※オリキャラというわけではないですが、ソロモンの悪魔たちが後半で喋ります。
苦手な方は途中まで読んでブラウザバックだ!
魔理沙が一週間ぶりに図書館に行くと、パチュリーが夏バテで死にかけていた。
机の横に場違いなベッドを持ってきて、その上に倒れ伏している。
「こひゅーこひゅー」とずいぶん辛そうな息をしている。
魔理沙はどうしたものかとしばらく頭を撫でてやっていたが、なんのアイデアも浮かばなかった。
「なあ、パチュリーってさ、基本的には不老不死なんだろ? 二十四時間本が読み書きできますか? できますよって感じの」
「……?」
パチュリーは目線だけで何が言いたいのかと問う。
「なんで喘息持ってたり、夏バテで辛いことになってるんだ? 治せよ」
パチュリーはめんどくさげに頭を振って、そっぽを向いてしまった。
「治さないとつまんないだろ。せっかく新型の榴散弾でいろいろ破壊してやろうと思ってたのに」
軽口を叩いても、パチュリーの様子は変わることがなかった。会話をするのも辛いらしい。
「魔理沙さんの疑問には私がお答えしましょう」と、小悪魔がお粥やもろもろの病人食をカートに乗せて持ってきた。
「パチュリー様は私に限らず様々な悪魔と契約しているのです」
「ふうん、なるほどな。パチュリー、お粥食べるか? 食べないなら私がもらっていい?」
「お粥は上げませんし私の話を聞いてください」
小悪魔は魔理沙をパチュリーの傍から引きはがして、お粥をふーふーし始める。
「パチュリー様、はい、あーん」
パチュリーは頭をふりふり逃げていたが、やがてのしかかられて捕まった。
もきゅもきゅと食べさせられている。
「夏バテな奴に熱いもの食わせるか? さすが悪魔だぜ」
「人肌が一番いいんです」と言って、小悪魔はむずがるパチュリーの上にマウントでまたがり、ぐちゅぐちゅとスプーンでお粥をかき混ぜては、パチュリーの小さな口の中に流し込んでいく。
「美味しいですか? ふふふ、美味しいですか?」
パチュリーはケフケフ言いながら苦しそうに食べている。
魔理沙は今まであまり興味のわかなかった目の前の主従の関係が少し気になってきた。
「謎が多いよな。治さない喘息然り、名前を教えない小悪魔然り」
「ですからその辺りを説明――したいんですけど、もうパチュリー様ったら暴れないでくださいな」
何かしら含むところがあるのか、小悪魔は弱ったパチュリーをここぞとばかりに攻め立てる。
お粥が空になるとようやく気が済んだらしく、濡れタオルでパチュリーの額や首筋を撫でながら、小悪魔は話を続けた。
「ヴアル、という悪魔を知っていますか?」
「あいにく、召喚魔法は専門外だ」と魔理沙はベッドの端に座って言った。「そのうち手を出したいとは思ってるがな」
「ヴアルはソロモン七二柱の一柱で、契約すると過去現在未来の知識が手に入り、女の子にもモテるようになるありがたい悪魔なんです」
「ほう、モテモテか?」
「はい。私のような力弱い悪魔は、抵抗もできないままパチュリー様に萌え狂うしかないのです」
小悪魔の汗を拭く手がだんだん下の方に移っていく。
契約の対価はセクハラかと思いながら、魔理沙はそっぽを向いておくことにした。
「そりゃありがたい悪魔だが……。つまり、パチュリーはそいつと契約をしているのか」
「はい」と小悪魔は誇らしげに言う。「この図書館はそのままヴアルの力を行使するための魔方陣になっています。ここの本は時空を超えた知識が形になっているもので、パチュリー様自身が著述する場合には、書いた分の知識がそのまま手に入ります。読む場合には解釈と翻訳の多様性があるのでちょっとややこしいんです」
「ふうん……。その割にはどうでもいい知識が多くないか? この前借りた本の中身は、美味しいパイの作り方しか載ってなかったぜ。おかげでパイが作れるようになってしまったが」
「そこは、まあ、悪魔ですから」と言って、小悪魔は笑った。
「ヴアルは、本当に、過去現在未来の全ての知識を玉石混合で詰め込んでくるんです。雑学クイズの世界チャンピオンにとっては全てが玉でしょうが、魔法にしか興味がない魔法使いにとっては、ほとんどの本が路傍の石と変わらないでしょうね」
「……なるほどな。パチュリーがなんだかんだで私に本を貸してくれるのは、役に立つ本を峻別するための下読み係になるからか」
「そういう側面もありますね。あなたは役に立つ本をそのまま強奪するので、結局パチュリー様に実入りはないんですけれど」
「それも契約の対価だ」と魔理沙は笑った。
「それで、そのヴアルって悪魔が、パチュリーの体調を悪くさせてるのか?」
「はい。あ、もう拭き終わったので、こちらを向いていいですよ」
魔理沙がパチュリーの方に向き直ると、パチュリーは少し持ち直したのか、上半身を起こしていた。
小悪魔はほかほかしたタオルをカートに戻して、黄色いジュースを充てがった。
「レモネードです」
「……ん」パチュリーは何も言わずに受け取ると、ストローでチュウチュウ啜り始める。
「さっきも言ったように、パチュリー様はここで書き物をすればするほど賢くなるようにできているんですね。だからなるだけここから出ないで、不眠不休で書き続けると効果的なんです」
「事実そうしてるがな」
「つまり、パチュリー様は不老不死に加えて、不眠の存在になる必要もあるわけでして」
いくら不老不死の肉体でも精神的な疲労や摩耗は襲ってくる。リセットするには眠るのが一番だが、時間との効果対費用を考えると決して最善の選択とは言えない。何故なら眠らなくても肉体にはなんら影響がないからだ。
パチュリーはヴアルに、「永遠に眠らないで済む方法はないか」と尋ねた。
ヴアルの答えは、「精神的なダメージを、不死身の肉体の上に転写する」というものだった。
「パチュリー様の喘息や夏バテは、要するに心の風邪なんです」
「ストレスが貯まると咳が出て、夏の暑さにイライラすると夏バテをする、ってことか」
魔理沙はようやく話の概要を理解することができた。
「でもここ、けっこう涼しいぜ?」
「パチュリー様は暑さにうんざりしているのではなく、涼しさを保つための魔法運用にイライラしてるんです」
「寝ろよ」と大笑いして、魔理沙はパチュリーに飛びついた。
「寝ろ寝ろ。私が寝かしつけてやるぞ」
「……まとわりつかないで……ごほごほ」とパチュリーはむずがる。
「魔理沙さん、パチュリー様にストレスを与えないでください」
小悪魔が後ろから引きはがすと、パチュリーはすっかり機嫌を損ねて、タオルケットをひっかぶって丸くなってしまった。
「ハムスターみたいだな」と魔理沙は嘆息した。「パチュリーをお化け屋敷に連れていったら死ぬ。よく覚えておくぜ」
○
せっかくだからと広いベッドの隅で昼寝をしていた魔理沙は、ほっぺたをつつかれる感触で目が覚めた。
「起きた?」
「……ん、フランじゃないか」
フランは両手を後ろで組んで済ましている。ご機嫌がうるわしいらしく、瞳と背中の羽が爛々と輝いている。
「ね、ね、手伝ってよ」とフランは魔理沙の袖を引く。
「何をするんだ?」と言って、魔理沙は立ち上がった。「おもしろいことなら手伝ってやるぜ」
フランは背伸びをして、魔理沙の耳元に口を寄せた。
「……うふふ。悪魔をね、召喚してみようと思うの」
「ふーん、なるほど」
魔理沙はパチュリーの様子を伺った。
パチュリーと小悪魔はベッドの上で折り重なっていた。小悪魔は眠ってしまったらしく、穏やかな顔でくったりしている。パチュリーは彼女を押しのけるのに必死になっていて、フランの言葉は耳に入っていないようだ。
「……おもしろそうじゃないか」
「やった。じゃ、ちょっと待ってて」と言って、フランは図書館の出口の方に飛び去った。
魔理沙が寝っ転がりなおして待っていると、やがて身の丈ほどもある水槽を両手に抱えて戻ってきた。
「水槽……。魚でも召喚するのか?」
「だいたいそんな感じ。魔理沙はこれに水を溜めて来てね。私はその間に部屋で準備をしとくから」
「あー……。そういや吸血鬼は流水が苦手だったな。わかったぜ」
「二人だけの秘密よ?」
「そこでもがいてる紫もやしは、眠らせておけばいいのかな?」
「魔理沙は話がわかるから好きよ」と言って、フランは羽で魔理沙の帽子をたたき落とした。
好き、の意思表示らしい。
「あ、怒った?」
「後で榴散弾の刑だ。――ま、先にやることやろうぜ」
「うん。じゃ、待ってるから早く来てね」
フランはまたすごい速度で魔理沙の視界から消えてしまった。
「水か……。図書館にも給湯室があったよな」
足元の水槽に目をやる。三角座りをすればすっぽり入れるほどの大きさがある。
「この大きさなら風呂場でガンガン水溜めたほうが早いな」
魔理沙は小悪魔をひっくり返してパチュリーを助け起こすと、「なあ、風呂借りてもいいか?」と尋ねた。
「……フランと何話してたの?」
「パチュリーを優しく眠らせてあげようって話さ」
魔理沙はエプロンドレスのポケットから小さな紙包みを取り出すと、コップにレモネードを継ぎ足して、その中にさらさらと注ぎ込んだ。
「お見舞いに風邪薬を持ってきたんだぜ?」
「……本当に風邪薬?」
本当は、泥棒の際に一服もるための眠り薬だった。備えあれば憂いなしだ。
「伏せってるのも寝てるのも一緒だろ? 悪魔のことは忘れて今は眠るんだぜ」
「……うん」
パチュリーは渋々頷くと、ためらいがちにレモネードに口を付ける。
「おっと、眠る前に風呂場の場所だけ教えておけよ。どうせこの図書館なんでも揃ってるんだろ?」
「……その、水槽。なに?」パチュリーはじとりとした視線で魔理沙の足元を睨みつける。
「フランが暑さ対策に氷の妖精を捕まえてきたんだけど、水気がないもんだから弱ってるんだ。その中に突っ込んでちゃぷちゃぷ飼いたいんだってさ」
「……お風呂は、あっち」と倒れ際に右手を指さして、パチュリーはぱたりとベッドに倒れた。
すぴーすぷーと鼻息を鳴らして眠っている。
「きのこの胞子は効くなぁ」
魔理沙は軽くほっぺたをつねって眠りの深さを確認すると、水槽を両手に抱えて、箒に腰掛け、指さされた方向に飛んでいく。
「悪魔ねぇ……」
――召喚の儀式がどのようなものなのか。後学のために見ておくのもいい。
「妹様のお手並み拝見……だな」
失敗しても成功しても、ろくなことにはならないだろうなと、魔理沙は楽しげに笑った。
○
