あの永い夜が明けてから、三度目の満月が昇る夜。
レミリア・スカーレットは上白沢 慧音の元を訪れた。
「珍しい顔だな。何か用か?」
慧音は、紅い悪魔を前に若干の緊張を孕んだ声音で問い掛ける。
慧音の緊張も道理。
目の前の悪魔は目に見える程の密度で……紅い殺気を放っていた。
上白沢 慧音はワーハクタクである。通常は『歴史を食べる能力』であるが、今宵のような
満月時にはハクタクとしての力が発揮され『歴史を創る能力』を持つ。
過去を改竄し、「在った事」を「無かった事」にする事すら可能な超越者としての力を持ち
ながらも……その力を使う事は滅多にない。
人を愛し、人を守る事に己の全てを掛ける事を誓い、そして現在も人々の住まう村を守り続
けている。人々から『守護者』と崇められながらも決して驕りはしない。
そんな謙虚さが、尚の事 人々の敬意を集めていた。
レミリア=スカーレットは吸血鬼である。通常は『運命を見る能力』であるが、今宵のよう
な満月時にはその力の全てが開放され『運命を操る能力』となる。 人と人との縁、因果の理
を捉え、操るという全能の神に匹敵する力を持ちながらも……その力を使う事は滅多にない。
人を食料としてその血を啜り、己が誇りの為に全てを敵に回す事すら厭わず、現在も紅い
悪魔の館の主として君臨している。
人々から『悪魔』と怖れられようと決して誰にも媚はしない。
そんな傲慢さが、尚の事 人々の畏怖を集めていた。
余りにも対極な二人。これまで互いが衝突しなかったのは単に二人の生活圏が違い過ぎた
だけの事。すでに出会ってしまった以上 戦いは避けられない必然。
レミリアはすでに質量すら感じさせる殺気で慧音を睨み、
慧音は鏡のような、あるいは波一つない水面のような静かな眼差しで その殺意を受け
流す。
「今一度、問おう。この私に何の用だ」
レミリアはその瞳に尚 力を込めて答える。
「貴様の存在が鬱陶しくてな。殺しにきた」
慧音は僅かに眉を顰める。
「解せんな。確かに人々の血を吸うお前は人の敵ではあるが、血を吸って殺すには至って
いないと聞く。敵対した相手であれば容赦しないらしいが、闘いを挑んだ以上それは自業
自得というもの。今のところ 私にお前と戦う理由はない」
「戦う理由がないか……そのとおり。私にだってお前と戦う理由なんてない……言ったろう?
私は戦いに来たんじゃない……お前の存在を消しに来たんだよ」
その声音に本気を感じ、慧音は右足を引いて半身となり、僅かに身構える。
「何故だ? 何故そんなにも私を憎む? あの夜、お前と従者の二人掛かりとはいえ、敗北
したのは私の方だ。お前が私を憎む理由はあるまい」
レミリアは、その口元に皮肉げな笑みを浮かべて答えた。
「そうだな。あの夜に殺しておけば良かった……あの時は貴様の能力、その意味を深く考えて
いなかったよ。たとえ歴史の改竄を行うとしても、お前ごときの力で私の『歴史』、言いかえ
れば私の『運命』に干渉することは不可能だと……だから、あの時は見逃したんだがな」
「その通り。私の力は人間の歴史を編纂する能力だ。妖怪、ましてや『夜の王』と呼ばれた
お前には、私の能力は通じまい……ならば、尚の事解せん。何故 そこまで私を憎む?」
レミリアは僅かに身体を沈め、全身の細胞に魔力を込める。黒き翼を大きく広げ、紅く彩ら
れた紅い爪を伸ばす。
目の前の敵を瞬殺するための最適な肉体を構築する。
「おしゃべりはここまでだ……死ね!」
レミリアの身体が弾かれたように飛ぶ。自身を紅い魔力を纏った不可避の砲弾と化して!
