萃香は、今日も疎に幻想郷を見渡していた。全てが彼女のすぐ傍で起こって、手に取るように観察出来た。
紅白の巫女と虫の姫が弾幕していたり、知識の魔女が七色の魔法使いと共に本の角で黒白をどつき倒していたり、平和ながら楽しむ見物には事欠かなかった。
そんな中、彼女はふと、ある気を感じて今まで意識に留めていなかったとある場所に目を止めた。
「…あれは…」
彼女の目がすうっと細まり、表情が明らかに引き締まった。
そして、次の瞬間彼女はその場所のすぐ近くに現れ、事態に首をつっこみ始めたのだった。
それは珍しい偶然だった…人どころか妖もろくろく通わぬような辺鄙な山奥で修行を重ねていたかつての西行寺家御庭師、魂魄 妖忌が、妖怪に襲われる一人の少女を見出したのだった。その少女の顔は、まだ12歳かそこらだろうか、彼がかつて仕えていた主によく似ていた…だから、彼の身体は思うよりも先に動いていた。
キィン!妙にあっさりした音と共に、今まさに振り下ろされた爪は居合いの一撃によって横に弾かれていた。
人型の岩の塊のようなその妖怪は、驚いて妖忌へと振り向いた。
「な、何をしやがる!」
「…すまぬが、その娘に手を出すのは控えてもらえんだろうか?もちろんお主も食わねばなるまい…見逃してくれるならば、今釣って来たばかりのこの魚を代わりにやろう」
「何だと?ふん、爺なんぞに命令される謂れはねぇ…ぜ…」
それがいつ起きたのか、妖怪には全く判らなかった。彼の顔の前には、魚を下げた紐と徳利が突き付けられていた…突き付けられたそのものはともかく、その髪の真白い、彼から見ればか細くひ弱そうな老人の動きが全く見えなかったことに、彼は驚愕した。
「ほれ…今ならこの酒もつけよう」
穏やかな声とは裏腹に、老人の声には妖怪が今まで人間から感じたことのないような凄絶…いや、静絶の気迫があった。
目の前にまっすぐ突き付けられている徳利が、まるで刀の先のように感じられた。
彼は、本能的に悟っていた。これは、自分が逆らってはならないものだと。そして、それがあえて逃げ道を用意してくれていることも。
「し…仕方ねえな」
空腹をくすぐる魚の匂いのせいではなく、喉をごくりと鳴らして彼は答えた。
「ま、まあ、酒なんざ久しく口にしてねえし…生き魚までつくなら、こんな小娘よか余程上等ってもんだ…そ、それじゃあばよ!」
差し出されるまま二つの品を受け取ると、彼は風をかっ食らってその場を逃げ出した。それ程に、彼はその老人を恐ろしいと思った…そして、それを恥とさえ思わなかった。
その様子をゆっくりと見届けると、妖忌は娘に歩み寄り、腰を抜かしているのを見て取ると、無言でその頭に手を置いた。
「ひっ…」
「安心せい…嬢は儂のかつての主によく似ておる、間違うても危害を加えたりはせんよ」
妖忌が一言かけると、脅えていた少女の身体の震えはぴたりと止まった。剣の極意にいわく、真の達人はその力を悟らせず。
だから、彼は誰にも恐怖を与えない老人にもなれたのだ。…それでも、好々爺にまでなれるほど器用ではなかった。
少女の様子を見計らって、彼は何も言わずに背中の背負子を向けた。
「座れ」
「…え?」
「早く乗れ。人の足ではこの先難儀、帰りが遅くなる」
「え、ええと…」
「早くせいと言っておる」
「は、はい…」
少女はこわごわと背負子に腰をかけ、妖忌が彼女を担いでその場を去って少し後のこと、そこに唐突に別の少女の姿が湧いて出た。それはまさに、湧いて出たと呼ぶのがふさわしい現れ方だった。
「他にも興味津々で見てるヤツが沢山いてよかったわ。でなかったら、疎のままでも気付かれてたかもなあ。…何て久しぶりなんだろう、鬼を斬ったことのある刀を見るなんて」
二本の見事な角を生やしたその少女は、それは嬉しそうに笑っていた。