フランの部屋はカーペットがひっぺがされて、冷たい大理石の床が丸見えになっていた。そこにチョークで綺麗な円が描かれ、その中にはごちゃごちゃとした謎の図像が描かれている。
「水槽、真ん中に置いて」フランはまじめな顔つきでふわふわと浮かんでいる。
「線に沿って正確に置いてね……そうそう。いい感じ」
魔理沙は箒と自分の両手で器用に水槽を支えながら、こぼさないようゆっくりと床に下ろした。相当な箒のコントロールがないとできない芸当である。
「ふう。大変だったぜ」
「ありがと」とフランは微笑む。「無事に召喚できたら、魔理沙ともお話させてあげるね?」
「それで、どんな悪魔を召喚するんだ?」
魔理沙はチョークを踏み荒らさないように箒でふわふわと浮かび直して、入ってきた扉を閉める。
「フォルネウスっていう悪魔なの」と、フランはくるくると回りながら楽しげに説明し始めた。
「パチュリーの書いた「ソロモン悪魔大全」に載ってたんだよ。すっごく賢い海の悪魔で、どんな魚介類の姿にでも化けられるんだって」
「海の悪魔ねぇ。淡水でも平気なのか?」
「平気だよ」とフランは胸を叩く。「抜かりはないのです。というかね、呼び出す時に水を貯めておく必要があるんだ。もし水がないのに呼び出しちゃうと、術者の心臓を食い破って出てくるんだって」
「液体ならなんでも、血でもいいってことか」
「そう。だからきっと淡水でも平気なの。もちろん、魔理沙の心臓でもいいんだけどさ」
フランは羽で魔理沙の箒を突っつきながら言う。
「心臓がないとコンティニューできないぜ」と魔理沙はおどけた。「それで、そのフォルネウスくんの御利益はなんなんだ?」
「すっごくトークがうまいらしいの」
「……トーク?」
フランは隅っこに移動させたソファーの上からソロモン悪魔大全を持ってきて、ページを開いて魔理沙に見せた。
「フォルネウス:召喚難易度B お役立ち度C 序列三十位の割には何もしない。言語学・修辞学に優れていて、話好き。つまらない人生を送ってきたものがうっかり呼び出すと、軽快なトークの魔力に取りつかれ、死ぬまで彼と話し続けることになってしまう。水場がないと活動できないため、行動の制限自体は簡単。あまり大きな海の生物に変身させないよう、水槽は小さめのものを用意しよう。金魚鉢ぐらいが目安。ペットにするには最適の悪魔だが、耳栓が必須。うっかり忘れた時は鼓膜を破ろう」
「……なんだこの愉快な悪魔」
魔理沙はすっかり胸の奥がきゅんとなってしまった。
「ね? 楽しそうでしょ」とフランは嬉しそうに魔理沙に抱きつく。
「お部屋に置いといたら、絶対に退屈しないよ」
「一家に一匹だな」魔理沙はフランの頭を撫でて、やんわりと引き離した。
「さっそく始めてくれよ。私は隅っこで見てるぜ」
「水槽持ってきてくれたし、もう用はないんだけど」
「おいおい、いじわるはなしだぜ。共犯だろ?」
「あら、悪いことなんてしてないわ」
二人はクスクス笑いながらソファーの上まで飛んでいく。魔理沙が箒から下りてベッドに着地すると、フランもその上に飛び乗ってきた。
「じゃ、見ててね。――フォーオブアカインド」
スペルと同時に、部屋の三方から三人の分身フランが現れた。
三人のフランは魔方陣の縁をなぞるように飛び回る。
オリジナルのフランは指揮棒のように指を振り、三人に合図を送る。
「へなこっちゃなんちゃなこーでするめいか」と一人が言えば、
「まるまぎかへっちゃむくーれきんめだい」と別の一人が詠い、
「らんむぎかとんらぶーとれずわいがに」と残りの一人が唱える。
「何語だよ」
「ヘブライ語だよ」とフランはすまし顔をする。「魔理沙は魔法使いなのにヘブライ語も知らないんだ」
ちょっとイラっとした魔理沙はフランの羽の根元をぐりぐりする。
「あふう」
「なんか、するめいかとかずわいがにとか、聞きなれた名前が混ざってるが?」
「そこはお魚の名前が入ればなんでもいい部分なの。このまま呪文を唱え続けて、魚介類の名前を千種類言えたら召喚成功なの」
「千種類も覚えたのか?」
「暇だったから」とフランは照れる。
「学名じゃなくてもいいのか?」
「魚への親しみを測る儀式なの。学名なんていらないわ」
そうこうしてる間にも、三人の分身たちは次々に魚介類の名前を唱えていく。
「しーらかんす」「まりも」「ふたばすずきりゅう」……「てっぽううお」「ひょうもんだこ」「もささうるす」……「とびうお」「めがろどん」「まっこうくじら」
――ところどころ爬虫類や哺乳類でごまかしているが、海に住んでりゃ許容範囲なのかなと魔理沙は思い、突っ込みを入れないことにした。
「あのまろかりす」「そーどふぃっしゅ」「ふじつぼ」……。
――三十分後。
ひたすら呪文を繰り返していた三人の動きがようやく止まる。
繰り返される意味不明な呪文と海の生き物の名前を聴き続け、魔理沙はすっかりトランス状態に入っていた。頭をゆらゆらさせて心ここに在らずの状態だ。
「ありがと私」と言って、フランは指を鳴らし、三人の分身を消し去った。
「――さあ、いでよフォルネウス」フランはノリノリで右手を突き出しポーズを決めた。
「汝が磨きし至純の話芸、紅き鬼の狂喜にあたうることを示せ!」
がたがたがたと水槽が震え、プシュウと白い水蒸気が吹き出してくる。
「盛り上がってきたよ、魔理沙!」
「んー、あー、終わったのか?」
結局まるで参考にならなかったなと、魔理沙はあくびをした。魚を千種類覚えるぐらいなら一人寝の寂しさの方がまだマシというものだ。
やがて煙の中から姿を現したのは。
胸ヒレの代わりに黒い翼の生えた、三十センチはあるトビウオだった。
グライダーのような体をはためかせ、水槽の中を狭そうに泳ぎ回っている。
「わあ、成功だ!」とフランは小躍りした。
「ねえ、ねえ、何か喋ってみせて」と水槽の中に手を突っ込んで羽を撫でる。
だがトビウオはぎょろついた目をぐるぐる回すばかりで、答えようとはしない。
「焦らさないで、早く喋ってよ。ねえ早く早く!」
フランが水槽をがたがた揺らすと、トビウオは水の中で力を溜めて、ぴゅんとフランの顔めがけて飛び出た。
「ひゃあ」
フランは危ういところでグレイズしたが、拍子に水槽に羽を打ちあてて、ひっくり返してしまった。
バチャバチャと水がこぼれ落ち、流水を見聞きしてしまったフランは力が抜けてへたりこむ。
「フラン!」
魔理沙は箒に乗って、フランが濡れた床に倒れるスレスレのところで拾い上げる。お姫様だっこをして方向転換をし、ぴちぴちと床を跳ねているトビウオに向き直る。
「どうやら、失敗したみたいだな」
「……失敗? なんでよ。ちゃんと本の通りにやったのに!」
フランは凶暴な顔つきになるが、まだ流れている水のせいでうまく体に力が入らない。
「小さな失敗だ。そんないらつくほどのことじゃないぜ」と魔理沙は慰める。「あんまりおもしろい失敗の仕方じゃなかったから、私的には零点だけどな」
「うう……」フランは悔しげに魔理沙とトビウオを交互に睨みつける。
「許さない……私がどんな思いでお魚の名前を覚え続けたか……あのトビウオに思い知らせてやる」
「三枚におろすか?」
「魔理沙は出てって」
と言って、フランはポキパキと指を鳴らす。
「おーこわいこわい。触らぬ鬼に祟りなしだぜ」
魔理沙はフランを離し、扉を開けて外に出ようとした。
――その足元を。
目のくらむような速さでトビウオがすり抜けていく。
「――な、嘘だろ」魔理沙は足先にかすめた翼の感触にぞくりとした。
「魚が空を飛んだ?」
「待て、逃げるな!」フランはギラギラとした目付きでトビウオの後を追って飛び去る。フランの羽が魔理沙の帽子を直撃し、弾き飛ばす。
「……やれやれ」
置いていかれた魔理沙は、帽子を拾ってかぶり直すと、水で乱れた魔方陣の残骸を見つめてため息をついた。
「――フォルネウスは水場でしか活動できない。ってことは、あれは別の悪魔なのか。それともパチュリーの知識が間違っていたのか。……いや、パチュリーの知識はヴアルが保証してるんだ。ケアレスミスはない。……フランが何か思い違いをしてるってことか?」
魔理沙はフランがソファーの上に残した「ソロモン悪魔大全」を引っつかむと、パラパラとページを捲ってフォルネウスの項目を見直した。
「……うーん、方法も魔方陣も合っている……ように見えるが。家に帰ってゆっくり読んでみるか」
本を抱え、箒に跨って、魔理沙は静かに部屋から出ていった。
どうせ半日もすれば、パチュリーがきのこの眠りから目覚める。
それで何もかも元通りだろう。
○
翌朝。
魔法の森の自宅で目が覚めた魔理沙は、外からいくつもの奇声と悲鳴が聞こえてくることに気がついた。
「――ん、うるさいぜ」
大きな伸びをして、顔を洗って歯を磨き、朝食にフランスパンを齧ってまた歯を磨いていると、ドアをどんどんどんと強くノックする音が聞こえた。
「はーい、ちょっと待ってろ」
不穏な空気を感じていた魔理沙は、八卦炉を後ろ手に隠して、慎重な手つきでドアを開けた。
ぴゅんと風を切って妖精が飛び込んでくる。閉じ込めるべくドアを閉め、八卦炉の標準を合わせて「誰だ」と問うと。
黒髪の妖精はハンズアップをして、「わ、私です! スターサファイアです!」と叫んだ。
「スター……?」
見覚えはあったが、確かずいぶんと警戒されていたような気がする。ここに逃げ込んでくるなんてよっぽどのことだろう。
「どうしたんだ?」
「わ、私たちの家が……」と言って、スターはがっくり膝をついた。「家だけじゃなくて、魔法の森中が空飛ぶ魚の大群に襲われてるんです」
「空飛ぶ魚……?」
魔理沙は嫌な予感を振り払うように咳払いすると、窓際に行って、カーテンを開いた。
――そこには地獄絵図が広がっていた。
空をトビウオの群れが旋回している。まるで一匹の龍のような統制のとれた動きだ。見るまにパッと拡散し、四方八方に急降下していく。「あああ」「ぬるぬるやだぁ」妖精たちは雨のように降ってくる数の暴力に抵抗もままならず、次々とのしかかられてぬるぬるとした体液を体中に擦り付けられている。
びたびたびたと、草に張り付き木に張り付き。とどまるところなく地が埋めつくされていく。
森中が生臭い臭いで満ちていくのがありありと見て取れた。
「晴れときどきトビウオ……」
魔理沙は後悔の念に苛まれた。
「しまったぜ……。パチュリーがなんとかすると思った私が甘かった。図書館の外に大して興味がないもんな、あいつ」
