東方恋鬼異聞1
東方恋鬼異聞2
東方恋鬼異聞3
の続きです。
/一条戻橋の怪
一
暗んだ堀川の水面に、しなだれた柳の葉がぴちょぴちょと触れている。
闇は霧に濡れてじっとりと重く、気をよくした蛙が呑気に声を交わしている。
夜の一条戻橋は、まさに幽明の境と呼ぶに相応しい様子であった。
人の気配はない。あたりに漂う霧に触れると、ふとした用事を思い出したり、なんとなく遠回りをしたくなったりするのである。疎気の霧であった。
橋の欄干に、白い水干を着た童女が腰かけていた。亜麻色の髪と白い肌が、ぼんやりと光っている。
ときおり、大きな紫色の瓢箪に口をつけて、ぐいと呷る。長く捻じれた角が揺れるたび、髪留めに鎖で繋がれた分銅が橋に当たり、こつりこつりと音を立てる。
長い角の左には、浅葱色の蝶がとまっていた。頭と胸元には、蒐色の蝶がとまっていた。
伊吹山の萃香。鬼である。
最近になって、一条戻橋に現れるようになった。
昼の間は大江山にいて、気の趣くままに雲の形を変えたり、口笛を吹いたり、老ノ坂峠を通る人々を見つけては山鳴りを起こして驚かせたりして遊んでいる。
そして夜になると一条戻橋にやってきて、のんびりと人を待っている。
今も萃香は口笛を吹いている。
なにの曲とも知れぬ、我流の音色であった。陽気でいて、微かに寂しげな調子をしていた。
待ち人は五日の間、姿を現さなかった。
今晩が六日目である。
萃香の表情に苛立ちや焦りはなかった。むしろ待つことを楽しんでいるような様子であった。さすがに、夜が明ける頃になると尖った肩をすくめて、一つ息をつくのであるが、それまでは待ち人のことを色々と想像して遊んでいるのである。
今晩は、武芸の鍛錬をしているのであろうか。贅肉のない引き締まった体に玉の汗を浮かべて、槍を稲妻のように速く振り、強弓から放つ矢は針の穴をも射抜くのだ。
あるいは、宴に呼ばれ、語るのが苦手な綱は騒ぎの隅でゆっくりと酒を呑んでいるのかもしれない。頼光が鬼退治について饒舌に語る様子を、遠目に見ているのだろう。皆が酔い潰れて寝てしまっても黙々と酒を呑り続けているのだ。
もしかしたら、また女から歌を貰って困った顔をしているのかもしれない。読み解けず、しかしまじめな綱は夜を通して意味を考え続けるのだ。だとすれば、いい気味だ。恨みがつのった女どもに呪われてしまえばいい。
そんな想像をしながら、萃香はぶらぶらと足を遊ばせている。自然と面は空を向き、半月から少し膨らんだ形の、白く光る十夜の月を見つめている。
もののあはれを感じさせる美しい月だった。満月では完璧すぎて面白みがない。綱に会ったらまず月のことを話そう、と萃香は思った。
そんな折であった。
立ち込める霧の中に、ゆらり、と黒い影が現れた。霧に立ち入ることを許された者は一人しかいない。
萃香は口笛を止め、欄干から飛び降りた。
狭い歩幅で駆け寄り、影に向かって左手を上げた。
「やあ、待ちわびたよ、綱」
萃香は待ち人の名を呼んだ。
影の輪郭がはっきりとして、源綱の姿になった。
「萃香」
「うん。五日も現れないから、なにかあったのかと思ったよ。明日になったらあんたの寝床に行こうと思っていたところさ」
萃香は小さく丸い顎を動かして、綱に言葉をかけた。
綱がやや無骨な輪郭の顎を動かして、予期せぬ言葉(まじない)を萃香にかけた。
「動くな、萃香」
「え――」
ぎらり、と腰元の髭切が不気味な光を放った。
不意を突かれる形で呪をかけられた萃香は、一瞬ではあったが動くことができなかった。
致命的な隙であった。
ぴゅうん、と風を斬る音がして、萃香の細い左腕に、円盤状の冷たい痛みが現れた。
「な……」
遅れて、ごとりと左腕が落ちた。血がぼたぼたと零れる。
痛みはすぐに灼熱に変わった。
「がああっ!」
獣のような声が、激痛のために絞られた喉からほとばしった。
たまらず、萃香は尋常ならざる脚力で橋の端へと跳び退る。
ふつうの太刀であれば、萃香を斬ることなどできはしない。怖れという観念より生じた萃香にとって、肉体は人ほどに重要なものではない。
だが鬼を斬った経験のある髭切であれば別である。
初めて逢った晩、綱は髭切を抜かぬと誓った。
綱は決して嘘をつかぬという確信が、萃香にはある。
更に、この男は萃香の名を呼んで呪をかけた。
名は基本にして強力な呪だが、故に小細工が利かない。陰陽師が色々に儀式を組み、贄を捧げ、何時間にも渡って呪文を唱えるのは、人より遥かに強い鬼に対抗するためである。
鬼である萃香を名のひと呼びだけで縛ることのできる者など、萃香の知る限りでは京に二人しかいない。
一人は源綱。綱は、たとえ鬼に憑かれようと、そんなことはしない。
であれば、該当するのは、もう一人。
「安倍晴明――!」
と、萃香が叫んだ。
「うっふう、うっふう」
不敵な笑い声がした。綱の姿が水に垂らした墨のようにぐにゃりと歪み、足元の影に沈んだ。
「ふふん。ぬしが名を呼んだせいで、術が破れてしもうたではないか」
代わりに現れたのは、白い肌をした若い男であった。細く紅を差したように唇が赤い。細面で鼻筋が通った美男子であった。
安倍晴明。人の父と妖狐の母との間に生まれたと噂される、稀代の陰陽師である。
「脳天を断ち割ってやろうかと思うたのによ。慣れぬことはするものではないなあ」
晴明は二尺七寸の髭切を重そうに持ち上げて肩に乗せた。
萃香は晴明を睨み、歯を剥き、しゅう、と怒りに熱された呼気を漏らした。
「ずいぶんと、若づくりじゃないか。ええ?」
「なァに、あと二十年もしたらこの世からは去ぬるつもりよ」
晴明は涼しげな顔で、憤怒に満ちた萃香の視線を受け止める。怒りを剥き出しにした鬼と胆で向かいあうというのは、なまなかのことではない。
晴明は空いた手で、橋に落ちた萃香の左腕を、水干の袖ごと拾い上げた。
じゃらりと鎖が鳴って、球状をした金色の分銅が重たげに揺れた。
「ふむ……邪魔だな」
晴明が鎖をひと撫ですると、まるで最初から繋がっていなかったかのように、鎖が外れた。黒い浅沓の踵が分銅を蹴り、萃香のもとへと転がす。
「これを貰っていこう。退治の証になるのでな」
酒呑童子の首は老ノ坂に埋めろと言っておいて、勝手な男である。
晴明は、萃香の腕をゆったりとした水干の左の袖口に放り込んだ。軽く左腕を振ると、袖がふわりと揺れた。まるで、なにも入っていないかのようであった。
「わたしが待っていたのはあんたじゃない。綱だ。疾く、失せろ」
「あァ、ここに、源綱は来ぬぞ」
「あんたが決めることじゃない」
「来ぬよ。なぜおれがおまえの名を知っていたと思う」
「……」
「それはな、あの源綱がおれに教えてくれたからよ。鬼に誑かされていたのだと悟ってな。名を貸し、姿を貸し、髭切を貸し、おまえを討ってくれと――」
「おい」
