「私の恋人になってよ」
「お断り致します」
――風下に立ったが、うぬの不覚よ。
早苗さんに借りた、剣劇小説が思い出される。
尤も、この場合は逆だろう。風上に立っては、自慢の鼻も役に立たない。
彼女に気付けなかったのが哀しい。
「開口一番に告白とは、一体何事でしょうか」
「散歩してるあんたが見えたから」
散歩と告白は、同列にあるのだろうか。
声の主を探して、蛇の目傘を傾けた。仰いだ顔に雨滴を感じる。
「姫海棠さん。恐縮に存じますが、私は哨戒に当たっております」
「そう? まぁそれはどうでもいいから、恋人になってよ」
世に溢れる色恋は、こうして突然生まれるものなのだろうか? それはないだろう。少なくとも友人達は違う。
文さんと早苗さんは両思いになるまで、幾度も月が満ち欠けをした。にとりと雛さんの場合は更に長い。赤子が大人になる歳月を数え、ようやく恋を実らせたのだ。
ならば私と姫海棠さんは? 知り合ってから数百年。うむ、過ごした時間には問題が無いようだ。この告白は唐突という訳でもないか。いや、肝心なのは年月ではない。彼女とは良くて知人の関係だというのに何故? ああ、幾ら悩んだところで埒が開くまい。
「一先ず場所を移しましょう。手近に休憩所の心当たりがございます。そちらで御説明を願えませんか」
そう簡単には引き下がらないだろう。せめてもの妥協案だ。
「面倒くさいこと言うわね」
「恐れながら、この雨もございます。話を続けるには、少々適さないかと存じます」
それと、見上げ続けたせいで、首が痛くなってきた。
「そういえば羽がちょっと重いかも。仕方ないから付き合ってあげる」
首どころか頭も痛くなりそうだ。
私の平穏な時間が、雨滴に溶け込み流れていく。
***
ほんと面倒。
***
木立を抜けて、届く遠吠え。
傍を流れる河へ呑まれ、消えていく。恨みがましく聞こえたが、実際そうなのだろう。時ならぬ哨戒任務を強いられたのだ。声にも嘆きが籠るというもの。申し訳ない、我が同僚。
けれども私とて無念なのだ。それに、むすっとしてる姫海棠さんが怖い。引継ぎを請う遠吠えにも嘆きを込めた。どうかこの思いを聞き取って欲しい。
「休憩所ってここだったのね」
「はい、姫海棠さんも一度いらしたと聞いております」
例年ながら、屋根を建ててくれたにとりへ感謝したい。
梅雨の雨も、真夏の日差しも防いでくれて助かる。
「ああもう、羽重い」
両腕を広げても敵わないだろう、大きな翼が震えている。撒き散らされた水滴が、乾いた土に染みを作った。
傘を隅に置き、広げて乾かす。先客が描いた地面の模様に、水滴が新たな丸を付け足し始めた。
「結構濡れたわ」
「その様ですね」
河に飛び込んだと言われても納得できる姿だ。短い同行では傘を差しかけたものの、焼け石に水とはこのことだろう。水と言うのも何かしっくり来ないものがあるけれど。
「どれ程雨に打たれていらっしゃったのですか」
「昼前から今までだから。一刻ちょっとくらい?」
なるほど、長い時間を掛けたなら合点もいく。
湿り気がまだ残っているのだろう、背中を覗いながら翼を小刻みに震わせている。
私の尻尾はどうだろうか? うむ、大丈夫そうだ。
「如何なさいましたか。雨宿りなり、風を使って防ぐなりなさってもよろしいでしょうに」
「そう、それよそれ」
スカートを絞る指の間から、水滴が勢い良く零れ落ちた。その手には親の仇を握っていると言うのか。布地が痛まないか心配になる。差し出がましいが、注意した方がいいだろうか。
「だから恋人になりなさい」
「厚かましく存じますが、どうか順を追って御説明ください」
大層な仏頂面をしているものだ。新聞に行き詰った文さんと比べても遜色がない。やっぱり怖い。
「分かったわよ。愚痴聞いてもらえるんなら、ちょっとは気が晴れるかもしれないし」
この岸辺にある小さな空地は、四季を余さず映してくれる場所だ。新緑に燃え、紅葉が照り、雪化粧が煌く木々の様子は心を宥めてくれる。そして河のせせらぎは耳に心地良い。穏やかに我が身も流れていくように感じて、気持ちが静まる。
誰であろうと安らぎを得られると思う。そう思った。
「何で文が山の巫女と付き合ってんのよ!」
姫海棠さんが怖い。
どれだけ話し続けたことやら。そろそろ傘が乾いたかも知れない。うむ、やはり乾いているようだ。姫海棠さんの服からも、湿り気が抜けてきているようだから当然だろう。お八つとして魚を獲るつもりだったが、これでは暇なぞあろうはずがない。そろそろ鮎が旬だというのに惜しいことだ。お腹が減ったし、将棋を指したい。
あちらこちらに跳ね続ける話題を拾い集めて、何とか事情を把握できた。
曰く「文さんが挙動不審である。出会っても皮肉の一つも言わず、忙しそうに飛び去る」
曰く「文さんの写真を念写してみると、早苗さんと二人で写っていた。それも幾葉となく」
曰く「記事に使わないものは撮りたがらないのに奇妙だ。異変に違いない。もしくは病気」
結果、心配と興味から文さんを探して、二人のデートを目撃してしまった訳か。
姫海棠さんの濡れそぼった姿は、観察し続けた証だろう。身を潜め、雨に打たれた苦労が良く分かる。
「あの唐変木で新聞しか見てない捻じ曲がった一直線の文が! どういうことよっ」
返事はしなくても構わないだろう。あってもなくても変わらないことは、大分前に学んだ。連なる愚痴を整理したなら、”羨ましくなった”の一言で済むということも学んだ。
けれども何故、求める恋人の候補に、私が挙がったのだろうか。
「しかも口付けまでしてんのよ。何あれ、見せつけてんの?」
「無礼をお許しください。早苗から聞くには、口付けを”キス”とも呼ぶようです」
「どうだっていいわよそんなことっ!」
肩が忙しなく上下している。にとりから見せられた蒸気機関とやらも、こんな様子だったか。
何れにせよ、口は止まった。ここで知らぬげに続けられる程だと、いつまで掛かるか分からない。
「仰りたいことは凡そ承知致しました。しかし何故、女の身である私なんでしょうか。素敵な殿方なら幾人でもいらっしゃるでしょうに」
「殿方?」
口角が持ち上がりはしたものの、目が笑っていない。余計なことを口にした気がする。
想像しているだろう嫌なものを、今にも蹴りつけるのではないだろうか。
「そんなの土下座されても願い下げよ」
本当に蹴り飛ばした。屋根の外で舞う土に、何処か怨念めいたものを感じる。やっぱり怖い。
「山で目に付く殿方なんて、どいつもこいつも禄でもないわよ。助平か、自惚れ屋か、独占欲満載のどれか。うっかりしたら全部なんだから」
分からなくもない。天狗は往々にして、胆力と精力に溢れている。それを良しと見るか、悪しと見るかは個人次第だろう。そして姫海棠さんは生憎後者だったという訳か。
「あんたなら少しは知ってるし、その真面目なところって嫌いじゃないのよ。それに他の男と違って謙虚だし」
嫌われるよりかはましなのだろうが、男の天狗と比べられても困る。
「だから、私の恋人になってよ」
そう言われても、困る。
***
うん、まぁこんなもんか。
相手が誰だって、楽しければいいや。
***
水嵩を増した流れが川岸を削り、間断なく音を響かせている。
竹が敷かれた屋根は、雨の跳ねる拍子を延々と刻むばかりだ。
ややもすれば、この淡々とした調子に眠気を誘われるだろう。けれども今は将棋を指しているのだ。まかり間違っても、将棋盤を枕代わりなぞにはしたくない。
「それでOKしちゃったんですか?」
「”オーケー”? ああはい、受けました。姫海棠。もとい、はたてさんに放してくれる様子は見えませんでしたから」
「その言い直しって八回目だよ、椛」
尻尾の座りが悪い。長椅子はいつもと同じだと言うのに。
にとりも律儀に数えなくてもいいと思う。全く厄介な事だ。何故このような羽目になるのか。二日前まであった平穏は、どこに消えたのか探しに行きたい。
「にとりも私を呼び間違えてたことがあったわね。その後で、しどろもどろになって慌てる姿はかわいかったけど」
「あったねー。もう”鍵山様”とか”河城さん”に戻るなんて御免だよ」
二人が姓で呼び合っていたのは、一年に満たないはずだ。それですら間違うのだから、幾百の歳を数えても変わらなかった私は言わずもがな。
ああ、変わったこともあった。”姫海棠”へ”様”を付けないよう命じられたのは何時だったか。
「それで明日、お二人はデートなんですか」
「ええ、早苗さん達のものを再現したいそうです。弁当も作るよう言われました」
あの決断力はどこから来たものか。付き合うことを決めたその場で、今後について、あれこれ捻り出し始めた。はたてさんを指して、”悠長”だの”引きこもってばかりの面倒くさがり”だのと文さんは言う。しかし、そうした部分はどこかへ吹き飛んでいたようだ。見上げたものだと思う。尤も、皺寄せが私に来るのは喜べない。
「いいなぁ。雛、今度私達もやってみようか」
「本当、初々しいわね。それこそ何十年来か分からないわよ」
明るく微笑み合っている様は、心が和らぐものだ。うららかな日差しを浴びて、二輪の花が咲いているかにも見える。はたてさんとも、このように笑い合えたらいいと思う。
思うが、早々切り替えられるわけでもない。これまで精々が知人程度だったというのに、どうして躊躇いなく笑みを交わせると言うのか。
「王手」
にとりが桂馬で玉を捉えている。早くも詰みか。
「らしくないなー、椛」
「勝負は水物ですよ。こういうこともあります」
自分では普段通りのつもりだったが、難儀なものだ。
大体が鴉天狗と言えば、居丈高だと相場が決まっている。白狼天狗に好き好んで話しかける者は、そう居ない。文さんは例外としても、姫海棠……はたてさんは並の鴉天狗と大きく外れていなかった。今更その関係を崩せと言われても戸惑うだけだ。
「なんか悩んでませんか、椛さん」
「悩むと言えば、そうかも知れません。はたてさんに、どう接したものか迷っています」
横の長椅子に顔を向ければ、早苗さんが足を揺らせている。暇を持て余した童にも見えるが、表情に稚気は無い。心配を掛けてしまっただろうか。時折、妙に察しの良いところを見せる彼女だ。それでなくとも、私がこんな体たらくでは気付きもしようというもの。
「椛さんって真面目だし面倒見がいいし。気負いすぎてるんじゃないでしょうか」
「そうなんでしょうかね」
はたてさんにも真面目と言われた覚えがある。そこまでとも自分としては思っていないが、岡目八目を信じた方がよかろう。であれば肩に力が入っていたということになる。けれども好意を持たれた理由というのに、力を抜いても良いものか。
何とはなしに目で追っていた袴が、揃えた足の動きに合わせて波打つことを止めた。
「はたてさんも本気じゃないみたいですから。気楽に構えても、大丈夫だと思いますよ」
そうなんだろうか。
***
お弁当どんなのかしら。
ていうか白狼天狗って何食べんの? 狼だし、やっぱり肉?
