Coolier - 新生・東方創想話

ウェンディゴの悪魔のパラドックス

2011/07/26 10:30:18
最終更新
サイズ
36.3KB
ページ数
1
閲覧数
3204
評価数
29/82
POINT
5280
Rate
12.78

分類タグ


――0――



 貴女と出逢えて幸福でした。
 信じて貰えないかも知れないけれど。

 貴女と出逢えて幸福でした。
 本当に、本当に、幸せでした。

 貴女と出逢えて、幸福でした。
 できることなら、叶うことなら、望んでも許されるのなら。



 もう一度、貴女に逢いたい。
















ウェンディゴの悪魔のパラドックス
















――Ⅰ――



 もう何十年も昔のジャズ・フュージョンが、ほの暗い店内に響く。
 私の通う大学校内のカフェテリアは、少女チックな商品をメニューに並べる割りに、シックでレトロな雰囲気を醸し出していた。
 一昔前とは比べものにならないほど精度の良いオーディオは、生で聞く演奏よりもずっと音が良い。

 もっともその“一昔前”を、私は聞いた事がないのだけれど。

「結界よ」

 京都の大学に通う私は、奇妙な親友と二人で、霊能活動サークルに所属していた。
 といっても二人だけのサークルで、かつまともな活動なんかしていない――なんて、周囲から言われているのだけど。

「そう、また?」

 なんて肩を竦めて見せたのは、金の髪の少女――メリーだった。
 私こと宇佐見蓮子とメリーのたった二人のサークル、それが“秘封倶楽部”だ。

 その活動内容は、単純明快。

「そう、またよ!」

 ……禁止されている境界の綻びを見つけて、幻想を垣間見る。
 たったそれだけにしてそれが至高の活動、なんて言ってしまうのは、ちょーっと自分に酔っているのかとも思えなくもない。

「面白おかしいのかしら?」
「つまらないことに誘うはずがないでしょ」
「そこに関しては信用しているわ」

 メリーは紅茶を一杯飲むと、唇をぺろりと舐め取った。
 赤い舌が、朱い唇を滑らかに這う。こんな艶然とした仕草を普通にやってのけるのだから、メリーは油断ならないのだ。

「油断ならないのだ」
「急に何よ?油を切らせて罰せられたの?」
「メリーよ」
「私はそんな迂闊なことはしないわ」

 メリーはそう零すと、紅茶のカップを置いて、テーブルを指でとんとんと叩く。
 それから私を見て、チャシャ猫のように笑った。

「蓮子は、油を断ちそうね。満たされるのはつまらないでしょう?」

 うぐ、メリーは本当に、私を真っ直ぐ見抜いてくる。
 メリーと一緒に満たされるのならまだしも、一人で満足するような世界に居たくはない。
 結局そこに娯楽はないのだ。世界が娯楽を娯楽として受け入れさせないほどに、満ちているから。

「私はいつも充ち満ちているわよ。元気で」
「ふふ、見れば解るわ」
「分かるまで見ないでよ」
「判るまでは見るわ」

 メリーはそこで、話がずれていることに気がついたのだろう。
 再び、机を指でとんとんと叩いた。考えを巡らせているときの、彼女の癖だ。

「その癖は良くないよ。爪が傷つくわ」

 ピンク色の貝殻みたいな、小ぶりで綺麗な爪。
 その爪でテーブルでもどこでも叩くから、見ていてはらはらしてしまう。

「あらごめんなさい、っていうか、蓮子ったらお母さんみたい」
「お母さんは無理だけど、お姉さんで妥協してあげる」
「あらごめんなさい、っていうか、蓮子ったら私の妹みたい」
「待って、今なんで繰り返し……って、内容が変わっているわよ」

 茶化しながらも、メリーは叩くのをやめる。

「こんなこと注意してくるの、あなただけよ?」
「はいはい、それはいいから」

 そうしてから改めて、私を見て目を眇めた。
 海淵から仄かに光る青い瞳が細められると、どうにも惹かれてしまうのだ。
 覗き込みたくて、たまらなくなってしまう。

「それで?活動内容は?」
「……鏡よ」

 だから私も、思わず矯めてしまう。
 彼女に相応し反応し対応し協調し。
 鏡のようにそっくりな笑みを作る。

「使われなくなった廃病院。そこで、深夜の零時に合わせ鏡を覗き込むの」
「零時は本当に深夜なのかしら?リセットするのなら、早朝かも知れないわ」
「朝焼けがない早朝なんて、星の見えない宇宙のようなものよ」
「それはどうなのかしら?」

 完全に管理化された世界にあって、廃病院なんてものはそうそう生まれない。
 けれど、それでも直ぐに片付けられることはないという矛盾は、世界に満ちる霊脈に答えがある。
 少なくとも、私はそう信じていた。その方が遙かに楽しそうだからだ。

「化け物を徹底解剖なんて、そそるとは思わない?」
「物事の理を根掘り葉掘り調べるのね。蓮子って、昔の物理学者みたいね」
「窮理学者と呼ばれるのは嫌いじゃないけれど、格物致知に至るのは、今の学者も変わらないわよ」

 そこまで口早に告げ、それからぱちりとウィンクをするメリー。
 青い瞳を瞬かせるものだから、一瞬、空が弾けたのかとさえ思った。

「でも、私も、それには同意だわ」
「ふふ、そう来ると思っていたわ、メリー!」

 結局私とメリーは、似た者同士。
 猫を殺すほどの好奇心を、好奇心で超越する。
 面白いことを一緒に居て楽しむことが出来る。
 それがなにより嬉しくて、だから手を取り合って歩く。

「さぁ、行きましょう!メリー!」
「今日?性急ね」
「今日じゃないわ、明日よ」
「明日?どのみち性急ね。行くけど」

 学生カードで支払いを済ませて、並んで歩いて行く。
 別にそう遠い場所でもないのだし、明日もこうして、並んで歩けばいい。

 私はそう胸の内側に熱を灯して、メリーと二人、帰路に立った。





 ――後にして思えば、これが最後であったのだろう。
 ――メリーと二人、気兼ねなく日常を謳歌する。
 ――そんな幸福な日々の、終焉の始まり。
















――Ⅱ――



 大学から徒歩十五分程度の場所。
 閑静な住宅街を抜けた先に、その建物は突然現れる。
 廃病院といっても、それほど時間が経ったものでは無い。
 だから、ただ電灯が消えただけの、普通の病院に見えなくもなかった。

