ドンドンドンッ!
ドアがけたたましく鳴き、せっかく滑らかに動き始めていた筆が止まる。
草木も眠る丑三つ時になんとも騒々しいことか。夫婦であれば色恋を語り合う時間でもあるというのに。
「あびゃぁ~、わだぃのあえああ゛~~っ!」
色気もない、日本語でもない。聞き覚えだけがある声だ。獣の雄たけびでもあればまだ風情を感じることもできるというのに……悲しいかな、一度は新聞の腕を競い合ったヒキコモリという生物の鳴き声に間違いない。
呂律の回り具合から判断して、泥酔状態に違いない。放置するのが得策かと思案するうちにも、扉を叩く音は増すばかり。
これだから酒に呑まれる未熟者は……
机を強く叩いてから立ち上がり、これは手厚く出迎えねばとスペルカードを手にドアを開ければ、
「あや?」
何だか予想外の光景が。
へべれけ状態の飲んだくれが立っているものと想像していたのに、追い詰められた表情のはたてが、嗚咽を零し、肩を震わせていた。
「あゃぁぁ~~~っ!」
「あややややややっ!?」
疾風迅雷とはまさにこのこと。
胸に重いものがぶつかったと思ったら、視界がぐるりと大回転して、いつの間にか天井と一緒に、泣き腫らした瞳をしたはたてが私の上にあって、
「わだひのぉっ~っ! わたしのぉぉぉぉ~~」
何をとち狂ったか、はたてが私の胸に顔を埋めて熱い吐息を吹きかけてくる。
甘える声が私を求めて、鼓膜から頭をゆだらせ……って考えてる場合じゃない。
「ちょ、はたてぇっ! しゃれに、なり、ませんっ、てばぁぁっ!」
引き離そうと腕に力を入れようとするのに、宝石みたいに輝く濡れた瞳と、救いを求める泣き顔が……さっきの一場面が写真のように蘇ってきて、あ、うん、この感覚は本格的に、危険、かも。
「あ゛~や゛ぁ~~っ!」
加えて、引き離されまいとはたてが胸に頭を擦りつけ、熱い呼吸を繰り返すたび。
胸に火がついたのかと錯覚するほど体温が上がって、腕が、震える。
身体が力を失い続ける中も、はたては容赦なく私を物凄い力で抱きしめ続けてきて、って、うん、本気で、苦し、かったり。
「あ、あなた、と……いう、人は……っ」
やばい。
このままだと、本格的に……まずい。
「……早くっ! 離れっ……てっ」
もはや手段など選んでいられない。天狗特性の高靴で、可愛いお腹を蹴り飛ばす。決意を込めて脚を無理やり身体の間にねじ込もうとした、そのときだった。
汗で滑った太腿が滑って、右足が空を切る。
「っ!?」
その焦りが、一層はたてを優位な体勢にさせる。
体温で汗ばむ身体を這い上がり、はたての胸と私の胸が服越しに擦れ合う。驚き、身を強張らせてしまったときにはもう、はたての顎が私の肩に置かれていて。
私の肩と首に腕を回し、目一杯に抱きしめてくる。
胸が、腰が、首筋が。
急所であるはずの場所が、温もりに包まれ……
「は……たて……」
ああ、だめ……だ。
抱きしめられるたび、意識が白くなりかけて……
このままじゃ……おち、る……おちて……
「で? 意識と一緒に朝刊も『落ちた』と」
「……オチをつけなくてもいいですからね?」
なんの罰ゲームだろう、これ。
何が悲しくて、昨晩発生した珍事件をこと細かく説明しないといけないのか。
官能小説を音読しろといわれた方がまだましかもしれない。
「仕方ないじゃないですか。不意打ちで誰かさんが私の首と胸を綺麗に圧迫してくれたのですから」
お茶には精神を落ちつける効果がある、などと誰かが言っていた気がするが、きっとデマに違いない。霊夢の隣、賽銭箱の近くで腰を下ろして湯呑をいくら傾けても、ざわついた心が収まる様子がないのだから。
「お陰様で、新鮮なネタが生ゴミに早変わりときたものです」
「生ゴミなんていうものじゃないわ、あなたの新聞は素敵よ」
