(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
太宰治 人間失格
1
「おそーじーすきなー響子さん。いーつもおそーじするですよ~♪」
まったくいやらしいほどに澄んだ声である。
伸び伸びとしていて若々しくて無邪気な。
それでいて勤勉な。
こんなにも綺麗で、耳障りな声を封獣ぬえは聞いたことがなかった。
屋根の上で寝返りをうち、両の手で耳を塞ぐ。
響子の声はかまわず続く。それもそのはず。ぬえが屋根にいることなど気づいていないのだ。寺の屋根は八の字になっているので、下からは死角なのである。
それに響子は歌いたいときに歌い、言いたいことははっきり声にだして言うタイプ。
自重などという言葉とはほど遠い。
それもまたイライラする原因だ。
地上の妖怪はこんなにも明朗なのだろうか。
ぬえは地底を思い出す。
地底にいるやつはいくつかの例外を除けば陰険で暗いところを持っているやつが多い。
しかし、いま命蓮寺の境内を掃いている幽谷響子とかいう妖怪は一言でいって明るい妖怪なのである。
地上を照らす太陽のような明るい笑顔。
あまりのまぶしさに目を瞑りたくなってもしかたないところだろう。
「さっさっさー。さっさっさー。きれいきれいー♪」
「うるさいなー」
いい加減、我慢の限界であった。
ぬえは立ち上がって、けだるそうな声をあげた。
「あ、ごめん。ぬえちゃんそこにいたんだ」
「いるさ。ていうか、おまえ普通に声がでかいんだよ」
「これは癖なんだからしょうがないよーっ!」
「きゃんきゃん喚くなよ。犬」
「ごめんねー!」
「ふん」
いやな気分である。
こちらはいやなことを言ってるはずなのに、まったくダメージを受けた様子がない。
響子はこちらにいやなことを言わせるように仕向けているのだ。そうやって自分が悪くないように世間様に思わせておくのが手口。
いやなやつ。
いやなやつ。
ぶー。
ぬえは飛び上がって、寺の中に入った。
いま、寺では聖が檀家のだれそれに説法を聞かせている時間のはずだ。一輪や村紗はそばに控えているだろうし、星はご本尊である。その場にいるはずだ。ナズーリンはおそらくは星の近くにいるか失せ物探しでもしているか、あるいは買い物にでもいっているのだろうし、要するにいま寺の本堂以外の部分に人はおらず、シンと静まりかえっているのである。
では聖のそばに向かおうかとは思わない。
ぬえは正座が苦手だし、聖のおこなっている説法にも興味はない。聖自身には興味があるところだが、聖の説法も説教も苦手なのである。そのため今のぬえは寺の中でも浮いた存在で、命蓮寺の住人からつかず離れずの場所にいた。
ぬえはいちおう寺組一年生ではあるから、寺のなかに自分の部屋を持っており、その部屋は村紗と共有している。いま村紗はいないから部屋に戻れば一人だ。
うるさい響子がいないだけ部屋のなかのほうがよいだろう。
畳のうえでごろんと寝転がり、手枕でそのまま眠ることにした。
やれやれ忙しいわ私、ゆっくり眠ることもできやしない。
あんないやな声を朝っぱらから聞かされるなんてまっぴらごめんだわ。
イライラしていてちょっと眠りに入るのが難しかったが、もともと妖怪なんてほとんどは夜行性である。すぐにまどろみはじめた。
「ぬえ。起きなさい」
「んー」
「ぬえ! あんた朝っぱらからいいご身分ね」
足でにゅんにゅん踏まれた。
力はこめられていないが、さすがに覚醒してしまう。
「あー、なによ村紗」
「説法が終わったから次は寺周りのお掃除タイムよ」
「掃除なら緑っぽいやつがやってたわよ」
「ふうん。響子は本当どこかのだれかと違って勤勉よね」
「べつにどうでもいい」
ごろり。
村紗とは反対の方向へ寝返りをうつ。
確かに響子の評判はいいほうなのだ。あの明るい性格で聖に取り入り、いつのまにやら寺のなかに住み着いて寺の仕事に従事している。率先してやっているというところも受けがいい理由だろう。妖怪は基本的に怠惰に生き、したいようにするやつが多いのに、響子は誰も好き好んでいない仕事もどんどんしている。
素直で明るい性格。
勤勉な姿。
綺麗で――綺麗で――
一輪も村紗も星も聖も、みんな響子のことをかわいがっている。
「あんたなにしにここに来たわけ?」
村紗の声は冷たかった。
「べつに」
「べつにって何よ」
「べつに」
「べつにしか言えないわけ?」
畳をごつんと軽く打つ。
つまらなかった。村紗とは古くからの知り合いだが、こうやって自分がより寺という組織に溶けこめていることを自然と誇っている。ぬえが寺という組織に溶けこめていないことを悪いことだと思っている。だから、叱ることが正しいと考えている。
ちぇ。
と舌打ちした。
それのなにが正しいというのだ。
命蓮寺なんて小さな小さな幻想郷のなかのそのまた小さな組織に過ぎないじゃないか。
私はいつだってこんな寺なんか抜け出してひとりで生きていけるのだ。ただひとりで生きていくというのは面倒くさくもあり、聖の妖怪を大事にするという思想に心惹かれたから、ここにいてやってるのである。
ぬえは畳をじっと見つめた。畳の目を数えるでもなく全体を眺めながら、ただただイライラが止まらず、思考は暴走している。ぬえの思考は一言でいって矛盾をはらんだものであり、子どもっぽいものでもあったが、ぬえ自身のなかでは論理的で正しいものである。なにしろ自分の気持ちを出発点にしているから、その思考には嘘がない。