腹に響く低い声であった。通力の弱い狐狸や胆力のない人ならば、震え上がっていたに違いない。晴明ですら、口をつぐんだ。
「わたしは嘘が大嫌いなんだ。それ以上偽りを言ってみろ、心の臓を握り潰してやるぞ」
むろん、確証があったわけではない。確認するまでもなく、確信しているだけであった。
ふふん、と晴明は鼻を鳴らした。それまでの優雅な調子ではなく、粗野な雰囲気が混じっていた。
「大した信頼だ。鬼が人に恋うたか」
小ばかにする口調で晴明は言った。
「そうだ。それのなにが悪い」
萃香は短く、きっぱりと言った。
「哀れな奴だ」
晴明も短く、しみじみと言った。
「わたしが、哀れ、だと……!」
晴明の一言は、萃香にとって侮辱以外のなにものでもなかった。
萃香は口をすぼめ、周囲の霧を猛烈な勢いで吸い込み始めた。大江山で綱に見せたときとは違い、周囲の大気まで吸い込んでいた。
萃香を中心として渦を巻く突風が吹き荒れる。柳の葉が舞い散り、水面がにわかに騒ぎ始めた。石の陰にでも隠れたのであろう、蛙の鳴き声も止んだ。
霧を吸い尽くした時、萃香は全身に高熱を帯びていた。萃香の素足に触れた橋げたが焦げ、ぶすぶすと煙が上がっている。
異様を前にして、晴明は微動だにしなかった。それどころか、薄い唇を歪めて、にやりと酷薄に笑った。碁で相手が悪手を指したとき、思わず零れる笑みと同じものだ。
「戻したな。霧を」
果たして、霧を戻したのは萃香の失敗であった。
霧が晴れるのに乗じ、数多の陰陽師と武者が一条戻橋に押し寄せたのだ。槍を持った武者と陰陽師が橋の両端を固め、弓を持った武者は川べりに並んで萃香に狙いを定めた。
萃香の幼い姿を見ても、誰も眉一つ動かさなかった。ただ黙って槍を構え、弓を引き、印を結んだ。一条戻橋に、物理と観念の二重の結界が敷かれたのだ。
「おまえは怖いからな。ここ数日でいろいろと準備をさせてもらった。悪いが、手段は選ばんよ」
晴明は少しも悪く思っていないふうであった。
「……ひとつ、訊く」
と、萃香は低く言った。
「綱はどうした」
「聞いてどうする」
「答えろ」
有無を言わせぬ声音であった。
晴明は肩をすくめた。
「あれに暴れられるのは面倒だからな。七日の物忌に服して貰っている」
「七日!?」
ふつう、物忌が七日も続くことは、まずありえない。
物忌を理由にした幽閉であることは明らかであった。綱は、そう易々と捕らえられるような男ではない。不意を突いて大勢で押さえこんだに違いない、と萃香は事情を看破した。
「さァて、そろそろ打ち祓ってくれよう、伊吹山の鬼よ」
と、晴明が言った。
萃香は許せなかった。
自分と綱との仲を引き裂こうとしていることが。
偽りの綱の姿を取って騙し討ちをしかけてきたことが。
愛しい綱の身を拘束していることが。
自分のせいで、綱に辛い思いをさせていることが。
「ふふふ……ふふはははははは、あっはっはっはっは!」
唐突に、萃香が哄笑を上げた。
まるで場違いな笑い声に、弓の狙いが外れ、槍の穂先が下がり、印を結ぶ指が緩む。
追い詰められて気が触れたのか、と誰もが思った。そう思っていないのは晴明だけだった。
「よくぞ、騙してくれた。よくぞ、愚弄してくれた。さすがは人、それでこそ人!」
隻腕の鬼は目を赤く妖しく光らせ、朗々とした声で言った。
ゆらり、と陽炎のような鬼気が一条戻橋に立ち上った。
「自らの都合で鬼を生み、自らの都合で鬼を滅ぼす、業深く度し難いもの。忘れていたよ。あんたたちはそういうものだ。思い出させてくれた。あんたたちは、そういう、ものだ」
誰も、気がつかなかった。晴明も、気がつかなかった。
目の赤い光に隠されていたから気づかれずに済んだのだ。
萃香の眼の端に、涙が滲んでいた。
「この返礼は、高くつくぞ、安倍晴明――!」
萃香は吼えた。頭をぶんと勢いよく右に振った。同時に右腕を弓のように引き絞る。のたうつ亜麻色の髪に引かれて髪留めが跳ね上がり、鎖に繋がれた青い分銅が夜闇に弧を描いた。
分銅が十夜の白い月を隠した瞬間、萃香は拳を矢のような速さで放った。
甲高い音がして、青い分銅が粉々に砕け散った。
なにを、と思う暇もなかった。
萃香が身に着けている分銅にはそれぞれ呪がかけられている。
左腕の丸は疎。拡散を意味する。姿を霧に変え、数多の分け身を作り出す。
右腕の三角錐は密。凝集を意味する。高熱を発し、人や霊を呼び寄せる。
そして、髪留めの四角は不変、すなわち萃香自身をあらわしている。
分銅を砕いたことにより、萃香を萃香と縛っていた呪が解けたのだ。
萃香の背の肉が、ぐうっ、と盛り上がった。水干がびりびりと音を立てて破れた。
萃香を取り囲んだ者たちは、今度ばかりは色を失わずにはいられなかった。盛り上がった肉がひとりでに捏ね上がって、次々とものの形をなしたのである。
ある鬼は青い肌とひとつ目であった。ある鬼は牛の角を生やしていた。ある鬼は巨大な蜘蛛の姿をしていた。ある鬼は百足に人の顔がついたものであった。
それぞれの鬼は、その場に居合わせた者たちがそれぞれ最も怖ろしいと思う姿をなした。
百の者が見る百様の鬼の姿が、一条戻橋に現れたのである。
まさに百鬼夜行であった。
一条戻橋は短く、狭い。次々と現れた鬼はすぐに橋から溢れ出て、取り囲む者たちを蹴散らし始めた。
あるものは頭部を殴られて昏倒し、あるものは鳩尾を打たれて失神する。長く鋭い牙に太腿を貫かれる者もあり、また蜘蛛が吐いた糸に全身を絡め取られる者もあった。鬼の吐いた緑色の火に両腕を焼かれる者もあった。
「痛や、痛や!」
と、あちこちから絶叫が上がる。
地獄絵図のようであった。
「……醜いなあ、伊吹山の鬼よ」
阿鼻叫喚のさなか、安倍晴明には、ただ一体の鬼の姿だけが見えていた。
背丈は柳の木を超え、天を突くように高い。
眼は不気味に赤く光っていた。
唇のない顎には黄色く濁った杭のような歯がびっしりと生えていた。
白色の髪は地に着くほど長かった。
右しかない腕は老木のように太く盛り上がり、指から伸びた鉤爪は龍のそれに似ていた。
頭部の両脇から長く突き出している捻じれた角だけが、萃香の面影を残していた。
かの童女が、最期に幻視した鬼の姿であった。
鬼の巨体はもはや橋の中には収まらず、左足を堀川に突っ込み、右足をようやく橋げたに乗せていた。
「……醜い鬼よ。その姿になり、おまえはなにを感じる。鬼であるおまえが敢えて人の似姿を取っていたわけが、おれには分かるぞ。あの女童が、おまえの食った最初の人だな」
鬼は答えず、目にもとまらぬ速さで右腕を伸ばし、晴明の細い体をたやすく掴んだ。声を上げる暇も与えず、一息に握り潰す。
くしゃ、と音がして、鬼の手中から晴明の姿が消えた。鬼が手を開くと、小さな紙片が一枚、ひらりと落ちた。簡単な人の形をし、五芒星が描かれている。
「ふう。怖や、怖や」
