※いちおう拙作<Bar, On the Border ~Prelude~>の続編となります。
しかし、ゆかりんの思いつきで、人妖の交流という名目で、藍しゃまがバーテンダーをやらされてるのかー、そうなのかー、と認識頂ければ問題なく読めます。
―――――
Bar, On the Border始まって以来の不祥事は、何の変哲もない、とあるお得意様の来店から始まった。
もっともあれは、不祥事といっても防ぎようのない、事故のようなものだったが。
「お邪魔するよ、マスター」
「いらっしゃいませ。今日も飲んでいかれますか?」
「もちろんさね。仕事終わりの一杯、労働者の特権だよ」
扉からすべりこむように入り込んできた立ち姿は、華奢な少女のよう。
深緑の複雑な意匠の1つなぎに、地獄の業火のような真紅のおさげ。目を引く黒炭色の2本の尻尾。
その名の頭にも火を冠する、火焔猫燐だった。
「注文はいつものもので?」
「あぁね、今日はちょっとミルク多めで頼むよ」
「かしこまりました」
幻想郷において珍しい、洋酒を扱うこのお店。
使っているボトルの少なくない数を、地霊殿に造ってもらっていた。
需要の少ない一方で、必要な酒類は多数。
多くの労働力を有し、それも彼らを無給で働かせられるという、地霊殿の特殊な有り様でなければ運営は困難だった。
最悪、紫様が外界から入手するという手があったが、それでは採算を取るために、値段を引き上げるしかない。
どうして利の薄い協力をしてくれるのかと訊ねれば、人妖の交流を進めたいという、紫さんの理想に惹かれたのですよ、とはさとり様の言だった。
「今日もありがとうございました」
「いやね、こっちもさとり様のご命令だからね。感謝される筋合いはないってものよ」
「それでも、感謝の気持ちを込めてつくらせて頂きますよ」
そう言いながら私は、手を動かして材料を用意している。
真っ黒のずっしりとしたボトルの、ベイリーズ・リキュール。
牛乳を取り出し、後はオールド・ファッションド・グラスも準備。
「しかし前から不思議に思っているのですが、あれだけのボトル、地霊殿からお持ちするのは大変では?」
地霊殿で造られた各種酒は、さとり様のペットによって届けられる。
そこまでしていただかなくてもというところだが、さとり様曰く、ペット達が地上に出る機会にもなって、むしろ好都合とのこと。
それで様々なペットが届けに来てくれるのだが、概ね人型であることに慣れており、言語にも不安のない燐や空であることが多かった。
特に燐に関しては、この店の愛好者でもあり、こうしてボトルを届けに来た後に、一杯ひっかけていくのがいつもの流れだった。
ただ私が懸念していたのは、この配達の業務、かなりの重労働ではないかということだ。
一度の配達で運ばれるボトルの数は、せいぜい10本程度。
だが距離が問題である。
妖怪がいくら身体能力に優れるとは言え、誰もが怪力無双というわけではない。
かくいう私も、元が獣であるせいか、妖力を練ることなしには、せいぜい人間の力自慢程度だ。
そしてもちろん、妖力を用い続けることは疲れる。
「ああそのことかい。まあだいたい届けに来る連中は、力がありそうな奴じゃないかい」
「ええ、まあ。ただ……」
「あたいのことかい? まあ確かに地の力は強くないね」
燐の話を聞きながら、カクテルを完成させてゆく。
といっても、非常に簡単なビルドカクテルだ。
まずグラスに氷を。
そこにメジャーで図りとったベイリーズを30ml注ぐ。
そして牛乳を適量加えてステアすれば、ベイリーズ・ミルクの完成である。
乳成分が付着したメジャーとバー・スプーンを、一手間掛けて水洗いしなければならない。
それが故に、ちょっと面倒なカクテルだということは、バーテンダーのスキマに投じる独り言だ。
「それでは苦労なさっているのでは?」
そう言いながら、カウンターの上にベイリーズ・ミルクを置く。
ベイリーズはクリームにアイリッシュ・ウィスキー、チョコやバニラなんかを混ぜた、デザートのようなリキュールだ。
牛乳で割れば、ウィスキーの癖を加えた濃厚なココアのような味となる。
見た目もココアそのもので、女性でも飲みやすい。
「うんにゃ。あたいは妖力で物運びするのに慣れてるのさ。あたいがそもそも、何の妖怪だか知ってるかい?」
「火車猫……ああ、そういうことですか」
合点の言った私は、布巾で手元を吹きながら笑みを浮かべた。
「そうさ。もともとあたいは、罪深い人間の亡骸をかっさらって、閻魔様の裁きも受けさせず、灼熱地獄に突き落とす妖怪だからねぇ。魂は輪廻を離れて怨霊さ。まあ魂が離れた後の死体だけを狙う穏健派や、死神の下請けじみたことをするやつもいたけどね。かくいうあたいも、灼熱地獄の管理なんて面倒を仰せつかってからは、許可された死体ばかりを扱う、運び屋に成り下がりさ」
グラスを片手で握り締め、ややうつむき加減にきゅっと目を閉じてしみじみと語る。
そこで溜飲を下げるとばかりにくっとグラスを傾け、半分まで一気に飲み干す。
はーっ、と、溜息とともに下げられたおもては、やや出来上がった労働者の表情をしていた。
まったく、顔に似合わず苦労している様子だ。
「しかしさね、マスター。時にはあたいだって、もとの妖怪の意義に立ち返りたくなることもある。だって妖怪ってもんは、そういうもんだって有り様が、そのまま存在そのものなんだから。忘れたら終わりってもんさ」
よくしゃべってくれるお客様への接客は、私もかなり楽しい。
私は燐の妖怪談義に相槌を返しながら、しばしの小休止と決め込んでいた。
―――――
その事件の2人目の立会人は、燐が入店しておよそ半刻後に現れた。
「邪魔するよ、マスター」
奇しくも燐と、全く変わりない挨拶だった。
「にゃ……こりゃあまた、嫌な奴が来たもんさね」
「ん、あたいだってそう思ったところさ」
自らを“あたい”と呼ぶ、特徴のある語り口に、頭の上で2つにまとめた深紅の頭髪。
燐と対照的なのは、男性の平均に迫ろうかという長身と、肉付きのいいがっしりとした体格。
健康的に日に焼けたその人は、幻想郷の船頭死神、小野塚小町だった。
「マスター、一杯頼むよ」
「かしこまりました。何を飲まれますか?」
「そうさね、バーボンをショットでもらおうか」
「種類はどうなされます?」
「う~ん……ワイルド・ターキーで頼むよ」
「かしこまりました」
七面鳥が印刷された、1目でそれと分かるボトルがワイルド・ターキーだ。
冷凍庫からショット・グラスを取り出して、メジャーで量りとって30ml。
ちらと小町の姿を確認して、酒好きだろうお客様のために、もう30ml注いでダブルとしておいた。
「はいどうぞ、ワイルド・ターキーです」
「12m年ものかぁ、ありがたいねぇ」
「お詳しいので?」
「あぁ、中有の道に出る出店は、幻想郷とは商品の並びが異なるからねぇ。結構外の物にも詳しいのさ」
「なるほど」
ワイルド・ターキーはバーボン・ウィスキーに分類され、トウモロコシを主に原料としている。
度数は50.5%
深みのある琥珀色と、火で焙ったような煙っぽい味わいは、熟成の際に用いる樽の内側を、焼き焦がすことによって生まれるらしい。
飲食に用いるものを焼き焦がすというのは、なんとも意外な発想だが、お酒の製法は奥が深いとしか言いようがない。
そのバーボン・ウィスキーを受け取った船頭死神は、それがアルコール度数の高いものとは思われない、あっけない飲みっぷりで杯を空けた。
グラスをカウンターに戻しての、満足げな微笑み。
それを呆れたような顔で横から見つめているのは、2杯目にカルーア・ミルクを飲んでいた火車猫だ。
「あぁあぁ、鬼に飲ませるようなもんさね。高い酒がもったいない」
「ふふん、お菓子感覚で飲んでる奴にゃ分からないってもんよ。この醍醐味は。疲れた体に強いお酒を、くいっとね」
「む……じじ臭いこと言ってらあ」
しかし先ほどからの、棘があるとまでは言わないも、どこか互いをやりこめんばかりの遣り取りだ。
何か因縁でもあるのか……。
長く生きていれば、対立の1つや2つあるものだし、そう悪いこととも思わない。
けれど、カウンターの前に座っているお客様に対しては、少しでも気分良く飲んで欲しいというのが心情というものだ。
この、どこか飄々として相手を小馬鹿にしたような死神と、やや目線を鋭くさせている化け猫に対し、私は牽制の布石を打っておくことにする。
「お2人はお知り合いなので?」
まずはそこからだ。
第一に情報収集。
そして分析を行い、然るべき策を講じる。
2人で会話させずに私が間に入れば、少しは緩衝になるだろうという対処療法でもある。
対して2人は、きょとんと不思議そうな表情を数瞬見せた後、互いの顔を見遣って笑みを浮かべた。
こいつと言えばねぇとばかりの、苦笑を無理に明るくしたような口角を吊り上げての笑い。
「いやね、こいつは、商売敵なのさ」
「そうそう」
「私が普段何やってるか知ってるかい?」
最初に応えてくれたのは、小町のほうだった。
燐はというと、小町の“商売敵”という言葉に、腕を組んで2度3度と頷いている。
さて商売敵か。
ヒントは出してくれそうであるし、とりあえず小町の質問に答えることにする。
「存じております。幻想郷の外れにある、三途の川の渡し守。いわゆる船頭死神でございますね」
「うんうん、その通り、基本的にあたいの仕事は、死者の霊を此岸から彼岸へ渡すことさ」
「さようで」
「けれど、死神ってやつの仕事はそればかりじゃない。ほかにもいくつか職種はあるのさ。閻魔を手伝う事務方だったり、寿命を管理したりする仕事だったり。そしてこいつとぶつかるのがお迎えのお仕事さ」
なるほど。
ここまでの情報提供で、既に話は読めていた。
2人は商売敵。
それもそうだろう。
「あたいら火車猫は霊が離れないままの死体を狙う。死神は霊を彼岸に連れて行こうとする。ようするにあたいらは競争関係にあるのさね」
「まああたいは船頭死神で、こいつは大きく見れば閻魔下請けの火車猫。管轄外の、それも味方っちゃ味方ってとこだが、種族間のもやもやってもんはあるからねぇ」
燐もうんうんと頷く。
なんだか意地悪なやり取りが遊戯のようにも思われる、補い合っての解説だった。
ならば2人は本当に対立しているというわけではないのだろう。
心配したのは杞憂だったか。
「そうでしたか。それではゆっくりとこの時間を楽しまれてください。せっかくなのですから、お互いの理解を深めるような方向で」
だから苦笑を交えながら、いちおうの釘はさしてみる。
痛し痒しというところか、2人そろって肩をすくめながら笑ってみせてくれたのが、なんとも愉快な映像だった。