あるいは私が責任を取れという意趣返しだろうかと魔理沙は思った。
――フランは今頃こっぴどく叱られているだろうが……。さて、どうしたものか。
「スター」
「は、はい……」
「私は異変の原因を調べてくるから、お友達は自力で助けるんだ」
「え、ええ……」とスターは不安げな目で縋ってくる。
「ここは好きに使っていいから、隙を見て連れてこい。――ほら、また」
地上でびたびたしていたトビウオたちが、一斉に上空に飛び上がって、龍になる。
どうやら何者かが指揮をふるっているらしい。
「上空でまとまってる間は平気だ。頑張るんだぜ」
「は、はい……」
「さてと」魔理沙はパジャマからエプロンドレスに着替えて帽子を被り、箒をクルクルと回して戦闘モードになった。
「魚は焼いた方がいい――ってことで、レーザー装備だな」
ドアを開けて空に飛び出す。ちょうどトビウオの群れが空から降ってくるタイミングだった。魔理沙は斜め上から降り注いでくる一群を焼き払い、高度を上げて対峙する。
トビウオの群れも魔理沙に気づいたのか、再び空中をらせん状に舞い上がり、とぐろを巻く。
「……蛇?」
群れが口を開けて襲いかかってくる。魔理沙はスペルカード・ブレイジングスターを起動し、正面から群れの中に突っ込んでいく。
強い光が流星の如くほとばしり、触れた魚がことごとく焼けただれ、龍は口中を貫かれた。
ターンを決めた魔理沙は、群れに空いた大穴が徐々に埋められ、立て直されていくのを目にする。
「弱いが、こりゃ少々めんどうだな」
見えてるだけで数万匹はいるだろう。殲滅するまで相手をしていては、時間がいくらあっても足りない。
「逃げるか」
魔理沙は最大戦速で紅魔館へ向けて箒を飛ばす。トビウオの群れはすごい速さで追ってくるものの、魔理沙が急降下や急旋回をするたびに後方で渋滞が起こり、群れの先頭部分だけが取り残される。
「――そろそろかな?」
魔理沙は雲の真ん中を突っ切ったところで宙返りをし、箒を止めて八卦炉を構える。
次々と雲から飛び出てくるトビウオは、魔理沙の姿を見失って急停止する。そこに後続が次々とぶつかり、だんごの塊のようになっていく。
その巨大なトビウオつみれに、斜め下の死角から、極太のレーザー砲が襲いかかる。
ブオオオオオンという鈍い音が止むと、出来上がった数百匹の焼き魚は、誰に食べられることもなく虚空の底まで落ちていった。
「これでとりあえず撒いたかな」
魔理沙は雲の下に戻って、四方の状況を見回した。
「……魔法の森、人里から川をさかのぼって妖怪の山。ひどい有様だな。……いなごの大量発生ってこんな感じだったんだろうぜ」
幻想郷の低空が、とぐろを巻き数え切れないほどの頭を持つ巨大な龍に覆い尽くされんとしている。
妖怪の山の辺りはひときわ群れの影が濃いが、山の中腹で戦線が膠着している。天狗たちが吹き飛ばしているのだろう。
影の濃さを目で辿ると、大元は霧の湖だった。ボチャボチャボチャボチャとトラウマになりそうなほどの飛沫が上がっており、トビウオたちがひっきりなしに出たり入ったりしている。
「本体……昨日逃げたのはあそこかな」
チルノが泣きわめいているだろうなと思うと、かわいそうな気持ちになった。
転じて人里に目をやると、強力な結界らしきもので群れの侵入が阻まれている。上空には星蓮船がスタンバイしており、ノアの方舟よろしく着々と避難が進んでいるらしい。
「頼りになる仏さんだぜ」と感心した魔理沙は、そういや霊夢は何をしているんだろうと博麗神社の方に目をやり。
――山ほども大きくなった、酒呑み鬼の姿を見つけた。
○
「大漁じゃーい!」
萃香は網をふるって、魚の群れを根こそぎかっさらい、そのまま山に叩きつけては息の根を止めていく。谷底には既に膨らんだ網が数十ほど積まれており、誰も食えないほどの巨大な肉の山ができている。
「豊漁ね」
霊夢は神社の境内に積まれた巨大な網の端っこを流れ作業で萃香に手渡ししている。
「うまく干物にできれば、死ぬまで食うに困らないわ」
「こんな得たいの知れないものを食うのか?」
魔理沙は上空から急降下して、食い意地の権化と化した巫女に突っ込みを入れた。
「あら魔理沙。あなたも干物を狙ってきたの?」
「ちょっと落ち着けよ……」
魔理沙はため息をついて、楽しそうにぐるぐる網を振り回している萃香を見上げた。
「この網は?」
「恵比寿様に頼んで用意して貰ったの。網一切れごとに十倍の干物をお供えする約束でね」
恵比寿様というと、言わずと知れた七福神。豊漁の神様だ。海がない幻想郷には縁が薄いし、商売繁盛の神様でもある以上貧乏巫女とも縁が薄いはずだが、疎遠な神でも呼び出せる辺りさすがは霊夢だなと魔理沙は思った。
「あー、ま、いいか。どうせこの異変は私が解決するから、霊夢は好きなだけ魚を採るといいぜ」
「もうちょっと採ったら解決するわよ。まだ神社の名物にして売るほど採れてないもの」
「……もう充分だと思うがな。ま、解決したくなったら霧の湖に行けよ。どうやらそこが元凶みたいだぜ」
「ふうん、湖ね。あんたにしては素直じゃない。どうしたの?」
と霊夢は首をかしげる。
「多少なり責任を感じてるわけだ」と魔理沙は肩をすくめた。「私のせいじゃないけどな」
「どっちなのよ……。まあいいわ。あんたが原因なのね? 後でとっちめてあげるから」
「相変わらず人の話を聞かないな」と魔理沙は笑い、霊夢を置き去りにして上空へと舞い戻った。
忙しそうな萃香と交互に手を振ってから、紅魔館へと飛び急ぐ。
「巫女は頼りにならず……か。予定調和だな」
パチュリー怒ってるんだろうなと思うと、少なからず気が重くなった。
紅魔館はぎりぎりのところでトビウオの襲撃をまぬがれていた。敷地の中にトビウオの姿はない。死体すらなかった。咲夜が時間を止めて丁寧に拾い、外に投げ捨てているからだ。
トビウオの群れは霧の湖からひっきりなしに襲いかかってくるが、美鈴と小悪魔が正門前を、咲夜と妖精メイドたちが周囲の空を、ぎりぎりで押しとどめているという状況だった。
「お邪魔するぜー」魔理沙がこっそり正門に姿を現すと、小悪魔が怒った顔で言葉をぶつけた。
「む、犯人が現れましたね」
「私は犯人じゃないぜ」
「フラン様をそそのかして、悪魔を召喚させるなんて、とんでもないことです」
「それは事実ではないんだが……」
紅魔館に火の粉をかけないために咲夜辺りがふれ回ったなと魔理沙は察知した。
「全てを私に押し付けるのはフェアじゃないな。フランは何処だ?」
「レミリア様の部屋でお仕置きされてます」
「……パチュリーは?」
「図書館で、怒ってますよ。早く謝らないと、知りませんから」
「謝罪はともかく、弁解は必要だな」
魔理沙は図書館へと箒を飛ばす。そのまま入ろうとしたが、いつもは魔理沙のために開け放たれている窓が、今日は閉まっていた。仕方がないので箒から下りて入口に回り、扉を開ける。
「邪魔するぜー」
パチュリーはベッドの上で昨日と似たような格好をしていた。息は荒らげておらず、ただアンニュイな表情をして魔理沙を見つめる。
「来たわね」
「来ちゃったぜ」
魔理沙はベッドに腰掛けて、のそのそとパチュリーに這いよった。
「よく眠れたか?」
「起きたのは一時間前……」
「寝過ぎだぜ」
「起きたら幻想郷が魚に襲撃されていたわ」
「実はなパチュリー、ここはまだ夢の世界なんだ」
「なら魔理沙をシチューにして食べようかしら」
「寝て食欲が出たらしいな」
魔理沙は今ひとつパチュリーの機嫌を測りかねていた。
擦り寄って手を握ると、ピシャリと叩かれる。
「いたた」
「……フランの魔方陣が間違ってたの」とパチュリーは言った。
「あれはフォルネウスじゃなくてアスモデウスの魔方陣」
「アスモデウス……」
魔理沙は夜ふかしして読み込んでいた「ソロモン悪魔大全」の記述を思い出す。
「確か、色魔だったよな。処女に取りついて結婚相手を七人も殺したものの、魚の内臓で追い払われたっていう……」
「そう」とパチュリーは頷く。「醜悪なユニコーンとも言える。清浄を好む汚濁は清浄に何もできないまま世を去る。逆説的な乙女の守護悪魔……」
「ひねくれものっつーか、古典的っつーか」と魔理沙はため息をつく。「要はヘタレだろ」
「処女と童貞の信仰は根深いのよ。深入りしてもつまらないから、放っておくことね」
パチュリーの喋り方はすっきりしていた。やっぱりこいつは定期的に眠らせたほうがいいなと魔理沙は思った。
「……待てよ。アスモデウスは魚の内臓が苦手なんだよな」
「ええ、そうよ」
「なのに、フォルネウスの儀式と名前で召喚されてしまったってことか?」
「そしてトビウオの姿でね」とパチュリーはおもしろくもなさそうに言った。「悪魔の混同自体はよくあることなの。後付けの設定で、実はあの悪魔はこの悪魔の変化した姿だったんだ、なんて伝承は山ほどある。というより、悪魔という存在自体が、普遍宗教がもたらした後付け。本来は「現世利益」を叶えてくれる地母神や、ただの才人が伝説化したものが多い」
「堕天使ってのも、モロ後付けっぽいよな」と魔理沙は言った。「フォルネウスもアスモデウスも、っつーかほとんどのソロモンの悪魔は堕天使じゃなかったか?」
「そして、貴族」とパチュリーは笑う。「真実ではなかろうと、名前が売れれば「契約」する機会が増えて力が強まる。悪魔はよく、自分についての適当な伝承を、契約者を使って書かせる。マッチポンプね」
マッチポンプ……。
魔理沙の脳裏に閃くものがあった。
「なあパチュリー。本が手元にないんで今は確認できないんだが、フォルネウスのページに載っていた魔法陣は、確かにフランが書いていたものだったんだ」
「また盗んだの?」
「フランから又借りしただけだ。話を逸らすんじゃないぜ」
魔理沙は咳払いをして話を続けた。
「つまりだな、フランは魔方陣を間違っちゃいないってことなんだ。間違えたのは、書いたパチュリー、お前だぜ」
「……それで?」
「間違い方に悪意があるよな」と魔理沙はニヤニヤした。
「わざわざアスモデウスに、もっとも苦手としている魚の怪物をぶつけたんだ。つまり、アスモデウスに怨みを持つものが犯人ということになる」
「それで?」
「――パチュリーはアスモデウスに恨みがあるんだろう。伝承に出てくる、婚約者を七度も殺された女の子。それがパチュリーの正体だったんだぜ」
「不可ね」
パチュリーはバッサリと魔理沙の推理を切り落とした。
