこと、それとも、わたし? どっちでもいいけれど、多分今は後者なんじゃないかな。
めりぃのことを想う。めりぃのことを、想う。めりぃの、ことを、想う。いやらしくおねだりしてみせるめりぃを好き放題に犯してる場面を想像しながら布団に身を隠す。
そのまま布団にくるまって、ぐちゃぐちゃとはしたない音がする部分を慰めてあげる。天井のカメラから「宇佐見さん何やってるんですか、宇佐見さん、宇佐見さん? 宇佐見さん返事してください」とか外野がうるさい。
うざい。超うざい。ゴミクズ以下の癖にキモい。今めりぃとxxxしてるんだから邪魔しないで。無志向性スピーカーから言葉を平然と無視して、わたしは徐々に甘ったるくなっていく嬌声を押し殺しながら無心で愛撫を続けた――
- day 3 -
昨日はカメラの視線から隠れて布団の中で行為に耽っているわたしの行動が不審だったのか、すぐ看護士が来て問診紛いの何かを訊かれた以外は、まあ何事もなく終わってしまった。
そして今日もいつものように扉の下から朝食が差し入れられる。こうしてぼんやり見ていると、この扉は人の顔みたい。覗き窓が目で、後はのっぺりしてるけれど真下にはちゃんと大きな口が開いている。
あの扉が喋ってくれたら少しは気晴らしになるのかな。こんな場所にずっと閉じ込められていたら言語なんて機能を忘れてしまいそうになるからこそ、他の部屋に監禁されてる人達は奇声を上げているのかもしれない。
そんなどうでもいいことを考えながらぼんやりしていると、突然ドアが開いて人が入ってきた。
ひとりは看護士、もうひとりは白衣を着た老人で、此処に入院する時に診察をしてくれた主治医。
見た目だけで換算すると60歳後半くらい、立派にたくわえた長い顎ひげが何処となく貫禄を感じさせる。
いかにも好々爺なんて言葉がぴったりな人で、そう言えば学部長だとかちゆり先生が言ってた記憶があるような、ないような。
と言うことは一応偉い人、教授とかそんな感じになるのかな。とりあえず部屋の中に入ってきたので布団から起き上がると、先生は嫌味のない笑みをやんわりと浮かべてみせた。
「宇佐見さん、体調の方は如何かね?」
一言で言ってしまえば心身共に何ともない。だけどこんな部屋に閉じ込められるとは思わなかったので、ちょっとは反抗したくなってしまう。
それでも主治医が来たと言うことは、少なくとも今日でこの場所からはさよならなんだって思った。ぼさぼさになった髪の毛をかきむしりながら、適当な言葉を選んで吐き出す。
「……特に何ともなかったですけど、この部屋にいると発狂しそうでした」
「まあ許してくれたまえ。これは便宜上必要なことだからのぉ、君だけ特別扱いするわけにもいくまいて。ところで三食全く口にしなかったようだが、何か想うことがあってのことかね?」
「いや、別に、そんなこと、ありませんけど。わたし元からあまり食べないし、いい加減限界になったらちゃんと食べますから大丈夫です」
あの食事は少なくとも栄養価的には優れているんだろうけど、率直に言えばおいしくなさそうだったから食べなかった。
たったそれだけのことなのに、ちゃんと記録は付けているんだなと少しだけ関心する。一応は『治療』なんて体裁だけは取り繕っているらしい。
超適当なわたしの話を聞いていた先生は、ふと看護士の方に目をやって「ちょっと席を外してくれるかね」と言った。
その言葉を受けて、傍らにいた看護士がさっと外に出て行く。重い鋼鉄の扉ががちゃんと大きな音を立てて閉まる音が廊下に響き渡って、わたしと先生はふたりきりになった。
「大体の理由と経過は聞いているよ。いや、大体も何もまだ把握していないに等しいがね」
そう言うや否や、自分の話してることがそんなにおかしいのだろうか、初老の主治医は心底愉快そうに大声で笑い始めた。
少なくともその笑顔はわたしを嘲笑したりする類のものではない。それはきっと多分、何か全く違う事柄に対して向けられている。
どう反応して何と答えたらいいのか皆目見当が付かなくて、そのままわたしは率直に思い浮かんだ疑問を口に出してしまう。
「それはどういう意味でしょうか? ちゆり先生から色々お話は聞いたはずじゃなかったんですか?」
「そうだな。確かに聞いたよ。北白河君があんな『押し』でワシに頼み事をするなんて前代未聞だ。そして引継ぎとしてもこれは『異常』だ」
「異常、ですか?」
そんなに面白いことなんだろうか。先生は快活な笑い声を発しながら、わたしの目の前に書類の束を差し出した。
ぱっと見何ページくらいある、なんて容量区分が理解不能レベルの辞書みたいな厚さで、その間からちょこんと色付箋が顔を出して一応はインデックスが付いている。
勿論入院患者に関してはかなりの数を掛け持ちしてるだろうから、何十人分のカルテを持ち歩いていても何ら不思議ではないけれど、その紙束は数としても量としてもあからさまにおかしかった。
そして怪しいのは、カルテならきちんとバインダーなりに挟まっているはずなのに、その書類には一切その手の工夫が施されていない。
落としてしまえばあっという間にばらばらになって、再び元に戻すのは結構手間になりそうだし――其処まで考えてから、何となく今目の前にある書類の持つ意味がようやく見えてきた。
この文書の山に記されてる事柄は、きっと全部わたしのことなんだろう。それこそ岡崎メンタルクリニックには随分と長い間通っているし、それくらいの履歴が残っていてもおかしくはない気がする。
「そうだ。異常だ。この書類には君が通院を始めてからのおよそ5年分の記録が残されているが、普通の精神科医はこんなにあれこれと書いたりはしない。
まあ、そうだな、一度の診察で精々五行程度だ。しかし北白河君から受け取ったこの書類に残された内容は、そんな量を遥かに凌駕している。ワシが察するにこれは予め書き溜めてあった分に、さらに今現在の所見をプラスしたものだろう」
こんなもん一日で読んで了承しろなんて言う北白河君もひどいものだ、なんて言って先生は面白おかしく笑って見せた。
ぱらぱらと書類の束をめくってみると、A4サイズの紙にびっしりと難しい漢字や英単語がずらずらと並ぶ文字列が果てしなく広がっている。
これを一日で全部読むと言うのは、徹夜したところで到底無理だと思う。わたしのような人間が読書するのとはわけが違うし、そもそもこれは学術書に限りなく近いものに見える。
こんな分厚い書類をすぐ用意できるか、と考えてみると現実的にはNoと言わざるを得ないし、それは異常だと言えば確かに異常なのかもしれない。
よく思い出してみると、あの診察室にはパソコンはちゃんと備え付けてあるのに、ちゆり先生はいつもカルテを手書きしていた。
クスリの処方箋やその他医療機関と連携を取る時以外、キーボードやマウス等々のパソコンの類を触っているところを全く見たことがない。
確かに色々とカルテには書き込んではいても当然その内容までは覗き見したりできないし、わたしの調子が安定してる時は全くペンを動かさない時だってあった。
その意味が指し示す事実と、今目の前にいる初老の主治医が言いたい内容の関係性は把握できないけれど、精神科に携わる医者から考えると通常は『ありえない』らしい。
これはきっと多分わたしが思ってるベクトルとは違う『異常』な例であって、先生が感じた異常性なんて言葉は医師や治療する立場の観点から見た場合を指すのだろう。
「……つまり、どういうことですか?」
「おかしなことを言うのぉ。この通りだよ。岡崎メンタルクリニックではひとりの患者に対してこれだけの臨床結果をデータとして残している。たったそれだけのことだ」
「さっぱり話の意味が分かんないんですけど」
「まあ、例えは悪いがあのクリニックは『人体実験』をしていると考えればいい」
はっはっはっ、なんて心底おかしいと言わんばかりに大きな声で笑う先生に、わたしは何と言ったらいいのかさっぱり分からなかった。
今の言葉をそのまま受け取るならば――あの病院に通っている人々は、みんな夢美先生とちゆり先生のモルモットにされてるってことになる。
その意味を何となく考えてみても、全然しっくり来ない。わたしみたいな患者の人達は全く気付かないだけで、医療現場に従事している人から見ればそれは一目瞭然の事柄なのかな。
もしもそれが事実だとしたら世間一般上の倫理観から考慮しても絶対に許されないけれど、少なくともわたしにはちゆり先生がそんなことを考えて診察してるなんて到底思えなかった。
今回の入院に関する一連の騒動を打ち明けた瞬間のちゆり先生の感情は、わたしをどうにかしてやれなかったと言う忸怩たる想いから来る怒りだった、それは絶対に間違いないはずだから。
それ以前に、本当に人体実験なんてやりたいんだったら海外に渡航するなりすれば、あの天才と誉れ高いふたりならば幾らでもやりたいようにできる。
ノーベル賞だって取れるかもしれないなんて言われてる名医師なんだから、世界各国の病院からもそれ以外の研究所関連の施設からも学術的な要件で引く手数多に違いない。
そんな先生方があんな収入もそれなりの医師並みにしか見込めない、しがないメンタルクリニックを開業してるなんて現実は確かにちょっとおかしな話ではあると思うものの、わたしが幾ら詮索したところで真意は掴めない。
ただ、ちゆり先生は普通にいい先生だし、わたしのことを親身に考えてくれている。そんな事実をちゃんと身を以って体験しているんだから、今更そんなことを言われてもいまいち説得力に欠けるよねって感じがする。
普通に駄弁ってるような雑談に近い診察が大半でも、病状に関しては親身に聞いてくれるし……そのおかげでわたしは、ほんの少しだけ人間の良心を信じることができていたんだから、ちゆり先生には本当感謝しているし今回の件なんて幾らお礼を言っても足りない。
人間は無知な方が幸せだと言うけれど、仮に人体実験だったとして精神科通院がなかったとしても、結局のところわたしの人生なんて似たり寄ったりで大した変わらない。どうせ予定調和、神様の決めた規定路線なんだからどうでもいい。
「それは、例えばクスリを使った治験とか、そういう意味ですか?」
「はは、そんな低俗なものではないさ、恐らくな。正直なところ、ワシにも岡崎君と北白河君が考えることなんてさっぱりだ。今のはただの例えだ、気にしないでくれたまえ」
「しかし人体実験なんて随分悪い例えですよね。私達はそんなラットみたいに扱われてるなんて思うとちょっとだけぞくっとします」
「大丈夫だ。此処は『普通』の閉鎖病棟でそれ以上でもそれ以下でもない。君の望むものとは多少ずれはあるかもしれないが、静かに勉強するための場所としてはそれなりにいい空間だと思うがね。少なくとも岡崎メンタルクリニックよりはな」
「……先生の言ってることはちょっとわたしには分かりにくいです。夢美先生やちゆり先生は本当に人体実験をやっていたかのような物言いをしますけど、それに近いことを本当にしていたんですか?」
そうかもしれんな、なんて先生は適当な相槌を打ちながら、そのまま背後の扉をノックして開けるように指示を出した。
ぎぃと鈍い音を立てて重苦しいドアが開くと、ぎゃーぎゃーとあちこちから他の部屋に収容されている人達の声が廊下に響き渡る。
此処から出るなんてお前は卑怯者だ。裏切り者だ。家族に会いたい。俺達も早く出してくれ。殺してくれ、殺してくれ、殺せ、殺せよ、殺してくれよ――様々な声が重苦しい空気を作り出す。
そんな空間からお別れすることが何故か躊躇われて、わたしが所在何気にしてると看護士が外に出るよう促すので嫌々ながら先生の後に続く。
最初此処に連れられて来た時も思ったんだけど、この場所は最初から保護室と言う名目の施設として作られていなかったんだと思う。
今時考えられない豆電球の明かりが廊下を照らしているところを見ると、此処の空間は本当に物置として使われていたのかもしれない。
ふとそんなことを考えながら、他の人が入っている保護室を横目に出口へ向かう。看護士があの鍵の掛かっていた扉を開けると、真っ白な光が飛び込んで来て目が眩む。
中央の吹き抜けになった屋上から差し込む太陽の光が、フロア全体をきらきらと照らし出している。わたしが恐る恐る外に出ようと一歩踏み出した瞬間、突然先生がぽつりと呟いた。
「……岡崎君と北白河君は、幸せについて考えていたのかもしれないな」
その言葉にわたしはどう反応すればいいのか分からず、そのまま廊下に立ち尽くす。
がしゃんと言う音と共に、後ろの扉に再び鍵が掛けられた。もうあの場所には絶対戻りたくないと心から思う。
「それは、どういう意味ですか?」
「我々精神医は俗に『DSM』と呼ばれる尺度を用いて病名等々を決める。それは君も知っての通りだろう?」
「あ、はい……それはちゆり先生から聞いたこともありますし、それに則ってわたしの病名も決められている、と」
「そうだ。ただ、この書類の中には『B&W』と言う謎の項目がある。『Black & White』なんて安直な略称だが、彼女達が独自に構築した理論なんだろう。しかしその内容には驚いた、これが公表されたら今の精神医学は零ベースで見直しを迫られる」
「難しいことはよく分かりませんが……その臨床のために夢美先生とちゆり先生はデータを集めていて、今もそれは続いていると?」
うむ、と先生はたくましく蓄えた顎ひげをさすりながら誇らしげに笑って見せた。
自分の教え子達が世界の精神医学会を覆す理論を築き上げたことが、我がことのように嬉しいらしい。
世の中には色々な思考の人々がいるけれど、学者とかお偉い先生方は普段からこんな考え方をしているのかな。
その振る舞いは教師みたいかと言えばちょっと違うし、政治家や官僚のような立ち振る舞いかと言えば微妙な感じだし、多分『学者』と言う存在になってしまうと、こんな思考になってしまうのかもしれない。
普段の夢美先生やちゆり先生からはそんな学者肌的なイメージは全く感じなかったけれど、この類の回りくどい言い回し、わたしはどうも好きになれそうもなかった。
こんな私達の心は、白と黒しかない。確かに先生の言う通り安直な名前だと思う反面、この世界の全ては零と壱でしかないのだから、ある意味においてそれは正しいのかもしれない。
だけどこの世界はどんな出来事も曖昧にしようとするし実際それが当たり前になっていて、自分の意見を明確にしないことや余計な話に触れず黙っていることが最良の処世術だって真実を、賢い子は最初から知っている。
そうやってあらゆる物事に対して何処までもいい加減に、超テキトーに迎合して生きていけたらどれだけ楽なんだろうね。わたしみたいな人間は合わせられないんだよ。それがどうしようもなく息苦しいし、納得できないことを続けてても苦痛にしかならない。
何もかも有耶無耶なら幸せも絶望も要らないし……そう、やっぱりわたしは零がいいな。希望と絶望が振り子のように揺れ動くから苦しくなる。無価値であることこそが幸せなんだから、価値観なんて尺度を零で固定してしまえば何も感じなくて楽なんだよ。
「それは察するしかないが、続いているんだろうな。検証していると言う方が正しいのかもしれない。患者を限りなくWhiteに近く持っていく方法を模索している最中だからこそ、彼女達はあんな小さな場所に引き篭もっている」
とりあえず看護士に先導されるがままに、三人で閉鎖病棟内の廊下を歩く。
あの部屋が洗面所兼バスユニットで時間は月水何時からあちらがトイレ等々説明を受けていても、先生と話をしているせいか全然頭に入ってこない。
どうせこんな狭い居住スペースなんだから、何処に何があるかなんてすぐに覚えてしまうだろうし説明は適当に聞き流しておけばいいや。
この先生の言ってることも比較的どうでもいいんだけど、何となく気まぐれで話題を引きずってみる。
「……要するに、ぶっちゃけて言っちゃいますけど、黒が不幸で、白が幸せってことですか?」
「普通の価値判断で考えればそうなる。ただしこの『B&W』においてWhiteは『無意識、もしくは死』を表す。どうも彼女達は、そのWhiteであることか、あるいは感情的な振れ幅が限りなく短い精神状態こそが幸せだと言いたいらしいな」
「それじゃあ……白、つまり零が幸せだとすると、残りは黒、つまり不幸しか残ってないってことですよね」
「その通りだ。この『B&W』と言う指針は零――即ちWhiteを最大幸福として、其処からマイナスした値を10段階評価した診断基準だからな。ちなみに一般基準はWhiteから数えてマイナス2が望ましいとされている」
「と言うことは、壱がなくて零とマイナスしかない。それって単なる不幸の価値基準を決めてるだけじゃないですか……?」
多分先生は大分端折って、医学なんてネットの知識をかじった程度しかないわたしにも分かりやすく話してくれている感じ。
何となく普通の人ぶって暗に言葉では否定してみるものの、その考え方はわたしにとって妙にリアルな説得力を持ってる理論のような気がした。
この世界に産まれることもなく、無の状態――存在が『存在』しない時点がWhiteで幸福であると言うこと。それは要するに意味や価値を持ってしまった時から、人間と言う存在は不幸だと位置付けているのと同じだ。
性欲なんて欲望の残滓としてこの世界に産み堕とされた瞬間から、私達人間と言う存在は幸せからは遠く離れてしまっている。とある出来事による多少の振れ幅はあっても、ヒトと言う生き物の感情は生きている限り零には戻らない。
今先生が話してくれた「マイナス2のところが望ましいとされる」って基準は、ほんの少しの幸せを感じながら生きて、たまにはつらいこともあるけれど、すぐ立ち直れる範囲で心を制御できる状態が望ましい、大体そんな趣旨なんだと思う。
――そう、つまりそれは無意識を手に入れること、この心臓が鼓動をやめるまで私達は完全な幸せは求められないと言うことになる。
よくよく考えてみると、夢美先生やちゆり先生の構築した理論はわたしからしてみれば凄く当たり前の話すぎて、何を今更みたいな感じがしてきた。それは要するに、嘘つきの詩人宇佐見蓮子が考えるジサツしたい理由の根拠みたいなものだから。
ふと思い出す。現代医学はキリスト教の『今此処に生を授かっていること、それ自体が幸せ』なんて思想に基づいて、とにかく患者の生命を優先するところから始まったと世界史の教科書か何かに書いてあった気がする。
それが現代の道徳だとか倫理の類、そして医学に受け継がれてるわけだけど、そんな考え方自体もう時代遅れの産物なんだよね。
生命の保証が為された上で『unconscious』を作り出す手段があるとしたら、この世界における幸せの定義なんてあっと言う間に覆ってしまう。
今のところ無意識に陥るための方法は、睡眠か『死』に限定されている。このどうしようもない不安が蔓延る世界から心を病んだ人を助ける唯一の術、それは無意識に拠る心の制御――そんな真実が天才の論文で理論的に証明されたとしたら大変な騒ぎになるだろう。
わたしが言っても説得力がないし誰も肯定してくれないけど、夢美先生やちゆり先生が学術的根拠に基づいて話すのだから、それは必然的に幸せについての議論の対象になっていく。そしたらいずれは安楽死が当然の権利として認められる時代が訪れるかもしれない。
ああ、妄想、もうよそう。そう決めていたのに、ついおかしな方向に考え方が暴走してしまう。
わたしはジサツしたいなんて願望に取り付かれる前から、こんなことばかり考えてる。そう、それはずっと昔からで……空を飛べるとか、絵本の主人公になれるとか、その類の空想がやめられない子供だった。
まだ検証段階みたいだし、仮に発表されて世間に認められるとしても当分先のことになりそう。ただでさえ生きたくないとか考えてしまうのに、そんなに待ってられないよ。痛みなく安らかに死ねるようになるまで、汚れ続けて長生きするなんて絶対にイヤ。
大人になって枯れてしまう前に、わたしはメリーと一緒にジサツするんだ。わたしも、きっとメリーも、お互いが朽ちていく様なんて見たくないはず。枯れてしまった薔薇を再び美しく咲き誇る花に戻す魔法なんて、絶対に存在しないんだから――
「不幸なんて曖昧な物言いは基準にすらならんよ。精神的要素に加えて『B&W』は客観的な社会的尺度を加味して算定される。まあ彼女達が明文化しようと苦戦しているのは後者の『社会的』な部分だろうな。この世界はあまりにも複雑になりすぎた」
傍目から見れば、この世界は複雑に見えるのかもしれない。でも何故だろう、わたしが鈍感なのかそんな実感がいまいち湧いて来ない。
確かに社会通念上のシステム的に考えれば世界は複雑極まりないし、人それぞれの分だけ『世界』があって、それは勿論みんな見え方が違うから、客観的で俯瞰した目線で定義を決められるものなのか正直疑問を感じる。
そんな一見むちゃくちゃな理論を何とかするのが天才と呼ばれる夢美先生とちゆり先生なんだろうけれど、わたしにとって世界なんて――ジサツして命を失ったら一瞬で終わるくらいの極めて単純な構造の毒林檎としか思えない。
幸せだとか死ぬことは不幸だとか『人それぞれ』なんて便利な言葉があって価値観に囚われない自由を人々は謳うにも関わらず、その価値観が多種多様で何が正しくてこれが間違ってるとかこぞって自分の正義を押し付けるからどんどんややこしくなっていく。
その結果として何処かの誰かが勝手に決めた倫理だとか憲法だとかモラルだとか、自由なんてお題目を偉そうに掲げてヒトを雁字搦めにする価値観が社会を形作るから、わたしの思想は何故か異端扱いされて基地外扱いされるし。何か変だよね、そんなの絶対おかしいよ。
「それが私達患者のデータを事細かに収集してまとめる真の意味ですか。それってまるで、神様が法律を決めるみたいですね」
「それは言えるかもしれん。しかし何らかの枷に縛られることで人間は幸せを感じる場合が往々としてあるものだ。ある意味人と言う存在は非常にマゾヒスティックな生き物なのかもしれんな」
「……ところでわたしは、その『B&W』でしたっけ、だと、どう判断されているんですか?」
そんなことを聞いているうちに、看護士がある部屋の入り口で立ち止まった。202号室、どうやら此処がわたしの居場所になるらしい。
横にスライドするドアは開けっ放しで、薄いレースのカーテンが掛けられている。病室の入り口のすぐ隣には各自の氏名をはめ込む箇所があって、もう其処には既にわたしの名前が書かれたプレートが差し込んであった。
この部屋は6人収容で、わたしは一番右端の窓際のベッド。わたしの他には3名療養しているらしく、ちょうど各々が部屋の端々に配置される形なっていた。
入り口側だとうるさくてイヤだなと思っていたので、窓側って言うのはちょっとしたサプライズで素直に嬉しい。きっと星も見えるんだろうし、ふと寂しくなったらメリーに想いを馳せることもできる。
此処が貴女の部屋になります、そんな説明を看護士から聞いていると、ふと先生が時計を見て「おやそろそろ行かないとな」と言った。
基本的にはクスリの処方や病状のことに関しては一切干渉せず、全てはちゆり先生の指示通りと言う話で決着済み。問診は一週間に一度だけ、それでも一応はこの人が主治医になる。
今までのやり取りから察すると意外とフランクで話しやすかったし、それなりに悪くない感じ。ぺこりとお辞儀をして「よろしくお願いします」と言うと、先生は何も言わずナースステーションの方へ歩を進め始めた。
ああ、ようやくわたしの入院生活がスタート。とにかく勉強を必死に頑張らないと合格できないからしっかりやらないとね――そんな風に決意も新たにしていると、いきなり先生がこちらを振り向いて、思い出したかのように小さな声で囁いた。
「ちなみに宇佐見さんは『B&W』の尺度では一番下の『despair』――つまり絶望だ。まあこんなものは当てにならないと考えておいた方がいい」
学者とか天才と言うのは、みんなこんな感じで何処かひねくれているのかな。
例えば、変だとは思わないけれど、ちゆり先生のセーラー服の上に白衣とか一癖も二癖もある人ばかり。
あれだけ信憑性が高そうに話しておいた上で、最後に大切なことをさらりと言ってのけて先生は廊下を歩き去って行った。
それって要するに、わたしが望む最高の幸せ――つまりWhiteの部分から程遠い場所に今の自分は置かれてるってことだよね。
わたしの心の在り処は黒。そう考えてみるとあながち間違っていないし、絶望しているかと言えば絶望しているけれど、今はメリーのおかげでわたしは一縷の希望もちゃんと抱いている。
やっぱり精神科医療なんて大した当てにならないんだよ。人間の心なんて、それこそ神様じゃないと分かるはずないんだから。とりあえずさっきまでの話は忘れて、早く生活に慣れて一生懸命勉強しないとね。
メリーと言う心の支えができたせいか、何故か妙にポジティヴ思考な自分が何処かにいるような気がしてちょっとだけ気持ちが悪かった。と言うか早く会いたいとか、キスしたいとか、ハグしてxxx...想いばかりが募って、とにかく落ち着かない。
看護士に先導されて部屋の中に入ると、其処は『閉鎖病棟』って言葉のイメージに反して、意外過ぎるほど木漏れ日が差し込んでいて明るかった。
あの人工的な光だけで照らされた保護室に収容されていたことを差し引いても、きちんと掃除も行き届いてるみたいだし、清潔感に満ち溢れてるこの部屋は素直に悪くないと思える。
廊下の両側のベッドはカーテンに仕切られているものの、中にはちゃんと人がいるようだった。確かに遮るものがないと何もかも丸見えだし、ああやって自分だけの空間を作る習慣が此処では当たり前になってるのかな。
さっきは先生の話に集中してたからちゃんと聞いてなかったけれど、このフロア自体が大きく二つのブロックに区切ってあって、こちらは女性専用だから痴漢だとか余計な心配をする必要はないらしい。
それはともかくとして、部屋の人数も少ないしゆっくりと落ち着いて勉強ができそうで正直本当に助かる。ちゃんとわたしの気持ちを汲んでくれたちゆり先生には感謝の言葉しか浮かばない。
そんなことを考えていると、いきなり看護士が大きな声で「今日から202号室に入ることになりました宇佐見蓮子さんです。みなさんよろしくお願いします」なんて言い始めた。
慌ててわたしも自分の名前を言ってぺこりと頭を下げたものの、カーテンに仕切られてるふたりには当然見えるはずがない。新しく此処に入院する人がどれほどいるのか想像も付かないけれど、みんな結局のところ新しい人だろうと大した興味もない様子だった。
こうして無視して貰った方がむしろ都合がいいと言うか、その方が気を使わなくて済むから凄く楽でいい。どうせ元から人付き合いだって得意な方でもないし、こんな静かな病室に巡り合えたことは思わぬ幸運、こんな時に限ってツイてるのは良いんだか悪いんだか。
いい加減な思考を押し込めて自分用のベッドに歩を進めようとした矢先、カーテンの仕切りなしで左隅のベッドに座っていた女性がゆらり身体を翻し――その瞬間、強烈なフラッシュバックで今までの記憶を強制的に巻き戻されて、脳内が完全なパニック状態に陥った。
おかしい。こんなことなんて、ありえない。そう頭は必死で正常を取り繕うとするのに、動揺する思考は全く定まらずふらついてしまう。彼女の容姿を映し出したわたしの瞳孔は完全に開きっぱなしになって――絶え絶えの意識が麻痺して頭がイかれてしまいそうだった。
「めりぃ?」
消え入るようなわたしの声は届かなかったのか、京都にいるはずのメリーはやんわりと微笑んで軽く会釈しただけで、再び後ろを向いてしまう。
ふわり黄金色のさらさらな髪の毛が幻想的に舞い踊る姿はあまりにも可憐過ぎて、ぞくぞくと心の奥底から寒気が走るくらい美しかった。深く染められた紫陽花色のキャミソールから晒されたなだらかな美しい肩の白さが、その色合いをより鮮明に際立たせる。
肝心なところが嫌味にならない絶妙な大きさで脹らみ、それでいて要所はきちんと引き締まっている抜群のプロポーション。混乱する思考にあって、この確信だけは揺るがない。何処までも見目麗しい彼女は、間違いなくわたしが全てを捧げると誓った最愛の人だった。
そして彼女は『REM』ではなくて、わたしが『神様』と呼んだ存在であることも容易に想像が付く。でも、その目的が全く以って意味不明。わたしの監視? それともまた悪い夢? 分からない。全く分からない。幾ら考えてみても、答えなんて導き出せるはずがなかった。
自分のベッドまで案内されると、其処にはダンボールに入った荷物が山積みになって置かれている。
衣服や最低限の生活必需品、残りは全部参考書だらけのダンボール箱を開けながら、此処での生活サイクルについて看護士から説明を受けた。
朝6時半起床、検温。8時朝食、その後はお昼まで安静。先生の回診が入る場合もあります。等々の話が右から左に抜けていく。敷居のカーテンを閉めずベッドに腰掛けて本を読んでいるメリーの方を、ついちらちらと見てしまう。
清楚な品性と美しくも惑わしい容姿はアンニュイなのに何故か不思議と調和して見える辺り、その美貌から醸し出される風格は神様のそれだと思った。あの夢の中で初めてキスを交わした時のような、妖しくて艶めかしいセクシャルな雰囲気を存分に感じさせる。
でも今わたしの意識は間違いなく覚醒しているし、これは決して夢なんかじゃない。彼女はどうして此処にやって来たのか。そんな疑問がずっと頭の中を交差したまま、とにかく暇だと言うことだけが伝わる説明が終わって、看護士が部屋の外へと去っていった。
――メリーを愛することと、彼女を愛することはイコールになるのかな。
ふと、そんなことを考えてしまう。まだメリーと別れてから一週間も経っていないのに、もうわたしは寂しくて寂しくてたまらなかったから。
メリーと会いたい。メリーと、会いたい。めりぃと、会いたい。ただ、ただ、そう繰り返し願っていた。あの時にわたしとメリーが交わした想いは確かに心の奥で煌いてる。
でも、思い出は取っておけない。それは時間が経つと色褪せてしまう。緩やかに朽ちていく想いは幾ら大切にして抱きしめてみても、ただぼんやりと霞むだけではっきりとした感情を残してくれない。
今わたしの目の前にいる神様を愛することが、メリーへの裏切りにならないのならば……ううん、ダメ。メリーは神様とは別人格だとはっきり言ってた。
だけど、最愛の人がこんな傍にいるのに、手を伸ばせばすぐに届く場所に座っているのに、触れることも、抱きしめることも、キスすることも、ああ、何もかも叶わないなんて残酷過ぎるよ。
もしも許しが貰えるのならば、今すぐにでもメリーを抱きしめて、また一緒におかしくなりたい。だってメリーが残してくれた想いは甘い甘いアマイアマイキャンディ。それはいつか溶けてなくなってしまうような気がして、わたしはとてもとても怖いの――
一通り荷物を片してベッドに座って、うーんと背伸びしながら少し考えてみる。勉強のためなんて名目がなければ、此処はどうしようもなく退屈な場所かもしれないと思った。
勿論病状的に安定しない人や現在進行形で苦しんでいる人は本当につらい想いをして過ごしているんだろうけど、わたしみたいな漠然とした不安に常に苛まされているタイプ――現実に絶望している人々からしてみれば、此処はただの『閉鎖』された世界でしかない。
自分が変わることと世界が変わることが同義であるなんて戯言を、一時期もてはやされた文芸の『セカイ系』とか言うジャンルではしきりに口にするし、その考え方自体をわたしも否定するつもりはこれっぽっちもない。
でも私達が見ている共通の確固たる『世界』がこんなどうしようもないのに、一体どうしたら自分を変えることができるのかな。自分探しなんて笑えちゃう自己啓発系の本を読みまくれば世界は変わる、そんな簡単に人間の頭脳が作られていたら良かったんだけどね。
結局は運命とか神様の悪戯とかって類の、極めて曖昧な要素で人生は決まってしまう。それはもしかしたら生まれた時から人生なんて名前の予め敷かれたレールの上を歩いているだけかもしれないし、その気になれば平気で脱線できる造りになっているのかもしれない。
それにしても、ただ餌を与えられて生かされているだけと言う点においては此処も保護室と何ら変わらないし、思考回路の根本に悩みの種があるタイプ――投薬の効果が薄い患者が隔離される意味がいまいちよく分からなかった。
あれこれと考えることが山のようにあるのに、答えが浮かびそうな問いがひとつもないから困る。悩んでても仕方ないし勉強でも始めようかなと思うものの、すぐ目の前のベッドで本を読んでいるメリーが気になってどうしようもない。
とりあえず、あれだよね、挨拶くらいはしておいた方がいいよね。その声を聞くことができるだけでも、今のわたしの素敵な糧になりそうだから。そう思い立って、ベッドからひょいと飛び上がる。そしてそのまま、メリーが座っている傍にゆっくりと近付いていく。
「……あの、め、り、ぃ?」
たどたどしいわたしの言葉を聞いて、カバーが掛かった文庫サイズの本を読んでいたメリーがふと顔を上げた。
アメジストの輝きを放つ大きな瞳。くるんとカールしたぱっちりなアイライン。美しい黄金色に染まった髪の毛。そのどれを取ってもわたしの親愛なるメリーにしか見えない。
その美貌が少し訝しげな感じで歪んで、不思議そうな表情を浮かべてわたしの方をじっと見つめる。たったそれだけの仕草にも妖しい色が帯びて、心臓の鼓動がどんどん早くなってしまう。
「あら、私は『めりぃ』なんて名前ではありませんわ」
「今更隠そうとしても無駄だよ。貴女がわたしに色々な夢を見せた張本人なんでしょう?」
「何か勘違いしているのではなくて? 私と貴女は今日始めてお会いしたばかりで、何処かでご一緒した記憶は少なくとも私にはないのだけど……」
その凛とした澄んだ声も、はにかむと頬がほんのりと緩む感じも、その些細な振る舞いの何もかもがわたしの愛するメリーでしかなかった。
メリーの「蓮子はサディスティックな方がいい」って言葉が頭を過ぎって、そのまま押し倒して壊れるほどに抱きしめたくなる衝動を必死に押し殺す。
わたしは叶うのならば今すぐにでもメリーが欲しい。でも彼女はもうひとりの人格に過ぎず『REM』ではない。
理屈だけで考えるのは簡単でも、納得するのは全く別問題でわたしは頭を抱えるしかなかった。あの私達の一部始終を知ってなお、この期に及んで神様は知らぬ素振りを決め込むつもりらしい。
意味が分からなかった。全然分からない。分かるはずがなかった。この神様の思考は本当にわけが分からない。でも、ただひとつだけはっきりしてること――『神様』は己の五感を通してメリーとあらゆる情報を共有できる。
それはつまり、彼女は今のわたしが置かれている状況をメリーに伝えることだって容易にできるって寸法。ふと浮かぶ、ありえない共謀説。あの狂った愛情も共有してしまったふたりの『メリー』によって、わたしは監視されているのかもしれない。
「……わたしは『REM』としてのメリーも『神様』としてのメリーも愛してる。それなのに、貴女が其処まで嘘を隠し通そうとする理由が分からない」
「この世界には自分と瓜二つの存在が少なくともひとりは存在するなんて逸話をご存知かしら。貴女がそんな状況に陥っているとすれば納得がいきますわ。私はそのメリーと言うお方に余程似ているのでしょうね」
「そんな胡散臭い誤魔化し方しても無駄だよ。貴女は自分の存在が『証明』のしようのないことを知ってて平然と白を切ってる。でもわたしに隠そうとしても、それは流石に無理な話だね。だって貴女は実際わたしと出会ってキスだってしてしまったんだから」
「自分の存在の証明、ですか。うふふっ、なかなか面白いことを仰るのね。確かに私が『私』であることは証明のしようがありません。それは周りが示すものでしかない。そう、例えば……名前。申し遅れましたが、私は八雲紫。以後お見知りおきくださると嬉しいですわ」
そう言って彼女からゆらり手を差し出されたので、ついノリで握手を交わしてしまう。
ぎゅっと握り締めたてのひらから伝うぬくもりはとてもやさしくて、どう考えても彼女はメリーと同一人物としか思えなかった。
そしてフラッシュバックするのは勿論メリーと言う美しい名前を決めた時の記憶。あの時にわたしが真っ先にイメージした紫――彼女はそれをそのまま自分の名前だと平然と言ってのけた。
そんな偶然が必然として起こりえるのか。思考がどんどん錯綜しておかしな方向へ向かっていく。彼女の素性は何処までもアンノウン。そしてその思惑は、もはやわたしの知るべき余地のないレベルに到達している。
ヤクモユカリ――わたしが『神様』だと認識した存在にして、親愛なるメリーの中に存在するフェイクの人格。
この世界の理を、物事の本質を得ているようで、何処かはぐらかすような話し方はメリーのそれとは全く違った。
彼女が確実に別人格であることは完全に把握できた反面、その真意がどうしても掴めない。何処にあるのか煙に巻かれている感じがする。
それに『信じてる』と誓ってくれたメリーが見張り役として置いていったとは到底考えられない。ただし彼女は何らかの明確な意思を以ってして、わたしを此処まで追いかけてきた。
ああ、求めて欲しい。抱いて欲しいの。そんなどうしようもない願望が心の中で渦巻く。あのデイケアで見せてくれたような高圧的なやり方でわたしのくちびるを奪ってくれたら、また素敵な世界の奈落に堕ちることができるから。
とりあえずああだこうだ考えても仕方ないので、すっぱりと考え方を切り替える。
すぐ傍でメリーが見ているかもしれないって仮定を前提に、わたしは活動しなければならない。
でもこんな閉鎖病棟で何かやらかすことができるかと言えばNoで、真面目に勉強するくらいしか此処ではすることがなさそう。
彼女が隣にいてくれると言うのは嬉しい気がするけれど、狂おしいまでの愛を貪り合えない現状は正直生殺しみたいなもの。
そんなネガティヴな考え方だからダメなんだ。余計な雑念を振り払って普段のありのままで愛してあげたら、メリーにも届くかもしれないんだから。
わたしはいつのものように嘘つきの詩人宇佐見蓮子を演じて、神様にも愛して貰えるようなわたしで在り続けるだけでいい。
「……宇佐見蓮子です。よろしくね、八雲さん」
「こうして同室になったのも何かの縁。折角だから素敵な友達になりたいと思うのだけど、私のことは呼び捨てにして頂いても構いませんわ」
「うん、そうだよね。わたしもそう思うから、名前で呼んでくれると嬉しいな。それでは改めてはじめまして、よろしくね。紫」
「こちらこそよろしくお願い致しますわ。蓮子」
その凛とした声がわたしの名前を呼んでくれるだけで、心の奥底からふわりやさしい想いが浮かび上がってくる。
メリーが恋した宇佐見蓮子はあの時飛び降りジサツした『わたし』で、そんなわたしが初めて恋をしたのは、あのデイケアの時に夢のようなひとときを与えてくれた今目の前にいる『神様』の人格だったメリー。
同じ平行線上で絡み合っているのに、ぐんにゃりとねじれた奇妙な違和感を覚えてしまう。それでもこうしてふたり名前を呼び合って笑うだけで、心の中にゆらり、ゆらり、小さな幸せを感じることができるのだから……。
此処から無事抜け出してわたしの夢が叶ったら、ずっとわたしを愛してくれていた『REM』のメリーとも必ず会える。今はただ、メリーは隣で見守ってくれてるだけ。そう考えるのが一番精神的に健全な気がした。
もっと『REM』としてのメリーではなく『八雲紫』としてのメリーのことを知りたい――そんな気持ちが、ふと心を過ぎった。
あまりにも彼女の行動は不可解な点が多過ぎるし、第一メリーさえ彼女のことをはっきりと分かってないっぽい。だからこそきちんとわたしが知っておいて、万が一またおかしな幻覚を見せてきた時のための対処法をきちんと確立しておきたかった。
ただ、それはあくまでも建前、単に興味本位な部分も大分あって……あの初めて交わしてくれたキスだってお遊びだったとは到底思えない。そうわたしが思いたいだけって部分もあるけれど、少なくとも紫も本気でわたしを愛してくれているみたいだったから。
そんなことも含めて、あれこれと聞いてみたいことは山のようにあった。とりあえず何でもいいから話がしたいのに、どうしても二の次が思い浮かばない。今回はいきなりお別れってこともなさそうだし、挨拶も一応は穏便に済んだので、おとなしく自分のベッドに戻る。
さっと机一杯に参考書やらノートの類を広げて勉強に取り掛かってみるものの、どうしても紫のことが気になって全く集中できなかった。
あちらはわたしなんて気にする素振りすら見せず、黙々と文庫本のページに目を落としている。すぐ隣に愛する人がいるにも関わらず、この何もできないもどかしさが焦燥感を余計に駆り立てた。
わたしは今すぐにでも抱きしめたくて、キスしたくてたまらないのに……この衝動を押し殺したまま過ごす期間は、一体どのくらい続くのかな。紫は一応は名目としては入院しているみたいだし、彼女が退院するまでとしても目処は全く立たない。
メリーのことを差し置いて刹那の快楽に走ろうとする自分が容易に予想できてしまう辺り、わたしは本当にどうしようもない人間だと思う。脳内を共有してるとは言え、自分ではない人格を愛される気分が果たしてどんな感覚なのか、わたしには全然想像が付かなかった。
いきなりこんな感じだと本当に先が思いやられる。今から必死に勉強したって受かるかどうか奇跡的な確率の超難関大学、一心不乱に勉強に打ち込まないと受かるはずがない。
でもすぐ隣に最愛の人がいると考えるだけで、何処からともなく思考にノイズが混じる。今わたしはメリーのために、そしてそれは自分自身のために――歯を食いしばって頑張らなければいけないのに、恋の病に堕ちた心がメリーを求めてやまない。
フェイクの彼女でもいいから、ぎゅっと抱きしめて欲しい。たとえ与えられたクスリがニセモノだろうと、本物だと思い込んでしまえばそれは本物に変わる。人格は違えど、甘い甘いとろけるスイーツみたいなメリーのキスであることには、何ら変わりないのだから。
ああ、恋しい。メリーがたまらなく恋しい。こんな近くにいるのに求める権利さえ与えられないなんて、本当に貴女は罪な人。神様と言う人はどうしてこんなに意地悪ばかりするのかな。たまには奇跡のひとつくらい、夢見させてくれたっていいと思わない?
