「私の話が、聞きたい?」
――うん。お願い。
有限夢幻/無間幽玄
本ばかり読んでいた子供だった。
かび臭い屋根裏部屋に篭もって、板の隙間から僅かに差し込む光で本を読む。
いっぱいに目を開いて文字を追っているとそのうち目が疲れて、涙を拭うのが日課だった。
寝転がった床がぎしぎしと鳴ったら、それが合図だ。
父親が奉公のお兄さんに頼んで私を呼びに行かせると、階段を登る音がここまで響いた。
きっとお兄さんは、身体が弱い私を心配してしまうだろうから、この音が聞こえたら屋根裏部屋から出なければならない。
お兄さんが入ってくる前に、板を一枚外して下の階を見た。
屋敷の一番上が私の部屋で、亡くなった母の部屋でもあった。
私の母は、私を生んで直ぐに浄土の住人になったのだと聞いた事があった。
いつものように箪笥の上に降り立つ。
埃が舞って咳が出そうになるのをぐっと我慢すると、喉の奥が不快感で満たされた。
布団に潜るまで我慢すれば“何時ものこと”だから、そのまま堪える。
喘息の苦しさも胸の痛みも、我慢するのは得意だった。
唐草模様の布団に潜り込むと、途端に咳が出る。
我慢していたせいかいつもよりもひどくて、お兄さんが駆け込んできてもまだ咳き込んでいた。
背中をさすって貰うのは好きだった。
消え入りそうな自分を、繋ぎ止めて貰えているような気がしたから。
おさまった頃には、喉はからからに渇いていた。
水を、と望むことは出来ない。一度沸かして冷ました“湯冷まし”でないと、また体調を崩してしまうからだ。
用意してあるだなんて、思えなかった。私の父親は、私をあんまり見ていなかった。
お兄さんに肩を貸して貰って、階段を下りる。
屋敷の階段は一段一段が子供には高くて、滑り落ちないようにするだけで一苦労だった。
私の為に取り付けられた手すりに掴んで降りるのだけれど、手すりを掴む手は震えていた。
握る為の力を得るのも、私にとっては苦労が必要なことだった。
お兄さんが居なければ、きっととっくに落ちていたことだろう。
朝食に限らず三食の献立は、いつも変わらない。
卵粥におひたしと、梅干し。それから苦い薬までが一括りで私の朝食だ。
この頃にはお兄さんは仕事に戻り、私は一人で食事をしていた。
梅干しは飛び抜けて味が濃いから、卵粥に混ぜ合わせて食べる。
レンゲを使って梅干しを潰して、それから口に運んだ。
熱くて、それでも口の中に満ちるしょっぱさに、少しだけ嬉しくなった。
家は力のあるお金持ちだったのだけれど、身体の弱い私にはあまり良いものは与えられなかった。
だからこの梅干し味の卵粥が私にとってはご馳走で、この世で一番おいしいものだと思っていた。
苦い薬を飲む時間は、私にとって苦痛の時間だった。
これを飲み続けているから私は今こうして無事なのだと聞いては居たけれど、これを飲んでいても変わらず発作は起きていた。
だからこれは私を助ける妙薬なんかではなく、食事という楽しみの余韻を打ち消して私を現実に引き戻す為の装置なんだ。
そんな風に考えたのは、一度や二度ではない。
朝食を終えると、代わり映えのない時間が続く。
楽しみと言えば部屋で行う勉強くらいなもので、あとは窓の外から景色を眺めるだけの時間が進む。
部屋に戻り、布団に潜り込み、それから簾の向こう側の風景を見る。
私と年の変わらない子供が鞠を蹴り、他の子供が蹴って返す。
勢い余って転んでしまうのだけれど、子供は笑顔で立ち上がる。
転んで、それから自分で立ち上がる。そんな当たり前が、なにより羨ましかった。
この頃から、外への憧れは強くなっていった。
本を読む時間が増えた。
強請ることなんか今までしなかったが、それは迷惑をかけているという自覚があったからだ。
私の父親も、私を見て疎ましそうな目をしていたことがあった。それを知っていた。