声がして、柳の影から晴明が姿を現した。《式神》を用いた身代わりであったのだ。
ふわふわと幽鬼のような足取りで、晴明は鬼の眼前に戻る。新たに現れたこの晴明もまた、《式神》の偽物であろう。
「おれを捕まえようとしても、むだだぞ」
からかうように晴明が言った。
鬼は取り合わなかった。ただ右拳を握り締め、背後へと振り抜いた。
晴明を殴りつけようとしたのではない。
鬼が殴ったのは、夜の天蓋であった。
ぐらり、と夜空が震え、鬼の拳に隠された箇所から無数の亀裂が雷のように走った。
「むっ、いかん!」
それまで余裕綽々というふうであった晴明が、初めて緊張した声を上げた。
星を含んだ天蓋がぼろぼろと剥がれ落ち、その裏から星のない夜空が現れた。
晴明はとっさに印を結び、月を支える。
陰陽師は、天文の運行を基準に暦を作成し、要人に凶事ありと察すれば方違えを指示し、怪異があれば星の位置を参照して吉凶を判じる。従って、天文を台無しにされては、通力を減じてしまう。晴明は最も重要な天体である月を守ったのだ。
しかし、晴明の努力は徒労に終わった。
鬼は晴明を見据えたまま更に右腕を振り、十夜の月を殴ったのだ。
月が、まるで砂糖の塊を砕くかのように、粉々になった。蛍の大群を思わせる無数の月の欠片が降り注ぎ、中空で消えた。
夜空から輝きがすべて失われ、あたり一帯を闇の塊が呑み込んだ。苦痛に悶える武者や陰陽師たちの声も、水に没したかのように消えた。
いまここは、現世から隔絶された幽世、鬼の支配する場となったのである。
「やれやれ。こうなってはもう、おれの手には負えないな」
肩をすくめて、あっさりと晴明は言った。
この期に及んでなお、鬼を怖れる様子はない。
「外道には外法を、使わせてもらうぞ」
晴明はゆったりとした水干の右の袖口から一枚の呪符を取り出した。両面にはびっしりと文字が書き詰められている。
「疾ッ!」
鋭い気合とともに晴明が手を振った。ただの紙片であるはずの呪符が矢のように飛び、橋げたに呪符の角が突き刺さった。呪符は卵のようにくるりと丸まった。
呪符に書きつけられた文字が、ぼう、と青白く光った。
呪符を破り、金色に輝く巨大な蛇が姿を現した。胴回りは牛の腹ほどもあろうかという、大蛇であった。ぼう、と鱗が光っていた。十二天将の前四、土神の勾陳である。京の守護を担い、北西の方角から侵入する穢鬼を撃退するべく南東に座している。
五芒星が散りばめられた天を失おうとも、九字紋が刻まれた地は残っている。土神の霊験はいまだ、あらたかであった。
しゅう、と勾陳が生ぬるく土臭い息を吐いた。紅い舌をちろちろと出した。
鬼が右の拳を振り上げて、ごう、と風が立つほどの勢いで大蛇の頭部へと打ち下ろした。
金色の大蛇は見た目に似合わぬすばやい動きでそれを避け、地を這った。ひとつうねるだけで鬼の足元にするりと滑り込み、瞬く間に鬼の肢体に絡みついた。
「ヌウ!?」
隻腕の鬼が唸った。
勾陳が左足から胴体、首、そして右腕に至るまでを締め上げたのである。
「グ……ガ……」
喉を絞られ、白髪の鬼が苦悶の声を上げた。
殴りつけようと鬼は拳を握るが、右腕はぶるぶると震えるばかりで、まるで動かない。
土剋水。
五行思想において、土は水に打ち剋つ。
霧に姿を変え、雷を呼び、疱瘡をはびこらせるように、鬼は水神でもある。
どのような大火も豪雨を浴びれば消え去るように、水神の鬼がいかに強大な力で暴れようとも、土神の勾陳には敵わない。
金色の蛇はいよいよ締めつける力を強め、鬼の肢体に身を食いこませた。絞め殺すどころか、引きちぎってしまいそうなほどであった。
握り締められた鬼の右手が、じわり、と緩んだ。
このままでは締め殺されてしまう。
鬼は最後の力を振り絞って、右手をめいっぱい開き、そして握り締めた。
「瘟(オーン)――!」
鬼の低く長い声が、夜闇の塊を震わせた。
あたりに散らばっていた青色の分銅の欠片が、ふわりと浮いた。互いに引き合うように凝集してゆき、瞬く間に元の立方体へと組み上がった。
「ふむ。諦めたか。潔いな」
と晴明が呟いた。
鬼の姿が消え失せた。
それと同時に、天蓋がさっと塗りかえられ、星と月が戻った。
夏の夜が明るくなった。
現世に留まれなくなった勾陳が金色の霧となって姿を消した。他の武者や陰陽師は既に退いたようで、こちらもまた姿がなかった。
一条戻橋には尻を着いてうずくまる萃香の姿だけが残された。不変、萃香自身を意味する分銅が元に戻ったことで、萃香という呪もまた元通りになったのだ。
萃香は変わらず隻腕であった。
白い肌に赤黒い痣が長々と刻まれていた。蛇の巻きついた痕だ。
尖った肩を大きく上下させて、息をしている。
橋げたが焦げるほどの高熱は、いまやなりをひそめていた。
まるで、病に弱ったみなしごの童女のようだった。
晴明は萃香に歩み寄り、白い矮躯を見下ろした。
「哀れだな、伊吹山の鬼よ。京に立ち入らなければ、そのように苦しむこともなかったであろうに」
ここは、大路によって九字紋を施され、五芒星の論理が染み渡った陰陽の京である。
魔物を強く呼び寄せる構造ではあるが、同時にそれを迎え撃つ陰陽師の通力も高まる。
かつての萃香であれば、それでも負けることはなかったろう。
しかし、人は常に変化する。かつて鬼に蹂躙されるだけだった無力な人は、いつしか鬼をたった一人で討ち滅ぼすまでに至った。
「どれ」
晴明が髭切を肩にかついだ。鬼斬りの刀で鬼を斬るのに、力も技も必要ない。ただ刃を落とせばこと足りる。
「さらばだ」
晴明がそう告げた、その時であった。
ばっ、と萃香が面を上げた。
萃香の眼は赤く光り、未だ死んではいなかった。
萃香は右手を晴明に向けて突き出した。
「むっ!?」
分銅の鎖が腕輪から外れ、環の数をじゃらじゃらと増やして伸びた。肩に髭切の峰を乗せたまま、晴明はがんじがらめにされて身動きが取れなくなる。
「ふふん。むだだと言った――」
「安倍晴明!」
晴明の言葉を遮り、萃香が、力の限り叫んだ。
揺らぎ始めていた晴明の姿が、再びはっきりとした。
名と鎖によって二重に縛られ、晴明の《式神》は紙片の姿に戻ることができなくなったのだ。
「疾ッ!」
と、萃香が更に気合をかけた。
右腕の鎖の先に繋がれている分銅は、凝集を意味する赤い三角錐であった。
鎖が青白く光り、その光が萃香に向かって勢いよく流れていく。
「むむう」
と晴明の形をした《式神》が唸った。
《式神》は術者である安倍晴明に繋がっている。萃香は《式神》と鎖を通じ、遠く離れた晴明から精気を簒奪しているのだ。
ふつうであれば術者である晴明が繋がりを断つところだが、萃香が《式神》を名と鎖によって安倍晴明であるべしと縛りつけ、それをさせない。
若かった晴明の姿が、みるみるうちに年老いたものへと変じていく。
