この時間は常に彼女の時間だった。
四方を燦々と照らしていた太陽は山の向こうに姿を消し、人間達は仕事を終え、またあるいは遊び疲れて野山を去っていく。
姿を消した太陽の代わりに、細く鋭い刃のような三日月が中天に差し掛かる頃、彼女はどこからともなく姿を現す。
黒い服に、赤いリボン。金色の髪に、白い肌。大きな瞳に、無邪気な笑み。
小さな足に良く似合う赤い靴は地に着かず、彼女は空中をくるくると木の葉のように舞う。
黒いスカートが、花のように広がる。
宵闇の妖怪、ルーミア。
それが彼女の名前。
この時間は彼女しかいなかった。
闇を恐れる人間達は、家から出てくることはない。
数少ない例外である紅白の巫女や黒尽くめの魔法使い、吸血鬼に仕えるメイドも、今夜は出てこない。
静かに降り注ぐ月光も、夜風にさやぐ草の音も、全て彼女のもの。
彼女は久しぶりの一人きりの夜を満喫していた。
一人きりだが、退屈だとも孤独だとも感じない。
彼女はもとよりそういった感覚が希薄なのだ。
と、楽しげに夜空を行く彼女の視界の端を、木の根元にうずくまる人影が掠めた。
こうして夜空を飛んでいるときに、あの三人以外の人間を見たことなどない。
興味を引かれた彼女は地面に降り、久しぶりに歩く感触を楽しみながら、その木の根元に歩み寄る。
木の根元にいる人間が、びくりと身を竦ませる気配。
遠慮なく彼女は近づき、人影を覗き込む。
息を飲む人影は、彼女とそう年の変わらない少年だった。
両手で顔を庇うように身を縮こまらせていた少年は、相手が自分と同じくらいの少女だと言うことに安堵したが、
その安堵は自分と同じくらいの少女がなぜこんな時間にこんな場所にいるのか、という至極まっとうな疑問で
すぐに不安と恐怖に反転する。
「な、なんだよお前っ!なんでこんなところにいるんだよっ!」
自身の内に涌いた恐怖を少しでも払拭しようと少年が上げた怒声にも、ルーミアはきょとんとした顔をしただけ。
びくついた様子も怯えた表情もなく、少年に無邪気な笑みを向ける。
「わたしルーミア。お散歩してるの。あなたもお散歩?」
「そ、そんなわけ…っ!」
またも怒声を上げようとした少年だが、相手が自分と同じ年恰好の少女だと言うことが、彼に少しずつ安堵を取り戻させていた。
「…そんなわけ、ないだろ。」
ぽつりと呟く少年。
「じゃあ、なにしてるの?」
ぺたりと地面に座り込んで、しゃがみこんでいる少年と目線の高さを合わせるルーミア。
「…別に。」
自分に向けられる視線がなんとなく気恥ずかしくなって、少年はぷいと視線をそらす。
そんな少年の様子の何が嬉しいのか、ルーミアはにこにこしながら彼を見ている。
「お前、もう帰れよ。父ちゃんや母ちゃんが心配するだろ。」
「そんなのいないよ?」
「え…」
視線をルーミアに戻す。
ルーミアは笑みを浮かべている。
なんでもないことのように、彼女は「自分には両親が居ない」と言った。
違和感より先に、図らずも自分と同じ境遇の人間がいたことが、少年の張り詰めた心をひと刺しした。
穴の開いた幼い心は、さっき会ったばかりの少女に無防備にその裡を晒す。
「お前も…親なしなのか?」
「うん。」
「…じゃあ、俺といっしょだ。俺も、親がいなくてさ。」
「そーなのかー。じゃ、わたしたち、おんなじだね!」
笑うルーミアにつられて、少年も笑う。
それから二人はしばらく他愛もない話に興じていた。
ルーミアは少年の話にいちいち頷き、少年の話が終わるたびに次の話をせがむ。
少年は頭の隅の方で、こんなに誰かと話をしたのはどれくらいぶりだろうと考えながら、次の話を探すのだった。
「じゃあ俺、そろそろ帰らないと。」
「そっかー。じゃあまた明日ね。」
「え?」
「ん?だから、また明日。」
「あ…ああ!また明日な!」
元気よく駆けていく少年の背中を見送るルーミア。
妙に楽しい気分になって、地に足をつけたままくるくると踊りだす。
足元から伸びる影が、ゆらゆらと陽炎のように踊っている。
この時間は彼女だけのものではなくなった。
ルーミアが先にそこに来ることもあれば、少年の方が彼女を待っていたこともある。
二人は初めて会った木の根元を待ち合わせ場所にして、毎晩のように会っていた。
「そういやさ、ルーミアは昼間は何してるんだ?」
「なんにもしてないよ。あなたは?」