まぁいいか。
そう言えば、何着て行こう。
”ごっこ遊び”だし、適当でいいわよね。
***
戸外からは、豆がまばらに落ち続けるような音。
生憎なのか丁度良くなのか、はたてさんが望んだ通りに雨が降っている。
幸い休みは取れたものの、訳を話した同僚から背中を豪快に叩かれた。乙女の柔肌を何と心得ているのか。乙女という柄でもないか。そもそも叩きつけられた掌には発破もあったが、任務を穴埋めさせられる憤りも籠っていたと思う。先だって、不意の引継ぎを頼んだせいもあるかも知れない。
彼女には後程、酒を持って詫びに行こう。
しかし、はたてさんは何故、私を迎えに来ようというのか。恐れ多く思えて落ち着かない。何度戻したところで、尻尾が垂れ下がる。箒ではないというのに。ついでにむずむずしてる。揃えた毛並みが台無しにならないだろうか。見苦しい形を見せることになりそうだ。
悩んでも仕方が無いか。弁当は用意したから、ただ待つのみだ。
「椛、いる?」
まったく。普段は戸が破れそうな叩き方を、同僚からされているだろうに。何故、これ程に穏やかな音で、震え上がらねばならないのか。
心残りではあるが、尻尾の手入れには折り合いを付けねばなるまい。十と幾度かはしたはずだから、多分大丈夫だろう。それにしても櫛が名残惜しいものだ。いや、愚図愚図しては失礼になる。早く出迎えねば。
衣服を乱さない程度に、足早で土間に降りる。
「お待たせ致しました、姫海棠さん」
戸を引いた向こうには蛇の目傘。雨で薄らと霞む景色を背にして、見知らぬ人が立っている。
天狗が好む一本歯の下駄。柘榴のような瞳に合った桃花色の薄物は、ともすれば暑苦しく見えるだろう。けれども襟元から覗く長襦袢と、夏帯の白さによって涼しげに為っている。高く結い上げられた胡桃色の後ろ髪からは、お転婆な印象を多分に受ける。それを簪に付いた赤紫の薬玉が、凛と引き締めていて見栄え良い。
「おはよう、椛。はたてって呼ぶように言ったでしょ」
なるほど、誰かと思ったが声は確かにそうだ。
「無礼を働きました、はたてさん。お召し物が品良く、似合っていらっしゃいますね」
「誉めてくれたのは嬉しいけど」
言葉と共に、目尻が上がった。蛇に睨まれた蛙でもあるまいし、身を竦ませては失礼だろうに。
「”無礼”とかいらないから。もうちょっと柔らかくならないの?」
「失礼を承知で申し上げます。鴉天狗の方々には、礼を尽くさねば為りません」
「だから、そういうのがいらないって言うのよ。あんた恋人になってくれるって言ったじゃない」
うむ、なかなかに難しいものだ。しかし、望むところは理解できる。口調や態度によって距離を感じるようであれば、到底恋人などとは言えないだろう。ならば心苦しく思いはしても、彼女に出来る限り尽くさねばなるまい。
「配慮が足りませんでした、すみません。内々で遣う言葉は、こうしたものになりますが、満足してくれますか」
ああ、また尻尾が垂れて震えてる。背に汗も掻いている。せめて、きつい眼差しで睨むことを止めて貰えれば、幾分かは気楽になれるだろうに。見る限りは、そうもいかないようだ。
思えば文さんは本当に例外だ。ちょっかいを出されては返している内に、砕けた間柄になっていたことには驚く。鴉天狗と皮肉を言い合う仲になれるなぞ、考えもしなかった。はたてさんとはどうだろうか。
「まぁいいわ。それが地って言うんなら仕方ないし」
「ありがとうございます」
命は取り留めたか。
「頭下げるのも止めなさい。面倒くさくて嫌いなのよ」
安堵から吹き出た汗が、一転して冷え込んだ。
気を抜いた途端に、元へ戻ろうとする私が哀しい。
どうやら彼女に慣れるまで、心が休まることはないようだ。
***
始めに服を誉めてくれるって、結構気が利くわね。
文なら皮肉の一つも言いそう。「熊なら魅力を感じるかも知れないわね。美味しそうって」とか。うん、言いそうだ。
三日悩んだのに、そんなこと言われたらカメラ叩きつけて……駄目ね。大事な相棒なんだから。
それはともかく、すごく緊張してるみたい。もうちょっと気楽にしてくれないかなぁ。
楽しくない。
***
紗が薄らと掛かる雨の中。木の葉と紙に、軽く当たる水滴が、奏でる音は心地良い。
はずだが、どうにも緊張が抜けない。節々が強張っていると分かる。尻尾が勝手に袴へ潜り込みそうだ。何かしら物音が茂みから立てば、私は逃げ出すのではないだろうか。むしろ何もなくとも逃げたいが、どうしたものか。
いや、その様な醜態を晒すわけにはいかない。何より、恋人の振る舞いではないだろう。騒ぎ立てる心は鎮めて、はたてさんを持て成さねばなるまい。
「しかし、そのような装いもするのですね。動き易いものが好みだと思っていました」
「何それ皮肉? 山の巫女がお洒落してたから、頑張らなきゃって思っただけよ。悪い?」
はたてさんが持ってきた、蛇の目を差し掛け森を歩く。早苗さん達のように、”相合傘をしてみたい”と言われれば頷くしかない。けれども二人並ぶと窮屈だ。隣から届く香気で、否応無く緊張させられる。歩調が違うためか、少しばかり歩き辛い。彼女は大丈夫だろうか。
「いえ、素敵だと思ったのは確かです。ただ、見掛けていた様子とは随分違いますから戸惑いました」
「なら良いわ。でも、あんたもちょっとは飾り立てなさいよ。何その格好
叱られる。
「と思ったけど、それがあんたなのよね。仕方ないか」
お許しを頂けたようだ。
確かに尻尾へ感けていたばかりで、身形には気を配っていなかった。白の小袖に黒の袴。改めて見ると、大層味気ないものだ。早苗さんはデートでいつも張り切っているというのに、情けない。
「それ、普段着?」
「ええ、気が利かなくてすみません」
「別にいいって」
ああ、視線が刺さる。
この先私は身を竦ませ続けるのだろうか。これでは近い内に緊張で、倒れるだろうことは想像に難くない。どうしたものか。
救いを求めて空を見上げても、蛇の目が視界に映るだけだ。傘に張られた朱色の紙は、そ知らぬ顔で音を立て続けている。何とも薄情だと思う。いや、物に八つ当たりなぞしても、お門違
「変に見えるはずね。やっぱりサラシきつ過ぎ」
なに? 胸?