寺の思想では言葉で通じ合えるわかりあえるということをよく言っていたように思うが、ぬえからしてみれば、その思想はまちがっている。
なぜなら、言葉で通じ合えないという事例が今まさにここにあるからだ。
通じ合えないということを思想の根本においているから、この思想はより強固なものとなる。なぜならいくら言葉を交わしてもわかりあえないという実感が強まるばかりであり、その経験が彼女の思想を強く裏打ちするからである。
なにはともあれ不毛であった。
ぬえはどんぐりのように身を硬くして、そのまま動かない。
村紗はこのまま会話を続けても無駄だと悟ったのか、ためいきをついて部屋を出ていった。
2
昼ごろになってのっそりと起きだした。
朝と同じで人の気配はない。
誰もいない空間に一抹の寂しさを覚えて、ぬえは障子を数センチだけ開ける。
誰かが覗いているなんてことはなかった。
空気が澄んでいて、息がつまりそうになる。孤独と孤高は望むことであるが、人から避けられているのは自分がさげすまれているようで我慢ならない。聖の思想は万物を受け入れることから始まっている。ならば、ぬえはどうなのだろう。言葉で聞いたことは一度もない。
答えはわかりきっている。迷惑をかける存在。それが封獣ぬえのパーソナリティである。あの奉仕の心を自然と有している響子とは真逆の存在。
そうであるなら、響子が好かれているのと反対にぬえは嫌われるのが道理ではないだろうか。自分がそんな心の構造であることがひどくうとましく寂しくもある。だからといって好ましい心に変えていこうとか、そういうふうに努力しようという気持ちはまったくない。
きっとぬえは長く人に迷惑をかけることを学んできたから。
それがぬえ自身のアイデンティティでもあるのだから。
いや――
そもそも響子はたまたま彼女のアイデンティティが世間の好ましいところと合致したから、好感触を得ているだけであって、それはとてもズルいことじゃないか。
そうだ。響子はズルいのだ。あの天性の人を惹きつける魅力。ぬえの天性の人に嫌われる能力。どちらも天性のものであるなら、どうして響子だけが正しくぬえがまちがっているといえるのか。
気持ちが昏くなっていく。
どうしてこんな気分にならないといけないのだろう。どうして自分の心的構造が世間の評価に照らして下の下にあたると評価されないといけないのだろう。
べつに響子のことが嫌いなわけではない。
けれど、響子の裏側にいて、ぬえと響子を比較して評価するみんなのことをうとましく感じる。
「ちぇ」
舌打ちして、
敷居をスタッと飛んだ。
「あー、誰もいないのかな。おなかへったんだけど」
昼であるから、昼ごはん。
妖怪だから食べなきゃすぐに死ぬということはないものの、それなりにおなかはすくし、質素であってもやっぱり食べたい。
寺の精進料理は口にあわないが、それでもみんなでいっしょに食べるのが命蓮寺の規律である。
しかし、今日は誰もぬえを呼びに来る気配がなかった。
どうしたのだろうと思うものの、べつにそれでもいいというような気持ちも持ち合わせている。ぬえはずっとひとりで生きていたし、正体不明であることを矜持としていたのであるから、正体をさらしてみんなといっしょに食事をする機会に恵まれていなかったのである。そのため、みんなで食事をすることに違和感のようなものがあるのだ。けっして嫌ではないのだが、たまにそこから無性に逃げ出してしまいたくなる。
衝動的な恐怖。
家族という檻。
のそりのそり。
ぬえはナメクジのような足取りで食事場所へ向かう。まだみんな帰ってきていないかもしれないが――待っていようと思ったのである。
「あ、やっと起きてきたのね」
村紗の声である。
ぬえが視線をやると、どうやらみんな既に食べているらしい。
響子は聖のそばにすわって、にこにこと談笑していた。聖も笑っている。聖が優しく手を伸ばし響子の頭を撫でていた。
その瞬間、ぬえはさっと血の気が引くのを感じた。
ぬえのことは呼ばれもせず、みんなで食べていたのだ。
みんなで楽しく。ぬえをのけ者にして。
「呼んでくれたっていいじゃない」
「あんた寝てたでしょうが」と村紗。
「ぬえ。あなたの分も用意していますよ。こっちにきなさいな」
聖はぬえに微笑みかけて手招いた。
「いっしょに食べるのが規律でしょ。どうして私を呼んでくれないのさ」
口をとがらせて言った。
「前にも同じようなことがありました。あなたは眠りから起こされて不機嫌だったのか知りませんが、ひとりで食べたいときに食べるから起こさないでと言ったことがありますね。ですから、今日はそのまま寝かせておきましょうということになったのです」
「それが聖の考えなわけ?」
「あなたはみんなといっしょに食べたかったのね?」
「そうじゃない。ただこれってルール違反じゃないの。全員でいっしょに食べるんでしょ。それがここのルールじゃない」
「ルールルールってなによ」村紗がその場で立ち上がってぬえに近づく。「あんたは寺の仕事をひとつも請け負わないで、食っちゃ寝してるだけじゃないの」
「寺の仕事なんて掃除とか托鉢とか意味ないことばっかりじゃない。そんな馬鹿みたいなことやる必要なんてないね」
「掃除だって悟りに至る道筋のひとつなの。托鉢だってそう。修行なのよ。なのにあんたは修行もせずにただだらだらと過ごして愚痴るだけ。いったい何しにきたのって言ってるわけ」
「まあまあ。村紗もぬえも落ち着いてください」
星がおろおろとしながらも場をしずめようとする。同じく響子もおろおろ。ナズーリンと一輪は黙々と箸を運んでいる。