―――――
2人はそれから、思い出したように幻想郷の死人事情について語り合ったり、ぼんやり自分の時間を過ごしたりとしていた。
そして小町が来店して四半刻も過ぎた頃、最後の当事者が現れた。
「……お邪魔します」
そのやや低い声にも、引き締まった精悍な顔立ちにも馴染みがある。
「これは……お久しぶりです。いらっしゃいませ」
「ああ。一杯もらうよ」
「仕事終わりですか?」
「いや、今日は所要でこちらに出向いたもんでな」
彼は外れの集落で用心棒をしているという、人間の男性で、主に護衛を生業としているらしかった。
ここ数年で、幻想郷はすっかり平和の観を見せているとはいえ、まだまだ人間にとって危険が多いことに変わりない。
人里を離れれば、そこは妖怪の土地であるし、とって食われるとまではいかないまでも、辛辣な悪ふざけにさらされる可能性は高い。
女性や老人にとってみれば、妖精の悪戯であっても十分な脅威だ。
それらが回避されたとしても、野犬の類に出くわすことはあるし、稀だが野党が潜んでいることもある。
だからして、大きな里には自警団。
離れの集落のようなところには用心棒のような存在がいて、人々の安全を守っているというわけだ。
彼もそんな用心棒の1人であり、この人里が幻想郷で最も大きい人里である以上、この里に出入りすることも多いそうだった。
さしもの彼も、逢魔が刻を過ぎた夜半に集落に戻ることは出来ない。
というわけで、この里の宿で寝付くまでの間、ささやかな労いの杯を受けに来ているというわけだ。
ただ今日のところは、それとは別の用事とのことだったが。
「……この綺麗なお嬢さん方は、ご一緒されているのではないので? 間に座っちまいますぜ」
「どうぞどうぞ」
「きゃん、お嬢さんだなんて、嬉しいねぇ」
喜びどころは“綺麗”ではなく“お嬢さん”なのかと思ったが、口には出さなかった。
わざとらしく手を頬に当ててしなをつくっている小町と、やや酔いがまわってにやにやしている燐は、カウンターの端と端に座っていた。
それでいて互いに向き合って会話しているのだから、彼がとまどうのも無理はない。
彼はやや遠慮したような苦笑を浮かべながら、7つある席の真ん中、私の正面に腰掛けた。
「さて、何を飲もうか」
呟かれる言葉は、耳に心地よい朗々とした声である。
さすが用心棒をしているだけあって、浅黒く日焼けした身体は、服の上からでも筋骨たくましいことが分かる。
その割には髭も薄く、髪は整えられており、清潔感があるところに好感を抱けた。
用心棒と言われると保守的な印象があるが、このような妖怪が経営する、風変わりな店をひいきにする辺り、好奇心旺盛なのかもしれない。
そう多くを口にする方ではなく、2、3昨今の妖怪関係について交わして静かに飲んでいる時もあるが、居合わせた客と談笑していることもあり、バーテンダーとしては実に迎えやすい客と言える。
そして何より大事なことは、数少ない人間のお得意様ということである。
「う~む……どうにも今日は、決まらねぇなぁ…」
悩んでいるらしかった。
来店当初は用意してある品書きを見て注文していた彼だが、今ではそらでお気に入りを注文できるようになっている。
とはいえ悩む日もあるだろう。
別段客をせかして売り上げを上げようという店でもないし、注文も後からでも構わなかった。
「お、決まらないのかい、あんた」
これと思える一杯が浮かぶまで、黙って待っていようと思った私だが、同席していた客のほうは、もっと気を遣いたいようだった。
2杯目に注文していたハーパーのロックを手に持ちながら、小町は話しかける。
「だったらなんか、あたいがお勧めしてあげようか」
「んん、それはまた」
「あんただって、こんな綺麗なお姉さんに勧めてもらえるんだ。悪い気はしないだろう?」
「ん……ふっ、はっはっはっ、確かにそうだな。じゃあ何か勧めてもらおうか」
やはり自身がお嬢さんと言い難いことは、自覚しているようだった。
小町はその人懐っこそうな顔を彼の方へと向けたまま、やや下から伺うような目線を見せた後、にへらっ、と笑って見せた。
「その前に、あんた」
「ん?」
「何かいちもつ抱えてるんじゃないかい? あたいはこう見えても、そんな輩をたくさん相手する仕事をしててね。あんたに何か思うところがあるって、お見通しなのさ」
「……ほう」
これは面白いことになった。
私自身としては、彼に何か変わったところがあるようには見えなかったが、小町は何か気づいたらしい。
「ほら、それを教えてくれるとさ、あたいも勧め甲斐があるってもんじゃないか。せっかくの酒の席だ。何かあるなら話しちまいなよ」
「……いや驚いた。確かに何もないというわけじゃない。だが顔に出してたつもりはないんだがな。分かるもんなのかい?」
「あぁ、こちとら一癖も二癖もあるような客を相手してるからね。自然と分かっちまうのさ」
以前にもこんなことがあった。
確かあれは、開店して間もない頃、さとり様がいらっしゃった時だ。
あの時さとり様は、居合わせた客の心を読み、話を聞いた上で、それに合うカクテルを勧めていた。
それどころかカクテルを暗喩として、話を前向きなほうへと導き、なかば悩みを解消するようなことまでしていた。
あの時は非常に勉強になったものだが、この小町もまた、良い会話術を披露してくれるかもしれない。
なんといってもこのお調子者は、死を過ぎて紡がれる、亡者の悲しみ嘆きを耳にして、常に笑みを絶やさず最後まで語らせるというではないか。
どのような恨み辛みも、聞き出せる懐の深さがあるのだろう。
興味深いところだ。
ただふと気になって燐の方を伺うと、案外彼女もこの成り行きを楽しんでいる様子だった。
会話の輪から締め出されて、気分を悪くしてないかとも思ったが、そんなこともないらしい。
私はその態度に少し違和感を覚えたが、まあ彼女もおそらく、お手並み拝見とでも言った心持なのかもしれない。
「そうだな……といってもよくある話さ。昔のダチが、死んじまってね」
「それで今日はこちらに?」
「まあ、そんなところだ」
私も会話の内に入っておくことにする。
なるほど、友人が死んだといわれて見れば、普段より上等な着物を着ている。
そういえば今日は日曜日だし、葬式があったのだろうか。
一瞬、塩でも盛っておこうかと思ったが、わざわざそんなことをするまでもないと、すぐに案を棄却する。
そもそも客が死神に火車猫なのだ。
穢れうんぬん言い出せば切りがない。
「そいつはどんな奴だったんだい?」
問いかけたのは小町だ。
相変わらずのにやけ笑いであるが、先ほどまでとは違い、ぐっと表情に深みが出たような気がする。
これが話を聞く態度という奴なのだろうか。
そんな小町の表情を見ながら、彼も朴訥そうな表情から一転、目元に少しの陰を落として苦笑いをしている。
「一言で言えば、立派なやつだったよ」
少し背をそらせ、腕を組んで話し始めた彼は、懐かしむようにどこか遠い目をしていた。
「自警団の長を務めていてな、いつも冷静沈着で、物事に応じないやつだった。その癖頭の切れる奴でな。ちょっととっつきにくい奴だったが、まあ人当たりは良かった」
誇らしげに、けれど悲しげに、彼は思い出を陳列するように一定の調子で語った。
「俺の後から入ってきたというのに、全く敵う気がしなかったよ。前自警団長にも気に入られてな。結局、自警団皆の憧れみたいな存在だった、前団長のお嬢さんを嫁にもらってな。それはめでたいことだったぜ」
そういえば聞いたことがある。
この人里の自警団長は、眉目秀麗ながら剣術に優れ、また若いながら集団を率いて統率力に秀でると。
そうだとすれば、惜しい人材を失ったというものだった。
確かにこの里は上白沢慧音、それに稗田家の存在もあり、統率者に困るということはない。
それでもただでさえ妖怪に対して肩身の狭い人間達であるのだ。
傑物は1人でも多いほうがいい。
とはいえ、現実に存在する諸々の危険に、流行病や野山の災害。
このようなことは、珍しいことではないのだ。
「まったく、人の運命ってやつをどの神様が握ってるか知らねぇが、酷なものだと思うぜ……本当にな」
その思いは彼も同じらしく、嘱望される人の早過ぎる死に、心を痛めているらしい。
小町も今は黙って彼の話に耳を傾け、ただいくつか話の合間に相槌を重ねていた。
「俺はそいつと仲が良かったし、まあ親友と呼べたかな。それで前団長のお嬢さんも連れて3人で、よく飲み歩いたり語らったりしたもんだよ。あの頃は、楽しかった……今はもう、全部思い出だけになっちまったけどな」
「なるほどねぇ」
小町も感慨深そうな表情だ。
話をして、こんな表情を浮かべてもらえるなら、語り手は冥利につきるというものかもしれない。
彼も思い起こすところがあったのか、その顔は俯き加減となり、悲しみを漂わせているようだった。
「その3人で過ごした日々は、あんたの宝物かい?」
「ああ、…………今となっては遠く、懐かしい、どれほど手を伸ばしても届かない……郷愁だな」
「そうかい」
そう小さく呟いた小町は、手にしたグラスを口元にもっていき、軽く一口あおった。
「よし。あんたにお勧めするカクテルが決まったよ」
「それはありがたいな。そろそろ一杯口にしたいところだ」
「ああ、確かに待たせた形になったかねぇ。まぁ何はともあれ。マスター。お兄さんにモスコミュールを造ってくれないか」
「かしこまりました」
モスコミュールか。
先ほどからウィスキーを飲み続けている小町のイメージからは、意外なカクテルの名が出たものだ。
私はさっそく銅製のマグカップを用意して、そこに氷を詰める。
ウォッカは定番のスミノフ・ウォッカを使うことにする。
ボトルにはSMIRNOFFの文字と、双頭の鷲の紋章。
透明なボトルに紺を思わせる濃青色が、冴え冴えとして映えている。
量りとって45ml。
ライム・ジュースを15ml注ぎ、ジンジャー・エールで満たす。
バー・スプーンをさしこんで、氷を崩さないよう軽くステアをすれば完成だ。
「どうぞ、モスコミュールです」
「ありがとう」
彼はグラスを受け取ると、それを手にしたまま小町の方を伺った。
ここは乾杯したものか、そんなことを思ったのだろうが、気にするなという風に小町が手を顔の横で振ったので、そうはならなかった。
次いで彼は、律儀に燐の方を振り向いたが、燐も杯を掲げて彼に応えた。
「じゃあ、頂くかな」
「ああ、口に合えばいいがねぇ」
そして彼がグラスに口をつけたところで、小町がそれを勧めた理由を語り始めた。