「私は生まれた時から魔女だもの。人間と結婚するなんてナンセンス」
「あ、そういやそうだったか」と、魔理沙は残念そうに頭をかいた。
「なんだ、せっかくパチュリーの秘密を暴けたと思ったのにな」
「魔理沙に暴けるようなものを秘密とは呼ばない」とパチュリーはすまして答えた。
「さっきの推理、途中まで合ってるわ」と、レモンティーを空にしてからパチュリーは続けた。
「アスモデウスに怨みがあるもの。そして、私に嘘を教えて復讐の道具にできるもの」
「……あ、そうか!」魔理沙は閃きついでにパチュリーに抱きついた。
「ヴアルだな!」
「……そう」パチュリーはしばらくもがいていたが、魔理沙がむきになって抱きつくので諦めた。
「真犯人はフランでも魔理沙でも私でもない。ヴアルのいたずらだったのよ」
パチュリーは魔理沙の肩に顎を乗せて、そのまま耳元で話した。
「ヴアルは未来視によって、フランがフォルネウスに目を付けることを知った。そこで私に嘘を教え、フォルネウスとアスモデウスの魔方陣を入れ替えた。悪魔は儀式によって体を。魔方陣によって魂を現世に移す。つまり、アスモデウスはフォルネウスの体に魂を放り込まれたことになる」
「魚そのものになったアスモデウスは、色魔よろしく大繁殖して復讐の炎に燃えているってことか」
「卵生は増えるのも簡単だからね……」パチュリーはため息をついた。「体外受精する魚に処女も非処女もない。おそらく霧の湖の中は、悪魔によってバイオリズムを超越させられた魚達が、サバトに励んで幸せなことになっているわ」
「恐るべしアスモデウス……。その真価は魚類によって図らずも解き放たれたわけか」
「いいえ、図っているわ。ヴアルはこの未来も予知していたはず」
パチュリーは、一向に離してくれない魔理沙のほっぺたをつねりながら言った。
「今回の出来事によって、アスモデウスは完膚なきまでに幻想郷中で嫌われることでしょう。ヘイトを稼いで軽蔑させ、「契約」の機会を奪うこと。――これが悪魔の戦い方なのね」
「陰湿だぜ」と魔理沙は笑った。
「おい、ヴアル! ネタは上がったぜ。出てこいよ!」
静かな図書館に、魔理沙の呼びかけに応える様子はなかった。
「ヴアルが人前に姿を現すことはないわ」とパチュリーは言った。「伝承に残るヴアルのコミカルな姿。あれはアスモデウスの創作だったのね。そりゃ復讐に走りもするわ」
「ヴアルの姿……? それも「ソロモン悪魔大全」には書いてなかったぜ?」
「書かないでくれって泣いて頼まれたの。……ともかく、私に知識を曲げて教えたのは、明確な契約違反。ヴアルにはワンペナルティが発生する」
パチュリーはほっぺたをすりすりしてくる魔理沙にうんざりしながら言った。
「ヴアル、魔理沙に恋の魔法をかけても、許してはあげないわ。契約通り、私の言うことを一つなんでも聞きなさい」
「恋の魔法?」魔理沙はハッとして、ようやくパチュリーにまとわりついている自分を自覚した。
「恐ろしい。まったく自覚がなかったぜ。これが女に好かれる程度の能力なのか……」
魔理沙は自覚したものの、ふにふにしたパチュリーの抱き心地がよかったので、そのままでいることにした。
「女に嫌われてるアスモデウスに嫉妬されたのね。それが大元の原因。度し難きは堕天使の自由さ」
パチュリーはこほこほと小さく咳をして、胸に顔をうずめてくる魔理沙をぺちんと叩いた。
「あぁ、またストレスが……」
○
図書館にレミリア・フランドール姉妹がやってきたのは、魔理沙が無理やり気付け薬を飲まされてようやく落ち着いた頃だった。
「何をベッドでいちゃいちゃしてるのかしら」レミリアは見るからに不機嫌だった。いつもなら寝ている時間なのだ。
フランは目をうるうるさせて、大事そうにお尻を押さえている。ひたすらお尻ぺんぺんされてたんだなと魔理沙は察知した。
「パチェ、早くなんとかしてくれないかしら。咲夜と美鈴もさすがに限界よ」
「……そうね。巫女は当てにならないみたいだし。結局、ペナルティをここで使うしかないか」
パチュリーは残念そうにそう言って、久方ぶりにベッドから降りた。
「契約者の名において命ずる。ヴアル、アスモデウスを魔界に返せ」
「――ココロエタ」
と、図書館の天井辺りから鈍い声がした。
「方法はあるかしら?」とパチュリーは尋ねる。
そのままじっと天井を見上げている。なにやら交信しているらしい様子に、魔理沙たちは静かに見守るしかなかった。
「――そう。手近で済ませるのね。あなたらしいわ」
パチュリーは小さく笑って、視線を床に戻した。
「レミィ、フラン。ベッドと机をどけてくれない? ここに魔方陣を描くわ」
「わかったけど。また悪魔?」とレミリアは眉をひそめる。「これ以上ややこしくなるのは勘弁よ」
「いえ、もっと扱いやすい別のもの」とパチュリーは言った。「魔理沙、召喚に成功したら、呼び出したものを散々おだててくれないかしら。悪魔を倒せるのはあなただけ、という方向で」
「わかったぜ」
魔理沙は、何が出てくるのかとワクワクしながら箒で宙に浮いた。
レミリアとフランは、力任せに家具を本棚の向こうに移す。
「――では」
パチュリーは開いた両手を球の形にくねらせる。
ぼんやりとした紫色の光が、輪郭として浮かび上がってくる。パチュリーはその中に指を突っ込んで、ぶつぶつと呪文を唱えながら細かな模様を書き入れていく。
「立体魔方陣……」とレミリアは呟く。
「この世界に実体があるものを呼び出すのか」
「幻想郷の中からってことか?」と魔理沙が首をひねる。「あれだけの物量に対処できる奴がいたかな」
パチュリーの足元に紫の光が広がっていき、大きな魔方陣となって手元の球から射影されていく。魔理沙は参考にするべく、目を皿のようにして魔法陣の紋様を見つめた。
やがて、指の動きが止まる。
「堕天の紋」
轟と、すさまじい風が本棚を揺らす。人型大に広がった、球体の中から吹いてくる。
「――天人に五衰あり。仙人に色目あり。天土の間に堕落せぬものなし。汝我を覗く時我もまた汝を見る。視線は天より降りるのみにあらず。地よりいでて天を穿つ。――惑いて落ちろ、緋想の天使」
ドオウンと重い稲妻の音が、図書館を揺らした。魔理沙は耳を塞ぎ、あふれる眩しさに耐えかねて目をつむる。
――落雷の後には、シンとした静寂が辺りを包む。
魔理沙が恐る恐る目を開けると。
――魔法陣の中心に、見慣れた天人の姿があった。
「え? え? なになに?」
比那名居天子はきょろきょろと周りを見回している。薄暗い図書館に、紫色の冷たい目をした魔女が一人。困惑している子供の吸血鬼が二人。ニヤニヤしている白黒が一人。
「何の集まりなの?」
「ヴアル、恋の魔法。対象は魔理沙」
パチュリーが命ずると、天子の顔がみるみるうちに真っ赤になっていく。
「う……なにこれ、おかしいわ。何がどうなってるの?」
ふらふらと歩きだした天子は、潤んだ瞳で魔理沙を見上げる。
「魔理沙、手はず通りに」
「あ、ああ……」
魔理沙はパチュリーの非情さに舌を巻きつつ、箒で天子の傍に降り立った。
「やあ天子。久しぶりだな」
「久しぶりって気がしないわ」と天子は指をもじもじさせる。「天からずっとあなたを見ていたもの」
「ほんとかよ」
「本当よ。これからだってずっと見るわ!」
勘弁してくれという言葉を飲み込んで、魔理沙は説得を始めた。
「実はな天子。幻想郷中が大変なことになってるんだ。アスモデウスっていう悪魔が暴れていて――」
「知ってるわ! おもしろがって見てたもの!」と天子は大はしゃぎして話の腰を折る。
「魚が空を飛んで、下界が全部海になったみたいね。魔理沙の空中戦も見てたわ。かっこよかった」
「え、ほんとに見てたのか?」
「元から片思いだったのかしら」とパチュリーはおもしろくもなさそうに言った。「効きが良すぎる」
「だから見てたって言ってるでしょう。魔理沙の家、妖精たちが勝手にお酒飲んでたよ。ね、懲らしめてあげなきゃね?」と天子は詰め寄る。
チクリで評価を上げようとするほど一杯一杯の好意を受け、魔理沙は顔をひきつらせながら先を続けた。
「ま、まあ天狗たちが山で頑張ってるみたいだし、天界は無事なのな。でもこのままじゃ幻想郷を魚が埋め尽くすことになってしまうんだぜ。そんなのよくないよな?」
「うん!」
「力を貸して欲しいんだ」
「私、なんでもするよ!」
レミリアとフランは、天子の余りの従順さに肩を抱き合ってドン引きしている。
「用事が終わったらすぐに正気に戻すわ」と、パチュリーは二人を安心させるように言う。
「――で、何をさせればいいんだ?」と、ため息をついて魔理沙は尋ねる。
「緋想の剣でアスモデウスを弱らせる」とパチュリーは言った。
「天子、詳しくは知らないけれど、あなたの剣なら「直接斬らなくても相手の周囲の天候をいじれる」のよね?」
「うん!」
「魔理沙のために、幻想郷中の魚類に「干ばつ」の天候を与えてやれないかしら」
「お安い御用だよ! 来れ、緋想剣!」
ズシャンと図書館の天井が崩れ、何の工夫も稲光もなく緋想の剣が落ちてきた。
天子は振り切れた笑顔で「見ててね、魔理沙」と笑いかけると、剣を大上段に構え、一文字に振り下ろした。
「全魚類の緋想天!」
――パパパパパシュウウウウンと、気の抜けた花火を百連発したような音が外のあちらこちらで炸裂する。
「まさか……魚を全部干す気なのか!?」魔理沙の理解が追いついた。
「それじゃ霊夢と同レベルの発想だぜ」
「気にしないわ」とパチュリーは笑った。「ヴアル、対象変更。魔理沙からフランへ」
「え、私?」とフランが目を丸くする。
今にも魔理沙に飛びつきそうだった天子は、急に我に帰ったかのように飛び退いた。
「な、なに、なんなの? 私なんで魔理沙に……」
キョロキョロしてるうちに、レミリアの背中に隠れているフランを見つける。
「あれ、あなたって」
天子の顔がみるみる赤く染まる。
「あなたって、可愛いわね……」
「お姉様」フランはレミリアの後ろで怯えている。
「どういうつもり? パチェ」
「フランにも責任を取ってもらうわ」とパチュリーは言った。「追い詰められたアスモデウスが、天子の存在に気付いて襲ってくるかもしれない。天子が倒されたら、水攻めが台無し。誰かが守る必要がある。心配ならレミィも一緒に、三人で地下室にでも篭っていて頂戴。――トドメが刺せる美味しい役どころよ」
「……ふうん」