「ま…!」
慧音は『待て』と言おうとしたのだろう。だがその言葉を言い終わる前に……
レミリアの爪が 慧音の首を一瞬で刈り取った。
「……待て、と言っているだろう?」
その声はレミリアの背後から聞こえてきた。
レミリアが振り向くと、自らの爪で切り落とした筈の慧音の首はすでに跡形もない。
慧音は傷一つなく、その場に立っている。
「貴様……『能力』を使ったな」
レミリアは怒りに燃える瞳で慧音を睨む。
「確かに私の力では、お前の歴史を改竄するには至らない。だが、それは永劫に改竄し続ける
事が出来ないというだけ。
一時的であるならば……例え『夜の王』であろうとも改竄は可能だ」
慧音は何時の間にか、その手に一本の巻物を抱えていた。それは人の、そしてこの幻想郷の
歴史そのもの。その巻物には慧音にとって認識可能な範囲での『歴史』が刻まれている。
それは幻想郷の記憶であり、記録である。
無機物、獣、妖であれば、そもそも初めから時間の概念を持たない。過去は忘却の彼方、
積み重ねるものもなければ『歴史』という認識もない。
『歴史』を司るという事は、人の認識、記憶を操るという事。
たとえ、実際に在った事でも誰の記憶にも残らなければそれは無かった事になる。
逆に、実際には無かった事でも誰もが記憶していればそれは在った事になる。
つまり、上白沢 慧音の『歴史を編纂する能力』とは……
人の記憶・認識・忘却に対する強制的な介入力。
「とりあえず、お前の認識に介入させてもらった。これでお前は私に触れる事も出来ない」
「小賢しいっ!」
レミリアは、慧音に向かって再び紅い爪を振るうが、慧音の身体を捉えた筈の爪は、しかし
空しく宙を切るだけであった。
「これで、引いてくれると助かるのだがな」
「ほざけっ!」
レミリアは黒翼を拡げ宙に舞うと、その両手に己の持てる魔力の全てを集中させる。
「この地ごと、貴様を吹き飛ばしてやるっ!」
倣岸不遜な物言い。だが、その出鱈目なまでに膨大な魔力であれば実現可能。
言葉通り、周囲一帯は草木も残さず灰燼と化すだろう。
その圧倒的な壊圧を前にしても、慧音は冷静なままだった。
中空に浮かぶ紅い悪魔に向け、唯一つの言葉を放つ。
『お前は』『飛べない』
その瞬間、糸が切れたかのようにレミリアの身体が地面に叩き付けられた。
「ぅあ……何っ!?」
レミリアは混乱する。生まれた時からある黒き翼が動かす事すら出来ない。
歩くより飛ぶ事が自然であった自分が、惨めに叩きつけられ地面にもがいている。
レミリアはあまりの屈辱に血が出る程に唇を噛み、地面に手を付いたまま慧音の姿を睨んで
いる。
『お前の』『身体は』『動かない』
追い討ちのように投げ掛けられた言葉と共に、レミリアの身体は指先どころか眼球すら動か
せなくなった。
「ぐっ! き、貴様」
動けないレミリアの前で、慧音は深く嘆息する。
「ふぅ、やはりお前の意識に介入するのは骨が折れる。だが、まぁこれで。一息つけるな」
慧音が首に手を当てて首を捻るとゴキゴキと音がする。
かなり凝っている。普段からかなり気苦労しているのだろう。
「さて……では、改めて問おう。何故それほどまでに私を憎む? 私が人間の守護者だから
か? だが、お前の食事を邪魔した事は一度もないぞ?」
確かにレミリアやその従者は、時折、村の人間を襲いその血液を奪う。
しかしレミリアは小食な為、相手が死ぬまで血を吸う事が出来ない。
また無差別に襲う訳ではなく、気に入った人間を魅了し自らその喉を捧げさせるのだ。
そのため襲われた人間も、レミリアを敬いこそすれ憎む事はない。
村の人間に吸血鬼退治を請われた事もあるが、同じように反対するものも多かった。
そのため慧音としては基本的に不干渉を貫いていたのだ。
全ての災厄の回避を慧音の力に頼っていては、人はいずれ自らの足で立ち上がる事すら
出来なくなる。
慧音が人に惹かれるのは、人が人を思いやる優しさを持ち、どんな困難にも挫けず立ち