「これ、苦しいでしょ。何でこんなことしてんのよ」
つかまれてる。尻尾しびれてる。
「何固まってんの?」
応えないと。
「ちょっと! 唸らないでよ何か怖いわよそれっ」
背中軽くなった。喉止めないと。力入らない。勝手に漏れてる。なら手で塞げば。ああ、傘が落ちた。姫海棠さんの物なのに、ごめんなさい。
「えーっと、椛?」
喉止まった。
傘どうなった。
「胸触って、ごめん。嫌だったみたいね」
「いえ、平気です」
良かった。骨にも紙にも何ら問題はないようだ。無事なら良しと言うものでもないか。姫海棠さんを雨に晒してしまった。いや、はたてさんだ。
不意を突かれたとはいえ、ここまで狼狽するとは情けない。まだ動悸が鎮まらない上に、毛が逆立ったままだと分かる。どうやら耳も伏しているようだ。
いやはや。嫌悪こそ感じなかったが、鷲掴みにされてはどうにもならない。
「そうは見えなかったけど」
「慣れぬことに戸惑っただけですから」
彼女へ改めて傘を差し掛けた。
顔が歪んでいる。少し掛かった水滴は、涙の替わりを務めているのだろうか。
「本当にごめんね」
ああ、何かと思えば、あれと似ているのか。にとりがまだ幼い頃の姿だ。
雪の中をはしゃぎまわったせいで、にとりが風邪を引いた。自業自得と申し訳なく感じたのか、心細いだろうに、泣き言一つ漏らさないまま寝ていた時のことだ。看病する私の様を、黙って見詰めていた顔は鮮明に思い出せる。
この目が特に良く似ていると思う。気遣わしげで、縋るように覗き込む目。ならば、にとりを安心させられる笑みで宥めれば、落ち着いてくれるだろうか。
「気にしないでください。何というものではありませんよ」
「そう?」
この調子で良さそうだ。
「ええ、心配してくれて、ありがとうございます」
「私が驚かせたんだから、そんなこと言わないでよ。大丈夫なら良かった」
まただ。これも似ている。胸に手を当てる仕草と、一つ溜め息。
「何? いきなり笑うとか」
「いえ、失礼ながら、はたてさんが童女のようで、かわいく見えましたから」
「何よそれほんとに失礼じゃない」
全くだ。
頬を朱に染め、怒る剣幕も良く似ている。にとりの場合ならば、こういう時は照れもあるのだと知っている。この様子ならば、はたてさんも変わらないだろう。
喉の奥から笑いが湧き続けている。参ったものだ。この私を見て、ますます彼女が怒るだろうに。
はたてさんとは、親しくなれるかも知れない。
***
笑わないでよ。
でも、良かった。
***
相合傘の中、森を歩き続ける。
先立って感じた窮屈さは、気のせいだったようだ。
互いに歩調を合わせれば、歩き辛いこともない。
「それで、何だっけ」
「”何”と言われても」
目を眇めて覗き込まれても、平常は失わずに済んでいる。
最前の私なら、這いつくばっていたかも知れないというのに。変わるものだ。
「うん、サラシね。何でそんなに締め上げてんのよ」
「ああ、そのことでしたか」
どう説明したものやら。
頭上を見れば、私達を雨から守る蛇の目傘。落ち着く朱色に、白の帯がぐるりと周る。
「三日前、恋人に私を選んだ理由として、”真面目”や”謙虚”を挙げましたね」
「そうね。そういうところ悪くないわよ」
小粒の雨滴が、拍子を軽く刻んでいる。
「その際に、私を天狗の殿方と比べていました」
「そうだっけ」
枝より垂れたか大粒が、思い出したかのように紙を叩いた。握った柄に、幽かな振動。
「はたてさんは、男性を求めているのだろうと考えました。ならば、僅かなりと私が女であることを、忘れられるようにしなければなりません。そう結論付け、この身を細めました」
恋人に選んでくれた以上、相応に振る舞わなければならない。そう考えたというのに、服装へ気を配らなかったことが悔やまれる。尻尾と胸で精一杯だったのだろう。思った以上に狼狽していたようだ。初心な乙女でもあるまいに情けない。
はたてさんは気に入ってくれただろうか。うむ、隣に居ない。何処へ? 二、三歩置き去りにしていたのか。気付かなかったとは申し訳ない。彼女を雨に晒してしまった。何やら妙な顔をしている。開いた口に、みかんが入りそうだ。
「真面目は好きだけどさ。クソ真面目はやめてよね、堅苦しい」
「どういうことでしょうか」
口をようやく戻したかと思えば、この言葉。気に入ってくれなかったのだろうか。
「もう、それきついでしょ。胸触っても大丈夫?」
「ええ、それは構いませんが。どうしましたか」
「巻き直すの。あんたは傘持っててね」
私は勘違いしていたのだろうか。理解が追いつかないまま、諸肌を脱ぐ。
雨音に混じって衣擦れがする中、はたてさんが怒気を含ませ話し始めた。息が肌にかかって、ちょっとくすぐったい。
曰く「男の天狗を引き合いに出した件は、性格を比べるためである。他意はない」
曰く「女が好きだ。かわいいなら喜ばしいが、椛は綺麗と言える顔立ちだ。惜しい」
曰く「椛は胸が大きい」
胸のことは言わないで欲しい。気にしているのだ。訓練や任務で、疎ましく感じる時が度々ある。救いと言えば、にとりが好んでくれていることか。まだ幼かった頃の彼女には、良く枕代わりにされた。
「分かった? 私は女が好き。誤解するようなこと言ったのは悪かったけど」
「すみません、早合点をしたようですね」
親しくなれそうだと思ったものの、道は遠いようだ。
今後は叱られないように、注意せねばなるまい。
「大体あんた、男の真似なんてしたら損よ。綺麗なんだし、胸大きいし」
まだ言うか。
「恐れ入りますけれど」
早苗さんの少女漫画には、確か。
「胸のことには触れないよう、お願い出来ますこと? 少しばかり気にしていますの」
うむ、これで完璧なはずだ。男でなければ、本来の女として接しよう。その手本として、女学生は打って付けと言える。”乙女心のなんたるか”を漫画で学ばされる文さんに、無理やり付き合わされた甲斐があったというものだ。
「何それ」
完璧なはずだ。そう思ったが。
「はい、あの、乙女として振る舞おうと考えまして。お気に召さなかったかしら」
はたてさんの開いた口にはみかんが入るだろう。河童の機械が脈絡も無く小爆発したなら、こういった顔になるかも知れない。サラシに付いて説明した時よりもひどい。もしかしなくても失敗なんだろうな。尻尾が垂れた。また叱られる。
「極端過ぎるわよバカ!」
怒声。やっぱりだ。
「あんたかわいいとこあるのね」
かわいい? よろめいて……ああ、傘から出てしまう。追いかけて。笑ってる? なんで?
「気を付けてください。雨に打たれてしまいます」
「駄目。肩貸して。もう無理」
「それは構いませんが」
釈然としない。
痙攣が収まったかと思えば、私を見てまた笑い出す。幾度繰り返したことやら。終いには、苦しそうに咳き込みだした。とりあえず背中を撫でて介抱する。面白くはないが、先程彼女を見て私も笑ったのだ。お互い様と言ったところか。
けれども、ここまで笑われると羞恥も感じる。女学生は、どうやら私の柄では無かったのだろう。今後一切しないことを固く誓う。
「あー、笑った。真面目でも面白いとこあるじゃない」
「ありがとうございます。楽しんで頂けたようで何よりですよ」
「何? 拗ねてんの?」
「そうかも知れませんね。私は真剣だったんです」
大人気ないとは思う。それでも腹立たしさは変わらない。
”真面目”を長所に挙げてはくれたが、これでは良いのか悪いのか分からない。
「何このわんこ。かわいい」
重い。はたてさんの香気が強まった。重心を上手く取れない。
「抱きつくなんて、何をいきなり。それに私は狼です」
「いいからいいから」
私は良くない。
「もうちょっと固いかなーって心配してたんだけど。あんたかわいいわよ」
「喜んで良いのか悩みますね」
「素直に喜びなさいよ。私は嬉しいんだから」
安心しきった幼子と、然したる違いも無い笑顔。
参ったものだ。これでは怒る気にもなれない。それに、
「そう言うなら、ありがたく受け取っておきます」
「もうちょっと柔らかくって言ってるでしょ」
「善処しますよ」
どうも尻尾が忙しなく振れているようだ。まったく。先刻までの緊張は、一体何処に消えたというのか。
はたてさんのことは、”怖い鴉天狗の一人”と思うばかりだった。一挙一動に逐一怯えていたのだ。けれども僅かな間に、”親しくなれるかも知れない”と考えを改めた。そして今、旧来の友人に対するような親しみを抱いている。
奇妙なものだ。そう感じはするが、この距離は心地良い。恋人に選ばれなければ、私にとって彼女は”怖い鴉天狗”で在り続けたのだろう。親しくなりたいなぞ、考えもしなかったのだろう。
女として生まれたことを、嬉しく思う。
***
何これ、ほんとかわいい。
真面目に考えてくれたってすごく分かる。そういうところ、すごくかわいい。
変なことで悩んで、空回りしたところもそう。それで顔赤くして、拗ねて笑って。
かわいいなー、椛。
あの時は綺麗な人って思っただけだったけど、近寄らないと分からないものね。
***
「愛想無いわね」
右手の長椅子から、詰まらなさそうな声。
屋根から響く雨音に混じって、少しばかり鬱々とも聞こえた。
「申し訳ない」
彼女の手には握り飯。傍には山女の干物が控えている。
いっそ休憩所から出て、川魚を何尾か獲ってきたものか。
「任せっきりにした私が悪いから、文句言えないけど」
「申し訳ない」
「謝らないでよ。いつも昼はこれなの?」
「ええ、手軽なものですから」
参ったものだ。”弁当”と言われれば、任務に携える腰弁当しか頭に無かった。これも緊張した結果なのだろう。
デートで食した内容を、早苗さんに聞いておけば良かったか。そもそも少女漫画にも、恋人同士で様々な物を持ち寄る場面があった。霞む記憶を頼りながらであっても、参考にしていればと悔やむばかりだ。何とも気が利かない。
「その尻尾の動き方、ゆっくりだけど妙に気になるわね」
「ああ、すみません」
うむ、気付かなかった。腰に敷けばなんとかなるか。毛並みが乱れるけれど仕方ないだろう。自力で止められる気がしない。それにもう乱れているから今更だ。この調子では耳も……伏している。これ戻るかな?
