封獣ぬえと申します。平安京にて化物をさせて頂いておりました。
平安京と云いましても、その優美なる名前と当時の状況には、些か乖離する部分がありまして。
飢饉、疫病、その他もろもろ。かつての優美さは失われ、そこはさながら地獄の釜の底。今や、人死にと悲鳴の尽きることがない、死の都と化している。それが平安京でした。
荒廃した都の片隅で、私は肥溜めの中に生まれました。
本来ならばそのまま尽きるはずの命。それを救ってくれたのは一人の女性。――彼女は漂泊の旅人でした。
命の恩人である彼女の事を私は「お母さん」と呼んでいます。名前すら知らないその恩人は、私が一人で生きていける歳になるまで、厳しくも優しく育ててくれました。
大の男でさえも生きていくのが厳しい平安京で、お母さんは逞しく生き延び、私を自らがそうであるのと同じように、強く靭やかに創り上げてくれたのです。
そして、ある日、ふらりといなくなってしまいました。
もともと、当てもなく旅をしていたのだ、と彼女が云ったのを憶えています。その危険な旅に一緒に行くことは出来ないのであると。
悲しくはありました。一緒に行きたいと泣きました。しかし私には彼女のような妖術は使えませんから、彼女の稼業である妖怪退治などに役立てる自信もありませんでした。
足手まといにはなりたくない。そう思い、私は「お母さん」と別れたのです。
幼い私が生きる為にするのは、死体からの追いはぎ程度の事でした。
力尽きた人の衣服や髪の毛かを、こそこそと奪い、それを雀の涙ほどの金や、一口大かという食物へと換えるのです。
それはさながら、屍肉を喰らい合う蠱毒のようなもので、そこは最早、人間としての尊厳などは到底感じ得ない世界なのでした。
そして、そのような生活を繰り返していた私も、人間というよりはむしろ獣のような形になり始めていました。気づかぬ内に、身に染みついた死臭は、呪符のように肉体を穢していたのでしょう。
お母さんに育ててもらった人間である部分は削ぎ落とされ、身につけし生き残る術だけが研ぎ澄まされていきました。お母さんは大した陰陽師でありましたが、身のこなしの軽さは忍びのようで、私もそれに倣ってすばしっこい子供でありました。つまりは私はすばしっこい獣へと変貌するのです。
時代は過ぎていきます。
荒れ果て尽きた平安京も、次第に人間としての住処として、本来の姿を取り戻し始めました。
道端に糞尿や屍体が転がる事もなくなり、夜の悲鳴も何処かへと消え失せ、羅城門にあった山のような腐肉と骨片も片付けられました。
それは人間たちにとっては、ありがたい事だったのでしょう。次第、平安京の人々の顔には生気が取り戻されていました。
しかし、私はその頃には、とうに獣となっていました。それは困ったものです。もはや人間ではない私に、美しい平安京は似合いませんから。
私が住まう場所は、もっと陰気で血生臭く腐っていなければならないのです。倫理や整然とした理論は必要なく、ただ生命の限りに喰らい合う世界こそが望ましいのです。
だから私は、私なりのやり方で、この命を繋いでいくことに決めました。
生きる為の武器といえば、すばしっこさくらいのものです。
本来、女である私に腕力などは望むべくもなく、お母さんに習った狩りのおかげで身についた、山猿のような身のこなしくらいしか、人より秀でたところはありませんでした。
あとは、この世に生を受けてから、一歩も平安京を出たことがないものですから、土地勘というものにも自信があります。
あの家の屋根から、あすこにある御所まで一足飛びに移れるとか。あの通りに行くには、あの裏路地を使えば近いとか。この平安京でおっかけっこをしたら、誰にも負けない自信はあったのです。
屍体から糧を狩る事の出来なくなった私は、それらを活かして生きていくしかないのでした。
死んだ者から奪えなくなったのならば、生きている者から奪うしかない。
私は夜な夜な、平安京の屋根を駆け、豊かな者から物を掠め取り始めました。
戸締りなどは、してもしなくても一緒。私の手に掛かれば、屋根も壁も存在しないようなものでした。どうやってだか、今になっては自分でも不思議ですが、私の身体は煙のように、壁板と壁板の間のような細い隙間を抜けていたのです。そして金品を手にして玄関から颯爽と帰るのでした。
そうして泥棒稼業を続けていったところ、やがて私のことが御所に伝わり、あれはどうにかしないといけない、と結論づけられました。そしてすぐ、彼らの雇った狩人が私を捕まえに、夜の都へと解き放たれました。