晴明は辛そうにしながらも、にやりと笑った。
「ぬかったよ。よもや、騙し討ちとはな」
しわがれた、しかしどこか涼しげな声で、晴明は言った。
「ふふん。鬼が騙し討ちを、横道を行うかよ」
萃香は細い眉の根を寄せて、小さく歯噛みをした。
確かに、萃香のしたことは騙し討ちであった。弱ったふりをしておびき寄せ、己が拳ではなく、小手先の術で無力化した。
鬼はそんなことはしない。正々堂々と立ち合い、真っ向から力勝負をし、負けと決まれば潔く首を差し出す。それが鬼の流義であり誇りである。
「……約束を、した。また逢おうと約束したんだ。その約束を違えないためなら、なんでもする。それがわたしの正道だ」
鬼の誇りを差し置いてでも、萃香は綱と交わした約束を果たそうとしたのだ。
「詭弁だなあ。おまえと鬼とを、どうして分けることができようか」
晴明の《式神》は、あるじの嘲りを正確に映し出した。
「おまえは鬼よ。それも、おれが今までに見たことのないくらい純粋で巨大な、人の怖れの塊だ」
さすがの、安倍晴明であった。千里眼ともいわれるその目は、外見だけではなく、姿形が内包する観念をも見通すのだ。
「名を萃香というたな。おれには、災禍の韻を踏み、萃禍を読み替えたのだと、思えるよ。おまえは名からして、鬼さ」
「黙れ」
「それにな。おまえが万に一つでも鬼でなくなったとして、それでもおまえは人にはなれぬよ、萃香」
「黙れ」
「《人と鬼》という関係も、ひとつの巨大な呪よ。おまえも、おれですらも抗えぬ。もし、そういうときがくるとすれば、その呪を誰もが忘れてしまったときであろうよ」
「黙れと言っている!」
反吐を吐くように、萃香が言った。
ひどい顔であった。悔しさと、悲しさと、諦めとが、胸に渦巻いている顔であった。
「哀れな鬼よ。言っておくが、おれはおまえに恨みがあるわけではないし、おまえのことが嫌いなわけでもないぞ」
「……なら、わたしの邪魔を、わたしたちの邪魔をするな。放っておいてくれればいいだろう。わたしは、京が、人が、嫌いなんだ。こんな腐ったような京に、好き好んで下りるものか。あんな愚かなものに、好き好んで関わるものか」
「悪いが、そうもいかぬ。おれはこの腐ったような京が好きなのでな。京の者に頼まれれば、応じないわけにはいかぬ。京とは、そこに住む愚かな人々のことだからな」
「あんたたちはそう言って、わたしから奪うのか。勝手に生み、勝手に怖れ、勝手に遠ざけ、勝手に虐げた。そして更に、奪うのか。綱の他に何も残らないあたしから、最後の小さな宝物さえ奪うのか!」
「ものの見方の違いよ。我らからすれば、おまえが綱を奪うのさ。いずれ、陰陽道に代わって朝廷の守護となるであろう、頼光殿の懐刀を、若き宝を、おまえが奪うのさ」
話をしていたが、話になっていなかった。
本来、人と鬼とは、そういうものである。
「もう、いい」
萃香が呟いて、鎖のいましめを解くと、晴明の《式神》は五芒星が描かれた紙片へと姿を変じた。
最後に、ふふん、と晴明は笑った。《式神》がそれを正確に伝えた。
精根を吸われきった安倍晴明本人はいまごろ、内裏の北東にある自宅で昏倒していることだろう。死ぬことはあるまいが、寿命がいくらか縮んだに違いない。
萃香は小さな体をぶるりと震わせた。夏の盛りの夜だというのに、とても寒かった。
一条戻橋の上で、萃香はたった独りであった。蛙はいまだ、隠れているようで、鳴き声がしない。
綱に逢いたいな、と思った。
「あれ」
姿を霧に変えようとして、失敗した。
萃香は疲れ切っていた。晴明の精気を奪って、ようやく立つことができるほどであった。
一条の頼光邸はすぐそこであるというのに。
晴明であれば頼光邸に陰陽師も待たせていよう。今の萃香は、並の陰陽師の形式に任せた術でも祓ってしまえるほど、弱りきっていた。
萃香はのろのろと堀川沿いを少し歩き、破れ寺を見つけた。立て続けに起こった不幸によって崇りがあるとされ、棄てられた寺だ。一面に生えた夏の草は伸び放題で、長く手入れをした形跡がない。月と星の明かりに照らされて、不気味な陰影がついていた。
本堂に入ると、誰もいなかった。あまりに不気味で、ならずものですら近づかないのだ。屋根の一部が崩れて星が見えている。床もあちこちが抜けて、細長い草が飛び出していた。
奥には大きな薬師如来が鎮座していた。
信仰を失った神仏など、怖るるに足りない。むしろ鬼が潜むには都合がよい。
萃香は仏像の裏側に潜り込み、体を横たえた。もぞもぞと体を動かして、おさまりの良い姿勢を見つけた。長く息を吐くと、そのまま動けなくなった。
左腕の切り口がじくじくと熱く痛んだ。
「綱」
ぽつりと呟いた。少しだけ、痛みを忘れられた。
屋根の穴から覗く白い星々をぼんやりと見ながら、綱のことだけを考えることにした。
綱は悲しむだろうか。
綱は怒るだろうか。
どちらの綱も見たくないな、と萃香は思った。綱とは、他愛もない話をして、お互いに笑ったり拗ねたりといったことをしたかった。
ほどなくして、萃香は眠りについた。
夜は歩みを止めたように長く、綱は遥かに遠かった。
二
綱が物忌に服してから七日目の朝。
今日を終えればやっと萃香に逢いに行ける。
目を覚ましてからというもの、綱は閉ざされた離れの板間をうろうろと落ちつきなく歩き回っていた。相変わらず、障子の向こうでは十数名の屈強な武者たちが常に内外に警戒の目を光らせているのである。
蔀には釘が打たれ、障子は日に一度しか開かなかった。その時さえ厳重に警戒されていた。
それでも一度、突破しようと綱は試みた。苦もなく取り押さえられ、叩き返された。
一対一では決して負けない綱でも、十数人を相手にすることはできなかった。
ふいに、燈台の火がゆらりと揺れた。ものの気配を感じ取った綱はさっと視線を走らせる。
頭髪を禿にした女童がいた。部屋の片隅、死角となっていた所に、いつの間にか現れたのである。ぼう、と薄い光を放っていた。
「誰ぞ!?」
つい声を上げてしまい、綱は慌てて口をつぐむ。
童は、見た目に似合わぬ、ふっくらとした女の声で答えた。
「晴明の使いでございます」
「なに、晴明殿の」
「はい。これをお届けするように、と」
小さな唐櫃を差しだした。漆塗りに沈金の紋様をあしらった上等なものであった。
綱がそれを受け取ると、女童はゆるやかに礼をした。
「では」
と言って、暗い天井へと身軽に跳んだ。くるりと宙返りをすると、闇に溶けて消えた。
嫌な予感を抱きつつ、綱は、受け取った唐櫃の蓋を取った。
ぎょっとした。中には、小さな白い腕が入っていたのだ。
肘より少し下から切り落とされた、左の腕だ。鉄の腕輪がついている。
見覚えのある腕であった。
「もしや……!」
触れてみて確信した。
切り落とされているのに、猫のように熱かった。
萃香の左腕だ。