「俺は里の酒場で働いてる。これでも一人暮らししてるんだぜ!」
「そーなのかー。すごいね!」
ヘンなヤツだな、と少年はルーミアを見る。
今まで自分に両親がおらず、仕方なく場末の酒場で他の子供達と遊ぶこともせずはした金で働いている自分にかけられてきた言葉は
罵倒、嘲笑、侮蔑…そんなものだけだった。
最初にルーミアと出会ったあの夜、彼はついに耐えられなくなり酒場を飛び出してきたのだった。
死んでしまおう、漠然とだったがそんな考えすら頭にあった。
だが、ルーミアと出会い、毎晩のように会うようになってから、少年は僅かずつ変わっていった。
自分を嘲りも罵倒もせず、ただ無邪気に笑いながら自分を受け入れてくれる少女。
彼はそんなルーミアに出会ってから、独力で生活している自分に誇りを感じられるまでになっていた。
「なあ、ルーミア。」
「なあに?」
木の根元に腰掛けた少年の隣に、ルーミアも同じようにちょこんと座り込み、少年の顔を覗き込む。
鼻と鼻が着くほどの距離から見つめられて、少年は慌てて身を引く。
その様子を不思議そうに眺めているルーミア。
「今度さ、昼間に会えないかな。店が早く終わるんだよ。そしたら、色んなトコ連れてってやるぜ!な?」
「んー、ごめんね。わたし昼間はいないの。」
「じ、じゃあ仕方ないか。あれ?でも昼間はなにもしてないんじゃ…」
「うん、なにもしてないよ。でもいないの。」
「…はぁ?」
眉根をひそめる少年。
今までもこんな風にして、何だか会話が噛み合っていないことが時々あった。
だがこれまでもそのときも、少年は大してそのことを気にとめることはしなかった。
そんなことよりも少年には、昼間の嫌な出来事を忘れられるこの僅かな時間を楽しみことの方が大切だった。
「あれ?それ…」
ルーミアが身を乗り出して、少年の顔…頬の辺りを指差す。
近づいたルーミアから妙に甘酸っぱい香りがして、少年は訳もなく顔を真っ赤にする。
「な、な、な、なんだよ?」
「ここ、ほっぺたのところ、ケガしてる?」
慌てる少年に構う風もなく、ルーミアは少年の頬と自分の頬を交互に指差す。
ルーミアが指指した少年の額には、暗がりでよくは見えないものの、赤く腫れた痣があった。
「あ、ああ、これか。今日仕事中にちょっとぶつけただけだよ。」
と、少年は嘘をついた。
本当は今日、酒場の主人に殴られてできた痣だった。
だが少年はそのことを言うのがなんだか情けないような気がして、また、ルーミアに心配をかけたくなくて、嘘をついた。
「ふうん…でもけっこう腫れてるよ?…あ、そだ。」
ぽん、とルーミアは両手を鳴らすと少年の両肩に手をかけて顔を寄せると、その頬にできた痣をぺろりと舐めた。
「っわ、なな、なにすんだよお!」
「あ、動いちゃダメだってばー。ほら、キツネとかタヌキとかこうやって治すでしょ?」
暴れる少年の両腕を押えつけ、ルーミアはなおもその頬に舌を這わせようとする。
「おれまで動物といっしょにするなよ馬鹿!」
「あー、それってサベツなんだよ?いけないんだよー?」
夜の森の片隅で、そこに似つかわしくない微笑ましい喧騒が起こる。
夜の闇の中にあって、そこにだけまだ昼の陽気が残っているかのような、そんな喧騒だった。
だから、二人はすぐ傍の草むらを斑に染める赤い染みに気が付かない。
里にお触れが出た。
曰く、「山に妖魅あり。人を惑わし喰らうものなり。里の門には番を置き、日の沈みし後はみだりに里を出ること無き様。」
少年の働く酒場でも、だれそれが山に行ったきりもう3日も帰ってきていない、妖怪に喰われたんだ、
腕に覚えのある者を集めた討伐隊がすでに山に入っているなどという話題で持ちきりだった。
はじめは酔客の冗談だと聞き流していた少年だったが、お触れまで出てしまっては流石に疑うわけにもいかない。
そこで心配になったのが、あの夜の山で出会った少女のことだった。
幸いお触れが出たのは今日、里の入り口に門番が置かれるのは早くても明日だ。
今日のうちならば門番にも見咎められることなく村を出ることができる。
少年は日が沈むまでをじりじりとした気分で過ごし、日の沈む頃になると店主への挨拶もそこそこに山へ向かって駆け出した。
息を切らして少年がいつもの待ち合わせ場所に着いたときには、すでにルーミアはそこにいた。
見慣れた少女の姿を認めた少年は、安堵と疲れのあまりその場にへたり込んでしまう。