そうして、私は夜な夜な空を舞い、迫り来る槍衾に追われる身となりました。
昼には乞食の振りをして、出歩き闊歩して、町の噂を集めました。
話によれば、どうやら最近、平安京に妖怪が現れるそうなのです。私は興味深げに、その反物屋の番頭へと尋ねました。彼は口が軽く、乞食にも差別の意識がないらしく、楽しそうに教えたものです。
夜になると屋根の上を駆け、人の金品を奪っていくらしく、それがどうやら山猿のような妖怪であると。
ふむ。これはどうやら、私のようだ。と怒るような、恥ずかしいような、誇らしいような気持ちになりました。すばしっこいだけの子供が、噂を伝っていくうちに妖怪へと変化したのです。その出世というか落ちぶれというか、とにかく複雑な心境です。
それと同時。狩人から逃れるのに疲れていた私は、これを利用しない手はない、と考えついてもいました。
つまりは、この人々の不安を煽り、私を追い掛け回すのを、狩人や御所に辞めさせようという事です。
私は吹聴します。あの妖怪は呪いを持っていると。手に掛ければ一族郎党末代まで呪われると。
一度流してしまえば、あとは最初と同じ。風に乗って噂が膨らんでいきます。勝手に、無尽蔵に。
それに拍車を掛ける為、私は自分を本当の妖怪に見せるように、演じることにしました。つまりは擬態を始めたのです。
まずは平安京近くの山中を探しまわり、蛇の脱皮した抜け殻を得ました。
そして、それを腕に巻いてみます。案外と格好が良い気がして、私はそれを気に入りました。
数日間、その蛇を見せつけるようにして、狩人に追われてみました。
だが、どうも噂の勢いが良くありません。
あれはただの餓鬼だ。しかも女だ。ただの泥棒だ。――そんな話もちらほら聞かれました。
どうやら、蛇の装飾だけでは力不足。私は更に、擬態で噂を押すことにしました。
ある日、道端に鴉が力尽きているのを見つけ、その羽をむしりました。そしてボロボロの服に貼りつけてみました。全身が真っ黒になり、その上、鴉の羽は月夜を照らし返します。その神秘的な装いに私は酔いました。
または、何かの獣が朽ち果てているのを見つけ、その肋骨を取り出して背中に付けてみました。まるで私は、羽をむしられた鶏のようでしたが、それが妖怪のように不気味な雰囲気を醸し出してくれました。
骨の羽が気に入った私は、また別の骨を調達するために平安京をかけずり回りました。そして、まだ荒れている通りに行くと、そこに落ちていた人の骨を集めて、また片方の羽として背中に生やしました。
ただし、この行動が住人に目撃されたらしく、しかし、またそれが良い具合に噂に乗っかります。
曰く、妖怪が人の血肉を探して徘徊していると。人々は私を恐れました。夜の都から、人の影が少なくなってきました。
復興しつつあるとはいえ、荒廃しきっていた都において、人の心は弱いままです。そのような土壌があれば、人々の不安というのは軽々しく増大するものです。湿り気のある場所に黴が増えるように、退廃は正体不明の恐怖を育てます。
ひと月もすれば、存在しない妖怪「ぬえ」が平安京中を恐怖に陥れていました。
私を追いかける狩人たちも、最初はただの泥棒少女を追いかけているはずが、その噂と恐怖に負けて、私から遠ざかるようになりました。あからさまに槍の穂先が弱々しく見えました。
自分たちの眼を信じられなくなり、その瞳に正体不明の化物を見るようになってしまったのでしょうか。そこに映っていたのは確かに、擬態しただけの少女だったでしょうに。
しかして、こちらもこちらで、演出には拘りました。
蛇の皮や、人骨で作った羽はそのままに、色々な獣の皮を繋いで作った衣装を纏い、屋根の上から灰を撒き散らし、奇声を上げながら跳び回る。
夜の闇の中で私の影を見た人間は、何かよく分からない化物がいると勘違いし、頭の中に「ぬえ」という化物を創りだすのです。
私は気を良くして「ぬえ」を演じ続けました。
やがて、目的は狩人からの逃避ではなく、より大きなものへと成っていました。――あの荒廃した平安京を取り戻す為に、私の生きられる世界を創りだす為に。
つまりは、それほど「ぬえ」の恐怖は平安京に災禍として君臨していたのです。
しかし、私は気付いていませんでした。
もはや「ぬえ」は私の手元を離れ、本人の手の中には収まらない存在になっていると。