「何してんの?」
「ええ、耳に少々力が入っているもので」
「面白そうね。ちょっと触らせて」
早苗さんにも何度となく撫で擦られている。今更抵抗がある訳でもない。
はたてさんは、やたらと体に触れてくる性格のようだ。休憩所を昼食の場と定めた道中、ことあるごとに手を肩や腕に置かれた。尻尾の毛並みも、その餌食となる。胸の一件も合わせて、今朝から続く態度は傍若無人とも取れるだろう。
けれども、不快ではない。死角から不意に触れてくることはないし、また尻尾の際には”大丈夫か”と確認も取られた。気遣いが良く分かる。
”素直な性分”と言うことなのだろう。明け透けで物怖じをせず、興味を惹かれるものには体で当たる。そして優しい。
なるほど。海千山千な文さんとは、馬が合わないのも当然くすぐったい耳くすぐった
「わふっ」
「わっ。ごめん、嫌だった?」
油断だ。触れるにしても、早苗さん程度だろうと高を括っていた。
「いえ、嫌ではありません。ただ奥までくすぐられると、どうしても体が動きます」
「そっか、ごめんね。うん、満足したしここまで。変な声もかわいかったし。ありがとね」
「どういたしまして」
椅子に戻って、握り飯に噛り付く様子までは先刻と一緒だ。けれども片手を脇に着き、両足を揺らせ始めた点は違う。素直が行き着いて、童女になったのかも知れない。どうやら機嫌を直してくれたようだ。何にせよ、これで一安心と言ったところか。次回があるなら華やかな弁当を用意しよう。
さて、私も腹拵えだ。と思ったが、その前に尻尾を戻そう。腰に敷いた部分は毛先だけだが、ちょっと痛い。
「そう言えばさ」
うむ、口が干物で一杯だ。早く飲み下さねば。
「ここって綺麗よね」
「ええ。ですから、皆が集う場所にも為りました」
雨に煙る川岸を眺めれば、彩り豊かな季節が見える。
小さく咲き誇る淡い紫は菫の色。やや下生えが深い場所には、紫陽花の青が踊る。赤く点々と散る花は鳳仙花だ。
「あのさ」
「何でしょうか」
揺れる足は止まり、続くだろう言葉が来ない。
童女のようだと先程は思った。桃花色の薄物に、高く結い上げられた胡桃色の後ろ髪。無垢な笑顔も合わせて、大層幼げに見えたのは当然だろう。その稚気が、かわいいとも思った。
しかし今の様子は違う。涼しげな白の夏帯に、上品な赤紫の簪。薄らと紗が掛かる対岸を、何処か芒洋と見詰める眼差しは儚げだ。これが”綺麗”というものなのだろう。
「花って、好き?」
「ええ、好きですよ。四季折々が見て取れますから」
流れが川岸を削っている。周りに満ちた雨の匂い。申し訳程度に雨蛙が鳴いた。
最前の私ならば、この沈黙に脂汗を垂らしていたことだろう。けれども今は、静かに待てる。
細い指先が、対岸に向けられた。
「あの白い花は、どう?」
「好みです。新緑に映える小さな白は、爽やかで力強い」
小林檎の木々だ。根元へ名残惜しげに花弁を蓄えている。
もうしばらくで、全てが散るのだろう。
「それと花から外れますが、秋には紅い実を着けます」
もう一つの理由は少々気恥ずかしい。気にし過ぎだろうか。
「白い花は、来たる”紅葉”も思い起こさせてくれるのが嬉しい。私が”椛”であることからの贔屓目ですが」
「そっか」
再び沈黙。彼女の肩越しに見える森は、細かく散る水滴に霞んでいる。
小さく、それでも鮮明な帯の白。身を包む、可憐な桃花色。はたてさんの姿は小林檎とも思える。
「あれの写真、あるのよ」
袂を探る顔に表情が見えない。何かあったのだろうか。
また尻尾が不安に振れ始めた。どうしたものか。
「これ」
財布から取り出された、一葉の写真。縁がところどころ破れ、少々色褪せている。
過ごした長いだろう時間を纏っているが、折り目や癖は付いていない。大切に扱われてきたのだろう。
「綺麗ですね。先程は”力強い”と言いましたが、この白には包み込むような優しさも見えます」
「そう言ってくれると思った」
弾んだ声には喜色が浮かんでいる。
無表情の怖さから解放されたか。ありがたい。
「はたてさんが撮ったのですか」
写真から視線を上げれば、妙に強張った顔が見える。
声は嬉しげに聞こえたと思ったが、気のせいだったのだろうか。
「やっぱり、忘れちゃうよねー」
私は何か粗相を働いたのか。
「どうしました。大丈夫ですか」
「何が?」
気が付いていないのか。
「涙が流れていますよ」
「ほんと?」
指で目元を拭われた顔に、小さな驚きが見える。
本当に気付いていなかったのか。一体彼女に何があった。
「あー、これってなんでだろうねー」
介抱の申し出は、柔らかに拒まれた。デートはお開きとなる。
長椅子に座る握り飯が、無性に寂しく見えた。
尻尾が垂れて、戻らない。
***
私が飛び回ってる。
やっとカラーフィルムが手に入ったんだから、舞い上がるのも当たり前。
貴重だから無駄遣いは出来ない。でも、絶対撮ろうって前から決めてたものがある。
私が跳ね回ってる。
大好きな花が色付きで撮れたんだから、はしゃぎ浮かれるのも当たり前。
一人だけで眺めてるのは、すごく勿体無い気がする。誰かに見てもらいたい。文とかどうかな?
私が落ち込んでいる。
そうだよねー。悔しいけど、文の言う通りかも。こんなの記事に出来ないし、ただの無駄遣い。
何? あんた見たいの? うん、見て見て。
どう? やっぱり詰まらないでしょ?
――いえ、私はこの写真が好きです。優しい白ですね。
ほんとに小さな思い出だから、仕方ない。
けど、覚えてて欲しかったなー。
なんで私、泣いてるんだろう。
***
そろそろ梅雨も明ける頃だ。
しかし細雨は、屋根を静かに濡らし続ける。
河の水嵩が増す程ではないけれども、滅入るものだ。
「やっぱり思い出があるのでしょうね。何か心当たりはないの」
「はい、小林檎にまつわるだろうと見当は付きますが、それ以上は何とも」
「小林檎ね。一緒に見たことでもあるの。その場で撮った写真が、思い出になったのなら分かるわね」
「いえ、ないはずです。会っても一言、二言交わすだけの関係でしたし、それすらも稀でしたから」
「そうなると、何かしらね」
雛さんも考えてくれているようだ。しかしはたてさんとの付き合いは、それこそ限られた回数しかないだろう。やはり私が思い出すしかあるまい。けれども、かれこれ一週間悩み続けている。今更どうこう出来るだろうか。
「思い付かないわね。でも、悩まなくてもいいんじゃないかしら。気にしないよう言われたのでしょう」
「それは文面でしたから。実際、構わないままで良いのか分かりません」
使い魔だろう鴉が、届けてくれた簡素な手紙。内容と言えば、簡潔な文が綴られているだけだ。
哀しんでいるのか、何ということもないのか見当が付かない。参ったものだ。
「些細でも大切に思える事はあるわね。私もにとりが告白してくれた日の事なら、何を食べたかまで覚えているから」
「にとりもその様ですね。始めの頃は、良く聞かされました」
「ええ、とても嬉しいこと」
目を細めた微笑みは、陽気に浸り微睡む猫とも見える。
陽だまりなぞないと言うのに。羨ましい。私の中には雨雲が広がるばかりだ。
「そう、同じ思い出を持てたなら嬉しい。でも、それをあの子は我慢して、心に仕舞うと決めたのでしょうね」
「そうでしょうか」
「ええ。取るに足らないと決め付けたのか、貴方に押し付けたくないと考えたのか。どちらにしても、愚かで優しい子」
はたてさんは優しい。それは一刻も経たぬ内に分かった。
だからこそ、尚更に気掛かりだ。
「あの子がそう望むなら、貴方は気にしないようになさい」
「難しいものです。いっそ直に訊ねた方が良いのではありませんか」
「恐らくだけど、話してくれはしないでしょう。そして、余計に我慢させると思うわよ」
もどかしい。小林檎に一体何があったと言うのか。
「そんなに悩んでいたら茹で上がるわよ。別のことを考えましょうか。今日もデートなんでしょう」
「はい、この間の続きをしたいそうです」
手紙に添えられた次回の誘い。使い魔に承諾を伝え、今日になった。任務が早番になるため、同僚へ迷惑を掛けずに済むからだ。
けれども、また掌を背に受けた。このままでは手形をした紅葉が、肌から落ちなく為りそうだ。もう少し手加減をしてもらいたい。尤も恨みはなく、純粋な景気付けだったのはありがたく思う。
「ああ、もう一つ悩みがありました。すみませんが、こちらも相談に乗ってもらえませんか」
「何かしら」
デートの言葉で思い出した件。むしろこちらの方が問題かも知れない。
「はたてさんに対して、にとりや早苗さんに抱く心しか持てないようなんです」
「どういうことかしら」
「端的に、父母の持つ慈愛と言ったものでしょうか」
「そういうこと。それでいいと思うけれど。あの子、かわいいから」
「いえ、これでは恋人に選んでくれたと言うのに、はたてさんへ失礼です」
問題だ。色恋に臨みながら、童の遊びに付き合うような気持ちしか無かった。
それにしても何故、雛さんはこのような表情をするのか。デート中にも見かけた呆れるような顔。また叱られる?