だがそれもつかの間、ルーミアの様子が明らかにおかしい。
木の根元に座り込んだルーミアは、少年がそばにいることに気付いていないかのように、うつむいたまま動かない。
「おい、ルーミア!おいってば、どうしたんだよ!おい!」
少年が慌ててルーミアの傍に駆け寄り声をかけると、ルーミアは高熱に浮かされたような意識のはっきりしない表情で
少年の方を向く。
「ん…あ、ああ…こんばんわ…」
「こんばんわじゃないだろ!いったいどうしたんだよ!おい!?聞こえてるのか!?」
少年がルーミアの両肩を揺さぶりながら大声を上げても、ルーミアは焦点の合わない視線をさまよわせるだけだ。
訳がわからない。
額に手を当ててみても熱はない。どこか怪我をしている様子もない。
なのにこの弱り方はどうだ。まるで、
「…っ!」
まるで、の先を少年はかぶりを振って頭から追い出す。
そんなことがあってたまるか。そんなことは許さない。
だが、もうそれ以外にルーミアの弱りようを説明できない。
「おい!そこに誰かいるのか!?」
少年の混乱にさらに追い討ちをかけるように、声と共に聞こえる大勢の足音、そして重い鉄の塊がぶつかり合う音。
少年は飛び上がらんばかりに驚いたが、誰かが来てくれたのならルーミアを助けてくれるかもしれない。
「ここだよ!誰か来て!」
少年の声に導かれて姿を現したのは、鉈や短剣をぶらさげた物々しい一団だった。
よく目を凝らせば、酒場の常連客も何人かいる。
一団のうち一人が手にした明かりを近づけて、少年の顔を認めた。
「うん?どこかで聞いた声だと思ったら、お前、酒場の…」
「そんなこといいから!こいつ、様子がおかしいんだよ!」
男の言葉を最後まで聞かず、少年は未だにうつむいたままのルーミアを指し示す。
「こいつって…誰だ?この子供。」
「だから誰でもいいだろ!おかしいんだ、熱もないし怪我もしてないのにこんなにぐったりしてて…」
「どれ…」
男がうつむいたルーミアの顔を確かめようと、明かりを近づける。
里では見たことのない顔、生気の抜けかけた表情、ところどころ汚れ、破れた衣服、そして…その足元に貼りついた、数枚の呪符。
それを男とその後ろにいた一団が認めた瞬間、場の空気が裏返った。
「小僧!そいつから離れろ!」
短剣を抜きつつ身構える男の台詞を、少年は理解できない。
少年の理解を待つことなく、一団は各々の得物を抜き放ちつつ、素早く二人を取り囲む。
その刃先に宿る明確な殺意が、やっと少年にこの事態を理解させた。
「っな…なんだよ!何するつもりだよ!」
「馬鹿野郎!早くそいつから離れろ!そいつなんだよ!里の人間を喰ったのは!」
「!?」
頭の中から凍り付いていくような、そんな異常な感覚に少年は襲われる。
男が何を言っているのか、それを理解することを全身が拒んでいる。
指先が痺れている。口の中が乾く。握り締めた拳は汗でじっとりと濡れているのに、背筋だけが冷たい。
気が付けば少年は、ルーミアを背中に庇う形で、男達と彼女の境に立っていた。
男達は口々に叫ぶ。
「何をしてる!早くそこをどけ!」
「こいつも化かされてるのか!?」
「早くどけ!今ならまだ法師様にもらった呪符が効いてるんだ!」
「こいつを追う途中で、現太も総児も殺されたんだ!生かしちゃおけねえ!」
少年はじり、とあとずさる。
どうしていいのか分からない。
男達のうち一人が少年を突き飛ばす。草むらの上に転がる少年。すぐに起き上がる。ルーミアのうつむいた顔が見える。
ルーミアは動かない。少年は叫ぶ。ルーミアは動かない。少年は駆け寄る。
自分が何をしようとしているのか、少年には分からない。
自分の体が自分以外の何かに操られているようだ。
うずくまるルーミアの足元に飛び込み、そこにへばりついている呪符に手を伸ばす。
指先が引っかかる。ぐっと身を伸ばし、呪符を破り取る。
男達が殺到する。刃、刃、刃。月の光を撥ね返し殺気を滲ませたその刃。それを振り上げる腕。そして振り下ろす腕。
呪符からの開放と、識域下の自衛本能の起動がほぼ同時。
表層の模擬人格が自衛本能に反転するまでに半秒。
ルーミア…否、「それ」が形を失い霧散するのに半秒。
振り下ろされた刃が抉ったのは虚空、そして地面。少年の鼻先だった。
刃が抉るはずの妖怪の姿は何処にもない。