人々の噂は力強く渦巻き、抗えぬ流れを作りました。
もはや「ぬえ」本人である私でさえ「ぬえ」でなくなる事は許されていなかったのです。
そして、その時は、やってきました。
私はふと気付けば、手に灰を持っていませんでした。しかし頭上には黒煙が立ち込めています。背中から生やしていた骨は意思を持つように蠢き、明らかに私の肌の中から産まれています。腕に巻いた蛇は生命を与えられたかのように鼓動を繰り返します。
泥棒の少女に「ぬえ」という得体の知れぬ殻が被され、そして、彼女自身も、それの意思にもはや絡め取られているという状態にあったのです。
私は平安京の化物、鵺となっていたのです。なりました。
狩人たちの刃先を避け、人々に恐怖と不安を撒き散らす、正真正銘の妖怪になっていたのです。
心を弱らせた人間は病気になり、枯れていきます。私の存在はもはや、一つの災害です。人々から真に恐怖され、疎まれ、恨まれる存在になっていたのです。
京を治める者らにとっても、鵺は一大の懸念となりました。
今までのような泥棒猫を退治するだけの事とは違います。彼らは浪人という名の狩人には任せられぬと、各所より腕っこきを呼び集めました。つまりは妖怪退治を得意とする、勇猛果敢な武人たちです。
次第に私を追う穂先の数が増え、その鋭さが増してきました。明らかに私の命を狙う者たちが、その強さを増してきたのだと実感しました。
しかし私は平安京にいる限り、負ける事はないと自信を持って逃げ周り、そして厄災を振りまき続けました。
事実、腕っこきたちの槍は私を捉えることなく、やがて彼らも私の瘴気に苛まれた挙句に倒れ、その数を減らしていく一方でした。
まるで私は道化です。病原体を客席に振りまきながら、陽気に笑い飛び跳ねる道化です。道化ゆえに死ぬことはありません。頭を殴られようが、胸を突かれようが、死にはしないのです。
だから私は上機嫌になり、毎夜が如く、平安京を徘徊しました。毎夜が如く、その恐ろしさを魅せつけていました。
あの日も、そうやって余裕綽々と屋根を跳び回っていました。そう、あの日です。
私はハッとしました。屋根の上に人間が一人、立っているのです。そしてこちらを睨むその厳しい目付きに、それが自分を狙っている者であると即刻判断しました。
すぐさまに方向を変え、私は逃げ出します。人間などという鈍足動物は、私が少し遊ぶように引っかき回せば、すぐに撒けるのですから。戦う気などは毛頭ありません。
しかし、その狩人は違いました。私と同じように軽快に屋根を跳び、ぴったりと背中についてきました。驚いた私が気を緩めた瞬間、追っ手の放った業火が私を包みました。火は、私よりも明らかに足が早かった。
全身を焼かれ、私は通りへと転げ落ちました。蛇は焼け焦げ、骨は焼け落ち、身体を纏う黒い羽は消し炭に。火は意思を持ったように、私の身体を何度も何度も啄んで離しません。今にして思えば、あれは普通の火では有り得なかった。そして、鵺はあっさりと焼き殺されたのです。
全身に火傷を負い瀕死の私のもとへ、仕留めた彼女が降りてきました。そして、そっと耳打ちをするのです。
「お前はこれで元の通り、ただの少女に戻った。人々に何の恐怖も与えない、ただの人間にね」
確かに私が創り上げてきた「ぬえ」の部品は焼け落とされ、道端で死にかけているのは、ただの少女に成り下がっていました。
その一言を告げると、私を倒した彼女は立ち去りました。鵺を倒したという功績を受け取らずに、ただ彼女は消えたのでしょう。恐らくは、私が死ぬところを見たくなくて。
私は結局、その後に駆けつけた狩人によって引っ捕えられました。何分、瀕死なもので抵抗も何もなかったのです。
そして御所の庭で磔にされ、なにやら武士によって弓矢の的にされたような形で、処刑されました。見た目はただの瀕死の少女ではありましたが、私はあくまでも鵺として殺されたのです。
平安京で生まれ育った少女は、そうやって死に絶えました。短い人生の中で、何かを遺すこともなく、ただ矢に射ぬかれて死にました。
ただし、鵺はこうして生きています。産み出した少女が死んだとしても、まだ鵺は生きています。
人々の記憶に恐怖と共に刻み込まれ、噂だけで人々を苦しめた鵺は、その実体などは本当の所は無いのですから。人々の噂となった時点で、鵺という妖怪は全く別の存在として顕れていたのですから。最初からいないものは死ぬこともなく、永遠に生き続けるのです。
