鈴仙・優曇華院・イナバは月の兎である。
故あって地上に降り立ち、竹林の奥にある永遠亭に棲むようになってからは、もっぱら番兎をつとめていた。
その瞳は狂気を宿しており、彼女の視線は気の触れていない者の気を触れさせ、気の触れた者の気をさらに触れさせ、さらに気の触れた者の気をひときわ触れさせるのだった。
あるとき、湖のほとりに在る悪魔の巣・紅魔館と、永遠亭のあいだに抗争が起こった。
鈴仙は兎どもの先頭に立って奮戦したが、力及ばず悪魔側の捕虜となった。
「さぁ、こいつをどう料理しよう?」
拘束され引き出された鈴仙を見やって、館の主たる紅い悪魔が舌なめずりするのへ、
「まずは逆さ吊りにいたしますわ。
その上で頚動脈を切り、血抜きをいたします。
それから毛をそぎおとし、全身に切れ目を入れます。
しかるのち、足首をカットして、上から皮をていねいに引き下ろしていくのですわ」
料理長・兼メイド長が詳しくさばき方を説いた。
これを聞いて、鈴仙は恐れおののき思うよう、
「逆さ吊りにされたら、耳に血が昇ってしまう!」
そんな彼女に、参謀格の知識人が追い打った。
「兎は脳味噌や目玉も美味だそうよ」
「へぇぇ? 楽しみね。やっぱり丸焼きにするの?」
「そこはまぁ、料理が出来てのお楽しみですわ」
「フフッ、焦らすんだから」
和気あいあいとした会話だが、鈴仙にしてみれば笑い事ではない。
おめおめディナーにされるわけにはいかないので、とっさに口からでまかせ、
「あの、耳よりな話があるんですっ」
「と、いうと?」
「あの、私――」
鈴仙、ややためらったのち、
「に……妊娠、してるんですっ!」
「へぇぇ? そうは見えないけど……まぁいいわ。で、それのどこが、耳よりな話なのかしら」
「あの、今食べるより、子供を産んだ後のほうが、お得感があるんじゃないかなぁ……と」
聞いて、悪魔の徒党は顔を見合わせた。
「どうしましょう?」
「嘘だったらじきにわかることだし。別にいいんじゃない?」
「そうねぇ。そんなにお腹もすいてないしね」
そこで鈴仙は兎小屋に軟禁、飼育されることになった。
「ひとまず助かったものの……」
餌の菜っ葉をかじりながら、鈴仙は思案した。
『敵の欲望を利用せよ』とは彼女の師の教えだったから、ここまではまぁいい。
しかしこのままだとやがて嘘はバレて、彼女はあっさり兎料理にされてしまうだろう。
「なんとかしないと……」
桶に顔を突っ込んでガブガブ水を呑みながら、頭をひねる。
ふと、水面に浮かんだおのれの顔を見て、鈴仙は思いついた。
「そうだ! 自分で自分を惑わせれば、あるいは?」
彼女は師から、たいていのばあい肉体は精神に従属する、ということを学んでいた。
そこで鈴仙は十八番の狂気の瞳を使い、己に暗示をかけた。
すなわち、自分は子を宿している、と信じ込ませたわけ。
そのかいあって、日を重ねるうち、鈴仙の下腹部はしだいに膨らんでいった。
また彼女はそれをさすりながら、穏やかな笑みをうかべ、幼いころに聞いた歌を口ずさむのだった。
♪つきのうさぎは よりよいうさぎ
もちはつかない たまにはつくが
さばくにいちわ はぐれてうさぎ
こんやもはねる よぞらみあげて
そのさまを報告された悪魔の同胞たちは、
「意外だったわね。てっきりホラかと思ったのにねぇ」
「まぁ、いいんじゃありませんか。これで兎親子丼ができますよ」
「それは楽しみだわ」
ところがそれからほどなく、永遠亭と紅魔館のあいだに停戦協定が結ばれた。
「まぁ仕方がないわね」
紅い悪魔は憮然としてつぶやいた。
なにせ、メイド長が捕虜になって以来、ろくな料理にありつけていなかったのであった。