――夕食のお時間です。患者の皆様方はダイニングルームの方にお集まりください。
あれこれと無意味な思考を繰り返しているうちに、あっと言う間にそんな時間になってしまっていたらしい。
ふう、とため息をひとつ吐くと、ぱたんと文庫本を閉じた紫と目が会った。目配せで「行きましょうか」と誘ってくれたので、ベッドから起き上がって一緒に食堂へ向かった。
やっぱり紫の隣にいるだけで、何処か心が落ち着く。此処がわたしの居場所なんだと言う感覚が確かに残っているから、尚更メリーのことが愛しくなってしまう。手を繋ぎたい、そっとてのひらを取ってしまえばいい――そんな誘惑を必死に押し殺す。
横目でちらちらと紫の様子を伺ってみると、彼女は何故かやたらと気分が良さそうだった。わたしが貴女のことでひどく思い悩んでいるにも関わらず飄々としている様子が、ちょっとだけ妬ましく感じられた。貴女は、八雲紫は、わたしを求めてくれないのかしら。
全病床分の椅子が並んでいると思われるダイニングルームには、既に大勢の人が集まっていた。
ざっと目視するだけで50人くらいは確認できるけれど、スペースの広さのせいか何となく閑散とした雰囲気が漂っている。
テーブルの上にネームプレートが張ってあって、ちゃんと席順は決まっているらしい。新しく入ってきたわたしの椅子は紫と大分遠い場所だったので、比較的マジでがっかりしてしまう。
こうやって集団で食事を取ることなんて中学校以来で、どうも落ち着かないけれど規則みたいだから仕方ない。テーブルの上に乗せられた食事を見ると、ご飯にお味噌汁とよく分からない料理が三品、いかにも病院食らしい感じの食べ物が並んでいる。
正直全然食指が動かないと言うか、何も食べたくない。食べる気が全く起きなかった。美味しそうとか美味しくなさそうとかそれ以前の問題で、ただ単にわたしが拒食症気味と言うこともあるし、何となくこのシチュエーションは学校給食を思い出すからイヤ。
まるで看守の如く等間隔に並ぶ看護士に見張られながら、18時のチャイムと同時に食事が始まった。
これだけの人数が集まっているにも関わらず、誰も何一言喋ることなく淡々と料理を消化していく。何となく周りの様子を見回すと、みんなわたしと同じような死んだ魚の目をしていた。
一部の痴呆症らしき要介護が必要な人々以外は生きる気力が消え失せていて、もうさっさと殺してくれなんて半ば諦観染みた絶望を醸し出している。こんな世界に長期間閉じ込められていたら、そう願うのも無理のないことだと思う。
彼らは自分の意思に反して、あの憲法で謳われている人権だとか言う名目の下『生かされている』だけで本当は治療なんか望んでいないかもしれないのに、こうやって半強制的に何らかの病気と位置付けられて閉鎖病棟に収容されている。
此処にいる人達には娯楽や楽しみとか、幸せや未来について考える余地なんてこれっぽっちも残されていない。外の世界に住んでいた時のわたしだって散々絶望していたけれど、こんな狭い世界でジサツするなんて選択肢すら認められないなんてひどすぎる。
生きたまま死んでる心と身体に何の意味があるのか、わたしにはさっぱり理解できない。観賞用のエンゼルフィッシュや家畜宜しく飼育されて、何の希望も持てないまま『時の経過』と言う苦しみだけを与えられるこの場所は最低最悪の隔離施設としか言いようがない。
ニンジンのグラッセを箸で転がしながらそんなどうでもいいことを考えていると、周りの人は次々と食事を終えて部屋の方へ戻っていく。
集団で食事をするってポイントだけで見ると学校給食と似たような風景でも、みんなで食事を楽しむと言った和気藹々とした雰囲気は微塵も感じられなかった。
滅茶苦茶食べ残してる人もいれば、ちゃんと完食してる人まで様々。とりあえず物は試しだと思って、白身魚のムニエル風味を何となく口に運んでみるけれど普通に超薄味過ぎて不味かった。
閑散とした空気を茶化すように流れるテレビの音声が耳障りで、これもまた神経を逆撫でして超うざい。もう完全に食べる気も失せたので、またぼんやりと辺りを見渡すとふと紫の姿がないことに気付いた。
他のお皿にも大分料理が残っている辺り、やっぱりみんな美味しくないと感じてるのかもしれない。これ以上ダイニングルームに居残ってても仕方ないので、わたしも一切食事には口を付けずおとなしく立ち去る。
ゆらりゆらりと何故かおぼつかない足取りで部屋に戻ると、ゴシックな感じのフリルがふんだんにあしらわれた黒いセクシーなネグリジェを着た紫が相変わらずカーテンを開けっ放しにして本を読んでいた。
先程の格好より生地が薄いせいか下着まで丸見えで、近くて見ているこちらの方がどきどきしてしまう。こんな場所でおしゃれをする必要があるのか非常に疑問だったけれど、身嗜みにとにかく気を使う彼女らしいと言えば彼女らしい。
そのうちすぐ部屋にクスリを持った看護士が回ってきて、室内にいる人間がちゃんと飲み込む様子を確認していく。この類のクスリは継続して飲むことで効果を発揮するので、欠かさず飲み続けないと効果が得られない。
わたしもじーっと監視されながらクスリを飲まされる。さて次は紫の番かとちょっと注目していたら、看護士は華麗にスルーして部屋を出て行ってしまった。メリーや紫がクスリ飲んでたらイヤかもしれないと何となく思っていたので、正直な心境は安心半々疑問半々。
閉鎖に入るような患者の場合は大抵何かしらのクスリは処方されるはずなのに、何か特別な治療でも行ってるのかな。でも、よく考えてみると脳内は共有してるにしろ、メリーや紫の精神が病んでるとはとても思えない。
元々こんなクスリは鬱『気質』の人には効きやしないし、急速に進歩したと盛んに騒がれる現代医学においても脳はいまだ未知の領域。多重人格が治せる画期的なクスリなんて、今存在する文明の理智を以ってしても開発できるはずがなかった。
ぼんやりしていても仕方ないので、とりあえずわたしも勉強の続きを再会する。相変わらず紫の方が気になってちらちらと見てしまうけれど、やっぱり彼女は知らないフリを決め込むつもりらしい。
とにかく勉強に集中しなきゃと自分に言い聞かせて、貪るように参考書に目を通しながらノートに咀嚼した内容をまとめていく。こんな独学もすっかり慣れっこ、マイペースで自由にやれるし保健室登校の延長みたいな感じ。
がむしゃらにシャープペンシルを走らせること二時間と少々、あっと言う間に時間は流れて消灯時間の21時が近付いてきた。クスリを飲ませて歩く看護士の足音が廊下の方から甲高く響いて、こちらの部屋の奥まではっきりと聞こえてくる。
こんな時間に眠れるはずがないと最初は思っていたのに、此処最近の睡眠不足が祟っているせいか今日はちゃんと眠れそうな気がした。夕食後と同じ形でクスリを飲まされてから、布団を被り込んで星のない夜空へ逃げ込む。
また見知らぬ部屋。見知らぬ天井。見知らぬ世界――こうやって暗闇の褥へと堕ちていく感覚は心を落ち着かせてくれる。明日からもちゃんとやっていけるかな、ふとそんなことを考えているとベッドの向こう側から美しい声が鼓膜を震わせた。
「おやすみなさい、蓮子」
その凛とした音を聞いた瞬間――メリーとxxxした夜の艶やかなメリーの声がフラッシュバックする。鮮やかな幻と化した貴女も何処までも夢現で、またはしたない気持ちになりそうだった。
すぐ手を伸ばせば最愛の人がすぐ其処にいるのに、こうして離れ離れになって寝ること自体が何だかおかしく思えて仕方ない。紫の奏でる澄んだ音色は何処までも美しくも惑わしい妖精の歌声みたいに、わたしの心をふしだらな方向へ誘惑する。
もしもメリーが許してくれるのならば、今すぐにでも屈服して可愛がって欲しくなってしまう。あのデイケアの時のような高圧的で一方的なやり方でメリーに犯される、そう考えるだけで心がぞくぞくと快楽に打ち震えた。
でも、わたしが八雲紫としての貴女を愛することに対して、メリーが嫌悪感を抱く可能性は否定できない。
そんな当たり前の事実が頭から離れなくて、どうしてもわたしは一線を越えることができずにいる。ぎりぎりの境界線上で自我を保っている、と言った方が正しいかもしれない。
メリーと出会う前の、失うものが何もなかった今しかないと喚き叫ぶ『わたし』だったら、理性の枷なんてとっくに引き千切って今すぐにでもメリーをぐちゃぐちゃに犯してるはず。
もうわたしはメリーがいないと生きていくことすら間々ならないんだから、それはある意味当然のことだよね。メリーから貰ったクスリでおかしくなってるわたしこそが本当の宇佐見蓮子で、メリーがいない世界の『わたし』なんて存在はもはや考えられない。
「おやすみなさい、ゆかり」
そっと布団から顔を覗かせて、遠くで薄らぼんやりと輝くアメジストの瞳にやさしく声を掛けると、わたしの言葉に満足したのか淡いヒカリがゆったりと消えていく。
それと同時にぱっと照明が落とされた。廊下を照らす碧の蛍光灯が僅かに入り込んで来るだけで、部屋の中は漆黒と静寂に包み込まれている。今日色々あった出来事を何となく反芻してみても、最終的に残るイメージは紫色の幻だった。
もうひとりのメリーである彼女の目的はやっぱりわたしの監視なのかな。それとも夢のような忠告、残酷な現実の投影、あるいは本当にわたしを愛するためにやってきたとか、あれこれと根拠のない妄想が頭の中に浮かんでは霧散する。
叶わない夢を祈ることはとっくの昔に諦めた。結局幾ら考えてみても答えは同じで、こんなわたしが現実にできることなんて限られている。ひたすらに勉強して、メリーと同じ大学に通う。たったそれだけが今わたしが生きている目的で、此処に入院してる理由だから。
――ああ、メリー。今も貴女は同じ星空の下で、わたしを想ってくれてるのかな?
いっそのこと紫がわたしの全てをメリーに伝えてくれたら、幾らでも『メリー』に対して惚気ながら頑張れるのに何気にひどいよね。
貴女のことを考えるだけで、淡い想いで繋いだ胸が張り裂けそう。メリーが与えてくれたクスリの副作用は確実にわたしの心を蝕んで、真紅の砂が軋み零れ落ちて悲鳴を上げる。
そっと手を伸ばせばすぐ傍にいるのに、こんなにも大好きでたまらない貴女を愛せないなんてつらすぎるよ。こんな残酷な神様の仕打ちは、貴女の忠告を無視してまたリスカをやらかしたわたしへの罰なのかな?
段々と遠のく意識の中で、美しい面影となって微笑むメリーに想いを馳せる。
こんなわたしを狂おしい想いで信じてくれた、わたしだけの愛しいメリーのことだけを想う。
予想外のイレギュラーな事態が発生してしまったけれど、一生懸命勉強して必ず貴女の隣へ行くよ。
だってわたしの居場所は、其処にしか残ってないんだから。こんな生きたまま死んだ生活を送る終の棲家で一生を終えるなんて絶対にイヤ。
もしもこれが抗うことのできない運命で、宇佐見蓮子に用意された未来の先行上映会だって言うのならば、いっそメリーに嫌われてジサツした方が108倍マシ――
◆ ◆ ◆
ふと格子に囲われた窓枠の間から外を覗くと、鮮やかに色付いた銀杏や楓の葉がぽつりぽつりと美しく染まり始めていて、静かに夏の終わりを告げていた。
閉鎖病棟で過ごしていると当然ながら外出することができないから、月日の感覚が少しずつおかしくなっていく。ただひたすらに規則正しい生活を強いられる家畜のような気分は相変わらずだ。
この隠された世界にずっと閉じ込められていたら、やっぱり発狂してしまったり人間として気がふれてしまうのは当たり前だと思う。あくまでも治療行為の一環なんだろうけど、この閉鎖病棟はただ臭いものにフタをしてるとしか考えられない。
社会に適応できなかったわたしみたいな存在や、ジサツが救いだと考えている人を強制的に収容する場所。幸せなこと、楽しいものばかり見ていれば苦しいものは感じずに済むから、現在進行形で苦しんでいる人々は見えないように一括りにして隔離しておく。
幸せを謳歌する人達の身勝手なエゴが病気の治療なんて大義名分を掲げて、こんな健康で文化的な最低限の生活を間々ならない施設に一方的に押し込んでるだけ。この世界の負の部分を隠蔽するために此処は存在しているような気がしてならなかった。
それでも人間には適応力と言うものがちゃんと備わっているらしく、こんな人間以下のどうしようもない生活を強制される環境下にも大分慣れてきた。
もっともわたしの場合は外の世界にいる時から虫けら扱いで、勉強をするためと言う目的があって自ら志願したんだから、この生活を受け入れざるを得ない側面は否定できない。
此処は普段暮らしている時のような余計なノイズが入ってこないし、外部と完全に遮断されているせいか幻聴幻覚の類も気持ちやわらいでいる。勉強以外することがないからおかげさまで入試対策の方は順調に進んでいるし、精神状態はかなり落ち着いてる方だと思う。
こんな状況に置かれているのに精神的に安定しているのは何故かと自己分析を試みると、答えはたったひとつしか浮かんでこない――それは今わたしの目の前で悠然と本を読んでいる八雲紫と言う存在の影響に他ならなかった。
「あの、紫。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
そう言うや否や紫は読んでいる本から目を逸らしてやんわり微笑むと、ベッドの隣にそっとわたしの居場所を作ってくれる。
メリーと紫は違う人格だと言っても、彼女の傍にいるだけでやっぱり安心してしまう。わたしは遠慮なく隣に腰掛けて、どうしても解けない数学の設問を見せた。
本当は回答集を見れば一目瞭然、これはあくまでも方便に過ぎなくて、紫と話をするためのきっかけとでも言えばいいのかな。こんな感じでちょくちょくわたしは紫のベッドを訊ねていた。
――箱の中に1から9までの番号を1つずつ書いた9枚のカードが入っている。ただし、異なるカードには異なる番号が書かれているものとする。
この箱から2枚のカードを同時に選び、小さい方の数をXとする。これらのカードを箱に戻して再び2枚のカードを同時に選び、小さい方の数をYとする時X=Yとなる確率を求めよ――
「17/108」
「凄い、どうしてそんなすぐに分かるの?」
「ちょっと学問とかに憧れていた時期がありましたの。其処に私の求めている救いがあるのかもしれないと思って、必死に勉強していた時期があった。かいつまんで話せばそんな感じかしら」
「それにしても紫の知識はちょっと異常過ぎると思うよ。だってこれ、あの京都大学の入試問題なんだからみんなそんなすぐ簡単に答えなんて分かるわけないもの……」
「必ず答えが用意されている問題なんて、ちょっと考えたらすぐに分かってしまうものばかり。1+1=2だと決まっている世界の物理法則なんて、極めて単純なものでしかありませんわ」
入院してから三日ほど経った頃だったかな、わたしがいきなり問題に躓いてうーんとうなっていると、ふと紫がわたしのベッドにやってきて今と全く同じ感じでさらりと答えを言ってのけた。
あの時は位相幾何学のポアンカレ予想における課題で、もう紫は問いを見た瞬間に答えがすぐに導き出せていたって印象を受けたことをよく覚えている。それがきっかけで、わたしと紫はこうしてお互いのベッドを訪ね合って話をするようになった。
勉強を教えて貰うことなんて本当稀で、大体は紫の話を聞いている時間の方が大半。彼女は本当に異常とも思えるレベルの博識っぷりで、この世界の様々な事柄を全て熟知してる感じの口調で多種多様な事象について語ってみせる。
これは問題上の答えは今多分○×とされている、でも本当は△□の法則って根本から間違っているの。此処からあの星まで何億光年あるかなんて簡単に計算できるし、この宇宙が生まれた経緯は簡単な数式で証明できる等々、それはまるで神様みたいな物言いだった。
その全てを知った風な素振りで物事を語る様はメリーとはあからさまに違うけれど、紫の話はとても興味深くて面白いものが多かったし、つい話し込んでしまうと勉強してる最中だと言うことも忘れてしまうくらいあっと言う間に時間が過ぎていく。
たまにさり気なく寄り添ってみたり、手を繋いでみたり惚気てみたりしても紫は微笑んで受け止めてくれる。ちょっとだけメリーに「ごめん」って言いたくなったりしながらも、紫と一緒に過ごす時間はわたしにとってかけがえのないものになっていった。
ふと、紫の読んでいた本に視線が向いた。文章がぎっしりと詰まった本の見出しには『Die Welt ist alles, was der Fall ist.(世界とは、起きている事全てのことである)』とドイツ語で書かれている。
すぐにわたしはこの本がウィトゲンシュタインの論理哲学論考だと言うことが分かってしまった。昔はニーチェやゲーテかぶれでしたとか、哲学に救いや逃げ道を求めた子はきっとわたしだけじゃないはず。
幸せについて答えを見つけるためストア派だとかエピクロス派だとか色々かじったあの頃が懐かしい。わたしが哲学に答えを見出そうとしていた方向とは逆に、紫は数学や物理法則から幸せを導き出そうとしていたのかもしれない。
かの著作の命題1.で示されるこの言葉は、今わたしの目の前にいるマエリベリー・ハーンと八雲紫の存在がノットイコールであるなんて普通考えられない事実も、この世界と言う定義の中では普通に語りえる事柄だと饒舌に述べていた。
わたしは哲学なんて何の答えも導き出せなかった終わった学問だとすぐに飽きてしまったのに、紫はこの手の本が好きなのかな。もう大分頭の中から抜け落ちてしまって哲学談義はできそうもないけれど、付き合うことくらいなら何とかなる。
「紫は哲学とかその類の本に、幸せになるための答えやヒントが隠されてるって考えてるの?」
ふいに口を付いてしまった本音を聞くと、紫はくすくすと笑いながらわたしの肩にぴたりと顔を寄せて身体を密着させてきた。
ふわりなびく美しい黄金色の髪の毛から空気を伝って鼻孔をくすぐるシャンプーの香りが、美しくも惑わしい妖しい世界へ誘おうとする。
その何かと色を帯びる艶やかな仕草はメリーの見せるそれと全く同じで、その誘惑に負けてしまわないよう衝動を押し殺すだけで精一杯だった。
ほんの数秒が永遠に感じられる時の中で、ただ私達は寄り添い合っていた。
お互いの想いを確かめる、繋いだ想いを……それはまるでメリーが望んでいるからそうしてると言った感じが無きにしもあらず。
そんなの気のせい。気の迷い。考えすぎ。彼女達の意識下や脳内は確かに共有されている。ただし今日までの紫と過ごした時間がメリーに伝わっているかどうかなんて、傍目から見てるだけのわたしに分かるはずがない。
紫が何を基準にしてメリーに情報を伝達するのか、それを知る術さえ持ち合わせていない以上、全ては机上の空論に過ぎないけれど、わたしと紫が過ごしているこの時間軸はメリーには一切伝えられていないような気がした。
それこそウィトゲンシュタインは論理哲学論考の命題の最後において、こう書き記している。『Wovon man nicht sprechen kann, daru"ber muss man schweigen.』――語りえないことについては、人は沈黙する他ない。
「ええ、少なくとも数学や物理よりは的確な指標をもたらしてくれると思っていますわ。人間の抱える諸々の感情、たとえば幸せ――つまり心象風景や世界なんて数式では語り得ない。それらの真偽の値が正しいか判断する明確な基準が存在しないのだから」
「紫の言う通りだからこそ、哲学で定義される幸せなんてどれもこれもずれている気がする。何がどうして面白いのか、今何故自分が幸せなのか、そんな答えなんて自分自身でしか導き出すことができないんだし、そもそもわたしはこの学問自体意味があんまりないと思う」
「確かに哲学の概念は、私達の生活に根付いていないに等しい。この世界に存在する命の数だけ世界が『存在』する以上、明確な価値基準を持ち込もうとする考え方がナンセンスだと私は感じる。だけど皆答えを最初から持っていますわ。幸せとは何か、その答えを……」
「でも何処かの知らない誰かが決めた価値観を押し付けられて私達は生きてる。だから苦しんでる。パスカルのパンセだったかな。あんな風にどんな価値観でも認められるべきだって世界になっていたら、わたしは哲学は素晴らしいものだって思えたかもしれないけれど」
――誰もが幸福になりたいと思っている。其処に例外はない。これこそが首を吊ろうとする人をも含めて、あらゆる人間のあらゆる行為の動機である。
人間は考える葦である、クレオパトラの鼻が短ければ――なんて有名な言葉を残したフランスの思想家ブレーズ・パスカルは書物の中で、幸せについてこんな記述を残してこの世を去った。
そして『絶えず幸福になろうとしている状態にある限り、我々は決して幸福になることがない』と。その意味を深く考えているときりがないし、わたし程度の知能の持ち主がその真意を読み取れるはずがない。
ただ恐らく彼は、幸せの形が複数あると言う事実だけを明確に示していた。人それぞれなんて言葉がわたしは大嫌いだけど、ある人間に関する幸せはどんな形であっても構わないと言うことをパスカルは伝えたかったんだとわたしは考えている。
紫の言う通り世界が命の数だけ存在して幸せも同じ分量『存在』するのならば、その中には勿論ジサツが含まれていたっておかしくない。むしろわたしにとってはそれが至極当然の考え方なのに、この社会の人達は何の根拠もない価値観を無理矢理押し付けてくる。
その中においてわたしの想う幸せ――そう、メリーと出会う前の『ジサツ』と言う幸せは絶対に認められなかった。生きていること自体が幸せなんて、幸福を享受してる人達のエゴでしかない。そんな世界だからわたしは絶望するし、嫌になるほどうんざりしてしまう。
そもそも価値観なんてものが存在するから、わたしは常にそれに縛られて苦しい想いをしてる。
物質的な意味で、あるいは精神的な意味合いでも、諸々の価値観が全て消滅してしまえば、こんな想いをせずに済んだのかもね。
そんな要素を決めたのは誰なのかな。まずはわたし、他の人、社会、宗教、哲学、世界、それとも神様――多分それは全部間違い。
この世界を形作る人間なんて生き物が全ての価値観を決める。自分の見ている世界の価値観を自ずと設定しているから、こんな残酷な世界が出来上がった。今目の前にいるメリーと紫のように全てを共有できれば、苦しみなんて要素自体が発生しないんじゃないかな。
みんなが同じ価値観を共有して無価値になってしまえば、何もかも感じることもなくただ無意識下で生きているだけの葦になれたのかもしれない。わたしがジサツに憧れる理由として、そんな何も感じない状態が幸せなんて想いが重要なファクターとして挙げられる。
以前あの先生が話してた夢美先生やちゆり先生が研究してるらしい『B&W』の基準みたいに、眠るように何も感じなければ幸せと言う事実は間違っていないと思うんだけど、そんなことは誰ひとりとして分かってくれない分かろうともしてくれなかった。
「建前上はどんな価値観でも認められることにはなっているけれど、今私達が生きている現実は違うものね。人間は生まれた瞬間『世界』と言うコミュニティに強制的に配属されて、その決められた価値観の中に自分を当てはめて生きざるを得ないから」
「それがわたしにとって物凄く息苦しいの。望んでもいない生を勝手に与えられて『幸せに、生きよ』なんて神様の胡散臭い戯言を無理矢理信じて生きるなんて真っ平御免。わたしの価値観だと生きることは絶望でしかないのに、そんないい加減な責任転嫁ってありえない」
「うふふっ、この閉鎖病棟なんて『世界』ならば、それはきっと市民権を勝ち取り得る価値観だと思いますわ。此処で治療なんて名目の下に日々を過ごしている人々が果たして生きることに救いを求めているのか、こう傍目から見ていると不思議な気持ちになりますもの」
相変わらずくすくすと喉を鳴らしながら話す紫は何だかとても楽しそうにしている。
重苦しい話をしてるはずなのに鼻歌でも奏でそうな可憐な仕草で、突然ひょいと後ろの方を振り返ってみせた。
わたしもそのまま紫のベッドに倒れ込んで後ろの状態を目視すると、同室の女性がリスカ痕をさすっている姿が見える。
その奥の廊下では同い年くらいの女の子が、夢遊病患者の如くゆらりゆらり徘徊中。紫は彼女達やわたしを含めた絶望に苛まれている患者を皮肉っているのかもしれない。
ただそんな揶揄に反抗する季節はもうとっくに過ぎ去って、もう私達は諦観の境地に達している。今更生き方や価値観そのものをを否定されたところで、何を今更って感じでもう慣れきってるし諦めてるからこそ、世界に絶望した人々はこんな場所に集まってしまう。
半強制的に集められている、と言った方が正しいのかもしれない。そして家畜のように扱われた挙句『生の有難味』なんてふざけたパラダイムを強制的に押し付けられて、この残酷な世界で生きることを『命』じられてる。考えるだけで馬鹿馬鹿しくてやってられないよ。
わたしがジサツしてしまえば、この残酷な世界はいとも簡単に終わってしまう。
それはとても幸せなことだから、みんな死のうよ――そんな価値観がこの閉鎖病棟にいる人々の総意だとしても、外の世界の人間はそれを絶対に認めてくれない。
どうせあれこれ生きることの素晴らしさを説いたりするんだろうけど、つまらない人生賛歌はお腹一杯。もうわたしは十分に幸せも絶望も味わった。希望と絶望が差し引き零だからこそ、もうこれ以上何かを感じたりすること自体に心底うんざりしてるだけ。
そんなわたしのところに、何故かメリーと言う奇跡が起きた。彼女のために生きたいと思えることは幸せでそれはとても嬉しいなって思考では理解してるのに、脳内にこびり付いたジサツへの憧れは何故か拭い去れなくて、今もこうして心を蝕み続けている。
このジサツしたい衝動さえ完全に抹消できたら、わたしは『普通』に世界が見渡せるようになって、必ず貴女と幸せな日々を送ることが……ああ、メリーと同じ世界を共有する貴女がどうしようもなく羨ましくて、心の底からジェラシーを感じてしまう。
「……きっと多分、あの人達の背負ってる絶望とわたしの感じる絶望は似ているような気がする。『FUKUSHIMA』で被災した人々の苦しみとか戦争で死んでいく人の悲しみと、私達の想いって種類は違えど同じ感情のはずなのに、どうして誰にも分かって貰えないのかな?」
紫はわたしの問いが愚問だと言わんばかりに嘲笑って、ふわりと黄金色の長い髪を翻しながら再び格子窓の方へ向き直った。
結構前に一緒にお風呂に入った時に同じシャンプーを使わせて貰ったのに、紫みたいなさらさらで艶やかな綺麗な髪にはならなかった。
その一挙手一投足が自然と妖しい色を帯びて鮮やかに色付く理由は、生まれ持った天性の才能なのかなって考えると思わずうな垂れてしまう。
きっと紫にとって幸せなんてありふれたテーマは既に結論付けられていて、その心の内にはもう確固たる答えが存在しているのかもしれない。
わたしは、どうかな。あれこれと考えた結末はジサツ、即ち死や無意識が幸せだと言う考え方に至ったわけだけど、それはメリーと出会ったことによって少しずつ揺らいでしまっている。
こんな未来を考えて行動したりなんて今まで一度もなかった。リスカや援助交際で刹那の快楽だけを繋いで生きてきたわたしが絶望に抗おうとしてるとか、よく考えるとおかしな話で自虐的な笑みが零れてしまう。
「人間は感じられるものしか感じようとしないから、感じられないものはなかったことにしかならない。たとえそれが『語りえるもの』だとしても、人間は目先の分かりやすい不幸だけを見て悲しむ。それはある意味当然の帰結ですわ」
「それって此処にいる私達の苦しみとか、この残酷な現実とか、同じように苦しんでいる存在が生きている世界を隠して見えないようにしているだけじゃない。そんなやり方で一部の人達だけに救いの手が差し伸べられる、こんなのって絶対おかしいよ……」
「自分に関係ない事柄なんて所詮他人事。自分の知らない事実、つまり『語りえないこと』を作ることが、この社会を生きる上で最も賢い処世術だから。蓮子が見てる世界は確かに存在しているし正しいわ。ただし他人は、ある物事において共通の価値基準を持ち得ない」
「そんな処世術を知らず実践できない人だって、この世の中には沢山いると思う。だからこそ私達の価値観だってしっかり尊重されるべきなの。わたしの見てる世界が正しいのなら、わたしが想う幸せ――それがジサツだったとしても、それは何もおかしくないよね?」
わたしの『ジサツ』って言葉を聞いても紫は何も動じることなく、何処か違う世界を夢見ているような視線で虚空をぼんやりと眺めている。
神様に限りなく近い彼女にとっては死なんて概念すら興味の対象にならないのかな……紫の瞳が映し出す世界がどのように見えているのか気になって仕方ない反面、その話してる事柄自体は至極正論だと思った。
何処かの有名な哲学者が説きそうな物言いみたいな印象を受ける一方で、今私達が生きている世界を冷静に分析した結果を淡々と述べているだけ。ただしその一連の言葉には『八雲紫』としての感情論は一切含まれていない。
彼女の心の深遠を覗き込んで見たいけれど、どうしたら彼女が心に秘めた想いを話してくれるのか皆目見当も付かなかった。こんな答えのない禅問答を繰り返してると、わたしの生き方や価値観について紫とふたりで答え合わせをしてる気分になってくる。
たった今もわたしが感じている世界が、ほとんどの人にとって『語りえないもの』として扱われているとしても、その根底に潜む諸々の感情は人間が持っているそれと何も変わらない。
この苦しみと言う名前の想いに違いはあるのかな。程度の問題はあるのかもしれない。それでも事故や天災で苦しんでる人と私達は同列に見なされないことが、わたしはどうしても腑に落ちなかった。
今も現在進行形で絶望に苛まれているこの世界はなかったことにされて、非常に明快な不幸だけが救済の対象になっている。あのFUKUSHIMA以上の人々が亡くなるペースで毎日沢山の命が失われている世界なのに、その事実に関して人々は全く触れようとしない。
それは『他人事』なんて一言で済まされることなのかな。知らないから、語りえないから、感じないから、沈黙せざるを得ない。本当にそうなのかな。ただみんな知らぬ素振りを決め込んでるだけじゃないのかな、ジサツなんて簡単な解決方法があるにも関わらず……。
こんな隔離病棟に閉じ込めて治療なんて何の助けにもなってないのに、その非人道的に等しい扱いを私達のような存在に対する救いってことにして自己満足してるだけ。もう本当に手遅れでどうしようもないクソったれな世界だから、わたしは絶望して死にたくなる。
それならさっさと死ねばとか人は言うんだけれど、生きることと同じくらい死ぬことは面倒臭い。
わたしが人間である以上生存本能は常に付きまとうし、ジサツ失敗するたびに何となく『もしかしたら』なんて希望を抱いてしまう辺りやばい。
そんな根拠のない胡散臭いものに何となくすがって生きてみてるだけで、実際車に追突されないかなとか天災で命を落とさないかなとか他人任せにしてる部分もあって、仮にそんな事故で死んだとしてもわたしは一切の後悔を抱かないし悔やむ理由なんて何処にもない。
どうしてもイヤになってようやくジサツに踏み切った時に限って、何故か生きてたりするし……根拠は一切ないけどあの時の飛び降りだって、きっと紫が仕組んだ何かでわたしは落下してる気分になってたとか、単なる記憶の一部抹消、その類で助けられたんだと思う。
そして最後の問いはわたしのジサツや自傷全般をはっきりと否定して止め続けてきた紫に、ずっと聞いてみたいことだった。
わたしが想う幸せはジサツ、それはおかしいの? 八雲紫と言う神様が考える幸せの定義において、ジサツは幸福とは認められないのかしら?
貴女のことだから明確な解があるんだろうし、もしも持ち得ていないとしたら貴女も虫けらの一部ってことだよ。絶望は憧れ。そして絶望は片想い。そんな嘆きの声は聖者である貴女には届かないのかな?