「ここね、蓮子」
「そう!ここよ」

 星を見て、時刻は深夜十一時五十分。
 月を見て、場所は京都府内××病院。
 隣を見て、唇に笑みを滲ませる友達。
 前を見て、これから挑む神秘の境界。

「さ、吶喊よ!」
「あんまり騒がないで蓮子。通報されるわよ」
「そんなヘマしないわよ」

 高揚する心、跳ね上がる心臓、熱を宿す心情。
 私はメリーの手を掴むと、そのまま前進する。

 階段を登り、廊下を進み、問題の場所まで歩いて行く。

「鏡、鏡ねぇ」
「合わせ鏡の怪談とか、昔からあるよね。メリー」
「そうね。自分の未来の姿を写すとか、鏡の中に引きずり込む悪魔が居るとか」
「紫鏡は?二十歳まで覚えていると死ぬっていう。死んだ人、聞いた事ないけど」
「なんで鏡に関係しているのかしら?むらさきかがみ、なんて回文でもないわ」

 鏡にまつわる伝承は、けっこう多い。
 ナルキッソスが恋をした水面だって、自分を映し込んだ鏡だ。
 三代神器にだって鏡はあるし、神社のご神体だって鏡だ。

「鏡は古来より死者の受け皿や“こちら”と“あちら”の道として機能しているわ」
「病院だし、誰かの魂が吸われて、その場所を“あちら”と仮定しているというこね」

 メリーと鏡についての考察で、討論する。
 すると、そんなに時間は経っていないはずなのに、いつの間にか問題の部屋の前まで来ていた。
 なんの変哲もない病室、それも不吉な番号でもない。ただの、病室。
 ここだけが何故だか、合わせ鏡になるように鏡が配置されている。
 ネットの口コミで話題になり、直ぐに鎮火してしまった“合わせ鏡の怪談”が、ここにあった。

「この中に、悪魔が現れるのね?」
「悪魔とは限らないわ。妖怪かも」
「悪魔も妖怪だわ。妖しく怪しいもの」

 暗い病室、埃が舞い上がり、こほんと咳き込む。
 懐中電灯で照らした部屋にあるのは、シーツの剥ぎ取られたベッドと……合わせ鏡。
 ベッドの枕元と足下の壁に埋め込まれた、妙な鏡だった。

「鏡自体は設計ミス。取りつぶしが決まらなければ、どちらかは外されるはずだった」
「直ぐに外されなかったのは?」

 メリーの目が、好奇に光る。
 そう、そこだ、私がもっとも興味を惹かれた話は。

「――入院患者が口を揃えて、“外してはならない”と懇願するから、よ。メリー」
「外したくない、ではなく、外してはならない、ねぇ」
「妖しいでしょ?」
「怪しいわね」

 取り外されたカーテンの向こう側から、黒の天蓋に煌めく星が見えた。
 時刻は深夜十一時五十八分三十八秒。うん、上等。

「さ、もうすぐよ!メリー」
「やだわ、どきどきしてきちゃった」
「奇遇ね、私もよ」

 メリーと二人、手を握り合って、鏡の前に立つ。
 私とメリーが永遠に並び続ける、鏡と闇と光の無限回廊。
 夢や幻かと思うほど儚いのに、消え失せることのない夢幻。

「十、九、八、七、六」
「五、四、三、二、一」

 メリーと二人で、口ずさむ。
 小鳥が歌うように、ゆっくりと、ゆっくりと。
 そうして、ついに――。

『零っ』

 一緒に告げて、一緒に目を瞑り、一緒に瞳を開く。
 そうして見た先には――何も変わらない、光景があった。

「ちょっと蓮子、なにも映らないわ」
「そうねメリー、不良合わせ鏡かしら」

 鏡の中に映る私たちは、変わらず手を繋いでいる。
 そこに変化はなく、当然おかしな所も――。

「蓮子、十三番目……移っているわ」
「は?」

 厳しい瞳のメリーに言われて、鏡を覗く。
 私たちを映す鏡たち、その奥行き十三番目。
 そこに映るのは――私たちの立ち位置が、“左右交換”された姿だった。

「当たり?」
「当たりね」
「境界は?」
「あるわよ」

 メリーが、私の手を強く握る。
 私も、それを返して強く握る。

 それから、二人同時に踵を返した。

「逃げるわよ!メリー!」
「ええ、そうね!合わせ鏡を行った後でしか出現しない境界なんて、ね」
「合わせ鏡の魔力ね。なるほど!」

 足を縺れさせないように、ただひたすら走る。
 走る前に見た最後の光景は…………七番目が交換された私たちの姿だった。

 走って、走って、走って。

 途中で鏡の側を通る度に、私たちが近づいてくる。
 重なっている内は、その顔を見ることは出来ない。
 けれど、もし一番前に来たら?そこには、何が待っているのか。

「蓮子不味いわ、対象は鏡だけじゃないみたい」
「へ?……もしかして、ガラスも!?」

 横目で見た、廊下の窓ガラス。
 前後と入れ替わるように侵食していく、私たちの姿。

 六番目、五番目、四番目。
 これはなんだか、絶対良くない!

 階段を下りて、三番目を見て。
 息を荒くしながら一階の廊下を駆け、二番目を見て。
 最後の出口で、私たちは足を止めた。

「ぁ」

 止められた自動ドア。
 そこに映る、私とメリー。
 ただその立ち位置は真逆になっていて――。


 のっぺらぼうな顔が、ぐにゃりと歪んだ。


 ガラスから、異界の住人が一歩踏み出る。
 私たちと自分の位置を入れ替えようと、一歩一歩と進む。
 その姿に、どこか生物としての根源的な恐怖を感じて、私は声も出なくなる。