「モスコミュールってカクテルは、なんでも3人の友人が協力して創ったそうじゃないか。そいつに入ってるお酒と、割っているジュース、それぞれ造ってたダチ公に、それとその銅製の杯を造ってた女友達。一緒に宣伝したりして、それこそ定番のカクテルに成長したらしい」
小町の説明には、一部厳密には違う部分があるが、大筋に誤りはない。
その言葉の通り、3人の友情が生んだカクテルとも言われるもので、非常に良く飲まれるカクテルだ。
ちなみに名の由来はモスコー・ミュールで、モスクワのラバという意味らしい。
モスクワとは外界の大都市の名前だというが、このカクテルの生まれた国の中心都市。
そしてラバはというと、馬に良く似た動物で、やや大人しそうな見かけながら、驚くと後ろ足を蹴り上げる獰猛さも持っているらしい。
見かけによらない力強さ、つまり、見かけや味によらない度数の強さということで、ミュールというわけだ。
「さっきの話を聞くに、あんたと自警団長、そしてその奥さんとは気の置けない仲だったんだろう。だったらこの甘口のカクテル、その逸話といい、うってつけじゃないか?」
「……そうだな、確かに悪くない。ありがとう死神さん、こんなり振り返り方も悪くは……」
「おおっと、ちょいと待ってもらおうか」
いきなりの割り込みだった。
言葉を発したのは、今の今まで傍観に徹していた燐。
その表情は壮絶とも評したくなるほどのにやけ顔で、皮肉の香辛料がたっぷりと振りかけられていた。
いったいなんだというのか。
「えらく綺麗な美談にまとめたけどねぇ、本当にそれでいいのかい?」
確かに絵に描いたような美談でまとまったきらいはある。
それでも死んだ人間にたむける話などそんなものだし、わざわざ露悪的な話にする必要も無い。
カウンターの向こうを見やれば、いつもの笑顔に多少の苛立ちを伺わせる小町に、やや憮然とした表情の彼。
そしてあっけに取られている私を尻目に。燐は指差すかのように手にしたグラスをこちらに向けながら、後を続けた。
「そもそもそのモスコミュール。この店で使っているのはジンジャー・エールじゃないのかい。本当のモスコミュールに入れるのは、辛口のジンジャー・ビア。あんたが今飲んでるのは甘ったるい模造品さ」
なん、と。
驚いた。
なぜかというと、その指摘は全く持って正しいものだったからだ。
先ほどの小町の説明の、唯一の誤り。
それがジンジャー・ドリンクに関する内容だ。
ジンジャー・エールはショウガ汁に各種甘味成分、炭酸を加えた飲み物で、さっぱりとした甘い味わいが特徴だ。
しかしそれは製造法と味の調整によるもので。もっと原料の風味を残した製法も存在する。
それがジンジャー・ビアだ。
その製法とは、ショウガ汁に砂糖とドライ・イーストを加えて発酵。
ジンジャー・エールと比べて、ショウガの風味が強く残る、クセの強い甘辛い味わいとなる。
「友達がそのカクテルに投じた味は、ジンジャー・エールとはもっと別のものなのさ。本当のモスコミュールは甘いだけのカクテルじゃない。酸いも苦味も存在する、難しい味さね」
少しの間。
息継ぎを入れて、呼吸を整える数秒。
そして燐は、目を爛々と輝かしながらそれを暴いた。
「あんた、その娘さんを愛していたんじゃないのかい?」
すうっ、と、息が吸い込まれるような気配があった。
カウンター越しの隣を見れば、表情の抜け落ちた彼の顔。
さらに振り返れば、小町の苦々しげな様子。
「簡単な推理さね。さっきのあんたの話に、わざわざ娘さんを登場させる必要があったのかい? 男と男の友情を語るに、3人目は蛇足というもんさね。だとすれば、娘さんの存在は、あんたと、あんたにとっての彼にとって重要だということ。そしてそんな関係の有り様として、一番よくあるのは三角関係というやつさね」
「………」
彼は黙して語らない。
しかし、もし異であるならば、破顔してしまうような戯言だ。
沈黙という名の肯定。
もはや、ごまかすことも出来そうになかった。
「……その、通りだ」
しばしの重い間の後に、彼は搾り出すような低音で応えた。
「確かに俺は娘さんに好意を寄せていた。あいつが好意を抱くようになる、ずっと前からな」
「はいな、それでそれで」
「ちっ、底まで話せってか? ……それもいわゆる幼馴染というやつだよ。俺は親の代からの自警団員で、前自警団長の家とは親交が深かった。小さい頃からの身近な異性。仲もすこぶるよかったよ。両親が病で早死にしてからはさらにな」
「けれどうまくいかなかったのですか?」
とは私だ。
最近どうも、このような恋路を辿るお客様が多いような気がする。
かつて多くの男を堕落させた、私に対する神のあてつけだろうかと考えてしまうが、妖怪である私が、そのような人格神に思いを馳せるのも、おかしなものだろう。
「近いからってうまくいくもんじゃないのさ。マスターはそのへん、詳しいんじゃねぇのか?」
「えぇ、まぁ……そうですね。確かに実際は、そうであることも多いようで」
私の由来をある程度知っての上で、彼もそんな言葉を返してくる。
恋というのは少数を除いて、憧れていたいものなのだ。
「ちょいと待っておくれよ。けれど、そこらへんは男同士、きっちりケジメつけて、さっぱり割り切ってというわけじゃないのかい? だったらそんな間違いみたいな言い方しな――」
「にゃい……どうなんだい、お兄さん。割り切れるような話なのかい?」
小町の問いに燐が割ってはいる。
けれどその目は、嬉々として細められていて、まるでこれから彼が応える内容が、彼女の期待にそぐうことを知っているかのようだった。
「む……」
自然、私達の視線が彼に集まる。
彼は一度私達の顔を見回し、適当にごまかせないと理解すると、溜息をついて話を続けた。
「まぁそうだな……割り切れるような話にはならなかった」
「ふふ、にゃあい♪」
「………」
それぞれの反応を返す燐と小町。
彼は言い難そうな表情のまま、苦々しげに続ける。
「そもそも俺とあいつは仲がよかったからな。その点、あいつが言いにくかったのも分かる。俺の想いを、あいつはよく知っていたからな。だから隠されてた。おまけに明かされ方も、まるで騙まし討ちだった。自警団のことで相談があると呼ばれ、彼女への想いの話となり、もしそんな彼女に伴侶が生まれても、自警団の業務はきちんと続けていくよなと、いくつも釘を刺された。あげく、家へと帰る道すがら、別れ際に真相を明かして立ち去りやがる。喧嘩にもならんかった」
「なるほどねぇ」
「言い辛かった。彼女に負担を掛けたくなかったとも分かる。しかしその後、俺と娘さんの仲が良いのを気にし、自警団内でも圧力を受け、そうこうしてるうちに娘さんもあいつを味方して俺を責めるようになった。なんだかんだ俺は、自警団内の若衆に慕われててな、一時期あいつを悪く言う雰囲気もあった。何よりあいつと娘さんの縁談は、話題に乗せるのも憚られた」
淡々と述べられていく、陰の濃厚な昔語り。
浅黒く精悍な顔立ちは、なお大らかさを留めてはいるが、その眉目は険しい。
彼が慕われる性分であるのは分かる。
面倒見がよく、気さくで、適度におざなりであり、何より不器用に誠実だ。
下のものからすれば、遠からず身近で、それでいて頼れる。
「だからもう、とてもじゃないが自警団内にいられなくなってな。もとより身寄りのない身。里を辞して、辺鄙な集落で用心棒暮らしだ。村の皆にも重宝されて、悪くはないがよ……」
「……けれど、自警団にいたかった?」
「……ああ、そうだな。それが何よりの後悔だ。あそこは俺にとって、家族に等しい場だった」
恐らく喪失は恋に留まらないのだろう。
両親を早くに亡くしたという話は聞いていた。
とすれば彼にとって自警団とは、第二の家族のような場ではなかったのだろうか。
そこに来て、親友と言えるような者の冷たい態度。
加えての、自身が自警団内に軋轢を生んでいるという自責。
彼が真に失ったのは、恋というよりも、娘さんも含めて自分がそこにいられるという、居場所だったのではないだろうか。
「なんにせよ昔の話だ。いくら悔いを噛み締めたところで、還ってくるものは何もない。こんなものは、酒でも飲んで忘れたほうが吉だ」
「にゃは、確かにそうだねぇ兄さん。いい話を聞かせてもらったよ。それじゃああいたも、兄さんに勧めるカクテルを決めようとするかね」
そう言って燐は、少し間を置くと、実は私も思い浮かべていたカクテルの名を述べた。
「マスター。ギブソンをお願いするよ」
「……かしこまりました」
あまりにあからさまな選択に、私の応答もいかばかりか歯切れ悪くなる。
このギブソン、まさに“ふさわしい”カクテルなのだ。
「にゃ♪ お兄さん、このカクテル、それが表すのは嫉妬だよ」
冷えたカクテル・グラスにミキシング・グラス。
ミキシング・グラスに氷を詰めて、ボンベイ・サファイア・ジンを60ml。
ドライ・ベルモットを10ml注ぐ。
「このカクテルはなんでも、ある絵描きの名前らしいんだけどねぇ、その絵描きの書く女絵があまりに美しくて、世の男がみんな心を奪われたそうさね」
バー・スプーンを差し込み、氷を割らないよう軽くステア。
ストレーナーを被せてグラスに注ぐ。
そして最後に投じるのが、カクテル・ピンを刺した純白のパール・オニオンだ。
「この綺麗なちっちゃい丸っこいの、実はたまねぎなんだけど、女の柔肌のようじゃないかい?」
グラスの底を軽くおして、彼の方へと差し出す。
「だから、その絵描きの絵をネタにしているというわけで、世の女の嫉妬が向けられたカクテル。それがこのギブソンというわけさ」
ちなみに味はドライ・マティーニとほぼ一緒であり、ジンの怜悧な辛味にベルモットの甘みが少し感じられる。
「さあどうぞ、この一杯もご馳走するよ」
「……あぁ、頂くとするよ」
彼は曇った表情のままグラスの柄を掴むと、壊れ物を扱うかのように、そっと口付けた。
一息に一杯。
乱暴な飲み方では全く無く、むしろ静謐さえ湛えていたが、すぐにグラスは空になった。
「ふぅ……苦いな」
「にゃい」
「しかし……このほのかな甘みが、まるで未練のようだな」
「ふふ、にゃい」
「これはまた……お嬢さんに一本とられたな」
「礼にはおよばないさね。思い出はありのままが一番。偽りの甘みでごまかすなんて、不自然さ。暗い思いは、暗いままがいい。まあお兄さん、今夜は付き合ったげるよ。……ふふ」
店内にはやや暗い空気がのしかかり、小町はというと、不機嫌な顔を隠さずグラスをちびちび傾けていた。
彼はぼうと遠くを見つめ、燐だけがにこにこと楽しそうな表情を浮かべている。
結局彼の思い出とは、なんだったのだろうか。
それは苦いだけのものなのか?