「例えば、どんな方法で?」
ふっと鼻で笑うような声と共に、紫がふわりと髪をかきあげてから突然変な質問で返してきた。
それはまるで子供のお遊びに付き合ってあげるとでも言いたげな感じで、澄んだ声色は真面目に話していたわたしの神経を逆撫でするニュアンスを存分に含んでいる。
そんなことだって慣れっこだからもう気にならないものの、紫に否定される――それはメリーに否定されることと同義のような気がして、何故か引け目や後ろめたさのような想いを感じてしまう。
「……首吊り」
「以前は死刑で使われていたくらいだし、ベターなやり方だと思いますわ。縄さえあれば何処でもできるけれど、ちゃんとした手順を踏まないと苦しむだけ。踏み台を蹴る勇気も必要だし、人間の精神面における実行力と比較するといまいちと言ったところかしら」
「でもドアノブとかで死んでしまう人だって結構いるわけだし、それって要するに覚悟の面だけだよね。もう死ぬしか助かる手立てがないと絶望した人は、あれこれと考えずに躊躇なく実行するはずだし」
「そうかもしれませんわ。実際睡眠薬をお酒と一緒に服用して実行したり、遊び半分で縄を引っ掛けて本当に死んでしまう人もいる。ただ人間は死の恐怖を前にして、其処までいつものように平然としてはいられなくてよ?」
何故か懇切丁寧な解説を交えて話してくれる紫の真意がさっぱり分からない。
このご時勢ジサツの方法なんてネットで簡単に手に入るし、その方法についての知識はわたしも幾らか持ち合わせてる。
まさか全て否定してみせるつもりなのかな……あの理詰めっぽい一面を見せる紫のことだから、それもありえなくもない話かもしれないと思った。
ただそれはわたしが紫に問いたいことの本質とかけ離れているから、結局のところやっぱりお遊びなのかもしれない。
首吊りはちゃんと縄が引っかかる箇所さえ間違わなければ確実に逝ける古来からある方法だ。
死刑制度が廃止されたこの国ではもう用いられていないけれど、今もこの方法を使って天国へ堕ちていく人はとても多い。
だけど完全に意識を失うまで数分掛かるとか聞いた覚えもあるし、紫の言う通りぶら下がるために身体を支える台座を蹴り飛ばす勇気が必要になる。
追い詰められた人はそんな失敗時のデメリットなんて考慮する余地もなく、その場にあるネクタイとか電線コードで平然と吊ってしまうから、死の恐怖と生きる苦しみが逆転してる時点でさして問題にはならないんじゃないかな。
「オーバードーズ?」
「青酸カリや農薬の類ならまだしも、精神科のクスリで死のうなんて大間違い。せいぜい苦しんで喉や肺に詰まるくらいで、大体意識を失っても吐いてしまうわ」
「それは知ってるけれど、きちんと致死量分飲めばひょっとしたら上手く行くかもしれない。ヨーグルトに混ぜたりとか、吐き気止めとか幾らでも対処法はあると思う……」
「人間の身体は毒物を摂取した時点で拒絶反応を起こしてしまうもの。致死量分全てきちんと飲み干せるなんて保障が何処にもない時点で首吊りなんかより遥かに不安材料ばかりですわ」
紫が言うようにオーバードーズ、つまりクスリの多量摂取が一番不確定要素が大きい方法だと言うことは、ネットの知識を多少なりともかじっていればすぐに分かる。
大体の場合緩和剤の類が用意されているし、発見が遅れた場合でも比較的生き残る場合が多い。それで失敗して後遺症だけを引きずって未練たらたらで生きている男の子女の子をわたしは沢山知っている。
それでも睡眠薬の多量摂取で苦しまず眠るように死にたいと願う人は多くて、この手段を用いようとする子は後を絶たない。
勿論わたしもその内のひとりで、ちゃんと致死量分用意して実行したことがある。結果はすぐパパに見つかって救急車で運ばれて、搬送先の病院で胃の中に掃除機を突っ込まれて終了。
パパからはそのまま死ねば良かったのにとかdisられた以外は、ちゆり先生を始め学校の担任やカウンセラーから散々叱られた上、暫くクスリの処方さえして貰えなかった挙句一睡もできなくなったなんておまけ付きの最悪の結末だった。
一人暮らしとかならまだ成功率は上がるのかもしれないけれど……今は終末医療患者の安楽死用にカプセル一錠であの世に行けるクスリがちゃんと用意されているらしい。どうして私達の苦しみに安楽死が適応されないのか、正直なところ全く理解できなかった。
「練炭とか、硫化水素」
「周りの人を巻き込む可能性もあるし最悪の一言に尽きますわ。そもそも気を失うまで苦しんだままじっとしてないといけないやり方なんて誰が選ぶのかしら?」
「まあちょっと流行っただけで確かに危なっかしいやり方だと思うし、集団自殺で用いられたりしてるにしろ、無意識の内に身体が動いて勝手に逃げ出しそうだし……」
「本能が死を恐怖するようにインプットされている以上、それは仕方のないことですわ。何処まで追い込まれた場合に人はジサツを幸せだと思うのか、それこそ『語りえない』事柄でしかない」
大分昔はこれらの方法でジサツした人達が、朝昼晩のニュースでセンセーショナルに取り上げられたらしい。
そして一時的なブームを迎えたものの、その実行現場の近隣住人を巻き込んでしまう危険性が指摘されて大きく疑問視された。
レトロな映画で自動車の排気ガスを車内に取り込んでジサツするシーンがあったことをよく覚えているんだけど、あの方法なら漏れ出す程度で毒素の散乱も極力防げる。
ただ、単純に毒ガスを吸うと言う現実を迎えた時、その場に居合わせる勇気があるか。アウシュビッツの大量虐殺を思わせるこの方法を実行する勇気は、どうしてもわたしには湧いて来なかった。
ジサツしたいのに苦しいのはイヤだと言うのは一見矛盾してるように聞こえるかもしれない。だけど人間は死の恐怖を目前にした途端、心の奥底ではどうしても怯んでしまう。
生きること。そして死ぬこと。
このふたつの要素の不等号が逆転してる人は腐るほど存在する反面、安からに眠るように逝きたいって願いは我侭だって意見はその通りだと思うし、その事実についてはわたしも否定できない。
肉体的な苦痛が精神的な疲弊及びつらさに勝っていないから、ジサツまで踏み込む勇気が湧いて来ないなんて指摘は非常に的を得てる。でも注射器の針を刺されるような刹那の痛みならまだしも、苦痛が長時間に渡って続く極限状態を耐える自信なんて誰も持ってない。
ただ、開き直れると言うか、本当に何もかもどうでもよくなってしまう瞬間と言うものが往々にしてあって、私達ジサツ志願者はそんなタイミングを見計らって事を図ろうとする。そんな千載一遇のチャンスを潰したのが、今わたしの目の前にいる八雲紫と言う存在――
「飛び降り」
そんな言葉を聞いた瞬間――紫の口端がくいっと釣り上がって、いびつにねじ曲がったような気がした。
あの日の記憶がフラッシュバック。そう、わたしが飛び降りジサツを図ったあの夜、彼女は三日月型にぱっくりと口を開いてその一部始終を見下し嘲笑っていた。
貴女が止めなければ全ては終わっていたのに……そんな想いが先走って、ベッドのシーツをぎゅっと握り締めて堪える。
勿論今わたしが生きていなければメリーと出会うこともなかったし、それは素直に感謝しなければいけないのかもしれない。
ただそれ以上に、わたしのジサツが成功していたら未来は消え失せて、こうして何かを感じ取る『現在』さえ必要としなくなっていたから。
ずっと憧れていたジサツ、そして空に還ると言う祈りが遂げられずに生きてるなんて現実は、今もどうしようもなくわたしの心を蝕み続けている。
改めて思い直してみると、心中は本当に複雑だった。
メリーのために生きていることを喜ぶべきなのか、それともジサツに失敗してしまったことを悔いるべきなのか。いや、それも喜ぶべき、なの?
少なくとも今のわたしはメリーを愛しているからこそ生きているわけで、その恋が破れてしまったらすぐにでも死にたいと平然と考えてる。この思考自体が正常であるか否か判断は付かないけれど、メリーに愛されないわたしに存在価値はあるかと言えばNo.
わたしの世界の価値はメリーが握ってる。わたしの命の価値はメリーが決めてる――どう足掻いても価値観と言う概念から逃れることはできず、わたしは雁字搦めに縛られて生きるしかない。それがジサツしたい動機とあからさまに矛盾してるから異常に気持ち悪い。
結局のところ、生を賛歌するわけでもなく、かと言ってジサツを推奨するでもなく、紫の考えていることはよく分からない。その意味を問うことはあっても、答えは決して教えてくれないのだから尚更。この入試の解答みたいに、単刀直入に答えて欲しいんだけどね。
「高い場所から身を投げることは必須条件だとしても、その途中で果たして意識を本当に失うのかどうか、それは貴女が一番よく知っているのではなくて?」
その凛とした声が紡ぐ確信犯的な紫の問いは、どう考えてもわたしの飛び降り現場を見ていたことを臭わせる素振りだった。
此処まで来て始めて見せた『神様』としての八雲紫。その意図は相変わらず不明瞭だけど、彼女だって最初から隠し通せるなんて考えていなかった節が見え隠れしている。
それにわたしだって今更あの一連の神様の悪戯を責める気は毛頭ない。ただ気に入らないと言うかもどかしいのは、その思考の奥底にあるものが果たして何なのかさっぱり分からない点、たったそれだけだから。
貴女の心の深遠を覗き込むことで、わたしの考え方そのものに転機が訪れるかもしれない。それはいまだに紫を神様だと思い込んでるわたしの戯言に過ぎないんだとしても、貴女についてもっと深く知りたいと言う気持ちが何故か心の片隅から溢れ出してくる。
再びゆっくりと身体を起こすと、紫がさっきと同じような体勢でそっと身体を寄せてきた。
さり気なく惚気合うのはもはや恒例行事となりつつあったはずなのに、どくんどくんと心臓が時を刻むスピードが妙な勢いで加速していく。
勿論、嬉しい。嬉しくて飛び上がりそうだし、心は弾んでどきどきしてる。メリーがどうしようもなく恋しくなって、ぎゅっと抱きしめたくなる衝動なんて以前と全く変わらない。
ただ今は、それに加えて『神様』としてのメリーにも愛して貰ってる気がする。ああ、自惚れ。また自惚れだよ。もしも紫もわたしのことを愛してくれてるとしたら、一体全体どうすればいいのかな?
「……そうだね、確かにぎりぎりのところまで意識は鮮明に残ってた。でも最後にはきちんと途絶えたから心配要らないと思う」
「ただ、高所から飛び降りても生き残ってしまう人が意外と多いなんて聞きますわ。その後の複雑骨折や後遺症で半身不随とか、悲惨な事後を過ごしている人も少なからず存在している点を鑑みるとどうかしら」
素知らぬフリを決め込んでしれっと答えてあげたのに、紫から帰ってきた返事も極々当たり前のありきたりな解答だった。
わたしが知りたいのは、もっと貴女の根本に迫るような思想の類。こんなジサツのための方法やそのメリットデメリットはネットを検索すれば幾らでも出てくるから、そもそもこんなやり取りは時間の無駄でしかない。
もっとも紫だってそんなことは重々承知で、半分お遊びのつもりでわたしにあれこれと問うているんだろうけど……そう言えば以前の『天国と地獄はあるか』って話の時もこんな感じで、紫と会話してるとその意図は有耶無耶なまま終わってしまう場合も多かった。
その心の内に秘めた想いを知りたいと願うことは聖書における知恵の実をかじってしまうような禁忌だとしても、どうしても紫の矜持とイコールと言って差し支えない死海文書的なフィロソフィが気になってしまう。
何故わたしが此処まで彼女の理念に惹かれているのか、正直なところ理由は自分でも全然分からない。神様に愛されたい願望でもあるのかな、しかもそれがメリーと重なってる。ああ、複雑すぎて、やっぱりよく分かんないよ。
いい加減このおふざけにも飽きてきたので、わたしもそっと紫の方へ身体を寄せてお互いの体重を支える形でふわり伝うぬくもりを確かめ合う。
これくらいならメリーも許してくれると信じたかった。でも、そんな考え方は甘い、甘すぎると後で怒られるかもしれない。メリーの他人格を愛するって行為に、どうしても後ろめたい想いを感じてしまう。
ただ、もうわたしは……あの日貴女を抱きしめてキスを交わした瞬間から、メリーがいないと生きていけない身体になってしまった。ちゃんとメリーにそのことを伝えておけばよかったと後悔しても時既に遅し。
もうわたしは完全に八雲紫と言う鮮やかな幻に惑わされているのかもしれない。メリーの生み出したフェイクのマリオネットにして、この世界の全てを知る神様みたいな存在に淡くほのかな恋心を確かに抱いている。
その想いが果たして恋愛と呼べる感情なのかすらよく分からないまま、心の中の想いは幾重にも錯綜し続けて止まらない螺旋を描く。メリーと紫のどちらを愛しているのか、わたしの頭の中は混乱してぐちゃぐちゃだった。
――めりぃ、聞こえるなら、わたしの声が届いているのなら、どうか答えて欲しい。
わたしが貴女の別人格も愛してしまうことって、やっぱりおかしいのかな。おかしい、のかな……それは貴女への誓いを裏切る行為になってしまうの?
たまに、ううん、ずっと、どうしようもなく、もう心が張り裂けそうになるほど痛いの。痛い、痛いよ。メリーを滅茶苦茶に犯してやりたくて、わたしの理性は限界破裂寸前なんだ。
ああ、いけない。いけないのに、おかしな背徳感が後押しする。サイケデリックなわたしが嘲笑う。このまま押し倒して貴女のくちびるを奪ってあげたら、メリーは少しくらいジェラシーを感じてくれるのかしら――
「もう何か堂々巡りできりがないね。紫は要するに、ジサツそのものを否定したいの?」
このままわたしが延々とジサツの方法を話し続けても、紫はオウム返しのようにその方法のデメリットを訥々と説くだけな気がしたので、率直に真意を問うてみる。
今更ジサツを否定されたところで、わたしは何も感じない。残念ながら生きることそれ自体がこの世界の総意として成り立ってしまっている以上、紫に拒否されてもそれは至極当たり前の反応だと思うから。
わたしの価値観を押し付けても仕方ないし、それこそ紫がジサツについてどう思うのかちゃんと聞いてみたかった。納得できる分かり易い答えっぽいのに、いまいち腑に落ちない。そんな本質を得ていながらも曖昧な答えが返ってくることは何となく予想が付く。
「それが希望となり得るのならば、ジサツと言う選択肢を私は否定しない。ただし、この世界に存在してしまった宇佐見蓮子の記憶は抹消されることなく永遠に彷徨い続ける、たったそれだけの話ですわ」
「どうせ死んでしまった人間は何も語ることができないんだからどうでもいい。逆に紫がどうしてジサツを認めないって感じで言うのか不思議だよね。それがわたしにとってずっと最善の選択肢だったし、今も最有力候補なのに止めようとしてるみたい」
「あくまでもそれは選択肢のひとつに過ぎませんわ。人間と言うものは有史以来、様々な形で幸福を求め続けてきた。その永遠の輪廻で積み重ねられてきた仮説が現在の幸せを育む生活の営みに反映されているからこそ、人々は生きることをよしとしているのではなくて?」
相変わらず回りくどい世界を分析してみせるような言い回しは紫らしいと言えば紫らしい物言い。でもそれは何処か本質が欠けている気がした。
つまるところ要するに紫の考える幸福論は一体どんな言葉に集約されることになるのか、わたしが知りたいと願う想いはその一点に帰結する。数学や物理学に幸せの意味を見出せなかった八雲紫が考える幸せの定義を、わたしは絶対に知っておかなければならない。
それはメリーと脳内を共有してるって観点からも正しいと思うし、もうひとりのフェイクの人格『八雲紫』と言う存在を愛するためにも必須の知識。その理論に忠実に従って行動することが可能ならば、わたしの求める幸せも必ず成就するはずだから。
仮にジサツを決行して無事成功してしまった場合――それは間違いなくメリーに伝わってしまうし、少なくとも宇佐見蓮子と呼ばれていた存在に関わった人間の中で、わたしは記憶の面影となって生き続けるのかもしれない。
しばらくは悲しみを背負って生きていく日々を強いる羽目になってしまうけれど、人間の記憶なんてあやふやで不安定かつ曖昧なものだ。そのうち時の経過と共に残像と化して、どうせわたしのことなんて他の幸せな思い出に上書きされて消えてしまう。
最後に残るのは国か何処かの機関が保管するデータベース上の名目だけで、最終的には宇佐見蓮子がこの世界で生きていた事実は抹消されるに等しい。完全な存在の削除は不可能だとしても、限りなく澄みきったあの蒼い空のような透明に近付くことはできる。
「その幸せの選択肢を、貴女はどのような形が望ましいと考えているのか知りたいの。紫にとって『幸せ』になるための最善の手段は、一体何なのかな?」
真を問う言葉を投げかけた瞬間、紫は一瞬だけ思慮に耽る仕草を見せてから、またいつものようにぱっちりとした瞳でじいっとわたしを見つめ返す。
投げかけられる視線がいつも妙に色っぽいものだから、ついぷいっと顔を背けてしまいそうになる。はっきりとした答えを求めた以上堂々としていてもいいはずなのに、その美しいアメジストの瞳を見ていると心が淡い想いと理性の狭間で揺れ動く。
それこそ神様のようにわたしを見つめてきた紫の瞳が映し出す宇佐見蓮子と言う存在がどのように見えているのか知る術はなくて、こうして寄り添い合っている瞬間にそっと伝うぬくもりからしか貴女の想いを感じ取れないことがもどかしくて仕方なかった。
さっきまで十分過ぎるほどに貴女の余興に付き合ってあげたんだから、今回はのらりくらりと避けるような回答は絶対に許さない。
是が非でも貴女の心の内に隠された、神様としての、そして八雲紫としての真意を覗かせて貰う。わたしは常に隠し事なんかしないで貴女と向き合わざるを得なかったのに、紫だけ秘め事が許されるなんてアンフェアでしょ?
勿論言いたくないなんて答えも認めないし、どうしてもと言うのならば無理矢理聞き出すための強硬手段だって今は厭わない。紫の想いをストレートに教えて貰うには、その可憐なくちびるの先から直接問いただすのが一番手っ取り早いから。
「それこそ、かの哲学者の言う通り、語りえないことについては、沈黙する他ありませんわ。この世界に存在する命の数ほど、そしてその命が見ている世界の分だけ、幸せの定義は存在するのだから」
「わたしは一般論で言う幸せの定義を知りたいわけじゃない。紫の想う、紫が考える、そして紫が理想とする幸せは何か、それが知りたくて訊いてるの。自分のことについて『語りえない』って言うのは流石におかしいと思うよ?」
「うふふっ、それは蓮子の言う通りね。自身についての主観的な評価は決して語りえないことではありませんもの。私の、八雲紫の想う幸せ、それは……少し言葉は悪いかもしれないけど『恋に溺れて壊れてしまう』ことが、この世界で一番素敵な幸せだと思いますわ」
そんな神の言葉を代弁するような託宣と同時に、そっと紫の細い指がわたしのてのひらに絡まった。
ゆらりたゆたうぬくもり、恋の微熱、少し眩暈もするみたい……その生々しい感触と共に、とくんと心臓の高鳴りが響き渡る。
この世界を創造したかもしれない存在の深遠にようやく触れることができた気がして、頭の中に様々なノイズが駆け巡っていく。
その真意を探るために全ての知識を総動員してあれこれと考えてみるものの、紫の紡いだ言の葉以上の意味はなかなか浮かんで来ない。
それ以上に、今は紫から伝う恋のほのかがあまりにも甘く切なくて、頭がどうにかなってしまいそうだった。
百花繚乱に咲き誇る桜のような、狂気に満ちた宣誓。それはあの時のメリーが囁いた誓いに宿る狂おしさとあまりにもよく似ていた。
――恋に溺れて壊れてしまうことが、この世界で一番素敵な幸せだと思いますわ。
それは神のような振る舞いを見せる紫の言葉としては、とても安っぽい思想に感じられた。
それこそ愛なんて街やネットで幾らでも買えてしまうこのご時勢に、随分と青臭い話に思えてしまう。
わたしの値段なんて三万円。それだけで一晩限りのお手軽な愛が手に入ります。本番がなければもっとお安くお買い求め頂けますし、勿論応相談で追加料金さえお支払いして貰えるのならば、数日間の甘い蜜月も可能でございます。
こんな感じだった以前の考え方はメリーと恋に堕ちたことで随分と変わって、援助交際やサポの類なんて所詮ニセモノの恋愛だって事実が真実味を帯びた確定事項になってしまった。紫の『恋』なんて言葉も、当然ながら今のわたしとメリーの関係を指すんだろう。
別に高尚である必要性はないけれど、神様の考える幸せとしては低俗な感じは否めない。あのよく小学生が書く将来の夢って作文の『将来は素敵な人と結婚してお嫁さんになりたいです』みたいな文章と意味合い的には大した変わらない気がするから。
ただ、紫の真意は後者の部分――恋に溺れて壊れてしまうこと、そのフレーズに集約されている。
その言葉が意味するところは、メリーがわたしに寄せてくれている恋慕に通じるものが感じられた。
あのメリーをぐちゃぐちゃに犯した晩のように、狂おしい想いで紡がれた恋に溺れた結果、心が『壊れて』不感症になってしまう。
メリーのことしか見えなくなって、メリーのことしか考えられなくなって、メリーのことしか分からなくなって、メリーのことしか感じられなくなってしまえば、必ずわたしは幸せになれる。
たとえ世界を敵に回すことになる結果を招くとしても一切関係なくて、何もかも全ての事柄において『メリーのために』と言う動機付けが完全に為された時点で、宇佐見蓮子の幸福論は完成する。
それが『壊れる』なんて端的な表現が指す真実の意味だと思った。ああ、何て素敵なの。素敵過ぎるよ、それ。メリーと言うクスリに狂ったあの時のわたしは、間違いなく幸せだったもの。
あのデイケアの時に交わしてくれた口付けは、貴女の考える幸せについて簡潔に示してくれていたのね。甘い甘い甘いアマイアマイアマイとろけるようなスウィートな狂おしいキスに八雲紫としての幸福論が――
「……それは愛する人に全てを、捧げると言うこと?」
「ええ、親愛なる人が愛してくれない自分なんて価値がないと心から信じ込むことができたら、どんな残酷な世界だったとしても愛する人が傍にいる限り生きようと思える。それは勿論幸せとイコール。分かりやすくて簡単な幸福論でしょう?」
「そうすれば、周りなんて何も関係なくなる。自分の最愛の人とふたりだけの世界で生きることができれば、一切の苦しみからも解放されて幸せになれる。そうだ、思い込めばいいんだ。大好きな人が、親愛なる人が、わたしの生きるための全てだと……」
「それこそ『恋』と言う部分には他の言葉が入ってもいいのだけど、恋なんて単語が一番素敵だと思うの。倫理的な価値観においても相応しくないケース、例えばお酒やクスリなんかだったとしても、この一文は覆ることのない世界の理だと私は考えているわ」
メリーのことが大好きだから、メリーに狂ってしまえばいい。
お酒や煙草、クスリやリスカと同じように……とっくにわたしはメリー中毒だけど、一秒でも彼女を想ってないと頭がおかしくなるほどにメリーを愛せたら、宇佐見蓮子の幸せは間違いなく担保される。
恋の病に犯された自分が正常だと思い込んで狂おしい恋に堕ちてしまえば、その先に待っている場所は天国。それはジサツより随分簡単に極楽に行ける素晴らしい方法だと思う。痛くもないし、多分痛みも感じなくなる。メリーに愛されていたら、それだけで……。
全ての行動原理が彼女に基づく以上、メリーについてもっと知る必要がある。ただそれは些細な問題で、これからゆっくりと手取り足取り教えて貰えばいい。その凛とした声が紡ぐ愛の言の葉と、花のように可憐なくちびると、あられもなく淫らで破廉恥な痴態から。
あはっ、そう考えるといやらしい気持ちになってくるね。そうだよ、メリーを想うだけで快楽を感じるお人形になってしまえば、どんな痛みだって耐えられる。こんなゴミみたいなどうしようもない現実が、美しいエデンの園として零の境界線上から生まれ変わるんだ。
この世界の仕組みが完全に解けたその瞬間から、繋いだてのひらから伝う想いの全てがメリーから届けられているような錯覚に陥って、ひどく心がかきむしられてずきんと病み始める。
もうわたしは完全にフェイクの人格のことをもうひとりのメリーだと意識してしまっているみたいで、その美しくも惑わしい心音が果たしてメリーなのか紫なのか判別が付かなくなりそうだった。
ふたりは性格だって全く違うし、考え方や思想だって大きく違うはずなのに。ああ、それこそ今紫が話した幸福論と食い違ってる。わたしはメリーだけを愛さないといけないのに、何故か紫のことまで大好きになってる気がしてならない。
メリーのことだけを、メリーのことだけを、メリーのことだけを――強くそう願ってみても、わたしの心は既に紫の妖しい誘惑で運命複雑骨折。今目の前にいる存在はメリーじゃないのにメリーみたいに思えてしまって、心の在り処を完全に失っていた。
――夕食のお時間です。患者の皆様方はダイニングルームの方にお集まりください。
抑揚のない声で案内を告げる館内放送が室内に響き渡って、行き場のなくなった紫を犯したいなんて気持ちを無理矢理遮ってくれた。
その音声は間違いなく紫にも届いているはずなのに、寄り添い合ったままの身体は一向に動く気配がない。ヒロシゲを待っているホームでずっとわたしの答えを待っていてくれたメリーの記憶がデジャヴし始める。
もしも此処で無理矢理くちびるを重ねようとしたら、紫は何の躊躇いもなく受け止めてくれる気がした。むしろわたしが本気になること自体を誘ってる、理性が崩壊する瞬間を楽しみにしてる、そんな妖しい印象さえ受けてしまう。
こんなこと考えなくたってすぐに分かる。紫を愛してしまったらそれは浮気だし、最後までわたしを信じてくれたメリーに対する裏切り行為だ。
彼女達は容姿がそっくりで脳内を共有しているに過ぎなくて、身体だって別々だし人格が全く違うんだから。勿論こんな不可思議がありえるのかと言われたら常識的には条理を覆している。
それもウィトゲンシュタインの命題を拝借するなれば――『起きている事、つまり事実とは、幾つかの事態が成り立っていることである』つまり今わたしの目の前で起きていることは事実でしかありえない。
その事実についてきちんと認識しなければならないのに、わたしは紫の面影にメリーの姿を重ねている。メリーがたまらなく愛しくて、心の底からメリーの想いを欲しているが故に、目の前に佇むニセモノの虜になって思うがままに踊らされている。
今わたしが伝える想いをちゃんと紫がメリーまで中継してくれるんなら、今すぐにでも壊れるほどに抱きしめて愛し合いたい。ただしその想いが八雲紫と言う存在に阻害されてしまった時点で、わたしはダッチワイフを貪る犬のような下衆な存在に成り果ててしまう。
げらげらげらげらと心の中でサイケデリックなわたしが笑っていた。
全ての思考が『メリーのために』なんて馬鹿馬鹿しい方便だと把握した上で迷ってるフリをしてるだけだと嘲笑う。
" モ ト カ ラ ヨ ゴ レ テ シ マ ッ テ イ ル ノ ニ ア ナ タ ハ ナ ニ ヲ イ マ サ ラ キ ニ シ テ イ ル ノ ? "
「……行こっか」
心の内側で交錯する理性と欲望を振り切って、わたしはゆっくりと立ち上がった。
その様子をぼんやり夢現な視線で見つめていた紫の方に、そっとてのひらを差し出す。
ごめん、貴女を愛したいと想うわたしがいることはもう否定できない事実だけど、今はこれが精一杯なんだよ。
そもそも紫が自分を好いてくれているなんて保障だって何処にもないのに……これは完全に自惚れ。そう、自分だけを愛したい愛されたいわたしの自惚れだよね。
誰かに必要とされたい、そう願う宇佐見蓮子の自惚れ。それでも構わないから、今はもう少し貴女を知る時間が欲しい。
わたしが愛してしまったメリーのラヴドールは、ゆったりとした可憐な仕草で手を取って、ふんわりとはにかんで見せる。
こんな閉鎖病棟じゃなくて、あの汚れた新宿の喧騒の中を貴女の手を引いて歩きたいな……そんな想いを引きずりながら、そのまま紫と手を繋いで廊下に出た。
か細い指の先でぐちゃぐちゃに絡まってしまった運命の糸。それは間違いなくメリーと繋がっているはずなのに、今その結い目から感じられるのは甘美な紫の想い。
一度意識してしまうともうどうしようもなくて、わたしは思考を完全にシャットアウトした。こんな姿を看護士に見られたら流石にまずいので、名残惜しいけれどダイニングルームの手前でそっと手を放す。
紫と想いが通じ合っていたのか、その美しい指が絡み合って引っかかる感触が、わたしを求めて引き止めているような素振りを感じさせた。
ほんの少しだけのさよならを済ませて、決められた自分の席に座る。長い夢から覚めた心持ちだったけれど、これは間違いなく現実だった。
――めりぃ、めりぃ、めりぃ、めりぃ、めりぃ、めりぃ、めりぃ、めりぃ、めりぃ、めりぃ、めりぃ、めりぃ、めりぃ、めりぃ。
お皿の上に乗せられたウィンナーに箸を突き刺しながら、ひたすらにメリーを想う。あの幸福論に基づいて、メリーのことだけを考えてメリーで心を満たそうとしても、何処からかノイズが入ってしまう。
八雲紫と言う鮮やかな幻が、ずっとわたしを妖しく惑わし続けている。そこはかとない狂気を垣間見せた彼女の想い――デイケアの時に交わした甘く切ないキスの後からも、ずっと尾を引き続けている不思議な感情がどうしても頭から離れない。
それは恋なのか、憧れ、それとも『神様』である八雲紫としての魅力なのか、全く以って判別不能。ただ、ひとつだけ分かっている唯、それはわたしを愛していると妖しく告げて重ねたくちびるには何の偽りも隠されていなかったこと。
夢現で気付かなかっただけなんて思いたくもないし、あの時の記憶は今もはっきりと脳裏に焼き付いて鮮明に残っている。メリーと言う美しい名前を決めた甘いひとときを忘れるなんて、この命が尽きるまで絶対に起こりえないから。
もしもあの直前の『愛してる』なんて宣誓が本当なら、メリーも紫もわたしを好いていてくれてることになって、だけどふたりとも愛するなんて我侭は絶対に許されなくて、いやそれは思い込み。ううん、違う、違うよ、ああもう考えても考えてもわけが分からない。
ただ今のわたしは、メリーの想いが欲しい。狂おしいほどに愛して貰いたい。あの晩に貪り合った想いはキャンディみたいに溶けて消えてなくなってしまった。
メリーが心に残してくれたものは確かに感じられるのに、それでは物足りないと心が悲鳴を上げる。今すぐ欲しい。貴女の想いが……考えるまでもなく宇佐見蓮子はメリーの虜で中毒者、貴女がいないと生きていけなくなった時点で私達の幸福論は完成しようとしていた。
たったひとつだけ満たされていない前提条件――心の中をメリーの想いで満たすためのキスやハグ、xxxの類が足りないからわたしは寂しくなってしまう。紫の面影に貴女を見出して想いを搾り取りたくなる。強欲なわたしの心は、ひたすらに貴女の想いを求め続けていた。
今はまだ、私とメリーの想いが永遠であることを証明するための絆や繋がりを確かめ合う時間が足りてない。恋人達がデートを重ねる理由なんて実際はそんな簡単な事情に過ぎなくて、お互いの想いを確認するために甘いひとときを楽しんでいるに過ぎなかったんだね。
そんな理屈が今更分かったところで、こんな世界に閉じ込められたわたしはどうしようもなく無力だった。ただひたすら耐えるしかない状態なのに、目の前には精巧に作られた美しいニセモノの貴女がいる。何処までも神々しく高貴なキスを与えてくれる素敵な存在が――
恋の病に蝕まれた虫歯だらけの心で思考してみても何か解決するはずがなくて、気が付けば周りの人々の半分以上は既に夕食を終えて姿を消していた。
無造作に付けっぱなしで垂れ流されているバラエティの乾いた笑いがやたらと耳障り。此処であれこれ悩んでいても仕方ないので、今日も全く食べ物には口を付けずに部屋に引き返す。
いつものように読書を再開している紫の隣にもう一度座りたい気持ちをぐっと押し殺して、おとなしく自分のベッドに引き返す。看護士がやってきて夕食後のクスリを飲まされたら、また相変わらずの自由時間が始まった。
終の棲家の静寂はまるで世界の終わり。しんと静まり返った室内で声を発するものは誰一人として存在しない。刻々と過ぎ去っていく時の流れが気持ち悪くなるくらいゆったりと感じられる終末妄想系の室内で、ベッド越しの机に向かって勉強を始めた。
ああ、こんな状態で集中できるはずがない。今までだって紫が傍にいると言う事実はどうしても意識せざるを得なかったけれど、それでも何とか無理矢理意識を振り切って勉強に没頭できていた。
でも今はもう紫のことばかりが脳裏をよぎる。彼女を愛しているのかもしれないと想うと、ばらばらになった心が疼く。メリーの想いだけを感じていたら幸せになれる――それはもうわたしの中で確定的な事実なのに、どうして紫のことがこんなに気になってしまうの?
自問自答したところで答えが返ってくるはずもなく、片手に握った一向に進まないシャープペンシルでラヴレターを書いてしまいそう。狂おしいまでの愛しさを綴ったひどくいびつな恋の詩が、弾むようなメロディを奏でながら心の中で踊り始める。
めりぃ、と無意識のうちにペンを走らせた。めりぃ、めりぃ、気を紛らわすためなのか、わたしの心の在り処をはっきりさせたいのか分からないまま、真っ白なページが最愛の人の名前で埋め尽くされていく。めりぃ、めりぃ、めりぃ、めりぃ、めりぃ、めりぃ――
おかしくなった意識が宙へ飛んで、ふと「宇佐見さん」とわたしの名字を呼ぶ看護士の声で我に返る。星を見上げるともう消灯時間で、そのまま就寝前のクスリを飲まされて強制的におやすみなさい。今は睡眠薬がとても恋しい。さっさとこの意識を消し去りたいから。
――あのね、メリー。今わたしね、貴女のことが凄く愛しくてたまらないの。
貴女の想いがどうしようもなく欲しくて、心に咲いた花はもう枯れ果ててしまいそう。
メリーの全てを愛するから、なんて言い訳はダメだよね。恋することに理由なんて要らないとは言っても、あれはニセモノの貴女なんだから。
それにしても酷な話だよ。すぐ其処にメリーがいるのに愛を与えて貰えない渇望で満たされた心は今にも破裂しそうで、いっそのことジサツしてしまいたい――
<Mental Meltdown>
<Psychedelic trance>
現在時刻0時+@分。大分前に格子窓の隙間から綺麗な星を見た時刻がそれくらいだった。
クスリなんて存外役に立たなくて、こうして中途半端に意識が堕ちずに残ってると目を開けることすら面倒臭い。
睡眠薬だって例外なくプラシーボ効果なんてものが適用されるみたいで、眠れない時は所詮こんなものでただ気持ち悪いだけ。追加の睡眠薬を貰いにナースステーションに行ってもいいんだけど、結局大した変わらないと思ってやめた。
意識が存在する、それは嫌でも五感が働いてあらゆる事実を感じざるを得ない状態と等しい。素敵なこと、気持ちいいこと、嫌なこと、悲しいこと――その全てをシャットアウトできる睡眠状態が至福だって考え方は、ジサツに憧れる衝動の原理と非常に良く似ている。
最初は夢に救いを求めて、それが叶わないと知った時から今度は意識を失うこと自体を快楽だと認識し始めた。そんな小さな幸せすら認められない睡眠障害なんて病は本当に最悪で、眠れない夜は慣れてるとは言えあまりにもつらすぎてうんざりしてしまう。
たったひとりきりで、終わるはずの世界から取り残される感覚。そして太陽と共に始まりを告げる世界に絶望する生活は、この生涯においてずっとわたしを苦しめてきた。
あの眠らない街ならラブホに引き篭もって朝のヒカリを感じずに済む。でもわたしは無意識の闇で安らかに眠りたい。そのまま永遠に目が覚めることがなくても一向に構わないから。
そう願う夜を裏切り続ける神様がいることを知ってはいても、現実があまりにも残酷すぎて意識喪失を祈らずにはいられなくて。そんなわたしだったけれど、最近は最愛の人に想いを馳せる習慣を身に付けた。
メリーを想うことで、メリー以外の全てを感じられなくなったら、どんなに幸せなのかな。ああ、めりぃ、めりぃ、すき、だいすき。あいしてる、よぉ。眠れない真夜中は貴女に狂うに限るから、わたしは神様の教えてくれた幸福論をひたすらに実践する。
めりぃって言葉が心の奥底から溢れ出して口から漏れそうになった瞬間――突然ベッドのスプリングがぎしりとひずんだ。天井を見上げた状態の身体が軽く跳ねて、ゆっくりと沈む。恐る恐る目を開けると、ベッドサイドにメリーとか紫なんて名前の女の子が座っていた。
身体のラインがくっきりと映える黒いベビードールを着た彼女は、寝ぼけたわたしの顔を見てやんわりと微笑んでいる。格子窓から差し込む月光に照らされた親愛なる人は鮮やかな幻――緩やかに覚醒し始める意識の中で、わたしは魔法のように名前を呼び続けた。
「めり、ぃ?」
ふいに囁いた美しい名前に呼応するかのようにか細い綺麗な指がそっと伸びてきて、瞳に掛かったわたしの髪の毛をゆっくりとすいてくれる。
短く切り揃えられた毛先を弄るだけの緩い愛撫だけで、ばらばらになった心がどうしようもなく疼く。愛して貰えるのは嬉しい。でも今はそんな風にやさしく扱って欲しくなかった。
この心が完全に壊れてしまっても構わないから、狂おしいほどの愛を注ぎ込んで欲しい。欲情の昂ぶりを感じるたびにメリーを想って痛みが走る、そんな服従の証が心臓に突き刺さっていたら、わたしは幻に惑わされることもないはずだから。
「どうしても蓮子の瞳には、わたしがメリーと言う方に映ってしまうのね」
「うん、そうだよ。わたしの最愛の人。でも、紫のことだって、大好き……もう貴女の素性なんてばればれなのに、何故今になってまで隠そうとするの?」
「私は何も隠し事なんてしていませんわ。それより、お隣、お邪魔してもよろしいかしら?」
心の中で渦巻いている切実な想いを素直に告げたのに、わたしの言葉を紫はあっさりと無視してさり気なくとんでもない提案をしてきた。
それ以前に答えの有無も言わせない素振りで、遠慮なくベッドに入り込もうとして来る。そんな暴挙に打って出た紫を止める術を、今のわたしは持っているはずがなかった。
一人用のベッドだけど、寄り添い合っていればふたりでも十分に眠れるスペースは確保できる。
そっと身体を左側に寄せて紫の場所を作ってあげると、しなやかな肢体がゆったりと布団の中に入り込んできた。
半強制的に触れ合った身体から伝うぬくもりが生々しくて、これが夢ではなく間違いなく現実だと言うことを嫌でも認識させられる。
今宵、貴女に狂いそう――しばらく鳴りを潜めていたサイケデリックな衝動が、ふつふつと心の奥底で煮えたぎっていた。
「紫、ばれたらやばいよ。深夜だって2時間置きに看護士の人が巡回してる。こんなところ見られたら、私達無理矢理別室に移されちゃうかもしれない」
「その心配には及びませんわ。この世界には蓮子と私しか存在しない。その意味は聡明な貴女ならすぐ理解できると思うけれど、当然のことながら此処にはマエリベリー・ハーンと言う人物も実在しない」
静まり返った暗闇の中で、妖しくも艶めかしい紫の声が水面に落ちた雫の波紋のように鼓膜を揺らす。しんと静まり返った室内には他にも人がいるはずなのに、その息遣いさえ聞こえて来ない。
此処は宇佐見蓮子と八雲紫しか存在しない世界――そんな馬鹿げた話なんてあるはずない、そう普段のわたしなら平然と吐き捨てるところだけど、紫が紡ぐ言葉には虚飾のカケラさえ感じられなかった。
そして五感は確信している。この夢現で不思議な空間は、デイケアで紫と始めて出会った時の感覚と全く変わらない。あんなはしたない嬌声で鳴いていたわたしの声だって、同じ空間にいたはずの他の面々には全く届いていなかった。
同じ並行軸境界線上の世界でわたしと紫だけが完全に隔離されていると言うことは、此処で何をしたって誰にも気付かれない。勿論こんな事態は常識では考えられない、でも紫の素性がアンノウンな以上、ただ今のわたしはこの現実を受け止めるしかなかった。
ただ、メリーの本当の名前をカミングアウトした彼女が八雲紫であり、わたしが『神様』と呼んだ存在であることだけは明白になった。
きっと多分、あのソファーで膝枕しながらリスカの傷痕をひとつひとつ愛おしくなぞってくれた時のように、この心の内に秘めた全ての想いもきっと見透かされている。
紫を愛してるかもしれない、そんな想いすら把握した上でこんな行動に走っているんだから、貴女と言う存在はどうしようもなく罪深い。八雲紫――貴女の存在そのものが、わたしの心を妖しく惑わせている。
それが何故か憎めなくて、むしろうっとりしてしまう自分がもっと許せない。メリーのために生きると誓ったあの言葉は全て嘘だったのか。違う、そんなの、絶対違う。じゃあどうして、どうしてわたしは紫を好いてしまっているの?
