背の高い竹の群れを、吹き抜けるように歩む姿があった。
ゆるやかに、しかし滞ることはなく。
流れる髪は木漏れ日を受け、黒から金に周囲を彩る。
「どこか、懐かしい感じがしますね」
視線の先に建物の陰を捉え、はじめて足が止まる。
思わず漏れたのは独り言で、しかし答えるように声があった。
「迷っているの?」
いつのまにか正面にいた誰かが、小首を傾げている。
艶のある黒髪と、淡い赤の着物。瞳の光は、月を幻視させる。
「あら、こんにちは。あなたは竹の花の妖怪?」
「それは褒め言葉かしら」
相手は口許を袖で隠し、問いかけるように笑う。
妖怪と称されることにどう反応するか、探ろうとしたことまでバレているらしい。
「失礼しました、永遠亭の主。私の名は白蓮、仏の教えを広めにきました」
「そう。迷っていたわけではないのね、道に」
刺すような視線に、僅かに目を伏せ、頷く。
そう、足が止まったのは道の故ではない。踏み込むことに躊躇ったのだ。
しかし顔を上げ、言わねばならない。
「えぇ。しかし、迷っても良いのです。迷い、その中で道を見つけることに意味がある」
「説教くさいわね。神も仏もうちには不要よ」
「どうしてです?」
竹の花は、悪びれることもなくこう告げた。
「わたしがいるもの」
――南無千――
「話を聞くだけでもなりませんか?」
「あるイナバのせいでね、その言葉は信じないことにしているの」
「身内すら信じられないとは、悲しいことです」
「まったくね。まぁ、それでいいなら止めないわ」
そんなやり取りを経て、屋敷に着いた。
案内されるままに長い廊下を歩いて行く。
と、先を行く彼女がつと振り返り、
「お茶くらいは出しましょう。ただし、」
指を立て真顔で告げられたのは、
「イナバは食べさせないわよ」
「食べません!」
思わず声を上げてしまった。自制、自制。静まれ私。穏やかであれ。
息を整えているうちに縁側に着き、並び腰を下ろす。
既に用意されていたお茶をいただき、息をつく。
「でも、寺の人間は兎を鳥だと思っているんでしょう?」
「それは作り話です……」
「そうなの。良かったわねイナバ」
言葉に応じるように、物陰のそこかしこから兎が顔を出す。
その表情には安堵が見え、私は落ち込む。額に手を当て、
「私はそんな風に見えましたか」
「いえ、そう言って回っているイナバがいたからね」
「先ほどは身内でも信じないと聞いたような憶えがありますが」
一瞬、相手の目が泳いだ。
「そういえばそうね。身内びいきというものかしら」
「まぁ、あやしいと思っても信じてしまうものですからね」
きっかけは、自分でも何気ない一言。
思い出が浮かび、思考は沈んでいく。
こぼした言葉は、
「私も経験があります。信じると言って期待したり、裏切られたり」
千年前。なぜと問い、嘆く声。人も妖も、皆が不幸になった。それは、
「裏切ってしまったのは、私の方かもしれませんが」
人をだまし、妖を守れず。本意ではなくとも、それが結果だ。
下を向いてしまいそうで、目を閉じ笑ってみせる。
「こんな有様では、人に説くことはできませんね」
「説教よりもそちらの方が聞きたいわね」
瞬きし、相手を見る。
彼女はこちらではなく、どこかを見遣るようにして続ける。
「わたしもあるわ。良かれと思ってやったつもりが、裏目になり連鎖していく。
そんなあれこれを経て今なのだから、結果的には良かったけれどね」
「そうですね。私も後悔はない、仲間に恵まれたからですね」
「そう。わたしもこちらでは良い人に拾われたわ。
地上も悪くないと思えたのは、その人たちのおかげね」
眉を下げた相手の視線の先、庭には兎たちがいる。跳ね遊ぶその姿には笑顔があり、
「あなたに拾われた子らも、きっと同じことを言いますね」
今度は相手が目を丸くする番だ。
憮然とした表情で茶に手を伸ばす様子に、私も頬が緩む。
膨れっ面でもどこか品のある所作を眺めていたところ、はたと彼女の動きが止まった。
「そうよ、ただで帰すのも癪だし、あなた働いていきなさい」
「はい?」
「寺の人間は経を上げるものなんでしょう?」
彼女は悪巧みをしていますと書いた顔で、庭へと降りる。
そのまま土を踏む音を残し、進んで行く。
意図を図りかねるが、私もその後に続いた。
「ここ」
「これは――」
竹がまばらになり、少し開けた空間。
その中央に、童の背ほどの岩が一つあった。