そんなわけはないはずだ。
なぜなら彼は、親友の死を悼んでいる。
本当に憎んでいるのなら、葬式に出向くこともないし、そうでなくとも、感傷のまま飲酒に興じたりはしない。
何かあるはずだ。
まだこれは、確定の割り切り方ではない。
このところ来店されたお客様との、交流を思い出す。
そうだ、物事の本質を、バーテンダーは変えられない。
けれど、偏向を加えることはできる。
それも感情に訴えかけるような、とびっきりの瀟洒な対応で。
何か、彼の捉え方を変えられるような、そんな一杯を―――
「お客様」
頭に必然のカクテルが思い浮かんだとき、私はもう彼に声をかけていた。
「ん?」
「このお勧め合戦。マスターである私が参加しなければ、不十分というものでしょう。私からもご馳走しますので、もう一杯飲まれては」
「お、おう。ただ酒ならば、大歓迎だが」
少し驚いた様子。
燐と小町も、私の態度に目を見開いている。
それもそうだろう。
これまで私は、カウンターの前で繰り広げられることの、完全な傍観者だった。
けれど、バーテンダーはそればかりではない。
今からは私の、彼の悲しい物語への、ささやかな反抗の番手だ。
カウンターの上に、挑戦状のようにボトルを並べていく。
カナディアン・クラブにノイリー・プラット。
そして焼き焦がした琥珀を思わせる、長身のカンパリ
ミキシング・グラスに氷を詰めて、そこにライ・ウィスキー、ドライ・ベルモット、カンパリをそれぞれ20mlずつ注いでいく。
軽いステアの後に、ストレーナーを被せてカクテル・グラスに注ぐ。
朝焼け色の液体が、線となって零れ落ち、グラスをほの赤く満たしていく。
「どうぞ、オールド・パルです」
「ほう」
「この国の言葉で、“古き友”、です」
「………」
とたん、グラスの柄へと延ばされていた彼の手の先が、ぴくりと動いてその場に留まる。
表情を伺えば、やや困惑した様子。
脇を見遣れば、小町の興味深げな目元と、燐のにやけ顔がこちらを見ていた。
「古き友、か……間違いではないが、旧友というには少し、な」
「確かに普通古き友とは、離別した友人のことを言い、ややあなたとご親友との関係にはそぐわないかもしれません」
「ああ、そうだろう」
「けれど、そんなことは言葉の常識。あなたにとって、過去の彼とは間違いなく親友なのでしょう?」
「ううむ……まあそうだが」
腕を組んで受け入れがたい様子を見せる彼。
その表情も険しく、このカクテルを飲むことは困難なように見える。
けれど
「ご親友はお亡くなりになりました」
「……なに?」
「死んでしまったのです。……だから今その人は、あなたの心の内にだけいます」
「??」
分からない様子の彼。
それもそうだろう。
ここまで抽象的な物言いをするのは、自分でも違和感がある。
けれど、だからこそ理解した時に、胸の奥へと滑り込んでくるはずだ。
「ですから、ご親友との物語をどのように解釈し、どのように評価したとしても、誰も覆せないのです」
「………」
「死者を評し、位置づけるのは生者です。もちろん周囲に残された者が多ければ、自然と像は中立的なものとなってきます。ですが、あなたはそうではない」
「……そうだな」
「であれば、彼との過去の思い出だけを鑑み、それをもって良いと片付けてしまっても、誰も責めやしません。良い位置づけも、悪い位置づけも、納得のいくように。……どうせ戻らないのですから」
「なるほどな」
そう言うと彼は、カクテル・グラスを手に取ると、ゆっくりと傾ける。
まずは半杯、味わうような様子で目を瞑っていた。
「甘いかと思えば、そうでもない。どこか香辛料を思わせる酸味もあって、濃厚なようでいてさっぱりしている……よく分からんな」
「ええ、……まさに、“死別した古き友”を思い出すのに、うってつけではないですか」
「“Departed Old Pal”、……とでも言ったところかねぇ」
小町が小さく呟く。
発音の美しさに驚いたが、今は目の前の彼に集中していたかった。
「もう終わってしまった物語。だとすれば、あなたが一番前向きな心持になれる解釈を。……それも恐らく、憎しみよりも過去の友誼の方が重いが故に、それ故に苦しんでいるだろうあなたには、こんな色合いの解釈が良いのでは」
「………ふっ、らしくないな、マスター」
「ええ、そうだと思います」
儚げに、けれど憑き物が落ちたかのように晴れやかな表情を見せた彼は、こちらに向けて微笑んで見せた。
そしてそのまま、カクテルの残りを飲み干す。
どうやら親友に対する思いを、ほんの少しだけ、角の取れたものに出来たようだ。
横を見遣れば、悔しげに燐が唇を噛み締めている。
どちらかというと地獄に属する彼女のことだ。
彼の心持としては、薄暗い結末のほうがよかったのだろう。
種族の性とはいえ、困ったものだ。
対して小町はというと、面白いものを見たとでもいうように、大味な笑顔を浮かべていた。
そして私の視線に気付くと、空になった杯を掲げて、私を讃えてくれているらしかった。
本当に良かった。
慣れない接客に戸惑うことも多かったが、このところはお客様に、良いほんの一押しを提供できているような気がする。
彼も今は穏やかな表情で、過去を振り返っているようだ。
そしてちらと時計を見上げると、彼は優しい声音で言葉を発した。
「む、そろそろ時間だ……マスター、本当にありがとな」
「いえいえ」
「最後の最後で、あいつのこと、少し納得出来たような気がしたぜ」
「それはよかったです」
私も笑みを浮かべる。
「惜しむらくは、もう少し、いや、後1日でも早くマスターに――」
どむっ、
と、極めて物理的な音がして、彼の言葉は遮られた。
乱入者は
「邪魔するぞ。む、なるほどここだったか!」
里の守護者:上白沢慧音だった。
「……慧音殿、いったいどうされました?」
無粋な来訪に、声の温度も自然と下がってしまう。
敬語を崩さなかったのは、せめてもの矜持である。
しかし慧音はというと、そんな私の対応すらも苛立たしいとでも言うように、鼻息荒く言葉を返してきた。
「どうされました、と? それはもちろん、例の事件の犯人を捕まえに来たんだ」
「例の事件?」
「ええい、知らんのか! この里で殺人があったんだぞ。この里の自警団の長だ」
驚いて彼のほうを見遣った。
彼は私の期待を裏切るかのように、額に汗を浮かべ、諦めたような表情をしていた。
「それも生半可な殺し方じゃあない……顔が潰れて、何度も何度も殴りつけたかのように、原型もないほどに叩きつけられていたんだぞ」
そんな……
そんなまさか。
言われて彼の臭いを精査してみる。
丁寧に消臭され、注意しなければ気付かないほどだが、これは……血の臭い?
「そいつが彼に恨みを持っていたことは分かっている。2人が今日一緒にいる姿も目撃されている。後は調べれば分かることだ。来てもらうぞ」
そういうと慧音は、足早にカウンターに歩み寄ると、彼を連行しようとする。
しかし彼は、まるでそれには及ばないとでも言うように、慧音に向かって腕を伸ばすと、そのまま立ち上がった。
「なんだ、抵抗しようとしても、獲物もなしでは私には勝てんぞ」
「いやいや、慧音様にはもとより万全の状態で望んでも勝てやしません。その強さは自警団員の頃から、よおく知ってますぜ」
「だったら――」
「いえ、連行には及ばないというだけですよ。殺したのは確かに俺です。憎んでたんでね、ずっと」
その顔は脂汗にまみれ、立っていることすら辛そうだった。
彼はそのまま、慧音の方から私の方へと向き直ると、切羽詰った様子のまま私に語りかけた。
「マスターの酒、好きだったぜ。なによりこの店の、人妖の壁を取り払おうって姿勢が気に入ってた。なんとなく、どんな間柄でも分かり合えるんじゃないか、そんな気分にさせてくれてな。憎しみに心を食われて、人を失いつつあった俺でもいら、れる――」
そして彼の引き締まった身体が突然弛緩すると、そのまま床へと崩れ落ちた。
慌ててそちら側に回り込もうとする私を制して、小町が彼の傍らに跪く。
「もう死んでいるよ」
「どうやら毒を飲んでたみたいだねぇ。ふんふん……あちゃあ、こりゃこの店に入ったときにはもう飲んでたね。最初から今生の一杯のつもりだったのさ」
それぞれの分析を述べる小町と燐。
燐に至っては愛おしげな手つきで、彼の喉の内や瞳を覗き込んでいる。
その傍らでは慧音が、呆然と立ち尽くしていた。
「じゃあ魂は、このまま連れて行くよ」
「にゃあ~……引き分けじゃないのかい?」
「だとしてもあたいの負けじゃないだろう。せいぜい死体だけで我慢しおくことさ」
「仕方ないねぇ。ま、マスターの勝ちになるなんて思わなかったから、仕方が無いね」
いそいそと帰り支度を始める小町と燐。
さらに燐はというと、身支度に留まらず、彼の死体を麻袋のように担ぎ上げた。
「……お、おい、どうするつもりだ?」
「どうって、役目を果たすだけさね」
「そんなことが許されると――」
「だから、もう死んでるよ。裁くことも出来なければ、懺悔させることもできないさね。そんな死体を捕まえて、どうしようっていうんだい?」
「ぬぬ……」
悔しそうに歯噛みする慧音。
対して小町と燐はというと、飄々として相手にしない態度だった。
「全く、なぜこんなことをしたんだ……。仕方のないことなのだから、身を引き、その者の幸せを祈れば良いというのに…!」
その全く持って正当な発言に、小町と燐が反応した。
「はっ、聞いたかい、お燐」
「にゃい、全く、出来た人間は分かっちゃいないねぇ。酔いが醒めるってもんだよ」
「なんだと!」
掴みかかりそうな様子の慧音を尻目に、燐と小町の2人は店を出て行った。
「じゃましたねぇ、マスター」
「またくるよ、マスター」
そして扉が閉まる。
後に残されたのは、怒りの行き場を失って、ただ立ちすくむ慧音と、私だけだった。
これがBar, On the Border始まって以来の悲しい不祥事と、その結末だ。
彼のあんな物語を、私は変えることが出来たのか?