教えてよ。答えを、教えて欲しい。貴女なら理論的に説明できるんだよね? だってわたしのことを全て知っている神様なんだから、ね、教えてよ。わたしの想いを紫なりの解釈で説明して、そして貴女自身の想いを、その可憐なくちびるで伝えて見せてよ。
「……自分の気持ちが、分からなくなる。わたしが愛したのはメリーなのか、それとも紫なのか。ふたりとも愛してる、なんて考え方をする自分のことが大嫌い」
そんな言葉を紡ぐほんの数秒すら、永遠のような長さに感じられる。
ゆったりとしたリズムで紡がれる紫の艶やかな吐息が、わたしの頬をすうっと撫でる感触がたまらなく心地良い。
ただ天井を向いているだけの身体に紫がそっと寄り添うような形でくっついているから、ぷいっとそっぽを向いて逃げ出すこともできない。
大人の女性として成熟しつつある肢体の豊かに実った部分がとても柔らかくて、この手でぐちゃぐちゃにしてやりたくなる。
自分がビアンだって自覚はメリーを愛するまでは全くなかったけれど、今になってみればそれは覆しようのない事実になってしまった。
わたしは発情してる。美しい身体に触れて興奮する醜い男の如く、心の底から湧き上がる性的欲求を抑えられない。
あの真夏の夜の夢を、嫌でも思い出す。メリーをこの手で好き放題に犯して快感を貪り合っていた時のわたしは、間違いなく幸せの絶頂に登り詰めていた。
それはきっとメリーだって同じだったはずで、その脳内を共有している紫にも伝わっていたんだろうから……そう都合よく勝手に解釈してしまえば、紫がわたしを求める理由なんて簡単に想像が付いてしまう。
わたしの視点で考えるとメリーには2つの人格が存在することになってしまうけど、彼女からしてみれば宇佐見蓮子と言う存在はわたしひとりしか存在しない。私達が出会った時に交わしたキスが紫の本心であれば、わたしを『奪う』なんて選択肢はありえなくもない。
そんな考え方なんて所詮自惚れ。こんなわたしを愛してくれる人がふたりもいるなんて、それこそ自惚れだ。わたしは誰からも嫌われてきたし、愛なんて夢物語で求められた経験なんてこれまで一度もなかったんだから。
「元はと言えば、最初に蓮子が告白してくれたのは彼女ではなくこの私だったはず。口付けを求めてくれたのも貴女だし、優先権は私の方にあって然るべきですわ」
「それは……貴女を愛してるわたしがいることは間違いないけれど、メリーを愛してるわたしだっている。こんな我侭なんて絶対許されないって分かってる。でも、わたしはどちらのことも好きで、もうどうしようもないの……」
「私と彼女は人格は違えど意識下の想いは通じ合っているのだから、蓮子を愛しているって事実は絶対に変わらない。貴女が思い悩む気持ちはお察ししますわ。ただし両方を愛してくれるだけで、それは私達二人の幸せに繋がると言うことをくれぐれもお忘れなきよう」
「でも、そんなこと、メリーの承諾が取れてない。貴女が一方的に決めているだけだよ。たとえ意識を共有していたところで、わたしが紫を愛していることをメリーが知ったらどう想うか分からない。わたしはメリーに絶対嫌われたくない。勿論、紫にも……」
「あくまでも私は蓮子の意志を尊重したい。だから迷惑を掛けることだけは絶対にしませんわ。八雲紫は貴女を愛することができたらそれだけで幸せ……後ろめたい想いなんて何も感じなくていい。要するに今みたいに『彼女』に気付かれなければそれでいいのでしょう?」
その凛とした声で紡がれる言葉の数々は、わたしのばらばらになった心を誘い惑わす妖艶な色彩を帯びていた。
道に迷う不思議の国のアリスを天国へ突き落とすような美しくも夢現な音色は、甘美な吐息と共に緩やかな快楽を感じさせる。
わたしも、紫も、きっと多分愛していると言う気持ちは同じなのに、お互い譲り合おうなんて意思はこれっぽっちもないみたいだった。
それこそ根本的な部分で私達は繋がっているからこそ、こんな話に妥協案なんて存在するはずもなくて、意見は平行線を辿るばかり。小指で絡まる運命の糸に縛られた絆のせいで頭がおかしくなりそうだった。
恋なんて禁断の果実をかじらなければこんなことには……勿論、後悔なんて全くしてない。でもわたしがちゃんと心の在り処を明確にしておかなかったから、紫の紡ぐ美しいコトノハを聞いているだけで思考が錯綜してしまう。
わたしは当然のことながら、メリーも、きっと紫も、恋に狂いたいんだ。
それがこの世界に残された唯一の幸福論だと信じて止まない私達は、恋に溺れて壊れてしまいたい一心でお互いを求め合っている。
全てを賭して愛したいと願う気持ちも一緒なのに、どうしてボタンの掛け違いのようなことになってしまったのかな。メリーを愛することと、紫を愛することがイコールにならない以上、わたしは紫の提示する条件を絶対に飲み込めない。
たとえメリーが許してくれたとしても、心の何処かでずっと引っ掛かりを感じたままふたりと付き合う羽目になってしまう。それこそ神様みたいに等しく人を思いやることなんてできないし、それは何よりも紫の教えてくれた幸福論とかけ離れているような気がした。
「それはわたしには確かめようがないから。今現在紫がメリーと意識を共有していないなんて保障は何処にもないよね」
「そのことに関しては私を信じて貰うしかないけれど、蓮子に信頼されてないと想うと素直に落ち込みますわ。この今にも胸が張り裂けそうな私の気持ち、どうすれば貴女に届くのかしら?」
「ごめん、違うの。そういう意味じゃないの。わたしは紫のことだって信じてる。ただ、怖いの。怖くて仕方ないの。メリーに嫌われてしまったわたしには、この世界で生きていく意味がなくなってしまうから……」
きついことを言っちゃったかなと思い、つい拍子で謝ってしまった瞬間――艶めかしい甘美な吐息と共に、紫がふっと勝ち誇ったような妖しい声色を奏でた。
今の言葉に嘘偽りは『ほとんど』ないし、紫だってメリーとの会話を盗み聞きしていたとしたら、こんな気持ちなんかとっくに理解しているはず。その微笑の意味がどうしても理解できず、わたしは頭を抱えるしかなかった。
そっと伝うぬくもりが狂おしいほど愛しくて、動脈静脈を駆け巡る血の流れにすら川のせせらぎのような不思議な心地良さを感じてしまう。心も身体も、わたしの全てが紫を求めてる。それでもぎりぎりで残っている理性を保つために、ぐっと必死で歯を食いしばった。
正直なところ、わたしは紫の真意を図りかねている。あのパパを殺す夢やリスカ実況の件を考えると……真っ直ぐに信じることができるかと問われたら、素直に首を縦に振る肯定のサインは躊躇われた。
今この状態だって同様だと思う。紫がわたしを愛してくれているって想いはちゃんと伝わって来るけれど、その理由はいまいち釈然としない。恋の理屈を問うこと自体野暮ったい戯言で、恋に理由なんて必要ないって考え方は正しい。
ただ裏を返せばわたしが紫に好意を抱く理由だって不透明で、それは一目惚れとか運命の出会いとか、そんな類の言葉であっさり片付いてしまう。そもそも紫の存在自体が夢現や幻の類で、美しくも惑わしい幻想的な雰囲気を醸し出している。
そもそもすぐ傍に全ての愛情を込めて壊れるほどに抱きしめたい人がいるのに、冷静な思考を要求する方が無理な話だから。もうわたしの頭は滅茶苦茶で、サイケデリックな思考に犯されていく脳内を必死に食い止めるだけで精一杯だった。
「本当に蓮子は分からず屋さんでいけない子。そんな考え方だって貴女と同じ――宇佐見蓮子と言う存在がいない世界は私にとって価値のない虚構の現実、要するに八雲紫の存在の『ロスト』だと言うことを、今此処ではっきりと教えてあげるわ」
凛として咲き誇る真紅の薔薇の如く、その荘厳な矜持をしかと感じさせる艶めかしい声色が心臓を貫いた。狂おしいサディスティックなコトノハを紫が囁いた途端、ぞくぞくと悪寒に近い快楽が身体中を駆け巡っていく。
それはデイケアの白昼夢で初めて口付けを交わした刹那のフラッシュバック、甘美なひとときを告げる神の宣誓。そして、幸せは存在する――そんなわたしが目を背けていた真実を明確に教えてくれたあの瞬間を彷彿とさせる。
くちびるを伝ってどばどば溢れ出す想いを貪るようにしゃぶり尽くす感覚はたまらなく気持ちよくて、つい思い出すだけでもうっとりしてしまう。そう、今だって、心も、身体も、あの時に感じた快楽をずっと待ち焦がれているのだから。
紫のすらりとした指が布団の中にそっと入り込んで来て、わたしのパジャマのボタンを上から順にゆっくりと外していく。それは絶対駄目だと抵抗を試みるものの身体は全く動かなくて、ただ甘く切ない声が鼻から漏れてしまう。
その動作のひとつひとつが緩慢で、焦らされているようなもどかしい感情が脳内を支配する。全てのボタンを取り外したところで、その指は真っ直ぐ下半身の方へ移動して、上下お揃いのチェックの入ったボトムをゆっくりとずり下げ始めた。
誰もいない世界に衣擦れの音がやたらと大きく響いて、たまらず耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。布越しではなく直で伝わって来る紫の太腿のぬくもりがあまりにも生々しくて、快楽を待ちきれなくなった心臓の鼓動が異常に早くなっていく。
そんなことなんてお構いなしに、しなやかな指が私達を覆っていた布団をぱっと宙に放り投げる。紫と比べるまでもなく粗末な肉付きの身体を晒されて理性はもうほとんど残っていないに等しかったけれど、ほんの薄皮一枚残った意識でわたしは懇願するしかなかった。
「だめだよ、ゆかり、お願い……こんなことメリーにばれて嫌われたら、わたし、わたし……」
「そもそも、蓮子。貴女は間違いなく私の面影に『REM』を重ねている。そして貴女が感じている想いは『REM』に抱く感情と同じなのだから」
「そ、それは……分からなくなるの。貴女がメリーなのか、それとも紫がメリーなのか、貴女の想いを感じていると頭がぐちゃぐちゃになって……」
「だから、それがどうなっているのか、はっきりと貴女の身体に素敵な快楽として刻み込んであげる。蓮子自身が直で感じた方が分かりやすいはずですわ。それ以前に貴女だって、ずっとこうして欲しいと願っていたのでしょう?」
心の奥底を射抜かれたわたしの頭にしがみ付いていた最後の理性が、ぷつんと音を立てて切れた。
あの何処までも甘く切ない口付けのように、その全てを教えて貰える――そう考えるだけで、思考回路が焼き付いて完全に停止してしまう。
紫の言う通りわたしが彼女に対して抱いている感情は、メリーと紫へ対する想いと重なって滅茶苦茶に混ざってしまってる。幾ら別人格だと意識したところで、メリーは紫であって、紫はメリーで……そんな歪んだ因果関係はどうしても覆せなかった。
今抱く想いがどうしようもなく汚れていてぐちゃぐちゃだったとしても、その根本にあるものは決して変わらない。脳内で異なる人格を共有している彼女達を溺れるくらいに愛してると言うことは、今となってはもう変えがたい真実になってしまったんだから。
――あはっ、そうだよ。彼女はあくまでもメリーのニセモノ。好き勝手に犯して快楽を貪ったら後でフってしまえばそれでお終いだよ?
甘い言葉に蝕まれて完全に失われた理性の中からサイケデリックなわたしが現れて、げらげらげらげらと笑いながらおかしなことを話し始める。
ニセモノ。そう、紫はメリーのニセモノ。自分をフェイクだと呼ぶような、メリーであってメリーではない存在。そんなメリーの一部分である彼女をメリーだと思い込んで愛したって、きっと多分わたしの裏切りは推定無罪になるんじゃないかな。
メリーだって今目の前にいる紫が自分自身であると言う事実を否定しなかった。ニセモノだけどあの晩と同じように等しく愛してあげたら、それはもしかしたらメリーの意識まで届くかもしれない。ずっと、ずっと、会いたくてたまらないメリーのところまで……。
遠距離恋愛なんてもどかしい想いをしなくてもいい分、これってとても素敵な繋がりだと思うの。だって、ただ紫が今現在のメリーと記憶をリンクしてくれるだけで、わたしは思う存分に貴女を狂おしいほど可愛がることができるんだから。
くだらない建前。つまらない理想論。ただ最低の感情を抱いて屁理屈をこねているに過ぎなくて、ただ今のわたしは鮮やかな幻に惑わされてメリーの全てをぐちゃぐちゃにしてやりたい。
たったそれだけの話に過ぎないんだよ、刹那の快楽に生きることの何がいけないのかな。物凄くメリーに良く似た素敵なラヴドールがあるんだから、それを使っていやらしい気持ちになってきゃはははははははって快楽にとち狂いたいだけなの。
もうこれ以上堕ちる奈落なんて何処にもないもの。空を見上げることしかできないわたしに守るべき禁忌なんてない。ニセモノを本物だと信じ込むだけで、メリーが与えてくれる快楽と同じものが手に入る。人間の脳ってこんなお馬鹿な作りになってるんだよね。
これだけ色々な学問が進化しているのに、利便性や痛みの克服なんてお間抜けな研究に執着する理由が分からない。ただ脳に快楽をひたすらに享受するための物質を投与してやれば、私達は簡単に幸せになれる。そんな子供でも知ってる真実が分からないなんて――
「……貴女が、欲し、い」
鮮やかな幻に妖しく誘われるがままに哀訴の音色を紡ぐと、そっと寄り添っていたしなやかな肢体がふわりと舞い上がってわたしに跨った。
格子窓の間から差し込む月の光に映し出された絹のような肌が、真っ白く映えて見える。そのまま艶やかな黄金色の長髪をふわり翻す姿はとても幻想的で、背筋に寒気が走るほど美しかった。
黒い影がにやりと笑う。ニセモノに恋したわたしを嘲笑う。口端をくいっと釣り上げて笑う様は、まるでビルから飛び降りたわたしを見下していた時と全く変わらない、下卑た挑発的な微笑みだった。
「さあ、私の親愛なる人、その甘えるような声ではしたなく鳴いてあられもない姿でよがり狂って見せて?」
鈴の鳴るような美しい声色が紡ぐ妖しい言の葉は、サイケデリックに染まる心の中に倒錯の色を帯びた艶めかしい快感を与えてくれる。
わたしの身体に馬乗りになった黒い影が、ぴったりメリーの面影と重なって見えてしまう。あの基本的に受身でサディスティックなわたしが大好きだと言ってくれたメリーの行動として、こんな高圧的な態度は到底似つかわしくないのにどうしてかな。
あの晩メリーを抱いた時とは逆だよね。今これからわたしは紫の親愛なるラヴドールとして好き放題に犯される。彼女の満足の行くまで滅茶苦茶に貪られて、与えられた快楽によがり狂うだけのマリオネットになってしまう。あはっ、それって、す、て、き、だね。
しなやかな肢体がわたしと重なって、乳房に顔を乗せた紫が上目遣いでいやらしい笑みを浮かべた。そのまま肌蹴た胸元から首筋へ焦れったくなる速度で、ぬめっとしたナメクジのような舌先が這いずり回る。
ねっとりと絡み付く液体が塗りたくられた肌からぞくぞく伝う緩やかな快楽が、わたしの五感を着実に支配していく。そして熱っぽい吐息が段々とくちびるの傍に近付いて来て、あらゆるところに好き勝手に口付けを落とす。
その甘美な感触を受けるたび、悩ましい媚声が口から鼻にすうっと抜けて鳴り止まない。ただわたしはぎゅっと目を閉じて、うなじや頬に所構わず降ってくるキスを捕まえようと、だらしなく開いたくちびるで紫の花びらを真っ直ぐに迎えた。
「あ、ぁ、はぁ、んっ…………」
花の香りがするキスがわたしのくちびるに舞い降りて、ゆらりゆらり想いが宙に浮かぶ。
その美しくも惑わしい口付けはあの時に与えてくれた神様のものに間違いない、そう確信させるには十分過ぎるほどのエクスタシーが身体中を駆け巡った。
繰り返される小さなキスに紫の狂おしくも愛しい想いをひしと感じると、自然と涙が溢れそうになる。そっと受け止めてくちびるを押し付けようとしても、それ以上のやわらかい弾力で強引にねじ伏せられた。
あくまでもわたしには主導権が全く存在しなくて、彼女も渡すつもりなんてこれっぽっちもない。その気位が恐ろしく高い紫に相応しい、途方もなくサディスティックなキスはわたしの抵抗の一切を許さなかった。
身体はふしだらな火照りでどうしようもなく熱くなって、さらに心の中からも多幸感が噴き出して来る。紫と触れている全ての部分から都合良く感情を勝手に受け取って、その強制的に押し付けられる想いを快楽に変えてしまう心は完全に壊れていた。
いびつな背徳感を醸し出す隷従の口付けは何処までも甘美な悦楽を感じさせる一方で、その禍々しい狂気は破壊されたぐちゃぐちゃの神経をむき出しにしてわたしを犯していく。
重ねあったくちびるを無理矢理こじ開けられて、心の奥底を満たすような甘い吐息を吹き込まれた瞬間――わたしの理性は完全に崩壊して、心は狂おしいまでの愛とサイケデリックな衝動で狂騒状態に陥ってしまう。
こんな一方的な状態でされるがまま蹂躙されているにも関わらず、どうしようもない心地良さを感じている自分がいる。あはっ、わたしってマゾヒスティックだったんだね。内側からも外側からも侵食されていくことが、こんなに気持ちいいなんて信じられない。
ねえ、わたしは紫の奴隷なんだから、もっと乱暴に扱ってよ。紫のことしか感じられなくなるまで、ぐちゃぐちゃに犯して欲しいの。こんなの、生温い。やさしいよ、やさしすぎる。もっと痛くしてよ、激しく、壊れるほどに抱きしめて、跪かせてよ。
あぁん、や、おかしくなる。おかしくなる、よぉ……きも、ち、いい。それでいいの、わたしは貴女に愛される素敵なラヴドールになりたいの。紫の教えてくれた幸福論通り、貴女の想いが感じられないと死んでしまう壊れたマリオネットにしてみせて?
――『REM』であるメリーから伝わる想い。そして神様である紫から感じる想いも、全部わたしの愛したものに違いない。
そのくちびるに込められた貴女から伝う想いの全てが、心にふわり桜の花びらのように降り積もっていく。それがたまらなく気持ちよくて、眠りに落ちる瞬間みたいな酩酊感を伴っているからついうっとりしてしまう。
ニセモノとか本物とかそんな事実はどうでもよかったんだよ、今わたしが感じていることだけが真実で、この世界を形作ってる。何がどうして面白いとか悲しいとか幸せだとか、全てを決めるのは自分自身に他ならなくて、それは他人がとやかく決める類のものじゃない。
命の存在する数だけ幸せの形があって、わたしにとって幸せとはメリーと紫に愛されることだった。今この瞬間を掴むまでの道のりは物凄くつらくてそれこそジサツしたくなったけれど、もうわたしはそんな方法にこだわる必要はなくなった。
ああ、めりぃ、感じてる。貴女にも見て欲しい。見られたい。わたし今とても幸せで、もうひとりの貴女に愛して貰ってるんだよ。
これから一切の反抗も許されず、わたしがメリーとxxxした時の貴女みたいにぐちゃぐちゃに犯されるの。メリーに見られてると想像するだけで余計はしたない気持ちになるし、もう狂おしいほどに愛しくなって、わ、た、し、こ、わ、れ、ち、ゃ、う、よぉ。
やっぱりわたし、貴女がいないと生きていけない。もうメリーがいないとジサツするしかないんだ。わたしはメリーに狂ってる。わたしひとりでは、この想いは満たされない。だから今ニセモノのメリーに抱かれて、それで心を満たしてあんあんよがっちゃってるの――
<White borderline>
――きっと、これも、全て、夢なんだよ。
いずれ、覚める、夢を、わたしは、見ている。
十八歳の破滅につけ込んだ幻覚。
物語のヒロインに産まれた錯覚。
白黒の映画に入り込んでる幻覚。
虹色の戦争に映り込んでる錯覚。
存在しているのかすらどうか危うい紫と抱き合って朦朧としてる記憶は、いずれは消えてしまう魔法のような気がした。
この真っ白な世界はメリーが見せてくれたものと全く同じだけど、わたしはいつも夢と現実が曖昧で気を付けていないと貴女を見失いそう。
恋に狂って壊れてしまうと言う幸福論の先にあるものは、貴女以外を感じられなくなる此処のような場所に身を置くことを意味するのかな。
悪くないと思うよ。とても素敵……あんな世界で生きていくことは罪でしかないし、繰り返すだけの現実をリセットするなんて不可能だもんね。
ジサツして電源を強制的に切る機能を人間は持ち合わせてはいるものの、それは実際のところなかなか決断まで踏み切れない方法だから。
もうそんな手段は考えなくていいんだよね。だって貴女の想いだけが伝わって来るこんな場所で永遠になれたら、必ず幸せになれる。
ただ、今のわたしは詩を思い出せない。貴女と描く夢物語を紡ぐための言の葉をあちらこちら探してみても、どうしても見当たらなかった。それは今わたしが夢見てる相手がメリーではなく、あくまでも紫だと言う証明なのかもしれない。
心の何処かできちんとふたりを把握している以上、紫の話していた幸福論は成り立たないことになってしまう。メリーのこと、そして紫のこと……そうやって想いが散漫になっている時点で『恋に溺れて壊れてしまう』なんて条件は完全に達成不可能。
彼女達が脳内を共有していると言う事実に関してどう向き合えばいいのか、いまだ答えは見つからない。メリーに率直な意見を聞けば解決の糸口が見つかるような気はするけれど、彼女自身が紫の存在に対して罪悪感を抱く可能性だって否定できなかった。
紫のことに関して一切関与できない以上メリーは無力同然だし、この件でわたしに向けてくれるあの素敵な想いをねじ曲げて欲しくない。そんな有耶無耶な状態で紫と接した時に一体どうすればいいのか、絡み合う運命の悪戯で未来の懸案事項が山積みになっていく。
今のわたしにできる唯は、メリーと紫を愛すること。たったそれだけが真実で、わたしが生きる理由。あの晩や今日みたいに、もっとふたりを知りたいと思う。そしてこの思考が吹き飛んでしまうほどに狂おしい愛を育んで、死ぬほど鮮やかな未来を夢見たい。
――どうか、どうか、このまま目が覚めませんように。
そう願って止まないわたしは、あのどうしようもない現実で生きているわたしとさほど変わらない気がしない?
どうせこの夢から覚めたら、何事もなかったかのようにくるくるくるくる回り続ける世界が待ってる。そんな場所に帰りたくないんだよ。
わたしはずっと此処にいたい。真っ白なまま、そのうち白なんて色さえ失って、あの透き通る蒼空に溶けて消えてなくなってしまいたい――
</White borderline>
毎度毎度、頻繁に断線を繰り返す意識の中でふと隣に目をやると、其処にはわたしをぐちゃぐちゃにした黒い薔薇が凛として咲き誇っていた。
御伽の国のお姫様のような見目麗しき彼女は、今どんな夢を見てるのかな。少なくともメリーも紫も、刹那の快楽だけを繋いで生きることを良しとして日々を送ってるとは考えられない。
ふたりに共通してる事柄と言えば、色恋沙汰に狂いたいと願っている――それくらいかな。そう言えばあのデートの晩にメリーは「私と彼女は結構思考することが似ているから」って話を打ち明けてくれた。
この『現在』だってメリーが望んでいたと思い込んでしまえば、わたしの精神的な苦痛も大分和らぐ。もう後戻りはできなくなってしまったけれど、道に迷っている不思議の国のアリスはわたしとメリーどっちなんだろうね?
しんと静まり返った世界で、心に刻み込まれた紫の想いがゆらりゆらりと宙へ舞う。
恋に溺れて壊れてしまうなんて幸福論は恋をすることが前提条件となっているから、わたしひとりだけではその想いを満たせない。
当然相手が必要で、お互いの愛をひたすらに貪り合って、その想いを狂おしいほど感じて五感を麻痺、あるいは完全に破壊してしまうことで始めて成立するから。
ただ、わたしとメリーも、そして紫も、その想いで相手を満たす行為に及ぶ時間が圧倒的に不足してる。
もっと私達はお互いを求めて、求められて、何もかも分からなくなってしまう狂気に満ちた愛を注ぎ込み続けないといけないんだよ。
それは柔らかい言葉にすると、お互いの絆や繋がりを確かめるためにキスやハグ、xxxを重ねることが大切、なんて自己啓発本みたいな物言い。
わたしが切望する恋はそんな生易しいものじゃなくて、メリーの幸せがわたしの幸せに置き換わってしまうような、この世界の全てを塗り替えてしまう恋愛。
こんな残酷な日常の繰り返しなんてうんざりだから、今すぐにでもわたしはメリーとふたりきりの名も無き素敵な世界へ旅立ちたい。
――あはっ、まだ気付かないのね。狂ってしまったのはわたしだけなんだよ。
遠のく意識の片隅で、ふとそんなことをげらげらと笑いながらサイケデリックな『わたし』が囁く。
頭の中で共鳴する鮮やかな幻に惑わされているわたしの思考は、あのはじめてのキスの時から既にばらばらだったのかもしれない。
その記憶越しに見開いたこの現実から、幻聴幻覚の類とは全く違う妄想に入り込んでしまったわたしは、貴女を探して当てもなく彷徨っている。
嘘つきの詩人宇佐見蓮子の破滅に捧ぐメリーへの狂おしいほどの恋慕は、ひとりで『ふたり』を知ってからひどく歪んでしまった。
いつしか失ってしまったはずの未来が、今何故かわたしの手元に置いてある。
こんな命を繋ぎ止めている理由は間違いなくメリーなのに、あの日交わした約束の意味や与えてくれた想いが不明瞭になっていく。
八雲紫と言うもうひとりの貴女に狂わされてしまったわたしは、もう一度出会えた時に心からメリーを愛することができるのかな。
紫の面影と重なって見えるメリーのイメージが、心の中でゆらりゆらりと揺れてる。貴女に似せた八雲紫のイメージが、心の中でゆらりゆらりと揺れてる。
そんな『今』を作り出してしまったのはわたしのせい。貴女のことがぐんにゃりと歪んで見えてしまうその理由は、透明に歪んだ窓越しから未来を夢見ているせい。
未来なんて不確実なものにすがってしまったから、きっとわたしは壊れてしまった。こんな簡単に幸せは手に入る。すぐ目を閉じればほら、この世界は消えるの――
</Psychedelic trance>
</Mental Meltdown>
時刻は朝6半時ちょうど。いつものように廊下からカートを引く音が響いて、看護士の「検温の時間です」なんて言葉と共に朦朧としたままの意識がぼんやりと覚醒していく。
横に寝ていたはずの紫は何時の間にか自分のベッドに戻った後で、体温計を受け取って脇に挟み込んでいる。まるで昨日の出来事が全て夢だったかのような錯覚に眩暈がして、真っ直ぐ歩くことさえ間々ならなかった。
当たり前になってしまった閉鎖病棟の日常が、吐き気を催しそうになるほど気持ち悪い。あんな鮮やかな幻に包まれていたのだから、それも当然かな――そう思い直して体温を測って表に書き込んでから、わたしは朝食の時間まで不貞寝を決め込む。
昨日は意識があやふやな状態で寝ているのかどうかもよく分からなかったけれど、こんな時間になってようやくはっきりとした睡魔に襲われる。自分のベッドに戻ってゆっくり目を閉じると、案の定すぐに意識がぷつんと途切れて眠りに落ちた。
――朝食のお時間です。患者の皆様方はダイニングルームの方にお集まりください。
何の感情もこもってない事務的な口調の呼び出しで、無理矢理叩き起こされる。寝起きが壊滅的に悪くてすうっと眠ることが幸せだと考えているわたしにとって、無意識の妨げは不快でしかなかった。
どうせ何も口にしないし行くだけ無駄なんだから、もうちょっとだけ眠らせて欲しい。でも規則だし姿を見せなければ当然看護士がやって来て、強制的に連行されてしまう。心底うざいと毒づきながら身体を起こして目の前を見ると、もう既に紫の姿はなかった。
いつもダイニングルームへ向かう時や寝起きは大抵声を掛けてくれるのに、昨日のあれを多少なりとも意識しているのかな。あれだけ自分から誘惑しておいて今更恥部の類を感じなくてもとは思うんだけど、何かかんだで不純な交遊に耽っていたことは事実だし……。
がらんとした室内を後にして、ゆらりゆらり夢遊病患者みたいな足取りで廊下を歩く。全く眠れずに3日くらい睡眠なしでも全然動けてたはずのわたしの身体は、いつからこんな風になってしまったんだろう。規則正しい睡眠を暫くの間しっかりと与えられてたせいかな。
いかにも営業スマイルなキャスターが読み上げるニュースを聞きながら、相変わらず食欲が湧かないわたしは何となしに目玉焼きの黄身の部分をぐちゃぐちゃとかき混ぜる。
紫と交わした哲学の話から始まって、ジサツの方法から導き出された幸福論、神様としてのメリーである『八雲紫』の正体、そして彼女から受け取った狂おしいほどの愛情――昨日起きたありとあらゆることが頭を過ぎっては消えていく。
その出来事の全ては気色悪く感じてしまうほどに生々しくて、今のわたしの思考で咀嚼して正常な判断を下すには今しばらくの時間が掛かりそうだった。あれこれとまとまらない思考を頭の隅に押しやって、半熟になっている目玉焼きをひたすらに箸で突き刺す。
そんな何の意味もない緩慢な動作を繰り返していた瞬間――かちゃかちゃと食器が立てる音だけが静かに輻輳するダイニングルームに悲痛な叫びが響き渡った。たまに病的な理由で奇声を上げる人はいても、今の声は間違いなく恐怖に怯えた人間が発するものだった。
絶叫が聞こえた方向に思わず視線を向けると、其処に座っているはずの紫の姿が見当たらない。周りの人々が唖然としながら床を覗き込んでいるところを見ると、その身体が椅子から転げ落ちて地面に倒れていることがはっきりと分かった。
「ゆ、かり?」
その場に居合わせた患者全員のざわめきと共に騒然となったダイニングルームは完全にパニック状態だった。
「担架を持って来い」「包帯をすぐに」「○○先生を」「救急の方へ連絡早くしろ」等々の罵声に近い指示が飛び交う。
紫の周りで座って食事を取っていた人々が強制的に退去を命じられて、あっと言う間にその付近は看護士で囲まれて見えなくなる。
けたたましい足音を立ててナースステーションからも次々と人が出て来て、当たり前になっていたはずの日常が音を立てて崩れ去っていく。
何が起こってるのか全く理解できず呆然としたまま紫の方へ近付いてみても、その姿は白い装束に身を包んだ人々のせいで全く見えない。
貧血や何かでふらついて倒れるくらいならこんな騒ぎにはならないし、どう考えても不可思議でイレギュラーな事態が起こっている。
「紫は、ねえ、紫は、どうなってるの? 紫はどうしちゃったの? どいてよ、邪魔だよ、うざいんだよ、みんなどっか行ってよ! 紫の顔を見せて。ね、紫、其処にいるなら返事してよ、紫、紫ったら!」
ヒステリックな声を上げて紫の名前を叫び続けるわたしが心底邪魔だったのか、あるいはどうしても見せたくないのか、いきなり男の看護士にぐいっと腕を引っ張られて行く手を阻まれた。
落ち着いてください、大丈夫ですから。この人の言ってることが、全然真実味を帯びて頭に入って来ない。看護士の人達も相当焦っているのか、冷静さを取り繕う余裕さえ全く持ち合わせていないように見えた。
修羅場さながらのダイニングルームのあちこちから幻聴みたいな声が聞こえる。今この状態が何を指すのか全然意味が分からないし、かと言って紫の姿をこの目で捉えることもできず、わたしはただ其処に立ち尽くすしかなかった。
そんないきなり倒れ込んでしまう類の持病を抱えてたなんて紫からは何も伝えられていないし、精神疾患において突然危篤に陥る症例なんて少なくともわたしは『てんかん』以外聞いた覚えがない。
愛しい人の身に果たして何が起こっているのか、この事態を把握するそれ自体がおぞましいことのような気がして頭がおかしくなりそうだった。うわんうわんと幻聴みたいに看護士の怒声が頭の中で鳴り響いて、ひたすらにわたしの思考を邪魔する。
心の奥底から湧き上がって来る感情は、どうしようもない後悔とか懺悔とか、その他諸々の後ろめたい想いばかり。もしかしてこれはわたしが原因で起こったこと、つまり宇佐見蓮子に下された罰なのかもしれない――直感や第六感の類が、そう確かに告げていた。
「患者の皆様方、ご心配には及びません。ただ精神的な安定を要する事態ではありますので、朝食は中止とします。それぞれお部屋に戻って安静にしてください」
ふざけるな、わたしには紫のことを知る権利がある、そう心の中で毒付いても男性の力で引き止められている以上彼女の姿を見ることは叶うはずもなく、わたしは呆然としたままその場に居合わせる。
その場に居合わせた患者が看護士に促されて、三々五々散って部屋に戻っていく。こんな時に己の無力さを呪ってみたところで今更過去へ戻ることは叶わないし、どうしたらいいのかさっぱり分からず途方に暮れるしかない。
そんな想いに駆られたわたしの力が抜けていく様子を察してか、取り押さえられていた看護士の手からまるで他人みたいな自分の身体が開放される。ゆらりと横に傾いて転びそうになった途端、ひそひそと周りが喋っている声が鮮明に聞こえてきた。
――おい、どうしたんだよ、あれ?
――あの女、いきなり持ってた箸で目ン玉思いっきり突き刺したんだぜ。あんなこと平然とできるなんてやっぱ狂ってる奴ばかりなんだよ、俺らはマシな方だよな。
――うっわあマジかよ。じゃあもう目が見えなくなるってことか……。
――お前知らねえの? 下の方から思いきりずぶってイっちゃったからさ、箸で脳髄まで貫いちゃってるわけ。つまりあれは舌を噛み切るのと一緒で即死ってこと。
――死にたい気持ちは分からないでもないけどさ、そんな痛々しいやり方で踏み切れるってのに疑問感じちゃうよな。あーあ、あの女よお、身体付きがやたらエロかったのに勿体ねえ。
うそ、だよね。うそだ、そんなの、うそだよ。それは、ゆかりが、ジサツした、ってことだよ?
昨日の夜のこと、あれは夢なんかじゃなかった。わたしが好きだからって、宇佐見蓮子を一方的に犯し続けて、幸せになるために狂っていた紫がどうして今日になってジサツを選ばなければならないの?