「ぁ、ぇ」

 尻すぼみに消えていく自分の声。
 ただ周囲にあの化け物/自分以外の姿は見えなく/見えて/なのにどうしたらいいのかわからなくて。

「蓮子っ!」
――パンッ
「ぁ」

 その声と。
 頬を叩く音で。
 目が……醒めた。

「逃げるわよ!」
「う、うんっ!でも、逃げるってどこへ!?」
「ガラス……鏡よ!」
「はぁ?!」

 ぺたり、ぺたり、ぺたり。
 私たちの姿をした妖怪が、近づいてくる。
 そんな状況下で、メリーは、不敵に笑って見せた。

「着いてきなさい、蓮子」
「あーもー、任せたわ!メリー!」

 そんな顔で、言われたら。
 そんな顔で、笑われたら。
 もう何も、言えなくなる。

 走って、走って、走って!
 私はメリーと一緒に、鏡の世界へ飛び込んだ。

「えぇぇぇぇっ!?」
「蓮子とどうやって逃げようかって考えていたら、ね」

 メリーは、強く笑う。
 全部が全部はね除ける、強くて猛々しくて艶やかで可憐な笑みで。

「境界が、前よりもずっと多く見えるの」
「す、すごいよメリー!流石メリー、愛してるっ」
「褒め讃えなさい。行くわよ!」

 周囲全てが反転した世界。
 その世界と、そうでない世界とを、何度も何度も行き来する。
 あれよ、そう、“鏡の国のアリス”みたい!……ちょっと、違うか。

 幾つもの鏡に入り。
 幾つものガラスを飛び。
 幾つもの境界を越えていく。

 そうして、私たちは、その先に煌めく光の中へ、飛び込んだ。

「脱出っ!!」

 ミラーボールのように、世界が瞬きながら回転する。
 その先には瑠璃色が波打っていて、津波の如く押し寄せる朝焼けの紫が、私とメリーの視界を灼いた。

「よしっ」
「セーフっ、ね」

 病院の敷地から出たところへ、着地。
 勢い余って三歩ほど前に歩いて、それから振り向いた。

 病院の敷地から出ることの叶わない、謎の妖怪。
 朝焼けを見てそっと退く姿に、安堵する。
 はぁっ……一時はどうなることかと。

「それにしてもすごかったわね、メリー……メリー?」

 メリーの手が、私からするりと抜ける。
 何事かと思って彼女の顔を覗き込むと、どこか陶酔した横顔が、そこにあった。

「柱の影、敷地と敷地、芝生と木々、空と地上」
「メリー、どうしたの?」
「――――世界は、こんなにも“境界”に溢れていたのね」

 その横顔が、儚くて。
 気がつけば私は、メリーの手を強く握っていた。
 今度こそ、離さないように。

「メリー?」
「ぇ……ええ、ごめんなさい」
「どうしたの?」
「ええ、そう……境界がね、前よりずっと多く見えるの。前よりずっとよ!」

 興奮した面持ちのメリーを、宥める。
 確かに前は、そこまで器用な使い方はできなかった。
 なのに、鏡と現実の境界を行ったり来たりと……なんだか、使い勝手が良くなっている?

「すごいじゃない!」
「ええそうよね!ふふ、これからはもっと色んなところへ行けるわ」
「また夢と現実の区別がつかなくなるのは、やめてよね」
「前は結局、醒めてしまったものね」

 メリーと手を取り合って、帰路につく。
 声を上げ、不安を振り切り、笑い合い、痛みを隠し。
 ただ、ただ、彼女の笑みに笑顔を返す。

 それでも。

「学校にも、知らない境界があるかも知れないわ。蓮子」
「そうね。ちょっと見に行きましょうか?」
「そうしましょう、そうしましょう。きっと――」

 それでも、私は。

「――蓮子と一緒なら、楽しいわ」

 それでも、私は、あの時の。

「ええ、そうね。メリーっ」

 仄かに輝く、メリーの瞳。
 その瞳が刹那の間に見せた、黄金。
 青かったはずの瞳孔が見せた妖しい輝き。

 それが、私の頭から――――離れて、くれなかった。
















――Ⅲ――



 あの日から、具体的にはあの日からではないけれど、やっぱりあの日から。
 あの廃病院で怪しく煌めく黄金を見てから、私の日常に変化があった。

「メリー、聞いてるの?」

 一緒に居て、新聞記事を開いて、それでもメリーは私を見てくれない。
 なんだかんだで楽しそうにして、それから一緒に笑い会えていたのに。

「ぁ、ええ、ごめんなさい。なんの話だったかしら?」
「もう!しっかりしてよね」

 曖昧に逸らされる視線。
 曖昧に閉ざされる口元。
 曖昧に行き来する意識。

 なんども開こうと、けれど閉じてしまう唇。
 それがどうにも切なくて、やりきれなかった。

「ねぇ、なにか悩みでもあるの?メリー?」

 そっと、メリーの頬に手を当てる。
 熱はないか、な?あ、こういう場合は額か。

 そう思って額に手を滑らせようとすると、メリーは私の手を掴んだ。

「メリー?」

 そして、掴んだ手を、己の口元へ――

「ちょちょちょ、ちょっとメリー!こ、心の準備とかいやそもそもそんなええっと」
「っ、ご、ごめんなさい、蓮子」

 ――持って行きかけて、止めた。
 あ、焦った。ここ最近で一番焦った!
 廃病院の時ととんとんより少し下……って、それなら一番じゃないわね。

「体調が悪いみたいだから、今日はもう帰るわ」
「送っていこうか?メリー」
「大丈夫……ええ、そう、大丈夫、だから」
「ぁ」

 ふらふらと立ち上がって、それから脱兎の如く走り去る。
 そんな一生懸命逃げなくても良いのに……ちょっと、傷つくわね。

「もう、どうしたってのよ……あれ?」

 メリーに掴まれた、手。
 そこに、赤い跡がついていた。
 痛かったかどうかなんて気にしていなかったのだけれど、けっこう力が込められていたんだろうか。

 走り去ったその先に、目を遣る。
 もう、メリーの姿は見えなかった。





 それから、私の日常は、変わった。
 この日から――――メリーが、私を避けるようになったのだから。
















――Ⅳ――



 太陽の日差しに包まれる、カフェテラス。
 その一つに腰掛けて、私は珈琲を口に運ぶ。
 この店自慢のブレンド珈琲は、しかし私の心を満たさない。

「はぁ」

 ため息ばかりが、出る。
 メリーとここの店内で別れてから、もうどれほどの時間が経ったのだろうか。
 ほんの七日か八日くらいなはずなのに、少し会えないだけで、こんなにも体感時間が狂うなんて。