レミリアは背中で怯えるフランとにじり寄ってくる天子を交互に見つめ。
「二人じゃ不安ね」と同意した。
三人が地下室へ向かうべく図書館から姿を消すと、魔理沙は疑問を口に出した。
「いくら日干しで乾かそうとしても、相手が水の中に逃げ込めば無理なんじゃないか?」
「それでいい。活動を水域に限定できるから」
パチュリーは音もなく飛び、本棚の向こうに除けられていたベッドに座ってそう言った。
「ここからはフォルネウス退治と同じ。そう難しい作業ではない」
枕元から七曜の符を取り出して、魔理沙に渡す。
「じゃ、頑張ってね」
「頑張りたくないぜ」と言って、魔理沙はパチュリーに抱きついた。
「魔理沙……。あなたには魔法をかけてないわ」
「危険な魔女にストレスを与えて弱らせてるんだぜ」
「……バカ」
○
魔理沙は外に出て、紅魔館正門前の様子を見に行った。
石畳の道はびっしりと魚の死体で満ちていた。斬り殺されたものと叩き潰されたものが六:四ほどだろうか。くぼみにはところどころ血の池が出来ており、乾燥に苦しむ生き残りのトビウオがぴちぴちと仲間の血で鱗を保水している。
美鈴は門にもたれて水筒の水をごくごく飲んでいた。
小悪魔は美鈴の足元で倒れ伏している。体力が尽きてしまったらしい。
咲夜も相当疲れているらしく、魔理沙を半ば無視するように、美鈴にひらひらと手を振って相手を任せる。
「攻撃が止みましたね。パチュリー様がうまいことやったんですか?」と美鈴は問う。まだまだ元気が有り余ってそうだった。
「トビウオたちは、飛べる力があるうちに、水場へ向かったんだろうな」と魔理沙は言った。「これから霧の湖に向かうんだが、一緒に来るか?」
「いえ、何があるかもわかりませんから」と美鈴は首を振った。「門から離れるわけにはいきません」
「そうか」魔理沙は飛び去ろうとしたが、思い直して箒を止めた。
「レミリアとフランが地下室で術を守ってるんだが、パチュリーが図書館に一人なんだ。気にかけといてやってくれだぜ」
「わかりました」と言って、美鈴は目を閉じている咲夜に言った。「咲夜さん、聞いてました?」
「……」
「立ったまま寝ている……瀟洒っ」
「じゃ、任せたぜ」
魔理沙は箒を飛ばして霧の湖に向かう。
――おぞましい光景が広がっていた。
湖はばちゃばちゃと黒い影が蠢く毒壺と化していた。「干ばつ」を食らった魚が多過ぎるせいで霧はすっかり晴れ、強い日差しが照りつけている。水面が見えない。トビウオたちが我も我もと水中に飛び入り、中にいたトビウオが入れ違いに飛び出てくる。すっかり飽和状態だ。
上流は妖怪の山の勢力に押され、下流では、範囲を狭めてより強力になった命蓮寺の結界に押されている。
それでもトビウオは増えるのをやめず、ついに湖畔にビチビチと溢れ出した。
同心円状に広がっていく魚の波は、すぐに強烈な日差しを浴びてからっからに乾いていく。
死体の上に死体が積み重なり。得も言われぬ生臭い臭気を発している。
「うー、鳥肌もんだぜ」
とにかく数を減らすべく、魔理沙は八卦炉と七曜の符「火・日」を使い、湖面を無差別に焼き払っていく。
「生臭い湖畔の森の影から、もう逝きなさいとカッコウが鳴くぅ」
歌ってもまったく楽しくなかった。魚ってこんなに怖いものだったろうか。バチャバチャバチャバチャと群れる姿は悪魔の宴そのものだ。
「くそ、切りがないぜ」
魔理沙がフルパワーで焼いている量と、湖面から溢れてくるトビウオの量は同じぐらいらしく、増殖は防げてもなかなか数を減らすことができない。
魔理沙が手こずっているうちに、他の面々が続々と集まってくる。山からは河城にとり・射命丸文・東風谷早苗・洩矢諏訪子。人里からは上白沢慧音・寅丸星・多々良小傘。森からはアリス・マーガトロイドと、全身をべとつかせて死に体になっているチルノが現れた。
「やあ皆さん、お揃いで」
「これは一体なんなんだ?」と、慧音が湖畔を指さした。「納得の行くように説明してくれ」
「……魔界から悪魔が襲ってきたんだが、さっきパチュリーがうまいこと水辺に封じ込めたんだ。後は一生懸命焼き尽くすだけだぜ」
一同は魔理沙の明るい物言いに釈然としないものを感じながらも、ともかく焼くのが先かと思い直して、四方八方から弾幕を撃ち込み始める。
「ほんと、大変だったんだよぉ」と、にとりが魔理沙の隣で愚痴る。
「水の中でぐーぐー寝てたらさ、寝床にうぞうぞと……服の中にも入ってくるし」
「色魔だからな」と魔理沙は言った。「アスモデウスっていうエロい悪魔なんだぜ」
「エロいの?」
「すごい勢いで繁殖するそうだ」
「げげ! 最低!」
にとりは背中のリュックからロケットランチャーを取り出して湖にぶち込み始める。
「アスモデウスは、確か召喚される悪魔だと記憶していたが」
と、慧音が魔理沙にプレッシャーを掛けに来た。
「誰が召喚したんだろうな。何処かの未熟な魔法使いじゃないのか? ん?」
「誤解だぜ」と魔理沙は笑って誤魔化すしかなかった。召喚したのはフランだが、おもしろがって手伝った自分にも非がある以上、うかつなことは言えない。
「……まあ、いずれ明らかになることだ」と言って、慧音はアマテラスの光で湖面を照らす。
「魔理沙さんの仕業なんですね!」
と入れ替わりに早苗が詰め寄ってくる。
「違うぜ。相変わらず思い込みの激しい奴だな」
「異変を起こしておいて自分で解決するなんてマッチポンプ、許されません!」
「守谷神社が言える立場かよ。……ったく、今回は風雨の巫女は役立たずだ。山に帰って寝てるんだな」
「ひどい! 奇跡を役立たずだなんて」
「まあまあ早苗」
諏訪子が後ろから早苗を諌めた。
「要は、水気を奪えばいいんでしょう。元凶が霧の湖にいるってはっきりしてるなら、山の勢力圏で川を止めることはできるけど」
「土いじりして、ダムでも作るのか?」
「ダメですよ、諏訪子様」と早苗が諌める。
「環境破壊がひどいって、会議で中止になったじゃないですか」
「うん。まあね。いざとなったらの話だよ」
「そういや神奈子は何してるんだ?」と魔理沙が訊くと、
「それがさ、悪い魚の食べ過ぎでお腹壊したんだ」諏訪子はケロケロと笑った。
「うーん、うわばみの食欲か。霊夢と同レベルだぜ……」
「魔理沙!」
次にやってきたのは小傘と星だった。
「これ魔理沙がやったんだって? すっごいねぇ。びっくりしたよ!」と小傘ははしゃいでいる。
「このような一方的な虐殺、聖は望まないだろうな」と星は腕組みをしている。
「後で干物にして、幻想郷中の生き物に配ろうぜ。それできっと供養になるさ」
「干物か……」
「少なくとも鼠は喜ぶぜ?」
「うーん」
星は悩みつつも、事態を収集させるべく弾幕を叩き込み始める。
「できれば対等の戦いがしたい……」
「さっきまでしてただろ」と魔理沙が突っ込むと、それで渋々納得したらしかった。
「あなたじゃないとしたら、パチュリー繋がりで、紅魔館の姉妹の仕業かしら」
と頃合を見てアリスが近づいてきた。
「パチュリー自身のミスにしてはお粗末だしね」
「いや、実を言うとな、ソロモンの悪魔同士の小競り合いだったんだ」
魔理沙は話のわかりそうなのがようやく来てくれてほっとした。
「誰が悪いってわけでもないんだが、おいおい話すぜ」
「あら、私は除け者なの?」
「すごく込み入った事情があるんだ。私だって言いたくてたまらないんだぜ?」
「……なら今言ってくれてもいいんじゃない?」
どうしたものかと魔理沙はため息をついた。
「どいつもこいつも、目の前の敵に集中してくれよ……」
「はいはーい、そんな魔理沙に提案があるんですけど」
文が後ろから魔理沙の箒に相乗りする。
「うわ、なんだいきなり」
「取材の申し込みです」
文は下駄をカコンと打ち鳴らして、にっこり笑った。
「これだけの騒ぎになったんです。誰もが説明して欲しいのですが、魔理沙からしたら個別に説明するのは面倒でしょう? そこで、私が魔理沙に独占インタビューをしてそれを新聞にまとめ、世間さまに配布するというのはいかがでしょう」
「……お、それはいい考えだな」
手間が省ける。魔理沙の顔がぱあっと明るくなった。
「たまにはいいこと言うじゃないか、文」
「やだなぁ、私はいいことしか言いませんよ?」
文は箒を支柱にくるりと一回転して、カコンとその上に立った。
「――さて、取材の言質も取ったことだし。ここからは山の警備隊長モードね」
「なんでもいいから張り切って魚を捌いてくれ」
「――そう考えなしに暴れても話が進まない」と言って、文は扇で湖面を指さした。
「見て、これだけの数で攻撃してるのに、魚が一向に減ってない」
魔理沙が湖面を見直すと、確かに、魚が溢れ出してくる勢いは衰えていなかった。
――スペルカードでの範囲攻撃は、広さが限られている。
使い手によってある程度距離は変動するが、ここの面子でも半径五十メートルが限界だろう。それ以上の距離でも弾は飛ばせるが、うまく制御が利かない。余り避けられる範囲を広くするとゲームとして成り立たないから、仕様としてそうなっているのだ。
「湖面に弾はまき散らせても、中の深みにまでは魚肉の壁に阻まれて届かない」と文は言った。
「この面子では厳しいね。にとりの実弾が一番効き目があるけど、隊列を組んで使わないと効果が薄い」
「他の河童はどうしてるんだ?」
「動けるものは山の戦線を保っているが、それほど多くない。ほとんどの河童はぬるぬるの精神的ダメージで潰れている。今は押し返しているけど、一時期は河童の住処はほぼ占拠されていた。……あの群れの中に放り込まれたようなものだから」
――身震いするほど恐ろしいなと魔理沙は思った。
「にとりはよくあっけらかんとしていられるな……。あ、乙女だから手を出されなかったのか」
「何のこと?」
「直接関係がないから後で話すぜ。――にしても、確かにジリ貧だな。私のマスパや慧音のアマテラスじゃ、光を反射する水面とはそもそも相性が悪いしな」
慧音もそのことは理解しているらしく、さっきから溢れ出たり飛び出してくるトビウオの処理に専念している。攻勢防御兵というところか。
「天狗の風も水をまき散らすばかり。天子の「干ばつ」を利用した作戦にはそぐわない」
「あぁ、仕掛けには気づいてたのか?」
「一度見ているから」と文は頷く。
「早苗の攻撃力は魔理沙以下。諏訪子の能力で湖の地形を弄るのは、後の被害を考えるとなるだけ避けたい。毘沙門天は「勝利」には貢献するけど、御利益が抽象的で当てにならないとも言える」