向かう強さを持っているからだ。
だから慧音は、必要最低限しか人間の営みに干渉しない。
たとえ間違えても、やり直す事が人間には出来るのだから。
「私の何がそんなに気に入らないんだ? 私に問題があるのならば改めよう。私は争いが嫌い
なんだよ。できればお前とも、これ以上争いたくはない」
レミリアは俯いている。俯いたまま肩を震わせている……
泣いているのか? と慧音が屈み込んで覗きこんだ時、
斜っ! とレミリアの爪が慧音の肩を掠めて肉を抉った。
「な、何っ!」
慧音は慌てて飛び下がるが肩の肉を大分持っていかれた。肩口から噴水のように血が
吹き出る。
相変わらずレミリアは俯いたまま肩を震わせていたが、あれは泣いてるのではない……
嘲笑っている。
くっくっと口元を歪め、押し殺したように嘲笑っている。
俯いて、前髪で隠れた目元から発せられた赤光が徐々に力を増していく。
嘲笑い声は、大きくなっていき……
ついにレミリアはその顔を天に向け狂笑を上げる。
「馬鹿な! 動ける筈が」
くっくっと狂笑を収めながらレミリアが諭すように答える。
「『私が』『飛べない』? 『身体が』『動かない』? いいぞ、その『運命』受け入れよう」
レミリアはゆっくりと立ち上がると、動かない筈の黒翼を伝説の巨鳥のようにゆっくりと
大きく広げる。
「『過去』は貴様にくれてやる。だが私の『未来』は『運命』は私のもの。誰にも渡さない」
レミリアの身体が徐々に宙空に持ち上がる。何時の間にか天の頂きに掛かっていた真円の
紅月を背に、いと高き彼方へと至る。
その禍々しいまでの美しさは、
万人をして『夜の王』と呼称されたその存在は、
紅輝石の瞳で、眼下に呆然と佇む慧音を見下ろしていた。
慧音は戦慄と共に理解する。
『飛べない』『動かない』その通りだ。彼女の意識に介入し『飛ぶ』事を『動く』事を認識
出来ないようにした。まだその効果は続いている。飛ぶどころか指一本動かす事すら出来ない
筈だ。
だが……
あいつは……あの悪魔は……
『飛べない』なら『飛べるように』、『動かない』なら『動ける』ように、自らの『運命』を
切り開いたのだ。
どれ程、力を持っていようと認識できなくては使えない。認識できないのだから『飛ぶ』も
『動く』も思いつく事すら出来ない。
故に力で、慧音の能力を打ち破る事は不可能。だが、あの悪魔は肉体を自らを進化させ、
不可能を可能に変えた。
(飛べない鳥が 飛び立つように……)
(動かない人形を 動かすように……)
(どんな困難であろうと立ち向かい切り開く。これではまるで……私の愛する人間達と同じじゃ
ないか)
「では、これで最後だ……言い残す事はあるか?」
一瞬、慧音の脳裏に、自分の守るべき不死の少女と村人達の顔が浮かぶ。
だが、人が様々な苦難を自らの力で乗り越える事が慧音の望みなれば……
(残すべき 言葉など 何もない)
慧音は静かに目を閉じ、『運命』を受け入れる。
一瞬後、周囲は紅蓮の炎に包まれた。
「おい、そろそろ起きろ」
レミリアは足元に転がる慧音に軽く蹴りを入れる。
「む、生きているのか……私は……炎に巻かれたと思ったのだが」
身を起こし座り込んだまま首を捻る慧音の前に、レミリアが両腕を組んで立っている。相変
わらず不機嫌そうだ。
「聞きたい事がある」
レミリアは慧音の目を覗き込む様に、顔を近づけた。
「……お前、何故あの時、目を閉じたんだ。お前の『能力』が私に通じなくても、お前の力
なら私に勝てたかも知れないのに……思わず殺し損ねてしまったじゃないか」
レミリアは苦虫を噛み潰したような顔で睨んでいる。最初から今まで睨み放しだが、今は
先程までの険がない。まるで拗ねている……ただの女の子のようだ。
慧音は苦笑を浮かべて答える。
「言っただろ。争いは嫌いなのさ」
「………」
レミリアは、全然納得していないようだ。
「正直なところ、たとえ戦っても勝てないと思ったし、それに……」
「それに?」