包み込むようにして触れた、あの手であった。
綱はすぐに、萃香の身になにが起こったのかを察した。
頼光の依頼を受け、安倍晴明が萃香と接触し、髭切を用いて腕を斬り落としたのだ。わざわざこれを綱のもとへ送ってきたのだから、萃香は無事ではあるまい。
障子に駆け寄った。板張りの向こう側で、身構える気配がした。
体当たりで破りたくなる衝動を抑えて、声を張り上げた。
「兄者! ここから出してくれ、公時の兄者!」
答える声はなかったが、障子の向こう側で、巨躯の動く気配がした。
「そこにいるのだろう。あとでいかなる罰も受ける。行かせてくれ、兄者。頼む……!」
綱は悲痛な声で訴えた。
気配が、みしり、と音を立てた。
「……これは、ひとりごとだ」
名を呼ばれ、答えてしまっては、物忌の効力が薄れてしまう。だから公時はそう前置いた。
「源綱という男は、若いくせに、おそろしく強い。相撲では負けを知らず、槍は誰よりも速く、笠懸では的を外したことがない。およそ、武芸において、この京中で源綱に及ぶものはおるまい」
一部でまことしやかに囁かれていることである。
だが、綱にもある程度の自覚がある。綱は武芸に傑出するべく鍛錬を積み重ねてきたのだ。
養父である頼光のいかなる求めにも応ずるために。
己が体の他になにも持たぬ綱が、自らの居場所を得るために。
「親父はいずれ、朝廷の守護を担う武家となるであろう。その槍となり、矢となるのはおれたちだ」
頼光は、綱だけでなく、従える郎党の皆から親父と呼ばれている。
「そして、おれたちの基摸となるのは、源綱という男なのだ。歳など関係はない。源綱という男は呆れるほどまじめで、才覚に溺れることなく、強さに驕ることなく、誰よりも鍛えている。そのことをおれたちは知っている」
「……おれは、そのような立派なものではない」
萃香の腕が入った唐櫃を抱きながら、綱は、そう呟いた。
それを聞いてか聞かずか、公時は続ける。
「源綱はなんのために、その武芸の腕を磨いたのだ。なんのために、その体を鍛えたのだ。大きな力を持つ者は、力の使い所を誤ってはならぬ。かといって腐らせることもならぬ。そのことを、わからねばならぬ」
「わからぬ」
「源綱を失えば、我らが郎党は柱を失う。勝手はもはや、許されぬ。この国に生まれたならば、この国に尽くさねばならぬ。一人前の男であれば、そのことを、わからねばならぬ」
「わからぬ!」
ぎりり、と綱の奥歯が軋んだ。
綱はまだ若かった。世の理不尽を飲み下せるほど、心神は成熟していなかった。
そんな綱の様子を気取ったのであろう。公時は、最後にこう付け加えた。
「……それにな。いなくなると、皆、悲しむ。家族を鬼に取られて、悲しまぬ奴があるものか。ここに詰めている武者は皆、源綱という男を親しく思う者たちだ」
それで、公時はひとりごとを終えた。
これ以上話すつもりはないと、気配が示していた。
ここから出すつもりはないと、態度が示していた。
綱はよろよろと歩いて、板間の畳に戻り、座した。
唐櫃から、細い腕を両手でそっと取り出す。腕の下には水干の袖が畳んで敷いてあった。白い生地に、あちこち血が滲んでいた。
左腕はとても軽く、少し力を入れれば折れてしまいそうであった。その軽さが、今の萃香の様子を表しているようであった。
はらはらと涙がこぼれ落ちた。
「おれの、せいだ」
熱い腕に、ぽたぽたと綱の涙が落ちて滲んだ。
生きてはいる、と信じたかった。もし死んでいるのであれば、物忌はすぐにでも解かれるであろう。
なにより、胸元にかき抱いた小さく細い腕に宿る熱が、僅かな望みを綱に持たせた。
骨が細く浮いた萃香の左手の甲を、額に押し当てる。
喉が狭まり、腹が震えた。
「おれの、せいだ……!」
か細く弱々しい声で、綱は、呟いた。
生きているということは、それだけ腕を失った痛みや苦しみが続くということだ。萃香はいま、独りきりで、苦痛に耐えているに違いない。
どれほど研鑽した武芸と鍛錬した肉体があろうと、綱はしょせん人間であった。たかだか十数人の包囲すら突破できない。
鬼になりたいと、綱は思った。
あの強力な鬼に。全てを壊す圧倒的な膂力を持つ鬼に。
「萃香」
熱い手に頬を押し付けた。
あるいは、全てのしがらみを捨て去って萃香と共にこの地を去るか。
その考えはとても魅力的に思えた。
しかし、先ほどの公時の言葉が肩に重くのしかかっていた。萃香に出会うまで、綱は公時の言ったことこそを、正しいと信じていたのだ。萃香と出会わなければ、きっと今でも信じていたに違いなかった。
だが、綱は出会い、知ってしまった。
疱瘡の正体を。
京を俯瞰する視点を。
人の内に潜む鬼を。
鬼の所業に手を染めてなお、子を生かそうとした母のことを。
孤独な、優しい鬼のことを。
「萃香」
名を呼んでも、萃香がどこからかひょっこりと現れるということは、なかった。
全てを見透かしているかのように答えを示してくれるということも、なかった。
小さく哀れな鬼の腕を抱いて、綱は考えた。
風呂のように暑い室内で、どうすれば、せめて萃香だけでも不幸にならずに済むのか、考えた。
ずっと、考えていた。
/萃う想いはひと夏の夢
そして夜になった。
十一夜の白い月は昨日からまた少し膨らみ、昨日より少し遅れて南の空に昇っていた。夕立の後で、夜空は深い藍色に澄みわたり、月は、きん、と冷えた氷のように輝いている。
十数名の武者と陰陽師が詰める一条の頼光邸に、いつしか、霧が立ち込めていた。
白く濃い、乳のような霧である。数歩先すらも見通せぬほどであった。
外を通る者があれば、妖しの気配を感じ取ったに違いない。
その霧は、物忌に沈む頼光邸だけにかかっていたのである。
霧に触れた者を、とても強い眠気が襲った。へとへとになるまで運動し、腹いっぱいに飯を食い、その後にどっと重くのしかかってくる、そういった眠気である。
一人、また一人と、武者や陰陽師がその場に座し、あるいは横臥して、寝息を立てる。この霧に触れると、なぜか、眠ってもいいかなという気分になるのである。
「むむむ……」
と唸ったのは、腹回りの太い坂田公時であった。それを最後に、公時もまた、眠った。
頼光邸で動くものは、ゆるゆると流れる霧だけになった。
綱は、萃香の腕が入った唐櫃を抱いたまま、畳にじっと座していた。
少し前から異変に気づいていた。
ひとつ、またひとつと外をうろつく気配が消えていくのである。
綱は黙してそのときを待っていた。
やがて、障子の向こうに、小さな気配が現れた。きしっ、と板張りの廊下を踏む、軽い音がした。
かたかたと障子が鳴って、障子にぶら下げられたことなし草が小さく震えた。
開けられないのだ。紙きれ一枚の封印が施されているだけなのに、開けられないのだ。
やがて、諦めた。
ややあって、
「綱」
と、障子の向こうから呼びかける声があった。