わたしは何も嫌がらなかった。貴女の想いを全て飲み込んで、それがたまらなく気持ちよくてケモノみたいに快楽を享受し続けて悦びに喘いでいたのに……意味が分からない。貴女のやってること、紫が言ってたこと、何もかもあべこべで夢が逆さまになってる。
ジサツよりも素敵な選択肢だと思えたからこそ、私達は身体を重ねた。少なくともわたしはそう思っていたけれど、それは間違っていたのかな。貴女は自分の考える幸福論を放棄して、こんなどうしようもない汚れきったわたしが想う幸せの形を選んでしまった。
紫が伝えてくれた想いはとても素敵なもので、それは心からわたしを愛してくれている何よりの証拠。そう想っていたのに、こんなのってひどいよ。ジサツしても人々の記憶の中に存在する限り死んだ人間は生き続ける、そんな話をあの時の貴女は平然と語りかけた。
紫が記憶の中で永遠の面影になってしまったら、貴女の残像を無意識のうちに重ねているわたしはメリーを想って狂えなくなってしまう。自分の説いた幸福論が成立しなくなるように、貴女はわざとジサツを選んだ。でも、どうして、理由が、全然、わか、らな、い、よ。
紫は自分のことだけを愛して欲しかったのかな。だからこんなところまでやってきて無理矢理わたしを手に入れようとしたけれど、宇佐見蓮子がメリーを想う気持ちは心と身体を蹂躪したところで変わらなかった。
何処までも気品とプライドの高い貴女は、それがひどく気に入らなかったのかもしれない。紫の想いはある意味メリーよりずっと強くて――あのわたしが詩を綴ったノートを持ち去った張本人は紫だし、先にわたしのことを愛してると告ってくれた人格も紫だった。
そんな考え方、それこそ自惚れだ。ひどい、ひどすぎる自惚れ。神様のような美しい人に愛して貰えること自体、夢のようなお話。でも少なくともわたしはメリーに対する想いと全く同じ感情を紫の中に感じてたし、隠し事なんて一切無しで全ての想いを伝えたつもり。
それも全ては結果論で、貴女が死んでしまった以上、その与えて貰った想いを引きずって宇佐見蓮子は未来を生きていく羽目になった。祈りが叶わなかった紫のささやかな抵抗、それがこのジサツに込められた真意だとしても、わたしは何を想えばいいのか分からない。
――あはっ、全て幻聴幻想の類、所詮夢幻。サイケデリックなわたしがメリーが欲しくて欲しくて耐え切れなくて夢見た妄想の産物、それが八雲紫だったんだよ。
妄想リアル妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。妄想リアル。
げらげらげらげらげらげらげらげらGERAGERAGERAGERAGERAGERAGERAGERAと心の何処かのサイケデリックな『わたし』が嘲笑う。
妄想とリアルの区別が付かなくなったわたしは、メリーの想いがどうしても欲しくて八雲紫と言う虚構を作り出した。わたしの心が感じること、それが世界で、真実だから、どんな願いだって簡単に叶ってしまう。
その結果が彼女を生み出したに過ぎず、散々想いを貪って用済みになったからわたしの考える一番素敵な方法――ジサツを以って死んで貰った。八雲紫が悠然と語ってみせた幸福論なんてよく考えれば当たり前の理想論で、ずっと昔から頭の中に存在してた方法だった。
自分勝手で都合のいい考え方しかしないことが私達人間の最大のエゴで幸せ、そして罪だもの。何もかも自分のためで、他人なんてどうでもいい。この残酷な世界で生きるために妄想にすがるなんて独りよがりは、神様であろうとも責めたりできないんだよ。
そんな汚い人間の代表がわたしみたいなお馬鹿なだけで、主観的な思考でもわたしはわたしが嫌いだし、客観的に見ても最低だからジサツしたくなる。
だけどわたしはメリーって幸せを見つけたから、メリーに狂って幸せになるの。メリー以外の存在だったら、どんな最低のクズ呼ばわりされたっていい。もうわたし頭おかしいんだもの、メリーに愛して貰えたらそれだけで幸せだから。
あはっ、こんなニセモノのラヴドールを抱いて想いを貪っても、またすぐに心は干乾びてしまう。再会できたら壊れるほどに抱きしめてあげるから、メリーにも同じように狂って欲しい。わたしがいないと生きていけないと泣き叫ぶ素敵なマリオネットになって――
4.ヒカリ
――小さな頃から誰かに殺される夢や、あらゆることに追い込まれてジサツする夢をよく見ました。
現実ならばそれは激痛が走るような行為、例えばナイフで心臓を突き刺したり飛び降りだったりしますが、夢の場合ナイフが身体にめり込んで血が噴出す様子や高度xxxxメートルから風を切って堕ちていく様が手に取るように分かるんですよ。
そして其処で死んだ『わたし』は甦って、また次の場面で同じようにジサツを何度も繰り返します。途中で夢だと気付いてしまうことも多々ありますが、このループがとても心地良くて、どうしてもわたしは夢から覚めたくないと願って止みません。
ありえないはずの妄想がリアルタイムで伝わって来る夢と言う無意識の産物はとても素敵なものですね。あのジサツした瞬間に自分が真っ白になって消え失せていく感覚は、何処までも気持ちよくて心に安らぎを与えてくれます。
それに比べて現実のジサツはどうでしょうか。本能なんて余計なものが備わってしまった人間は、その痛みや恐怖に怯んでしまいなかなか実行に移せない人が大半ですよね。
そんな事実を鑑みても年間5万人の方々がジサツを選んでいると言う現実は覆ることはなく、そして生きることも死ぬことも面倒臭いと考えてしまうわたしのような人間が仕方なく生きていることもまた事実です。
ジサツは生きることに比べてトータルで考えると非常に低コストで有意義だと言う事実は以前お話した通りですが、宗教や思想ひいては国家的総意としてジサツが幸せに繋がることを認めてしまえば社会はもっとより良いものとして生まれ変わるでしょう。
先進国のスイスやオランダでは既に安楽死が合法化されています。もしもこの国に安楽死センターが開設されて楽に死ねるようになったら大繁盛間違いなし。あはっ、其処でLxDを混ぜた筋弛緩剤を打ち込んで貰えばわたしは素敵な幸せを掴むことができる――
金曜日の夜を迎えた街は何処も週末に浮かれた人々の些細な幸福で満ち溢れている。
それはこの京都駅前も例外ではなく、幸せを謳歌して歩く虫けらの群れがごちゃごちゃとあちらこちらへ行き交っていた。
東京から遷都して以来急速な発展を遂げ続けている京都は、全国を結ぶ列車が集う一大拠点として今やその規模は計り知れない。有名な建築家が立案した都市計画で謳われた綺麗事――寺社仏閣と最新建築の調和なんてコンセプトは物の見事に崩壊している。
こじんまりとしたお寺や神社の間に異様な高さの高層ビルが立ち並ぶ姿は客観的に見ても違和感を拭い去ることはできないし、あの『わびさび』なんて死語が存在していた頃の柔らかい空気と穏やかな雰囲気が残る古都のイメージは既に過去の遺物と化していた。
きらきらと輝く歓楽街のネオンは美しい星空さえ飲み込んで、意味不明な言語が並んだ看板が軒を連ねている。かつて中国が目覚ましい発展した時と似ていると指摘する専門家がいるみたいだけど、こんな様子を見ているとそれは何も間違っていないような気がした。
時刻は18時52分32秒+@。くすんだ空を見上げてから、一応広場に備え付けられた時計を確認しておく。
待ち合わせの時間まではもう少しだけ余裕がある。まあでもわたしは落ち着かなくて余裕を持って待機してる性なので、大体30分前には到着するように心掛けている。
文字盤に京都の代表的な祭――葵祭、祇園祭、時代祭等々が描かれている和式のからくり時計は、此処京都駅の待ち合わせ場所のシンボルになっているらしい。定刻になると弁慶と牛若丸が飛び出して来るんだとか、知らないことばかりの街は探索気分なら面白い。
ぼんやりとした思考と視線で辺りを眺めてみると、通勤帰りのサラリーマンや遊びに繰り出す学生と恋人達、そして夜の仕事に出掛ける疲れた顔をした派手な格好をしたお水関係っぽい方等々、ありとあらゆる風情を醸し出す人々が忙しなく往来を繰り返していた。
生活やお金、そして性の生々しい臭いが鼻を付く街の雰囲気は、かつて拠点としていた新宿と全く同じだった。そしてわたし――宇佐見蓮子自身も、あのポルノ映画館の下で俯いていた頃とほとんど変わらない生活を送っている。
<Ghost memories>
紫が完全なジサツを遂げた後も、わたしは閉鎖病棟なんて閉ざされた空間の中で一心不乱に勉強をし続けた。
彼女がジサツしたと言う事実は当然公表されることもなくて、何事もなかったかのように隠された世界の日常は過ぎ去っていく。
あれはわたしのせい――そんな後ろめたい気持ちがなかったと言えば嘘になってしまうけれど、あの美しい残響を奏でるノイズが消えてからはとにかく集中できるようになった。メリーのことだけを想って、メリーのためと自らに言い聞かせてひたすらにペンを走らせる。
主治医と看護士以外との会話は一切なくて、記憶に刻まれたあの日の面影と心が作り上げた妄想のメリーに想いを馳せながら暮らす生活は、今思えば割と悪くなかった。入院が半年程度だったからで、もしも長期間に及んでいたらわたしの精神は崩壊してたかもしれない。
パパは一度も来てくれなかったのに、わざわざちゆり先生が何度か訊ねて来てくれて、センターの記入用紙や大学の願書を置いて行った。そしてパパに訥々と何か説いたらしく、入学金と1年分の学費は出して貰えることになって、わたしは何度もちゆり先生に頭を下げた。
センター試験の前日に一時帰宅を許されたのでマンションに戻ってケータイを見ると、メリーからの着信が物凄い数溜まっていた。
それはもう偏執症としか例えようのないレベルだったけれど、それだけわたしを心配してくれていると言うことがとても嬉しくて幸せ。
すぐに電話してちゃんとメリーが電話口で声を発した瞬間の――言葉にしようのない感情は今も忘れられない。紫のことだけを隠して洗いざらい事の経緯を話したら本気で怒られて、どうして相談してくれなかったのなんてさめざめと泣かせてしまう羽目になった。
それでもわたしの強い意志を感じ取ってくれたのか、最終的にはメリーが折れるような形でやさしく「蓮子のこと信じてるから」って心からの想いが伝う言葉を掛けてくれて。それがわたしの中で大きな励みとして、心の中が狂おしいほどの想いで満ち溢れていった。
メリーの近況も色々と聞かせて貰って、勉強はまあまあ、お気に入りのお店があるわ、3年は臨床も兼ねたフィールドワークが入って忙しくなるから、里帰りしてて今イギリスにいるの――あれこれ話を聞いてるだけで楽しくて、あっと言う間に時間がなくなってしまう。
必ず京都で会えるようにわたし頑張るから、そうメリーに誓って電話を切った。結果センターは信じられない出来で合格、その勢いで勉強も順風満帆に進む。この調子なら絶対に受かる、そんな根拠不明な自信でわたしの心は大分浮かれていたのかもしれない。
京都大学の入試は東京でも受けることができたので、1次試験も2次試験も全て東京で臨んだ。
試験終了直後は心臓の鼓動がやたら早くてなかなか収まらなかった。これはいけるんじゃないかと言う確信めいた手応えがあったから。
結果だけ言えば試験は無事合格。ただこの世界の現実はそんな甘くできているはずもなく、わたしが受かったのはメリーと同じ臨床心理学科の分野ではなく滑り止めの理学部で、その知らせをちゆり先生から聞いた時は物凄く複雑な心境に陥ってしまった。
どうせ学年も違うし講義だって一緒に受けられるはずもないし、ふたり揃って仲良くキャンパスライフなんて夢物語までは流石に考えていなかったものの……それでもこんな親元から離れて、京都でメリーの傍で暮らせることに心から感謝しなきゃいけない。
そう心に言い聞かせて、残りの入院期間を過ごす。何かと理由を付けては惚気合おうなんて、図書館や学食でいちゃいちゃしたりとか甘い大学生活のことばかり想像してしまう。素敵な未来を夢見て妄想に耽る、それは詩を綴っていた頃のわたしみたいだと思った。
――ゆらり、ゆらり、桜舞い散る道を、わたしとメリーはふたり、手を繋いで歩いた。
これが未来へと続く道、そう想うと心躍ってどうしようもなくて、このままメリーをあの空の遥か遥か遥か彼方、誰も知らない遠い世界まで連れ去ってしまいたい衝動に駆られる。そんな素敵な想いを抱きながら、てのひらから伝うぬくもりに想いを込めた。
今しかないとか言って未来を放棄し続けてきたわたしが、こんな素晴らしき日々の始まりを手に入れることができるなんて、それこそ夢物語や御伽噺の類だとしか思えなくて……ずっとこの日のために頑張ってきたのに、自分でもいまだ信じられないと言った感じ。
わたしの入学式に合わせて帰国してくれたメリーと抱き合った瞬間の万感の想いは、これ以上の幸せはないと感じさせてくれる最高な気持ちで――これからの私達の未来を祝福するように狂おしく咲き誇る桜の花びらが、とても美しかったことをよく覚えている。
黒いゴシックドレスに身を包んだメリーに入学式を無事見送って貰って、その後私達は四条川原の繁華街でビアン同士なんて世間体を平然と無視してゆったりとデートを決め込んだ。
全く見知らぬ土地を色々と案内して貰いながら、お決まりの定番デートコースを楽しむ。ちょっと時間も早かったので、カラオケに入ってちょっと暇潰し。それから素敵なイタリアンのお店で夕食を取った後、メリーが電話で話してたお店を見て回ることに。
其処はお姫様みたいな装飾がふんだんにあしらわれたお洋服ばかり取り揃えたメリーがいかにも好きそうなゴシックロリータ専門店で、どうもあの晩の「わたしに着せてみたい」なんて戯言をすっかり忘れてたわたしはまんまと騙される形になってしまった。
最初からわたしに着せるために連れて来たメリーのご機嫌は最高で、あれやこれやとわたしは着せ替え人形の如く色々な服を試着させられる。もうちょっとカジュアルな感じなら良かったんだけど、メリーが選ぶ服はどれもこれも御伽噺のヒロインみたいなドレスばかり。
アンティークなフリルの甘さと繊細な生地を使用したセクシャルなワンピースや、煌くクリスタルをあしらったマーメイドスカート等々……どう考えても似合ってないし滅茶苦茶恥ずかしがるわたしを他所にはしゃぐメリーはとても楽しそうで、もう完全にお手上げ状態。
この調子だと妥協点を探らないといつまでも終わりそうもないので、パンクっぽい感じのお洋服で勘弁してよって懇願すること1時間以上、メリーは不服そうだったけれどようやく納得して貰える形になった。お気に入りの服を着せたいなんて願望はまるで男の子みたい。
そのまましばらくウィンドウショッピングを楽しんで、夜も更けてきたのでそろそろお開き――なんてつもりは二人共全くなくて、その日はメリーのマンションに泊まることになった。
四条駅から列車に乗り込んで何も言わずただ寄り添い合ってる時間は夢みたいで、此処が現実なのか区別が付けられず思考が錯綜してしまう。わたしが感じてた世界との『ずれ』と言うか、あまりにも剥離した虚構の現実に眩暈のようなふらつきを感じた。
疲れた顔をして俯く背広姿のサラリーマンや家路に着く学生、そして私達みたいな恋人達が微笑み合う幸せな世界。そんなわたしが一生縁のないと思ってた場所に溶け込んで、ゲロ以下だと吐き捨てたこの残酷な世界と同居してる感覚はひどく気持ちが悪い。
これも慣れてしまったら、あの閉鎖病棟の入院生活と同じ感じで『日常』になってしまうのかな。あの幸せを謳歌する虫けら共と同等にランクアップする。こうしてメリーが傍にいてくれるだけで、わたしの瞳に映し出される景色はあまりにも変わり過ぎてしまった。
二駅ほど過ぎたところで下車して歩くこと数分、すぐにメリーの住んでいるマンションに辿り着く。
虹彩認証式のエントランスを潜ってエレベーターに乗り込んで、我慢できなくなった私達はやさしくキスを交わす……瑞々しくなったくちびるを離して案内されたメリーの部屋は25階建ての最上階だった。
散らかっているけれど、なんて言われてエスコートされた室内はエレガントな雰囲気で統一されていてとても素敵。ベッドの傍にテディベアのぬいぐるみが沢山置いてあったり、無機質なノートパソコンが乗せられた机に真紅の薔薇が飾ってある辺りがメリーらしい。
綺麗に掃除が行き届いた2LDKはクスリのシートや服の類が散乱しているわたしの部屋とは大違いで、そのギャップに思わず苦笑いを浮かべてしまう。さっと荷物を置くと、メリーはゆっくりとベッドに腰を下ろした。その隣にわたしも座ると、そっと身体を寄せてくれる。
あの晩のデジャヴが嫌でも頭の中をよぎると同時に、たまらなくメリーが愛おしくなった。あの時からずっと変わらず、わたしを信じて待っていてくれて、その想いは確かに繋がってる。その陶然としたままの面持ちだけでも、わたしの理性を破壊するには十分過ぎた。
そのまま勢いでメリーを押し倒して、そっとくちびるを重ねるとむせ返るような甘美な吐息が美しい薔薇の花びらの隙間から溢れ出して、妖しい色香を漂わせながら鼻孔をふわり掠めていく。
残念ながらゴスロリの服はきっと似合わないと思うよ。でもサディスティックなわたしが好きだと言ってくれたメリーの願望なら幾らでも叶えてあげられる。あくまでも狂おしい気持ちをやさしく伝える感じの柔らかいタッチで、くちびるの上にぬらりと舌を這わせた。
メリーは満足行かないのか、もっと乱暴して欲しいと言わんばかりに甘ったるい媚びた声でわたしの名前を呼ぶ。カタコトで繰り返す言葉の端々に倒錯的な色を帯びた快楽がしかと感じられて、わたしもメリーもあからさまに発情して求め合ってる事がとても嬉しかった。
お望み通りぐちゃぐちゃにしてあげるよ、何も心配しなくていいよ、貴女の好きなだけ与えてあげるから、もっとわたしを求めて泣き叫べばいいよ、あはっ――エクスタシーで頭がおかしくなっていく。この狂っていく感覚がたまらないから、私達付き合ってるんだよね?
ぷつんと断線、暗転、飛び飛びになった意識の中で、わたしは何度も何度もメリーの名前を叫んでいた。
いつまでも永遠に愛したい人の美しい名前を一文字ずつ手繰るように呼び続けて、リストカットと同じ感覚で心の中にメリーの想いを刻み込んでいく。
もう私達はお互いがいないと生きていけなくなるんだよ。そんな狂おしいまでの愛情を惜しげもなく注ぎ込まれたら、段々と貴女のことしか分からなくなって、余計なノイズも一切感じることなく、宇佐見蓮子はメリーと言うクスリがないと機能しなくなってしまう。
恋に溺れて壊れる――紫が説いた幸福論の意味は、つまりそう言うことだから。メリーだって分かってるんだよね。わたしとそんな関係になりたいから、愛してるって言ってくれた。凄く嬉しいな。だってわたし、ジサツ以外の方法で幸せになれると思ってなかった。
このままわたしと溶け合って一緒になっちゃおうよ。嬉しいこと楽しいこと苦しいこと悲しいこと痛いこと、何もかも貴女と一緒なら乗り越えていける。ああ、わたしはもうメリーがいないと生きていけない。めりぃが、めりぃが、めりぃが、めりぃが、いないと――
そんな素敵な大学生活が始まるとあの瞬間は確信していたのに、わたしに突き付けられた現実は非情なものでしかなかった。
メリーがいないと生きていけない。無意識でもそう感じてしまうほどに壊れてしまった脳内は常にメリーを求め続けて、ひとりぼっちなってしまった途端、胸がぎゅうと締め付けられるような痛みに駆られてしまう。
そのやさしいぬくもりや美しい声、そして狂おしいほどの愛……それらを常に貪っていないと、心が悲鳴を上げる。めりぃが、ほしい。めりぃが、ほしい。めりぃが、ほしい。めりぃが、ほしい。めりぃが、ほしい。めりぃが、ほしい。めりぃが、ほしい。
わたしのラヴドールとしてメリーを監禁したいと真剣に考えてしまうほどそれはもうひどいもので、たった一日会わないだけでもたまらなく切なくてどうしようもなくて、ただメリーのことを想って何度もオ○ニーに耽ったところで解決するはずもなかった。
恋の病をふんわりとした想いで包み込んでくれて、そして恋に狂うためのクスリとしてのメリーがもたらした副作用は、日を追うごとにわたしの心を蝕んでいく。白い日記帳に『めりぃ』と言う美しい名前だけが刻まれていく日々は何処までも残酷だった。
大学生活が始まってからメリーとほとんど会えなくなった理由は幾つかあって、それは多少覚悟はしていたものの……実際そんな状況に置かれてみると恋に溺れて壊れてしまったわたしの心はもう歯止めが利かなくて、ひたすらに激痛だけが身体中を駆け巡る。
とりあえず私達は学部も年次も違うから、普段通りに生活していたら会えないなんて当たり前なんだけど、メリーはフィールドワークで外の様々な場所――主に精神疾患系の治療施設へ研修に出掛けている時間が非常に長くて、構内で話をすることすら間々ならなかった。
学校で会えなくても、講義や研修が終わった後でいちゃいちゃすればいい。そんな平凡な方法さえわたしの場合は採用できなかった。それは金銭的な問題で、一応入学金と一年分の学費は出して貰ったものの、これからの受講料と生活費は自分で工面するしかない。
わたしは援助交際やサポで稼いだ汚いお金をほとんど使うこともなく、たまにCDを買うくらいだったからそれなりの蓄えがあって、それで当面はやりくりする目処は立っていた。だけど将来のことを考えると、バイトをフルで入れて頑張るしか道は残されていなくて……。
成績優秀者の学費免除が受けられるほど頭が冴えてるはずもないし、奨学金の類は前提だとしても生活はぎりぎりで土日はバイトを掛け持ちしないと足りない。そして食や衣服、娯楽は我慢できても、メリーの想いを感じられない生活なんて耐えられるわけがなかった。
そうやってすれ違いだらけになった私達はなかなか時間が合わなくて、週に一度夜のほんの少しの時間に会えるかどうか。
それもやっぱり平日が多かったから、どうしても明日の予定を考えたりすると結局長居できなかったりもして、あれやこれやで何かと慌ただしい。
本当はもっとゆったりとした甘いひとときを愉しみたいのに……メリーは事情を察してかそれでも何ひとつ文句は言わなかったし、わたしだって迷惑なんて絶対掛けたくないから、心の奥底の弱音を無理矢理押し殺してかけがえのない時間を過ごす。
そんな短い時間で貪り合う愛情はたまらなく素敵で幸せを感じる反面、別れ際に交わす「またね」なんてさよならを聞いた途端、それはきゅんと切ない想いに変わる。メリーから与えて貰った甘い想いも、ぎゅっと抱きしめるとチョコレートみたいに溶けてしまう。
そのやさしい気持ちを、わたしはずっと感じていたい。貴女が伝えてくれる狂おしい想いを永遠に変えたいのに、何故かどうしてか上手くいかない。あの紫の話していた幸福論は嘘だったのか、その正しさを疑問視してあれこれと勘繰ってしまう時さえあった。
センチメンタルな想いはどうしようもなく果たしていくもので、お互いに想いを貪りあったらそれでお終い。所詮恋なんてそんな儚い夢物語で、中毒性の高い麻薬みたいな感情――後悔がなかったとしても、壊れてしまった心が元通りに戻らないこともまた事実だった。
メリーのことを想うとたまらなく愛おしいのにどうしても切なくなって、結局わたしは自分の考える最大の幸福論――つまりジサツに走りたくなる。
それはいけないと理性が歯止めを掛けるけど、甘い甘いアマイアマイスウィートな想いで蝕まれたばらばらの心の隙間を埋めるものがないと気が狂いそうだった。刹那を埋めてくれる快楽が欲しい、そうしないと頭がおかしくなって取り返しが付かなくなってしまう。
そしてメリーを壊れるほど抱きしめたくて絶叫した夜、わたしはそっとメスを当てて手首を切った。ぽたりと零れ落ちる血の涙は、自分がまだ生きていることをはっきりと感じさせてくれる。わたしの生はメリーのために……そう認識する手段としてのリスカは正しい。
ああ、また自分に都合のいい言い訳、あの紫がジサツした時と一緒だ――メリーの代わりに心を満たしてくれるものなんてあるはずがないのに、わたしはニセモノの快楽に逃げ道を求めてしまった。あれほど「やめて」と懇願されたのに、また同じ過ちを繰り返してる。
それからのわたしは全てがあの頃のまま。ちゆり先生の紹介状で受診している京都大学付属病院の精神科で処方されたクスリをかじりながら講義を受けるなんて当たり前だったし、会いたくて胸が張り裂けそうになるたびメリーのためと称しては左手に想いを刻み込んだ。
これはね、全てメリーが大好きだからやってしまうの。仕方ないことなんだよ。メリーのためだからね、メリーのせいなんだよ。そう、貴女と恋に堕ちてしまったから、わたしは完全に頭がおかしくなっちゃった。
そんな自分勝手でエゴ丸出しの思考が頭の中を支配してる。最初からわたしは壊れていたのに、その言い訳をメリーに押し付けているだけ。中途半端に狂って壊れてるから心が痛い。貴女はやさしすぎる、こんなわたしなんてぐちゃぐちゃにしてしまえばいいのにさ。
逆に分からなくなるよ、あれだけわたしのことを愛してくれているメリーがどうして今の状態で平然としていられるのか、全然理解できない。貴女だって恋に狂っているはずなのに、そうやって凛として振舞えるって絶対おかしいよ。
もしかしてもうメリーはわたしなんて好きじゃなくなったのかな。ううん、違うよね。それは絶対に違う。ただわたしが色々とだらしなくて、恋なんてクスリの副作用に耐え切れず、恋に溺れることができずもがき苦しんでいるだけ――
</Ghost memories>
やんややんやとにぎやかな音を立てながら、からくり時計が19時を告げる。
脳内にあれこれと浮かぶ記憶を遮るかのように、ふと後ろから少し幼い感じでわたしの名前を呼ぶ声が鼓膜を揺らす。
そのままゆっくりと顔を上げると、年齢20代とおぼしき黒いスーツを纏った背の高い男性がやんわりと笑みを浮かべて立っている。
ほのかに鼻孔をかすめる香水の匂いや顔立ちもそれなり、いかにも高級な背広を着てる辺り、あのぼったくり価格に応じた理由が何となく分かってしまった。
写メは会員登録制のプロフサイトに載せてあるし、リスカ実況なんかして顔晒しなんてとっくに終わってるから、すぐに相手はわたしのことに気付いたんだろう。
適当に挨拶を交わして条件を確認、了承して交渉成立。サポ――要するに援助交際するのは京都では初めてだった。そっと差し伸べられた手を握った瞬間、物凄く気持ち悪い汗が背中を伝って流れ落ちていく。
あからさまに心が拒絶反応を示していることが丸分かりで吐き気がした。それでも身体中を駆け巡る嫌悪感を無理矢理振り払って、見知らぬ男と京都の街へ繰り出す。
サポの相場が現在どのくらいなのか、わたしにはさっぱり分からない。ただ5万なんてありえない金額をふっかけてもしも三回成立すればバイトなんて一切しなくて済むし、生活費なんてあっと言う間に賄うことができる。
もうすっかり汚れたこの身体にそんな価値があるなんてこれっぽっちも思えないけれど、この空っぽになった心を満たしてくれるならどうでもいい。そう半ば自暴自棄になって募集したらすぐに声が掛かったので、バイトの方を休んで援助交際を選んだ。
メリーのことだけを愛しているのに、あまりにも愛しくて苦しいからメリーのことを忘れたくて、その代わりのニセモノの快楽で心を満たしてお金を得る。矛盾してるなんて重々承知の上、都合のいい考え方だって貶められたところでもうわたしは何も感じない。
ただ今にも砕け散りそうな心を何とかしたいだけ……汚らわしい行為に耽って存在の証明を為すって部分もあるし、メリーを狂おしいほどに愛してる今なら尚更愛しくなって自分が最低に思える気がした。わたしは虫けら以下のゴミクズだから、それがお似合いだよね。
紫と快楽を貪り合った時のように、ニセモノを本物だと思い込んでその場凌ぎができたらそれでいい。メリーの与えてくれる甘美な快楽を知ってしまった以上、キモい男と不純異性交遊に興じることができるのか疑問は残る。ただ行為そのものだけなら可能だと踏んだ。
わたしは京都に来て間もないのでデートコースはお任せします、なんて言うと男は満面の笑みを浮かべてあちらこちらと娯楽施設がひしめき合った京都駅周辺を案内してくれる。
週末と言うこともあり私達のような恋人らしきカップルが闊歩してて、きゃっきゃと猫撫で声で女の子がはしゃぐ様は見ているだけで不愉快。男はそれなりの礼儀はわきまえていてチャラい感じの話し方ではなかったけど、その言葉もとにかくわたしを苛々とさせた。
以前は完全に割り切ってたから、わざとらしくて自分で『寒い』とか思いつつも男が好みそうな感じで振舞うことができたのに、今は鳥肌が立つレベルの嫌悪感しか感じられない。好きでもない人間と腕を組んで歩くこと自体が、どうしようもなく不快で仕方なかった。
それでも無理して笑顔を取り繕って、男の言葉に関心してる風な相槌を打つ。こんなデートなんてつまんないだけだし、さっさとラブホに連れ込んで犯してくれたらいいのに。ただわたしはむなしいだけの最低な気持ちを抱えて、一夜限りの幻の恋人なんて道化を演じる。
あらかじめ予約してあったと言うレストランはいかにも値が張りそうな高級感溢れるフレンチのお店で、この男の素性が何となく垣間見えてしまう。
どうせ何ひとつ苦労しない裕福な家庭に育って、そのまま偏差値の高い学校に通って有名大学を出て一流企業に勤めているんだろうな、そんないい加減なことを考えながら男の話に辻褄を合わせる。
心底どうでもいい話が左から右に抜けていく食事の最中、わたしがふいに「ゴシックっぽい服が好きなんだよね」なんて口走ったら男が大喜びして、次のサポも必ず引き受けてくれるって約束なら服を買ってあげてもいいなんて言葉が飛び出した。
本当は自分で着ることが好きなんじゃなくて、メリーだとお似合いだよね――そんなニュアンスのつもりだったんだけど、会話の何処で齟齬があったのか全然意味が分からない。まあどうでもいいや、と思った途端――ふとメリーのことが頭を過ぎる。
メリーが着たら素敵だと思う服を選んで、それをプレゼントすれば喜んでくれるかな。服のサイズとか色々考えないといけないけど、適当に誤魔化せば何とかなりそうだし。その提案を胡散臭い素振りで喜ぶフリをして了承、私達は再び夜の歓楽街へ向かう。
高級ブティックが立ち並ぶショッピングモールの隅に、ゴシックロリータ専門店がひしめき合っている一角が存在していた。ショーウィンドウ越しに飾られた中世を思わせるお洋服の数々を、一応建前上男の意見も聞きながら見て回る。
その中でも特に退廃的なムード漂うお店『危機裸裸』で立ち止まって、此処のお洋服ならメリーに似合いそうだと直感で決めて店内へ。アンティークな色彩で統一された空間はバロック調のBGMが雰囲気を醸し出して、一点もののお洋服の魅力を存分に際立たせている。
三種の布地が派手にあしらわれた様がまるでアゲハ蝶に見えるワンピース。フレアの分量感が贅沢なシフォンのケープ。ウエスト周りを大胆かつエロティックに演出するスカート――メリーが着こなしている姿を想像するだけで、ちょっとだけ現実を忘れることができた。
男の「どれを着ても蓮子ちゃんはとても似合うよ」なんて超適当な意見を他所に、あれこれと品定めを開始する。とりあえず自分が試着しないといけないって事実は置いておくとして、ゆっくりと奥へ進むとしんとした店内でくすくすと静かに談笑する声が聞こえてきた。
ついそちらの方に目をやると、3人組の女の子がショーケースのエレガントなスカートを見ながら、楽しそうなお喋りに興じている。その中で一際目を引く、美しい黄金色の長髪をなびかせる紫色のシックなワンピースに身を包んだ子に、わたしの視線は釘付けになった。
――め、り、ぃ?
頭の中が完全に真っ白になった。こんな偶然で鉢合わせる確率なんて1%以下だと思っていたし、遊ぶなら四条の方へ行くんだとてっきり思い込んでいたから。
それ以前にわたしは心の何処かで甘く考え過ぎていたのかもしれない。知らないことはなかったことと同義で、バレなきゃそれでいい――嘘つきの詩人宇佐見蓮子を演じたり、あの閉鎖病棟で紫と身体を重ねた時のように、メリーに気付かれなければ何をしても許される。
そんな最低な思考が脳内にこびりついていた。今のわたしが胸に秘めた全ての想いは包み隠さず伝えてるのに、こと現実においては最低な事実を隠蔽し続けてる。それはメリーの想いが感じられなくて、つらくてつらくて耐え切れないから仕方なくしてる行為で……。
勿論ありとあらゆる綺麗事を並べて言い訳をしてみたところで許されるはずもないし、弁解の余地は何処にも残されていない。お金と刹那の快楽のためにニセモノの愛を売りさばく援助交際なんて、信じてる、愛してると誓ってくれた最愛の人に対する最低の裏切りだ。
やばい。逃げよう。逃げないと。早く。早くして。今すぐ逃げなきゃ。
本能は一瞬で即決したのに、わたしの行為を神様は黒だと結論付けたらしい。艶やかな長髪を見目麗しくふわり翻したメリーと目が合った。
そのアメジストをはめ込んだ美しい瞳には、今手を繋いでる隣のゴミも当然一緒に映し出されてしまって……全てにおいて完璧な美貌を織り成す端整な顔立ちが、唖然としてみるみるうちに悲しみに染まっていく。
一体自分がどんな顔をすればいいのか、分かるはずもなかった。ああ、もう取り返しが付かない、素晴らしき日々を夢見てたわたしの世界が終わる。途方もない絶望感が心の奥底からふつふつと湧き上がって来て、ばらばらになった心から真紅の砂が零れ落ちた――
「メリー!」
店内のゴシックな雰囲気をぶち壊す悲痛な叫びを上げた瞬間、メリーはびくんと震えるように身体をわななかせた後、店外に向かって猛然と走り出した。
貴女の姿なんてもう見たくない――その行動からは完全に拒絶された感じがひしと伝わってきて心がひどく軋む。メリーを愛する気持ちにはこれっぽっちの歪みもない、それだけはせめて分かって欲しい。
あはっ、分かってくれるわけないよ、だってわたし超最低だもん。そんなサイケデリックな『わたし』がげらげらげらげらと嘲笑う声が聞こえる。そんな最低なわたしもわたし、宇佐見蓮子でしかないんだから嫌われて当たり前なんだよ。
そんな悲観的観測しかできなかった頃の、今しかないって絶望してた過去のわたしの心音がうざい。とにかくどうしてこんなことになったのか、ちゃんとメリーに説明しないと――わたしは汚らしい男の手を無理矢理振り払って、急いでその後を追いかける。
必死の想いで飛び出した路上は、遊びに向かう学生や夜の仕事に向かうお水関係の類、居酒屋のビラ配りやカラオケ勧誘のバイトやらで相変わらずごった返していた。
わたしが追ってきてることに気付いてるらしく、周りの人々に幾度となくぶつかっても一切お構いなし。人混みで溢れ返る歩道のど真ん中をメリーは脇目も振らず精一杯の速度で突き抜けていく。
リスカのせいで慢性貧血気味のわたしにとってこの追いかけっこは地獄でしかなくて、すぐに身体がゆらゆらとして立っていることも間々ならなかった。それでも全ての力を振り絞って何とかメリーを捕まえようと、虫けらの群れに身体をぶつけながら走り続ける。
こんな雑踏の中だと何時見失ってしまうか分からない。はやく、早く捕まえないと、足枷で繋いでおかないと、監禁しないと、もう一生メリーに会えない、かも――そんなどうしようもない焦燥感に駆られながら、今にもふらついて倒れそうな身体を必死で押し出した。
――お願い、お願いだから、わたしの話を聞いて……。
わたしが全て悪いの。何もかもわたしのせいなの。それは分かってる、痛いほど分かってるよ。
わたしだって同じことされたら物凄くショック受けるし、今は会いたくないって感じてしまうと思う。
でもね、ちゃんと理由があるんだよ。それがメリーにとって理解しがたい感情だったとしても、せめて貴女にだけは聞いておいて欲しいの。
わたしの心がメリーを狂おしいほどに求めて止まないこと、そしてその事実が今のわたしを苦しめていること。分かってくれなくてもいいから、せめてその理由だけでも伝えさせてよ。
何を言っても言い訳にしかならないことだって分かってる。だけどわたしにはメリーしかいないの。ねえ、どうしたら許して貰えるの?
今わたしの想う全ては、どうしたらメリーにちゃんと伝わったのかな。ただ寄り添い合って何となくいいなって空気があって、ちょっと惚気合ったりして、甘い口付けを交わして、身体を重ねて、それだけでとても幸せだった。
それでも心の全てを分かって貰うなんて不可能かもしれない。全てを受け入れてまで愛するなんて言葉、あれはまやかしなんだよ。その点においてわたしもメリーも嘘をついた。どんなわたしだって受け入れてくれるんなら、どうして話すら聞いてくれないの?