 もう何年も、逢っていないような気さえする。

「はぁ」

 風邪なんかに罹ってはいなくて、通学はしている。
 普通に講義を受けていたと、彼女を受け持つ教授が言っていた。
 けれど、会えないのだ。

 学部へ行っても。
 研究室を訊ねても。
 そこら中を探し回っても。
 携帯電話にかけて、直接呼び出そうとしても。

「はぁ」

 メリーは、まるで私を避けているのかのように。
 いや実際、私を避けているのだろう――こんなにも、会うことができないのだから。

「もう、どうしちゃったのよ」

 口に出せば出すほどに、不安が募る。
 募って、重なって、連ねられて、積まれていく。

「メリー」

 どうしてだろう。
 おかしくなってしまいそうなほど……悲しく切ない。

 短い時間で、終わることかも知れない。
 ふと気がつけば、また日常が訪れることだろう。
 だからそのほんの僅かな間、メリーのことを気に留めずに過ごせばいい。

 そうすれば、苦しいことなんて何もない――
 ――けれど、だめなんだ。いつもどこかに、メリーの姿がある。


 ふと横を見れば、メリーと歩く自分の姿が見える。
 強引に引っ張っていく私に、言葉では反抗しながらも嬉しそうに笑うメリー。

 ふと首を傾げれば、木陰で並ぶメリーと私の姿が見える。
 買った古書の内容が気になって、我慢しきれず開けてしまって、そうして木陰で並んで読んだ。

 ふと目を眇めれば、メリーの姿が見える。
 紅茶、珈琲、ケーキ、パフェ、その時によって口にしているものは違う。
 けれど私の瞳に映るのは、珈琲を口に運んで苦笑する、メリーの姿だった。

『ねぇメリー、良いお酒が手に入ったの』
『またうちで酒盛り?それで、泊まっていくと』
『だって居心地が良いんだもの』
『胸を張らないでちょうだい』

 よく、メリーの家には泊まっていた。
 それなりに良いマンションの一室で、私の安いアパートメントよりも居心地は良い。

 でも、でもね、メリー。

『今日はレポートの相談に行かなければならないの』
『えー』
『だからね、蓮子。先に行って用意しておいて』

 私は、ちょっと良いマンションの居心地が良くて、通っていた訳じゃないんだよ。

『もういいから、ついでにそれ、持っていなさい?』
『合い鍵ってこと?』
『そう。どうせ止めても来るんだし――』

 私は、私はね。

『――好きなときに来て、蓮子』
「私は、メリーの側にいるのが、何よりも居心地が良かったんだ」


 目を開ける。
 そこにさっきまで優しく笑っていたメリーは居なくて。
 ただ、私の掌の中に、赤いリボンの付いた鍵だけがあった。
 カードリーダー式の方がずっと多いのに、未だにレトロな銀の鍵を使っている彼女。

 その銀色が、なにより優しい。

「こんなところで燻っているのなんて、私らしくない」

 手段があって。
 目的があって。
 理由があって。
 結果を望んで。

 それで動かないなんて、私らしくない。
 それはきっと――秘封倶楽部の宇佐見蓮子らしくない!

 鍵を手にすると、学生カードで支払いを済ませる。
 目指すべきは、メリーの自室。
 もう、避けさせたりなんかしない。

 私自身が直接聞き出してあげるから、覚悟しなさいよ?メリー!

 私はそう決意すると、大学を飛び出す。
 納得の行く答えを見つけ出して、また一緒に笑い合う為に――。
















――Ⅴ――



 京都府の駅近く。
 土地柄的には一等地と言える場所に、メリーの暮らすマンションがある。
 メリーの親が借りているというそのマンションの最上階が、彼女の部屋だ。

 音もなく登るエレベーター。
 そこに映るカレイドスクリーンには、乗る度に違う時代の京都が映る。
 最初に乗ったときは柄にもなくはしゃいで、降りる頃には流れるテロップに冷めていた。
 そんなに長い時間乗っている訳でもないのに。

 到着したという震動もなく、エレベーターが到着のベルの鳴らす。
 甲高い鈴の音を耳に留めながら、私はエレベーターから出て真っ直ぐ進んだ。

「八○七号室」

 読み上げて、それから表札を見て、久々に見るメリーの本名に苦笑する。
 マエリベリーと呼ぶのは、なんだか堅苦しくてあまり好きではなかった。
 メリーはそれを、私が発音できないだけだと思っているようなのだけれど。

 鍵を差し込み、回す。
 チャイムを鳴らしてチェーンでもかけられたら、もうどうすることもできないから。
 だから、さっさと入り込んでしまうことにした。

 カチャンと音がして、鍵が開いた。
 鍵を替えるほど嫌われてはいなかったということに、ほんの少しだけ安心する。

「メリー、いる?」

 念のため声をかけてみたけれど、部屋の中は暗かった。
 メリーはいないのだろうか?いたら、こんなに暗いはずもないか。

 電気を点けて、まっすぐと進んでいく。
 以前からあまり家具を置かないとは思っていたが、どうしてだか前よりも減っている気がした。
 余計なもの、無駄なもの、生活に必要なもの以外全て取り払われた無機質な部屋。

 リビングも。
 ダイニングも。
 何もかも、空気が違う。

「本当に、どうしちゃったのよ――っ」

 痛みを感じて、手を開く。
 強く握りすぎてしまったようだ、ははっ……情けない。

 でも、これほどまでに変化が部屋に現れているのなら――ここに、変わってしまった切っ掛けがあるのではないか?

「ごめんね、メリー」

 口に出して謝って、それから寝室に向かう。
 今までそんなこと、考えもしなかった。
 けれど、今は手段を選んではならない――そんな気がして、ならない。

 メリーは、毎日律儀に日記をつけていた。
 私を泊めても、酒盛りをして前後不覚になっても。
 それでも必ず机に向かっていた、彼女の習慣。日常の、記録。

 淡い桃色のシーツ。
 申し訳程度に飾られていたぬいぐるみは、全てなくなっていた。
 机の上に置かれていたインテリアの類ですら排除されていて、私と並んで映る写真は伏せられている。

 彼女に何が起こったのか。
 その答えはきっと――ここに。

「見るよ、メリー。後でいくらでも謝るから」

 そうして私は、日記を開いた。
 真ん中当たりから、大胆に。




 ○月●日

今日は秘封倶楽部の活動で、蓮子と一緒に廃病院へ行った。
午前零時、鏡の化け物に遭遇。
蓮子の色を失った瞳を見なければ、きっと我には帰れなかった。
あの子はもうちょっと、気をつけるべきだと思う。

けれどその後、突然境界が増えた。違う、見られる境界が増えた。
境界を渡り、鏡と現実を行き来し、蓮子と一緒に逃げた。

今これを書いている間も、正直震えが止まらない。
蓮子と一緒に色んな活動が出来る、活動範囲が広がる。
それは本当に嬉しいはずなのに、まだなにが引っかかっているのかわからない。
経過を見た方が良いだろう。なんだったら、蓮子に相談しよう。