代わりに、周囲から一切の光源が失われていた。
確かに男達の数人は明りを手にしていたはずなのに、その明りが何処にも見当たらない。
混乱が極みに達した男が意味不明なうめき声を上げて地面に食い込んだ刃を持ち上げるよりも早く、
微かに紙が焼け焦げるような音を立てて、男の肘から先が消えた。
一拍遅れて、男の喉からは絶叫が、その半分を失った腕からは鮮血が、それぞれ噴き出した。
迸る絶叫が、その源である口を頭ごと消失させて唐突に途切れる。
悲鳴、悲鳴、悲鳴。
残った男達が恐怖の色に染まり切った金切り声で助けを求めている。
少年は動けない。目の前で起こった出来事の全てが、彼の理解の範疇を超えていた。
自分の中に、この事態に対する選択肢が見つからない。
ただ、恐怖が、根源的な恐怖だけが、彼をその場に縫い付けていた。
「それ」は展開後即座に外敵の一部を取り込み最低限の霊力を回復させる。
呪符によって衰弱していた霊力をさらに消費し霧散形態をとる事は、霧散と同時に霊力の不足による
存在濃度の極端な低下…消滅の可能性を孕む、「それ」にとって危険な賭けだった。
賭けは成功。
人間の血肉の摂取により、僅かに霊力と存在濃度を回復した「それ」は、周囲の敵性体の排除及び吸収を選択。
敵性体は「それ」に対して霊的干渉手段を持っていない。霧散形態ならば物理干渉を受けない。
「それ」は霧散形態での排除行動を選択。
自身の濃度、展開範囲を消滅が起こらない程度に慎重に保持し、敵性体を囲み込む。
夜の闇ではないことは明白だった。
視界を完全に閉ざされた男達が上げる悲鳴は、時間が経つにつれ少しづつ減っていった。
あるものはいきなり頭部を失い、あるものは両足首から順番に消え、またあるものは表皮と肉から消失し骨をばら撒いた。
もう、その場に悲鳴を上げるものは残ってはいない。
ただ一人、少年だけが壊れた人形のように恐怖に顔を引きつらせて木の幹に背を預けている。
「それ」は周囲から敵性体が全て消失したのを確認すると、霧散した状態から自身を収束させ、本来の姿に復帰しようとした。
だが、収束が上手くいかない。
霊力が不足した状態での霧散状態への移行が災いしたのか、通常よりも収束に時間がかかっている。
模擬人格と自衛本能が入れ替わり立ち代り表層意識にに立ち上っては沈んでいく。
模擬人格が、目の前に死んだように座り込んでいる少年を認める。
自衛本能が、霊力の不足を訴える。
模擬人格が、記憶を辿ろうとする。しかし霧散状態への移行時に記憶の大部分は解体している。誰だかわからない。
自衛本能が、霊力の供給源を知覚する。
模擬人格が、徐々に明瞭になっていく。
一人の男の子が見えた。
見覚えがあるような、ないような。
ひどく怯えた顔をしている。
こんなところで、何をしてるんだろう。
それに、どうしてこんなに怯えた顔をしているんだろう。
ああ、そうだ。抱きしめてあげよう。
そうしたら、きっと怖くなくなる。
そう思って、男の子に近づく。でも、少年の怯えた表情は変わらない。
大丈夫。
抱きしめてあげれば、きっと大丈夫。大丈夫。
少年に手を伸ばして、ぎゅっと抱きしめる。
すぐ耳元で、少年が何か叫んだような気がしたけど、よく聞こえない。
ほら、やっぱりそうだった。
男の子は私の腕の中で、すっかり大人しくなった。
「…ん。」
ルーミアは森の中にいた。
なんだか頭がぼんやりしている。
自分がいつここに来たのか、何をしに来たのか、それもよく分からない。
辺りを見回してみる。
自分の他には誰もいない、虫の声だけが聞こえる静かな夜の森。
ふと木の根元に目をやると、布の切れ端が落ちている。
既視感。
だが、それが何なのか、どうしても思い出せない。
なんだか、とても大切なことを忘れている、そんな気がする。
「んー…ま、いいか。」
ルーミアは大きく伸びをすると、ふわりと空中に浮かび上がる。
空には、手を伸ばせば触れられそうなくらい大きな月。
ルーミアは心地よい夜風の中を泳ぐように、楽しげに舞う。
何かを忘れているような気分はまだ残っていたが、それも月の光が洗い流してくれるだろう。
憂うことなど何もない。
夜は彼女の時間なのだ。
そう…彼女だけの。
変な言い方ですが、『ヒトと妖怪の正しい関係』をうまく表現されていると思います。
まあ、霊夢達の視点ではそう感じることはないんですけど。