だから頼めなかったのだけれど、それでも思い切って強請ってみたら簡単に本を買ってくれた。
私のことに、さほど大きく興味を持っていないのか、などと思った。
でもそれはすぐに、胸の内へしまいこんだ。考えたら、ダメになってしまいそうだった。
だって、どんなに強請っても、外にだけは行かせてくれないのを知っていたから。
本を読んで、わからないことは優しい先生に聞き、屋根裏に転がる本からも知識を得た。
身体の弱い私が、まさか屋根裏に登るとは思っていなかったのだろう。ここは、知識の宝庫だった。
箪笥を段々に引けば、子供でも登れると、子供に感心のない彼らは知らなかった。
知識を増やしていくと、わかったことがあった。
それは私の世界が、私が思っているよりもずっと、狭いということだった。
一歩外に出れば、小川があって、風が吹いて、緑の匂いがするらしい。
私は、そんなことも知らなかった。知ろうとしなければ知ることが出来ない環境に、私は居た。
知れば知るほど、外に興味を持つようになった。
どうにか抜け出せないものかと考えたけれど、それは叶わなかった。
私の屋敷の周りには、いつも奉公人たちが控えていたからだ。
不審な者から屋敷を護る為の人間だと聞いていた彼らが、実は私を閉じ込める檻だと気がつくのに、さほど時間はかからなかった。
だから私は、賭に出ることにした。
賭に出なければ飼い殺されてしまう。
そんな気持ちに囚われたからこそ、私は命の危険があると知っていても、それをせずにはいられなかった。
屋根裏に入って、思い切り息を吸い込む。
それから急いで布団に潜り込むと、何時もよりも数段激しく発作が起こった。
今考えれば、他にいくらでもやりようがあったように思えるけれど、その時に私にできることは、確かにそれだけだった。
すぐに集まりだした奉公人。彼らにさすって貰っても、咳はおさまらない。
普段のものより格段に苦くした薬を飲むと、咳はすぐに楽になった。
けれどそれでも、私は咳が止まらない振りをした。
最初から振りだったらばれてしまっていたかも知れないが、本気の続きならばばれない。
そんな私の拙い謀りは見事に成功して、私が気を失った振りをすると、特別に治療を行う為の別室に移された。
そうすれば、もう、目的のほとんどは叶ったようなものだった。
医者を呼ぶ為、仕事の為に外へ出ていた――これは、幸運だった――父親を呼び戻す為。
奉公人たちは、疎らに散っていく。
まさか、ひどい発作で気を失っている子供が逃げ出すとは考えないだろう。
そんな私の考えは見事に的中し、穴だらけの計画は偶然と幸運と必然を以て私に計画の成功をもたらした。
こっそりと抜け出して、最初の感想は、今でも覚えている。
砂利の道を裸足で走ると、足の裏が痛い。
そんな簡単で当たり前のことも、私は知らなかった。
今では考えられないけれど、当時の私は本当に知らなかったのだ。
空気を吸い込み、肺を風で満たした。
どうして閉じ込められていたのか理解できないほどに、心地よかった。
森のざわめきは私に力を与え、落ち行く西日は私の心を満たす。
思い浮かんでは消える言葉たちを繋ぎ止めておくことすら、できなかった。
騒ぎが聞こえた訳ではないけれど、私は直ぐに走り出した。
見つかったら、この光景は二度と味わえない。
冷たい目で私を見る父親は、きっと私を座敷牢にでも放り込んでしまうことだろう。
父親の権力が強くあるこの里で、逃げ切れるか否かわからない。
だから私は、化け物が暮らすという森へ向かって走った。
そこならば、里人も迂闊に捜索に乗り出せないだろうから。
このまま順調に逃げられる。
そんなことはないと知っていたし、仮に逃げられたとしても森で化け物の餌食になるだけ。
そんなことは理解していたのだけれど、それでも、もうあの場所に居たくなかった。
急激な運動と、そもそもの運動不足。そして、人よりも弱い身体。