早苗、諏訪子、星はそれぞれに弾幕を張り巡らせているが、今ひとつ手応えが掴みきれないようだ。
小傘はさっきから議論に混ざっているような顔をしてふんふん頷いているが、特に発言はしていない。
アリスは人形たちに戦わせながら、傍らで傍観している。
「――結論。ここにいる面子じゃ足りない。スペルカードよりも広い攻撃範囲を持っている奴を呼んでくる必要がある」と文は言った。
――ズン、と。鬼門の方角から重い足音が響く。
「そいつはけっこう。ぴったりの奴らを既に呼んでおいたんだぜ」
山ほども大きな鬼が、頭に紅白の巫女を乗せ、肩にしなびたトビウオで一杯になった網を抱えて歩いてくる。
「――萃香と、霊夢」
文はぴゅんと風を残して、霊夢の元に飛んでいく。
「結局、美味しいところは持っていかれそうだな」と魔理沙はぼやく。
同じ頃。
漆黒の剛毛を生やした一頭のラクダが、ついに重い腰を上げて湖へと走り出した。
○
「真打登場ね」と霊夢は肩をぐるぐる回す。
「今まで何してたんです?」と文は記者モードの口調に戻った。
「漁よ、漁。他にすることがあって? ねえ萃香」
「これでひゃくねんはつまみにこまらないぞー」と萃香は吼えた。巨体すぎるせいで声が間延びして聞こえてくる。
「なんてのんきな」と文は生唾を飲んだ。
「嘘よ。ちょっとはまじめに対策もしたわ。紫と華仙がうるさかったし」と霊夢は舌を出す。
「――それに、いくらバカスカ生まれてくるからって、魚を皆殺しにするのもかわいそうだわ。魔理沙のやり方は強引で、性急すぎるのよ。もっと余裕を身に付けないとダメね」
「そんなものですか」文は肩の力が抜けていくのを感じた。
「で、具体的にはどうするんです?」
「妖怪は退治するもの。悪魔は祓うもの」
霊夢は懐から御札の束を取り出した。
「紫の力を借りて、曖昧になってる「魚と悪魔の境界」をはっきりさせるわ」
「え? 「魚で悪魔」じゃないんですか?」
「違うらしいのよ。私にもよくわからないんだけど」
「――その作戦でいいと思うぜ」と、魔理沙が上空から口を挟んだ。
「でも、あれだけの数にそれだけの御札で対応できるのか?」
「――それはみんなの心がけ次第」と言って、霊夢は魔理沙に人数分の御札を渡した。
「みんなに一枚ずつ配ってきて?」
霊夢に支持されるがままに、魔理沙たちは湖の縁をなぞって輪になった。
鬼門の方角には萃香と魔理沙が。
妖怪の山の方には文・早苗たちが、人里の方には慧音・星たちが。
魔法の森の方にはアリスと人形たちが札を一枚ずつ持っている。
チルノは飛ぶ力も残っていないらしく、湖畔でうなだれながら「あたいの湖を返せ」と喚いている。その姿が余りにも哀れで、誰も声をかけられなかった。
霊夢は輪の中心、蠱毒と化した湖の上空でふわふわと浮いている。
「これから、皆さんの信仰心を武器にして悪魔を御祓いします!」と霊夢は言った。
「私がこれから言う呪文を、後に続けて唱えてください!」
霊夢はざわざわと顔を見合わせる一同が落ち着くのを待って、こう言った。
「博麗神社、最高!」
湖上空の気温が二度下がった。
「ん? どうしたの。復唱しなさいよ」と霊夢は周囲をねめ回す。
「復唱しないと悪魔祓いができないわよ?」
「おい霊夢……」慧音が代表して質問をする。「この茶番は本当に必要なのか?」
「茶番だなんて、ひどいわ。みんなの心が一つにならないと、悪魔を祓えないのに!」
霊夢は袖で口元を隠す。
「おい、パチュリー。霊夢は何をしたいんだ?」
と魔理沙は七曜の符に問いかける。
(神道には、互いに何度も呼びかけ合うことで気脈を通じさせる技術がある)
とパチュリーは符を通して答えた。
(気脈を通じることで、術者それぞれの力をシェアすることができる。大事なのは問答であって、会話の中身はなんでもよい。禅問答の応用)
「……なるほど。どんなナンセンスな内容でもいいわけか」と魔理沙は納得した。
「よーしみんな、今なら霊夢に何を訊いても答えてくれるぜ。おい霊夢。最後に寝小便したのいつだよ」
「ふざけないで」と霊夢は怒る。
すると、霊夢の周囲に白い霧のようなものがうっすらと出現した。
神霊が薄く引き伸ばされたような。確かに霊夢と心の距離が近づいたような手応えを、魔理沙は感じた。
「れいむーわたしのことすきかー?」と、巨大化したままの萃香が問う。
「はいはい好きよ好き好き」と霊夢はぞんざいに応えるが、神霊の霧が大きく広がる。
「なるほど、仕組みはわかった」と慧音は頷く。「霊夢に言いたいことを言えばいいんだな。参拝客を増やしたければ、神社への道をしっかり道祖神に守らせて妖怪対策をしろ!」
「う、正論ね……」と霊夢は落ち込む。
「スリーサイズは?」と文が尋ねる。
「教えるわけないでしょ。ってか測ってないわよ」と霊夢は恥じらう。
「あ、そうだ」とにとりが思い出す。「この前河童の里に、神社の階段にエスカレーター取り付けるって企画書送ってきたよね? あれコストの関係でボツになったよ」
「ボツにしないで」と霊夢は喚く。
「霊夢さん、そのポジションって、別に霊夢さんじゃなくてもいいんじゃないですか?」と早苗が言う。
「私が死んでも代わりはいるもの」と霊夢は小馬鹿にする。
「あんたお腹壊さなかったの?」と諏訪子が問う。
「え? なんで?」
「あんたのことだから絶対刺身で食ってると思って」
「食べたけど。べつに全然?」と霊夢はお腹をさする。
「あ、あの……」と入るタイミングを失いかけたアリスが言う。
「何?」
「……やっぱいい」
「ちゃんと言えよ!」と霊夢は突っ込む。
――そんなどうでもいい問答を繰り返している間に、霊夢が濃い神霊の霧で包まれていく。
「――ふう、これぐらい貯まればいいでしょう」
霊夢は「祓いたまえ清めたまえ」とぶつぶつ言いながら、玉串をシャンシャンと振り回し、精神統一に入る。
「こんなんで本当にうまく行くの?」と小傘は問う。
「ま、黙って見ていよう」と星は言った。
「――夢想――封印――散――」
霊夢は身を翻し、釣竿を思い切り振りかぶるような動作で、玉串を湖面に向けて突き出した。
周囲の霧から、数え切れないほどの七色の弾が降り注いでいく。
放射状にふわりと広がり、湖面全体を覆っていく。
「うわあ、でっかいしだれザクラみたいだぞ」と、萃香が大声で喜んでいる。
「……粋な弾幕じゃないか」と、魔理沙は帽子のつばをつまんだ。
湖面に届いた光の弾は、パシュンパシュンと鋭い音を響かせながら、やがて滝の如く重いなだれとなって水面を満たす。
滝のような弾幕に跳ね出されたトビウオたちの、黒い翼がぽろぽろと落ちる。
魚たちが空中で、あるべき姿を取り戻していく。鮎、イワナ、鮭、マス、キス、タラ――名の知れたものからとっくに忘れ去られたものまで。幻想入りした多種多様な魚たちが、鱗をきらめかせて湖の中へと戻っていく。
パチャパチャパチャパチャと豪雨のような音を聞きつつ、魔理沙と萃香は繰り広げられた光景の美しさに拍手をした。
萃香の拍手があまりに大きいので、魔理沙は風圧で吹き飛ばされそうになった。
「さて、後はこれを何回か繰り返せば、この異変は解決ね」
霊夢は玉串を肩に当てて粋なポーズを取っている。
「さあ、私の後に続きなさい。博麗神社最高!」
「あ!」とにとりが素っ頓狂な声を出す。
「どうしたのよ?」興を削がれた霊夢はじろりとねめつける。
「……ダメだ、食料になってる」
にとりが指さした湖面を見ると――。
そこには、おぞましい波紋が広がっていた。
「え……嘘」
元に戻った魚たちが、水底に隠れていたトビウオの残りの群れに凄まじい勢いで食いつくされていく。
湖は中心から赤く染まり、ドス黒く濁りつつあった。
「底まで届かなかったか」
霊夢は舌打ちをしてから言った。
「あんたたち、冗談抜きで力を合わせないとまずいわよ」
○
チルノは満身創痍で、重たいまぶたをなんとか開けながら、黒く濁っていく霧の湖を見つめていた。
――どうしてこうなったのだろう。
いくら考えてもわからなかった。自分が何か悪いことをしたのだろうか。まったく覚えがないのに、湖がひどい有様になってしまった。
「……情けないよ」
みんな一生懸命に湖を元に戻そうとしてくれているのに、自分はぬるぬるした体を引きずるばかりで、何もできない。
それがたまらなく悔しかった。
「――力が……あたいに力さえあれば……」
「力が、欲しいですか?」
チルノが顔を上げると。
そこに、見たこともない獣が立っていた。
まつ毛が長く、目は麗しく。
口は大きく、アンニュイに歪んでいる。
長い首とすらりとした脚。全身を覆う漆黒の毛。
背中には大きなこぶが隆起し、獣が隠し持つ力強さを暗示している。
例えようもない圧迫感。圧倒的な高さ。馬でもない。鹿でもない。
「お前はいったい……なんなんだ……」
「力が欲しければ」と、その獣は穏やかな声で言った。
「私と契約して、魔法使いになってください」
「……何にだって、なってやるわ」と、チルノは深く考えることもなく即答した。
「契約成立ですね」と、獣はアンニュイな顔で笑う。
「契約書は後で取り交わしましょう。今は案ずることなく、私の背中でお眠りなさい」
チルノは意識を失う際に、襟をくわえられ、大きなコブに乗せられたことに気がついた。
「ご、ゴツゴツ……」
○
「ここに来て、力を合わせたことがない私たちの経験不足がネックになってきたぜ」と魔理沙は肩をすくめた。
違う宗派、とりわけ土着神と毘沙門天の化身が、おいそれと霊夢の下風に立つわけにもいくまい。
本格的に力を借りるには霊夢の方から形だけでもお伺いを立てる必要があるのだが、霊夢は神仏に対してだろうと分け隔てなく生意気なのだ。それが博麗の巫女と言ったらそれまでだが、互いが納得するために弾幕勝負をしている時間も今は惜しい。
「こうなったらまた恵比寿様に出張ってもらって……」
霊夢は「力を合わせろ」と言った傍から、ぶつぶつ呟き作戦を変更し始める。
みんなの信仰を借りようと思ったのも、そうすることでのちのち神社に利益が上がったらいいなという、ただの気まぐれだったのだろうと魔理沙は踏んだ。
うまく行きそうにないから、他の作戦に切り替える。それだけのことなのだ。
「結局一人でなんとかする気かよ、霊夢……」
(あ、――やっと来たわね)パチュリーが魔理沙の気も知らずにぼそりと呟く。
「ん、何が来たんだ?」