慧音は慎重に言葉を選びながら紡ぐ。己の気持ちを出来るだけ正しく伝えるように。
「……私はね、人間が好きだ。人間だって嫌なヤツもいるし、良いところばかりって訳じゃ
ない。ずっと人間と共に生きてきたこの私が、それを一番良く知っている……」
レミリアは口を挟まない。じっと見つめたまま慧音の言葉を聞いている。
「だけどね。人間たちは絶えず前に進もうとしていた。間違った道を進む時もあるけれど、
短い寿命の中で皆、誰もが精一杯生きていた。どんな困難も乗り越え、自らを高め、いつか
何処かに辿り着こうと」
慧音は言葉を続ける。レミリアは黙って聞いている。
「それは人間でなくても同じ事。困難を乗り越え、自らを高めようとする存在は、全て私の
愛するものなのだよ。あの時、お前は私の『能力』で自由を奪われながらも、諦めず、自ら
の運命を切り開いた。お前もまた私の愛すべき対象の一つさ。そういうものに殺されるので
あれば……後悔はない」
レミリアは益々 顔を鹿爪面にして、
「もういい。やはり貴様とは性が合わん」
と、そっぽを向いた。
慧音はそんなレミリアを見て、母親のような柔らかな微笑みを浮かべた……
「で、何で私を殺そうとしたんだ? 私には教えて貰う権利があると思うのだが」
慧音は、ちょっとだけ意地悪く問いかける。
レミリアは、ちらりと横目で慧音を見る。
そっぽを向いたままで……誰にも言うなよ? と、背中で語る。
「……その『能力』……二度と使わないでくれ」
「……どうして? もともと余り使う気もないが。どちらにせよ、お前には無意味だろう?」
慧音の能力はあくまでも人の時間に対する意識に介入する能力だ。永い寿命を誇る妖怪
には時間の概念は曖昧で、それ故に効果は薄い。一時的に干渉する事は可能だが、それす
らも先程破られている。
「私にじゃない! その、他の、人間にも使わないでくれ」
その振り絞るようなレミリアの小さな叫び。
慧音は、言葉と声と表情から、一瞬でレミリアの真意を悟る。
慧音の能力は、確かに妖怪には効果が薄い。
だが逆に言えば、人間には、時の、歴史の、その重さを知っている人間には、絶対の効果を
果たすのだ。
永劫の時を過ごす吸血鬼。文字通り殺されても死なない存在。
吸血鬼にとって、人の人生など瞬きの間に消えてしまうような儚いものであろう。大切な人
も何もかも、いずれ何処かに消えていく。
それは運命を操る彼女にすら変えられない摂理。
それでも生きている間なら、その存在を慈しみ愛する事ができる。
いつか必ず別離の日が来るとしても……
(だが、もし私の能力で歴史の改竄を行ったなら……レミリア・スカーレットなどこの世に
存在しないと、人々の歴史に刻んだならば……)
その恐怖は、レミリアにとってどれ程のものであっただろう。
「なるほど……そういえば、あの時お前は人間と一緒だったな。随分と人間離れした人間
だったが……彼女か」
「なっ! べ、別に咲夜は関係ないだろっ」
レミリアは耳まで真っ赤になって、声を張り上げる。
(……あぁ、それで赤いあくまなのか……)
慧音は堪え切れず吹き出した。
「笑うな! 殺すぞ」
はいはい、わかりましたよ。おじょうさま。
「いいか! 誰にも言うなよ。言ったら今度こそホントに殺すからな!」
「勿論だ。誰にも言わない。能力も使わない。 誓おう、この上白沢慧音の名に賭けて」
慧音がわざとらしく帽子を胸に当て慇懃無礼に礼を行う。
レミリアが物凄い目付きで慧音を睨んだ。
「安心しろ。あの従者だけでなく他の誰の心からもお前の存在を消さないよ。本当に誓う」
慧音は、先程までのおどけた口調を止めて心から誓う。
「……あと、誰にも言わない、だ」
「安心したまえ。私は口が堅いことで有名なんだ」
レミリアはまだ疑い深そうな顔をしていたが、これ以上は無駄だと悟ったのか、翼を広げ宙に
舞う。
「また来ると良い。今度はあの従者も一緒に、な」
「約束……守るならな!」