「言葉というのも瑕がついてしまうもの。もっと丁寧に扱ったほうがよいですよ」
「でも、ぬえは寺に馴染もうとする努力がまったく感じられません」村紗は声のトーンを抑えていた。「この子は昔のわたしと同じ。何がしたいかもわかってないの。それで仕事もしないでただ寺に寄生しているだけなのよ」
「寄生虫扱いすんな。だいたいそんなこと言ったらここの寺だって人里の連中に寄生しているようなもんじゃないか。檀家から金をもらって、それで食べていってるわけでしょ」
「なんてこと言うのよ。このアホ。馬鹿ぬえ」
「うっさい。村紗だって船のない船長で寺の仕事も惰性でつきあってるだけでしょうが」
「あんたとは違う。あんたなんて最初から何もする気ないくせに。私はがんばってる。私はこの寺で聖のために何かできることはないかと思ってるの! あんたなんかといっしょにしないで」
「聖に気に入られるためにでしょ。くだらない。それにだいたい寺の活動自体がくだらないって言ってるの。さっき村紗は悟りのため、修行のためって言ってたけど、どうして悟らないといけないわけ?」
「ぐ。そ、それは悟ったら、社会の役に立てるのよ」
「どうして社会の役に立たないといけないわけさ」
「それは……、ああ、もう。こいつ、自分勝手すぎます。聖、破門にしましょう」
聖は目を閉じて、ぬえの言葉を静かに聞いていた。
やがて目を見開いてぬえをまっすぐ見つめた。
感情を感じさせない瞳。
ぬえはその場から逃げ出したくなるのを必死でこらえた。
「ぬえ」
「なによ」
「ぬえはなんのためにここにいるのですか?」
「べつに」
「では、何をそんなに焦っているのですか?」
「べつに」
ぬえは地面を見つめる。敷居が目に入った。ひどく遠いように感じる。ほんの数歩の距離なのに。
「ふがいないですね」聖は小さく溜息をついた。「ぬえが何も言ってくれなければ、私は何もできません」
「いっしょにいたくないのですか?」
――不快じゃない。
「わたしのことが嫌いですか?」
――嫌いじゃない。
「みんなのことが嫌いですか?」
――そんなこと言ってない。
「いっしょにお食事するのが辛かったのですか?」
――違う、そうじゃない。
けれど、ぬえの口からはついぞそんな言葉がでることはなく、沈黙が保たれたままだった。
「ともかく。いっしょに食事するのが規律というのは確かにぬえの言うとおりです。ぬえを呼ばなかったのは私の間違いでしたね。ごめんなさい」
「べつに」
「こいつ」村紗が怒号を発しようとするが、その前に聖が近づいた。
「ほら、いっしょに食べましょう」
聖はぬえの手を力強く引っ張る。
抵抗する気力もなかったぬえはあっさりと部屋の中にひきこまれた。
村紗は納得がいかないようである。
「響子は偉いですよ。朝一番から掃除をして元気よく挨拶して寺のイメージアップを図ってくれてます。こいつは何もしないんですからね。自分の行為の意味を考えるのも無駄とは言いませんが、単にしたくないから言い訳してるだけだと思います。だいたい、響子はたくさん仕事をしてくれているのに、ぬえが響子と同じご飯を食べるのは不公平じゃないですか」
「村紗船長」
「はいッ! なんでしょう聖」
聖の単調ながらも力強い声色に、思わずビシっと敬礼してしまう村紗。
「迷わない人間がいないように迷わない妖怪もいないんですよ」
「それは確かにそうですが……」
村紗も迷いに迷っていた妖怪である。聖の言葉はそれだけに重く響いたのだろう。
ぬえは先ほどから最悪な気持ちであった。
こんなふうにいっしょに食事をとるのが、実にいやらしい手法であるように思えた。反論ができない形に封じこめてしまう手法。言いたいことを言ってしまうとその場の空気が悪くなるから、結局、空気としてぬえを悪者にしているのだ。
さっさとこの場から逃れようと、ぬえは箸のスピードをアップさせる。
「ごちそうさま」
言って、その場から文字通り飛んで逃げた。
そう。逃げたのである。
聖も村紗も響子も他のみんなも結局ぬえのことをわかってくれるひとはいない。
受け入れてくれるひとはいない。
ぬえの性格は確かに人様のことを考えない自分勝手なものかもしれないが、そういう歪んだ性格を持つのが妖怪であり、妖怪をすべて受け入れるのが聖の思想ではなかったのか。だとすれば、聖の思想は既にして破綻しており、無意味で空虚な絵空事だ。
自分が悪いんじゃない。
聖の理想が現実と乖離しすぎているから、こんなにも苦しいのだ。
ぬえは再び屋根にのぼり、今度は昼寝を開始する。
掃除や托鉢ができないわけではない。ただしたくないのだ。その意味がみいだせない。どうしてしなくちゃいけないのかわからないから、やりたくないのである。修行や悟りといった言葉は抽象的には理解できるものの、突き詰めてみれば、無意味にいきあたる。
ぬえの生き方は自分が楽しいようにやるということである。掃除や托鉢やその他の寺の雑事の全部が楽しくないわけではないが、強制されてやらされているという感覚をもってしまうとすべて放り出したくなる。我慢なんてここ一千年、まったくやらずにおいてこれた。
ここにきて初めてぬえはそれでは立ち行かない場面に遭遇したといえる。
人から好かれるにはどうしたらよいかという問題。
響子のようにみんなから好かれるにはどうしたらよいか。
答えは簡単だ。
仕事をすればよい。自分のことしか考えない部分を抑えて、人のために尽くせばいい。仕事をする姿は――掃除をしている響子の姿はほほえましくもあり、そしてなにより綺麗だった。