 あの日の、日記だった。
 メリーの感じていた不安を、私は気がつけなかった。
 でも、それで避けているのなら、相談しようなんて思わないはずだ。

 とにかく先を見なければ、解らない。
 だから私は、そのままやや飛ばしてページをめくった。




 ○月×日

最近、どうにも調子が悪い。
講義に身が入らないかと問われれば、そんなことはないのだけれど。
でも、群に紛れて受講を受けるのが辛いと思うようになってきた。

蓮子に相談しないと。
でも、相談できるほど、自分の中で纏まっていない。
纏まったら、話そう。きっと。




 僅かにぶれた文字。
 きっとメリーは、震える手でこれを書いたのだろう。
 でも、私は――。

「気がつけなかった……メリーが、こんなに悩んでいたのにっ」

 唇を強く噛むと、じわりと血が滲む。
 その鉄の味が、私を否応なしに現実へ引き戻す。




 ×月●日

最近、前よりも日常が楽しいと思える。

日々充実して過ごしているからだろう。

その原因を挙げるとしたら、やはり蓮子の存在だ。

いつもありがとう、蓮子。




「あれ?」

 急に、雰囲気が変わった。
 さっきまでは心情を吐露する内容だった。
 けれどここにきて、明確な変化があった――?

「なんだろう、違う」

 メリーの字を、指でなぞる。
 そうして私は、何気なく、指を下に滑らせた。

「これ、って?」

 顔を上げ、引き出しを開け、ペンケースから鉛筆を取り出す。
 指に感じた僅かな感触。それは、きっと――。




■■、■■りも日常が楽しいと思える。
最近、自分




 鉛筆で塗りつぶすと、文字の下に薄く文字が浮かび上がった。
 これはきっと、彼女の、メリーの、心の内幕。
 文字にも出来ない、吐露してはならない感情の発露。

「っ」

 鉛筆を手に、全て塗りつぶす。
 一文字も余らすことなく、全部、全部、全部っ!




 ×月●日

■■、■■■■■■■■■■■■■■。
最近、自分のことがわからない。
■■■■■■■■■■■■■■■■■。
普通に過ごす日常で、彼女を――たいなんて、考えてしまう。
■■■■■■■■■■■■、■■■■■■■■■。
その原因は、きっと蓮子とのことだ。私は、蓮子を。
■■■■■■■■、■■。
こんなことが言いたいんじゃない。違う。ごめんね、蓮子。




 手が、震える。
 不自然な行間の空いている日記だけ、全て塗りつぶして、それを全部読んでみる。
 彼女が書くことすら出来なかった想いを。
 うち捨てられたインクのでないボールペンで書かれた、心情を、垣間見る。

 揺れ動く心に目を通し、心を観て。
 その最中で私は、ふと、目を留めた。




 ×月△日

蓮子の手を握ると、どうしようもない欲求に襲われた。
私はあの時何を考えていたのだろうか?考えるまでもない。
このまま蓮子と出逢い続けていたら、私はきっと蓮子を――てしまう。

苦しい。
苦しいよ、蓮子。
苦しくて、苦しくて、苦しくて。

早くあなたを、あなたを、食べてしまいたい。




「え?」




 ×月◇日

蓮子と会わないようにする。
もし会ったら、どうなるかわからない。
身体が作り替えられていくような気がする。
境界を見る力が強くなってから、私自身も強くなった。
スチール缶だって片手で握り潰せる。
ちょっとジャンプすれば、私の身長よりも高い塀を越えられる。
私はどうしたんだろう?境界だって、やろうと思えば、操れる。
そんなのもう、人間じゃない。きっとそれは、あの日の病院で見たような……。


 ×月✝日

苦しい、苦しい、苦しい。
どうしてこんなにも苦しい想いをしなければならないんだろう。
きっと食べてしまえばいいのに。いやだ、違う違う違う
そうじゃないの、ねぇ本当はあなたに会いたいの、どうしたらいいかわからないの
わたしはどうしたらいいの?


 ×月□日

 避けてごめんね
あなたがわたしのことをさがしてくれているの、しっているわ
だっていつも、にげているんですもの
だめね、ほんとうにだめね

くるしい、苦しい、辛いよ蓮子
蓮子に会いたい、蓮子と会って話がしたい
胸躍る冒険に出かけたい、あなたと一緒に居たい
もっともっともっともっともっと、あなたといたいの、れんこ




 静謐な水面に石を投じるように、日記がじわりと滲んだ。
 それが熱を持っていることに気がついたとき、私は初めて、自分が涙を流していることに気がついた。

「あ、れ?」

 ああ、そっか、私――泣いているんだ。

「ぁ、あああ、ぁあああああああっ」

 気がついたら、止まらなかった。
 拭っても拭っても拭っても、溢れ出る涙を止めることが出来ない。
 ただただ瞳を伝う熱を、享受することしかできなかった。

 こんなに苦しんでいたのに。
 こんなに助けを求めてくれていたのに。
 私はいつもいつも自分のことばかり考えて。

 メリーの気持ちに、気がついてあげられなかったっ。

「ごめんね、ごめんねっ、メリーっ!」

 苦しいのは、メリーの方なのに。
 私は、私は本当に、どうしようもなくばかだ。

 いつも、一緒に居たのにっ。


――かたん


 音がして、なんだか、誰だかわかった。
 彼女の家なんだから、一人しか居ないじゃないかとか、そんなんじゃなくて。

「見ちゃったのね、蓮子」

 聞き慣れた声。
 その声が震えていることに、気がついた。
 最後に綴られた日記は、塗りつぶすこともなく、たった一言書かれていた。




 ×月■日

ごめんね、蓮子。私はもうきっと、抑えられない。抑えて、しまったから。




 境界を見る程度の能力。
 その規格の違う力を、抑えたとき。
 そこにあるのはきっと、これまでとはなにもかもが違う世界だったのだろう。

「ねぇ、メリー」

 背中を見せたまま、語りかける。

「私のこと――」
「――外に出ない?屋上の鍵、“開いた”から」

 振り向くと、メリーは背を向けていた。
 それに頷き返すこともできなくて、ただ着いていく。

 部屋も。
 玄関も。
 廊下も。
 階段も。

 なにも映らず、ただ背中だけを、ぼんやりと見る。
 メリーの、親友の、背中を。

 普段閉鎖されている屋上は、壊された様子もなく鍵が開いていた。
 きっと、そういうことなんだと思う。
 メリーの力は、目だけではないということなんだと思う。

「良い空ね、蓮子」

 メリーが見上げた先には、満天の星空が広がっていた。
 尽きることのない輝き、満ち続ける煌めき、瞬く内に消える命。
 全てを内包する星々は、現在が零時前だと、私に教えてくれた。