いやそんな本質に触れるようなことは、バーテンダーには出来ないというのか。
なんにせよ、踏み込むが故にこちらが傷つくこともあるのだと、彼はそう、教えてくれたのだった。
★
しかし、ゆかりんの思いつきで、人妖の交流という名目で、藍しゃまがバーテンダーをやらされてるのかー、そうなのかー、と認識頂ければ問題なく読めます。
―――――
Bar, On the Border始まって以来の不祥事は、何の変哲もない、とあるお得意様の来店から始まった。
もっともあれは、不祥事といっても防ぎようのない、事故のようなものだったが。
「お邪魔するよ、マスター」
「いらっしゃいませ。今日も飲んでいかれますか?」
「もちろんさね。仕事終わりの一杯、労働者の特権だよ」
扉からすべりこむように入り込んできた立ち姿は、華奢な少女のよう。
深緑の複雑な意匠の1つなぎに、地獄の業火のような真紅のおさげ。目を引く黒炭色の2本の尻尾。
その名の頭にも火を冠する、火焔猫燐だった。
「注文はいつものもので?」
「あぁね、今日はちょっとミルク多めで頼むよ」
「かしこまりました」
幻想郷において珍しい、洋酒を扱うこのお店。
使っているボトルの少なくない数を、地霊殿に造ってもらっていた。
需要の少ない一方で、必要な酒類は多数。
多くの労働力を有し、それも彼らを無給で働かせられるという、地霊殿の特殊な有り様でなければ運営は困難だった。
最悪、紫様が外界から入手するという手があったが、それでは採算を取るために、値段を引き上げるしかない。
どうして利の薄い協力をしてくれるのかと訊ねれば、人妖の交流を進めたいという、紫さんの理想に惹かれたのですよ、とはさとり様の言だった。
「今日もありがとうございました」
「いやね、こっちもさとり様のご命令だからね。感謝される筋合いはないってものよ」
「それでも、感謝の気持ちを込めてつくらせて頂きますよ」
そう言いながら私は、手を動かして材料を用意している。
真っ黒のずっしりとしたボトルの、ベイリーズ・リキュール。
牛乳を取り出し、後はオールド・ファッションド・グラスも準備。
「しかし前から不思議に思っているのですが、あれだけのボトル、地霊殿からお持ちするのは大変では?」
地霊殿で造られた各種酒は、さとり様のペットによって届けられる。
そこまでしていただかなくてもというところだが、さとり様曰く、ペット達が地上に出る機会にもなって、むしろ好都合とのこと。
それで様々なペットが届けに来てくれるのだが、概ね人型であることに慣れており、言語にも不安のない燐や空であることが多かった。
特に燐に関しては、この店の愛好者でもあり、こうしてボトルを届けに来た後に、一杯ひっかけていくのがいつもの流れだった。
ただ私が懸念していたのは、この配達の業務、かなりの重労働ではないかということだ。
一度の配達で運ばれるボトルの数は、せいぜい10本程度。
だが距離が問題である。
妖怪がいくら身体能力に優れるとは言え、誰もが怪力無双というわけではない。
かくいう私も、元が獣であるせいか、妖力を練ることなしには、せいぜい人間の力自慢程度だ。
そしてもちろん、妖力を用い続けることは疲れる。
「ああそのことかい。まあだいたい届けに来る連中は、力がありそうな奴じゃないかい」
「ええ、まあ。ただ……」
「あたいのことかい? まあ確かに地の力は強くないね」
燐の話を聞きながら、カクテルを完成させてゆく。
といっても、非常に簡単なビルドカクテルだ。
まずグラスに氷を。
そこにメジャーで図りとったベイリーズを30ml注ぐ。
そして牛乳を適量加えてステアすれば、ベイリーズ・ミルクの完成である。
乳成分が付着したメジャーとバー・スプーンを、一手間掛けて水洗いしなければならない。
それが故に、ちょっと面倒なカクテルだということは、バーテンダーのスキマに投じる独り言だ。
「それでは苦労なさっているのでは?」
そう言いながら、カウンターの上にベイリーズ・ミルクを置く。
ベイリーズはクリームにアイリッシュ・ウィスキー、チョコやバニラなんかを混ぜた、デザートのようなリキュールだ。
牛乳で割れば、ウィスキーの癖を加えた濃厚なココアのような味となる。
見た目もココアそのもので、女性でも飲みやすい。
「うんにゃ。あたいは妖力で物運びするのに慣れてるのさ。あたいがそもそも、何の妖怪だか知ってるかい?」
「火車猫……ああ、そういうことですか」
合点の言った私は、布巾で手元を吹きながら笑みを浮かべた。
「そうさ。もともとあたいは、罪深い人間の亡骸をかっさらって、閻魔様の裁きも受けさせず、灼熱地獄に突き落とす妖怪だからねぇ。魂は輪廻を離れて怨霊さ。まあ魂が離れた後の死体だけを狙う穏健派や、死神の下請けじみたことをするやつもいたけどね。かくいうあたいも、灼熱地獄の管理なんて面倒を仰せつかってからは、許可された死体ばかりを扱う、運び屋に成り下がりさ」
グラスを片手で握り締め、ややうつむき加減にきゅっと目を閉じてしみじみと語る。
そこで溜飲を下げるとばかりにくっとグラスを傾け、半分まで一気に飲み干す。
はーっ、と、溜息とともに下げられたおもては、やや出来上がった労働者の表情をしていた。
まったく、顔に似合わず苦労している様子だ。
「しかしさね、マスター。時にはあたいだって、もとの妖怪の意義に立ち返りたくなることもある。だって妖怪ってもんは、そういうもんだって有り様が、そのまま存在そのものなんだから。忘れたら終わりってもんさ」
よくしゃべってくれるお客様への接客は、私もかなり楽しい。
私は燐の妖怪談義に相槌を返しながら、しばしの小休止と決め込んでいた。
―――――
その事件の2人目の立会人は、燐が入店しておよそ半刻後に現れた。
「邪魔するよ、マスター」
奇しくも燐と、全く変わりない挨拶だった。
「にゃ……こりゃあまた、嫌な奴が来たもんさね」
「ん、あたいだってそう思ったところさ」
自らを“あたい”と呼ぶ、特徴のある語り口に、頭の上で2つにまとめた深紅の頭髪。
燐と対照的なのは、男性の平均に迫ろうかという長身と、肉付きのいいがっしりとした体格。
健康的に日に焼けたその人は、幻想郷の船頭死神、小野塚小町だった。
「マスター、一杯頼むよ」
「かしこまりました。何を飲まれますか?」
「そうさね、バーボンをショットでもらおうか」
「種類はどうなされます?」
「う~ん……ワイルド・ターキーで頼むよ」
「かしこまりました」
七面鳥が印刷された、1目でそれと分かるボトルがワイルド・ターキーだ。
冷凍庫からショット・グラスを取り出して、メジャーで量りとって30ml。
ちらと小町の姿を確認して、酒好きだろうお客様のために、もう30ml注いでダブルとしておいた。
「はいどうぞ、ワイルド・ターキーです」
「12m年ものかぁ、ありがたいねぇ」
「お詳しいので?」
「あぁ、中有の道に出る出店は、幻想郷とは商品の並びが異なるからねぇ。結構外の物にも詳しいのさ」
「なるほど」
ワイルド・ターキーはバーボン・ウィスキーに分類され、トウモロコシを主に原料としている。
度数は50.5%
深みのある琥珀色と、火で焙ったような煙っぽい味わいは、熟成の際に用いる樽の内側を、焼き焦がすことによって生まれるらしい。
飲食に用いるものを焼き焦がすというのは、なんとも意外な発想だが、お酒の製法は奥が深いとしか言いようがない。
そのバーボン・ウィスキーを受け取った船頭死神は、それがアルコール度数の高いものとは思われない、あっけない飲みっぷりで杯を空けた。
グラスをカウンターに戻しての、満足げな微笑み。
それを呆れたような顔で横から見つめているのは、2杯目にカルーア・ミルクを飲んでいた火車猫だ。
「あぁあぁ、鬼に飲ませるようなもんさね。高い酒がもったいない」
「ふふん、お菓子感覚で飲んでる奴にゃ分からないってもんよ。この醍醐味は。疲れた体に強いお酒を、くいっとね」
「む……じじ臭いこと言ってらあ」
しかし先ほどからの、棘があるとまでは言わないも、どこか互いをやりこめんばかりの遣り取りだ。
何か因縁でもあるのか……。
長く生きていれば、対立の1つや2つあるものだし、そう悪いこととも思わない。
けれど、カウンターの前に座っているお客様に対しては、少しでも気分良く飲んで欲しいというのが心情というものだ。
この、どこか飄々として相手を小馬鹿にしたような死神と、やや目線を鋭くさせている化け猫に対し、私は牽制の布石を打っておくことにする。
「お2人はお知り合いなので?」
まずはそこからだ。
第一に情報収集。
そして分析を行い、然るべき策を講じる。
2人で会話させずに私が間に入れば、少しは緩衝になるだろうという対処療法でもある。
対して2人は、きょとんと不思議そうな表情を数瞬見せた後、互いの顔を見遣って笑みを浮かべた。
こいつと言えばねぇとばかりの、苦笑を無理に明るくしたような口角を吊り上げての笑い。
「いやね、こいつは、商売敵なのさ」
「そうそう」
「私が普段何やってるか知ってるかい?」
最初に応えてくれたのは、小町のほうだった。
燐はというと、小町の“商売敵”という言葉に、腕を組んで2度3度と頷いている。
さて商売敵か。
ヒントは出してくれそうであるし、とりあえず小町の質問に答えることにする。
「存じております。幻想郷の外れにある、三途の川の渡し守。いわゆる船頭死神でございますね」
「うんうん、その通り、基本的にあたいの仕事は、死者の霊を此岸から彼岸へ渡すことさ」
「さようで」
「けれど、死神ってやつの仕事はそればかりじゃない。ほかにもいくつか職種はあるのさ。閻魔を手伝う事務方だったり、寿命を管理したりする仕事だったり。そしてこいつとぶつかるのがお迎えのお仕事さ」
なるほど。
ここまでの情報提供で、既に話は読めていた。
2人は商売敵。
それもそうだろう。
「あたいら火車猫は霊が離れないままの死体を狙う。死神は霊を彼岸に連れて行こうとする。ようするにあたいらは競争関係にあるのさね」
「まああたいは船頭死神で、こいつは大きく見れば閻魔下請けの火車猫。管轄外の、それも味方っちゃ味方ってとこだが、種族間のもやもやってもんはあるからねぇ」
燐もうんうんと頷く。
なんだか意地悪なやり取りが遊戯のようにも思われる、補い合っての解説だった。
ならば2人は本当に対立しているというわけではないのだろう。
心配したのは杞憂だったか。
「そうでしたか。それではゆっくりとこの時間を楽しまれてください。せっかくなのですから、お互いの理解を深めるような方向で」
だから苦笑を交えながら、いちおうの釘はさしてみる。