「本当、頑固で優しい子」
よかった。微笑んでくれたし安心。
「付き合い始めて、まだ一週間でしょう。もっと気楽になさい」
「そのようなことで構わないのでしょうか。私を真面目だと言って好いてくれたというのに」
「そうね。ちょっと聞いてくれる」
安心はしたものの、やはり不安には変わりない。
「私もね、にとりが告白してくれるまでは、ずっと姉になった気分でいたのよ。いつまでも変わらないと思っていたし、実際変わらなかったと思うわ。
それでも、あの子が友人としてじゃない”好き”を伝えてくれた時、『私はにとりが好きなんだ』って気付いたの。そして付き合い始めた。最初は小さな恋だったのよ。貴方の言う”慈愛”に隠れてしまいそうな程、小さな恋。
だけどね、芽生えた恋心は少しづつだけど、確かに育って来たのよ。そして、今の私が居る。とても大きく育った恋に満たされているの。けれど、姉としての慈愛は変わらないまま。二つが溶けて、混ざり合って、あの子がただ愛しいと想う私が居るの。
頑固で優しい椛。恋と慈愛は、一緒に持てるのよ。貴方が悩んでいるように、不義を感じることはない。だから」
安らぎに包まれ、眠りたくなる穏やかな微笑み。
これが”姉”としての顔なのだろう。
「そのままでいなさい。変わりたいと思ったなら変わりなさい。貴方の気持ちを大切になさい」
「貴方へ誠実であることが、あの子への誠実になるのよ」
***
どうしよう。
私が無理やり決めて、勝手に切り上げて、また約束して。我侭よ。
椛、きっと怒ってるよね。とりあえず謝って、許してくれたらいいけど。
大丈夫。椛は優しいから、許してくれると思う。多分そう。
じゃあ、どうしようか。どんな顔で会えばいいかな。続きって言っても、楽しんでくれるかな。
ああもう、なんでこんなことで悩んでんのよ。
ただの”ごっこ遊び”じゃない。気楽に楽しみましょ。椛と一緒に暇潰しできればいいのよ。それで十分。だから、
写真はもう忘れよう。邪魔にしかならない。捨ててしまえばいい。
詰まらない思い出だから。本当に詰まらない、小さな思い出。
私の大切な思い出。
***
雛さんはにとりを訪ねるのだと言う。機械に入れ込み徹夜をしているならば、心配にもなるだろう。いつも通りではあるけれども、気苦労が絶えないものだ。
”根を詰め過ぎないように”と伝言を頼んだが、私が言うまでも無いか。雛さんが居るなら大丈夫だ。
そもそもにとりの心配をしている場合でもなかろう。今はもう八つ時を迎え、少々経っているはずだ。はたてさんから伝えられた刻限に近いか、もう過ぎていると思う。私がすべきことは待つだけだ。
しかし弁当を頼まれなかったというのは、哀しむべきか、喜ぶべきか。昼でもないのだから、用意する必要はない。それは当然だ。けれども前回、落胆させてしまったというのに、このままでいいものか。いや、機会はまたあるかも知れない。焦らなくても構わないはずだ。雛さんや早苗さんに言われた通り、気楽にしよう。
悩みの種と言えば小林檎だが。こちらも気に掛けぬように、努めるしかあるまい。思い出せる時が来ることを願うだけだ。気楽にしよう。
何より問題なのは、不安に振れる我が尻尾。うむ、止められる気がしない。とりあえず手入れだけしておこう。その内、落ち着くかも知れない。
「お待たせ、椛」
音も無しに飛ばれては、やはり彼女に感付けないか。自慢の鼻が折れそうだ。
「はたてさん、こんにちは。雨の中、大丈夫でしたか」
「まぁ小降りだし。でも、やっぱり鬱陶しいわねー」
小走りで屋根へ駆け込む横顔には、天気へ不満を述べるありふれた表情。声音に憂いは見当たらない。小林檎は気にする程でもなかったのだろうか。しかしそれなら、あの涙は? ああ、また考えている。気楽にだ。普段通りを心掛けよう。はたてさんにも変わった様子は見受けられない。傘と翼から水を振るい落としている姿には、特段おかしいところはないと思う。
と言っても、見た目は随分と大人しいものだ。落ち着いた黒の夏帯に、矢絣を纏う栗色の薄物。簪の薬玉は前と変わらぬ赤紫だ。一見だけなら地味とも言えるかも知れない。けれども緋色の帯留めが華となり、全体を上品に纏めている。
「何その格好」
新手の妖怪を見たように訝しがられるとは、哀しい。
いや、笑われるよりかはましだろう。
「私なりに考えた結果です」
尤も、努力は早苗さんのものだ。相談したところ、色々と快く貸してくれた。ありがたい。
何着か着飾るための服はある。けれども殆どは祝賀のためで、華やかさはあるが堅苦しい。はたてさんは望まないだろう。
まず反物を調達し、小袖なり浴衣なりを仕立てることを考えた。”一週間では間に合わない”と諦める。ならば出来合いはどうか。時勢に疎く不慣れのため、こちらも却下される。
結果として借りる手を考え、早苗さんに行き着いた。にとりや雛さんも思い付いたが、少々身頃が合わないだろう。
「どうでしょうか」
――折角だから、かわいさ方面で大胆に行っちゃいましょう。
無闇に乗り気な早苗さんから、逐一説明を受けつつ渡された一式。
肩口が膨らんだ淡い水色のシャツに、余裕を持った白のキャミソール。やはり白のショートスカートには、レースが付いている。少々気恥ずかしい。余り尻尾を妨げなくて結構だが、私の柄とは思えない。”ならば”とパンツを勧められたが、丁重に辞退した。流石に穴を開ける訳にはいくまい。そして残りは自前の、足袋と下駄。”画竜点睛”云々と早苗さんは不満げにしていたけれど、履き慣れたものが一番だろう。それと靴は少し苦手だから。
「ちょっとだけ、動かないでね」
気に入ってくれるだろうか。
睨みはされないけれども、視線があちらこちらへ突き刺さる。やはり落ち着かない。爆発するかも知れない河童印の機械を前にして、拘束されたまま座っているようだ。足に向けられた目が、僅かに細められた。上司に咎められる直前の雰囲気。尻尾が震えてる。
「うん、夏っぽくていいと思うわよ。それに女の子って感じがする。こんな風にかわいくなれるのねー」
「ありがとうございます」
よかった。これで一安心。早苗さんから太鼓判を貰えはしたものの、なかなか不安は消えなかったのだ。
それにしても何故、ここまで近寄るのか。眺めるだけなら、離れた方が具合はいいだろうに。随分と顔が近い。千里眼に頼らずとも、睫毛の一本まで詳細に見える。雨と土の匂いが綺麗に消えて、はたてさんの香気のみが鼻に届く。前々から思っていたが、薔薇に蜜を混ぜ込んだなら、こうなるのかも知れない。はて、腕? なるほど。服に阻まれて肩を上げ辛いなら、背伸びをしたのも納得が行く。嬉しい。
「ところで、これって何」
撫でてくれると思ったけれども、勘違いだった訳か。ちょっと哀しい。
「ああ、それはですね」
――とことんまで、あざとく狙っていきましょう。はたてさんのためなんです、別に私が椛さんのかわいい格好を見たいとかじゃありませんよ。
忘れていた。
耳の妨げになるかとも思ったが、案外に馴染むものだ。
「カチューシャと言うそうです」
「へぇ、黒ってあんたの髪に合うわね。小さいリボンもかわいいし」
くすぐったいくすぐったい。何故、耳を触るのだろう。カチューシャならそっちではくすぐった
「わふっ」
「あ、ごめん。ちょっと撫で過ぎたわね」
「いえ、構いません。慣れてますから」
とは言っても、早苗さんやにとりの遣り方に対してだ。擦ったり、突付いたりなどなら大丈夫。
しかし指を這い回すなぞ、はたてさんが初めてだろう。どうしても体が跳ねる。更にはこれで二回目だからか、躊躇が全く無いようだ。
「そう? じゃあ、慣れてるんだったら」
まだ撫でるのか。
***
椛、かわいい。
私のためにお洒落してくれたんだ。
綺麗って思ったのは勘違いだったのかなー。
耳も尻尾も、ちょっと困った笑顔も全部かわいい。
でも綺麗なところもあるのよね。顔とか肌とか姿勢とか。
ああ、そっか。綺麗でかわいいんだ。
椛、綺麗でかわいい。
***
耳が犠牲になった。それだけの収穫はあったと思う。
はたてさんはご機嫌のようだ。相合傘の中、たわいない会話が続く。
曰く「使い魔の子供達が飛べるようになった。毎年ではあるけれども、見る度に嬉しくなる」
曰く「近頃の天気には奇妙なところがある。風雨から晴天へ瞬く間に変わった時もあった」
曰く「椛はかわいい」
幾度言われたやら。誉めてくれるのはありがたいけれども、面映く感じて仕方ない。尻尾もその度に左右へ振れて、押さえるだけで一苦労だ。尤も、上機嫌の理由には、服装もあるのだろうと知れて嬉しい。目を楽しませることには成功したようだ。早苗さんに感謝する。
「この河原って綺麗ねー。空飛んでばっかりで、ちゃんと見たことなかったかも」
「ええ、そうですね。哨戒中の楽しみにもなっています」
「雨に濡れてるところも綺麗だけど、晴れてる時ってもっと綺麗なんでしょ」
「さて、甲乙を付け難いですね。私はどちらも好きです。雪化粧をされた姿も素敵ですよ」
新緑が水滴で飾られ、小雨に幽玄と霞み河が流れ続ける。
一つ一つの色が、値を付けられない程の宝石なのだろう。一つ一つの音が、天人の奏でる調べなのだろう。
私はこの景色が好きだ。はたてさんも好いてくれるのならば嬉しい。
「そう言えば、一つ疑問があります。訊いても構いませんか」
「聞かないと分かんないけど、何」
「文さん達のデートを見たと言いましたよね。千里眼もないと言うのに、どうやって見つけたのでしょうか」
「ああそれ。鴉に聞けばすぐ分かるわよ。山のどこにだっているんだから」
「なるほど、それは便利ですね」
「便利なの」
狼にとっては少々難しい相談だ。縄張りに拘る余り、侵入されなければ気に掛けはしない。
だからこそ、哨戒に向いているのかも知れないが。
「ああ、もう一つ疑問がありました」
「何」
恋人の責務だろう。
「キスはしますか」
何か喉につっかえたような声。うむ、足が止まった。雨の中、今度は置き去りにしなくて済んだ。ちょっと誇らしい。私だってちゃんと出来るのだ。しかし、一体何があったのか。
「それってさ。口付けのこと?」
「ああ、すみません。それです」
「そっか。そうだよね」
俯かれては表情が覗えない。しかし、何処か悩んでいるような。
胸の前で合わされた指が、複雑に絡まり合っている。枝に縋りつく無花果とて、こうはいくまい。
「”文さん達のデートを再現する”とのことですから、口付けもだろうと考えましたが。したくありませんか」
応えが霞んで良く聞き取れない。
雨も河も、そう大きく音を立てている訳でもあるまいに。
「あのさ」
「何でしょうか」
「あんたは平気なの? その、口付けするってこと」
良く分からない事を訊ねるものだ。
「ええ、普通でしょう」
頑張れば林檎も口に入るのではなかろうか。何故このような表情をしているのだろう。
もしかして叱られる?