「ねぇメリー、あなたは私のことが――」
「蓮子、だめよ、それは」
「――私のこと、“食べたい”の?」

 メリーの肩が、震える。
 何かに耐えるように、何かに縋り付くように、両手で自分の身体を抱え込んだ。
 まるで、胎児が母胎の中で、眠るように。

「そんなこと、ないわ」
「日記に書いてあった」
「覗く悪い子がいるから、悪戯よ」
「声、震えてる」
「気のせいよ、きっと」

 風が、頬を打つ。
 生ぬるい風だ。

「お願い、こっちを見て、メリー」

 一歩、近づく。
 離れてしまった距離を、縮めたかった。

「来ないで!」
「ううん、行く」
「今まで、気がつきもしなかった癖に!」
「気がついたよ、たった今」

 なんて、言い様だ。
 そうは思う、けれど。

 けれど、私はメリーを――放って置けないから。

「ねえ、こっちを見て」

 だから私は、もう一歩踏み込んだ。
 弱々しく声を荒げる事しかできない、強くて儚い彼女の下へ。

「もう二度と私の前に顔を見せないで」
「わかった。それなら見に行く」
「来ないでって言ったの!聞こえなかった?」
「きこえてるよ。メリーの心、全部」

 そうして、私は。
 私は、メリーの背中を抱き締めた。

「泣いているんだよね?泣いていたんだよね?気がつけなくって、ごめんね」
「気がついてなんて、気がついて、なんて、言ってないわ」

 後ろから頬に手を当てると、熱を感じた。
 肌はすごく冷たいのに、瞳からこぼれ落ちる雫だけは、熱かった。

 メリーは、泣いている。
 私と同じように、泣いている。
 苦しい、苦しい、苦しいって、泣いている。

 心の奥深くで、啼いているんだ。

「蓮子、ダメよ、近づいたらダメ」
「いや。メリーから離れるなんて、いや」

 声が震える。
 もっと冷静に言えたら、いいのに。
 でも、メリーの声が震えているから。

 だから私も、震えてしまう。

「蓮子、蓮子っ、蓮子ぉっ!!」

 メリーは振り向くと、正面から私に抱きついた。
 抱き締めて、泣き、縋り付いた。

「私は、おかしいの、あの日から、境界を扱えるようになってそれでそれでそれでっ」
「うん、大丈夫だよ、私はここにいるから、全部吐き出して」

 強く抱き締められて、その力に息が零れる。
 顔には出さなかったのに気がついたのだろう、メリーはそっと手を緩めた。

「前よりも計算が早くなった、複雑な数式を考えられるようになったっ」
「うん」
「力が強くなって、足が速くなって、普通の食べ物だけじゃ足りなくて」
「うん」
「人間を、生きている人を見て、食料に見えて」
「うん」
「蓮子が、誰よりも“美味しそう”だなって、考えたのっ!!」
「――うん」

 伝承に聞く妖怪たちは、人の感情ごと人を喰ったという。
 そんな人喰い妖怪たちは、どんな感情を好んだのだろうか?
 もし人間みたいに好き嫌いがあるとして、もしその妖怪が好むものが“大切な人”の感情だったら、その妖怪はどうしたのだろう。

 人喰い妖怪のジレンマ。
 認めたくない――パラドックス。

「私は食べたくない、私は食べたくない、私は蓮子を失いたくない!」
「私も、私もだよメリー。メリーに二度と会えないなんて、嫌だっ!!」

 強く、強く、強く。
 抱き締めて、抱き合って、心を繋げて。
 泣いて、泣いて、泣いた。

「メリー、どうしようもないの?どうすることもできないの?」
「――ひとつ、だけ、あるの」

 尻すぼみに消えていく声が、その手段を選びたくないと訴えていた。
 胸の内側、心の奥底から、嫌だと叫んでいた。

「その、方法は?」
「……境界を」

 メリーの服が、肩口から濡れていく。
 覆い被されることで私たちの帽子が落ちて、風で舞い上がった。

「境界を操って、妖怪の私を能力ごと境界の狭間へ送る」
「――――なにが、問題なの?」

 メリーの肩が、もう一度震えた。
 そんな想いをさせたい訳じゃない。
 笑っていて、ただ笑っていて欲しい、だけなのにっ!

「切り離すことで、境界を一番用いた時の記憶が、無くなる」
「え?」
「蓮子との、思い出が、全部、全部全部全部っ!!」

――なくなって、しまうのよ。

 声が、虚空へ溶けていく。
 溶けて、解けて、融けて、混ざって消えていく。

「私が、あの日、連れていかなければ良かったのかな?」
「いいえ、きっと、遅いか早いかだけだった。それに、あの日々を後悔したくない」
「うん、うんっ、ごめんねメリー、ありがとう、メリー……」

 下唇を、噛んで。
 歯を噛みしめて。
 目を強く瞑って。
 手を強く握って。

 ただ、ただ、メリーのぬくもりを感じていた。

「覚えてる?メリー。二人で行った蓮台野」
「忘れないわ。ジャスト二時三十分、秋に咲く一面の桜」

 少しだけ、離れて。
 メリーの頬を撫でる。

「蓮子、またヒロシゲに乗りましょう。五十三分のカレイドスクリーン」
「いいわね!そうしたら、今度は良いお酒を持ってくるわ」
「そうね、そうしたら、あのテロップにも満足できるかも」

 メリーも、私の頬に手を当てる。
 互いにゆっくりと離れて、それから目を合わせた。

「メリー、頑張ってお金を貯めて、月面ツアーに行こうよ」
「私たちでアルバイトしたところで、何年かかるかわからないわ」
「いいじゃない、何年かかっても」
「ふふ、それもそうね」