痛し痒しというところか、2人そろって肩をすくめながら笑ってみせてくれたのが、なんとも愉快な映像だった。
―――――
2人はそれから、思い出したように幻想郷の死人事情について語り合ったり、ぼんやり自分の時間を過ごしたりとしていた。
そして小町が来店して四半刻も過ぎた頃、最後の当事者が現れた。
「……お邪魔します」
そのやや低い声にも、引き締まった精悍な顔立ちにも馴染みがある。
「これは……お久しぶりです。いらっしゃいませ」
「ああ。一杯もらうよ」
「仕事終わりですか?」
「いや、今日は所要でこちらに出向いたもんでな」
彼は外れの集落で用心棒をしているという、人間の男性で、主に護衛を生業としているらしかった。
ここ数年で、幻想郷はすっかり平和の観を見せているとはいえ、まだまだ人間にとって危険が多いことに変わりない。
人里を離れれば、そこは妖怪の土地であるし、とって食われるとまではいかないまでも、辛辣な悪ふざけにさらされる可能性は高い。
女性や老人にとってみれば、妖精の悪戯であっても十分な脅威だ。
それらが回避されたとしても、野犬の類に出くわすことはあるし、稀だが野党が潜んでいることもある。
だからして、大きな里には自警団。
離れの集落のようなところには用心棒のような存在がいて、人々の安全を守っているというわけだ。
彼もそんな用心棒の1人であり、この人里が幻想郷で最も大きい人里である以上、この里に出入りすることも多いそうだった。
さしもの彼も、逢魔が刻を過ぎた夜半に集落に戻ることは出来ない。
というわけで、この里の宿で寝付くまでの間、ささやかな労いの杯を受けに来ているというわけだ。
ただ今日のところは、それとは別の用事とのことだったが。
「……この綺麗なお嬢さん方は、ご一緒されているのではないので? 間に座っちまいますぜ」
「どうぞどうぞ」
「きゃん、お嬢さんだなんて、嬉しいねぇ」
喜びどころは“綺麗”ではなく“お嬢さん”なのかと思ったが、口には出さなかった。
わざとらしく手を頬に当ててしなをつくっている小町と、やや酔いがまわってにやにやしている燐は、カウンターの端と端に座っていた。
それでいて互いに向き合って会話しているのだから、彼がとまどうのも無理はない。
彼はやや遠慮したような苦笑を浮かべながら、7つある席の真ん中、私の正面に腰掛けた。
「さて、何を飲もうか」
呟かれる言葉は、耳に心地よい朗々とした声である。
さすが用心棒をしているだけあって、浅黒く日焼けした身体は、服の上からでも筋骨たくましいことが分かる。
その割には髭も薄く、髪は整えられており、清潔感があるところに好感を抱けた。
用心棒と言われると保守的な印象があるが、このような妖怪が経営する、風変わりな店をひいきにする辺り、好奇心旺盛なのかもしれない。
そう多くを口にする方ではなく、2、3昨今の妖怪関係について交わして静かに飲んでいる時もあるが、居合わせた客と談笑していることもあり、バーテンダーとしては実に迎えやすい客と言える。
そして何より大事なことは、数少ない人間のお得意様ということである。
「う~む……どうにも今日は、決まらねぇなぁ…」
悩んでいるらしかった。
来店当初は用意してある品書きを見て注文していた彼だが、今ではそらでお気に入りを注文できるようになっている。
とはいえ悩む日もあるだろう。
別段客をせかして売り上げを上げようという店でもないし、注文も後からでも構わなかった。
「お、決まらないのかい、あんた」
これと思える一杯が浮かぶまで、黙って待っていようと思った私だが、同席していた客のほうは、もっと気を遣いたいようだった。
2杯目に注文していたハーパーのロックを手に持ちながら、小町は話しかける。
「だったらなんか、あたいがお勧めしてあげようか」
「んん、それはまた」
「あんただって、こんな綺麗なお姉さんに勧めてもらえるんだ。悪い気はしないだろう?」
「ん……ふっ、はっはっはっ、確かにそうだな。じゃあ何か勧めてもらおうか」
やはり自身がお嬢さんと言い難いことは、自覚しているようだった。
小町はその人懐っこそうな顔を彼の方へと向けたまま、やや下から伺うような目線を見せた後、にへらっ、と笑って見せた。
「その前に、あんた」
「ん?」
「何かいちもつ抱えてるんじゃないかい? あたいはこう見えても、そんな輩をたくさん相手する仕事をしててね。あんたに何か思うところがあるって、お見通しなのさ」
「……ほう」
これは面白いことになった。
私自身としては、彼に何か変わったところがあるようには見えなかったが、小町は何か気づいたらしい。
「ほら、それを教えてくれるとさ、あたいも勧め甲斐があるってもんじゃないか。せっかくの酒の席だ。何かあるなら話しちまいなよ」
「……いや驚いた。確かに何もないというわけじゃない。だが顔に出してたつもりはないんだがな。分かるもんなのかい?」
「あぁ、こちとら一癖も二癖もあるような客を相手してるからね。自然と分かっちまうのさ」
以前にもこんなことがあった。
確かあれは、開店して間もない頃、さとり様がいらっしゃった時だ。
あの時さとり様は、居合わせた客の心を読み、話を聞いた上で、それに合うカクテルを勧めていた。
それどころかカクテルを暗喩として、話を前向きなほうへと導き、なかば悩みを解消するようなことまでしていた。
あの時は非常に勉強になったものだが、この小町もまた、良い会話術を披露してくれるかもしれない。
なんといってもこのお調子者は、死を過ぎて紡がれる、亡者の悲しみ嘆きを耳にして、常に笑みを絶やさず最後まで語らせるというではないか。
どのような恨み辛みも、聞き出せる懐の深さがあるのだろう。
興味深いところだ。
ただふと気になって燐の方を伺うと、案外彼女もこの成り行きを楽しんでいる様子だった。
会話の輪から締め出されて、気分を悪くしてないかとも思ったが、そんなこともないらしい。
私はその態度に少し違和感を覚えたが、まあ彼女もおそらく、お手並み拝見とでも言った心持なのかもしれない。
「そうだな……といってもよくある話さ。昔のダチが、死んじまってね」
「それで今日はこちらに?」
「まあ、そんなところだ」
私も会話の内に入っておくことにする。
なるほど、友人が死んだといわれて見れば、普段より上等な着物を着ている。
そういえば今日は日曜日だし、葬式があったのだろうか。
一瞬、塩でも盛っておこうかと思ったが、わざわざそんなことをするまでもないと、すぐに案を棄却する。
そもそも客が死神に火車猫なのだ。
穢れうんぬん言い出せば切りがない。
「そいつはどんな奴だったんだい?」
問いかけたのは小町だ。
相変わらずのにやけ笑いであるが、先ほどまでとは違い、ぐっと表情に深みが出たような気がする。
これが話を聞く態度という奴なのだろうか。
そんな小町の表情を見ながら、彼も朴訥そうな表情から一転、目元に少しの陰を落として苦笑いをしている。
「一言で言えば、立派なやつだったよ」
少し背をそらせ、腕を組んで話し始めた彼は、懐かしむようにどこか遠い目をしていた。
「自警団の長を務めていてな、いつも冷静沈着で、物事に応じないやつだった。その癖頭の切れる奴でな。ちょっととっつきにくい奴だったが、まあ人当たりは良かった」
誇らしげに、けれど悲しげに、彼は思い出を陳列するように一定の調子で語った。
「俺の後から入ってきたというのに、全く敵う気がしなかったよ。前自警団長にも気に入られてな。結局、自警団皆の憧れみたいな存在だった、前団長のお嬢さんを嫁にもらってな。それはめでたいことだったぜ」
そういえば聞いたことがある。
この人里の自警団長は、眉目秀麗ながら剣術に優れ、また若いながら集団を率いて統率力に秀でると。
そうだとすれば、惜しい人材を失ったというものだった。
確かにこの里は上白沢慧音、それに稗田家の存在もあり、統率者に困るということはない。
それでもただでさえ妖怪に対して肩身の狭い人間達であるのだ。
傑物は1人でも多いほうがいい。
とはいえ、現実に存在する諸々の危険に、流行病や野山の災害。
このようなことは、珍しいことではないのだ。
「まったく、人の運命ってやつをどの神様が握ってるか知らねぇが、酷なものだと思うぜ……本当にな」
その思いは彼も同じらしく、嘱望される人の早過ぎる死に、心を痛めているらしい。
小町も今は黙って彼の話に耳を傾け、ただいくつか話の合間に相槌を重ねていた。
「俺はそいつと仲が良かったし、まあ親友と呼べたかな。それで前団長のお嬢さんも連れて3人で、よく飲み歩いたり語らったりしたもんだよ。あの頃は、楽しかった……今はもう、全部思い出だけになっちまったけどな」
「なるほどねぇ」
小町も感慨深そうな表情だ。
話をして、こんな表情を浮かべてもらえるなら、語り手は冥利につきるというものかもしれない。
彼も思い起こすところがあったのか、その顔は俯き加減となり、悲しみを漂わせているようだった。
「その3人で過ごした日々は、あんたの宝物かい?」
「ああ、…………今となっては遠く、懐かしい、どれほど手を伸ばしても届かない……郷愁だな」
「そうかい」
そう小さく呟いた小町は、手にしたグラスを口元にもっていき、軽く一口あおった。
「よし。あんたにお勧めするカクテルが決まったよ」
「それはありがたいな。そろそろ一杯口にしたいところだ」
「ああ、確かに待たせた形になったかねぇ。まぁ何はともあれ。マスター。お兄さんにモスコミュールを造ってくれないか」
「かしこまりました」
モスコミュールか。
先ほどからウィスキーを飲み続けている小町のイメージからは、意外なカクテルの名が出たものだ。
私はさっそく銅製のマグカップを用意して、そこに氷を詰める。
ウォッカは定番のスミノフ・ウォッカを使うことにする。
ボトルにはSMIRNOFFの文字と、双頭の鷲の紋章。
透明なボトルに紺を思わせる濃青色が、冴え冴えとして映えている。
量りとって45ml。
ライム・ジュースを15ml注ぎ、ジンジャー・エールで満たす。
バー・スプーンをさしこんで、氷を崩さないよう軽くステアをすれば完成だ。
「どうぞ、モスコミュールです」
「ありがとう」
彼はグラスを受け取ると、それを手にしたまま小町の方を伺った。
ここは乾杯したものか、そんなことを思ったのだろうが、気にするなという風に小町が手を顔の横で振ったので、そうはならなかった。
次いで彼は、律儀に燐の方を振り向いたが、燐も杯を掲げて彼に応えた。
「じゃあ、頂くかな」
「ああ、口に合えばいいがねぇ」
そして彼がグラスに口をつけたところで、小町がそれを勧めた理由を語り始めた。