綱は思わず応えそうになった。
たった数日聞いていないだけなのに、涙が出そうになるほど懐かしい声であった。
「綱。わたしだよ、萃香だよ」
声はとても弱々しかった。
座りこむような、衣擦れの音がした。
「そこにいるんだろう、綱。ここを開けておくれよ」
かた、と障子が鳴った。
「綱、綱。……返事を、してくれよ、綱」
綱は、返事をしなかったのではない。できなかったのだ。
胸には膨大な言葉がせりあがっているのに、喉がつかえて吐き出せずにいたのだ。
「綱。また逢おうって、言ったじゃないか。お願いだよ、綱。中に入れておくれよ」
萃香。
賑やかなことを好む、酒好きの鬼。
綱をからかい、かと思えばふとしたことで赤面していじける、無邪気な鬼。
孤独で小さな鬼。
綱はこの気持ちがどういったものであるのかを、はっきりと悟っていた。
だから、口を開くために、母の夢のことを話したときなど比べ物にならないほどの勇気を要した。
「綱、ねえ綱……返事をしてよ、綱」
弱い、それでいて悲痛な呼び声がするたび、その勇気も削られていく。
目をぎゅっとつむり、歯を食いしばって、鼻から息を吸い込んで、丹田に力を込めて、それから綱は、ようやく言葉を口にすることができた。
「……おれは、おまえのことが嫌いだ」
「え……」
きょとんとした声。
綱は、いまの萃香の表情をありありと思い描くことができた。
「よくも、おれを誑かしてくれたな。この七日間、物忌をしていて目が覚めたのだ。鬼と人は、やはり相容れぬものであると。鬼は、ただそこにあるだけで忌むべきものであると」
「……」
「おまえに出会わなければ、おれがこうして閉じ込められることもなかっただろうよ。それにおまえは、おれの母のことまで知っている。そのことが、おれはたまらなく嫌なのだ」
「……」
「おれはいま、おまえの腕を持っている。晴明殿に切り落とされたそうだな。まったく、いい気味だ。これが届いた時は、胸がすくようだった。いっそ、これが首であればよかったのにと思った」
「……」
「だのに、おまえは、懲りもせずこんなところまで来た。まったく忌まわしい奴だ」
「……」
「疾く、去ね。こんな腕など返してくれる。陸奥(みちのく)にでも行ってしまえ。二度とおれの前に姿を見せるな」
綱の心臓は握り潰されていた。萃香に嘘をついたから、握り潰されたのだ。大江山で初めて会ったあのとき、萃香が言ったことは本当であった。
おれのことを嫌いになってくれ、と綱は思った。
萃香は、人を好きになってはならなかったのだ。綱を好きになってはならなかったのだ。
人を好きになったばかりに、仲間から一人離れて京の近くで孤独に棲んだ。
綱を好きになったばかりに、腕を切り落とされた。
仮に綱と一緒になろうとも、綱はあと五十年もすれば、死ぬ。
萃香はまた孤独になる。
なれば、いまここで人を見限った方がよい。仲間のもとへ行った方がよい。
悲しみがこれきりで終わるなら、その方がよい。
不器用な綱は、そう考えた。
嘘をつくことそのものは、思いのほか簡単であった。思っていることの真逆を言えばよかった。
ただ、綱は不器用であったから、虚実を織り交ぜるということができなかった。ひたすら嘘を並べたてた。
やがて、障子の向こうで、くすりと萃香が笑った。
「綱は、優しい奴だなあ」
と、萃香は呟いた。
「なに――」
「綱。わたしは、あんたのことが好きだよ」
穏やかな一言で、綱の努力はすべて台無しになった。
たったの一言が、凄い力であった。
とても敵わなかった。
「……萃香」
名を呼んだ。
あっけなく呪が解けた。
かたん、と障子が音を立て、次いで、呪符がぴしりと裂けた。
すっと障子が動き、ことなし草がぽとりと落ちた。
小さな鬼の影が、視界の上端に現れた。
「おまえは、ばかだ」
と、うなだれたまま綱が言った。
「ばかだ。どうしようもない、ばかだ。なんで、そんなになってまで、おれのところに来た」
「好きだから。好きで、逢いたくて、たまらないんだ」
「おれは、おまえに嘘をついたのだぞ。おまえは、嘘が大嫌いだと言ったではないか」
「ああ、言った。わたしは、正直な奴が好きなんだ」
まるで話になっていなかった。
とつとつという軽い足音が、綱のそばにまで来た。
綱は、座したまま、顔を上げることができなかった。裸足の、細い足首までを見るのが精一杯であった。
「すまない。おれは、なにもできなかった」
「うん」
「おれは、無力だ」
「そうだな」
鬼は嘘をつかない。だから気休めも口にしない。
綱がなにもできなかったことも、無力であったことも、事実である。
萃香は、とつとつと軽い足音を立てて歩き、綱の狭い視界から消えた。
「すまない」
と、もう一度、綱は謝った。
「おれは、おまえを、幸せにしてやることができない」
「それは違うよ。綱」
鬼は嘘をつかないから、違うことは違うと言うのだ。
綱の広い背に、熱いものがそっと覆いかぶさった。
「わたしの幸せはね、綱と、こうしていることさ」
綱のうなじに萃香が額を乗せた。右肩からは水干の袖をまとった細い腕がしなだれた。
左肩は、軽いままであった。
たったこれだけのささやかな幸せが許されない。
萃香のささやかな幸せを、守ってやれない。
盆の窪に感じる萃香の額の熱さが、なおさら切なくて、悔しくてならなかった。
綱の苦悩を見抜いて、萃香が言った。
「ごめんよ、綱。わたしのせいで、綱を苦しめてしまった」
「違う。おまえのせいなどでは――」
「わたしのせいだよ。わたしが綱を誑かしたのさ。ふふん、わたしの色気も捨てたものではないね」
「……」
「ちぇっ。いまのは笑うところだよ。まったく、綱はまじめだな」
「すまぬ」
「まァ、いいよ。そこが綱のいいところなんだから」
綱が振り返ろうとして身じろぐと、萃香が右腕に力を込めた。
小さく弱い力だったが、綱を押し留めるには十分であった。
「……このままどこかに連れ去ってしまいたいけれど、綱の居場所は、ここだものな」
しみじみと、萃香が言った。
「おれは、それでも構わぬ」
「あんたには、恩があり、大切に想う家族があるだろう。それを捨てるというのは、横道だよ。それに、わたしはもう、人を食いたくない」
胃に収める、収めないにかかわらず、人を攫うということは、人を食うということだ。
晴明と対峙したとき、萃香は騙し討ちをしたが、更に嘘をもついていた。
萃香は、人が好きであった。横道をなす愚かな人が、それでも愛おしかった。どうしても憎むことができなかった。萃香の生みの親である醜い人は、ときに、とても美しい魂を見せた。
例えばそれは、最後に海を見たいと言った桔梗姫のような。
そんな親を裏切るということはしたくなかったし、綱にもさせたくなかったのだ。
「……なぜ、うまくいかないのだろうな」