 笑い合う。
 笑い合っている。
 笑い合っている、はずなのに。

「メリーが夢から物を持って帰ったときは、焦ったんだよ?」
「ふふ、蓮子ったら、リスみたいに首を傾げてた」

 なのに。
 それなのに。

「夢と現が混ざり合ったときは、どうしようかと思った」
「蓮子が一緒に来るって言うから心配になっちゃって。そうしたら、見なくなったの」
「なにそれ、もう。私だって心配だったんだから」
「ありがとう、蓮子」

 なんで、涙が止まらないんだろう。
 なんで、涙を止めることが出来ないんだろう。
 なんで、楽しい思い出で、胸を弾ませることが出来ないんだろう。

 変、だよね。
 答えなんか、解りきっているのに。

「ねぇ、メリー。切り離された妖怪は、どうなるの?」
「――境界の狭間から、どこへ流れ着くかはわからないわ。でも」

 メリーはそう、目を伏せる。
 伏せて、私の瞳を、覗き込んだ。

「今かも知れないし、ずっと未来かも知れないし、もしかしたらずっと過去かも知れないけれど」

 きっと、とそう、呟く。
 歯を噛みしめて、涙を湛えた“黄金”の瞳で、私を覗き込んだ。

「きっとどこかで、自我を持つわ」
「妖怪、だから?」
「妖怪で――――あなたとの記憶を、持っているから」

 メリーが私に、しなだれかかる。
 折れてしまいそうなほどに華奢な肩を、私はただ抱き締めることしかできなかった。
 そうすることでしか、彼女を支えてあげられなかった。

「蓮子、私、忘れたくない」
「メリー……」
「蓮子との日々を、あの宝石みたいに輝いていた時間を!」

 そうだね、メリー。
 私も、私も、メリーとの日々を失いたくない。
 ずぅっと手を繋いでいたのに、離れるなんて嫌だ。

「私も忘れられたくない。でも――」

 でも、それでも。
 それでもね、メリー。

「――でもそれ以上に、私は、メリーに悲しい思いをして欲しくない」

 いやなの。
 メリーが、泣いているのがいやなの。

 辛いことがあったら、一緒に悩もう。
 苦しいことがあったら、私にも分けて。
 悲しいことがあったら、一緒に泣こうよ。

 だから、だからさ、メリー。
 最後にはどうか、一緒に笑って。

「蓮子……蓮、子」
「だから、だからさ、メリー。私は覚えてるから。メリーが忘れても、私が覚えてるから」

 肩を押して離れて、メリーの瞳を覗き込む。
 あの日見つめた青い瞳はそこになくて、ただ黄金が潤んでいた。

 その金が、愛しくて、切ない。

「だから、もう一度出逢おうよ。何度でも、出逢おうよ」
「……蓮、子?」

 そんな目をしないで。
 笑っていて――欲しいから。

「また一から出逢って、それから――もう一度、思い出を作ろうよ、メリー」

 また一粒、雫が流れた。
 流れた雫は、星空を映して、私の手に落ちる。
 心が、灼けていく、熱だ。

「――――境界を、切り離すわ」
「メリー」
「だからお願い、蓮子」
「うん」
「また、よろしくね」

 目を瞑り、顔を伏せ。
 もう一度顔を上げたとき、メリーは笑っていた。
 無理をして、無理をして、それでも笑ってくれた。



 映画みたいな瞬間はない。
 風もなくて、音もなくて。
 ただ切り離されていく光。
 闇から空へうねりが昇り。
 紫色の境界が亀裂を生み。
 やがて全部、無くなった。



 私の手の中で眠る、少女。
 金の髪に、きっともう黄金から解き放たれたであろう、閉ざされた瞳。
 華奢な身体に、私を抱き締める力はなくて。

 ただ、ただ、静かに寝息を立てていた。

『きっと、蓮子と一緒だったら楽しいもの』
「そうね、きっと、メリーと一緒だったら楽しいわ」

 最初にそう言ったのは、確か私だったのに。
 いつの間にか、メリーの方が言っていた。

 携帯電話を開いて、救急車を呼ぶ。
 もしなにか後遺症でも残っていたら、大変だから。

「メリー……メリー、私はメリーのこと、だいすきだよ」

 涙が落ちた。
 また一粒落ちて――――夜に、消えた。
















――Ⅵ――



 よく晴れた日だった。
 京都府内にある、府内最大の総合病院。
 その一室に、私は訪れていた。

「三○一号室……個室、かぁ」

 何度だって出逢う。
 そう決めたのに、その機会は思ったよりも早く訪れた。

 地上からフェンス越しに女性を見つける。
 危ないかと思って登って近づいたら、倒れていた。
 そうして救急救命に連絡をした――――善意の、“他人”として、呼ばれたのだ。

 直接お礼を言いたいという、“彼女”の要望で。

「し、失礼しまーす」
「あら?あなたが……救急車を呼んでくれた人ですか?」

 白いベッドの上で、窓の外を眺めていた少女。
 その堅苦しい敬語に、やっぱり彼女は、無くしてしまったのだと気がつかされた。

「たぶん同い年だから、敬語は良いよ」
「そう……でしょうか?何故年齢を?」
「救急救命の時に身分証を提示して、それで」

 嘘だ、けれど。
 咄嗟に吐いたにしては、上出来だと思う。

「そう、わかったわ、ありがとう。ええと……」
「蓮子、宇佐見蓮子。蓮子でいいよ」

 私は、笑えているのだろうか。
 穏やかに微笑む彼女に、笑い返せているのだろうか。

「そう、それなら蓮子。私はマエリベリー・ハーンよ。“初めまして”」
――ズキン
「うん、“初めまして”。マエリベリー」
――ズキン!