思わず、肩が跳ねてしまう。恥ずかしい話ついでに愚痴をぶつけてみただけだったのに、なんてタイミングで優しい言葉をかけてくるのか、この巫女は。
「そうやって取り繕っても遅――」
「かまどの火を起こすのに使えるもの」
「……ぐすん」
さすが妖怪殺しで有名な巫女。
爽やかな朝の陽ざしの中にあって、いきなり繊細で壊れやすい私の胸を直接抉ろうとするとは、よし、その挑戦受けて立つ。
早朝やお風呂時は、シャッター音に気をつけなさ――
「文……ぁ~ゃ~……」
などと反撃方法を考えていたときに軽い肘打ちによる妨害が脇腹に入る。
私の横で小さく体を丸め、子供のように服を掴んでくるモノこそ、なんというか今回の事件の元凶に違いなく。昨日の夜から継続して、落ち込みモードが現在進行形中。
あの生意気なはたてがどうしてここまで大人しくなっているのか、そりゃあ私も気になるところ。意識を取り戻した後で、鮮度を失った原稿を屑カゴへと投げ入れつつ暴走した事情を聞いてやれば、
『大天狗様から、呼ばれて、宴会に出たら……途中から変な鬼がやってきて、邪魔だから出てけって言ったら……カメラ、とられたぁ……』
何で鬼に喧嘩うるのか、だから世間知らずのひきこもりは世話が焼ける。救いようがないと言い換えてもいい。私も若い頃は調子に乗ってカメラを奪われたことは何度かあるが、どうやらはたては今回が初回らしく、精神的ショックが極大な模様。きっと上司からも鬼に暴言を吐いたとかで注意されたことも加わっているのだろう。
こんなおバカな誰かさんのために私がわざわざ動く義理なんて、もちろん、あるはずがない。
あるはずがないのだが……
私は、すっと右手の人差し指を伸ばし、鳥居の横に設置された昇り旗へ向ける。
「というわけで、早急に『あれ』を頂きたいのですが」
「なんで?」
「……えっと、あの、霊夢? いまさらダメとかいいませんよね? それだと私立場がないというか、単なる変人なんですけど」
はたてから事情を聞いたその後、風の便りで『あれ』のことが耳に入ってきたのだ。タイミングがタイミングだったし、そして何より、霊夢は『あのお方』と仲が良い。十中八九組み上げた仮定に間違いないから……
よし、見捨てよう。
これ以上関わってもなんの得もない。と、頭では理解しているんだけど。
少しでも離れようとすると即座に服を掴み、捨てられた子犬のような目をするはたてを見ていたら、あれだ。天狗の強い仲間意識というか、本能をちくちくと刺激されるわけで……結局、はたてにすがられるまま、場の空気に流されてここまで来てしまった。
私も甘いというか、なんというか。
「冗談よ、文が誰かのために動くなんて珍しくてね。ちょっとからかいました」
「まあ、好きな子には意地悪をしてしまいたくなるのもわからなくは」
「うん、暇つぶしにはなったわ♪」
「泣いていいですか?」
で、私はその目的のために、霊夢から『はたてと仲良く飛んでくるのはおかしいから、その理由を教えなさい、そしたら考えてもいい』とか言われたわけで。
勘の鋭い霊夢の前では下手な嘘もつけず、乙女心が深く傷ついてしまったというわけ。本当に災難だわ、はぁ……
「今更、考えるだけ、とかそういうのは駄目ですからね」
昨日の夜から七難八苦、はたての次は霊夢の暇つぶしの一環に付き合わされ、もう、ため息しか出てこない。
そんな私の横では、霊夢を見つめながらごくりと息を飲むはたてが。
あなたが交渉したわけでもないのに、緊張しすぎ。
そして、霊夢は笑い過ぎ。
ああもう頭痛い……
「ん、あれをあげればいいのね?」
「いえ、あの、あげるといいますか」
目を細めて、神社の本殿の奥、薄暗い祭壇に祭られた御神体。
少し前には『河童の腕』などが祭られて、天狗の中でも噂になったわけだけど、いや、まさか。こちらが積極的に関わることになろうとは。
改めて昇り旗を眺めれば、
――御神体『天狗の右腕』一般公開中!!