最後に一睨みして飛び去っていく。
慧音は夜の彼方に飛び去って行く後ろ姿を眺めながら、一人ごちる。
「やれやれ、最初から最後まで睨まれっ放しか。割と子供に好かれる性質なのだがな……
しかし紅い悪魔と言っても可愛いものじゃないか。あの可愛らしいおじょうさまとの約束で
あれば破るわけにはいかないな……」
「ただし、歴史に刻むけどね」
慧音は、意地悪く笑みを浮かべて呟いた。
-終ー
レミリア・スカーレットは上白沢 慧音の元を訪れた。
「珍しい顔だな。何か用か?」
慧音は、紅い悪魔を前に若干の緊張を孕んだ声音で問い掛ける。
慧音の緊張も道理。
目の前の悪魔は目に見える程の密度で……紅い殺気を放っていた。
上白沢 慧音はワーハクタクである。通常は『歴史を食べる能力』であるが、今宵のような
満月時にはハクタクとしての力が発揮され『歴史を創る能力』を持つ。
過去を改竄し、「在った事」を「無かった事」にする事すら可能な超越者としての力を持ち
ながらも……その力を使う事は滅多にない。
人を愛し、人を守る事に己の全てを掛ける事を誓い、そして現在も人々の住まう村を守り続
けている。人々から『守護者』と崇められながらも決して驕りはしない。
そんな謙虚さが、尚の事 人々の敬意を集めていた。
レミリア=スカーレットは吸血鬼である。通常は『運命を見る能力』であるが、今宵のよう
な満月時にはその力の全てが開放され『運命を操る能力』となる。 人と人との縁、因果の理
を捉え、操るという全能の神に匹敵する力を持ちながらも……その力を使う事は滅多にない。
人を食料としてその血を啜り、己が誇りの為に全てを敵に回す事すら厭わず、現在も紅い
悪魔の館の主として君臨している。
人々から『悪魔』と怖れられようと決して誰にも媚はしない。
そんな傲慢さが、尚の事 人々の畏怖を集めていた。
余りにも対極な二人。これまで互いが衝突しなかったのは単に二人の生活圏が違い過ぎた
だけの事。すでに出会ってしまった以上 戦いは避けられない必然。
レミリアはすでに質量すら感じさせる殺気で慧音を睨み、
慧音は鏡のような、あるいは波一つない水面のような静かな眼差しで その殺意を受け
流す。
「今一度、問おう。この私に何の用だ」
レミリアはその瞳に尚 力を込めて答える。
「貴様の存在が鬱陶しくてな。殺しにきた」
慧音は僅かに眉を顰める。
「解せんな。確かに人々の血を吸うお前は人の敵ではあるが、血を吸って殺すには至って
いないと聞く。敵対した相手であれば容赦しないらしいが、闘いを挑んだ以上それは自業
自得というもの。今のところ 私にお前と戦う理由はない」
「戦う理由がないか……そのとおり。私にだってお前と戦う理由なんてない……言ったろう?
私は戦いに来たんじゃない……お前の存在を消しに来たんだよ」
その声音に本気を感じ、慧音は右足を引いて半身となり、僅かに身構える。
「何故だ? 何故そんなにも私を憎む? あの夜、お前と従者の二人掛かりとはいえ、敗北
したのは私の方だ。お前が私を憎む理由はあるまい」
レミリアは、その口元に皮肉げな笑みを浮かべて答えた。
「そうだな。あの夜に殺しておけば良かった……あの時は貴様の能力、その意味を深く考えて
いなかったよ。たとえ歴史の改竄を行うとしても、お前ごときの力で私の『歴史』、言いかえ
れば私の『運命』に干渉することは不可能だと……だから、あの時は見逃したんだがな」
「その通り。私の力は人間の歴史を編纂する能力だ。妖怪、ましてや『夜の王』と呼ばれた
お前には、私の能力は通じまい……ならば、尚の事解せん。何故 そこまで私を憎む?」
レミリアは僅かに身体を沈め、全身の細胞に魔力を込める。黒き翼を大きく広げ、紅く彩ら
れた紅い爪を伸ばす。
目の前の敵を瞬殺するための最適な肉体を構築する。
「おしゃべりはここまでだ……死ね!」
レミリアの身体が弾かれたように飛ぶ。自身を紅い魔力を纏った不可避の砲弾と化して!