「普通? 普通って何。あんたいつもしてんの。相手って誰」
叱られないみたい。よかった。
「いつもではありませんね。時折、同僚とです」
「同僚? 何で」
「挨拶のためですが、何かありましたか」
「挨拶?」
「ええ」
難解な公案を突き付けられたような表情。随分と困惑しているようだ。
そう言えば口付けに関して、早苗さんも当初は戸惑っていたか。外の世界では見かけないらしい。関係を密接にする上で、こうした挨拶は有用だと思うのだが。
更には”乙女にとって唇は大切なものだ”と説明を受けた。結果、頬へ軽く落とすのみになる。二度、三度と交わす内に慣れ、喜んでくれるようになった。尤も、嫉妬したのだろう文さんが邪魔立てするようになり、直に止めたけれど。少々寂しい。
「どうしますか」
うむ、顔が強張った。加えて、この小さな叫び声。窮鼠でもあるまいに。
「えっとさ。あんたはしたいの」
「どうでしょうか。恋人ならばするものだろう、と考えましたから。はたてさんが望むのならば、喜んで」
間断なく周囲に満ちる雨音。傘の紙は軽快な拍子を打っている。河が立てる水音は、穏やかな眠りを誘う子守唄。
そこに、地獄の底から響くような唸り声が加わった。頭を抱えて煩悶するせいで、折角の髪が台無しになりそうだ。口付けは嫌だったのだろうか。
こうして悩まれると、私が迷惑を掛けた気分になる。実際に、そうなのかも知れない。やっぱりそうかも。はたてさん、ごめんなさい。
「分かったわよ。するわ」
振り上げられた頭から風を感じる。これが風雨を扱う鴉天狗か。
「随分と顔が赤い。無理をしていませんか」
心配になる。卒倒しないだろうか。
いつぞや文さんから聞かされた言葉。
――鴉は一度伴侶を決めたなら、一生を添い遂げるものなんです。
文さんは相当に初心だ。しかしこうなると、鴉天狗という種族がそうなのかも知れない。
少なくとも、はたてさんは初心なのだろう。握り込んだ拳には、力が籠っていると見て取れる。この分では爪跡が残るだろう。
「大丈夫よ。気にしなくていいから」
油を注したくなる程、ぎこちない笑顔。それでも微笑んでくれた。
不安には変わりないけれど、喜んでくれるようだから安堵するべきなのだろう。
「では、失礼して」
「待って、ちょっと待って」
やはり躊躇いがあるか。胸に手を当て、深呼吸を一つ、二つ、三つ、……ちょっと多すぎるかも。心配。
「うん、大丈夫。それじゃ、しましょ」
「はい、では改めて」
両手を肩に置いてきた辺り、やり遂げようとする気概が見える。しかし、本当に大丈夫だろうか。睫毛が幽かに震えている。瞳が少し潤み出した。口がきつく結ばれている。ここまで緊張していると、楽しめないのではなかろうか。いや、こうして耐えているのも、初心なりに精一杯楽しむためなのかも知れない。
空いた手を腰に添えると、体が小さく跳ねた。驚かせてしまったか。申し訳ない。やけに大きく雨音が響いている。差し掛ける傘が重みを増した。緊張が私にも移ったか。ふくらはぎへ尻尾が細かく触れてむず痒い。気付けば耳が倒れている。参ったものだ。おぼこな少女でもあるまいに。いや、躊躇っていても仕方ない。余り待たせては失礼だ。喜んでくれるならいいけれど。
唇を寄せる。
感触
あれ?
「えっとさ、椛」
息が苦しそう。
「何でしょう」
ちょっと喋りにくいかも。
指は柔らかいけど、頭を挟み込む力が強い。
「あんた、紅引いてんの」
「ええ、気付いてもらえましたか。どうでしょう」
薄目にだから、分かり辛かったかも知れない。
「うん、綺麗よ。すごく綺麗」
「ありがとうございます」
嬉しい。けれども、目を合わせてくれないと、少々哀しくなる。
「それでは、続けましょうか」
頬が痛くなってきた。指の跡が付いてそうだ。
「ごめん、ちょっと待って」
「どうかしましたか」
うむ、ようやく顔が解放された。擦ってみれば、特に凹みはしてないようだ。多分。
しかし何を悩んでいるのだろうか。やはり嫌だったのかも知れない。表情はどうなっているのか。覗いたいが、背を向けられていては難しい。恐らくこれは深呼吸だろう。明瞭に聞き取れる程、大きな呼気。一つ、二つ、三つ、……先程もだが、良く幾度も繰り返すものだ。
落ち着いたらしい。ただ何故に、自らを抱き締めているのだろう。何やら唸り声が聞こえ始めた。にとりが設計に詰まった時も、このような声を出していたか。喉を痛めないか心配になる。
今度は頭を抱えて振り始めた。髪が乱れそうだけれども、大丈夫だろうか。捲れた袖から、白い肌が露になった。雨に煙る景色の中では、淡く輝いているようにも見える。
「あのさ、椛」
「何でしょうか」
そこまで勢い良く振り返られると、少々驚いてしまう。
「別に嫌って訳じゃないのよ。恋人同士なんだから、こういうのって当たり前だし。それに文と山の巫女がしてるところを見て、羨ましいって少し思ったのよ。少しだけ、本当に少しだけだけど。でも私達にはちょっと早いかなーって思うわけ。ほら、話してくれたじゃない。文達って半年くらい片思いのままだったんでしょ。それに最初にしたのって付き合い始めて三ヶ月ほど経ってたって。だから私達もそれくらい時間掛けた方がいいのよ。うん、絶対そう」
早口で聞き取り辛い。やはり目を合わせてくれないまま。哀しい。
何れにせよ、嫌いではないのならば結構だ。恐らく、恥ずかしいと言うだけなのだろう。
「詰まり、”口付けはしない”でよろしいのですか」
はたてさんの体が大きく跳ねた。やはり驚いてしまう。
「そう、しないの。嫌って訳じゃないから、そこは誤解しないでね」
「分かりました」
何より喜んでくれることが大切だ。無理にするようなものでもあるまい。
しかし、ここまで初心だとは。文さんを相手に、早苗さんはもどかしい思いを随分しているのだろう。
「それでは、散歩を続けましょうか」
「散歩?」
ようやく目を合わせてくれた。けれども、この顔は何だろうか。
こちらに馴染みが薄い頃、早苗さんが幾度も見せた戸惑い方を思わせる。
「ええ、もうしばらく行けば、梔子が多く咲いています。香りが良いですよ」
「ああ、うん、散歩ね。分かってるわよ。でもごめん、今日は帰るわね。梔子もすごく見たいのよ。でも、ちょっと用事思い出したから。そう、あれ、新聞の校正。忘れてた。急ぎなのよ。ごめんね、空飛ぶのに邪魔だし、傘預かってくれる?」
矢継ぎ早に言われては、追いつくのが難しい。
「それは構いませんが」
「ありがと」
気圧される勢いで翼が開いた。ちょっと怖い。
「じゃあ、また今度ね」
「はい、お気をつけて」
はたてさんの羽ばたく音なぞ、初めて聞いた。
***
忘れてた。思い出した。椛を恋人に選んだ理由。
文達の口付けを見て想像した事。
何で忘れてたのよ。いつかこうなるって分かるはずじゃない。
誰となら”したい”って思えるだろうなんて考えて。一人一人想像して。
特に誰って思い浮かばなくって。そんな時に、
何で思い出すのよ。写真なんてどうだっていいじゃない。
忘れたい。忘れさせて。
お願い。
***
日を受けて、小さく爆ぜる薪の火。
漂い浮かぶ、苔か西瓜と覚える香気。
「焼けましたよ、早苗さん。どうぞ」
「ありがとうございます。私、天然の鮎なんて初めてなんです」
大層なはしゃぎようだ。見ているだけで、頬が自然に綻ぶ。歳相応には到底見えない、無邪気な笑顔。にとりの幼い頃が思い出されるし、構いたくもなる。これも彼女の魅力なのだろう。
「いい香りがするんですね。魚じゃないみたい」
「ええ、私の鼻には少々きつくも感じますが、これもまた夏と思えて良いものです」
早速、噛り付いて……うむ、それは熱いだろう。涙目で訴えられても困る。世話の掛かるところまで、にとりを思わせなくてもいいだろうに。これも彼女の魅力なのだろうか。恐らく違うと思う。とにかく水だ。竹筒はどこへやったか。
「ありはほうおあいあふ」
無理に礼を言わなくてもいいと思う。
さて、私の分も焼けたようだ。屋根の下に戻ろう。サラシと袴のみとは言え、夏の日差しに照らされ続ければ流石に暑い。もう一度、河に潜ってきたものか。
「デートの話に戻りますけど、はたてさんってかわいいんですねー。文さんと全然違うけど、照れ屋さんなところはそっくり」
「ええ、驚きました」
「何でですか」
「それはですね」
どう答えたものか。鮎おいしい。
「はたてさんは何かあれば、私に躊躇いなく触れてきます。腕や肩、耳に尻尾。果ては胸まで。最初のデートでは、サラシを巻き直しもしてくれました」
「羨ましいですね、それ。見習って文さんも大胆になってくれればいいのに」
難しい相談だろう。鮎おいしい。
「けれども、唇は無理なようです。胸と然して違うとも思えないのですが。それまで初心などとは考えもしませんでしたから、やはり驚きもします」
「そう言われると、うん、確かにそうですね。聞いた分だけなら、はたてさんって恥ずかしくても『えいやっ』ってキスしそうです」
妙なものだ。鮎おいしい。
***
そう、ちょっと用事。
あんたの子供も飛べるようになったのね。おめでと。
それじゃ、もう行くわ。教えてくれて、ありがとね。
***
「文さん遅いなー」
「そう言えば、これから何処へ」
「とりあえず神社に戻ります。荷物がありますから。遅刻した罰で、全部持ってもらおうかな」
傍らには一抱え程ある麻袋。置かれた長椅子に底を張り付けている様から、その重さが良く分かる。買出しの帰りらしいが、人間の細腕で良くやるものだ。当初は風を使って、ようやくの有様だったと記憶している。こちらに来てもうじき一年にもなるから、慣れたということなのだろう。
「それでは、借りた服をお返しします。助かりました」
「どういたしまして。はたてさんも喜んでくれたそうですし、よかったです。またいつでもお貸ししますよ」
「ありがとうございます」
しかし、幾度も迷惑を掛けるわけにはいくまい。自らで解決できるのならば、そうするべきだ。
それに、あれこれと試着をする羽目にはなりたくない。新鮮な服装は楽しめたし、感謝もしている。けれども、早苗さんの”着せ替え人形”に為りかけた、と文さんから聞かされた。迂闊をしたならば、同じ境遇に陥るかも知れない。
先だって反物は調達した。はたてさん好みであろう蝶柄だ。任務の合間を縫っても、浴衣ならば一週間と少しで足りるはず。出来る限り早く仕立てよう。
「あ、椛いた」
「はたてさん、こんにちは」
「早苗だっけ。元気そうね」
千里眼であっても、背後は見えない。
匂いを探ろうにも、鮎が邪魔をしたか。また気付けないとは、哀しい。
「こんにちは。こちらに来るとは、どうかしましたか」
「ちょっと昨日のことでさ、ってなんであんたそんな格好してんのよっ」
サラシと袴。何か問題があっただろうか。
「今日は暑いですから。それに河へ潜った後、そのままだったこともあります」
「そういうことなら分かるけどとりあえずなんか着て」
分からないものだ。上着は長椅子に掛けていたか。暑いけれども、仕方ない。
「椛さんの体って引き締まってるし、それなのに柔らかそうで素敵だと思うんですけど。肌も綺麗だし憧れます」
「そうかも知れないけど恥じらいを持てって言うの」
「もったいないなぁ」
誉めてくれるのは嬉しいけれど、私を品評されても困る。
うむ、暑い。影にあったというのに、着込んだ途端に熱を感じる。水浴びたい。
「すみません。少し河へ
「お待たせしました、早苗」
「もう、文さん遅いですよ」
「あれ、文じゃない」
何とも騒がしくなりそうな。気にしてはいられないか。
まずはこの暑さをどうにかせねば、私が死ぬ。
「河へ行ってきますね」
「はたて!? あんたがどうしてここにいるのよっ」
「ご挨拶ねぇ。椛にちょっと用事があっただけよ。悪い?」
やはり騒がしい。
***
謝りたいだけなのに、何でこんなことになるのよ。
***
この岸辺にある小さな空地は、四季を余さず映してくれる場所だ。それが気に入っているし、皆も好んでくれていると思う。何より冷たい水を、いつでも浴びれる点が最大の魅力だろう。涼しくて気持ちいい。
さて、戻ろう。
「椛!」
「どうしました、はたてさん」
肩を怒らせて向かって来られると怖い。しかも大股だ。歩調に合わせて、長い二つ結いが飛び跳ねている。なにやら怒っているようだ。赤く膨らんだ顔から熱を感じる。今しがた水を浴びたと言うのに、また暑く……そうでもないか。冷や汗を掻き始めた。尻尾も垂れてる。怖い。
「文、見てなさいっ」
「ええ、見てるわよ。早くしたら」
何事だろうか。とは言っても、簡単に察しが付く。はたてさんと文さんは喧嘩をしているのだろう。いつものことだ。
言葉を向けられた文さんと言えば、写真機を構えて何かを待っている。随分と楽しげだ。ささやかないたずらを思い付き、期待に満ちる童のようにも見える。
奥には顔を歪ませている早苗さん。こちらとあちらに視線を行き来させる姿は、不安げに見える。気苦労を抱え込むものだ。後程、気に掛けないよう言わねばなるまい。
「椛、こっち見て」
「はい、何でしょうか」
やはり怖い。不動明王もかくやと言う、眦の吊り上がり方。顔も赤い。傍に咲く柘榴と比べても、引けを取らないだろう。参ったものだ。尻尾が垂れたまま戻らない。やはり耳も伏せている。
うむ、何をしようと言うのか。深呼吸を一つ、二つ、三つ、……やはり多い。握り締められた拳に気概を感じる。音まで聞こえてきそうだ。さ迷っていた目が据わった。腕が上がった、頬を抱かれた顔が
柔らかい
唇が離れていく。
「どう? 分かったでしょ、椛は恋人なのよ」
なるほど、そういうことか。
「椛は恋人なの」
何事だろう。声が掠れている。
「ごめんね、椛」
なんで?