「さ、着いたぞ」
山の頂上近くに設えられた一軒屋と四つの小屋の前で、妖忌は少女を背から降ろした。
「もう日も落ちる…今夜はゆっくり休んで、それからどこぞ好きな所へ送って行ってやろう」
少女はぼんやりと背から降りると、くんくんと鼻をうごめかせた。
「…甘い匂い…」
「ああ、なかなか良い嗅覚じゃの」
にこりともせず、老人は家の後ろを指した。
「なに、こんな山奥ではさすがに酒には不自由してな。あそこで造っておる。その香りよ」
「へえ…」
「さ、入るぞ。今夜はおそらく雪になろう…部屋で火を起こさねば」
「え…雲もないのに」
「山の天気は変わりやすいものよ。だが、風が教えてくれる」
妖忌は少女の手を取って玄関を潜ろうとし…ふと顔の皺を深めて呟いた。
「…見られておるの。敵意ではないが…はて」
「?何か言った?」
「ん?いや、何もない。少し老骨が冷気に痛んだだけよ」
家の中へ二人が姿を消すと、すぐにその場に少女が湧いて現れた。
「…とうとう気付かれたか。ふふん、疎の私の気配に完全に気付くなんて、ますます面白いお爺ちゃんじゃない」
嬉しそうに笑うと、彼女はことさらにわざとらしい抜き足と差し足で、ささっと家の中に侵入して行った。忍び込みには、これが礼儀と言うものだ。
…面白いことに、この人の気配などない山奥で、そこには結界の一つも張られていなかった…妖怪達への挑戦か、あるいは当然のことと知っているのか。いずれにしてもやはり、その心構えは鬼にとって爽快なことこの上もなかった。
「しばし休むがよい。湯もじき沸く…まず、甘酒でも作ってやろうよ。無念だが、茶葉を切らしておるでな」
高い天井と古い木材の香りの中、心地よい音を立てて弾ける炭をただじっと見つめながら、妖忌は言った。
「あ、はい…あ。ええと、その…すっかり遅くなったけど、助けてくれてありがとう、お爺さん」
ふと思い出して頭を下げた少女に、妖忌はなぜか苦笑した。
(ほんに、頭の下げ方まで幽々子様の幼き頃に良く似ておるわ)
「…いや…気にするほどのことでもない。天の巡り合わせのままになっただけよ」
そう言うと、彼は静かに立ち上がった。
「酒粕を取って来よう…火にあたって待っておれ。ああ、心配ありゃせん、この家に妖怪は侵入出来んからな。一応、庭には出るでないぞ」
もうすっかり暗い家の中を、燭台すらなしに迷いなく歩き、妖忌は醸造小屋に足を踏み入れた。
後をついて来ていた気配がびくりと一段明確になったのに気付き、彼は何気なく桶のひとつを開け、じっくりとひしゃくでかき回して様子を見た。
まだ絞られていないもろみがとろりと渦をまき、酒の香りですでに満杯な部屋の中に、新鮮で更に濃厚な香りがまた重なり広がる。
合わせて、気配がさらに明確になった。
彼が次に別の小ぶりな桶の蓋を開けると、そこには大量の桜ん坊が焼酎に漬かっていた。
「うむ、そろそろ呑みごろかのう…よい色になって来たわ」
彼は、その桶もまたひしゃくでじっくりとかき回した。米の甘く力強い香りの中に、桜ん坊の爽やかで優しい香りが忍び込む。
もはや素人にも感じ取れそうなほどはっきりと現れていた気配が、まるで空腹限界ぎりぎりの熊のように変化した。
やがて、彼は蓋を静かに閉め、先ほどの桶へと足を戻した。
そして、ひしゃくを取るとその中身を備え付けの杯に掬って一杯ひっかけ、じっくりと間を置いて、
「うむ…馥郁たる香りに切れのよい味。…我ながら、仕上がりが楽しみよ」
と満足げに言い…いきなり、振り向きもせずに真後ろ目掛けて鋭くひしゃくを投げ打った。
すると、ずがん、と明らかにどんなひしゃくを投げ当てても起こり得ないような音が室内に響き渡った。
「ふぎゃっ!」