捕虜の交換が行なわれ、鈴仙は晴れて帰還の途についた。
迎えにやってきた鈴仙の師・八意永琳は、弟子の大きな腹を見て瞠目した――が、さすがに鬼謀の人、一目でことの次第を見通した。
「成る程、考えたものねぇ。おかげで、兎汁にされずにすんだというわけね」
「もう、お腹を蹴るんですよ」
「……えぇ?」
「ほら、動いてるでしょう? もう、名前も考えてあるんです……」
そうほほ笑みながら腹をさする鈴仙の瞳は、ふだん以上の狂気に満ちていた。
「……やれやれ、手のかかる子」
永琳は目薬の瓶を取り出すと、鈴仙を押し倒し、その両目にどぼどぼと流し込んだ。
鈴仙は苦悶し、涙を滝のように流した。
そしてようやく涙腺が落ち着いたとき、すでに彼女の腹は元通りになっていた。
「目は、覚めたかしら」
はい、と弱々しくうなずく鈴仙。
「愛していたんです」
「……え?」
いっぱい可愛がって。いっぱい一緒に遊んで。いっぱい歌を聴かせて。
「いっぱい、幸せにして、あげたかったのに」
「…………」
ご覧なさい、と永琳が夜空を指した。
鈴仙の目に映る、満ちきった月。
その朧な影が、わずかに揺れたように見えた。
ああ、と鈴仙は悟った。
あの子は――月に還ったのだ、と。
♪つきのうさぎは よりよいうさぎ
もちはつかない たまにはつくが
さばくにいちわ はぐれてうさぎ
こんやもはねる よぞらみあげて
歌いながら、鈴仙は跳ねた。力のかぎり、跳ね回った。
――あるいは月からも、その姿は見えたかもしれない。
故あって地上に降り立ち、竹林の奥にある永遠亭に棲むようになってからは、もっぱら番兎をつとめていた。
その瞳は狂気を宿しており、彼女の視線は気の触れていない者の気を触れさせ、気の触れた者の気をさらに触れさせ、さらに気の触れた者の気をひときわ触れさせるのだった。
あるとき、湖のほとりに在る悪魔の巣・紅魔館と、永遠亭のあいだに抗争が起こった。
鈴仙は兎どもの先頭に立って奮戦したが、力及ばず悪魔側の捕虜となった。
「さぁ、こいつをどう料理しよう?」
拘束され引き出された鈴仙を見やって、館の主たる紅い悪魔が舌なめずりするのへ、
「まずは逆さ吊りにいたしますわ。
その上で頚動脈を切り、血抜きをいたします。
それから毛をそぎおとし、全身に切れ目を入れます。
しかるのち、足首をカットして、上から皮をていねいに引き下ろしていくのですわ」
料理長・兼メイド長が詳しくさばき方を説いた。
これを聞いて、鈴仙は恐れおののき思うよう、
「逆さ吊りにされたら、耳に血が昇ってしまう!」
そんな彼女に、参謀格の知識人が追い打った。
「兎は脳味噌や目玉も美味だそうよ」
「へぇぇ? 楽しみね。やっぱり丸焼きにするの?」
「そこはまぁ、料理が出来てのお楽しみですわ」
「フフッ、焦らすんだから」
和気あいあいとした会話だが、鈴仙にしてみれば笑い事ではない。
おめおめディナーにされるわけにはいかないので、とっさに口からでまかせ、
「あの、耳よりな話があるんですっ」
「と、いうと?」
「あの、私――」
鈴仙、ややためらったのち、
「に……妊娠、してるんですっ!」
「へぇぇ? そうは見えないけど……まぁいいわ。で、それのどこが、耳よりな話なのかしら」
「あの、今食べるより、子供を産んだ後のほうが、お得感があるんじゃないかなぁ……と」
聞いて、悪魔の徒党は顔を見合わせた。
「どうしましょう?」
「嘘だったらじきにわかることだし。別にいいんじゃない?」
「そうねぇ。そんなにお腹もすいてないしね」
そこで鈴仙は兎小屋に軟禁、飼育されることになった。
「ひとまず助かったものの……」