いくら興奮していたからといっても、さほど長く保つ訳ではなかった。
案の定森の前でへたり込み、ざらざらとした赤土を握りながら、咳き込んだ。
心臓がただひたすら痛くて、森に踏み込めなかったことが悔しくて。
血が滲むほどに唇を噛みしめ、声を押し殺して泣いた。しゃくり上げても、声を上げて泣きたくはなかった。
こんなところで負けたと痛感するのだけは、いやだった。
意地っ張りであったのだと、思う。
それでも咳はおさまって、一息吐くことが出来た。
けれどかけた時間は長く、よりにもよって父親に追いつかれてしまった。
『帰れ』
重い声だった。忘れられない、声だった。
なぜならそこに、親としての労りや慈しみなんか、込められていなかったから。
『帰らない』
それでも私は、怯みたくなかった。
怯んで、終えたくなかった。
最後の最後まで、足掻くのを止めたくなかった。
『それは叶わん』
『なぜ?』
『素質がある。だから今まで世話をしてきた』
『素質とは、なんの?』
『妖怪が言ったのだ。おまえには、素質がある。だから大事にしろと』
何を言っているのか、何を言われているのか。
徐々に声が強く大きくなる父親に、萎縮しないようにする。
ただそれだけで精一杯だから、疑問の解答を考えるのではなく、求めることしかできなかった。
『我が一門に悠久の繁栄をもたらすための、だ』
『……なんのこと?』
『とぼけるのもいい加減しろ。手引きしたのは誰だ?』
『手引きとは?』
『逃げ出す手引きだ。誰が、“身寄りのない”おまえを今まで世話してきたと思っている!』
父親の――彼の言葉は衝撃的だった。
そうでないように聞こえるかも知れないが、あまりの衝撃にそれ以外の感想を持てなかった。
父親だと思っていた人間は、私の親ではなかったのだ。
『今後一切、外に出られるとは思うな。成人したら婿を取らせ、直ぐにでも次代を生んで貰う』
冷たく言い放った彼を、私は呆然と見ることしかできなかった。
淡い期待がなかったと言えば、嘘になる。
愛情の片鱗すらなくても、この騒ぎを起こせば少しは私を見てくれる、期待。
そんな私の考えは、浅はかで愚かなものだったのだと、本人の口から告げられた。
それが悔しくて、悔しくて、悔しくて。
私は近づいてきた彼の目に……土を、投げた。
悲鳴と、怒号。
怨嗟と、欲望。
暗く淀んだものを背に、私は森へ駆け込んだ。
化け物が居るという森はそれはそれは空気の悪い場所だったが、それでも、走った。
怒りや悲しみで、もう痛みすら感じなかった。
どれほど走ったかわからない。
森の中の、その更に奥。湖の側だった。
そこでどうにか息を吐いていると、私の後ろに気配がした。
先生、だった。
あの屋敷で私に知識を教えてくれていた、先生。
怯える私に、彼女はただ優しく微笑んだ。
『ずっと見ていました』
『何故?』
『ずっと知識に触れさせてきました』
『何故?』
『ずっと手を貸せずに、いました』
『何故――?』
彼女は私に、ゆっくりと近づいてきた。
彼女を見上げると、その向こう側には、銀色の満月があったのを覚えている。
忘れられる光景では、なかった。
『時が来るまで、姿を現す訳には行かなかった』
『何故?』
『そうすれば、貴女の心が守れなくなってしまうから』
『何故?』
『私だけを求められては、貴女は人形になってしまう』
なぜ、としか問えなかった。
それでも彼女の側で声を聞いていると、不思議と安心した。
そうしているのが当然だと、思えるほどに。
『求めるのならば、手を伸ばしなさい』
それに私は、頷きも返事もしなかった。
状況に思考が追いついていなかった。
父親――彼の言葉も、嘘なのだと思っていたかった。
けれど私は、手を伸ばした。
彼女は寿命を迎えて、それでも人と関わりたかったのだと、その時に知った。