短い声と共に、忽然と現れてそろ~っと隅っこの仕込み桶に手を伸ばしていた少女がのけぞり、ふらふらとあたりを漂い、それでも名残惜しげにひしゃくに手を伸ばし…そこで目を回して床に突っ伏した。
「…ふ…不覚~…」
「ふむ」
少女をひょいと摘み上げ、妖忌はしげしげとその頭の角を眺めた。
「おかしな気配とは思っておったが…鬼とは、まこと懐かしいものが訪れたものよ」
そして、のびた萃香をまるで猫扱いでぶら下げたまま、彼は酒粕を取って居間に戻って行ったのだった。
老人の戻って来る足音を聞いて、少女は顔を上げ…障子が開いて、目を丸くした。
「酒の香につられて客が増えおったわ」
それだけ言うと、妖忌は萃香を暖炉のそばにぽいと放った。すとんと正座の格好で着地をし、彼女ははたと目を覚ました。
「…はれ?」
酒粕と砂糖、僅かの塩を溶かし入れながら静かに湯の沸き具合を見つめている老人と、おっかなびっくり彼女の角を見つめている少女を交互に見やり…首をひねると、萃香はごろんと転がった。
「ちぇー、見つかっちゃったかあ」
ぶーと膨れた彼女へ、妖忌が何かを放った。
「お?…!」
それをキャッチするや、彼女の表情が変わり、パッと跳ね起きた。
「呑むがいい。まあ、あれほど酒好きの気配を漂わせておるのだ、少しくらい分けてやろう」
「へっへー…んぐんぐ…ぷはぁっ!」
彼女はもちろん自分で酒を持ってはいるが、あれだけこれみよがしに煽り立てられてその酒の味見をしたくならないと言うのでは、呑んだくれの資格はないと言うものだ。実際、膨れていた原因の半分以上は、もうちょっとで呑めそうで呑めずに、味への想像だけが脳裏に引っ掛かっていたこの酒のせいでもあったのだ。
渇き死に寸前のごとくに徳利を思い切り煽るその表情は、まさに酒飲みそのものだった。
「んー…まだちょっと若いかな?それに、こくはあるけど切れも足りないわねえ…でも、お爺ちゃん独学でしょ?なかなかいい腕してるじゃない」
遠慮も会釈もない意見に、さしもの妖忌も目を丸くした。
「ふむ…お主、さすがに酒の味はわかると見える」
「へっへー、そりゃあ鬼だもの」
「…鬼…?」
二人…双方人ではないが、まあ面倒なのでこれでいいだろう…のやり取りをこわごわ見守っていた少女が、ふと口を挟んだ。酒を口にしてすっかり緩んだ萃香の顔が、恐怖感を拭い去ったのだろう。
鬼の酔い顔と言うものは、純粋に接している限り基本的に怖くならない。鬼ほど本質的に素直で人のよい種族はなく、酒は呑んだ者の本性を引き出すものだから。
ただ、知るものにとってはこれこそ恐ろしいのだが。素直で曲がったことをしないからこそ、鬼神は何よりも恐ろしいのだ。
「そう、鬼。もうここでは忘れられてしまったけれど」
「悩むこともない。要は、呑んだくれが一人増えただけと思えばよい」
「…台無しにしないでよ」
妖忌の間違ってはいない横槍に、萃香は頬を膨らませた。その様子に、少女が思わず吹き出す。
「うーん…ま、いいか。ほらほら、一緒に呑もうよ。お爺ちゃん、もうお湯あったまったでしょ~?」
「仕方のない奴だ」
彼は沸騰して来た甘酒に少しの酒を加えて再び沸騰させると、湯呑みに汲んで少女に差し出した。
「ほれ、出来たぞ」
「あ…ありがとう」
少女が受け取って呑もうとすると、萃香がその肩をぽんぽんと叩いた。
「まずは乾杯しなくっちゃ!ほらほら!」
「あ、う、うん…」
勢いに押されるまま、湯呑みと徳利がかちんと触れ合う。その横から、ふともう一つ杯が差し出されて音を立てた。
「久しく酒飲み相手もいなかったことじゃ…たまには騒がしい酒も良かろう」
あくまでもにこりともしない妖忌の言葉に、萃香はにっと笑った。
「上等!三人で宴会だね!」
「あの、私も入ってるの?」