でも仕事なんてしたくない。
仕事をしなくちゃいけないなんて誰が決めたのだろう。
決められたことにしたがうことの何が偉いのだろう。勤勉な姿が綺麗だというのもきっと世間という幻想が見せる幻で、正体不明の原子に過ぎない。
そうだ。
正体不明の存在に踊らされているのだ。
みんなが作り出す幻想がみんなを突き動かしているだけなのだ。操り人形になっている。聖も村紗もそして響子自身も。
「世間なんて簡単にコントロールできるのに」
ダブルコンティンジェンシー。
あなたがわからないから私もわからない。
その集積こそが世間の正体である。
みんななんていない。いるのはきっと正体不明の種に踊らされる無数の人形たちだけ。
ならば、操ってやろうと思った。
世間がいかに脆弱な存在か思い知らせてやろう。
掃除、托鉢、挨拶、その他もろもろの人への奉仕活動がいかに無駄で儚い行為なのか、思い知らせてやろう。
そうだ。それがいい。
ぬえは矢印型の羽をパタパタさせた。
楽しくなってきた。
村紗のやつは慌てるぞ。一輪も真面目そうな顔を歪ませるかもしれない。ナズーリンの焦った顔も見られるかもしれないし、いつもどおり星はおろおろするだろう。聖は――聖はわからないが、微笑をたたえたままなんとかしようとするだろうか。
いいさ。
それでも。
だって、寺のやつらは何もわかっちゃいない。
仕事なんて、結局は趣味なんだ。
趣味にすぎないんだ。なになにが好きって問題にしか過ぎない。それを食べていくためとか人のためとか社会のためとか、そういうふうに何かの理由をつけようとするのがまちがってる。ためってなんだよためって、その理由の意味を聞いたらまた別の理由がでてくるんだろうけど、結局いつまでたっても終わらない問答になる。
そもさんせっぱなんて言う前に、答えはでている。
みんな好きなことをやっていて、それがたまたま人の役にも立ってるだけなんだ。それでより人の役にたつ趣味の人だけが偉いと思われたり綺麗だと思われたりしているだけなんだ。
自分勝手じゃないか。ぬえと何も変わらない。
だったら、ぬえだけをせめるのはお門違いというもの。
みんなせめられてしかるべき。
仕事をしてごめんなさいって謝るべき。
絶対に許さない。
仕事をせずにだらだら寝てるだけの私に謝れ。
3
世間というのは『私』と『あなた』の集積体である。『私』からみると当然『私』が何を考えてるのかはわかるのであるが、『あなた』が何を考えているかはわからない。覚り妖怪ではないのだし。とすると、『あなた』が何を考えているかを基礎に行動する場合、『私』は二つの不確定要素を抱えこまなければならなくなる。それはまず『あなた』の考えていることである。そしてもう一つは『あなた』が考えていることがわからず、『私がどう行動すべきか』である。
相手の行動が予測できないことから、自分の行動も決定できないという状態のことをダブルコンティンジェンシーと呼称する。
ぬえの能力は会話の相手のことを半分程度知っているという状態での話し合いや会合、その他のいわゆる井戸端会議において一番効力を発揮する。会話の相手の距離が遠すぎると情報の連絡を信用しないし(例えば袖が触れ合っただけの人間からいきなりこういう話があるんですがと言われた場合を想定すればよい)。逆に相手の距離が近すぎると信頼関係が強固であり不確定な情報が不確定なまま増殖することはない。
信頼関係が微妙な状況こそが温床になるのだ。ダブルコンティンジェンシーへと至らせる。つまり、一種の判断停止に。
ぬえの持つ正体不明の種は、最初はほんの小指の先程度の不確定な情報を核としている。そして爆発的にその数を増やす。ゴミ屑のような情報を付加していき等比級数的な増殖を繰り返して、一種の変容を遂げる。もはやぬえ自身にもコントロールができないレベルに達するまで、三日もかからない。
それは噂と呼ばれているものである。
噂は情報のパンデミックだ。過情報に人は踊らされて、どの情報が正しいのかわからなくなる。本当と嘘の識別をする能力は人間には無い。
――だから。
押し流されろ。おまえたちは押し流されるしか能がない。乱立する立て札を見よ。みな好き勝手に話し合ってるぞ。ほらこっちでは食糧危機。ほらこっちでは地底からの侵略だ。ああ、怖いね。怖いね。みんなでいっしょに話し合わなくちゃ怖いよね。不安だよね。共感したいよね。共感されたいよね。
ちぇ。
バーカ。
ぬえは噂という名の怪物が育っていくのを冷徹に観察していた。
人里から若干離れているここまで噂が到達するには時間がかかるだろうし、火種の段階で消えるのは好ましくなかったから、コントロールできるうちは寺のほうに情報がいかないようにうまく操った。
そして、決壊。
もう止められない。
ぬえは響子に負けずとも劣らない声量で狂笑を発する。その声は猿とも鳥ともつかず――。
4
「こんにちはー。清く正しい文々。新聞です」
やはり最初にやってきたのは射命丸文であった。
その前にも寺の檀家の人たちの様子や買出しのときの人里の様子でわかってしかるべきだったのだが、そこには涙ぐましいまでのぬえの努力の成果か、あれなんか変だな程度の認識しか持つことができなかったのである。
「ずばりうかがいますが、こちらの聖白蓮さんが妖怪を囲っていらっしゃるというのは本当でしょうか」
「囲ってるといえば囲ってますけど、どういうことなんです?」