彼女は――少女は擬態をしていたに過ぎません。
人々の不安が産み出した鵺という化物に。自分が何かを成し遂げられるものであると、心で強く思いたいが故に。その身を化物に擬態させていたのです。
だから鵺の正体とはつまり、存在しないのです。正体不明の化物、という皮を剥いだ奥にあるのは、空虚な恫だけでしょう。
もしも貴方の周りに「鵺」と自称する妖怪がいたのなら、それは「鵺」に擬態している偽物にしか過ぎません。
皮を剥いでご覧なさい。きっと、そこには――矮小な妖怪が身体を縮こまらせて、座っているに違いありませんから。
もしくは、弱々しい少女が、助けを求めて手を伸ばしているのかも。
◇ ◇ ◇
「痛っー!」
「何してるのよ。まったく」
藤原妹紅のゲンコツが、不法侵入者の頭を叩いた。
頭を押さえる不届き者は、いたって不思議そうに首をかしげる。
「なんで私を見て驚かないの? 貴方が一番恐怖に思うものへと、姿を変えているはずなのに……」
「悪いわね。永く生きていると、そんな幻覚系なんてのは慣れてさ、効かないのよ。じゃあ、とりあえず、そこに座りなさい」
ぬえを正座させ、妹紅は説教を始めた。
「それで? なんか私のことを監視してるみたいだけど、奴からの刺客か何かかしら?」
「え、奴?? いや。私は個人的に眺めてただけなんだけど……」
「覗き魔? あのねぇ。そういうのは悪趣味よ。今までは大目に見てたけど、庭まで入ってきたら流石にね」
妹紅は気付いていた。数日前から、このぬえという妖怪が家の周りをうろついている事に。
だが、どうせ輝夜に何か吹きこまれたりした、大したことのない奴だろうと放置していた。しかし、ここにきて庭への侵入を果たしてきたので、満を持してゲンコツを喰らわせた訳である。
「それで? 輝夜関連じゃなかったら、何の用で私なんかを監視していたのかしら?」
「え、それは……。あの、礼を、言いたくて……」
「礼……? あなたと私、初対面じゃなかったかしら。いや、何しろ永く生きてるものでね。礼を言われるようなことをした記憶もなければ、あなたの顔も失礼ながら憶えてはいないのよ」
「私は……ずっと探していたんだ。貴方にお礼を言いたくて……」
「一体私、あなたに何をしてあげたの?」
「……私は救われたのよ。貴方に、2回も」
「私が2回も同じ人を助けるなんて、珍しいこともあったのね。それで一体、私はあなたに何を……?」
思い出そうと考え込む妹紅へ向けて、ぬえは不意を打つように頭をさげた。
そして口にした。もごもごと、歯切れ悪く。
「……ありがとぅ……ぉ…ぁ」
それだけ言うと、ぬえは立ち上がって走り去った。
「いや、だから一体何のお礼……って、待てまて!」
あっという間に竹林の中へ消えていく背中へと、妹紅は呼び止めるよう声を飛ばした。
中途半端にお礼だけ言われても、なんだかむず痒い。せめて自分が何をしたのかは言って欲しい。
「あー、もう。一体なんだったのよ?」
だが、もしも彼女が、ぬえが最後に小声で付け加えた言葉を聞き取れていたのなら、あるいは思い出していたかもしれない。
彼女が一体何者で、自分が何故、礼を言われたのかを。
ただ何しろ口中だけで呟いたような声だったので、聞き取れなかったのも無理はないだろう。
ぬえの告げた、遠い哀愁を示す言葉は。
「私に気付け。私を見ろ」って悲鳴が聞こえてくるよう。
本人は嫌がるかもしれないけど、もしあるのなら泥棒少女の本当の名前が知りたい。
後日譚の扱いにはとてもとても悩みました。というか今も悩んでいます。
「救いがあって良かった。いや待てやっぱり蛇足ではないのか。だがしかし……」みたいな感じでですね。
ピクッ
この感じが読んでいて堪らなかったです
持ってけ、100点!
最初は聖だと時代が違うかなぁ、なんて思っていたんですが…
こうしたキャラクターたちの秘話のような話は好きです。
ラストは、「そう来るか!」と。
一人称やレイアウトが読みやすくて良かったです。
蛇や骨で飾ってわたしカッコいいっ、な、ぬえちゃんが厨二病ぬえちゃんにみえてしまったw
忘れるなよ妹紅ww
不覚にも泣いてしまいました。何でなのか自分でもよくわかりません。
少女から妖怪「鵺」に、そして封獣ぬえに。
東方キャラ達が背負っている業と悲哀が見事に描かれた傑作だと思います。GJ!
ラストで妹紅を持ってくるのも良かった。
ぬえ誕生の過去話、お見事でした。
なるほど、そうくるのか、と。
これは良い名作。