少女のもっともな突っ込みはさらりと流され、賑やかな宴会が始まった。酒が進むうち、どこか固くよそよそしかった少女の表情はほぐれ、得体の知れない「鬼」への恐怖感もすっかり薄らいで行った。
ぱちり、ぱちり…もうすっかり草木も眠ったころ、縁側には黄楊の駒が桂の盤を打つ上等な音が響いていた。
障子を隔てた部屋の中では、酔いつぶれた少女が一組きりの布団で静かな寝息を立てている。
「へへー…ここで桂、っと」
「ほう…そう来るか。やはりお主、思ったより上手な打ち手らしい」
「全体を見るのは得意だからね」
「なるほど」
静かに、しかし水面下では激しく火花を散らしながら、将棋の勝負は進んでいた。萃香が部屋の片隅に置いてあるのを見つけ、対局を言い出したのだ。
二人とも傍らに酒を置き、雲間から覗く月と風の音、ほのかに舞う雪、そして駒の動きだけを肴に、時折静かに会話を交わしながらあれからずっと呑み続けている。
まだ一局目終盤だが、始めてから大体一刻ほども経過しただろうか。
「しかし、素直じゃな。それなら、ほれ…」
「げ!そこで香使うの?!」
相手陣一番下に打ち込まれた駒に、萃香は頭をぽりぽりと掻いた。その表情からするに、現在の状況は少しばかり彼女が不利らしい。
「あなた、結構大胆な打ち手よね。しかも駆け引きが大好きなほう」
「機を得たなら押せ…それもまた、兵法の基本であり極意よ」
「…なるほど」
盤を挟んだ二人の口調は和やかだったが、目は常に酒に負けることもなく鋭かった。一見ただ将棋をしているだけだが、その実二人は互いに手を通して相手の心にまで探りを入れていたのだった。
やがて、萃香がぽつりと切り出した。
「ねえ」
「何かな?」
「明日、あの子を帰したらその後で…いい?」
「うむ、よかろう」
短く答えると、妖忌は床の間の刀をちらと見やった。
「不器用故、おそらく加減はきかんと思うが」
「それでこそよ。鬼と本気で真正面から遣り合おうとする人間に…ああ、元人間だったか…ともかく、出会えるなんて久しぶりだわ」
刹那、二人の周りに何とも邪気のない、そして凄まじい闘気が渦を巻き、ぶつかり合い、互いを呑み合った。二人の表情は、どこまでも楽しげだった。
「ふむ、いかんな。あの娘が気に中てられてしまう」
「初めから、相殺するように気を合わせて来てるくせに」
「それはお主もだな。全く、変わった鬼だ」
「異端児だもの」
満足げに言うと、萃香はまた駒を打ち込んだ。
次の朝、少女が良い香りの中で目を覚ますと、その傍にはもう朝の膳が湯気を立てていた。
「炒り豆って…これ、絶対私への嫌味でしょ」
萃香は、小鉢のひとつを隣の少女の膳へと押しやりつつ苦笑した。
「朝は、窓を開けて夜に入った鬼を追い払う時であろうよ」
何食わぬ顔で妖忌は答える。
「ほれ、嬢。早う顔を洗うがいい。井戸は庭だ」
「あ、はい」
急いで布団を始末し、顔を洗ってきた少女を加え、三人での食事が始まった。
ただ、その字面から想像されるほど賑やかではない。なにせ、この家の主人が必要なこと以外ほとんど喋らないのだから。
少女は話しかけようとして言葉に困っていたし、萃香は、
「もっと賑やかに行こうよ~…」
とぼやいて苦笑していた。食事も半ばになって、その黙っていた主がようやく口を開いた。
「ところで、嬢。どこまで送ればよい」
「…え」
「家まで送ってやる、と言うておる。どこまでだ?」
その質問を聞いた途端、少女はぴたりと箸を止めて俯いた。
「どしたの?」
ようやく言葉を出す機会を捉え、萃香が話しかける。少女は、黙って箸を置いた。
「…家は…ないわ」
「親を亡くしでもしたか?」
「ううん、私は忌み児だったから。村を出されたの」
「そうか」