髪から色素が抜け落ち、身体が丈夫なものに作り替えられていくのを感じながら、私は様々なことを知った。
私の両親が、父親だと思っていた彼の、最愛の弟だったことも。
妻の不貞が原因で弟が狂い、共に死んだことも。
その妻に、私の面影があったことも。
全て、私は知ることが出来た。
なぜなら、私はその時――――全ての“歴史”を、垣間見たのだから。
――†――
「そのあと、世界の様々な場所を巡って、私は幻想郷に流れ着いた。一体化したけれど、それでも彼女のような教師になりたかった」
私が話し終えると、妹紅はただ目元を拭い、頷いた。
そんな顔をして欲しくて話した訳では、ないのだけれど。
けれど、今日ここでこの話が出来たのは、嬉しかった。
「明日から、私の夢は叶う。だから今日、妹紅が私に“何故教師を目指したのか”と聞いてくれたのは、嬉しかった」
そう言うと、妹紅は頷く。
私の何十倍も長く生きているくせに、涙もろい。
それが彼女の良いところで、私が彼女をかけがえのない友だと感じる一因だ。
「でも慧音、私――」
「悔やむことがあるのなら、夕食の準備を手伝ってくれ」
「――うん」
妹紅は漸く立ち上がって、私の隣に並んでくれた。
やはり、強く前を向いている方が、彼女らしくあるように思える。
ずいぶんと達観した彼女だが、それでも私には、こんな一面を見せてくれる。
それはもちろん、嬉しいのだけれど。
「手伝えることがあったら何でも言って、慧音」
「ああ、もちろんだ。妹紅」
夕食の準備に、取りかかる。
今日は何を食べようか、いや、友と食べればなんだって美味しいか。
そう包丁を手にとって、私は妹紅と一緒に下ごしらえを始めた。
遠き日の“歴史”に、思いを馳せながら――。
――了――
――うん。お願い。
有限夢幻/無間幽玄
本ばかり読んでいた子供だった。
かび臭い屋根裏部屋に篭もって、板の隙間から僅かに差し込む光で本を読む。
いっぱいに目を開いて文字を追っているとそのうち目が疲れて、涙を拭うのが日課だった。
寝転がった床がぎしぎしと鳴ったら、それが合図だ。
父親が奉公のお兄さんに頼んで私を呼びに行かせると、階段を登る音がここまで響いた。
きっとお兄さんは、身体が弱い私を心配してしまうだろうから、この音が聞こえたら屋根裏部屋から出なければならない。
お兄さんが入ってくる前に、板を一枚外して下の階を見た。
屋敷の一番上が私の部屋で、亡くなった母の部屋でもあった。
私の母は、私を生んで直ぐに浄土の住人になったのだと聞いた事があった。
いつものように箪笥の上に降り立つ。
埃が舞って咳が出そうになるのをぐっと我慢すると、喉の奥が不快感で満たされた。
布団に潜るまで我慢すれば“何時ものこと”だから、そのまま堪える。
喘息の苦しさも胸の痛みも、我慢するのは得意だった。
唐草模様の布団に潜り込むと、途端に咳が出る。
我慢していたせいかいつもよりもひどくて、お兄さんが駆け込んできてもまだ咳き込んでいた。
背中をさすって貰うのは好きだった。
消え入りそうな自分を、繋ぎ止めて貰えているような気がしたから。
おさまった頃には、喉はからからに渇いていた。
水を、と望むことは出来ない。一度沸かして冷ました“湯冷まし”でないと、また体調を崩してしまうからだ。
用意してあるだなんて、思えなかった。私の父親は、私をあんまり見ていなかった。
お兄さんに肩を貸して貰って、階段を下りる。
屋敷の階段は一段一段が子供には高くて、滑り落ちないようにするだけで一苦労だった。
私の為に取り付けられた手すりに掴んで降りるのだけれど、手すりを掴む手は震えていた。
握る為の力を得るのも、私にとっては苦労が必要なことだった。
お兄さんが居なければ、きっととっくに落ちていたことだろう。
朝食に限らず三食の献立は、いつも変わらない。