などと、ふざけた文字が並び。
本殿の中には、なんだか見覚えのある無機物が、厳かに祭られていた。
ぱかぱかと開閉するタイプの誰かさんのカメラが。
「盗品ですよ、アレ」
「萃香が生意気な天狗から『借りた』から私に預けとくってさ」
間違いなく本物です、本当にありがとうございました。
少し前に噂になった河童の腕は、腕を模したおもちゃだった。では今回、『腕』ではなく『右腕』と評してあるのは、腕という直接的な意味ではなく、大事なモノという暗喩を含ませているのでは、と思ったら大当たり。
若干意味が異なるものの、文字と情報を操る鴉天狗が体よく言葉遊びに付き合わされてしまうとは。
「妙なものを御神体に使うのはおやめください」
「いいじゃない。天狗の新聞の宣伝にもなるかもしれないし。あいつみたいに口煩い事言わないでよ」
無邪気というか。子供っぽいというか。たぶん霊夢は、参拝客がくれば退屈しなくなるし、ついでに賽銭も貰えて一挙両得。程度にしか考えていないに違いない。
まったく、欲望にまみれた人間がやってきたらどうするつもりなの、って。
……あいつ?
はて、霊夢に説教する者といえば、胡散臭いあのスキマ妖怪か、閻魔くらいか。口ぶりからして最近出入りしているみたいだし、これはいいネタかしら。
って、なんなのはたて、うるさいわね。
「……早く! 早く取って来てよ!」
「自分で取りに行きなさいってば」
「あの鬼が罠を仕掛けているかもしれないじゃない! 結界が張ってあって、バチッっとか!」
「鬼の性格上それは無い」
って、あなた罠があるかもしれないところに私を行かせようとするわけね。ここまでしてあげた恩を仇で返すとか何考えているのかと、小一時間問い詰めたい。もう、いまどきの若い娘はこれだから……、
あ~、はいはい、わかりました。ああもう、仕方ない、たまには最後まで面倒を見てあげてもいいか。
と、諦めて靴を脱ぎ、畳の上へと歩を進める。そうやって御神体に近づいても、やはり何の圧迫感も、嫌悪感も、妖怪に対して働く力の流れが発現しない。まあ、大切なものを初めて失ってナイーブになるのはわかるけど、大げさ過ぎるのよね、はたての場合。
「ほら、受け取りなさい!」
「う、うわっと! 壊れたらどうしてくれるの!」
無造作にカメラを掴んで、そのまま風に乗せてはたてへと投げる。私の風の調整に失敗などありえないというのに、なんという言い草か。本当に礼儀がなってない。
とりあえずムカッときたので腰に手を当て、はたての前で仁王立ちになり睨みつけやる。
「何か、言うことは?」
「ふ、ふんっ、天狗は仲間同士助け合うのが当然なんだもん!」
「うわぁ……、調子が戻ったと思ったら可愛げのない……」
一瞬だけ、ぱぁっと顔を輝かせたと思ったらすぐこれだ。
「あのねぇ、はたて。その『天狗の右腕』もう一度御神体にしてもいいのよ?」
「じょ、冗談言わないでよ! もう、誰にも渡さないんだから!」
軽い脅しくらいしておかなければ精神衛生上よろしくない。というわけで、両手をわきわきと動かしながら迫れば、怯えた様子で境内の中を後ずさり。
そうやってゆっくり鳥居まで下がらせたときだった。
「その腕について、詳しく聞かせていただけませんか?」
階段からいきなりあらわれた人影が、はたての肩を掴む。
それは初めてみたものを釘づけにさせるだけの、異質な雰囲気を放ち続けていた。
何せその腕全体が包帯に覆われていたのだから。
「誰? あんた、勝手に私に触らないでよ! 気持ち悪い」
はたての肩の上に置かれた、珍妙な手。
確かに、そんなもので触られたらいい気分ではないだろう。私も嫌だ。
だから思わずはたてが弾こうとするのも無理はない。ただし、力加減が大問題というわけで、あーあ、あんな速さで当てたら、人間や力の弱い妖怪の腕なら、ぽきんっと。
ぐにゃり、
ほら、簡単に折れてっ……あれ?