少女も妖忌も、驚くほど自然に言葉を交わしていた。少女は自らの運命を素直に受け容れ、妖忌はそれをただあるがままの事象として受け容れていた。
同情を求めることはなく、同情することもなかった。傍らの萃香の顔にも気遣いの色は全くなく、ただ興味だけがあった。
「だから、山の麓まででいい」
「ふむ。しかし、この山の近辺は当分辺境、魑魅魍魎の巣だぞ。食われるのがせいぜいだ」
「どうせ、他に行くあてもないもん」
「ふむ…ところで、何が原因で忌まれた?」
「死霊を呼び集めちゃうの。それもタチの悪いのばっかり。何もしなくても勝手に。ここでは来なかったけど…」
「そうか」
そこまで言い終わると、少女の顔がわずかに揺れた。
「ここに、もうしばらくいられない…?」
「…ふむ。その言葉は…もうしばし保留しておくがよい」
答えると、妖忌は最後の米を口に運び、ゆっくりと噛み締めてからよっこいしょ…と腰を上げ、床の間の刀を取った。
萃香はそれを見ると口元を吊り上げ、残った膳をまとめて茶碗にぶち込んで味噌汁をかけ、騒がしくがっと掻き込む。
「ぷは…ごっそさん。やるの?」
「ああ、少し予定より早いが…腹ごなしじゃ。命がけのな」
「…命…?」
少女が、その声の響きにぞくりと身を震わせた。それを尻目に、二人は庭の外へ出て行く。
「ちょ、ちょっと…?!」
少女も、慌ててその後を追った。庭の塀の潜り戸を出ると、二人はすでに向かい合い、萃香は瓢箪からぐびぐびと酒を飲んで、妖忌は刀の柄に手をかけていた。
「少し離れておれ…死ぬぞ」
その言葉が聞こえるか聞こえないかの刹那に、妖忌は一足に間合いを詰めて抜き打ちに萃香を斬った。しかし、爆発のような音と共に、その一撃は瓢箪に止められ、こともなげに弾き返された。
二人は一足一刀の間合いのまま瓢箪と刀を持つ手を下げ、同じタイミングで笑み交わす。
少女はそれを見つめながら、射すくめられて一声も上げられない。
「いい挨拶だね」
「なんの、挨拶をきちんと受けられて嬉しいぞ」
「ふふ、それでは恒例の」
「む。作法だな」
二人は再び構えを取り、同時に、高らかに詠い放った。
「鬼でも人でもないものが、まことの鬼に勝てるものか!鬼の力、萃める力を冥土の土産話にするがいい、刀の亡霊!」
「剣の心は常に修羅、鬼神の業は鬼を統べる!疎と散らされ常世へ還れ、酒呑の首魁!」
傍らで呆けている少女を、迸る二人の鬼気を恐れて近寄ることも出来ない死霊どもが遠くから悔しそうに見つめていた。
小手調べの一撃目は、互いに全力だった。最高の一撃をぶつけてこそ、相手の力を充分に推し量れると言うものだ。
脚力のあまりに地面を爆ぜさせて突進した萃香の瓢箪の一撃を、妖忌の鞘がらみの刀が流水のように巻き飛ばし、次の瞬間円を描いて腰だめに構えられたその刀から居合いの一撃が迸る。
だが、一瞬よりもなお短い刹那早く、萃香の身体は妖霧と変わって、妖忌の頭上から現れて右拳を振り下ろした。そして重い音が響き…居合いの勢いを利用した逆手の鞘での二撃目がその拳を強烈に打ち飛ばしていた。
身体ごと飛ばされながらもくるくると宙返りし、萃香は軽やかに着地した。それを見るよりも早く、妖忌は再び刀を鞘に納めて佇んでいた。
「あたた…手首が折れるかと思ったよ。流石ね、お爺ちゃん」
痛そうに手を振る萃香に、妖忌は重々しく答えた。
「よくも言うものよ。何たる馬鹿力、打ち飛ばしたこちらの手こそ砕けるかと思うたわ」
そして、どちらからともなく二人は踏み込み合い、再び閃光としか見えぬ一撃が交錯した。
刀と鬼の爪が噛みあい、火花を散らす。萃香が鬼の剛力で押し込めば、妖忌は巧みな技でその力の流れを逸らそうとする。力と技がちょうど拮抗し、二人は間近で睨み合い…そして、萃香が頭突きを飛ばした。
「むぐ!」
顔面を打たれてのけぞった瞬間、妖忌の足が萃香の腹部に食い込んだ。