対応したのは村紗船長だった。
「えっとですね。つまり、聖さんはかわいい妖怪さんのことが好きで、お気に入りの妖怪さんを夜な夜な呼んでは――」
「ああ、もういいです。そんなことは一切ありません。適当なこと言わないでください」
「あれ知らないんですか。今、人里はその噂で持ちきりですよ。今は確かやまびこちゃんがお気に入りだとか。あなたは確か村紗さんですよね。村紗さんのことももちろん噂になっていますよ。確か濡れ濡れですけすけな服をきながら、底のあけた柄杓をつかって、らめぇこれじゃこぼれちゃう云々と」
淡々と明るく言われると、もはや溜息をつくしかない村紗である。
しかし噂とはいえ、人里中がそんな噂でもちきりというのは明らかに不自然である。
そんな噂を広めたやつといえば、心当たりはひとりしかおらず、数秒で犯人にいきあたった。
「ぬえのやつ。なにかしたわね」
「はて。ぬえさんですか」
「ちょっとあなた」
「はい。清く正しい射命丸文です」
「ぬえのことは噂の対象にはなってなかったの?」
「ぬえさんですか。えーっと、そうですね。そういえばぬえさんだけ噂になっていませんね」
「やっぱりあいつか」
「どういうことなんです?」
「この噂の出所よ」
「えーっと、ぬえさんの仕業ということにして情報をかく乱しようとしてらっしゃる?」
「んなわけないでしょ。ぬえよ。あいつがこの噂を作ったの」
「えー。じゃあ、ムラサちゃんのせいでムラムラになっちゃったわ、こっちで宝船しましょう。わーいとかいうのは」
「そんなのあるわけないでしょ」
真っ赤になって答える村紗。もういい加減目の前にいるマスゴミ――げふんげふん失礼――マスコミに丁重にお帰り願いたいところであったが、下手に追い返すとあることないこと書きたてられる虞れがある。ここは慎重に対応して納得してもらうしかない。
――けけけ。
ぬえは屋根の上で笑っていた。
――さて、お次は。
「ともかく。根も葉もない噂ですから、射命丸文さんには適切な対応をお願いいたします」
「んー。そうは言いましても、このままだと記事が書けませんし、できれば聖さんに直接お話をうかがいたいんですがね」
「そんなくだらないことに時間を割く余裕はありません。物証もないのに変ないいがかりをつけないでいただきたいものですね」
「物証といいましても……、ああ、そうそう、物証はなくても仏性はあるじゃないですか」
あははと文は笑う。
あははと村紗も笑う。
本気で帰って欲しい。
「村紗。どうしたのです」
「聖」
「あや。聖さんですか。清く正しい文屋の文と申します。今日は聖さんに噂の真相をお聞きしたいのですが!」
ズイと文が迫る。
村紗は聖の盾になるように進路を塞いだ。
「アポイントもなしにインタビューするのは失礼じゃないですか」
「突撃インタビューってやつですよ」
「かまいませんよ。村紗」
「聖。この人は下世話な三文記事を書きたいだけなんですよ」
「三文記事とは失礼な。わたくしの新聞はけっこう愛読者も多いのですよ。真実に迫るのが新聞記者の使命なのです。それが社会へのご奉仕になるのですからね。私のインタビューを害するのは報道の自由をひいては幻想郷中の皆さんの知る権利を侵害することになるのですよ」
「ですから追ってちゃんとした声明を発表しますから、今日のところは帰ってくださいませんかね」
「村紗」再び聖が言った。「せっかくお越しいただいたのに、そんなふうに言うものじゃないわ」
「しかし……」
「いいですよ。文さん。ここで答えられることは答えます」
「あや。ありがとうございます。ではさっそくですけれど。今、人里で噂になっている命蓮寺の噂についてはご存知でしょうか」
「噂というと?」
「聖さんが妖怪の方たちのなかで気に入った子がいたら――」
「気に入った子がいたら夜をともにするとでも言いたいのですか?」
静かな気迫があった。
文はたじたじとなる。さすがに新聞記者とはいっても聞きにくいことには違いない。
「まー、そんな感じなんですが、どうなんでしょ。いえもちろん本当はちょっと仲良くするぐらいだとは思うんですがね。もしかすると聖さんといっしょの部屋に寝るってだけで羨ましいと思ってる方がいるのかもしれませんしね。ですが、人里のみなさんはそんなことをおっしゃってるわけです」
「なるほど」
聖は静かにうなずいた。
「それで、噂の真相はどうなんでしょう?」
「聖。答えずともよいのですよ。あとで命蓮寺としてきちんとした声明を出せばいいだけです。いや――そもそもただの噂ごときにそんなことをする必要すらありません。くだらないと切って捨てればいいんです」
「そうね」聖は妖艶ともいえる笑いを浮かべた。
村紗は一瞬いやな予感がする。
果たして、聖は人差し指で自分の唇をゆっくりとなぞった。よくわからない謎の動作に多弁な文は何も言うことができないでいる。ただの動作で場を支配したのだ。
「ところで――文さんでしたっけ」
「はっ。はい」
「あなた、スラっとしてて足が綺麗ね」
「あやー。そんなこと言っても何もでませんよ」
「でるじゃないの。いろいろと」
「いろいろ……って?」
「いろいろって言ったらいろいろよ」
「ひえーっ」
「ちょ、ちょっと待った! こいつぬえよ。正体不明の種をつけて聖に化けてるだけだわ」
「何を言ってるのいつもの私じゃないの。あ、そうかわかったわ。嫉妬したのね。本当にかわいいわね。私の村紗は」
「聖の顔でそんな気持ちの悪い発言をするな」