そこだけ草も生えておらず、手入れされていることがわかる。
「ただの岩よ」
「そうですか」
肩の力が抜ける。
半目になるのを感じながら、相手を向く。
「地上のやり方で供養してほしい」
「準備もありませんし、私で良いのですか?」
「宗派やら思想やらは知らないし、細かい作法もいいわ。わたしが満足できれば」
彼女はぶっきらぼうに言い放ちながら、ただの岩へと穏やかな視線を向けていた。
私は問う言葉を捜し、見つけられずに口を閉じる。
笹の葉の陰が揺れ、どこかで鳥の羽音がした。
雲が通ったか、日の光が途切れ、束の間おいてまた照らしていく。
落ち葉の合間、蟻が列をなして歩いている。
「わかりました、私は私で唱えることにします。それでもよければ」
彼女は一つ頷き、目を閉じ手を合わせた。
そう、細かいこといいのだ。
大事なことは、自分がどう思うかである。
私も目を閉じ、深く息を吐く。
ここか、あるいはどこかで眠る誰か。
どんな生涯を送り、どんな最期を迎えたのか、私は知りません。
けれど、今、あなたを思う人がここにいます。
あなたがなにかを残した人が。
望んだとおりにはならなくとも、悪いことだけではない。
願いが叶わずとも、無駄ではない。
思い半ばで終わった生も、きっと。
そうでしょう、命蓮。
私を救ったあなたは、何を想っていましたか。
今の私を見て、何と言いますか。
今さら、と怒るかもしれない。
それでも、千年遅れても、届くと信じます。
竹林から射す光は朱を含み、雲の陰影を濃くしていく。
通る風に葉が揺れ、虫が鳴いている。
炊いた米の匂いが僅かにする。
私は。
私を助けてくれた者達に、何ができているか。
「ありがとう。いい声だったわ。眠ってしまいそうなくらい」
「仏は、信じていないのですよね?」
「そうよ、わたしはね」
彼女はすっきりした顔で、伸びをしている。
私もつられて腕を伸ばし、息を止め、吐く。少し心が晴れたのを感じた。それは、
「不思議だったんです。あなた達は妖の子らと暮らしながら、里の人間に薬も作っている」
「私も疑問だったわ。人にも妖怪にも教える寺があるって」
目が合い、笑みがこぼれる。
「話をして、なんとなく分かりました」
「そうね、自分でもなんとなくだからね」
吹き出しそうになるのを堪え、向き直る。
「そろそろお暇します」
「あら、もう?」
「はい、お邪魔しました」
皆の顔を見たくなった。
急げば日が暮れる前には帰れるだろう。
「また来ても構いませんか?」
「お断りよ」
「そう、ですか」
仕方ない、との思いもある。ここで私にできることはない。それはわかった。
顎を引き、踵を返したところで声がかけられた。
「勧誘は、ね。遊びに来るのなら歓迎するわ」
振り返り、目を合わせる。
からかうような視線に、軽く頷く。
「ありがとう」
一礼し、空へと上がる。
彼方の稜線は夕日に焼かれ、赤から紺への二色が混ざる。
欠けた月は、夜を待たずに浮いている。
それは千年の前と変わらず。
人も変わらず、私もまた変わってはいないのだろう。
そして、変わらず待っていてくれた者たち。
――さぁ、急いで帰りましょう。思いっきりの、全速で。
いい話でした。
これはありですな
雰囲気が良く読みやすかったです
鳥の羽音、虫の音、白蓮の読経。
色々な音が聞こえてくるのだけど、それが却って『ただの岩』の周りを支配する静寂を強調しているようで良い感じ。
白蓮や輝夜の心象風景もこの作品のように穏やかなものであるならば、
なんか嬉しい気持ちになりますね。うん、そうだといいな。
今までずっとあくびれるだと思っておりました、ご指摘ありがとうございます。
良い話でした
そして人妖の距離が近くなった現在に戻ってきた経緯がありますね。
そんな二人の会話をもっと見てみたいと思いました。
コメントありがとうございます。簡単ですが返答を。
>珍しい組み合わせ
あまり見ないので自分で書いてみました。
興味の湧いた方も書いていただけると嬉しいです。
>コチドリ様
白蓮も輝夜も穏やかそうな感じがしますよね。
自分にとって大事なものが分かっているゆえに揺らがない、というイメージです。
そのせいで特に何事も起こらないやり取りになりました……
>7/31の名前が無い方
二人の過去は似たところもありますよね。何かを願い、上手くは行かず、今に至る。
道は違うけれど、互いに認めている、そんな関係かなと思いました。