「がは!」
二人はたたらを踏み、踏みながらも凄絶な一撃を相手に送り込む。正眼の一撃と鉄球のような瓢箪が再び噛み合った。怯んで攻撃を緩めればその一瞬で勝負はついてしまうのだ。
爪や拳、刀や瓢箪が飛び交い、一打ごとにずごんずごんと轟音が響き渡る。傍らの少女は、骨まで砕けそうなほどの闘気に圧倒され、へたり込んで震えていた。
二人が意図的に気の流れる方向をずらしているとは言え、気死しないだけでも大したものだった。
数十合の後に、僅かに開いた間合いと時間を鋭く捉え、萃香は瓢箪を口元に運んだ。その隙を逃さず、妖忌の横薙ぎの一閃が受けた鬼の左腕を骨ごと斬り落とす。しかし、同時に正面から猛烈な火炎が吹き掛けられ、彼は眉をしかめて後ろに飛び退った。
新鮮な血の匂いと燐の焦げる匂いが立ち上る中、二人は全く怯んだ様子もなく再び構えを直していた。
「よいしょ、っと」
腕を拾い上げた萃香がそれをガラスのような滑らかな傷口に押し付けると、それだけでぴたりとくっつき始め、血が止まった。猛烈な生命力だった。
対して無言の妖忌は、あちこちに出来た黒い焦げが、見る見るうちに消えて行く。幽体である彼の場合、多少の被害を受けてもすぐに元の姿を再構成してしまうのだ。
だが、それも二人が同レベルの怪物同士であればこそ。並みの妖怪では妖忌の刀で受けた傷を直ぐに癒すどころか切り口から根こそぎ力を奪われるだろうし、そこいらの幽霊であれば鬼の古き炎を浴びた瞬間に浄化されてしまっているだろう。
「腕がすぐにくっつかない…とんでもない斬り方をしたね、お爺ちゃん?刀も普通じゃないけど」
「ふむ…浅かったか。それほどに早く癒えようとは。いや、それともお主の力が桁外れなのか」
自らの体が上げる匂いに包まれながら、二人には恐れどころか苦痛の影すらない。いや、それどころか。心底楽しそうに萃香は笑い、妖忌は口元をかすかに吊り上げていた。
イレギュラーであってもやはり鬼の萃香にとって誠実に力比べをしてくれる人間こそはもっとも愛すべきものであり、剣の鬼である妖忌にとって手ごたえのある、しかも心から楽しく戦ってくれる相手は願っても中々得られないものだった。
「それじゃ、次はこいつで行くよー…萃鬼『天手力夫投げ』」
萃香が札を掲げ、宙に高々と飛び上がる。振り回すその手に見る見る石くれが集まって行き、やがて巨岩となって、空を裂く猛烈な音と共に妖忌へと投げつけられた。
「むう…」
その軌道は妖忌を追尾しており、しかも大きさゆえに避けづらい。
避けるのは可能だが、隙を作ってしまうだろう…妖忌はそこまで考えると、腰を落として岩を真っ向から待ち受けた。
次の瞬間、音もなく巨岩が割れ、刀を正眼に構えた彼の両脇へと地響きを立てて落ちた。刀の長さが直径に届かないと言うのに、どうしたものか、岩は確かに見事な断面を見せて真っ二つになっていた。
だが、その岩に張り付くように突っ込んで来ていた萃香には紙一重の差で刃は届かず、彼女の右手が妖忌を捕らえる。
「不覚…!」
そのまま腕一本で、凄まじい怪力で彼女は妖忌を振り回し、彼の全身に次々と岩が萃まって閉じ込めて行った。
やがて、彼の身体を中に閉じ込めた一つの巨岩が出来るや、萃香はそれを渾身の力をこめて地面に投げつける。どがんと地面どころか大気までもが震え、砕け散る岩石の中に妖忌の身体が弾き出された。
その着地は静かだったものの、さすがにダメージがあったか、彼は小さく咳き込んでいた。その隙を逃さず、萃香がさらに畳み掛ける。
「酔夢『施餓鬼縛りの術』!」
高らかに呪の宣言をするや、彼女は手にした鎖を妖忌目掛けて投げかけた。その時、妖忌が顔を上げ、にたりと笑って言った。
「魄技『二重の苦輪』」