「ま…!」
慧音は『待て』と言おうとしたのだろう。だがその言葉を言い終わる前に……
レミリアの爪が 慧音の首を一瞬で刈り取った。
「……待て、と言っているだろう?」
その声はレミリアの背後から聞こえてきた。
レミリアが振り向くと、自らの爪で切り落とした筈の慧音の首はすでに跡形もない。
慧音は傷一つなく、その場に立っている。
「貴様……『能力』を使ったな」
レミリアは怒りに燃える瞳で慧音を睨む。
「確かに私の力では、お前の歴史を改竄するには至らない。だが、それは永劫に改竄し続ける
事が出来ないというだけ。
一時的であるならば……例え『夜の王』であろうとも改竄は可能だ」
慧音は何時の間にか、その手に一本の巻物を抱えていた。それは人の、そしてこの幻想郷の
歴史そのもの。その巻物には慧音にとって認識可能な範囲での『歴史』が刻まれている。
それは幻想郷の記憶であり、記録である。
無機物、獣、妖であれば、そもそも初めから時間の概念を持たない。過去は忘却の彼方、
積み重ねるものもなければ『歴史』という認識もない。
『歴史』を司るという事は、人の認識、記憶を操るという事。
たとえ、実際に在った事でも誰の記憶にも残らなければそれは無かった事になる。
逆に、実際には無かった事でも誰もが記憶していればそれは在った事になる。
つまり、上白沢 慧音の『歴史を編纂する能力』とは……
人の記憶・認識・忘却に対する強制的な介入力。
「とりあえず、お前の認識に介入させてもらった。これでお前は私に触れる事も出来ない」
「小賢しいっ!」
レミリアは、慧音に向かって再び紅い爪を振るうが、慧音の身体を捉えた筈の爪は、しかし
空しく宙を切るだけであった。
「これで、引いてくれると助かるのだがな」
「ほざけっ!」
レミリアは黒翼を拡げ宙に舞うと、その両手に己の持てる魔力の全てを集中させる。
「この地ごと、貴様を吹き飛ばしてやるっ!」
倣岸不遜な物言い。だが、その出鱈目なまでに膨大な魔力であれば実現可能。
言葉通り、周囲一帯は草木も残さず灰燼と化すだろう。
その圧倒的な壊圧を前にしても、慧音は冷静なままだった。
中空に浮かぶ紅い悪魔に向け、唯一つの言葉を放つ。
『お前は』『飛べない』
その瞬間、糸が切れたかのようにレミリアの身体が地面に叩き付けられた。
「ぅあ……何っ!?」
レミリアは混乱する。生まれた時からある黒き翼が動かす事すら出来ない。
歩くより飛ぶ事が自然であった自分が、惨めに叩きつけられ地面にもがいている。
レミリアはあまりの屈辱に血が出る程に唇を噛み、地面に手を付いたまま慧音の姿を睨んで
いる。
『お前の』『身体は』『動かない』
追い討ちのように投げ掛けられた言葉と共に、レミリアの身体は指先どころか眼球すら動か
せなくなった。
「ぐっ! き、貴様」
動けないレミリアの前で、慧音は深く嘆息する。
「ふぅ、やはりお前の意識に介入するのは骨が折れる。だが、まぁこれで。一息つけるな」
慧音が首に手を当てて首を捻るとゴキゴキと音がする。
かなり凝っている。普段からかなり気苦労しているのだろう。
「さて……では、改めて問おう。何故それほどまでに私を憎む? 私が人間の守護者だから
か? だが、お前の食事を邪魔した事は一度もないぞ?」
確かにレミリアやその従者は、時折、村の人間を襲いその血液を奪う。
しかしレミリアは小食な為、相手が死ぬまで血を吸う事が出来ない。
また無差別に襲う訳ではなく、気に入った人間を魅了し自らその喉を捧げさせるのだ。
そのため襲われた人間も、レミリアを敬いこそすれ憎む事はない。
村の人間に吸血鬼退治を請われた事もあるが、同じように反対するものも多かった。
そのため慧音としては基本的に不干渉を貫いていたのだ。
全ての災厄の回避を慧音の力に頼っていては、人はいずれ自らの足で立ち上がる事すら
出来なくなる。
慧音が人に惹かれるのは、人が人を思いやる優しさを持ち、どんな困難にも挫けず立ち
向かう強さを持っているからだ。
だから慧音は、必要最低限しか人間の営みに干渉しない。
たとえ間違えても、やり直す事が人間には出来るのだから。
「私の何がそんなに気に入らないんだ? 私に問題があるのならば改めよう。私は争いが嫌い