餌の菜っ葉をかじりながら、鈴仙は思案した。
『敵の欲望を利用せよ』とは彼女の師の教えだったから、ここまではまぁいい。
しかしこのままだとやがて嘘はバレて、彼女はあっさり兎料理にされてしまうだろう。
「なんとかしないと……」
桶に顔を突っ込んでガブガブ水を呑みながら、頭をひねる。
ふと、水面に浮かんだおのれの顔を見て、鈴仙は思いついた。
「そうだ! 自分で自分を惑わせれば、あるいは?」
彼女は師から、たいていのばあい肉体は精神に従属する、ということを学んでいた。
そこで鈴仙は十八番の狂気の瞳を使い、己に暗示をかけた。
すなわち、自分は子を宿している、と信じ込ませたわけ。
そのかいあって、日を重ねるうち、鈴仙の下腹部はしだいに膨らんでいった。
また彼女はそれをさすりながら、穏やかな笑みをうかべ、幼いころに聞いた歌を口ずさむのだった。
♪つきのうさぎは よりよいうさぎ
もちはつかない たまにはつくが
さばくにいちわ はぐれてうさぎ
こんやもはねる よぞらみあげて
そのさまを報告された悪魔の同胞たちは、
「意外だったわね。てっきりホラかと思ったのにねぇ」
「まぁ、いいんじゃありませんか。これで兎親子丼ができますよ」
「それは楽しみだわ」
ところがそれからほどなく、永遠亭と紅魔館のあいだに停戦協定が結ばれた。
「まぁ仕方がないわね」
紅い悪魔は憮然としてつぶやいた。
なにせ、メイド長が捕虜になって以来、ろくな料理にありつけていなかったのであった。
捕虜の交換が行なわれ、鈴仙は晴れて帰還の途についた。
迎えにやってきた鈴仙の師・八意永琳は、弟子の大きな腹を見て瞠目した――が、さすがに鬼謀の人、一目でことの次第を見通した。
「成る程、考えたものねぇ。おかげで、兎汁にされずにすんだというわけね」
「もう、お腹を蹴るんですよ」
「……えぇ?」
「ほら、動いてるでしょう? もう、名前も考えてあるんです……」
そうほほ笑みながら腹をさする鈴仙の瞳は、ふだん以上の狂気に満ちていた。
「……やれやれ、手のかかる子」
永琳は目薬の瓶を取り出すと、鈴仙を押し倒し、その両目にどぼどぼと流し込んだ。
鈴仙は苦悶し、涙を滝のように流した。
そしてようやく涙腺が落ち着いたとき、すでに彼女の腹は元通りになっていた。
「目は、覚めたかしら」
はい、と弱々しくうなずく鈴仙。
「愛していたんです」
「……え?」
いっぱい可愛がって。いっぱい一緒に遊んで。いっぱい歌を聴かせて。
「いっぱい、幸せにして、あげたかったのに」
「…………」
ご覧なさい、と永琳が夜空を指した。
鈴仙の目に映る、満ちきった月。
その朧な影が、わずかに揺れたように見えた。
ああ、と鈴仙は悟った。
あの子は――月に還ったのだ、と。
♪つきのうさぎは よりよいうさぎ
もちはつかない たまにはつくが
さばくにいちわ はぐれてうさぎ
こんやもはねる よぞらみあげて
歌いながら、鈴仙は跳ねた。力のかぎり、跳ね回った。
――あるいは月からも、その姿は見えたかもしれない。
しんみりしました。あと、誰の子を孕んでいると思い込んでいたのか…
ちょっと気になるところです。
流石と言いたいもの。お美事にございまする
そして、そんな打ちひしがれる鈴仙を優しく諭すことの出来る永琳。素晴らしい師と弟子です。
……でも後書きで吹きました。
折角の狂気を操る能力なのに、それを扱いきれない鈴仙はまだまだ未熟ですねぇ。
と、師匠の胸中を代弁してみましたw
でも、ウサギって想像妊娠しても、産めなかったら次って考えなんですよねぇw
例えば・・・その、今ですけれど。
切なく、物悲しくも良い話でした。