「わたしは鬼で、綱は人だから。いまの、この世では、許されないことなんだよ」
綱は天井を仰いで、歯を食い縛った。
「ままならないな」
「そういうものさ」
萃香がそう言って、それきり、どちらも黙りこくってしまった。
しばらく、二人はじっと黙って、お互いの温もりを感じていた。
「うん。綱は、大きいな」
と呟いて、萃香が離れた。
綱はようやく振り返ることができた。
左腕を失った、痛々しい風体の萃香が立っていた。
また、心臓が握り潰された。
「腕を返そう」
「うん」
綱は唐櫃から、萃香の細い左腕をそっと取り出した。やはり、軽かった。
左腕を右手で受け取ると、萃香は無造作に断面をくっつけた。しゅう、と音がして熱気が膨らみ、それで腕はくっついてしまったようだった。
萃香は左手を軽く振って、なんどか握ったり開いたりした。それから、右手に持っていた分銅の鎖を、左手の鉄の輪につけた。
綱は、唐櫃に残った水干の袖を取った。灯に照らし出された切り口はじつに滑らかで、僅かにもほつれていなかった。
「袖を、縫うてやろう」
「うん」
萃香は頷いて、着ているものを脱ぎ始めた。袴の帯を解いてするりと床に落とし、水干の襟を留めている紐も解いて、ぽいと綱に投げて渡す。
「お、おい。待て。なぜ脱ぐ」
「脱がないと縫えないだろう。それとも、わたしに針を刺すつもりかい」
白い小袖を脱ぐと、萃香は一糸まとわぬ姿になった。ぼう、と光る白い肌に、あばらの骨が影を刻んでいる。貧相で、とても色気があるとは言えぬ体つきであった。
「ばか。これを被っていろ」
綱は、そこにあった衾(ふすま)を取って萃香に投げつけた。
「あっはっは、綱はうぶだなあ」
「おまえに恥じらいがないだけだ」
綱がそう言うと、衾を被った萃香はとたんに膨れ面になった。
「む。あるさ」
ぷい、と萃香はそっぽを向いてしまった。
わけがわからず、綱は溜息をついて袖を縫い始めた。
衾に包まったまま、萃香はその様子を横目で見ていた。
ちくちくと針を刺し、縫っていく。
心地よい時間であった。
永遠に縫い続けていたいと綱は思った。
しかし、半刻もしないうちに、水干も小袖も、左の袖がついた。
「できたぞ」
「ふん。ありがとう」
なぜか不満そうな顔をして、萃香は小袖から順に衣服を着た。
やはり、不満そうにする理由が分からず、綱は首を傾げた。
「ん」
着付けを終えて、萃香は左手を差し出した。
「ん」
綱はその手を取って、立ち上がった。
萃香が庭に向かって歩きだした。萃香の歩幅は狭かったので、綱は歩調を落としてゆっくりと歩いた。
綱が歩くと床がみしりと鳴り、萃香が歩くと床がきしりと鳴った。
「そういえば。ここに詰めていたものたちは」
「邪魔をされたくなかったから、眠気を萃めて眠らせて、寝殿に放り込んだ。明日の寝覚めは悪いだろうね」
「そうか」
広大な庭に出た。十一夜の月に照らされて、松の葉も、池の黒い水も、苔むした岩も、丹塗りの橋も、美しく輝いていた。天橋立を模した庭園である。
萃香に倣って、綱も裸足で土に下りた。
夜気に冷やされた土は、ひやりと足の裏に心地よかった。
「これから、どこへゆく」
「陸奥にでも行ってみようと思うよ」
「そうか」
手を繋いで、丹塗りの橋をひたひたと歩く。
思えば、二人でこうしてのんびり歩くというのは、初めてであった。
よいものだな、と綱は思った。
綱の腕は長かったから、萃香と手を繋いでも角が脇腹に刺さることはなかった。
自分の体が大きくてよかったと思ったのは、これで二度目であった。
一度目は、二年前に頼光率いる郎党の筆頭となったときであった。体が大きいことは、武芸の腕を磨く上で有利であった。
筆頭となった綱を傍らに置いて、頼光は郎党に向かって言った。
「我らの武は帝のためにあり。我らの勇は京のためにあり。我らの力は人のためにあり」
と。
その京に、いま、綱と萃香は牙を剥かれている。
綱は足を止めた。
「なあ、萃香。おれたちは、負けたのだろうか」
京という鬼に。《人と鬼》という、巨大な鬼に。
綱の手を離して、萃香はとつとつとつと、三歩、前に進み出た。くるりと身を翻した。
ふふん、と萃香が鼻を鳴らした。
「ものの見方を変えればいいさ」
「変える?」
「綱。わたしはあんたのことを忘れない。千年経っても、決して。この身がどれほど遠く離れても、わたしの心はあんたのものだ。だから、綱の心を、わたしにくれ」
薄い胸に手を当てて、強い目をして、萃香はそう言った。
そうすれば、《人と鬼》という鬼に、本当に屈したことにはならない。
恋というのは、お互いを愛しいと想う気持ちであるから、その気持ちさえ失わなければ、たかだか鬼などに屈することはない。
萃香は、そう言っているのだ。
綱は頷いた。心を裸にして、言った。
「わかった。おれの心を、萃香にやる。おまえの心は、おれが貰おう。おれはおまえのことを、生きている限り忘れない。いや、死して霊となっても、忘れない」
「桔梗姫のことはいいのか」
「茶化すな。もちろん、忘れはせぬさ。しかし、姫には悪いが、萃香の次だ」
綱がそう言うと、萃香は満足げに頷いて、月明かりに白く照らされた顔を、耳まで赤く染めた。とても嬉しそうであった。
その表情を見て、可愛いな、と綱は思った。
「……いつか、人も鬼も、仲良くできる日が来るとよいな」
「うん」
愛する者同士は、身も心も、共に在るのが一番よい。
人であろうと。鬼であろうと。
萃香は水干の袖を翻して、背を向けた。
「……さァて。それじゃあ、わたしはそろそろ行くよ」
「もう、行くのか」
「あまり長くいると、辛くなるからね」
手首と髪留めについた鎖が、揺れて、じゃらりと鳴った。
亜麻色の髪が、月の光に濡れて、つやつやと光っていた。
萃香の周囲に霧が漂いだした。風に乗って、陸奥へと去るのであろう。
ふいに、綱は気づいた。
「萃香」
と、綱は萃香の小さな背に呼びかけた。
「別れのときくらい、最後まで相手を見ているものだ。おれは、笑ったりしない」
一度は出た霧が、すう、と消えた。
「もう……本当に、嫌なところで鋭いなあ、綱は」
萃香の小さな肩は、震えていたのだ。
亜麻色の髪を揺らして、萃香は振り返った。
大きな茶色の双眸から、とめどなく涙が溢れ、白い頬から滴っていた。
ふふ、と萃香は笑った。
「なんだよ。あんたもじゃないか」
笑うことなどできるはずがなかった。
綱もまた、泣いていたのだ。
「悲しいからな」
「うん」
「だが、おれの心は、おまえのものだ。おまえの心は、おれがもらう」
「うん」
二人とも、次第に声がうわずった。首筋に、力が入ってしまうのだ。
「笑おう、萃香」
「うん」
二人は、無理やりに笑顔を作った。
今度こそ、萃香の姿が白い霧に包まれ、薄くなって消えていく。
ぎこちなく微笑んだまま、萃香は完全に白い霧となった。