「さよなら」
鴉が飛んだ。
消えていく。
***
もう嫌だ。
もう無理だ。
***
本当に”する”とは思っていなかったのだろう。構えた写真機も忘れて、文さんは呆然と立ち尽くしていた。顔の赤さと言えば、先程のはたてさんと同程度か。
早苗さんが説教を始めたようだ。”大人気ない”だの”乙女心を弄ぶな”だの聞こえてくる。絞られ、しょげ返る文さんの様は少しかわいいと思う。これでは、いたずらを咎められた童と大差が無い。
いや、他人のことを考えている場合でもないか。
目下には問題が二つ。
何故、私に謝罪をしたのか。恐らくは、口付けに対してなのだろうとは思う。
しかし筋違いというものだ。そもそも昨日、私から提案している。何ら謝る必要はないのに、何故。
はたてさんのように、私も恥ずかしいと考えたのだろうか。恐らく違うはずだ。挨拶として同僚と、口付けを交わすことを説明している。ならば何があったのだろう。
――乙女にとって唇は大切なものだ。
ああ、これか。早苗さんが言うように、はたてさんもそう考えたのか。
よかった。彼女に”何ともないのだ”と言って、安心させてあげられる。何ともなくはないが、親愛を抱ける相手ならば全く惜しくはない。喜んでくれるなら、幾度でも繰り返そう。とは言っても、やはり恥ずかしがるだろうか。たった一つだけで、あれ程に悩み赤面したのだから、想像に難くない。しかし、望んでくれたのも本当だ。
うむ、その内慣れるだろう。早苗さんもそうだったから。
解決したところで、もう一つの難題。
はたてさんは泣いていた。飛び去り際の刹那ではあるが、千里眼を使わずとも良く分かる。
どうしたものか。慰めるにしても、涙の理由に見当が付かない。無責任に何事か口にしたところで、失礼となるだけだろう。
写真についても”気にするな”と言う彼女だ。訊ねても良いのかも知れないが、話してくれるとは思えない。
けれども、放って置くわけにもいくまい。既に私は一度、写真について彼女を泣かせてしまっている。これ以上、哀しい思いをさせたくはない。
紅差し指で唇をなぞれば、先程の感触がまざまざと蘇る。柔らかく、暖かく、優しい唇。
勢い任せではあったけれども、自らの意思で確かにやり遂げたのだ。
嬉しい。
さて、私は何をするべきか。
***
どこ行ったのよ。まだ捨ててないはず。どこ行ったの。出てきて。お願い。
***
同僚を相手に稽古をする。
切っ先が惑う。踏み込みに、力が載らない。腰は定まらず、打ち込まれる度に姿勢が崩れる。
不甲斐ないものだ。今後を考えあぐね、ならば気晴らしをと考えたが
うむ、また一本やられた。
彼女の剣は豪快だ。
込められた力を見せ付けるように、下駄が地を踏みしめ跡を残す。
刃、腕や足刀、それから牙。淀みなく振るわれる度に、風を受ける。
そしてあらゆる剣筋は、対手を切る一点のために定められたものだ。
彼女の剣はまた静謐でもある。
正面を見据える眼は、餓狼のそれではない。自らを律するために、彼我を冷静に測っている。
捌く足は流麗だ。土を蹴り、木肌を削り、空を駆ける。その足により、白を纏う身が森に踊る。
気息が乱れる事はない。常に整えられ、機を覗っている。そして対手の気息に乱れを見出す。
羨ましいものだ。今の私が敵う道理はない。
散々に打ち据えられ、腹を抱えて笑われた。
普段は五分なのだから当然だろう。
まったく。そう明るく笑われたら、私も笑ってしまうだろうに。
***
あった。何でこんなところに隠れてるのよ。
でも、よかった。ほんとによかった。
端がちょっと破れてるわね。なんか指がくすぐったい。
やっぱり色褪せてきてるなー。そうだよね。忘れるくらい昔に撮ったんだし。
”優しい白”かー。嬉しいな。
諦めよう。
”ごっこ遊び”なんかで、椛に迷惑掛けたら駄目よ。
子供みたいな我侭に付き合わせるなんて、どうかしてた。
こんな気持ちなんて忘れよう。邪魔になるだけだ。捨てればいい。
私には写真がある。大好きな小林檎が写ってる、大切な写真。
椛の唇、柔らかかったなー。あんな一瞬しかないなんて、もったいない。
あ、これどうかな。まぁ意味ないと思うけど、一応。
やっぱり紅は引いてなかったのね。あの時、しとけばよかった。
そしたら写真に椛の跡残せてたのに。
まぁいいか。絶対忘れないから。
これで思い出は増えた。小さな思い出が二つ。
小さいけれど、暖かい。私はこれを抱いて生きていこう。
もう梅雨が晴れるはず。明日は力一杯飛んで、全身に風を受けよう。
夏の空は暑くて涼しいから。きっと何だって青空に溶けるはず。
こんな気持ちも、溶かして消して吹き飛ばしてくれる。きっとそうだ。
私は思い出と一緒に、生きていけると思う。
諦めるなんて嫌よ。
嫌なの。
椛。
***
同僚と酒を酌み交わす。
彼女は料理の腕が良い。何か煮物の一つも取れば分かる。丁寧に山菜の灰汁を抜き、出汁を利かせて上品に仕上げた一皿だ。
細やかな心遣いが味に顕れているのだと、改めて実感させられる。何かと神経が図太く思われがちだが、実際はそうでもない。
これが酒肴に対してのみでなければ、如何程結構なことか。
同僚と杯を重ねる。
酔いが程良く回ったところで、”あの恋人”について訊ねられた。茶化すような声音ではあるが、思い遣る色が薄らと載っている。何だかんだ言いつつも、私を良く見ているようだ。当然か。共に過ごして、幾百の四季が巡ったのやら。
酔った勢いのままに、現状を告白する。
何もそこまで笑わなくてもいいだろうに。
咽て今にも倒れそうだが、放っておこう。
――難しく考え過ぎだよ。あんたは写真を誉めたんじゃないのかねぇ。
***
前略
先日は大変な失礼を致しました。突然の事で驚かれたと思います。
射命丸さんとの喧嘩に、貴方を巻き込みました。言い訳にはなりません。
謝罪を述べさせて下さい。
これを期に、恋人の関係を解消したく、お手紙を差し上げます。
元はと言えば、私が稚気を発した点から始めた気紛れです。
射命丸さんと東風谷さんの仲睦まじさを見て、羨ましく感じました。妬ましく感じました。浅ましいものです。
そして私は、ただ鬱憤を晴らすためだけに、貴方を恋人に選びました。
気分を害されるかと思いますが、私は貴方との関係を「ごっこ遊び」だと考えていました。
何度謝ったところで、許されるものではありません。
これ以上、私の気紛れで貴方の時間を取る事に、心苦しく感じます。
大変厚かましい話ですが、以前の関係へと戻りたく思います。
草々
姫海棠はたて
犬走椛様
追伸
我侭を言って、ごめんなさい。付き合ってくれて、ありがとう。
***
何とも我侭だと思う。今更このように告げるとは。
昼も夜も、唇をなぞっている。朝な夕なに、彼女を考えている。
その私に、以前へ戻れと言うのは酷な話だ。まったく、我侭にも程がある。
――そのままでいなさい。変わりたいと思ったなら変わりなさい。
雛さんも人が悪いものだ。
そのままでいることなぞ出来はしない。想いは既に芽生えてしまった。
変わりたいなぞ思う暇もない。私はもう変わってしまった。
なるほど、これが恋なのだろう。
同僚と交わす口付けには、親愛が籠っている。
背を預けられる信頼を示し、相手のそれを受け取るために唇を合わせた。
私は彼女が好きだ。
はたてさんと交わした口付けには、恋愛が籠っていた。
乱暴でがさつで稚拙なもの。けれども羞恥に怯むことなく、懸命にしてくれた口付け。
私は彼女が好きだ。
――貴方へ誠実であることが、あの子への誠実になるのよ。
私はこの気持ちへ誠実でありたい。柔らかな布団に包まれ、慈しむような暖かさを感じる幸せ。
この小さな恋を、大切にしたい。雛さんの言うように、いつかは大輪の花へと育つのだろう。
このような幸せを感じられるとは、思ってもいなかった。これも彼女が恋人に選んでくれた結果だろう。
女に生まれた事を感謝したい。そして何より、彼女へ最大限の謝辞と、限りない愛情を贈りたい。
愛しい。
***
”引きこもってばかり”なんて文に言われるけど、これなら当たり前かもね。
会いたいなー。会えたら思いっきり抱きつくと思う。
それに尻尾と耳撫でたい。ふかふかしてて触り心地いいし、なんか落ち着くから。
そうして撫でてる私を見て、ちょっと困った顔で笑って欲しい。嬉しくなるから。
会いたいなー。でも、会っちゃ駄目よね。
これ以上好きになったら、止まらなくなるって分かってる。そしたら椛に絶対迷惑かけるから。
会いたいよ。会いたいの。椛。
写真がどんどん色褪せていってる気がする。どうしよう。
”アルバム”だっけ? どっかで見たと思う。あれなら大丈夫かな。
探しに行かないと。こんなに色が落ちたら、私まで忘れそう。
何で翼、動かないのよ。今すぐ探さないと駄目なのに。これじゃ忘れちゃう。そんなのやだ。
朝が嫌い。
眩しい光が、無理やり明るい気分にさせようとしてる気がするから。
でも、写真が見えるからいいかも知れない。椛の唇が思い出せる。
夜が好き。
暗い中なら、何にも考えずに済みそうだから。
でも、いつの間にか椛のこと考えてる。嫌だ。
また朝が来た。写真が見られる。嬉しい。
音?