「そんなふうにへそを曲げないの。今のお客さまは文さんなのだから、その方に親切にしなくちゃいけないでしょう? ね、文さん」
「え、あ、はい。そうですね。あはは」
「待ってなさい。本物の聖を連れてくれば一発でわかるわ。こんなの聖じゃないんですからね」
村紗は物凄い勢いで廊下の奥へと消えていった。
さて、村紗が指摘したとおり、ここにいる聖はぬえである。正体不明の種によって認識の誤差を生じさせたぬえ。したがってここからはぬえと表記する。
村紗はおそらく聖の部屋戻るだろうが、そこに聖はいない。
こんな小さな寺のなかでも――いや小さい寺だからこそ情報操作は簡単にできるのだ。
なんのことはない。聖にはちょっと倉庫で物干し竿を取ってもらいにいっている。だから村紗が聖の部屋に行っても無駄なのだ。探してここまで連れてくるのに十分はかかるだろう。
それまでの間に文に帰っていただけばよい。
「ふたりきりになってしまいましたね」
「ですが、正体不明の種がなんとかおっしゃってましたが」
「あれは村紗なりの気遣いなんですよ」
そっと手をとる。
文の身体がひゃんと飛んだ。
「あ、あのー。インタビューアーにお触りというのはいろいろとまずいのですが」
「あら。さっきあなたが言ったとおりよ。私は気に入った子をお部屋のなかに夜な夜な連れこむ淫女なんでしょう? だったらあなたは覚悟して来てるはずよね。こういうことされちゃうかもしれないってまったく考えなかったというの? それは考えが足りないわ。いけない子ね。ちゅーしちゃおうかしら」
聖の顔をしたぬえの顔が近づく。
キス寸前。
「ひ、ひえー」
ついに耐え切れなくなった文はその場から目にも止まらぬ速さで逃げ出した。
それこそぬえの望むところであった。
――けけけ。
ぬえはまた笑った。
それにしても、本当にキスしそうで危なかった。
5
文々。新聞は当然のことながら『寺の住職、淫蕩な行為にふける毎日!?』などという見出しで絶賛増刷中であった。
人口にも膾炙し、文の新聞であるから信用性はいまいちであろうが、それでも噂という域を一歩超えて捏造された真実へと近づきつつある。
そうなるとおかしなもので、人里で発行されている小さな部数のタブロイド紙や天狗の弱小新聞までもが追随しはじめた。
渦中の寺はいま疑惑の眼差しで見られている。
ただれた寺なのでないか。
仏法の清貧の思想は隠れ蓑であり、本当は怠惰でいかがわしいことをしているのではないか云々。
掃除をしても挨拶をしても托鉢をしても返ってくる反応は冷ややかなもの。響子の元気な挨拶も今回ばかりは響かないようである。
檀家の人々にすら、周りからの評判が悪いので何とかして欲しいという要望がでる始末。
これでは寺がなりたっていかない。
クレームやら好奇心半分の冷やかしへの対応でくたくたに疲れきったあと、命蓮寺では緊急会議が開かれた。
主題は明らかである。
――ぬえをどうするか。
「破門にしましょう」
村紗の目には本気さが灯っている。
「村紗。あなた、ぬえとは友達なのでしょう」
星がか細く言った。どこかおどおどしているが、やはり最後まで穏健な姿勢を崩さない。そこは仏っぽいところだ。
「友達だからですよ。はっきり言って、今回のぬえのいたずらは度を越えています。このままでは寺の信頼は地に落ち、寺に属する者みんなが腐ったみかんみたいな扱いを受けるんですよ」
「しかし、ぬえが正体不明の力を行使するのは言わば妖怪としての本分。人間が欲望を完全に消し去ることが難しいように、ぬえにとっては難しいことだったのではないでしょうか」
「だったらぬえはこの寺にいちゃいけない。ひとりで生きていけるんだから、ひとりで生きていったほうがあいつのためだし、私たちのためでもありますよ」
「救済が難しいからといって簡単に切り捨てるのは仏の道に反しますし……」
「ご主人様」ナズーリンがそっと語りかける。「船長はおそらく負い目を感じてるのでは」
「負い目といいますと」
「つまり、ぬえを寺の中にひきこんだのは船長ですから、自分に責任があると感じているのではないでしょうか」
「負い目なんて別に感じてません」村紗は燃え上がる溶岩のような顔をしていた。「ただもうなさけなくてなさけなくて。それだけです」
「いずれにしろぬえには問いたださなければいけないわね」聖が重い口を開いた。「いま、ぬえはどこにいるのかしら」
「私の子鼠に探させているが、どうやら寺の中にはいないようだね」
ナズーリンが言う。続いて一輪が
「雲山の報告によれば、寺の周りにもいないそうです」
「ではどこにいるのかしら。地底に帰ってしまったのかしらね」
「だったらそれはそれでかまいませんよ。去るものは追わずがこの寺の精神ですからね」
「いや、私の勘だが、犯人はきっと犯行現場に戻ると思うね」ナズーリンが静かに言う。「今回のぬえの行動を見ると動機はよくわからないがその行動原理は混沌を求めているように思う。つまりわかりやすく言えば愉快犯だ。この場合愉快犯はこちら側の反応を知りたがる場合が多く、ゆえに私たちの反応を知れる程度には近い場所に潜伏しているのではないかな。先ほどは寺の中にいないと言ったが、おそらくは――天井や壁に同化する形で潜んでいるのではないかと思われる。そうなれば子鼠の索敵能力でも探すのはちょっと難しい。もちろん本気で探せば――ぬえがこの寺から出ていかないことを前提としてだが――三日以内には見つけてみせる自信はあるよ」