はたてが、目を丸くする。
私もあまりの光景に声を出せずにいた。
内側に物質があるからこそ、包帯の意味があるはず。そんな固定概念を覆して、はたての腕が触れた肘の辺りが、ゆるやかに波打ち、山なりに曲がって、次の瞬間には元通り……
って、ちょっと待った。
おかしいっていうか、ありえないでしょ、これ。
「え? えぇっ!?」
はたてが自分の腕をを訝しげに見つめて恐る恐る触れ続けるが、傍目から見ても異常はない。
ということは、不自然なのはあちらの、頭の上にシニョンキャップを乗せた。あまり見かけぬ人影の方。
包帯の中にあった腕を瞬間的に引っ込めたようにも見えないし。
まさか……
「……こほん、あの私としては争うつもりはありません。腕の実物を見せていただきたいだけなのですから」
腕自体が、存在しない?
「ち、近づかないでよ! ほら、これがその『天狗の右腕』!」
「謀らないでください。私でもそれが腕ではないことはわかります。お願いですから、あなたが持っているという妖怪の腕を、ほんの少しでいいの」
微笑を浮かべているのに必死さが伝わってくるその態度。
あの腕に対する執着心は、どこかで見た覚えがあるような気が、はて、どこだったか。腕を組んで記憶を整理していると、霊夢が呆れた様子で目を細めていた。
「はぁ、腕ってつくものならなんでもいいのかしら。あいつは」
「……えっと、霊夢? あの珍妙な方をご存知で?」
「詳しくは知らないけどね。河童の腕を御神体にしたときにひょっこり神社に現れた仙人なの。なんでも昔のことを全部思い出したりする修行を繰り返して、長生きしてるらしいわよ。最近無駄に説教してくるのもあいつってわけ、欲望にまみれてるーっとかね」
「ほほぅ、仙人ですか。これは珍しい」
幻想郷の中にあっても中々お目にかかれない存在、そもそもいるのかどうかすらわからなかった種族にお目にかかれるとは、なんたる幸運。
はたてとじゃれ合っている間に、写真を撮るのが吉ね。
『腕を見せて頂けないかしら?』
『だから腕じゃないってば!』
そんな問答を繰り返している中、仙人がレンズの中央に来るよう調整して、よし。ばっちり。
あとはシャッターを切るだけ。
「名前は茨華仙っていうらしいわ」
へぇー、茨ですか。
中々おもしろい字が入ったお名前で、
「……へ?」
茨華仙、片腕、シニョンキャップ、桃色の髪。
ちょっと待って、待ってくださいよ、これは、この特徴はまさか。
いやいや、何を考えているの。
そんなことありえない。
ほら、伊吹萃香様ご本人も、地上に仲間はいないとかそういうことをおっしゃっていたでは、
「あの変な帽子の下に角でもあったりしてね」
「ははは、角、ですかぁ、あはははははははははっ」
ぴし、と。
自分でも頬が引きつるのがわかった。
頬を冷たい汗が伝い、全身の毛穴が開ききってしまったような寒気が襲い掛かってくる。
組みあがってはいけないパズルのピースがくっついていき、
「って、なんでいきなりしゃがんで頭抱えてるのよ」
「霊夢……、少々お聞きしたいのですが、はたて今、何してます?」
怖くて見れない。
さっきのレンズ越しの映像では、腕を見せてと詰め寄る仙人に対してはたてが手を振り上げてたような。
「はたて? えーっと、そうねぇ、ちょうど今」
うん、見間違い。見間違いだわ。
はたてだって鴉天狗の端くれ、あれだけ近くにいればあのお方が誰かくらいわかるはず。
そんな相手にまさか、うん、まさか。
「脳天チョップかました」
「あややややややややややっ!?」
指の間から、チラッと見……、うっわ頭の上に手が乗っちゃってる。
本当にあのお方の頭頂部に綺麗に決めちゃってるよコレ。
きっと、一般的な妖怪だと思って、気絶させる程度の力を込めて攻撃したんだろうけどね、わかったよね。これで、認識したよね。
その人物は、いえ、そのお方は……
「そうですか。頼みごとをしているだけだというのに、手を出しますか。中々元気のよい天狗さんのようですね」
「え、効いてな……っ!? いったぁぁぁぁぁいっっっ!!」
鴉天狗の攻撃を受けても微動だにせず、逆にダメージを返す。
そんな馬鹿げたことができる種族なんて、限られてるよね。だからわかったよね、って、
「よ、よくもやってくれたわね!」
「なんでとび蹴りの体勢取ってんの、この姫海堂ばかてっ!」
「きゃうんっ!?」
この馬鹿、阿呆、間抜け!