ううん、そんなの戯言だ。自分に都合のいい言い訳をして、メリーのせいにしてるだけ。全部わたしが悪いんだから、ちゃんと誤解を招いた原因を説明して許して貰わないといけない。それができないなら、わたしは、わたしは――
走って。走って。走って、走って走って。息が切れるまで走り続けても追い付けない。
鮮やかな幻のような彼女は全く立ち止まることなくわたしを拒絶し続けて、出口のない迷路を彷徨うアリスの如くゆらりゆらりと人混みの間を縫っていく。
そして美しい黄金色の長髪が織り成す残像が、ふと路地端に折れて裏通りに消えた。その後に続くと、加速度的に進む振興開発から取り残された雑居ビルが立ち並ぶ通りが見える。その先は行き止まりで、逃げるあてがなくなったメリーはすぐ傍の建物に逃げ込んだ。
入居してるテナント名が並ぶ看板の照明は、赤青黄と点滅を繰り返してぼんやりとした淡い光を放っている。意味不明な英単語にスナックやらBarなんて添えて書いてある辺り、どう考えても若者のたまり場的な娯楽テナントではなくて中高年向けの隠れ家的なイメージ。
行き当たりばったりでわけも分からずメリーが逃げ惑っていることは明白だった。あからさまに古びた時代遅れの産物から漂うお酒とお金と性の臭いを嗅ぎながら、今時珍しい手押し扉をぐいっと開いて人気の全く感じられない屋内に入る。
しなびた入り口に設置されたエレベーターを待つ余裕なんて勿論持ち合わせてなくて、近くにあった階段をひたすらに上へ上へと登り続けるメリーを無我夢中で追い駆けた。
かんかんと廊下を蹴る甲高い音が耳鳴りとなって、貧血でふらついた頭の中にこだまする。息は途切れ途切れで完全に酸欠状態、苦しくて倒れ込んでしまいそうだったけれど、それでもわたしはどうしてもこの気持ちを伝えないといけない。
その想いだけを糧にして、何階建てかも分からない雑居ビルの階段を必死で登っていく。途中で蹴り飛ばされた『立ち入り禁止』の看板以外は障害物もなく、ただ無心で足を動かす。そのまま朦朧としてくる意識を必死で繋ぎ止めて、ばんと屋外へと続く扉を開け放った。
ビルの屋上は出口の真上に給水塔があるだけで、あちこちに水溜りが散乱してる他はフェンスすら見当たらない。ごうごうと夜の街特有の臭いを含んだ風が吹き荒ぶ中、平べったい空間のちょうど端の部分でメリーが怯えながら立ち尽くしている姿が見えた。
あれだけ全速力で走ったせいか、思いきり肩で息をしている。その『来ないで』と訴えかけるように身体を震わせる様子は、はっきりと拒否されてるとしか感じられなくて心が痛い。それでもわたしは落ち着いてる風を装って、ゆっくりとメリーの方に近付いていく。
「……今は顔を合わせたくないの。ひとりにしてよ」
京都の喧騒が遥か彼方でうわんうわんと響き渡るだけのしんと静まり返った空間で、息も絶え絶えなメリーが声を振り絞って言葉を紡いだ。
絶対に聞きたくなかった拒絶の言葉にひどく心が疼く。それでたとえ耳を貸してくれなかったとしても、わたしがどうしてあんな行為に走ったのかちゃんと説明しないといけない。
やさしいメリーのことだから、全ての事情を把握してくれたら許してくれる。今はただ、そう信じるしかなかった。信じさせて欲しかった。神様がいるのならば、どうかこの想いをそのままメリーに届けて欲しい。
「あれはただのサポだから全然愛なんてなかった。あの男とも初めて会ったし、ただディナーを一緒に食べただけ。わたしがメリーを愛してるって気持ちは、何ひとつ変わらないよ」
「あんな風に他の男と惚気てる蓮子のこと見せられてそんな簡単に割り切れるわけないでしょう!? 初めてのデートの時だって援助交際なんてしてないって言ってたのに、これはずっと私に嘘をついてたってことなんだから!」
あの気品溢れる美しい声色が、怒号のようなヒステリックな口調でわたしを責め立てる。
嘘つきの詩人宇佐見蓮子としてのメッキが剥がれた今のわたしは、そんなメリーの言葉に対して全くの無力だった。
もうバレてしまった以上は仕方ないと諦めることができたら良かったんだけど、あいにくそんなさっぱりとした性格なはずもない。
貧血で眩暈がするし意識朦朧、完全に頭が真っ白になって、何と声を掛けたらいいのか全然思い浮かばなかった。
どうしたらこの想いを伝えられるのかな。どんな言葉を掛けてあげたら、この心に渦巻く感情を理解して貰えるのかな。
此処で胸を切り開いて心臓を見せたところで、今もわたしが狂おしいほどにメリーを愛してるなんて証明を為すことはできない。
ただ寄り添い合っている時に何か素敵だねって感じられるような、言葉にしなくても分かり合える関係だと思ってたのに――私達のロマンスは所詮恋愛ごっこ未満。
最低。超サイテー。クズ、ビッ○、さっさと死ね。ジサツしようよ。そんな破滅的な思考ばかりが頭を過ぎって、今のメリーに打ち明けるべき想いが見つからなかった。
「……ごめん。本当にごめんなさい。いずれ必ず話さないといけないとは思ってた。でも、怖かったの。今も、怖い。メリーに嫌われてしまうことが……」
「それならどうしてあんなことしてたのか、尚更理解できないわ。私のことを愛してくれて、絶対嫌われたくないなら、あんな行為に走る理由が分からないし分かりたくもない!」
「うん、そうだよね。分かるはず、ないよね。分かって貰えるわけ、ないよね。ただ、わたしは、あまりにもメリーが愛しくて、それなのに、会えないから……心の中で足りなくなった想いを満たすために、あんなことをした。本当に、本当に、たったそれだけの理由なの」
「そうやってニセモノの想いで誤魔化そうなんて、単なる私への裏切りでしかないわ。それは絶対に許せないし、どうして一言相談してくれなかったの? 嗚呼、私は、私は……こんな下衆な行為で済むような汚い想いしか蓮子と共有してなかったってことじゃない!」
華やかな歓楽街のネオンに照らされた美しい緋色の瞳から、希望を失って透明に輝く涙が真っ白な肌をゆっくりと伝って零れ落ちた。
収まることのない浅い呼吸を繰り返して、時々嗚咽のような音を漏らしながらメリーの悲痛な叫びが延々と続く。その絶望が痛いほどに伝わって来て、心が言葉にならない悲鳴を上げた。
大学生活が始まってメリーとの甘い日々が続けば、今までわたしの犯してきた罪は全てリセットできる。そんな夢物語を心の何処かで描いてたのかもしれない。ただそれは全て理想論で、感情論でしか行動できないわたしは償いきれない罪を犯してしまった。
メリーの凛とした声が紡ぐ言の葉なら、どんなことでも受け入れる。そう心から想ってはずなのに、今は耳を塞ぎたくてどうしようもなかった。ずっと私達が大切にしてきた想いを否定するなんて過ちは、恋に溺れて壊れるって幸福論を否定することと同義だから。
繁華街特有の欲望と性に塗れた臭いが充満する雑居ビルの屋上で、わたしは棒立ちしたまま次の言葉を発することすらできない。
それに業を煮やしたのか、はたまたわたしを徹底的に追及しようと思ったのか、いきなりメリーがこちら側にとたとた走って近付いて来た。
大きな瞳からぽろぽろと溢れ出す涙の雫が春の終わりを告げる風に浮かんで、宵闇を駆け抜けるシューティングスターが絶望を想ってきらり光る。
そして怒りに身を任せる勢いで、突然わたしが持っていたエルメスのバッグをひったくるように奪った。あっと言う間の出来事に抵抗することもできず、ただ唖然とするしかない。
悲しみに包まれたメリーの自暴自棄になった鬼気迫る形相は、罪と罰、憤怒と苛立ち、戦慄と怯え、悲観と後悔、懺悔と悔恨、そして途方もない絶望を感じさせるには十分過ぎた。
わたしは為す術もなく、ただ許しを請うためにその場に立ち尽くす。小さなバッグを開いてがむしゃらに中身を取り出していくメリーの様子をじっと見つめていると、あの凛として可憐な音色とは程遠い底冷えのする声が鼓膜に響き渡った。
「……これ、何?」
どうしようもなく嫌な予感が、心の中でざわざわと音を立てる。
バッグの中から取り出されたものは、クスリが入った試験管だった。
「クスリ、だけど」
「どうしてこんな大量に必要なの? 基本的に一日毎食後一錠が常識なのに?」
「シートから取り出すのが面倒だから、あらかじめ取り出して持ち歩いてるだけだよ」
「ふーん。それなのに随分多いのね」
メリーは抑揚のない口調でそう呟くと、いきなり色とりどりの試験管を力一杯地面に叩き付けた。
ばらばらになって散乱するステンドグラスと錠剤が歓楽街のネオンに反射して淡いヒカリを放つ。
その残骸を心底恨めしそうに見下しながら、凍える声が吐き捨てるように言葉を紡ぐ。
「嗚呼、これは知ってる。日本では合法だけどレイ○ドラッグとしてアメリカでは禁止されてる薬。確かロヒプノールだったかしら。睡眠薬なんて自宅で飲めばいいのに、どうして持ち歩く必要があるの?」
「今日はその……言いたくないけれど、あの男と寝るつもりだったから。すぐ忘れたいでしょ、嫌なことなんてさ。それに、だってメリーが大好きで、愛してるから、その……」
「そんなことは聞いてない。どうしてこんなに大量の薬を持ち歩く必要があるのか、それについて訊ねているんだけど。これも援助交際と同じように答えられないんだ。私には言えない隠し事なのね」
「違う、違うよ。わたしはメリーに言えないことなんてないし、隠し事なんて……この心に秘めた全ての想いを曝け出す覚悟は、メリーと変わらない――」
必死に弁解するわたしの言葉なんて全て無視して、凍て付いた声色が残酷に黒を告げる。
「嘘つき。それならどうして『この薬は大量に飲み込んで頭をおかしくするために持ち歩いてます』って素直に言えないの?」
あの初めてのデートを楽しんだ時から、今のわたしは何も変わっていない。そのことをメリーは問い詰めたいんだ――この持ち物検査が意味することをはっきり理解したところで、もう事態は取り返しが付かない。
卯酉新幹線のホームで別れ際に誓ってくれた「信じてるから」って言葉には、当然『いけないことは全てやめてくれるよね?』ってニュアンスが含まれていた。勿論そんなことはわたしも承知の上だったはずなのに、この心が貴女の想いを欲してどうしようもなく……。
きっと多分メリーは恋人関係になったら、あらゆる物事はわたしが自らの手で全て解決すると心の底から信じてくれていた。そんな気持ちをずっと揺らぐことなく持ち続けていてくれた最愛の人に対するわたしの裏切りは、万死に値すると言っても過言ではない。
そのクスリは全てオーバードーズ用でラリっちゃうために持ち歩いていました。そう懺悔すれば許して貰えるのかな。そんなわけない、メリーは許せないんだ。わたしのことが、何もかも許せない。だから今その怒りを、心の赴くそのままにぶつけている。
ああ、こんなのイヤだ。絶対にイヤ。どうしたらわたしは許されるのかな。
許してくれるんだったらなんだってメリーの言う通りにするからお願い。こんなわたしをどうか、どうか、許し、て、許して、よ。
メリーの想いを自分から無碍にする行為をしておいて今更許しを請うんだ。プライドもへったくれもないね――げらげらげらげらとサイケデリックなわたしが笑う。そんなもの、最初から持ち合わせてない。わたしはメリーのためだったら何だってする。
全然できてないじゃん。最初から彼女に相談すれば良かったのに、相手の都合考えちゃう時点で狂ってるとは言わないんだよ。欲しいものがあるんなら無理矢理奪ってしまえばよかったのに、ぐだぐだと現実でいい子ちゃんを演じようとするからこんなことになった。
メリーを最初から拉致監禁してお気に入りのオートクチュールになるまでちゃんと調教してあげたらよかったんだよ。わたし好みの素敵なラヴドールに……そんなこと、メリーだって都合があるのに、できるはずがない。私達はただ、ありふれた恋人同士でいたかった。
戯言だね。最初からいい子どころか虫けら以下のゴミクズで最低、それが宇佐見蓮子と言う存在だったのに馬鹿馬鹿しい。うるさい、うるさい! お前なんかさっさと死ね。早く死んで。そうだよ、もうわたしは死ぬしかないよ。だってメリーに嫌われちゃったんだから。
――恋に溺れて壊れてしまう。メリーってクスリのジャンキーになって淫らに笑うわたしの末路がこれ?
結局のところわたしは虫けらになることもできず、ただ一時的に快楽を与えられて狂ってただけだったのかな。
メリーのフェイクである八雲紫と言う存在が説いた幸福論、あれ自体がニセモノでわたしはそれを掴まされた。まんまと騙されたんだよ。
幸せなんて命を授かった瞬間からどのくらいの割合で享受されるか決まっているから、それを楽しんだ後は苦しみしか残らない。
それがこの世界における絶対不変の真理で、たとえ神様であろうともそのルールに抗うことはできないように仕向けられている。
叶えられた希望の対価として支払うものは絶望でしかなく、その痛みをなぶり殺されながら延々と味わうくらいなら、いっそ死んだ方がマシ。
ああ、わたしの考え方は何も間違っていなかった。ジサツすることが、この世界における唯一の幸福論だって――
「蓮子、これ」
わたしは呆然として何も答えられず、暴かれた事実をただ受け止めるしかなかった。
そんなぐちゃぐちゃになった思考を遮って、ふいにメリーの冷めきった声が強制的に意識を振り戻す。
「……あ」
「開けて。中身が見たい」
その小さなてのひらには、リストカット用のメスが入ったナンバーロック式の小さな箱が乗せられている。
またひとつ、メリーとの約束を破ったことを証明させられてしまう。薄ら寒い悪寒が、背筋をナメクジのような速度で流れていく。
「イヤ。それは、ダメ、駄目なの。お願い、お願いだから、メリー、もう許してよ」
「これも隠し事なのね。私に言えないことばかりで、ずっと嘘の自分を演じ続けて……」
「……どうして、どうして、今日のメリーはおかしいよ。どうしてこんないじわるするの?」
「全てを曝け出す覚悟があるのなら、何が入ってるのか見せるなんて容易いはず。そもそも嘘をついているのは蓮子の方でしょう?」
わたしの想いは決して嘘なんかじゃない。
メリーを愛してるわたしは間違いなく此処にいて、今も貴女を愛し続けてるよ。
この箱を開くことでそれが証明できるならいいけど、今の貴女がやっているこれは有罪確定してる魔女裁判と一緒だ。
ただわたしの罪を暴き、全てを断ずる。そうしないと気が済まないのかな。もうわたし、わたし、こんな想いしたくないよ……。
「許して、許して、よ。もうわたし絶対にしないから、メリーのためなら何でもする、だから、お願い。わたし、もう、許して……」
「どうせ今の台詞も嘘になるのね。この中には私に見せられないものが入ってる。きっと蓮子の心の中にも同じように、私には教えられないことがあるんでしょう?」
「……そんなこと、ない、よ。やだよ、もうこんなの、やだ、ぁ」
三桁の番号を合わせると、かちりと音がして鍵が開く。
その箱を受け取ったメリーが、中身を取り出してそっとかざして見せた。
月光に反射して煌くメスの刃が、大粒の涙を浮かべた私達の姿を交互に映し出す。
その表情は途方もない絶望に包まれていて、見るに耐えられない。
「メス、ね」
メリーは何の抑揚もない声でそう呟くと、突然わたしの左腕を強引に引っ張った。
そのままワイシャツの袖をぐいっとたくし上げて、リスカの痕だらけの腕を晒す。
そして手首の近く、ガーゼの張ってあった箇所も躊躇なくべりべりと剥がしてしまう。
「あ、やだ、やめて、やめてよ!」
「これはいつ切ったの?」
「違う、それは……」
答えられなかった。
答えられるはずもないし、嘘をつけるはずもない。
もはやわたしには何も残されていなかった。
「何が違うの? これはリストカットした傷じゃないの? このメスで切った傷痕。違うかしら?」
「……お願い、こんなのやめようよ。わたしが悪いの。分かってる。全部わたしが悪い。だから、許して。お願い、許してよ」
「また嘘をついてたのね。あの時私達ちゃんと約束したのに……もうリストカットだけは絶対やめて欲しいって懇願したら、蓮子は『約束する、もう絶対しないから』って言ってくれた。でも、あれも嘘だった」
「わたし、わたし……一秒でもメリーの想いが欠けたら生きていけないの。だからニセモノでも埋め合わせていかなくちゃどうしようもなかった。クスリもリスカもサポも全部そんな手段に過ぎないの。心は、ちゃんと、めりぃのこと――」
「その恋焦がれてた人にこんなことされたら、一体どんな気持ちになるか蓮子は全然分かってない。信じてた人に裏切られる気持ちも、何もかも分かってないわ。要するに最低、そういうこと」
心が痛い。心が痛い。心が痛くて、痛くて……。
他人だったら、どんなに罵られて貶められようと、最低だと言う評価が付いても構わない。
ただ、最愛の人に、今も愛して止まないメリーに『最低』って見捨てられるなんてイヤだ、イヤ、イヤ、絶対イヤ!
そして否定のしようもなく、その最低な部分の全てを愛する人によって暴かれる気分も最低。最低最低最低最低最低。
最低の気持ちを抱いて最低の方法で日々を過ごす宇佐見蓮子は最低。最低。最低最低最低最低最低最低最低最低最低サイテー。
わたしはメリーから見てもその言葉の意味が示す通りでしかなく、この世界から下された確実な評価になってしまった。
「ごめん、ごめんね。わたし、わたし、メリーの想いが欲しいからって物凄く自分勝手で……最低の行為ばかり繰り返してる。貴女のフェイクの人格とxxxまでした。最低だよね。最低、わたし、とんでもないクズなんだよ」
「そう、それで私がいない間、本物の私じゃない『私』を愛してやり過ごしてきたのね。確かに蓮子の言う通り、貴女は最低。分かるかしら、今の私の気持ち。ずっと愛していた人が傷付く様を見ていることしかできず……嗚呼、そうね、蓮子も味わってみる?」
そんなことを言っていびつな笑みを浮かべたメリーが、突然手に持っていたメスを自分の左腕に添えた。
ちょうどわたしが昨日切った部分と同じ箇所にあてがわれたメスは、恐怖におののいてわなわなと震えている。
それでもこうしないと分かって貰えない、そう言わんばかりにおぼつかない刃先を押し込もうとした瞬間――無意識のうちに身体が勝手に動いて、わたしはその手からメスを無理矢理奪い取っていた。
かんかんと音を立てて、月光を浴びて光る刃先から転がっていく。その様子を虚ろな視線で見送りながら、メリーは震えた身体を自分でぎゅっと抱きしめた。
「そうやって止めたくなる気持ちと一緒なのに、どうして蓮子は分かってくれないの? 自分を傷付けることがどれだけ他人の心まで傷付けてしまっているって……」
メリーがリスカする姿なんて絶対見たくない。
全部自分に置き換えて考えたらすぐに分かる理屈なんだよね。
わたしがリスカしてること、想像するだけでつらいんだよね。
そうやってわたしの代わりに、ずっと泣いてくれてたんだよね。
オーバードーズだってそうだし、援助交際だって……もしもメリーが見知らぬ男と寝てるとか知ったら、多分わたしは発狂してしまう。
そんなつらい想いを、わたしは散々メリーに押し付けてきた。それは最低だと言われて当然だし、嫌われてしまっても何の文句も言えない。
「……ごめんね、本当にごめんなさい。許されないことだって分かってる。何を言ったところでわたしが最低だってことは覆らない。それでも懺悔するしかないの。貴女のことが好きだから、メリーのことを愛しているから、愛されたいの、まだ……」
ばらばらになった想いを吐き出した途端に身体の力が抜けてしまって、わたしは壊れた玩具みたいに崩れ落ちた。
コンクリートに打ち付けられた箇所の痛みすら感じられず、ただ今はメリーから嫌われたと言う事実だけがひどく心を蝕む。
そんな姿を見たメリーが、ゆっくりとわたしから離れていく。美しい金色の髪をなびかせながら、フェンスのない屋上の端の部分へゆっくりと歩を進め始める。そしてその先に広がっているくすんだ空を見上げてから、再びこちらを振り向いた。
この心の全てを射抜いた緋色の瞳が、じっとわたしを見据えている。目尻に溜まった大粒の涙がビルの真下から吹き上げる風に飛ばされて、きらきらと光るアンドロメダのように煌いて見えた。その美しい星々が告げる。これで私達はお終い、この世界はもうお終い――
「……私だって、貴女と同じ想いを抱いて過ごしてきた。蓮子と会えなくて寂しい夜が続くと、気が狂いそうだったもの。それでも、信じてた。蓮子のこと、信じてたから……此処まで何も言わず我慢してた。だけど、もう何もかも終わってしまったのね」
大通りから離れた雑居ビルは気持ち悪いほどに静まり返っていて、先程の狂騒と共に蔑むメリーの声とは裏腹な絶望に包まれた音色が屋上に響き渡った。
その言葉の意味は今更語るまでもなく、あの卯酉新幹線のホームの別れ際に交わした会話から感じられた狂気に満ちた想いがひしと伝わって来る。それがたまらなく愛しいから、わたしはやっぱりメリーを心の底から愛してて、どうしても貴女にすがることしかできない。
だけどもうわたしの想いは、メリーまで届かないような気がして心が張り裂けそうだった。今すぐ抱きしめてあげたいほどこんな傍にいるのに、もう宇佐見蓮子にはそんな資格なんてない。小指に結った運命の紅い糸が、音もなく解れてゆらり宙に舞う。
「そんな想いだって一緒だったんだよ。わたしがメリーを愛する気持ちは――」
「蓮子のことが私の全てだった。貴女に愛されない私なんて、何の価値もないお人形さんと一緒。そんな私が生きてる意味ってあるのかしら。ねえ、蓮子。教えてよ。貴女を愛せない私が生きる意味って何?」
ああ、きっとわたしとメリーの心の痛み、センチメンタルな想い、狂おしいほどの愛しさ――その全ての想いがきっと同じ形をしていた。
少なくともメリーは紫が説いたあの幸福論を忠実に履行してわたしを愛してくれていたからこそ、ずっと会えない発狂しそうな日々を何とかやり過ごしてきたのかもしれない。
心の中に残る幸せのほのかを糧にして、繋いだ想いをずっと信じ続けていた。そんな大切な絆をばらばら破壊してしまった張本人はわたしに他ならなくて、愛されていないと勘違いしたメリーは絶望に打ちひしがれている。
恋に恋焦がれた人に愛されない自分には存在意義がない。そんな完全に狂った状態でメリーは平然と生きてきた。それはわたしには勿体なさすぎる幸せだと気付いて、刹那の快楽に走ることなく想いを素直に曝け出していたら、こんな未来には絶対ならなかった。
わたしは今でも間違いなくメリーを愛してる。それこそ狂おしいほどに……この色褪せていく世界で鮮やかに色付いたままの親愛なる貴女への想いを伝えることは、もう叶わぬ願いになってしまったのかな。
声を枯らして叫んだところで、それは反響を繰り返すだけでメリーの心には響かない。ふたりを重ねていた偶然は此処で終わりを告げて、そして未来を想って繋いであった絆は綻び断線。わたしの最初で最後の恋、唯一の希望がこんな終わり方なんてひどすぎるよ。
結局この世界に生きている人間は、強制的に科せられた絶望と言う罪に抗うことはできなくて、夢を叶えてくれる魔法や幸せになるための奇跡なんて何処にもない。こんな想いをしてまでどうして人間は生きる必要があるのか、わたしは分かったようなフリをしてた。
恋も所詮妄想リアル。メリーと戯れた日々は甘いリアリティだったけれど、その鮮やかな幻に惑わされた夢は妄想として途絶えようとしている。そして残されたものは、悲しみと不幸だけが溢れ出す残酷で無慈悲な現実――それが今わたしの感じている『世界』だった。
「違う、そんなの絶対間違ってる! わたしは、わたしは、ずっと、いつまでも、死ぬまでメリーを愛してる。その想いだけは嘘じゃない。信じてよ、めりぃ……」
「……もう私ね、信じられないの。蓮子の言ってることは正しいと想う。でもそれが分かってても、信じられないなら無意味なの。あれだけ想いを馳せた貴女の詩が、心に、響かなくなって、生きてる気がしない」
くすんだ空気と宵闇の中でさえ輝きを失うことのない美しい黄金色の髪の毛が、ビルの谷間から吹き荒ぶ風になびく。目鼻立ちのくっきりとした凛々しい美貌は長髪に覆い隠されて、その表情を窺い知ることすらできない。
がくんと泣き崩れたまま跪き、透明な血を吐いて許しを請うわたしの姿は、その美しい瞳には映し出されていない気がした。恋に溺れて壊れてしまったメリーにとって『わたし』が感じられないと言う事実は死と同様の絶望を意味する。
心がひどく軋んで鳴り止まないほどに張り裂けそうな想いがしかと伝わって来て、自分の犯した罪が重く圧し掛かった身体は全く持ち上がらない。今、わたしは、全てを捨てて、めりぃに、この想いを、あいしてる、と、伝えなくちゃ、ならないのに……。
あの小さな頃に死んだ『わたし』なら、貴女を慰めてあげることができたのかもしれない。希望的観測を以ってして鮮やかな未来を夢見る、この残酷な現実を美しく彩る蒼の『わたし』が書いた詩で――だけど時間は無常にも過ぎ去って、わたしは大人になってしまった。
どしゃ降りの雨風に晒されて泥水を浴びせかけられたわたしの心は汚れきってしまって、いつしかリストカットの痛みを感じなくなることと同じように、メリーから与えられた愛情の意味すら分からなくなってしまったのかもしれない。
何処までも純真無垢で美しいイノセンスを感じさせるメリーの心はそれと全く正反対のもので、ずっとわたしの想いを信じてくれていたから素敵な幸せがあった。そんな当たり前のことに気付かなかった宇佐見蓮子と言う存在の愚かさは呆れてしまうにも程がある。
私達が何処ですれ違ってしまったのか今更理解しても後の祭りだけど、メリーは間違いなく愛に溺れて壊れてしまっていた。だからこそわたしもその想いをちゃんと察して、やさしく、やさしく、サディスティックにメリーを愛してあげていたら全ては解決していたはず。
其処で綺麗事を並べて想いを押し殺したせいで自分自身も満たされなくてこんな行為に走って、その結果メリーを絶望の奈落へと突き落とすことになった。でも、わたしの想いは変わらないんだよ。今も、そしてずっとこれからも、この命が尽きるまで想いは変わらない。
お願い。お願いだから、わたしの想いを感じて欲しいの。この心臓で綻ぶ美しい薔薇は、貴女が咲かせてくれたものなんだよ。今わたしが抱えてるメリーの想いで咲き誇った幻想の花束、貴女が微笑んで受け取ってくれたら必ず私達は狂おしく愛し合えるはずだから。
「……どんなわたしでも受け入れてくれるって言ったんだから、もう一度だけでいいからチャンスを与えて欲しいの。もう絶対こんなことしないから、お願い、お願いだから!」
「蓮子の想いを感じられなくなった私には存在の証明が見当たらないわ。蓮子に愛して貰えない私に意味や価値なんてこれっぽっちもないの。蓮子から愛されない私なんてゴミクズなんだから、それって要するに――この世界で生きる意味がないってことでしょう?」
「そんなこと絶対にない! わたしがメリーを想う気持ちは何も変わらない、それは絶対嘘じゃない。ねえ、信じて。信じてよ。お願い、お願いだから……全部わたしが悪いの。メリーが自分を責める必要なんて何処にもないんだよ。だからそんな悲しいこと言わないで!」
まるで独り言のように絶望の理由を自答自問する姿はもう見るに耐えられなくて、この身体が動くなら今すぐでもメリーをぎゅっと抱きしめてやりたかった。
ゆらりなびく向日葵色の髪の毛の間から覗くアメジストの瞳は虚ろ、その視線の先は遥か彼方のくすんだ空を薄らぼんやりと眺めている。美しい幾億の星々が煌く夜空に儚い夢を祈るその姿は、在りし日の記憶とデジャヴしてしまう。
その言葉に隠された想いや思想の類は、わたしがメリーを愛する前から恋に堕ちるまでの間――ずっと想い描いていた幸せの形と綺麗に重なっていた。嘘つきの詩人宇佐見蓮子が謳うカタストロフィに基づく幸せなんて、美しい白の世界を描くメリーには絶対似合わない。
絶望とは幸福の中で溺れることを覚えた人の特権である。そんな悟りをうそぶいていた頃の幸せを知らないわたしだったら、今のメリーを見てげらげらげらげらと嘲笑うんだろう。
あのサイケデリックなわたしが絶望に憧れていた理由は、幸せなんてものは花が枯れるように散ってしまう刹那だから、それならばいっそのこと知らない方がマシなんて諦観から来る架空の喪失感だった。
希望と絶望のバランスが不可思議な調和を保っているこの世界において、幸せなんてものを知ること自体が自業自得――そんな負け犬だったからこそ、わたしはふと舞い込んできたメリーの想いから感じるものが世界の全てだと思い込もうとした。
メリーに愛されないわたしに存在価値はない。メリーに愛して貰えないわたしは幸せに成り得ない。メリーに愛されないわたしは何の価値もない虫けら以下のゴミクズ。メリーに愛されないわたしは、この世界で生きている意味がない。
そんな破滅的思考は綺麗に自分自身の思想と置き換えることができる。わたしの幸せとメリーの幸せがイコールになってしまった時点で、私達はもう完全に狂っていた。そんな神様の愛する幸福論が導き出すメリーの想いは、きっとわたしと変わらない。
イヤだ。
神様、助けてよ。
そんなの、絶対にイヤだ。
神様、お願い。一生のお願いだから。
消して。
消して。
メリーの記憶を今すぐ消して。
東京のこと。あのデイケアで出会った瞬間から、今日までの全て。
夢と忘れさせてあげてよ。わたしのことなんて忘れさせてあげてよ。
もうこれ以上メリーにつらい想い、させたくないの。わたしの存在の証明は必要ない。お願い、お願いだから、どうか、どうかメリーの記憶を――
「感じられない想いなんて、なかったことと同じよ。蓮子から愛されない私は、もう生きる理由がない。だから、さよなら」
メリーが『またね』のない別れを告げた瞬間、ごうごうと鳴り止まない風が美しい金色のカペラを織り成す髪をさらって、端整な顔立ちがくっきりと露になった。
美しい真紅の瞳から零れ落ちる大粒の涙がきらり空想の未来を想って光り輝いて、絶望に包まれた表情がふっと微笑んでわたしを見据えている。そのままくすんだ夜空に背を預けたメリーの身体はゆらり宙を舞い、歓楽街のネオンに照らされた闇夜に消えていく。
まるで夢から覚めた気分だった。わたしが名付けたメリーと言う美しい名前を持つ人と愛し合う甘い日々は夢物語で、目覚めてみればどうせそんな幸せなんて存在しないと思い込んでる残酷な現実。ずっと夢を見ていたい、そう願うわたしもいつもと変わらなくて……。
夢現の区別が付かなくておかしくなりそうな頭の中を必死で整理してみても、今わたしの目の前で起きた事実は決して覆らない。親愛なる人がビルから飛び降りたところで、世界は何事もなく回り続けている。人ガ死ンダ、たった、それだけ、の、はな、しだから。
ねえ、うそ、だよね。うそ、うそだって言ってよ。
めりぃ、聞こえてるなら、ちゃんとわたしの言葉に答えて。
こんなの、信じられるはず、ないよ。めりぃが、ジサツ、とか、そんなこと、ありえないよね?
声にならない声を上げてぱくぱくと口を動かしてみても、答えは返らない上の空。歓楽街の喧騒も遥か遠く、しんと静まり返った屋上に取り残されたわたしはひとり、突然目の前から消えてしまった最愛の人のことを想ってみる。
そんな頭の中に浮かぶ記憶は夢としか思えなくて、現実味がまるで湧いて来なかった。今此処に残された事実から無理矢理目を背けようとしても悪足掻きでしかない。メリーはビルから飛び降りてジサツした。ジサツ、ジサツした、ジサツ、メリーはジサツした。
刹那の快楽の対価としてメリーの命を奪った犯人は宇佐見蓮子です。恋に狂ったメリーに与えるクスリを散々お預けさせて一方的に快楽を貪り放置した挙句、彼女の心をばらばらにしてジサツするように仕向けました――そう、これはわたし自ら手を下したジサツなんだ。
――ジサツしためりぃは間違っていないよ。ダッテ彼女は幸セになるために死ンダンダヨ?
不思議と凪いでいたはずの幻聴幻覚妄想の類が、今頃になってぎゃーぎゃーと大声で騒ぎ始めた。
サイケデリックなわたしの嘲笑は止まることなく、わたしがずっと信じて止まなかったジサツと言う形を肯定しようとする。
ジサツ、そしてこのくすんだ空に還る、それがわたしの想う幸せ。ただメリーはそんな幸福論を忠実に実行したってだけのお話。
あんな風に空に溶けてしまうことでこの世界の限界を超えて、美しい幻想の花が咲き誇る誰も知らない場所へ旅立つ。
成立しなくなった幸福論にすがっていても何の意味もないんだから、何を考える必要があるのかな。今ジサツを遂げてメリーは幸せになった、たったそれだけの話だよ。
何故メリーが幸せになったことに対して、そんな無意味な抵抗感を抱くのかな。わたしが想う最善の方法で最高の幸せを、たった今この瞬間メリーは手に入れたのに、どうしてそんなに悲しむの?
お前は狂ってるんだ。わたしが狂ってるなんて最初から知ってるじゃん。
うるさい、死ね。お前なんか死ね。心の中で感情を押し殺して、零のナイフでサイケデリックなわたしを切り刻む。
わたしの想うジサツそしてその他諸々の理由が、そのままメリーにも当てはまるなんて自分勝手な意見、ただの我侭、そして言い訳。
メリーの想う幸せは恋に狂うこと――その幸福論が崩れ去ったからこそ、わたしに絶望してジサツを選ぶしかなくなった。それが全ての理由で、今認めざるを得ない事実だから。
こんなどうしようもないわたしを想ってくれていた気持ちは最期まで途切れることなく、その美しくも狂おしい矜持を抱き続けたままジサツしたメリーに、なんて声をかけてあげたらいいのかな。
ありがとうとか、大好き、愛してる、ごめんね……死者に手向ける言葉ほど無意味なものはない。わたしの親愛なるメリーが死んでしまった、その現実を受け入れたくない心が崩れ去っていく。わたしの愛していたはずの世界が、真っ白くなって消え去ろうとしていた。
めりぃ、こんなの、いやだよ。わたし、ずっと、ずっと……貴女のために生きてきたはずなのに、どうして、どうして、こんなことになっちゃったのかな?
わたしのせいなんだよね。全てわたしが悪いんだ。そのたまらなく素敵な想いを踏み躙ったせいで、貴女はわたしの声が届かない遠い場所に行ってしまった。
あのふたりで寄り添い合ってぼんやりしてる時間、愛してるなんて惚気、花のようなキス。その甘く切なくてきゅんとしちゃう想いを感じることは、もう二度と叶わないんだね。
そんなの、イヤだ。絶対にイヤ、戻ってきてよ。わたしは此処にいて、今も貴女のことを愛し続けてる。その美しい声で、またわたしの名前を呼んで。そして貴女が愛してくれたわたしの詩を読み聞かせてよ、その可憐なくちびるから、お願い、めりぃ、めりぃ――
「めりぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
虫けらでごった返す歓楽街の狂騒から遠いビルの屋上でいくら絶叫してみたところで、あの世界の限界を超えて空に還ってしまった貴女までは絶対に届かない。
ただひとり跪くわたしはどうすることもできず、ただくすんだ灰色の空を見上げることしかできなかった。時刻は21時04分59秒。その数字をちょっと巻き戻すと、わたしが飛び降りジサツを図った時間とぴったりだった。
運命なんてくだらない後付けの理由は、こんな時だけそれがあたかも予定調和的な素振りを見せるけれど、そんなの全く意味がない。この世界を作った神様は余程わたしを恨んでいるのか、絶対に幸せになれないように細工を施されてる気がした。
この世界は何処までも残酷で、ただ非情な現実をひたすらに突き付けてくる。こんな悲しみばかりの人生だったんだから、ほんの少しの奇跡くらい起こしてくれたって罰は当たらないと思うのに……そんな権利すらわたしには与えられていないらしい。
命によってばらばらに壊れてしまった宇佐見蓮子と言う人間は、命によって救われた。
そしていつか命は終わる、それ自体が希望だったから――最低の気分を抱いたまま、幸せになるための方法論を磨いて、絶望と妄想の切り貼りを繰り返す。
大人になんかなりたくない。そうずっと祈っていたはずなのに、あの日のジサツからわたしはいつまでも死ぬことができず、気が付けば最低な連中の仲間入り。
大人に近付けば近付くほど自分が最低になっていくから、そのうちジサツできるなんて勝手に妄想して笑ってた。朝が来るのがイヤだと散々泣き叫んだら、涙は何時の間にか枯れ果ててこれっぽっちも泣けなかったんだよ。
自分が生きていると証明するためにリストカットして血を流し続けてみても段々痛みさえ感じなくなって、見知らぬ男に犯されたところでただ汚れていくだけ。最期に体験したメリーとの恋だって、所詮その程度のことだったのかもしれない。
リスカと同じようにそのうち不感症になって、愛情が伝わらなくなったらお終い。愛に溺れて壊れるなんて幸福論は妄想の産物でしかなく、鮮やかな幻が見せた御伽噺に過ぎなかった。
きっと多分心の何処かでは、そんなことさえ分かってたんだと思う。
希望と絶望の差し引きは零――そんな世界の理に則って、零からマイナスに振り切れる機会をずっとわたしは待っていたから。
わたしの謳う幸せがジサツであると言う想いが揺らぎない限りにおいて、それを後押しするための最大限の幸福がメリーとの逢瀬だった。好きで、大好きで、愛して、愛し過ぎてつらくなって、その先には何もなく、後は堕ちて行くだけ……。
メリーも、そして紫も、わたしがジサツするように誘導したようなものだよね。わたしにとって貴女が死ぬことが幸せに繋がる、そう想ってた節があるのかもしれない。メリーのいなくなった世界なんて何の価値もないんだから、これ以上此処に留まる理由もなくなった。
それはわたしがジサツするには十分過ぎる理由。勿論こんなエンドロールなんて見たくもなかったけれど、メリーに嫌われた時点でわたしの存在意義は零になった。今しかないわたしに未来は必要ないんだよ。心も、身体も、この意識も邪魔、さっさと消えて欲しい。
わたし。
宇佐見蓮子。
存在の証明をロスト。
不思議の国のアリスはデッドエンド。
掴んだはずの未来は『めりぃ』と『ジサツ』で矛盾していた。
詩を書き綴る、天才だった頃のわたしは何処?