その妖忌の身体を鎖が捕らえ、霊力を吸い上げにかかる…が。
「この手応え…半分だけか!しまっ」
萃香が弾かれたように背後に向き直るも遅く、真っ向からの一閃が呪の力場を斬り裂き、余った勢いで彼女を地面に叩き落していた。妖忌はそのまま、上空から落下しながら刀を振りかざした。
「断命剣『迷津慈航斬』」
刀に剣気が集中し、目にまで見える巨大な現実の刃となって萃香の頭上へ落ちかかる。
とっさの瓢箪と両腕の防御をも越えて力が迸り、壮絶な奔流が萃香の霊力を大きく削って地面へと叩きつける…が、萃香は叩きつけられた勢いのまま強引に回転して一動作で跳ね起きると、着地した妖忌に鋭く向き直った。
「幽霊の魂と魄を別々に行動させられるなんてね」
「ふむ、あれでも仕留められなんだか」
「どうやら、傷はそっちと大して変わんないよ」
二人の視線が交錯し、全く同時に目を見開き…そして、渾身の一言が発せられた。
「…人鬼『未来永劫斬』」
「鬼神『ミッシングパープルパワー』!」
妖忌の身体が目にも止まらぬ一筋の疾風と化し、萃香の全身が数倍に巨大化した。続いて、萃香の全身を風が駆け巡り、新星のような刀の閃きと共に巨大な身体を所かまわず斬り裂いて行く。
しかし、全身を金剛のように堅固にした萃香はそれを受けながら平然と、山をも砕くような威力を秘めた拳を疾風目掛けて振るい続けていた。
そして、ついには繰り出された剛拳と突っ込んだ旋風とが正面から交錯した。
瞬間、霊力の弾け合う波動がその暴威のあまりに物理的な圧力と閃光すら伴って周囲に暴風を巻き起こし、木々を根こそぎ薙ぎ倒して行った。遠くで見ていた死霊どもは堪えることもかなわず消し飛び、近隣のほとんどの妖怪達は既に風を食らって遥か遠くまで逃げ失せた先でまだ怯え、僅かな大妖達はその激突に目を見張っていた。
…やがて光が収まり、そこには…身体中で息をしながら立ち尽くす二人の姿があった。
「…へー…はー…どうやら体力切れかも」
「…ふー…ふー…それはお互い様じゃな、察しの通り」
「…やっぱり倒せなかったか…さすが鬼の宿敵。真の侍なんて、もう幻想の中にも残ってるとは思わなかったよ」
「霊刀に退治されぬ鬼こそ、まことに珍しい存在」
にやりと笑みを交わし合うと、二人はどちらからともなく構えを解いた。と、思い出したように萃香が尋ねた。
「ところで一つ聞くんだけど…お爺ちゃん、孫とか弟子とかいなかった?その剣の型、見たことあるんだけど」
「妖夢のことか…ふむ、会っておったのか。いかにも、我が未熟の弟子だ」
「…やっぱり、紫がいつか話してた先代ってお爺ちゃんか。さすが師匠…お爺ちゃんの刀は、あっちと違ってしっかり鬼を体験してたよ」
そこまで聞くと、萃香は脱力してばたんと大の字に寝転がった。
妖忌は刀を納めて、へたり込んだ少女に歩み寄る。見れば、その腰の下の草むらが湿っている…失禁してしまったのだろう。
無理もない。受け止めきれず体が爆ぜてしまったり、良くとも心臓が止まったりして全然おかしくないような鬼気が飛び交っていたのだ。岩妖や死霊すら討てないような弱い少女が、精神を崩壊させるでもなく失禁するだけで済んだのなら、むしろ誇ってよかった。芯はとても強い子なのだろう。
「あ、あ、ああああああ…」
歯の根も合わず、言葉を紡ぐことも出来ずにがたがた震えながら、彼女はじりじりと妖忌を見上げた。
「どうだ…儂は恐ろしかろう?どこか結界のしっかりした人の里まで送ってやるから大人しく帰れ」
と、驚いたことに、彼女は言葉はなくともはっきりと、首を横に振ったのだった。
「あ、あうぅ…あう」
「!…ほう…それでもまだ心は変わらぬと?」
目を丸くする妖忌に、少女は今度は首を縦に振った。その目をしばらくじっと覗き込むと、妖忌は重々しく頷いて呟いた。