はたてが利き足を引き、空中に飛び上がろうとするのを即座に扇で撃ち落とした私は、目を回すはたてを抱えて仙人から距離をとる。
このまま逃げてしまおうか、そうだ、そうしよう!
……いや、無理よね。ええ、わかってますとも。
なんかすっごい背中に重い空気が突き刺さっているんだもの。これ、ほっとくと絶対山まで付いてくる雰囲気だし。伊吹様がいらっしゃっただけで混乱の嵐が巻き起こるというのに、このお方まで現れたとなれば、大天狗様あたり心労で寝込むわね、間違いなく。
なんて考えている場合じゃなくて、この状況をいったいどうやって乗り切れば……
「あら、あらあら、初対面の相手に暴力を振るうなどとは、天狗社会の後輩もここに極れり。『仙人』として少々お灸をすえる必要があるかしら、ねえ、射命丸家のご息女様?」
「あやややややややや……」
うわぁ、ご存知でいらっしゃる。
こ、コレは本格的に生命の危機。
何か、何か気を反らす物は……あったっ!
「あの、仙人様。実は私たちは被害者なのです。こちらのはたてが腕の件で気が立っていたのはそのせいでして」
「……聞きましょう」
よし、腕という単語で気を引くことは成功。
あとは……
ちらり、と霊夢の方を見て、にこっと。
「実は……」
「あ、こら! 文、ちょっと!」
霊夢の静止を聞かず、私はいままでの経緯をすらすらと説明する。
新聞記事を書く要領で、明瞭に、そしてちょっとだけ霊夢に興味が行くような形で、すると、思惑通り。
「霊夢、あなたという人は……、またそのような俗世の欲に身を委ねるとは、巫女として恥ずかしいとは思わないのかしら。いつもいつも本当に懲りないのですね」
「文、後で覚えてなさいよ……」
恨みがましい目で霊夢が睨んでくるが、今が好機。
はたてもまだ気を失ったままだし、面倒ごとは少ないほうがいいに決まってる。
よっこらしょっと、はたてを腕の中に抱え、逃げの一手。
抜き足、差し足、忍び足……
「でも、霊夢への説法はいつでもできますからね。ねぇ、文ちゃぁ~ん?」
「え゛?」
予想外のタイミングで呼ばれ、声が思わず濁る。
恐る恐る振り返れば、笑顔で手招きする悪魔の姿が。
くぃ、くぃっと、親指を立てて、しきりにどこかを指し示していらっしゃいます。
「神社裏♪」
これはアレデスカ。
久々に切れちゃったよ的な……
「いや、えーっと……あ、そうでした! 私これから霊夢と人里で逢引する予定が!」
「神社裏! そのはたてという無礼者も連れてきなさい!」
うーわぁ、これはたいそうご立腹のご様子で……
なら、従うしかなさそうね。
まったく、どうして私がこんな目に逢うのやら。
「霊夢、はたてをよろしくお願いします」
「え? よろしくって……、ちょっと待ちなさいよ!」
賽銭箱の横、本殿入り口の付近にはたてを寝かせて、向かうはあのお方が向かった建物の裏。
呼び止めようとする霊夢に、盗み聞きはしないようにと言い聞かせ、私は重い足を進めた。
◇ ◇ ◇
霊夢は知らない。
いや、神社に出入りする妖怪の何人がこの御仁のについて知識を持っているだろうか。持っていたとしても、仙人という事前知識が邪魔して気付きもしないかもしれない。
「……二人で来い、そう告げたはずですが?」
腕を組む片腕有角の仙人は、先ほどとは見紛うほどの威圧感を込めて私を睨みつけてくる。
ただ、腕を組んだ人物に睨まれているだけ。
たったそれだけだというのに、畏怖の念が次々と生まれ。自分でも驚くほど自然に頭を下げ、膝を付いていた。
「茨華仙様、いえ……」