 胸が、痛い。
 あんなにも再会を願ったのに。
 あんなにも、強く約束を交わしたのに。

 なのに私は、上辺だけの笑顔しか、浮かべられていない。

「せっかくだから何かお話でもしようと思っていたのだけれど……」

 メリーはそう、首を捻る。
 捻りながら、ベッドの手すりを、指でとんとんと叩いた。

「あ、マエリベリー、その癖――」

 身体に染みついた癖は、そうそう消えたりしないのだろう。
 そんな小さな残滓が嬉しくて、少しだけ笑ってしまう。
 そんな私の笑みを苦笑いだと思ったのか、メリーはすぐに手を引っ込めた。

 ああ、そろそろ、マエリベリーって呼ぶの、慣れないと。

「――ああ、これね」

 でも、それでも、彼女は。

「爪が傷つくから止めろって、よく言われていたのに」
――『その癖は良くないよ。爪が傷つくわ』

「誰に言われたかも、思い出せないのだけれど」
――『こんなこと注意してくるの、あなただけよ?』

「どうにも、止められないの」

 そんな風に、言ってのけて。
 それを、そんな風に言われたら。

「え?あれ?ちょ、ちょっと、どうしたの?」

 気がついたら、流し尽くしたはずの涙が、またこぼれ落ちていた。
 たった一粒の涙が落ちて、シーツを滲ませる。

 残っていた。
 メリーの中には、ちゃんと。
 私との日々が――――残って、いた。

「メリーって、呼んでも良い?」
「いいけれど……あれ?どうしてだか、しっくりくるわ」
「それなら、よろしくね、メリー」

 今度こそ、笑う。
 心からの笑顔を、浮かべてみせる。

「ええ、よろしく、蓮子」

 そうしたら、メリーも笑ってくれた。
 あの日の思い出を象る、綺麗な笑顔を浮かべてくれた。

「ねぇ私実は、大学でこんな部活に入っているんだけど、この機会に一緒にどう?」

 だったら私は、何度でもできる。
 何度でも、思い出を作ることが、できる。

「部活?どんな?」
「世界の裏を暴く秘密のサークル。その名も――」

 何度でも、何度でも、何度でも。
 出逢って、思い出を作って、絆を紡ごう。



「――“秘封倶楽部”よ!」



 だって、メリーと一緒なら。
 きっとなんだって――――楽しいのだから。







――了――
―― ∞ ――



 望むことが許されるのなら、もう一度出逢いましょう。
 今度は、誰もが笑う世界の中――種族の分け隔て無く、三人で。

 ともに、あの日々を、語り合いましょう。

 優しくて、時に残酷で、それでも温かい――――幻想の、世界で。




◇◆◇


 ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
 またお会いできましたら、幸いです。

 2011/07/26
 誤字修正しました。まさかあんなところを間違えるとは……申し訳ありません。

 2011/07/27
 誤字修正もう一度。ご指摘ありがとうございます!

 2011/07/28
 誤字修正しました。三十六宿と混ざっていました。

 2011/08/23
 誤字修正しました。
I・B
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.2470簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
何度でも出会い繰り返すって素敵やん
5.100名前が無い程度の能力削除
おもしろい
7.90名前が無い程度の能力削除
>「――“秘宝倶楽部”よ!」
秘宝でいいんですか?グレートアップしたってことでしょうか
9.90名前が無い程度の能力削除
素敵でした
10.100名前が無い程度の能力削除
鬱エンドじゃなくて良かったです
12.100奇声を発する程度の能力削除
最後どうなるかと思ったけど…素晴らしかったです
15.100名前が無い程度の能力削除
紫蓮メリが熱くなるな
22.100名前が無い程度の能力削除
こんな秘封が読みたかった
離れられない離れたくないふたりの話が読みたかったんだ、ありがとう
23.100名前が無い程度の能力削除
細かいとこ、気にならなくもないですが、素敵な雰囲気。
24.100名前が無い程度の能力削除
秘封のお話は、こういうのが面白いんですよね…
いつか∞にいけたらいいですね。
25.90名前が無い程度の能力削除
えがった…
28.80名前が無い程度の能力削除
これはいいですね
30.100名前が無い程度の能力削除
ゆかりんの生い立ちはいろいろ想像できて面白いですよね。このお話もとてもよかったです。
33.100名前が無い程度の能力削除
過去に行った紫もまた、蓮子を探して出会おうとするのですね、きっと。
儚月抄とかの行動とかと絡めて考えるとより楽しいですね。
39.100名前が無い程度の能力削除
長さが全然気にならないくらい面白かったです!
いい終わり方で本当に良かった……

誤字と言っていいのかわかりませんが
・受講を受けていた→「講義を受けていた」、もしくは「受講していた」
・私を止めても→「泊めて」、もしくは「私が止めても」でしょうか?

重箱の隅をつつくようですみません。
40.100名前が無い程度の能力削除
理想的な関係
43.100名前が無い程度の能力削除
最初の倶楽部活動からぐいぐい引き込まれました。
鏡の表現、怪談独特の雰囲気で怖かった~。
ラストまで魅せる作品ですね。すごく面白かったです。
44.100名前が無い程度の能力削除
メリーが自分の日記を読んで蓮子と知り合いだったと知っちゃったり、紫がメリーに嫉妬したりするシーンを妄想してしまう程度の者ですが、感動しながら読みました。涙ヤバいッス。

ところで、ヒロシゲって確か東海道五十三次になぞらえて五十三分だった記憶があるのですが

勘違いならごめんなさい
48.100名前が無い程度の能力削除
するする読めました。逃走するシーンが良かったです。
49.100名前が無い程度の能力削除
うほほⅠ・Bさんktkr
51.90名前が無い程度の能力削除
完成度も高く、心を動かす良い作品ですけど
他の素材だったら文句無しに100点入れてたんでしょけど

秘封の、それも二人の関係性に決着をつけるネタだとどうしても期待が強くなってしまう
わけで、この作品は惜しいところまでいってながらも僅かに満足には至らなかった、そんな
感触です

具体的になにがというと僕自身分からないので、傍迷惑な感想になってしまうわけですが
最後のシーンを読んで漠然と、期待に対する物足りなさを感じてしまったわけです(前述した
ように期待が異常に大きいネタだという面が、物足りなさに繋がったのかもしれません)

システム上90点と付けるしかないのですが、98点ぐらいの意味に捉えてください。足りない
2点がもし埋まってたら、自分の中で忘れられない名作になっていたと思います
55.無評価名前もない程度の能力削除
あなたの書く秘封倶楽部が大好きなのです。
56.100名前もない程度の能力削除
点数を入れ忘れました;;
62.90名前が無い程度の能力削除
いとおもしろし。
63.100名前が無い程度の能力削除
最高でした。
64.100名前が無い程度の能力削除
紫=メリー説は否定派だったのですが、なるほどこういうイコールの考え方なら有りですね。……なんて偉そうなこと言ってすみません(汗
ラストでメリーがほんの少しだけでも蓮子との記憶を覚えていて良かったです。
67.100名前が無い程度の能力削除
なんという素敵
70.80名前が無い程度の能力削除
良かったです。
75.100名前が無い程度の能力削除
素敵ですねー
80.100tのひと削除
こんなに素敵な秘封には久しぶりに出会った
後書きでの「三人で」が良かったですね