風が、ひゅう、と小さく吹き、霧が夜空へと高く舞い上がった。
綱は、目でそれを追った。
白い霧は十一夜の月の光を浴びてきらきらと光り、やがて、遥か北へと飛び去った。
どちらも、最後まで、さようならとは言わなかった。
心はいつまでも共にあるから、さようならとは言わなかった。
頼光邸の広い庭で、綱は夜空を見上げたまま、立ち尽くしていた。
すん、と綱は鼻を鳴らした。
/東方萃夢想異聞
昨晩まで雷にじっと暗んでいた八ヶ岳も、いまは空ともども青く染まっている。
梅雨が明けた。
朝、博麗神社の境内はまだ少し濡れていて、風にちぎられた青葉が石畳に何枚も張り付いていた。
朝の澄んだ空から照りつける太陽の光は、すでに強い。雲に隠れている間、熱を萃め、力を溜めていたに違いない。
伊吹萃香は行儀悪く賽銭箱に腰かけて、細い足をぶらぶらと遊ばせていた。
傍らに、あの紫色の瓢箪はない。
なんとなく、酒を呑む気がしない朝だった。
ときおり鈴緒を爪先で蹴ってからんと鳴らす。蝉の鳴き声はもう少し先のようだ。
朝に騒いでいた鳥たちは里にでも遊びに行ったのであろう。さわさわという葉鳴りの音しかしていない。
穏やかな朝であった。
口笛でも吹こうかと思った、その矢先のことであった。
静かな境内に、さくさくと近づく足音があった。納屋の方角からだった。
「あら、珍しいじゃない。あんたが素面だなんて。明日は槍でも降るのかしら」
箒を手にした博麗霊夢が現れて、開口一番嫌味を言った。
霊夢はいつものように、袖が分かれた珍しい形の巫女服を着用している。
「えー、なんだよそれ。それじゃあわたしが年がら年中酔っ払っているみたいじゃないか。今日はあれだよ、休肝日ってやつだよ。最近流行りなんだろう?」
百万鬼夜行の一件以来、萃香は博麗神社に居候している。
「鬼のくせになにが休肝日よ。梅雨の間、朝から晩まで呑んだくれていた奴がよく言うわ……まさか一年分の酒樽がひと月で空になるなんて思わなかった」
「向こう十年分は溜めこんでるくせに」
「あんたのせいで来年の春にはなくなっちゃいそうなの! 冬にはいっぱい仕込まないと……」
ぶつぶつと言いながら霊夢は境内を掃き始める。萃香が《密と疎を操る程度の能力》で手伝ってやろうかと言ったことがあるが、霊夢はそれを断ってこう言った。
「自分の手で汚れを落とすことに意味があるの」
さぼりたがりのくせに、高野山の修行僧のようなことを言うな、と萃香は思った。
石畳に張り付く濡れた青葉に悪戦苦闘しながら、霊夢は境内の掃除を進める。長く伸ばした艶やかな黒髪が、動くたびに揺れている。
萃香はその様子を視界の端にとらえながら、ぼんやりと青空を眺めていた。
梅雨明けの抜けるような青空は、千年前と同じ色をしていた。
胸元と頭に着けた蒐色のリボンをいじる。今では、萃香は水干ではなくシャツとスカートを着用して、裸足ではなく靴を履いている。だが、この蝶だけは変わらずに着けていた。
幻想郷には外界で失われたものが流れ着くというから、あるいはあれが千年前の空なのかもしれない、などと考えて、萃香は苦笑した。
さすがにそれは、夢の見過ぎというものだ。
酒が切れているせいにした。
「へえ、あんたでもそんな顔するんだ」
いつの間にか萃香の隣に霊夢が現れていて、にやにやと嫌らしい笑みを浮かべていた。将棋を指していて頓死の筋を見つけたときのような表情であった。
「まるで昔の男でも思い出しているみたいだったわよ」
「おっ、よく分かったね」
萃香がそう言うと、霊夢は途端に胡散臭い物を見るような目になった。
うら若き乙女がしていい顔ではない。
「なんだいその顔は。わたしだって恋の一つや二つ、しているのさ」
「あんたみたいな幼児を好きになる男なんているもんですか。嘘ならもっとうまくつきなさいよ」
「嘘? 嘘は大嫌いだと言っただろ! 我ら鬼が嘘などつくものか!」
「あー、そんなこと言ってたわね。嘘に嫌な思い出でもあるの?」
霊夢にそう尋ねられて、萃香は複雑な表情になった。
「ん? んんー……」
目を伏せて、綺麗になった境内を見た。
面を上げて、千年前と同じ色をした青空を見た。
それから、首の力を抜いた。
「いや……良い、思い出だったよ」
と萃香は言った。
「……そ。良い思い出だって言えるのなら、それでいいじゃない」
そう言って、紅白の巫女は、箒を担いで納屋へと消えた。
まったくあの巫女は、なにも考えていないようでいて鋭く、そっけないようでいて気が回る。
あの安倍晴明よりも末恐ろしいな、と萃香は思い、苦笑した。
「さァて、と」
裏の縁側で一杯やろうと思い立ち、萃香は賽銭箱から飛び降りた。亜麻色の髪を一本抜いて分け身を作り出し、つまみを取りにやらせた。また霊夢が文句を言うのだろうな、と思った。
裏に回ろうとしたところで、萃香はなんとなく振り返った。
この境内では、ついこの間まで、三日に一度、人妖入り混じっての宴会が催されていた。
萃香が人も妖怪も分け隔てなく萃めて宴会を開かせていたのだ。
人と妖怪とが仲良く陽気に騒ぐ、よい宴会であった。
博麗神社の境内は、まだ少し濡れていて、陽光できらきらと輝いていた。
萃香は嬉しそうに、しかし少しだけ寂しそうに、微笑んだ。
それから、踵を返して裏の縁側へと向かった。
梅雨が明けた。
日差しはいよいよ強くなり、空も山もいっそう青くなるだろう。
かつて過ごした時は戻らず、しかし季節は繰り返す。
今年もまた、夏が始まった。
東方恋鬼異聞 了
やっぱ切ないですねぇ…
でもとても良いお話でした。
ストーリー、文句無し。
キャラクタ、申し分無し。
四章後書き。ごめんなさい、俺にとってはでかいノイズだ。
萃香はよい女だ。綱はよい漢だ。
そんな夢枕節で呟きたくなる、とても素敵なお話でした。
コミケには残念ながら行けないのですが、委託はなさるのでしょうか?
もしして下さるなら1部買わせて戴きますぞ。
綱のその後と、その中で萃香のことを思わせる話が簡潔に書かれていたら猶良かったかも。
人の夢と書いて儚いと読む……。とても切なく、儚く、そして温かい気持ちになれました。
読んでいてここまで泣けたSSは初めてです、ハイ。気持ちとして百点じゃ足りない……。
私も関西在住なので残念ながらコミケに行けないのですが、出来る事なら委託で>>8さんと同様、一冊買わせて頂きたいです。
せつない
この話を読めて本当に良かった。
買って挿絵を見てみたいです
この二人の物語も、自分はきっと忘れません。
委託してくれるのならば速攻で買いに行きます。正直、100点なんて点数じゃ到底足りないので。
ほんと、関西在住はこういう時つらい・・・。
いいお話でした
彼女が地底へ下る話も読んでみたいものです。
一気に全部読んでしまいました。
ものすごく面白かった、とだけ言わせてください。
いっきに読ませて頂きました