なんだよ。できればお前とも、これ以上争いたくはない」
レミリアは俯いている。俯いたまま肩を震わせている……
泣いているのか? と慧音が屈み込んで覗きこんだ時、
斜っ! とレミリアの爪が慧音の肩を掠めて肉を抉った。
「な、何っ!」
慧音は慌てて飛び下がるが肩の肉を大分持っていかれた。肩口から噴水のように血が
吹き出る。
相変わらずレミリアは俯いたまま肩を震わせていたが、あれは泣いてるのではない……
嘲笑っている。
くっくっと口元を歪め、押し殺したように嘲笑っている。
俯いて、前髪で隠れた目元から発せられた赤光が徐々に力を増していく。
嘲笑い声は、大きくなっていき……
ついにレミリアはその顔を天に向け狂笑を上げる。
「馬鹿な! 動ける筈が」
くっくっと狂笑を収めながらレミリアが諭すように答える。
「『私が』『飛べない』? 『身体が』『動かない』? いいぞ、その『運命』受け入れよう」
レミリアはゆっくりと立ち上がると、動かない筈の黒翼を伝説の巨鳥のようにゆっくりと
大きく広げる。
「『過去』は貴様にくれてやる。だが私の『未来』は『運命』は私のもの。誰にも渡さない」
レミリアの身体が徐々に宙空に持ち上がる。何時の間にか天の頂きに掛かっていた真円の
紅月を背に、いと高き彼方へと至る。
その禍々しいまでの美しさは、
万人をして『夜の王』と呼称されたその存在は、
紅輝石の瞳で、眼下に呆然と佇む慧音を見下ろしていた。
慧音は戦慄と共に理解する。
『飛べない』『動かない』その通りだ。彼女の意識に介入し『飛ぶ』事を『動く』事を認識
出来ないようにした。まだその効果は続いている。飛ぶどころか指一本動かす事すら出来ない
筈だ。
だが……
あいつは……あの悪魔は……
『飛べない』なら『飛べるように』、『動かない』なら『動ける』ように、自らの『運命』を
切り開いたのだ。
どれ程、力を持っていようと認識できなくては使えない。認識できないのだから『飛ぶ』も
『動く』も思いつく事すら出来ない。
故に力で、慧音の能力を打ち破る事は不可能。だが、あの悪魔は肉体を自らを進化させ、
不可能を可能に変えた。
(飛べない鳥が 飛び立つように……)
(動かない人形を 動かすように……)
(どんな困難であろうと立ち向かい切り開く。これではまるで……私の愛する人間達と同じじゃ
ないか)
「では、これで最後だ……言い残す事はあるか?」
一瞬、慧音の脳裏に、自分の守るべき不死の少女と村人達の顔が浮かぶ。
だが、人が様々な苦難を自らの力で乗り越える事が慧音の望みなれば……
(残すべき 言葉など 何もない)
慧音は静かに目を閉じ、『運命』を受け入れる。
一瞬後、周囲は紅蓮の炎に包まれた。
「おい、そろそろ起きろ」
レミリアは足元に転がる慧音に軽く蹴りを入れる。
「む、生きているのか……私は……炎に巻かれたと思ったのだが」
身を起こし座り込んだまま首を捻る慧音の前に、レミリアが両腕を組んで立っている。相変
わらず不機嫌そうだ。
「聞きたい事がある」
レミリアは慧音の目を覗き込む様に、顔を近づけた。
「……お前、何故あの時、目を閉じたんだ。お前の『能力』が私に通じなくても、お前の力
なら私に勝てたかも知れないのに……思わず殺し損ねてしまったじゃないか」
レミリアは苦虫を噛み潰したような顔で睨んでいる。最初から今まで睨み放しだが、今は
先程までの険がない。まるで拗ねている……ただの女の子のようだ。
慧音は苦笑を浮かべて答える。
「言っただろ。争いは嫌いなのさ」
「………」
レミリアは、全然納得していないようだ。
「正直なところ、たとえ戦っても勝てないと思ったし、それに……」
「それに?」
慧音は慎重に言葉を選びながら紡ぐ。己の気持ちを出来るだけ正しく伝えるように。
「……私はね、人間が好きだ。人間だって嫌なヤツもいるし、良いところばかりって訳じゃ
ない。ずっと人間と共に生きてきたこの私が、それを一番良く知っている……」
レミリアは口を挟まない。じっと見つめたまま慧音の言葉を聞いている。
「だけどね。人間たちは絶えず前に進もうとしていた。間違った道を進む時もあるけれど、
短い寿命の中で皆、誰もが精一杯生きていた。どんな困難も乗り越え、自らを高め、いつか