あの頃の妖怪の山を知る天狗に染み付いてしまった、呪いにも似た風習のせいで声が震える。
「茨木童子様、と呼ぶべきでしょうか……」
「鬼の名はとうに捨てました。せめて茨木華扇と」
「はっ」
酒呑童子と共に存在し、大江山を支えた鬼。
その存在を再び目にするとは思いもしなかった。腕を捜すために外の世界に出払っている。天狗の中ではその認識が一般的で、まさか幻想郷の中に存在しているなど、天魔様でもご存知かどうか。
「それで、文、はたてという天狗を連れてこなかった理由についてまだ聞いていないのですが?」
そんな大物相手に、下手な態度を取ればどうなるか。
天狗であればそれを優先するのが当然。
「おそれながら、華扇様。はたては気絶しており、言を発することのできる状態ではありません」
ならば、命令どおり連れてくるのが筋である。頭の中ではそれくらい理解しているつもりだった。世渡り上手、仲間からもそう陰口を叩かれる私が、鬼の言葉に逆らうなど、まずありえない。
なのに――
「加えて、はたては先日、伊吹様と宴席に同席し、そこで写真機を奪われたことで心に深く傷を負っております。そんなときに貴方様のような大物の鬼と顔を合わせればどうなってしまうか、想像に難しくはありません。
先ほどの無礼とて、その際に失った写真機を取り戻したことによる興奮状態によるの一時過ち。普段のはたてはあのような者ではないのです。
ですから、華扇様。はたての罰はこの射命丸文がすべて受けます故、平にっ!
平にご容赦を!」
なぜ、はたてを庇うような真似をしているのだろう。
無様に四肢を地面につけ、額をこすり付けるほど低く下げて。
許しを請うているのか。
「……私の怒りが、収まると?」
このまま頭を踏みつけられるかもしれない。
無理やり羽をむしられるかもしれない。
そんな恐怖に身を包まれながらも、私には頭を下げ続けることしかできない。
「思い違いも甚だしいですね。文」
ああ、風が教えてくれる。
もうすぐ華扇様の手が私の肩に触れる、と。
恐怖はある、後悔もそれなりにある。しかし、それよりも、なんだろうこの達成感というか、満足感は。
今、まさに、鬼の圧倒的な力を持った腕が肩に触れたというのに、私は……
「さて、これでよし」
「へ?」
強張っていた体から力が一気に抜け、間抜けな声が出てしまう。
華扇様の手が肩からすっと私の右脇に動いたかと思うと、そのまま腕の付け根を掴んで持ち上げたのだ。
無理やり立たせて、おもいっきり殴り飛ばすつもりなのかも……ああ、私って軽いからきっと綺麗に飛ぶに違いない。
一瞬だけ宙を舞う自分の姿が脳裏をよぎるが、中々攻撃がやってこない。
なので、恐る恐る目を開けてみたら、出会ったときと同じような微笑がそこに。私を持ち上げた後の手をぱんぱんっと打ち鳴らしていた。
「最初から、怒っていないのですから、怒りを収めるというのは適切ではないでしょう?それに私は説教のためにあなたを呼んだわけではありません」
「あや? そ、それではどういったご用件で?」
華扇様が説教以外で呼び出す。そんなこと、天地がひっくり返ってもありえない。しかしそのありえない現象おかげで命拾いしたのは確か。
ならば真の用件というのはいったい。などと思案するうちに、華扇様は何故か私に背を向けて、咳払いを一つ。
十分間をとってから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「萃香は、達者でやっていますか?」
えっと、あの、この態度は、まさか。
華扇様が照れていらっしゃる?