***
随分と掛かってしまったものだ。夜なべしたところで早々捗るものではない。
何であれ、仕立て上げられたことを喜ぼう。はたてさんが気に入ってくれるといいけれど。蝶柄は少々華やかに過ぎたかも知れない。かと言って、正装では堅苦しいだろう。それは彼女が望まないと分かりきっている。雰囲気は大切だ。早苗さんにも再三聞かされている。気に入ってくれることを祈ろう。
思えば、始めから振り回され続けていたものだ。恋人になるよう言われ、デートの日取りを決められ、別れを告げられた。何とも我侭なことだ。
そろそろ私も我侭を言ってもいいだろう。恋人は上下の関係ではなく、対等にあって欲しい。そうでなければ、私の身が持たないだろう。そして彼女に甘えて欲しい。彼女に甘えさせて欲しい。きっとすごく幸せなこと。
いや、これでは狸の皮算用と言うものだ。鴉の場合は何と言うのだろうか。羽根算用? うむ、余計なことを考えた。今の私がするべきなのは、ただ一つ我侭を言うだけ。迷ってはならない。
「はたてさん、いますか」
さて、どうなるか。いるはずだけれど。
長い。朝日が背中を焦がしている。もう二月も前ならともかく、今は夏だ。浴衣だろうと、暑いには変わらない。蝉が鳴き始めた。ご苦労な事だ。余計に暑くなるから止めて欲しい。もしかして、いないのだろうか。ああ、尻尾が振れている。折角、二十と幾度も櫛を入れたというのに。これでは毛並みが乱れてしまう。哀しい。
どうしたものか。気付いてないのかも知れない。もう一度呼びかける? 鬱陶しがられるかも。どうしよう。
「はたてさん、いませんか。どうしても聞いて頂きたい用事があります」
我慢できなかった。いなかったら馬鹿みたい。
近くで鴉が鳴いている。随分と喧しく響くものだ。急き立てられているように聞こえて落ち着かない。
音だ。足音がする。きっとはたてさんだ。
「椛?」
「はい、おはようございます。朝早くにすみません」
よかった。はたてさんだ。でも、戸を開けてくれないのは何でだろう。声がか細いのも気になる。病気?
「何で家知ってるの」
「すみません、文さんから聞きました。それで言伝があります」
「何」
そんな声音で訊かないで欲しい。叱られてる気分になる。ああ、尻尾が垂れた。
いや、落ち着いて話そう。大切なことだ。
「”使い魔が心配している。気遣うように”と言う一点。もう一つ”先日の喧嘩について謝りたい。近々酒とうなぎを奢らせて欲しい”とのことです」
「そう、分かったわ。それじゃ帰って」
「待ってください。本題があります」
尻尾が足の間に潜り込んだ。毛並みは諦めるしかないだろう。耳も伏せている。情けない。
しかし怯んではならないだろう。ありったけの平静さを掻き集めてでも、私は用事を伝える。おめおめ尻尾を巻いて逃げ帰るなぞしたくはない。卒倒しかねない程に赤面しながらも、はたてさんは口付けをしてくれたのだ。この程度で恐れをなしては、彼女に私は顔向けが出来なくなる。
深呼吸を一つ。丹田には十分な力。踏みしめた下駄から小さな音。伝えよう。
「小林檎の写真を持っていましたよね。もう一度、見せてくれませんか」
同僚の一言で思い出した、”姫海棠”に”様”を付けないよう命じられた日。はたてさんにとって、どれ程の重みがあったかは知る由もない。けれども大切な日であろうことは察せられる。何せ、たった一葉の写真で涙を流してくれたのだ。
長い。朝日が背中を焦がしている。このままでは干からびてしまいそうだ。尻尾もそこまで潜らなくてもいいだろうに。かと言って、戻せる気は毛頭しない。諦めるしかないのだろう。
また鴉が鳴いている。何か気に食わないことでもあったというのか。蛇に卵を狙われている? いや、流石に雛はもう孵っているだろう。空を飛ぶことも覚えて良い時期のはず。
音だ。遠ざかっていく。これはどうなんだろうか。写真を取りに行った? 呆れて私の相手をやめた? どうなんだろう。
怖い。
***
何で今更。期待させないでよ。
でも、思い出して欲しい。
忘れさせて。お願い。
もうやだ。何でそんなこと言うの。分かってるわよ。今洗うから。
椛は優しいって知ってる。こんな顔見せて、心配させたくない。
心配されたら、私がどうかなってしまう。きっと思いっきり抱きついて泣くんだ。
でも痛くはないと思う。椛、胸大きいし。それで優しい椛は頭を撫でてくれる。
抱きつく前に泣いてどうすんのよ。
分かってる。そんなことしたら迷惑になるだけ。
今の内に涙を全部出しておけば大丈夫。
ごめんね、椛。ちょっとだけ待ってて。
***
ああ、音だ。近付いてくる。嬉しい。
戸に何か当たった。何処か苦労しているような。敷居が音を立てている。随分と弱々しい。重いものを無理やり引き摺っているのか。薄暗い。朝日が入っていく。淀んだ匂い。汗と黴だ。はたてさんの香りが混じっている。嬉しい。
はたてさんの顔だ。やつれてる。やっぱり病気?
「これ。見たら帰ってよね」
目を合わせてくれない。哀しい。
ともかく、今は写真だ。見せてくれるならば、伝えなくてはならない。
そして我侭を言う。大切なことだ。
「ありがとうございます」
「それで何なのよ」
一つ深呼吸。
「優しい白ですね。私はこの写真が好きです」
目を合わせてくれた。嬉しい。
デート中に幾度も見た、呆れたような表情。でも叱られないはず。大丈夫。落ち着いて。尻尾は気にしない。
ああ、また気が付いてないようだ。目元を拭ってあげた方が良いだろうか。どうしたものだろう。
いや、彼女が私をどう思うか、まだ確かめていない。万が一でも、失礼になるかも知れないなら止めておこう。
「先日は言いそびれました。すみません。それと、もう一つ」
口は開いたまま。目は水瓶になっている。大丈夫だろうか。
「”ごっこ遊び”は終わりでしたね。それならば」
この言葉を伝えたい。私は幸せになりたい。彼女に幸せになって欲しい。
我侭を言って、ごめんなさい。
「私の恋人になってくれませんか」
***
やっぱり痛くない。
胸大きいって便利だ。
読みやすいし、甘さ控え目なのに甘々で。
姫海棠はたてと犬走椛、そして犬走もみしっぽだ。
簡潔な文章が良い。
それが積み重なって刻まれるリズムが心地良い。
叙情的な描写も目に優しくて好きです。
登場人物について。まずは椛。
素直クールに見せかけて、その実天然で小心者。受けと見せかけて、何気に攻め。
抉ってくるなぁ、こちらのツボを。
「わふっ」てなんだ、「わふっ」て。畜生和むじゃねぇか。
はたて。
おぼこい、かわいい、いじらしい。以上!
もみしっぽ。
この作品中一番感情豊かで一番雄弁。
視線がお前さんから離れない。これはどうしたことか。
素敵なお話でした。
これからの二人プラスワンに幸多からん事を。
はたては可愛いし、椛が格好良かった。
これからの話が気になります。
はたても可愛かったが、椛がそれ以上だった!
・・・着飾った椛、もっと見てぇ
真面目で堅物な椛とかわいらしいはたての組み合わせ。
自分のツボにはまりました。
ブラボー!
最後の椛の一言で、叫ばざるを得なかった。
もちろん椛だけでなくはたて、にとり、雛、早苗、文…みんな素晴らしかったです。
さらに続編も期待しています。
100点置いときますね
とある切っ掛けでこの二人が気になっていたので探していたらこのSSを見つけました。
真面目堅物白狼天狗と純情乙女はたての行く先に幸あれ!
とても優しい気持ちになれる作品でした。