わたし。
宇佐見蓮子。
神のカルマ。
デタラメな日々。
あの日の詩を書いたノート。
今日と言う日まで貴女と過ごした記憶。
両手に抱えていたものはこれだけだよ。
存在の証明をロスト。
彼女の記憶をロスト。
未来は誰も拾ってくれない。
それでいいよ。
――安心して、めりぃ。すぐわたしも其処に行くよ。狂おしいほどに愛しい貴女を、絶対ひとりになんかしない。
空に還る。それはメリーと初めて出会ったあの頃からずっと願っていた夢だから――絶望に憧れるわたしが恋焦がれていたジサツのための理由を、素敵な矜持と共に貴女は残してくれた。
全てを暴かれたわたしに残されたものなんてたったひとつしかない。それはメリーから与えて貰ったかけがえのない素敵な想い……それが嘘じゃなく純粋なものであることを、今からはっきりと証明してみせる。
狂っていたのは貴女だけじゃなくて、わたしだって全く同じだったんだよ。ずっとわたしを信じてくれたメリーなら分かってくれるよね。貴女がいないこんな世界で生きる意味は完全に消滅した。そしてメリーに愛して貰えないわたしには存在価値なんてない。
ああ、めりぃ。めりぃ。めりぃ。めり、ぃ。貴女の名前を呼ぶだけで、その美しい想いがふわりコスモスの花びらのように舞い散っていく。
最愛の人が感じていた愛おしさや切なさ、悲しみや絶望、その抱えていた感情の全てが手に取るように分かる。わたしのせいで途方もない絶望を抱えさせてしまったことを、今此処でジサツと言う形で償わせて欲しい。
ようやくわたしは全てを捨て去って、親愛なる貴女のためにジサツする――なんて言えば聞こえだけはいいけれど、これはそんな綺麗事じゃない。メリーをジサツを追いやった罪は、わたしが死んだところで絶対に許されることではないから。
結局のところ貴女の生死に関わらず、メリーに嫌われてしまった時点でわたしのジサツは確定していた。たったそれだけの話なんだよ。ただ、わたしは、メリーに生きていて欲しかった。わたしなんかじゃなくて、他の人とでもいい、幸せに、なって欲しかった。
うそ。それも今更、エゴもいいところ。わたしが幸せにしてあげられたらよかったんだけど、やっぱりニセモノを演じることは無理だったみたい。ごめんね、メリー。本当にごめんなさい。愛する人をちゃんと幸せにしてあげられなかった最低なわたしは、わたしは――
水を打ったように静まり返っている首都の喧騒から遠く離れた屋上は、ジサツの瞬間を心待ちにしているサイケデリックな『わたし』のげらげらげらげらと嘲笑う心音だけが響き渡っていた。
崩れ落ちた身体をゆっくりと持ち上げて、一歩、また一歩とメリーが飛び降りた方向へ足を動かす。クスリなんて全く飲んでないのに、夢遊病患者のように足元がおぼつかなくてゆらりゆらりあちらこちらとふらついてしまう。
すすけた灰色の空に煌く星々が、世界の終わりを告げるカウントダウンを始める。瞬きの間に過ぎ去ってしまうはずの時間の経過が、やたら遅く感じられて気持ち悪い。あの飛び降りした時のスローモーションみたいな感覚に軽い眩暈がしてきた。
フェンスのないビルの縁に立って、これから落下する奈落をそっと覗いてみる。
無我夢中で駆け抜けたから気付かなかったけれど意外と高いビルで、少なく見積もっても20階建てくらい……ぼんやりとした光に照らされているものの、地上の様子は全く分からない。
メリーの死体が転がっているから大騒ぎになっていてもおかしくないはずなのに、裏通りの最奥のせいか全く人気がなく今のところは無人みたい。これからわたしは重力の作用で身体をぐちゃぐちゃにされて殺される。永遠に愛しき人の傍で無残な死体となって……。
ごうごうと吹き荒ぶ風が髪を撫でる感触が心地良かった。今のわたしには見える。あの夜空の彼方に広がる美しい世界が――其処で咲き誇る幻想の花になる、それがずっと昔からわたしが願って止まなかった未来だから。在りし日のわたしに帰ろう、還ろう、還ろう。
「あいしてる、めりぃ」
さり気ない一言、でも凄く大切で、その美しい名前を呼ぶだけで素敵な想いがにじんで、ふわり宇宙の風に乗って幾億の星々が瞬く宵闇へと消えていく。
あの空は私達が目視できる最も遠い世界。だけどそれを知ったところで、私達人間と言うものはかくも無力な存在だよね。例え星を見て時刻が分かっても何の役にも立たないことと同じで、事実を知ったところで問題が解決するかと言えば全然違う。
ああ、あの星が刻む時間を元に戻す魔法があれば、わたしはこの世界をやり直すのかもしれない。希望的観測を書き綴るわたしをやめることなく、もう一度メリーと出会って素敵な恋の物語を紡ぐ。そんな色鮮やかな未来を何度でも、何度でも夢見るんだと思う。
ずっとモノクロの夢しか見ることのできなかったわたしは貴女と出会って、自分がまだ生きているんだと知った。そしてもう許されることはないと分かっていても、今わたしは此処から身を投げ出すことしかできない。
後悔しても全ては手遅れで現実は残酷に時を刻むけれど、妄想を裁く法律なんてないんだから――あの日あの時あの場所であのまま貴女を貴女を貴女を貴女を貴女を貴女を貴女を貴女を貴女を貴女を貴女を貴女を犯し続けて壊し尽くせばよかった。
きっとわたしは勘違いしていたんだよ。こんなにもメリーを愛しているんだから、自分も同じくらい愛されなきゃイヤだって想ってたのにね、実際はメリーの方が何倍もわたしを愛してくれてたの。そんなことにも気付かなかったわたしって本当どうしようもない。
それも結果論に過ぎないね、でも狂ってるメリーの基準でわたしも愛してたらきっと幸せになれてたはずだよ。あはっ、今更だよね。ごめんね。ごめん。今すぐ其処まで行くから待ってて。ああ、最後の最後に貴女が笑っててくれたら、それで全てはよかったんだよ。
月曜日は死にたいと思って
火曜日なんか覚えてもいなくて
水曜日はモノクロで
木曜日はみんな死ねと吐き捨てて
金曜日は世界が消えてしまえばいいと願って
土曜日に貴女を犯したら
あいしてる、なんて言ってくれたのにね
忘れてみたい
覚えていたい
ゆらり揺れる貴女のイメージ
小指に結った運命の紅い糸が解れていく
そして貴女に出会ったそのわけも分からないまま世界が終わる
罪と罰
アメジストの星
煌くヒカリがわたしを裁く
空に還る
幾億光年の星々 遥か彼方アンドロメダ
世界の限界に貴女はいるのかな?
小さな頃はあの空まで手を伸ばせば届くような気がしたの
それは今も変わらない想い
だから
連れて行って
此処とは違う誰も知らない名も無き世界へ
こ ん な こ と で 蓮 子 と さ よ な ら な ん て 絶 対 イ ヤ っ !
ゆらり重力に引かれていく感覚に身を任せた瞬間――突然凛とした美しい声が鼓膜に響き渡って、あの星を掴むように伸ばしたてのひらをぐいっと掴み取った。
触れ合ったか細い指が絡み合って、前のめりになりかけていたわたしの身体をビルの端から無理矢理引っ張り出す。また神様の悪戯で幻想幻覚妄想の類、そんな想像が嫌でも頭の中をかすめては消えていく。
ただ、その繋いだてのひらから伝う想いはとてもやさしくて、何処か懐かしい。そんな素敵な想いを与えてくれる人なんて心当たりはひとつだけ。そう、それはあの狂おしくも美しい矜持を見せてくれた、メリーと言う美しい名前を持っている最愛の人――
まだ自分が生きていると悟って、錯乱した思考がさらに混乱をきたす。
今わたしの目の前には、宵闇に溶けてしまうような黒いゴシックドレスに身を包んだメリーが綺麗な顔立ちを台無しにして、さめざめと泣きながらわたしをじっと見据えている。
何らかのトリックで飛び降りたように見せかけたなんてことは到底考えられないし、つい数分前の出来事は嘘だったって言われても説得力は皆無だった。宇佐見蓮子は今も間違いなく生きている―リスカの傷痕が疼いて、嫌になるほど最低な現実を認識させる。
そしてあのメリーの絶望に支配された感情がリアルにわたしの心に突き刺さって、今も想いを馳せるだけで心が軋んでひどく痛む。そんな今のわたしが妄想と現実の区別が付いていないかと言えばNoで、相変わらず残酷な世界をただ呆然と受け入れるしかなかった。
「めり、ぃ?」
嗚咽を必死で押し殺して声を搾り出すと、ふわり想いが心を温めてくれる。
その名前があまりにも美しいと言うことに、今更のように気付いてしまった。
「どうして、どうして貴女はこんな馬鹿な真似を……この世界から蓮子がいなくなってしまったら、私が生きる意味がなくなってしまうって分かってたんでしょう!?」
「うん、そうだよ。それは痛いほどに分かってた、のかな。ごめんね、今ちょっと自分の感情が整理できてなくて。わたしは見てた、その瞬間を間違いなく……あの場所からメリーは飛び降りた。今わたしが見ているメリーは幻なの?」
美しいアメジストの瞳が煌いて、涙が零れ落ちる。
わたしのことを心から愛してくれているからこそ流れる雫が、悲しみと憂い、そしてふたりで描いた未来を想って此処に輝く。
その想いが繋ぐ運命の糸は解れながらも、まだ私の小指にぐちゃぐちゃになって絡まっていた。運命複雑骨折してしまったわたしとメリーは、絶対に離れ離れにならない。
こんな時までわたしは自惚れている。全ては終わったはずなのに、自惚れているんだね。わたしってほんとバカ。そんなことを何となく思った。
「いいえ、違うわ。今蓮子の瞳に映し出されているのは、間違いなく私よ。貴女が付けてくれた美しい名前を誇りに想う、ただのメリーと言う人間に他ならないわ」
「おかしい、それはおかしいよ。だって、わたしが、わたしが……メリーをジサツに追い込んだ。その瞬間だってちゃんと見届けた。今わたしが見てるのは現実、これは決して妄想なんかじゃないんだから」
「あれはもうひとりの人格、フェイクの私だったの。今蓮子の目の前にいる私が、あの詩に恋焦がれた私。私がメリーであるなんて存在の証明はしようがないけれど、それは蓮子に信じて貰うしかない」
ふと、思う。その言葉は何処かで聞いたことがあった。わたしがわたしであることは存在の証明のしようがない。
そんな台詞をしれっと言ってのけたのは、メリーのニセモノ――八雲紫。そして今飛び降りたのはフェイクだとメリーは言った。
だけど紫は閉鎖病棟で既にジサツを遂げたから、この世には存在しない。幻だから身体は幾らでも用意できるなんて理論が簡単に納得できるはずもなかった。
ただ、それはもう現実として存在してしまった事実。起きている事、つまり事実とは、幾つかの事態が成り立っていることである――そんなウィトゲンシュタインの論理哲学論考の命題が、この世界の真理を雄弁に証明していた。
「……紫は、ううん、メリーのもうひとりの人格は、入院してた病院でジサツしたの。勿論メリーの話は信じてる。でも実際にわたしが体験したことだって本当に起こった出来事だから、何がどうなってしまったのか分からなくなってくる」
「蓮子と会えなかったその期間中もだけど、私は今日と言う日まで一切彼女と話をしていないわ。それがどんな因果関係を指し示すのか、私にも分からないけれど……こんなオカルトっぽい話が現実なんて信じられないのは当事者の私だって同じよ」
「そう、だよね。でもどうしてメリーは……今日わたしが此処でもうひとりの『貴女』と出会うってことが分かったの?」
「それは本当に突然だった、昨日なんだけどね。『貴女の親愛なる宇佐見蓮子の全てを教えてあげますわ。そして私は貴女の中から完全に消滅する』――そう彼女は言って、このビルの屋上の貯水槽裏で待機するよう指示したの。そしたら……」
「彼女は、死んだの?」
こくんと頷くメリーは泣きじゃくったまま、時々鼻をすすりながらわたしの問いに応じてくれる。
今抱えている想いで心が痛い、それはお互い一緒なんだと思った。それは全てわたしのせいだから、一体どんな顔をしてメリーと向き合えばいいのか全然分からなくて、ただ顔を逸らすことしかできない。
「分からない。でも繋がってた意識がぷつんと切れた感じがしたの。だから本当に彼女は私の中から消えてしまったんだと思う」
「……死体は、あるのかな?」
高層ビルから堕ちた躯が天使に変わる。
そんな、夢を、いつか、見た、ような。
白い羽根を広げた鮮やかな幻が脳内で微笑む。
「蓮子が話してくれた閉鎖病棟のことが間違いないんだとしたら、彼女は幻のように肉体なんて幾らでも保持できるのかもしれないって仮説も成り立つ。だから死んだのではなくて、あくまでも私と共有していた意識が断線した、たったそれだけのことなんでしょうね」
「でもその別人格が話してたことは……勿論全て聞こえていたんだろうし、それは『REM』であるメリーの心からの考え方でもあったんだよね。ただ話していた人格が違うだけで、脳内で共有している知識や意識の類は全て一緒だったんだから……」
「ええ、それは間違いないわ。あのフェイクが話していた言葉はニセモノなんかじゃなくて、私の心からの想いだった。勿論どうして蓮子が悩みを打ち明けてくれなかったのかって思うし、許せないことだって沢山あるわ」
メリーの話から察すると、このジサツの主犯は八雲紫。
それだけは間違いないみたいだけど、その意図を知る余地はもう存在しない。
紫はわたしがメリーと愛し合うことにジェラシーを感じていたから、こんな真似をして真実を白日の下に晒してみせた?
それはありえない。ただ私達の間柄を引き裂きたいのならば、紫が最初から閉鎖病棟でxxxした記憶を共有してしまえばThe End...
ふいに第六感が告げる。わたしが此処で『ジサツ』する理由を作るために、神様がサイを振ってみせた。もうひとりのメリーである別人格が下した罰と言っても差し支えない。
その限りなく正しいであろう事実が示すことはたったひとつだけ。紫も、そしてメリーも、ずっとわたしのことを愛してくれて『いた』
そんなかけがえのない想いを平然と吐き捨てた最低の存在がわたし。これは当然の報いだったんだよ。何もかも全てね。
「そうだよね。メリーに嫌われてしまったわたしには存在価値なんてないんだよ。だから此処でジサツするしかないの。もう取り返しが付かないことには変わりないんだよ、何もかも、全部、全部、終わっちゃった……」
「貴女が傷付くことで私も傷付いてることだって分かってるなら、自殺するなんて絶対言わないで。これ以上貴女が自分で自分を傷付けようとする姿を、私もう絶対に見たくないの。分かってよ、こんなにも愛してるんだから、私のこと、蓮子、お願い――」
今にも儚く霧散してしまいそうなか細い声を聞いていると、胸が張り裂けそうになるほど心が痛い。
途切れ途切れになって行く言葉が嗚咽に変わった瞬間、いきなり繋いだてのひらをぐいっと引っ張られてぎゅっと抱きしめられた。
この世界にたったひとつだけのわたしの居場所はどしゃ降りの雨。メリーのくるんとした大きな瞳から零れ落ちる涙がわたしの頬を伝って、ゆっくりと首筋の辺りへと流れていく。
ああ、全ては想いを隠していたわたしのせいだ――償いきれない罪が重く圧し掛かる。心の隅っこにしまっておいた想いを打ち明けずに『愛してる』なんて言ったわたしに科された罰は、死ぬことですら生温くむしろ逃避になってしまうのかもしれない。
こんなわたしでも、ゴミクズ以下の惨めで最低なわたしでも、愛されたいの、まだ……そんなことを心の何処かで願ってるムシのいい自分がいて、そいつを殺したい衝動に駆られてしまう。
「わたしは、わたしは、もうメリーに愛して貰う資格なんてない。散々自分勝手で我侭ばっかり、それでメリーの想いを踏み躙ってひどく悲しませた挙句滅茶苦茶に傷付けた。こんなわたしが、図々しくも貴女を愛するなんて……」
「確かに私も傷付いたことは否定しない。でもそれだって蓮子も同じで、私が傷付いているから心が痛いとこんなに泣いてくれた。それは私達の想いがちゃんと繋がってる何よりの証だから……それに私はあのニセモノとは違う。蓮子を許さないなんて言った覚えはないわ」
ねえ、どうして、メリーはそんなにやさしいのかな――そんな言葉がとても嬉しいのに痛い、痛い、心が痛いよ。
今流してくれている涙も、このてのひらから伝うぬくもりも、全てはわたしのことを想ってくれてるってはっきりと分かってしまう。
それに比べてわたしは何ひとつとして貴女にしてあげられない。ごめんとか、大好き、愛してるよ、なんて今更言えるはずない。こんなひどいことをしてしまったわたしは嫌われて当たり前なのに、それでも許してくれるなんてちょっと頭がおかしいよ。
ずっと狂っているのはわたしだと思ってたのに、実はメリーの方が数倍以上変になってた。それはあの東京で別れる時から薄々感じてた感覚ではあったけど、こんな結末を迎えてもまだわたしを愛してるなんて平然と言えるメリーはどう考えても狂ってる。
勿論全ての原因がわたしにあることは覆しようのない事実。
ただ何時の間にか私達が愛し合うと言う行為自体がお互いを傷付けることになっていたのかもしれない。
会えない日々が続いて、想いが募ってそれは痛みに変わり、私達の心を蝕み続けてきた。それは自分だけの痛みじゃなくて、わたしとメリーの痛み。
何もかも共有していたんだよ。メリーと紫のように……ふわり素敵な幸せを分かち合っていた瞬間も、お互いの想いを感じることが間々ならなくて、声もなく苦しみ続けた今日と言う日までの全てが共にあった。
この小指に結った運命の紅い糸が私達を確かに繋いでいるからこそ、トゲだらけになった心臓からどくんどくん溢れ出す血のような想いが切なくてココロが痛くなる。それがたまらなくつらいから、わたしは刹那の快楽で誤魔化そうと最低の行為に手を染めてしまった。
許してあげるなんて言葉が欲しかったのは事実。ただ一度壊れてしまったものは二度と元には戻らなくて、純粋な気持ちで愛し合っていた過去に戻ることは叶わぬ夢になってしまった。それも全てわたしが悪い。メリーの穢れ無きイノセンスを犯したのはわたしだから。
「でも、こんな最低なわたしなんて……メリーに相応しくないよ。信じてるなんて言いながら、最低なやり方に走って貴女を裏切った。メリーだって同じ想いを抱いて我慢していたのに、わたしは我慢できなかった。本当に最低。最低なんだから……」
「私はずっと蓮子は自分のことを愛してくれてる、だから大丈夫って信じてた。だけど或る意味において妄信していたのかもしれないわ。私達がちゃんとお互いの想いを確かめ合っていれば、こんなことにはならなかったの。それは両方の責任でしょう?」
「メリーは、メリーは何も悪くない! わたしだってメリーと同じように愛していたら、最低なわたしをやめることができていたはずだもの。リスカやクスリのことだって、メリーは信じていてくれたから何も言わなかった! そのやさしさを裏切ったわたしは最低なの!」
「最愛の人が自分を卑下してる言葉なんて聞きたくないわ。私は蓮子が幸せでいてくれたらそれでいいの。私のことを心から愛してくれてるって感じられたら、それで……ただ私は独占欲が強くて、私以外の人は見て欲しくない。そんな我侭を大目に見て欲しいだけ」
さめざめと涙を流し続ける最愛の人の胸の中で、もう全てが終わってしまったんだと悲観的観測ばかりを狂い叫ぶ。
どうしようもない言葉の数々をただ受け止めてくれるメリーは、まるでわたしの代わりに泣いてくれているみたいだった。やさしいぬくもりを伝えながら言葉を紡ぐメリーは、感情論だけで話してる感じはしない。
それは裏を返してみれば、もう既に何かある種の覚悟を秘めたと受け止めるには十分過ぎるほどの柔らかい口調に聞こえるのに、わたしのばらばらになった心は絶望と破滅への憧れが溢れ出して止まらなかった。
ジサツしろ。ジサツしろジサツしろジサツしろジサツしろジサツジサツジサツジサツジサツジサツジサツジサツジサツジサツジサツ――サイケデリックな衝動が死神のようにわたしを何処までも死へ追いやろうとする。
今ぎゅっと抱きしめてくれてる親愛なる人の言葉には何の偽りもなくて、ふたりが想う理想の恋だってきっと同じだった。
繋いだ絆を頑なに守り続けるためにわたしを庇おうとするメリーの想いがとても嬉しい反面、どうしても自分の犯した罪に対する後ろめたさは隠し切れない。
蓮子のこと、信じてるから――ずっとその言葉を糧にして此処までやってきたはずなのに、メリーが込めた想いの意味をすっかり忘れて恋をしてる気分に浸ってた。
ああ、素直に想いを打ち明けて狂おしく愛して貰って、淫らに笑うわたしでいることができたら……お互いに責任があったなんて、わたしにはどうしても思えない。
メリーはずっと信じてくれていたんだから、わたしも真っ直ぐに貴女を信じる。そう、信じ合うことが一番大切で、それは絶対に守らなければならない誓いだったんだよ。
今になってみれば思うの。わたしとメリーは勿論お互い愛し合っていたんだけど、好きで、大好きで、もう他のことが見えなくなるくらい好きすぎて、そんな『好き』なんて言葉は似合わなくて、愛してた。それこそクスリで狂ってしまったように愛し合ってた。
その度合いで深く堕ちてしまってる状態を、恋に溺れて壊れてしまうって言うんだね。ずっとわたしはメリーが想うより深く愛してると思い込んでいたし、少なくとも同じ温度で愛し合っているつもりだったのに、それはひどい勘違い、それこそ自惚れだったんだよ。
わたしの『好き』なんかよりメリーの想いの方がずっと強くて、狂おしいまでの感情で満ち溢れていた。そしてわたしがメリーを愛しいと想う気持ちが全く以って足りていなかった結果として、こんな最低の感情を誰よりも愛しい人に抱かせる羽目になってる。
メリーの言ってることなんて我侭でも何でもない、甘く切ないセンチメンタルな恋に堕ちた子が抱くごくありふれた普通の感情でしかない。援助交際みたいなお金で買える安っぽい恋じゃないことくらい分かってるつもりだったのに、やっぱりわたしは最低だ。
「……もう何もかも手遅れなの。メリーはどうしてそんなにわたしが生きることのを望むのか、全然分かんない。わたしが考える幸せはジサツなの。それをどうしてメリーは否定して、ただもがき苦しみながら生きるだけの理由を作りたいなんて考えてるの?」
そんな自暴自棄としか例えようのない言葉を聞いた途端、それが余程おかしい戯言に聞こえたのかメリーがふっと鼻から抜ける不思議な声色を奏でた。
絶望でくしゃくしゃになって泣き崩れていた端整な顔立ちが、背徳的で艶やかな微笑みを零す。その表情が何処か紫の面影と重なってしまって、砕け散った心をカケラをかきむしる感触が余計わたしを苛々とさせた。
この一連の出来事だって所詮『人間』なんて神様の作り出した世界の予定調和的な結末でしかない。そんなくだらないお遊びに付き合うなんて酔狂な真似はもう十分だから、さっさとこの心と身体を開放してよ。もうわたしは生きたくない、ジサツさせてよ。
わたしだけの居場所、親愛なる貴女の隣――言葉にならないさよならをそっと告げてメリーの胸元から離れようとした瞬間、細い指先がより強くわたしの身体を抱きしめた。
これ以上こんな言い訳をしていてもただ想いが募って、もっともっとメリーのことが好きになってしまうだけなんだから、恋なんて枷で縛られる日常はもうお終いにして欲しい。わたしは本当にそう想っているのかな、本当は愛されたいのにまた嘘をつくんだね。
心の中で誰かが意味不明な戯言を囁く。うるさい、死ね。さっさと死ね。サイケデリックなわたしも、普段の最低なわたしも、メリーが愛してくれたわたしも、みんなみんな死んじゃえばいいんだ。それが幸せに繋がるんだから、何処に躊躇う理由があるって言うの?
「それは、違うわ」
「……わたしは何も間違ってなんかない!」
「誰からも感じられなくなることが幸せ、蓮子はそう考えているのでしょう?」
「そうだよ。苦しみ、悲しみ、嘆き、無常、その類。無意識なら何も感じないんだよ、零が幸せなの。ジサツして死んじゃえばすぐ幸せになれるのに、そんな簡単なことさえこの世界の人間は分かってない」
「ええ、ずっと前から知っているわ。ただ、ひとつだけ……蓮子は大切なことを忘れてしまってる」
メリーの凛とした声が紡ぐ言葉の真意がどうしても分からない。
でも、何故か、その言葉が、ちくりと心にトゲを刺す。痛い、痛いよ。
「わたしが考える幸せにこれ以上の理屈なんてない。そもそも理由とか理屈とか、聞きたくもないし分かりたくもないしうんざりするの。だから――」
「蓮子が本当に『無意識が幸せ』って考えているなんて到底思えない。いいえ、思ってないわ。まだ自分に嘘をついて誤魔化しているだけでしょう?」
「それはメリーがわたしの考えを理解してないだけだよ。わたしは嘘なんて言ってないし心からそう思ってる。ジサツすることが幸せ、それが今しかないわたしの間違いない本音なんだから!」
「……そうね、だから完全に間違ってるとは言ってないし、それが蓮子の想う幸せだってことは十分承知しているわ。でも、本当は……たったひとりの『存在』にだけ、自分の存在を認識しておいて欲しいのでしょう?」
たったひとり。
自分の存在の認識。
その言葉が意味するところを、わたしは理解していた気がする。
頭が痛い。心が疼く。大切なことだったような気がするのにどうしても思い出せなくて、頭がおかしくなりそうだった。
「そんなこと……できるはずがないんだから考えるだけ無駄だよ。思考するって人間の構造そのものに欠陥があるんだよ。だから感じて欲しいなんて我侭をわたしが求めてるなんてありえない」
「この京都のような喧騒もなく、空っぽになってしまった世界。宇佐見蓮子と言う存在だけが取り残された世界。それは概念的な物言いでしかないけれど、そんな周りからの干渉を一切遮断した世界を貴女は望んだ」
もしもメリーの話している誰もいない世界でわたしを『わたし』だと認識できるかどうか、それはとても難しい問題だと思う。
他人は自分を映す鏡――そんな言葉があるように、人間と言うものは社会に属して生きている以上、他の存在から見る『わたし』を必ず意識せざるを得ない。
「……そんな世界だったら清々するかもしれない。でもわたしがわたしである必要もないし、そんな死んだ世界にわたしがいたところで何になるの?」
「自分の理想とする世界を夢見ることなんか無駄だって、貴女は最初から知っていたんでしょうね。だからこそ、たったひとりだけは宇佐見蓮子と言う存在の投影を可能として、その存在を心から愛することでこの世界の幸せだけを感じたいと願った」
それが自分だ、とメリーは言いたいのだろうか。
わたしよりひどい自惚れだ。自惚れにもほどがある。
でもその考え方が妙にしっくり来ること自体がとても不思議だった。
そのロジックは紫が説いた幸福論に限りなく近いけれど、あれはそんな夢に溢れているお話じゃない。
「そんなの所詮誇大妄想狂の戯言に過ぎない」
「そうかしら。自分が生まれた意味も分からないまま死んでしまう、それで蓮子は本当にいいと思っているの?」
「……思ってるよ。感じなくなっちゃえば全て終わる。命が尽きた瞬間に全ては無に帰すんだから当たり前だよ」
「少なくとも私は、自分が生まれた意味を知りたかった。そして無事答えは見つかったからこそ、今私は此処にいるの。宇佐見蓮子と言う存在が、私の生まれてきた意味と存在の証明。貴女はそのふたつを甘く切なく教えてくれた。だから後は――」
そんな大層なことをわたしは何ひとつしていない。
ぷつんと途絶えた言葉の続きが聞きたくなくて、耳を塞いでしまいたくなる。
自分の存在の意味だとか、証明だとか、普通の人間が抱く感性をわたしは失ってしまった。汚れて、ただ泥まみれ、大人になっていくにつれて……。
それなのに、どうして、どうして、こんなわたしを愛してくれるのかな。メリーが其処までわたしなんかに固執する理由が、全く理解できないよ。
「分からない。メリーの言ってること、全然分からない。そんな言葉がノイズになる。わたしがジサツする理由が曖昧になるの。そうやって紫みたいに惑わすのやめてよ! そんな叶わない夢を描くことに一体何の意味があるの!?」
「私は私、貴女が名付けてくれたメリーと言う名前を持つ人間でしかないわ。それ以前に、大切な真実があるの。今話した全てが叶わない夢じゃないことは私が証明してみせたと自負しているけれど、この『夢』を描いたのは私本人じゃないから」
そう言ってくすっと笑って見せたメリーの表情が、とても綺麗で……思わず見入ってしまうほどに美しくて心がぞくっとした。
「知らないし知りたくもない。そんな夢見がちで、こんな残酷な現実が見えてない奴が書いた未来予想図なんてつまらないものに決まってる。それこそ街中に溢れてるクソみたいなラヴソングやくだらない詩はいらない」
「その例えだと私はよく分からないけれど、この私の夢を叶えてくれた詩を書いた人は私の憧れで、最愛の人なの。ただ私はこの詩のようにありたいと思って生きてきた。それはこれからも続くし、もう逃れることのできない運命だと思うわ。とても素敵だと思わない?」
――最愛の人って誰?
そんな答えなんて決まってる。
メリーの最愛の人、それはわたし宇佐見蓮子に他ならないとしたら――心の中で長らく行き渡らなかった細い血管に、どくんどくんと血が流れていく。
今なら全て思い出せる。さっきからメリーが話してる言葉の意味、それはわたしの書いてた詩の解釈。あの頃のわたしは死んだわけではなくて、その感覚を司る器官を使うことを無意識のうちにやめていたのかもしれない。
――それは、遠い、遠い、御伽噺。鮮やかな幻に彩られた世界のお話です。
きみとわたしが重ねた未来、神様が叶えてくれたんだよ。此処にはきみとわたしだけしかいない。
夏の憂鬱、小さな命も芽吹かぬままに、人、社会、そして世界と繋がることを諦めてしまったわたしは、きみだけが感じてくれる存在になりたいと望んだ。
ぱったり人々の喧騒は途絶えて、空っぽになった都会の喧騒は音もなく、風は感傷性の蒼で、きらきら輝く星座に憧れて、ただ、ふたり、笑った。
アンドロメダが煌く夜空で花の匂い弾けた夢現――いつか見た日のわたしを大好きなきみにあげる。
季節を織り成す詩のような、あの美しい旋律だけが遠くで鳴り響く。それをヒトは『終わり』と言ってサヨナラするの。
誰もいない世界。緩やかに朽ちていく世界。きみに出会ったそのわけも分からないまま、世界が終わる。だけどわたしが此処で生きていたことは、きみがちゃんと証明してくれるから大丈夫だよ。
ふたりで雨宿りしてたバス停でそっと紡いだ恋の魔法は今も解けることなく、ただ寄り添い合っているだけで幸せ。そんな素敵なきみと手を繋いでいたら、きっと誰も見たことのない場所まで歩いていける。
ああ、もしも叶うなら、あの空の遥か遥か遥か彼方できみとわたしは花になりたい。ざんざんと降りしきる雨に打たれながら、ゴミ捨て場の片隅で、ゆらりゆらり揺れる幻想の花となって永遠に咲き誇る――
――現実は、悪夢。
待ちぼうけだよ。追い掛けても、遠ざかっていく日も見えない。
あのノートに書いた内容通りにメリーが生きてきた結果として今があるとすれば、辻褄がぴったりと合ってしまう。
こんなわたしをいまだ狂おしく愛してくれる理由――それはあの希望的観測ばかりを書き綴っていたどうしようもない詩のせい?
絵空事みたいな詩の世界に永遠の想いを馳せた結果、メリーは狂ってしまった。そして今も狂信的なほどに思い込みの激しいまま、嘘つきの詩人を演じてたわたしに恋焦がれている。
「……その人は、もう死んだんだよ。とっくの昔に、メリーに会う前から死んでた。生きてたフリをしてみたけれど、それもやっぱり無理だった。だからわたしはやっぱりメリーに愛される資格なんてない。こんな最低のクズ、やっぱり死ぬべきなんだよ」
「貴女がそっと唱えた魔法はもう絶対に解けない。私は蓮子のことを今もたまらなく愛しているし、これからも永遠に愛することを誓うわ。そして限りなく近付きたい。貴女が描いた詩の世界、そしてこれからの貴女が描く鮮やかな未来へ……」
「それはもうメリーの妄想になってるんだよ。今のわたしが描けるような、叶えられる夢じゃない! だから死ぬしかないんだよ、ジサツするしかないんだってば!」
「そう、それならそれで構わない。今一度、私の愛する宇佐見蓮子は死んだ。そう言うことにしてあげるわ。ただし、貴女が生きている証明も、貴女のことを愛してやまない『きみ』がいることも、今此処で私がはっきりと証明してみせる」
「そんなこと、そんなことなんて、わたしは――」
「もう一度最初から始めましょう? 何もかも全て最初から始めるの、蓮子と私の世界はたった今此処から――」
メリーの美しい声が神の託宣を告げる。
ぎゅっと抱き寄せていた身体を少しだけ離して、ふわりなびく黄金色の髪を幻想的に翻すとそっと首を傾げた。
そのさり気ない仕草が背筋にぞくっと寒気が走るほど妖艶で、心がひび割れんばかりに疼く。くすんだ空の霞が一気に吹き飛んで、満天の夜空が私達を祝福するように照らしていた。
ほのかに香る花の匂いは夢現。そして今からわたしが詩の世界で愛した幻想の『きみ』が奏でるメロディは永遠に解けることのない魔法。それはこんなわたしの詩を詠んでくれた在りし日の貴女がくれる素敵な想い。
繋いだてのひらに導かれて辿り着く先で、絶対に私達は幸せになれる。これから始まる素晴らしき日々に心弾ませている自分に気付いた瞬間、長い間苛まれてきたサイケデリックな衝動がゆっくりと凪いで消え去っていく。
――あの詩に書いた世界で、ずっと私達は生きていける?
もうメリーはわたしと出会ったその理由を知って、それが揺るぎない証明として提示できるからこそ狂ってしまった。
それは運命だとかありきたりな言葉で片付けられることではなくて、絶対的な必然性を持った理由がある。その答えはまだ教えて貰っていないけど、それでもわたしの存在の証明をはっきりしてみせると言い切った。
きっとメリーの想う全てが正解だと言うことが、直感だけで分かってしまう。あの詩を書き綴った頃に憧れてた遥か空の彼方、この世界の限界を超えた先にある誰も知らない世界。其処で夢見てた鮮やかな未来を、今目の前で微笑むわたしの親愛なる人が叶えてくれる。
あの詩に想いを馳せると、自然と心が躍る。だってそれは夢が叶うってことだから。
確かに宇佐見蓮子『ジサツ』したのかもしれないね。だって今のわたしは生まれたての赤子みたいな、真っ白な美しいイノセンスを持っている。
それはこんなどうしようもないわたしを愛してくれたメリーのおかげなんだよ。いけない妄想に耽ってる。ふと余計な思考が頭を過ぎるけれど、あのサイケデリックなわたしはもういない。
今此処で生きているわたしは、あの詩を書き綴っていた頃のメリーが愛してくれたわたし。だから大丈夫。心配しないで。ああ、必ず私達はあの詩のように、美しい幻想の花となって咲き誇ることができる――
しんと静まり返った屋上はまるで人の気配がしないから、この世界から私達以外の存在は全て抹消されてしまった錯覚に陥ってしまう。
煌く星のカウントダウンも着々と零に近付いている。この緩やかに朽ちていく世界の終わりを迎えても、私達は逃げるつもりが全くなかった。メリーさえ隣にいてくれたら、わたしの存在の証明は完全に為されるのだから何も怖くなんかない。
そして素敵なプロローグの序章が静かに幕を開けようとしている。英雄達は旅に出るから、この世界にヒロインは要らない――そんな私達の素敵な物語の始まりを待ち焦がれていると、幻想の花束を抱えたメリーがそっとくちびるを寄せて、ふわり甘い吐息が重なった。
「あいしてる、れんこ」
ただ、ただ、触れ合うだけのくちびるのぬくもりがあまりにも愛しくて、枯れ果てたはずの涙がつつっと頬を伝って流れ落ちた。
小さくキスを繰り返して貪ったり、その美しい花びらの中へ舌を挟むこともできない。今までの『わたし』は死んだから恋人としての関係も全てリセットされて、この瞬間からわたしは新しい宇佐見蓮子としてメリーと恋に堕ちる。
それは犯した罪の代償としては安すぎるどころかたまらなく幸せなはずなのに、自分から積極的にメリーを求められないことがとても悔しかった。今もわたしは心からメリーを愛してる、だけど現実は残酷で今はこれ以上貴女を欲しがることは許されない。
そんな想いを抱いているからこそ、メリーもこれ以上はしてくれないんだと思った。とても嬉しくて心はときめいているのに、何故かどうしようもなく切ない。貴女の想いはもうあの空の彼方を越えているかもしれないのに、わたしはひとりこの世界に取り残されている。
何処までも狂気に満ちた想いでメリーに愛して貰っているのだから、それに見合うだけの感情を以って貴女を愛したい。メリーの口の中に流し込んだ想いが溢れ出して止まらなくなるような、わたしの心の中にある想いの全てを以ってしてメリーを愛してあげたい。
貴女が愛しくなればなるほどそんな気持ちが昂ぶって、今交わしているくちびるを寄せるだけのキスがとても切なくなる。それも我侭だって分かってるしとても嬉しいのに、何故か心が痛くてみしみし軋んで張り裂けそうで……ぽろぽろと涙が止まらなかった。
きっと多分私達はこの残酷な現実から逃れることはできなくて、これからも嬉しいことなんてほとんどなくて、基本的にはつらいことばかりが延々と続いていくんだと思う。
神様のいない上辺だけの世界はひとりぼっちだったらとても耐え切れないけれど、メリーが隣にいてくれたら絶対大丈夫。わたしの居場所はちゃんと此処にあって、嬉しいこと、楽しいこと、悲しいこと、つらいこと、全部打ち明けてしまえばいいんだよね。
心が感じる全ての想いを分かち合ってしまえば、きっと何とかなるような気がするよ。これからは小さな幸せが一杯心の中に降り積もっていくんだから、何もかもだって包み隠さないで教えて欲しいの。それで悲しみも半分こにして一緒に泣こう?
もしもメリーが悲しんでいるとしたら、きちんと理解してあげる――それが存在の証明って言葉が示す意味の唯。この世界は私達の命が尽きるまで終わらない。でもその見え方を限りなく近い目線で共有することならできるんだよ。
だから、また最初から、メリーのことを、ひとつずつ、ひとつずつ、やさしく教えて。その可憐な言の葉を紡ぐ美しいくちびるで、狂おしいほどの想いを……わたしもメリーと全く同じ形の想いで、貴女を永遠に愛することを此処に誓う。
メリーの想い描く幸せは、必ずわたしと同じだって今なら信じられるんだよ。それは詩を書いていた頃の『わたし』を思い出させてくれた貴女のおかげ。ありがとうって言っても、何だかとても切ない。それでも大丈夫、この涙は未来を想って此処に光っているんだから。
――心に、心に、あの詩が響いて、鮮やかに色付いた未来。
その白い声とてのひらに誘われて還る夜空の先には、幻想の花の群れが咲き誇る美しい景色が広がっていた。
目に見えなくてもいい。わたしが貴女を感じることができたら、それで……この心が感じる事柄、それが世界だから。
たとえ其処が灰色にくすんだ現実のゴミ箱の端っこだったとしても、私達は可憐に咲く花として永遠の一秒を狂おしく愛し合って生きていく。
幾億の星々が煌く夜空に見知らぬ世界を捜し求めて、朝日に途方もない絶望を感じる日々は今此処に終わりを告げた。
この残酷な世界で、わたしは生きる。それがジサツよりも遥かにつらい選択だったとしても、絶対に後悔なんてしない。
大人にはなりたくない。貴女が愛してくれた時のままの自分で在りたい。そんな夢を語るわたしを見て、傍で貴女が笑ってくれたらそれだけで幸せだよ――
ヒカリよ、あれかし。
foreverlove, dear Merry...