「ともかくあいつのことは一発殴ってやらないと気がすまないわ。いくらなんでも聖を……あんな、あんなふうにしたてあげるなんて絶対許さない」
「私のことはどうでもいいのです。それよりもなぜぬえがこのようなことをしたのかのほうが気になります」
「きっと気まぐれでしょうよ」と村紗。
「おそらくは先日の食事では?」と一輪。
「食事のことは関係がありそうだね。とすれば、単純に寺の生活があわなくて、なにもかも嫌になり、喧嘩別れをするためにこういったシチュエーションを作り出したとも考えられるが……」
「ナズーリン。それは邪推というものです」
「ああ、確かにそうかもしれない。さすがご主人様だ。今日は久々にしっかりしてる気がするよ」
「たははは……」
星は笑うしかなかった。
「それにしても。厄介なことになったね。ぬえが見つかったとして謝罪なりなんなりさせたとしても真実が明らかになるわけじゃないからね」ナズーリンは顎に手をあてている。「そもそもの出発点が虚構にすぎないんだ。だから人里の信用というか……信頼というか、そういったものを取り戻すのは難しいと思う」
「確かにそうですね」
星はしょんぼりした顔だ。
「人の噂は七十五日ですよ」聖は腕をまくって見せた。「みんなで一丸となってがんばればきっと人里の皆さんもまた私たちのことを信用してくださるはずです。私は千年待ったのですよ。七十五日ぐらい待てない道理がありますか」
そういった次第で、方針は定まった。
ひとつにぬえを発見、捕縛する。その後、聖が話を聞く。
噂についてはぬえからの話次第では、誤りを訂正させるが、大綱的には放置プレイで霧散するまで耐えるといったものである。
結局、なにひとつ定まっていないに等しい。
具体的にはぬえを破門させるかどうかも話を聞いてからということになったのである。これは聖の鶴の一声によるものであった。
6
就寝。
聖は横になる。
ふぅ、
小さく息を吸い、
ふぅ、
小さく息を吐く。独特の呼吸法。
憂いを帯びた瞳は天井の染みを数えているかのようだ。
そして、
「ぬえ。そこにいますか?」と聖は声に出してみた。
ぽてん。
天井からぬえが降ってきた。
いま、ぬえは部屋の隅っこのほうで膝を抱えている。
これではまるで幼い妖怪を夜な夜な囲っている淫猥なる聖職者――
なんてことをチラリと思ったものの、聖は気を取り直して尋ねてみることにした。
「なぜなんでしょう。なぜぬえはあの噂を流そうと思ったのです?」
「べつに」
「あなたの心はいつだって正体不明ね」
「べつにいいじゃない。地底には心が読める妖怪とかもいたけど不気味なだけよ」
「ですが、人はわかりあいたいと思うものです。きっとあなたはわかりあえないと思っているのだろうけれど、それを心の拠り所にしているのだろうけれど、私は私のわがままであなたのことをわかりたいと思ってるのですよ」
「きっと変だって思う」
「そんなの聞いてみないとわからないじゃない」
「響子は……よく働くじゃない」
ぽつりぽつりとぬえが話し始めた。
「働いてるってそんなに偉いことなの? 勤勉なのがそんなに綺麗なの? 私は私の本性としてそんなのはまやかしだと感じてる。響子はたぶん嘘偽りなく飾らない自分がああいうふうに他人の役に立つかたちだったんだろうけど、世の中にはたくさんの努力をしてようやくそういうかたちになれる人や、たくさんの努力をしても絶対にそういうかたちになれない人がいて不公平だと思う」
「そう。不公平に感じたのね」
「響子が仕事をたくさんして、だから私よりもたくさん食べるべきという論法もわからないではないよ。そういうふうにみんな言うんだろうけれど、それって『私が働いて食べさせてやってるんだぞ』という傲慢な考え方とほとんど同じだと思う。働くから偉いんじゃない。人の役に立つから偉いんじゃない。たまたまそういう響子の趣味がみんなの役にたったから好かれてるだけじゃないの。それって不公平じゃない。それに――」
ぬえは続ける。
「それに働いてる姿が美しいなんて言葉もあるけれど、これもその言葉をいったひとの趣味の問題ね。たまたま勤勉な労働者の姿を綺麗だと思う人がこの国では多いだけなのよ。どこかの国ではそんなことはないのかもしれないし、どこかの時代ではそんなことはないのかもしれない。たまたま偏見でそう思ってるだけ。だったら働くことを趣味にしない私みたいなやつがいてもいいじゃない。私を指差してののしるのっておかしいじゃない。みんなしてひそひそ話のなかで精神的な不細工だってののしるのっておかしいじゃない」
「ののしられたの?」
「村紗はそう言ってた。でもべつに村紗が悪いって言ってるんじゃない。問題はみんながそう思ってるってこと。それが正しいことだって考えてるってこと」
「だから、仕事なんて無意味だと思わせようとしたの?」
「そう」
ぬえは頷いた。
「あなたの考えはわかりました」
聖は膝行しぬえに近づく。ぬえが脅えないようにゆったりした歩調だ。
「ぬえ。私はやはり勤勉な姿の美しさに対する幻想を捨てきれません。あなたが言うように勤勉であることを正しく感じたり美しく感じたりするのは一種の偏見かもしれない。けれど千年間何もできなかった私の経験からすれば何もしないこともまたむなしいものじゃないでしょうか。人とかかわりあって、人を助けて、自分も助けられて、そうやって生きていきたいのです」
ぬえの中でいくつかの反論が泡のように湧いてきた。
しかし、パチンとはじけて消えていった。