(渇水にちょうどいい悪魔が来たのよ。――アスモデウス自身が仕掛けた呪いが、巡り巡って彼の首を絞めることになるとはね)
「悪魔? まさか、また新しく呼び出したのか?」
(前から居るわよ。ずっと前からね)
「げげ! ラクダ!」
にとりが叫んで湖岸を指さす。
「え?」「は?」「嘘でしょ」「まさか……」一同は次々に指さされた方を見下ろして口を開ける。
「あれがヴアルか……」
魔理沙は危うく箒から落ちかけ、帽子を押さえた。
湖岸には巨大なラクダが颯爽と立っていた。大きさは萃香の三分の一程度、ちょっとした民家と同じぐらい大きい。全身をくろぐろとした剛毛で多い、長いまつげの下にはつぶらな瞳。アンニュイな表情で魔理沙たちを見上げている。
よく見ると、背中のコブにチルノがしがみついている。
「あ、あれが悪魔の正体なの?」と霊夢は目を丸くする。
「退治……します?」と早苗は首をかしげている。「なんでいきなりラクダなの?」
「あれはパチュリーの子飼の悪魔なんだ」と魔理沙は大声で説明した。
「力を貸してくれるんだとよ。そうだろ、ヴアル」
ヴアルは大きく頷くと、スックと二本脚で立ち上がった。
「うわああああ立ったぁあああああ」
小傘が誰よりも先に驚いて、萃香の後ろに隠れてガタガタ震える。
「みなさん、こんにちは、ヴアルです」とテノールの良い声がラクダの口から発せられる。
「きゃあああああああ喋ったあああああああああ」
小傘が泣きそうな顔で萃香の肩をパシパシ叩く。
萃香はゲラゲラゲラと大笑いして腹をよじっている。踏み鳴らす足が湖にばちゃばちゃと入って、トビウオが舞い散る。
他の者はただただあっけにとられて、礼儀正しくおじぎをするヴアルを見つめている。
「これから私が、この湖の水を飲み干してご覧に入れましょう」と爽やかな口調でラクダが請け負う。
「みなさんは、トビウオどもが丸裸になった時を狙って、さっきの技をお見舞いしてください。それでにっくきアスモデウスもおしまいです」
「な、何を言ってるのあのラクダ……」霊夢はたじろいで、魔理沙とラクダを交互に見つめる。
「正気なの?」
「私に聞かれてもな」と魔理沙はぼやく。「どうなんだ、パチュリー?」
(ラクダは、一度に八十リットルもの水が飲めるの。ヴアルはものすごい勢いで水が飲める悪魔なのよ)
ヴアルはまた四足歩行に戻り、落ちそうになっていた背中のチルノを気遣いながら、湖の端に口を付ける。
ズズウウウウウウ、ズズズズズズウウウウウ――
水をすするえげつない音が湖畔に響く。
「ちょっと、本当に大丈夫なんでしょうね!」
霊夢は玉串をラクダに向ける。
「なんかすごい邪悪な存在にしか思えないんだけど」
「萃香」魔理沙は霊夢を無視して叫んだ。「湖の上流を手で押さえててくれ。水の流れを遅くするんだ」
「お、おう……わかった」
萃香は湖のほとりに移動して、あふれ出てくるトビウオを殴りつぶしながら、体で水の流れを遮る。
「霊夢、何やってんだ。さっさと準備しろよ」と魔理沙は笑う。
「魔理沙……本当に水は減るんでしょうね?」
「乗るしかないだろ、このビッグウェーブに」と魔理沙は湖面を指さした。
湖は断続的にトビウオを吐き出しながら、栓の抜けた風呂桶のように渦巻いている。その渦の先端はヴアルの口に通じている。ラクダは水を啜りこみながら徐々に腹から膨らんでいく。
「で、でっかくなってる……」小傘が萃香の後ろで慄然とする。
引きずり込まれるのを嫌がったトビウオたちが、渦に逆らうようにぴゅんぴゅんと空に飛び出る。慧音と星と諏訪子がそこを狙い撃ちにして数を減らしていく。
「さあ、今こそみんなの思いを一つにするとき」
残りのメンツは御札を持って、霊夢の音頭に従った。
「ラクダさんへの信仰を込めましてー、あそーれ一気、一気!」
「一気! 一気!」
「一気! 一気!」
「一気! 一気!」
皆やけくそでコールを始めたのだが、湖の水位がみるみるうちに下がっていくのを見て、掛け声に熱が篭っていく。
「のーめ! のーめ!」
「すごいぞラクダ!」
「もう萃香より大きくなってる……一気!」
「見上げ入道? いや、ラクダですよね……一気!」
ビタビタビタビタ。
ビタビタビタビタと、水からあぶれたトビウオの群れが暴れている。むき出しになっていく湖底が隅々まで黒い翼で覆われる。
「もうすこしだぞー!」と萃香が吼える。
「一気! 一気!」
「一気! 一気!」
ヴアルへの確かな信頼が、霊夢たちの間で絆となっていく。
神霊の霧はさっきの数倍にも膨らんで、霊夢の頭上を覆っている。
「これがサバトか!」と魔理沙は目をキラキラさせた。
「楽しいぜ!」
(そうかしら?)とパチュリーは符の向こうで笑う。
「んぐ……んぐ……ぷっひゃあああああああ」
萃香の三倍もの大きさになったヴアルは、湖の水を水たまりほどの浅さまで吸い込むと、首から上を雲の中に突っ込んで、大きく身をそらせた。
「今ね。――夢想――封印――散――」
霊夢が放った夢想封印は、しだれ桜どころではない、流星群のような勢いで、むき出しになってうずたかく蠢いているトビウオの群れを襲っていく。
――パパパパパパパアアアン!
耳慣れた浄化の音が、万人の拍手喝采のように鳴り響いた。
黒い翼がボロボロに崩れ、魚達は本来のあるべき姿を取り戻し、ピチピチと活きよく跳ねている。
「萃香!」と霊夢が合図すると、萃香は水流をふさいでいた体を起こす。
ドウっと鈍い音と共に、湖に綺麗な水が戻っていく。
皆が何かをやりきった感で恍惚としている中。
ヴアルは一匹、雲の上で大鮫に睨みを利かせていた。
○
「やあ、やっと会えましたね。アスモデウス」
「……よくもやってくれたなぁ、ヴアル」
大鮫の姿をしたアスモデウスは鎧のような硬質な肌を黒々と光らせ、じりじりと「干ばつ」に焼かれていた。大きさは萃香の二分の一ほどだろうか。開けっ放しの口からは、幾重にも伸びた鋭い牙が見えている。
「俺様はなぁ……この世で一番魚ってもんが大の大の大嫌いなんだよ」
「知ってますよ」とヴアルはアンニュイに笑った。「フォルネウスには済まないことをしました。今度遇ったら謝らないといけませんね」
「俺に謝れよ、ああ!?」
「戯れに私をラクダにした悪魔にですか?」
「あぁ? あんなに流行るとは思わなかったんだよ。二足歩行のラクダで大喜びする人間の感性に文句言えや」
「……私はね、アスモデウス」とヴアルはつぶらな瞳で睨みつける。
「これから先どのような手段を用いても、あなたを魚の眷属として世に知らしめようと思ってるんです。フォルネウスの変身した姿として、あなたを消し去ってしまいたい」
「ふん、お前はどうあがいても、元の「バアル」にゃ戻れねぇんだよ」とアスモデウスはせせら笑った。
「どんなに頑張ったところで、キリスト圏じゃてめぇは消え失せるまで蝿公だ。汚い汚いベルゼブブじゃねーか。蝿として呼び出されるか、ラクダとして呼び出されるかの違いなら、ラクダの方がマシってもんだろうがよ」
「なんとでも言いなさい。私は必ず雷神としての姿を取り戻す……」
「うわ、何あのでっかい鮫!」と、雲から顔を出した小傘が驚く。
魔理沙たちが次々と雲の中から飛び出してきた。
「あいつが親玉ね」と霊夢が手に陰陽玉を握る。
「あれは、メガロドンですね!」と、早苗が心なしか目を輝かせながら言った。「古に滅びた最大最強の古代魚……。図鑑で見たことがあります」
「……うう、あたいの湖をめちゃくちゃにして」
地道によじ登っていたチルノが、ようやくヴアルの頭の上にたどり着く。
「絶対に許さないぞ!」
「おうおう、相変わらずモテモテだな」と言って、アスモデウスは雲の下につばを吐き散らす。
「そんな姿になってもよぉ。おもしろがられてるだけだって早く気づけよ」
「モテたいんですか?」とヴアルはせせら笑った。「断言しましょう。あなたがモテないのは、性格のせいです。あなたはこれから先どんなにかっこいい容姿を得たところで、女性にモテることはありません」
「……俺はな」とアスモデウスは急にまじめな口調になった。
「俺みたいなど腐れが乙女と幸せになろうだなんて思ってねぇよ? ただよお、くだらねぇ男とくっつくのが許せねぇだけなんだ。男なんてみんな死ねばいい」
「強がりはよしなさい。見苦しいですよ」とヴアルはせせら笑う。
「この低レベルな口喧嘩はいつまで続くんだ?」と魔理沙は小声でパチュリーに尋ねる。
(二匹とも、数百年ぶりに出会ったのよ。積もる話もあるんでしょう)とパチュリーはどうでもよさそうに言った。
「だあ! もういい。今回の召喚は外れもいいとこだ。契約すらできなかった」とアスモデウスは怒鳴った。
「でも不運とも言えねぇなあ。ずいぶんと当たりらしいお前の契約者を、道連れに殺していけるからな、ヴアル!」
アスモデウスはそう言って、ヴアルではなく魔理沙の方向に突っ込んできた。
「あいにく」魔理沙は箒を駆使してグレイズする。「飛来物なら当たりはしないぜ」
七曜の符を展開し、迎撃の準備をする。
「お前じゃねぇだろ、白黒!」
アスモデウスは相手にもせず、そのまま雲の下へと突き抜けていく。
「パチュリー狙いか。待ちやがれ!」
魔理沙も最大戦速で後を追う。
「あんた、さっきから棒立ちだけど」と霊夢はヴアルに言った。
「吐き気を必死で我慢しているんです」とヴアルは答えた。「心配いりません。アスモデウスは図書館にもたどり着けずに死ぬことになるでしょう」
「心配なんかしてないわ」と霊夢は言った。
「それよりもさ、今の会話聞いてると、どうもあんたが犯人くさいんだけど。私の気のせいかしら?」
「え?」
ヴアルはアンニュイな顔を凍らせた。
「……しまった。わかっていたのに、つい余計なことをべらべらと」
「退治する!」
そしてヴアルは日が暮れるまで、水風船のようになった巨体を霊夢たちにめった撃ちにされることになった。
「やめろぉ! あたいの手下なんだぞ!」と余計なことを言ったばかりに、チルノまで共犯扱いされてひどい目にあったのだが、それは魔理沙の知るよしもないことである。
○
「パチュリー、アスモデウスはお前に片思いらしいぜ」
(ぞっとしないわね)とパチュリーは符の向こうで言った。
魔理沙はレーザーを撃ちつつ距離を詰めようとするが、重さに勝るメガロドンの急降下には追いつけない。
「このままじゃ図書館の屋根を喰い破られそうだ」
(大丈夫。迎撃準備は整えている)