「モスコミュールってカクテルは、なんでも3人の友人が協力して創ったそうじゃないか。そいつに入ってるお酒と、割っているジュース、それぞれ造ってたダチ公に、それとその銅製の杯を造ってた女友達。一緒に宣伝したりして、それこそ定番のカクテルに成長したらしい」
小町の説明には、一部厳密には違う部分があるが、大筋に誤りはない。
その言葉の通り、3人の友情が生んだカクテルとも言われるもので、非常に良く飲まれるカクテルだ。
ちなみに名の由来はモスコー・ミュールで、モスクワのラバという意味らしい。
モスクワとは外界の大都市の名前だというが、このカクテルの生まれた国の中心都市。
そしてラバはというと、馬に良く似た動物で、やや大人しそうな見かけながら、驚くと後ろ足を蹴り上げる獰猛さも持っているらしい。
見かけによらない力強さ、つまり、見かけや味によらない度数の強さということで、ミュールというわけだ。
「さっきの話を聞くに、あんたと自警団長、そしてその奥さんとは気の置けない仲だったんだろう。だったらこの甘口のカクテル、その逸話といい、うってつけじゃないか?」
「……そうだな、確かに悪くない。ありがとう死神さん、こんなり振り返り方も悪くは……」
「おおっと、ちょいと待ってもらおうか」
いきなりの割り込みだった。
言葉を発したのは、今の今まで傍観に徹していた燐。
その表情は壮絶とも評したくなるほどのにやけ顔で、皮肉の香辛料がたっぷりと振りかけられていた。
いったいなんだというのか。
「えらく綺麗な美談にまとめたけどねぇ、本当にそれでいいのかい?」
確かに絵に描いたような美談でまとまったきらいはある。
それでも死んだ人間にたむける話などそんなものだし、わざわざ露悪的な話にする必要も無い。
カウンターの向こうを見やれば、いつもの笑顔に多少の苛立ちを伺わせる小町に、やや憮然とした表情の彼。
そしてあっけに取られている私を尻目に。燐は指差すかのように手にしたグラスをこちらに向けながら、後を続けた。
「そもそもそのモスコミュール。この店で使っているのはジンジャー・エールじゃないのかい。本当のモスコミュールに入れるのは、辛口のジンジャー・ビア。あんたが今飲んでるのは甘ったるい模造品さ」
なん、と。
驚いた。
なぜかというと、その指摘は全く持って正しいものだったからだ。
先ほどの小町の説明の、唯一の誤り。
それがジンジャー・ドリンクに関する内容だ。
ジンジャー・エールはショウガ汁に各種甘味成分、炭酸を加えた飲み物で、さっぱりとした甘い味わいが特徴だ。
しかしそれは製造法と味の調整によるもので。もっと原料の風味を残した製法も存在する。
それがジンジャー・ビアだ。
その製法とは、ショウガ汁に砂糖とドライ・イーストを加えて発酵。
ジンジャー・エールと比べて、ショウガの風味が強く残る、クセの強い甘辛い味わいとなる。
「友達がそのカクテルに投じた味は、ジンジャー・エールとはもっと別のものなのさ。本当のモスコミュールは甘いだけのカクテルじゃない。酸いも苦味も存在する、難しい味さね」
少しの間。
息継ぎを入れて、呼吸を整える数秒。
そして燐は、目を爛々と輝かしながらそれを暴いた。
「あんた、その娘さんを愛していたんじゃないのかい?」
すうっ、と、息が吸い込まれるような気配があった。
カウンター越しの隣を見れば、表情の抜け落ちた彼の顔。
さらに振り返れば、小町の苦々しげな様子。
「簡単な推理さね。さっきのあんたの話に、わざわざ娘さんを登場させる必要があったのかい? 男と男の友情を語るに、3人目は蛇足というもんさね。だとすれば、娘さんの存在は、あんたと、あんたにとっての彼にとって重要だということ。そしてそんな関係の有り様として、一番よくあるのは三角関係というやつさね」
「………」
彼は黙して語らない。
しかし、もし異であるならば、破顔してしまうような戯言だ。
沈黙という名の肯定。
もはや、ごまかすことも出来そうになかった。
「……その、通りだ」
しばしの重い間の後に、彼は搾り出すような低音で応えた。
「確かに俺は娘さんに好意を寄せていた。あいつが好意を抱くようになる、ずっと前からな」
「はいな、それでそれで」
「ちっ、底まで話せってか? ……それもいわゆる幼馴染というやつだよ。俺は親の代からの自警団員で、前自警団長の家とは親交が深かった。小さい頃からの身近な異性。仲もすこぶるよかったよ。両親が病で早死にしてからはさらにな」
「けれどうまくいかなかったのですか?」
とは私だ。
最近どうも、このような恋路を辿るお客様が多いような気がする。
かつて多くの男を堕落させた、私に対する神のあてつけだろうかと考えてしまうが、妖怪である私が、そのような人格神に思いを馳せるのも、おかしなものだろう。
「近いからってうまくいくもんじゃないのさ。マスターはそのへん、詳しいんじゃねぇのか?」
「えぇ、まぁ……そうですね。確かに実際は、そうであることも多いようで」
私の由来をある程度知っての上で、彼もそんな言葉を返してくる。
恋というのは少数を除いて、憧れていたいものなのだ。
「ちょいと待っておくれよ。けれど、そこらへんは男同士、きっちりケジメつけて、さっぱり割り切ってというわけじゃないのかい? だったらそんな間違いみたいな言い方しな――」
「にゃい……どうなんだい、お兄さん。割り切れるような話なのかい?」
小町の問いに燐が割ってはいる。
けれどその目は、嬉々として細められていて、まるでこれから彼が応える内容が、彼女の期待にそぐうことを知っているかのようだった。
「む……」
自然、私達の視線が彼に集まる。
彼は一度私達の顔を見回し、適当にごまかせないと理解すると、溜息をついて話を続けた。
「まぁそうだな……割り切れるような話にはならなかった」
「ふふ、にゃあい♪」
「………」
それぞれの反応を返す燐と小町。
彼は言い難そうな表情のまま、苦々しげに続ける。
「そもそも俺とあいつは仲がよかったからな。その点、あいつが言いにくかったのも分かる。俺の想いを、あいつはよく知っていたからな。だから隠されてた。おまけに明かされ方も、まるで騙まし討ちだった。自警団のことで相談があると呼ばれ、彼女への想いの話となり、もしそんな彼女に伴侶が生まれても、自警団の業務はきちんと続けていくよなと、いくつも釘を刺された。あげく、家へと帰る道すがら、別れ際に真相を明かして立ち去りやがる。喧嘩にもならんかった」
「なるほどねぇ」
「言い辛かった。彼女に負担を掛けたくなかったとも分かる。しかしその後、俺と娘さんの仲が良いのを気にし、自警団内でも圧力を受け、そうこうしてるうちに娘さんもあいつを味方して俺を責めるようになった。なんだかんだ俺は、自警団内の若衆に慕われててな、一時期あいつを悪く言う雰囲気もあった。何よりあいつと娘さんの縁談は、話題に乗せるのも憚られた」
淡々と述べられていく、陰の濃厚な昔語り。
浅黒く精悍な顔立ちは、なお大らかさを留めてはいるが、その眉目は険しい。
彼が慕われる性分であるのは分かる。
面倒見がよく、気さくで、適度におざなりであり、何より不器用に誠実だ。
下のものからすれば、遠からず身近で、それでいて頼れる。
「だからもう、とてもじゃないが自警団内にいられなくなってな。もとより身寄りのない身。里を辞して、辺鄙な集落で用心棒暮らしだ。村の皆にも重宝されて、悪くはないがよ……」
「……けれど、自警団にいたかった?」
「……ああ、そうだな。それが何よりの後悔だ。あそこは俺にとって、家族に等しい場だった」
恐らく喪失は恋に留まらないのだろう。
両親を早くに亡くしたという話は聞いていた。
とすれば彼にとって自警団とは、第二の家族のような場ではなかったのだろうか。
そこに来て、親友と言えるような者の冷たい態度。
加えての、自身が自警団内に軋轢を生んでいるという自責。
彼が真に失ったのは、恋というよりも、娘さんも含めて自分がそこにいられるという、居場所だったのではないだろうか。
「なんにせよ昔の話だ。いくら悔いを噛み締めたところで、還ってくるものは何もない。こんなものは、酒でも飲んで忘れたほうが吉だ」
「にゃは、確かにそうだねぇ兄さん。いい話を聞かせてもらったよ。それじゃああいたも、兄さんに勧めるカクテルを決めようとするかね」
そう言って燐は、少し間を置くと、実は私も思い浮かべていたカクテルの名を述べた。
「マスター。ギブソンをお願いするよ」
「……かしこまりました」
あまりにあからさまな選択に、私の応答もいかばかりか歯切れ悪くなる。
このギブソン、まさに“ふさわしい”カクテルなのだ。
「にゃ♪ お兄さん、このカクテル、それが表すのは嫉妬だよ」
冷えたカクテル・グラスにミキシング・グラス。
ミキシング・グラスに氷を詰めて、ボンベイ・サファイア・ジンを60ml。
ドライ・ベルモットを10ml注ぐ。
「このカクテルはなんでも、ある絵描きの名前らしいんだけどねぇ、その絵描きの書く女絵があまりに美しくて、世の男がみんな心を奪われたそうさね」
バー・スプーンを差し込み、氷を割らないよう軽くステア。
ストレーナーを被せてグラスに注ぐ。
そして最後に投じるのが、カクテル・ピンを刺した純白のパール・オニオンだ。
「この綺麗なちっちゃい丸っこいの、実はたまねぎなんだけど、女の柔肌のようじゃないかい?」
グラスの底を軽くおして、彼の方へと差し出す。
「だから、その絵描きの絵をネタにしているというわけで、世の女の嫉妬が向けられたカクテル。それがこのギブソンというわけさ」
ちなみに味はドライ・マティーニとほぼ一緒であり、ジンの怜悧な辛味にベルモットの甘みが少し感じられる。
「さあどうぞ、この一杯もご馳走するよ」
「……あぁ、頂くとするよ」
彼は曇った表情のままグラスの柄を掴むと、壊れ物を扱うかのように、そっと口付けた。
一息に一杯。
乱暴な飲み方では全く無く、むしろ静謐さえ湛えていたが、すぐにグラスは空になった。
「ふぅ……苦いな」
「にゃい」
「しかし……このほのかな甘みが、まるで未練のようだな」
「ふふ、にゃい」
「これはまた……お嬢さんに一本とられたな」
「礼にはおよばないさね。思い出はありのままが一番。偽りの甘みでごまかすなんて、不自然さ。暗い思いは、暗いままがいい。まあお兄さん、今夜は付き合ったげるよ。……ふふ」
店内にはやや暗い空気がのしかかり、小町はというと、不機嫌な顔を隠さずグラスをちびちび傾けていた。
彼はぼうと遠くを見つめ、燐だけがにこにこと楽しそうな表情を浮かべている。
結局彼の思い出とは、なんだったのだろうか。
それは苦いだけのものなのか?