「あなたの趣味において仕事をしたくないという想いがあるとして、それでどうやって人と接していくのでしょう。あなたは賢い妖怪ですからきっと答えを持っているのでしょうけれど、この世界においてぬえが言った幻想を破壊することは難しいと思います。あなたがやったことは結局のところ命蓮寺の仕事を一時的に麻痺させただけであって『仕事をすることは義務であり正しいことである』という考え方自体を少しも傷つけてはいないのですからね」
「知ってる。きっと私は幻想郷一滑稽なことをしたんでしょうよ。笑えたでしょ? 陸地にあがった魚が呼吸困難でピチピチ跳ねてるのを見てゲラゲラ笑ってる人間がいたけどさ。私ってたぶんその魚と同じ立場なんだろうなって思うよ。時々、そういうやつがいるのさ。妖怪なんて『変』なやつばかりだから、そういうやつも多そう。だったら聖はこれからも大変ね。ま、聖もさすがに愛想が尽きたでしょ」
ぬえは小さく笑って部屋を出て行こうとした。
聖はその腕を掴まえた。
「聖はやっぱり力が強いな」
「あなたが仕事をしたくないというのならそれでもかまいません。説教も説法も聞かなくてもかまいません。挨拶も掃除も托鉢もぬえがしたくないというのならする必要はありません」
「でもそれだと人と接していけないんでしょう? みんな納得しないよ」
「少なくとも私は認めます。それでは足りませんか」
「わからない」ぬえの頬をはらりとあたたかい何かが濡らした。「わからないよ」
けれどその意味をぬえは知っている。
ごまかし? 一時的な逃避? あるいはそうかもしれない。
けれど一切の虚偽が入りこむ余地のない正体が確定した想いというものも世の中には存在するのである。
足りたと思った。
このぬえは応援したくなります。
寺の面々との食事の口論では、おろおろする者も傍観する者ありと、
まるで大家族の食事風景みたいでリアリティがあって面白かったです。
ただ、上の方が仰っているように結末がやや弱い気がいたします。
本文が起承転結で云う「転」までで、後書きが「結」でしょうか。
その結で後日の村紗たちとぬえとの和解なりなんなりが描かれていたら、
より余韻に溢れた結びをつけられたような気がします。
こちらの方がすっきりした終わり方で良いという評価があるやもしれません。
あくまでも個人的な印象として受け止めて下されば幸いです。
最後に、ぬえ可愛い!
そこまでが面白かったのでこの点で。
ワロタwww面白かったです。
会社の同僚ならば笑ってケツを蹴り上げる。「つべこべ言わず仕事しろ」ってね。
妖怪は……、難しいですね。作中でも語られているように、確かにぬえなら一人でも生きられるでしょうし。
当事者としての立場なら白蓮にはなれないな。世間じゃない、俺が肯定できないんだ。
タイトルがいまいちピンときませんでした。
正体不明の種も使いようによっちゃ薬になる?
思春期特有の病を発症させないための、この作品自体が予防接種の役割を果たす?
ただ自分の感情のままに生きたいと願う姿はそれは美しいものですが、行為の意味を求める辺りがまだこのぬえの至っていないところかなと。
生きたいように生きれば嫌われるのはまあ仕方がないし、相手が自分を嫌うことを理に適っていないなどと否定するのであれば
それは結局自分がされたことと同じわけですからね。
このぬえには、仕事の出来るクズとして生き、是非とも勤労を美徳とする幻想を打ち砕いて欲しいものです。
それでも数の暴力に屈しないのは、それなりに勇気がいることなんでしょう。
『私』の喉に刺さった魚の小骨が、いつまでも取れない。
そういった意味では、とても考えさせられる話でした。
私自身は、この主題を書く上でならこの切り上げ方が最善だったとは思います。
ぬえの言う「私はそういう妖怪ではない」というのは行為の結果以前にその行為の背景なり動機なりを問題にしている。
だから、そのズレですね。つまるとこ、ぬえが本当に対立すべき幻想とは、好かれるとか嫌われるとか以前に
「自分の行動の"結果"で人から評価されること」なんじゃないかと思います。
そんなことを考えました。
おいしゅうございました。
一日中踊って暮らして死んでいけたら良いんだけどねえ
誰もそれをやらないのは価値あることだと考えてしまっているからだと思います
よかったような、物足りないような
ぬえたち真剣なのに何となくおかしみがあって、安心して笑って読んでました
ぬえは命蓮寺に適応することが出来、間違いなくハッピーエンドではありますが、
大きく提起した問題に対して結局のところぬえは、『仕事』に適応した、いわば屈したという見方も出来るわけでして、そこからオチへの物足りなさを感じるのでないでしょうか。
作品の終わりの時点で、頭で理解するより先に、すんなりと問題が氷解したのを感じたましたので、
ともすれば、あとがきは蛇足だったのではないかと思えてしまいます。
ぬえと響子の対比をまじめに取り扱った作品がもっと増えるといいなあ。
作者様自身の投げ掛けた問題提起に、物語上は誰も答えられていません。
アプローチが大変巧妙でしたので、残念です
単にぬえが自身のこころの変節と向き合うまでの話と感じました。
ぬえのかわいい所は、千年生きても揺れ動けるこころの幼さにあると考えます。
それだからこそフランドール、こいし、ぬえが EX三人”娘”と呼ばれるのでしょう。
一方、曖昧なことばしか投げかけられなかった聖にも幼さを感じました。
聖白蓮の理想もまた”若い”のかも知れません。
ですね
いい作品でした。落ちがあっさりで好きです