卵粥におひたしと、梅干し。それから苦い薬までが一括りで私の朝食だ。
この頃にはお兄さんは仕事に戻り、私は一人で食事をしていた。
梅干しは飛び抜けて味が濃いから、卵粥に混ぜ合わせて食べる。
レンゲを使って梅干しを潰して、それから口に運んだ。
熱くて、それでも口の中に満ちるしょっぱさに、少しだけ嬉しくなった。
家は力のあるお金持ちだったのだけれど、身体の弱い私にはあまり良いものは与えられなかった。
だからこの梅干し味の卵粥が私にとってはご馳走で、この世で一番おいしいものだと思っていた。
苦い薬を飲む時間は、私にとって苦痛の時間だった。
これを飲み続けているから私は今こうして無事なのだと聞いては居たけれど、これを飲んでいても変わらず発作は起きていた。
だからこれは私を助ける妙薬なんかではなく、食事という楽しみの余韻を打ち消して私を現実に引き戻す為の装置なんだ。
そんな風に考えたのは、一度や二度ではない。
朝食を終えると、代わり映えのない時間が続く。
楽しみと言えば部屋で行う勉強くらいなもので、あとは窓の外から景色を眺めるだけの時間が進む。
部屋に戻り、布団に潜り込み、それから簾の向こう側の風景を見る。
私と年の変わらない子供が鞠を蹴り、他の子供が蹴って返す。
勢い余って転んでしまうのだけれど、子供は笑顔で立ち上がる。
転んで、それから自分で立ち上がる。そんな当たり前が、なにより羨ましかった。
この頃から、外への憧れは強くなっていった。
本を読む時間が増えた。
強請ることなんか今までしなかったが、それは迷惑をかけているという自覚があったからだ。
私の父親も、私を見て疎ましそうな目をしていたことがあった。それを知っていた。
だから頼めなかったのだけれど、それでも思い切って強請ってみたら簡単に本を買ってくれた。
私のことに、さほど大きく興味を持っていないのか、などと思った。
でもそれはすぐに、胸の内へしまいこんだ。考えたら、ダメになってしまいそうだった。
だって、どんなに強請っても、外にだけは行かせてくれないのを知っていたから。
本を読んで、わからないことは優しい先生に聞き、屋根裏に転がる本からも知識を得た。
身体の弱い私が、まさか屋根裏に登るとは思っていなかったのだろう。ここは、知識の宝庫だった。
箪笥を段々に引けば、子供でも登れると、子供に感心のない彼らは知らなかった。
知識を増やしていくと、わかったことがあった。
それは私の世界が、私が思っているよりもずっと、狭いということだった。
一歩外に出れば、小川があって、風が吹いて、緑の匂いがするらしい。
私は、そんなことも知らなかった。知ろうとしなければ知ることが出来ない環境に、私は居た。
知れば知るほど、外に興味を持つようになった。
どうにか抜け出せないものかと考えたけれど、それは叶わなかった。
私の屋敷の周りには、いつも奉公人たちが控えていたからだ。
不審な者から屋敷を護る為の人間だと聞いていた彼らが、実は私を閉じ込める檻だと気がつくのに、さほど時間はかからなかった。
だから私は、賭に出ることにした。
賭に出なければ飼い殺されてしまう。
そんな気持ちに囚われたからこそ、私は命の危険があると知っていても、それをせずにはいられなかった。
屋根裏に入って、思い切り息を吸い込む。
それから急いで布団に潜り込むと、何時もよりも数段激しく発作が起こった。
今考えれば、他にいくらでもやりようがあったように思えるけれど、その時に私にできることは、確かにそれだけだった。
すぐに集まりだした奉公人。彼らにさすって貰っても、咳はおさまらない。
普段のものより格段に苦くした薬を飲むと、咳はすぐに楽になった。
けれどそれでも、私は咳が止まらない振りをした。
最初から振りだったらばれてしまっていたかも知れないが、本気の続きならばばれない。