何処かに辿り着こうと」
慧音は言葉を続ける。レミリアは黙って聞いている。
「それは人間でなくても同じ事。困難を乗り越え、自らを高めようとする存在は、全て私の
愛するものなのだよ。あの時、お前は私の『能力』で自由を奪われながらも、諦めず、自ら
の運命を切り開いた。お前もまた私の愛すべき対象の一つさ。そういうものに殺されるので
あれば……後悔はない」
レミリアは益々 顔を鹿爪面にして、
「もういい。やはり貴様とは性が合わん」
と、そっぽを向いた。
慧音はそんなレミリアを見て、母親のような柔らかな微笑みを浮かべた……
「で、何で私を殺そうとしたんだ? 私には教えて貰う権利があると思うのだが」
慧音は、ちょっとだけ意地悪く問いかける。
レミリアは、ちらりと横目で慧音を見る。
そっぽを向いたままで……誰にも言うなよ? と、背中で語る。
「……その『能力』……二度と使わないでくれ」
「……どうして? もともと余り使う気もないが。どちらにせよ、お前には無意味だろう?」
慧音の能力はあくまでも人の時間に対する意識に介入する能力だ。永い寿命を誇る妖怪
には時間の概念は曖昧で、それ故に効果は薄い。一時的に干渉する事は可能だが、それす
らも先程破られている。
「私にじゃない! その、他の、人間にも使わないでくれ」
その振り絞るようなレミリアの小さな叫び。
慧音は、言葉と声と表情から、一瞬でレミリアの真意を悟る。
慧音の能力は、確かに妖怪には効果が薄い。
だが逆に言えば、人間には、時の、歴史の、その重さを知っている人間には、絶対の効果を
果たすのだ。
永劫の時を過ごす吸血鬼。文字通り殺されても死なない存在。
吸血鬼にとって、人の人生など瞬きの間に消えてしまうような儚いものであろう。大切な人
も何もかも、いずれ何処かに消えていく。
それは運命を操る彼女にすら変えられない摂理。
それでも生きている間なら、その存在を慈しみ愛する事ができる。
いつか必ず別離の日が来るとしても……
(だが、もし私の能力で歴史の改竄を行ったなら……レミリア・スカーレットなどこの世に
存在しないと、人々の歴史に刻んだならば……)
その恐怖は、レミリアにとってどれ程のものであっただろう。
「なるほど……そういえば、あの時お前は人間と一緒だったな。随分と人間離れした人間
だったが……彼女か」
「なっ! べ、別に咲夜は関係ないだろっ」
レミリアは耳まで真っ赤になって、声を張り上げる。
(……あぁ、それで赤いあくまなのか……)
慧音は堪え切れず吹き出した。
「笑うな! 殺すぞ」
はいはい、わかりましたよ。おじょうさま。
「いいか! 誰にも言うなよ。言ったら今度こそホントに殺すからな!」
「勿論だ。誰にも言わない。能力も使わない。 誓おう、この上白沢慧音の名に賭けて」
慧音がわざとらしく帽子を胸に当て慇懃無礼に礼を行う。
レミリアが物凄い目付きで慧音を睨んだ。
「安心しろ。あの従者だけでなく他の誰の心からもお前の存在を消さないよ。本当に誓う」
慧音は、先程までのおどけた口調を止めて心から誓う。
「……あと、誰にも言わない、だ」
「安心したまえ。私は口が堅いことで有名なんだ」
レミリアはまだ疑い深そうな顔をしていたが、これ以上は無駄だと悟ったのか、翼を広げ宙に
舞う。
「また来ると良い。今度はあの従者も一緒に、な」
「約束……守るならな!」
最後に一睨みして飛び去っていく。
慧音は夜の彼方に飛び去って行く後ろ姿を眺めながら、一人ごちる。
「やれやれ、最初から最後まで睨まれっ放しか。割と子供に好かれる性質なのだがな……
しかし紅い悪魔と言っても可愛いものじゃないか。あの可愛らしいおじょうさまとの約束で
あれば破るわけにはいかないな……」
「ただし、歴史に刻むけどね」
慧音は、意地悪く笑みを浮かべて呟いた。
-終ー
ん?…しかし満月ということは慧音はキモ(Caved!
慧音の能力を考えた時、あの表現しか思いつきませんでした。(でも
あの表現。格好いいですよね?)
とはいえ、ストーリー、文章構成、新鮮な魔王風味のレミリア様など、
内容自体は決して悪くないと思いますので、
是非、切磋琢磨してこれからも精進を重ねていって欲しいと思います。