「え、ええ、まぁ。気ままに過ごしていらっしゃるようです。最近では妖怪の山を通って天界に遊びに行かれることもありまして、こちらとしては肝を冷やすことも多く」
「そうですか、それだけ聞けて安心です」
「あ、あの? 失礼かもしれませんが、直接お会いになられては?」
「それはできません。顔を合わせるなど、そんな資格が私にあるはずがない」
いえ、そうではありませんね。
これは……
「大江山が人間に襲われたとき、腕を失った私は逃げた。その歴史は覆しようもありません。酒呑の血筋のものにとって、私は裏切り者。ただそれだけの、憎むべき存在。そんな私が、あの子の前に堂々と顔を出せるはずもないでしょう」
「しかし、少なくとも気に掛けてはいらっしゃるのでしょう? そうでなければ……」
「いいですか? 私は修行途中の仙人、茨華仙。それ以外の何者でもありません」
そうだ。私とはたてを呼び出して、霊夢に隠れて聞き出そうとはしないはずだ。
それに、あなた様の、過去をすべて思い出す修行というのは。
「過去の自らの行為を悔い続けるのは……単なる苦痛では……」
「……修行の本質は、苦行らしいですよ。文」
言葉を切って、振り返った。
腰後ろに手を組んで、年頃の乙女がはにかむ様に、しかしどこか憂いの残る表情でわたしをじっと見つめてくる。
「さて、気分転換にもなりましたし。今日のところは、これで戻ります」
「えっと、霊夢の方はもうよろしいので?」
「ええ、さきほども言ったでしょう? いつでもできる、と。ああ、せっかくですからあなたに一言だけためになる言葉を送ることにしましょう」
ここにきてお説教かと、身構えていたら。
飛んできたのは本当にたった一言で。
「家族を、友を、大切にすることです」
重く、心に残る言葉は、本当にわたしに向けられたものか。
それとも……
私が、棒立ちで見つめる中。
一人の仙人は神社の裏の茂みへとその姿を消していった。
うん、これで今日の災難は終わり。
めでたしめでたし、とかしわ手を打つべきなのかもしれない。
しかし、である。
妙に腑に落ちない。
もしあのお方が、長くこの幻想郷で身を隠していたと仮定するなら、何故この時期なのか。腕につられて一時的に、というのはわかる。長く姿を晒すことは伊吹様と接触する可能性も増えるわけで。
あの口ぶりからすればそれは望むことではないはず。
ならば、そんな危険を冒してまで、霊夢に付き纏おうとするのは一体……
腕を組み、疑問だけがこびりつく頭をフル回転させながら、神社の境内へと戻ってみれば、
「霊夢! さっさとお茶をよこしなさい、私がせっかく足を運んであげたというのに」
「あのねぇ、そこの付き人に世話してもらえばいいじゃない。私の体は一つしかないんだし」
さっきまでいなかった吸血鬼と、日傘を持ったメイド長が悠然と歩いていた。
一応ネタにはなるかもしれないので、カメラを構えて霊夢の方を見ると。
「相変わらず妙な方たちに人気がありますね、霊夢さんは」
「素敵な賽銭箱も人気があるといいんだけどね」
どうやら山の現人神と一緒にお茶を作っている模様。
よーくみると、血霊殿のペットやら、目を覚ましたはたてなんかもその近くで動き回っていた。こっちの気も知らずに、なんとも暢気なんだから。
しかし、こうも人数が多いのも宴会に次いでくらいだから、写真に収めておいてもいいか。
何気なく、覗いたレンズの先。
その先に動く、傍目から見たら何の共通点もない妖怪や、人間たち、
誰もが皆、日常を謳歌している。
陳腐な言葉で言えば、幸せそうで……
だから、なんとなくわかった。
そんな気がする。
きっと華扇様もこれを見たに違いない。
見てしまったから……だから……
「……華扇様、やはりあなたが望んでいるのは」
この風景の中に、一瞬だけ。
桜の木の下で二人の鬼が仲良く酒を汲みかわす幻が、レンズ越しに映った気がした。
描写がでてるのか。
あと、はたて頑張れ。
萃香や妖怪の山の面々と顔を合わせるようになるのは、話が核心に近づいた時かなーと思ってます。
誤字報告
≫血霊殿 なんかすごい恐ろしいw
まだ設定の出揃っていない中でこれだけ書けるのはすごいぜ