そんな私の拙い謀りは見事に成功して、私が気を失った振りをすると、特別に治療を行う為の別室に移された。
そうすれば、もう、目的のほとんどは叶ったようなものだった。
医者を呼ぶ為、仕事の為に外へ出ていた――これは、幸運だった――父親を呼び戻す為。
奉公人たちは、疎らに散っていく。
まさか、ひどい発作で気を失っている子供が逃げ出すとは考えないだろう。
そんな私の考えは見事に的中し、穴だらけの計画は偶然と幸運と必然を以て私に計画の成功をもたらした。
こっそりと抜け出して、最初の感想は、今でも覚えている。
砂利の道を裸足で走ると、足の裏が痛い。
そんな簡単で当たり前のことも、私は知らなかった。
今では考えられないけれど、当時の私は本当に知らなかったのだ。
空気を吸い込み、肺を風で満たした。
どうして閉じ込められていたのか理解できないほどに、心地よかった。
森のざわめきは私に力を与え、落ち行く西日は私の心を満たす。
思い浮かんでは消える言葉たちを繋ぎ止めておくことすら、できなかった。
騒ぎが聞こえた訳ではないけれど、私は直ぐに走り出した。
見つかったら、この光景は二度と味わえない。
冷たい目で私を見る父親は、きっと私を座敷牢にでも放り込んでしまうことだろう。
父親の権力が強くあるこの里で、逃げ切れるか否かわからない。
だから私は、化け物が暮らすという森へ向かって走った。
そこならば、里人も迂闊に捜索に乗り出せないだろうから。
このまま順調に逃げられる。
そんなことはないと知っていたし、仮に逃げられたとしても森で化け物の餌食になるだけ。
そんなことは理解していたのだけれど、それでも、もうあの場所に居たくなかった。
急激な運動と、そもそもの運動不足。そして、人よりも弱い身体。
いくら興奮していたからといっても、さほど長く保つ訳ではなかった。
案の定森の前でへたり込み、ざらざらとした赤土を握りながら、咳き込んだ。
心臓がただひたすら痛くて、森に踏み込めなかったことが悔しくて。
血が滲むほどに唇を噛みしめ、声を押し殺して泣いた。しゃくり上げても、声を上げて泣きたくはなかった。
こんなところで負けたと痛感するのだけは、いやだった。
意地っ張りであったのだと、思う。
それでも咳はおさまって、一息吐くことが出来た。
けれどかけた時間は長く、よりにもよって父親に追いつかれてしまった。
『帰れ』
重い声だった。忘れられない、声だった。
なぜならそこに、親としての労りや慈しみなんか、込められていなかったから。
『帰らない』
それでも私は、怯みたくなかった。
怯んで、終えたくなかった。
最後の最後まで、足掻くのを止めたくなかった。
『それは叶わん』
『なぜ?』
『素質がある。だから今まで世話をしてきた』
『素質とは、なんの?』
『妖怪が言ったのだ。おまえには、素質がある。だから大事にしろと』
何を言っているのか、何を言われているのか。
徐々に声が強く大きくなる父親に、萎縮しないようにする。
ただそれだけで精一杯だから、疑問の解答を考えるのではなく、求めることしかできなかった。
『我が一門に悠久の繁栄をもたらすための、だ』
『……なんのこと?』
『とぼけるのもいい加減しろ。手引きしたのは誰だ?』
『手引きとは?』
『逃げ出す手引きだ。誰が、“身寄りのない”おまえを今まで世話してきたと思っている!』
父親の――彼の言葉は衝撃的だった。
そうでないように聞こえるかも知れないが、あまりの衝撃にそれ以外の感想を持てなかった。
父親だと思っていた人間は、私の親ではなかったのだ。
『今後一切、外に出られるとは思うな。成人したら婿を取らせ、直ぐにでも次代を生んで貰う』
冷たく言い放った彼を、私は呆然と見ることしかできなかった。
淡い期待がなかったと言えば、嘘になる。
愛情の片鱗すらなくても、この騒ぎを起こせば少しは私を見てくれる、期待。