「レミリアたちはどうしてるんだ?」
(フランと天子はイチャイチャしながらいろいろと埋め合わせてるわ。寂しさとか退屈とか)
「そりゃ結構だぜ。レミリアは?」
(私の隣で準備運動してる)
「そうか」
魔理沙はほっとしつつも、スピードを緩めずに追い立てる。
このまま勢子になり、アスモデウスを逃がさないことが第一だ。明日もまた今日のような大騒ぎになったら、ゆっくりお茶が飲めなくて困ってしまう。
「女に追われて嬉しいだろ、アスモデウス」
「乙女とガキは違うんだよ、バーロ」
アスモデウスは挑発に乗らず、一直線に図書館の屋根を目指す。
もう少しで衝突というところで、魔理沙は屋根の上に、人影が二つあるのに気がついた。
「――咲夜と、美鈴か」
ナイフを構えた咲夜を前衛にして、大きく拳を溜めた美鈴が屋根の上で構えている。
「あぶな――」
「時よ――止まれ」
セリフの途中で、魔理沙の口が大きく開いたまま止まる。
咲夜は止まった時の中をふわふわと移動しつつ、アスモデウスの背を蹴って、魔理沙に近寄った。
「お仕置きよ。今度からフラン様の安全をもっと考えて行動なさい」
エプロンのポケットから小さな瓶詰めの梅干を取り出し、ナイフで梅肉を削っては、魔理沙の口に放り込む。
「――さてと」
五つ分放り込んで満足した咲夜は、ハンカチで手を拭きながらアスモデウスを見下ろした。
「どうしようかしらね。固くてナイフが刺さりそうにないわ」
とりあえず両目や、鎧状の皮膚の継ぎ目の柔らかい部分に片っ端からナイフを刺していく。
「後は――魔理沙と同じでいいか」
アスモデウスの開けっ放しの口の中に、これでもかこれでもかとナイフを詰め込んでいく。
「ん……こんなものかしら」
咲夜は少し離れたところに飛んで、懐中時計を数え始める。
「いち、に、さん、フィナーレ」
そして時は動き出す。
一瞬のうちに目を潰され、全身にナイフを刺され、山ほど食わされたアスモデウスは、何が起こったのかもわからず、重力のままに落下していく。
その放物線の先には、紅美鈴が拳を構えて待っていた。
「――紅砲!」
屋根を足場にした美鈴の重い拳が、アスモデウスの下顎に突き刺さる。
その衝撃で口を思い切り閉じてしまったアスモデウスは、無数のナイフに口の中から脳髄をめちゃくちゃに噛みちぎられ――
何を思う間もなく即死し、この理不尽な召喚とようやく袂を分かつことができた。
「すっぱああああああ」魔理沙は突如として襲いかかった酸っぱさに身悶えし、半ば墜落するように屋根に着陸した後、そのまま転げまわっている。
「ああ、屋根にヒビが」と美鈴は足元を見てへこんでいる。「まだまだ体重移動が甘いのかなぁ」
「あら、しまった」咲夜はハッとして両頬を押さえた。
「お嬢様の見せ場、奪ってしまいましたわ」
○
その日から、幻想郷中が生臭い空気に苛まれていた。
霊夢に限らず、せっかくの魚を腐らせるのはもったいないということで、あちらこちらで懸命な干物づくりが行われていた。
魚の死体は余りにも多く、捌いて乾かせる量には限界があった。腐った死体に虫が集っても困る。萃香は地底から勇儀を呼びつけて、二人揃って巨大化し、まだ生でも食えるうちにと、酒に浸してひたすらバリボリやっていた。
地底からはお燐が率いる猫の大群もやってきて、橙率いる迷い家の猫と熾烈な獲物争いを繰り広げた。三日三晩の死闘の末、別に争わなくても獲物はたくさんあるということに気づいて仲直りをした。
霊夢は甲斐甲斐しく働いて誰よりも多く干物を作ったが、神社の蔵がそれほど大きくなかったせいで、保存に困ってしまった。
困った挙句に、人里から神社までの道のりに縄を張って、その縄に干物を結わえ付け、「誰でも食べてよし」とところどころに表札を掲げた。
お腹のすいた人間がこぞって集まってくるだろうという算段だったのだが、集まってきたのは自分で干物を作るのを面倒臭がる妖怪たちばかりで、結果として神社にはますます人が近寄りがたくなった。
――なんやかんやで一週間が経った、ある日。
紅魔館の図書館で、文による魔理沙・パチュリーの公開インタビューが行われていた。
特に告知もしていなかったのだが、いつの間にかぞろぞろと人や人外が集まり、湖で一緒に戦った面子の全員が揃うこととなった。
パチュリーは図書館にぞろぞろと人が踏み入ることに難色を示したが、魔理沙は二人一緒でないとインタビューは受けないと言い張った。専門外の悪魔のことについて、頭をひねり直すのが面倒くさかったのである。
「――ヴアルは、元はバアルというソロモン筆頭の悪魔だったの。王冠を被った王子様の姿をしていてね」と、パチュリーはベッドに座りつつ衆目に向かって説明した。
「ところが、ある高名な魔法使いが、アスモデウスのいたずらに付き合って、ラクダの体を使ってバアルを召喚してしまったのよ。そのままあちらこちらを連れ回して、すっかりバアル=ラクダを衆目に認知させてしまったの」
「なんでそんな意地悪なことを?」と文が訊く。
「さあね。魔法使いだからでしょう」
「あー、魔法使いですからね」と文は納得した。
「納得するなよ」と魔理沙が突っ込む。
「バアルは自分の名誉を守るために、ラクダの姿をした悪魔はヴアルという別の悪魔なんだということにした。ほとんど同じ能力を持った別の悪魔ってことにしてね。――そしたら、おもしろいからって、ラクダの方ばかり呼び出されるようになってしまったの」
「あちゃー、やっちゃいましたね」と文はおもしろそうに目を輝かせる。
「やっちゃったのよ……。けほけほ」パチュリーは小さく咳をした。
「他に何か質問はある? なければもう帰ってもらいたいんだけど」
文以外のほとんどの連中は、パチュリーの話を聞かずに、物珍しげに図書館をうろうろしている。
大事な本はあらかじめ隠しておいたが、それでもやっぱり気に障った。
「私からは一つだけ」と文は言う。
「ヴアル、今何してるんですか?」
「姿を見せないだけで、そこらへんにいるわよ」とパチュリーは答えた。
「彼はラクダの姿を嫌っているから、あなたたちの前に姿を見せたのはよほどのことよ。いちおう、巻き込んだ責任は感じているみたいだから、許してあげて」
「そりゃあもう」と文は微笑んだ。「私がばっちり記事にしますから。きっと人気が出ますよ。二足歩行のラクダ」
「あのね……」とパチュリーは呆れる。
「……まあ、ヴアルに祟られない程度に、おもしろがりなさい」
「神社のマスコットにしようかしら」と霊夢が口を挟む。
「散々殴っておいてよく言えますね……」と今度は文が呆れた。
パチュリーは、騒がしい光景にため息をつく。
どうにも、気が急いてしまう。
早く机に向かって、著さなければならないことが山ほどあるというのに。
――そう。普通なら、どんなに楽しい集まりであっても。
なんておかしな馬鹿騒ぎであっても、私は心の底から楽しむことはもうできないのだと、パチュリーは思った。
――私は、とっくに、「普通」であることを、辞めてしまったのだから。
「パチュリー」と隣の魔理沙が話しかけてくる。
「なに?」魔理沙はだいたいいつも楽しそうにしているなと、パチュリーは思う。
「この絵、なんだと思う?」
魔理沙が見せてきたのは下手くそな絵だった。――人間の、王様だろうか。王冠らしきものを被っているので、かろうじてそれがわかる。
「これな、チルノが描いたヴアルの絵なんだぜ?」
パチュリーが絵から目を上げると、目の前にチルノが仁王立ちしていた。
「勝負よ!」とチルノは言った。
「……なんのこと?」
「ヴアルはね、あたいともけーやくしたの」とチルノは胸を張った。
「うまく王子様の絵が描けたら、あたいのものになるってけーやくしてくれたのよ」
「……ヴアル、あなたって悪魔は」
パチュリーは、他人事とは思えないヴアルの焦りっぷりに、思わず笑みを零してしまった。
「本当にバカね。お互いに」
「失礼な、あたいはバカじゃないよ」とチルノはそっぽを向く。
魔理沙は微笑ましい光景を一緒になって楽しんでいたが。
ふと、何かとても大切なことを忘れているような、嫌な予感に苛まれた。
「なんだっけ……?」
○
同刻。魔法の森の妖精の家。
「こ、これが……ソロモン悪魔大全!」とサニーミルクが分厚い本を両手にがたがた震えている。
「魔理沙の家で見つけたの。すごいでしょう」とスターサファイアが得意げにほほ笑みを浮かべている。
「これさえあれば……妖精の力で異変を起こすことも夢じゃない」とルナチャイルドが壮大な夢に思いを馳せる。
幻想郷を次の悪魔が襲う日も、そう遠くはなさそうだった。
オールキャスト出演の大異変で大変楽しく読みました
そういえば天子も放置してますよね?
あなたの作品はいつも楽しみです。
でも、フランちゃんおしりペンペン中の描写が無かったので-10点(笑)
次も楽しみにしています。
ピクッ
何という俺得SS!!
終始楽しませて貰いました!!
図書館や魔法、ソロモンの悪魔についての解釈はなかなか興味深かったです。
バアル=ラクダ、アスモデウス=魚介類なんですね。覚えておきます。
こんな暢気なバトルは東方ならでは
楽しかったです
俺得過ぎる!
いつも作品読ませていただいています。
これからも、頑張ってください。
スゴイナー アコガレチャウナー
アスモデウス様と言えば、某迷宮と竜の最新版で中級神になりましたね。
おめでとうございます。
こういうちょっとした子ネタを元に膨らませたSSは大好物です。
物語の展開もすっと入ってきて楽しめました。
誰もやらんてw
咲夜さん、梅干持ち歩いてるのかw 夏バテ対策とか?
>>この世界に実態があるものを呼び出すのか
実体?
こんなにも面白いのに、タイトルが普通なのが勿体無い。
もっとインパクトあるタイトルだったらガンガン点数 上がってたと思う。
作者氏の過去作読んでくる。
異変級なのにお尻ペンペンw
結局は妹様のせいじゃなかったけどさw
ソロモンの悪魔たちの会話がユニークだったw
東方キャラがたくさん出てきて楽しかった!
面白かったですぜ!
それは置いといて
面白かったです。
アイディア賞をあげたい。
蓋を開けてみれば非常に読み応えのある作品でした、悪魔にありがちな混ざったり混同されたりがストーリーと上手い具合に絡んでいて悪魔同士の口喧嘩もなんだかありそうだなあと。
しかし妹様、最後は見せられないような事ってお仕置きよりもご褒美貰ってるんじゃ……