そんなわけはないはずだ。
なぜなら彼は、親友の死を悼んでいる。
本当に憎んでいるのなら、葬式に出向くこともないし、そうでなくとも、感傷のまま飲酒に興じたりはしない。
何かあるはずだ。
まだこれは、確定の割り切り方ではない。
このところ来店されたお客様との、交流を思い出す。
そうだ、物事の本質を、バーテンダーは変えられない。
けれど、偏向を加えることはできる。
それも感情に訴えかけるような、とびっきりの瀟洒な対応で。
何か、彼の捉え方を変えられるような、そんな一杯を―――
「お客様」
頭に必然のカクテルが思い浮かんだとき、私はもう彼に声をかけていた。
「ん?」
「このお勧め合戦。マスターである私が参加しなければ、不十分というものでしょう。私からもご馳走しますので、もう一杯飲まれては」
「お、おう。ただ酒ならば、大歓迎だが」
少し驚いた様子。
燐と小町も、私の態度に目を見開いている。
それもそうだろう。
これまで私は、カウンターの前で繰り広げられることの、完全な傍観者だった。
けれど、バーテンダーはそればかりではない。
今からは私の、彼の悲しい物語への、ささやかな反抗の番手だ。
カウンターの上に、挑戦状のようにボトルを並べていく。
カナディアン・クラブにノイリー・プラット。
そして焼き焦がした琥珀を思わせる、長身のカンパリ
ミキシング・グラスに氷を詰めて、そこにライ・ウィスキー、ドライ・ベルモット、カンパリをそれぞれ20mlずつ注いでいく。
軽いステアの後に、ストレーナーを被せてカクテル・グラスに注ぐ。
朝焼け色の液体が、線となって零れ落ち、グラスをほの赤く満たしていく。
「どうぞ、オールド・パルです」
「ほう」
「この国の言葉で、“古き友”、です」
「………」
とたん、グラスの柄へと延ばされていた彼の手の先が、ぴくりと動いてその場に留まる。
表情を伺えば、やや困惑した様子。
脇を見遣れば、小町の興味深げな目元と、燐のにやけ顔がこちらを見ていた。
「古き友、か……間違いではないが、旧友というには少し、な」
「確かに普通古き友とは、離別した友人のことを言い、ややあなたとご親友との関係にはそぐわないかもしれません」
「ああ、そうだろう」
「けれど、そんなことは言葉の常識。あなたにとって、過去の彼とは間違いなく親友なのでしょう?」
「ううむ……まあそうだが」
腕を組んで受け入れがたい様子を見せる彼。
その表情も険しく、このカクテルを飲むことは困難なように見える。
けれど
「ご親友はお亡くなりになりました」
「……なに?」
「死んでしまったのです。……だから今その人は、あなたの心の内にだけいます」
「??」
分からない様子の彼。
それもそうだろう。
ここまで抽象的な物言いをするのは、自分でも違和感がある。
けれど、だからこそ理解した時に、胸の奥へと滑り込んでくるはずだ。
「ですから、ご親友との物語をどのように解釈し、どのように評価したとしても、誰も覆せないのです」
「………」
「死者を評し、位置づけるのは生者です。もちろん周囲に残された者が多ければ、自然と像は中立的なものとなってきます。ですが、あなたはそうではない」
「……そうだな」
「であれば、彼との過去の思い出だけを鑑み、それをもって良いと片付けてしまっても、誰も責めやしません。良い位置づけも、悪い位置づけも、納得のいくように。……どうせ戻らないのですから」
「なるほどな」
そう言うと彼は、カクテル・グラスを手に取ると、ゆっくりと傾ける。
まずは半杯、味わうような様子で目を瞑っていた。
「甘いかと思えば、そうでもない。どこか香辛料を思わせる酸味もあって、濃厚なようでいてさっぱりしている……よく分からんな」
「ええ、……まさに、“死別した古き友”を思い出すのに、うってつけではないですか」
「“Departed Old Pal”、……とでも言ったところかねぇ」
小町が小さく呟く。
発音の美しさに驚いたが、今は目の前の彼に集中していたかった。
「もう終わってしまった物語。だとすれば、あなたが一番前向きな心持になれる解釈を。……それも恐らく、憎しみよりも過去の友誼の方が重いが故に、それ故に苦しんでいるだろうあなたには、こんな色合いの解釈が良いのでは」
「………ふっ、らしくないな、マスター」
「ええ、そうだと思います」
儚げに、けれど憑き物が落ちたかのように晴れやかな表情を見せた彼は、こちらに向けて微笑んで見せた。
そしてそのまま、カクテルの残りを飲み干す。
どうやら親友に対する思いを、ほんの少しだけ、角の取れたものに出来たようだ。
横を見遣れば、悔しげに燐が唇を噛み締めている。
どちらかというと地獄に属する彼女のことだ。
彼の心持としては、薄暗い結末のほうがよかったのだろう。
種族の性とはいえ、困ったものだ。
対して小町はというと、面白いものを見たとでもいうように、大味な笑顔を浮かべていた。
そして私の視線に気付くと、空になった杯を掲げて、私を讃えてくれているらしかった。
本当に良かった。
慣れない接客に戸惑うことも多かったが、このところはお客様に、良いほんの一押しを提供できているような気がする。
彼も今は穏やかな表情で、過去を振り返っているようだ。
そしてちらと時計を見上げると、彼は優しい声音で言葉を発した。
「む、そろそろ時間だ……マスター、本当にありがとな」
「いえいえ」
「最後の最後で、あいつのこと、少し納得出来たような気がしたぜ」
「それはよかったです」
私も笑みを浮かべる。
「惜しむらくは、もう少し、いや、後1日でも早くマスターに――」
どむっ、
と、極めて物理的な音がして、彼の言葉は遮られた。
乱入者は
「邪魔するぞ。む、なるほどここだったか!」
里の守護者:上白沢慧音だった。
「……慧音殿、いったいどうされました?」
無粋な来訪に、声の温度も自然と下がってしまう。
敬語を崩さなかったのは、せめてもの矜持である。
しかし慧音はというと、そんな私の対応すらも苛立たしいとでも言うように、鼻息荒く言葉を返してきた。
「どうされました、と? それはもちろん、例の事件の犯人を捕まえに来たんだ」
「例の事件?」
「ええい、知らんのか! この里で殺人があったんだぞ。この里の自警団の長だ」
驚いて彼のほうを見遣った。
彼は私の期待を裏切るかのように、額に汗を浮かべ、諦めたような表情をしていた。
「それも生半可な殺し方じゃあない……顔が潰れて、何度も何度も殴りつけたかのように、原型もないほどに叩きつけられていたんだぞ」
そんな……
そんなまさか。
言われて彼の臭いを精査してみる。
丁寧に消臭され、注意しなければ気付かないほどだが、これは……血の臭い?
「そいつが彼に恨みを持っていたことは分かっている。2人が今日一緒にいる姿も目撃されている。後は調べれば分かることだ。来てもらうぞ」
そういうと慧音は、足早にカウンターに歩み寄ると、彼を連行しようとする。
しかし彼は、まるでそれには及ばないとでも言うように、慧音に向かって腕を伸ばすと、そのまま立ち上がった。
「なんだ、抵抗しようとしても、獲物もなしでは私には勝てんぞ」
「いやいや、慧音様にはもとより万全の状態で望んでも勝てやしません。その強さは自警団員の頃から、よおく知ってますぜ」
「だったら――」
「いえ、連行には及ばないというだけですよ。殺したのは確かに俺です。憎んでたんでね、ずっと」
その顔は脂汗にまみれ、立っていることすら辛そうだった。
彼はそのまま、慧音の方から私の方へと向き直ると、切羽詰った様子のまま私に語りかけた。
「マスターの酒、好きだったぜ。なによりこの店の、人妖の壁を取り払おうって姿勢が気に入ってた。なんとなく、どんな間柄でも分かり合えるんじゃないか、そんな気分にさせてくれてな。憎しみに心を食われて、人を失いつつあった俺でもいら、れる――」
そして彼の引き締まった身体が突然弛緩すると、そのまま床へと崩れ落ちた。
慌ててそちら側に回り込もうとする私を制して、小町が彼の傍らに跪く。
「もう死んでいるよ」
「どうやら毒を飲んでたみたいだねぇ。ふんふん……あちゃあ、こりゃこの店に入ったときにはもう飲んでたね。最初から今生の一杯のつもりだったのさ」
それぞれの分析を述べる小町と燐。
燐に至っては愛おしげな手つきで、彼の喉の内や瞳を覗き込んでいる。
その傍らでは慧音が、呆然と立ち尽くしていた。
「じゃあ魂は、このまま連れて行くよ」
「にゃあ~……引き分けじゃないのかい?」
「だとしてもあたいの負けじゃないだろう。せいぜい死体だけで我慢しおくことさ」
「仕方ないねぇ。ま、マスターの勝ちになるなんて思わなかったから、仕方が無いね」
いそいそと帰り支度を始める小町と燐。
さらに燐はというと、身支度に留まらず、彼の死体を麻袋のように担ぎ上げた。
「……お、おい、どうするつもりだ?」
「どうって、役目を果たすだけさね」
「そんなことが許されると――」
「だから、もう死んでるよ。裁くことも出来なければ、懺悔させることもできないさね。そんな死体を捕まえて、どうしようっていうんだい?」
「ぬぬ……」
悔しそうに歯噛みする慧音。
対して小町と燐はというと、飄々として相手にしない態度だった。
「全く、なぜこんなことをしたんだ……。仕方のないことなのだから、身を引き、その者の幸せを祈れば良いというのに…!」
その全く持って正当な発言に、小町と燐が反応した。
「はっ、聞いたかい、お燐」
「にゃい、全く、出来た人間は分かっちゃいないねぇ。酔いが醒めるってもんだよ」
「なんだと!」
掴みかかりそうな様子の慧音を尻目に、燐と小町の2人は店を出て行った。
「じゃましたねぇ、マスター」
「またくるよ、マスター」
そして扉が閉まる。
後に残されたのは、怒りの行き場を失って、ただ立ちすくむ慧音と、私だけだった。
これがBar, On the Border始まって以来の悲しい不祥事と、その結末だ。
彼のあんな物語を、私は変えることが出来たのか?
いやそんな本質に触れるようなことは、バーテンダーには出来ないというのか。
なんにせよ、踏み込むが故にこちらが傷つくこともあるのだと、彼はそう、教えてくれたのだった。
★
次の作品も楽しみにしています!
慧音先生、世の中には正当な考えでは収めることの出来ない事態なんて、いくらでもあるんです。
貴方の次作、楽しみに待ってます。
次回作はどっちでも楽しみに待っているとしよう
相変わらずいい雰囲気ごちそうさまです
綺麗事で割り切れないことだってありますよね…
人の心なんていうものは割り切れる問題じゃないですよね、やっぱり。本人以外は誰も完全におしはかる事なんて出来ませんし。
果たして、えーき様は彼をどう裁くのでしょうかね。そこの話も気になりました。
慧音先生の頭の固さ故の空気の読め無さが歯痒い。。
二転三転する一筋縄ではいかない展開が最高でした。
これほどヘビーな経験はありませんが、
どんなに憎くても嫌いになれない知人がいた経験を持つ自分には、身につまされますね。
男の想い、悩みを引き出したお燐と小町、
男が持っていた黒い感情を取り除き、良き思い出に変えられるよう促した藍、
男の心情を知らず、苦しみも理解しきれずに犯した罪のみで裁こうとする慧音。
彼女らが男の今生の一杯に関わることで、割り切れず、ともすれば後味が悪いだけの結末に深い味わいを与えてくれる……。
良い物語でした。次回も期待しています。
これは次が気になる作品です
お酒の蘊蓄も、語られる内容も、ストーリー展開も大好き。キャラも魅力的。もっとこのシリーズを読みたいですね。
次回作に期待してます。
酸いも甘いも苦いも酒の味。まさしく人生ですね。
とても面白かったです。
良く出来てます。マスターがいい味を出してる。