そんな私の考えは、浅はかで愚かなものだったのだと、本人の口から告げられた。
それが悔しくて、悔しくて、悔しくて。
私は近づいてきた彼の目に……土を、投げた。
悲鳴と、怒号。
怨嗟と、欲望。
暗く淀んだものを背に、私は森へ駆け込んだ。
化け物が居るという森はそれはそれは空気の悪い場所だったが、それでも、走った。
怒りや悲しみで、もう痛みすら感じなかった。
どれほど走ったかわからない。
森の中の、その更に奥。湖の側だった。
そこでどうにか息を吐いていると、私の後ろに気配がした。
先生、だった。
あの屋敷で私に知識を教えてくれていた、先生。
怯える私に、彼女はただ優しく微笑んだ。
『ずっと見ていました』
『何故?』
『ずっと知識に触れさせてきました』
『何故?』
『ずっと手を貸せずに、いました』
『何故――?』
彼女は私に、ゆっくりと近づいてきた。
彼女を見上げると、その向こう側には、銀色の満月があったのを覚えている。
忘れられる光景では、なかった。
『時が来るまで、姿を現す訳には行かなかった』
『何故?』
『そうすれば、貴女の心が守れなくなってしまうから』
『何故?』
『私だけを求められては、貴女は人形になってしまう』
なぜ、としか問えなかった。
それでも彼女の側で声を聞いていると、不思議と安心した。
そうしているのが当然だと、思えるほどに。
『求めるのならば、手を伸ばしなさい』
それに私は、頷きも返事もしなかった。
状況に思考が追いついていなかった。
父親――彼の言葉も、嘘なのだと思っていたかった。
けれど私は、手を伸ばした。
彼女は寿命を迎えて、それでも人と関わりたかったのだと、その時に知った。
髪から色素が抜け落ち、身体が丈夫なものに作り替えられていくのを感じながら、私は様々なことを知った。
私の両親が、父親だと思っていた彼の、最愛の弟だったことも。
妻の不貞が原因で弟が狂い、共に死んだことも。
その妻に、私の面影があったことも。
全て、私は知ることが出来た。
なぜなら、私はその時――――全ての“歴史”を、垣間見たのだから。
――†――
「そのあと、世界の様々な場所を巡って、私は幻想郷に流れ着いた。一体化したけれど、それでも彼女のような教師になりたかった」
私が話し終えると、妹紅はただ目元を拭い、頷いた。
そんな顔をして欲しくて話した訳では、ないのだけれど。
けれど、今日ここでこの話が出来たのは、嬉しかった。
「明日から、私の夢は叶う。だから今日、妹紅が私に“何故教師を目指したのか”と聞いてくれたのは、嬉しかった」
そう言うと、妹紅は頷く。
私の何十倍も長く生きているくせに、涙もろい。
それが彼女の良いところで、私が彼女をかけがえのない友だと感じる一因だ。
「でも慧音、私――」
「悔やむことがあるのなら、夕食の準備を手伝ってくれ」
「――うん」
妹紅は漸く立ち上がって、私の隣に並んでくれた。
やはり、強く前を向いている方が、彼女らしくあるように思える。
ずいぶんと達観した彼女だが、それでも私には、こんな一面を見せてくれる。
それはもちろん、嬉しいのだけれど。
「手伝えることがあったら何でも言って、慧音」
「ああ、もちろんだ。妹紅」
夕食の準備に、取りかかる。
今日は何を食べようか、いや、友と食べればなんだって美味しいか。
そう包丁を手にとって、私は妹紅と一緒に下ごしらえを始めた。
遠き日の“歴史”に、思いを馳せながら――。
――了――
落ち着いた雰囲気が良かったです
素晴らしかったです
しかし、こんな話もあるかも知れないんですね……
ありがとうございます。
と、結果は慧音先生でした。
良い意味で裏切られた。ありがとう。
タイトルも素敵です。
ストーリーももちろんですが、融合という形でのハーフという発想が面白かったです。