この圧倒的な何かに対して私はこれ以上の言葉を思いつかない。
陳腐な脳みそしか持たない私はこれを創り上げたあなたに対してこれ以上の賛辞は送れない。
ただ、万感の思いを込めた拍手を添えることしか。
上、中、下にわけるとかさ
言葉が出ない
蓮子とメリーが幸せになりますように
本人さえよければいいと思います
後正直分割してもよかったと思います
次も楽しみにしてます
一貫して蓮子の視点で進んでいく物語は最初のうちは性描写が多くなんとも言えませんでしたが、三分の二も進んでくると蓮子とメリー、マエリベリーの三者を通じて蓮子の壊れた心が徐々に明らかになっていき、彼女らの駅での別れではほっとしながらも八雲紫の登場で息を呑み、京都にてようやく胸をなで下ろせるかと思いきや最後に一つきっちり仕組まれ、すべては解決したようなしてないような……
とりあえずこの先も蓮子とメリーがちゅっちゅしてますように。
ここの人間はあなたの作品をロクに読んでくれない。あなたを皮肉る作品ばかりにみな気をとられて、そのクセそれを叩くことに快感をおぼえている。
私はテーマ的観点から本作品が肌に合わなかったが、それでもあなたに同情せざるを得ない。
これは3年程経って作者さんが作品の事自体を完全に忘れ去った頃、
ふとした弾みでここに辿り着いて作品を見返してしまった瞬間に
初めて本当の意味で作品として完成を迎えるタイプのSSだと思うので
何を言われてもその日が来るまで削除したりせず残しておいて頂きたいです。是非に。切に。
1分ごろから入るシンセの連打(音楽は詳しくないので分からないです)が、とてもここちよく。
文章のトリップ加減も相まって、いい具合に催眠オ○ヌーをしているみたいな感じなんです(気持ちよくなる催眠暗示がかかっている音楽を聞くことです。いい感じにとろけますと、耳がぶわぁんとなります)。
偶然にもところどころに入るタグが俺が愛好している催眠オ○ヌーの曲名にソックリで、おへぇ~なんて口に出しながら、少しずつ濁流に体を溶かして行きまして、
夜空さんという人見先生の感じている世界を、なるべく俺も感じよう、そう思いながら読み砕きました。
さて。
この作品を一言で言い表すとするならば、「テロパガンダ」とでも言うべきでしょうか。
あとがきですでに言及されてますけど、もうちょっと突っ込ませてください。
俺の好きな作品群からの引用は心地良かったです。と言ってもアレなゲームしか知りませんがね。情けないことにめっきり音楽には興味がないんです。ゲームのBGMで情景を回想することによってでしかトランスできないんです。せめて歌詞がないと困るんです。イメージが足りなさすぎる。だから洋楽とかもってのほかで、それはたぶん想像力が足りないせいじゃないかなと思っています。まあどうでもいいです。
この作品が全て皆守君への殺意に溢れていることは大体わかりました。
思えば夜空さんは確かツイッターで、気に食わなかった、というようなことをおっしゃっていましたね。
全く同感ではありますが、さて、この作品には、「じゃあ、我々はどうすればいいの?」という選択肢が欠落しているように感じますが、これは気のせいなんですかね?
FUKUSHIMAという今ある終末思想に乗っ取るのはノストラダムスの流用ですかね。
かなり上手いと思います。
この作品にいったいどれだけ途中途中の試行錯誤が加わったのか、俺には想像が付きません。
なにぶんSSなんてものを書いたことが生まれてこの方こっきりないものでね(皮肉じゃなくて自虐です)。
まあ完全自殺マニュアルはもっと続けて、できればタイトル通り108つ連ねて欲しかったですが。
中盤で閉鎖空間に移るのはタイトルからのオマージュですよね。違うと言ってもそう思おうと思います。
「きみ」が言った通り、他者の世界なんて分かりませんからね。
分からないからこそ勝手に想像して決めつけていいんです。嘘です。
失礼ながらあはぁぁぁあんっあぁっイクイクイクううううううううぅうぅぅぅぅぅぅうぅぅぅぅぅぅぅで腹筋崩壊しました。
そして同時に、ほんとうに楽しそうにポエムってるなぁと思いました。
誤字も丁寧に潰されてますしね。一箇所だけ見つけましたが。タマラナイの後です(でもこれ誤字なんですかね、伏字の一種とかですか?)。これ本当に一人で作ったんですか? 実は夜空さんこそが多重人格障害なんじゃないの? いえーい明晰夢だ明晰夢だぁ。
この文章が、愛のようなどす黒いヒカリで埋め尽くされているということは、分からない人には分からないであろうし分かる人にも分からない。そう、この俺にしかわかりません。
だからどうというわけでもないですが、これを楽しめない人は哀れですね。愛を知らないと見えます。
まあ、愛がなければ見えないっていう売り文句の某ゲームは最終話で大コケしましたけどね。
今時流行らないのかもしれません。特に創想話では。俺だけに見せてくれたなら、俺がこの作品の数倍の容量の返歌を返したんですけどね。あるいは夜空さんにはすでにそういう相手がいるのかもしれませんが。
その辺いろいろ悲しいです。
ひとつだけ謝らないといけないことがあります。
俺はこの作品にミステリによる解決を求めて読んでいたんです。
具体的には、紫とメリーが多重人格障害で解決されるんじゃないか(まさに某ワンダフルエブリデイのごとく)とか思ってたんです。
どう考えてもこの作品と正反対でした。むしろ憎むべき敵でした。本当にごめんなさいでした。ハラキリで償う所存です。
テロパガンダとは、今俺が作った造語です。
いつもどおりの文体による蓮子とメリーの会話は建前ですよね?
いや、建前でなく、大好きではあるんでしょう。迸るほどの、睡眠薬みたいな愛を感じますから。
でもそれは釣り餌ですよね?
貴方は否定するかもしれませんが、少なくとも、貴方が「愛しすぎておかしくなっちゃいそう! ゲヘヘ! だがそれでいい」っていう文章を投稿したら誰にも相手にされないと思って、「愛しすぎておかしくなっちゃいそう! ゲヘヘ! だがそれでいい」っていう文章に、「愛しすぎておかしくなっちゃいそう! ゲヘヘ! だがそれでいい」っていう意味以外の物を少し付け加えましたよね?
まあ、必要なのはわかりますが。
ぐだぐだ言ってる俺だって、これ800なければ読んでないですモン(可愛く)(モンじゃねーよ、死ね!)。
たぶんコメントしている他の方々も、夜空さんの文体だから、とか、秘封だから、とかそういう条件がなければ読んでないでしょうからね。というか俺も似たようなことならやったことありますからね。当たり前ですよね。
でも、いや、だからこそ、テロだなぁと。
まあその辺含めあとがきですでに言及されてますけど……。
そしてテロによる、思想宣伝プロパガンダだなぁと。あ、今のグレンラガンっぽい。
それで、テロという言葉には、先ほど申したとおり、すこしばかりの皮肉も混ぜてます。
これ、抵抗したのは蓮子ですよね?
愛によって抵抗できたのは蓮子とメリーだけじゃないですか。
夜空さんはどうするんですか?
死ぬの?
死んじゃうの?
クラムボンみたいに?
やめてくださいね。
夜空さんは死んでも某スカトロ自殺氏みたいに丸くならないでください。
絶対にこれを黒歴史なんていうカスみたいな墓標にしないで下さい。
未来永劫苦しみ続け、そして夜空さんが蓮子になって、生み出される文章の海というメリーとxxxし続けて下さい。
だから歩いて行ってあおい風の吹く場所できみに会うんです。
黙って白いシャツはためかせて蒼い髪をなびかせて歩き続けてください。エゴと意地で。貴方の文章を待つ俺のために。
それが嫌ならタイムマシン開発してタイムパラドックスで自分の存在消し飛ばしてください。
おっけー?
おっけー!!!(コマンドー風に)
あとこれで蓮メリちゅっちゅだわーいっていうのは流石に雫の開始十分濡れ場みたいなもんだと思います。
そろそろ締めます。
なんだかこの感想、加速度的に痛々しくなっていきますね。
こんなんぶっぱなしちまったら俺、地球を守りたくなくなっちまうよ。
もとい、このあとにコメントする奴がいなくなっちゃうよ。
でもそう、そんなのかんけいないね。
この感想は俺から「きみ」への合図、ラブレターなのだ。なんかラブレターっぽい思い上がりを多分に含ませていったぞ! 恋に周りが関係あるか!? いやない!!(反語)
敵の敵は同志。
つまり救世主様と俺と夜空さんは皆同志なんだ、わっはっはー。
空へ!
それとも、これは不愉快ですか?
最終的に測りかねたのはそこなんです。
どれくらい嫌われちゃったかなあって。
つまり、俺はどこまで馴れ馴れしく感想を書いていいんだろうなって。
もっと言うと、こんな感想、見るだけで吐きそうになるのかなって。
だから、結局完全な読解なんて無理なんだろーなーと思う俺と、そんなことはない! 物語とは究極の魂の侵食だ! という俺に分裂するわけです。
>蓮子やメリーが生きている未来はきっと素晴らしく、そして絶望でもがき苦しむ人々の叫びが後を絶えない現在と全く変わらない世界なんだと思います
この一文とかですね。もうこの一文の解釈だけでこの全文の価値がまっぷたつに分かれますからね。なんという偶然の気まぐれ。
要するにそのどっちが正しかったかはこの感想を見た夜空さんの感想がそのまま表すんですけど、まあコメント返却は望めそうにねっすからね。ひざまづき、泣いて、血を吐くの、オネガイ、赦してよ……。サドでもマゾでもあるんですよね俺。知らないのか? その動画、ウイルスだよ。なんでツイッターやめちゃったんですか? 会話したいですう。ホームページに行ったら、動作ミスのせいで背景画像が表示されませんで、もう一度リロードしたら一気にブワーッとイラストが表示されてすごかったです。過冷却みたいでした。カレーキャベツ。胃液が野菜ジュースのようにHDDするさまは極彩色で、スコッティはやっぱり犯罪者には届かないんだ。ストッパを飲むハムスターはくるぐると年金機構を回り続けるが、じゃあそこにサブコンシャスネスの実存はニードレス。ここまで行くと幸福に生きよとどこが違うのか全然分からんけれど、理解が不足で頭も不足、山手線は正解、それでいいならそれでグッドだブァットラさぁん!
ふむ。
ごめんなさい。
死にまーす。
愛する彼女と死にまーす。(笑)
一番テロなのはこの感想というオチでした。おあとがよろしいようで。
こんなキチガイに100点入れられたくないと思うんでこれで。
加えてヘビーでえっちぃ内容ですから疲れました
蓮子視点オンリーで進行していったので幻とか夢とかで片付けられないかと
終始ハラハラしっぱなしだったっていうのもあります
あと、『ニヤニヤ動画』ってw
しかし単語の使い方が凄いっす
しかし重い、色々な意味で
スクロールバーが悲鳴を上げとる
実に私好みの物語。久しぶりに心揺れたよ
25の方、確かに東方という世界のキャラでやる意味があるのかと思うんですが
何もかもが自分の世界観保ってくれる保証なんてない
人の数だけ幻想郷があるんですから、これもこれと割り切りましょうよ
それがあなたの言葉ならあなたはそれで良いのです
私はこれはこれでと親しみやすい世界観での退廃的なお話
こういうの好きです脳内で蓮子とメリーがアニメになるほどの想像力溢れましたとも
でも、創想話にはちときつい内容だなあと(ここは基本的に15禁まで作品が多いですし)
料理にも盛り付けのお皿が最後の隠し味
料理には料理にふさわしい受け皿がある、そこだけが残念
わざと字を変えていると思われるので誤字指摘しづらいのですが一つ
切符のいい→気風のいい
日常系なんてアニメSSを嬉々として読んでる人間には理解できないだろうね
絶望的な現実から目を背けてる人が逃げ出した世界がここだよ
平和ボケしてる人間が許せないんだろ?ちゃんとあなたの思想は伝わっているよ
秘封ものは確かに多くの場合東方でやる意味あるの?と言えるのが現状でしょう、ちゅっちゅなら別ですが
しかし、今回の場合、八雲紫、という存在がある、という前提が東方でやる意味として機能するのではないでしょうか
メリーと紫、この前提が多くの秘封で取り入れられています。そのことで我々はそのバイアスを持っていることで
最初からあーこれ紫ね、はいはいゆかりんなら仕方ない、となるわけです。
結局のところ、この話は東方でないとうまく機能しないと思います。1から「神様」を想像してヒロインに関係性を持たせる、
なんて、ね?
上手く話せないですがこんな程度です。頭のいい人がもっときれいにまとめてくれるとうれしいな
話の内容はすばらしいのですが2点、幸せは数式で表現できないということをかの八雲紫に語らせてしまっている点、これは未来に生きる、八雲紫に対しての私の過大評価でありましょうか、
もう一点は今回の天災を自殺と同列に考えさせたこと、このことがすごぶる気に入らなかったのでこの点数にしました
日常系なんてアニメが跋扈して、あまつさえこのサイトでもそんな作品ばかりがもてはやされているのに
この内容をこの東方創想話に投稿と言うこと自体が痛烈な日常ひいてはくそったれな現実のディストピアになってる
中二?基地外?上等じゃないか、きれいごとばかり並べた作品より数倍マシだ
こうしてガチで物事を伝えようとする気力のない人間が創作をやらなきゃ面白くない
二次でやる意味、東方でやる意味、十分要件をこなしているけどな
メリー=紫説も自殺の動機も全てが明瞭に語られている、秘封じゃないと絶対にできないものだ
そして作者のオリジナリティは完全に確立されている。あんたすげえよ、その勇気に心からの賞賛を
いやはや、なんとも言い難いいい作品でした
ただ、同じパターンが余りにも多い気がして少しマンネリ感が
ありましたね…でもやっぱり凄かったのでこの点数で
あと「東方でする意味あるの?」って言葉は、見る度に思うのですが
ここの投稿小説全体にも言えるのでは…?自分自身で作ったオリキャラ
ですればいいって事になるし…
この作品くらい自分が重なってみえるSSは始めてでした。最後の展開でぼろ泣きでした
蓮子のかまってほしいって欲望の部分にあまりに共感して…自分がいなくなっちゃう気がするんです
誰かがそばにいてくれたら、わたしは認めてもらえる、そんな彼女の感情に胸打たれました
わたしもこの作品のメリーくらい愛してもらえたらなあ。ああ、とても切なくて、心がぐらっときました
作者の方は女の方なのでしょうか、あまりにも耽美な感覚と女性と男性の中性っぽい感じがします
100当番→110番
リカスの傷痕が疼いて→リスカ
……言葉も出ません。
コメント欄が気持ち悪い
これは一気に読み切るべきですね、途中で間を開けたら欲しくて欲しくて堪らなくなる!
まさにこの物語のような…
ただ、紫の気持ちが「推測」しか出来なかったのが悔しい、私みたいなのはちゃんと掴めないとすぐ欲しくなるから… まあ、その正体不明な感じも紫らしさなのかもしれないけど、もっと紫を知りたかった…ってこれは私のエゴか(笑)
ただ一つだけ言えることはとても、とても素晴らしかったです。
こんな言葉で表現するのは失礼極まりないですが、私の頭ではこの言葉しか浮かびませんでした。
蓮子の狂おしい程のメリーへの感情がが画面越し、ましてや、文字だけにもかかわらずひしひしと伝わってきました。
それに狂気の描写がとても巧みで、読んでいる私も脳髄が焼かれるような・・・なんでしょう、貴方の小説のセカイに取り込まれてしまったような感じがして、時間すらも忘れて読み込んでしまいました。
最後に、ここまで素晴らしい作品を私に見せてくれた作者さんに、私が出来うる限りの最大限の感謝を。
その描写があまりにも濃密すぎてちょっと疲れちゃったのでこの点数で。
必要以上の描写は無いとは思うのですけれど、ごめんなさい。ありがとうございます。
ちゅっちゅ物や日常物しかSSと認めない訳じゃない。こんな考え方も有りだと思う。しかし、ただ、だらだらとリスカシーンやえっちぃシーンを書きたいのなら、他でやってくれ。
つまり、アレなシーン長すぎ。
この一文を注意書きとして書いておいてほしかったです。
性的行為が主の話でないとはいえ、ここは全年齢対象なのですから。
閉鎖病棟というより開放病棟のようですね。出入り口が封鎖されてる開放病棟。
夜空氏は精神科にマイナスイメージがあるのでしょうか。
いろいろといちゃもん付けたくなりましたw 小説だからといわれたらそれまでですが。
リスカやオーバードーズの多幸感、その後に襲ってくる強烈な自己嫌悪。
結局死ぬ勇気もないくせに、可哀想な自分を演じて慰めて欲しいだけのくせに。
眠剤をガブ飲みして碌に食事も取らず夢の世界へ逃避。
分かりすぎて辛かった。
言い方は悪いけど、まさかこんな場所でこれ程のレベルのモノにあえるなんて夢にも思わなかった。
自分の傷を抉り出されてるようで何度も何度も中断したけど、読み切る以外選択肢はなかった。
最期の最期で二人が救われたことで自分も赦されたと感じて涙が流れた。
本当にこんな場所でこんな作品にあえるなんて思わなかった。
この作品は余りにも内面に踏み込みすぎているし、余りにも適格過ぎる。
これが私小説でないとしたら、作者さんの想像力と才能に戦慄を覚える。
すぐに文壇にデビューしたらいい。
ただ、果たしてこの作品の価値が誰にでも理解できるとは思えない。
デパスやウィトゲンシュタイン、ok computerなんて言っちゃ悪いがかなり病んでる人間にしか縁のないタームだろうし、人生を謳歌している人達してる人達にとってはそもそもジサツ衝動、援助交際、DVなんて文字面以上には
決して理解できないだろうから。
ただそれらが理解できてしまう人達にとってこの物語は間違いなく純愛小説だし、人生賛歌なんだろうと思う。
100点どころか1000点でも足りないくらい。
もし単行本になっていたのなら何度も読み返す一冊になっていると思う。
もっと書きたいことはあるけど、これ以上どう書けば良いかわからない。
ただ一つ言えることは自分は間違いなくこの作品で救われた。
全てがというわけではないけれど、確実に少し軽くなった。
こんなことこんな場所で書いて馬鹿みたいだと思われるかも知れないけれど、
それくらい自分は今興奮してる。
この作品との出逢いをただただ感謝したい。
有難う。
少なくとも、そこらのキャラをひたすら愛でるような作品などとは比べ物にならないぐらい。
もちろん、キャラを愛でる作品が悪い訳ではないですが、こういう作品をキャラが可哀想という理由で批判するのもわからない。
メモ帳に保存してしまうぐらいいい作品だと思う。
しかし、入院したあたりからリアリティが消えました。精神科病棟も保護室も私が体験した物とあまりにかけ離れていて、蓮子が私から離れて行く寂しさを感じました。
読中、ずっと私は蓮子に話しかけていました。蓮子に会いたいと強く思いました。
また、こういう感性は平凡なんだよなーという覚めた自分もそこに居ます。
理解者、反論者、この物語に触れた全ての人が没個性を認めたく無い自称狂人蓮子。
周り全ての人が異常で、異常を自称する蓮子と読者の全てが正常なんだと思います。
私も精神世界に踏み込んだ物を書こう書こうと思ってばかりいるのですが、どうも自伝に
なってしまって嫌です。この世界感を創作として保ち続ける作者さんの精神力に脱帽しました。作者さんはどういう人なのでしょうか。経験状、狂気を扱う人ほど精神状態って安定してるんだろうなと思ってます。狂気を創作表現する事によって、つらさが昇華して美しい遠くの世界へ行ってしまうんでしょうね。どうなんでしょうか。私の思い込みでしょうか。
実際こういう物を書くとはどういう感覚なのか教えて欲しいです。
誰が何と言おうと作者さんは天才です。100点じゃ足りません。
きっとこの作品における(主に前半の)彼女は、一般人・平均的な社会から逸脱したのではなく、同じ物差しの上の限りなく端に位置しているのかもしれません。
それを結果的に逸脱と捉えるかどうかは完全に読者に委ねられてるのかもしれないと読み進めましたが、所々の吐露を見るに彼女もやはり自分がくだらないと切り捨てた人間と同じ線上にいるのを自覚している節があると感じ取れます。
怨嗟、怨恨、妬み、嫉み、といった感情とは当たり前の精神活動で、狂気とは一線を画しているもので。
その対象が形の無い社会や世界や人類全体ともなれば、それは属せない自分に対しての感情も内包しているのではないか。
そう考えるとあらゆる罵倒で世を呪いながらも結局傷つけているのは自分自身だけで、どんどん深みにはまてしまう彼女の行動様式にも納得できます。
どこまでも人間、狂気じゃない、自己の救いより現実をビルから叩きつける道を選んだのは、諦観か神様への挑発か。
いずれにせよ失敗に終わってしまった以上、メリーと一緒にささやかな幸せを手にしてもらいたい。
そう悪くないかも、と彼女が考えられるようになるのが、こんな現実に対する一番の復讐かもしれません。
色々主観入り混じった憶測交えましたが、良い読後感でした。蓮メリちゅっちゅ。
私はこういう話が嫌いだ
正直気分が悪くなった
だけど最後まで読ませてくれる独特な文章はいいと思うんだぜ
自分を投影してこの「蓮子」を作ったんじゃなくって、
一から作り上げたんだったら、本当にすさまじい想像力だと思う。
自分がこんな立場だったら、とてもじゃないけどこんな文章描けないよ…
だから単純に、面白かったし、言葉のエネルギーに圧倒された。つまり、これを読んでいた数日間、ものすごい充実感を得られた。ありがとう。
正直読んでて超めんどくさいなーって思ってたけど
熱意に溢れてたんでなんだかんだで読んじゃったという
世界が幸福でありますように
言いたい事は殆ど書かれているのでこれだけで。
濃厚な百合描写、感情表現の巧みな言葉の使いまわしは他の作家には到底できない、あなただけの素晴らしいクオリティが如何なく発揮されている
それこそ作中の蓮子のような狂気を秘めて、これを世の中に出したその勇気に敬服せざるを得ない。作品としての面白さは折り紙つきだろう
これが一個の私小説ではない、独立した夜空と言う作者の思想だとしたら、我々幸せに生きるものは全員死ねと断罪されているようなものだ、この作品を認めるってことは……
上の方が書いているけれど、これは作品以上の意味が込められていて、それはこの東方創想話に対するテロリズムの意味が多分に含まれていると解釈した
うがった見方かもしれないが、あなたは最初からこれがウけると思って書いてはいないんだろう。巷に溢れる日常系が大嫌いで、この場所もそれに侵されている
ささやかな抵抗なんてあとがきの意味はささいな感情からくる苛々にすぎず、この平和に満ち足りた東方創想話にひとりぼっちの戦争を挑むってことなんだろ?
ただしそれをやるのであれば、大衆に受けるような作品をもってあなたはそのテロリズムを実行すべきだった。このSSは傑作だが絶対に万人受けしない
あなたの仕掛けたテロはまさに独りよがりでしかない。そのささやかな抵抗が消え失せるのかは分からないが、作品で己のやりたいことを語るその姿勢に心から敬意を表したい
もしこの「蓮子」という共有イメージを陵辱する行為を、作者の思想など関係なく楽しんで書いた(そしてその行為自体に共感を求めた)のなら、それもまた二次創作の一つの形だと認めつつも「気持ち悪い」と素直に言いたいと思う。
もしそうでないなら、つまり表現する上で都合の良い世界・キャラクターが欲しかったのなら、それこそこれだけの物を表出する力があるのだからオリジナルの世界観でやればよろしい。
出来云々、思想云々以前に、二次創作において踏むべき順序を履き違えてるし、借り物で書く身に必要なある種の謙虚さにも欠いている。それが全て悪いとは言わないが、少なくともこの作品はその世界観を都合良く歪めるという行為の、許されるであろう一線を明らかに逸脱している。
どっちにしても、「東方でなくて良い」という批判は浴びてしかるべきだし、それは作者や「蓮子」への共感などとは無関係に誰かが擁護出来るような代物じゃないと思う。
少なくとも作者の思想の塊などではなく「東方の二次創作」を求めて読みに来た者としては、この作品を評価する事は出来ない。何故なら作者が提示する「作者の東方」に全く共感が出来ないから。
とはいえ、作者がそんなものは求めていないというのなら、それはそれで自由だと思う。表現したい思想があって、二次創作はあくまで手段でしかなく、その結果「蓮子」や東方が見るも無残に歪んでしまっても構わないというのなら、それ自体は限り無く気持ち悪いけど否定するほどのものじゃない。
東方らしさってのは、まーないんでしょうね。この作品には。それでもメリー=紫の存在は大きな意味を持っていると思いました。これが東方でなければ、メリーは蓮子の妄想の存在になったんじゃないかなぁ、という気がします。そして、その設定は全く救いのない物語を生み出したはずです。
だから、東方であることが、この蓮子の救済になったのだとすれば、それはそれでありなのかもしれないなー、と。読んで一週間ほど経つわけですが、そんな風に自分の中ではこの物語と東方が混ざり合って消化されました。まる。
身近に自殺なさった方、または統合失調症を患った方、おります?
私にはどちらもいるのですが、彼女らの挙動、この蓮子とは全然違いましたよ
こういった掘り下げた作風であるほど、リアリティの欠如は致命的ですから頑張って頂きたいものです
これを好きとは言えないけれど90点をつけていきます。
さて内容のほうですが、
言葉では語りえないって感じですね
頭では分かっていても理解できない、したくない
ただその一方でなんとなく分かってしまう、理屈ではない事上
私はこの作品は大好きであり、大嫌いでもある
只唯一無二
私が今まで生きてきて絶対に同意せざる負えない所は
紫が自分自身の幸せの定義を述べた所かな・・・
追記、点数はつけません、私にとってこの作品は0点でもあり100点でもある
文章から伝わる熱量があからさまに違いすぎる。この作品を楽しめない人は哀れだ
理解できないからこそ幸せだとも言える。我々の生活は彼女のような人間の死体の山の上に成り立っているのだから
長いからとためらっている人もぜひ読んでみてほしい。ありのままの現実が、世界が、ここにある
携帯小説が長くなったような作品ですね
二次創作とか楽しんだ人の勝ちだと思っている私は勝ち組ですね。
東方でやる意味、ってなんでしょうか。広く取ると誰も作品を作れない、狭く取ると自分の嫌いな作品は出さないでって言ってるだけに聞こえます。
確かにこの作品は現代に対する様々な描写が多かったですが、そういう二次創作をするかしないかは個人の自由でしょう?
むしろそうやって自分の嫌いな作品、自分の考える東方でやる意味がないと思っただけで、万人に「この作品は東方でやる意味がないんだよ」といって非難して、また非難するように扇動してる風にしか見えません。東方でやる意味なんてそれこそ人それぞれでしょう。そうやって自分は正しいんですオーラを出しながら批判しないで欲しいですね。吐き気がします。
とか私が言ってる理由は、結局自分のエゴなんでしょうけれど
まぁ、確かに秘封としてどうか、と言われるとちょっと肯けないところもあります、しかし、それを抜いても一作品として様々な意味やその他諸々が詰まってます。純粋に楽しむなら、それで十分じゃありませんか。
寧ろそれで何故十分じゃないのか問いたい。
いや、結局自分が東方に何も求めていないから、なのかもしれませんね
変な話になってしまって申し訳ありませんでした。
この作品のみを自分の主観で見ると、この点数です。どうぞ
先ず性的描写があったため、そのシーンが出てくるたび「あれ?全年齢だけど大丈夫なのかな規約違反にならないのかな、せめて一言あれば」と気になってしまい集中できませんでした。
次にレム睡眠に関する認識なのですが、「Rapid Eye Movement」(急速眼球運動)レム睡眠とは脳波的に覚醒を示す睡眠なので浅い眠りに分類させると思いますが、そこが真逆なのでREMという単語が出るたびに気になりました。
あとは結構誤字脱字が多かったです。
せっかく素晴らしい想像力で本当の精神疾患者の心の中が描かれているかのようであるのに、これらの点でいちいち物語から現実に引き戻されてしまいもったいなかったです。
話的には100点ですが、そこからそれぞれ-10点してこの点数です。
ただ、似たような文の繰り返しが多かったようにも感じたのでもう少し簡潔に読みやすくしてもいい気がしました。
他にも良かった点は数多くありますが他の方々が書かれているので省略で……
全てを上手く言い表すことはできないけれど、ある種の美しさを感じる流麗な文体に驚愕しました
未だにこのフレーズをとなえる方がいる事にオドロキです。
まあ蓮子はおよそ原作の秘封からは想像もつかないようなキャラになっていますが……
それに蓮子のモノローグが大半で、分量が多い割には
物語の動きのダイナミックさが感じられなかったので、ちょっと読むのが苦痛でした。
シチュエーション的に盛り上がるところは、あっさりと描写されていて、
それほど惹かれない蓮子の心情描写はたっぷり、という感じでした。
『援助交際』は、守矢の幻想郷入りという軸と、早苗、紫、二神のそれぞれの
キャラの動きが上手くからまり、メリハリがあってとてもよかったのですが。
でもこのSSにもちゃんと東方二次創作としての定番な、
『紫とメリーの関係性』、『蓮子とメリーの悲劇的な物語』
があります。個人的にはこれは大好物なので、少々毛色が変わっていますが
こういうSSもどんどん投稿されると嬉しいです。
褒め言葉としての賛辞です。あなたのオリジナル作品が読みたい
これだけの物語を紡げるのだから、素晴らしいものが書けるはずです
とても素晴らしかった!
でも最後の『実はメリーじゃなかったよ』展開が出来すぎというか都合良すぎで不自然に感じました
私は『死んだのはメリー』の方が好みでしたね
『東方でやる意味あるの?』については作者様が蓮子とメリーにそのようなイメージを持っているなら良いと思います
キャラをどう捉えるかは千差万別ですからね
最後に一番言いたいことを
この作品は書く場所が悪かったと言わざるをえないです
全年齢向けのクーリエには適してません
批判を受けてもしょうがない作品です
それが残念でなりません
長文失礼しました
素晴らしい作品をありがとうございます
ここまでの大作がネットで無料で読めるとは思いませんでした
蓮子の心情があまりにも共感できる部分が多すぎて怖かったです
これは単なるキチガイの物語ではなく、この社会が生きにくいと感じている人
要するに負け犬の物語だと思いました
現代社会を痛烈に皮肉りながら、それでも人生を諦めきれない彼女の生き様が心に響きすぎて怖い
こうして救われるなら、自分もこうなってみたいと思えるほどに……
東方の二次創作として存在することがもったいないですね
これからも夜空さんらしくを貫いてやってもらいたい
こんなオリジナリティあふれる作品がもっとあればいいのになと感じます
ただ、少なくとも自分にとっては圧倒的にリアルでした。この作品における蓮子の心情は察するだけで心が痛くなります
自殺することが逃避だと、生温い思想だと誰が言えるのでしょうか
それこそパソコンの電源off機能のように死ねたらどんなに楽なことか
死を幸せだと考えざるを得ない境遇に陥っている人間が多数いる現実を肯定してくれる今作は間違いなく救いでした
唯一気になったのは、最後わざとハッピーエンドっぽく装っているだけで、実はこれ現実と言う名の悪夢を延々と見続けさせる最悪の終わり方だと思いました
それでも生きなければならない理由を、それこそこの作品が作者の思想だとしたら、作者が生きる理由をきちんと明示してほしかったです
このラストシーンは現実は悪夢だといいながら、現実で生きることを選択させている。それが自殺の幸せを延々と説いた理由と絡み合っていないような気がします
命削ってここまての文章を仕上げた貴女に畏怖すら覚えてしまいます
貴方に心からの賞賛を送ります
あなたの書く文字の使い方が上手すぎて、作品に引き込まれるこの感覚がたまらなくなりました。
最後の方は、私のすきな人と重なりあって、その人をより深く想うことが出来た気がする。勝手ですけど、感謝の一言です。
私なら、100ページでも200ページでも読んじゃうかな。
本になったら、私の愛読書にしたい。
これが単なる中二病だと切り捨てる人もいるだろう
蓮子(作者)は本気で死にたいなんて思ってないと考える人もいるだろう
僕たちの日常は、この東方創想話で描かれるキャラクターたちのように、幸せに溢れているだろうか?
そんな話は飽き飽きだ。ただキャラが可愛くて「いい話」なんて感情移入できないフィクションを、僕は望んでいない
人も、そして妖怪も、絶望を抱えていないはずがない。それを吐き出すことは禁忌なのか。ここでは認められないのか。
作者は誰も彼も、幸せな話を書こうとする。その思考が、わからない。
安穏なハッピーエンドを望む人は、そもそもこんな作品は読まないんだろう。
だからこそ、長いとか言わず、踏み込んで欲しい。この作品が描くリアルな現実と、この東方創想話の読者が見る虚構の現実を……
長文失礼しました。
HappyなのかBetterなのかはたまたBadなのか…読み終わって考えても分かりません
私は思考は自己完結で終える人で、文に現わすのは苦手なので語り(れ)ませんが。
あと私がするべき事は、速やかにこの作品をブックマークして内容を表層意識から葬り去ることですね。
ヒントを頂いた感謝と800kbを超す大作を書き上げたことに敬意を表して。
お前ん中ではな
愛してる、でも、そして、だからこそ迷惑をかけたくない、そういう二人の感情は同じはずであるのに
すれ違ってしまう様は、とても真面目な少女らしい感性です。
二人の出会いを最初に紫が仕組み、最後も紫が仕組んだことを考えると、閉鎖病棟内での彼女のアレは、本当に衝動的なものだったのだろうと思われました。
ゆかりんまじカワイソス。蓮子ちゃん天然傾国外道。でも走る少女にそんな批判は当たりませんね。
本当に素晴らしかったです。
1章2章とハラハラしながら読んだのですが、3章のゆかりん24時間全人教育ちゅっちゅはすごかった! ここだけはラスト除いてニヤニヤが止まりませんでした
いやー、もうこの話の腰を骨折させちゃうかもしれませんが、閉鎖病棟でゆかりんにちゅっちゅされて眠れない!眠りにくい! そういう紫ルートも読みたくなってしまいましたね! 身も蓋もなくなっちゃうのでアレですが!
しかし、ちゅっちゅちゅっちゅ、もう耽溺しちゃいましたね! 蓮子の吐息でメリーの
気管がやばいですね! 最高です!最高です!
ありとあらゆる物語の結末に見えた現実は、ただ悲惨でしかなかった
どう考えても作者の主観が入らざるを得ない役回りを、これだけの容量で演じたのだから凄い
うみ○このような解答編がどうしても欲しくなるのは読者の我侭なんでしょうね
作中の彼女とあなたもすでに判っているはずだ。現実とはくそったれだ
だからこそ、答えが提示されてほしかった。鬼気迫る描写がとにかくすばらしいですね
「現実は、生きることは、そんな甘いもんじゃないんだ」と最後の答えを出した蓮子に叩きつけたい。
この終わり方は救いではないのだと感じています。むしろその逆だと信じてやみません。
だけど、クスリに苦しめられ、レイプに苦しめられ、挙句の果てに死ぬことさえ許されない。
蓮子の答えはそんな苛烈な現実をくぐり抜けた末のものだということも、読んだら自然とわかってしまう。
クソみたいな現実を暴いて、だけどメリーを愛し、メリーに愛され、最後はそこで生きると決意した。
でも、やっぱり現実はクソのまんまだって……。
そんな蓮子の甘っちょろい思考があって気分がよくなくて、0点かもなあ、と考えていたのですが。
でも、私がこの話でずーっと悩まされたのは、その甘さゆえなのだと今では言えます。
裏返して言えば、その甘さがなかったら、ただのいい話になったのでしょう。
そうしたら自分の記憶にもそんなに残らなかったんだろうなあとも思うのです。
この甘っちょろさが、一番好きです。
それを抱えるのが生きるってことなのかなあって、そう思います。
ちゆり先生が「B&W」指標を出して、蓮子はゼロがいいなんてチラって言ってました。
だけど、私はこの話でけっこう気分悪くしたし、感銘も受けた。
読んでいる間は0と-10を上下してました。だから、この作品が大好きなのです。
この作品の蓮子には生き抜いてほしい。ジサツよりもえげつない現実の中で。
そうすれば、きっとこの長文コメントを書いた意義もあるんだろうなあ。
それがこの評価をつけた私の答えです。
今までも自分を散々苦しめて、これからも苦しめ続けるであろうこの作品に感謝を。
読むのに体力を使いましたが、それ相応の価値はありました。
蓮メリに幸あれ。
鋭い言葉でえぐられた心情がぐさりと突き刺さりました
二人の未来に幸あらんことを……
壮絶な物語で素晴らしかったです
人生について考えてみたくて、あと秘封のちゅっちゅ見たくて読破しました
何かの足しにさせてもらいます
おもしろかった
なんだかとても泣きたくなってしまいました。この二人のように生きていけたらなと思ってやみません
それはひょっとしたら甘えなのかもしれませんが…
ありがとうございました
追記、簡易評価してしまったので無評価となっております
登場人物のイメージ(主に蓮子)に関しては、多少のギャップはあったものの
何かに依存する、何かに狂うまでの経緯も背景も秀逸でした。
読者層を選ぶ作品かもしれませんが、個人的には最高。
私的にはなかなか面白い話でした。理解は出来ませんでしたが。
ちょっと長すぎて疲れるので90点です。
あと一言、僕も素晴らしき日々大好きです。
東方でやる意味がないと言われていますが、もちろんこの言葉自体が馬鹿らしいのですが、この作品は東方でなければこの味は出ないですよ。
夢と現を行ったり来たりの秘封倶楽部らしく地に足つけてない幻覚と現実の攻めぎあいが素敵でした。