「畏れながらもなお鬼に魅かれたか…ひょっとしたら、相当な素質を持っておるのかも知れんな」
妖忌は向きを変えると、家の中へと歩き出した。
「それならば嬢、帰るぞ。全く、すっかり汚れてしもうた…風呂に入らねばならぬな。鬼よ、嬢を連れて来てやってはくれんか」
「えー…仕方ないなあ」
だるそうに起き上がると、萃香はすたすたと少女に近寄り、ひょいと片手に掴み上げると妖忌の後に続いて家に入って行った。
…半刻の後、ぼやきながらも萃香が火を吹きつけて即刻に沸かした風呂に入り終え(正確には入れられ)、服を替えてこざっぱりとした少女が、泰然と座する妖忌の前に押し出された。
「ほら、いつまでも震えてないの。あなた、鬼に魅かれたね?だったらもっと強くならなきゃ駄目よ」
背後で頬杖をついてだらけながら、楽しそうに萃香は言った。
「…あ、あ…あのあの…」
しばらく無言が続き、やがて少女が声を震わせ、何度も舌をもつれさせながら静寂を破った。
「や、やややっぱり、わわ、私をここに…お、置いて欲しいの。…すぅう…ここならきっと、死霊も迷惑をかけられない。それに…お爺さんはここ、怖かったけど…でも、い忌まわしくはなかった。最初から幽霊だって判ってたけど…それでも、だった。死霊達に、つ、付きまとわれている身だもの…忌むべきものは知ってる、よ…」
きっぱりと言い切ると、身体をまだ小刻みに震わせながらも、少女は必死で視線を落とさずに上げ続けていた。
妖忌は無言のままそれを見つめ…そして、長い沈黙の後に口を開いた。
「ちょうど、炭焼きと炊事と茶汲みの手があればよいと思っておった。これで筆や焼き物により時間を裂けよう。…では、お主の名を教えよ」
「は、はい…東雲 幽子(しののめ ゆうこ)で、です」
妖忌は目を丸くし…にこりと笑った。
「…幽子…か。…そうか、良い名じゃのう」
縁は異なもの味なもの、袖摺り合うも他生の縁…そんな言葉を、彼は思い浮かべていた。
その視界の隅で、萃香が面白そうににっと笑いながら、ぐびりとひとつ酒をあおった。
それから、萃香はほんの時折、まれには紫を交えて妖忌を訪ねるようになった。鬼と信頼し合える者として、そして将棋や酒の相手として。
ほんの時々…とは萃香の言だが…酒蔵に忍び込んだ所を捕まって吊るされたこともあったりした。
幽子も初めは怯えながら暮らしていたが、何度か行くたびに落ち着きを増し、やがてすっかり普通に暮らすようになって行った。むろん、そこいらの死霊などはこの暮らしを脅かせようはずもなかった。
…そしてある日、萃香がいつものように彼を訪ねると、そこにはただ一心に重たい金棒を握り締めて振り続ける少女と、それを茶椀片手に見守る妖忌の姿があった。
「なに、あの子弟子にしたの?」
「うむ…心の素質は十分あった。多少仕込んでやるのはためになろうよ」
そう言って、妖忌は弟子には見せずに笑ったのだった。
ビバ侍ッ!! エクセレント鬼ッ!!
いやぁ、妖忌の爺様いいですね。口調が自然で切れ味鋭く、なんとも渋い爺さんらしいです。
この数年後、妖夢と幽子の邂逅、なんかも見てみたいですな。
……しかしなぁ、こういうの見てると萃夢想やりたくなるなあ。
渡辺製作所のゲームはスペック足んなくて動かないからなぁ……
あと芋は黄昏フロンティアでは
気持ちのいい妖忌と萃香も素敵。
「情に触れれば弱くなるんじゃなかったの?」
「それだけ儂も歳をとったということじゃろうて」
「だがそれも一興よ」
(しばらく後、弟子同士が刃を交えることになる・・・・・・のか?)
亡霊となった身では、幽子と暮らす
おじーさんが、私の心を射止めましたw
じーさんがかっこいい!!
妖忌は半分人間だとキャラ設定に書いてあった気がします